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I.ウォーラーステイン 『入門 世界システム分析』(その2)

こういった身分集団/アイデンティティは、誰しもがなにかしら属しているさまざまな「人間集団peoples」――民族、人種、エスニック集団、宗教共同体など――のほか、ジェンダーや性的選好のカテゴリーとしても存在する。そういった諸々のカテゴリーの大半は、しばしば、前近代からの時代錯誤的な遺物であると言われる。しかしそういった前提に立つのは、まったくの誤りである。身分集団/アイデンティティの成員であることは、おおいに近代的であることの一部である。実際、身分集団/アイデンティティは死滅しつつあるどころか、資本主義のシステムの論理が展開し、ますます強力にわれわれを呑みこんでいくにつれて、ますますその重要性を増しているのである。(p.96-97)



日本でも近年の新保守主義的な勢力が「家族」や「伝統」などということが言われる。「伝統」は「人間集団」そのものではないが、「国民・日本人」という「人間集団」を暗黙の前提とした上で成り立っており、その集団をアイデンティファイするものとして位置づけうる限り、ウォーラーステインの用語法による「身分集団」と重なる。

これらに対しては「戦前回帰」と言われる。確かに、そうした側面がある。そして、これはウォーラーステインが「近代的であることの一部」と述べていることなのである。もちろん、ウォーラーステインがここで「近代的」と言っている場合、その言葉に正の価値が付与されているわけではない。むしろ、そうしたアイデンティティの成員とされることによって、「資本主義のシステムの論理」はますます強力にわれわれを呑みこんでいくとされているのだから。

これは簡単に言えば、様々な身分集団に人々が分割されることで、独占に有利な位置からの排除と包摂が行いやすくなるということである。もちろん、新保守主義勢力が直接に念頭においていることはこうしたことではないだろう。しかし、帰結は同じである。

例えば「家族」の価値の強調も、結局は、個人の価値を直接間接に制限するためという意図に基づいて強調されていると思われるが、こうして「公の秩序」を尊重させることで「個人の権利」を制限しやすくなれば、例えば、企業にとっては労働者の使い捨てなどもしやすくなるわけであり、大部分の「国民」を貧しい状況に置くことが可能となる。

もちろん、個人の所得が低い場合に、家族や親族が、その個人を支えるべきだとされるはずである。(現に現行の生活保護受給の要件でさえ、政府からの保護を受ける前に家族や親戚から援助を受けられるかどうかがチェックされている。新保守主義者たちが主張するような「家族」の価値が強調されるようになれば、この傾向はより拡大されていくことはほとんど疑えない。)

結局、様々な迂回路を通りながら、既に有利な立場にある人間がより有利な状況が作り出されることになる。ほとんど誰も「資本主義の論理」を考えなくても、その論理にしたがって活動せざるをえない状況を大量に準備し、また、実際に作り出すのである。




世上いわれるところでは、課税されることを好むものはいない。しかし、実際には、その逆こそが(そう公言するものはほとんどないが)真実である。だれもが――企業も労働者も同様に――国家が課税を通じて得た金銭によって提供してくれるものを欲しがっているからである。(p.125)



表現上のレトリックは面白い。より正確に言い表すなら次のように言うべきだろう。

「世上いわれるところでは、自分が課税されることを好むものはいない。しかし、誰もが政府が課税を通じて得た金銭によって自分や自分の利害関係者に提供してくれるものを欲しがっているし、国内全体にとっても提供されることが必要不可欠なものがあると考えている。」

つまり、課税とそれによる再配分(社会保障などだけでなく、インフラ整備なども含めた)自体は、ほとんど誰もが必要だと思っているし、実際に、なければ社会は立ち行かない。道路の整備だけでなく、例えば、普段何気なく目にしている信号機でさえ、それを維持し、適切に制御しながら作動させるには莫大な金額がかかっているはずであり、それの必要性を否定する者はほとんどいないはずである。しかし、自分は負担したくないと多くの人や企業は思っている。

その露骨な表現は「消費税を増税し、法人税率を下げろ」という財界の要求である。また、増税せずに財政を再建しろ、という多くの有権者の要求も同じである。いずれも無責任であり、言っている本人はフリーライダーになろうとしている。ちなみに、私はいずれの方策にも反対である。




国家の権威による専制的な行動は、その国家の強力さよりは、むしろ弱体さのしるしであることのほうが多い。国家の強さというものは、法的決定を実際に実行する能力によって定義することが、もっとも有益である。(先に触れた、ルイ十四世とスウェーデンの首相の比較の例を思い出していただきたい)。単純な指標のひとつとしては、課税額のうち、実際に徴収され、徴税当局のもとに納められた税金の割合を用いることができるだろう。・・・(中略)・・・
 国家が弱体であればあるほど、経済的な生産活動を通じて蓄積しうる富は小さくなる。その結果として、国家機構は――高級官僚から下級役人にいたるまで、横領と賄賂を通じて――それ自体が資本蓄積の中心的な場のひとつに(場合によっては唯一の中心的な場に)なってしまう。(p.133-134)



近年、日本政府や国会は次々と専制的な決定を下しているが、それはウォーラーステインが言う「国家の弱体さ」を示すものであろう。つまり、日本政府はどんどん弱体化しているために、専制的な決定が次々と行われているのである。

