アヴェスターにはこう書いている?
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フェルナン・ニール 『異端カタリ派』

 アルビジョア派異端の地たるラングドック地方は、かなり特殊な様相を呈していた。政治の観点から言えば、トゥールーズ伯という有力な家門の支配する所で、その所領はギエンヌからサヴォアまで、ケルシーからピレネーまで広がっていた。それは豊かで強力な一国、当時の西ヨーロッパとしては最も重要な国の一つであった。・・・(中略)・・・
 これら大領主はとにもかくにもトゥールーズ家の家臣であったが、その従属ぶりたるや、大いに融通の利く有様で、まず何よりも相互の善意の上に成立っていたのである。さらに、これら大領主たちのほうでも、自分の家臣をもっている。テルム、カバレ、ミネルヴ、ミルポア、セサック、その多くの地の領主たちがそれである。多くは難攻不落の砦の主で、実際はこれに拠って思うままにふるまう者たちであった。しかし伯や子が嘗めた苦労の点では、領内の都市の反抗的な住民との抗争にまさるものはなかった。当時、南フランスの都市は、人口も多く、富み栄えていたのである。トゥールーズは、ヴェネツィアやローマに次いで、ヨーロッパ第三の都市であった。古代文明直系の相続人たる南フランス諸都市は、独立の感覚と自由を愛する心を古代から受け継いでいた。住民の選出するコンシュルないしカピトゥールが民主的な市政を執り、領主たちにも自分の意志を押しつけたのである。十字軍の期間、南フランスの大領主たちがどう見ても首尾一貫しない行動をした理由は、おそらくかかる都市の精神の在り方に求めるべきであろう。もちろん社会階級の差は存在したが、越えがたい区分はなかった。不自由身分の農夫にも市民となる機会があり、その子孫がいつか騎士身分になることも望めないではなかったからである。こうした状況のもとで、活発な商業活動、とりわけイタリアの大都市との商業活動は推察するに難くないが、それもまた二神論宗教の伝播を促進せずにはいなかったのである。(p.69-70、強調は引用者)


これは12世紀末から13世紀前半頃についての叙述である。パリなど北方でもこの時代、都市の力が高まり、それによって諸侯の力を相対化していったことが、王権が伸張する要因のひとつとなったとされるが、南仏においても似たいような都市の勢力拡大があったのかもしれない。

ただ、北方との違いは、それでも諸侯の権力が相対的に強かった点にあるようだ。そこには本文から読み取れる限りでは、地形的な要因があったように見える。ラングドックの山がちな地形によって、相対的に高い防御力を確保しやすかったと見ることができる。

しかし、やはり興味深いのは、都市の政治で「コンシュル」など明らかにローマ的な名前を残した官職があり、デモクラティックな政治体制があったらしいことと、身分が固定されていない社会構成であるという点である。それだけ豊かな社会だったことが想像される。

カタリ派の掃討という点について言えば、トゥールーズ伯は強力だったが、上述のように、この地域の他の諸侯や都市もまた、それなりに強力であり、そこに侵略者たち(ローマ教会、フランス王国)がつけいる隙があったとは言えるかもしれない。

カタリ派については謎が多く、なかなか理解が深まらない。本書も十分な解答を与えてくれるものではなかったが、最も手軽な参考文献・入門書のひとつであることは確かかもしれない。
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磯淵猛 『一杯の紅茶の世界史』

 十八世紀後年の清朝最盛期までは、中国がイギリスから買わなければならないものは少なく、貿易は常に茶を大量に買うイギリスの赤字であった。1793年、イギリス国王ジョージ三世が、清の乾隆帝に貿易港を増やすことを要求したときも、1757年以来の、海外貿易港を広東のみに限る政策は変えられることはなかった。
 イギリスが茶の代金として払う銀の量はやがて国家財政をゆるがすほどになり、その対処法としてとられたのが、イギリスの植民地インドから清にアヘンを輸出するという方法である。(p.102)


こうした力関係は茶だけに限ったことではなく、陶磁器などでも同じようなパターンが見られるし、他の物資についても概ね同様であると言ってよかろう。

18世紀以前からこうした力関係の構造は変わらなかったといってよい。
「ヨーロッパ」は世界でも貧しい部類の地域であり続けてきたのである。それが逆転したのが18世紀後半から1800年頃のことであると見てよいであろう。ここまでは概ね事実と言えると考える。

そうなった理由・原因は、「ヨーロッパ」の武力が相対的に大きくなってきた部分――技術革新により、戦術が変わったりしたことなど複合的な要因によるものと推測している――と、中国やインド、中東の大帝国が同時に大きくなりすぎたことによって自滅(というより、共倒れ?)したことによって資金・資本が西に流れ、相対的な力関係が逆転しえたのではないか、というのが私の仮説である。検証するにはもう少し歴史を詳細に(データを照合しつつ)見ていかなければならない。

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西岡文彦 『二時間の印象派 全ガイド 味わい方と読み方』

むしろ、絵画を見るコツとしては、「食べるつもりになって見る」方が得策であろう。(p.7、強調は引用者)



