アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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森健 『グーグル・アマゾン化する社会』

ランダム・ネットワークでは、別の経路との結節点が、平均的な数として出現する。高速道路で言えば、二くらいがその数となろう。
 一方、スケールフリーとは、その接続規模(スケール)に制約がない(フリー)ことを指す。(p.161)



接続規模、つまりアクセス可能性が無制約的であるということは、無限にアクセス可能であるということ。こうしたシステムにおいては、あるアクターが他より少しでも優位に立てれば、そのアクターがそれ以外のアクターを排除して「一人勝ち」できる。本書が指摘することの一つはこのことである。

アマゾンやグーグルが一人勝ちしているのも、ネットの世界がこうしたシステムであるからに他ならない。

こうしたアーキテクチャーの一極集中化が、人々のものの考え方などにも影響を与えていることを本書の著者は指摘する。

 だが、SNSのようなパーソナライゼーションの進んだサイトには、大きな欠陥が隠されている。それは見知らぬものとの出会い――偶然性による情報や人の発見が、大幅に減るということだ。(p.210-211)



 そうした点に懸念を覚えるのは、もともとネットワーク上では、考えが異なる別の集団の意見を排除し、同じ集団内で考えが極端に偏るという傾向が指摘されているためだ。
 一例をあげれば、現在、急速に日本で広がりつつあるように見える「ぷちナショナリズム」的な現象もそうだろう。こうした振る舞いは「集団分極化」という現象で、数十カ国で確認されている。
 要は、SNSにおけるようなパーソナライゼーションが進むことで、集団分極化が広がった場合、情報はその特定の集団の中だけで流通する可能性があるのだ。(p.212-213)



ここで「ぷちナショナリズム」と香山リカの書名にある用語を使うことで、ソフトな言い方をしているが、いわゆる「ネットウヨ」と呼ばれる者が増えていることについての言及である。森氏は、この要因として、インターネットというメディア自体がもつ特性、つまり、同じ集団内でのみ特定の情報が流通することで、極端な考え方が特定の集団内で形成される可能性がある、という特性が挙げられているわけだ。

なかなか説得力があると私には思えた。

同時に、私自身も小泉や安倍に反対するブログ運動に賛同しているわけだが、そうした運動も右翼的ではないとはいえ、同じものであるという点には配慮する必要があると感じてはいる。

私は、いつもこうしたものに加入するときにしばらくためらうのだが、私の場合は、書くべき記事の内容やテーマが社会的に拘束されがちになることへの懸念が一つある。政治ブログのグループに入ると、政治ネタとは全く関係のない話はだんだん書きにくくなるのだ。(まぁ、私の場合、ブログの話題を政治ネタに限定しようと思った時点からそうしたものにコミットすることにしたので、それほど不自由はないのだが、たまに別のことを書きたいときなどは少し書きにくいと思うことがある。)

ただ、こうしたグループに参加することにはメリットもある。一人でいたら得られない情報が得られることなどがそれだ。もちろん、参加せずに見ることもできるのだが、自分自身も入っているかどうかによって、関心の高さが違ってくるからだ。グループに入ればグループ内のブログがどのようなことに関心を持っているかについての関心が高まる。それに立ち位置がハッキリするのでTBなどもお互いにしやすくもなる。これは特定の情報だけが流通するというデメリット=危険性をも秘めているというのが、本書の指摘なのだが、同時にメリットもあるわけで、そこがどのように解消すべきか難しいところなのだ。


私の場合、政治ブログ(ツァラトゥストラはこう言っている?)は「政治ブログ」としてテーマを絞り、読書ブログ(このブログ)は「読書に関連することのメモ」として活用しつつ、さらにその他の自分の関心があるテーマでは別々にブログを管理している。

(それらは政治ブログから/への波及を避けるためにリンクしていない。匿名性をより高めるためでもある。政治などの「パブリックマター」はハンドル名は使いつつも、私を知る人には私が誰であるかわかるように公開し、そうではない「プライベートマター」(?)の方の匿名性を高めているのは、バランスとしては良いことだと思われる。匿名でパブリックマターを語る方が危険であることが本書でも指摘されているから。)


本書についての評価をするならば、現代社会にひそんでいる問題点を鋭く突いているということは確かであり、有益な本であることは間違いない。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

田之倉稔 『ファシズムと文化』

 マスカーニは裕福な音楽家の家に生まれ育ったわけではなかった。・・・(中略)・・・。音楽によって功名をえようとした彼にとって、ファシスト体制は自分がなりあがる絶好の機会であった。政治的な信条よりも、音楽家としての自分が社会的階層の上部に位置することを求めた。(p.42)



こうした一種の「利益誘導」によって、芸術家たちもファシズムの体制に取り込まれていった。今の日本にもこういった人間は多いだろう。言論の世界を見ているだけでもそれは感じられる。




「秩序への回帰」と「正常化」はファシスト党の合言葉だった。(p.65)



現在の日本では「正常化」というのは、右翼ないし保守主義者が「右傾化」のことを呼ぶ呼称となっている感がある。彼らはこれがファシスト党の合言葉だったことを知っているのだろうか?

他方、「秩序への回帰」という言葉は、現在の日本ではそのままは使われていないと思う。しかし、「伝統」を重んじようとする主張がこれとほぼ重なる

この言説に対しては、私は幾つか不満がある。「伝統」と呼ばれるものの多くが、近年になって「創られたもの」であるということは、いまや常識だと思うが、それも知らずに伝統を語る者もまだ少なくはないようであること。また、「伝統」は長く続いたものではないと知っていながら、「創られた伝統」という考えを批判せずに、都合の悪いことには目をつぶって「伝統」ということが言われることである。

いずれにせよ、現在の日本の政治的言説がファシズム期のイタリアと通じるものがあるということだけは確かだと思われる。日本の右派でも、戦争を積極的にしようと思っている者はそれほど多くないとは思うが、もしそうだとすれば、彼らはこうしたファシズムとの類似がありながら、同じ過ちを日本は繰り返さない、ということを説得力を持って説明できるだろうか?私にはそれは難しいように思われる。




考えてみれば、建築は施主の意志を多かれ少なかれ尊重する。・・・(中略)・・・。芸術は裕福なメセナを必要とする。建築の場合でいえば、メセナは施主である。したがってファシスト体制下にあっては、建築家はメセナであり、施主である国家の意志を拒否することはできなかった。(p.78-79)



これはマスカーニについて引用した文章とほぼ同じような現象について述べている。それは繰り返さないが、確かに建築という芸術/技術は、絵画などと比べて莫大な費用が必要であるため、パトロンにより強く依存せざるをえない。実際に、例えば「ヨーロッパ」の建築史を見ても、代表的な様式、例えば、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック、新古典主義などを見ると、そのパトロンに巨大な権力者がいることがわかる。

ロマネスクはクリュニー会やカトリック教会などが背景にあるし、ゴシックやルネサンスも教会や都市の富裕層によるものであり、バロックは反宗教改革を行ったカトリック教会によって用いられ、新古典主義は成立しつつあった「国民国家」の政府が関与したものが多い。少なくともモニュメンタルな建造物については、上記のように一応は言えるのではないか。

それらの建築が流行した地域では有力な勢力がパトロンになっていることがわかる。

そうなると、確かに引用文で言われているように、建築家には「保守的」であることを運命付けられてしまう面はありそうだ。しかし、「ツァラトゥストラはこう言っている?」の方でも述べたように、改革や革新的であることとは必ずしも矛盾しない。




近距離で活動した者、ある一定の距離をおいて活動した者、反権力へと転じた者という風に大きく分類できる。ファシスト体制崩壊後、その作品が超越的な価値を獲得していたり、ある種の先見性を内包していたりする芸術家がいた。いったい彼らは国家やイデオロギーとどうかかわっていたのか。(p.87)



興味深い問題である。問いのたて方は少し変える必要があるようにも思うが、考えるに値する。

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甚野尚志 編 『東大駒場連続講義 歴史をどう書くか』
「日常生活をとおして見る歴史の再構成――衣服を中心に」(義江彰夫)より

皇族・貴族は、9世紀か~10世紀冒頭までのあいだに起こった唐帝国の衰微・滅亡を契機として、天皇と貴族は独自の国制と文化を開拓していくなかで、いわゆる国風文化の創造に向かうようになることを、多様な絵画・彫刻・典籍等をとおして知ることができる。(p.18)



ヘゲモニーが崩壊したために、周辺ではローカルな文化が表れてきたという事例。

こうした現象は、アッバース朝が王朝としては存続しながらも衰退した同じ時期の東地中海世界にもみられるように思われる。例えば、エジプトのファーティマ朝がシーア派を反スンニ派カリフのイデオロギーとして使用しつつ、独立していったことなどがその典型と思われる。




「ヨーロッパ史における『王権』の表象――教皇の即位儀礼」(甚野尚志)より

グレゴリウス一世は即位のさい、サン・ピエトロ大聖堂にあるペトロの墓のすぐ真上に新たな祭壇をつくらせ、このペトロの祭壇で、即位のミサとローマ司教としての聖別式をおこなった。この新たなペトロの祭壇の創設は、グレゴリウス一世が、衰退しつつあった都市ローマを、ペトロ崇敬の巡礼地として発展させるためにおこなったとされている。(p.58)



グレゴリウス一世の即位は590年のことである。いわゆる西ローマ帝国が崩壊して衰退していった(というか、どちらかというと、衰退していったから西ローマ帝国が崩壊したと私は見るのだが)ために、なんとか「まちおこし」が必要だということで巡礼が奨励されたと読める。




「写真史が生まれる瞬間――ウジェーヌ・アジェと仏・米現代写真の言説」(今橋映子)より

選択を通じて、写真家は真の歴史家となる。文明の視覚的年代記に意味をもたせるためには、写真家はなにを撮り、なにを撮るべきではないかを知らなければならない。(p.165-166)



これはアボットという写真家の言葉なので、孫引きなのだが、なかなか良い言葉だと思う。

撮影されたたものは、記録写真として後の時代に歴史資料となり、撮影した時代の典型的な風景として未来の人々に語りかけるができる。そうした写真を撮ってみたいものだ。




「歴史の多声性――歴史観の人類学的考察」(伊藤亜人)より

 その時間意識とは、一言でいえば「今」と「昔」の二つの範疇によって成り立っていて、記憶に新しいものは「今」に、それより以前のことはすべて「昔」のこととされる。「昔」のことのなかでは、それがどれほど以前のことなのかは問題とされず、前後関係にも関心を払わない。



確かに、こうした時間意識は日常的に存在するように思われる。時間観というと、もっと定式化された見方と結び付けられたものが語られることが多いが、ここでの指摘はあまり言われないものであるにも関わらず、かなり実感もある。

むしろ、宗教的な観念と結び付けて語られることが多い、「周期的な円環をなす時間」とか「終末・救済に向かう直線的な時間」といったタイプのものは観念的で、あまり実感がない。構想された構築物という感じがする。これはそのベースとなっている宗教を媒介として感じ取ることが多いからではなかろうか。

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俵義文 他 『安倍晋三の本性』

 安倍の改憲必要論の第一は、使い古された「押しつけ憲法論」である。安倍は、なぜGHQが憲法草案を書かなければならなかったかについては語ろうとしていないGHQは当初日本政府に新憲法案の作成を命じたが、日本政府が提出した草案は、大日本帝国憲法の焼き直しに過ぎず、当時、民間の憲法学者などが作成した現憲法に近い内容は完全に無視されていた。そこには、侵略戦争の反省はなく、日本が受諾したポツダム宣言の精神を活かした、主権在民、基本的人権の尊重などは盛り込まれていなかった。そのためにやむなくGHQは自ら憲法草案を作成したのである。(p.11)



現在の自民党の新憲法案も、こうした戦争への反省を後退させ、基本的人権に制限をかけようとするものである。自分たちで決めれば、それですべて良いとでも思っているのだろうか?(もしそのように言うならば、それらの人々は北朝鮮の金正日体制を転換すべきだとか、中国の一党独裁などに文句を言うべきではない、ということになる。)

引用文の文脈とは離れるが、私見では、改憲論者は改憲する目的を明示し、「具体的に」何のために法律を変えるべきなのか言うべきであり、さらに「具体的に」どのような手段でその目的を実現しようとするのかを明示した上で「改憲」を訴えなければならない。

その上で、まず、その目的の妥当性を問い、目的が妥当であると認められたならば、通常制度改正ではその目的の達成が不可能であることを示すことが必要であり、また、憲法を改正した後に採用した手段がどれほど有望なものであるかを示すことである。

これらのことをを示さずに、あるいは前面に出さずに、憲法を「変えること」ばかりを強調するのはおかしくはないか?

