アヴェスターにはこう書いている?
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陣野俊史 『フランス暴動 移民法とラップ・フランセ』

社会的貧困層の教育からのドロップアウト(もう中学高校をまともに続けられること自体が特権的になってしまっている厳しい現実もある。学級は崩壊し、このような郊外に住所を持つこと、そこの学校名を履歴書の学歴に書くことすら就職差別の対象となり、大量失業が常態化している)を見越して、効率の観点(早く労働市場に入れて不安定雇用で安く使う)から、義務教育年限を16歳から14歳への引き下げ(先進国では初めてか。今回の反乱中にドヴィルパン首相が正式発表した)まで計画して、負け組の若者の社会的排除を進めた。(p.43)

 エクエが言及している「2005年2月の法律」とは、植民地化の「よい面」を学校で教えるべきとの法律を指している。・・・(中略)・・・まったくどこの国の出来事かと耳を疑いたくなるような事態だが、ラ・リュムールのエクエが、暴動の根源として想定しているのが、この法律であることはもっと注目されていいだろう。2005年9月の新学期から、フランスの小学校では国歌「ラ・マルセイエーズ」が必修として教えられることになった事実も、併記しておきたい。(p.48-49)


これはフランスの現状についての若干の指摘だが、まさに日本の政治や社会が向かおうとしている方向性と一致しており、その一歩先を行っている感がある。フランスではル・ペンのFNが近年、勢力を増しているなど、あからさまに右傾化が進んでいるようだが、こうしたフランス社会が今後、どのような動向を見せるか注目していきたい。

フランスの暴動にアクセスしようとするなら、言葉なき民衆の言葉であるラップに耳を傾けるしか、私たちには方法はない。(p.68、強調は引用者)


こうした主張を目にして即座に念頭に置かれるのはサバルタン研究、それもスピヴァクである。ただ、それはさておき、日本の場合、こうした「言葉なき民衆の言葉」はどこで聞くことが出来るのだろうか?これは大きな問題であると思われる。

次は本書で引用されていた、あるラッパーの言葉である。

政治はビジネスだよ。候補者たちは、自分自身の未来のためにそこにいる。他人の未来のためじゃなくて。(p.108)



鋭い指摘だ。小泉純一郎、竹中平蔵をはじめとして、統一協会に祝電を送った安倍晋三などが即座に想起される。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

河辺一郎 『国連と日本』
本書は94年に出版された本なので、もう12年にもなるのだが、未だに有効な主張が満載である。

PKOが変貌をとげた92-93年には、安保理理事国という特別な地位にあった。常任理事国という制度化された地位にはなくとも、日本はそれを補って余りある力をもっている。
 この2年間安保理は、カンボジアへのPKOの設置、ソマリアへの、人道的理由に基づいて独立国の内政に介入するために初めて武力行使を認めた多国籍軍の派遣、その多国籍軍のPKOへの置き換えと武力行使容認、モザンビークへのPKO派遣、旧ユーゴスラビアのPKOへの武力行使容認など、国連の歴史を画する多くの決定を行っている。そして日本はそのすべての審議に関わり、賛成しているのである。巨大な力をもつこの国が何かをする、またはしないことの影響は大きい。
 世界最大の力をもつ米国の国連支配が問題であるならば、それを牽制できるのはまず第二の国だろう。逆にこの国が第一の国と結びつくと、他の国の発言力は大きく低下する。国連を問題にする場合、日本においてはまず日本政府の行動を論じなければならないそれを監視する責任は日本国民にあるのだから。
 ・・・(中略)・・・
国連が決定したから応じなければならないというが、その決定を国連で推進したのは他ならぬ日本だったのかもしれない。(p.~、強調は引用者)



こうした視点は国連や国際的な問題、さらには内政では憲法変更に関する議論がなされるときにもっと注目されるべきだ。河辺氏の見解に全く賛同する。

 国連中心主義とは、講和や安保条約改定など、戦後日本の進路をめぐって国民の意見が大きく分かれる問題において国民の目をそらすために提唱されたものに他ならず、実体化することはなかった。そしてこれが再び日の目を見るには、イラクのクウェート侵攻を契機にした自衛隊の海外派遣の理由づけとなるのを待たなければならなかった。提唱されたときと同じく、安全保障問題とくに軍事問題の根拠として再登場したのである。そしてここでも、国連や国連中心主義が実証的に議論されることはなかった。35年の年月をおいて、また同じ議論が繰り返されたといってもよい。国連中心主義は、政府が意図したように常にスローガンのままにとどまり、国民の目をそらすために使われ続けたのである。(p.64-65)



この文章は最近書かれたものではない。12年前の文章である。以上のような歴史的由来を持つ「国連中心主義」でさえ今では穏健な議論に聞こえてしまう。そんな言説空間にわれわれはいるらしい。何ということだ!

