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フェルナン・ブローデル 『地中海』(その7)
第Ⅲ部 出来事、政治、人間 より

地中海で平和が新たに確立されるのは、戦争が隣の広大な空間、すなわち、西では大西洋、東ではペルシャ国境付近とインド洋を住処と決めてからである。トルコが東へと向きを変えるに従って、スペインも西に向かって動き出す。出来事の歴史は、まさにその歴史の本質からして、こうした大規模な揺れ動きを説明することができない。(p.89)



システム論的な国際関係論になっている。前回のエントリーでも触れたように興味深い見方である。ウォーラーステインとブローデルを比較すると、ウォーラーステインはシステム論的な見方を力の上下関係(中核が周辺を搾取する)に還元してしまう傾向が強く、政治史よりも経済史が重視されるのだが、ブローデルの場合は、「戦争と平和」や「大きな戦争と小さな戦争」の布置の説明もシステム論的に(というよりは、長期持続ないし変動局面の時間軸を使う際に、それに見合った空間を暗に想定しながら)行われるところに考え方の色合いの違いがある。




ところで、この長引く戦争(引用者注;スペインとフランスの戦争)は、誰にとって、利益になるのか。もっぱら、また、間違いなく、プロテスタント列強諸国と、その海軍にとってである……。プロテスタント諸国の海軍は大西洋の空間を思いのままに荒らし回る。オランダ連合州は、カトリックにとどまっている南部の諸州が悲惨なほど貧しい状態にあるからこそ、強大化するのである。・・・(中略)・・・。フランス人とスペイン人が都市、要塞、土くれを奪い合っている間に、世界はオランダ人とイギリス人の手に握られようとしている……。(p.152)



日本政府が拉致問題に強硬かつバランスを失するほどにこだわり続け、同時に歴史問題を通じて戦争責任問題を再燃させるなどの争いを続けることは、誰にとって利益になるのか?国際的な影響力を強めるのは中国政府であり、覇権を手放したいアメリカ政府もまた自らの望みを叶えることになる。16世紀のスペインとフランスの場合とは違って、現代の問題では係争のもう一方の北朝鮮政府まである程度の利益を得られる。では、問うが、日本政府にとっての(人権問題上の、ではなく)外交戦略上のメリットは?




訳者あとがき より

つまり普段見ている世界像はつねに見る者の位置からしか見えないというわけで、たとえば第三世界の人々から現代の世界を見れば、その世界像は必然的に我々の世界像とは異なるということである。(p.199)



ナショナリストにはほとんどすべての場合、この視点が不足している。(もちろん、これが不足しているのはナショナリストに限らないが。)安倍政権になってから閣僚がやたらと失言を連発している――女性は産む機械、人権メタボ、日本人は同質的、従軍慰安婦強制の証拠はない等々――が、彼らの失言はまさにこうした別を踏まえた複数の視点からものを見ていないことと関係がある。彼らには、「支配する(強権的権力者たる)男性」の視点しかないのである。

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フェルナン・ブローデル 『地中海』(その6)
第Ⅲ部 出来事、政治、人間 より

 レパントの勝利そのものが可能であったのは、もっぱら、スペインがこの時ばかりは深入りしたからなのであるが、この点は必ずしも理解されているとは限らない。すべての情勢が幸いにも味方してくれたおかげで、スペインの抱えていたあらゆる困難がとりあえず軽減されたばかりでなく、まさに1570-1571年においては、ありとあらゆる困難が同時に和らいだのであった。・・・(中略)・・・。いずれにせよ、スペインは対外的な重荷をすべて下ろし、突如身軽になっていた。(p.378)



国際関係論ないし外交問題を論じるとき、本書におけるブローデルの見方は有効である。新聞や特に右派(というか、嫌中・嫌韓・嫌北朝鮮とでもいうべき)ブログなどを見ていると、どうも外交関係を一対一の関係であるかのように見ているフシがある。少なくともそうした伝え方が異様に多い。

しかし、外交関係というのは、単なる一対一の関係ではなく、多対多の関係である

今月、安倍首相の従軍慰安婦の強制性を否定するコメントが世界中で話題になったが、彼ら(国粋主義的な思想をもつグループ)のアタマの中には、日本政府の外交にかかわる問題について考えるときでさえ、相手がいない(外交問題になることを外交問題として捉えることができていない)か、相手がいても一つであるかのように発想しているように見える。(後者は新米右派派に典型的に見られる。)

例えば、安倍は「強制性の証拠はない」と米下院だけを見て発言したが、これは相手がいないかのような発言であると言える。彼のような思想信条の人間が、一国の政府の首相という立場で、あのような発言をしたために、国際社会から総スカンをくらったのである。そのため、あわてて「河野談話を継承している」と言いなおさなければならなかった。

私に言わせると、安倍の言動は「バカじゃね?」という感じなのだが、要するに、ブローデルのような外交や国際関係が、そして戦争も、多対多のものであるという発想が希薄のようである。 あのような発言をしたら世界中から、特に少なくともかつて日本の植民地とされた地域の人々から反発を受けることは当然予想しなければならないことであり、安倍の思想信条がどのようなものであれ、総理大臣という立場の人間があのような発言をすることは許されない。

新米右派の人たちも、結局はこの点を軽視していると思われる。アメリカと組んでさえいれば、安全だという発想はまさに多対多であることをよく見ていない。まさに「冷戦時代の発想」と言っていいだろう。というのは、冷戦時代には、擬似的に東と西が一対一であるかのような外観を呈していたからである。

近年は冷戦の相対的に固定的な体制が崩れ、田中宇の言葉で言えば「多極化」が進んでいる。そうした中で、中国と緊張関係を保ち続けることは、中国の経済が成長してきたときに他国と比較して対中のパイプが細くなる可能性が強いという点で非常に不利になると予想すべきであって、もし日本政府が国際社会でのプレゼンスを増そうとするならば、戦略的に誤っている

この多対多の関係が、それに加えて、スモールワールドかつスケールフリーなネットワークであるとすれば、(少なくとも経済はこうした関係になっていることはわかってきている。)ハブとなるノードとのリンクは重みがある方が有利になる、すなわち多くの選択可能な選択肢を握りやすくなる。これは他の勢力を牽制する場合であれ、誘導する場合であれ、当てはまる。(これはもちろん、諸刃の剣でもあるが、はじめからそれを恐れて近づかないのは馬鹿げている。関係を切るのはいつでもできるが、構築するのは時間がかかるのであるから。)

これからネットワークのハブになる(より有力なハブになる)有力候補は、例えばBRICsであり、現にハブであるのは、アメリカやEUの主要国であり、(BRICsとかぶるが)ロシア、中国などである。欧米は低成長ではあるとしても、急速な衰退の兆しはない。日本もハブでありうる力を現時点では持っている。そのために軍事力にいたずらに頼る必要もない。軍事的な攻撃ができるかどうかはさほど関係はない。軍事的な防衛ができれば十分である。(ミサイルに対する防衛はどこもできていない。)

ハブとリンクを保つことがスケールフリーなネットワーク上で栄える鉄則だとすれば、それをいかに確保するかが外交戦略の基本となるはずである。ブローデルのこの歴史書は、そうした「ネットワークの視点」までは行かないにせよ、多対多の関係では相手がどのような状況に置かれているかをしっかり見据えることの重要性を示唆しており、現在の日本にはびこる考え方に対しては重大な批判を含んでいると解釈できる。

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フェルナン・ブローデル 『地中海』(その5)
第Ⅱ部 集団の運命と全体の動き より