安倍晋三は、憲法を「変えること」を目標に掲げているが、それによって何をしようとしているのが「具体的な」説明が必要である。

まぁ、教育基本法についても必要性を説明できず、ホワイトカラー・エグゼンプションにも「少子化のため」などとピントはずれの説明しかできず、また、閣僚の不祥事も説明できないような政治家に、そんな説明を求めても無理だろうけれども。




 「日本会議議連」は、「歴史・教育・家庭問題」、「防衛・外交・領土問題」、「憲法・皇室・靖国問題」の三つのプロジェクトを設けて日本会議と協議し、その要求・政策を国政に持ち込む活動をしている。いまでは、右翼組織の政策・要求が議連を通じて国策になっていくという恐ろしい構図ができあがっている安倍は、この「防衛・外交・領土問題」の座長として活動し、05年7月現在の資料では、副幹事長の要職にある。(p.69-70)



安倍内閣というのは、右翼組織に政府が乗っ取られたようなものだということである。実際、安倍内閣の要職につくもののほとんどが右翼系の政治団体や組織に所属している。このことを一般の有権者はもっと知ってよいだろう。




安倍晋三新総裁の資金力は、2005年度で総額約3億8千万円。政界では十位以内です。それでも当選五回の若手議員としては、異例の集金力です。(p.71)



この本は安倍の極右人脈についていろいろ書かれていて、その点が一番参考になるのだが、この叙述も私としては気になった部分。

右翼系の組織で要職を歴任してきたことが安倍が担ぎ出されるための基盤ではあったにせよ、この集金力はどこから来るのか?それについては明示されていない。ここの切り崩しは重要ではなかろうか。




 安倍内閣にはブレーキ役がいない。ブレーキなしで右に暴走する内閣である。
 自民党議員の五割以上が「日本会議議連」に所属しているのであるから、自民党そのものが日本会議に乗っ取られつつあるといえなくはない。「日本会議議連」は97年5月の発足時には189名だったのが、いまや235名(06年7月現在)にもなっている。こうした状況が安倍を総裁にまで押し上げる力になったことは容易に想像できる。
 安倍内閣は、教育基本法を改悪し、憲法改悪を推し進め、防衛庁を「省」に昇格させて自衛隊を米軍と融合・一体化させ、集団的自衛権を行使して自衛隊がアメリカの先制攻撃戦争(侵略戦争)にいつでもどこでも参加する「戦争をする国」に日本を変える内閣である。
 そして、戦争に反対する個人や組織を弾圧するために共謀罪などを制定し、アメリカのCIAのようなスパイ組織を設置し、国民を政府の監視下に置く、自由・平和・人権・民主主義に敵対する内閣である。(p.90-91)



有権者としては、こうしたものを放置しておくわけにはいかないだろう。




国連子どもの権利委員会は1998年、日本は「高度に競争的な教育制度のストレス」で「児童が発達障害にさらされている」と改善を勧告した。日本政府・文部省(文科省)はその勧告を無視しつづけているため、国連子どもの権利委員会は、2004年、「十分なフォローアップ(手だて)が行われなかった」と批判して、早急に改善するよう再度勧告している。安倍政権がめざす「教育改革」は、この国連勧告に背を向け、教育をこれまで以上の競争原理下におくものであり、「改革」ではなく「教育破壊」である。(p.98)



教育にとって競争的な環境が望ましくないということは、先日の『無気力の心理学』についての紹介で述べた。

安倍内閣・日本政府は、国連常任理事国になることを目指しているらしいが、国連の勧告さえ守らないような政府に、そんな資格があるとは私には思えない。国際的に見ても日本政府の人権に対する取り組みは非常に低水準である。国内についても国外についても、それは言える。そのことが国内向けの報道では決して言われない。このような報道の統制は大問題だと思う。

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稲垣佳世子、波多野誼余夫 『無気力の心理学 やりがいの条件』(その5)

 効力感を伸ばしうるためには、第一に、誰もが意味のある熟達の機会をもてる、ということが要求される。自分が自発的にかつ持続的に取り組める課題を見つけることができるばかりでなく、そこでの熟達が、創造の楽しみ、他者に貢献しうるという喜び、自己統合に伴う満足などをもたらすものであれば申し分ない。第二に、熟達に伴う内的満足に重きをおき、外的な成功・失敗にこだわらなくても、それなりの生活を維持できるようでなくてはならない
 われわれの住んでいるのは、基本的に、生産性第一の管理社会である。そこでは、生産性を高めることが、結局、みんなの幸福につながる、となんとなく仮定されてしまっている。そのために、人々の行うべき活動が、管理者によって定められ、評価される。有能な管理者とは、生産性が最大になるように、人々を選抜し、彼らに仕事を与え、その成績を評価していく人にほかならない。
 こうした社会が意味のある熟達の機会をひどくせばめてしまうことは、容易に理解できよう。本来、それぞれの人々にとって意味をもつ熟達の分野は、多様に異なっているはずなのに、生産性を高めるのに役立たない分野は、どんどん切り捨てられていく。最近の数年間だけをとってみても、伝統的な生産労働の多くが姿を消したり、変質させたりしていることに気づくだろう。(p.134-135)



効力感を感じられる社会であるための要件のひとつとして、「外的な成功・失敗にこだわらなくても、それなりの生活を維持できる」ことが挙げられていることに注目すべきである。

最低限度の生活水準は保障されていてこそ、効力感を感じやすいのである。昨今、よく見られる考え方は、これとは逆であろう。競争を煽って、競争に負けたら何らかの形でペナルティを課されるような、やり方で、つまり、「競争」と口では言いながらも、実際には、恐怖感を煽って間接的に強制させようという発想が多々見られる。特に政治家や財界や保守系の学者・言論人など。そうした発想こそ、社会から活力を奪うものだということを広く知ってもらう必要があると思う。

こうした観点からも、筆者たちの次の見解には私も賛成である。

 人々が効力感をもって人生を生きることの意義を強調する筆者たちの考え方からすれば、福祉社会を後戻りさせるのではなくて、むしろ人々の生存をおびやかす条件を少しでも少なくし、しかも同時に、人々にとってやりがいのある仕事を準備するところこそ、今後の労働政策の基本がおかれなければならない。(p.147)







 ランガーたちは、「重要でない」というレッテルを貼られたり、ないしはそれが暗示されるだけで人々は意欲を失う、と考える(p.148)



こうした側面は確かにかなりあると思う。このことは、社会的な差別がある場合など、差別される側の自己評価が低くなる傾向などとも一致しているのではないかと思う。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

稲垣佳世子、波多野誼余夫 『無気力の心理学 やりがいの条件』(その4)

 効力感をもつ最低限の条件は、無力感をもたずにすむこと、つまり生存をおびやかす諸要因を自らの努力によって取り除けるというところにある。その逆に、生存がたえずおびやかされる、たとえばいくら働いても腹一杯食べられるかどうかわからない、というのでは、効力感どころではない。これは、社会に十分な食物が供給されていないという場合だけではない。失業率が高く、いつ首を切られるかわからない、ひとたび失業すれば容易に仕事が見つからない、失業手当では暮していけない、などというのも、まさにこれにあたる病気になったときに医者にかかることができないなどというのも、やはり生存をおびやかす要因をみずからの努力によって除去できない場合の代表であろう
 いや、もっと恐ろしいのは戦争である。戦争にまきこまれたら最後、いつ命をおとすかもしれず、いくら自分が平和主義者であるといいはっても、そのことによって自分の身の安全は保障されないのである。
 幸いなことに、先進資本主義国の場合には、社会主義諸国の場合と同様、戦争を除き、これらの生物としての生存をおびやかす恐怖からは比較的自由である。われわれの住んでいる社会も、その意味で、効力感をもたらすのに最低の条件は満たしている、といえよう。
 人間の場合には、生存といっても、衣食住だけでなく、基本的人権が守られることが不可欠であるある思想や宗教のゆえに迫害されたり、体制を批判しただけで警察につかまったりするようでは、広い意味での生存がおびやかされていることになる。そうした現実を改革しえないとすれば、やはり無力感におちいらざるをえないだろう。しかし、先進資本主義諸国の場合、その「自由」にさまざまな枠がはめられていることは事実であるが、それが多くの人々を無力感に導くほどのものとは思われない。(p.132-134)



前の記事にも書いたが、この本が出たのは1981年である。この時代に日本に住んでいた著者たちは、「当時の日本の社会は無力感に陥るほど酷い社会ではない」と比較的楽観している。

しかし、2007年の日本に生きるわれわれがこれを読んだら、空恐ろしさを感じてしまうのは私だけではないだろう。

近年の日本で社会問題とされていることの多くは、この本の著者たちが無力感に導く社会として描く方向性を示しているからである。それに該当する箇所に下線をつけてみた。それについて、一応、順に見ていこう。

◆いくら働いても腹一杯食べられるかどうかわからない

これは、まさにワーキング・プアとして問題が表面化してきたことであり、また、年収300万円時代などと言われることもこうしたことである。


◆失業率が高く、いつ首を切られるかわからない、ひとたび失業すれば容易に仕事が見つからない、失業手当では暮していけない

これは特に非正規雇用の労働者の増加という問題として表れていることである。彼らの多くは、十分な労働条件が保障されておらず、常にこうした状況と隣り合わせであると言ってよい。


◆病気になったときに医者にかかることができない

これは国民健康保険を収めることができず、滞納者が増えたのに対して、保険証が停止されることなどの問題として表れている。

また、病気に限らず障害を持つ人にも当てはまる。障害者自立支援法という名の、障害者を支援しないための法律などによって、これまで受けられた生活のために必要なサービスが多大の費用がかかるために十分受けられない、などという問題としても表れている。

病気や障害は誰もが無関係ではない。いつでも誰でもそのようになる可能性があるのである。


◆いや、もっと恐ろしいのは戦争である

自衛隊のイラク派兵を何年も続けていること、米軍と自衛隊とがどんどん一体化していること、先日「防衛省」が誕生したこと、現政権、それも首相が憲法改正を声高に叫んでいること、北朝鮮のミサイルや核実験に対して執拗に強硬姿勢をとることで、敵対関係を強めていること(これは攻撃される可能性がそれだけ高まるということでもある)、核兵器保有に向けた動き(検討すべきという一部の政治家の声)など、軍事的な活動を拡大しようという動きが最近多すぎる

その上、近隣諸国との関係は良好とは言いがたく、国際社会からも孤立気味(先日の首相の欧州訪問での各国の醒めた対応なども含めて)ときている。

戦争を恐れなければいけない時代に近づきつつあると感じる人は、現代の日本には多い。(世論調査でも増加傾向)


◆ある思想や宗教のゆえに迫害されたり、体制を批判しただけで警察につかまったりする

近年、国会で審議されてきた共謀罪などは、まさにこれであろう。次の通常国会で共謀罪の成立を首相が指示したという。それに、弁護士が警察に密告することを義務づける制度などまでつくろうとしているらしい。

そして、忘れてはならないのは昨年の末に成立した教育基本法である。政治が教育の場に介入し、さらに道徳規範までも押し付けることを正当化するような恐ろしい法律が既に成立してしまっている。「愛国的」でない思想が迫害の対象となることにもなりかねない。

このように日本における基本的人権は確実に削ぎ落とされてきている


今年の通常国会を何とか乗り切り、参院選で与野党逆転ができれば、多少なりとも風向きが変わる可能性があるし、もし、方向が変わらないとしても、進む速度が遅くなる可能性がある。(悪化する進行速度を低くできる。差し当たりの応急処置による延命。)

安倍政権は周辺のほとんどが極右の人脈で構成された歪んだ政権なので、民主党のタカ派が相対的に力を失い、小沢代表がやや左寄りのスタンスを持っている現状を考慮すれば、少なくともそこまでは言える。

その意味で、これから半年間は日本の社会状況を方向付ける極めて重要な期間であると言わざるを得ない。ここで自民党が負けなければ、本書が示したように、日本の社会は極めて活力のない社会になっていくことが予想される。

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稲垣佳世子、波多野誼余夫 『無気力の心理学 やりがいの条件』(その3)

 現在の学校教育では、生徒の成績に対して教師が優劣の評価を下すことがつきものになっている。しかし、すでに第四章でみたように、このやり方は、子どもが主体的に学習に取り組む姿勢を妨げるよい評価を得ることに重きをおくため、むずかしいものに挑戦して熟達していく楽しさのほうを放棄してしまうのである。
 第四章で何回も名前の出てきた社会心理学者のディシは、評価には二つの側面があることを指摘している。ひとつは、人を統制するという側面である。そしてもうひとつが、そこでとった行動が良かったか、悪かったかの情報を与えるという面である。教師による評価が、効力感を妨げるのは、ひとつには、前者の側面が強くなりすぎるからである。評価に際しては、もっと後者の側面を重視した形が工夫されるべきだろう。自分の活動のどこが良く、どこが悪いのか、どこをどう改善すればよいのかがわかるようにすることは、情報的側面の強い評価といえる。(p.115)



この本の初版は1981年に出ている。(私が読んでいるのは4版で1982年のもの。)だから、この引用文で「現在の学校教育」と言っているものは、主に1970年代の学校教育のことであって、2007年の教育ではないわけだが、「教師が生徒を評価するのがつきもの」という状況は変わっていないと思われる。

評価は常に行うのでは有害であって人を無気力にする。評価を行う場合にもできるだけ「情報としての側面」を強調したやり方で行うことが望ましい、ということがここでは言われている。

現在行われようとしている安倍内閣の「教育改革」は、これに照らしてみるとどう評価できるだろうか?

