アヴェスターにはこう書いている?
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エルンスト・カッシーラー 『啓蒙主義の哲学(下)』

歴史は汚れなき手で触れられなければならず、歴史叙述はいかなる信教もしくは政治上の党派性や偏見によっても歪曲されてはならない、とベールは倦まずくりかえして述べた。「歴史の諸法則に通暁している人間は必ずや誰もが、自分の課題を忠実に果たそうと思う歴史家は追従と中傷の精神とは完全に縁を切らなければならない、という教訓を承認するであろう。およそ歴史家は、いささかも激情に動かされなかったあのストアの賢人たちの心の状態を可能な限り身に付けなければならない。彼は真理についてのみ関心を寄せて、それ以外のすべてに無感覚とならなければならない。彼は自分が蒙った不正への憤怒や以前の恩義の記憶や、さらに祖国愛さえも、残らずそのために犠牲にしなければならない。歴史家は自分が特定の国に所属して特定の信仰で育てられたこと、誰それの人々に恩義を感じて誰と誰が自分の両親や友人である等々のことまでも全部忘却しなければならない。このような境遇の歴史家は、ちょうど両親も祖先ももたないメルキゼデクのようなものだ。お前はどこの出身なのかと人に問われたならば、歴史家は『自分はフランス人でもドイツ人でも、イギリス人でもスペイン人でもない。私は世界市民である。だから私は皇帝にもフランス国王にも仕えないで、もっぱら真理のみに奉仕する。真理の女神こそは、私が服従を誓った唯一の長上である』と答えなければならない」。
 このような準則、そしてそれを支えるこの倫理的命法によって、ベールは啓蒙主義の精神的指導者となった。彼は啓蒙主義の「世界市民的見地にもとづく普遍的歴史の理念」を先取りして、それに最初の古典的な範型を与えた。(p.27-28)



今の日本で跋扈しつつある「歴史修正主義者」たちが守るべき準則が明確に示されているのではなかろうか。

ベールの定式化は、認識論としてはやや不徹底な部分があるにせよ、歴史叙述を行う際に注意すべき実践的な準則としては承認できるものである、というのが私の評価である。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

尾形勇、岸本美緒 編 『新版 世界各国史3 中国史』(その3)

 こうしてみるならば、「北虜」と「南倭」の活動は、銀の流れを通じて深く結びついていたことが知られよう。この両者の活動がともに1550年代に頂点に達した、という時間的な一致は偶然ではない。北方の緊張が高まるほど銀の北方集中は強まり、国内の銀不足が深刻化するほど密貿易の利益は増加する。そうした動きのもと、北方辺境でも東南沿岸でも、暴力的抗争と商業的利益が表裏をなす活発な市場が広がり、漢人と他民族とを問わず、利益に引かれた人々がそこに流れ込んでゆく――当時の官僚鄭暁は「昔は夷人が中華にはいったが、今は華人が外夷にはいる」と指摘しているが、そのような華夷わかたれぬ辺境人の世界が形成されつつあったのが、この時期であった。(p.276)



この北虜南倭の一体的な結びつきについての洞察は、未だあまり中国史について詳しくない私が本書から得た一番大きな収穫だったと思う。

このつながりを大雑把に言うと次のようになるだろう。

1550年代のモンゴルの侵入により、北部に大量の軍隊が必要になり、そのための食料の確保が必要になった。そのために銀が大量に必要になり、中国全体として銀不足の状態になった。しかし、ちょうどその時期、世界的には銀の増産の時期であり、日本や新大陸の銀が流入した。しかし、明は海禁によって輸入を制限したので、密輸が大々的に行われた。それが倭寇によってなされた。

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尾形勇、岸本美緒 編 『新版 世界各国史3 中国史』(その2)

 1274(至元11)年、クビライ政権はついに日本に向け、高麗駐留モンゴル軍と高麗の連合軍二万七000を発進させた。モンゴル側の集団戦法は個人戦闘を主とする鎌倉武士たちを圧したが、日本側も善戦した。博多湾の兵船にいったん後退したところを暴風が襲い、モンゴル・高麗連合軍は戦闘継続を無益とみて、高麗へ帰投した。日本でいう「文永の役」である。
 さらに、七年後の1281年(至元18)、第二回の日本遠征が実施され、高麗から発する東路軍四万、江南から発する江南軍一〇万という、おそらく世界史上で最大の船団が送られた。しかし、日本側は石築地などの周到な準備により上陸を許さず、海上に浮かんだ大船団は八月一日の台風によって大半を失った。いわゆる「弘安の役」である。
 第一回の日本遠征は、対南宋侵攻作戦の一環であった。モンゴルとしては、日本が南宋と連動しなければ、それで十分なのであった。二回目は事情が異なる。南宋国をほとんど無傷のまま接収したクビライ政権にとって、その戦後処理のうち頭を痛めた問題のひとつは、四〇万以上にのぼる旧南宋の職業軍人たちであった。失職したまま放置すれば、社会不安の原因となる。少しでも実戦にたえるものは西方・北方戦線や広東・広西の鎮定に振り向けた。残った老弱兵については、本人の希望によって海外派兵にあてた。江南軍10万はその最初のケースであった。彼らがおもに携えていたのは、日本入植用の農器具と種籾であった。江南軍は移民船団に近かった。東路軍が先着して戦ったのは当然であった。こちらは水手や給仕兵を考えれば、人数も内容も第一回目とほとんど変わりがない。日本軍が優勢だったのは、むしろあたりまえだったのだろう。
 第三回目の日本遠征も、幾度か企画されたが、ついに実現しなかった。その最大の原因はのちに述べるナヤンを中心とする左翼諸王たちの大反乱であった。最大のパトロンの反逆に、クビライ政権は存亡の危機にたたされ、日本遠征用の諸軍団をすべて北方戦線に投入せざるをえなかったからである。(p.237-239)



いわゆる元寇に関する部分の叙述。元という大帝国にとって日本はそれほど意味がない存在だったことが分かる。妥当である。

初回は南宋との連携を牽制できればよく、二回目は余った軍人のための入植活動にすぎなかった。重要な問題が生じたら日本などに構っていられなくなった。

 クビライの大元ウルス政権は、陳朝安南国、チャンパー、緬国(現ミャンマー)、ジャワにも数次にわたって遠征部隊を送った。しかし、陸上進攻だけでかたづいた緬国遠征のほかは、炎暑と疫病などのため、いずれも軍事上は撤退するかたちで終わった。だが、これらの遠征は、征服・支配よりも、服属や来賓をうながしたり、通商ルートを把握することを主目的としていた。実際には、遠征の企画から兵員・糧秣・武器・艦船などの準備にいたるまで、ムスリム商人団が陰に陽に介在していた。ジャワ遠征軍などは、ほとんど貿易船団に近く、こうした遠征活動そのものがムスリム商人たちにとって営利事業であった。
 モンゴル進攻を退けた東南アジア諸国からシンハラ・ドヴィーパ(現スリランカ)、インド西南端のマラバール海岸までの港湾国家も、1287年ころまでには、入貢してクビライ政権と正式の経済・政治関係を取り結んだ。日本と琉球を除くアジアの海域諸国は、モンゴルの傘のなかにはいった。これまで、この点に注意していないのは、いぶかしい。沿岸各地の主要港市には、クビライ政権側の貿易担当官も駐在し、ここにフレグ・ウルスがおさえるイランのホルムズやペルシア湾にいたる海上ルートがモンゴルの統制下にはいった。インド洋上ルートの東西通商は、モンゴルの誘導もあって非常に活発化した。内陸と海洋の両ルートがついに統合し、ユーラシアを循環する交通体系と「世界通商圏」が出現する。クビライ政権の末期には、モンゴルの勢力圏は頂点に達し、まさに陸と海の巨大帝国となった。(p.239)



