アヴェスターにはこう書いている?
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フェルナン・ブローデル 『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀』(その3)
『第二巻 交換のはたらき』(邦訳第一分冊)より

 エティエンヌ・バラーシュは、このような大型の市や例外的な規模の大市は、とくに中国が異王朝の間に分割されている時期に出現すると考えていた。それぞれの領土は、必然的にたがいに対して開かれねばならないので、大市と大型の市が、中世ヨーロッパにおいておそらく似たような理由でそうしたように、多数出現する。しかし、中国がふたたび政治的統一を形成し、そしてその官僚機構と市の有効な階層制(ヒエラルヒー)が復活すると、大市は領土では消滅するのである。それはただ外国との国境においてのみ保持される。・・・(中略)・・・。最後に挙げれば、十八世紀に広東はヨーロッパ人との通商に対応するために二つの大市を持っていた。多かれ少なかれ国際商業に開かれた他の大きな海港(寧波・厦門)同様、広東は、当時、年に一度ないし数度の商業の「季節」を迎えるのであった。それはイスラム世界やインドにおいてのように自由な大邂逅の場ではなかった。大市は、中国では限られた現象にとどまり、いくつかの特定の取引とりわけ外国通商にのみ向けられていた。(p.150-151)



中国における大市の位置づけ。




 実際、この語(引用者注;資本主義という語)が社会主義の自明の反義語として、政治的議論のなかから激しい勢いで浮かび上がって来るのは、やっと今世紀初頭のことなのである。この語は、W.ゾンバルトの大反響を呼んだ名著『近代資本主義』Der moderne Kapitalismus(初版1902年)によって学会に登場させられた。マルクスによって用いられたことのないこの語は、まるで当然のようにマルクス主義の図式のなかに組み入れられ、『資本論』の著者が区分した三つの大きな発展段階を一般に奴隷制・封建制・資本主義と呼ぶところまで行くのである。
 したがって、これは一つの政治的な単語である。この語の運命の多義的な側面は、たぶんそこから来ている。(p.296-297)



今ではすでに死語になりつつある「資本主義」という語であるが、それがこのように短命であることも、それが「政治的な単語」なるがゆえであろう。

しかし、政治的な単語であるが故に、再び用いることもできないことはないだろう。ブローデルによる市場と資本主義の対立的図式は、市場を純粋に経済的な抽象概念として残した上で、政治や社会的な要素を特に力関係の形で経済の分析に導入するものであり、現在の社会のあり方を分析する上でも有効である。

おおよそ、近年の日本で競争することや規制緩和が推奨されるとき、それはブローデルの「市場」を想像させる。しかし、それが実現されるものはブローデルのいう「資本主義」の純粋型に近いものになる。その意味で、近年のネオリベラリズムは市場原理主義と言われるが、ブローデル的な意味では「反・市場」のイデオロギーであり、「資本主義」のイデオロギーである。

ネオリベが資本主義だというのは、自然に聞こえるが、それが「反・市場」であると言えば、違和感を感じる人が多いに違いない。それを的確に示しているところがブローデルの分析の優れたところであると言える。

ネオリベのイデオロギーは、「公平で公正で透明な市場」という幻想を振りまきながら、「特権階層による支配」を徹底するのである。特に後者の点においてネオコンとネオリベは一致する。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

田岡俊次 『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(その7)

 米国は、日本に対しては中国への警戒を訴えて自国に引き付けつつ、中国に対しては日本を材料として親密になろうとする魂胆すら見える。中国の巨大市場を巡っては日米は競争関係にあるから、日中の対立は米国に有利だが、同時に米国は中国、日本双方と良好な経済関係を保つ必要がある。安全保障面でも日中が親密化することは防ぎたいが、日中が完全に対立してどちらかを選ばざるをえなくなっても困る――と考えるのは当然だ。米国では日中離間策を公然と論じる人もいれば、それはかえって損との反論も出る。秘かにささやき合うのではなく、日本人も読める雑誌などにそれが載るのがアメリカのおかしなところだ。
 日本の外務省が毎年行っているアメリカ人の対日意識の世論調査では、06年には「アメリカにとりアジア地域で最も重要なパートナーは」との問いに「日本」と答えたのは、一般市民で45%、有識者で47%、「中国」と答えた人は一般市民で33%、有識者で43%だったが、政財官、メディア、学界など有識者の間では「中国」と言う人が急増しつつある。02年には「日本」が72%、「中国」が20%と大差があったが、年々「日本」と答える人が減る一方で「中国」が増加しており、まもなく逆転されそうな気配だ。中国と同様に米国でも、指導層はすでにイデオロギー的世界観から脱却していることを示す一つの例で、日本人だけが冷戦時代の既成観念にとらわれているのはまったく愚かと考えざるをえない。(p.252-253)



前段のようなアメリカによる巧妙な「日中に対する分割統治」に対して、日本の右派はどう対応するつもりなのか是非伺いたいところである。

また、嫌中派とでも言うべき人々もネット上ではよく見かけるが、「アメリカにおけるこうした意識の変化に対してどうやって対処すべきかまともに考えたことがあるのだろうか?」と問いたくなる。

今のまま日米中の三カ国の経済関係は相互依存的で相互補完的な関係が成り立っていると思われる。その中で現状を放置しておくと一番損をするアクターは日本である。

中国はいずれ「ものづくり」の技術が発達して高度な技術にも手が届くようになると日本の役割は縮小する。日本は中国経由でアメリカの市場でものを売っているという側面があるのだから、その部分が次第に縮小し、中国とアメリカの二国間関係が次第に強化されることになろう。

また、日本とアメリカに関しては三角合併が解禁されてアメリカ企業による乗っ取りがまもなく開始されるだろう。そうなれば日本の企業は体力(財力)を奪われることになる。ますます日本企業の世界経済におけるプレゼンスは低下するだろう。

こうした動きに対抗するには、やはり日中関係の緊密さのレベルを、差し当たりは、日米関係とまではいかずとも、最低でも米中関係の親密さのレベルまで高める必要があるというのが私見である。(例えば、相対的に弱い日中政府が米国政府に対して連携して対応すればどうなるだろうか?)そこまでいけて初めて対等の駆引きに参加できる条件の一つを獲得できるだろう。

そこまで考えずに、まず「中国嫌い」という(感情的な)結論ありきの右派の言説の馬鹿さ加減を見ると、「バカ派」という言葉を拡大解釈してそちらにも適用したくなるのである。(実際、バカ派と嫌中・嫌韓の連中、さらに言えばコアな改憲派はほとんど重なっていると見てよかろう。)

ちなみに、私の立場は日本がよくなればそれで良いというものではない。世界全体としてのパワーバランスを考え、その中で特別不幸な人々が出ないようになるのが良い、というスタンスである。根本的には国境などない方が良いと考えるが、現在確立している国際秩序はすぐには変わらないので、「あらゆる変化をソフトランディングさせる方向で推移させる」のがよいというのが、理想に準ずる「次善の策」と考える者である。ハードランディングさせるのはバカでもできる。オルタナティブな可能性を示し、発信していくことが求められる。




 その中、日米の絆を強化するためとして、自衛隊のイラク派遣が行われ、04年1月から06年7月まで陸上自衛隊約600人を派遣して約743億円を費やし、航空自衛隊のC130H輸送機3機と人員約200人はなおクウェートを拠点に多国籍軍と国連のための輸送に従事している。だが、その日米関係上の効果は一般に思われるほど大きくない。感謝は口先だけで、日本が安保理常任理事国となるのに米国は中国と組んで反対した。この一因は日本がドイツ、ブラジルと協力したためで、日本に敵意はなかったとしても、韓国のように米、英に次ぐ3300人の兵力をイラクに派遣しても米国は本当に感謝した様子はない。(p.254)



イラク派兵に航空自衛隊の分を含めれば1兆円を超える税金がつぎ込まれることになるってことだろう。このことについて政府はまともな説明をしていないように思える。こうした点を突くべきというのが私見である。つまり、もっとクローズアップされてよい問題だ。

また、日米同盟の強化などと言われるが、要するにアメリカが日本の軍隊を利用できるようにするだけのことで、「同盟の強化」というのは「隷従化」とでも言うべき内容である。そのことがきちんと報道されずに言葉だけが流される報道には違和感を感じる。




 いずれにせよ、1975年に小平がジスカール・デスタン大統領に示した目論見通り、共産主義から脱却した中国は急速に興隆しつつあり、軍事力よりも経済力と外交手腕によって日本を高層ビルの日陰の商店街に似た形にしかねない。仮にそれが人口の規模からしてもやむを得ないとしても、日本が駅前通りのシャッター街になっては困る。いかにして協力関係を保ちつつ独自性と競争力を維持し、中国に伍して行くことができるかどうかが今世紀の日本の課題だろうと考える。国際政治の要諦は、敵はできる限り中立に近づけ、中立国はなるだけ味方とすることにあり、わざわざ中国を敵に仕立てるようなことは愚の骨頂ではないかと考える。(p.268)



上で簡単に私見を述べたとおり、筆者の考えには共感できるところが多い。強大化すると分かっている隣国を敵に回すのはアホとしか言いようがない。

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田岡俊次 『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(その6)

