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バートランド・ラッセル 『社会改造の諸原理』(その5)
この講演文は次のように締めくくられる。

 わたしが教師として、多くの異なった国民の青年たちとこれまで接触できたことは幸運であった。それらの青年の内部には、希望が生命をもっていたし、また彼らがそれによって生きていた空想的な美の、少なくともなにほどかはこの世界に実現させたかも知れない創造的エネルギーが、彼らの内にひめられていた。[だが]彼らは、ある者たちは一方の側で、またある者たちは他方の側に立って、戦争にひきずりこまれてしまったのだ。今なお参戦中の者があり、また生涯の不具者となった者もあり、幾人かはすでに戦死をとげた。生き残る者たちのあいだで、多くの者が精神の生活を失うであろうし、希望は死滅してしまい、エネルギーは費消しつくされ、きたるべき年々が、ただ墓場へ向かうものうい旅路にすぎなくなることが案じられる。すべてこのような悲劇について、教職にある少なくない人々が、なんらの感情をももっていないように見える。彼らは無慈悲な論理でもって、次のことを証明しようとしてみせる。つまりそれらの若者たちは、冷たくも抽象的なある目的のために、不可避的に犠牲となったのだ、と。そのような教師たちは、自分自身はとり乱さないで、ある感情が襲うといういささかの瞬間があった後は、たちまちにして安逸へもどってしまう。

 そのような人々には、精神の生活は死せるものとなっている。もし生きているのならば、父あるいは母の愛にもみまがう痛切な愛情をもって、彼らの精神は若者たちの精神と出会おうとして、外に出てゆくであろう。そして自己の境界を意識せず、若者たちの悲劇をみずからの悲劇と感ずるに違いないのである。「そうだ、このようなことは正しくない。青春の輝きが打ち消され、くもらされるというこのことが、良いはずはない。聖戦であるはずはない。罪を犯したのは、年長のわれわれなんだ。あの若者たちを、戦場へ送ったのはこのわれわれだ。われわれが、悪しき情熱と、死せる精神をもっていたばかりに。心の温かさや精神の活きたヴィジョンから、寛大に生きるということをわれわれができなかったばかりに、若者たちを戦場に追いやってしまった。この死の状態から抜け出そうじゃないか。死の状態にいるのはわれわれなんだから。そして、生に対するわれわれの恐れから戦死していった、あの若者たちではないんだから。若者たちの亡霊は、まさにわれわれよりも生に満ちている。その亡霊はわれわれをかかえ上げ、きたるべきあらゆる時代の恥辱と汚名にさらすのだ。若者たちの亡霊の中から、生命が生まれねばならぬ。その亡霊から生命を与えられねばならぬのは、それこそわれわれなのだ。(p.154-155、強調は引用者)


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バートランド・ラッセル 『社会改造の諸原理』(その4)

国民は、自分の方が勝てると信じない限り、戦争熱にうかされることはまずないといっていい。(p.59)



確かにラッセルの言うとおりだろう。現在の日本において、軍備増強論が根強いのは、まだ近隣諸国よりも日本の方が経済力があり、軍事力も強力なものでありうると信じているということも、その背景要因としてあると思われる。実際、他国の侵略からの防衛という観点から見れば、現在の日本の防衛力は十分である。

しかし、今後、20年ほどの間で中国の経済力は確実に日本を凌駕するだろう。そのときにも彼らは戦力増強論を唱えるだろうか?むしろ、不用意に敵対関係を煽らないようにしながら、言論として相手国につけいる隙を与えないよう、戦争責任問題などを早期に決着しておく方が、長期的には日本という領域の安全は確保できるように思われる。

国民国家への献身ということが、現代のおそらくもっとも深く、またもっともひろがった宗教なのである。古代の諸宗教と同様に、現代のその宗教もまたそれ自身、迫害とか敵対者のせん滅、あおざめた英雄的残虐性を要求している。またそれは、古代諸宗教と同じように、高貴で、原始的で、残忍で、狂気じみている。過去と同様に現在でも、伝統の重みによって私人の心情を慈悲心に抗して盗み、人々の知性を真理に抗して盗んでいる。世界がもし救われるべきだとすれば、人々は次のことを学ばねばならない。すなわち、残酷となることなしに高貴であり、信念に満ちていながら真理には心を開き続け、挫折させようとする者たちを憎悪することなしに、偉大な目的によって鼓舞される、という態度をである。(p.71、強調は引用者)



カルト宗教になぞらえて言えば、現在の日本の世論は、この宗教の勧誘を受けており、そのマインドコントロールのためのセミナーに参加しているが、まだ、その教祖や宗教であることについては十分知らされていない、といった状況になぞらえられる。今後、10年か20年の間に、そうした点が徐々に明らかになっていくだろうが、そうした秘密が明かされる頃には、既にその「カルト宗教」への拒否反応は取り除かれてしまっているだろう。そして、完全な信者が誕生する…。

国家や教会、またそれらに奉仕する巨大な制度が教育を営むのは、崇敬の念からではない。教育において考慮されているのは、およそ少年や少女、若い男女のことそれ自体ではなく、ほとんどつねに、なんらかの形における現存秩序をいかに維持するか、ということなのである。(p.94、強調は引用者)



これも妥当な指摘である。特に、今年に変えられてしまった教育基本法などを見れば、それが教育を受ける側のためというより、「愛国的な臣民」を作り上げるという目的が明らかであり、時の政治権力者たちに都合のよい人間を作り出そうとする意図が明確にでている(「不当な支配」の意味の反転により)。むしろ、単に現存秩序を維持するというよりも、現存の支配構造をより強固なものにしようとしているのが、現在の日本で行われつつある政策である。

われわれは明日に期待をつなぐべきではなく、現在、ごく少数の者によって考えられていることを、多数の者の共通の考えにさする時代を、期待しなければならないのだ。(p.141)


その通りであると思う。90年の時とU.K.と日本という地域の違いを超えて、このことは妥当する。

 任意の与えられた時期に有用でありうるような政治理論を追求するに当たって、必要なことはユートピアの案出ではなくて、運動の最良の方向を見出すことである。(p.142-143)


憲法9条の尊さを訴える側の議論に足りないのは、まさにこの点である。平和主義者は、どのような外交関係やどのような地域戦略・世界戦略が望まれるのか、ということをもっと議論し、発信しなければならない。

人々が自由に高貴に生きることを阻んでいるのは、他の何物にもまして、所有物に対する執着なのである。国家と財産とは、所有欲の巨大な具現化なのだ。この理由からして、国家と財産は生命力に反し、また戦争を生み出すのである。所有とは、なんらかの良きものを獲得するか保持すること、そしてそのことによって、他人がそのものを享受することが阻止される、という事態を意味している。創造とは、世界にある良きものをもたらすこと、そしてさもなければ誰も享受しえない良きものが、もたらされることを意味している。(p.147、強調は引用者)



こうした所有を巡る議論を読むと、私は常に立岩真也の『私的所有論』を想起する。それに啓発された私の考えから見ても、ラッセルの所有に対する考え方は概ね同意できるものだ。特に所有には他者を排除する面がある点についての指摘は重要である。それゆえ、争いに至る可能性があるのだから。

現在および歴史上の領土問題を見ればそれがよくわかる。昔から領土の問題は戦争の種であった。現在、日本は「美しい国」を目指すのならば、そして、それが「自由で高貴な」ものであろうとしているのならば、係争中の領土を手放してみたらどうだ?相手に恩恵を与えてやってはどうだ?と言ってみたくなる。というのは、「美しい国」や「誇りの持てる日本」を標榜するような人たちこそ、領土問題に関しては不寛容であり、「意地汚い、卑しい」発想になっていると思うからである。

私の考えとしては、中国、韓国、ロシアとの間の領土問題に関しては、すべてが他国のものだとは思っていない。幾つかの領土は日本が国際法に則って領有してよいものだろうと予想している。(詳細は分からない点が多いが。)しかし、やたらと「国益」なる意味不明な言葉を持ち出しつつ、「これは俺のものだ」と主張するような姿は「みっともない」ということを、彼らにはちょっと言ってみたくなったりするのである。

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バートランド・ラッセル 『社会改造の諸原理』(その3)