日本と琉球がそのまま残されたのは、関心や活動の中心がインド洋から東南アジアにあったからだろう。ムスリム商人の活動が重要な位置を占めていることからもそれは明白である。

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尾形勇、岸本美緒 編 『新版 世界各国史3 中国史』(その1)

 秦漢帝国が「第二次農地」を基盤として成立したとすれば(六六頁参照)、それにたいして後漢は、「第一次農地」の再興と発展によって維持された国家であるといえる。「第二次農地」は、国家の指導のもとで開拓された新開地であったから、規模は大きいが、国家が保護と管理を怠れば、全域が荒蕪地に戻ってしまうという弱みを秘めた農耕地であった。一方、「第一次農地」は、もともと国家の手を借りることなく古くから成立していた農耕地であり、容易には崩壊しない自立性の高い地域であった。
 漢帝国の版図は、武帝期に最大を誇ることになったが、後漢の時代には、多くの県のみならずいくつかの郡までもが廃止され、これら郡・県が復興されることはなかった。廃止された諸郡は、ほとんどが北方および西北部にあり、この地区は、いずれも秦漢時代にはいってあらたに開発・設置された「第二次農地」として理解できるものである。後漢になって消え去った諸県は、辺境にとどまらない。・・・(中略)・・・
 漢代を通じて「大姓・豪右・勢家」などとして表現される豪族は、おおむね「第一次農地」を基盤として形成され、存続した存在であり、後漢時代には、国家の保護をあてにすることなく勢力を保持し、とくに江南では、それら豪族の指導のもとにあらたな稲田が開発され、それぞれ北方から逃れた人々を隷農(奴客・徒附)として吸収しながら、独自の権力を伸ばしていった。(p.96-97)



秦から前漢までと後漢との社会経済的基盤の相違。




 文成帝の復仏後の北魏では、沙門統(仏教教団統率者)の曇曜(どんよう)が平城の西に石窟五カ所を開鑿し、それぞれに仏像一体を安置した。雲崗石窟中のいわゆる曇曜五窟で、それらは道武帝・明元帝・太武帝・景穆帝(文成帝の父で皇太子のときに死去)・文成帝の五帝に比定される。そのうちの四体は如来像で、北魏で道武帝以来おこなわれていた帝王即如来の思想に基づいている。残る一体は交脚弥勒菩薩像で、過去の四帝を如来像であらわしたのにたいし、現存の文成帝を、釈迦入滅後に下生(げしょう)して衆生を済度する弥勒菩薩に擬したものと解釈されている。当時さかんに寄進された仏像の造仏銘にも、発願者の近親のみならず皇帝・皇后・皇太子の繁栄を祈願したものが多く、廃仏後の北魏仏教が皇帝支配と結びついて信仰を再興したことがわかる。北魏の仏教は、北魏の支配イデオロギーの役割をはたすことになったのである。(p.127)



大同の雲崗石窟や洛陽の龍門石窟はこうした北魏の政策との関連でできたものとされる。

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小島朋之 『中国現代史 建国50年、検証と展望』

 しかし、「協調」外交だけが、中国外交ではない。長期的な歴史のなかの中華世界や中華帝国の意識、近代史のなかで奪われた領土、権益や国際的な威信などの「失地回復」を求める民族主義的な意識、さらには社会主義から共産主義への革命目標の達成をめざす指向などが重なり合って、中国の主導権がみえない既存秩序を打破して自らのイニシアチブにもとづく新しい世界秩序を確立することも、中国外交の目標でありつづけている。1985年に、小平は既存秩序を打破して「国際政治経済新秩序」を確立することを中国外交の目標として掲げた。中国の国益と国際的威信のためには、ときに「覇権主義」的とみられかねない強硬外交も辞さないのである。(p.26)



右よりの歴史叙述にありがちなパターン。すべてを「意識」に還元して説明するってヤツ。こうした説明は観念論であり、外交の実際の動きを説明するには甚だ不適切であると私は考える。

そもそも外交の手法に硬軟を使い分けるのはどこの政府でもやっている。覇権主義的に振舞うかそうしないかは、その国の政府がおかれている国際的な情勢、歴史的な経緯や国際世論の動向などを踏まえて判断されているのであって、誰のものかわからない「意識」を持ち出して「強硬外交」を説明しなければならないようなものではないはずである。

中国を脅威だと思っている日本の右派やネトウヨにとっては、上記のような説明はすんなりと受け入れられる言説だろうが、上記の言説を普遍化してみて、他の国の政府に当てはめてみれば、説明がどうもおかしいということに気づくだろう。

少なくとも立論に対する因果関係についての立証はできないし、そもそも立論の妥当性自体が問えない。例えば、K.R.ポパーの基準(これを絶対視するつもりはないにせよ)に照らしてみると、これは明らかに「非科学的な叙述」である。

上記の引用文について私見を述べれば、最初の一文と最後の一文だけがあればそれで十分であり、その間の説明文は一切不要である。その上で追加すべきなのは、特段「中国だから」強硬外交をするわけでもない、という一言であろう。




 1950年から53年の朝鮮戦争での米国との対決、69年の中ソ武力衝突、79年のベトナムに対する「自衛懲罰戦争」、そして90年代はじめのベトナムや東南アジア諸国と領有権をめぐって対立する西沙・南沙諸島の武力的な強制占拠、さらには96年3月の中華世界では史上はじめて元首を住民の直接選挙で選ぶ総統選挙にぶつけて強行された、台湾に向けたミサイル発射実験や上陸演習などに、それらはみられたのである。
 「全方位」協調と「威信」強硬の二重性は、今後も中国外交を規定していくであろう。(p.26-27)



これについては差し当たり、次のような疑問を呈するに留める。

80年以前の事例と90年代以降の事例は同列のものなのだろうか?
上記の事例、例えば朝鮮戦争は、「中華世界・中華帝国」という「意識」などに基づいて参戦されたものだろうか?もっと別の「利害関係」で説明すべきものではないだろうか?

この人の歴史叙述の主要な問題点については既に上で述べたから疑問はこの程度にしておく。




 1980年代に入ると、日米の資金や技術などの「供給力」と「吸収力」に加えて、成長したアジアNIESのそれも加えて、東南アジア諸国も高度成長の軌道に入った。とくに1985年のプラザ合意は円高基調をもたらし、日本はさらにアジア進出を加速し、アジアNIESも東南アジアへの進出を本格化した。その結果、タイ、マレーシア、インドネシアなど東南アジア諸国もかなりの高度成長を持続することになった。
 こうした日本からアジアNIESそしてASEANに経済発展の波が波及する現象は、「雁行型発展」の構造連鎖といわれる。1980年代末になって、中国に生起した「球籍危機」論争は、まさに東アジアの「雁行型発展」に触発されたものであり、こうした危機意識ゆえに中国はその構造連鎖への参入を加速させることになった。(p.134)



プラザ合意は(より正確には80年代末までにその体制から抜け出なかったことは)日本政府の政策としては大失敗であり、その後のバブル崩壊と90年代以降の財政破綻の最大の要因の一つとなっているワケだが、90年代の不況の際に、中国の製造業の発展による産業の「空洞化」が盛んに議論されていたことがあった。それはひとえに中国が「改革・開放」路線をさらに強調していったことと関係している。この路線を加速するに当たって、プラザ合意による東アジアへの経済波及効果(上記引用文では雁行型発展)が一役買ったというのは、日本の人びとにとってはさらに皮肉なことといえよう。数年前のとある論考に書いたことだが、80年代後半から90年代にかけて日本政府は二重三重に経済・財政政策を誤ったのである。

(21世紀の小泉政権以降の政策の過ちもそれに劣らず酷いものだが、これらは見る人が見ればすぐにわかる話だが、80~90年代の誤りは逆に誤りが見えにくいのが厄介だと私は思っている。)