 だが、中国が初の核実験をしたのは1964年10月で、翌65年には日本に届く「東風2号A」(射程1250キロ、20キロトン弾頭)の実験をしたから、脅威は40年以上も前からある。日本はそれを承知の上で72年に中国と国交を樹立し、76年には米、露、英、仏、中に核保有を認める核不拡散条約を批准し、78年に日中平和友好条約を結んだのだから、いまになって「脅威だ」と言い立てるのは国際政治的に得策とは思えない。中国は、免許を取って以前から銃を持っているアメリカの取引先の社長に似ていて、それを知りながら長年付き合っているのに、突然、「あいつは拳銃を持っている。脅威だ」と騒げば相手はむくれるし世間からも「変な人」と思われるだけだ。(p.240)



なかなかうまいことを言うものだ。




 米中の軍事的対立関係が薄れても、もう一つの対立要因として米国の対中貿易赤字問題がある。2006年の赤字は2325億4900万ドル(約28兆円)で、前年より15.4%も拡大し全貿易赤字の30%を占めているから、米国で問題となるのが当然だ。
 ただ、中国から米国への輸出の大部分は、米国企業の中国工場や日本、EU諸国の企業が中国で作った製品だ。本質的には「米中対立」というより、中国に工場を持つ米国大企業と、それに圧迫される米国内の中小企業との間の「米米対立」の要素が大きい。
 中国で生産する米大企業やそれを扱う流通業、消費者にとっては米国ブランドの安い中国製品が米国に入ることは望ましく、一方、中小企業の経営者と従業員にとっては死活問題だから当然米国内で利害が対立し、米国が一枚岩となって中国と対立する形にはなりようがない。(p.249-250)



米中の貿易問題は、米中対立というより「米米対立」であるという指摘は重要である。ここには、かつて(19世紀から20世紀初頭に)帝国主義や資本主義などと言われた現象の問題性が表れている。冷戦構造が崩壊したことで、世界の動き方を支配するルールは、冷戦以前のものと近いものになったと私は見ているが、そのことを示している。

それはさておき、いずれにせよ、米中がそれほど強く対立する状況は当面は考えにくいと見るべきなのは確かだろう。

なお、図式的に言っても、アメリカは前のヘゲモニー国家であり、中国は次のヘゲモニー国家であるとすれば、これらの勢力はイギリスからアメリカへの覇権の移転の際と同様に繋がりを持ちながら継承されていくと考えるほうが自然である。

その際、日本の立場は不安定になっていくと考えるべきであり――当面は現状維持的であっても日本の利益にはなるだろうが――政治・外交において硬直的な姿勢を取り続け、ナショナリズムに陥ることは(感情的な排外主義を生み出すため)、自らの選択肢を狭めることであり、不利なコンジョンクチュールへの対応が困難になることを意味する。

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田岡俊次 『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(その5)
中国の軍事費は公表額の2~3倍と言われることがある。本書が指摘するように、これはアメリカが仮想的をでっち上げるために言っているだけであろう。次はそのことに関連する部分。

 だが、これに似たことはほかの国でもよくある。アメリカの沿岸警備隊やヨーロッパ大陸諸国の国境警備隊など、「準軍隊」の経費が国防省予算に入っていない例は多い。日本の海上保安庁は、自衛隊法80条で有事の際には防衛大臣の指揮下に入ることになっているが経費は国土交通省の予算だし、情報収集衛星の打ち上げや管理費は内閣官房の予算に入れている。また旧軍人の恩給は厚生労働省、退職自衛官の年金は国家公務員共済組合の担当だが、他国では国防省の人件費に退役軍人の年金が入っている場合が多い。(p.146)






 外交について「共通の価値観」を唱えるのが近年の流行だが、ポル・ポト派とアメリカ、中国の三者にどんな共通の「価値観」があったのか誰も答えられまい。この時期、米、中はソ連を共通の仮想的とし、ソ連に抱き込まれるかに見えたベトナムを敵視し、ベトナムの敵であるポル・ポトを支援したのであり、「敵の敵は味方」という国際政治の原則通りに行動した。国際政治、国家戦略の目的は一国の安全と経済上の利益であり、「価値観」とか「イデオロギー」「感謝」といった抽象的な単語は意味が乏しいことを示す一例だ。(p.168)



本書は「脱イデオロギー外交」の必要性を主張しているが、同感である。特に安倍政権になってから度を越えてイデオロギー的な言説が公共の言論空間で垂れ流されているのは危険な兆候であると言わねばならない。

それは、複雑な利害関係を的確に見据えて客観的に判断を下さなければならない状況で、自ら目隠ししているのと同じである。




 空軍は維持費が高く、日本では戦闘機の飛行訓練1時間をするのに約200万円(部品、燃料など)がかかる。パイロット一人に年間150時間の訓練をさせるだけで約3億円、1機の戦闘機を維持するには日本では年4~5億円が必要となる。中国が戦闘機1000機の水準を保つには、戦闘機を20年使うとして年平均50機の調達が必要だし、偵察機、早期警戒機、輸送機、練習機、救難ヘリコプターなども不可欠だ。航空自衛隊は戦闘機370機を主体とし、2006年度で1兆1086億円を使っている。中国の人件費、物価が安くても、航空機や部品はそう安くはなりえない。中国空軍が第1線戦闘機1000機の水準を保ち得るか否かについては、疑問の余地は大きい。
 日本では、「中国軍は数は減っているが質は向上している。戦力は数かける質、だから戦力は向上している」と言う人が少なくない。これ自体は間違ってはいないが、軍事力は相対的なものであり、近代化は他国の軍隊にもおおむね共通する要素であることを忘れてはならない。近代化の速度が同じであれば、数が減っただけ相対的に弱くなる。
 仮に1941年の日本連合艦隊と今日の自衛隊が戦うことを想像すれば、今日の方が強い。哨戒機P3Cでも零式戦闘機よりはるかに高速だし、射程120キロの空対艦ミサイル「ハープーン」を持つから、簡単に帝国海軍の空母を処理し、戦艦も潜水艦の誘導魚雷で沈めるだろう。だが、このような非現実的なことを考えても役に立たない。それと同様に、「かつての5000機の中国空軍より今日の中国空軍の方が強くなった」という論は無意味なのだ。客観的に考えれば、日本を含めどの国の空軍も機種改変はするもので、中国に対してのみそれを「軍事力拡大」と非難するのは、航空機が定期的に更新を必要とすることを知る者にとっては、「武装解除を要求しているのか」と苦笑を誘われる。(p.183-184)



まず戦闘機の維持費の高さに少しばかり驚こう。そして、それに年1兆円以上かけているという事実にも。

中国の軍事力拡大への脅威が語られるが、その議論の多くは不自然に膨らまされたものである。その一例が後段で述べられていることである。




 日本では、台湾が独立を宣言したため中国が武力行使に踏み切り、これに対して米国が台湾を支援して介入し、日本は米軍支援を求められるから憲法を改正して「集団的自衛権行使」を可能とすることが必要だ――とする議論が行われている。しかし現実には、台湾が独立を宣言する公算は極めて小さいと考えられる。・・・(中略)・・・。政治、経済、軍事、外交などの面から見ても独立は困難であり、そもそも台湾、中国、米国、日本の関係4者が揃って「現状維持」で利害も意見もほぼ一致しているのに戦争になるとすれば、古今東西の戦史に例を見ない珍事態だ。07年1月11日にネグロポンテ国家情報長官が米上院情報特別委員会に提出した世界の脅威に関する年次報告も、「中台衝突の可能性は低下した」とし、むしろ北朝鮮の核開発によって北東アジアでほかに核武装の動きが出ることに警戒を示している。「ほか」というのは、主に日本のことだ。
 また、日本が「集団的自衛権で台湾を助ける」というのも論理性を欠く説だ。日本もアメリカも台湾を国家として承認していないのだから、万が一中台の武力紛争が起きても、それは内戦にすぎず、内戦への介入が日、米いずれにとっても自衛権行使に当たらないことは言うまでもない。仮に憲法を改正して集団的自衛権行使を認めるとしても、日米安保条約が「日本国の施政の下にある領域における」武力攻撃に共同対処することを定めているのと同様、「アメリカ合衆国の施政の下にある領域」であるグアム、ハワイや米本土が攻撃された際に日本が米国と共同行動をとるなら集団的自衛だが、内乱に介入している他国の軍隊を援助するような行為が集団的自衛であるはずがない。また、「集団的自衛権行使は違憲」との憲法解釈は「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(9条1項)に由来する。「日本が攻撃された場合に自衛行動をとるのは、国際紛争解決の手段ではないから、自衛のための武力行使は許される」という論理で、自衛隊の存在は合憲であるとしてきた。憲法とほぼ同じ文言は対日平和条約第5条aのⅡにもあるから、憲法を改正しても他国の領土保全を妨げる武力行使はサンフランシスコ講和条約違反となる。(p.236-238)