 国家のもたらす主たる弊害は、戦争における能率の助長ということだ。あらゆる国家がその強さを増大させるとすれば、力の均衡に変化は起こらず、したがってどの国家も、勝利する確率が以前より多くなるわけではない。しかも攻撃の手段がさまざまに存在する場合には、その初めの目的が防御的なものであったとしても、当の手段を使いたくなる誘惑は、早かれおそかれ圧倒的なものとなりがちである。このようにして、国家の境界線の内部で安全保障を促進した方策が、まさに他の場所での不安全を助長するわけだ。内部で暴力を抑圧し、外部で暴力を促進する、ということこそ国家の本質に属している。国家というものは、人類をまったく人為的に分断し、また人類に対するわれわれの義務をも人為的に分断している。つまりわれわれは、人類の一集団に対しては、法によって拘束されており、他の集団に対しては、ただ強盗がもつような慎重さによって拘束されるにすぎない。国家はさまざまなものを排除することによって、また次のような事実、つまり国家が侵略戦争にのり出す場合にはつねに、国家は殺害と強盗のための人間たちの結びつきに転化する、という事実によって、悪となるのである。(p.40-41、強調は引用者)



ラッセルによる「攻撃の手段がさまざまに存在する場合には、その初めの目的が防御的なものであったとしても、当の手段を使いたくなる誘惑は、早かれおそかれ圧倒的なものとなりがちである」という指摘こそ、軍事力によって自国の平和を維持しよう、と言う人々が理解していない(少なくとも意見が食い違う)点である。

私見ではラッセルの言い方ではまだ足りない。というのは、心理的な要因で説明しているからである。行政組織の活動という観点から説明する方がより妥当であると考える。つまり、軍事力の初めの目的が防御的なものであったとしても、その軍事力は基本的に一つの(あるいは、ごく少数の)官庁が所管することになる。(複数の官庁にわたって「分割統治」することは指揮命令系統が複線化される可能性があり、軍隊組織に適さないため。)

そこで問題になるのは、その軍事的官僚組織は自律的に行動できてしまう、ということである。もちろん、日本の場合で言えば、どこの官庁であれ、そのトップには大臣がおり、それらの国務大臣の上には文民たる内閣総理大臣がいるという仕組みになってはいる。しかし、90年代、高級官僚が悪者にされて批判された時期に、しばしば各省庁に対して「省益あって国益なし」などと揶揄されたことや、小泉内閣の時代に省庁が「抵抗勢力」とレッテルを貼られたことに見られるように、それぞれの分野の専門知識を有する専門家集団として官庁は、単に首相や大臣の命令のみならず、その官庁独自の論理でも活動するのが常であって、そうした活動が存在するということに関しては例外はない。そして、その活動は基本的に、自らの官僚組織の目的や活動を強化する方向に向かう。こうした組織の論理が「防衛省」に当てはまらない理由を探すことは極めて困難である。

では、「防衛省」の場合、それはどのような形で表れると推測されるか?当然、軍備の増強であり、活動範囲(内容・地域)の拡張である。

そのように軍備を増強して他国よりも十分に強いと認識すれば、他国への侵略可能性は急速に高まる。また、活動範囲が内容的にも地域的にも広がれば広がるほど、他国との軍事に関わる接触は増える。領海侵犯や何らかのトラブルに巻き込まれる可能性も高まる。より現実的には日本の軍隊が米軍に補給しているときに、戦闘に巻き込まれる可能性などもある。

従って、このように「防衛省」が、官僚の論理に従って活動していくことによって、軍備の増強や活動範囲(内容・地域)の拡大は、軍隊の活動を――ラッセルが指摘するように――攻撃的な方向にシフトさせるし、他者からの攻撃を受ける可能性も高まるために、交戦状態になる可能性を増大させるのである。

ストライキに際して、軍隊に出動を命じてスト参加者を制圧する、といったことはよくあることだ。雇い主の方がはるかに数が少なく、したがって雇い主の側を征圧することの方がずっと容易であるのに、彼らに対して軍隊が差し向けられることは決してない。(p.44)



軍隊なるものが誰の味方であるか、という点は、しっかりと見据えられなければならない。第一に、軍隊は何はさておき、軍隊自身を防衛する。軍隊自体の安全をある程度確保した後で、政治支配者たちに奉仕する。次いで、軍隊とその指揮官たる政治家たちに資金を供給する大企業を守る番になる。労働者を含め、一般庶民を守ることは、一番最後であり、せいぜい可能であれば守る、という程度にすぎない。

防衛力を増強しようと思っている人も最近は多いようだが、「軍隊が自分を守ってくれる」などと当てにしないほうが賢明というものである。

 国家が所有すべき第二の種類の権力は、経済上の不正義を減少させることを狙いとする権力である。・・・(中略)・・・。しかしわたしは、正義それ自身も法律と同じように、至高の政治原理とされるにはあまり静止的であると思う。つまり正義なるものは、それが達成されてしまうと、新しい生命への種子や発展への刺激をぜんぜん含まないものとなる。(p.47)



この考え方はラッセルの思想において特徴的なところである。そして、現在の日本の平和運動や「格差」是正を要求する運動にも参考にしうる点だと考える。特に平和運動の方に当てはまるが、平和の尊さを訴えるというやり方では、まったく不足であることがラッセルの考え方から導き出される。

そうした平和主義者が描く、戦争のないという意味での「平和」な社会像は、ラッセルに言わせれば、正義ではあるが静止的なのである。戦争がない社会は、確かに間違いなく正義であり、軍事力など小さければ小さいほど理想的であることは間違いなく正義である。

しかし、その主張だけでは静止的な像しか描けていない。平和の尊さを訴える平和主義者に対して、(客観的には戦争への道を歩ませる者だが)「本人の主観的考えでは平和主義者である防衛力強化派」は次のように言う。「軍隊をなくして他の国に攻撃されたらどうするんだ?」と。

もちろん、それに対する答えを大抵の平和主義者は持っている。

まず、防衛力を完全にゼロにすべきだと言っている人は少ない、という点である。その意味で「丸腰」ではない。敵国の侵入を国境線の外まで追い返すことができれば良い。ただ、現状では直接的領土侵犯よりはミサイル攻撃の方が可能性が高いのだが。

そして、より本質的な平和主義者の主張は、政府レベルの外交であり、さらには民間レベルの友好的で相互活性化的な交流の必要性である。そのビジョンを示すことこそ、今、平和主義者に求められているのではなかろうか。外交や交流は持続的な活動であり、常に動き続けるものである。その意味で静止的ではなくダイナミックであり、活動のためのエネルギーの投入が必要であるし、知的にも戦略を常に更新していくことが必要である。少なくとも、私はラッセルの著書を読んでそのような考えをより強くした。

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バートランド・ラッセル 『社会改造の諸原理』(その2)

 国家権力というものは、イギリスにおいてしばしばそうであるように、いろんな法律よりはむしろ世論なるものを通じて、有効に働かせることができる。新聞の雄弁と影響力とによって、世論なるものは大はばに国家が創り出すのであり、圧政的な世論は圧政的な法律と同じ程度に、自由に対する巨大な敵なのである。戦争に参加しようとしない青年が、雇用先からは解雇され、街頭では侮辱的な扱いを受け、友人たちからは冷遇され、以前は好いてくれたように思えるどの女性からも、軽蔑げに棄て去られる、といったことになると、当の青年にとってそれらの仕置きは、死刑の判決に耐えるのとまったく同じほど、やりきれないものに感じるだろう。(p.34-35、強調は引用者)


昨今の日本においては新聞もそうだがテレビの影響が加わるため、さらにタチが悪くなっている。

圧政的な世論が圧政的な法律よりも抑圧的であるというラッセルの指摘は重要である。例えば、先日、NHKが「ワーキングプア」について報道したら、そのような報道をするなと抗議があったというが、そうした「抑圧的な世論」こそ、危険なのものであり、自由の敵である。

