アヴェスターにはこう書いている?
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エミール・マール 『ヨーロッパのキリスト教美術 上』

もう少しよく歴史を知っている私たちは、我が柱頭の怪物どもを、あの大学者のように笑うべきものとは判断しない。逆にそれらは、すばらしく詩的で、何千年もの間に次々とそれを伝えた四つも五つもの民族の夢で満ち満ちているように――事実そうなのだが――見えるのである。それらは、ロマネスク教会に、カルデヤとアッシリヤ、アケメネス朝のペルシャとササン朝のペルシャ、ギリシャ系のオリエントとアラブ系のオリエントを、導入しているのである。アジヤの全体が、キリスト教社会にその贈物をもたらしたのである。あたかも、その昔マギたちが聖子に贈物をしたように。(p.121)


ロマネスクの柱頭彫刻が中東からもたらされたものに依存していることを的確に指摘している。ただ、「キリスト教社会」を「西欧」と結び付けている点などは、中東社会を知らないことを露呈しているし、それは同時にキリスト教はもともと中東の宗教であることなどを等閑に付している点で「ヨーロッパ中心主義」的であるという批判は避けられない。しかし、そうではあっても、ロマネスク美術を「西欧」の発明品とする以上に中東の文化を継承したものだとする見方は重要である。

興味深いのは、12世紀にはロマネスク美術がトゥールーズやモワサックなどの南仏で大いに繁栄していたことであり、フランスで13世紀のゴシックが過ぎ去った後、14~15世紀には再びイタリアやビザンツからの影響が色濃くなることである。13世紀には北部もある程度の文化的自律性を示すことが出来たが、それは13世紀世界システムに接続されたサブシステムとして機能することが出来た限りでしかなく、「中東心臓部」から切り離された途端に、文化的自律性は失われていったと見ることができる。

なお、「文化的自律性」といっても確固とした固定的なものではなく、その都度、システムの閉域を形成しつつあるような、進行中には未決定のものであるという点には一応断っておこうと思う。
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ミシェル・パンソン、モニク・パンソン=シャルロ 『パリの万華鏡 多彩な街の履歴書』

自分があまりなじみのない空間を体験することは、社会学の基礎ともいえる経験である。それだけでも、実際に街の中を移動する価値がある。本書の行程は、そうした刺激的な出会いへと誘うのである。(p.344、強調は引用者)



最初の一文に強く共感した。馴染みのない空間を体験することが、自らが馴染んでいるものを浮彫にすると同時に、馴染みのない空間に対して知ろうとする刺激を与える。

そして、その体験は「社会学の基礎」であると著者たちは言っているが、学問としての社会学のみならず、思考による秩序付けを伴うあらゆる社会認識にとって、極めて重要な要素であると私には思われる。

私が世界各地を旅行することは、こうした作業を行うことであると考えている。

ちなみに、余談になるが、この点は「旅行」という行為について他の人びととなかなかコンセンサスが取れないところでもある。他の人たちがイメージする「旅行」と私がする「旅行」との間には、埋めがたい溝があると感じることが多いのだが、これを他人に理解できるように説明することはなかなか難しい。

私にとっての「旅行」は、少なくとも一つの側面として「なじみのない空間を体験する」ことによって「社会学の基礎」にしようとするスタンスが含まれている。一部のバックパッカーなどの長期旅行者には、これに近いスタンスや(学生などでは)実存主義的とも言えるような「自分探し」的な要素を盛り込んでいる人も見受けられ、そうした人とはある程度共有できるものがあるが、こうしたスタンスを含まないで「単に有名な場所に遠出して楽しむこと」くらいの考えの人には、どうも理解できないようだ。そうしたことが「ありうる」ということさえ想像できないらしいので、説明が不可能となってしまうわけだ。

まぁ、そうした人の「旅行」を全否定するつもりはない。ただ、「同行したくない」とは思うようになった。そうした旅には、深みがなく、底が浅いと感じるからであり、それだけでは満足できないと感じるから。

さて、次の引用文に進もう。

各章の最初の部分を読むことで、現場での移動がかなり効果的になるはずである。他の者がそこでなにを見出したかをあらかじめ知っておくことで、散策者は、錯綜した意味をもつ記号の森の中で迷うことはなくなるだろう。(p.345)



本書を読んでパリを散策すれば、読者はよりよい調査員たりうる、ということを著者たちは言っているわけだ。

このことは上で述べてきた旅行に関しても当てはまる。事前に旅先についての調査をすることによって、現地で見えてくるものが違ってくる。そこに隠された見えにくい秩序が見えてくる。だから、私は旅行前に文献を中心に、現地の歴史や文化や社会のあり方、経済や政治的な状況などを調べていくことにしている。一つの地域に行くために、40~50冊程度は本を読んでから行っている。今回のフランス旅行でも主にフランスに関する本を50冊程度読破してから行く予定である。そして、本書もその一つである。(最近数ヶ月について、このブログにも、やたらとフランス関係の著作が多くアップされているのはそのためである。)