台湾問題を口実にして集団的自衛権や憲法改正を論じるのは論理的でないということ。

また、「集団的自衛権を持つが行使できない」という憲法解釈の根拠が9条1項であることにも注目する必要があるだろう。2項ではなく1項は、ほとんど誰も異議を唱えていない条項だから。

そして、軍事的な問題を考えるときには、国内法だけでなく国際法にも目を向けなければならないということも、この引用文は教えてくれる。内向きになった今の日本の世論にそれを期待するのは困難が伴うが、必要なことではあるだろう。

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田岡俊次 『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(その4)

 案の定、「お茶」だけでは済まず、2003年には弾道ミサイル防衛の導入に進み、05年には能力向上型(SM3ブロック2)の日米共同開発も決まった。共同技術研究に使った経費は156億円だったが、装備化の経費は04年度は1068億円、05年度は1198億円、06年度は1399億円と補正予算が142億円、07年度予算案は1826億円で、前年当初予算比30.5%の伸びだ。07年度までで計5790億円だ。このほか追加建造中のイージス艦2隻の建造費約3000億円(1番艦「あたご」は1496億円)も実質上はミサイル防衛経費だ。ミサイル防衛は「配備を進めながら開発をしていく」方針だから、次々に新型のミサイル、通信装備などの更新、追加が必要で、今後長期間にわたって07年度と同レベルの負担を迫られることになりそうだ。(p.98-99)



ミサイル防衛がいかに「金食い虫」であるかがよくわかる。経費ばかりかかる割に効果はほとんどないし、ミサイルを配備してもほとんどは――何事もなければ一つも!――使うことなく廃棄されるんだろうから、まさに無駄。

ここ4年ほどで1兆円も使ったことになるわけだが、今後も毎年2000億円近くかかりそうな見通しってわけだ。しかも、新型兵器が開発されるとそれだけ値段も高くなるのは軍事の常識ってもんだろう。それを考えると年2000億では済まなくなっていくだろう

北朝鮮も中国も現時点では脅威といえる戦力はないのだから、まずは国内の財政再建を優先し、「無駄な支出」をやめることを優先すべきだろう。

私は歳出削減論者ではなく、増税論者だが、だからこそ金食い虫である軍事費(防衛関係費)ごときに金をつぎ込むことには納得がいかないと思っている。




 これは純粋な法律論としては正しいだろう。相手が拳銃を向けた場合、それに至る事情にもよるが、先に発砲しても正当防衛が成り立つ場合もあるし、日本に向け核ミサイルがまさに発射されようとしている場合に、それを破壊するのは自衛権の範囲といえよう。
 だが、軍事問題は法律論ではない。日本では憲法9条と現実の差があるためか、防衛問題をもっぱら違法合法で論じるという奇癖が生じ、何かあるたびに「法の不備」を探すというメディアの手法も恒例化した。軍事問題を論じるには膨大な予備知識が必要だが、法律論は簡単なのも一因だろう。だが、勝敗に国運がかかる戦さの世界では国内の法令もさることながら、「勝算の有無」のほうがよほど大事で、「合法だからやろう」という発想は滑稽だ。企業が新規事業に乗り出すさいに、「定款にそれがあるかないか」を論じて事業の採算を考えないような形だ少し具体的に成否を考えてみれば、先制攻撃はまったくの机上の空論、「観念タカ派」の説で、仮に日本が攻撃力を持ったところで弾道ミサイルが発射される前にそれを破壊することはまず不可能なのだ。(p.101)



先制攻撃が不可能である技術的な理由については、本書の叙述に譲るので、気になる方は是非この本を読んでみてもらいたいが、軍事問題をもっぱら「合法か違法か」という基準で論じる「奇癖」が日本で生じてしまったという指摘は重要である。

この軍事問題を論じる際の法律論偏重の傾向は、タカ派的な観念論が蔓延る温床となっているとも言えるかもしれない。観念タカ派(=バカ派)と観念的平和主義は同位対立にすぎない。どちらかと言えば後者に道理はあり、両者で議論がなされれば私はそちらに加担するだろう。

しかし、観念論の同位対立からは脱却すべきである。平和主義者はリアリズムに立つと、戦争を容認してしまいそうだと警戒すると思われる。しかし、私見ではリアリズムに立てば立つほど戦争や軍事に対して批判的になる。それは政治家の活動について知れば知るほど、政治家がクリーンだとは思えなくなるのと同じではなかろうか。その意味で、ハト派的な人たちにとって、本書のような本があることは貴重だと言えよう。




本物の弾頭を積んで日本を狙うという確実な証拠なしに日本が先に攻撃すれば、相手は「通常の訓練中に突然、日本が攻撃した」と非難するだろうし、それに対して反証を挙げて諸外国を納得させるのは容易ではあるまい。
 特に相手が核ミサイルの場合には、もし先に攻撃をするなら一挙にすべてを破壊しないとかえって危険だ。(p.108)



バカ派の諸氏に対して、私はしばしば不思議に思うことがあるのだが、ここに述べられたような点を無視して先制攻撃論を支持するような論調は、まさにそうした不思議の一つである。特に、イラク戦争という悪例がありながら、こんなことにも言及しないで先制攻撃論を支持するアホの気が知れない。まさに反省的思考力がないということを示していると思われる。こうした言説は、当然、criticalであるわけもなく、私の言う「右翼的言説」と重なることになるわけだ。




 ノドンが200発でなく90発、あるいはそれ以下だとしても、そのどれが「核付き」であるかわからないから、同時に全部を叩く必要がある。こちらが攻撃すれば相手が反撃してくるのは必至だが、近年の日本での防衛論議では、攻撃は一方的にこちらがやるような発想で、その法律上(しかも国内法上)の当否を論じるものがある。日本人が60年余の平和の中で戦争を具体的に捉えにくくなり、理念で考える「平和ボケ」の標本だ。
 また、先制攻撃で相手の弾道ミサイルをすべて破壊できたとしても(実際はまず不可能)、相手がまた造って発射してくることも考えなければならない。すべてを壊したことを確認し、再生産を防ぐには、結局は北朝鮮全土を占領する以外に手はなさそうで、それを韓国が座視するはずはないから、「先制攻撃で核ミサイル攻撃を防ぐ」というのは夢物語に類する。
 かつて情緒的な観念論、現実を知らない防衛論は左派、ハト派の専売特許で、私も苦笑しながら彼らと議論したものだが、今日では右派、タカ派に同様な観念論が強いように見える。右派観念論は権力に近いだけに、うるさいだけだった左派観念論より実害がある。(p.109)



ほぼ完全に同意見である。北朝鮮が相手の場合は、資源や資金の問題もあるから、再生産される危険性はそれほど大きくないのかもしれないが、単に先制攻撃してミサイルを破壊しただけで危険が去ることはありえない。先制攻撃は、先制攻撃でミサイル破壊した後、相手に反撃する口実を与えることになるのであり、その反撃を完全に阻止することはできない。しかも、反撃という形で日本が攻撃される可能性は、先制攻撃する前よりもむしろ高まるのであり、こうなれば戦争状態といって差し支えない。

戦争は基本的には外交の失敗である。外交についてどうしていくのか全く具体的な方針も、それどころか基本となる理念さえも示されていない今の日本で、先制攻撃論や敵基地攻撃論のような観念的で攻撃的な言説が出てくることは極めて危険な傾向であるといわなければならない。

右派観念論(バカ派)が、権力に近い故に実害があるという指摘については、特に強く同意する。

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田岡俊次 『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(その3)

 日本が加わっているのは「中間段階」と「終末段階」の迎撃で、2007年3月には終末段階用の「パトリオットPAC3」(Patriot Advanced Capability 3)が航空自衛隊入間基地の第4高射隊に配備される。また、沖縄の米空軍嘉手納基地には、米陸軍第1防空砲兵連隊第1大隊のパトリオット発射機24輌(その一部がPAC3装備)が06年10月から配備されている。
 ただし入間に入るPAC3は8発にすぎず、第4高射隊が持つパトリオットPAC2自走発射機5輌のうち2輌を改修しPAC3各4発を積む。・・・(中略)・・・。PAC3は、1発8億円もするから多くは買えないのだ。
 PAC3の射程は20キロ(あるいはそれ以下)とされ、基本的には1地点しか守れない。まず入間に置くのは米空軍横田基地の在日米軍司令部を守るため、と考えられる。07年度(08年3月まで)には関東地方の他の3個高射隊(横須賀市武山、習志野、霞ヶ浦)にもPAC3が入るが、入間を含め計8輌、32発をすべて東京の西側に並べても首都圏全域の防衛は無理で、北朝鮮がもっとも狙いそうな横田、横須賀など米軍基地と、国会議事堂や官庁の集まる都心を守ることになりそうだ。
 08年度には阪神・中京地区、09年度には北部九州(佐世保など)、10年度には青函地区(三沢など)と、それぞれに8輌32発が配備され、さらに11、12年度に定期修理などの予備用に16輌が改修される予定とみられる。計48輌、うち配置に就く32輌が射程わずか20キロかそれ以下の迎撃ミサイルを各4発積んでも隙間だらけで、日本のごく一部しか守れないのは明らかだ。(p.89-90)