 日本の核軍縮姿勢を見て懸念を示す外の目と、その姿勢を知らずに議論する内の目には格差がある。日本人が日本の核武装を「いわれなき懸念」と考える原因である。しばしば内外の認識のずれ、パーセプション・ギャップが問題になるが、「溝がなかなか埋まらない」のは日本国民の思いと各国の懸念の間ではなく、政府と国民の間にあるのではないだろうか。(p.112)


この指摘も重要である。日本は「平和国家」とは言いがたいということが河辺氏の著作を読むとよくわかる。

イラク戦争などで、日本にいるわれわれから見ると、アメリカ政府にはかなり横暴なところがあると映る。これは日本に限らずだいたいどこの国の人でもそう思っている。ある意味、外から見た日本政府の行動というのも、アメリカと似たり寄ったりのところがあるように思われる。

アメリカの人々も最近でこそイラク戦争には反対という立場が大勢を占めているようだが、開戦後しばらくはそうではなかった。これは上の引用で言う「政府と国民の間」の溝がある状態だったからではなかろうか。現在の日本も似たような状態であるように思われる。それは次の一言で要約できるかもしれない。

 日本の姿勢は、不正義な状態を容認した上で、一国繁栄主義とでもいうべきものを露骨に追求してきていたのである。(p.183)


名取四郎 『地中海都市紀行 古代キリスト教美術を訪ねて』(その2)

イスラーム国家台頭に伴う古代世界終焉の激動の時代に、たとえばこの都市カストロン・メファーのキリスト教徒たちは、どのようにして、自分たちのコミュニティを守り続けたのだろう。ひとつの町にこれだけの数の教会堂、これだけ豪華な床装飾を創出しうるだけの財力を、彼らは、どのようにして獲得できたのか。(p.248)


現在のヨルダンの都市遺跡に6~8世紀の多数のキリスト教会の遺構がある。イスラーム勢力が台頭してきた時期にもキリスト教会やキリスト教徒は繁栄し続け、豊かな生活を送っていたようだ。

著者はこの事実に、ある種の驚きをもって接している。ただ、私からすると、これが驚くべきものに感じられるのは、ウマイヤ朝やイスラームの支配勢力を「イスラーム国家」として捉え、その「国家」を「近代主権国家」とある程度重ねて捉えているからではないか、と思ってしまう。

どういうことか?ウマイヤ朝は確かにムスリムが支配権を握る政府であったという点では「イスラーム国家」と呼んでもよいかもしれない。しかし、そのことは、ムスリムである支配層の支配下にある人々がムスリムであることを意味しない。むしろ、ウマイヤ朝の支配下にある人々の多くはキリスト教徒やユダヤ教徒など非ムスリムであったと想定してよいのではないか。

歴史的シリアやパレスチナに関しては、それほど詳しいことを私は知らないのだが、昨年行ってきたエジプトのカイロに関して言えば、上のような状況であった。すなわち、現在のカイロのイスラーム化が完了したとされるのは14世紀のことで、カイロにムスリムの勢力が侵入してから700年もたってからのことである。また、例えば、10-12世紀のファーティマ朝でもユダヤ教徒やキリスト教徒は政治経済分野で活躍していたことが知られている。(歴史的シリアの状況も少し調べれば既に研究があると思われる。)

確かに、支配層が専制的な権力をふるって支配層とは異なる宗教を弾圧することはしばしばあったにせよ、人々が属する政治的組織と宗教的組織とは必ずしも一致していたわけではない。このように、ある政治体に属する人に均質的な性質を見て取ろうとするところに「近代主権国家」のイデオロギーによる影響が垣間見えるように思われる。

残念ながら本家本元のビザンティン帝国の都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)には9世紀以前のキリスト教会堂モザイク壁画はほとんど残っていない。イスラーム勢力の拡張と期を同じくして起こったイコノクラスム(聖像破壊運動)のせいである。したがってウマイヤ朝モザイク壁画は後期古代の地中海美術に息づいていた古代ヘレニズム・ローマ絵画の伝統を知るための貴重な作品といえる。(p.281、強調は引用者)