例えば、共謀罪のような法律を通そうという動きが執拗に国会で続けられることや、死刑確定者数が急速に増えていること、報道されずになされる軍備拡張やさらなる軍拡を可能にする憲法改定が目論まれていること、行政レベルでも「官邸主導」という名の下でも中央集権化など数え上げれば切りがない。また、先日の教育基本法の改定も方向は同じである。




しかし、この国家による暴力の独占[の原則]は、実際上は減殺されており、それは国家が弱体であればあるほどそうである。結果として、[そのような国における]政治的指導者にとって、その国の実質的な支配を維持することはきわめて困難になり、体制が国内の治安を保証しえない状況ではつねに、軍が直接に執政権を握ろうとする誘惑が増すのである。ここで注意すべき決定的に重要なことは、こういった現象が、なんらかの失政の帰結ではなく、生産過程の大半が周辺的で、したがって資本蓄積の源泉が弱体であるような地域の国家に固有の病理としてつきまとう弱体さの帰結だと言うことである。(p.134)



初歩的で基本的な認識であると言える。しかし、このことをよく認識していない人が多く見受けられる。例えば、アメリカのブッシュ政権が「世界を民主化する」と言っていることも、こうした初歩的な点を押さえてない誤った考え方である。

独裁的でない、専制的でない、民主的な政府を作るためには、その国の領域内の生産過程を中核化する、つまり、産業を高度化させ、収益を上げやすいようにして、経済的に豊かにしていくことが必要条件となる。

このことは中国に対しても当てはまる。中国嫌いの人々の多くは、この点を理解していないように見受けられる。もちろん、経済状態を良くすることは十分条件ではないが、必要条件の一つであることは間違いない。

中核地域の経済はスケールフリーネットワーク的であり、周辺地域の経済はランダムネットワーク的だとすると、これらのネットワークが共存・競合している状況においては、ランダムネットワークの側はクラスターを形成して、自らのネットワークの崩壊を防ぐ必要が出てくると思われる。そのクラスターを形成するノードとなるのは、多くの場合、企業ではなく、現代においては政府であることが多い。なぜなら、そのようなことができる企業やNGOが存在しているならば、その地域は周辺ではないだろうからである。

また、ウォーラーステインが述べているのは世界システムの周辺を念頭においてはいるが、中核地域であっても「没落しつつある中核地域」の場合には、上記と似たような現象が起こる。80年代のイギリスや90年代以降、特に21世紀になってからの日本がその好例である。




これに対して、世界=帝国は、実際のところ資本主義を窒息させてしまう。そこには、無限の資本蓄積を優先する行動に対して、それを抑えつけることのできる政治組織が存在するからである。実際、言うまでもないことだが、それは近代世界システム以前に存在したすべての世界=帝国において、繰り返し起こってきたことである。(p.145)



ウォーラーステインはこのように言うが、私にはそうしたことが常に起こってきたとは思われない。まず、その事例がよくわからない。ウォーラーステインはどのような事例ないし歴史的事実をもとにこのような主張をしているのだろうか?また、世界=帝国はひとつの分業の単位にひとつの政治の単位が対応する(ただし、文化的には多元的な)世界システムであるわけだが、そうした事例が持続的に存在したかどうかも疑問である。さらにはウォーラーステインが言う意味での資本主義すなわち「無限の蓄積」という特徴をもつ経済活動は、彼が言う「近代」以前にも「ヨーロッパ」以外の地域にも存在したと言うべきだと私は考えている。
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I.ウォーラーステイン 『入門 世界システム分析』(その1)

中核的生産過程は、特定の諸国に集積する傾向があるので、
「中核的」および「周辺的」という形容が国家や地域にかかるのではなく生産過程にかかるのだということを忘れない限りにおいてならば、「中核地域」ないしは「周辺地域」(さらには、「中核諸国」ないしは「周辺諸国」)といった簡略化された言い方もできる。世界システム分析においては、中核と周辺というのは、関係的な概念であり、中核それ自体、周辺それ自体がそれぞれ実在しているわけではない。(p.55、下線部は本文では傍点、強調は引用者による)



ウォーラーステインの世界システム分析において、極めて重要な根幹をなす概念でありながら、しばしば比較的曖昧だった「中核」と「周辺」の概念を簡潔に解説している箇所。なお、本書ではさらに、この説明の土台の上で「半周辺」の概念が、最小限の定義に限定される形で明確化されることになる。




「中核/周辺」という概念が意味しているのは、生産過程における利潤率の度合いである。利潤率は独占の度合いに直接に関係しているわけであるから、「中核的生産過程」という表現の本質的内容は、独占に準ずる状況に支配されているような生産過程ということであり、「周辺的生産過程」は、真に競争的な生産過程ということである。(p.78)



ここも上記の引用箇所と合わせて、「中核/周辺」概念についての理解を深めてくれる箇所である。ウォーラーステインにおいては、これらの関係概念は利潤率と結びつけられながら、同時にその生産過程が独占的
であるか競争的であるかという状況に対応させられている。