安倍晋三は、「全国的な学力テスト」を行い、その結果を公表することにかなりのこだわっている。それによって学校への予算配分にも差をつけようと目論んでいる。また、「教員免許更新制度」を導入して「ダメ教師には辞めていただく」のだそうだ。

これらは教師-生徒間の関係ではなく、政府-学校・教師間の関係ばかりであるが、こうしたやり方で学校や教師が扱われる場合、それが生徒との関係にも波及するのは間違いない。

まず、テストで結果を出すための教育が行われることは想像に難くない。それは常に評価にさらされることに繋がり、しかも、政府は学校・教師に対して強制的で強権的なやり方で評価を下していくのだから、教師たちには心のゆとりがなくなってくる。とにかく目先のテストでの「結果を出させる」ことに力が注がれることになる。そうした短期的な視点ばかりが強調される文脈では、生徒への評価をする際に、「評価の統制的な側面」が強くなりがちになるだろう。

これは生徒たちのやる気を削ぐことになるのである。実際、これらは脅迫によって競争をあおる政策であり、競争がやる気を阻害することについては、前回のエントリーで述べたとおりである。




これに対して、じっくり取り組める時間的・心理的余裕があると、課題についても、また自分自身についても、新しい面を発見することが容易になるだろう。(p.119)



こうした余裕は自分も持ちたいと思うが、最近はなんだか慌しい。私自身も、もう少し何とかしたいところである。続きを書こうと思ったが、疲れたので寝ることにする。

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稲垣佳世子、波多野誼余夫 『無気力の心理学 やりがいの条件』(その2)

エイムズという人により、小学五年生の男児を対象にして行われた実験である。
 二人がペアになって課題を解くことが要求された。ただし解くのは、それぞれが自分一人の力でやることになっていた。課題は、知的課題の一種で、幾何学図形の一筆書き問題ともよべるものである。鉛筆を紙の上からはなさず、しかも同じ場所を二度通らずに複雑な形の幾何学図形を一筆書きでなぞるのである。二つの実験条件が設定された。競争条件と非競争条件である。競争条件では、二人のうち、成績のよかったほうが「勝ち」になり、その子はごほうびにちょっとしたおもちゃがもらえることが前もって告げられていた。非競争条件では、二人のどちらにもごほうびが与えられることになっていた。研究に協力してくれたお礼という名目だった。どちらの条件でも、一組の問題を解いたあと、実験者から、二人の成績が読み上げられた。したがって、お互いに相手が何題解けたかがわかるようになっていた。このあと子どもたちは、実験場面についての「感想」をいろいろな角度から質問された。この「感想」と実験条件との関連をみることが実験の目的だった。
 次のようなことが見出された。非競争条件では、自分はよくやったという満足感は、自分がどれほど努力したか、その自己評価と対応していた。・・・(中略)・・・。ところが、競争条件では、満足感と努力の自己評価のあいだに、そのような関係はみられなかった。そのかわりにみられたのは、自分の能力の高さと運のよさの自己評価が満足感と大いに関係がある、ということだった。・・・(中略)・・・。
 さらに、自分や相手の成績をどう評価するかについての結果も興味深いものだった。・・・(中略)・・・。
 その結果は、競争、非競争の両条件とも、成績のよかった者が、わるかった者より、よりたくさんの金星をもらうにふさわしいと考える傾向があった。これはある意味で、あたりまえの結果である。注目すべきなのは、成績のよかった者とわるかった者とのあいだでの賞の差が、競争条件のほうではより著しかったことである。つまり、競争条件では、勝てば、必要以上に自分をえらいと思い、とてもたくさんの賞を自分に与える。そして負けた者へは賞を非常に少なくし、その価値をひどく低く見積もるのである。では、自分が負けたときはどうか。このときは、自分に与える賞をひどく少なくする。いいかえれば、自分の能力のなさを必要以上に責めるという傾向がみられた。いわば、結果(勝ち負け)によって、一喜一憂するのである。非競争的条件では、そうした激しいコントラストはみられなかった。
 ここでみられた結果は、その後の研究でも繰り返し確認されている。
 こうみてくると、競争が強調される文脈では、人々が結果志向的になることがよくわかる。しかも、この結果は、自分の意志では変えることの難しい「能力」や「運」によって決まっていると考えるようになるのである。この意味で、競争を強調する文脈は、効力感どころか無力感を生みやすい素地を多くもっているといえよう。・・・(中略)・・・。エイムズは、自分自身の一連の実験結果にもとづき、競争を「基本的に失敗志向のシステムだ」とさえ述べている。・・・(中略)・・・
 また、競争的文脈では、そこにいる人々が、お互いに友好的でなくなる――これも、実験的に繰り返し確かめられてきた事実であることを付け加えておこう。
 このようにみてくると、競争を強調する雰囲気は、効力感を生み出す他者とのやりとりを支える環境として好ましくない、といえよう。(p.76-80)



経済だけでなく教育の問題などでも、現在の日本ではあらゆる分野で「自由な競争によって社会の活力が高まる、活性化する」という神話が信じられているが、実証研究はそれを否定しているということである。

競争ばかりを強調することは、社会を活性化させるどころか、むしろ、人々に無力感を感じさせる要因となり、社会の活力を失わせるのである。

なお、一言補足すると、あることの結果が、自分の意志で変える事ができる要因(例えば、努力)によって決まると考える場合、無気力になりにくいが、自分の意志で変える事ができない要因(例えば、能力・才能や運)によって決まると考える場合、無気力になりやすいということが、実験などで確認されている。そして、何に原因を帰属させるかは、人の個性もさることながら、社会的な文脈によって変わってくるのである。従って、自分の意志で変える事ができない要因に因果帰属させる傾向が強まる競争的な文脈では、やる気がなくなりやすい、というのが本文の論理である。(この部分の論証は本書のもっと前の部分で行われている。)

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稲垣佳世子、波多野誼余夫 『無気力の心理学 やりがいの条件』(その1)

 ディシは、大学生を対象にして、金銭による報酬の「効果」をしらべている。・・・(中略)・・・。実験の第一日目には、各被験者がどのくらい熱心にこのパズル解きを行うかが調べられた。次いで二日目には、実験群と統制群とでちがった扱いをした。すなわち、実験群の大学生では、パズルが正しく解けるたびに、一ドルの報酬が支払われた。他方、統制群では、解けても何の報酬も与えられなかった。そして実験の三日目は、再び第一日目と同じやり方にもどった。すなわち、実験群、統制群とも、パズルが正しく解けても何の報酬も与えられなかった。
 毎回、実験者は実験の途中で、もっともらしい口実をつくって、数分間中座した。そのあいだは、被験者は何をしていてもよかった。・・・(中略)・・・。この「自由時間」に被験者がどんな行動をとるか――つまり、ソマパズルをやりつづけることがどのくらいみられるかを両群でくらべたのである。
 結果は、興味深いものだった。実験群では、解けると報酬のもらえる二日目では、パズルをいじりつづけることが多かった。しかし、解けても無報酬の三日目になると、とたんに興味を失うのである。この興味の低下は、同じように解けても無報酬だった一日目の反応とくらべてみると歴然としていた。他方、一日目から三日目まで、一貫して何の報酬も与えられなかった統制群では、そうした興味の低下はみられなかった。
 ディシは、同じようなやり方で次々と実験した。そして、金銭の報酬が、被験者のもともともっている興味を低下させてしまうことを確かめたまた、実験室のなかだけでなく、日常場面でもこうした結果が生ずるのを確かめている。(p.54-55)



この心理学実験は、労働の問題を考えるにも示唆を与えてくれる。成果が上がれば報酬も上がるというやり方で仕事をさせようとすると、却って、仕事を自分から進んでやりたいと思わなくなることが予想される。本書によると、こうして「外から与えられた報酬による動機づけ」自律性の感覚を損ない、人を無気力にする方向に働くという。

むしろ、そうした外からの余計な刺激がない方が、内発的な動機づけが妨げられないため、高いモチベーションが維持するのに好都合であると言える。

このように心理学の動機づけの理論から見ると、成果主義や能力主義などと呼ばれる賃金体系は、誤った(「生産性」を向上させるという目的にそぐわない)やり方であることがわかる。

さらに注目すべきことには、外的評価の予告は、自分の能力を伸ばそう、より難しいものに挑戦してみようとする自己向上的な意欲さえも弱めてしまうことが、ハーターの実験で報告されている。(p.58)



こうなってくると、なおさら成果主義の弊害ははっきりするだろう。成果主義とは、外的評価を行うことを予告する賃金体系ないし雇用システムだからである。成果主義の導入や徹底は、新たなものへの挑戦や難しい問題への対処を妨げることになり、その結果、組織を停滞させることになるだろう。

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杉田敦 『思考のフロンティア 権力』

しかしながら、最近の例を引くと、警察は、シートベルトの法制化を、着用率が低いという理由で長い間先送りしてきたという事実がある。・・・(中略)・・・。人々の抵抗が大きい時に制度化すれば、制度が無力であり、自分たちに権力がないことが露呈してしまう。逆に、相当多くの人々がシートベルトを着用するようになってから、すなわち新しい実践が実質的に確立した後に、それを法制化すれば、高い着用率が得られ、自分たちに権力があるという印象を与えることができるのである。(p.17)



法を制定する側と法の下で生活する一般の人々との間に成立する権力関係。本書とは違う枠組みで見れば、支配の正当性の問題として捉えられる。




主体を特定する可能性を一概に否定すると、無責任な言い逃れを奨励してしまう。・・・(中略)・・・。そこでわれわれは、何とかして責任者を特定しようとするわけである。
 しかし、そうした試みがつねに成功するとはかぎらない。・・・(中略)・・・。皮肉なことに、本当の権力者は、責任を回避するだけの権力を有する可能性があるからである。(p.19)



最後の太字にした部分の観点から見ると、まだ安倍晋三はそれなりの権力を保持していると見ることができる。閣僚の無責任な言い逃れがある程度まかり通っている。選挙を控えた時期の政治家は有権者(選挙民)に対して相対的に権力が低下するが、そうした時期でもこの状況というのは、やや問題である。

「無責任内閣」が存続し得なくなるためには、やはり世論の支持が失われることが必要である。そうすれば、政策で支持されたわけではなく、「選挙の顔」でしかない安倍に対して、自民党内でも支える人々は急減し、それによって内閣が倒れることになる。




次に、ある主体に責任を帰するというやり方は、一罰百戒的に、その後の人々の行動に道徳的な効果を及ぼすことになるかもしれないが(刑法学でいう一般予防)、その半面として、構造的な要因を隠蔽することにもなりかねない。(p.19)



基本的に私のスタンスは杉田と同じである。単に犯罪を犯した者の倫理観を問うたり、その者の罪を裁くだけでは、問題の解決にはほとんど寄与しない。社会問題を道徳的に解釈すると、それが実際には物理的・制度的・経済活動の仕組みのうちの特定の原因に起因する現象だとしても、そのことが解明されないままになってしまうことがある。

このことは、たとえば、私がメインブログで政治家を批判する際にも注意しなければならないと思ってはいる。たとえば、最近疑惑が相次いで浮上している事務所費の問題にしても、それをもたらす要因やこうして事件化することの結果の分析はしておかないといけない。たとえば、政治に金がかかりすぎることの問題のような根本的な原因などからしっかり考え直す必要がある。

ただ、それはそれとしても、最近のメインブログでは、意図的に、そうした分析をしないままに、若干アジテーション風の味付けをしていることがある。基本的にその方が読みやすいと思われるから。ただ、それもほどほどがよいとは感じることがある。そのあたりについては、ある意味、複数のブログを使い分けることで、自分の中でのバランスがとりやすくなるとも思っている。

このブログは一応、私の「読書記録的なブログ」なのだが、単にそれだけでなく、ひとつには、私のメインブログの背景で動いている私の思考を多少なりとも書き留めるのにも使おうとも思っているし、そう思ってきた。

もちろん、このブログは、単なる読書の記録として、面白いと思ったり批判が必要だと思った記述を断片的に取り上げて、単にコメントをつけるのが基本であり、その意味では、私以外の人が通読するようには書かれていない。