 愛国心とは、原始的諸本能と高度に知的な諸確信とから築き上げられる、きわめて複雑な感情である。そこには故郷、家庭、友人、といったものへの愛着があり、それがわれわれに、自分たちの国を侵略から守ろうとする特別な関心をいだかせる。またそこには、外国人と対比して同胞を好くという穏和な本能がある。さらにそこには、われわれが所属感をもつ共同社会の成功と深く結びついた、誇りというものがある。またさらに、誇りによって示唆されはするが、歴史によって強化される次のような信念がそこにはある。すなわち、自分たち国民は偉大な伝統を代表しており、人類にとって重要なもろもろの理想を代表している、という信念なのだ。しかしすべてこれらのことどもに加えて、より高貴なものであると同時により批判しやすい、今一つの要素がそこにある。それは崇拝の要素、つまり喜んで犠牲となる態度、あるいは個人の生活を喜んで国民生活の中へ融合させようとする要素、なのである。愛国心におけるこの宗教的要素は、国家の強さにとって不可欠の重要性をもつ。なぜならその要素は、大部分の人間の内部にひそむ最良のものを、国家的犠牲の側へ動員するからである。
 愛国心におけるこの宗教的要素は、教育によって補強される。とくに自分自身の国の歴史や文学の知識によって補強されるのだが、ただしその場合、他の国々の歴史や文学に関する多量の知識が伴っていない、ということが条件になるどの文明国においても、若いものの訓育のすべては、自国の長所と他国の欠点を強調するものだ。だから自分たち国民はその優越性の故に、紛争が生じた場合、たとえその起源がどのようなものであれ、自分たちの方が支持される値打ちがある、などとあまねく信じられるようになってしまう。この信念がまさに掛け値なく深いものになるために、人々は戦争がひき起こすもろもろの損害や困窮、苦難を忍耐強く、ほとんど喜んで耐えるにいたる。誠実に信じられたあらゆる宗教がそうであるように、右のような信念もまた、本能に基づいてはいるがその本能を昇華した、ある人生観を与えるのであり、それはどのような個人的目的よりも大きい目的――しかし多くの個人的目的をいわば溶解させて含むところの目的――への献身を産み出すのである。
 宗教としての愛国心は、それが普遍性を欠いている故に、満足すべきものではない。それが目指す善は、自国だけの善であって、人類すべての善なのではない。また宗教としての愛国心がイギリス人に鼓吹する欲望は、それがドイツ人にうながす欲望と同一のものではない。だから愛国者に満ちあふれた世界というものは、紛争に満ち満ちた世界となるだろう。また国民が愛国的信条をより強くもてばもつほど、その国民は他の国民が受ける被害に対して、ますます狂熱的に無関心となるだろう。ひとたび人間が、自分自身の利益をより大きい全体の利益に従属させることを学んだ時には、その全体なるものを人類にまでひろげないですませる、ということの妥当な理由づけはできないはずである。だが実際には、人間の自己犠牲への衝動を、当人の属する国の境界線の内側へ簡単にとどめてしまうものは、国民的誇りという付加的夾雑物なのである。この夾雑物こそが、愛国心を毒するものであり、また宗教としての愛国心を、全人類の救済を目指す信条に較べて劣ったものにさせるのも、その夾雑物なのだ。(p.38-39)



このラッセルの主張には、細かい点ではいろいろと批判はあるが、大まかには賛同できる。(とても90年前の講演とは思えない臨場感を感じてしまう。)

まず、私として確認しておきたいのは、「自分たち国民は偉大な伝統を代表しており、人類にとって重要なもろもろの理想を代表している、という信念」や「国民的誇りという付加的夾雑物」とラッセルが言っているものは、私が見るところでは、ナショナリズムや愛国心にとって本質的なものであり、付加的でも偶然的でもないということである。ラッセルの論では、このあたりが明確でない。

自分(が属する共同体)は特段に偉大であり、愛すべき「美しい」ものであるという信条は、暗黙のうちに、「自国に属しないもの=他国に属する者」は「われわれ」よりも劣るということを前提している。あるいは、少なくともそうした発想を誘発する傾向が強い。だから、それは普遍的なものになることはない。すなわち、ラッセルの言葉で言えば「当人の属する国の境界線の内側」にとどまるローカルなものにすぎない。

そうした指摘に対して「他国を尊重しつつ自国を愛する」などと口先で反論してみたところで、そうしたことができる人間はそう多くない、と再反論できる。というのは、そうした人間はそもそも「愛国心」などという「低次元」のところにはとどまらず、最低でも「人間愛」ないし「人類愛」あるいは「隣人愛」に生きている人だろうから。

そして、こうした愛はすばらしいものだろうが、それを体現している人というのは、そう多くはない。だとすれば、大量現象としてそうした人が社会に満ちあふれることは期待することはできない。

そして、具体的な「隣人を愛する」人は、「国」などというわけのわからない、抽象的なものを本気で愛することはまずないだろうし、愛している場合でも、それを第一に強調するようなことはまずないはずだ。そうした人が愛するのは目の前にいる具体的な人であり、また、まだ見ぬ人ではあっても世界中にいる困っている人であったり、そうした人たちであろうから。

もし、「愛国心」を重要だと思う人で、愛国者は自国だけを愛するのではないと主張したい人は、例えば、北朝鮮の人民をも愛してみてほしい。あるいは、中国の人々でもよい。私はあまりそうした人にはお目にかかったことがないのだ。愛国者であると自称ないし他称であっても、称する人のほとんどすべてが、このような心情を持っていることが示されれば、私も考えを変えるだろうが、残念ながら、恐らく、そうしたことを示す事実は成立しないであろう。


さて、ラッセルの指摘で興味深い点の一つは、「愛国心」が教育によって強化される点を主張していることである。それも、特に歴史や文学の役割が大きいことを指摘している。これらの指摘はまったく正しい。

「美しい国」というナショナリズム的観念を標榜する安倍晋三が、ほとんど誰も重要課題だと思ってもいない「教育基本法」を変えてしまったことは、これに関連している。そして、「愛国的」な人々が歴史教科書を作る会を結成したことも同じである。

ここで私として個人的にかなりウケたのは、その場合に、「他の国々の歴史や文学に関する多量の知識が伴っていない、ということが条件になる」ということをラッセルが指摘したことである。これも全く同感である。ナショナリズムや愛国主義の発言をする人からは正直に言って知性を感じないからだ。(さらに言えば、他者への愛情も感じない。むしろ、他者への憎悪を感じる。)

そして、ラッセルの言葉で至言だと思ったのは愛国者に満ちあふれた世界というものは、紛争に満ち満ちた世界となるだろうという指摘である。大変良い言葉であり、インパクトもある。「愛国心」に必然的に伴う排他的で自己中心的な優越性の信条が、その直接の要因である。

このような紛争に満ちた状態にならないためには、愛国主義のイデオロギーが蔓延する背景にある社会状況を変えていくことはどうしても必要だが、差し当たり、愛国主義が宗教的イデオロギーであり、そのイデオロギーに従うことがどのような帰結に繋がるかということを簡潔に示すという作業は、このイデオロギーにまだ染まっていない人々が、そのイデオロギーに対して警戒することを促しうるため、重要な作業であろう。

なお、私の考えでは、愛国主義者がその宗教的イデオロギーに感染してしまう主な心理的背景は「自分自身に対する自信のなさ」であり――やたらと「誇り」を強調したがるのは、「その人本人が」誇りをもてないからである――それは「日常的に行っている活動の貧弱さ(充実していないこと)」から来ている。展望のない社会(特に雇用・労働の条件の悪化)が社会的活動を妨げる。(それまで働いていた人が職を失えば、社会に貢献している充実感から疎外される。就職しようとして何度も落とされれば、社会から必要とされないと疎外感を強める。幸運にも職を失わなかった人たちも仕事がきつくなり、余暇を楽しむゆとりが失われてきている。雇用条件は不安定化している上に給与も上がらない、等々。)北朝鮮や中国・韓国の問題は、単にそうした人々が、不満な心理をぶつける格好の標的として持ち上げられているにすぎない面がある。社会的活動における不満と外交問題とはコインの表と裏である。

そこで、私は「愛国者」諸氏に次のように言いたい。

「日本が素晴らしいと思うことで、自分が素晴らしいと思えるとしたら、あなたは不幸である。日本が素晴らしいかどうかに関わらず、(活動した後から振り返ったときに)『自分自身は素晴らしい』と思えるように活動しなさい」と。