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ジョルジュ・タート 『十字軍 ヨーロッパとイスラム・対立の原点』

ビザンティン帝国は同じキリスト教の西欧よりも、長い交渉の歴史をもつイスラム帝国にむしろ親近感を感じていた。コンスタンティノープル総主教のニコラス・ミスティコスは、10世紀初め、イスラムのあるアミールにこう書き送っている。「この世界には2つの最高権威があります。ひとつはイスラム教徒のもの、もうひとつはローマ人のもので、世界はこれらの権威から放たれる輝かしい光で満ち満ちています。」(p.30)


親近感というのもそうだろうが、10世紀以前の西欧など、ローマ(ビザンティン)から見れば、対等に相手をするような地域でもなかったであろう。

西欧はカール大帝の時代(8世紀末)に、聖地に対する精神的な保護権をアッバース朝カリフから認可されていた。そこで、イスラムの領土であってもエルサレムへの巡礼は自由であり、道々にはホスピス(巡礼者たちの宿泊施設)も整っていたので、時には大規模な巡礼団が組織されたこともあった。(p.35)


この文章の「西欧」が何を意味するのかは不明瞭である。フランク王国なのか、ローマ教皇庁なのか?いずれにせよ、エルサレムがアッバース朝からセルジューク朝の支配下に入ったことにより、エルサレムへの巡礼がしにくくなったことが「十字軍」の口実として使われたことは確かである。

初期のイスラム社会では、神学も世俗の学問もすべてモスクで教えられていたが、11世紀には、セルジューク朝によってマドラサとよばれる国立の教育宣伝機関がつくられた。ヌール・アッディーンはこれを各地に増設した。マドラサはスンニ派の法学教育機関であり、スンニ派教義およびジハード思想の普及のための重要な拠点となった。(p.92-93)


本文中、「国立の」というのだけは大いに疑問があるが、マドラサが11~12世紀に急速に普及したことは間違いない。本書が提示している論点で興味深いのは、それが十字軍に対抗する「ジハード思想」を普及させたという点である。

贖宥、もっと正確には全贖宥――犯した罪のために受ける贖罪の全面的免除――が、クレルモン公会議で教皇ウルバヌス2世によって初めて承認され、買収や寄付の対象になった。(p.182-183)


十字軍のイデオロギーにおいて「罪の許し」が得られるということが一つの重要なファクターとなっていた。この事実は大変興味深い。ウルバヌス二世はかなり周到に侵略戦争の準備をしていた。

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ジャン・ジャンペル 『カテドラルを建てた人びと』

1127年聖ベルナールはシュジェールにあてて一通の手紙を送った。彼はシュジェールがその生活態度を改めたことに賛辞を呈したのち、宮宰(セネシャル)すなわち首相に任命されていた修道士エチエンヌ・ド・ギャルランドが、国王の恩寵を失うよう切望している。これはかなり驚くべき内容の手紙である。その年の末にエチエンヌ・ド・ギャルランドは職を免ぜられ、はじめて聖ベルナールはフランス王と直接かつ公式の関係をもてるようになった。気質は大変違っているが、この日から聖ベルナールとシュジェールとは親友となった。前者は法王庁の陰の代表者、後者はフランス王国の最高の政治家であり、対立しては損なことを両者は理解したのである。(p.30)


名に「聖」とつく聖人たちのうち、聖ベルナール(ベルナルドゥス)ほど胡散臭い奴はいない。これは私が最近、いわゆる中世ヨーロッパ、特にフランスについて調べていて感じることである。このシュジェールとのやり取りもそうした胡散臭さを感じさせる強烈な一例である。

古代やイスラムやビザンチンの建築家は、強すぎる太陽光線を室内に入れないよう気を配った。建築家たちはこの時代にいたるまで、ブルゴーニュやイール・ド・フランスのごとき北方の地域に、大建築物を作る必要に迫られたことはなかったのである。(p.35)


最後の一文は特に妥当である。13世紀頃までは、アルプス以北の「ヨーロッパ」のような貧しい地域では大建築など建てる余地はなかったのである。

しかしながら「趣味」の名においておこなわれた18世紀のこの破壊行為を反省するとき、現代の人びとは古建築について18世紀と同じような誤りを犯してはいないだろうかという疑問を禁じえない。
 20世紀の美術愛好家が突如12世紀の世界に立ち戻り、どぎついとはいわぬまでも強い色調に彩色された彫刻に飾られるサン・ドニ教会堂の正面を眺めたら仰天して、「何たる悪趣味!」と叫ぶであろうことは疑う余地がない。
 人びとを失望させないために20世紀の修理工事では、古建築を石材の生地のままにしておくこととしている。しかしこうすることによってわれわれは、クリュニー修道会やシュジェールや大聖堂を立てた人びとの意図を確実に裏切っているのである。(p.45)