この考え方は、次の旅行で美術館めぐりをする際に試してみたい。感覚的にはなかなか使えそうである。

 無論、印象派がここまで罵倒されるには、それなりの理由があった。最大の問題は、これらの作品が美術品における完成品と未完成品の境をあいまいにしてしまう点にあった。

 絵画に限らず、ある商品の完成と未完成の間に明確な差がなくなることは、その商品を取り引きする業界そのものへの信頼の喪失を意味している。(p.80-81)



この部分は、私がしばしば抱いてきた疑問に答えるものであった。すなわち、何故印象派はやたらと「罵倒された」ということが美術史で言われるのか、という問題である。

17世紀オランダやフランドルの絵画あたりから、絵画が商品化の度合いを急速に増したことには私も気づいており、印象派の頃のパリはさらにそれが加速した時代だという感じは持っていた。そして、現在もやたらと印象派などが称揚されるのもその線上に位置するものと捉えている。すなわち、「商品としての絵画」として扱われ、そこに関心をひきつけるための「古典としての印象派」が称揚されるのだと。

本書での説明によって、現れたばかりの印象派が叩かれたことも、以上と同じ商品化という文脈の中に適切に位置づけられたことになる。これは収穫であった。

 意外なことに、ルネッサンス以降の写実的な絵画で、太陽の形をはっきりと描いた作品はきわめて限られている。(p.83)



「光」が描かれることはあっても「太陽」は描かれることはないということだろう。これはあまり意識したことがなかったかもしれない。クロード・ロランの太陽はその中にあって特異な存在であり、ターナーを経由して印象派(モネ)に影響を与えたとする流れは興味深い。もちろん、ヴェネツィア派などを軽視してはいけない(本書の扱いよりはもう少し大きく取り扱ってよいのでは)とは思うが、まぁ、美術史という文脈ではなく、印象派に焦点を当てるという文脈で捉える限りは、しょうがないかという気もする。

次に行くフランス旅行との関連で興味深かったのは、次のようなパリの近代都市化と印象派の誕生の関連性である。

 この頃、パリの街頭には重大な変化が訪れていた。
 オスマン知事の敢行した大改造で美しく整備されたパリの路上に、カフェが椅子とテーブルを出し始めたのである。
 こうしてパリの路上は、道行く人々とカフェの人々が互いを見物し、品定めにも似た視線を交し合う劇場的な空間となった。今日、私たちの知っている都市のありようが確立し、街路の散策にくつろぎを見出す「遊歩者(フラヌール)」という近代都市に特徴的な人々が出現したのである。(p.106)



そして、西岡氏は、このフラヌールというあり方が印象派と深く関わっているとする。

マネの画面が、ボードレールが『パリの憂鬱』に登場させた「遊歩者(フラヌール)」の視点で描かれているのに対して、むしろルノワールの画面は、プッチーニが軽歌劇『ラ・ボエーム』に登場させた「放浪者(ボヘミアン)」的な視点で描かれているのである。
・・・(中略)・・・
 近代都市のフラヌールに特有の心理が群集の中の孤独であったのに対して、ボヘミアンの心理は放浪生活に特有の自由さにある。管理社会の都市住民が失った楽天的な牧歌性を象徴するのが、ボヘミアンであった。
・・・(中略)・・・
 フラヌールとしての画家のイメージは、この牧歌的なボヘミアン気質が、近代都市にふさわしく変貌したものといえる。両者は、一般の市民生活からは縁遠い自由の天地に生きる「異邦人」的な存在である点では同じであった。
 この異邦人性は、後期印象派の画家たちには、さらに極端な特徴として表れる。(p.118-119)



次は行為と観察の関係という観点から見て、私には興味深い。

モネの求める瞬間の「印象」は、なおも画家の目と手をすり抜け続けていた。それほどに、モネの探求は遠く高いものだったのである。(p.167-168、強調は引用者)



河本英夫のオートポイエーシス的な立場から見ると、モネの求める「印象」はそのまま描くことは出来ない。「印象」が現れることは感覚する「行為」の次元にあるが、それを絵として描くことは「観察」の次元にある。観察による記述は行為の感覚を捉えるには常に遅すぎる。その意味で、モネたち印象派が用いた絵の具を混ぜないで絵を見る人が見るという行為の中で色を混合させる手法は、合目的的な手法であるといえる。

その場合、絵画は画家が書いた時点で完成するのではなく、見るものが絵画を見ることによって第二の完成を見ることになり、さらに、人々が、絵画を離れた日常の生活においても、絵画を通して体得した見方を絵画以外の世界にも拡大することによって、「世界」の美しさを認識するときに第三の完成を見るというべきかも知れない。そして、完成という言葉を用いても、それは完了を意味しない持続的に「完成し続ける」という行為の連鎖を引き起こす触媒として絵画が機能するということを示すだけにすぎない。つまり、一つの連鎖が成立するときを、暫定的に「完成」と呼んでいるわけだ。

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小池寿子、芸術新潮編集部 『一日で鑑賞するルーヴル美術館』

今日残っているギリシア陶器の多くは、かつてのエトルリアの土地から出土したものであり、彼らが積極的にギリシア陶器を買い入れた顧客であったことがわかる。(p.42)