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バートランド・ラッセル 『社会改造の諸原理』(その1)
この講演文は1916年、すなわち第一次世界大戦の最中に、著名な哲学者として知られるバートランド・ラッセルにより発せられたものである。現代日本の状況とも非常に重なる指摘が多く、100年近く経った現在でも大変興味深く読むことができる。

その諸信念(※引用者注;侵略の衝動に付随した諸信念)の中でもまず筆頭にくるのは、自分自身が属している集団が多を圧して優れているという確信、つまりなんらかの意味で自分の集団が選民なんだという確信である。この確信が、次のように感じることを正当化してゆく。すなわち、真に重要なのは自分自身の集団の利害のみであり、世界の残りの部分は高等民族(自己の集団)の勝利もしくは救いのための、ただ単なる道具とみなしていい、という感情(的信念)である。現代の政治にあっては、この態度は帝国主義に具現している。(p.16、強調は引用者)



現在の日本における「美しい国」だとか「国家の品格」だとかという言葉は、こうした諸信念と同類のものである。こうした考え方を支持する人々に大変多く見られる「特定アジア」なるものへの蔑視とも、こうした言葉に表現されている感情は繋がっているのである。ここで注目すべきはこの確信は「侵略の衝動に付随」するものであることである。

防衛力を増強することをこうした人々の多くは主張するが、その「防衛」という大義名分は、容易に「侵略」の方向に転化するものであるということを彼らは自覚していないように思われる。実際、これらは「敵」との相対的な力関係によって決まるものでしかない。例えば、「防衛」の論理は、自分の側が「敵」側に対して圧倒的に優位にあると思われる場合には、上記の他者蔑視の発想と結びついて容易に侵略と支配のための論理となるのである。

ラッセルも次のように言う。

理論上は、ナショナリズムとは次のような教説である。つまり人々は共感と伝統とによって、「国民」と呼ばれる自然集団を形成するものだが、その国民のおのおのが、一つの中央政府の下に統一されているべきだ、という教説なのだ。主要な点でこの教説は、容認していいものである。しかしながら実際上は、その教説はもっと個人的な形をとってくる。つまり抑圧されたナショナリストは、次のように論じてゆく。「自分は共感と伝統とによって国民Aに属しているのだが、いま自分がその支配下にある政府なるものは、国民Bの掌中に握られている。このことは、ナショナリズムの一般原理の故にのみ不正義というべきではなく、国民Aが寛大で進歩的で文明をもつに反して、国民Bは抑圧的で後退的で野蛮であるが故に、不正義なのである。だからこそ、国民Aが繁栄に価する一方、国民Bは権威失墜に価するのだ」と。当然ながらB国家の住民たちは、個人的敵意や軽蔑をあびせられると、抽象的正義の要求には耳をかさなくなる。ところでほどなく国民Aが、戦争の過程でみずからの自由を獲得したとする。すると自由を達成したエネルギーと誇りとは、余勢をかってほとんどまちがいなく、外国を征服しようとする企てにのり出すか、さもなければより小さいどこかの国に、自由を与えることを拒むようになる

「何だって?われわれの国家の一部となっている国民Cは、かつてわれわれが国民Bに反抗したのと同じ権利を、われわれに対してもつというのか?そいつはバカげている。国民Cは豚のように野卑でそうぞうしい連中だ。まともな政府などつくれる能力もない。だから隣国のすべてに、脅威となったり厄介をかけたりすべきでないとすれば、国民Cは強力に統御してくれる者が必要なんだ。」このようにかつてイギリス人は、アイルランド国民について語った。またドイツ人やロシア人は、ポーランド国民についてそのように語ったし、ガリシアのポーランド人はルテニア国民についてそのように語り、オーストリア人は同じくマギャール国民[ハンガリー民族]についてそう語り、さらにそのマギャール人は、セルビアに同情をもつ南スラヴ人について同様に語ったし、当のセルビア人はマケドニアのブルガリア国民に関してそう語る、という始末だった。このようにして、理論上は反論の余地のないナショナリズムは、自然な運動によって抑圧と征服戦争とを導き出してゆく。(p.22-23)



もちろん、現在の研究では、「『国民』と呼ばれる自然集団」など存在せず、むしろ「国民」なるものがあるとしても、それは「自然集団」などではなく、むしろ人為的で観念的なものでしかないことが明らかにされている。(しかし、一般大衆のレベルまでは十分に浸透しておらず、素朴に「日本の伝統」や「日本人の国民性」などというものがあると信じているような人は、まだ多いように見える。)

その意味で、ナショナリズムに対しては、ラッセルのように「主要な点でこの教説は、容認していい」とは言えないし、「理論上は反論の余地」がないとも言えない。しかし、ナショナリストの思考のプロセス、感情の動き方については、ラッセルは非常によく捉えており、私も概ね異論はない。

まさに上で引いた「自分自身が属している集団が多を圧して優れているという確信」という自己中心的な信念が、防衛・抵抗から侵略・支配のイデオロギーの中心的な軸になっていることが見て取れる。

ラッセルの長い引用で言えば、国民Aに属するナショナリストは、国民Bに対しても、国民Cに対しても自らの属すると信じている集団の優位性を疑っておらず、それが抵抗と支配の心理的根拠となっているのである。

後段の部分など、現在の日本のネット上で見られるネットウヨ的発言にそっくりではないか?

例えば、彼らの場合、「国民Cは豚のように野卑でそうぞうしい連中だ。まともな政府などつくれる能力もない」といった考えを、「特定アジア」つまり中国、韓国、北朝鮮に対して向けているのである。しばしば彼らがこれらの国(特に中国と北朝鮮)の政治形態を取り上げて民主主義がなく人権が抑圧されているとして否定しようとする言説は、まさにラッセルが述べているものと同型である。

そして、ラッセルが指摘しているように、そうした発想が「自然な運動によって抑圧と征服戦争とを導き出してゆく」までは、ほんの一歩なのである。


最後に、デモクラシーに関して一言、私見を述べよう。

確かに私も、非民主的な政治体制は最善のものとは言えないと考える。しかし、政治体制は「国民性(「国民」のもつ性質・性格)」や、その国民の文化的水準のようなものによって決まるのではなく、グローバルな政治的権力の布置や経済的な活動の状況などによって規定される面が非常に強く、あまりに単純に否定するのは、短絡的で一面的な思考であると私は考えている。

例えば、あるあまり富裕でない地域において、複数の政治勢力が(暴力を伴おうが伴うまいが)争っている場合、それらの地域の利権に絡んで、外部の政治的および経済的な勢力が干渉する場合がある。そうした地域で議会制デモクラシーが機能することは大変難しい。現在のイラクを想定すればそれは理解できよう。

デモクラシーはそれなりに望ましい統治体制ではあるが、絶対的な普遍性を持ちうるシステムではない。政治体制について論じるときには、そうした事実を見据えながら分析しなければならないのだが、上記のような「特定アジア」否定の言説(や、ブッシュがイラク戦争の正当化のためにも使用した「中東民主化」言説)は、この事実を見のがしているのである。

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橘木俊詔 『格差社会 何が問題なのか』(その2)

1990年における全国平均の県民一人あたり所得は291万円です(表3-11)。2002年は292万円となっています。この12年間で、所得がほとんど増えていないということは、ある意味で驚きです。日本において、いかに経済が沈滞していたかがわかります。(p.107-110)



1990年を1990年から2002年までの間、
毎年1%ずつ成長していた場合、2002年の一人あたり所得は約328万円
2%ずつ成長していた場合では、2002年の一人当たり所得は約369万円
3%だとすれば、2002年の一人当たり所得は414万円を超える。

292万円との差額はそれぞれ36万円、77万円、122万円超となる。
日本以外の地域との差を考えると、この期間で日本の相対的な経済力は相当小さくなったと考えて良い。(このことは、先日の国連通常予算分担金比率がこれまでの19.468%から16.624%に減ったことにも端的に表れている。)

私見では、今後もこうした傾向は続くものと想定している。

地域間格差は、いまに始まったことではありません。1975年と2000年の失業率が、相対的な地域間の格差ということで見る限り、それほど様相を変えていなかったことも、そのことを示しています。しかし、絶対的な失業率の高さで見ると、地方の失業率はかなり高くなったので、地方経済の深刻さを知ることができます。(p.110)