この図式は、現時点での私の理論的課題である「世界システム論をネットワーク理論に変換する」という作業にとって重要な意味をもつ。なぜならば、これによって中核は独占的=寡占状態であって、これはスケールフリーネットワークのモデルにおけるハブが存在する状況と重なると想定できるからであり、同じく周辺は競争的すなわち平等な競争条件の下にあることであり、これはランダム・ネットワークのモデルと想定することができる。少なくとも仮説として、このように代置して考えることは許されるだろう。すなわち、中核はスケールフリーネットワーク的であり、周辺はランダムネットワーク的である

本書を読んだ限り、ウォーラーステインの概念は外延を決めようとする動機が強く、できるだけ雑多に見えるものを一つのカテゴリーに括ろうとするため、ネットワーク理論におけるノードを探しにくい。そのため、理論の変換は比較的難しい箇所があるのだが、こうした中心的な概念に足場を得た意味は大きい。さらに最近はあまり使っていない概念である「商品連鎖」もネットワーク理論に馴染むので、こうした理論装置を利用して置き換え作業を続けたい。




賃金労働者は、家計世帯(ハウスホールド)に組み込まれた存在である。労働者をある階級に属するものとみなし、その労働者が組み込まれている家計世帯(ハウスホールド)の他の成員を別の階級に属するものと見なすのは無意味である。明らかに、諸々の階級に位置づけられるべきなのは、個人ではなく、家計世帯(ハウスホールド)なのである。(p.95-96)



常にこの見方(個人でなく家計世帯を階級に位置づける)をしなければならないとは私は思わない。しかし、ウォーラーステインにおける家計世帯は、消費を共有する単位であり、生計同一なある程度持続的な小社会なのだから、こうした単位で「階級」を捉えることには意味がある。しかし、定量的に分析しようとすると、ウォーラーステインのような「雑多なものに同一の外延を与えるカテゴライズの仕方」では逆に対処が難しくなる。擬似的に、同居している家族などが単位とならざるをえない。

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アルバート=ラズロ・バラバシ 『新ネットワーク思考~世界のしくみを読み解く~』

新しい情報を得るためには、弱い絆を生かさなければならない。実際、管理職の人々は、強い絆よりも弱い絆によって求人情報を得ることが多いのである(強い:弱い=16.7:27.8)。弱い絆、すなわち知人関係は、外の世界との架け橋である。なぜなら、単なる知人はわれわれと住む世界が違うため、親しい友人たちとは異なる情報源をもつからだ。(p.65-66)



確かにそれはある。これは「知人関係」というものを少しばかり見直すきっかけになりそうだ。




 このような企業の合併は、理にかなった判断なのだろうか?・・・(中略)・・・。しかし、企業をノード、企業をつなぐさまざまな経済的あるいは財政的絆をリンクと捉え、経済を複雑なネットワークと見るならば、合併は必然なのである。実際、ネットワーク経済においては、ネットワークが成長するにつれてハブは大きくならざるをえない。ビジネスというネットワークのノードは、リンクを獲得したいという欲望のままに、小さなノードを飲み込んでゆくのだ。これは他のネットワークでは見られない新しい手法である。グローバリゼーションがノードに圧力をかけて成長を促す以上、成長する経済という枠組みの中では、合併や買収は当然の帰結なのである。(p.285-286)



なかなか参考になる見方、というか、私が本書を読もうと思った動機は「世界システム分析」に、本書で述べられているような「ネットワークの理論」を持ち込んでみようと思ったことにある。その意味で、このネットワーク経済に関する記述は、私が欲しかった情報と近い。

しかし、バラバシの主張には賛同できないところがある。経済のネットワークを見ると、確かに、ハブを大きくする圧力があることは間違いないだろう。しかし、それを必然的とみなし、そう述べることによって現状を肯定するのは正しいとは思わない。経済のネットワークはそれだけが単独で存在するのではなく、社会にある様々なネットワークの一部として存在しているに過ぎないからである。

そして、他のネットワークを破壊する作用をするならば、経済のネットワークに対して修正することも必要だという結論が出てもおかしくはない。圧力の主体ないし出発点と見なされている「グローバリゼーション」を修正ないし変更するような活動がなされるえべきであろう。国際的な資本移動の自由化がグローバリゼーションの本質であるとするならば、それを国際的に規制することは――ケインズが国際貿易について構想していたのと同様に――可能なのだから。

まぁ、そうした点で異論はあるが、企業をノード、それらの関係をリンクと見なした「ネットワーク経済」の見方は、今後、取り入れて発展させていきたいと思う。数年前にはオートポイエーシスのシステム論を世界システム論に取り入れようと思っていたが、まずは、スケールフリー・ネットワークのモデルを世界システム論に埋め込み、その理論がどのように意味転換していくかを見ていく方が、手順としては妥当であるらしい、というのが私の現時点での見通しである。




企業は他の企業と相互作用するのではなく、「市場」という、あらゆる経済活動を媒介する謎めいたものと相互作用するとされていたのである。
 しかし現実には、市場は向き付けされたネットワークにほかならない。会社、企業、財団、政府など経済活動を行いうるものはすべてノードであり、これらをつなぐ購買、販売、共同研究、マーケティング・プロジェクトなどさまざまな経済活動がリンクである。さらに取引の価値がリンクの「重み」となり、リンクは供給者から受取人へと向かう。このように重みと向き付けのあるネットワークの構造と進化が、あらゆるマクロな経済プロセスの帰趨を決しているのである。(p.298)



