アヴェスターにはこう書いている?
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陣内秀信 『イタリア 小さなまちの底力』(その2)

 そもそも、イタリアの都市社会は、セグリゲーション(隔離)をできるだけ避けようとする。どんな人間も都市の中で一緒に暮らす。これが原則なのだ。そして、1970年代以降、イタリアのよき特徴が明確な形をとてきている。
 ・・・(中略)・・・
 トリエステには、県立の大きな精神病院があったが、それを廃止した。その代わり、都市全体を七つの地区に分け、それぞれに精神衛生センターを設け、旧病院のスタッフをそっくりそこにはりつけて、まさに地域で患者を支える方式がとられているのだ。旧入院患者がまだ旧建物に残っているが、彼らも患者ではなく、オスピテ、つまりお客と呼ばれ、一般市民として扱われているというのである。精神病の人々も特別扱いされず、地域のコミュニティの中に一緒に生活する。人間一人一人の価値を重んじる素晴らしい発想だ。(p.118-119)



「問題を起こす」児童を出席停止という形で隔離しようとしたり、「政府から見たダメ教師」を排除しようとするような日本とは大違いである、と付け加えてみよう。




 これからの都市づくりには、ヴェネツィアのような、一見非機能的に見える都市のあり方をもっと研究することが必要だ。実際、イタリア各地で成功している都心の歩行者空間化にとって、ヴェネツィアが一つのモデルとなったのはいうまでもない。(p.149)



都市のあり方に限らず「一見非機能的に見える」ものについての研究は今の日本ではとりわけ重要であるように思われる。現在の日本ではネオリベラリズムが常識化してしまっている面があるが、こうした研究が後年、こうした傾向を覆す力になっていくだろう。




 そしてまた、案外知られていないナポリのもう一つの魅力が、中世にある。この町には、意外なことに本格的なゴシック建築が多い。フランスのアンジュー家が南イタリアにやってきた時に、盛期ゴシックの様式をもたらしたのだ。(p.281)



これはイタリアを旅する場合には記憶しておいて良いことだろう。




中世初期には、古代のような強大な権力もなく、後の時代のような、道を真っすぐ通す計画手法も発達していないから、地形の変化に合わせながら複雑に入り組んだ構造の町ができるのは、ごく自然だった。他所者(よそもの)の侵入から身を守り、家族や近隣の人々の落ち着いた暮らしの場を確保するのにも具合がよかったのだ。(p.293)



ローマや中国の都市の真っすぐな道や都市計画は強大な権力の存在を前提するといえる。複雑な迷宮都市の構造が「地形の変化に合わせ」てできたという発想は興味深い。今後、様々な都市を訪問する際に注意してみたいところだ。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

陣内秀信 『イタリア 小さなまちの底力』(その1)

 イタリアでは、人口が一万人もいれば、もう立派な都市の面構えをしている。その辺が日本と違う。数十万の人口があっても、どこかうら寂しく、蓄積がなく、華やかさが感じられない地方都市が日本にはたくさんある。戦後、市町村合併で人口だけ増やし、中身の充実とアイデンティティの確立ができなかった町があまりにも多いのだ。(p.42)



日本の都市の「惨状」をイタリアの都市との対比によって示唆している。なお、ここでは昭和の大合併を引き合いに出しているが、本書の執筆時期(文庫版の前のオリジナルは2000年に出ている)から考えて、平成の大合併への批判であることは言うまでもない。

イタリアの小都市が個性的で「立派な都市の面構え」をしている歴史的な理由としては、この半島の大部分は都市国家であったことがあるだろう。もちろん、それだけではないし、より直接的には近年の政策やコミュニティでの様々な取り組みのありようなどの方が重要な要因だろうが。






テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

陣内秀信ら 『図説 西洋建築史』

 建築とは、建物とは違う。機能性や耐久性だけでなく、芸術性に代表される人間の存在の根幹にかかわる重要な何かが表現されていなければ、建築とはいえない。(p.62)



「建築」というものとその言葉への思い入れがこめられた一文である。

確かに、建築が好きな人間は、こうした意味での「建築」を求めているのは確かだろう。逆に建築に全然興味がない人には、全くこの感覚は理解するのが難しいのではなかろうか。




そして、ラテン語のclassicusはそれぞれの階級ではなく、最上級、最も富裕な層を指すようになっていった。中世に一度その意味は失われてしまったが、16世紀にはイタリア人によって再び最上級、最高級という意味が回復され、フランス人やイギリス人もこれに従った。こうして、「classic=ファースト・クラス」というイメージが定着した。「classic=古いもの」という意味で使われ出すのが17世紀のことであるが、ここでいう古さは、絶対的な規則、疑いようのない手本というような意味であった。古代ローマ建築に倣ったルネサンス建築、バロック建築、あるいは、古典主義建築が全面的に支持されていた時代の話である。(p.74)



classicという用語の意味の歴史的変遷。

私自身、かつて建築とは別の文脈で「古典」というものにこだわっていた時期があったので、記録しておく。

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橘木俊詔、浦川邦夫 『日本の貧困研究』(その2)
所得格差の拡大について、高齢化が進んだことが原因だとする意見に対する一つの批判。

 しかしながら、高齢者世代の所得格差が、就労世代の所得格差を上回るという日本の現象は、他の先進諸国にも共通なものではない点には注意する必要がある。(p.225)



日本では、高齢者の所得保障に関する制度的な支持が弱いことが問題だということになる。




 また、所得上位10%の世帯が手にする所得と、所得下位10%の世帯が手にする所得の比率をとった90/10 decile ratio(=I90/10)が、90年代以降、じわじわと拡大している点も注目に値する。92年、95年には、4.8であったのが、98年には5.4、01年には5.7にまで上昇している。01年においては、所得下位10%に位置する世帯の等可処分所得は97万円であるのに対して、所得上位10%に位置する世帯の等可処分所得は554万円であった。これらの世帯がどちらも4人家族であったと仮定すれば、これらの世帯の可処分所得は、それぞれ、194万円、1,108万円となり、約900万円もの所得差がある。
 このような貧富の格差拡大の傾向は、とりわけ就労世代において強まっていることを図7-3によって示す。・・・(中略)・・・。したがって、全世帯で見た場合の90/10 decile ratioの上昇は、高齢者世帯の世帯に占める割合の増加だけでなく、若年層を中心とした就労世代における貧富の格差の拡大が原因となっていることがわかる。(p.235)



これも90年代以降の所得格差の拡大は高齢化ではなく、就労世代の格差拡大(本書のこれより先の議論で明らかにされるように、所得が低い層ほど所得がより低下したこと)によるものであるとする議論。




 第2に、税と社会保障による所得再分配効果に着目すれば、表7-3-Aで見られるように、税による再分配効果は元々さほど大きくはなかったが、それが今日に至って非常に小さくなっているのに対して、社会保障による再分配効果は現在では相当大きくなっていることがわかる。現在では、税と社会保障の再分配への貢献度は、圧倒的に社会保障制度の方が高いのである。表7-3-Bによると、もっとも大きな再分配効果を持つのが公的年金であり、医療の原物給付等の効果が次に続く。高齢化の進展によって、公的年金給付や医療の原物給付を受給している世帯の割合が増加していることが背景にある。一方、失業保険や生活保護は、公的年金や医療の原物給付と比べると、現状では所得格差を是正する効果は非常に小さい。
 なお、社会保険に関していえば、再分配効果の大半は給付側に依存している。拠出側(すなわち社会保険料)は、例えば国民年金保険料は定額制であるなど、逆進性を持った制度があるため、ジニ係数の改善効果は非常に小さいのである。社会保険料の逆進性についてはこれまで大きく語られてこなかったが、今後はもっと注視してよい課題である。(p.239)



いわゆる格差や貧困を語るときに、常に念頭においておくべき基本的な事項である。




なお、90年代の税率構造の変化は、高所得者だけでなく、中所得者にも相当影響があった。Ishi(2001)、石(2004)は、日本の累進税率構造において、現在給与収入を得ている納税者の約80%(給与収入で約800万円まで)が最低税率10%の所得ブラケットに位置しており、中高所得層にまで税負担の軽減が広がりすぎている点を指摘している。(p.240-241)



基本事項。




95年から98年にかけて所得格差が拡大した一因は、不況の影響をまともに受けた低所得世帯と、それほど受けなかった高所得世帯が混在していたことが、背景にあったといえる。(p.257)