地域間格差の様相はそれほど変わっていないというのはやや意外に感じるかもしれない。しかし、橘木氏が言うように、絶対的な水準の悪化によって、「格差」の下層の状況は「最低限の生活水準」を割るケースが増え、最近は、それが一つの臨界点に達しつつあると考えて良いのではなかろうか。

 機会の平等については、二つの原則があります。一つは「全員参加の原則」です。たとえば、人が教育を受けたい、就職したい、昇進したいと希望した時に、望む人は全員参加できる、すなわち候補者となる機会が与えられるべきだという考え方です。もう一つは「非差別の原則」です。たとえば、人が何らかの職に就きたいと考えたとき、そこには選抜があります。この選抜を行う時に差別をしてはならないという考え方です。男性か女性か、若いか年寄りかといった個人の資質によって、差別されることがあってはならないということです。
 この二つの原則が満たされていれば、その社会は多くの人に機会の平等性が与えられていると言えるでしょう。しかし現実には、そのような二つの原則が達成されていない場合が少なくありません。(p.113、強調は引用者)



「機会の平等」に関する二つの原則を簡潔にまとめているのは有意義である。

「全員参加の原則」は多くの場合、「結果の平等」とりわけ「所得や資産の相対的に平等な配分」を必要とするというのが私の考えである。「非差別の原則」は雇用の分野などにおいては「競争の激化」に伴って差別化が進んでいる。(この点に関しては中野麻美 著『労働ダンピング』が参考になる。)

 格差はどこまで認めればよいのでしょうか。この質問に対して、二つの考え方があります。一つは、格差の上層と下層の差に注目する考え方です。上層と下層の差をどこまで縮めればよいのか、あるいは縮める必要がないのか、と考える方法です。この場合、上層と下層の差に注目するので、貧困者が存在することは容認します。もう一つは、下層が全員貧困でなくなるためにどうすればよいか、という考え方です。上層と下層の差の存在を認めつつ、貧困者がゼロの世界を想定するのです。
 私の価値判断は、どちらかといえば後者の考え方を支持しています。なぜなら、すでに述べたように、貧困が増えることに大きな問題があると見なすからです。(p.151)



この二つの考え方は重要である。格差容認論者の多くは、基本的に前者の考え方に近い考えを述べる。私も橘木氏と同じく後者の考え方に近い。この考え方によれば、「格差社会」とか「格差問題」と言われていることの本質は「貧困問題」であるということである。

2005年度の派遣労働者数が前年度比12.4%増の約255万人となり、過去最多を記録している一方、派遣料金や労働者の賃金は下落しているという現状や、「ワーキング・プア」と呼ばれる人々が存在することが問題になっていることなどからも、この捉え方は妥当であると考える。

そして、「差」が問題になったのも、「上層」が目立ってきたことの他に、多くの人々が、自分の生活は何らの改善も感じられない状態でありながら、同時にじわじわと「下層」が増えてきたことが知られてきたことから未来の生活に不安を感じたことが背景にある。つまり、人々の不安の投影先が「差」にあったために「格差」が問題になったが、実際に進行しつつある「問題」は「貧困化」なのである。


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橘木俊詔 『格差社会 何が問題なのか』(その1)

1976年に経済学者のマルコム・ソイヤーが、OECD調査に関する報告を出版しました。その中で、世界の先進国で所得分配が最も不平等な国はフランスであるという報告書を出しました。ちなみに、日本はこの時は、北欧諸国と同様に分配の平等性が高い国と報告されています。この事実が日本の所得分配の平等性を世に知らしめた影響は大きく、日本政府もこの報告書を自国の宣伝に用いたことがあります。
 この報告書に対して、フランス政府は驚いて、OECDに抗議をしました。・・・(中略)・・・
 なぜフランスがそのような抗議をしたかということに、私は関心があります。つまり、どこの政府も自分の国の所得分配の不平等性が高いと言われると、不快に思うようです。逆に、平等性が高いということを国民に知ってほしいという希望が、どこの政府にもあるのではないでしょうか。(p.30、強調は引用者)



すべての「国民」は「法の下に平等」であり、同じ制度の下で同じだけの権利や機会を持つべきである、という思想は、アンシャン・レジームを批判して成立してきた近代デモクラシーの基礎にある。

そうした思想が常識化している中において、「機会の不平等」が存在することはその常識に抵触するし、例えば「貧富の差」のような「結果の不平等」があり、それを放置しているとすれば、法の下の平等も権利や機会の平等も実質的に担保できず、アンシャン・レジームと実質的な違いがないという自己矛盾に陥ってしまう。つまり、どのような種類のものであれ、差別や格差が存在することは、デモクラシーにおける為政者にとって、その支配体制の根幹に関わる大問題なのである。

もちろん、理念的・思想的なレベルにとどまらず、実際に、不平等が大きく「国民」の多くがそのことに不満を持つようになれば、その為政者の「支配の正当性」が揺らぎ、ひいては「支配の実効性」までもが揺らぐことになる

以上のようなことから、支配層にとって自らの権限や権益を脅かすような事実(不平等であるという事実)は、被支配階層に対して伏せておきたがるのであろう。

そして、小泉前首相が「格差があって何が悪い」と、逆ギレないし開き直ったという事実は、どのように覆い隠そうにも、到底「平等で公平な社会になった」と言い逃れることができないという日本社会の現状を如実に物語っていると言えよう。

 私も近代経済学者の一人なので、競争によって経済効率を高めることは、大切なことだと思っています。しかし、経済効率を上げて、パイを増やすことが常に社会全体の利益を高めるとは限りません。現在のアメリカや日本では、増えた分のパイは下層の人には、さほど与えられず、上層の人ばかりが持っていってしまうだろうと予想します。すなわち、豊かな人がますます富を得て、そうでない人に富はまわってこないという状況です。このことをうまく説明するのが、「Winner-Take-Allモデル」すなわち「独り勝ちの論理」という考え方です。競争を行って経済効率を高めても、勝者がその成果を全部持っていってしまうという論理です。
 もっとも、たとえ勝者(すなわち高所得者)が多くを稼得しても、それを敗者(すなわち低所得者)に税などで再分配する政策に国民の合意があれば、「Winner-Take-Allモデル」も、まったく否定すべきではないでしょう。すなわち、経済効率を上げる政策として容認できます。この場合には、国民の間でこのような合意が成立しているのか否か、具体的に言えば、どの程度の税や社会保障による再分配効果を期待するかといった国民の意向に左右されることになります。
 しかし、翻って現在の日本に目を向けた場合はどうでしょうか。本章3で述べたように税の累進度は低下し続け、高額所得者、高額資産保有者が優遇されています。しかも、社会保障は負担のアップと給付の削減策の連続です。したがって、経済効率を上げることによって社会全体が豊かになるというのは、今日の日本社会においては、幻想に近いとさえ言えます
 また、セーフティネットについて言えば、後に詳しく論じますが、日本のセーフティネットは世界的にも最低の水準にあるのです。それを、さらに削減しようというのが、現在の構造改革です。したがって、構造改革を提唱する人たちが主張する敗者復活のためのセーフティネットの充実とは、まったく逆の状況が進行していることを、ここで指摘しておく必要があります。(p.65-66、強調は引用者)



私もまったく同意見である。現在の日本では下層の人々にパイが配分されないというのは、統計的にも示すことができる。近々、そのあたりをまとめようと思う。
豊田利幸 責任編集 『世界の名著21 ガリレオ』

今日、数学と日本語に訳されているマテマティカのギリシア語の原義は、「学びうるもの」であるが、ガリレオは新しい科学は誰にも学びうるものでなくてはならないと信じた。彼が「自然は数学で書かれた本である」というときの数学は、その意味である。(p.72-73)



マテマティカが「学びうるもの」という原義だというのは、少し新鮮。

当時、キリスト教徒でない中国人でヨーロッパの言語を修得し、自分たちの手で、ヨーロッパの文化を翻訳移入しようという者はあまりなかったように思われる。
 その逆に、宣教師たちのほうは、懸命に中国語を学び、自ら中国名を名乗り、あるときは儒者のように、またあるときは僧侶のように振舞って、中国社会、とくに上層階級にとけこもうとした。そしてさらに、この文字の国中国の読書人の心を掴むために、ヨーロッパ人にとって、おそらく学習が容易ではなかったと思われる中国語による著作活動さえも行ったのであった。(p.176)