フランスの教会建築の破壊というとき、決まって出てくるのが大革命(フランス革命)である。しかし、本書の著者はその前のバロック時代における改装や改築もまた「破壊」であり、問題であるとする。この見方は興味深い。そして、そこから翻って現代のカテドラルのあり方が問われている。

私見では、13世紀と同じ彩色を施すとしても、それは同じ素材によってなされなければならないと考える。しかし、それが可能なのかどうか、また、それが例えば保存という観点から見ても望ましいのかどうか、私にはわからない。

ただ、この本の原著は1958年に出されたもので、2006年の現代とはやや異なった状況にあるわけだが、2006年現在で考えると、むしろ、建築などを「世界遺産」などとして宣伝し、観光資源などとして利用することが、本当にその建築遺産の「保護」と「活用」という観点から見て最適なのかどうか、疑問に思うことがある。確かに世界遺産に指定されることで国連から保護のための資金なども出るのだろうが、やたらと下手に観光化してしまうことに対して「本当にそれがベストの選択なのか?」と疑問を感じることがある。

まぁ、この点に関しては、世界遺産の指定は特に建築物などより自然遺産の方が問題なのだろうけれども。

しかしながら聖遺物崇拝は濫用に陥り、根拠の怪しいものまで崇拝されるにいたった。そこでローマ教会は1215年のラテラノ宗教会議により特別な許可を受けてないものの崇拝を禁止した。
 たとえばオータンの会計報告でも、その後はこの方法による資金調達(引用者注;聖遺物を各地に巡回させて建築資金を調達する方法)が見当たらないように、聖遺物崇拝は衰えていった。(p.89)


これ以前の「聖遺物崇拝」がいかに怪しいものだったかがよくわかる。また、13世紀初頭に既に、正当な聖遺物崇拝とそうでないものを区別する措置がとられていることに、少し驚いた。意外と早い対応だからである。まぁ、それほど濫用が酷かったということだろうけれども…。

また、聖遺物と大教会堂建築との密接な関係という点でも、この件は重要である。聖遺物崇拝、ロマネスクやゴシックの教会堂、クリュニー修道院、十字軍、アルビジョワ十字軍、これら一連のものは、相互に密接にかかわっている。

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岡田温司 『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』

いずれにしても、女子修道院と娼婦とは、社会的にも宗教的にもひじょうに強い結びつきがあったのである。しかも娼婦は、いつまでも続けられるというものではない。悔悛せずとも、老いた娼婦には、修道院しか生きる道はなかったにちがいない。(p.101)


これは13世紀頃の社会についての議論だが、確かにそうかもしれない。この引用文の少し前には、修道女と娼婦は、社会的に似たような境遇にあったという指摘もあるのだが、これも一瞬意外な感じがするが、考えてみればそういう社会状況は十分ありうるとも思える。

とりわけトレント公会議の終結(1563年)以降、教会は、宗教画の「適正」にひどく神経質になっていた。16世紀前半の教会に見られたある種の鷹揚さと大らかさは、もはや過去のものとなった。(p.134、強調は引用者)

トレント公会議以後、教会側がもっとも神経を使っていたのは、世俗的あるいは異教的なテーマの絵に対してではない。そんなものは、貴顕たち(そのなかにはもちろん聖職者たちもいる)がこっそりと自分の館で楽しんでいるだけのことだから、それほど目くじらを立てる必要はない。それよりもむしろ、聖なる主題のなかに俗なる要素が混入してくることが、いちばん由々しき問題だったのである。教会にとって、聖と俗の境界線は脅かされてはならないのだ。トレント公会議以後、この境界線はますます厳しく監視されるようになる。(p.140)


この視点は、いわゆる西ヨーロッパの絵画を見る際に参考にしよう。

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R.マーク 『光と風と構造――建築デザインと構造のミステリー』

ドームの基底部が中空でなければ、ハギア・ソフィアのドームはパンテオンと同様に子午線方向にきれつを起こし易いことが、今でははっきりしている。したがってハギア・ソフィアの窓は、きれつを避けるための慎重な措置であると同時に、劇的な効果をもつ光源なのである。(p.79)



ここで話題になっているのは、イスタンブールにあるアヤソフィアのドームの端についている一連の窓のことである。あれにも構造上の効果があるとは少しばかり驚いた。



シャルトル以前のヴォールトは、高窓台の下の堅固な壁体を起点にした。少数の例外はあるが、正方形平面の六分ヴォールト(図4.17)は、パリとブールジュを含めて大規模な教会堂の主要な部分に用いられた。シャルトル以降は、明らかにシャルトルに倣って、高大な堂内空間を覆う長方形平面の四分ヴォールトを、高窓台のずっと上から立ち上げるように一変した(図4.14と図4.17を比較せよ)。飛梁で支持される高期ゴシックの高窓層の高大化と、六分ヴォールトから四分ヴォールトへの移行との間の因果関係は明白だが、ゴシック建築の文献は、この点についてややあいまいであった。(p.108)