人間がただ一人で、自分の名で旅をするとき、その人間と、その人間が運ぶ物質的ならびに精神的財産を止めることは何ものもできない。集団や社会全体となると、移動は困難になる。一個の文明はその荷物全部を持って移動することはない。(p.192)



ブローデルの文明観の特徴として、空間性、つまり、ある場所と結びついていることが挙げられる。文明が移動するとき、全体として移動することはないというわけだ。

私は「文明」とか「文化」を論じる場合、それを主体(原因語)として語ることは極力避けるようにしているので、ブローデルとは見方がかなり違うところがある。しかし、ここの引用文を一人の人間と社会との相違点を指摘しているものと捉えるならば、ブローデルの考え方は、政策論を考える場合にも有効である。

つまり、ある政策を導入したときに、その社会全体が同じように変化することはない、と考える。金子勝が『市場』という著作で「弱い個人の仮定」の重要性を説いているのは、この点から見て極めて重要である。




中国のものであった鐘が、七世紀に、キリスト教のものになり、教会の上に納まるようになるのに何世紀必要だったか誰が知ろうか。いくつかの史料を信じるならば、鐘楼そのものが小アジアから西欧に渡るのを待たなければならなかった。(p.197-198)



鐘は中国発祥だったとは知らなかった。確かに、中国の古代の遺物には、鐘の形をしたものがかなりある。実用的なものというより儀礼に使われたものだろうが。

G.I.ブラティアニュに従って、私はすでに指摘したことがあるが、1340年頃、フランスで服装が突然大きな変化をした。つまり男の服が十字軍時代のゆったりした服に代わって、短く、体にぴったりした胴着になり、タイツ風の長靴下兼用のズボンとプーレーヌという爪先の尖った靴をはくようになった。すべて新しいことは、1300年代のスペイン風山羊髭と口髭とともに、カタルーニャから入ってきたのであるが、実際にははるか昔に由来するのである。すなわちカタルーニャ人が出入りしていたいオリエントに、またオリエントを経由してブルガリア人だけでなく、シベリア人にも由来する。一方女性のファッション、特に角のように尖った髪型は、キプロスのリュジニャン家の宮廷に由来するが、実は時間と空間を越えて、はるか彼方の唐の時代の中国に由来するのである…。(p.198)



ここでもオリエントと中国が「ヨーロッパ」に影響を与えている。比較的古い時代(1900年以前?)において、これらの地域からの影響は甚大なものがある。




ユダヤ商人は飛躍を遂げている地域に向かって行く。彼らはその地域の華々しい発展に貢献するとともに得をする。貢献は相互的である。資本主義とは、同時に無数の事柄であり、計算のシステムでもあり、技術の使用でもあり、金と信用の技術でもある。(p.264)



土地に縛り付けられていないが故に、資本と共に移動できることが、ユダヤ人(より正しく言えばユダヤ教徒)が大資本を握ってきたことの要因の一つとなっているのだろう。

近年のグローバル化が進んだ経済では、このように「資本と共に移動できる」という特性がもつアドバンテージはかつてないほど高まっている。日本経済は好況と言われ、企業は儲かるが労働者には還元されないと言われるが、それは資本家の側が投資先だけでなく労働者さえも選択できる経済の仕組みになってしまったところに重要な原因がある。

一国レベルの政策でも対策は必要だが、究極的には世界経済のあり方を規制しなければならない。現時点では恩恵を受ける人々(特に、半周辺諸国の労働者)が相当数おり、また、力の強い勢力(大資本家)にも好都合であるため、短期的には解決は困難であろう。

この構造は長期的には破綻に向かっていると思う――流動性過剰になって世界恐慌のようなことが起こるか、または、中国とインドの労賃が世界平均をある程度上回り、どこに行っても安い労働力が手に入りにくくなるまで続くだろう――が、そこに至るまではまだかなりの時間がかかると思われる。




 とにかくこの芸術、バロックは、たいていの場合、プロパガンダの芸術である。それは、こう言ってよければ、良い面も悪い面も併せ持った、方向付けられた芸術である。・・・(中略)・・・。芸術は戦い、教化する強力な手段である。イメージの力によって、神の母の無垢の聖性、聖人たちの有能な価値、聖体の力強い現実、聖ペテロの卓越をはっきりと示す手段、聖人の幻影と恍惚を論拠とする手段である。(p.289-290)



キリスト教の教会で用いられる芸術様式の多くはこうした性格を持っている。ゴシックの荘厳な様式も神の偉大さを表すと同時に、建設者の力をも誇示している。ロマネスク様式のタンパンに見られる「荘厳のキリスト」なども同じである。

ただ、バロックの場合は、その激情的な表現形と総合芸術として性質のため、プロパガンダ的な性格が一層強いということもまた確かであろう。




 したがって、1574年に、地中海では戦争は終わったと言うときに、どの戦争であったのかをはっきりさせておかなければならない。大国の権威拡大によって多くの費用をかけて遂行される、きちんとした大戦争は、なるほど終わりである。しかし、大戦争がなくなったために、軍隊、すなわち不十分になった儲けと俸給ではもはや艦隊の生活につながれてはいない軍人は冒険に身をまかせる(この事実は、1588年に、炯眼なヴェネツィア人、ヴェネツィア湾将軍のフィリッポ・パスクワリゴに見落とされない)。ガレー船の船乗り、時には艦隊から抜け出したガレー船そのもの、兵士あるいはふつうだったら兵士であった者、まずまず広い行動半径の冒険家はすべて、地上あるいは海上の小さな戦争に吸収される。新しい戦争が古い戦争を追い払い、取って代わる(p.388-389)



冷戦後の世界と通じるものがあるように見える。冷戦は大戦争自体は回避されていたが、それでも各国政府により「多くの費用をかけて」「きちんとした」準備がなされていたし、「大きな戦争」としての地域的な代理戦争はあった。しかし、90年代以降は主権国家相互の間の戦争というよりは、それよりも小さな主体が戦争の主体となっている。「小さな戦争」の時代に今の我々は生きている。

それぞれの時代はその時代の戦争をつくりだし、またその時代特有のさまざまな戦争を生み出す。(p.390、本文傍点を下線に変更)



名言である。

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フェルナン・ブローデル 『地中海』(その4)
第Ⅱ部 集団の運命と全体の動き より

地理上の大発見を挑発したのはトルコによる征服であるという説明をたぶんくつがえさなければならない。反対に、たしかに地理上の大発見こそ、レヴァントを取るに足りない利益の地域としたのであり、その結果、トルコは大した困難もなくレヴァントにおいて領土を拡大し、居すわることができたのである。というのは、それでもやはり、トルコが1517年1月にエジプトを占領するのは、二十年前[1498年]にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰就航を実現したからである。(p.26)



ブローデルの見解に対して異議がある。むしろ、この箇所からは(というより、むしろ、ここに至る叙述自体がそうなのだが)「何としてもトルコを貶めたい、西欧こそが優れていると証明したい」という――ユーロセントリズム的な――情念さえ感じる。

いわゆる「地理上の発見」が後々になってから、結果としてオスマン朝が支配していたシリアやエジプトの弱体化を招いたとは言えるが、16世紀初頭の時点で、そこまでオスマン朝は弱体化してはいないはずである。仮に弱体化があるとしても、「地理上の発見」に伴うダメージは小さいのではないか。

私の知識では一応そういうことになっているのだが、突き詰めてみれば十分な確証はない。(専門家でも十分な結論を出すのは難しい?)この点は、時間があるときに少し調べなおすことにしよう