なるほど。いわば、この延長上にローマの美術がギリシアのものを模倣したり取り入れたりする動きが乗ってくるわけだ。また、もしかしたら、ギリシアとローマに「ある程度の」連続性が見られるとすれば、逆に言えば、「イタリア半島の人々に好まれるデザインのものを輸出していたため」その後のローマの美術はギリシア的なものを取り入れやすかったという見方もできない。

まぁ、この辺は推測だが、興味深い事実ではある。

神秘主義の流れを引いた北方では、中世後期、キリストの受難を我がものとする「同感受難」という考えが広まっていった。キリストに倣って自身の苦しみを是とする。日常が厳しかったからこそ、そうした思想の温床ができあがっていったのだろう。教会の権威が揺らぎ、ペストをはじめとする疫病が蔓延し、百年戦争(1337~1453)に疲弊した中世後期独特の精神風土が、そこにはある。(p.61、強調は引用者)



同感受難という考え方が流布していたことは、エミール・マールの『中世末期の図像学』で示されたような情感に訴えるような図像の変化と一致している。

 それにしても、なぜトランジなのか?干からび、皺ばみ、あるいは腐敗して蛆虫がはいずるような死後の肉体像がどうして好まれたのか?
 肉体の腐敗は古来、恐怖の対象であり、キリスト教では罪の証とされた。しかし罪の証は、また告解の証ともなった。すなわち、無残な死に姿であればあるほど、故人は生前罪を犯したのであり、それを半恒久的な石の像として刻ませることは、罪を半恒久的に告白していることになる。告解すれば罪は軽くなる、というのもカトリックの教えだ。しかも、無残な墓像を前に哀れんで祈ってくれる人が多ければ多いほど、故人の罪はさらに軽くなるし、祈る人自身の罪も減少する。トランジ墓像にはこのように免罪の効果もあった。だから、免罪符の発行がルターによって否定されたとき、プロテスタントのみならず、カトリックにおけるトランジ像もしだいに変貌を強いられてゆく。(p.67、強調は引用者)



16世紀頃に醜い死後の肉体の姿を墓像として用いることが多かったことに対する説明である。非常に納得した。また、こうした図像は上記のような中世末期の情感に訴える図像の一つでもあっただろう。

こうしたことを一つ一つ理解した上で、実際の美術館を巡れば、何の予備知識もなしに行くのに比べると遥かに多くの収穫をもたらしてくれると私は思っている。

何の予備知識も下調べもせずに、「フラッ」と行くことは誰にでもできるが「ただ行っただけ」に終わることが多いと見ている。見てきたものの説明を求めても「よくわからないけど、すごかった」で終わり。そうした行為を見るにつけ、なんと「もったいない」ことかと思う。)

本書はこの点で、なかなかコンパクトに分かりやすく、かつ、美術史の基本的な時期区分や概念などを網羅している点で優れている。旅行でルーヴルを観賞するためのガイドブックとしては、なかなかよいと思う。

それに、誰でも知っていて、どの本でも紹介しているような作品ではなく、「美術史的には有名だけれども、一般にはちょっとだけマニアックな作品」を取り上げている点もよい。特に初めてでなく2度目、3度目の訪問を考えている人にとってはありがたい。

私も、近々、5年ぶりくらいに訪問しようと思っているが、ルーヴルで働く人の言葉で次のものは参考になった。

こんどはぜひ9月に取材にきてください。空気がすんでいて光もきれいで、ピラミッドだけでなく、一年中でいちばんパリの街が美しくみえるのが、9月の朝だから(p.84)



私の訪問予定は9月なので朝のルーヴル、朝のパリの景観にも着目したい

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山田文比古 『フランスの外交力――自主独立の伝統と戦略』

世に起こることの流れを変えなければならない。そのためには、人々の精神を変えなければならない。言葉のみでは不十分である。本質に関わる行動を直ちに起こすことによって初めて、現在の停滞状態を変えることができるである。……現在与えられている条件の下でドイツ問題を解決しようとしてはならない。条件そのものを変えていかなければならないのである。……シューマンの提案(欧州石炭鉄鋼共同体構想)は、革命を起こすか、何も起こさないかの、いずれかであった。その基本原理は、限られた分野ではあったが、決定的な分野で、(国家)主権を移譲することにあった」(p.86)


これは現在のEUにつながる組織、欧州石炭鉄鋼共同体の構想を主導し、「ヨーロッパの父」と呼ばれる人の一人、ジャン・モネの言葉の孫引きである。

ここでの「ドイツ問題」を中国や朝鮮半島との問題に置き換えれば、日本にも似たようなことが言えそうである。

市民レベルでできることは、それほど「劇的なこと」は少ないだろうが、次のような方向性が模索されるべきであろう。

 エリゼ条約以降、継続して推進されてきた両国間の青少年交流は、数百万人規模にも及び、草の根レベルでの両国国民の相互理解は大きな輪となって広がっていった。その結果、戦争の記憶による「わだかまり」も徐々に消え、未来志向の建設的な関係を構築していこうとの気運は、若い世代を中心に国民の幅広い層に定着してきたと言える。1994年7月14日に行われたフランス革命記念日恒例の軍事パレードに、欧州軍団の主力部隊としてドイツ軍将兵が招かれ、パリ市民の喝采の下にシャンゼリゼ通りを行進したことは、時代の変化を物語るものであった。(p.104、強調は引用者)