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NHK「新シルクロード」プロジェクト 編著 『NHKスペシャル 新シルクロード5 カシュガル、西安』(その2)

 2020年までに、80万人が暮らす新しい都を作るという西安の都市計画。はたして、このまま右肩上がりの急成長を続けてゆけるのか。バブルは、いつかはじけてしまうのではないか。正直いって不透明な部分も決して少なくない。
 北京で、政府の経済政策の企画立案に携わる、ある学者に本音を尋ねたことがある。
 「中国政府は、どれくらい本気で西部大開発を進めているのか」と。
 返ってきた答えは、示唆に富むものだった。
 「江沢民が、2000年い西部大開発という言葉を使い始めたのには訳がある。いいですか、『大』という言葉がポイントなのです。よくよく政府の文書を見ると、政府への投資や開発は、実は、『沿海部の発展を阻害しない限りにおいて』という限定条件がついているのです。首脳たちは、砂漠に水をまくような投資が何ももたらさないことを知っています。だが、ある程度は、格差是正のために開発をしているふりをしなければ、大衆の不満は解消できない。『大』という文字は、その気分を醸し出すのに最高のキャッチフレーズなんです。それだけにすぎません。まあ、西安についていえば、中国政府としても、西部のなかでの『龍頭』を目指しているのは事実でしょう。これじゃあ西部大開発じゃなくて西安大開発だと、隣の貧しい甘粛省の人間が嘆くほどですからね。いずれにせよ胡錦涛も、西部の重要性を熟知しながらも、これは時間をかけてやるしかない仕事だとわかっているはずです。本気でやれるようになるのは、もっともっと中国本体に力がついてからなのかもしれませんね」(p.192-193)



私見では、長期的には西安を軸として西域にもある程度の改善は見られるだろうと見ている。「出稼ぎ先」が近くなるだけでも、チャンスは広がるからだ。富の配分が十分に西域にも行き渡るのは、かなり先の話だろうし、その前に中国経済が不調になってしまえば、西部は見捨てられるだろう。

ただ、今年、NHKで(上記の地域とは地域は異なるが)青海省などに鉄道が通ったことを踏まえて特集番組が組まれているように、こうした事実は一応、中国全土でインフラの整備が少しずつは進んでいるという実績を示すものである。上記の学者の悲観的な見解は妥当ではありながらも、多少の生活改善は見られるのではないだろうか。

「格差」は広がるだろうが、最低限、全体の底上げができていれば、当面は過度に不安定な状態は避けられるだろう。問題は低成長の状態になり、今の日本のように停滞が「地方切捨て」というモードに入ってしまう場合、中国のように「多民族」からなる政治体は統一性を維持することが難しくなる可能性があるということである。




 中国の長い歴史の中で、長安が、中国史前期の代表的な都城となった最大の理由は、ユーラシア大陸を貫く生態環境の境界地帯に立地したからである。図2のように、長安は、農業―遊牧境界地帯の南端の農耕地域に立地していた。この立地によって、長安は、異なる生態の産物や情報が交換される場所となり、農耕地域と遊牧地域を結ぶ政治機能をもつことができた。長安は、国際都市であることを運命づけられていたのである。
 中国史の後期に、長安に替わって北京が中国を代表する都城になった理由は、次の三つの要因が重なったためである。
 すなわち、[一]遊牧地域に新たな強力な遊牧・狩猟民が出現して、これらの勢力地と北京とが隣接していたこと(軍事要因)、[二]長江下流域が中国の主要穀倉地帯となり、この穀倉地帯と水運で直接に連結できる場所に北京が位置していたこと(経済要因)、[三]ユーラシア大陸の交通幹線が、内陸の陸路から沿海の海路に転換したために、海路を利用できない長安に対して、沿海部にほど近い北京が優位に立ったこと(交通要因)である。このように、長安は、ユーラシア大陸の歴史に育まれて繁栄し、ユーラシア大陸の歴史構造の変転とともに、都としての地位を失った。(p.207-208)



ブローデルやジャネット・アブー=ルゴドのような分析方法を適用している、大変興味深い分析。特に、長安が生態環境の異なる地域の境界地帯にあったというのは、なかなか鋭い。

コンスタンティノープルやバグダッド、カイロのような交通要因が大きな要因をなしていることが明白な大都市の場合、それらが大都市となった要因を見つけるのはたやすいが、こうした生態環境という視点は、ある程度の歴史観が背景理論としてなければ、なかなか出てこない。

北京に関してはやはり軍事要因が大きな位置を占めており、運河によって経済要因と交通要因の困難がクリアされた点が大きいのだろう。




狭い洞窟の中で大勢と一緒にガイドの説明を聞きながら見ても、ただそこに壁画がある、塑像があるという以上の感興は生まれてこない。
 自由に歩く中で、不意に自分の心が動かされる絵画や仏像に遭遇する。そのとき初めて、それがひとつの体験になるのだ。しかし、敦煌の莫高窟では、ほとんど「体験」することはできなかった。(p.224)



しばしば旅行をする身として、非常に共感する一文。

私にとってこうした経験の最初のものは、ロンドンでのウェストミンスター・アベイとの遭遇だった。天空へと伸びるファサードの塔の質感や重量感に打たれた。口先で説明しても決してわかってもらえないのが惜しいところだ。

あとは、ローマのパンテオンやフィレンツェのドゥオーモの空間体験だろう。建築が作り出す空間の力というものをそれらを通して初めて体験した気がする。

ガイドツアーは手軽で楽ちんだし、場所によってはそれを使わないとアクセスすること自体が難しいところもある。しかし、そうでない場合にはやはり自分の足と力で行く方が遥かによい「体験」になるのは間違いない。

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NHK「新シルクロード」プロジェクト 編著 『NHKスペシャル 新シルクロード5 カシュガル、西安』(その1)

 しかし、私たちは、バーザールで圧倒的な「勝者」の姿を見つけることができなかった。AはBに仕入れ値のプラス十元で売り、BはそれをCにプラス五元で転売する。消費者に至るまで、商品はそうしてグルグルと回る。誰もが少しだけ儲け、共存するシステム。買い手には観光客や市民もいるが、多くは同業者で、彼らはそれを他の場所で売り、少しの儲けを得るのだ。それは、勝者なきバトルロイヤル、あるいは、十万人のワークシェアリングのように思えた。(p.41-42)



これはシリアのアレッポのスークについて分析した黒田美代子『商人たちの共和国 世界最古のスーク、アレッポ』に通じる認識である。




 私たちはそのことに強い関心を持った。チャサーに暮らすのは、全員が中国の少数民族であるウイグル族で、彼らの都といわれたカシュガルは改革開放の名の下、豊かさを獲得するために一元化(あるいは中国化、または近代化)への道を突っ走っている。その時代に彼らはどのように生きようとしているのか。近代化に埋没するのか。意固地になって独自性を維持しようとするのか。面従腹背でしたたかに生きるのか。それともまったく別の選択肢があるのか……。(p.49)



興味深いテーマである。カシュガルについては、第三の選択肢に近いのではないかと思っている。そう遠くない未来に、西域には行ってみたいと思っている。その際にはこうした視点を持って見てきたいところだ。西域に限らず、中国やインドなどの急速に経済発展している地域では、こうした視点は欠かせないように思われる。




 実のところ、私が西安で心惹かれたのは、シシカバブの煙が立ち込める屋台村や、回族の人びとが暮らす昔ながらの路地裏だ。一流ブランドではなく、中国ならではの色とりどりの雑貨にあふれた市場。そういった猥雑なものだった。だが、皮肉なことに、こういった場所はあっという間に取り壊されていく。
 二年前に訪れたときに実に楽しかった大麦市街と呼ばれるイスラム街は、すでにない。西大街の雑貨市場は、立ち退きのマークであふれ、「取り壊し前の最後のご愛顧セール」をやっていた。おそらくいまは、跡形もないだろう。(p.177)



急速に開発が進む2005年の西安についてのディレクターのコメントである。

70年代のイタリアのように、中国が「保存」に気づくのはいつになるだろうか?広大な国土の辺境にだけ残された頃にようやく気づくのであろうか?