ゴシック建築を見る際の視点である。シャルトル以前は六分ヴォールトだったものが、シャルトル以降は四分ヴォールト2つが組み合わされるような形になったわけだ。大きなクリアストーリー→フライングバットレスの支持位置を変更→天上のヴォールト架構の変化(六分→四分×2)という因果的な繋がりがあるということなのだろう。

本文でこの後に展開される、四分ヴォールトの方が建築途中で東西方向に崩壊しにくいという議論もなかなか説得力がある。構造を理解していると建築を見る視点は充実する。私は門外漢なので、まだそこまで行けないが、そうした面白さをロバート・マークの著書は比較的分かりやすく示しているのがよい。



ロバート・ブランナーによれば、シャルトルのデザインは別の教会堂のどの部分にも再現できるが、ブールジュのそれは全体としてでなければ採用できないために、シャルトルが優位を占めたとされる。しかし今やこの推論に次の事実を加えることができる。すなわちブールジュのように大規模な教会堂では、天井に六分ヴォールトを架けると高窓を拡大できないという事実である。それに対してシャルトルのデザインは柔軟であり、とりわけ四分ヴォールトは順応性に富むので、高窓を大きくしたいと願うゴシックの人びとを十分満足させることができたのである。(p.112)


なるほど。急傾斜のフライングバットレスの性能では極めて優れていたブールジュ大聖堂ではあるが、天井の構造ではシャルトルの方が柔軟だというわけだ。これらが組み合わされていれば、ゴシック建築は総体として、構造的により完成度の高いものになっていたのかもしれない。


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E.ル・ロワ・ラデュリ 『ラングドックの歴史』

山地と低地では文化の発展に差があるということこそ、根本的な特徴なのである。二つのナルボネンシスが存在するというわけだ。ひとつは、小麦が獲れ、ブドウとオリーヴの木が茂り、人びとが快適な生活を送る大きな町のあるそれであり、もうひとつは、ライムギや栗の木を栽培し、極貧の状況にしばしば陥る高地部のそれである。これらを分ける目に見えない等高線こそ、未開と文明を分ける境界のようなものであった。(p.24、強調は引用者)



この高地と低地という相対的な区分はラングドック地方を考える上で重要な区分であろう。山が多い地域でも、人が通りやすい谷では交易などが活発に行われたようだが、そうでない山地は相当に寂れていただろうと予想できる。低地は地中海世界の一部として、それなりの地位を占めることができただろう。イベリア半島とイタリア半島の中継点としての位置づけも可能であろう。

ところで、この地方には絶えず分散化の傾向が見られ、地方統一化を断固実現しようとする政策と衝突することはなかった。統一を実現するだけの力を唯一もっていた歴代のトゥールーズ伯は、このような実質的な現実よりも十字軍遠征や異教徒との戦争という幻想を好んだのである。南フランス出身の騎士たちを率いて聖地へと発ったレイモン四世は、自分の領地にはけっして戻らないことを誓った。そして事実、彼はオリエントで1105年に没する。さらに、彼の息子ベルトランも、そしてヨルダン川の水で洗礼を受けた彼の孫アルフォンスも同じように十字軍遠征に参加し、二人ともパレスチナで没した。そのうえ歴代トゥールーズ伯は、たまに領国内にいるときでさえ、首都を行政の中心と考えなかった。所を変えて移動する彼らの大法官府(シャンセルリ)は、あるときはニーム、あるときはサン・ジル、あるいはメルグイユのような単なる村落にさえも一時的に設置された。パリではあれほど早くから現れた中央集権化の使命に相当するものは、トゥールーズでは見当たらないのである(P・ヴォルフ)。(p.36)


このように中央集権化の志向が欠如していた理由は何だろうか?当時の交通・通信技術と地形との関係はその要因の一角を形成していそうだとは想像できる。この地域で中央集権化することは、むしろ行政・統治のコストが高くつくだろうし、軍事的にも少人数の都市が自らを防御するのに適した土地だったとも想像できる。その意味で領主による統一的支配の必要性は低かったのかもしれない。ただ、「中央集権化」という傾向自体は普遍的なものではなく、時間的にも空間的にも特殊なものだと考えることもできる。その意味では、この地域だけに特別な状況とはいえないかもしれない。例えば、イタリア半島にも統一的な権力はなかったはず。