17世紀頃の話であるが、当時の認識ではやはり中国は世界で第一級の経済、技術、文化、学問など多くの分野で優位に立っていた。そのことがこうした態度の違いとして表れている。

しかし、ヨーロッパは中国などから学ぼうとする姿勢があったのでその後発展したが、中国はそうした姿勢がなかったので列強に敗れた、という道徳的で精神論的な歴史解釈を私は正しいとは思わない

この逆転が可能になったのは、ヨーロッパは大陸の西端にあり、その西端から「南北アメリカ大陸」という後背地を手に入れたため、天然資源や人的資源(アフリカの奴隷)を活用できる状況ができたことが大きい。こうして経済的な発展が可能となった。

大陸の中央にはオスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル朝という大帝国があり、繁栄を享受していたが、それらの巨大勢力は相互に争っており(特にオスマン朝とサファヴィー朝は対立関係にあったと思われる)、そうした中で疲弊する要因があった。

(中国の衰退要因については、まだ十分研究していないので今のところ保留しておくが、中国が実際に「衰退」の過程に入るのは一般に思われているよりかなり遅く、恐らく清朝の後半だと思われる。もちろん、それ以前にも何度も上昇だけでなく、下降する局面はあったにせよ。)

そうした中でかつてこれらの地域の資源供給地でしかなかった「ヨーロッパ」地域が相対的に力をつけてきたために、力関係が次第に拮抗するようになっていく。こうしたマタイ効果がたまたま働きうる状況が成立したが故に、「ヨーロッパ」それも「『西』ヨーロッパ」は18世紀以降、大きく経済的に発展し得たと見るべきであろう。


当時、文化的にも世界の中華をもって自他共に許していた中国も(例えばリッチは、1584年、「シナの偉大さについては、どう見ても、この世にそれに優る偉大なものがあろうとは思われません」「シナは一王国などというものではありません。シナは世界そのものです」と書き送っている)、こと暦法、つまり暦の作り方に関しては、少なくともヨーロッパ人の目から見る限り、絶望的といってもよいくらい混乱していた。(p.178、強調は引用者)



マテオ・リッチの中国への大絶賛には少しばかり驚いた。

また、イエズス会の宣教師たちが、ヨーロッパの学問や技術のうち、中国にとって役立ちうる数少ないものとして、宣教するのに暦法を必要としたというのは興味深い。例えば、マテオ・リッチは1605年発のローマ教会宛の手紙で以下のように述べている。

それゆえ、もしこの地に、私の相談相手になってくれる数学者を寄こしていただければ、私はわれわれの暦(グレゴリウス暦のこと)の数値表を中国語にすぐにも翻訳し、中国の暦を正してやることができるでしょう。そうなれば、私の信用は大いに増し、中国の門戸をより広く開けさせることができるだろうと思います。(p.179、強調は引用者)



最後の一文は注目に値する。宣教師は宣教のためだけでなく、むしろ、中国の「門戸開放」のために行っていたととれるからである。しかし、これは「列強」が中国を「こじ開ける」というよりは、「ぜひともあなたたちの高品質で多様な商品を取り引きさせてください」とお願いしにいっているようなイメージに近い。その力関係が逆転し始めるのは1800年前後になってからのことである。

以上、豊田氏による解説からの引用とそれへのコメント。以下、ようやくガリレオ自身の書いたものについて。

『偽金鑑識官』より

ひとは理解や知識がたりないほど、それについて断定的ないいかたをしたがる。反対に、さまざまなことがらを認識し理解していれば、なにか新しいものについて判断するのに、性急でもないし、断定的でもなくなるのです。(p.386、強調は引用者)



これは確かに鋭い洞察である。このことに関しては自戒も必要だが、特に政治的な議論をする際など、話しをしていてこれと同じことをよく感じる。「知っている」のではなく、調べたり確かめたりもせずに「信じている」だけである人ほど、意見が断定的で(論理的に論破された場合でも)誤りを認められない傾向があると私は見ている。

もちろん、こうした論理学的・認識論的な要因以上に、心理的な要因も大きいのだが、それについては個別的に「診断する」必要があるので、ここで一般論として述べるのは相応しくないだろう。

また、私は、あらゆる断定的発言を控えるべきだと言っているわけではない。分かっていることと主張の根拠の強さの度合いに対して自覚しつつ、その枠内で断定することは許されると考えるからである。

つまり、論拠がないときに強力に断定した上で誤りを撤回しないような姿勢はダメだが、それなりに信用できる論拠があるときには、それに基づいて断定することは許される(できる限りその論拠を示しつつではあるが)。ただ、その論拠の不十分さを自覚した場合には、主張を撤回ないし修正するような柔軟さも必要だ、ということである。

特に大学時代の何人かの友人には、以上の点を指摘したいと思っている。個人的にこれらの問題を指摘したい友人も何人かいるが、ここでは一般論として記しておくことにする。

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文春新書編集部編 『論争 格差社会』(その3)
精神科医の斉藤環の文章。本書でのこの人の論はほとんど荒唐無稽で、聞くに値するほどのことはほとんど言っていないが、一つだけ、それなりに興味深いことを言っていた。以下はその部分である。

 「負け組」の若者にとって、怨念の対象は「少し上」の階層だ。この階層に属す人々は、まさに自分たちにとって交換可能な存在であるが故に、怨嗟の的になる。彼らと自分たちとの差はほとんど運と確率の差でしかない。ならば格差社会化は、この階層の人々が中流から下流に転落する過程を推し進めるがゆえに、言い換えるなら「仲間を増やしてくれる」と想定されるがために歓迎される。おそらく彼らの多くが小泉政権を漠然とながら信頼している背景には、そのような気分も控えているのではないか。(p.98、強調は引用者)



下層の若者(三浦展のいう「下流」も団塊ジュニアあたりの世代が想定されているが、この年齢層は不況の真っ只中に卒業した世代で、その悪影響を就職難という形で、最も強く受けている。)が新自由主義を支持してしまう心理をそれなりに的確に説明しているように思う。

「既得権益」を破壊することによって、それに守られた人間を「引きずり落とす」こと、そうして自分と似た「あまり恵まれていない状況」の者が増えれば、劣等感を刺激されることはなくなり、自尊心を保ちやすくなるという仕組みである。

これだけで説明しきることはできないにせよ、若い人間が新自由主義を抵抗なく受け入れる背景に、こうした心理があると想定することはできそうである。

しかし、その不毛さには気づくべきだし、「若者」がそうした「下方での平等化」を支持できるのも、彼ら自身にまだ親が健在だからであるにすぎない。そのとき、彼らは自らの選択によって自分の首を絞めることになる。文字通りに。

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文春新書編集部編 『論争 格差社会』(その2)
まずは、金沢大学教授である仲正昌樹の文章から。ライブドア問題で規制緩和が問題とされたことに関連して、仲正は次のようにを述べた。

問題なのは、規制緩和に伴って出てきそうな不心得者を早期に摘発するための効果的な監視システムが整っていなかったことであって、規制緩和そのものではない。(p.56)



私が知る限りでは、こうした類の問いに対して、まともな回答をもらったことはない。

一見もっともらしい議論に見えるが、あの時点で規制緩和に反対した論者は、そのような「都合の良い」監視システムを作ることなど、到底不可能であるということ(可能であってもかなり困難であり、常に変化する世界の動きに対応する必要に迫られるので、それが持続的に機能する可能性は極めて低いこと)を見越しているからこそ、規制緩和ばかりを急速に進めていくことに対して反対しているはずである。少なくとも私の意見はそうである。

逆にこうした主張をする人々に聞きたいと思うのは、じゃあ具体的にどんな監視システムならきちんと「早期に摘発」できるんですか?ということである。いつでもどこでもどのような不正に対しても、それができることが要求されるが、常に変化する社会の中でそのような事後的なチェックが十分に可能ですか?と問いたい。