カトリック両王時代のスペインとフェリーぺ二世時代のスペインの中間にあるカール五世の時代は、全世界的な意味を帯びていた。十字軍精神そのものが変化した。十字軍精神はそのイベリア的性格を失い、<レコンキスタ>の理想から遠ざかる。(p.40)



これは「精神が変化した」というよりも、むしろ、そもそも十字軍的イデオロギー自体、当時における帝国主義の表現形態だったという捉え方の方が自然であるように思われる。「十字軍精神」と言ってしまうと、むしろ、その精神のありようを実体化してしまうことになる。

つまり、十字軍精神は、レコンキスタだけでなく、エルサレムやシリア方面への軍事遠征でも、ヴェネツィアやコンスタンティノープルの占領でも、南仏へのカタリ派討伐(アルビジョワ十字軍)でも、基本的に同じと考えて良いのではないか。

そして、カール五世がとらわれた「世界君主国」の理想も、結局は自分の支配領域の近隣の領域を自らの勢力圏に入れてしまおうという野心にほかならないとすれば、これらは一言で、領土的な野心というべきであり、いずれも経済的な利益を大きな動機としつつ、軍事的に拡大を行おうとしたことを考慮すれば、帝国主義的と形容してもそれほど的外れでは内容に思われる。




結局、我々歴史家は、封建主義、ブルジョワ階級、資本主義といった我々のつくりあげた数々の言葉を用いているが、それらの言葉が意味する現実が、時代によって異なることをいつも正確に考慮しているわけでではない。(p.139、本文の傍点は下線に変更)



ウェーバーの理念型を用いた方法論の利点は、このことをよく自覚しながら説明を行いやすいところにある。

ただし、その欠点もいくつかある。概念の境界領域の内部と外部のつながりが、意識の上で断ち切られてしまいやすいことであり、さらに、概念構成のあり方自体に対する反省は必ずしも容易ではない、ということである。

後者は要するにブローデルが言っていることを一歩抽象的なレベルに後退させただけとも言えるため、その意味では理念型による利点の効果を相殺する要素と言える。

しかし、ブローデルが注意を促す考慮を怠ると、叙述が論理的に誤ったものとなってしまうのに対し、理念型のレベルでの留意が不十分であるだけであれば、叙述の論理性は確保しやすいという点でやはりメリットは残る。(そして、ウェーバーが言うように、論理的に「正しく」理念型が構成されていれば、その叙述が現実と対応しなくとも、それゆえにこそ発見的な手段として役立てることもできる。)




強盗行為は至るところにあり、多様な顔を持っている。・・・(中略)・・・。ポルトガル、バレンシア、ヴェネツィア、イタリア全土、オスマン帝国の全領土において、絶えず場所を変える――これは盗賊たちの力である――盗賊の小国家は、音も立てずに、カタルーニャ・ピレネー山脈からグラナダへ、あるいはグラナダからカタルーニャへ移動したり、ヴェローナ付近のアルプス山脈からカラブリア[イタリア南部]まで、アルバニアから黒海まで放浪したりすることができる。この非常に小さい勢力が既存の国家をばかにし、ついには国家を衰弱させるのだ。彼らは最近の人民戦争のパルチザンに似ている。民衆はいつも彼らの味方である。(p.148-149)



2007年現在で言えば、ここで述べられている盗賊たちは、アルカイダやハマスのような組織にあたるだろう。ブローデルは、こうした小国家の力に対して巨大な帝国は勝利できなかったことを描いているが、昨今の世界情勢でも同じような状況にあるように思われる。アフガニスタン、イラク、パレスチナ、いずれも軍事大国の側の被害は甚大であり、――ブローデルの指摘どおり――民衆は「パルチザン」の側の味方である。




次はブローデルではなく網野善彦によるコメント。

ブローデルの広い視野から描かれたこの全体史の中に、女性の姿が余り現れないのが気になったのは、私の浅いふれ方のせいであろうか。(p.ⅩⅨ)



確かに言われてみれば、その通りである。

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増田直紀、今野紀雄 『「複雑ネットワーク」とは何か 複雑な関係を読み解く新しいアプローチ』

小さい平均距離と高いクラスター性の組み合わせ(スモールワールド性)は、ほとんどの実世界のネットワークが持っている。それと比べると、実はスケールフリーは普遍的ではない。(p.118)



これはバラバシの本(『新ネットワーク思考』)でははっきり書かれていなかったポイントであり、これら二つのタイプのネットワークを認識枠組みあるいはある認識を得るための道具立てとして使用する際には注意すべきポイントでもあると思われる。




 野外で遊んだりゲームをしながらキャンプの日々は過ぎていく。シェリフらは最初、参加者を2つの集団に分けておき、各集団には相手集団のことは知らせなかった。そして、ある段階で他集団の存在が双方に知らされると、集団間の対抗意識が芽生えたのである。次に、ソフトボールなどの集団対抗試合が行われた。当然、集団間の対抗意識は燃え上がっていく。それとともに集団内では結束度が上昇していった。参加者は無作為に所属集団を決められたのにである。(p.123)



有名な「サマーキャンプ野外実験」というやつだ。

ネット上の政治言説のあり方とも通じるものを感じる。ネットウヨと呼ばれるような人々には、嫌中・嫌韓とでも言うべき情念が感じられるが、まさに彼らはこの野外実験における被験者のように見える。

とりわけ、彼らの社会分析に関する知見が極めて素人的であり、特定の見解を主張するために必要な分析のプロセスを踏んでいないことなどから、社会科学や社会政策に関しては完全にド素人であることが極めて多いと思われるのだが、これはとりもなおさず、それらの人々が社会問題に対してそれほど関心を持ってこなかったということを示していると思われる。

そうした人々がバブル以後の不況やその中で生じてきた「財政赤字で破産する、大変なことになる」という、脅迫的=強迫的な扇動に乗せられることによって(もはやこれは完全に一般の常識と化しており、刷り込みが完了しているといってよいだろう)、社会に目を向けざるを得なくなった。そのとき、複雑な現象であり、専門的な数字などの意味が把握しにくい経済の分析や行政の緻密=稠密な制度の具体的諸問題には目が行くことはなく、一般に報道される頻度が小さい、NPOや市民運動・社会運動などの動きをよく知るわけでもなく、「報道されるままの政治」に目が引き付けられることになる。そこで外国、特にアメリカと日本近隣の外国――特に中国と朝鮮半島――(ばかり)が目に入る。

そこでナショナリズムに火がつく。その上、オリンピックやワールドカップなどの試合が対抗意識をさらに高めるのに僅かながらも力を貸すことになる。(ただし、実験と違い、自らがプレイするわけではないので、それほど大きな効果はない。)

ただ、この実験と現実の政治意識の大きな相違点は、集団の結束度を上げようとする際に、未来が見えない社会状況であること、つまり、明確なビジョンがない、あるいはそれほど明確でなくとも明るいビジョンさえない、という状況において、閉塞感が漂っているために、「自信喪失」のような状態に陥りやすいということである。

そこで「誇りと自信の持てる日本」や「美しい国」が登場するわけであり、その際に、対照項として「自分より劣ったもの」の表象が必要とされる。それが中国であり朝鮮半島である。しかし、北朝鮮を除けばこれらの地域は上昇局面にあり、次第に本の経済的優位は失われつつある。そこで、どうにかしてこの近隣諸国を蹴落とすことで優位を保ちたいという卑しい心理が生じる。これが嫌中・嫌韓の情念の根底にあるものの一つであろう。