私が見てきたところでは、世界システム論でいうところの「半周辺」的な地域に土地に住む人々は、どうしても自分たちの住む土地の独自のよさにはあまり気づいていないことが多い。自分たちの住む土地を好む場合にはちょっとおかしなナショナリズムと結びついていることもあって、私の感覚とはズレがある。

半周辺に住む多くの人は、豊かな地域のライフスタイルに対して憧れを持つ。「反米」というレッテルを貼られがちな地域の人びともアメリカのライフスタイルやポップカルチャーを好んでいることも多い。イランなどがそうだ。

確かに、経済的な豊かさがもたらす恩恵は非常に大きく、それに対する憧れのようなものがあるのは理解できる。しかし、あまりに変化が急激な地域では、せっかくのその地域の独自性が失われてしまい、外から入っていく人間から見ると「もったいない」と思うことがある。

近年の中国などはまさにそうした状況なのだろう。北京の風情のある胡同ももどんどんなくなっていると聞く。上記のような文章を読むと、イタリアのまちづくりのあり方などは、やはり学ぶべきものも多いのだろうという思いを強くする。

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鈴木哲夫 『政党が操る選挙報道』(その8)

 そこで、今後テレビメディアは、権力のコミ戦とどう向き合うべきか。そして、政治報道をどう変えていくべきか。
 私なりの結論は次の通りである。

 まずは、政治報道を、少しでもいわゆるネガティブ報道に変えていくことだ。
 それは、政治家を褒めない。その政治家の政策的弱点や政治家としての資質を批判することに力点を置くのである。
 与野党を問わない。小泉であっても、安倍であっても、与党も、野党も、まず政治的な欠点を批判するのだ。
 実はこれもまた平等であり公平なのである。選挙報道のときのように、悪口は書かない、いいところを挙げる、の逆であり、みんなを同等に批判することもまた、平等なのだ。
 だが、批判は常に腰を据えたものでなければならない。記者側にも政策的な矛盾を衝き、政治家を批判するための徹底した勉強は必要である。そして、批判に対応する能力と説明責任を持った政治家は、逆に世論が認めることになる。
 これによって、おそらく政治取材には一挙に緊張感が生まれる。しかもコミ戦にとっては強敵である。
 本来コミ戦はPRであり、メディアはそれに一切乗らず、逆に批判報道に終始する。コミ戦は、防戦に回る。そして批判に応える政策論争や政治家の資質を上げていくことを迫られる。コミ戦とメディアが正面から向き合う戦いになるのではないか。
 ジャーナリズムとは、本来そういう立ち位置であるべきものではないか。(p.247-248)



本書の結論部分からの引用である。もう少し続くのだが途中で切った。

政党が組織的に仕掛けてくるコミ戦に対して、メディアがどのように応戦するべきか、という視点に立って書かれた本書の主題からすれば、非常に論理的な解答だと言える。

対応策としては非常に妥当な内容を備えていると思う。

実際にメディアがこのような報道をしてくれれば、視聴者としては非常に有益だとも思う。

しかし、記者クラブのような制度があったり、政治や行政によるメディアへの規制が強められつつある現状において、こうしたスタンスは非常にとり難いだろうと思われる。また、政治報道もスポンサーに財界がついている以上、財界と一体となっている政治を批判に終始するやり方で取り上げるのは難しいだろう。それに一つの番組や局だけでネガティブ報道をしても意味はなく、それでは政党や政治家は少しでも自分たちを好意的に取り上げてくれるメディアにしか出演しない、なんてことにもなりかねない。

このように完全に実現するにはかなりの困難が伴う提案ではある。

しかし、この結論を、一つの理念型として捉えるならば、これを基準として報道のあり方を考察・批判することに利用できる。つまり、ここで示された解答を年頭においておくことによって、例えば、ある番組の政治の扱い方が「批判のない翼賛報道だ」とか「政治家の資質を不問に付した『好感度パフォーマンス』のための報道になっている」ということを析出しやすくなるわけだ。

さらに、これを理念型として捉える場合の活用法としては、「この解決策の実現を妨げる要因は何か」を析出する際にも利用できるだろうし、もちろん、他にも活用法はあるだろう。


また、マスメディアではなくブログのようなしがらみのない媒体でならば、ここで示されたような「報道」は可能であり、参考になる考え方だといえるだろう。もちろん、テレビなどのマスメディアでも、やって欲しいし、そこでこそ最大の効果を発揮するやり方なのだが。

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鈴木哲夫 『政党が操る選挙報道』(その7)

 安倍内閣の特徴の一つに、官邸機能強化・官邸主導を実現するために、五人の専門補佐官を配した他、世代交代を目指した若いスタッフを取り込んでいることがある。官房長官の塩崎恭久、官房副長官は下村博文、補佐官は小池百合子(国家安全保障担当)、根元匠(経済財政担当)、中山恭子(北朝鮮による拉致問題担当)、山谷えり子(教育再生担当)、そして広報担当の世耕である。
 ところが、このメンバーの連携は、「必ずしもうまくいっていない」(自民党幹部)のが実情だ。それぞれ個々には、安倍と直接深い関係を築いているが、横のつながりは希薄なのである。なぜか……。
 「それぞれがバッジをつけた議員だ。出世欲もあるしいわばライバル同士。一つの案件でも、こうすればいいと、それぞれが違う意見具申を安倍にする。トラブル対応もそうだ。塩崎は官房長官の自分がもっとも安倍さんに近く、自分の意見が一番重用されるべきだと思っているから始末が悪い。安倍さんも混乱するだろう。危機管理は世耕一本に任せるとか、とにかくそのあたりの徹底がなく、結局連携ができていない。本来なら秘書官が指導力を発揮してまとめてもいいのだが」(前出幹部)
 その秘書官の井上義行は、長く安倍に仕えてきたが、旧国鉄から官僚に転身したいわば霞ヶ関ではよそ者。官邸に出入りする実力官僚などへの抑えは利かない。「井上への嫉妬から悪評を意図的に流す官僚も多く、求心力はない」(官邸関係者)と言う。
 それにもまして、現実に安倍政権下では、世耕や自民党のコミ戦メンバーが描い-ていた官邸での理想のコミ戦とは組織的に大きく異なっているのだ。(p.228-229)



ここに記されているに、組織が一体的に機能しないのは、小泉以降に流行し、ある意味では常識になってしまった「競争」を重んじる考え方が、組織にもたらす弊害の典型的な例であろう。「成果主義」を導入して失敗した企業の多くが経験し、路線変更なり方針の修正を余儀なくされた問題と全く同じである。まさに自滅党という感じである。

しかし、安倍政権が沈没するのは私にとっては望ましいことだが、別の自民党政権が成立したときに、再度小泉政権のようにコミ戦が機能するのも警戒すべきだろう。

ヘボなコミュニケーション戦略しかできない安倍政権の間にこそ、マスメディアが政治から距離をとりやすい環境を立て直すチャンスであると思われる。ここで手が打たれなければ、また同じ過ちを繰り返すことになるだろう。




 「最近思うのは、支持率というのは実は単なる好感度じゃないかということ」
 ジャーナリストの二木啓孝は現在の政治の特徴をこう語る。
 「世論調査でも、小泉さんが北朝鮮に行けばすぐ上がる、靖国のときでも、郵政民営化のときもそう。官房長官のころの安倍さんも、北朝鮮がミサイルを打てばすぐ上がる。総理になってからも中国に行けば上がる。要は、テレビに露出して、かっこよくやれば、そのあとの世論調査の支持率はぐっと上がる。北に行った意味は何なのか、靖国とは何なのかといった深い話は関係ない。今小泉さんとか安倍さんがやっていることは、好感が持てるなあ、と。つまり、厳密な支持率ではなくて単なる好感度ではないか」
 まったく同感である。(p.241-242)