規制緩和一般がただそれだけで悪だと決めつけるのは確かにステレオタイプ的思考であり、一種の思考停止だろう。しかし、上記のような点を十分に考慮しないで「規制緩和すればよくなる」とか「規制緩和しなければよくならない」という発想から、それを是認するような風潮がある。これもまた、全く同じステレオタイプ思考であり、思考停止である。今の日本の言論の状況はこうした状態にあり、いずれも誤っている。

ただ、どちらがより間違いが少ないかと言えば、前者の「規制緩和はよくない」という考えであろう。慎重に考慮して規制は強化したり緩和したりしなければならないからである。前者にはそのために必要な慎重さがある。


次は、『希望格差社会』の著者として有名になった山田昌弘の文章。

 格差があるからといって、それが、人々の不満に直結するわけではない。格差が存在しないことが人々のやる気を削ぐことは、社会主義諸国や公共セクターの失敗を見ても明らかである。(p.77)



最初の一文は正しい。続きの文は飛躍がありすぎて話にならない。しかし、現在の日本ではあまりにもよく見かけるタイプの議論であり、人々が漠然と思い描いているイメージを言葉にしている。

はっきり言えば、この漠たるイメージにこそ根拠がないと言える。

「社会主義諸国」ということで念頭に置かれるのは主にソ連だろう。(東欧は日本ではあまり議論に上らない。中国は「市場経済」に移行したと言われる。)そのとき、「ソ連には『格差』がなかったのか?」と問い返すことはしてよいだろう。むしろ、「社会主義諸国」こそ、身分が固定的であって、「身分社会」という「格差社会」の典型である。従って、「社会主義諸国」において「格差が存在しないことがやる気を削いだために失敗した」という論は全く成り立たない。

公共セクターという言葉では、行政機関が念頭に置かれているのだろう。しかし、これもおかしい。行政機関は明確なヒエラルヒーを持つ縦型の組織であり、国家Ⅰ種のエリート官僚とそれ以外(Ⅱ種、Ⅲ種など)の一般の行政官とが別コースを歩む「身分制」である。また、国家公務員と地方公務員でも、事実上、国家公務員は管理や命令する側であり、地方公務員はその下で言われたことを執行するという役割分担が、大まかに言えばある。(地方公務員の中でも都道府県の下に市町村があり、下請け的に位置づけられる傾向がある。)

同じ種類の行政官の間でも、実は中長期的な評価によって、待遇に差が出てくる仕組みになっている。「天下り」なども結局は事務次官になれない人間を官僚機構の外部に出すことによって、官僚機構の自体の健全性を保つための仕組みになっているのだが、そうした点を見てもそれは明瞭である。(まぁ、その仕組みも分からずに「天下り」というだけで「悪」だと思うような思考停止をしている人にとっては、ここで述べたことの意味もわからないかもしれないが。)

このように考えただけでも、公共セクターに格差がないということ自体に根拠がなく、「公共セクターの失敗」が何を意味するかはほとんど意味不明だが、それでも、「格差が存在しないからうまく行かない」のではないことは確実である。

まぁ、以上の2つのことから、「社会主義諸国」や「公共セクター」の「失敗」は、「格差がないことが人々のやる気を削いだ」ことを示す事例にはならないことがわかる。

しかし、本当の問題はここからである。「格差が存在しないことがやる気を削ぐ」というが、「そんなことが言えるのか?」と私は疑っている。

山田がここで「格差」と言っているのは、彼に言わせると「ステイタスの格差」であって、経済的指標で計られる量的格差ではなく、質的な生活状況の格差のことだそうだ。それは「普通の人が通常の努力では埋めることができない質的な格差」であるとされる。

そうであれば、その格差は(個人的な力ではなく)社会的な力によって埋めるべきであり、その格差を埋めることによって、下層の人々のやる気が確保できることになるだろう

従って、いかに生活の最低水準を保障し、その上に自らの基盤を築き上げられるようにするかということが政策的な課題となるはずである。最低生活をするために多くのことをしなければならない人ほど、「多様な選択肢」からは遠ざかるのだから

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文春新書編集部編 『論争 格差社会』(その1)

 この本は、ここ数年世論をにぎわせている「格差」を巡る論争の全体像を知りたいと願う読者のために、主な論文を集めたものである。(p.7)

 よりよい現実認識と、それに基づく少しでも現実的な展望を開くために、この小さな本が助けになることを心から祈りたい。(p.16)



これは本書の「はじめに」における最初と最後の一文である。しかし、この本が「格差」を巡る論争の「全体像」を示しているとは思えない。また、「よりよい現実認識」に役立つとも思えない。むしろ、「より悪い事実誤認」に役立ちそうである。

確かに、『世界』から『文芸春秋』までの記事は載せているが、そのような形式的なやり方では、左(格差を小さくすべき)から右(格差は大したことがない or 格差は拡大していない or 格差があって何が悪い)までを集めているが、問題は内容である。

全体的な論調が「格差があって何が悪い」という方向に偏っているのである。しかも、そうした論調であるほど、「現実」ないし「事実」による根拠の提示がなく、言いっぱなしの文章なのである。

また、「格差」や「ニート」を問題視する側については、それを提起した本人の議論はほとんどなく、その問題についての有名な論客が不在である中で、彼らの議論を一方的に、十分な引用もせずに否定するような議論が多い。

むしろ、「全体像」を示したいならば、そうした議論を提起した張本人とそれを否定する人たちの議論を両方とも併記すべきだと思うが、本書では、そうしたことをせず、全体として一方的に議論を「垂れ流している」傾向が強い。一応、複数の論者による独立した論を掲載しているために、その傾向は多少弱められているが、全体としては「格差があってもそれは必ずしも悪くない。その中で下流・下層はそれなりに生きていく道を探すように努力しろ」という方向になっているのである

しかし、「格差は小さくするような対応が必要だ」という議論をする人々のほとんどは、「下層」(例えば、失業や自営業の廃業)に転落してしまった人々には、努力するチャンスすらなく、そもそもそうしたチャンス自体から排除される傾向があり、しかも、そのように転落する危険性は、親の収入や地位などによる影響がかなり大きいことが統計的に明らかになっているという事実から出発している。

その事実が間違っていると実証的に示した上で、上記の主張をするならまだよいが、それとは全く逆に「貧しいのは努力が足りないからだ」と前提しながら「格差は悪くない」と主張する議論が多すぎるのである。そのようなものは私にはとてもではないが、「まともな議論」とは思えない。

あまりにも突っ込みどころが多く、また、荒唐無稽の論が多すぎるので、いつものように引用してコメントをつけていたら、何ヶ月もかかってしまう。続きの記事では、コメントする価値があるものをかなり限定して述べていくことにする。

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清水幾太郎 責任編集 『世界の名著29 コント、スペンサー』
社会学の祖と言われたオーギュスト・コントと社会進化論などで有名なスペンサーの論文を集めた本書だが、これらの古典的文書よりも清水幾太郎による解説の方が興味深かった。そこから引用する。

私の記憶の範囲内で言えば、この時代(引用者注;1930年代)ほど、日本というものが活発に議論されたことはないように思う。
 日本に関する議論には、二つの方向があった。第一に、経済の混乱や窮乏が深刻になるにつれて、或る人々の間では、日本の革命が切迫した問題になり始めていた。この人々を革命派と名づけるとすると、革命派は、その戦略を立てる必要から、日本の資本主義の発達と現状との分析を始めた。革命派の一部は、モスクワのコミンテルンが決定した日本革命の戦略を正当化する意図をもって日本資本主義の研究を進めており、そこから、革命派の他の一部との間の口汚い論争が始められていた。第二に、日本の諸問題を資本主義一般の法則に還元することに反対する勢力があった。彼らは、革命派の進出に抗して、日本固有の価値や伝統を守ろうとした。日本の諸問題の解決には、日本固有の方法がなければならぬ、と彼らは考えた。この勢力は、国粋派と呼ぶことが出来るであろう。1930年代の危機の中で、革命派と国粋派とが相共に日本を論じ、日本を二つの方向に奪い合っていた。(p.27-28)



1930年代というと、1929年の世界恐慌と1939年の太平洋戦争の間の時期であり、33年にはヒットラーがドイツ総統になった時代である。ここでは、そうした激動の時代に、社会科学においても左右両派の対抗の高まりがあったことが指摘されている。