この周辺の記述は重要。90年代の不況では低所得層ほど大幅な所得低下を招いていた。




 阿部の研究でもっとも興味深いのは、相対的剥奪指標がどのグループに関しても、年収が400~500万円より低くなれば急激に上昇することである。・・・(中略)・・・。日本では400~500万円程度を境にして、文化度や社会度の高い生活を送れる人と、そうでない人の二極化を生んでいるのではないか、ということがいえる。(p.295)



以上、メモする。

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橘木俊詔、浦川邦夫 『日本の貧困研究』(その1)

 各世帯類型が全世帯の貧困率に与えた寄与率の95年から01年にかけての変化を調べた表3-8を参照すると、高齢者世帯を除いた単身世帯は、95年から01年にかけて寄与率が7.8%上昇しており、世帯全体の貧困率の上昇に最も大きな影響を与えていることが読み取れる。すなわち、90年代半ば以降、「仕事を引退した世代の貧困」に加えて、「働き盛り世代の貧困」が表面化してきたといえる。(p.84)



 95年から01年における寄与率の変化を考慮すると、もっともプラスに変化したのは、無職(若年・壮年・中年)世帯の8.4%であり、1年未満契約の雇用者世帯の2.5%がそれに続く。すなわち、90年後半(ママ)における失業の増加や、不安定雇用の拡大ならびに不安定雇用者における貧困の増大が、日本における貧困の全体的な増大に大きく寄与したと結論づけられる。(p.85-88)



90年代以降の貧困の増大は、非正規雇用の拡大(労働の規制緩和)が大きな要因となっている。この点に関して、政府と与党の罪は重いというべきだろう。




 イギリスでは雇用保険の給付期間を終えた失業者や、未加入で受給権利のない失業者に対しても「求職者手当」として最低限の生活を支えるための公的扶助が行われているのに比べて、日本では、「失業者の生活保障に関して社会保険と公的扶助が連動していない」のが現状である。(p.116)



参考としてメモしておく。




貧困ラインを中央値の50%に設定したケースで全世帯をサンプルとした場合は、92年から01年にかけて貧困削減の効率性は一貫して80%を超えており、決して低くない。すなわち、貧困層への過剰受給、非貧困層への無駄な受給は、日本の生活保護移転に関してはほとんど確認されないことがわかる。(p.139)



重要な事実。但し、日本の生活保護制度は「本来、生活保護を受けてしかるべき世帯の多数が何らかの原因によって保護を受給していない」(p.139)という問題がある。




 興味深いのは、最賃と雇用の関係は非線形であることを示したイギリスのDickens et al.(1999)の研究である。Dickens et al.(1999)は、NES(New Earnings Survey)を用いて計量分析を行うことにより、最低賃金と労働者の平均賃金を比較した比率であるカイツ指標(Kaitz Index)が0.55より低い地域では、最賃の引き上げによって雇用の上昇が見られる一方、0.55以上の地域では、雇用に有意な影響を与えないとの実証結果を示した。この研究は、上記のような推定結果が得られたことは、労働市場に買い手独占の考え方を応用した理論モデルからも説明できるとしている。
 最低賃金のアップが雇用に与える効果は、労働市場が完全競争にあるのか、それとも買い手独占にあるのかが、効果を区別する一つの論点であることがわかる。我が国の労働市場がどちらの状況にあるかを判断するには、綿密な実証研究を待たねばならないが、完全競争から離れていることはほぼ確実ではないかといえる。このように最低賃金が雇用に与える影響についての見解は様々であるが、重要なことは、最賃の引き上げが必ずしも雇用の喪失をもたらすものではないこともある、という視点を持つことであろう。我が国でも、最賃の引き上げが雇用に与える影響は、労働者の属性や地域、産業によって相当異なると考えられる。(p.171-172)



最賃を上げると雇用が減るという批判に対して、必ずしもそうは言えないという実証研究に基づいて反論している。その上で、日本の統計を用いて検証した結果が次の箇所。

 したがって、『就業構造基本調査』の集計データによる分析では、最低賃金の水準が高い県において、若年女性の雇用が有意に低くなるという現象は見られない。この結果は、被説明変数を60歳以上の女性や10~99人の規模の企業に勤める被雇用者の雇用者割合にした場合も同様であった。すなわち、我が国においては、最賃の引き上げが雇用の喪失をもたらすと、明確に結論づけることは不可能である。(p.175)



日本では最賃を上げても雇用は減らないとすれば、それによる貧困の削減効果はどの程度だろうか、というのが次の箇所。

 しかしながら、最低賃金を10%上昇させた場合は貧困世帯のうちの約5%、15%上昇させた場合は約6.5%が貧困ラインを脱出できる。10%程度の引き上げではなかなか大胆な貧困の削減につながらないことが示唆されるが、それでも日本全体で換算すると、10%の最賃上昇で約20万世帯が貧困から脱出できる計算であり、決して少なくはない。第4章の分析で述べた公的年金制度や生活保護制度に比べれば、貧困の削減に対する効果は限定的であるとはいえ、ダグラス=有沢法則が弱まり、夫と妻がともに低所得である世帯が増加傾向にある現状では、勤労者世帯の最低生活を保障するセーフティ・ネットとして、最低賃金制度の効果は無視できない。(p.177)



10%の上昇というのは、時給にしてせいぜい60円とか70円の上昇の世界である。しかし、それでも20万世帯が貧困ラインから脱するというのは、なかなかの効果ではなかろうか。

民主党などは最賃を時給1000円にするといっているが、金額がどの水準が適当かは別としても、上記の実証研究の結果から推定する限り、最賃を上げるという方向は、現在の日本においては間違っていないと言えそうである。




もう一つ期待されることは、最賃に関する運用実態を情報公開して、国民の最賃への関心を高め、政策がうまく機能するような土壌を形成することである。最賃未満で労働者を働かせているような企業の財・サービスを多数の消費者が敬遠するようになれば、必然的に不公正な企業は淘汰されることになる。(p.182)



最賃を引き上げると、企業の側が脱法行為を行う可能性が高まるが、それに対して行政に期待するとされていることの一つ。この情報公開が完全に意図したとおりに機能するかどうかは別としても、これは有意義な情報公開ではある。


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藤井省三 『現代中国文化探検――四つの都市の物語――』
香港

 士丹頓街を直進して必列者士街(ブリッジ)に入ると、赤煉瓦作りのYMCAが建っている。ここでは1927年2月に魯迅が二度の講演を行ったことがある。YMCA手前の階段で、その名も楼梯(ラダー)街を下ると右に文武廟がある。学問の神である文昌帝と、本来は『三国志』でお馴染みの武将だがのちに商売の神となった関羽帝とを祀っており、廟の存在はこの一帯が中国人商人の中心地であったことを意味しているのだ。(p.117)



中華圏には妙に関羽を祀っている廟が多いと思っていたが、このような意味があるとは知らなかった。断片的な知識は多少あるにしても、中国の文化面に関しては、それらを十分に結び付けられるだけの力が私にはまだない。イスラーム世界や欧米に関しては古典とされるものはある程度理解しているつもりだが、インドや中国はゼロではないにしても、これから積み上げるべき課題が多い。

宗教的モニュメントが商業地の中心にあることは、歴史的に見て、ヨーロッパや中東では全く珍しくなく、むしろそれがノーマルな状態なわけだが、中国でも似たようなパターンで捉えられるようだ。中国の場合、関羽を祀った廟はそのひとつの印になるのかもしれない。これからも世界中の様々な都市を巡りたいと思っているが、中華圏ではこの点にも着目してみようと思う。




 バレエの原型は十五世紀末にイタリアの王侯の宴席で挙行された幕間狂言であるといわれ、その後1661年にフランスのルイ十四世が王立舞踏アカデミーを設立して宮廷バレエを創作し、それはロシア帝国に伝わって十九世紀半ばにペテルブルクが世界バレエの中心となっている。バレエの連続する跳躍運動はヨーロッパ牧畜民族の身体行動であり、ポアントで立つ優雅な踊りはヨーロッパ王侯貴族の趣味が洗練されるに伴って考案されたものであろう。香港において市政局によりバレエが特に推奨され、「市民の鑑賞レベルを引き上げる」指標としてバレエが語られるというのは、マクルホース時代に登場する「香港文化」の欧米的体質を如実に物語るものといえよう。(p.138-139)