この「腐った根性」は、『ワーキングプア』を取り上げた際に、格差社会を望む人々の心境についてかかれたこととかなりオーバーラップがあるように思われる。

冷静な議論が成り立たないのはこうした暗い情念――本人たちはこのことに向き合うことは極めて困難である――が根底にあるからであると思われる。彼らが「サヨク」と呼ぶ考え方は、こうした劣等意識を自覚させてしまうものであるが故に、このような言説に接すると、「ネットイナゴ」のような攻撃性として表れるものと思われる。

これが全ての要因とは言い切れないが、このような情念が蠢いていることはかなり的を射ているのではないか。




 実は、スケールフリー・ネットワーク上では、病気の蔓延が起こりやすくなる。これは、憂慮すべき結果だ。(p.145)



これはネットを使う際にも留意すべき点である。

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フェルナン・ブローデル 『地中海』(その3)
第Ⅱ部 集団の運命と全体の動き より

一方では人間が多すぎて、馬が十分ではないが、他方では馬が多すぎて、人間は十分にはいない!イスラム世界の寛容はおそらくこの不均衡に由来するのであろう。イスラム世界は自分の手の届くところに人間を見つけさえすれば、その人間がいかなる者であろうとも、その者を受け入れることができるのを幸せと思うのである。(p.88-89)



ブローデルの歴史叙述には幾つかの欠点がある。その一つがヨーロッパ中心主義であり、価値序列としてはヨーロッパ至上主義である。それが露骨なオリエンタリズムの叙述として表れる。この箇所はイスラーム世界に対する「偏見」の最たるものであって、到底受け入れることのできないものである。

例えば、アッバース朝治下のバグダッドやダマスカスが100万都市、50万都市であったこと、また14世紀頃に既に高層建築を建てなければならないほど人口が密集していたカイロといった都市のことをちょっとでも考えれば、イスラーム世界が「馬は多いが人はいない」などとは言うことは不可能である。

もちろん、本書は今から40年以上前に書かれたものであり、イスラーム世界についての研究が十分に進んでいなかったということはある。しかし、そうであれば、分かっていないなりの書き方をするほかないはずである。




貴金属は、いったん地中海の生活のなかに入ったら、東方に向けて流出が年中続くのである。黒海、シリア、エジプトで、地中海貿易のバランスは、ずっと前から赤字続きであった。地中海貿易が極東にまで到達しえたのは、もっぱら地中海自体の貴金属の保有をそっちのけにして金と銀を輸出したことによる。(p.189)



イタリアの経済活動は、世紀末の数年で、十分にたくましくなって、ドイツ、東ヨーロッパ、ネーデルラント、フランス、そしてスペインとの貿易において貿易収支が黒字になっている(カスティーリャの羊毛購入のためにフィレンツェにとっては赤字になっている貿易収支は考慮に入れない)。この黒字残によってイタリアはみずからのために富を蓄積することができ、レヴァントやトルコ方面の赤字を清算することができる。(p.245)



こうした貴金属の西から東への流れについてはA.G.フランクが見事に描き出すことになるのだが、その流出メカニズムの詳細についてはさらに知るべきことがあると思っている。しかし、大雑把に言えば当方の経済的優位性を示しているというフランクの考えは支持しうるものと思われる。




アメリカ大陸に始まって、地中海経由にせよ、喜望峰経由にせよ、地球を一周するこのイタリア―中国の軸は、二十世紀初めになってしか消え去ることのない世界経済の構造であり、永続であり、特徴である。反対に、ジェノヴァ―アントワープの軸は長期の変動局面の範疇にしか入らない。それはスペインがネーデルラントを握っている限り、すなわち1714年まで続き、またスペインが支配下に置いている銀のインフレが続く限り、すなわち1680年まで続く。したがって、イタリアは、十七世紀の間、以上二つの軸の交差するところにある。(p.246)



東西の軸を長期持続(構造)として捉え、南北の軸を変動局面のものとして捉えるというのは、興味深い。異なった時間軸に属する現象が同時に存在することで、ある特定の時期の状況とその前後の変化を的確に表現することができる。

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フェルナン・ブローデル 『地中海』(その2)
第Ⅰ部 環境の役割 より

ところで、歴史にとって、ほぼどこにでも同じ気候、同じ季節のリズム、同じ植生、同じ色彩、そして地質の構造がそこに加われば、うるさいほどよく似た、同じ風景を見出すことはどうでもいいことではない。結局のところ、同じ生活様式が見られるのである。(p.391)



地中海が均質的な世界であるとするのは、なかなか鋭い洞察であるように思われる。古代のローマ帝国がどこでも同じ都市計画で小さなローマを次々と建設して行ったことも、こうした条件があればこそであったろう。

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フェルナン・ブローデル 『地中海』(その1)
第一部 環境の役割 より

地中海空間は東および南の方面で二つの侵入を体験した。・・・(中略)・・・。つまり七世紀に始まるアラブ人の侵入であり、十一世紀からのトルコ人の侵入である。トルコ人の侵入は中央アジアの「寒い砂漠」からの逃げ道として起こり、この侵入はふたこぶラクダ使用の拡大を伴い、ふたこぶラクダ使用の拡大を強化した。アラブ人の侵入はアラビアの「暑い砂漠」から始まり、これはひとこぶラクダの普及が促進したものであり、さらにはこのひとこぶラクダの普及が侵入の説明となる。
 この二種類の輸送用動物は、見掛けは明らかに似てはいるし、また混同されることもあるが、違うものである。・・・(中略)・・・。ふたこぶラクダは、バクトリア原産で、寒さも山の起伏も恐れない。ひとこぶラクダは、アラビア産で、砂漠と熱帯の動物である。これは事実上山道を歩くには適さず、またあまりにも低い気温に耐えることはできない。・・・(中略)・・・。
 この二種類の動物の生態の違いはきわめて重要である。かなり広い境界地帯がそれぞれの領域を分けている。・・・(中略)・・・。非常におおざっぱに言えば、この境界地帯は冬には寒いイラン高原である。・・・(中略)・・・。実際は、アナトリア高原も、イランの高地もひとこぶラクダに大っぴらには開放されていないし、アラブ人による征服が小アジアで失敗し、征服がペルシャで決して楽々とおこなわれなかったその責任の大半は、ひとこぶラクダが劣っていたためであると考えなければならない。(p.153-154)



なかなか興味深い分析である。アラブのイスラーム帝国(アッバース朝)はアナトリアのビザンツ帝国を滅亡に追い込めなかったが、ウマイヤ朝は北アフリカ地中海沿岸からイベリア半島までを比較的容易に渡っていけたこと、また、セルジューク朝などトュルク系の人々がアナトリアへと侵入できたことなどを説明しようとする場合、その背景として、こうした要因を指摘することは可能だろう。




ふつう人々は北のイタリアと半島のイタリアの間にはきわめて大まかな対立しか見ていない。しかし、東西の対立、つまりティレニア海のイタリア対レヴァントのイタリアは、それほど目立たないのだが、やはり著しいのだ。この対立は、過去においてずっと、密かな分節化としてはたらいてきた。長いこと東方世界が幅をきかせ、半島の西欧を凌駕してきた。それに対して、西、つまりフィレンツェやローマこそが、ルネサンスを生み出したのである。(p.211)