ここに経済をネットワークとして捉えるときの基本的な道具立てが述べられていると思われる。

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J.S.ミル 『自由論』

仮に一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることの不当であろうことは、仮にその一人が全人類を沈黙させうる権力をもっていて、それをあえてすることが不当であるのと異ならない。(p.36)



現代の日本のように言論が次第に窮屈になってきている状況では、こうしたリベラリズムの思想は重要な意味をもつ。150年前の言説とは思えないほどに今でも色褪せていない。思想としては厳密にはいろいろと問題はあるとしても、現代の一般人の常識としてはミルの『自由論』は色褪せていない。

もちろん、この言葉だけを取り出して原理として用いるのはミルの思想とは相容れない。ミルも(著書や箇所により微妙にニュアンスを変えながらも)留保は付している。




しかしながら、意見の発表を沈黙させることに特有の害悪は、それが人類の利益を奪い取るということなのである。すなわち、それは、現代の人々の利益を奪うと共に、後代の人々の利益をも奪うものであり、また、その意見を抱懐している人々の利益を奪うことはもとより、その意見に反対の人々をさらに一層多く奪うものである、ということである。(p.36-37)



一つ上の引用文もそうだが、ミルの議論にはリベラリズムに特有の形式主義がある。(利益という言葉の意味内容などが不問に付されているため、形式は整っているが、内容はやや曖昧さが残ることなど。)しかし、ミルが言うような可能性はないわけではなく、その意味で、こうした考え方は貴重なものではある。

政治家がNHKの放送内容に圧力をかけるような世の中にあっては、こうした類の考え方はさらに強力なものへと練り上げていく必要があろう。




すべて議論を抑圧することは、自己の無謬性を仮定することである。(p.39)



なかなかの名言である。ただ、次のように言う方が正しい。「すべて議論を抑圧することは、自己の無謬性を仮定しようとすることである」と。そして、実際問題としては、自己の無謬性を仮定したいにもかかわらず、それだけの自信がないという心理の表れであることが多い。




一般に、広く認容されている意見に反対な意見は、つとめてその用語を穏健にし、また極めて慎重に不必要な攻撃を慎むことによってのみ、耳を貸してもらえるのであって、いささかなりともこの用心を踏みはずすならば、ほとんど常にその地歩を失わざるをえないのである。しかるに、勢力ある意見の側は、法外の罵言を逞しくしても、人々は実際に、反対の意見を告白することをも、反対の意見を告白する論者に耳をかすことをも、差し控えてしまうのである。それ故、真理と正義とのためには、勢力ある意見の側での罵言の濫用を抑制することの方が、反対意見の側の罵言を抑制することよりもはるかに重要なのである。(p.110-111)



現在の日本において、最も「勢力ある意見」は、ネオリベラリズムを肯定・容認してしまう意見であると私は考える。ネオコン言説には多少の抵抗感がまだ残っている。安倍内閣が参院選が終わるまで過激な言動を差し控えているのはそのためであろう。その意味からも、反ネオリベの言説を紡ぎ出す際には、太字の部分の教訓は生かしていった方がよいかもしれない。




あとがきより

1938年といえば、中日戦争勃発の翌年にあたり、戦争が日ごとに拡大してゆく最中であった。軍国主義はすでに政治的指導権を握り、学問・思想・芸術をもその統制下におこうとして、弾圧は一段と激しくなって来ていた。そして、この年の十月、自由主義の代表的思想家と目されていた先生(この訳書を最初に依頼されていた河合栄次郎氏のこと――引用者)――したがって当時の左翼からはしばしば保守反動として攻撃されていた先生――までが、右翼の告発によって、その自由主義の故に著書四点を発売禁止にされ、さらに、東大の教職をも去るように圧迫されることになった。(p.284)



これが70年ほど前の日本の状況であることを忘れてはなるまい。

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新田一郎 『中世に国家はあったか』

中世人が自分たちの住む世界についてどのような空間的イメージをいだいていたのか、考えてみよう。
 ・・・(中略)・・・
 もっぱら推測にわたるが、そもそも、空間把握については、古くから「水行一月陸行三月」などという表現方法が用いられているように、面的な拡がりをもった認識よりも、動線にそった認識が先行したのではないか。・・・(中略)・・・つまり、国家の作用は、具体的中心との関係にそって調達される政治的資源に対応し、中心からの距離が国家の作用にとって重要な媒介変数であった可能性が考えられる。・・・(中略)・・・
 そこで現出するであろう漠然とした境界領域を、ブルース=バートンは「フロンティア」と呼び、近代国家の国境線のように一次元の線をもって内外を鋭く分かつ「バウンダリー」と区別することを提唱した(バートン、2000)。(p.54-60)



中心から出る動線にそって、中心からの距離に応じて権力の密度が減衰する場のようなものとしての空間認識。ある程度遠方の土地に関する空間認知としてはこうしたものはありえたであろう。古い地図などと共にこれらについての解説を読むことによって、こうした空間認識に対する私の認識が深まったのは収穫であった。