このように書いたら、少し後にはこんな記述があった。

細分化されたこのラングドック地方が辿っていった運命には、多くの特徴からいってすぐ近くのイタリアのそれを思わせるものがある。政治的に統一されていなかったにもかかわらず、都市の躍進とともに文化がこの地方で事実、目覚しく発達をしたからである。ひとつの文学語が南部のロマンス語方言から形成された。それがオック語(langue d'oc)であって、中央山塊の北部で使われていたオイル語とは、両方とも共通してラテン語起源の言語であるにもかかわらず、非常に異なっていた。オック語は完全には統一言語とはならなかったが、それでもラングドック地方をはるかに越えてカタロニア、プロヴァンス地方、そしてガスコーニュ地方まで、さらに北はリムーザン地方、オーヴェルニュ地方、そしてドーフィネ地方まで拡がる広大な文化共同体を誕生させた。トゥルバドゥールの抒情詩や風刺詩がいまに伝えられているのはこの言語によってである。(p.37-38)



政治的に統一されていなかったことと文化が目覚しく発展したこととは、「にもかかわらず」で接続するようなことではなく、その点には違和感がある。

北フランスがラングドック地方において政治上優位に立つようになって以来、概して北フランスとの商取引は増大していった。・・・(中略)・・・しかしながら、大きな商取引の基礎は、依然としてレヴァント地方との貿易にあった。(p.53)


これは13世紀頃についての記述だが、興味深い事実を示している。つまり、この時代には経済的に巨大な力を持っていたレヴァントとラングドック地方は大規模な交易があり、ラングドックを通じて、それが北フランスへと連結されたと見ることができるからである。

そして、大西洋方面に世界交易の中心が移動していくにつれて、ラングドックは取り残され「低開発化」される傾向を示すのである。とはいえ、植民地とは次の点で異なる。すなわち、ミディ運河などの公共事業や近現代の軍事・航空産業などによってある程度の手当てはされている。

つまり、地中海が富の大きな通路であった時代、ラングドックは「フランス」の経済的発展を支えていたのであり、その後、大西洋時代には北フランスとはアンビバレントな関係(収奪・低開発化されながら、再配分を受ける)になったと見ることができる。つまり、中世盛期以降、「フランス」が曲がりなりにもヨーロッパで大きな力を持つことが出来たのは、ある意味ではアルビジョワ十字軍遠征などによってこの地域を支配下においたからだということもできそうである。

政治的には王権がブールジュに退いていた時代(15世紀)に支持したのは大きな意味があったと言えよう(これについてはp.62参照)。

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宮下誠 『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』

絵画が教会の壁や王侯貴族の居宅から引き剥がされた板絵(タブロー)として独り立ちしてはじめて、不特定多数の人々の鑑賞に委ねられるようになってはじめて絵画にタイトルが要請される。(p.53)



なるほど。これは絵画が、専ら観賞用の「芸術作品」として成立するのと並行しているということでもあると言えよう。

ギリシア、エジプト、メソポタミアを含むアフリカ、文化的にはイスラムをも包摂するスペイン(ユダヤ性をも見るべきかもしれない)。地図を見ればわかるが、これらの土地はヨーロッパと抜き差しならぬ関係を持ち持たされながらも政治的、文化的にはヨーロッパという機構から疎外され続けて来た土地である。(p.107)



こうした歴史観が未だに生き残っていることに対して、極めて遺憾に思う。これは典型的な「ヨーロッパ中心史観」である。この見方によれば「ヨーロッパ」は自明のものとして「優れた」ものであり、それ以外の地域の文化は、それよりも劣るものと見なされる。ここでは「疎外」されてきたと述べているところに、こうした評価が如実に出ている。

しかし、歴史を常にその時代の文脈の中に身を置きながら見ていけば、こうした見方は到底成立ち得ないことがわかる。むしろ、「ヨーロッパ」こそ、これら東地中海沿岸からイランに至る地域(中東)という「心臓部heartland」に入り込みたいと思っても入れなかった地域だと言う方が遥かに妥当性が高い。まぁ、この問題は随所で書いてきたことでもあるので、ここでは詳論しないでおく。

ただ、こうした「ヨーロッパ中心」的な歴史観を表明されるだけで、その著者の歴史叙述は信用を大幅に失うということだけは確かである。もちろん、それによってすべての叙述が意味を失うわけではないが。

少なくとも、筆者は一般的に理解される具象から抽象(対象から完全に自由になった絵画表現)へというモダニズム美術史のシナリオは極めてイデオロジカルなものだと考えている。わたしたちは、抽象絵画ということばから、「何が描いていあるかが文字通りわからないもの」と「対象を持たない絵画」という内包を注意深く取り去らなければならないのではないか?(p.138)



「抽象絵画」は「対象を持たない絵画」ではなく、文字通り「対象を持たない絵画」は存在しないというのが、宮下の主張であり、そのための論理的な区別である。確かに「抽象絵画」は「何が書いてあるかわからない」が「対象がない」わけではないだろう。その意味で、この区別は有効である。