東西の対比というのは興味深い。確かに東の海岸はヴェネツィアの影響が強そうだし、「長靴」のかかとのあたりは特にビザンツの影響が大きそうだ。ローマについて言えば、ローマ帝国が東に都を移そうとしたのも、経済の中心地たるレヴァントへのアクセスの悪さが要因としてあっただろうから、東と西との分断はかなり昔から続いていたと見ることは可能である。

なお、ブローデルの叙述は、西のイタリアの側からの見方になっているが、ルネサンスが西側で花開いたのは「辺境革命論」的な説明をするほうがいいだろう。つまり、ビザンツ=ギリシャの文化圏を中心として、その勢力の変動(中心の動揺とそれによる周辺への波及)として捉えたほうが良いのではないか。つまり、もともとビザンツの文化的影響圏の内側にあった半島東側に対して、西側は(影響圏外だったものが)辺境地帯になったことが、そうした変化が起こる背景としてあった、と。




「全体」としてとらえた地中海は、十六世紀には、アゾレス諸島や新世界の岸辺にも、紅海やペルシャ湾にも、またバルト海にもニジェール川の湾曲にも関係しているのだと言うことは、地中海を過度に伸長性のある動く空間として見ることである。(p.280)



 もはや植物や動物でも、起伏や気候でもなく、いかなる境界標も止めることができず、あらゆる障害を乗り越えていく人間が問題になるときには、実際、どんな国境線を引くべきなのか。地中海(ならびに地中海に随伴する「最も大きくとった地中海」)とは、人間がつくったとおりのものなのだ。人間の運命の轍が地中海の運命を定め、地中海の領土を拡げたり縮めたりするのだ。(p.282)



方法論的に興味深い箇所。私見では、世界システム論を主張した初期のウォーラーステインが強調していた「商品連鎖」という境界の区切り方は、ブローデルの地中海の境界の切り方に見られる考え方を、より一般化したレベルで示したものといえる。

いずれにせよ、システムの境界は動くものであり、作動のあり方によって決まってくるというあたりはオートポイエーシスとも共通するものがあり、その変動に着目している度合いはウォーラーステインよりもブローデルの方が鮮明であって、いずれにせよこの部分(最も大きくとった地中海という見方)は知的な刺激に満ちた議論である。

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門倉貴史 『ワーキングプア いくら働いても報われない時代が来る』

 「ワーキングプア」が増えることの一番の問題は、一度「ワーキングプア」に陥ると、構造的にその状況から脱却することが非常に難しいという点だ。
 人生には、病気や事故など予期せぬさまざまなリスクがつきまとう。普通の人たちは、こうした万一のリスクに備えて、所得の一部を貯金に回したり、各種の保険に加入したりする。
 ところが、「ワーキングプア」に属する極端に所得水準が低い人たちは、こうしたリスクに十分に備えることができない。
 所得のすべてが生活費に回ってしまって貯蓄がゼロなので、家族の誰かが入院したりすると、突然、極貧状態に陥ってしまうのだ。
 このため、自分の意思とは関係なく、貧困の状態が固定化されてしまう。ある人が一度、「ワーキングプア」になると、アリ地獄のように、そこから自力で這い出すことは非常に難しくなる。(p.24-25、下線は筆者による強調箇所、強調は引用者による。以下同様)



「格差社会」などと言われるが、それが問題であるのは、所得などの相対的な違い(差)があるからではない。こうしたワーキングプアのような人々や失業者が増えているということが真に問題とされるべきものである。

つまり、ワーキングプアの問題やその根底にある労働環境と労働法制の問題こそが、「格差問題」の核心の一つである。もうひとつの核心があるとすれば、それは社会保障の充実、すべての人について最低限の生活水準を守るための制度の充実(これに逆行している昨今の政策の転換)にある。

そして、ワーキングプアの問題の最重要な点を本書はこの箇所で指摘している。最低限度の生活水準すら確保できなくなる危険性が極めて高い、いわば「崖っぷち」の生活を「強いられている」人々がいるということであり、しかも、彼らは仕事がないか、仕事があっても低賃金であるため長時間(しばしばかけもちで)働かねばならず、かつ、それでも貯金すら十分にできない人々がいるということである。そのため、一度ワーキングプアの水準の生活になってしまうと、その地位に押し込められる、ということである。





 国勢調査局の統計によると、米国では、2001年にブッシュ政権が誕生して以来、景気が上向くなかでも「ワーキングプア」の人口が増加傾向をたどっている(図表5)。共和党のブッシュ政権は、政府の役割をできるだけ小さくして、民間の競争を促せば、おのずと経済が活性化して、人々の生活も豊かになるとの考え方に立つ。しかし、貧困を減らすのに市場原理は有効に機能しているとはいえない。(p.31)



ここでアメリカについて言われていることは、そのまま日本にも当てはまる。安倍政権の「上げ潮路線」では、彼らが口先で主張するのとはことなって、貧困を減らすことには繋がらない。むしろ、傷口を広げるだけである。




 「格差社会がもっと広がって欲しいと思ってますね。自分はこれ以上、上にあがることができないから。自分と同じ位置に大勢の人が落ちてくればいいな、と。そういう世の中を望んでいる。たとえが悪いですけど。江戸時代の士農工商制度。僕はずっと社会の最下層にいるんです。格差社会が広がっていけば、大部分を占めた農民が自分たちと同じ位置まで落ちてきてくれるわけだから。結果、僕というダメな存在が目立たなくなる。そうなってくれたらいいなと思っているんです」(p.156)



ワーキングプアの人へのインタビューの部分である。ここで述べられていることは、私が指摘してきたネオリベやネオコンを支配層から遠い人間たちが支持してきた心理的な仕組みを明示している。普通はここまで意識化されていないと思われるが、こうした心理は潜在的にかなり多くの人々に広まっていると私は見ている。このインタビューに答えている人もほぼ当てはまるが、いわゆる団塊ジュニア周辺の世代にこうした怨恨に満ちた心理が広がっていると思われる。

小泉が首相だったとき、支持した層の一つは彼らの世代だったと思われる。また、安倍晋三が官房長官だったとき、北朝鮮への強硬姿勢がウケたわけだが、それも同様の心理である。他人(北朝鮮)を叩くことで、自分たちという「ダメな存在」を意識しなくてすむのである。ナショナリズムの高まりによって「誇り」などということが言われるのも、こうした「ダメな存在」である自分を直視できないためにこだわられている。つまり、この世代のこうした考え方をしている人々は、「ダメな自分」を意識しなくてすむような言説はウケるわけだ。

ネオリベ、ネオコン、ナショナリズムが一部でウケているのは、まさにこうした社会心理的な背景が要因としてあると思われる。(もちろん、そしたものは、世界経済の配置の大幅な変化の中での、衰退地域としての日本列島の経済的政治的な位置がひき起こす、様々な問題へのリアクションの仕方の一つにすぎないのだが。)

いずれにせよ、ここでの引用文は私が思い描いていた理念型をそのまま表現してくれていた点で重要なものである。




本書はワーキングプアという人々が多数存在しており、かなり困難な生活を強いられているという現実を一般に知らしめる啓蒙書としては、必ずしも悪い本ではない。しかし、本書は最後にあるべき政策について語るのだが、それはまりにも皮相的であり、ワーキングプアという現象の紹介の時点で感じられた分析の甘さがより一層酷い形で出ていてがっかりであった。逐一取り上げて批判したいが、そんな時間も余力もないのが残念である。

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丸山真男 『日本の思想』(その3)