PAC3は1発8億円もするのだが、これを48輌×8発買うと3,072億円である。3,000億円以上かけて、国土のごくごく一部の防衛に使うというのは、どう考えても効率的ではない。「税金の無駄遣い」という言葉があるが、これこそまさに無駄使いの最たるものではなかろうか。

また、「何を守る」ために配備しているのかにも注目して欲しい。米軍や政府の「お偉方」を守るために配備されるのである。軍隊というものは「国民」を守るものではないのだが、まさにそのことを実証しているといえる。

(軍隊が守るのはまず軍隊自身であり、可能であれば政治と経済の中枢にいる支配者たちであり、さらに可能であれば、その「おこぼれ」として「国民」が守られるという形になる。これは日本に限らず世界中の歴史を見てみればよくわかることである。

軍備拡張などについて議論するとき、この事実を見据えない観念論は、私に言わせればダメな議論である。リアリズムと呼ぶべきは、こうした冷厳な事実を見据えたもの見方のことである。改憲して軍備を整えようとする人々はむしろ観念論的であり、反戦・平和主義者の方が、そうした「リアルな現実」を見据えていることが多い。

ただ、反戦・平和主義者は、平和や生命の価値の重要性を説くだけでなく、よりプラグマティックな議論の展開が必要ではあり、そうした点で反省すべき点があるはずである。

ちなみに、沖縄の集団自決も軍隊が「国民」を守るものではないということを端的に示す事実であった。こうした事実の隠滅は許されることではなかろう。)




 また開発中の「SM3ブロック2」は、本来米国に向かう長距離ミサイルに対抗するために大型化し、高い高度での迎撃を目指すもので、北朝鮮から日本に飛来する中距離ミサイルは高度も低いから、現在の「SM3ブロック1」でも欺瞞対策さえすれば射程や速度の面では不足はない、との説も聞かれる。米本土を守るための迎撃ミサイル開発に日本が資金を出すのは変な話で、「米国に向かう弾道ミサイルを日本のイージス艦が撃破するのは、従来違憲としてきた集団的自衛権行使に当たるか否か」という憲法論議以上に現実的問題だ。防衛省では「現在の迎撃ミサイルだと日本海に2隻のイージス艦を出しておく必要があるが、射程の長い能力向上型だと1隻ですむ」などと説明している。だが大型で長射程の迎撃ミサイルの開発は米国が本土防衛のために推進していることは明らかで、防衛省の説明はそれに追随せざるをえなかったことを後付けで正当化していると言えよう。(p.93-94)



この長距離迎撃ミサイルの開発も、自衛隊が米軍の手足として利用され、そのために――アメリカのために――日本の税金が投入されることの事例の一つ。(こうした米軍の補完を示すものとしては、自衛隊の保有する艦船が米軍を補完する形で配備されていることなどが典型であり、いくらでも事例は出てくる。)

憲法改正論議も結局はここに源泉の一つがある。アメリカには日本に対する警戒がある一方で、日本を軍事的に利用しようという動きも一部に存在する。米軍の支出を少しでも減らすために日本政府(日本の税金)を利用しようという狙いがアメリカにあり、それが日本での憲法改正論議の発端を担った勢力と深く関わっている。憲法論議をする際に、この視点は欠かすことができないものである。

こうしたアメリカによる「搾取」に対しては、日本政府に税金を納めている者なら、常識的に考えれば、怒りを感じて当然だと思われる。まずはこうした事実が少しでも人目に触れることがまずは必要だと思う。

日本の腰抜けマスメディアでそれがすぐにできるとは思えないので、国会での質疑や質問主意書などで追及すべきだし、また、ネット上でならいくらでもこうしたことを書けるのだから、できることからやっていこうと思う今日この頃である。

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田岡俊次 『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(その2)

 日ごろは脅威を最大限にプレー・アップする米国防当局者など米高官が、今回(引用者注;2006年の北朝鮮の核実験)に限り「ダウン・プレー」に努めたのは奇妙だが、これには三つの理由が考えられる。
 ・・・(中略)・・・
 第二の理由としては、「日本の核武装阻止」が考えられる。米国では「日本が核武装し、やがて米国の脅威となるのでは」との警戒心が1970年代から強く、日本人から見ると偏執的とすら感じられる。自国が経済大国で軍事大国だけに、日本のような経済、技術大国はいずれ軍事大国になるはず、と考えがちだ。また一般の米国人が日本について知っているのは第二次大戦の映画と身の回りの工業製品だから、その二つを結びつけて悪夢を描くのかもしれない。
 93、94年に北朝鮮の核開発が問題となり、北朝鮮がNPTからの脱退を声明したり、留保したりして緊張が高まっていた当時、米議会ではタカ派の議員、政府高官たちが、「北朝鮮の核開発を放置すると、日本がそれを口実に核武装する」と論じて北朝鮮核施設の攻撃を主張した。米国民に「北朝鮮の脅威」を説いても印象は薄いが「日本が核武装する」と言えば耳目を集めるからだろう。今回北朝鮮が核実験を行った際、私はCNNを見ていたが、その第一報から1分もたたないうちに、「これで日本は核武装に向かうか」という議論が始まり、「米国人は北朝鮮より日本を警戒しているようだ」と苦笑した。日本が核武装に走るのを防ぐためには、「核実験は失敗」との印象を与える方が得策とも考えたのだろう。(p.67-68)



日本のマスメディアでは、アメリカの中での日本脅威論については表面には出てこない。イギリスにも日本の核武装を憂慮する人々がいたようだし、日本の軍事力に対しては国内のメディアから受ける印象よりも遥かに強くこうした懸念がもたれているということは認識しておいて良いだろう。

もちろん、逆に日本に武装させて米軍の肩代わりをさせ、財政的な負担も日本に引き渡すという傾向も同時に見られる。「日米同盟の強化」と言われているのは、まさにこの路線に乗ることであり、在日米軍の縮小に合わせて、それを補う戦力としてアメリカは日本の自衛隊を活用しようとしている。

この二つは日本が核武装しない限りは必ずしも矛盾するものではない。しかし、核武装をすれば話は変わってくる可能性があるという認識は持っておくべきだろう。また、核武装しなくてもアメリカにおける日本への警戒感は高まることになり、両国の外交関係にも多少の緊張が生じることにもなりうることも然り。

その上、これだけ日本全国「財政赤字」や「財政破綻」の危機が取りざたされる中、軍事力を増強することは財政負担もふえるということも銘記すべきである。日本のマスメディアは憲法や軍事について議論するときに、財政の議論をしないのだが、これは明らかに判断を誤らせることに繋がるものである。




日本でも建築基準法を改正して、ビルに地下室を設けることを義務化し、地下は固定資産税の課税対象としない、などの優遇措置を取るべきではと考える。これは他の防衛策とちがい、戦争がなくても物置きや駐車場などに十分役立つという利点がある。(p.84)



核ミサイルによる被害を抑える防衛策としては、こうした方向のものはあってよいだろう。原発震災にも対応できればなおよい。

ただ、地下の固定資産税を非課税措置によって促進するというのは、あまり適切なやり方ではなかろう。

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田岡俊次 『北朝鮮・中国はどれだけ恐いか』(その1)

 私のように長く軍事問題を考えてきた者にとって、冷戦が終了し、本物だったソ連の脅威が消えた今になって軍事論議が活発になったことは皮肉、と半ば思いつつ、「関心がないよりましか」と考えるのだが、軍事常識に乏しい人々が時流に乗って非合理なほど「タカ派」的な説を弄ぶ風潮には危惧を感じざるをえない。98年に北朝鮮の「テポドン」が東北地方の上空を飛んで三陸沖に落下した際、一部の野党国会議員が防衛庁の役人を呼んで「自衛隊は報復攻撃をすべきだ」と迫り「報復とおっしゃるが、宇宙を飛んで公海に落下し日本に被害は出ていません。弾頭ではなくテレメーター(飛行状況の送信機)を積んでいました」と説明すると、「君たちがそんな甘いことを言うからなめられるんだ」と怒鳴りつけ、このあと防衛庁で「タカ派というよりバカ派との言い方が流行した。それから8年余たった2007年、「バカ派症候群」の感染者が続出している。後の詳述するが、その数例を挙げておこう。

①北朝鮮の実戦用ミサイルは、移動発射機に搭載され、山地のトンネルに隠されている。詳しい位置は不明だ。偵察衛星は一日1回、北朝鮮あるいはその付近の上空を時速2万9000キロ程度で通過するから、一地点を撮影可能なのはせいぜい1,2分であることを知らず、常時監視ができるように思って、「発射しそうなら先に攻撃せよ」と主張する

米国の強い要請で、日本が核不拡散条約(NPT)に加わり、その無期限条約化も呑んだこと、NPTからの脱退は日米対決を意味することを忘れて、核武装を主張する。

北朝鮮への禁輸に当たって、米国はPSI(拡散に対する安全保障構想)の原則によると言っており、これによれば公海上の船舶検査は船の旗国(船籍を置く国)の承認を得て行うことになっているのに、「米海軍が北朝鮮船舶を停船させて乗り込もうとし、反撃を受けて戦端が開かれる」という幻想を抱いて、その際の対米協力を論じる