 自主独立外交には、それなりの気概と覚悟が必要である。外交は一日にして成らず。フランスの例は、そのことを教えてくれる。
・・・(中略)・・・
外交には足場(及び勢力圏)が不可欠である。孤高の外交でも、文字どおり孤立無援では成り立ち得ない。フランスは、ドイツとの和解を通じてヨーロッパを足場と定め、アフリカを勢力下に置くことによって、連帯の絆を固めるとともに、外交的影響力の維持・拡大を図ってきた。日本も、米国との同盟を主軸としつつ、アジア・太平洋地域における連帯の場を強化していかなければならない。過去のと決別という面において、欧州統合が果たした役割はアジアにとっても参考となろう。(p.203-204)



これは本書の結論として述べられる、フランス政府の外交から日本政府の外交が学びうること、の一つである。

基本的にこの見解に賛成である。アメリカとの関係さえ良くなれば他の国との関係も良くなるなどと小泉首相は言っているが、それはタワゴトと言うべきだろう。アメリカと関係がよいということ自体は必ずしも非難されるべきことではないが、アメリカに対してはむしろ「つかず離れず」でなければならない。そのためには様々な場で自らの足場や勢力圏を持っていなければならない。日本政府はそのような努力を何らしていない

先日の北朝鮮の「ミサイル騒動」においても、中国、ロシア、韓国の政府の対応と日本政府の対応の相違を見れば、それは明らかである。これらの国々と相互信頼に基づくある程度密接な関係ができていれば、これらの国々の対応も違ったものになっていただろう。これらの政府の中で日本政府だけが「浮いている」のは、日本政府には足場がないことを意味している。

(ミサイルが落ちた地点は、日本よりもロシアや中国に近いと思うが、これらの国が抑制的なのに対して日本政府の度を越したと見えるほどの対応は一体、何なのか。日本政府の対応を見ていると、まるで自国の領土内にミサイルがすでに着弾したかのように錯覚してしまうほどである。)

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饗庭孝男 『世界歴史の旅 フランス・ロマネスク』

 あとにくるゴシック期と異なって、ロマネスクの時代は、多くその土地の石や土を用いた。輸送の手段がいまだ十分でなかった時代では、祭壇にあてる大理石以外、土地の素材を使った。そこに独自の色彩(カラー)がでてくるのである。しかも多くは都市のなかではなく僻地であり、自然のなかであった。オーヴェルニュ地方の村々の屋根の瓦が独自な石と焼き方でできているのと同じである。ゴシック期になると遠方からの石材の運搬も可能であったため、地方色が薄れる。北フランスに多いその時期の教会はどれも似たり寄ったりである。(p.69、強調は引用者)


しばしばロマネスクは地域によって様式が異なり、ゴシックにはより様式の統一性があると言われる。ここで述べられているような素材の相違もその一つの要素となっているのであろう。ただ、「ゴシック期になると遠方からの石材の運搬」が可能になると言うが、その理由として、遠方(東方)との経済的な繋がりが13世紀には非常に強くなっており、それまでは辺境の地であったヨーロッパ(フランス)の経済が、ある程度潤った時期だったということが関連しているものと思われる。

しばしば、いろいろな土地に旅行していると、その土地ごとに「色」があると感じることがある。例えば、パリは白っぽい大理石の色、フィレンツェは赤いレンガの色、カイロは日干し煉瓦の薄い茶色、イスファハーンはモスクのタイルの青といった具合だ。もちろん、これらは単なる短期訪問した際の印象にすぎないとはいえ、これらがすべて建築素材から来ているということに改めて気づく。土地・都市の色を印象づけるものとして、建築素材が重要な役割を果たしていそうだということを本書を読むことでより強く認識した。

 以上のような地方別、流派別の建築群とは異なり、たとえば巡礼路沿いの教会堂は一つの共通した要素をもっていよう。サンチアゴ・デ・コンポステーラ教会、コンクのサント・フォワ教会、トゥールーズのサン・セルナン教会はコンポステーラへの巡礼路沿いにある。一様に広い教会内、周歩回廊と祭室のたっぷりとした空間は多くの巡礼者のためであった。側廊を翼廊の外陣部まで伸ばして周歩回廊につないだものである。身廊の横断アーチで区切った半円筒形穹窿、側廊の横の高壇(トリビューン)などもあり、これらの教会の建築にはオーヴェルニュ派が協力したという。(p.80、強調は引用者)


このように、地域性や流派だけでなく、その教会が果たしていた機能などによっても類型的に整理できるという視点は重要かもしれない。

 もとよりラングドック地方は、本来、山をへだてても谷間をとおって文化交流は盛んであった。内閉的であった北フランスとは比較にならないほど、密接であったのである。「南方吟遊詩人(トルバドゥール)」にもアラブ文化の多くの影を見ることができるとすれば、先の事実は自然なことといわねばならない。カタルーニアのリポール修道院がオリエント、アラブ、イタリアと交流し、写本においても多くを蔵し、北の修道院が禁じていた古代文化を積極的に取り込んでいたことも考え合わせれば、いずれも納得することと思われる。(p.190)