しかし、ブログに書いておくと、しばしばTBがきたり、無断でリンクが貼られたりなど、自分の中だけにとどめておくより、良いことがしばしばあるということを、別のブログを書いていて経験しているので、このような形で公開している次第である。

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稲葉振一郎・立岩真也 『所有と国家のゆくえ』(その4)
稲葉

 たとえば、「民主的な合意の結果だったら何でもいい」というふうに、政治倫理において根源的規約主義をとるのはおかしい、と言えば、実際多くの人が合意するでしょう。人が全員「それがいい」と思いながらも、「それは正しくないことだ」という場合もありうる、と。むしろ民主主義の正当性というのは、それが普遍的な正義とか正しさそのものなのではなくて、そうした正しさを探り出す接近法としてかなりいい、試行錯誤しながら衆知を集める方法として優れているからであって、「合意イコール正義」という短絡直結な話ではないということは多くの人が思っているわけですよね。そういう直観の支えがあるから、現代立憲主義者は立憲民主制の重要性、民主主義の立憲主義による制御の重要さを言う。(p.236)



このような「民主主義」についての議論は義務教育とか、高校の政治経済などの科目でしっかり教えるべきではないかとふと思った。私の記憶では、立憲主義に対して理解や解説が日本の学校ではしっかり行われていないと感じられる。

だから、ここでは稲葉は「民主主義」による決定に限界があることを常識的な話として言っているのだが、このくらいの理解もしっかりしていない人は意外と多いのではないか、と思えることがある。

それは政治家でもそうだが、それを評する政治的な発言をするブログ(特に保守的または右翼的な発言をする人たちの)を見ていると、しばしば思うことである。

ただ、「民主主義」というもの自体、日常言語のレベルでは非常に曖昧で掴みにくい多様な要素からなる観念なので、そのことも要因としてはあるかもしれない。例えば、私の場合、基本的には、制度と理念の区別は最低限明確化しておく必要があると考えており、民主制としての民主主義のことを「デモクラシー」とカタカナ書きで書くことにしている。(分かりやすさを優先しなければいけないときなど、必ずしもそうしていない事例がごく少数あるが。)それに対して理念としての民主主義については「民主主義」と漢字で書いている。

カタカナと漢字の使い分けをする理由は、デモクラシーはdemocracyであって、「人民の力」ということを表しているから、権力的な作用を表現するのに適していると考えられるからであり、民主主義は民主「主義」となっているので、主義主張という言葉があるように、主義ということを明確に謳っているからである。

そして、デモクラシーという制度は可能であるが、民主主義の理念は矛盾を含んでいるために、何かを記述するときには非常に使いにくいということを踏まえるようにしている。ただし、行為の規範としてはそうした観察者の言語としては矛盾した性質があっても、機能しうるために、使用してはいけないわけではない、という程度に捉えている。

ただ、最近、少し考えを深める必要性を感じているので、少し勉強してみて、考えをさらに先に進めていきたいとも思っている。




より多く貢献したらより多くの褒美を与えることによって、生産を促し、さらに成長を促す。だから、そう気前よく分配することはできない。生産・成長のためには格差が必要だというのだ。・・・(中略)・・・この本にしても、印税が来なかったら私は企画に乗ったかどうか疑わしい。(p.276-277)



生産性を高めるには、いわゆる「インセンティヴ」が必要だ、という議論に対して、立岩は限定付ではあるが認める立場である。しかし、私見では彼の見解は十分ではない。ただ、興味深いのは引用の最後のコメントである。

立岩自身には明確に意識はされていないが、このコメントは賃金(財)の分配が「何の誘因になるか」をはっきりと示していて興味深い。

つまり、お金がもらえるというのは、「この企画に載るか乗らないか」または「ある会社で働くか働かないか」あるいは「Aという会社で働きたいか、Bという会社で働きたいか」という選択においては「インセンティヴ」として有効に機能する

しかし、「その企画に乗った後、どれくらい頑張りたいと思うか」また、「その会社に雇われた後、仕事をどれだけ頑張りたいと思うか」といったことにはそれほど影響しない。

それどころか、心理学の実験では、逆に報酬があることによって仕事への興味が失われるというものすらある。「報酬のために頑張る」という仕方で動機づけが行われると、仕事自体への興味が薄れてしまうというのが人間の心理である。

実際に、経営学者の高橋伸夫によれば、報酬(給与)は完全に平等で何らかの実績によっては変わらないシステムの方が効率的であるという。評価は昇進という形で行われればそれで良いし、それがもっとも効果的であり効率的であるというのである。私もそれに同意する。

これらの事実を明確に理解すれば、「インセンティヴ」に関する神話に左右されずに、明晰に判断することができるようになるだろう。




ジェーン・ジェイコブズについての注。

 『都市の原理』(1969年)において都市の形成の方が農村の形成に歴史的に先行する、というアイディアを提示。『都市の経済学』(1986年)では「未開社会」は人類の原始状態を今日に保存するものではなく、都市・交易ネットワークから切り離されたローカルコミュニティである、と推測した。(p.286)



これらのアイディアは、私が世界各地を旅行する中で見て取ってきた都市の構成原理とかなりの共通点を持っており興味深い。

イランの沙漠の給油所(何件かの店がそこにある)を見たときに、沙漠こそ都市が成立するには有利な要件であることに気づいたことや、北海道の内陸部から港湾都市に向かう道を観光客(?)を案内しながら車を運転していて、都市が先にあり、その人口を養う形で周囲の農村が形成されてきたらしいことに気づいたのだが、そうした認識とかなり合致する。

もちろん、都市といっても、(水が比較的容易に確保できることなどの)共通性はありつつも、その成立のパターンはいくつかのタイプがあるとは思うが。

政治や経済がもう少し安定していれば、こうした歴史研究や都市論にもっと時間や労力をさけるのだが…。

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稲葉振一郎・立岩真也 『所有と国家のゆくえ』(その3)
稲葉

 ところで、立岩さんのように「所有」をまずは「他者による所有」として理解しようというロジックならば、まさにもってるものの境界線というのはスタティック(静的)なものとして理解した方がいい。だけど、市場っていうのはダイナミック(動的)な取引の場ですよね。市場に限らず取引っていうのはダイナミックなものなので、ダイナミックな領域においては、「オレがオレが」のロジックの方がわかりやすいわけですよ。(p.81-82)



 立岩さんが今おっしゃったような話のベースラインになっているのは、おそらくは意外なことに、ミクロ経済学の教科書に載っているような「厚生経済学の基本定理」っていう話があるわけですけど、ああいう教科書的な話で想定されている状況と、根本的にあまり変わっていないわけです。
 ・・・(中略)・・・。つまり、取引に参加しなくたって生き延びていける、ある種自給自足に近いような条件が想定されている。これはトリッキーといえばトリッキーですよね。
 ・・・(中略)・・・
 つまり、経済学の教科書に書いてあって、市場経済バンザイ、オッケーという議論が展開されるときに想定されているのは、実はそういう状況なんです。だから、彼らは非常におめでたく市場を「パレート最適」を実現するメカニズムとして肯定できるわけですね。(p.84-85)



以上の二箇所における稲葉による立岩への批判は、なかなかいいところをついていると思われる。私は現在の日本の社会学者の中では恐らく立岩真也は最良の者のうちの一人だと評価しているのだが、確かに彼の議論はスタティックであるとも思う。

彼にとっての「フィールド」は主に障害者やALSのような障害者に近い状況の人たちについてのものが多かった。したがって、そうした自らの行為が制限されてしまっている人たちの活動に関して記述し、説明をしていくにあたってはスタティックな理論構成でもかなりのところまで示すことができたのだと私も思っていた。

しかし、経済や「国家」などを近年になって彼が論じているのを見ると、どうも十分ではない、というか規範理論の側に偏っているために、現実の現象を説明するまでにはかなり大きな「架け橋」が必要とされるし、理想を明確に定式化するという意味では理念型としての有用性は一応認めるにせよ、やはり現実を説明する力は十分でないと思っていた。そういう状態だったので、私以外の人が読んでも同じようなところに目がいくのだということが分かったのはひとつの収穫だった。

また、後段の、立岩が「厚生経済学の基本定理」に近い仮定をしているというのは、なかなか興味深い指摘であった。確かに、立岩は「論理的な感覚」を参照しながら、権利問題に関する議論からはじめて、個々の要素を組み上げながら論理展開していくので、「あるべき状態」が入り込みやすいというのはある。そのことを明確に指摘している点で、この記述は参考になった。

正直に言って、本書や他の本で見た限りでの稲葉振一郎という人の考えは、あまり私としては評価できないことが多かったし、あまり「鋭くない」と思っている。ただ、本書ではこの2箇所において良い批判をしたのは、少しだけ彼の評価を上げることになった。ただ、彼の単著を読もうとまではまだ思わないが…。



稲葉

状態っていうのは、ふつうに言う意味での「結果」であるとは限らなくて、もしかすると「初期条件」、出発点かもしれないし、あるいは途中経過かもしれないけれども、その途中経過におけるスナップショット的な状態というものがどんな状態を満たしていなければいけないかということを考える必要がある、というのがロールズの、あるいは功利主義者の考え方です。(p.102)



ノージックの「歴史原理」と「結果状態原理」との対比に関連する箇所での稲葉の説明。

ここで気づいたというかより明確化されたのは、例えば「結果の平等」と言われるものについて、それを「結果」というよりは上記のようなスナップショット的な「状態」として捉えた方が言葉としては適切であり、「状態の平等」という方がよい、ということ。今後はある程度の厳密性を求めたいときには、こうした言葉づかいを使うことにしたい。



稲葉

権力者を権力にとって不可欠なものとして自明視してしまうと、権力っていうものが過剰に一貫して(ある限定された意味で)合理的なもの――デザインされ、意図的に動かされているもの――として思い描かれる、あるいは権力者が神のようにイメージされてしまう、というところがある。・・・(中略)・・・。「権力者」と呼べるような特定の誰かがいたとしても、そいつは状況を創造し支配している神ではない、と追い出す。いなければなおのこと、状況を合理的意図的に配置して設計するやつはいない、ただ単に力の流れとして権力っていうのがあって、その結果、こういう価値観や思いや欲望を抱いている人間が生まれてきてしまうと描いていくことができる。(p.223)



この視点は重要である。私もしばしば権力について語ってきたが、メインブログで語ってきた範囲では、権力者と権力を結びつけて書いていることが多かった。今思えば少しばかり失敗だと思うまぁ、ブログは厳密さというより即興というか、覚書的な要素が強いので、どうしても砕けた理解の仕方で書いてしまうことが多いのだが、それでも多少、自覚の程度が低かったとは思う。

特定のアクターがいなくても、複数のアクターが活動するときに、彼らの活動の目的からすると派生的に、意図されない形で権力が作動を開始することがあり、それが一連の人々の行為の連鎖を誘発することがある。

これに関連することを一言述べると、例えば、陰謀論や「一番得をするヤツが犯人だ」というようなアホらしい推理が基本的に誤っていることが多いのは、権力者・実力行使者が必ずいると見立てており、それに対して「合理的」な説明から類推していってしまうからである。実際には、「誰も望んでいないのにある種の強制力が生じてしまって思うとおりに動けない」というようなことはいくらでもある。そうした事態をこれらの論では説明できないか、もっと悪い事に、間違った説明をしてしまうのである。

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稲葉振一郎・立岩真也 『所有と国家のゆくえ』(その2)

本書では、なんであれ最終的な帰責主体として国家を設定するのは、かえって国家の神秘化をもたらすことにもなるから、やめておいた方がよいと述べたにとどまる。(p.52-53)



同感である。

私の場合、メインブログ「ツァラトゥストラはこう言っている?」の方では政権批判を積極的に行っているのだが、同時に、この点を忘れないようにしなければいけないとはいつも思っている。ただ、それをメインブログの方に書いて自説をその場で相対化してしまうと、なかなか読み手には理解されにくくなってしまうのが苦労するところ。したがって、重要な論点でもそれを明示せずに書かなければいけないときがある。あるいは文才があればある程度までもっと書けるのかも知れないが、そうはいかないという現状がある。

それを続けていくと、下手をするとこうした点を忘れてしまったり、注意が足りなくなったりしはしないか、と自分なりに懸念はもっていたりする。

「官僚・行政が無駄なことばかりをして、自分たちの払っている税金を無駄遣いしている」という感覚が日本では広く共有されており(不正がないとは言わないが、諸外国の政府と比較してそう言えるとは到底思えない。そもそも人口の割の公務員の数は半分くらいだし、歳出規模も国民負担率もメチャクチャ低いのだから、そうした感覚は事実誤認に基づいているのだが)、そうした反感(ressentiment)をもとに、やや感情的な行政批判をする人が結構いる。

