アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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アンヌ・ディステル 『ルノワール 生命の賛歌』

この愛好家たちのサークルのほかに、ルノワールは画商デュラン=リュエルの支援も受けていた。こうして新たに生活のゆとりが得られると、ルノワールは当面売れる当てのないような大作の制作や旅行の計画を立てられるようになった。(p.73-74、強調は引用者)


この時期の大作として、1880~81年に制作された『舟遊びをする人々の昼食』がある。恐らくこの絵を描いているときにルノワールはある手紙に次のように書いている。

「昔から描きたくてうずうずしていた舟遊びの人々の絵を描いています。(略)完成させられるかわかりませんが、ドゥードンに相談すると、出費がかさんだ上に絵を完成させられなくても、私の言い分は認めるといってくれました。その言い分というのはつまり、これがひとつの前進だということです。画家は時には実力以上のことを試さなければならないのです」(p.75-80、強調は引用者)


冒頭に引いた著者の言葉と、次に引用したルノワールの言葉は、まさに「チャレンジ」が可能になるのはいかなる条件においてか、ということを明瞭に示している。

つまり、挑戦や冒険というものは(すべてとは言わないまでも)多くの場合、経済的・社会的に相応の安定的な基盤があり、安心感を持てる状態になったときにこそ可能となる、ということである。

上記のルノワールの場合で言えば、初期の頃は印象派の画家が皆そうだったように、少数の支持者だけが彼らを物心両面で支持する状態からスタートした。ある程度の人数の支持者と彼らとの信頼関係が出来たことによって、ルノワールは新しい画風に挑戦(チャレンジ)することができたのである。逆に言えば、こうした経済的および社会的基盤がなければ、ルノワールは恐らく冒険することはできず、新しい画風を切り開くことはなかったのではなかろうか。

ここではたまたまルノワールの例を引いたが、これは特殊な事例ではない歴史や実社会を見ると、基本的な構図はこれと同じなのである。

私が昔から良く使う例で言えば、哲学者としてその名を知らない人はいないであろうイマヌエル・カント(1724-1804)についても、これは当てはまる。カントは、彼の最も有名で、また最も野心的な試み(コペルニクス的転回)を行った著書である『純粋理性批判』を書くのに10年以上の歳月を費やしている。その間、論文の発表はしていない。そうした環境がなければ、あの本はできなかった。これも同様の安定した「社会的セーフティネット」があればこそ可能だったのである。今なら10年も論文を書かなければ学者はクビだろう。(まぁ、この辺は現代の学者と当時の学者を全く同じものとして比べるわけにはいかないのだが。)

こうした例をいろいろと見ていくと、新自由主義の政策を推進・擁護(=安定的な社会的セーフティネットを破壊)しながら、同時に口先だけの「再チャレンジ」を言うような人間(安倍晋三)がいかに信用できないか、ということがこうした観点を持っていると分かると思う。

新自由主義では一般にこの問題に対して「モラルハザード」という(一見もっともらしい)言葉を持ち出して「社会的・経済的に安定した基盤があると努力しない」という理屈が説かれる。私に言わせれば、屁理屈とはこのことを言う。これは「人間を働かせるには強制するしかない」という考えである。(こんなものによる動機づけは、せいぜい短期的で一時的な起爆剤として使えることがあるだけで、持続するものではない。人間は「生まれながらの奴隷」なんかではないのだから。)

しかし、ちょっと考えてみて欲しい。むしろ、強制されて働いているとき、働かざるを得ないから働いているときほど、「新しいことに挑戦しよう」とか「『自分はこのためにやっている』という充実感」を得ることは少ないはずだ。日頃の自分たちの経験に照らせばそうじゃないの?

こういうときには知恵は出てこない。どうやってサボろうか、どうやって楽をしようか、どうやってこの強制から逃れようか、と思うのが関の山ではないか?