言われてみれば、イスラーム勢力の拡張とイコノクラスムの同時性は注目に値する。これらの間には何らかの関連があるのではなかろうか?少なくとも、社会勢力の変動があったことを反映しているとは言えそうである。また、いずれも原点回帰的な動きや原理主義的な動きであると捉えることもできそうであり、社会変動があることとも適合的に見える。

なかなか興味深い論点だ。ビザンツ帝国に関してはそう遠くない未来に取り組もうと思っているので、本書からは一つのテーマを収穫できた。これには意味がある。

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名取四郎 『地中海都市紀行 古代キリスト教美術を訪ねて』

ミラノ司教アンブロシウス登場の背景には、帝国の政治的問題とキリスト教会側の諸問題とが絡み合った複雑な様相を呈していた。たとえばローマではキリスト教擁護側にまわった皇帝および皇族と、元老院貴族をはじめとする伝統的異教勢力との対立の構図が改めて明白となっていた。それに加えて、337年のコンスタンティヌス大帝歿後の帝位継承権をめぐる世俗の権力抗争は、キリスト教会のニカエア信条をめぐる正統論争と深く絡み合って複雑に展開してゆく。一例をあげると、355年にミラノで開催された宗教会議で、異端アレイオス主義擁護にまわった皇帝に対して、イタリア半島およびフランス各地の正統ニカエア信条派司教団が反発し、その結果としてローマ司教(教皇)リベリウスやミラノ司教ディオニュシウスといった正統派司教が追放された。宗教会議場もミラノ司教座教会から皇帝側の宮殿に移された。ここにみる闘争は、明らかに、キリスト教会の正統派論争であったと同時に、皇帝を長とする世俗権力と、司教を頭とするキリスト教会勢力との闘いでもあった。(p.74)


イデオロギー闘争というのは常に何らかの「権力」の闘争に関連している。ローマ帝国によるキリスト教公認や国教化の背景にあったイデオロギー闘争もそうしたものであった。

現在は新自由主義やナショナリズムというイデオロギーが支配的になっているが、激しい闘争状態が表面化していなくとも、強力なイデオロギーの背景には強力な権力構造のようなものがあると見てよい。ただ、必ずしも権力の主体を想定する必要はない。多くの人が、ここで誤りを犯してしまいがちであるように思われる。本書の内容からは離れてしまう上、長い説明が必要になりそうなので、とりあえず次に進もう。

皇族墓廟の可能性の高いサンタクイリーノ礼拝堂の生気溢れるモザイクには、いまだ、古代ヘレニズム・ローマ絵画の本流ともいうべき古典主義の伝統が根強く生きていた。他方、サン・ヴィットーレ礼拝堂モザイクには、司教アンブロシウスの性格描写に代表されるように古代ローマ絵画のもうひとつの底流たる簡潔で直截な様式が認められる。二作例を通して認められる表現上の極端な相違から、当時西ローマ世界の都であったミラノには、とくに宮廷を後ろ盾としたモザイク職人工房と、それ以外の主にキリスト教会相手の工房という、異なる芸術環境が存在したとみることも可能ではなかろうか。(p.89、強調は引用者)


芸術の様式にも上記の権力闘争は影を落としているのである。

それ以上に奇異に感じられるのは偶像崇拝を厳しく戒めるユダヤ教の会堂に、堂々と、太陽神ヘリオスや四季の女性擬人像、黄道十二宮といった古代ヘレニズム・ローマ美術の図像が登場することであろう。しかし後期古代の地中海世界の美術を広く眺めわたすと、本来異教美術のレパートリーに属するこうした図像がユダヤ教美術のみならずキリスト教美術でも使用されていたという現実が浮かび上がる。
・・・(中略)・・・
これらの図像も後期古代地中海世界において、伝統的なローマ異教美術やキリスト教美術、ユダヤ教美術、そしてイスラーム美術がそれぞれの宗教特有のスタンスを保ちながらも、古代ヘレニズム・ローマ美術という共通のひとつの源泉から汲み出し、分かち合っていたものであったといえる。(p.215-219)


こうした見方は本書の主要な主張でもあり、私も共感するところが多い。

ただ、「地中海世界」を基本的に一体的な、ひとつの「世界」として見る私の目から見れば、別に「奇異に感じ」られるようなことではない。逆に言えば、「ユダヤ教美術」とか「キリスト教美術」という切り方、概念的区分をしているから「奇異に感じられる」のであろう。さらに言えば、本書では最終的に「古代ヘレニズム・ローマ」というカテゴリーによって「後期古代」のユダヤ、キリスト、イスラームの美術の共通要素を捉えるのだが、こうした捉え方も「ヘレニズム」や「ローマ帝国」を特権化してしまう点で違和感を覚える。