ヨーロッパのハイカルチャーや王侯貴族の文化の大部分はイタリア経由(「イタリア発」と言いたいところだが、本当にイタリア発というものは多くない。大抵は中東やビザンツから輸入された文化である。)で広まったものだが、バレエもその一つであるらしい。フランス経由でロシアに入っていったという説明は面白い。

それぞれの地域で反映した時期にずれがあるので、本書の説明ほど単純ではないと予想されるが、それでも、フランスはイタリアの文化を大量に輸入し、独自の宮廷文化に仕上げることで、ヨーロッパの宮廷文化をリードしていった。バレエもその中のひとつに位置づけられる、ということなのだろう。

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小野善康 『不況のメカニズム ケインズ『一般理論』から新たな「不況動学」へ』(その3)

「結果の平等」と「機会の平等」
 市場原理の誤解は、結果の平等では経済は活力を失って効率が下がるから、機会の平等を推進すべきだという構造改革派の主張においても見られる。そこで言う機会の平等とは、競争に負ければ倒産して働く機会を失うという事態も含めて、言われている。しかし、本当に効率を追求するための機会平等を主張するなら、その前にまず働きたい者には働く場が必ず与えられる状況を作らなければならない。
 成功している個人や企業が、倒産や失業も含めた意味での機会平等を支持する本当の理由は、経済全体の効率化ではなく、単にそれが自分たちにとって都合がいいからである。ライバル企業が減れば、生き残った企業にとっては都合がよい。個人にとってもライバルが減れば、競争も軽減できるし職場も確保できる。彼らの言う効率化とは成功者だけにとっての効率化であり、日本経済全体の効率化ではない。そもそも働かない者を増やす政策によって、経済全体の効率化を実現できるはずがない。
 構造改革派による雇用流動化の主張も、成功した個人や企業の利益追求にすぎない。好況でいくらでも就業機会はあるのに、雇用情報が不足して適当な仕事を見つけられなかったり、正社員が労働組合の保護によって不当に高い賃金を得ていたりするというなら、雇用流動化も必要であろう。しかし、実際に好況であった1980年代末期には、雇用流動化どころか日本的長期雇用が礼賛され、雇用流動化の必要性が叫ばれ始めたのは、失業率が跳ね上がった2000年以降のことである。需要不足で不況が起こっているなら、いくら臨時契約を増やしても、経済全体で働くことのできる人数は決まっているから、その分常勤労働者が減るだけで失業総数は減らない。したがって、不況期の雇用流動化は効率化には結びつかない
 他方、成功した企業の利益誘導という点から見れば、雇用流動化は大変都合がいい。臨時雇いを増やせば賃金も引き下げられるし解雇も容易になるから、個々の企業のもうけは増える。しかし、総労働時間は変わらないから日本経済全体の効率は改善せず、企業がもうけた分、労働者の所得が下がるだけである。実際、民間企業の平均給与は1998年から2005年まで毎年下がり続けているのに、企業の経常利益は特に小泉政権発足以降、大きく上昇し続けている(図29)。

現代日本の政治構造
 結局、新古典派経済学の市場原理に基づいて行われた構造改革とは、ほとんどの場合、効率とは無関係の、成功者による利益誘導である。その証拠に、不況のときこそ単純な市場原理は効率化に結びつかないのに、不況になるほど余裕がなくなってこのような主張がなされる。
 他方、これに反対する勢力も自分の支持者の便益のみを優先した政策を訴える。いわゆる抵抗勢力は、地元選挙民の支持を得るために自分の選挙区での公共事業を拡大しようと画策し、左派政党は福祉重視を強調して貧困層からの支持を得ようとする。これらの政策には、日本経済全体の効率化にとって実際に生産される総量を拡大し、成功者も失敗者も、都市部も地方も、すべてがその恩恵を享受できるようにするという発想はない。効率化を標榜する構造改革も実態はこれと同じであり、力のある成功者からの支持を得るための利益誘導にすぎない。
 成功している個人や企業にとっては、自分の利益が守られているかぎり、日本経済全体の効率や失業対策など、どうでもよい。失業保険料も取られず、税金も納めず、ライバル企業や政府企業が排除され、自分さえ働く場が確保されて好きに物を売ることができれば、あとはどうでもよい。そうした利己的な分配要求をためらいもなく効率のためと言えるところに、構造改革がこれほど支持される理由がある。
 日本が経験した程度の不況であれば、こうした政策を支持する成功者の方が圧倒的に多いから、構造改革の主張が力を持つ。しかし、不況がさらに深刻化して失業者や貧困層が増え、福祉政策という形で「カネをよこせ」と言う人々が増えれば、ケインズ政策や社会政策の方がより多くの支持を得るであろう。いずれにしても国民全体の利益ということは眼中になく、富裕層も貧困層も、成功者も失敗者も、「他の人はどうでもいいからとにかく俺にカネをよこせ」と言うだけである。
 個人や階層を比較してだれが多くもらうべきかという問題には、皆が納得する正しい答えなどない。一方では豊かな者が貧しい者を助けるのは当然だと言い、他方では能力のある者が多くもらうのは当然だと言う。このような状態では、数の力で解決するしかない。(p.203-206)



いろいろと考えが触発される箇所である。

まず、結果の平等と機会の平等に関して、私が考えてきたことが整理された。これらは概念的に区別できても、実際上の区別はほとんど不可能だと考えており、機会の平等を実現するためには、「ある時点において状態の平等」としての「結果の平等」を(たとえ相対的なものではあれ)実現しなければならない、という趣旨のことを何度か述べてきた。

雇用や起業に関しては、私の考えは次のように定式化することで、より概念的に精密さを増し、経済学的な理論との接合に成功することが分かった。

すなわち、完全雇用の状態を実現した上ではじめて、「結果の平等よりも機会の平等を重点的に実現するための政策」を実行する段階に入ることができる。完全雇用が実現していない状態である場合、機会の平等を実現することではなく、先に完全雇用を実現する政策を実施しなければならない。

小泉政権の構造改革が、政治的および経済的に有利な状態にある者を守るための利益誘導政治であることは私も気づいていた。それが構造改革の新保守主義としての側面である。構造改革の新保守主義としての側面は、主として非自発的失業が存在する場合における新自由主義=市場原理主義という方法によって達成された。このことが明確になったことが収穫だった。

もう少し砕いて述べる。

新保守主義と新自由主義は完全に一致する思想ではないが、極めて関係の深い思想であることは多くの人が気づいている。しかし、それらの関係を明確に整理することは意外と難しいところがある。本書のこの箇所の記述から、それが整理されたように思うのである。

根本には私が使う意味での「保守主義」があり、その実現のための手段として、「完全雇用でない状態での新自由主義」が用いられる、という関係である。

小泉がアドホックに銀行に公的資金を投入したりしたのは、市場原理主義・新自由主義ですらないと批判されることがあるが、それもどこにどのように公的資金を投入したかを見れば、私が使う意味での保守主義の目的には適っていることがわかる。つまり、相対的に強い者・有利な者を守るという目的には適っている。新自由主義は主要な手段ではあるが、唯一の手段ではなかった。このような関係になっているところに、概念的な整理が困難であった理由があったのだ。この関係が本書を読むことで完全に明瞭になった。これは大きな収穫である。

さて、後段の構造改革派に対する「抵抗勢力」に対する小野からの批判は重要な指摘である。一国の経済全体の効率性を高めるという視点が欠落している、という。その通りである。この点は私も、安倍政権になってからというもの、経済や財政に関する政策についての議論が全くというほどなかったこともあって、忘れそうになっていたかもしれない。

また、政治的な権力構造がかなり政権側に有利な構造になっているので、左派の政治家や言論人は様々な局面で追い詰められているというのが、現在の政治的情勢であろう。そうした中でトータルな視点を持つ余裕を左派=批判勢力が失ってきているというのは、確かに感じられる。その意味で、小野の指摘は反構造改革派にとって重要な指摘である。

分配で争っても泥仕合になる(?)ので、「真の効率性」とは何かを示した上で、「どのようにすることで効率性が上がるのか」を議論しろということだろう。私見では、分配で綱引きをすることにも意味はあるが、この視点を織り交ぜて議論した方が遥かに建設的なものになるのは間違いない。その上、批判勢力にはこの論点で議論した方が有利でもある。

なお、私自身も日々の忙しさに追われながらブログの更新頻度を一挙に上げたこともあり、視野狭窄になりそうな圧力を日々感じている。当面、今国会の会期末と参院選までの期間は、この圧力に抗して戦いを続けたい。