ラングドック地方が文化交流が盛んであったという事実は注目に値する。南仏といえば歴史的にはプロヴァンス、現在のリゾート地としてはコート・ダジュールなどが注目されることが多いが、その西にあるラングドック地方も、例えばイベリア半島と教会堂の建築様式の類似性などは驚くべきものがある。本書を読んでラングドック地方にも俄然興味が湧いてきた

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福井憲彦 編『新版 世界各国史12 フランス史』(その6)

総力戦の影響は、国民生活の諸側面にもあらわれた。軍需生産をあげるために、勤務時間を延ばす目的でサマータイム制が導入された。(p.375-376、強調は引用者)



ここで総力戦というのはもちろん、第一次世界大戦のことである。この時期にサマータイム制が導入されたとは知らなかった。まさに、現在の日本も同じ方向に向かっているように思われる。

一年ほど前、サマータイムについてブログに記事を書いたが、その際に提示した懸念は、歴史を見る限りは妥当性があるようだ。

次は第二次大戦後についての記事。

 また、高度経済成長から「取り残された地域」や「取り残された階層」が生まれていた。それは、ブルターニュ地方のサン・マロとジュネーヴを結んだ線で区切られる地域間の経済格差や文化格差となってあらわれた。(p.439、強調は引用者)



古代とは南北の豊かさが逆転しているが、それでも、フランスの南北の地域が同質的にはならない、同じ展開にはならないという点では一貫していると見るべきか?この一貫性がどの程度主張できるのか、非常に興味がある問題である。

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福井憲彦 編『新版 世界各国史12 フランス史』(その5)

 また、王権はエリート文化に保護を与えると同時に統制し、プロパガンダに利用した。その代表的事例は、特権を与えられた学術団体であるアカデミーであり、リシュリュー期からルイ十四世親政初期までに、アカデミー・フランセーズから始まり、絵画彫刻、碑文・文芸、科学、建築の各アカデミーが創設された。アカデミー・フランセーズでは、フランス語辞典の編纂事業をおこない、フランス語の「純化」をはかったが、ここで正しいフランス語とされたのは、宮廷でつくりあげられたことばにほかならなかった。(p.207-208、強調は引用者)


これは17世紀のことである。(アカデミー・フランセーズが創設されたのは1635年。)プロパガンダの例としては、18世紀の後半の絵画と建築における新古典主義などを想起する。この美術的な運動がフランスを中心に起こっていたことは偶然ではなかろう。

フランス語は広く普及したとはいうものの、日常的にフランス語を使用するかどうかという観点からみれば、十八世紀の末にいたってもなお、そうした人々は、総人口の約半分にすぎない。フランス語は十六世紀から宮廷や外交や行政の場で、十七・十八世紀には文芸作品や学術の言語として、また商取引に使用されたが、かなりの人々にとって、日常生活のための言語ではなかったのである。民衆はいぜんとして、それぞれの地域のことばを使って生活していた。(p.238、強調は引用者)


こうした言語状況は「フランス」に限らず、歴史的にはむしろ一般的な状況だと言うべきだろう。

 じつのところ、カトリックの聖職者はこの時期(引用者注;ルイ・フィリップの即位式があった1830年8月)、聖服を着て街を歩ける状態ではなかった。聖職者やカトリック信仰を表象するものへの攻撃がおこなわれ、首都の教会は数日間門戸を固く閉ざしておかねばならなかった。(p.300)


このときだけでなく、フランス革命からしばらくの間は教会への暴力的行為はフランスの地域では相当多かったようだ。そのことはフランスの多くの教会堂が、フランス革命から19世紀初頭くらいの間に、略奪や破壊の憂き目にあい、19世紀の後半に再建・修復されたという事実に如実に表れている。

いつの世でも、戦争や革命で血を流す者と、それらの戦闘から利益を得る者が同じであったためしはない。(p.302)


こういう認識を持つことは重要である。

七月(引用者注;七月王政のこと)の権力を左右する彼ら「金融貴族」は、商工業への直接投資よりも、鉄道や運河といった政府主導型の大土木事業にまつわる国債や利権にむらがり、国家財政をほしいままにした。(p.302)


イギリスが「産業革命」と呼ばれるような急速な経済成長をしたのに対し、フランスは相対的な成長率がイギリスより低かったことが、力を入れた業種に反映している。つまり、既に優位な立場をイギリスに確保されてしまった以上、政治権力を用いて産業を保護・育成せざるをえなくなるのであり、政府によるインフラ整備はその一環であった。

ただ、鉄道や運河と言っても、フランス国内のパリを中心として放射状に張り巡らされた鉄道網と、インドやアフリカ大陸のように、専ら内陸から海沿いに資源を搬出するために用いられ、生活用の通路のためには施設されなかった地域とでは、それがもつ意味は自ずと異なる。運河も然りであって、例えば、フランス国内のミディ運河とエジプトのスエズ運河は意味が異なる。