まったく同感である。(笑)

一つ前のエントリーで、河野太郎が「メディアがやっているのは政治報道ではなく政局報道」だと喝破したことを引用したが、そのことと、この「支持率の『好感度』化」とは一体であろう。

政策の中身・意味ではなく、ただメディアに「かっこよく」露出すると好感度が上がり、それが「支持率」に直結する。政策について批判・批評する政治報道ではなく、絵になる人間模様や悪玉を叩く善玉の図だけを報道する政局報道になっており、そうした報道だけが氾濫していることが大きな原因であろう。

マスメディアは政治家をテレビに映す場合に、報道の仕方に慎重でなければならないし、視聴者も批判的に映像を見ることが要求される。有権者の側における評価の際の要点は、その政治家や政党の政策がどんな結果をもたらすか、であるべきだろう。


ただ、2007年に入ってからの安倍政権の「支持率」低下は、次々明るみに出てくる閣僚の不祥事とそれへの対応の不適際が「かっこ悪い」というだけでなく、政策の中身のなさや一般の人々が日々感じている問題に対して安倍政権は高いプライオリティを与えていないことが明らかになってきたことが大きいのではないか。その上、善玉対悪玉の絵になる構図が成り立たないためにマスメディアの報道も扇動する効果が出にくいために、有権者=視聴者もある程度冷静に考えることができることも一因と言えよう。

つまり、安倍政権の下がり続ける「支持率」は、単なる「好感度」低下だけでなく、本当の意味での「支持率」低下であるといえる。そのことは4月から5月頃の時点で、「安倍政権での憲法改正」には反対という意見が増えていたことからも言えると思っている。

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鈴木哲夫 『政党が操る選挙報道』(その6)
安倍が首相に選ばれた2006年の自民党の総裁選の報道についての記述。

 しかし、果たして安倍は総裁・総理たる政策を持ちうるのか、福田はどうなのかといった政治家としてチェックする報道は圧倒的に少なかった。
 ・・・(中略)・・・
 05年の劇場型総選挙以来、メディアには政治との距離をどう測るかという宿題が突きつけられていたが、総裁選もまた同じ過ちを繰り返したとしか言いようがない。
 大手メディアが、≪安倍・福田のレース≫のように報じれば、次の世論調査ではまた二人の数字が跳ね上がり、それをまたニュースにして……、と相乗効果を生んだのだ。
 当時、親しくしているベテラン政治評論家はこう指摘した。
 「実は安倍も福田も政治経験はまるで足りない。安倍の北朝鮮以外の政策が何かあったか?一方、安定感の福田なんてマスコミは書きたてているが、あの人は官房長官以外の重要閣僚経験もない。国民は騙されてはいけない。森さんや若手議員たちが盛んに動き、メディアも乗せられて安部か福田かの流れができている」
 安倍・福田の虚像……。総裁候補に厳しい目を向けることがメディアの役目であったはずだ。総裁候補を丸裸にして、政権公約を問い、人間的要素までもしっかりとウオッチすべきだったのではないか。
 この総裁選で、立候補に必要な推薦人20人の確保の見通しが立たないまま出馬表明したのが河野太郎。
 河野は言う。
 「推薦人がどうだとか人気がどうだとかではないはずだ。出馬表明して、自分の政権構想や政策をきちっと説明して初めて推薦しようかどうかみんなが考えてくれるのではないか。それが筋ではないか。党は、阿部さんや麻生さん、谷垣さんを七月からブロック大会に呼んで討論会をやっているのに自分を呼ばない。聞くと、推薦人が集まりそうにないから、と言う。安倍さんたちは出馬表明すらしてなかったのに。おかしな話だ。」
 そして、メディアに対しても疑問を投げ掛ける。
 「党も党ならメディアもおかしい。メディアがやっているのは政治報道ではない。政局報道だ。だから、誰と誰がメシを食ったとか、誰と誰がくっついたとか、派閥が一本化しようとしているとか、そんなことばかりやってる。政策とかをきっちり検証するような報道をしていない。私は、(総裁選の)出馬表明で年金改革とか政権構想を出した。これについて、いいとか悪いとかそんな検証報道すらない」(p.222-225)



全く同感である。最近、安倍は「愚直にやっていく」みたいなことを言っているが、本当に愚直なのは河野太郎のようなやり方のことを言うのだろう。

結構ウケたのが「安倍の北朝鮮以外の政策が何かあったか?」というフレーズ。北朝鮮に対する強硬姿勢だって政策と言えるような代物ではない。結果も省みず、ただ圧力をかけるだけならどんな馬鹿でもできるのだ。安倍晋三には政策と言えるような政策はない。

メディアがやっていることは政治報道ではなく政局報道だという河野の指摘は正しい。政策を検証するような番組などほとんど見た事がない。中身のある政策をここ数年見たことがない。ここ数年で行われたのは、自民党(幹部)にとっての敵対者を破壊するための政略だけだといっても過言ではない。

政策について真正面から考えるような機会があまりにもなさ過ぎるのだ。メディアが政治報道ではなく政局報道ばかりを垂れ流している以上、いわゆる「B層」やそれに近い人間が政策について考えるという事態は起こりえない。

社会の問題が噴出している現場は、政策を考えるような余裕がない。どうしたらいいかという考えがあったとしても、サバルタンは語ることが難しいのだ。

そうしたところにも関心を持てる知的階層の数は限られている。ブログの言論を見ても、今の政権では政権を批判することに忙しく、積極的に持論を展開することは難しい。積極的な議論も所詮パッチワーク的なものばかりになっている。私もかつては自分の幾つかの分野に関する社会科学的分析と政策構想(?)をウェブサイトで公表していた――実際に、とある学会(もちろん「創価学会」ではない!(笑))の方から入会のお誘いを受けるくらいのもので、それなりの出来だったと自負している――が、最近は国会が異常状態続きで、じっくりと自分の説をあたためるヒマもない。


では、どのようになることが望ましいのか?

さしあたり、マスメディアが権力に対して批判的な報道スタンスをとるようにすることによって、より多くの人に物事を考えさせるような報道が増えれば、政治家も暴走はしにくくなるし、有権者ももう少し物事をきちんと考えられる素地ができると思われる。

報道の政治権力からの独立が必要だ。そのためには財界と政界との「癒着を超えた一体化」が進んできた90年代以降の流れを断ち切る必要があると痛切に感じる。スポンサーたる財界が政界と一体である限り、報道は視聴率稼ぎに終始せざるを得ず、政治のために必要な公共性を確保できず、私企業としての活動が優先されるからだ。先のエントリーで書いた第三者機関による規制も含めて、メディアを取り巻く状況に関する課題は多いと改めて痛感する。


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鈴木哲夫 『政党が操る選挙報道』(その5)

 福山(※引用者注;福山哲郎 参院議員)は、三年間にわたって選挙での党のPR戦略を担当し、一つの結論を出した。
 「選対本部で三回の選挙(総選挙二回、参院選一回)を通じて分かったことは、選挙は三角形の形をしたパッケージ、トライアングルだということ。三角形の頂点にはそれぞれ、総理候補たるリーダー、マニフェスト、そして候補者がいる。このトライアングルが、より強固に密接に結びついていることが勝利につながる」(p.178-179)



なかなか興味深い図式である。

これを今の自民党と民主党に当てはめてみると、自民党のヘタレぶりもよくわかる。

まず、自民党について。

選挙の顔として担ぎ出されたのに、支持率が20%台の安倍晋三を総裁。今回の選挙ではあまりマニフェストには関心が集まっておらず、中身に対する評価も低い。(例えば、ここ)そして、候補者は以前と比較すると話題性がないと言われている。