 ところで、榎本淳一によれば、十二世紀後半の宋の史料にみえる「日本商人」は「日本人」ではなく、「日本から来た、あるいは日本と行き来している商人」を意味し、多くの場合実際には宋人であるらしい、という(榎本、1999)。・・・(中略)・・・。一方で、宋の側では彼らを(日本と行き来している)「和朝の来客」と把握していたらしく、こうした形容は、帰属関係について語っているのではなく、彼らの通交先を表現している、とみるべきなのではなかろうか。帰属関係を論じようにも、官人であればともかくとして、異域間を通交する民については、いずれの「国家」に属するかを確定すべきインデクスはそもそも存在しない。フロンティアを舞台に活動する人々について(たとえば中世後期に跳梁した「倭寇」について)、「彼らは何人か」と問うことには、おそらくあまり意味がないのである。(p.70-71)



ナショナリズムというか「国家主義」とでも言った方が表現としてはしっくり来るような考え方が強まっている昨今であるが、「日本人の誇り」とかどこそこの国の人間は信用できない、とか、そうしたイメージを持っている人たちに対しては、次のようなことを示唆すべきだろう。

例えば、上記の引用文のような事実を知ることは、さまざまな捉え方がありうるということを知る意味でも重要である。歴史を学ぶことの意義の一つはこうしたことにある。




モンゴルの興起を「世界史の始まり」と呼ぶ歴史家もいるように、いったん「モンゴル」を共通の回路として体験したことが他者意識の変化をうながし、ポスト・モンゴルのユーラシア世界のあちこちで、モンゴルの遺産を繰り込みつつ、秩序構造の組替えが進行することになる。
 ・・・(中略)・・・。東アジアにおける冊封関係再建の試みはその一つの局面を構成し、天下を主宰する中華皇帝のもと、本来は皇帝と外臣の個人的関係の表現であった「冊封」が、「彼らは何人か」「あそこはどこの国に帰属するか」を区分し規律をあたえるための構造として、変成されることになる。(p.71-72)



モンゴル帝国によるユーラシア世界の統一と、その瓦解という局面は私も大変興味を持っている時代である。この問題について私はこれまでエジプトやイラン、ヨーロッパを中心に見てきたため、今のところ中国についての認識は不十分である。この叙述は、その不足していた部分を今後埋めていく上で、一つの重要な手がかりになりそうである。




 「国家はフィクションである」という。物理的実体でなく社会的構築物である以上、国家が「フィクションである」ということは、ほとんど自明のことであり、その存立に必然的な根拠はない。けれども、それは「いらないもの」か、と問われれば、われわれはそう簡単に「いらない」と答えることはできない、はずである。現代にあって、国家は制度としての社会的実在性を有している。「想像の共同体」であることを否定しえないとしても、われわれの日常の社会生活が、国家の存在を前提として組み立てられている以上、「想像の共同体」の循環的な存立から脱出することは、机上の議論としてはともかく、現実の実践的問題としてはきわめて困難である。であればむしろ、「想像」に依存し「想像上の」ものであることを承知のうえで、共有された規準系・参照枠あるいは拘束としての国家というメカニズムの作用を、われわれの認識構造に照らしてどのように把握し、いかにしてわれわれ自身の責任と制御のもとにおくかをこそ、考えるべきなのかもしれない。(p.99-100)



ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」論の妥当性は認めながらも、現実には「想像」では片付けられない面があることを認め、それに対処する方向で思考を進めようとしている。このあたりを読んで、数年前に私の周辺でなされていた議論を想起した。

私の意見では、本書の立場もまだ歴史学が負う宿命ないしその刻印を受けており、不十分であると思う。議論をさらに先に進められるはずである。しかし、私の周辺でなされていた議論よりはかなりリアリティを掴んでいる。当時の彼らにこの議論を伝えていたら面白かっただろう。

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山本秀行 『ナチズムの時代』

ヴァイマル共和国の政党は、階級や宗教ごとに陣営化され、個別利害の代弁者の役割をはたしてきた。ナチ党の躍進の背景には、こうした政党政治が、1928年からの農業恐慌や、ついで波及した世界恐慌のなかでゆきづまり、市民層を中心に、既成の政党離れが進行したことがあげられる。(p.22)



小泉政権時代の自民党の躍進と通じるものがある。また、先日の「そのまんま東」東国原・宮崎県知事の誕生とも通じる。「既成の政党離れ」が既成の政党政治への不満・不信により起きているとすれば、それは現代の日本では「自民党をぶっこわす」と言った小泉への支持や、東国原氏のような「しがらみのなさ」が政党支持層からも支持されたことに表れている。

こうした政治への不満・不信が蔓延しているときこそ、「ナチ党の躍進」のような現象が最も起きやすい状況であると思われる。




 そもそもプロイセン保健局が断種法案の作成に乗り出したのも、世界恐慌で財政が破綻した地方の自治体から、福祉の負担を軽くするために、断種法制定の圧力がかかったからである。
 分配や削減、負担やコストの問題は、不況の時期や、経済成長が望めない時代に、むき出しにされ、先鋭化する。ナチ断種法は、ナチスの意図は別として、こうした世界経済の収縮期、低成長期の問題として、考えることができるかもしれない。(p.41-42)