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福井憲彦 編『新版 世界各国史12 フランス史』(その4)
続いて14-15世紀頃。

 フランス内部では商業圏が、イングランド・ブルゴーニュ圏とブールジュ王国圏とに二分されたかの印象を受ける。前者の中心は大消費地パリであり、ブルゴーニュから北西フランスにかけてのヨンヌ-セーヌ-オワーズ軸が、ブルゴーニュのぶどう酒、ノルマンディの織物、イル・ド・フランスの穀物を流通させる動脈となった。アルマニャック支配圏の国際取引を動かしていたのはラングドック地方である。とくにベゼナとモンタニャックの大市が、プロヴァンス、ドーフィネそしてイタリア、カタルーニャ、アラゴンなどの商人を呼びよせた。
 ブールジュへの王太子シャルルの亡命、ロワール一帯の城館への頻繁な滞在が都市ブールジュやトゥール、ポワチエの商業や産業を振興させた。とくにフランスとレバントとのイタリアを介さない貿易によって大成功をおさめたジャック・クールが、1400年ころのブールジュで生まれたことは意味深い。彼は東方への輸出品を入手するために、ヨーロッパ各地に通信員を駐留させ情報を蒐集した。(p.138-139)



ここでも地中海世界と北方という対比にいつの間にか(?)分かれていたようである。「13世紀世界システム」として見ることができるユーラシア規模の緩やかな結合が崩れた14世紀には、従来どおりの分割が表面化したということだろう。

とはいえ、イタリアを介さないレヴァント貿易によってフランスの大成功したという話も、当時の地中海世界の変化の予兆を示しており興味深い。

地中海世界で最も経済的に豊かなのは、言うまでもなくエジプトから歴史的シリアに至る地域であった。そこにイタリアを介さずにフランスの商人が直接アクセスするようになったということが、ルネッサンス以後、あの長靴型の半島が相対的に力を失っていくことの予兆となっているし、フランスをはじめ「ヨーロッパ」地域の人々が、より豊かな地域である中東、インド、中国へのアクセスを求めていくという流れを象徴的に示している(認識根拠である)ように思われる。

(つづく)

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福井憲彦 編『新版 世界各国史12 フランス』(その3)

「カール」という名前はフランク人の命名リストにはない名前である。アングロ・サクソン語の「ケアール」、すなわち「自由人」からきていると推測される。カールはピピン二世が、マーストリヒトを根城とする豪族の娘アルパイダと内縁関係を結んで生まれた子供であるが、この名前がピピンがアルパイダ一族となぜ結びついたか、その理由を明かしている。この一族は北海からライン川、マース川流域に影響力をもっており、ピピン二世はその海上・河川交易活動に野心を燃やしていたのである。次男のグリモアルドを海民フリーセン人の王ラドボードの娘と縁組みさせているのも、同じ理由によるのである。シャルルマーニュにつながるカロリング王権のルーツが、このように海上交易的な色彩に染められていた事実はあまり注意をはらわれてこなかったが、大事な点である
 カール・マルテルは730年代、ほとんど毎年のように南フランスやプロヴァンスに遠征したが、732年のトゥールとポワチエのあいだでのイスラーム騎馬軍との戦いは、その端緒といえる。南部社会にとって、彼の軍事遠征がもたらした惨禍は神が振り下ろした「鉄槌(マルテル)」にほかならず、イスラーム教徒の破壊を遥かにこえていた。この地方の古代的な名残は、たび重なる人的・物的被害により完全に息の根をとめられたのである。ラングドック地方は、カールとその息子ピピンの遠征によってはじめてフランク人の国土となった。(p.75-76)



前段のカロリング家が海上交易的な活動に関心を示していたことは、私にとっては新しい見方であった。フランス北部の地域が、ある程度の経済力を持ち得るようになった理由はこうした見方によってこそ、うまく説明できると思われる

北部の海と河川での交易(これは陸と海の両方から地中海まで繋がっていたものと推測される)を通して、力をつけた北部の勢力が――地中海沿岸ではありながら、恐らくはアルプスという陸路での切断があるがゆえに、他の地中海沿岸地域よりは力が劣っていた――南仏の地域を攻略することが出来た、と見ることができそうである。

現在を基準にしてしまうと「同じフランス」であると見えてしまうが、北部のフランク人と南部のラングドック地方の人々とは「同胞」でも何でもなく、フランク人は「侵略者」にすぎない、ということは踏まえておくべきであろう。これと同じパターンの侵略は13世紀のカタリ派の征伐(アルビジョア十字軍)の際にも見られたようである。結局、現在の南仏はなかなか北部の人々の支配下に落ち着くことはなかったらしいと推察される。(第二帝政期の言語地図も、この傍証となる。)