ヘレニズムに限らず「古代ギリシア」の美術も地中海世界の一地方の美術に過ぎず、それなりの独自性や価値はあるにしても、これだけを特権化する必要はないからである。このあたりに関しては『黒いアテナ』などが参考になるかと思う。(←このブログの記事でなく、この本を読むと参考になる、という意味。)『黒いアテナ』のパラダイムから言えば、「古代ヘレニズム・ローマ」として地中海世界を括ることは「アーリア・モデル」の見方を、不用意に強く引きずってしまう、という感じである。

(つづく)

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フランソワーズ・ベック&エレーヌ・シュー 『ケルト文明とローマ帝国 ガリア戦記の舞台』
「3つのガリア」とナルボネンシスは、帝国内の位置づけだけでなく、文化的にも大きな違いがあった。「3つのガリア」よりも70年も前にローマに征服され、それ以前も地中海文明にたえず接してきたナルボネンシスは、ローマの慣習に適応してすでに久しかったからである。(p.21)

「3つのガリア」とは「長髪のガリア」と呼ばれていたガリア北部の地域で、ローマ帝国治下でルグドゥネンシス、アクイタニア、ベルギカの3州に分けられた。ナルボネンシスは、以前にはガリア・トランサルピナ(アルプスのかなたのガリア)と呼ばれていたが、紀元前27年にアウグストゥスによって改名された。

つまり、ガリアの北部と南部は文化的に大きな違いがあったということである。地中海世界とその外側の世界との違いとして私はこれを捉えている。


 輸出入の際、商品には価格の40分の1の税金がかけられたが、農産物や工芸品の売買を阻害することはなかったようである。ガリアは小麦でローマとローマ軍を養っていただけではなく、豚肉加工品やガチョウやワインでもローマの美食家たちを喜ばせていた。また、ブリタニア(イギリス)やゲルマニア(ドイツ)には、青銅やガラスの食器類、七宝をほどこしたフィグラ(ブローチ)が輸出された。しかしもっとも広く普及したのは、ガリアの南部や中部でつくられた印章模様のある陶器である。
 一方、ガリアには、建物を豪華に飾りたてるためにギリシアやアジアから美しい大理石が、金属加工を行うための材料としてスペインやブリタニアから鉛や錫が輸入された。また、ワイン好きの裕福なガロ=ローマ人は、遠くイタリアやギリシアから銘酒をとりよせていた。
 スペイン南部のバエティカからはオリーブ油が輸入され、ガリア全土ばかりではなくブリタニアまで広まっていった。ワインと同じくオリーブ油は、大きな利益を生む商品としてもてはやされていた。(p.99-100)

このリストは不完全ではあるが、ガリアは半周辺的な位置にあったと読める。つまり、ローマやオリエントのような地中海世界の地域に対しては劣位(食料供給地であり、大理石のような高価な原料を輸入せざるをえない立場)にあるが、ブリタニアやゲルマニアのようなアルプス以北の地域に対しては優位(原料を輸入して製品を輸出する)にある。イベリア半島との関係は本書の記述だけからはよくわからない。オリーブ油を輸入してさらに東へと流通させる中継点だったと見るべきか?

なお、本書が対象としている主な時代は紀元前1世紀後半から紀元後2世紀頃までである。

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朝日新聞経済部 『不安大国ニッポン 格差社会の現場から』(その2)
村上ファンドの事件があったので、関連する記事を引用しておく。

「まとまった株を取得したので、いまからうかがいたい」。本社[即席めんメーカーの大手、明星食品のこと、引用者注]に、元通産官僚で投資ファンドを運営するM&Aコンサルティングの村上世彰代表から、昨年7月中旬、突然、電話がかかった。
 ほどなく現れた村上代表は、「株主への利益還元が必要だ」とまくしたてた資本や資産が寝ている。メーカーが都心の一等地に本社を持っている必要はない。取引先との株の持ち合いをやめろ…。
 02年に社長になって以来、7工場を閉鎖、子会社を整理するなどの再建に取り組んできた。新製品の開発にも力を入れて内部留保も増えてきた矢先だった。
株価を支えているのは、リストラに耐え、それにもかかわらず従業員が一生懸命頑張ってきたから。頑張った人が報われるのは悪いことではない。だが1ヶ月そこら前に、博打のような感覚で株を買った株主に、株主利益を尊重しろといわれても……」と、永野社長は納得できなかったが、結局、04年9月期決算は減益にもかかわらず、増配を決めた。
 果実を手にした村上ファンドは、株主総会直前の12月中旬、保有株をすべて売り、あっさりと去っていった。5ヶ月間で配当だけで5000万以上、さらに多額の売却益を得た計算だ。
 その後、永野社長が村上ファンドの消息を聞いたのは、ライブドアのニッポン放送買収劇の陰で、保有株をライブドアに売り、巨額の利益をあげたという時だった。
(p.100-101、強調は引用者)



経済のマネーゲーム化が進むとこうしたことがもっと日常的になってくる。こんなことが常態化した社会に未来があるだろうか?