④台湾住民の85%余が現状維持派であり、米国は台湾独立へのいささかの動きも強圧的に抑え込む。台湾の経済人も軍の将校も大半が独立反対で、独立はまず考えられない状況なのに、「台湾が独立しようとして中国が侵攻。ついでに沖縄の島を占領する」という無理な想定を描き、日米共同で中国と戦う集団的自衛を論じる

⑤中国が資本主義を採用して急速に発展し、巨額の米国債を保有して米財政を支え、証券取引所を設け、憲法を改正して「私有財産の保護」を謳っていることや、共産党が経営者の加入を求めて商工会議所化しているなどの根本的変化を無視して、「共産党独裁国家」と言う。これは日本に憲法9条があることを根拠に、「日本は非武装国家」と言うに等しい。中国は世界最大の外貨保有高1兆700億ドルの2~3割(25~38兆円)を海外、国内で運用する国有投資会社を作るといわれており、「国家資本主義」という非難なら当たる部分があるだろう。

バカ派”の基本的誤りは、1989年11月のベルリンの壁の崩壊で冷戦が終了し、世界はイデオロギー対立から脱却し、各国の利益追求の時代に戻ったことから目を背けていることだろう。(p.19-21)



以上は、本書の「序章に代えて」という部分の一部である。何より「バカ派」という言葉があまりにも適切すぎて私のツボにはまった。たまたま本屋で手にとって、この「バカ派」という言葉を見たとき、即座に購入を決定した。

上記引用部分は「バカ派」の言説がいかなるものであるかをあまりにもよく示しているので、今後も利用する価値があるだろうと思い、ここに掲載しておく。

「タカ派」ないし保守・右翼(右派)などと言われる政治家や右派の政治ブログにおける外交や軍事に関する言説の大部分は、「バカ派」の言説であると見てほぼ間違いない。これは私が定義する「右翼的言説」とも通じている。いずれもcriticalでない。

上記引用文に関するコメントは、後にウェブサイトに書評を書こうと思っているので、それまで保留しておくことにする。

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フェルナン・ブローデル 『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀』(その2)

 まず、貴金属は西洋の回路から、とりわけインド諸国および中国方面へ絶えず出ていった。それはすでに遠い昔、ローマ帝国の時代から始まっていた。極東の絹・胡椒・香辛料・麻薬・真珠の代価を払うのに銀や金をもってせねばならなかった。これらの品物を強引に西へ取り寄せるには、それしか手段がなかったのである。この東西の主軸にあっては、中国を例にとると1820年代ごろまで、ヨーロッパの収支はそのためにずっと赤字つづきであった。それは永続的で、一本調子で、構造的な流出であった。貴金属は、レヴァントや喜望峰を経由し、さらに太平洋さえ渡って、おのずから極東めがけて流れていった。(p.183-185、訳文の傍点を下線に変更)



この「構造」は、A.G.フランクが極めて重視している流れであり、様々な歴史の本を読みながら、私も交易(物流)の状況をその都度チェックするのだが、やはりこの流れがあることは明確に把握できる。

ただ、私にとっての疑問は、金と銀がインドと中国に流れていくのが構造的なものだったとすれば、インドと中国にばかり金と銀が集まってしまうというところにある。もちろん、いわゆる「中世ヨーロッパ」の教会堂、特にカテドラル(司教座教会堂)のような格の高い教会堂の宝物などには、黄金をふんだんに使った宝物があることも多い。A.G.フランクは、確か、加工品として西方へと再度流出したと語っていたと思う。つまり、西方は原料供給地であり、東方がそれを加工して高く売りさばくという構造であり、要するに現代の南北問題とほぼ同じ構造である。そのあたりの詳細については、もう少しよく調べてみたいと思っている。

ブローデルの叙述や考え方に対して疑問に思うのは、こうした構造があったという事実を知りながら、どうして「ヨーロッパ」は世界の中で豊かで先進的な地域だと信じることができたのかという点にある。ブローデルのヨーロッパ中心主義の発想はぬぐいがたく様々な局面で出てくるのだが、しばしばそれを覆すような事実に逢着しても、決して十分にその信念が後退することはない。

ある意味では、「ヨーロッパ」を中心とした研究しか深く知らないし、当時はそれほど他の地域の研究が進んでいなかったとも言えるのかもしれないが、現在から振り返ると逆に不思議にさえ思える。

実際、ブローデルの非ヨーロッパについての叙述の大部分は中国に関するものであり、日本もよく出てくる(これには、当時の日本は高度経済成長をしていたので、注目されていたことが反映している。)が、インドの叙述は少ない。(余談だが、ブローデルとほぼ同時代の人でもイギリスの著者の作品にはインドが登場する頻度が高いように思う。)中東に関する叙述はトルコ(オスマン朝)を除くとほとんどない。トルコ以外でイスラームについて話題にするときは、マグレブやイベリア半島が採り上げられることが多く、歴史的シリアやアラビア半島、ペルシャが深く取り扱われることはほとんどない。中国と同じように多いのは中南米についてであり、これはブローデルが南米に住んでいた時期があることを反映している。

ブローデルの書いたものを読んでいると、彼の博識は確かにすごいのだが、地域によって知識の粗密の差が非常に大きいことがわかり、なかなか興味深い。




 これからおいおい見てゆくが、これらの都市のあるところ、莫大な支出が見られるのであった。この経済に対する均衡は外部からしか得られず、それゆえこれらの都市の贅沢の代金は他人が払わなくてはならなかった。だとすると、西ヨーロッパでは都市が続々と出現しておおいに威勢を張っていたわけだが、それらの都市はそこでなんの役に立っていたのであろうか。近代国家を作り上げたのである。それは途方もない任務であり、途方もない努力を要した。それらの都市が世界史の転機を画したのである。それらがあの数々の全国的市場を作り上げたのであり、もしそうしなかったならば、近代国家なるものは純然たる虚構と化したであろう。(p.281)



ブローデルの都市論は興味深い。ブローデルの都市論の多くの要素は私見ではネットワーク理論で読み替えることができる。ここで述べられていることも、その一例となる。

いわゆる「近代国家」なるものにもいろいろな側面がある。それは主権国家だったり国民国家だったりするが、「近代国家」の一つの性質として、それが定まった境界を持つ領域によって区切られているということがある。これはクラスター性があるということだ。その上、経験的に観察されることだが、人口が幾つかの地域的な拠点に集中している。その場所には人だけでなく富やモノや情報などが密集している。これは大都市はこの「近代国家」というネットワークのハブであるということだろう。そして、都市というハブがあることによって、クラスターを形成する各ノードは連携を維持することができ、一つのまとまりであり続けることができる。

ブローデルは都市が一つの国境内の地域を結びつけるハブであることを指摘し、そのハブが機能することによってネットワークのリンクが維持されるという構造を見て取ると同時に、ハブがあるかないかによってネットワークの性質が変わることさえも暗示しており、興味深い。その上で、「近代国家」なるものが幻想としての側面も持っていることに目配りがされているようにも思われ、そうであれば、それは妥当な認識である。

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フェルナン・ブローデル 『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀』(その1)
第一巻 日常性の構造 邦訳書第一分冊の訳者あとがきに引用されているブローデルの言葉。

いろんな型の出来事がありましてね。ふつうにいう出来事ってのは、評判になる三面記事的事実(フェ・デイヴェール)ですな。わたしはというと、何度でも繰り返されるものだから評判にならない、たんなる雑事(フェ・デイヴェール)のほうが好きなんです。そのばあい、そういう雑事は、長期的な現実の指標になる――それも、みごとなまでにですよ――つまり構造の指標になることができるのです。それに反して、出来事ってものは、目撃者たちの印象だの、歴史家たちの錯覚だのによって、肥大化されてしまいます。(p.455)



いかにもブローデルらしい見方である。日常的に繰り返される、一見何でもないような出来事に注目することで構造、長期持続を見て取るというやり方は、言われてしまえばそれほど奇抜ではないが、誰も言わないときにこれを徹底的にやりぬくのはやはり只者ではない。

しかし、この方法は論理的に言えば帰納的飛躍を犯さざるを得ないところに欠点がある。ブローデルの文明史がオリエンタリズムやユーロセントリズムに基づく「偏見」に満ちていることと、このことは無関係ではない。非ヨーロッパ世界に対しては、より内在的な理解をしなければ、このような帰結は避けがたかっただろう。しかし、当時の研究水準からすれば、ブローデルを非難しすぎるのもまた不当ではあろう。

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ホブスン 『帝国主義論』(その5)