 それはほかでもない、ヨーロッパの中心部は抽象に取り囲まれ、常に脅かされて来たのではないか、ということである。・・・(中略)・・・
 そのはるか彼方の延長線上には抽象的組み紐文様や卍模様によって神を描いたケルト文化が栄えた。これらは北方と考えて良い。彼らをいち早く受け入れたのはロマン主義において超越的なものへの憧憬を隠さなかったドイツである。
 一方、東には神の姿を描くことを一切禁じた(イコノクラスム)イスラムがあり、そのイスラムは、ヨーロッパの西、すなわちスペインにも造形的痕跡を遺産として残している。マレーヴィチやカンディンスキーのロシアにはその背後にやはり厳格なイコノクラスムを常に抱えたビザンティン文化が控えている。南には幾何学と二次元の造形を展開したエジプト、そして偶像を禁止したユダヤ文化がある。
 まことに大ざっぱではあるが、このように見てくるとヨーロッパは抽象に取り囲まれているように見えるではないか。抽象とはどこか、不自然に厳格な宗教的規律を思わせる。ヨーロッパはそこに、古代ギリシアに淵源した「人間性」という感傷的で不遜でもある「ものがたり」を対置させ、抽象の奔流に対抗してきたのではないか?絵画が具象的であることの少なくとも一つの根拠はここにあるのではなかろうか。(p.150-151)



これは筆者である宮下の、大まかな文明観を述べた箇所と見ることができる。しかし、これは彼の見解に都合のいいところだけを切り貼りした粗雑な作り物の観念に過ぎず、信用に値しない

まず、ケルトの文化は「明るい光に満ちた」南仏にも、古くから広がっていた。その痕跡はラングドック地方などに残っているとされている。したがって、ケルトを北方とするのは結果論でしかない。ローマやゲルマン系の人々によって駆逐され、比較的後代まで残ったのが北方であるとは言える。

南方を囲む文明としてエジプトとユダヤを持ち出しているのも無理がある。ここで「エジプト」として書かれていることは明らかに「古代エジプト」がイメージされており、「古代エジプト」は「ヨーロッパ」が成立する以前に滅んでいるからである。また、「ユダヤ」は一つの特定の文化や文明を示すというよりは、パレスチナ周辺で信仰された一宗教であり、後にキリスト教やイスラームに影響を与えたとはいえ、それによって「南方」を囲まれているとするのは無理がある。むしろ、普通、パレスチナ周辺は「東方」と呼ばれるのであり、エジプトとパレスチナ、歴史的シリア、メソポタミアなどを含めて「東方」と呼ばれるのが普通だろう。そして、これらの地域はすでに言及されている「イスラーム」が勢力を持っている地域と重なっている。

そうした意味で強引に四方を囲まれているとしていることには無理がある。

しかし、本当の問題はそこではない。ケルト、ビザンティン、イスラーム、ユダヤ、エジプトを一括して「抽象」とし、これらと「古代ギリシアに淵源するヨーロッパ」を「具象」として対置していることは、あまりにも強引すぎて言葉の暴力的使用としか思えない。

ケルトの美術で有名な卍文様や組み紐文様が「抽象」だというのは良いとしよう。しかし、ビザンティンやイスラームやユダヤを偶像崇拝否定の文化であるとするのは、あまりに一面的な暴論である。

確かに、ビザンツ帝国でイコノクラスム論争があった。しかし、これは多分に政治闘争でもあったことは明記されなければならないし、何より、ビザンツのあの素晴らしい「イコン」はどう考えても具象的である。何が書いてあるかわかる。聖ゲオルギウスや聖母マリアやキリストだと「見てわかる」。これは宮下の言葉では具象であるはずだ。それにビザンティンの美術と言えば、美しいモザイクである。ここで描かれたものも多くは具象的である。イコノクラスム論争があり、偶像破壊が起こったというだけでビザンツの芸術が「抽象」だというなら、宗教改革でゴシックやロマネスクの教会の偶像を破壊した「西欧」も「抽象」ということになるだろう。

また、イスラーム美術に関して、この著者、宮下氏は何を知っているのだろうか?イスラーム世界でミニアチュールが大いに描かれていたこと、それも人物像が多く描かれていたことも知らないのか?モスクやマドラサ複合体などでは人物像は描かれていないが、王や貴族の宮殿や邸宅には多様な図像が満ちていたことを知らないのだろうか?イランなどではアリーやイマーム・ホセインの宗教的な絵などが多く見られることも知らないのか?知っていた上で、イスラームの美術を「抽象」と一括するのはあまりにも説明が不足しており、知らないで一括するのはあまりに安易であって不当だと思う。