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小野善康 『不況のメカニズム ケインズ『一般理論』から新たな「不況動学」へ』(その2)

 流動性の罠が起こるのは、人々の貨幣保有願望(流動性選好)がいつまでも残るからである。このとき、何と比較しての願望かと言えば、ケインズは実物投資との比較でしか考えなかった。・・・(中略)・・・
 しかし、人々が貨幣を保有するとき、収益資産との比較だけでなく消費との比較も行う。消費するか、使わずに貨幣としてとっておくかという選択である。消費が増えていくと、さらに消費を増やすことによって得られる効用の増分は減っていく。これに対して貨幣保有量を増やしても、さらに持ちたいという気持ちは減退しないから、消費が控えられる。そのため物が売れなくなり、企業にとっても生産設備を拡充する意味がなくなるから、投資も減少する。その結果、総需要が減って企業収益も悪化するし失業も増えるから、所得が減少する。
 つまり、流動性選好の持続と消費願望の減退が、消費だけでなく企業の収益予想悪化を通して投資をも抑制し、総需要とそれによって実現される総所得を低水準にとどめてしまう。これが著者の提唱する「不況動学」の考え方である。(p.170-171)



本書の考え方を最も端的に要約している部分を抜粋した。特段付け加えることはなく、全く同意する。




すなわち、不況脱出には不安を拡大させない状態を地道に積み重ね、人々に安定状態にいるという確信を強めてもらうしかない。しかし、それを待てない政府は不良債権だ国際累積だと騒ぎ立ててますます不安を煽り、財政削減や人員削減を推奨して失業を拡大させる。そのため、人々は流動性選好を強め、物が売れずに所得が下がって税収も大幅に減少するから、財政支出は逆に悪化してしまう。
 実際、不況の深刻化は、1998年に実施された橋本政権下の財政構造改革と2001年以降の小泉政権下の構造改革始動後に起こった。さらに、赤字国債が激増したのは98年であったし、歴代政権でもっとも財政赤字を蓄積したのは小泉政権であった(図25)。(p.187)



歴代政権で最も財政赤字を蓄積したのは小泉政権だったというのは、あまり指摘されない事実である。安倍政権は「成長重視」路線として小泉の経済政策をほぼ引き継いでいる。財政や失業、給与所得の上昇などの点からも、この政策は批判されるべきであろう。




 デフレ緩和手段の一つとして、政府が公共事業によって労働需要を増やし、人余りを減らすということが考えられる。そうすれば、貨幣賃金と物価の下落が抑えられて消費を刺激する。・・・(中略)・・・
 乗数効果の論理とは異なり、ここでは公共事業に使った金額は重要ではない。重要なのは、どの程度人余りを改善し、それによってどの程度デフレを緩和したか、ということなのである。このため、平成不況期の日本のように300万人から400万人もの完全失業者があり、企業の稼働率も大幅に低下しているような状況で、公共事業によってわずか数万人程度の雇用を作っても、デフレにはほとんど影響がないから、需要拡大効果もあまり期待できない。(p.192-193)



本書で小野は、乗数効果を否定し、公共事業の効果は別のところにあることを論証するわけだが、そこから引き出される政策の意味を述べた箇所がここである。投入する金額が問題ではなく、余剰労働力をどれだけ解消するかという考え方は、もっと広く浸透するべきものである。




 小さな政府推進政策の一環である公務員の削減問題も、公務員が非効率だから減らすべきだという議論にすり替えられてはいるが、実際は税金を取って公務員に支払うのはけしからんという、純粋に分配の問題である。その証拠に、職を失う公務員をどこで吸収し活用するかという本当の意味での効率化の視点が、完全に欠落している。おまけに「天下り反対」というスローガンのもとで、辞めた公務員の再就職を禁止する政策まで取り沙汰されている。公務員が天下りで高額の報酬をもらうのは不公平であるが、効率面から見れば、彼らに働く場を与えずに放置する方がもっと悪い。
 つまり、効率が重要だと言いながら分配面だけで議論しているのである。不当に高額な給料を禁止するのは当然だが、効率面から見て本当に行うべきは、仕事場を確保して彼らの能力を生かすことである。(p.200)



そもそも、主として民間企業が通常は行えない(損益分岐点以下になってしまう)事業を公務員は行っている。その意味で公務員を非効率といってしまうのは不公正であろう。収益が上がらないことをやらせて、収益がないと言って非難しているということなのだから。

小野はその点には触れないでおきつつも、公務員削減の議論の誤りを的確に指摘している。公務員の削減を行うとしたら、それは基本的には経済が完全雇用の状態になったときである。

非自発的失業が存在する場合、公務員の削減をしても意味はない。公務員給与を多少抑えて、(さらに言えば、高所得者への課税を強めて)その分、公務員の雇用人数を増やすという政策の方が、効率の面から見れば遥かに良いのである。

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小野善康 『不況のメカニズム ケインズ『一般理論』から新たな「不況動学」へ』(その1)

 好況でものがどんどん売れている状態にあれば、需要不足による失業など実感が湧かない。そのため、長期の好況にあったアメリカで、完全雇用こそが経済本来の姿という考えが支配的になるのは、ある程度理解できる。(p.)



90年代にアメリカで新古典派経済学が勢力を強めることができた社会経済的背景。それをそのまま不況期に輸入した日本の経済学者のバカさ、浅はかさにはあきれる。




 すなわち、非自発的失業が存在していれば、資金を税金でまかなおうが赤字国債でまかなおうが、公共事業を行った場合のすべての費用や便益および波及効果を考慮したあとに残る価値とは、その事業で作った物や提供されたサービスそのものの価値である。100万円の税金を集め、それまで活用されていなかった余剰労働力を使って作られた社会資本は、たとえそれが50万円分の価値しか持たなくても、その分が純粋な便益として残る。投資主体が民間であれば、100万円を使って50万円の価値しか作れないなら、差し引き50万円の赤字となるから、その事業は決して行われない。しかし、社会的にはその事業はやった方が効率面でよい。そのため政府の介入が必要なのである。
 つまり、予測能力が同じでも、自分の利益しか考えない民間と国全体の利益を考えるべき政府とでは、便益の計算方法が違う。このことを考慮した上の純粋に技術的な理由から、公共事業が支持されるのである。(p.87)



小野によるケインズ解釈。小野自身の見解では、さらにこれに追加される要素があるが、論理は大きく変わらない。

個々の事業体ではなく、それらを総体として捉えた場合、余剰労働力を遊ばせておくことの方が無駄であり、非効率的である、ということ。余剰労働力を活用して何らかの価値あるものができれば、何もできないよりマシということである。繰り返すと、余剰労働力を活用することは、収益を上げなければならない民間企業ではできないので、政府が介入することで、その資源を活用する方が効率的である、ということである。

つまり、非自発的失業がない場合には、政府の介入は非効率になるが、非自発的失業がある場合には、政府が介入したほうが効率的である、ということ。




 しかし、流動性選好によって、貨幣は実物投資に向かう購買力とともに、消費に向かう購買力をも吸い込む。そのうち投資について言えば、経済が成長して資本を十分に蓄積した経済では新規投資の機会が減るから、投資が景気循環の原動力とはなりにくい。これに対して消費なら、いまたくさん食べたり着たりしても、将来の消費意欲が減退するということはない。そのとき、景気循環の原動力として投資よりも消費が重要になり、確信の変化が貨幣と消費との選択に影響を与えて消費の変動を引き起こし、投資はそれに付随して変動幅を広げる役割を果たす。
 このような消費の変動による景気循環は、ケインズの考えた投資循環のような三年から五年程度の短期のものではない。特に、大恐慌や日本のバブル崩壊のように人々の記憶に長く残る危機的状況を経験すれば、確信を回復し、購買力を貨幣から物やサービスに向けるには、危機を自分の経験ではなく、単なる歴史上の出来事としてしか考えない新しい世代の登場が必要になる。
 その場合、景気が回復し始めるまでには、世代交代が進む15年から20年近くの歳月がかかる。実際、本書の冒頭の図1、図2に示したように、大恐慌当時のアメリカやイギリスでも、また平成不況の日本でも、景気が回復の兆しを見せ始めるまでにはそのくらいの期間がかかっている。(p.138-139)



投資ではなく消費が景気循環において重要な役割を果たすというのは、非自発的失業が存在する状況では恐らく成り立っていると思われる。これに対して、完全雇用の状態では、投資が主に景気に影響を及ぼすようになるだろう。