 すべての中で最も重要なのは、愛国心を装う帝国主義のために学校制度を把握しようとする執拗な試みである。その国の幼少年を捉えること、その自由な遊戯を単調無味な軍事教練に機械化すること、好戦性の野蛮な遺物を培養すること、虚偽の理想を偽英雄により、且つそれに伴い過去の真に生々とした高尚な教訓の軽侮と無視によって年少の頃の歴史の理解を毒すること人類の利益を「国」のそれに、(従ってまた安易な、年少の、自然の推理によって、「国」の利益を「自己」のそれに)従属させるところの「地球中心的な」道徳的宇宙観を確立すること、自信の通例最も旺盛な年頃において常に尊大な民族の自尊心を養うこと、そしてその必然的な含みとして他の民族を軽侮し、かくして謬った価値尺度と、外国の源泉から学ぶことを好まない心をもつ児童を世の中に送り出すこと――この卑しい島国根性的な精神と道徳を少国民に結びつけ、そしてそれを愛国心と呼ぶことは、考えられる限りにおいて教育の邪悪な悪用である。(下巻p.130)



これは安倍政権を批判するために書かれた文章ではない。紛れもなく100年以上前のイギリスで書かれた文章の翻訳である。翻訳も1952年になされたものであり、最近なされたわけではない。それにもかかわらず、完璧に安倍政権に対する批判になっている。

しばしば、安倍晋三やその政権に対して戦前に逆戻りしている、逆戻りさせようとしている、とする批判がある。これは日本の戦前という意味と言う狭い文脈で捉えるよりも、19世紀後半のような帝国主義の時代の政策を採用しようとしているという、より大きな文脈で捉えたほうが妥当だろう。

ネオリベもネオコンも、帝国主義の時代の政策に「ネオ」をつけただけであって、彼らの主張内容が新しいわけではない。彼らが否定しようとする対象が、時代と共に変わったにすぎない。(例えば、ネオリベは古いレッセ・フェールの主張と言っていることはほとんど同じだが、否定しようとする対象が、ケインズ主義に変わった点が「新しい」のである。)また、ナショナリズムの勃興もその時代を特徴づける兆候であった。もちろん、それが世界大戦を含めた戦争へと繋がっていったのは言うまでもない。




最も恐るべき危険は外国における純粋な産業的投資から起こるのではなく、これらの投資に基づいて金融業者によってなされる公債及び株式の取引からである。外国における天然資源もしくは産業に純真な利害関係をもっている人々は、その土地の平和と善き統治に対して少なくとも若干の実質的な関心をもっている。しかるに株式投機業者は何らそのような利害関係をもっていない。彼の関心は証券価格の変動にあり、その手段として政治的状態の動揺と不安定とが要求されるのである。(下巻p.297-297)



産業資本金融資本について、プラグマティックな観点から相違を抽出すると、この点に帰着するだろう。財界が国内の格差に冷淡なのも、こうした傾向と関連しているのではないか。例えば、物を作る業種であっても、国内で生産する必要はなく、どこの国でも好きなように選べるとするならば、その性質は金融資本にかなり近づくことになる。

とはいえ――余談だが――これらは完全に同じレベルにまでは達しないのが普通であるが。例えば、労賃が安くても教育水準が低いという問題が生じたり、工場の立地先で地元企業の雇用を奪うことで地域が衰退するという批判を受けるなど、産業活動には中長期的な活動が必要なので、瞬時にその土地を見捨てて立ち去ることが出来る金融資本とは全く同じと言うわけにはいかない。

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ホブスン 『帝国主義論』(その4)

実質的並びに形式的に民衆政治を確保せよ。さらば国際主義が確保される。階級政治を持続せよ。さらば軍国的帝国主義と国際闘争とが持続される。(下巻p.76)



近年の日本では「格差」が問題とされているが、このことは帝国主義的な言動を増大させ、アメリカを含む近隣諸国から顰蹙を買い、対立的な関係になっていることと無関係ではない。




「帝国主義は狭く卑しいものであるという一般的認識を免れているのはなぜか。」という問いに、これから答えなければならない。各国民は、外部から隣国の帝国主義を見守っている時は欺かれない。政治的及び商業的階級の利己的な利益がその政策の指導上最重要であることが、明らかに見られるのである。そこで他のヨーロッパ諸国民はいずれもイギリス帝国主義の真の輪郭を認識し、盲目を装った偽善であるとして我々を非難する。(下巻p.104)



強調した箇所は重要である。現在の日本のネット上でしばしば見られるウヨク的言説や政治家の同様の言説にも、これは当てはまる。

「日本国内で日本の戦争責任が卑しく非難されるべきものであるという一般的認識を免れているのはなぜか」という問いに、これから答えなければならない。各国民は、外部から隣国の帝国主義を見守っている時は欺かれない。政治的及び商業的階級の利己的な利益がその政策の指導上最重要であることが、明らかに見られるのである。そこで他のアジア諸国民はいずれも日本帝国主義の真の輪郭を認識し、盲目を装った偽善であるとして我々を非難する



嵌りすぎ…。




帝国主義は事実及び力の執拗な誤伝に基づくのであって、その誤伝は主として極めて洗練された選択・誇張及び希釈の過程を通じてなされ、利害関係をもつ徒党及び個人によって指導される結果歴史の外観が歪められるのである。
 帝国主義の最大の危険は、国民の心がこの欺瞞に慣れるに至り、自己批判の出来ない状態に陥ることにある。(下巻p.123)



最近の日本の状況に余りにも嵌りすぎていて空恐ろしくなる。

まさに現在の日本の言論状況はホブスンの指摘したとおりの危険な状態になっているようだ。つまり、自己欺瞞に陥ってしまい、自己批判の出来ない状態に陥っているのである。




競技(スポート)における興味のこの堕落に対応するものは、戦争の実践との関連における国威宣揚主義(ジンゴイズム)である。国威宣揚主義は、いかなる個人的努力、危険、もしくは犠牲による浄化をも経ていない見物人の単なる欲望に過ぎず、同胞たる人間の危険・苦痛及び殺戮を気味よげに眺める。その人々を彼は知らないのであるが、しかも彼は盲目的且つ人為的に刺激された憎悪と復習の感情に燃えて、彼らの絶滅を欲するのである。国威宣揚主義者にあっては、一切のものが冒険的且つ盲目的な争闘の激情に集中されている。骨が折れ疲労の多い行革の単調さ、長い待機の時期、苦しい補給の欠乏、長引く戦闘の怖ろしい倦怠は、彼の想像の中で何の役割をも果たさない。戦争の償いとなる諸要因は、即ち共同の個人的危険が教えるところの立派な戦友意識、訓練及び自制の諸成果、敵の勇気を認めざるを得ずそして敵もまた同じ人間仲間であることを知るに至って敵の人格に対してもつ尊敬――これらすべての実戦における緩和的要素は、国威宣揚主義者の情熱からは除外されている。或る平和の支持者たちが、軍国主義及び戦争の最も有力な抑制は、市民全体に兵役の義務を負わせること及び侵略の体験の二つであると主張するのは、正にこれらの理由からである。
 そのような高価な手段が果たして真に有効であるか、もしくは必要であるかを決定することを、我々は求められていない。しかし国威宣揚主義者の傍観者的欲望が帝国主義の極めて重要な要因であることは全く明瞭である。この大衆的な熱情を培うためには、戦争並びに帝国的膨張の全政策の劇的な粉飾が共に必要なのであって、それは帝国主義的事業の真実の組織者の技術の中小さくない部分を構成している。これらの組織者たる実業家及び政治家の小さいグループは、自分たちの欲しているものが何であるか、またそれを得る方法は何であるかを知っているのである。
 軍事的英雄主義の真実のもしくは見せかけの光輝と帝国建設の雄大な主張とに欺かれて、国威宣揚主義はいかなる愚挙もしくはいかなる犯罪にも転じ得るところの一種の愛国心の中核となっている。(下巻p.127-128)



好戦的な主張ないし、戦争そのものへの拒否感が少ない右寄りの言説には想像力が足りないわけだが、ホブスンのここでの指摘もそれと通じている。

また、帝国主義の原動力となる少数者の利益のために大衆を欺き、その欺瞞によって愚挙・犯罪に通じる愛国心を作り出していく。これが帝国主義を実現して行き、少数の支配的階層の人間はますます利益を得て、大衆から遠い存在となっていく。この構造は現在の日本にも当てはまっている。

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ホブスン 『帝国主義論』(その3)

 軍備のみが平和に対する最良の保障をなすという、「若し汝が平和を欲するなら戦に備えよ」流の議論は、この恐ろしい犠牲を払うことを要請される諸国民の間に、真実の利益の正真正銘な永続的敵対が存在するという仮定に基づくものである。
 我々の経済的分析はすでに次の事実を明らかにした。即ち敵対的なのは互いに競争する実業家の仲間――投資家、請負業者、輸出品製造業者、及びある種の自由職業階級――の利害関係だけであり、これらの仲間が国民の権力と声とを横奪して、彼らの私的利益を追求するために公共の資源を利用し、現実には何の根拠ももたない国民的敵対を装って、この大規模且つ破壊的な軍事上の勝負事に国民の血と金とを費やすのである。ロシアが朝鮮を獲得することをば日本と提携して妨害するために、ロシア及びフランスとの戦争の危険を冒すことは、富の生産者としても納税者としてもイギリス国民の利益にはならない。しかしこの危険な政策を促進することは、一団の商業的政治家達の利益には役立つであろう。金銭投機者がその私的な目的のために公然と挑発した南ア戦争は、かかる国家主義の横奪の著しい例として歴史に残るだろう。
 戦争は、しかしながら、この政策の成功をではなく、失敗を示すものである。この政策の正常的な且つ最も危険な果実は、戦争ではなくて、軍国主義である。領土及び外国市場を得るためのこの競争的拡張が「国策」として自らを主張する誤りが許される限り、利害の敵対は本当のようにみえ、国民は益々費用のかさむ戦争の機構を維持するために汗と血を流して辛苦しなければならない。(下巻p.23-24)