少なくとも世論ないし政治のレベルでは、その後、「国粋派」的な人々が支配的となり、戦争に進んでしまったわけだが、私は、現在の日本はこの時代と似たところがあると考えているのだが、その比較の資料となる「当時の人」による「証言」が一つ得られた。そのことを記録しておく。

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ディドロ 『ブーガンヴィル航海記補遺』

オルー:この国では、子どもが生まれるのはいつでも運のいいことだし、子どもが死ぬのはいつでも嘆きと涙の種なんだ。子どもは大事な財産だ。やがてかならず一人前の大人になるんだからね。・・・(中略)・・・

司祭:それにしても、子どもが役にたつようになるまで、ずいぶん長く手間がかかるじゃありませんか。

オルー:おれたちはこの国の全産物の六分の一を子どもの養育費と年寄りの扶養手当にあてている。この手当ては、子どもや年寄りがどこに住もうと彼らについてまわる。だから当然タヒチ人の家庭は、家族がふえればふえるほど豊かになるわけだ。

司祭:えっ、六分の一も。

オルー:人口の増加を奨励し、またみなの関心を老人の尊重と子どもの養育に向けるには、これが確実なやり方なんだ。(p.379、強調は引用者)



この対話は、現代の日本の社会にも有益な示唆を与えてくれる。

全産物の六分の一というのは、GDPの六分の一を老人と子どもの養育に関連する出費に当てるということだとイメージすれば当たらずとも遠からず、だろう。つまり、年金、介護保険、老人の医療費、義務教育費、児童手当、出産一時金などの類に80~85兆円ほど出費すると考えればいい。

しかし、これは日本の政府の一般会計の財政全体でこの程度しか支出していない。

現在の日本ではこの程度の財政支出のうち、子どもや老人のために使われているのはどの程度だろうか?はっきりと特定するには多少の調査が必要だが、それほど多くの支出はしていないし、財務省はさらにそれを削ろうとしていることも確実である。

むしろ、本書に書かれているタヒチのような社会に近づける方が望ましい、というのが私見である。

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ヴォルテール 『哲学書簡』

クエーカー教徒は、国会議員になることも、どんな公職につくこともできない。なぜなら、そのためには宣誓の必要があり、そして彼らは絶対に宣誓をしないからである。やむなく彼らはお金を得るために商業に従事しているのだが、その父親たちの事業で金持ちになった子供たちは、快楽を求め、名誉ある身分になり、ボタンや袖飾りをつけたがるようになっている。(p.83)



ウェーバー・テーゼとも似た分析で面白い。ヨーロッパにおけるユダヤ教徒たちにも似たような説明がなされることがある。この分析の妥当性については、データがないので判断を下さずにおくが、論理的には可能な説明ではある。ただ、後段は精神論的すぎる面はある。より説得力のある説明は可能だろう。

例えば、生まれた頃から裕福な子供たちの世代は、快楽を求めることが出来る環境であるし、名誉ある身分に上昇できる可能性も高まった環境にあるし、服装なども様々なものを入手しうる客観的な条件があると考える方が自然であろう。本文のような記述では、禁欲的で清貧な生活から金持ちになることによって堕落したという価値判断を誘発するだろう。

もしイギリスに宗派が一つしかなかったならば、その専制はおそるべきものになるだろう。もし宗派が二つならば、互いに喉を切り合うだろう。しかしイギリスには宗派が三十もあるので、みんな仲良く幸福に暮している。(p.90)



「宗派」を「党派(政党)」に置き換えれば、現代日本の政治状況についても当てはまるだろう。一党独裁や二大政党制ではなく、国会は多元主義に幅広く世論を集めて議論がなされるべきである。

私の知るところでは、中国人は百年前からこの風習(引用者注;天然痘の予防接種)を実施している。世界でいちばん賢明で、いちばん高い文化を持っていると思われている国民の実例とあっては、これはすばらしい前例ではないか。(p.108、強調は引用者。一部、字句を訂正)



中国は昔から、かなり最近(200~250年前)まで、このように「先進的」で「文化的」であると考えられてきたし、実際に世界の文化や経済をリードしていた。当時の人のこうした証言は数多く存在する。

なお、以上は『世界の名著』版による。

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小林英夫 『日本のアジア侵略』

北進の道を閉ざされ、南進の動きもまたアメリカとの全面対決をまねいたなかで、日本に残された最後の選択は、対米貿易遮断でとられた石油などの重要資源の供給地を南方に求めて武力進出することだった。(p.57)



確かに、1941年当時の日本政府の要人の多くには「最後の選択」に思われただろうが、ここには短絡がある

というのは、別の選択肢がありうるからである。つまり、ひとまずアメリカとの対立を避け、貿易遮断をやめさせる外交を展開することである。そうすればアメリカとの全面戦争は避けられた可能性がある。

その意味で、林房雄『大東亜戦争肯定論』に見られるような――そして、近年、右翼たちが積極的に主張したがっているような――「大東亜戦争は起こるべくして起こったもので、この百年間、日本が背負わされた宿命であった」などといった主張は全く妥当なものではない。

こうした言説は単なる責任逃れのための屁理屈にすぎない。

彼らは「戦争は必然的(宿命)だった→日本が自ら決定したものではない→日本に責任はなかった」と言いたいわけだが、「必然」や「宿命」だったわけではないからである。そもそも、「最後の選択」にまで追い詰められた後、それしか選択肢が採用できなかったのは、「民族的プライド」に拘泥しつつ社会経済分析がまともにできない右翼たちが政権を握っていたからである。(その状況は現在の安倍政権も同じである。)

一般に右翼たちが社会経済分析ができないことは、近年の論者たちや政治家たち、さらにレベルが低いところではネット右翼たちの言説を見ていればよくわかる。彼らは社会や政策を語るときにも、常に精神論を用いて説明するからである。(つまり、「○○の精神(モラル)が欠けている」とか「道徳心を養う」のが問題だという類の言い方をして、分析なしに問題を片付ける。)

要するに、本来は客観的な社会経済分析によって説明しなければならないところを、自らに説明できないことをすべて精神や心の持ちようの問題として説明して回避してしまう。その結果、導かれる対処のための処方箋は「戦車に竹やりをもって立ち向かう」という精神論にならざるをえない。精神が問題なのだから精神を叩きなおせば解決されるという発想になるからである。

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由水常雄 『香水瓶 古代からアール・デコ、モードの時代まで』

イスラム時代の9~10世紀には、これを一段と押し進めた、水冷式のいわゆる(ア)ランビキとレトルトを使った蒸留法が考案された。これは近年まで使われてきた蒸留法とほとんど変わりがない、非常に進んだ方法であった。さらに10世紀には、熱に強い耐熱ガラス(硼珪酸ガラス)が発明されて、ガラス製のランビキ・レトルトが開発された。これによってイスラム世界の化学は飛躍的に進歩して、まもなくアルコールによって香りを抽出することまで出来るようになった。このアルコール溶出法が、香料の中に含まれている精油を分解溶出させるのにもっとも便利な方法であり、後にヨーロッパに伝わって、その香水産業を大きく発達させることとなるのである。(p.28)



イスラーム世界の学問や技術の水準の高さの一例である。「近代ヨーロッパ」を特徴付けるもののほとんどはイスラーム世界から輸入された知識や技術に基づいている。

 このように、アール・ヌーヴォーのガラス作家はそれぞれ独自の様式で、自らの作品としての香水瓶を発表していったが、香水メーカーとのタイアップによって香水瓶の制作を行った作家たちはほとんどいなかった。ガラス作家が香水メーカーと連携して制作を行うようになるのは、次の世代のアール・デコに入ってからのことである。(p.83)



手工業的な「作品」としての香水瓶から機械工業的な「商品」としての香水瓶への転換。香水瓶は、もともと作品であり、かつ商品でもあったが、その性質は時代とともに変わる。

世界システムの中核地域における軽工業であったガラス器の製造は次第に比較劣位になっていく中で、高い技術と優れた造形の作品を安く大量に作ることで、産業としての地位を確保したということだろう。つまり、香水瓶のような造形的な美しさが求められるもの以外は、もっと労働力の安い地域で作れば良いということになってしまい、労働力が高い地域では衰退する傾向が一般にはあるが、それへの対応。

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