現代の日本はここまでひどい状況ではないが、中央政府の政策は確実にこれに近づいている。障害者自立支援法などの福祉の切り詰め政策や医療保険の負担の増大などの形で表れている。これは日本の経済が低成長であることと関連しているが、ナチの時代ほど酷くなっていないのは、世界経済全体としてはそれなりの経済成長がなされており、そのために本来ならば、もっと深刻な不況に陥るはずの日本の状況が救われている面がある。今後もこうした上昇局面が続く保障はないとすれば、できるだけ早期に社会福祉の体制を充実させうる状況にすることが重要であると思われる。




 ヒトラー崇拝は、ナチスが政権をとる前からみられたが、これが国民に定着するきっかけとなったのが、1934年6月のレーム事件であった。この事件は、ヒトラーが、ナチ革命の継続を唱えるレームら突撃隊の幹部と政敵を粛清したものであった。非合法な大量殺人にもかかわらず、国民はヒトラーの断固たる措置を歓迎し、ヒトラーの威信はかえって高まっている。
 ナチ組織の腐敗、幹部の目にあまる増長ぶりに、国民は、そうした幹部をヒトラーが押さえつけてくれることを期待したのである。いってみればナチ党への不満が、逆にヒトラーの人気を押し上げているのである。(p.47)



これは非常に納得した箇所である。小泉政権時代に小泉首相が人気があったのと同じ構図だからである。逆に安倍政権で安倍首相が人気がないのもこの観点から見ると分かりやすい。

しかし、現状がこのようなものだとすれば、日本でも第二のヒトラーが誕生する可能性がある。その下地があるということである。日本の政党政治がある程度の信頼を回復できるかどうか、これが一つの問題なのかも知れない。

個人的には、差し当たり一度、民主党と社民党、国民新党などの連立政権が誕生した後、大規模な政界再編がなされるべきだと考える。その前に選挙制度を比例代表が中心となるように改めた上で、であるが。

今の日本の政治状況においては、二大政党制にはメリットはない。多元主義的な政治によって、それぞれの勢力の主張がそこそこに実現される、どのような意見もそこそこに政治に反映しているという実感が持てることが、差し当たり重要ではなかろうか




 ナチズムの時代は、正常化がキーワードとなった。ナチスも正常化への訴えを武器としていた。(p.52)



これはイタリアのファシズムとも共通する。そして、現在の日本でも一部の勢力、特に改憲を望む勢力はこうした言葉を用いることがよくある。

『ファシズムと文化』へのコメントでも述べたとおり。




 ナチズムは、男と女の違いを強調し、女性の領分は家庭にあるというイデオロギーを振りまいた。(p.61)



現在の日本の極右勢力もほとんど同じイデオロギーを信奉している。日本会議などの右翼団体がそうだが、安倍晋三もこれと同じ発想の持ち主である。

ナチズムの時代は、現代の日本と二重写しになっている。少なくとも、あまりにも重なりが大きい部分・勢力が存在する。このことに対して無神経であってはならないであろう。

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小林良彰 『社会科学の理論とモデル1 選挙・投票行動』

つまり、自民党の保守回帰がみられた70年代半ばから80年代にかけては、わが国で世論を二分するような対立争点がみられなかったわけである。そして、オイルショック後に有権者が社会問題から生活問題に関心を移していく中で、選挙の際に自民党が地元選挙区に対する業績を主張したのにもかかわらず、社会党は平和や憲法という社会的争点を主張し続けたために、有権者の支持を失っていったのではないであろうか。その後、80年代末になると、逆に社会党が消費税という生活争点を捉え、自民党がベルリンの壁の崩壊を受けて「体制の選択」という社会的争点を言い出したために、社会党が議席を増やして自民党が惨敗したわけである。言い換えると、わが国においては、各政党が有権者の関心に見合った争点を設定できるのかどうかが選挙結果に大きく影響するわけである。(p.115-116)



興味深い指摘である。

2007年の参院選をこの図式を適用すれば、「憲法改正」を掲げる自民党は「社会的争点」を言っているのに対して、民主党は「生活維新」を標語として格差問題という「生活争点」を争点化しようとしていることになる。

世論調査などから見る限りでは、現在の有権者の関心は年金や社会保障などの「生活争点」にあるように見える。この現状認識が正しいとすれば、今回の選挙は民主党の設定した争点の方が有利な立場になる、という予測が成り立つ。

さらに、本書では「政治不信」が高いときは与党に不利な選挙結果が出やすいこともこれまでの研究で指摘されているというから、事務所費問題など「政治とカネ」の問題が連続して出てきている以上、これも自民党側には不利な要素となる可能性がある。

私としては、自民党による支配は、ここで中断されるべきだと考える。自民党と民主党については、どちらも内部の意見に幅がありすぎ、政策集団としては適切でない形になっているのではないか。選挙制度も大政党に有利であるために、そうした自体を助長している。誰もが勝ち馬に乗るために大集団を形成しなければならない。なぜならば、選挙で生き残るためには、主張が異なる者同士が徒党を組まざるをえない状況だからである。

こうした弊害を除くには、選挙制度を変える(比例代表制のみにする?)ことと政界再編をすることの両方が必要であろう。

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マーティン・グリーン 『リヒトホーフェン姉妹 思想史のなかの女性1870-1970』

父権的な文化とは、権威当局の諸制度、たとえば軍隊とか監獄のような制度が肥大化し、権威一般のあり方が軍隊的ないし懲罰的であるような文化である。(p.4)