例えば、少し古い言葉だが、「親方日の丸」という言葉を使う人がいるが、私に言わせれば、そうしたことを言う人たちの方が、行政に依存する心理が強い。官僚や行政をかばおうと思わないとしても、「親方日の丸に依存してるのはお前の方じゃねぇか」と醒めた感覚で横槍を入れたくなる。

立岩が神秘化と言っているのも、不可謬で完全無欠なものとしての「国家」を設定すると、その主体に対しての責任を問いやすくなるから、何かあったときに「国家」の責任にするということが行われやすくなり、それが簡単にできると、何かにつけて「国家」が責任の最終的な主体とされることになり、その暗黙の、そして多くの場合明確に自覚されない前提としての「不可謬絶対の国家」が要請されることに関連していると思う。

つまり、立岩の言い方が十分に妥当かどうかはやや疑問だが、基本的に国家の神秘化と絶対不可謬性の要請は結びついており、また、そのように前提すると「国家」を帰責の最終的主体にしやすくなるのは確かであり、これらは相互的に強めあうだろう




自然な市場とそれを制約する国家という図式は間違っている。市場のあり方は、それがどんなものであれ、すでに規則によって規定されている。問題はどんな規則を設定するかであり、その手間・手続きの煩雑さについて、今ある規則より別の規則の方がより大きいとあらかじめ決め手かかることはない。(p.54)



「自然な市場」というのはあまり使わない言葉だと思うが、「自由な市場」とか「自由競争」と言った方が一般的だろう。規制緩和や「官から民へ」ということをやっても、やらなくても、どちらにも規則はある。それが少なければいいとは一概には言えないのだが、これらのことをしたら規則が少なくなると思う人は多いだろう。しかし、合法的に採用しうる手段が増えるならば、それは同時に規則の複雑化でもありうる。ここでも世の中は短絡的に発想する人が多い。規則は実定法だけではないのだ。



稲葉

労働力はみんなではないにしても、非常に多くの人、だいたいの人がもってるという話しをして、そこを踏みとどまるべき「立つ瀬」にしよう、というさえない話なんですよ。・・・(中略)・・・。それだけは奪われない、なくしえない、最後まで残る「財産」として。(p.79)



観念的な頭の中だけでの理論としてはこういう構成でも、それなりに成立ちうるだろうが、実践的にはこれは現状ではうまく行かないだろう。相対的に権力の強い側がネオリベ・ネオコンの路線で物事を進め、次々と「財産」を人々から剥ぎ取り、また、減価させているときに、こんな流暢なことを言っていては最後まで残るものも残らなくなる危険がある。

実際、「市場原理主義者ではない」と自称する市場原理主義者・竹中平蔵のような輩でも、こうした考えは持っているだろう。ネオリベのような「単純バカ」向けのロジックでは、こうした最後の砦を設定することはできず、確実に軽視されることになる。ましてや最後の砦に追い込まれる人と政策決定する人が別々の人であればなおさらである。

社会科学者として少しでも良い社会を目指そうとするなら、こうした発想からは抜け出すほうが良いだろう。

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稲葉振一郎・立岩真也 『所有と国家のゆくえ』(その1)
立岩

 もう一つ、たとえば私有に対する国有とかっていう話にすぐなるでしょ。で、国有とかやるとうまくいかないんだよ、と。これは稲葉さんの本なんかにも書いてあって、それはおおむねそうでしょう。ただ、そこで考えるべきは、今ある所有の決まりじゃないものはすぐ国有ということになるかというとそうじゃないだろうと。そうじゃないいろんなアイディアが考えられるだろうということです。(p.28)



こういう短絡があまりにも横行している中では、こうした批判的なスタンスが必要。その上で、どんなアホでもわかるくらい簡単にポイントを示すことができればいいのだが。

これと同じことは市場原理を批判することに対して、市場原理や市場での競争を支持する側が、「市場でなければ計画経済になる」とか、「90年代にケインズ的財政政策は失敗した」とかいう、お話にならないような低レベルな反論をすることにも当てはまる。

立岩が言っているのは、これの第一の反論に対する反批判。第二の反論に対しても、実証的な研究はどちらかというとそれを支持していないと思われる。つまり、90年代のケインズ的財政政策はそれなりに効いていたことをネオリベ的経済学者・財政学者でも認めている(例えば井堀利宏)。

私に言わせれば、今の時点で形成されている市場とは別の形の市場がありうるのである。それは取引の場を「市場」として捉えていては逆に捉えられないものであり、「市場」などという言葉を使わずに分析することでようやく見えてくるものなのだ。

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立岩真也 『希望について』(その3)
「信について争えることを信じる」より

 以上がなんらかの「規範的」な立場を明示する流れであったとすると、それと少し異なって、「構築」だとか「脱構築」だとか言ってきた流れがある。・・・(中略)・・・。多くの場合、自然とされているものが実は構築されていることを暴くという手口が同じで粗筋が同じなので、移り気な人たちから既視感しか感じないと不平を言われることになる。(p.250-251)



「社会的――言葉の誤用について」より

 これはたしかに解放的なものであって、だからこそ今でも飽きもせずに行われている。それを放棄する必要はなく、肯定してよい、大切なことを言っていると思う。しかし、素朴に捉えれば不十分ではあり、それを繰り返しているなら怠惰ではないか。(p.258)



脱構築主義についてのこれらのコメントには全く同感である。

社会科学や人文科学系のことを少しかじった人間が、こうしたタイプの議論(脱構築主義)を初めて読み、知ると、大抵、世界観が変わるような経験をする人が結構いるだろう。つまり、それまで思い込んでいたものがガラガラと音を立てて崩れていったり、全く違ったように世界が見えてくるように感じたりすることがある。

または、漠然と何かおかしいと思っていたものを、はっきりと否定ないし相対化されることで、その虎われから解放されたと感じることがある。

そうしたことがあり、また、そうした世界の見かたの転換をもたらす指摘の内容も、それなりの正しさがある(ことが多い)。

だから、嵌る。面白くて嵌る。その上、嵌っている本人たちは、意外と気づかないというか、本人たちには気にならないが、それらの議論は立岩の言うようにワンパターンなものが多い。

繰り返しになるが、それでいて「そこそこ」正しい。その上、それが「そこそこ」でしかないことを明確に言うことは普通は難しい。だから、なかなか離れられない。そういう人が割合、多いと思う。

だから、他人には「その議論はもう飽きた」「いつまでそこにとどまっているのか」などと実際に言ったこともある。それらの議論の正しさを保持しつつ、別の次元に理論を移行させないといけない。次元が一つ足りないのが問題なのである。ポイエーシスという知を導入しなければならない、というのが私の現時点(何年か前から)での答えである。



「社会的――言葉の誤用について」より

 相対化とは「信じるな」という、あるいは「信じなくてもかまわない」と述べる行いである。そうしなければならないとされている時、こうするのがよいとされているときに、そうとは限らないと言われることには、実際上の効果がある。定まった解はないということ自体において、ときには治療的な効果がある。
 それは代わりのものを提示しないとも言われる。しかし、何かを壊したら代わりに何かを作らなければならないと決まってはいない。ただ壊してしまえばそれでよいものもある。信じないことは、代わりに何かを信じることを要さない。信じなくてもよいこと、他でもありうることを知ること自体が大きな意味をもつ。(p.257)



その通りである。後段のような短絡には要注意。



「ただ生きるのでは足りない、はときに脆い」より

 誰かのために犠牲になることは立派なことだ。だが、その人が犠牲になることを教えることは、その人の存在を(他の誰かの存在のための道具とし、事実上)否定することになるからその価値自体を裏切る。そして犠牲になることを教える側はそのまま居残るなら、それもまたずいぶん都合のよいことだ。だから、正しさの語られ方には注意深くならざるをえない。そして実際に何が何より大切にされているのか、それを考えることにならざるをえない。
 ・・・(中略)・・・。尊厳を保つためにと言われ、ただ生きているよりもという言い方で説明されるその行いは、なにか精神的に高い営みのように思うかもしれないが、それは違う。むしろ、手段であるものによって支配されていること、その支配を認めていることである。(p.295)



近年の「愛国心」を支持する人々には、こうしたことを明確に、それも人間に可能である限りの限界まで明確に、理解してもらいたいところである。

「国を愛する」ことを強要される場合、(その印として)「祖国のために」「お国のために」何かをすることを求められることになりうる。それは個人の側にとっては「犠牲」であることがある。そして、それを個人に強要する人は「そのまま居残る」。そして、居残った人間によって、そうした犠牲は「なにか精神的に高い営み」であるかのように奨励、称揚される。

「犠牲」を払わされる側の人にとっては、まったくいい迷惑であるというほかない。

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立岩真也 『希望について』(その2)
「終わった選挙のこと」より

 大きい政府・対・小さい政府という構図は粗雑すぎて話にならない。問題は何が大きく何が小さい方がよいかである。政治は社会にある財の多寡の調整にほぼ専念する。他の仕事は減らす。どの項目も一律に予算を増やさないといった案は最低の節約法である。(p.83)



「大きな政府」対「小さな政府」の対立的構図が不毛であるのは確かにその通りであり、粗雑であるという指摘は全く正しい。現に、「小さな政府」を標榜して予算削減が行われ続ける中、軍事的には肥大化が進んでいる。隠されている。政府の予算を削減する必要があるという場合、私なら真っ先に皇室関連と軍事関連の予算を削減するが、決してそのことが話題に上ることはない。特に公のメディアがそれを言わない。これは問題である。

金がないときに、単なる「象徴」のために使う費用を削るのは当然の判断だし、コンスタントに使う必要がない軍事費を削減するのも当然である。しかし、人々の生活により密接に関わるところから予算は削られていく。公共事業の削減、そして、年金、医療保険、高齢者医療、障害者福祉などが削減される。

防衛庁は防衛省になり、社会保険庁は解体されることはそれを象徴している。



「少子・高齢化社会はよい社会」より

 けれどもまず、これからの高齢者の割合がずっと高くなっていくというのは誤解です。いわゆる「団塊の世代」の人、「ベビーブーム」の時に生まれた人達は数が多かったわけで、その後は高齢者になる人自体が減っていって、高齢者の割合はほぼ一定の値に落ち着くでしょう。ですから、これから50年くらいの間をなんとか乗り切って、うまいやり方を見つけてしまえば後はなんとでもなります。(p.130)



楽観的に見るにはこうした見方も悪くはない。確かに、団塊の世代が平均寿命に達することになると、高齢者の割合は落ち着くのだろう。それは今から20年後くらいのことである。しかし、その10年後くらいには団塊ジュニアの世代が高齢者になるので、その世代が(現時点での)平均寿命くらいまで生きるとすれば、やはり50年くらいかかる計算になる。

ということは、私が生きてる間は基本的に高齢化が進むことになる。それは一時的な現象とは言えない気がするので、あまり慰めになってないようにも思う。

ただ、人口が減れば貧しくなるのか、国際競争力がなくなるのかというと、必ずしもそうとはいえない、というのは過度の悲観を避ける言説にはなるかもしれない。実際、東アジアで一番一人当たりGDPが高いのは日本ではなく香港である。私はあまり知らないが、ルクセンブルクなども生活水準は高そうだ。歴史的な事例を出せば、ビザンツ帝国から特権を得たヴェネツィアがある程度の期間、栄え続けることができたのも、似たようなものだろうと推測する。人口などの面で小国であっても生き延びるための条件はある。

日本にそれがあるかどうかはわからないが、地域大国となるであろう中国との良好な関係が築けるかどうかが、その一つの鍵を握るのではないかと私は考えている。



「ふつうのことをしていくために(抄)」より

 声高に「危機」や「未来」が語られる時、大切なことは、大仰で扇情的な話に乗らないこと、自分の仕事から考えていくことだと思う。(p.135)



その通りであろう。北朝鮮による「脅威=危機」が語られ、「美しい国」として「未来」が語られる時、大切なことは、そうした大仰で扇情的な話に乗らないことなのである。日本の人々はそれに乗ってしまったために安倍晋三が総理大臣になってしまった。そして、今さらながら、そのダメさ加減にようやく気づき始めた、というわけである。

幸か不幸か今年は選挙がある。そこでしっかりと冷静に判断していくことである。



「労働の分配が正解な理由」より

あまりに単純な人は貧困の脅迫が挑戦を生むというのだが、そんなことは一定の水準に達した社会にあってはむしろ例外的だと考えた方がよい。なにせ人生は長いから人々が先々のことを考えて不思議ではない。なんとか食いはぐれることはないと思えた方が、挑戦的になるはずだ。例えば年金をあてにできるなら、極端に向こう見ずではない人も、さしあたり実入りのそうよくない、不安定な、しかしおもしろい、そして/あるいは社会的に意義のある仕事をしようとするはずだ。(p.158)