民主党の小沢代表について。

もう印象としては忘れ去られているかもしれないが、前原誠司が代表をやってガタガタになった民主党を比較的短期間のうちに立て直した手腕は評価されるべきである。また、地方組織が弱いという民主党の弱点を克服すべく、地方行脚の連続や選挙の争点に格差や生活の問題を早くから打ち出し、結果的にそこに争点を持ち込んだ力量など、実はかなり評価されるべき手腕を発揮していることがわかる。自民党でネオコンとネオリベが支配的になっているのを見越して、やや左寄りに政策のスタンスをシフトさせたことが功を奏している。民主党のネオコン議員など党内に不満分子がいることも確かだろうが、現状ではそれなりの求心力を示している。組織として強力な自民党と異なり弱体な民主党でこれだけの力を維持できているのはかなりの力量だと評価して良い。ただ、一般の人々にアピールする力はあまりない。テレビ向けのキャラクターではないのは、現状のメディアの状況などを考慮すれば欠点といえば欠点ではある。こうした点から見て、小沢一郎は安倍晋三とは比較ならないだけの力を個人としては有すると見て良い。

マニフェストと候補者については自民党と同じくそれほど話題性はない。

(この図式で言えば)違いは党首だけだろう。

中身はないが多少はテレビ向けのキャラクターである安倍晋三と、質実剛健(ちょっと誉めすぎ?)だがテレビ向けではないキャラクターの小沢一郎の違い。

また、もう少し内容的なところで言えば、生活重視を打ち出した民主党生活無視を決め込んで憲法改正や教育再生などと保守イデオロギーの現実化に走った安倍晋三との違いでもある。

自民党の方が組織力は元々高く(自ら推進した市町村合併や小泉が「ぶっこわ」したために地方組織が弱体化した――まさに自滅党――ワケだが)、連立を組む公明党の組織票もある分、常識的には自民党の方が圧倒的に有利である。これで負ける(過半数割れ)ということは自民党の総裁は相当なバカということだろう、と言っておく。


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鈴木哲夫 『政党が操る選挙報道』(その4)

 言い換えれば、今回成功を収めたコミ戦の本質は、いかに攻めるかではなく、いかに問題のある事態を予測、把握し、防ぐかという危機管理なのだ。(p.109)



本書が紹介するコミ戦の最も本質的な要素を指摘している箇所のひとつ。

そして、小泉政権と安倍政権の相違はこの点にあるといって良い。逆に言えば、安倍政権が参院選後に倒れたとしても、その後の自民党政権が続くとした場合、安倍よりは優秀な首相が現われて、この点をしっかり固めることができれば、自民党支配は今後も続く可能性がある。

民主党など野党の側は自民党の危機管理を上回る攻撃を仕掛けることと、自らの危機管理もしっかりすることが必要になってくる。特に自民党の攻撃の矛先は民主党に向かうので、民主党にとって危機管理は極めて重要である。今回の選挙戦に限っては、私も民主党に倒れてもらっては困ると思っているので民主党には気を引き締めてやってもらいたい。

(政界再編で自民党と民主党が共に崩れるのは悪くない。ただ、その再編が本当に政策で分かれるのかという点については私は疑問を持っている。そして、政治家同士の人間関係のネットワークの方が彼らの政策よりも優先順位が高くなると見ている。ただ、その結果は私の予想できる範囲を超えているのでコメントのしようがない。)




次はメディアの現状。

 前出の元ディレクターは制作者の本音を話す。
 「政治という分野から見れば確かに許せないだろうが、我々情報番組からすれば最高に面白いのがスキャンダルであり悪役だ。それが我儘な田中眞紀子であり、事件を起こした鈴木宗男、加藤紘一、辻元清美だった。・・・(中略)・・・。はっきり言って、政治の本質ではなく、人間模様が面白ければワイド(ショー)や情報番組はそれでいい。結局それが世論形成に大きく影響すると批判はあるけれど、ワイドはワイドの、テレビ屋としてのプライドがある。人間をいかに面白く取り上げて、視聴者の興味に応えるか。芸能人も政治家も、我々からすれば同じなんだ
 しかし、こうした情報番組やワイドショーにとどまらず、ニュース・報道番組も流されてしまっている
 原因は、視聴率競争に他ならない。
 夕方帯のニュース激戦区で、高視聴率は至上命令だ。
 キー局の、夕方のニュース番組のアシスタントプロデューサーが告白する。
 「視聴率競争については、そりゃ局内で相当なプレッシャーがある。毎日毎日、数字(視聴率調査 日報)が配られてきてそれを見ながら一喜一憂してる。プレッシャーの連続で、一年と続かずに体を壊したディレクターなんてザラ。(政治ニュースの)作りがどうしても視聴者の興味に迎合してしまうのは仕方ない。まじめに硬く記者が解説したところで誰が見てくれるのかという議論になってしまう。追いかけるのは、常に眞紀子さんであり、今ならタイゾー(杉村太蔵 郵政選挙で当選した小泉チルドレンの一人)ということになってしまう。また、それを扱った方が視聴率は高いし、よそもみんなやってるならうちもということになる。ワイドショーと変わらない?変らないだろうね。放送記者出身の番組スタッフは忸怩たる思いをしている
 まさにこれがワイドショーのニュース化、ニュースのワイドショー化である。「視聴率を言われる限りこの傾向は変らない」(前出アシスタントプロデューサー)というのが現状なのだ。(p.146-148)



メディアの側の本音は、確かにメディアの内部では通用する論理であり、通常の企業と変らない。しかし、政治というものが「権力=暴力」と結びついているものであるという認識を前提にして考える限り、彼らのやり方が正当化されることはないだろう。政治家と芸能人の違いはまさにここにある。

芸能人は面白ければそれでいいだろうが、政治家は面白いかどうかよりも、彼らの政策や行為の結果がどのような利益や損害を人々に生じさせうるのか、ということの方が重要であるはずだ。もしそうでないならば、政治家は要らないだろう。その意味で、マスメディアの視聴率との関係から政治や政治家を扱うのは避けるべきである。

また、下線を付した箇所は一見もっともな意見なのだが、政治に関する問題というのは、常に多くの人が見ればよい、という性質のものでもない。もちろん、すべての人にあまねく行き渡るべきであることは確かであり、その意味では誰も見ない放送には意味がない。しかし、それ以上に重要なのは、政治についての情報というのは、人々が知ろうと思ったときに誰もが知り得るということではなかろうか。また、テレビで見なくとも、新聞では同等以上の情報が読めるならそれでよいとも言える。

テレビというメディアの業界の内部で政治の扱い方について共通の自己規制を設けることができれば、視聴率に関わる弊害はある程度回避できるのではないかと思う。

本来は、政治や行政からも、メディアの業界からも独立した第三者委員会のようなものがそうした基準を定めるべきなのだろう。

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鈴木哲夫 『政党が操る選挙報道』(その3)

実は厳しい選挙こそが、連立政権下では公明党のレゾンデートルをアピールする絶好の機会なのだ。
 「どの選挙区でも公明党の組織票は二万から二万五000ある。勝てば『公明が押し上げた』、負けても『公明はフルに動いたのに自民の支援者は何をやってるんだ!そんなことでは今後選挙協力はしない』と、どちらにしたって自民への圧力になる」(自民党本部選対職員)
 埼玉八区で共同通信が行った出口調査によると、公明支持層の実に九六%が柴山に投票したことが明らかになった。(p.56)



これは2004年4月の統一補選についての記述である。

今回の参院選も公明党の組織票の影響力は大いに効いてくる。実際、選挙区で自民党の候補が当選する場合でも、公明党の票がなければ落選する議員も多いはずだ。その影響力を相対的に低下させるためには投票率が高いほうがいい。この春の地方選や補選でも、逆風が吹いている中で自民が勝ったところの投票率は非常に低いことが多かった。