消費が景気循環を規定する際に、世代交代によって回復が起こるという説明は興味深い。一面の真理を突いているかもしれない。ただ、平成不況下の日本に関して言えば、私自身はその新世代にあたると思うが、私自身に不況の実感がないとしても、だからといって旺盛に消費しようとは思えず、給料が上がらない(上がる見込みが小さい)から消費を控えているのが実態である。

むしろ、こうした世代間の相違は、消費よりも投資の面に現われやすいのではないかと思う。バブルを経験したことがない世代がインターネットで株をやって大もうけしたり、大損したりするということの方が説得力があるように思う。

小野の論では、国を単位として考えているので、一国の経済が非自発的失業の状態にあるか、完全雇用の状態にあるかで政策の判断が下されるべきだと考えられている。それは「べき」論としては正しいと思うが、実際には一国の経済の中に完全雇用の領域(地域、社会層、業界等)と非自発的失業が存在する領域があり、それらの領域間の相互作用が(グローバル化という形で国外とのリンクが多くなっているため、相対的に)小さくなっているという現状があるのではないか。

その上で、国内消費の面では所得配分が不平等化しているために平均的な消費性向は低くおさえられており、不況は続いているが、完全雇用に近い状態の分野では若い世代を含めてせっせと投資に勤しんでいるという状態にあるのではなかろうか。その「完全雇用の領域」で扱われる金額が大きいので、見かけ上(名目上)、景気回復と言われているだけであるように思えてならない。

当然、政策としては累進課税による所得の平等化によって非自発的失業の分野を完全雇用に近い状態にする方が安定的な経済運営が可能になるので望ましいと私は考える。当然、完全雇用の分野では税がとられるが国内で物も売れるようになるので損はしない。再配分は、単なる配分の問題ではなく、経済の「効率化」に寄与するものなのである。




 ケインズは、高い流動性選好が実物投資を阻害するから、貨幣を保有するのに費用(持越費用)がかかるようにすれば購買力が実物投資に向かうと考え、料金を払わせて貨幣にスタンプを押すゲゼルの貨幣スタンプ制度を再度紹介している(第3章第3節参照)。その上でケインズは、この制度の限界について大変重要な見解を述べている(pp.357-358)。すなわち、流動性プレミアムは貨幣だけが生み出すわけではないということである。貨幣がだめなら、銀行貨幣、要求払い債務、外国貨幣、貴金属、宝石、土地などがある。これらも流動性プレミアムを持つから、貨幣だけに持越費用を導入しても、それらが代わりに購買力を吸収して実物投資が阻害される。結局、流動性を生むすべての資産に持越費用を課さなければ需要刺激効果はない。(p.141-142)



納得した。

ゲゼルの貨幣スタンプは、数年前に日本でも地域通貨などの形で、一部で流行し、注目を集めた。しかし、1~2年もすると、それらがあまりうまくいっていないという話が広まって、関心が一気に低下してしまった。地域通貨がうまく行かなかった理由は、まさにケインズが指摘するところに起因するものと思われる。




次は現代日本におけるワークシェアリングへの批判。厚生労働省の報告書における導入の理由づけに対しての反論。

 また、余暇を楽しめと言うと聞こえはいいが、その意味は、働かずに貧しいままでいなさいということである。そもそも不況で所得が減っていれば、余暇を楽しんでいる余裕などあるはずがない。(p.143)



ワークシェアリングは、非自発的失業がある状況で、労働の総量を増やさない政策だから、余剰労働力が活用されるわけではないことを小野は批判する。その上で、上のように屁理屈を言う厚労省を批判しているわけである。

ワークシェアリングは、確かに小野の言うように批判されるべき点が多いが、何もしないで失業者と就業者を完全に分けるよりは消費性向は多少上がるので、完全に無意味な政策とも言えない。しかし、小野の批判の本当の要点は雇用の総量を増やして完全雇用に近づける方が重要であり、ワークシェアリングを導入することによって、むしろそうした方向に向かう流れが遮られることへの懸念にあると言えるだろう。まったく妥当である。

ワークシェアリングは評価するのが難しい制度だと思うが、小野の批判はこれまで私が接した中でもっとも説得力があるものである。

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橘木俊詔、森剛志 『日本のお金持ち研究』(その2)

 高額所得者に高い所得税を課すと、労働供給にとってマイナスであるとする反対論は強い。さらに、労働日数や労働時間に対する効果のみならず、勤労意欲にとっても逆効果だとする説は強い。やさしくいえば、たくさん税金をとられると、やる気をなくすといったことに要約される。
 この反対論が、日本において実証的に確かめられているかといえば疑問は多い。確かに既婚女性のパートタイマーや一部の高齢者は、103万円や130万円の壁があって、税制や社会保険制度が労働供給を少し削減した証拠は確認されている。しかし、成人男子についてはそのような証拠はどこにもない。
 ・・・(中略)・・・。日本では実態はなにもわかっていないに等しいのが現状だ。
 労働供給に対する負の効果があるとすれば、それは思い込みによるか、それとも反税キャンペーンに用いる感情的な反対論から発したものである。高い税は働く意欲を阻害する、といったことは直感に訴える魅力があるので、用いられることの多い主張なのである。しかし、私たちの日常生活のまわりにおいて、税金が労働供給にとってマイナス効果を及ぼしているとする実態は、成人男子に関していえばほとんどないと、誰もが認識しているのではないか。
 実はこのことは数多くの、データが豊富な欧米諸国における統計分析において確認されている。税が与える労働供給効果は少なくとも成人男子に関していえば、多くの国で存在しないか、それとも、あったとしても、きわめてマイナーな負の効果しかないのである。
 本書の関心である高額所得者に関していえば、日本では実証研究がないので明確なことはわかっていない。しかし、アメリカに関していえば、所得税制の変更によって高額所得者が労働時間を変化させた事実はない、とされている。すなわち、税制と高額所得者の労働供給は無関係なのである。日本においてもこのことは成立しているだろうと想像されうる。
 労働供給への影響力よりも、潜在的に重要なのは貯蓄や投資への影響である。・・・(中略)・・・
 貯蓄率に関しては、平均的な日本人であれば、税が貯蓄率に与える効果は非常に小さいと報告されている。高額所得者への効果はどうかといえば、分析しないとわからないが、多分一般の人とさほど変わらない行動と予想されるので、影響力は小さいものと考えられる。ただし、どの金融商品に投資するかといったことに関しては、アメリカにおいても日本においても効果が大きいとみなされている。(p.178-180)



税制が労働供給に負の影響を与えるという証拠はほとんどないが、投資への影響は大きい。

前者は税とは直接関係のない話であり、誰も引かれる税金のことを考えて仕事などしないのだから、私の見解からしても当然と思える。

後者は流動性をどのような形で持つかという話であり、税は直接目に見える形で、債券等がもたらす利益を規定するのだから、影響して当然であろう。




 以上のような経済学による最適所得税製に関する分析をまとめてみると、次の三つが重要な要因である。(1)どのような社会的厚生関数を想定するか、(2)所得税が労働供給に与える効果、(3)人の能力分布の形状、である。
 この三つの要因を考慮した上で、日本経済における最適所得税制を求めたものとして、アトダ=タチバナキ(2001)がある。この研究の結論は、1970~80年代の所得税の累進度は、ほぼ最適に近いものであったとするものである。すなわち、効率性と公平性の兼ね合いを考慮した上で、日本の所得税制はほぼ理想に近かったのである。
 当時の最高税率は70%、最低税率は10%であり、しかも十五段階の税率が定められていたことはすでに述べた。すなわち、所得税制の累進度は相当強かったのであるが、経済学の計算上からは望ましい税制だったのである。現在は図7-1でみたようにその累進度が相当弱められているが、これは最適な税制から離脱したものである、との解釈が可能である。言い換えれば、日本の最適所得税制を求めるのであれば所得税の累進度を強めることが要請されているのである。(p.188-189)



私も以前から所得税の累進度を高めろと主張してきたが、同意見である。また、財政赤字が膨大に膨れ上がった原因の一つは、所得税と法人税の最高税率(累進性)を下げたことにあるとさえいる。

統計的にも日本の税負担がやたらと低いことは、税について高い関心を持っている人にとっては常識である。橘木氏らも統計を分析した後の結論として、次のように言っている。

日本の高額所得者への実効税率は、消費税負担まで考慮すれば、先進五カ国(引用者注;米英独仏日)の中では低位のグループに入ると結論づけられる。つまり、日本の高額所得者への課税の程度は、国際比較からは低い水準にあるといえる。(p.194)