ところが制度を判断する際には、まだ多分にその制度の現実的な働きによってテストしないで、それ自体として、いいとか悪いとかきめてしまう考え方が強く残っています。しかも現代の国際国内政治がイデオロギー闘争の性格を帯びているために、自由世界と全体主義世界とか、資本主義と社会主義とかいう分け方をあらゆる政治現象の判断に「先天的」に適用しようとする傾向が、右のような「である」思考に加乗されることになってきます。
 私は、こういう「主義」の区別が全く無意味だというのではむろんありません。しかし、良い制度から必然的に善事が、悪い制度から必然的に悪事が生み出されるという思考のパターンが固定化すると、それは認識として誤りであるばかりでなく、実際としてもはなはだ危険な結果になります。(p.167)



丸山真男の思想には随所にマックス・ウェーバーの思想の影響が見られる。こうしたプラグマティックな判断もまた、そうしたものの一つではなかろうか。私の解釈ではそのように読めた。私自身もこうした判断の仕方はウェーバーから影響を受けていると思っている。

さて、それはさておき、ここで丸山が述べているような判断の仕方は、現在の日本の政治言説でも見られるし、国際的なレベルの言説でも現に存在している。

ブッシュ政権のイラク戦争の(途中からの)口実は「イラクを民主化する」というものだった。デモクラシーという制度を導入すればイラクの人々は圧政から解放されて自由になるという論法な訳だが、これは丸山に言わせれば、典型的な「である」思想であろう。

また、自民党は、「国民投票法」なるものを今国会で成立させるつもりらしいが、これに賛成する一般人(非国会議員)の中にも、「国民が政治に参加する制度だからいい(当然)」と思っている人々がいるかもしれない。しかし、自民党の新憲法草案とセットで見れば、自民党の案では、「国民」の権利を制限する志向が明確な憲法であり、その案を成立させるための法案に賛成することは矛盾となる。

もちろん、人権に対して抑圧的な新憲法が成立し、それに伴って様々な法律が書き換えられることだけを懸念するならば、それもまたひとつの「である」思考なわけだが、実際、そうした法体系が整備された場合、政府が「国民」の自由を奪うであろうと推測することには根拠があると思われる。(その理由を述べるには、人権抑圧的な憲法の下で、現行憲法よりも人権が今よりも十分に保障されると判断する場合、相当強力な論拠がなければ説得力がないということを裏返せば十分である。)

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丸山真男 『日本の思想』(その2)

 政治の世界では、政治において「する」原理を適用するならば、それは指導者の側についていえば、人民と社会に不断にサービスを提供する用意であり、人民の側からは指導者の権力乱用をつねに監視し、その業績をテストする姿勢をととのえているということになるわけです。私たちの国の政治がどこまで民主化されているかを、制度の建て前が民主主義であるということからでなしに、右のような基準で測ってみたらどうでしょうか。現在何に貢献しているか、いかに有効に仕事をしているかにかかわりなく、ただコネと資金の関係で、または長く支配的地位についていたとか、過去に功績があったとかいうことで、政治的ポストを保っている指導者が大は一国の政治家から、小は村のボスまで、右は自民党から左は共産党まで、どんなにうようよしていることか。派閥とか情実の横行ということも、つまりは「『する』こと」の必要に応じて随時に人間関係が結ばれ解かれる代わりに、特殊な人間関係それ自体が価値化されるところから発生してくるものなのです。(p.165-166、本文傍点は引用文では下線に変更)



近年の日本の右派(政治家とマスコミやネット上の言論)に、かなりの程度当てはまる批判である。例えば、安倍晋三などは岸信介の孫かつ安倍晋太郎の息子でもなければ、首相などというポストに付くことはできなかった、というのもそうだ。

そして、まともな実績はない。やっているのは有害なことか無意味なことばかりなのだから。早めに退陣してもらうしかなかろう。

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丸山真男 『日本の思想』(その1)

 こういうふうに保守勢力でさえ被害者意識をもっているのですから、進歩的な文化人の方はなおさら、マイノリティとしての被害者意識があります。保守勢力も進歩主義者も、自由主義者も民主社会主義者も、コンミュニストもそれぞれ精神の奥底に少数者意識あるいは被害者意識をもっている。それだけ全体状況についてのパースペクチヴが、くいちがっているわけであります。(p.143)



この本が出たのは、46年ほど前のことだが、このあたりの政治意識ないし社会意識についての叙述は、近年の日本にも当てはまりそうである。とりわけ、ネット上での保守主義的な発言などを見ていると、彼らの憎悪や被害者意識が非常によく見て取ることができる。

次の引用文も同様に、現代日本で見られる考え肩と非常に通じている。

 また日本を牛耳っているのは官僚だというのも多くの人の常識になっている。私の高等学校なり、大学なりの友人には、当然役人になった人が多いのですが、クラス会などに出てみますと、局長や部長級の役人がやはり被害者意識です。外の社会から見ますと官僚は現在非常に巨大な権力を握っていると思われるが、当の役人そのものは支配者というか権力者というか、そういう意識ってものは驚くほど持っておりません、むしろ役人というものは四方八方から攻撃され、政党幹部からは小突かれるし、新聞からは目のかたきのようにいわれるし、非常に割りのあわない仕事だと本気で思っている。大新聞のいわゆる「世論」はこうした役人から見ると、ことごとく自分らに敵対的で、そのことに非常な焦燥、孤立感あるいは憤懣を持っているのです。自分たちの立場や言い分はいっこう通じない、また通じさせてくれないという孤立感です。こうなると、国中被害者ばかりで加害者はどこにもいないという奇妙なことになる。(p.144)



官僚が権力者としての意識を持っているかどうかは分からないが、被害者意識はありそうだし、自分の所属している組織の存在価値が否定されるような言説が満ちており、その上、より現実的な状況として給与も下がる一方となれば、「割に合わない」ということにかけては、この1950年代や60年代の比ではないだろう

それは措くとしても、「日本を牛耳っているのは官僚」という類の考えは、恐らく今でも根強くあるだろう。もちろん、最近は一部の政治家がかなり目立つようになってきたから、そうした一部の役職などについているような要職経験者たる政治家が牛耳っているという考えも強まっている。しかし、それと並行して90年代頃からの官僚バッシングのインパクトは根強いし、それを基調としていつの間にかそれが「普通の公務員」ないし「下級役人」風情にまで拡張されて「悪者探し」の的になっているというのが、近年の政治的な意識としてあるだろう。

まぁ、私に言わせれば、かなりの程度、そうした見方は、不当な「責任の押し付け」にすぎず、良い方向へと進むための方策の実現可能性を小さくしてしまう愚策である。公務員が公僕であるならば、少なくともそうであるならば、いかに彼らに「適切な政策を実行させるか」を考えるのが建設的な考え方である。

単に政治や行政に圧力をかけて「カネをケチらせる」のは、社会も政策も分かっていない人間の判断だというべきだ。政策は経営でもないし、家計でもない。ましてや処世術でもない。「財政赤字→とにかく緊縮財政」と結びつけて無駄遣いを止めろと叫ぶだけのバカは、政策を処世術と勘違いしている、と言っておこう。

なお、これらの重大な相違は、経営や家計や処世術が、行為主体(企業、家計、個人等)の損得を自己完結的に計算するのに対して、政策の場合は、それの執行主体を自己完結的に捉えることはできず、執行主体としての行政庁とその政策の影響を受ける一般社会をまとめて一つのシステムとして捉えた上で、かつ、その「システムにとっての損得」を「各構成素(諸個人)が同時に存立(生存)するという前提の下で」計算することが要求される点にある。