さらに、「ヨーロッパ」の文化を「古代ギリシア」に起源を持つと考えるのもあまりにも安易なステレオタイプ的発想である。あなたが西暦4世紀のパリにいると想像してみよう。そこに「古代ギリシア」を思わせるようなものが何か一つでも見出せるだろうか?ぜひとも教えて欲しいものである。ローマ帝国の属州であった時期があるから、ローマ帝国で流布した文化的遺物はそれなりに伝わっているとしても、それを「古代ギリシア」とするのは不当だろう。また、時代を下って7世紀のパリにいると想像してみよう。そこではギリシア的なものもローマ的なものも、見つけることは遥かに困難になっているはずである。パリに「古代ギリシア的なもの」が本格的に流入してくるのは、概ね15~16世紀頃だろう。それもイタリアを通って。イタリアとイベリア半島の人々は、「古代ギリシア」の文化を、ビザンツと中東から学んだのであって、自ら継承したわけではない。

「ギリシア・ローマ的なもの」は「ヨーロッパ」に見られるのと同等かそれ以上に中東にも見られる。ただ、受容した形が異なっており、「ヨーロッパの受容の形」で「古代ギリシア」のイメージ自体が作られているために、あたかも「ヨーロッパ文明の淵源は古代ギリシア」に見えるだけである。しかし、この見方は、論理的には「論点先取の誤謬」を犯している。

言説は「影」の周りに新たな影をつくってゆく。影が濃くなればなるほど、影を生み出すもの(作品)は目立たなくなる。イメージが現実を凌駕する瞬間がここにある。(p.264)



この考え方はかなり妥当なものを含んでいる。本書の文章の中で一番、納得したところかもしれない。そして、これは政治などの言説でも同じことが言える。自民党の総裁選で、安倍晋三に世論調査で支持が膨らんでいるのも、あの男の「影」が濃くなっていることの表れだろう。

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高草茂 『プロヴァンス古城物語 南仏の秘められた歴史』

自らも死の直前に洗礼を受けてキリスト教に帰依したコンステンティヌス帝が、キリスト教を公認し、ローマ帝国の首都をビザンティウムに移してそこをコンスタンティノポリスと改称し、330年に新たな都として開設したため、これよりのちローマは完全に首都の座から後退することになった。それ故、ガリアやイベリア半島方面への統治支配を維持し、さらに強化することを目的として、コンスタンティヌス帝はアルルにその任を負わせたのである。(p.48、強調は引用者)


私は、近々、フランスに旅行する予定であり、アルルにも訪問するつもりなのだが、この認識を得たのは有意義であった。こうしたことが「コンスタンティヌスの共同浴場」がアルルに残っており、他にもローマ帝国時代の遺産がアルルに多く残っていることの一つの理由なのだろう。

ただ、結果的に見ると上記のようなコンスタンティヌスのこの思惑は十分に成功しなかったとは言える。当時は文化的にも技術的にも経済的にも力が相対的に弱かった西方地域(現在の西ヨーロッパ)は、短期間のうちに衰退し、ローマ以外の政治勢力が入り乱れることになったからである。

ここ(引用者注;サンティアーゴ・デ・コンポステーラ)が聖地とされてキリスト教信者たちを惹きつけたきっかけは、エルサレムの地が異教徒に支配され、東方の聖地への巡礼が不可能となったことに由来する。
 東方の聖地奪還は西ヨーロッパを中心とするキリスト教徒にとっての至上命題となり、前記のように1095年に開催されたクレルモン・フェラン公会議(クレルモン・フェランは、パリの南方400キロ程の、オーヴェルニュ地方の町)での教皇ウルバヌス二世による宣布に従って十字軍が発進する。この西の聖地サンティアーゴ・デ・コンポステーラに巡礼者らが向かうことになり、フランク王国各地ほかゲルマーニア、イングランドから幾筋もの巡礼路が切り拓かれたのであった。南フランスへのカタリ派の浸透は、こうした巡礼者たちの道をおびやかすものとみなされ、この地の教会活動を強化して、カトリックの信者たちを「異端」に走らせないように教皇から派遣された特使が、1208年に殺害されたのである。(p.72)



巡礼、ロマネスク教会堂、十字軍、修道院、アルビジョワ十字軍(カタリ派討伐)…。12世紀におけるこうしたものは一連の繋がりを持っているらしいと今回の旅の準備をしていて気づいたのだが、上記のような説明を随所で発見することでかなり整理されてきた。

遥か東方からトュルク系遊牧民が西進してきたことによって、分裂状態になっていたアッバース朝はさらに力をそがれ、1076年にはエルサレムはセルジューク朝の勢力下に入った。そうした勢力の圧力を受けて、後ウマイヤ朝などイベリア半島へのムスリムの移動も(恐らく)起こり、イベリア半島ではムスリム勢力の力は相対的に強まった。

これにより東方(レヴァント)と西方(イベリア半島)から挟み撃ちにされる形になったローマ教皇庁やフランス周辺の貴族勢力は、キリスト教を統合的な理念として活用しつつ、これらの脅威に立ち向かおうとしたようだ。その際に域内の理念的統一を促進する一つの手段として(当時、フランスで力をつけていた政治勢力としてのクリュニー修道院の力を使いつつ)巡礼を奨励し、失われたエルサレムに代わってコンポステーラを準備し、そこに至る巡礼炉を積極的に整備した(ロマネスクの巡礼路教会が次々建設される)。