むしろ、自発的に、どこからも強制力を感じないで、「自然に」取り組んでいるときにこそ「力」は湧き出てくる。そして、そうした場合を後から振り返ってみれば、自分の自発性を促し、強制力を感じないで済んでいるのは、よく考えれば、いつも何らかの安定的な土台や安心感がある(不安がない/過度でない)ことに気づくはずだ。

なお、この問題についての理論的な考察としては、金子勝『セーフティネットの政治経済学』(ちくま新書、1999)が入門書としてまとまっている。同時期に書かれた『反グローバリズム』はこれと対をなす作品であり一読する価値がある。彼の「社会的セーフティネット」の思想をさらに深く掘り下げるならば、思考のフロンティアシリーズの『市場』で展開されている「弱い個人の仮定」という考え方は非常に参考になる。

なお、ここで金子勝を推しているのは、この問題について現在の日本で一番分かりやすく、かつ、(最低限の社会科学的素養があれば)誰でも読める文章で書いているからである。

最後に、本書からルノワールが言ったという名言を一言引用しておこう。

私にとって絵とは、好ましく、楽しく、きれいなもの・・・そう、きれなものでなければいけないんだ!
 人生には不愉快なことがたくさんある。だからこれ以上、不愉快なものをつくる必要なんかないんだ。(p.149、強調は引用者)


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香山リカ 『テレビの罠――コイズミ現象を読みとく』(その2)

多くの人は、「セレブ」と自分とのあいだには、もはや自助努力ではどうにもならないほどの格差があることを実感しているからこそ、やっかむことも反発を覚えることもやめてしまったのだ。
・・・(中略)・・・
彼らが欲しかったのは、「セレブ候補」たちが与えてくれる「ほら、私を肯定すれば、あなたも私たちと同じ勝ち組の一員ですよ」という錯覚や幻想だったのだ。
・・・(中略)・・・
 いくら「セレブ」を間近で見たからといって、ローンも残っている小さなマンションに住み、明日の失業や倒産の不安に怯える自分たちの日常に変化が生まれるわけではない。しかし、たとえ一瞬でも、“セレブオーラ”を浴びて、「私だって本当は勝ち組よ」という幻想に浸らなければ毎日を乗り切っていけないほど格差が広がり、“格下”にいる人たちは逼迫した状況にあることを、「セレブ候補の躍進」は示しているのではないだろうか。(p.55-56)


「格差」というより「格差感」の増大が、こうした心理をある程度もたらしたのは確かだろう。その意味ではこの主張は妥当である。

しかし、昨年の選挙における自民党の大勝は、「セレブ」自身以上に「小泉純一郎」との一体化願望が強かったのではないか。もしそうであれば、小泉が首相から退陣した後には、多少の情勢変化が起こることはありうる。

つまり、基本的な傾向としてはこうした方向になってしまっているのは確かだと思うが、セレブ支持はそれほど確固としたものではないため、事態の流動性を考慮して戦略を練る余地がある、というのが私見。

「好ましいイメージ」の小泉首相に対して、マスコミがそれ以上、踏み込んだ報道をしようとしなかったのも、今回の選挙の特徴だった。藤田はその例として、靖国参拝問題などの質問に「適切に対処します」と“答えにならない答え”を繰り返す首相に、記者団から次の質問が出る気配がないことをあげている。
 どうして、記者団は首相に厳しく突っ込まないのか。・・・(中略)・・・
 報道の中立性を保とうとすればするほど、それは批判精神から遠いものとなり、結果的に自民党が吐き出す大量の情報――「郵政民営化」「激戦区」「刺客」「くの一」など――をそのまま伝えるだけになってしまった。マスコミが目指した“客観的”が結果としては小泉自民党にとっての“主観的”であっただけであり、マスコミが最初から意図的に自民党の片棒をかつごうとしたわけではない、というのだ。
 つまり、「マスコミ操作は意識的だったか、無意識的だったか」という先ほどの問いに照らし合わせて考えると、小泉首相や自民党は十分に意識的であり、無意識的であったのはむしろマスコミ側だったということになる。(p.72-73、強調は引用者)