創価学会という「一部の勢力」が国政をほしいままにするような体制からは一刻も早く脱したいものである。




 特に、テレビの視聴率は、一番組ごとに何%というものだけではなく、なんと番組内で分刻みでどう視聴率が動いているかといった詳細なデータも収集した。(p.73)



現在の政党は、これほどまでに詳細なデータを分析し、それを積み上げてメディア戦略を立てているということを「視聴者=有権者」は知っておく必要がある。その概要を知るのに、本書は手軽に入手できる良い本だと思う。




 テレビニュースの特集などでも、コメントで事実誤認があったり、自民党幹部のインタビューが中抜きされて意味の違うニュアンスになっていたりすると、すぐ国会担当の責任者に連絡をとり、コミ戦スタッフが駆けつける。
 キー局の政治部デスクの証言だ。
 「武部さんの演説で、年金に関するくだりの15秒ほどを使ったら、すぐ翌日に世耕さんから電話が入って、会いたいので党本部に来て欲しいという。次の日に、党本部に訪ねて行ったら、『武部さんが言いたかったのはこうこうこういうことです』と、理路整然と説明された。呼ばれたときには、きっと抗議だろうと身構えて行ったが、説明だけだったので拍子抜けした(笑)。ベテランなんかだと、『お前の社は出入り禁止だ』などと言うのに比べて、世耕さんの場合は確かに圧力ではない。しかし、よく見てるなあ、と。それ以降は、インタビューなどどこを使うか多少意識することもあった。また、ウォッチしてるんだろうと思うとつい
 実に細かく報道をチェックし、決して抗議ではなく事実関係を説明するというメディアとの関わりは、このデスクの証言にあるように、自民党の報道に関しては慎重さを生み出す効果が出たのだった。(p.83-84)



自民党のコミ戦の活動の例。

メディアをソフトにコントロールすることによって、先日までの自民党は無理なくメディアに勝利していったように見える。最近の自民党は、テレビCMが誇大広告のようで言葉を変えさせられたり、バカっぽさ丸出しだが。




 「怖いのは反動です。嬉しくて冗談の一つも言いたい気分でしょう。大笑いしたい気分でしょう。でも怖いのは、そうした表情は、大勝した途端自民党は気が緩んだと国民には映ります。ここは引き締めてください。謙虚に謙虚に、責任の重さを痛感していることをアピールしなければダメです。有頂天になっていたら、今日我々に投票してくれた無党派層は、明日から反自民・民主支持に一気に変わってしまいますよ」(p.99-100)



これは2005年の郵政解散で自民党が圧勝したときの世耕からの指示である。この指示は功を奏し、翌日の新聞の見出しはコミ戦(世耕)の意図したとおりの見出しになったという。

こんなところまでイメージ形成をコントロールされているのだから、「視聴者=有権者」や報道するメディアは相当批判的に物事を見なければならないワケだ。




 一日三時間以上テレビを見ている人では、自民党支持者は57%と半分以上。さらに小泉が郵政民営化反対議員に対立候補を立てたことを支持する人は実に72%にものぼった。
 一方、一日のテレビ視聴時間が30分未満では、自民・民主が逆転し、民主党支持が34%、自民党支持が32%。さらに、対立候補を立てたことへの支持は50%に下がってしまうのだった。(p.103)



このあたりはよく知られていることだが、重要なのは自民党など政党がこうしたことを戦略的に行っているという事実である。「B層」はまさにこうした戦略におけるカモなのである。カモに自覚を求めるのは「強い個人」を仮定することになるので、社会政策的には実現可能性が低い。その意味では報道する側の批判的なスタンスが問われることになるだろう。



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鈴木哲夫 『政党が操る選挙報道』(その2)

 自民党の場合、選挙を表で仕切るのが総裁だが、陰で実質的に仕切るのは幹事長の役目とされる。その下につく総務局長とともに、金銭的支援や人的支援などをコントロールするのだ。逐次手元に届くすべての選挙区の情勢を分析して大物応援を決定したり、選挙資金をつぎ込んだり、自ら企業団体のトップに会って協力を要請するなど絶大な権限が集中する。
 かつて中選挙区時代は、各派閥がそれぞれ候補者を抱え、派閥ごとにカネや応援を投入したが、それでも最終調整は幹事長のもとにあり、派閥の領袖は幹事長に相談するなどその存在は無視できなかった。
 さらに小選挙区制に移行してからは完全な党営選挙になった。各選挙区に一候補、しかも党対党の戦いになり、幹事長は候補者調整から政権公約の決定、選挙資金の配分などますます権力を握ることになった。世耕の言う民間企業の秘書室とは、この幹事長室のことだ。
 一方、本来、日常的に党の外側、つまり有権者や各種団体と接している広報本部は選挙戦でどういった役目を果たすのか。ポスターやテレビコマーシャル、新聞広告などはこちらが受け持つが、独自に予算を持ち独自に考案する。これが世耕の言う宣伝部である。
 だが結局、双方がリンクすることはなく、司令塔の幹事長は自分の選挙を抱えながら全国を飛び回り、党本部には、司令塔不在なのである。(p.29-30)



世耕らのコミュニケーション戦略はこの「司令塔不在」の状況を変えたワケで、それが本書の主題なのだが、私がこの箇所を引用したのは、自民党内部での中央集権化が起きていることが示されているからである。

中選挙区制のもとでは派閥にある程度の権限が分散していたが、小選挙区制になってからは幹事長に巨大な権力が集中している。これは選挙に直接関わる局面以外でも起こっている。「脱派閥」が進めば進むほど、権力は平等に党員や議員に分散するのではなく、逆に、党の幹部に集中する。

まだ詳しく調べていないので断定はできないが、自民党の内部の権力状況は、かつてのソ連や改革開放以前の中国に近くなっているように思われる。

小選挙区制が導入されたことが、その大きな要因となっている。そして、安倍内閣で次々と行われた強行採決も、こうした党幹部への権力集中の賜物であると私は見ている。

過半数をとった与党の中で数名の幹部だけが突出した権力を持てば、与党を思うままに動かすことができ、与党を動かすことができれば野党など無きが如くに振舞えるのだとすれば、それはほとんど独裁といって良いのではないか。それが現実のものとなったのがこの9ヶ月であったと言える。

小選挙区制を変えることがどうしても必要になるのだが――現状で一気にそこまで行くのは無理があるので――、当面は、こうした権力の濫用を抑えるために権力の均衡状態を取り戻す必要がある。そのためには現在の与党(自民党と公明党)から権力を奪うことである。そのためには野党の勢力が相対的に大きくなれば良い。

(こうした二つの勢力の均衡を、小選挙区制という極端な結果が出やすい制度のもとで持続させることは難しく、その意味でこれは暫定的なやり方でしかない。しかし、まずは現状を乗り切らないことにはどうしようもない。)

参院選後は、政界再編などの可能性も十分ある。それを視野に入れた投票行動をとりたいと思う。私のところは2人区なので、二番目に有力と思われる野党候補者に投票しようかと思っている。同時に自民党の候補者のネガティブな情報を流すつもりだ。口コミで。

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鈴木哲夫 『政党が操る選挙報道』(その1)

 「永田町がキラーコンテンツになり始めたのは、自民党が野に下った1993年ごろから。善玉と悪玉という分かりやすい構図がいい。あのころは、守旧派とされた竹下(登元首相)など派閥政治の象徴みたいな人が悪玉で、細川(護煕元首相)さんたちがそれを壊すという善玉だった。ワイドショーの視聴者は、活劇を見ているように面白がる」(キー局ワイドショープロデューサー)
 小泉はこれにぴたりと当てはまった。連日、民法各局は、ワイドショーからニュース番組にいたるまで一日中、自民党総裁選を特集。その結果、総裁選は、あくまでも自民党の総裁を決める選挙であり投票資格は党員にしかないにもかかわらず、視聴者はあたかも国民投票のような錯覚に陥った。(p.19)