しばしば、税に関する議論では、高額所得者に課税を強化すれば、国外に逃げられてしまうなどという屁理屈が聞かれる。しかし、それならばドイツやフランスやイギリスから高額所得者が日本に逃げてきてもおかしくないはずである。増税に対しては屁理屈が多く言われ、それによって誤った世論形成がされるのである。

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橘木俊詔、森剛志 『日本のお金持ち研究』(その1)

 戦後の日本経営を物語るには、この経営者企業が中心となったことを強調する必要がある。新入社員として企業に採用されてから、企業内部で社員間の強烈な競争に打ち勝ち、内部昇進を重ねることによって、取締役、そして最後に社長にまで登りつめて経営者になる世界なのである。(p.75)



戦後の日本の経営の特徴として、株主の力が弱く、経営者の力が相対的に強いという性質があった。その経営者たちはかつて労働者として企業のなかですごしてきた者が多く、内情をよく知悉していた。これらが労働者に対するセーフティネットを企業が提供できた重要な要因となっていた。

これに対して、戦前の財閥では、株主は大株主としての財閥の家系のものであり、株主の力が強かった。近年では株主の力は相対的に強まってきたが、小口の株主の数が多くいる点で戦前の状況とは異なっている。

しかし、株主の力が強まり、経営者も外部から連れてこられることが多くなると、企業の経営はより短期的な成果を求めるようになると同時に、労働者の立場はより守られなくなってくる。ミクロにはこのような状態であってもなんとかなる企業も多いだろうが、マクロで見ると労働者の権利や立場の弱体化は、消費の低迷という形で企業の売り上げに歯止めをかけることになる。

マクロな経済構造を考える際の、ミクロな構成要素の変化として、この箇所の記述はそれなりに重要である。




高額所得者の名簿は公表されてきたが、1984年に公表方式が変更された。それ以前は所得額そのものが氏名、職業とともに公表されたが、84年以降は納税額が氏名、職業とともに公表されるようになった。・・・(中略)・・・
 当時の新聞記事を読むと、今までは国会議員の多くが高額所得者としてリストアップされていたが、84年には高額納税者リストから九割の議員が名前を消したと報告されている。この公表方式の変更は、自民党議員の主導で決められたと、新聞(1984年5月2日付朝日新聞)で報告されている。すなわち、政治献金等がどのように処理されているかが不明朗なので、政治家の支払う納税額がかなり低くなった可能性がある。現代においても、高額納税者100人のリストに国会議員の名はほとんどないので、不明朗さが残っている。(p.120)



高額納税者は2006年からは公表自体されなくなった。この流れは極めて
興味深いものがある。

以下の点が重要。

◆政治家は相当多くの所得を得ている。

◆政治家は納税額になると相対的に低くなる。

◆自民党の議員が納税額に公開の基準を変えさせた。

これが新保守主義が徐々に台頭しつつある時期に行われたことは、極めて示唆的であり、2006年に公開自体がされなくなったことは、それと同じ意味をもつと見ることができる。




 アメリカではすでに、所得が多い人ほど貯蓄率は高いという実証結果がいくつも出ている。所得が多くなると貯蓄率が高くなるのは、定式化された事実なのである。(p.129)



実証研究の裏づけがあるという事実は重要。




 これはアメリカのみならず、ヨーロッパ諸国でも同様であり、保守政権のときと社民党政権のときとで、税率構造が異なることが多い。・・・(中略)・・・
 では、日本はどのように評価できるであろうか。政治状況といえば、戦後の日本はごく一時期を除いて、保守政権が政治を担当してきた。したがって、経済自由主義や効率性の重視を基本としていたし、橘木(2000、2002)の主張するように、非福祉国家の典型であった。
 ただし、強調すべきことは、保守政権であったにもかかわらず、最高税率は戦後の長い間70~80%と高かったことである。これが社会主義政権、あるいは社民党政権であれば、別に不思議な税率ではなかったかもしれないが、保守政権においても税率が高かったことが興味深い。
 アメリカをはじめ、多くの資本主義国において、戦後から1970年代あたりまで最高税率は60~80%の高さであったし、所得税の累進度も高かった。これは政権がどの党によって担当されていたかということと無関係だったので、時代の背景として、どの国も強い累進税制を持っていたということである。高額所得者から相当多額の税を徴収することに、世界的にコンセンサスがあったといえる。(p.172-173)



70年代まで税率が高かったことは、金融のグローバル化によってある程度説明できるだろう。それによってもともと備わっていた「成長」という要素に加えて「優先的選択」の要素が大きな意味をもってきたので、世界的な経済的ネットワークの構造はスケールフリー性を増したと私は見ている。

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片桐薫 編 『グラムシ・セレクション』

 実際、ユートピアは、歴史を自由の発展と考えることができず、未来を既成の型にはまった固定したものと考え、予め定められた計画を信じることである。(p.21)



「美しい国」というレトリックも、ある意味ではユートピア論の系譜に連なるところがあるかもしれない。例えば、宗教が社会改革の理論を提示するときのパターンと同じである。

より具体化した事例では、イスラーム原理主義と呼ばれる政治思想と「美しい国レトリック」は論理的な構造はほぼ同じであるように思われる。「分かるような分からないような曖昧な理想像」を唱えながら、そこに至る具体的な道筋は描かないままに、「教祖」の言行に従えば、そのユートピアを実現できるとする。




 カエサル主義[古代ローマの共和制のもとで人民主義に立脚した軍事皇帝制]とは、相い闘う勢力が破局的な仕方でたがいに均衡を保っている状態、すなわち闘争の継続が共倒れに終わるほかないような仕方で、たがいに均衡を保っている状態を表す。進歩的勢力Aが退歩的勢力Bと闘うとき……、AもBも勝たずに共倒れし、第三の勢力Cが外部から介入して、AとBとの残存勢力を従えるということも起こりうる。古代世界で蛮族の侵入によって起きたようなことが、ルネッサンス期のロレンツォ・イル・マニーフィコの没後、イタリアでは実際に起きた。……
 カエサル主義には、進歩的形態と退歩的形態がありうる。そしてそれぞれのカエサル主義の形態の厳密な意味は、社会学的図式ではなく、究極的には具体的な歴史によって再構成されうる。カエサル主義は、その介入が進歩的勢力の勝利を助けるならば、ある種の妥協や限定的性格をともなっていても、進歩的だといえる。また、その介入が退歩的勢力を助けるならば、退歩的である……。カエサルとナポレオン一世は進歩的カエサル主義の例であり、ナポレオン三世とビスマルクは退歩的カエサル主義の例である。重要なのは、「革命-復古」の弁証法のなかで、支配的なのは革命的な要素か、それとも退歩的な要素かを見ることである。なぜなら、歴史の運動においては、逆行はありえず、「全面的な」復古もありえないからだ。そのうえカエサル主義は、論争的-イデオロギー的定式であって、歴史的解釈の基準ではない。一人の偉大なカエサル「英雄的」代表的人物がいなくても、カエサル主義的解決はありうる。議会制度そのものも、そうした妥協的解決のためのメカニズムを提供してきた。(p.74-75)



進歩的か退歩的かは「具体的な歴史によって再構成されうる」というのは、ある時点の歴史的状況から見て、その時点が「革命」によって到達されたような変動局面にある場合は、そこに至る原因となった要素を進歩的と見なす、といった相対的な認識のことを指すものと思われる。

そうした相対主義をとりながらも、グラムシはカエサル主義には進歩的なものと退歩的なものがあるとする。Wertfreiheitが要請するような自らの立脚点の自覚化がされていないと、誤りを犯す可能性が高い区分ではあるが、それなりの有効性も持っているように思われる。

この件で書かれているこう着状態は、現在の日本の政治状況を想像させる。自民党と民主党が対抗する中で、政界再編も囁かれている状況には、どこか重なるものがある。その場合、現在の日本の政治状況は、退歩的カエサル主義になっていると見ることができるのではなかろうか?