これはマスコミの現場の人間にとってはジレンマとなる状況だろう。

 2005年2月に、地方を中心に「郵政民営化ってそうだったんだ通信」という折込チラシが1500万部配布されたのだが、その制作発注先のスリード社というのが、竹中大臣の親しい知人が経営する社員わずか2名の小さな会社だったことがわかったのだ。
 ・・・(中略)・・・
 その企画書は、今も中村てつじ前衆議院議員のホームページで公開されている。「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略(案)」というA4版15ページほどの書類だ。国会の委員会では、竹中大臣がフライヤー作成にあたり知人の会社に便宜を計らい、そのキックバックを受け取ったのではないか、ということがもっぱら論議の焦点となったが、実は本質的な問題はこの企画書の内容のほうにある。(p.98、リンクは引用者)


竹中平蔵ってのは、本当にチンケな男だな。毎年1月1日には外国に住んでいることにして、わざわざ住民票を外国に移して住民税を脱税したりしていたこととも通じるチンケさ。これは竹中の考え方である新自由主義にも実は通じている。この理論では、目先の利益を追求し、長期的な視野を持たないのが市場原理に則って動くプレイヤーとして想定されているが、その近視眼ぶりと同じなのだ。いうなれば、人間性が思想に現れているのだろう。

選挙戦でも最初から、「むずかしいことはよくわからないが、とにかくテレビはよく見て小泉首相にも好感を持っている人たち」が、ターゲットにされていたとしてもおかしくない。(p.100)


来年の参院選は特に自民党がこのあたりについてどう出るか、要注意だ。マスメディアの関係者がこのあたりに対してある程度自覚的に対処してくれることを望みたいものである。

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香山リカ 『テレビの罠――コイズミ現象を読みとく』
本書はテレビでおなじみの精神科医・香山リカのメディア論である。「小泉劇場」などと言われた、2005年9月11日の衆院選で自民党圧勝という事態に至った「現代日本の政治状況」をマスメディア、特にテレビの果たした役割に着目して分析している。

本書の主張の核心は、私見では次の点にある。

テレビの番組作成者たちが「視聴者のために」という良心的な動機に基づいて番組を作ろうとすればするほど、それが結果的に時の権力者たちを喜ばすものとイコールになってしまう。というのは、現代は固定的な「権力対大衆」の構図は消失しており、「視聴者」は、ある時には「権力を批判する側」であるが、しかし、またある時には「権力」と一体化しているからである。

ここでポイントとなるのは、どこにも諸悪の根源たる「主体」がないが、社会システムとしては翼賛的に作動して(しまって)いる、ということである。そこにこそ、この問題の解決の難しさがある。

本書では、その十分な解決策は示されていないように思う。しかし、マスメディアが上記のようなあり方に対して自覚的になり「人々が見たいもの」を追うのではなく(かつてのアメリカや現代でも韓国にそうした人々がいた/いるように)「真実を語るのがテレビの役割であり、それがひいては人々や国のためになる」と信じるテレビマン(p.204)がメディアのあり方を変えていくことが期待されているように思う。

(私には、この期待は「大衆が変わるべきだ」とか「権力者が変わるべきだ」と期待するのと比べれば、可能性があるように思われる。金子勝の言葉を借りれば「強い個人の仮定」である度合いが低いから。政治家や大衆よりはテレビマンは知的水準も相対的に高く、批判的であることを役割上、求められもするのだから。)

いずれにせよ、特定の「主体」がない状況で、社会システムの作動の連鎖の結果として「小泉劇場」を現出させたという見方は、私としては非常に参考になった。

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謝新發 『故宮・ガイド 中国五千年の美の殿堂』

 かたちそのものは単純化されています。芸術の上での造形に、人為的な模倣をみせているのが、殷商時代の石彫りをとおしてみられますね。すなわち、自然をそのまま写実的にでなく、あらたに創作するのが、殷商時代の特色であるといえます。
 文化の目をもってして大自然を眺め、そのあと、あらたなる造形を創作する理念は、ずっとのちの中国の芸術に影響しました。すなわち、大自然とは似ていないが、全然、似ていないともいえない、という中庸の美学、そのような世界をきり拓きました。(p.44-45、強調は引用者)