関連記事
村上世彰が嫌われる理由
朝日新聞経済部 『不安大国ニッポン 格差社会の現場から』

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大塚英志 『「伝統」とは何か』

 そもそも、木村敏が「貰い子妄想」が日本固有であると仮定する前提として、「日本固有の家制度」があることをあげていることにぼくは疑問である、とすでに記した。というのは、たとえば今日の「夫婦別姓」をめぐる論議などで持ち出される「日本の伝統としての家制度」が、実は近代に新たに作られたものであることは、初歩的な歴史学の書物で容易に知ることができるからである。
 たとえば18世紀から19世紀にかけての江戸時代後半において、武家社会では全相続の四割が養子によるものであったという研究があるほど、「家督の相続」と「血縁」は一致しなかった。「家」を継ぐ条件は「血統」が唯一ではなかったのである。
 また一方では、「姉家督」と呼ばれる女性による家継承は豪商や豪農の間で広く行われていたし、末子相続という末っ子による家継承などを含め、武家以外の社会では、ぼくたちが近代の「家制度」から連想する「長男が戸主として家を継承する制度」とは全く違うかたちの家族習慣が存在していたのである。
 ところが、明治政府がドイツ民法をモデルに導入した、「戸主」によって「家」を代表させ、さらに「万世一系」の「天皇」という国家の「戸主」を根拠づけるため、「戸籍」に血統性を導入した結果として、ぼくたちが、今、なんとなく信じている「日本の伝統としての家制度」が出来上がったのである。(p.41、強調は引用者)


本書はこうした「なんとなく信じられている」信念が政治的に作られてきたものであることを具体的に示そうとする。大塚氏自身も言っているように、こうしたスタンスは全く珍しいものではない。しかし、まだ十分に広まっているとは思えないので、一つの事例として引用しておく。

 時代劇などでしばしば登場する「生類憐みの令」を、犬を人間以上に大切に扱えという奇妙な法律と思い込んでいる人は少なからずいるはずだ。
 しかし、1687(貞享4)年に出されたいわゆる「生類憐みの令」の第一条には実はこうある。
 ・・・(条文は漢文なので略)・・・
 つまり、捨て子があっても届けるには及ばない、拾った者が自分で養うか、誰かに養育を頼めという、拾った者の責任を強調するものだ。「犬」や、それから犬以上に実はこの法令で「憐れみ」の対象となった「馬」、そして行きだおれの人々をいずれも捨てたりせずにちゃんと養えとするのが「生類憐みの令」であり、「生類」のところに「犬」と「馬」と人間の赤子が入っているところに当時の子供観が実は見てとれる。
・・・(中略)・・・
 江戸時代の文芸を少し気をつけて読んでいくと、困惑するのは捨て子に対する淡白ともいえる感情だ。(p.64-65)


これは雑学的な知識としても使えるような箇所であろう。私見ではこのあたりの着想はフィリップ・アリエスの議論と並行している。恐らく(間接的に?)影響を受けているものと見られる。(というか、こうした議論をしようとする人がアリエスの作品を知らないとは思えない。)

アリエスの『<子供>の誕生』における議論というのは、主にフランスの話なのだが、上と同じように17世紀以前くらいまでの社会では(現代では)「子供」(とされる年齢の人間)に対する考え方、感じ方が異なっていたというものである。とりわけ、乳幼児に関しては死亡率が高かったこともあり、かなり(現代では考えられないほど)淡白な扱いであったとされている。

「歴史」教育で何を教えるべきかといえば、「歴史」をめぐる様々な記述や発言を生徒たち一人一人が批判的に読みとっていくための「歴史の批評的な読み方」であるべきだ、とぼくは思う。(p.203)



同感である。しかし、(上の引用文は教科書問題への言及の中で出てきているのだが)実際の学校教育の場でこの考えを実践するのは簡単ではなかろうとも思う。

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