 多くの囚人は刑務所の図書室を馬鹿にしています。たしかに、一般に刑務所図書室の蔵書にはまとまりがありません。出版社の売れ残り本を引き受けた慈善団体からの寄贈本とか、出所者が置いていった本など、偶然に集まったものばかりで、抹香くさい本や三流の小説でいっぱいです。しかし、政治囚はカブラからでも血を採り出さなければならないと私は思います。肝心なのは、自分の読書に目的をあたえることです。……すなわち、「なぜ、こういう文学がもっとも多く読まれ、多く印刷されるのだろうか。これらはどんな要求を満たしているのだろうか。こんな低俗な本がこれほど多く読まれるのは、どんな感情や考え方がそのなかに表現されているのだろうか」といった観点です。……どんな本でも、とくに歴史の本なら、読んで無駄ということはありません。どんなつまらない本のなかにも、なにか役に立つものを見つけることができるものです。(1929年4月22日――タチャーナへの手紙)(p.220-221)



グラムシが述べている方法は、社会史や科学史また人類学などの方法論を想起させる。それはそれとして、ここで本に対して言われていることは、現代ならばウェブ上のコンテンツなどについても言いうるだろう。また、ブログで言えばエントリーだけでなくコメント欄などにも適用できるものである。




国家があまり人気のない行動にとりかかるときは、あらかじめ適当な世論をつくり出す。つまり、市民社会のある要素を組織し集中する。(p.281)



憲法改正などは完全にこのパターンで行われようとしている。稚拙なリーダーが出てきたために、ようやく、少なからぬ人々がそれに気づきはじめている、というのが現在の状況であろう。




 子供たちの教育方針について、適切な判断を下せるのは、子供たちと身近に接していて、その成長の全過程を見守っていける人だけです。(p.308)



「教育再生会議」のような井戸端会議並みの集団に教育を議論させるのはこの原則に完全に反する。彼らは子供たちと接してもいなければ、成長の全過程を見守るなどありえない人たちばかりだ。それで良い教育方針などできるわけがない。

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芦原伸 文、大村次郷 写真 『風街道 シルクロードをゆく 古代中国の都・洛陽から、東西文化の十字路・カシュガルへ』
ウルムチについての記述。

 ここでは右側が漢人の店、左側がウイグル人の店と、通りを挟んでまっぷたつに分かれている
 民族紛争というよりも、豚肉境界線というところだ。ウイグル人などの少数民族は回教徒が多く、豚はタブーである。豚肉はスープも加工物もご法度である。食堂などで「清真」と書かれた看板があれば、イスラム料理店ということが分かるが、屋台の場合は看板がないので判別できない。それで互いに道を隔てることにより、区別しているのだ。これも異民族同士が仲良く共存しようとする暮らしの知恵かもしれない。(p.94)



街のあり方に、生活の知恵が現われている一例。異民族という言い方よりは慣習を異にするする人たちという方が良いだろう。

私にもムスリムの友人は少しいるが、豚肉をなぜ食べないのかは直接聞いたことがなかった。(もちろん、イスラームの教えだという答えは予想するが、なぜそのように教えていると思うか等々)近々聞いてみよう。

ちなみに、この豚肉禁忌の起源はコーランよりも旧約聖書にあり、それは当時のパレスチナの衛生学的な配慮を汲んだ食習慣の反映に過ぎないというのが私の考えである。

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高橋哲哉 『思考のフロンティア 歴史/修正主義』(その2)

 まず、物語り行為とは「歴史家から読者に向かっての<記憶せよ!>という呼びかけ」であり、そこには「<記憶の世代的継承>を他者に向かって要請するという倫理的態度」が前提されている。(p.42)



歴史家による「記憶すべき事柄の選択と排除の行為」の中に、すでに「記憶せよ!」という命法が響いているのであれば、「倫理」は「最後」にではなく「最初」から、つねにすでに「語られて」いるのではないか?(p.49)



歴史に限らず、一般に「物語り行為」の前提には、<記憶せよ!>という要請があることは確かだろう。

このことは、「観察の理論負荷性」とも関連はするが、同じではない。factが成立するとき、それは理論負荷されなければ成立しない、つまり、意味をもたないわけだが、それを他人に伝える際には、さらに別種のフィルタリングが行われるということであろう。別の意味もありうるし、さらに深く掘り下げてみたいテーマではある。




 第一に、「事後的」判断を「後知恵」として斥けるならば、いかなる「再審」も不可能になる。あらゆる「再審」は「事後的」であり、そもそも、あらゆる「審判」は「事後的」である。ニュルンベルク裁判や東京裁判、戦後半世紀を越えてなお行われるナチ戦犯裁判を持ち出すまでもなく、通常のあらゆる裁判も「事後的」である。出来事に対する評価としての「判断」は、どんな場合にも、出来事に対する時間的遅れ――たとえそれがわずかな遅れであっても――を前提とする。歴史における「審判」が「事後的」であるのは、「審判」の本質構造に属しており、「事後的」であることはむしろ「審判」の歴史性を示しているのであって、「絶対」性や「超越」性に結びつくものではない。現在から歴史を「裁き直す」ことこそ、歴史の「再審」であろう。元「慰安婦」の告発も、歴史への「再審」請求としては、明らかに「事後的」である。(p.92)



判断=審判(judgement)が常に事後的なものであるという指摘は正しい。それはあらゆる「観察行為」が事後的であることと関係している。観察がなければ判断もない。観察は知覚(ポイエーシスと同時になされる)とは異なっている。




 ここで重要なのは、俗流ニーチェ主義の誘惑に負けて、「裁き」と「復讐」とを混同しないことである。「裁き」は原理的に「復讐」とは異なる。暴力の被害者がルサンチマンや怒りの感情を抱くことは理解できる。しかし、被害者感情から報復行為に及ぶことと、法に基づく「裁き」を求めることとは違う。報復はさらなる報復を呼び、対抗暴力はさらなる対抗暴力を引き起こし、際限がない。ホロコーストのユダヤ人サバイバー、アバ・コヴネルは、600万犠牲者の復讐のため、ドイツ諸都市の水道に毒を流し、600万ドイツ市民を殺害しようと夢想した。本当に復讐しようと望むなら、法的「処罰」とは別の手段がめざされるだろう。「責任者処罰」は、第一に、法という第三者の審級に訴える点で、被害者の恣意による報復とは区別される。第二に、ハンナ・アーレントが説くように、「処罰」は、もしそれがなければ際限なく続くだろう暴力の応酬過程に介入し、そのプロセスを断ち切る点で、復讐よりもむしろ「赦し」に似ている(志水速雄訳『人間の条件』ちくま学芸文庫,1994年,377頁)。「日本軍性奴隷」のサバイバーが求めているのは、法的正義に従った「裁き」であり、責任者の「処罰」であって、恣意的な「復讐」の実現ではない。復讐裁判との疑念を払拭するためには、「死刑」を排除することも重要である。この点で、かつて日中戦争の日本人戦犯を裁いた「中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷」(1956年)は、見事な先例を示している。ちなみに、ヨーロッパ・国連の戦犯法廷ではすでに死刑は廃されており、「人道に対する罪」でも最高刑は終身刑にとどまる。(p.98-99)



「裁き」と「復讐」の区別もまた重要なものである。

近年の日本では特にそういえる。裁判員制度が導入されたり、被害者の関係者が裁判に関わるようになると、第三者的な「裁き」から恣意と怨恨に基づく「復讐」へと裁判の性格が変わっていくことを助長するように思われる。

裁判員制度は第三者に見えるかも知れないが、当局による思想的選別などが可能な人々であり、与えられる情報の客観的な処理の仕方を踏まえた専門家とは異なり、一層、情緒的な好き嫌い、印象にたよった判決になる可能性が高く、その意味で恣意的な傾向が増大する可能性が高い。この問題についてはまだ調べていないので、見解は大いに変わりうるが、今のところはこのように見ている。




 第一に、法の歴史的起源とその理念の射程を混同してはならない。国際人道法がヨーロッパ出自であり、「人道に対する罪」や「人権」、「人間の尊厳」等の理念の故地がヨーロッパであったとしても、だからといって、それらが永遠に<ヨーロッパのもの>であり続けるわけではない。(p.104)



なるほど。ユーロセントリズムを批判する時などには一応、念頭においておくべき考え方である。




第三に、ヒロシマ・ナガサキの被爆者の出身国は20を超えており、被爆の記憶を「日本=唯一の被爆国」というナショナル・メモリーに「国民化」することはできないということ。とりわけ、強制連行により連れてこられた人々を含め、広島・長崎合わせて数万の朝鮮民族の被爆者がいたこと、彼らの存在が戦後ほとんど忘れられてきたことは、ヒロシマ・ナガサキの「被害者意識」を「脱国民化」するために、必ず想起されるべきことである。(p.107)