この見方は中国美術を見る際の一つの手がかりを与えてくれるかもしれない。来月、台北の故宮に行く予定だが、こうした視点でも見てみようと思う。

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朝日新聞経済部 『不安大国ニッポン 格差社会の現場から』

日本は今や、世界の主要国でも所得格差が大きい国の一つになってしまった。
 それを示すデータもある。
 経済協力開発機構(OECD)によると、その国の平均的な世帯所得の半分以下しかない人の比率を示す「貧困率」(00年)は日本が15.3%。OECD諸国平均の10.2%を大きく上回り、5%前後にとどまるデンマークやスウェーデンなど北欧諸国と比べれば、3倍にのぼっている。
 ・・・(中略)・・・「経済活力を引き出すため」との理由で相続税や所得税の最高税率を大幅に引き下げるなど、政府がどちらかと言えば金持ち優遇の政策を進めてきたことも要因になっている。(p.21-22)

 日本は1400兆円の個人金融資産がある、世界で最も豊かな国の一つだ。そのすそ野でいま、貧困が広がっている。日本経済研究センターの白石小百合研究員らの調査によると、ほぼ5世帯に1世帯が貯蓄50万円未満で「無貯蓄」に近い状態に陥っている。
 個人金融資産を単純平均すれば、一人当たりの蓄えは、お年寄りから赤ちゃんまでを含めても1千万円を超す計算になる。ところが金融資産という「富」の分布は、所得の分布以上に富裕層に偏っている。白石さんらの試算では、日本の個人金融資産の半分、700兆円が上位1割の富裕世帯に集中し、その他9割の世帯で残りの半分を分け合うという構造になっていた。単純平均ではじいた「みせかけの豊かさ」では見えてこない深い亀裂が横たわっている。
 こうした富の偏在はこの10年前後で加速し、「無貯蓄」層の増加へとつながった。・・・(中略)・・・
 その懸念が現実の問題になっていることを示しているのが生活保護世帯の急増だ。・・・(中略)・・・
 全国の受給世帯の1割余りが暮らす東京都のまとめでは、この10年で、保護開始の理由が様変わりした。90年代前半に8割余りを占めていた「傷病」が約6割に減り、代わりに5%ほどだった「失業や収入減」が2割近くへと膨らんだ。受給者の年齢も、ひとり暮らしの高齢者の増加に伴い60歳以上の世帯が倍増するとともに、20~30代の若年世代の受給者が2.4倍に達した。(p.29-31)


若年層の生活保護世帯の増加は、単に所得や資産の格差だけでなく、就業機会の不平等という「機会の不平等」が増大したことを示していると思われ、興味深い。

「格差」を是認・容認する人は、大抵、現実に機会が平等であると前提するか、あるいは機会が平等でなくてもこれから平等にしていけば良いと考えて、現状を無視する傾向があるが、この現実をしっかり見据えた上で、どのように対応すべきか具体的な案がない限り、所得格差などを容認する議論をすべきではない。というのは、それはほとんど誰も望まないであろう帰結へと「現実」を誘導してしまう議論だからである。

「起業ブーム」とも言われる。だが実際には、30~40代の働き盛り世代の開業は減少傾向にある。35~44歳の自営業者の数は約80万人で、20年前の半分以下に落ち込んだ。デフレ経済下で事業リスクが高まったことが原因と見られている。(p.152)