 王の支配力の弱体化はアンリ一世(在位1031~60)の治世にさらに深刻となった。その支配はトゥール、アラスの西にあるモントルイユ、そしてシャロン・シュル・マルヌの三点を結ぶ線に囲まれた範囲に限られ、その息子フィリップ一世(在位1060~1108)の時代には、サンリス-パリ-オルレアンの軸線とオワーズ川流域に縮小したのであった。だが、こうした傾向はフィリップの時代に底を打つ。つぎのルイ六世(在位1108~37)は、有能な顧問であるサン・ドニ修道院長シュジェの助言のもとに、封建的主従関係を政治的序列づけの原理として存分に活用して、権威を回復し、その子のルイ七世(在位1137~80)はシュジェの導きのもと、ノルマンディ大公領を領有するプランタジネット朝イングランド王ヘンリ二世を1151年にパリに呼びよせ、フランス王の下臣として忠誠を誓わせるのに成功した。こうしてフィリップ二世尊厳王(オーギュスト)(在位1180~1223)の時代には、王権の威光はゆるぎなき権力としてのそれを回復したのである。(p.84)


この文章は、11世紀前半の王権の衰退と11世紀後半以降13世紀までの王権の強化を示している。しかし、王の名前だけで見ても、何がこの反転を可能にしたのかは見えてこない。基本的には12世紀の大開墾や11世紀頃からの東方との交易の拡大という状況が背景としてあり、より具体的には以下のような状況の背後にあるものでもある。

 フィリップの治世は、ロワール、セーヌ、ソンムなどの基幹河川を利用した水運・交易の活況の恩恵にも浴した。関税や取引税収入が直接税制度を知らないこの時代にあっては、王庫の貴重な収入源である。彼はまた都市共同体が領主から自立してコミューンを組織する動きを支えた。都市は王権に定期金や軍事力を提供することが期待されたのである
 初期カペーの王たちは好んでオルレアン地方に滞在したが、フィリップはパリのシテ島にある宮殿に住まうことが多くなった。パリは北西フランスとシャンパーニュ大市および南部との商業との交差点に位置していて、商業上の要衝でもあった。(p.94)


このように農業生産力と交易の増大から王権は他の貴族よりも多くの利益を得たのであり、また、都市化の進展により自治都市などが成立したことは、貴族たちを牽制する勢力が増えたことを意味し、王権にとって相対的に有利な状況であったのである。

先の引用文に現れたサン・ドニ修道院長シュジェが「都市の建築」としてのゴシック建築を完成させた人物であることは偶然ではない。

ちなみに、シャンパーニュの大市に関して一言コメントしたい。

この世紀(引用者注;12世紀)の後半になって地中海地方と北海とをつなぐ街道に位置するという地の利をいかして、シャンパーニュ諸都市は活動範囲を拡大し、シャンパーニュ伯も大市での取引からもたらされる利益を財源としてあてこんだのである。伯は商人を安全護送(ソフ・コンデュイ)制度で保護し、ラニー、バール・シュル・ローブ、プロヴァン、トロワの四都市の開催期日を調整し、一年をひとつのサイクルに組み上げたのであった。(p.113-114)



このようにあの有名なシャンパーニュ大市は「自由競争」によって拡大・繁栄したのではなく、政治的な保護の下で繁栄したということである。自由主義のイデオロギーによれば、政治権力による市場への介入は(必ず)悪とみなされるが、それは正しくないのである

(つづく)

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福井憲彦 編『新版 世界各国史12 フランス史』(その2)

 メロヴィング国家の統治の仕組みは、基本的には最末期ローマ帝国の支配組織をできるだけ利用するというものであった。国王宮廷は、裁判や軍事の統率を任務とする官職担当者や国王の家政機関を擁し、中央機構を体現している。宮廷の財源となったのは、セーヌ川の北では深刻な綻びをみせてはいたものの、ロワール川の南でいぜんとして維持されていた租税であった。
 ・・・(中略)・・・地方ではむしろ主邑都市に拠点をおく司教が、より大きな権力をもって統治していた。・・・(中略)・・・七世紀まで特定の司教座を特定のセナトール貴族門閥が連続して掌握する例が珍しくない。メロヴィング国家の地方支配において、教会の支配機能は都市伯のそれにもまして重要な役割をはたしたのである。(p.74-75)


ここでも南北の相違が見られる。南部ではローマの租税が維持されていたのに、北部では維持されていなかった。これは南北の属州化された期間の長さや、属州化された後の統治の仕方が異なっていたことに起因する面もあるかもしれない。北部の「長髪のガリア」はローマ帝国が征服する以前の統治機構を活かす形で統治がなされていたから。

南部はローマと同じ地中海世界に属していたので容易に同化できたが、北部はそうはいかなかった、と見ることもできる。あくまでもマクロな観察言語で言えば、の話だが、それでもp.44の引用文にもあったように、ナルボネンシス(南部)の貴族は品位があるが、北部の貴族は粗野だとローマの人からは見えた、ということとは完全に整合している。

私としては、メロヴィング王朝は「ローマ帝国の遺産」を十分継承できずに、キリスト教会の行政組織に求めたと見ている。その際、本書の記述で興味深かったのは、フランク人はキリスト教に改宗するに際してゲルマン部族の中で唯一、はじめからカトリック(ネストリウス派)に改宗したことを指摘し、それによりガリア教会との協調関係を利用できたとする説である。

それなりに説得力がある考え方である。かなり後の時代まで、かつて西ローマ帝国であった地域では、政治権力は教会に行政組織の面で頼っていたと考えることができるから。

(つづく)