理念的な統一という観点と巡礼路をローマ教皇庁の勢力下に置くという観点から、カタリ派討伐が必要となった。こうして「ローマ・カトリック的キリスト教世界」を理念的に統一すると同時に、その世界の政治経済的な統合の度合いを高めることが、対外的に十字軍という形で侵略戦争を行うことを可能にした面があるのではないか。

以上は、個人的な仮説であるが、相互の関連性はしだいに見えてきた感じがしている。

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杉崎泰一郎 『歴史再発見 ヨーロッパ中世の修道院文化』

とくに十二世紀になると、本部修道院と従属する修道院の間の関係が緊密になり、年一回シトーやクリュニーなどの本部で総会が開かれ、巡察が各支部修道院を回るようになると、情報伝達経路が確保され、各地の状況が少なくとも修道院長レベルには詳しく入るようになりました。(p.106)



この頃、シトー会が「修道会」というネットワーク的な組織形態の原型を作ったようだが、なぜこの時期にそうした形態がとられるようになったかは興味ある問題である。確かに12世紀のユーラシア大陸西端部(いわゆる西ヨーロッパ)は、経済的に豊かで技術や知識などの面でも発達していた、より東方の地域との交流が活発化し、経済的にも反映した時代だったとされる。そのことと関係があるだろうという予測は出来るが、具体的にどのような目的や意図あるいは必要性があって組織形態の変更が行われたのか?

名のある聖人を求める動きはやむことなく、九世紀にフランクの教会や修道院がこぞって多くの殉教者の聖遺物を保有するローマに聖遺物を求めるようになり、これを取引する専門の商人まで現れるほどでした。(p.156)



本書によれば、こうした聖遺物崇拝は「西ヨーロッパ、すなわちラテン・カトリック世界の中世から近世にかけて発展した信心の形態」であるという(p.154)。私見では、そうなった理由として次の点が挙げられるように思われる。

フランク王国など「西ヨーロッパ」の地方には、行政組織を維持するだけの知的経済的な基盤がなく、支配層はキリスト教の協会や修道院の組織を利用せざるを得なかった。その際、支配の正当性を維持する一環として、宗教としてのキリスト教の正当化も必要であった。しかし、西欧にはそれを保障するようなものはなかったので、ローマなど、地中海世界(東方世界にアクセス可能な隣接地域!)に宗教的権威の正当化のためのツールを求めた。だから、ローマやコンスタンティノープルなどから聖遺物を持ってくることで、それを獲得しようとしたと言えるのではないか。

それに対し、東方正教ではビザンツ皇帝の権力が、相対的にも絶対的にも大きかったという政治的理由や、イスラームという一種の宗教改革運動があったことや学問的水準も高かったことために、聖遺物どころかイコンでさえも問題視されるというイデオロギー状況が生じ(※)、聖遺物崇拝のようなものは根付きようがなかったのではないか。

(※)知的水準が高いほど、具体的なモノから遠ざかった象徴をコントロールする傾向が高まる、と考える。具体的なモノである聖遺物より、図像としてのイコンの方が抽象性が高い。図像がない宗教があるとすれば、その方がさらに非具象的ということになろう。

1098年にモレームのロベールが21名の修道士を率いて、ブルゴーニュ東部のシトーに修道院を建てたのが、のちに大きな修道院改革運動に発展する源となりました。
 彼らはクリュニー修道院が祈祷中心の生活を営んで豊かになっていることを「戒律」からの逸脱とみなし、「戒律」どおり労働を修道院に復活させ、貧しさのうちに厳しい修行を行う生活に立ち返ることを目ざしました。
・・・(中略)・・・
 修道士の手で労働し、開墾し、生計を営み、領主的収益を得ないという目的を達するため、シトー修道院は「戒律」にない助修士という制度を採用しました。(p.169-172)



「祈祷中心の生活を営んで豊かに」なるというのは、この文だけを読んだ人には意味不明かもしれない。これは領主などから「寄進」を受けて豊かになるということを間接的に書いているのである。シトー会がクリュニー修道院と異なるのは、そうした政治権力との癒着を生み出す寄進を避けるために、自ら(助修士)の労働によって生計を立てようとした点にあるようだ。「西欧」の地域がある程度、経済的に豊かになり、社会がある程度安定してきたことを反映しているように見える。

政治的な闘争という側面もあったかもしれないが、その点は本書だけからは読み取れない。

この点に限らず、全体に批判的な叙述が少なく、情報としても突っ込みが足りないため、本書を読んでも修道院についてあまり深く理解できない、と感じた。ただ、日本語で読める修道院関係の一般書はそれほど多くないので、今のところ希少価値はあるかもしれない。

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