父権制と母権制という対立軸が本書の一つの基調にある考え方であるが、この図式で言えば、現代の日本は父権制的な方向に進んでいると言えそうである。第一次世界大戦など、戦時の社会は父権制的になるが、そうした社会のモデルに近づいていると見ることができる。




彼らはバートランド・ラッセルとも、またたとえばマックス・ヴェーバーとも合わなかった。なぜなら、戦争賛成者も戦争反対者も同じく男たちの世界に属していたからである。(p.191)



確かに、ある意味では、戦争賛成も反対も同位対立であるところがある。その一つの捉え方を示している。しかし、本書でこの同位対立とは別の世界であるとされる母権制的な世界を代表するとされるフリーダやD.H.ロレンスなどは、現実世界から逃避することで理想郷を目指そうとするところがある。例えば、彼らはアメリカ大陸に行き、ロレンスなどはメキシコなどでそれ以前の倫理を相対化したという件など。

しかし、現在のグローバル化した社会ではそうした「避難所」はほとんどないように見える。その意味では、もし、この同位対立を避けようと思うならば、逃避的でないあり方を捉えることが必要であるように思われる。

しかし、私が本書の見方を誤解していないとすれば、何かとの戦いは基本的に父権制的な世界に属することが多いように思われる。戦いもせず逃げもしない。強力な圧力下でそれを求めることは可能だろうか?少なくとも、(「弱い個人」を仮定しなければならない)社会的には困難であるように見える。とはいえ、それでも考えてみる価値はあるかもしれない。

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安藤英治 『マックス・ウェーバー研究――エートス問題としての方法論研究――』

 マリアンネ夫人は、戦争体験がウェーバーの社会学上の重要な諸概念に入り込んで、それに新しい観察材料を提供したといっており、(Lebensbild, S.588)多面的に分析・紹介している。
 ・・・(中略)・・・
 とりわけ注目すべきことは、予言者の理解に関して夫人の述べているところである(ibid., S.638-639)。1916年秋から書き始められた『古代ユダヤ教』に描かれた予言者のタイプ、即ち、歴史的に確証されうる最初の政治的デマゴーグであり、また最初の政治的評論家でもある予言者――イスラエルのこの一連の予言者は、大国が祖国を脅かし、祖国の命運が焦眉の急を告げる時に、つねに立ち現れたことをウェーバーは指摘したが、夫人は、こういう予言者のタイプというものはこの論文以前にはウェーバーになかったということ、それは完全に戦争体験を媒介しているものであるということを明言している。(p.210-211、下線は本文では傍点になっている箇所)



ウェーバーの概念構成の展開過程と戦争体験の影響というテーマは私はこれまであまり注目してこなかった。こうした観点も踏まえて現在編纂されている『経済と社会』の再構成の問題を見てみると面白いかもしれない。




『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はこういう時代精神に対して市民ウェーバーの“英雄倫理”が対決するという問題意識の所産であったと私は考える。(p.221-222)



引用中「そういう時代精神」というのはマス化(大衆化)という状況のことだが、このようには言えないだろうと私は考える。

世俗内的禁欲という行動的禁欲の倫理に対して、プロ倫はそこまで皇帝的な評価はしていないと私は見る。恐らく、近年のウェーバー研究の動向とこれは一致する方向であろうと思う。これに対し、本書は1965年に出ており、50年代~60年代の論文を集めた論文集であり、この時代のウェーバー観がよく出ている。

かつての研究におけるウェーバー像はウェーバーを理想化した人物像として描き出す傾向が強かった。彼の決断や禁欲などを重視し、ある意味、実存主義的な人間像としてウェーバーは描かれた。確かにそうした一面はあるということは私も認めることができるし、そうした点にウェーバーという人物の魅力があることもまた認めることはできる。

しかし、安藤の考えは、ややこの理想化された像を、テクスト解釈の中にも持ち込みすぎている感が強いのは大きな難点である。

資本主義の精神は、倒錯した感覚として描かれているし、不安に捉えられたものとして捉えられてもいるというところを考慮に入れる必要があるし、この精神が経営者や資本家だけでなく労働者一般にまで見られる点に特色があるとされているのだから、大衆化された精神であると見られていた面もあるのではないか?確か、この精神はウェーバーにおいても倫理的達人にしか到達できない達人倫理として考えられてはいないはずである(文献をあたるのは面倒なので割愛)。




厳密な日付は覚えていないが、昭和18年の5月頃だったと思う。田町駅前の「森永」で、いつもの如く仲間と論戦を闘わせていると、ウェイトレスがやって来て、そういう話は止めてくれと言い出した。私は反論した。「冗談じゃない。ゴットルってのはナチの御用学者なんだよ。」ウェイトレスは答えた。「誰だか知りませんが、そういう話をすると警察がうるさいですから止めて下さい。」(p.466)



これは本書の「あとがき」における著者の体験談である。

昭和18年だから「治安維持法」がまだあった頃のことである。(大正14年から昭和20年まで。)「共謀罪」の創設を与党が狙っている今日、かつてはどのような状態だったのか、よく知り、学ぶ必要がある