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福井憲彦 編『新版 世界各国史12 フランス史』

一世紀後半には、大プリニウスの『博物誌』のなかで、ナルボネンシスは「属州というよりはむしろイタリアである」と評されている。(p.42)


これに対してガリア北部は異なっていた。

ここに描かれたガリア人は、早くからローマ化したナルボネンシス州のガリア人とははなはだ異なっている。どちらも豊かで富裕であっても、ローマ人の目からすれば、ナルボネンシス出身の貴族は洗練されて品位があるが、「長髪のガリア」出身の貴族は粗野であり鼻持ちならないとでもいわんばかりである。(p.44)



19世紀後半の第二帝政期の言語地図(p.342)を見ても、南部(特にラングドック地方など)はフランス語を話せる人がほとんどいないことがわかる。このことからも南北フランスの間では、人的な交流も少なく、統治状況も異なっていたと考えられる。

ただし、フランスを単純に南北二元論で区切ってよいわけではない。北西のブルターニュや東部の地域などもパリ周辺とは異なる文化的状況にあったようであり、現在の「フランス」の領域の内部を見ても地域的な多様性があることは間違いない。ただ、南部は地中海世界としての共通性があるのに対し、「それ以外の地域」は非地中海世界として区分して把握することは可能であると考える。

最近の研究成果が示すところでは、「フランク」というエスニックな集団はもとより存在せず、三世紀ころにシャマーウィ、ブルクテリ、シャットゥアリ、サリー、アムスウァリといった名前のライン川下流地帯にいた部族が同盟してできた一種の政治集団として成立したとされている。(p.57)



これに似たようなことは「フランス人」や「フランク」だけでなく、「日本人」や「倭人」にもいえるはずである。

王国の首都がトレドに遷ったのちも、ラングドックは西ゴート王国の領土にとどまった。この地方の文化的個性は、地中海世界との交渉のほかにピピン短身王によるフランク王国への併合まで続く西ゴート支配のうちに形成された要素に多くをおうている。そうしたもののひとつとして、ナルボンヌをはじめとする都市を拠点にしたユダヤ人の旺盛な経済的・文化的活動があげられるであろう。(p.60)



なるほど。ラングドック地方は西ゴート王国(の一部)だったわけだ。しかし、昔、世界史で習ったが今一歩ピンとこないな。次の旅でラングドック地方と言えばトゥールーズやモワサックに行くことを予定しているが、何か関連するようなものがないか、注意してみることにしよう。

 西ローマ帝国の崩壊(476年)とフランク人による支配は、ガリアの文化環境にそれほど大きな変動をもたらさなかったといいきってよいであろう。もしローマ文化の変化をいうならば、それは帝国の瓦解の一世紀も前から始まっていたのである
 四世紀を境に書物は巻物の巻子本(かんすぼん)から、冊子形式の書冊本(コーデクス)にかたちを変え、また男の衣装はゆったりとして行動の優雅さが要求される寛衣(トガ)から、活動的な筒袖の服が好まれるようになっていた。なによりもキリスト教の公認そして国教化により、内面世界を支える価値体系に根本的な変化が起こったのであり、それは社会のもっとも奥深いところからの文化変容を生み出さずにはすまなかったのである。したがって、476年の西ローマ帝国の解体のころのガリアの文化状況は、すでに六世紀のそれと根本において変わりなく、ただ時間を追うに従い、四世紀の初発の状態からの懸隔が徐々にはっきりするようになる変化の因子を内在させていたといえよう。(p.62)



大まかには支持できる説であるし、4~6世紀のガリアの社会状況(文化状況というより社会状況)を観察する上での準拠枠として使用できる理念型である。

ガリアの社会の状況を見ると、明らかに2世紀頃にピークを迎え、その後、急速にその状態が失われていくように見える。そのような流れを念頭においても、既に4世紀にはガリアは衰退しており、3~4世紀の間に相当の社会状況や文化的な変容があったと考えておかしくない。そして、反映していない状況で生活できるような体勢が持続していたはずである。

このような状況と上の理念型は整合的である。ただし、キリスト教の扱いについては私としては違和感を覚える。なぜなら、4世紀や6世紀のガリアではそれほどキリスト教は浸透していないと見るべきだと考えているからである。

もし、この時代に既にキリスト教が十分に浸透していたならば、12世紀のロマネスク教会の時代にもまだキリスト教化が完全ではなかったことと整合的でない。(純粋に論理的には、絶対にありえないとはいえないが。)

ローマで国教化されたことで、宗教儀礼などが大きく変化したであろうことや、特に知識人層や支配層にキリスト教が受け入れられたことは確かだろう。その意味でハイカルチャーに対しては根本的な変化が起こりえたと推測する。

しかし、下層の民衆の社会に根本的な変化が起きたとするのは、やや行きすぎであるように思われる。もちろん、その後の行政官僚組織としての教会による支配などによって、中長期的には根本的な変化を蒙ったのは確かだろうが、それでも、あまりキリスト教を強調しすぎるのは安易な説明であると見える。

(つづく)

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