この自営業者数の減少は、20年前には団塊の世代がこの世代に含まれたために母集団が大きいという面はあるが、2倍の差はないので減少傾向にあることは事実である。

このほか、世界最小歯車を作る中小企業社長、松浦元男氏へのインタビューは印象的なフレーズに満ちている(p.156-159)。

特に共感を覚えるのは「人の真価を理解するには1~2年かかる」という見方である。この言葉は、面接をせず、先着順で社員を採用するということへの答えだが、それだけでなく、短期的な「実績」によって業績を評価しようとする成果主義や能力主義のような考え方の誤りとも関連している。

だから、松浦氏が社員の査定もやめ、賃金は完全な年功序列制、昇給その他を平等にしたことは正しい。定年がないというのも面白い。

いずれにせよ、現在の日本で社会に流布している言説は余りに視野が短期的なものに縛り付けられすぎている。松浦氏のような長期的な視野に立ってものごとを考える必要がある

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M.バナール 『黒いアテナ 古典文明のアフロ・アジア的ルーツ Ⅱ 考古学と文書にみる証拠』

ホメーロスはふつう「ヨーロッパ、西洋文学の父」とされている詩人だ。しかし、ホメーロスが生きていたころ、私たちが考える「ヨーロッパ、西洋」は存在したのか。「ヨーロッパ、西洋」はただの土地の名ではない。ヨーロッパ文明、西洋文明あっての「ヨーロッパ、西洋」だ。ホメーロスが生きた紀元前8世紀に、その名の文明があっただろうか。当時の「ヨーロッパ、西洋」はただの黒い樹林のひろがりの土地としてあっただけのことではないのか。
 同じことは、時代はもう少しあとのことになるが、「(西洋)哲学の始祖」ソクラテス、「(西洋)歴史の父」ヘロドトス、「(西洋)医学の開祖」ヒポクラテスにも言える。彼らが生きた時代には、「ヨーロッパ、西洋」はいぜんとしてただ黒い樹林のひろがりとしてあった土地で、その名の文明があったわけではない。(p.33)



これは本書の著者バナールではなく、本書を解説している小田実氏の言葉である。

歴史観におけるヨーロッパ中心主義を批判してきた私の問題意識と通底している。本書の批判対象である「アーリア・モデル」も同じカテゴリーに入るものだが、より人種主義的な側面を中心に批判の対象としている点が「アメリカ的」である。(アメリカでは社会状況としてレイシズムが問題化しやすいため、こうした側面からの議論が日本よりも多くなされている。)

小田氏の報告で面白かったことをもう一つ引用する。99年のコソボ空爆の際のことである。(引用文中の「卍」は本当は逆向きなのだが、うまく表示されない。)

アテネの目抜きの大通りには、「USA」の「S」を「卍」に替えて「U卍A」と大書した壁の落書きをいくつも見かけた。(p.37)



さて、では、いつものごとく、本書の中で興味を惹かれた箇所の幾つかをピックアップして記録しておこう。

「枢軸時代」説の隠れた意図はギリシアの事例で露呈する。「枢軸時代」説は、ギリシア人が、したがってヨーロッパ人が、文明世界の始まりにいたという説である。(p.104)


これはなかなか興味深い指摘である。枢軸時代説はアーリア・モデルに立脚しているというわけである。これには基本的に賛成できそうである。

ただ、枢軸時代説を世界システム論的な視点から読みかえれば、その時代に「大陸規模の世界システム」が存在していたことを示すことができると思われ、その意味では発見的なモデルとしても利用可能だと思われる。実際、本書を読む前の私にとっての枢軸時代説はそうしたものであった。

しかし、私のように読み替える際にも、バナールの指摘を十分意識しておくことは極めて重要であることに変りはない。私の読み替えはヤスパースの枢軸時代説そのものを支持するものではなく、全く別のものへの変換だから。

本書は邦訳で1,000ページを越える大著であり、しかも非常に興味深い論点に満ちている。それを逐一書き出していくことはできないので、特段興味深い論点について次の機会にメモしておくことにする。

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古田真一、山名伸生、木島史雄 『中国の美術 見かた・考えかた』