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牧野雅彦 『マックス・ウェーバー入門』
本書はマックス・ウェーバーの思想を、平易な言葉で説明している点が優れている。

また、ウェーバーという人が生きた時代の文脈の中に、ウェーバーの思想を位置づけようとしている点は重要である。

特に19世紀のドイツの歴史主義(政治史学→歴史学派国民経済学)の流れの中で設定された問題にウェーバーが取り組んでいたということを明らかにし、また、同時代の思想家たちとそうした問題意識を共有していたことを示している。これは妥当なアプローチだと思う。

ただ、そうした古典的な業績と全く触れたことがない人にとっては、意外と意味がとりにくいかもしれない。むしろ、ウェーバーの著作を一通り読んだ後で、この『入門』を読むと、ウェーバーの思想の位置づけが一層明確になるのではないか

このように、本書はウェーバーの思想がどのようなものであるかを理解する上では大変有用な本ではあるのだが、ウェーバーの思想のうち、何が誤りであり、何が妥当なのかという部分などにはあまり触れていない点は気になるところである。

もちろん、新書という制限の中で、ウェーバーの思想を紹介しながら、さらに批判するのは難しいかもしれない。しかし、あたかもウェーバーの言ったことは――それが間違っていることがかなり明らかであるような場合でも――正しいかのような扱いがしばしばなされているのは気になった。その意味で、主要な問題点くらいはもう少し明確に指摘してもよかったのではなかろうか、とも思う。




 1871年のドイツ統一とともに政治史学の課題はひとまず達成されることになります。・・・(中略)・・・。統一後、トライチュケはドイツの対外的な権力拡大を唱道し、国内では社会主義者やユダヤ人問題をめぐって批判的な議論を続けることになります。トライチュケは統一という課題に代わって、国外国内の敵に対する闘争にその目標を見出していったということができるでしょう。
 課題喪失状況に陥った政治史学にとって代わって注目を集めるようになってきたのが、歴史学派の国民経済学でした。(p.49)



「ナショナリズム」は「外部」からの「われわれ」の防衛・抵抗のためのイデオロギーとして機能していたわけだが、相対的な劣位が克服された後、その思想は内外の「敵対勢力(抵抗勢力)」を弾圧する方向へと進まざるを得ない。一見、解放の思想が抑圧の思想に転化するように見えるが、「排外主義」という一点では何も変化は起こっていない。

しばしば、「偏狭なナショナリズム」ではなく「健全なナショナリズム」を、というようなことが言われるが、偏狭でないナショナリズムなど存在しないのである。




 歴史的個性を重視する歴史主義的思想の中で、法則的なもの、つまり一般的・普遍的な法則性への問いを明確なかたちで提起したのがロッシャーなのでした。ロッシャーが歴史学派経済学の創始者といわれるのも、政策学の前提となる法則性への問いを立てたからにほかなりません。
 このことは、歴史学派経済学の特質を理解する上でたいへん重要です。というのも、これまでの経済学史などでは、ドイツの歴史学派はアダム・スミス(1723-90)に代表されるイギリスの古典派経済学に対する対抗的潮流として紹介されていて、古典派経済学が一般的普遍性を主張するのに対して、歴史学派経済学はドイツの歴史的特殊性を強調した、というかたちで位置づけられているからです。しかしながらドイツの歴史主義的思考の流れの中でいえばこれはむしろ逆で、歴史的個性的なものを重視する歴史主義の中で、一般的法則性を重視した潮流、歴史主義から自然主義へと一歩接近したものとして位置づけられることになります。(p.59)



この部分はなかなか慧眼であると思った。歴史学派経済学がドイツの思想の中では「自然主義」の側に接近したことは、この上に引用した政治史学から国民経済学への展開とも関連している。その背景にあるのは「ドイツ」の世界システム内部における地位の相対的向上であると私は見る。

国境による「防衛」、経済で言えば「保護主義」の必要性が低下することを意味する。つまり、攻める側に回るといことである。その場合、国境により区切られたものの特殊性を強調するよりも、普遍主義的な考えを強調した方が有利なのである。(それは現代では新自由主義として表れる。かつての古典派経済学が自由主義経済を主張したのと同じである。)

90年代にアメリカ政府がグローバリゼーションを推進し、近年になって日本国内での「格差」や「貧困」の問題が生じているのも、グローバリゼーションという普遍化によって弱者はより弱体化させられることの表れにすぎない。もちろん、こうした状況では強者はより強くなるのである。




まさに都市という理念型の設定は、古典古代との対比におけるヨーロッパの中世から近代への発展の因果連関とその特質を明らかにするための手段なのでした。(p.120)



ウェーバーにおける「都市」の位置づけを的確に示している。ただ、私の考えは、この理念型の設定はウェーバーの誤りを助長してしまったと考えるのだが…。

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ゲオルク・ジンメル 『貨幣の哲学』

近代にいたってはじめて風景画が発達し――これは芸術としてたんに客体からの距離においてのみ、しかも客体との自然な統一の断絶において生きいきと生きることができる――、そしてまた近代にいたってはじめてロマン主義的な自然感情が知られたが、これらのことは、貨幣経済にもとづいて築かれた都市生活がわれわれにもたらしたあの真に抽象的な生活の、自然からのあの距離化の結果である。(p.540)



一つの側面は捉えている。

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