「備えあれば憂いなし」とコイズミがよく言っていたが、まさにそれこそ帝国主義の論理なのである。そして、それはホブスンに言わせれば、ありもしない利害対立を煽るものであり、国民の声を横奪するものである。

炯眼なのは、戦争はその政策の失敗を意味するという指摘であり、また、その最も危険な果実は戦争ではなく「軍国主義」であるとしている点である。軍国主義は、単発の衝突(戦争)ではなく、継続的・持続的に戦争を惹き起こしてしまうものであり、目を覚まさせることは困難な病だからである。

極右政治家である安倍晋三が首相となるほどまでに右傾化した日本の世論は、すでにかなりの程度、軍国主義化してきていると見て良いであろう。




終局を思い見よ。善良な市民の活動と兵士のそれとの間には絶対的な対立が存在する。兵士の目的は、往々誤り伝えられているように国のために死ぬことではない。それは国のために殺すことである。(下巻p.31、訳文の傍点は下線に変換)



先日、埼玉県知事が自衛隊は人を殺すための訓練をしているという趣旨の発言をしたが、実はそれは不謹慎でもなんでもなく、ありのままの事実を語ったにすぎない。私に言わせれば問題なのは、それをもって自衛隊を「ほめ称えなくてはいけない」と言ったことにある。

防衛力は必要悪だとしても、倫理的に見ればほめられたこととはいえないのである。

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植草一秀事件を検証する会 編著 『植草事件の真実 ひとりの人生を抹殺しようとするこれだけの力』

昨年十一月までの一年間のレポートは『ウエクサ・レポート――2006年を規定するファクター』(市井文学)として単行本化されている。
 ここでも感じるのは、植草氏の国民経済への篤い愛情である。同号が出たころ、ライブドアによるニッポン放送株買収が世間の注目を浴びていた。この騒ぎで外国株対価による合併(いわゆる三角合併)を認める会社法の施行が一年延期された。日米の株価は1990年を1:1とすると、このとき1:15.「この局面で三角合併を認めれば、日本の無条件降伏と同義と言っても差し支えないだろう」とつづっている。(p.75)



この点、植草氏の見解に同意する。

ちなみに、私も本書を読む前から植草事件は冤罪だろうと推測している。




 植草氏の最新の本は2005年12月に出された『ウエクサ・レポート――2006年を規定するファクター』(市井文学)である。事件後ネット書店・アマゾンでは、在庫なしの状態が起訴まで続いた。定価1890円の本が、中古市場では5000円の値がつけられる。しかし、出版社には在庫が山積みされていた。同様のことは、関岡英之著『拒否できない日本』(文春新書)でも起きている。「年次改革要望書」の存在を指摘した同書の在庫なしの状態は、郵政民営化法案が国会を通過した直後、解消された。(p.81)



アマゾンは確かに便利だが、「グーグル八分」と同じことがここでも言える。一つの情報源に頼ることは危険である。




 内閣総理大臣が権限をフル活用すると三権の頂点に君臨する存在になる議院内閣制は絶対権力を創出する「ポテンシャリティー」を持つ仕組みなんですね。これまでの日本では、「自己抑制」がどこかで働いて、自民党の総裁であっても、タテマエ上、人事権をフル活用することは不可能でないのですが、それを行使した人はいなかった。派閥均衡というのは権力者の権力行使における「自己抑制」なんですね。内閣総理大臣は司法の問題について介入しようと思えば介入できるわけです。人事権を通じて。日銀もそうです。
 戦後の日本では政治権力者の「自己抑制」によって「三権分立」のタテマエが曲がりなりにも成立してきたと思います。小泉首相はこの不文律を根こそぎ破壊した最初の人間ではないか。内閣総理大臣が「自己抑制」を捨て去れば三権の頂点に君臨することは不可能ではない。「権力を持つ者が活用できる権利を100%フルに活用するのは当然である」と考える発想法は、「市場原理主義」そのものと言えるのではないでしょうか。(p.109-110)



これも植草氏の発言だが、全く同感である。安倍晋三は「権力の頂点にいる」と言ったが、彼のような凡庸なあるいはそれ以下の人間が、このような自覚を持てるのも、ある意味では小泉が「自己抑制」を破壊したことによって地ならしがなされていたこともあるかもしれない。

ただ、私の見解では植草氏が「自己抑制」と述べているのは、「首相たる人間自身の自己抑制」ではなく、「首相が抑制しなければならない状況があった」ということだと考える。小選挙区制と省庁再編(内閣府の創設)がその背景をなす大きな要因ではなかろうか、と考える。その上で「官邸主導」と言えばそれだけで善であるかのようなイデオロギーを蔓延させることに成功したことも重要である。




郵政資金と言われる膨大な簡保資金、そして郵貯資金は、ただの流動性を持つ「お金」ではない。郵貯資金は、敗戦の焦土から立ち直ってインフラをはじめる時の資金でもあり、大災害時に復興する時の資金にも流用されるかけがえのない国家の財産である。また、国家が経済的に窮地に陥るとIMFの世話になることになる。しかしIMFはアメリカの完全傀儡金融組織である。けっして安全な国際金融機関ではないのだ。ここから一旦、国家が金を借りれば、アメリカや外資の経済奴隷国家となる。日本は郵政資金があるから、いざと言うときに郵政資金を使うことによって外資の干渉から防御できるわけである。
 国営の郵政事業は、商売という側面よりも、国家の安定装置としての役目がより重要な性格である。それをこともあろうに拙速に民営化に持っていく愚を、国民のいったい何割が自覚しているのだろうか。小泉氏や竹中氏が行った郵政民営化とは国家を丸裸にして完全に無防備化してしまったことになる。(p.111-112)



郵政民営化に賛成したニポン人って、ほんとにバカだよな…。

もう少し日本の経済力が衰退してきたら(より正確に言えば、世界経済に占める相対的な力関係が劣位になってきたら)、このセーフティネットがなくなったことが強烈に効いてくるだろう。しかし、そのときはまさに「後の祭り」である。

その頃には、小泉を含めた政治家たちはすでにくたばって他界しているか、または片足を棺桶に突っ込んでいる頃だろうし、竹中などは、住民税脱税まがいの行為のときと同様に、外国に移住していてもおかしくない。全く無責任にも程がある。

ニュージーランドも民営化をやめて国営に戻したというし、どこかである程度痛い目を見たら反省が働くかもしれない。大きなダメージを受けないで反省できればいいのだが、最近の安倍政権の言動を見ていると、当面は期待できそうにない。とりあえず、首相や与党を変えることが――それだけでは不十分だろうが――第一歩なのかもしれない。私としては、現在の選挙制度(小選挙区制)が最大の問題だと考えるが…。

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ホブスン 『帝国主義論』(その2)

 侵略的帝国主義は納税者には甚だ高価につき、製造業者及び貿易業者には甚だ価値が少なく、国民にとっては甚だ重大な測り知れない危険を孕むものであるが、投資家にとっては大きな利得の源泉であって、彼は自己の資本のため有利な用途を国内に見つけることが出来ず、従って彼の政府が彼を援助して有利且つ安全な投資を国外になさしむべきであると、主張するのである。(上巻p.106-107)



帝国主義の原動力が主として金融的でないことも亦真である。金融はむしろ帝国主義的機関車の運転手であって、力を指導し、その働きを決定するもののである。それは機関車の燃料を構成せず、又直接に力を生み出しもしない。金融は政治家、軍人、博愛家、並びに貿易業者が生み出す愛国的諸力を操作するのである。(上巻p.111)



帝国主義は「一部の人」の利益にしかならず、それ以外の人々はそこから被害を受ける。




大金融業者が「高等政治」において行使する直接的影響力は、彼らが新聞を通じて輿論に及ぼす支配によって支持されるのであり、あらゆる「文明」国において新聞はますます彼らの従順な手足となりつつある。特殊な財界新聞が「事実」と「意見」とを事業家階級に押しつけると同時に、一方では新聞全体がますます金融業者の意識的もしくは無意識的な支配下に入る。南アフリカの新聞の代理人及び通信員がイギリス国内で戦争熱を煽り立てたが、この新聞は南アフリカの金融業者側の公然たる所有にかかるものであった。輿論を製造するために新聞を所有するというこの政策は、ヨーロッパの大都市においてはありふれたことである。ベルリン、ウィーン及びパリにおいては、有力新聞の多くは金融業者によって所有されてきた。彼らがこれを利用したのは、それから直接の利潤を挙げることが主たる目的ではなくて、いろいろの信念と感情を民衆の心に植え、それによって公の政策に影響し、その効果を金融市場に現させるためであった。・・・(中略)・・・。一方において、新聞がその事業利潤を全く広告欄に依存していることが、組織された金融階級に反対することを特に躊躇させる。それは多くの広告業務の支配が金融業者の手にあるからである。(上巻p.112-113)