考えてみれば、一般人が名家の自筆絵画を手軽にみることができるようになったのは、美術館という装置が普及してからのことで、さして古いことではない。絵画を見るためには、それを所有することが必要条件であった時代、絵画を「見る」ことは、現今のそれと同じ行為であったといえるであろうか?絵を描くことは、現在とどのように性格を異にしていたであろうか?また絵画にもっとも強く求められた働きは、何であったのか?(p.163)


いわゆる「西洋美術史」などでも「美術品」はもともと美術館にあったのではなくて、例えば教会の壁面についていたり、他のものとペアになって飾られていたものが、全くそうした本来の文脈と切り離されて展示されてしまうことに対する批判がなされる。

ここで言われていることも文脈の相違を考慮するという点ではほぼ同じなのだが、社会的文脈である点で、通俗的な美術館批判よりもさらに一歩、論を進めている。

科学史家・村上陽一郎の『科学史の逆遠近法』のように、認識しようとする時代に生きていた人たちの視点から発想することが歴史認識においては極めて重要である。

最近20年ほどの間にこうした認識は歴史に対してある程度学問的な関心を持ってきた人にとっては常識になっているのではないかと思う。しかし、近年、政治的な問題と歴史認識の問題が結び付けられることが多くなったが、その際には往々にして現在の権力闘争における利害関係の道具として歴史が利用されがちであるように思われる。そのような「歴史認識」は常に「現在から見た歴史」でしかありえず、せいぜい良くても「現在に通じるものとしての歴史」しか見えない。最悪の場合は、現在の権力闘争に都合のよい歴史観が捏造される。

ある時代のある場所の歴史が語られる場合、その歴史認識がどれだけ「その過去の時代の世界から見たものを示せているか」ということに着目すべきだろう。その意味で、ほぼすべての政治家が口から発する歴史認識は疑わしいと思われる。


 さて、再び、「藝術とはなにか」にもどって考えてみよう。
 ・・・(中略)・・・中国には、「詩文書画」あるいは「詩書画三絶」という言葉がある。・・・(中略)・・・「藝術」が「儒教的強要を身につけた人物」のものであるという意識の浸透が、この「詩書画」という三つの能力を結びつけることになったのである。
 ・・・(中略)・・・つまり、「絵はうまいが詩は作れない」人物は、「職人」であって、かれらが望んだ人物像ではない。・・・(中略)・・・
 つまり、中国においては、「絵画か藝術か」といったかたちでの問いは意味をなさない。あくまでもそこにあるのは「藝術家」だけなのである。したがって、「藝術とはなにか」という問いにたいしても、「藝術」という概念だけを「人間から切り離して」考えることをしなかった、あるいはする必要がなかった、という答えに帰着することになるのである。(p.169、強調は引用者)


これを読んだとき、ブルーノ・ラトゥール『科学が作られているとき』を想起した。こうした分野を抽象した思考ではなく、具体的な人の行為を追うことによって、ラトゥールは科学の営みを極めて巧みに描き出した。中国の芸術に対する考え方も実はそれと同じような「健全さ」を持っていたらしいということを知ったのは驚きだった。

純粋に美を追求したり、ただひたすらに自己表現を求める「芸術・美術」というものは、概ね18世紀頃の西欧(フランスの啓蒙思想)で確立・普及したのだろうと私は考えている。その意味で、こうした見方の方が特殊で、時間的にも空間的にも「ローカルな」ものであるという認識は私も以前から持っていた。この本の著者の上のような見解も「中国の芸術観」として一括してしまうことには疑問は呈したいが、それでも「美のイデア」や「芸術とは何か」といった本質主義的な発想から免れる発想が「中国」にはあり、それが河本英夫のオートポイエーシスにおける「作動」に近いところに着目しているらしいことは大変興味深いものがある。

本質主義的な「壁」をすり抜けて物事を適切に認識するには、「作動」のようなものを捉えるのが極めて有効なやり方だということについての確信を深めた。目下の課題は、それをどうやって自分のやり方として確立するか、である。

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