同意見である。しかし、近年の日本では「人間は怠け者であり、脅迫によって、危機感を煽ることによってこそ必死になって働く」という人間観を背景にした発言があまりに多い。これは一面の真理ではあるにしても、人を馬鹿にした見方である。また、そういうことが仮にあったとしても、それは長くは続かない。無理をしているのだから当然である。

「多少のことがあっても食いはぐれることはない」という安心感や安定感があり、さらに未来に見通しが立てば、人間は活き活きと働くし、さまざまなことに挑戦することができるこのことをもっと訴える必要がある。(それなりに多くの論者――例えば、高橋伸夫、金子勝、神野直彦や、この本の著者である立岩真也など――が、既に相当前から繰り返し論じているのではあるが。)

ただ、新たな挑戦などの側面が見えにくいのは、それが会社の中で行われることが多かったからである。さらに、こうした最低限の保障をしっかりするという考え方は公共性の高い領域、特に行政やそれの関連団体で採用されてきたものだった(護送船団方式などという言葉も一昔前まで言われていた)こともその要因と言える。なぜなら、こうした領域では新たに挑戦をする必要はなく、むしろ、これらの業界が仕事としているのは、「マイナスをゼロにすること」であって、「ゼロ以上のところには干渉しないし、してはいけない」というのが基本だからである。だから、これらの業界ではそれほど大胆で突飛なことをする必要はないししてはいけないことの方が多い。それゆえ、安定性を確保することが新たなことへの挑戦に繋がるという事実は見えにくくなっていた。

これに対し、企業などは行政や外部の社会に最低限を支えてもらったところ、つまり「ゼロ以上のところ」から始まるものであって、行政機関などとは性質も役割も異なっている。

それにもかかわらず、近年の論調はとにかく政府は小さい方がいいということにされてしまっており、企業や家計の論理を政府に持ち込もうとしている。それによってマイナス、つまり最低生活水準が守られていないような人々が続出している。

それが格差の問題視にも繋がった。実際に生活保護世帯は急増し、また、生活保護を受けない人であっても、ワーキング・プアと呼ばれる層が注目される。そうした人たちは例えば、国民健康保険料さえ払えず、医療が受けられないということにもなっており、まさに最低限の生活水準を維持できないでいる。

不況で経済がよくならない中で、具体的な解決策もメディアなどでは紹介されない中で、漠然とした不満を多くの人々が感じてきた。その中で自分より「少し良い思いをしている(ように見える)」人々を引き降ろすことによって、心理的に安定しようとする群集心理が形成されてきたように思う。そこを転換させる必要がある。

言葉の世界からそれははじめうる。政治やメディアが現在、注目に値するのは、こうした点からも言いうる。

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立岩真也 『希望について』(その1)
「停滞する資本主義のために――の準備(抄)」より

一方で、高齢社会、少子社会の到来が言われ、それとともに、労働力の不足が言われ、社会の「活力」の低下が言われる。これが言われるのと同時に、失業率が増えていること、これからも増えるだろうと言われる。一方に仕事につけない人、首を切られる人がおり、他方にあいかわらずたくさん働いている人たちがいる。一方で少子化を憂い人間の数を増やさなければならないと言われ、他方で余剰労働力を吸収するために新たな雇用の創出が主張される。これをどのように理解すればよいのか。本当は労働力は余っているのか、それとも不足しているのか。両方の話が平然と並んでいることをもっと不思議がってよい。(p.36)



立岩真也の理論や批判は、非常に鋭く、根源的なものが多く、啓発されることも多いのだが、この箇所については詰めが甘い。

高齢化や少子化が危機であるとされ、「活力の低下」が言われるのは、10年から30年ほど先にやってきて、その後それなりの期間にわたって続くであろう状態を想像して問題視されていると私は考える。

ただ、高齢化が医療保険や福祉の面で財政を圧迫するとされ、その意味で危機だと言われる場合には(こちらの方が「活力の低下」というイメージと関連して語られるよりも多いと思われる)、確かに現在から少なくとも数十年後の未来に至るまでの期間の問題として言われているのだが、労働力との関連で言われる場合には、どちらかというと将来への懸念が優位であろう。(もちろん、「2007年問題」などと言われたりもするが、最近は60歳で仕事をやめない人がかなりいるし、一年だけに団塊の世代が集中しているわけでもないから、それほど急激な危機は来ないだろう。企業が退職金さえなんとか工面できれば。)

これに対して、失業は今現在の問題であり、また、近未来(1~5年程度先?)にも、それが打開されるかどうか見通しがないということが心配されている。

だとすれば、これらが労働力の問題として語られる限りでは並存してもおかしくはないだろう。

ただ、立岩の論が「正しい」のは、これらいずれの話も「扇動」する言説であるということを感じ取った上で、問題視していると思われる点である。その意味では彼の直観や認識は間違っていない、と私は考える。



「正しい制度とは、どのような制度か?」より

権力の作用と同時に抵抗はある。権力を記述することは抵抗を記述することである。・・・(中略)・・・
 予め敵と味方の陣地を措定するのでなく、何と何が拮抗しているのか、あるいは何に抗するものがあるのかを知ればよい。(p.48)



この見方は参考になる。権力や抵抗の主体を予め設定するのではなく、それを抜きにして、力の相互作用のあり方を見て取ればよい、という意味に取れる。



「終わった選挙のこと」より

 経済について。自由競争を正義とする感覚がある。それで既得権益を排せと言う。他方、競争を宿命として受け入れながら、それだけではやっていけないので、議員に頼んで、お金を地方に持ってこようとする。二つは辻褄が合っていないが、同じ党に、「改革」を言う党首がおり、公共事業に口がきけると思われている議員がいて、それで同じ党に票が入る。
 私自身はこうした流れのすべてに賛成しないのだが、しかし、悪賢い人たちが人々を扇動して社会を望ましくない方向にもっていこうとしているとは考えない。以上に簡単に記したそれなりにもっともな理由があって、この状態が続いてきた。(p.81)



この文章は2004年の参議院選挙の後に書かれたものである。

自民党の矛盾する側面が、逆に両方の支持をとりつけ、票に繋がったと見ている。概ね妥当なところがあっただろう。自民党員や旧来の自民党支持層は旧来保守の政治家がいたために離れず、同時に、主に都市部の無党派層の支持を「構造改革」を叫ぶ党首がいることでとりつけた。

しかし、この矛盾は諸刃の剣でもある。相互の支持層が逆の面を気にし始めると、票が一気に遠のくことがありうる。旧来保守層がネオリベ的な「構造改革」を毛嫌いし、無党派層が「古い自民党」を毛嫌いしたときがそれである。

首相が安部に変わってから、次第にこの方向へのシフトが感じられる。これからどのようになっていくか、よく見ていく必要がある。

上記の引用文でもうひとつ興味深いのは、陰謀論的な見方を批判している点である。特定の主体がマスメディアをコントロールして扇動している、とされることには反対しているわけだ。

私はこうした言論の統制がないとは思わないし、扇動がないとも思わない。それは「やらせ」タウンミーティングの問題などに象徴的に表れている。しかし、それだけに帰属させるのは誤りであり、立岩真也や香山リカ(『テレビの罠』)が言うように、さまざまな要素が絡み合いながら、システムの作動が好ましくない方向に向かってしまっている、と捉える方が妥当ではないかと思っている。

陰謀論には単純明快で分かりやすいので受け入れられやすさがあるが、いくつもの欠点をかかえている。過度の単純化により事実の把握が蔑ろにされること、悪者探し・犯人探しで終わってしまい、問題解決に繋がらないことがあることなど。

それでも扇動や情報操作などはあるだろうし、それらはある程度、「効果的」であるのも事実だと思っている。



「終わった選挙のこと」より

 地域間の格差を公共事業でなんとかしようというのがこれまでのやり方だった。それに現実性があったから、それしか方法がなかったから、政権党が支持されてきたと述べた。しかしそれが有効に機能していないことはもう皆が知っている。
 そこで使わない物は作らず、お金は人に渡す。人が暮らすための人の活動に使うようにする。すると中間の無駄はなくなる。民間の力が発揮される。国際援助も同じように考えたらよい。政府のお金で人を雇い派遣するより、同じお金をその国の政府でなく人に渡し、その人たち自身に使ってもらって、自分たちで立て直してもらったらよい。(p.82-83)



前半には私は異論が幾つかあるが、それは措こう。問題は太字にした国際援助、「国際貢献」のあり方についての見解である。状況によるが、これは基本的に良いアイディアだと思う。

特にイラク戦争開戦時のイラクについては、この方式の方が、「イラクの人道復興支援」という目的のためには、自衛隊の派兵よりも遥かに良かっただろう。実際、イラクの人々もそうした経済的な支援を求めていたという。まだ、あの頃は…。

なお、日本政府では湾岸戦争がトラウマとなっているとよく言われる。金だけ出して人を出さないと批判された。そして、「だから、人を出せるように憲法を変えろ」という人がいる。しかし、15年も16年も前と同じことが今も当てはまるとは限らない、ということをそれに対しては言いうるだろう。

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中野麻美 『労働ダンピング――雇用の多様化の果てに』(その3)

アメリカの公正労働基準法は、時間外労働の上限規制を置くのではなく、法律に定められた時間(週40時間)を超えたときには割増賃金(50%)を支払わせることにして残業抑制に誘導する規制方式をとっている。日本の割り増し賃金率は、時間外労働や深夜労働で25%、休日労働で35%という低率だ。1995年のILOによる調査でも、調査対象国122か国中、50か国が50%以上の割増率を定めており、日本のように25%以上というレベルは23か国にとどまっている。割増率は最低限50%にしないと残業抑制効果はないし、それだけでは働き方を変えることはできまい。(p.208-209)



アメリカで「さえも」割増率50%というのは(労働時間の上限規制はないとはいえ)、ちょっと驚きだった。

民主党が昨年12月6日に出した案では(例としてではあるが)割増率を50%にすると謳っているが、妥当だと思う。

ただ、私としては、現時点では、正社員の給与のベースアップよりも(それはそれで本来は大事なことではあるが)、「まずは」パートや派遣などの扱いを変えて待遇を良くする(均等待遇)べきで、同時に正社員は割増率を上げるなどの形で長時間労働をさせないようにして、新しい雇用の余地を広げる(ここにパートや派遣を正社員化して組み込む)べきだと思っている。




 EUは、1993年労働時間指令で、日々24時間ごとに少なくとも継続11時間の休息期間(rest period)の確保(三条)を求めている。フランスやドイツなどでは、こうした非労働時間の確保とともに、一日を基本的な単位として、労働時間の上限枠(10時間)を設定して、その枠組みを超えた労働を禁止している。
 日本では、1999年労働基準法見直しに際し、三六協定は、一週15時間、二週27時間、四週43時間、一か月45時間、二か月81時間、三か月120時間、1年360時間を超えないようにしなければならないとされたが、一日の上限時間は設定されていない。人間の生活と生体のリズムが一日サイクルであることからすれば、労働時間規制は一日を単位とすべきだ。(p.209-210)



これもできるだけ早期にやるべきだろう。ただ、正規雇用などの安定的な雇用の形態を増やし、それを再度定着させることとセットにしないと、実効性はあまりないだろう。現実に10時間で終わらせることが不可能な人は、現状では結構いるだろうから。




『産業人メンタルヘルス白書』(社会経済生産性本部、2005年)は、仕事の範囲や責任が明確な職場では、負傷者も残業時間も少ないことを指摘しているが、これは、労務提供の範囲を明確にすることで生活と仕事のけじめがつけやすくなることを窺わせる。・・・(中略)・・・。しかし、ただ能力や結果だけを問うといった、あやしい制度のもとで、その時々の経営の必要に応じて設定された目標を「達成するまでやりきれ」という管理では、とんでもないことになってしまう。(p.210-211)



仕事の範囲や責任が明確な職場では、負傷者も残業時間も少ない」というのは重要である。政治の場で語られる言説としての成果主義や能力主義を見る限り、そうした点への配慮はほとんど見られない。だから、近年は、中野の言う「あやしい制度」ばかりが導入される傾向がある。

このことを認めると、成果主義でも仕事の範囲や責任が明確であれば、それほど悪くないとも言える。ただ、そうやって仕事や責任を明確な限定ができる職場は非常に限られているだろうから、成果主義は一般に導入すべき制度だとは言えないと言えそうある。

また、ある時点では仕事が明確にできても、時が過ぎると、仕事の中身は変わってくるのだから、それが持続するとは限らない。したがって、不明確な仕事や責任の所在がはっきり確定できないような状態になったら、別の制度が導入されなければならないことになる。

コロコロ制度を変えるのはよくないとすれば――実際に未来の見通しが悪くなるので、あまり頻繁な制度改正はよくないと言える――かなり状況が安定的な仕事でしか導入する理由はないのではないか?というところまで追い詰めることができる。