なるほど。日本ではこのことはほとんど語られることがない。これこそ「記憶せよ!」というべきことだろう。

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高橋哲哉 『思考のフロンティア 歴史/修正主義』(その1)

 侵略や戦争犯罪の「罪」を負う人が「歴史修正主義者」になるのは、自分の「罪」から逃れたいだめだろう。だが、侵略や戦争犯罪に参加したことのない戦後世代の人が「歴史修正主義者」になるとき、彼らは、「本質主義的」(「実体論的」)国民観、民族観に立つあまり、直接の戦争責任あるいは「罪」と「戦後責任」とを混同していることが多い。彼らは「ドイツ人」や「日本人」の同一性あるいは連続性をあまりに強固に考えているので、直接の責任あるいは「罪」を負った先行世代から適切に距離をとることができず、先行世代の「罪」と自らの「戦後責任」とを区別することができない。ドイツ「第三帝国」や大日本帝国から距離をとることができず、あまりに強く自分をそれらの国家に「同一化(アイデンティファイ)」しているので、それらの国家の犯罪がただちに自分の犯罪であり、「子々孫々」にまでわたる「ドイツ人」や「日本人」の犯罪であると思ってしまう。この前提に立つかぎり、自分が無罪であると言えるためには、「第三帝国」や大日本帝国が無罪であったのでなければならなくなるだろう。
 彼らが知らないのは、自分の所属する国家がかつて犯した過ちを批判し、国家に「戦後責任」を取らせることによって自らの「戦後責任」を果たすことが、かつての国家の過ちと自分との連続性を断つゆえんだ、ということである。(p.12)



私もほぼ同じ意見である。

私から高橋氏の叙述に対しては上述のことを言う際に「国家」という用語を使わないで書くべきだ、という批判がある。(つまり、一言で言えば、「国家」が罪を犯したり、「国家」が責任を取るというよりは、政府が個人を動員して罪を犯させ、政府が責任を取るという方が意味が明確になるはずであり、「国家」という言葉を用いることによって生じるであろう無意味な混同を避けることができる。)

逆に、高橋氏の叙述から学べることは、「戦後責任」という概念を使うことでこの整理がやりやすくなる、ということであった。

ネトウヨや国粋主義的な研究者やジャーナリスト、政治家の言説は、概ね高橋が指摘する混同があると見て良いだろう。彼らに対してはまず次のように聞いてみるところから議論を始めると良いかもしれない。

ある「ニホンザル」が、ある「日本人」を殺したとする、その場合、すべての「ニホンザル」は罪や責任を負うのか?

集合的なカテゴリーと個々の主体との区別を行わせることができ、さらに謝罪や補償を行う場合の「罪」や「責任」が、政治的・法的なものであることをこれらを糸口として明らかにしてやればいい。まぁ、この程度の区別もつかぬアホと議論する気はないが、場合によっては闘争が必要なこともあろう。「ニホンザル」を使うアイディアは、それなりに使い勝手が良さそうなのでメモしておく。




 戦後世代の日本国民は、侵略戦争に参加していないので直接の戦争責任「罪」は負わないが、戦後日本国家に「戦後責任」を果たさせる政治的責任を――「戦後責任」として――負っている。国家の政治的主権者としてのこの責任は、法的に「国民」であるすべての人が原則として平等に負うものである。法的に「国民」であるかぎり、この責任から逃れることはできない。(p.13)



直接手を下した個人にのみ関わる戦争責任や罪直接には政府が果たすべき戦後責任との区別が語られている。そして、政府がそれを果たすようにする義務を主権者たる「国民」は負うわけだ。

主権という権利に対応する義務として、主権者は政府に戦後責任を果たさせなければならない、という構造がここでは明確になっている。




 もっとも、「ナショナリティ」が「善きもの」として現われる局面がまったくないとは言えないだろう。たとえば、追放され国籍を失って難民となった人が、「諸権利をもつ権利」(ハンナ・アーレント)としての「ナショナリティ」を希求する場合のように。安定した「ナショナリティ」をもつ者が、「ナショナリティ」なき自己を空想することはたやすいが、「ナショナリティ」なき自己を現実に生きることは難しい。けれども、「ナショナリティ」は、まさにそれをもつ者のみに「諸権利」を付与する排他的な特権である。「国民」とその他者、「国民」と非「国民」を区別=差別し、「われわれ国民」と「彼ら外国人」とを分割=分断する原理である。その起源には、「国家創設の暴力」(デリダ)としての「法措定暴力」(ベンヤミン)があり、その存続のために「法維持的暴力」(ベンヤミン)を必要とする。「ナショナリティ」はそれが「善きもの」として現われる場合でさえ、この構造的な「暴力」性を免れることはできない。(p.25-26)



「安定した「ナショナリティ」をもつ者が、「ナショナリティ」なき自己を空想することはたやすいが、「ナショナリティ」なき自己を現実に生きることは難しい」というくだりは、ポストコロニアリズムの初心者には釘を刺すべき点であろう。多少なりとも頭が切れる人間なら、あの思想を身につけることは容易なことだが、彼らの卓越した知性にも関わらず、そのパラダイムでは、いうなれば「真実の半面以上は見ることができない」ことには簡単に気づかない人が多いからである。

オートポイエーシスの立場から言えば、それは「観察者」が構成する理論でしかなく、システムの作動を捉え損ねているのである。すなわち、そこでは現実は、作動から半歩以上遅れて見られている。

大部分の人には意味のない記述になってしまったが、自分のための読書メモというのがこのブログの主な趣旨なので、これもそのまま残しておくことにしよう。




過去の歴史に「恥」や「罪責」の「感情」をもつこと自体が問題なのではない。それらの「感情」が、「戦後責任」の具体的実践につながることこそ肝要なのだ、と。(p.32)



その通りであろう。私の場合、旧日本軍が犯した罪に対して「恥」も「罪責」の感情も感じないが、それでも責任はあると感じる。問題はどのような感情を持つかではなく、何を言い、何をするかということであろう。

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パトリック・ベード 『岩波 世界の巨匠 ルノワール』

敗戦の屈辱とパリ・コミューンの恐怖のあとだけに、一般大衆や芸術の体制は新しいものすべてに対して過度に疑い深かった。19世紀のフランスでは、事実上あらゆる芸術が政治的な関連から判断された。・・・(中略)・・・
 この風潮のなかで印象派たちは、普仏戦争の前よりもさらに作品を展示し売ることが難しくなったと感じた。・・・(中略)・・・
 印象派たちは仲間のあいだで議論や意思確認を繰り返したのち、芸術の体制に挑戦すべく、自分たちのグループ展を開くという背水の陣を敷くことを決めた。これは重大な決定だった。1874年に開かれたこの展覧会は初めての前衛によるグループ展であり、後世から見るとサロン、そしてヨーロッパ中の類似の公的な芸術組織にとって、終焉の始まりを意味していたのである。(p.18)



印象派の画家たちについて書かれたものを読むと、決まって彼らの作品が特に初期の頃、批評家たちによって大いに非難されたとされる。その背景にはこうした事情もあったのかもしれない。それへの対抗措置として印象派展などの動きに繋がっていったというのは、なかなか示唆に富む。

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黒田美代子 『商人たちの共和国 世界最古のスーク、アレッポ』(その3)

正に百花繚乱といった状態であるが、この種の雑多な要素を容認し、存続させていること自体に、イスラーム文化の特殊性が認められるであろう。差異的なものを差別することなく共存させる人々の生きざまを、典型的に表現している例が、彼らの服装の多彩さである。流行などにはさほどこだわらずに、人々は各自の文化的背景、郷土色を強くにじませた衣服をまとって闊歩し、同時に他人のことを気にしたりもしない。要するに一見しただけで、およそどのような出身ということがすぐに解るような服装をして、簡単に流行に迎合したりしないのである。(p.148-149)



「イスラーム文化」は寛容であるとよく言われる。ここで引用した文章もその一例である。この言説は事柄の半分しか表現していないというのが、私の考えだが、その点は今は措く。

ただ、衣服をメルクマールにして、寛容さを説明している(認識根拠だとしている)ところは、なかなか興味深いやり方である。




差異には、差異性を強調するアスペクトと、協調をもたらすアスペクトの二つがある。彼によれば商売は、この後者に属するという。(p.152)



ここで指摘されている2つのアスペクトの発言の条件を明確化したら面白いかもしれない。

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