(余談だが、当然、上述のことは財政学における量入制出と量出制入の原理の相違を形成する要因である。経済主体が損得を計算する範囲と合致する場合、量入制出となる。)

さて、話を引用文に戻すと、丸山が「国中被害者ばかりで加害者はどこにもいないという奇妙なことになる」と述べているのも、現代の状況と一致している。ただ、「加害者」は(意図的あるいは意図せずして行われる「情報操作」が功を奏して)かなりの程度、限られた社会層に割り振られている。主として、政治家、公務員、マスコミであり、左派にとっては財界が挙げられることがあり、右派からは労組(日教組など)が挙げられる。

こうした固定観念から一度抜け出した上で、客観的に情勢を判断する能力が求められるが、これを大衆、有権者全体に求めるのは不可能だと考えるべきである。職業的に言論や情報を発信する人々やブロガーや社会運動家のように自主的に言論や情報を発信しようとする人たちに、この「客観性」が求められると私は考えている。

(しかし、ブログというツールの性質上、「客観的」な情報発信とそれによる「ハブの形成」は容易ではないとは思い、その意味で重要性は副次的なものでしかないが、より上位の影響力ある主体が発する言説の共鳴版としてブログは役立てばよいと考える。)

なお、私の場合、上記のようなプロセスを経た上で、差し当たり、勢力を削ぐべき対象は、安倍晋三をはじめとする安倍内閣の要職についているような「保守政治家」であり、同じことだが「日本会議などの右派団体と結びつきを深めている自民党」であると考える。そして、この対象を選ぶことは、一有権者としても妥当な対象であるとも考える。

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I.ウォーラーステイン他 『開かれた歴史学 ブローデルを読む』(その2)
アラン・カイエ「市場の支配力」より

彼の考える資本主義とは、生産から生まれるのではなく、流通から生まれるのだ。直接取引していた売り手と買い手のあいだに第三者、すなわち商人が介在するようになって、資本主義は始まる。それは、この第三者が金融仲介業者や資金を持つ商人や銀行家である場合には、なおさらである。ゆえに、資本家の利益とは、本質的に投機的次元のものとなるだろう。その利益は、マルクスが考えたように、商品等価作用の一環であるどころか、交換のルールを自分の利益のためにねじ曲げる資本家的中間者の能力から生まれるのだ。中間者をなくしてしまえとブローデルはいっているように見える。公正な市場をひたすら守るためには、資本主義をなくすしかないと。あるいは、商人のいないところにしか真の市場は存在しないと!(p.138)



流通主義的とも言われるブローデルの資本主義概念について簡潔にまとめている。ブローデルの資本主義概念には、生かしうる要素がかなりあるというのが、現時点での私の直観である。

「生産ないし生産関係」や「流通」という抽象化された現象を取り出して規定しても、経済活動を的確に捉えることはできないという点で私はマルクスもブローデルも拒否するが、現在でも見られる「生産力信仰」に対して別の見方を提示しているところにブローデルの資本主義概念の一つの意義がある。

もちろん、共時的な見方が導入されている点も優れた点である。

根本的に重要な点として、私見ではブローデルの資本主義はスケールフリー・ネットワーク的であり、ブローデルの市場はランダム・ネットワーク的であると見ている。ブローデルは遠距離の大規模な交易をする商人を想定しているようだが、それは距離の問題よりも「お金」が通過するハブであることに意義があるのだと考える。そうしたハブが存在するシステムを資本主義と呼ぶならば、この概念にも――この呼び方が最適かどうかという問題は依然として残るが――意味があると思われる。

逆に、ハブがなく、相対的に平等な主体間の交換過程が行われる社会的場を市場と呼ぶとすれば、それはそれで利用可能な概念ではある。但し、「市場」という言葉は、あまりにもネオリベラリズムの常套句として定着しすぎているので、使いやすくはない。その点、資本主義は既に死語に近く、逆に利用可能性が残っている。




フィリップ・ステネール「資本主義と近代性――マックス・ヴェーバーは考慮の対象外か」より

ヴェーバーのアプローチは、本質的にはマルクスを拒否したいという願望によって導かれているのではなく、むしろゾンバルトの主張を標的にしたものである。この見直しは、それ自体重要である。というのも、それはヴェーバーがゾンバルトを批判しながら、彼自身、ゾンバルトと同じ困難に陥っていくことを明らかにするからである。ゾンバルトにとって、近代資本主義の精神は二つの側面を持つ。すなわち、企業精神とブルジョワ的あるいは合理的精神である。ヴェーバーにとってと同様、ゾンバルトにとっての根本的な困難は、これらの特徴が資本主義の定義であるのか、あるいは逆に資本主義発生の諸条件であるのかを見きわめることにある。(p.207、本文傍点を下線に変更)



この論文集が出たのが1988年であることを考えると、この指摘はなかなか鋭いところをついている。(ただし、邦訳は2006年である。)

特に日本におけるウェーバー研究の状況に対しては重要な指摘たりえた筈である。なぜならば、日本でのウェーバー研究も、長らくマルクスとの関わりで論じられ続けたからである。(これは「社会科学」が輸入されたとき、生き残ったのが実質的にマルクス主義だけだったということの帰結の一つにすぎないのだが、ウェーバー研究という観点から見ると、重要な規定要因ではあった。)

近年の研究では、こうした同時代人とウェーバーとの関係を見直すという方向はかなり進められているようで、その意味では、この論文で指摘されているような方向に進んできたらしい。私としては、ゾンバルトの論文は「まだ」読んでいないので、様々なところで断片的に語られる彼の学説との比較しかできないのだが、確かに、ここでのステネールの指摘は妥当であるように見える。(少なくとも、ウェーバーの直接の「相手」がマルクスでなかったことはほぼ間違いない。ウェーバーはそれほどマルクス本人の書いたものについて深く研究したわけではないと思われるので。例えば、言及の深さや頻度などから推しても。)

とりあえず、私としては、この指摘によりゾンバルトを読む楽しみが増えた。(ゾンバルトの論文自体は、何年も前から購入してある。)




イヴ・ラコスト「地理学者ブローデル」より

それ(引用者注…差異化する空間性の原理)が具体的にどのようなものであるかを理解するためには、ある空間部分、たとえばフランスのさまざまな透写図――それぞれが地質、土地の起伏、気候、定住状況、経済、行政機構、言語および宗教分布の形状を示す――を重ね合わせるだけで十分である。これらの形状は、たいていの場合、互いに一致することはなく、交差intersections――つまり重ね合わさった透写図がそこに描かれた輪郭を錯綜させる箇所――を次々とつくりだすと思われる。そして地理的立論は、とりわけこの錯綜を解きほぐすことによってはじめて、現実の複雑性を説明することができるのである。(p.270、傍点を下線に変更、)



このラコストの「差異化する空間性の原理」は非常に参考になりそうだ。地図を手に入れて重ね合わせるのは素人には難しいが、それらを手に入れた上で頭の中で合成することで見えてくるものはいろいろありそうだ。

ちなみに、ラコストの論文ではブローデルとイブン・ハルドゥーンの類似性を指摘しており、この点も興味を引かれた。上記のウェーバーに関する指摘もそうだが、こうした意外なところで自分が関心を持っているもの(あるいはまったくそれまで関心がなかったもの))と遭遇し、少し通常とは違った角度から見させてくれるというのが、こうしたオムニバス形式というか複数の著者による論文集のよいところである。