しかし、いずれにせよ成果主義は労働する際の動機付けを「弱める」ので、基本的に採用しない方が良い、というのが私の立場なので、原則としては成果主義の導入には反対し、慎重な姿勢をとるのだが。

ちなみに、動機付けを「弱める」つまり、やる気をなくさせるというのは、今の「常識」とは異なるかもしれないが、成果主義の「未来への見通しの悪さ」を考えれば、当然のことを言っているに過ぎない。

たとえば、成果主義では成果ややる気に対して評価がなされるが、基本的には、自己評価と他者による評価がほぼ一致したときに「努力が報われた」という類の満足感が生じることになる。しかし、短期的に評価を行う場合、それらは齟齬をきたすことがあり、さらに、コストダウンのために成果主義が導入されたのなら、なおさら低く評価される方向へバイアスがかかることになる、という風に考えれば、納得できるだろうか。

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中野麻美 『労働ダンピング――雇用の多様化の果てに』(その2)

 このところ相次いだ不幸な事件を契機に、公の施設におけるエレベーターの設置・管理のあり方や公営プールにおける安全管理の体制に世間の関心が集まっているが、深刻な事故の発生は、少しでも安ければよいという考え方から決別すべきだという警告ともいえる。委託業者がころころ変わって働き手も変わる、しかもより低賃金で長時間働くことを強いられる職場にあっという間に変えられてしまうような構造そのものをなくす必要がある。そのためには、国や自治体が民間と契約を締結するときには、公共の観点から、一定の水準の雇用や労働条件を確保するルールづくりをする必要がある。自治体には議会の条例制定権が憲法で保障されているのだから、法律に違反しない限り、条例を制定することは可能である。
 その条例制定運動を推進しようという動きが全国各地で試みられるようになってきた。札幌地区連合の公契約条例案の作成とその採択を求める働きかけは、そうした流れの先駆けとなった。そして、公営プールの管理を民間業者に委託することについては、それまで働いていたインストラクターを継続して雇用することを公募の条件にしたり、指定管理者制度を定める条例に労働基準法など労働法に違反した事業者を排除する欠格条項を盛り込んだりする流れがつくられてきている。(p.181-182、強調は引用者)



市場原理主義的な規制緩和路線に対して、自治体の条例によって社会的セーフティネットを張ろうという戦術がとられているわけだ。

私としては、本来は中央政府の法律でやるべきところなのだが、その中央政府や国会が市場原理主義に感染しているために、こうしたやり方がとられている、と見る。その意味で現在の運動はベストのものはないだろうとは思う。

しかし、こうした戦術が可能であるのもある程度の多元性が確保されているが故のことである。現在の政治の潮流は多元性を破壊しようとする傾向が非常に強いため、どこまで持ちこたえられるか心配ではある。しかし、これまでの歴史を見れば、こうしたローカルな動きがさきがけとなって、「やはり社会的セーフティネットを張った方がうまく行く」という認識がある程度広まれば、それを中央政府が採用する可能性もある。両方の陣営の公共圏を巡る戦いがなされているということだ。




 「安心して働ける仕事」とは、単に働いてなにがしかの収入を得られればよいというものではない。人間は仕事を通じて社会とつながり、経験や技能を積んで発展を手にする存在であり、仕事は、個人として自立しながら人間相互の諸関係のなかで生きる基盤である。仕事とは本質的に人権そのものなのである。失業統計のような、ただ人々が雇用されて仕事についているかどうかを測る物差しでは、真にその人権が満たされているかどうかはわからない。短時間・細切れ雇用でとても自立して生活できないような賃金であっても、とりあえず雇用されて働いている人としてカウントされてしまうからだ。失業率は低い方がよいに決まっているが、それだけで事態が「改善」されたといえるものではない。(p.193、強調は引用者)



私が労働問題に関心を深めたのは、いわゆる「格差」の問題を調べている文脈からだったのだが、格差に関する議論で、しばしば出てくる議論にタクシー業界の規制緩和に関する言説がある。このあたりを読んで、それを想起した。

まず、主に「格差」を批判する側の人たちが、タクシー業界の労働条件が規制緩和によって極端に悪化したことはよくない、といって批判した。低賃金になり、待遇は悪化し、労働時間は長くなった

これは事実といってよいだろう。少なくとも、このことの逆が大量現象として進行したとは誰も言わない。

ただ、これに対して「格差」容認派の人たちは、次のように切り返した。規制緩和をしたからタクシー業界に職が増え、失業していたはずの人々が職に就けたのだから、「格差」は規制緩和で拡がったとは言えない、あるいは、失業が減ってよかったではないか、と言う。

一見もっともに聞こえる。いまだにそれを信じている人も、それなりの数、いるものと思う。

確かに、タクシー台数が増えたことで、失業者をある程度吸収したのは事実である。その意味で規制緩和が失業率を下げるのに「貢献」した面はあるだろう。また、例えば「規制に守られているタクシードライバー80人と失業者20人」という組み合わせよりも「規制緩和で低賃金化したタクシードライバー90人と失業者10人」の組み合わせの方が「上と下の所得と就労状況の相違」という意味での「格差」は小さくなった、とは言えるだろう。

しかし、「格差」容認派のように、ここで話を終わらせることはできまい。

中野の議論は、その続きを述べたものと言える。ただ、それは単に最初の議論の本旨に戻っただけでもある。そして、実際、それで良いのである。

「格差」容認派が言ったのは、基本的には個々の労働者や失業者の生活状態をどこか無視した「数字上の話」によって、自分の支持したい政策の正当性を主張しようとしているに過ぎない、と言える。

◆大半のドライバーは精神的にも家計も苦しくなった。
◆一部の失業者は失業を逃れたが、今後も良い待遇で働くチャンスは減った。(こうした仕事ばかりが増えれば当然そうなるだろう。)
◆マクロで見ても、所得格差の拡大の度合いを食い止める要素があったとしても、全体として貧困化する方向に推移した。それももともと賃金が高い職種ではない人々がさらに下がった。
◆また、以上の三点とも関わるが、タクシーの台数が増えたことが失業を吸収したのは確かだとしても、失業を吸収する方法は他にもさまざまなものがあり、政策として別の、より生活や人権を脅かさない穏当な方法はあった。それなのにそれを採用せずに、「痛み」を押し付ける政策を行った。

概ねこれら理由によって、私は「格差」容認論を批判する。なぜなら、「格差」の問題とは、格「差」の問題、つまり、上と下の違いの問題ではなく、その核心は「貧困化」の問題であり、「人権侵害」の問題であり、究極的には「諸個人の存在を脅かす方向に社会が進みつつあるという問題だからである。(この点については、近日、しっかりとまとめたいと考えている。予想以上に仕事が忙しくならなければ…。)

多くの人々が、そうした動きを感じることが増えたのが、それをはっきりと捉えられないからこそ、それに由来する不安を感じることになり、その不安を「格差が広がっている」という言説に投影していると考えられる。


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中野麻美 『労働ダンピング――雇用の多様化の果てに』(その1)

 ホワイトカラーの職場では、「業績さえ挙げればあとはどういう働き方をしようと各人の能力次第」という考え方も強くなっている。だが、個人の力で働き方をコントロールできるほど現実は甘くない。なぜなら、仕事とは社内の働き手や取引先の人たちと連携し合って進めるものだし、市場の動きも止められないからである。それに、会社のリストラで社員が削減されて、その穴埋めもしなければならず、一人あたりの業務量は急増している。したがって、いくら社内で権限があっても労働時間をコントロールすることなどできるわけもない。(p.26、強調は引用者)



最近、「ホワイトカラーエグゼンプション」なる制度を導入するかどうか、国会に法案を提出するかどうかという話題がメディアでささやかれている。ここで引用した文は、この制度についての言及ではないが、同じことが当てはまる。制度を導入したい側は理屈として「仕事を自分でコントロールできる職務の人」に導入すると言う。

しかし、実際にはそのような人はほとんどいない。少なくとも多くはない。そして、一度導入されてしまえば、あとは最初につけた「屁理屈」など忘れ去られてしまい、どんどん基準が引き下げられて制度の適用範囲が拡大されていくだろう

年収の要件についても同じである。初めは700万円とか900万円とかが基準とささやかれているが、仮に最初にその金額で導入しても、数年経てば現実にもっと低い収入で適用される例が増え、「現状に合わせる」形で引き下げられていくだろう。そして、適用される人が過半を占めるようになったとき、「適用されていない人は不当に保護されている」ということにされて、さらに適用範囲が拡大されるに違いない。

これは、残業代をゼロにすることによって企業を潤わせ、労働者は残業代を奪われた上に、奴隷のようにこき使われながら、過労死へと追いやられることになるような制度である。




企業内で組織された労働組合は、長期的視野にたって組合員の雇用や労働条件を守ることを考えるから、企業間競争からの生き残りを強く意識し、時に労働条件の変更や雇用削減にさえ柔軟に対応してきた。各企業は、そうした条件のもとで、コスト削減による生き残り策として、雇用の多様化・流動化、すなわち非正規化を促進しながら正規雇用については個々の働き手の業績や能力によって賃金などの待遇を決定するという労働条件の個別化を推し進めることができた。それは、人件費を部門ごと、個人ごとの業績査定に即して配分するシステムであり、個別具体的な配分決定を企業の専権事項として労働組合の関与を排除することを可能とする。(p.35-36、強調は引用者)



非正規雇用の増大と成果主義の採用によって、労働組合は十分に機能が果たせなくなり、使用者(企業)側の一方的な決定で、労働者の処遇を決めることができるようになってきたということ。

これはある意味で、200年前への逆戻りであるとも言える。労働者は使用者と一対一で対峙しなければいけない方向に社会が動いてしまっている。

これを企業から見たとき、労働者の労働は、企業が購入する「商品」になってしまっている。企業からすれば、気に入らなければ買わないことができ、代わりは幾らでもいる。これに対して労働者の側にしてみれば、雇用されるか解雇されるかは文字通り死活問題ないし人生における重大な問題である。この非対称性が「効率化」「合理化」などが叫ばれ、「リストラ」という脅しが言われ、また実施されることによって、見えなくされてきたのが、ここ10年ほどの労働のあり方だったと言える。

政策は変えるべきだし、労働組合はまず非正規雇用をも包括する組織にならねばならず、その上で非正規の正規化を進め、成果主義的な発想に基づく「個別化」に抵抗すべきだろう。




 二つ目の問題は、割増賃金の意義にある。割増賃金制度は、「一日八時間は収入のために、次の八時間は休息のために、残りの八時間は自分自身のために」という生活の自由と自己決定権を侵害して働かせた使用者に対する経済的制裁としての性質を有するのと同時に、割増賃金を支払うより人を雇う方が経済上合理的だということで残業をセーブする方向に誘導するものでもあって、労働時間規制の生命線ともいえる。割増賃金制度と、人間の生活にフィットした労働時間の上限規制(裏を返せば非労働時間の確保)を組み合わせて機能させることが必要だ。(p.118、強調は引用者)



全くその通り。




持続可能な社会を展望するときには、たとえば人々の就業を継続するために必要な公共サービスは、貧富の格差を超えて誰に対しても良質なレベルで提供されることが必要である。それが、人々に仕事と所得を得るための機会を均等に保証し、人間の持つ潜在的可能性を現実の力に変えることにつながるはずだ。こうした分野に財政の重点的投入が行われなければならない。(p.177、強調は引用者)



ここで「人々の就業を継続するために必要な公共サービス」とは、介護や保育などのサービスのことである。つまり、低額か無料でこうしたサービスを貧富の差に関わりなく、誰もが利用できないということは、貧しい人たちほど仕事に就くチャンスが少なくなることに繋がり、その結果、貧しさからいつまでも抜け出せない(抜け出しにくい)、ということになる。

政策を論じる場合、何かというと財政赤字が持ち出され、それを「解消」することが必要だと言われ、そのために増税はしたくないとされ、結局、歳出の削減しかない(それが先だ)と言われる。

しかし、そうやって歳出を削減していくことは、単なる所得再配分がなされないことにって貧しい者はそこから抜け出しにくくなるという面だけでなく、間接的にも生活水準の低下に繋がっていく。いつの間にか歳出削減のほぼ同義語として使われるようになってしまった、行政改革や「構造改革」を言う人には、この問題は永遠に解けないように私には思われる。

私は有権者が選挙をした代表が決めた(goサインを出した)政策が実施されて、90年代に公共事業のハコモノが作られて財政赤字が生じたのだから、その責任を取って納税者たる国民が増税に甘んじるべきであると考える。財政政策上も経済政策としても、それで問題くやっていけるはずであり、私の持論はそちらの側面から考えられたものだが、あまりにもルサンチマンに満ちた言説が多いので、ここではあえて道徳論的に返してみた。