善玉と悪玉という構図がもつ面白さには注意が必要だ。

この観点から2007年夏現在の政治状況を見ると、誰も「善玉」になりきれないキャラクターしか出てきていない点に、善玉対悪玉の構図が生じていない理由を求めることができそうだ。

自民党はかつての派閥政治以上にドス黒い世界になっており、そのことが閣僚の数々の不祥事として浮上している。民主党もその点では規模は小さいが同類だと言える。社民党や共産党は、実際の主張されている内容は、かなり妥当なものが多いが、「自由な市場」での競争こそ善であり、それに規制を加えるような発想は悪であるというような「誤った観念」が、既に広く人々の間で常識として流布してしまっているために、彼らの主張の多くは必ずしも善と受け取られないところがある。

「二大政党制」は、容易に善玉対悪玉の構図になりやすい性質があるため、メディアが力を発揮しやすいところがあり、その意味でも危険な制度である。つまり、メディアが、権力を監視し、批判する側ではなく、権力を揮う側の側面支援をする立場になる。こうなると権力批判が公共の言論空間から消去される危険性がある。

また、自民党の総裁選が「あたかも国民投票」であるかのような錯覚に人々が陥ったことは、昨年の安倍晋三が総裁になった選挙にも当てはまる。




 「長く永田町では、新聞協会に所属するメディアだけが取材対象者や情報を独占し、我々には排他的だった。飯島さんはそこに風穴を開けてくれた。我々が総理官邸に足を踏み入れるなんて考えもしなかった。積年の大手メディアへの恨みが晴らせたからこそ、飯島さんに協力して小泉寄りの記事内容になった側面がある」(女性週刊誌編集者)
 メディアの性格の違いを考慮して計算し尽くした飯島の戦略があった。(p.21)



いわゆる「B層」向けの広報戦略。ワイドショーや週刊誌が政治を取り上げるようになったことで、「B層」が政治に関する話題に対してコミットする素地となっている。

私の考えでは、90年か80年代の後半頃から、テレビのニュースや報道番組でもキャスターが自分の意見を価値評価を付加して述べるようになったことも、「B層」向けの意見が氾濫する下地にあるのではないかと思っている。報道番組などでキャスターなどが勝手に主観的なコメントを述べることは避けるべきだろう。そうしたコメントを述べることは、テレビやラジオでは避けるべきであり、相対的に冷静に情報を受け取りやすい活字メディアに限るべきではなかろうか。

いわゆる「B層」が政治的な話題にコミットすること自体は必ずしも悪いことではない。しかし、彼らは自ら批判的に考えることはないため、メディアの影響をモロに受け、その方向にイナゴのように向かってしまうという点で民主主義を破壊する可能性がある。

理論的には民主主義は、それなりに「強い個人」を仮定している。つまり、自立的自主的に物事を判断できる個人がその担い手であると想定している。しかし、メディアの影響をモロにうける人々はそうしたモデルから程遠い。理論モデルと現実に齟齬があると、理論モデル通りの現実が生じなくなる。つまり、デモクラシーの政体だからといって、民主主義の理念がそのまま完全に具現化したことは歴史上ないと言って良いが、その理念からさらに逸脱する圧力がかかることになる。

様々な情報が流れることは良い。しかし、例え結果的にであれ扇動するような情報の出し方をすることは慎むべきである。マスメディアに対してはこのように思う。(ただし、当然のことながら、ウェブ上のコンテンツ、本、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなど、メディアの特性に応じて、主観的な判断を混合して良い度合いや観点の多様性を確保する必要性などは違ってくる。)

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川本芳昭 『世界史リブレット61 中国史のなかの諸民族』

 現在の大同の雲崗や洛陽の龍門などに残る石窟寺院などからも明らかなように、北魏の時代には仏教が上は皇帝から下は一般民衆にいたるまで、広くまた熱狂的に信仰された。そうした盛行が生じた理由としては、魏晋時代以来の信仰の拡大、打ち続く戦乱、同様に仏教が信仰された漢人王朝南朝との対抗意識、シャーマニズム的信仰をその精神世界の基底にもつ鮮卑族などの胡族にとって法悦の境地を説く仏教が受け入れられやすかったことなど、さまざまな要因をあげることができる。
 しかし、そのなかのもっとも主要な要因の一つとして、仏教が中国の大地から生まれたものではなく、異国のインドにおいて生まれたものであり、その意味で仏教が非漢民族たる鮮卑などの五胡諸族にとって違和感のない宗教であったことがあげられる。
 つまり、国家さえもが仏教を厚く庇護し、膨大な費用を必要とする石窟寺院を建設することなどをつじてその拡大をはかった背景には、胡漢両勢力によって共通してあつく信仰される仏教をいわば護国の宗教として尊崇することが、非和解的民族集団をかかえこんだ多民族国家北魏にとって統治上、極めて有効であったという要因が存在したのである。(p.27-28)



集団を統治する際には、理論的というより情緒的な共感を形成するようなタイプのイデオロギーが必要である。現在、世界各地で(日本でも)見られるようなナショナリズムは、まさにそうしたイデオロギーのひとつなのであるが、仏教もまたそうした役割を担っていた時代と場所があったというわけだ。

そもそも、巨大な建造物というもの自体、広義の権力を示すものであるから、巨大な石窟寺院が権力と関連していることは自明の理ではある。しかし、外来の文化であるが故に、立場の異なる人々が共に受け入れやすい要素を持っていた、という点を指摘しているのは参考になった。

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饗庭孝男、陣内秀信、山口昌男 『ヴェネツィア 栄光の都市国家』

 ところでヴェネツィアの絵画は、他のイタリアのどの都市よりも遅くあらわれた。・・・(中略)・・・
 他方、ヴェネツィアに集まっていたギリシア人たちの共同体設立が認められたのが1494年であり、彼らの教会は1539年に建築がはじめられた。このサン・ジョルジョ・ディ・グレーチはまさに東方教会である。思いの外にこうした措置が遅れたのも、ヴェネツィアの長年にわたるレヴァント支配から生じたギリシア系住民とのあつれきのせいである。この政治上の問題も、海外領土をほとんどもたなかったフィレンツェの古代研究とは大きく異なっていたのである。(p.108-109)



ビザンツとの関係が深かったが故に、逆にビザンツの人々を受け入れるのに時間がかかった面もあるという逆説的な状況は興味深い。もちろん、これはことの一面でしかなく、基本的にはビザンツ的なものの輸入は他のイタリア諸都市よりも早かったと思われるが。

なお、余談だが、歴史上、ギリシア人と言われる人々は、現在のギリシア共和国に住む人々というよりも、ギリシア語を用いていた人々――さらに言えば、ギリシア語を用いるといっても書き言葉としてギリシア語を用いていたということであり、ギリシア語を話していたかどうかは別問題であるが――という程度の意味であり、主にビザンツ帝国の住民の一部であると考えるべきであろう。




 さてヴェネツィアの絵画の問題に戻ろう。この都市はサン・マルコ教会の壁画の下書のところでも見たように、フィレンツェ絵画の表現形態から多く得るところがあったが、一方で海上貿易の上でもふかいつながりがあるネーデルランドやフランドルの油絵の技法の輸入によって他のイタリア諸都市にまさっていた
 十五世紀のヤン・ファン・エイクの絵画のリアリズムを支える油絵の濃密な質量感と光沢が、ヴェネツィアでは「地上の歓び」を描く上で、この上もない力を発揮したのである。(p.109-110)



ヴェネツィア派はルネサンスと北方絵画(油絵)の光の表現との両方から影響を受けているという点には納得する。

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