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I.ウォーラーステイン他 『開かれた歴史学 ブローデルを読む』(その1)
フランソワ・フルケ「新しい空間=時間」より

世界的規模に身を置くという単純な事実が、経済理論のなかでは市民権のない事象を舞台中央に登場させる。・・・(中略)・・・
 その結果、かつての理論上の登場人物――国家、資本など――はその威厳をすべて失う。彼らは舞台裏に消え去るのではなく、たんにもはや見えなくなるのである。そのとき、奇妙なことに気づく。すなわち、彼らは遠くから見えていただけにすぎないのである。われわれが歴史学の、また社会学の虫めがねでより詳しく見ようとするや、これらの実体は溶解し、その意味深い影響力は霧消する。そしてこの新たに見出された光景では、すべてがつねに混じり合っている。実際には、資本主義と国家は混じり合っているように思われる。それらは、深くまた親密な関係のなかで「共生」しているのである。
 ・・・(中略)・・・。われわれは、マルクスの「資本主義的生産様式」に似せて「資本主義」をつくり出した。それは、国家の古い概念からきっぱりと区別された新しい概念である。われわれは当然、それを国家に対置する。そのあとでわれわれは、この二つの概念的実体がどのような関係にあるのかを自問する。しかし、そもそもそれらを考え出したのはわれわれではないのか。・・・(中略)・・・
 結論。「共生」という言葉こそを捨てなければならない。それは、一つのすてきなメタファーではあった。しかしそれは、厳密に結びつくそれぞれ別の二つの組織の存在を現実世界において仮定する。申し訳ないが、そのようなものは存在しない。(p.72-74)



「資本主義」の概念と「国家」の概念、そして、それらの関係についての概念についての、ここでの考察には、概念を用いて物事を考える際にしばしば見られるパターンが表現されている。すなわち、「ある概念がどのように構成されてきたかという成り立ちによって、それらの概念が含意する内容や概念間の関係が規定されてしまう」という問題である。

これは概念を言語や図式を用いて表現する場合、避けがたい問題であるが、このことを意識しながら概念を用いるかどうか、という点が重要である。それが意識されていれば、自らの概念の限界がかなりの程度自覚された状態で思考することができるが、そうでない場合、限界を踏み越えて強すぎる主張を行うことになりがちである。

しかし、こうした誤りも「概念使用の試行期間」においては――つまり、ある概念を修得するためには、それをできるだけよく使うのが一番なのだが、概念の使用のトレーニングないし試行錯誤を意図的に行っているようなときに――誤りを犯しても必ずしも責められるべきではないだろう。特に学問的な議論においては。(ただし、政治的な議論や政治的発話をした場合においては、発言の社会的文脈に応じて、責めを負うべき場合もあるとは考えている。)

なお、上記引用文で用いられているような「資本主義」や「国家」の概念については、今のところ私は使用することをできる限り禁じている。(ただし、「資本主義」の概念については、現在読み進めつつあるブローデルの資本主義概念を参照しつつ、そこから何を得るべきかを見極め、その使える部分を表現するために、今後使用することにするかもしれない。)フルケは、それらを「共生」という関係で捉えることの問題性を述べているが、私見では、これらの概念自体が問題であり、可能な限り使用を避けるのが妥当である。それに代わって、ブルーノ・ラトゥールのように「個々の行為の後を追い、それを記述していく」ことがまずなされるべきだと考えている。それを補助する、「誤った地図」として使用することは許されないとまでは言わない、というのが実際の私の立場である。(ただし、「ツァラトゥストラはこう言っている?」のブログなどでは分かりやすさのため通俗的に語ることはありうる。)

Idealtypusとラトゥール的な捉え方の折り合いをどうつけるべきか、というのは、最近の私にとっての理論的な関心を引く問題の一つである。基本的にそれに対する自分なりの答はほぼ見えているのだが、それをまだまとめて書いたことがないので、一度は書くべきだと思っている。

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I.ウォーラーステイン 『入門 世界システム分析』(その3)

 1968年の世界革命は、世界システムの作用について長く存在してきた怒りと反システム的運動が世界を変革する能力についての失望とが重なり合って導かれたものである。1968年の爆発には、二つの主題が含まれており、その二つの主題は、地域によって文脈こそ違え、ほとんどあらゆる場所で反復された。ひとつは、アメリカ合衆国の覇権(ヘゲモニー)的権力の拒絶である。しかも、これは同時に、アメリカ合衆国の反対勢力とされていたソ連が、実際には、アメリカ合衆国が打ち立てた世界秩序に共謀しているという不満をともなっていた。もうひとつは、伝統的な反システム的運動が、権力についた後、その約束を果たしていないというものであった。これら二つの不満が結びついて――実に広い範囲で繰り返された――ひとつの文化的激震を構成したのである。(p.201)



この記述を読んだとき、1968年というより、1990年代から2000年代の日本の状況であるかのように思われた。これらの考え方は、現在の日本では根強いものと言えるだろう。アメリカに対するスタンスは、親米的と反米的にかなり分かれるだろうが、「伝統的な反システム的運動≒旧左翼」に対する不満は常識になってしまっており、その根拠が問い直されること自体がほとんどなくなっているように見える。

ウォーラーステインの図式で言えば、このときに起こったジオカルチャーの変化が日本の地域にも表れているということになろうか。




そこで、多数者の自由と少数者の自由とを区別することが有益かもしれない。多数者の自由とは、集団的な政治的意思決定が、多数者――それは実質的に意志決定過程を支配している可能性のある少数の集団に対立するものとして捉えられる――の選好を実際に反映している程度において測られる。・・・(中略)・・・
 少数者の自由は、これとはまったく別の問題である。それは、あらゆる個人ないしは集団が、多数者がその選好を他に押しつけることはいかなるかたちでも正当化されえないあらゆる領域において、自らの選好を追求する権利を持つということを意味している。(p.211-212)



ウォーラーステインが述べている「多数者の自由」と「少数者の自由」という用語が適当かどうかには疑義があるが、言おうとしていることは単純である。

多数者の自由は(私の用語法で言えば)「デモクラシーが民主的に作動すること」であり、少数者の自由は「各個人には、他者を侵害する権利はなく、自らも他者から侵害されない権利があり、そうした範囲内で自発的な選択をする権利がある」ということに近い。

ちなみに、私はデモクラシーは制度を指す用語として使用し、民主主義は理念をさす用語として使用している。

ここでも現在の日本について言えば、「多数者の自由」は大いに侵害され、形骸化してしまっている。その結果、「少数者の自由」が次々と削り取られている。まったく「哀れな国」というべきだろう。




 平等は、しばしば、自由の概念と対立する概念として提示される。物的な財へのアクセスの相対的平等のことを言う場合は、特にそうである。しかし実際には、それは、同じ一枚のコインの表裏である。・・・(中略)・・・。概念としての平等を強調することは、多数者がその自由を実現するのに必要な立場を指し示し、少数者の自由を鼓舞することである。(p.213)



基本的に正しい見解といってよい。そして、あまりこのことには気づかれていない。例えば、安倍首相などが「格差が固定しない機会の平等」が大事だと言いながら、「結果の平等な社会にはしない」という趣旨のことをしばしば言う。

これは上記の引用の用語になおせば、安倍は概ね次のように言っていることになろう。つまり、自由は尊重するが平等は尊重しない、と。しかし、そのようなことはほとんど不可能である。むしろ、自由と平等、また、機会の平等と結果の平等には、深い相関関係があり、どちらか一方だけを実現することは事実上、不可能であろう。

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