したがって、私の見解では、赤字の償還を歳出削減だけで賄う必要はなく、予算をつけるべきところには予算をつければよく、その都度、それに応じた負担をすればよいということになる。

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立岩真也 『ALS 不動の身体と息する機械』(その3)

 さらに、「まずは生きられるという条件を社会は提供し保障すべきである」という立場をとることができる。誰もが臆面もなく生きることもできる社会を無色の中立の社会と言うこともできようが、それもまた特定の社会である。そしてそれ以外のあらゆる社会も特定の社会である。その特定の社会を支持するかそれともしないかである。その意味で中立的であることはない。いずれかの社会をとるとし、基本的には生存を支持することが社会の基本的な立場であるべきだとしよう。その上で、その人の選択を受け入れるということがあるということだ。基本には生存が支持されるという条件があって、選択の自由はその上でのことだと私は考える。(p.369、強調は引用者)



立岩氏の基本的な思想を簡潔にまとめている箇所だと思う。私も基本的にこの立場に賛成である。

自己決定なり選択の自由には、それよりも根底的なところに、それをよしとする条件が必要である。規範の問題でなく現実的にも、自己決定や選択の自由が可能であるためには、それを可能にするだけの条件が必要である。

自己決定至上主義や選択の自由(市場原理主義もこの一類型にすぎない)が誤っているのは、まさにこの点(必要条件)を見落としていることにある。自己決定や自由は二次的に重要であるにすぎない。

次の引用文もこれと深く関連している。

 人は自分のできる範囲で生きていかなければならないというきまりは、基本的によいきまりではない。ただ、誰も何もしないのは困るし、できる人にはできることをほどほどにはやってもらわなければならない。だから、自分のことは自分で、と子どもに教えるというぐらいのことだ。そしてこれは皆が同じだけできて、同じぐらいのものを必要とするのであれば、それぞれ同じぐらいがんばってもらえば、同じだけ受け取れるし、同じだけ受け取るには同じ程度苦労すればよいということになるから、わるいきまりではない。しかし、各々のできる力が違っていて、同じ程度の生活を送るのにも必要なものが違っているなら、よくないきまりである。だから、私はこのきまりを基本的に受け入れる必要がないと言うのだが、それは、人々の力がそう違わないという前提がほぼ通用する限りはこのきまりでやっていてよいとし、そうでない場面ではこのきまりを使わないことにするというのと実質的にそう変わるものではない。(p.408、強調・下線は引用者)



現実の社会は下線部のような条件ではないことが大部分なのだが、しばしば、あたかも現実が下線部のような条件を満たしていると暗黙のうちに仮定しながら「自己決定」や「市場に任せる」ことが称揚される。本来、こうしたことを言うためには、それを適用する場面が、下線部のような条件やその他のさまざまな条件を満たしているということを十分に示さなければならない。しかし、それがなされることはまずない。

本文は、これに直接、次のように続いていく。

 ここまで同意してもらえば次の誤解も解くことができる。
 社会的に提供されるものは公平でなければならないと、薄く広くが公平だと、あなただけを特別扱いできないと、そんなことがきわめて頻繁に言われる。役所の窓口だけでなく、その筋の専門家が集まっているはずの国の審議会でも口にされる。しかしそれはまったく間違っている。ある水準の生活を維持するために必要なものが人によって異なる。その異なりに対応するために、財を集めて分配するのが、政治がなすべき数少ない仕事の一つである。例えば介助のために月に給料取り二人分の金がいる、それは贅沢だと言う人がいる。しかし、まずそうして暮している人は贅沢をしていない。普通の生活をしているだけだ。(p.408-409、強調は引用者)



今の日本で「小さな政府」を是とする人々はこのことを理解していないと私は思う。立岩も次のように言う。

ところが私のように考えない人、なにかというと「資源の有限性」を持ち出す人は、現実に立脚して心配しているはずであるのに、具体的に何が足りないのかと聞いてもきちんと答えてくれないのだ。(p.412、強調は引用者)



全く同感である。むしろ、市場原理主義という言葉が象徴しているように、こうした考え方の人々のほとんどは、個々の現実をしっかり見据えるということせずに、抽象的な原理から発想していると私は見ている。

そして、こうした傾向は、例えば、「財政赤字」を理由に危機を煽ろうとする人や自分はあたかも危機感を持っていて他の人々の危機感が足りないと言うような人によく見られる発想である。しかも、立岩が述べるような対応・対策の面だけでなく、さらに、何が危機なのかもうまく説明できないし(つまり、現状把握ができていない)、何が原因なのかも調べていなかったりする。赤字のどの程度の割合が何に起因するのかということすら調べていなかったりする。

「自力で調べてしまえば」世の中に流通している言説の大半は嘘であるとわかる。日本政府の財政に関して言えば、危機は確かにあるが、一般に思われているものとは様相は異なるし、当然に解決策も一般に信じられているものとは異なるのである。それについては機会があれば私のメインのブログ「ツァラトゥストラはこう言っている?」の方に書くことにしたい。

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立岩真也 『ALS 不動の身体と息する機械』(その2)

 まず言えることは、「延命」が一般化し、その「弊害」が問題にされて、それに対して「安楽死」が対置されるという順序ではないということだ。(p.197)



人工呼吸器は1970年代には既にあったが、ALSではあまり使われなかった、という歴史的経緯が本書では辿られた。技術決定論的な見方は一見すると論理的に整合的だが、実際の歴史的過程はそのような単純なものではなかったということの一例として興味深い。




一方が他方を必要とするが他方はそうでないという構造になっていると、一方は他方の機嫌を伺い、言うべきことを言いにくくなる。ALSの人たちは医療者や病院に言うべきことを言いにくくなる。(p.267)



障害者や病気に罹った人のような「弱者」とされる人々について調べることは、社会の現状を知る上で重要であると私は考える。社会に潜在はするが普段はあまり見えないような問題が、こうしたところでこそ顕在化・可視化することが多いからである。

例えば、成果主義の導入や比較的短期の労働者の増加などは、会社の組織の中でこうした「権力の非対称性」を増大させることになる。まだそれは十分に顕在化はしていなかも知れないが、確実に効いてきている。それは例えば「労働ダンピング」という形でなされているし、「ホワイトカラーエグゼンプション」という形でもなされようとしている。




人の世にそう新しいことなどありはしないのに、わかったと言って脇に置いてしまい、やり過ごされてしまうのはよくないことだと思う。だから多くの紙数を使ってきた。(p.344、強調は引用者)



確かにその通りである。何となく分かったつもりになってしまい、実際には放置されているような問題が山ほどある。そのすべてを追いきる事は無理があるかもしれない。しかし、最低限、分かっているか分かっていないかということには、常に自覚しておかなければならない

そして、多くの人々に関わるような場合や、あるいは少数の人にしか関わらなくとも、その人たちにとって極めて深刻な問題が放置されているような場合には、公に発信していくべきなのだろう。

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立岩真也 『ALS 不動の身体と息する機械』(その1)

 近代医療に対する批判的な言説は、一つに、それが効果がないこと、健康に寄与していないことを指摘した。例えばある種の感染症、例えば結核が減少したのは特効薬とされたもののためでなく全般的な栄養状態の改善によることが指摘される(佐藤純一[2001]等)。それはその通りであることを認めよう。そしてこうしたことを指摘することは、医療に対する過度の期待をさます意味で有効である。
 ただこのことは、医療にときには効果がある場合を否定するものではない。・・・(中略)・・・。効果があるとなれば、ときには別の体系に属するとされる方法も取り入れられる。こうして近代医療は自らの範囲を拡大させていく。
 ・・・(中略)・・・
 つまりは効果のあるものが医療であり、近代医療であるとなれば、それが成功を収める領域はしだいに増えていき、批判の妥当する範囲は狭くなっていく(立岩[2002-2003(1)])。
 ・・・(中略)・・・
 だが、効能のなさの指摘も、それをもって医学・医療総体の批判に向かおうとするなら、うまくいかない。別言すれば、こうした批判は局所戦として有効なのであり、そのことに固有の価値・意義がある。(p.63-64、強調は引用者)



「総体に対する批判」と「局所戦として有効な批判」と図式化してみたくなるが、そうした単純化をするよりも、何かを批判する場合にも、その妥当範囲を見据える必要があるということをこうした指摘から確認したい。

こうしたメタ批判の視点を持ちながらの批判をすることは、一般に「運動家」にはなかなか難しいようだ。社会科学が提供する一歩引いた立場からの観察・考察の意義はこうしたところにあるのだろう。




 家族に他の人たちより多くの責任を課すことは、現実の法律がどうなっているかとは別に、できない(立岩[1992])。それは極端な主張だと思われるだろう。そこですこし譲歩してもよい。他の多くの家族が果たしている程度の義務は負うとしてもよい。しかしそれでもALSの人の家族に普通の家族に付されている義務以上の義務を課すことの正当性は、どのように探しても見つからない。このことは認めてもらえるはずだ。
 だから、告知のことについても、その後のことについても、他の人たちより多く家族を非難することはまったくできない。他の人たち、つまりALSの人の家族でない多くの人たちは、重い部分を他に渡し、負担から逃れ、そのぶん楽をしている。知らせること、知らせた後のことから逃れるのはまずは医療の側である。ただ、医療者に(その人たちがきちんとできない)仕事を委ねているのは社会である。例えば入院の拒否もまた病院側の都合とだけ捉えられない。それは予算配分のあり方に由来する。こうして家族は、問題が回避されていく場所であり、迷路が行き止まりになっているその場所にされてしまっている。それは、時にはその根拠が考えられることもなくただなされている。また時には正当なこととされる、あるいは仕方のないこととされている。(p.141、強調は引用者)



家族が問題が回避されていく場所にされているという指摘は重要である。医療の問題に限らず、その他の問題でもこのようにされてしまっている。いきなり家族に押し付けられないようなことは「地域社会」に押し付けようともされている。それが近年の政策の流れになっている。それを正当化するために――荒唐無稽な話だが――「(日本の)伝統」が持ち出されたりもしている。

「官から民へ」とか「小さな政府」とかいう一般に常識にさせられてしまった感さえあるスローガン、また、地方自治などの場でしばしば言われる「協働」や「市民参加」などの言説の意味するところは、まさにこのような「家族のような『より小さく弱い社会集団』への問題の押し付け」であることを有権者はよく理解すべきである。

最近で言えば、教育基本法の改定に関して、「地域総がかり」での教育をしていく、などと言われたことなどが、それである。私の予想では、この言葉の意味は、教師たち以外の人も教育に関係するというようなイメージではない。中央政府は教育に関する負担を減らし、地方自治体に負担させることを意味していると考えている。

つまり、負担を自治体に負わせ、それで自治体の財政が立ち行かないところが出て来たら、「地域総がかり」で(つまり、夕張市のように「その地域だけ」増税などをして)教育の費用を負担しろ、ということだと思われる。実際、「愛国心」などの国家主義的イデオロギーの部分ばかりがクローズアップされたので、あまり知られていないと思うがが、改定された教育基本法にはその方向性を示した文言が既に載っている。このように「より(財政規模や権限、自由な裁量の余地などが)大きな主体は問題を回避し、より小さな主体に『痛み』を押し付ける」という流れに向かっている。

これに関連することは、以前、「ツァラトゥストラはこう言っている?」のブログの方に少し書いておいた。

教育基本法の政府案への批判

もっと分かりやすい例を挙げれば、失業は多いままであり、非正規雇用が増え、庶民の所得は全く増えず、生活保護世帯はほぼ10年間で60.2万世帯(95年)から104.2万世帯(05年)にまで増え、ワーキング・プアなどと呼ばれる人たちも増えている一方、一部の国際的な資本を持つ大企業だけがぼろ儲けしているという現在の日本の経済を見れば、それは明らかだろう。所得が増えていない点については、このブログでも取り上げた。

橘木俊詔 『格差社会 何が問題なのか』(その2)

その上、ホワイトカラー・エグゼンプションなどという制度を設けて、ある程度の所得水準を維持している正規雇用のサラリーマンの所得水準まで押し下げようと狙っている。大企業を有利にし、労働者を不利にするというやり方も、同じような「より小さな主体への『痛み』の押し付け」だと言える。

なお、この制度は(選挙を見据えて与党からも「慎重論」が出ているため)今回の国会では成立しないかもしれないが、選挙が終わったら確実に断行しようと狙っているのが与党(自民党と公明党)である。

こうした流れを「仕方ない」で済ませてはいけないと思う。福祉(年金や医療保険も含めた)の安定供給や労働者など個人の基本的な人権をしっかりと保障するような政策をするために、政府の役割を問い直す時期に来ている「小さな政府」というイデオロギーは正しいのか?と。

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