100年前に行われたメディア批判である。現在の日本でもメディアへの批判が高まっていることと通じている。




 以上が帝国主義を助長するところの、はっきりした経済的諸勢力の陣容である。・・・(中略)・・・
 これら諸勢力の活動は、公然とは現れない。彼らは本質的に愛国心の寄生者であって、その保護色に順応している。(上巻p.113)



こちらは昨今の日本で「愛国主義」「国家主義」の声が高まっていることとパラレル。帝国主義を推進する勢力は、このエネルギーを「運転手」として利用するわけである。




十九世紀の最後の三十年間において我が国に対し諸外国の敵対が増大したことは、全くその期間の侵略的帝国主義によるものと見なしてよいだろう。従って軍事費の増大は、事業の貸借対照表上、その政策の費用として掲げることが至当だろう。(p.118)



20世紀最後の10年間以降、アメリカに対する諸外国の敵対が増大したことは、全くその期間の侵略的帝国主義によるものと見なしてよいだろう。従って、軍事費の増大は、事業の貸借対照表上、その政策の費用として掲げることが至当だろう。

これからは日本も「諸外国の敵対」が増大するだろう。そうなれば、軍事費の増大と言うコストがかかるだろう。財政破綻がどうのといわれているのに、そんなことしてる余力があるのかね?

愛国主義者や国家主義者、つまり、「愛国心」は大事だと思っている人は、そのコストについてどう思っているのだろうか?消費税を増税して軍事費に回しながら、その増税分を財政赤字の補填に回すことができなくても良いって?

その上、増税が「消費税」になるということもホブスンは指摘している。(なお、私は増税は法人税と所得税の累進性を上げることが必要だと考えている。その上で、軍事費のような余分な支出を抑えることも必要だと考えている。)

 しかしながら帝国主義財政の最も明らかな意義は、経費の側ではなくて、租税の側に現れる。私的利得のために国庫を利用するところの経済的諸勢力の目的は、もし彼らが先ずその金庫を満たすべき貨幣をみつけなければならないのだとすれば、大部分は挫折する。租税の直接の負担を彼等自身の肩から他の階級又は子孫に転嫁することは、自己防衛の当然の政策である。
 健全な租税政策は、国家歳入の全部もしくは主要部分を土地価格の不労増価及び特殊事業の利潤から引き出すだろう。これらの事業は、激烈な競争から彼らを庇護する何らかの法律上もしくは経済上の保護によって、高率の利子或は利潤を収めることができるのである。右のような租税は所得の不労部分にふりかかるものであるから、最も容易に負担せられ、何らの撹乱をも産業に惹き起こさないだろう。しかしながら、これは正に、かの帝国主義の経済的根底を構成するところの諸要素に対する課税を意味するであろう。・・・(中略)・・・。従って、健全な租税制度は病弊の根源そのものを打つだろう
 一方において、もしも資本家的帝国主義の諸勢力が公然と租税の重荷を民衆の肩に転嫁するとしたら、民衆政治の形態の下ではかように高価な政策を運用することは困難であろう。民衆に負担させなければならない。しかし彼らが負担していること、もしくはどれほど負担しているかを、彼らに知らせてはならない且つその負担を出来るだけ長期にわたらせねばならないのである。
 ・・・(中略)・・・。帝国主義はそれ故、何処でも間接的課税の方法を取るのである。その理由は主に便宜上からではなく、隠蔽の目的からである。(上巻p.155-157)



この箇所はここ20年ほどの日本の租税論議にあまりにも当てはまりすぎていて、ビックルを一気飲みしてしまったほどである。

それに、消費税の導入以降の消費税による歳入増と、それと同期間における法人税の減税による歳入減とは、ほぼ同じ額なのだが、それもまさにホブスンの議論と附合する。

帝国主義は間接税を志向する。それも多数の人々の目を欺いて、負担を民衆に押し付け、そうやって作った公的資金を利用して一部の投資家、資本家が得をするために

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ホブスン 『帝国主義論』(その1)

 私の論点は次の通りである。即ち、すべての発達した諸国において富の生産並びに分配のためひろく行われている制度は、その生産力がその分配の不平等によって束縛を受ける段階に到達した。利潤・利子及びその他の剰余に向けられる過度の分け前は、過剰蓄積への慢性的努力を余儀なくする。というのは、増加した生産力を作り出そうと試みるが、消費財の購買という捌け口がそれに対応しないのである。かかる蓄積が更に多くの工場その他の資本を設備しても、それから何ら利潤のあがる用途を見出しえなくなれば、過剰蓄積へのこの傾向はこれがため次第に抑制される。しかしながらそれはまた外国市場に捌け口を得るため政治力を利用しようと努める。そして独立国たる外国の市場が閉鎖され又は制限されるにつれて、植民地・保護領その他帝国的開発地域を獲得しようとする動きは一層緊急且つ意識的な国策となるのである。(上巻p.19-20)



本書の主張が簡潔に要約されている箇所。これを私なりの理解で置き換えてみる。

まず、「発達した諸国」――世界システム論で言う「中核」――では、一国内の経済において、次の関係が成り立つとホブスンは考えている。

  生産可能な生産物 > 消費される消費財

このため、中核において自国内の市場で消費しきれない生産物を外国市場で売ろうとする圧力が高まる。しかし、他の中核諸国でも同様に供給過剰の状態であれば、それらの諸国は外国からの輸入を制限しようとするであろうし、強力に制限しなくてもどのみち売れない。これでは生産を消費に合わせた水準まで落ち込ませなければならず、企業家や資本家にとって利潤は最大化されない。

従って、生産物の販売先や資本の投資先は、より周辺的な諸国に求められることになる。その際に、諸企業は政治(政府)の力を動員することでその達成を容易にしようとする。それが「植民地・保護領その他帝国的開発地域」を求めようとする原動力となっている、その上、他の中核諸国も同様の対策をとろうとするために競争があることがそれに拍車をかける、というのが、ホブスンの主張ではなかろうか。

このような個々の企業の利潤追求のための活動が、帝国主義の政策となって表れる。

本書の初版は、ほぼ100年前(1902年)のものであり、ここで引用した序文は1938年版のものである。つまり、初版は100年以上前のものであり、この序文も70年も前のものである。しかし、ホブスンの主張は基本的に現在でもかなり通用する。特にブレトン・ウッズ体制は、こうした動きを抑制する効果を持っており、冷戦という形で世界を小さく区切ったことも、それの持続を助長したのではないかと私は考えるが、70年代初頭にブレトン・ウッズ体制が崩壊したことで、再度、それ以前と同じような状況になってきている、というの私見である。

新たなグローバルな経済の枠組みが必要になっていると思うが、そうした動きはそれほど大きくない。大恐慌への反省としてブレトン・ウッズ体制が作られたように、同様の大打撃を受けない限り動けないほど、人間というのは十分な反省ができない馬鹿者なのだろうか?

2ヶ月ほど前の「ツァラトゥストラはこう言っている?」の記事でケインズの豊かさの復権(メモ)というのを書いたが、こうした構想が本来はもっと議論されてしかるべきなのだろうと思う。安倍晋三・極右政権が成立したことによって、日本ではそれが完全に妨げられている。




金においても生命においても極めて高価につくこの政策によって、帝国主義国の人民が、長い期間にわたって見れば、否短い期間において見てさえ、損失者になるということは真であろう。しかし、この費用の大部分が全体としての公衆の上にかかることが普通だとすれば、外国貿易や投資に従事する資本家的利益にとっては、彼らの利潤のための政策を推進することはやはり有利であろう。かりにノルマン・エンジェル卿が主張するように、このような帝国主義が戦争を起こし易く、それと共に資本主義制度にとって致命的な国内革命の危険を含んでいるとしても、特恵を受ける諸産業に対し帝国主義のもたらす即座の利益を目前にしては、そのような結果の危険性は理解されないか、或は無視されるであろう。(上巻p.28)



かような民主主義の形態が依然として維持されているとしても、それは独裁執政官ないしは支配階層の意志の自動的もしくは強制的な表示にまで引き下げられる。(上巻p.30)



そして元気のよい対外政策を鼓舞する戦闘的掠奪性に対する感情的な訴えと共に、過剰商品と過剰人口のための捌け口を供給することによって、経済的平等主義に対する国内の民主主義的な闘争を他にそらそうと努める。(上巻p.30)



これらはいずれも小泉政権と安倍政権の日本にほとんど完全に当てはまる。100年前のイギリスで書かれたものとは思えず、現在の日本で書かれたものではないかと錯覚するほどである。

外国への侵略や戦争被害を無視しようとする政治言説や、民主主義の形骸化、政治による「格差」の無視など、いずれも帝国主義のもとで見られる現象と見事なまでに合致している。グローバルな経済活動とこれらは完全に結びついている。つまり、グローバルな活動ができる企業の利益と合致するように政治が動いているのである。

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