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エリック・ウィリアムズ 『資本主義と奴隷制』(その2)

 18世紀のある文筆家は、1783年から1793年までの間にリバプールの船878隻で運ばれた30万3737人の奴隷の価値をポンドに換算すると、1500万ポンド以上になると見積もっている。・・・(中略)・・・
 このような利潤も、オランダ東インド会社が上げた利潤と比べれば取るに足らないもののように思われる。同社はその歴史の中で、何度か5000パーセントという信じがたい利益率を記録している。奴隷貿易の利潤はイギリス東インド会社の上げた利益と比べても小さいものだったかもしれない。しかし、奴隷貿易はこれらの貿易よりもはるかに重要な意味をもっていた。それは重商主義の立場から見るとインド貿易が悪い貿易であったということを考えれば説明がつく。インド貿易は不必要な製品を買うためにイギリスから金銀を流出させる。そのため、当時の人々の多くが「喜望峰を通ってインドへ向かう航路が発見されなかったほうが、キリスト教世界にとっては幸せだった」と考えたのだった。それとは逆に奴隷貿易は理想的だった。それはイギリスの製品によって行われていたし、イギリス領植民地との間で行われている限りプランテーション貿易と密接に結びついていた。そのため、イギリスは他国人に頼ることなくプランテーションから熱帯の産物を手に入れることができた。さらに、オランダの香辛料貿易は高値を維持するために生産を厳しく制限しなければならなかったのに対し、奴隷貿易はイギリス本国には工業を、植民地には熱帯農業をつくり出したのだった。(p.71-73、強調は引用者)



重商主義者たちは熱心だった。彼らは航海を奨励したので、三角貿易や関連する砂糖を産出する島々との交易は本国の錫や石炭鉱山よりも価値があった。これらは理想的な植民地だった。植民地がなければ、イギリスは金や銀を得ることはできなかった。(p.96、強調は引用者)



イングランドでは禁止されていたインド製織物はすぐにアフリカ市場で専売を確立した。・・・(中略)・・・しかしイングランドの染色工程の後進性のため、マンチェスターでは海岸部で人気のあった色褪せのない赤、緑、黄色を作り出すことができなかった。マンチェスターではこれらインド製綿織物の色を模倣することができないことがわかった。ノルマンディーにあるフランス綿製品製造業者も、この東洋の秘密を学ぶことにおいては同様に成功しなかったということを示す証拠がある。(p.113-114、強調は引用者)



 17世紀と18世紀、原料は主として二ヶ所、レバント地方と西インド諸島からイングランドにもたらされた。奴隷海岸ではマンチェスターと競合するインドがあまりにも手ごわいことがわかり、国内市場さえもインド製商品で身動きできなくなるおそれがあった。しかし18世紀にインドからイングランドへの輸入品に対し法外な関税がかけられたおかげで、この競争相手は効果的に打ち砕かれた。これによって、綿花の母国が19世紀と20世紀にランカシャーの主要な市場となる第一歩が踏み出された。18世紀、この方策はマンチェスターに国内市場への独占を与え、民間のインド貿易商はランカシャーの工場用に綿花を輸入するようになった。(p.117、強調は引用者)



以上から次のように読める。

◆イギリスの金銀はインドに流出していた。
◆その金銀はアメリカの植民地から得ていた。
◆イギリスはインドの綿織物工業に技術的に太刀打ちできなかったのでインドに対して保護主義を採ることでインドとの力関係を縮め、逆転することが可能になった。

時間がないので今日はこの辺にしておく。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

エリック・ウィリアムズ 『資本主義と奴隷制』
奴隷制について

17世紀のヨーロッパは(オランダを除けば)全般的に不況であり、労働力過剰の状態であった。それが外部世界への移住を促した。アメリカ植民地の労働力は、はじめは黒人奴隷ではなく白人移住者だった。アメリカ植民地では土地が余っており、人手不足だったので、どんどん人が流れ込んだ。砂糖、タバコ、綿花はプランテーションで栽培するのが効率的であり、プランテーションは大量の人手を必要とした。黒人奴隷は安価な労働力として導入され、それがイギリス本国にとって経済的に有益である限り支持され、経済的に「お荷物」になったことによって奴隷制は廃止に至った。(人道的な理由によるものではない。)

三角貿易、インド貿易、「産業革命」の関係について

ウィリアムズは三角貿易、奴隷貿易をインド貿易より重要だったとする。アメリカ独立後、西インド諸島の砂糖植民地は急速に衰退し、イギリスはそれに代わってインドに力を入れ始めたとする。このあたりの関係にはやや疑問がある。

ただ、インドは経済的に極めて強かったので、先にアメリカから搾取して力をつけてからでなければ、イギリスは本格的には乗り込めなかっただろうから、初期には三角貿易で力をつける方に重点があり、そのように力をつけた後、インドとの公益を本格化できるようになったとするならば、こうしたシフトを強調する見方も妥当であろう。

どういうことか?以下で私見を述べる。

イギリスとインドとの交易は三角貿易と並行して発展してきており、特に初期の頃は、インドとの交易を可能にする(インドに支払うための)金銀を供給したのが、アメリカ植民地を含む三角貿易だった。そして、三角貿易とインド交易における独占と保護主義の政策によって、イギリスでは産業が飛躍的に興隆し、それが「産業革命」へと繋がった。

(この三角貿易と「産業革命」との関係についてはウィリアムズの見解は支持しうる。ただ、「産業革命」なる概念自体を私は認めないので、その点には留保がある。俗に「産業革命」と言われているものは、産業の質的転換があったのではなく、世界システム内での位置が飛躍的に上昇したということの表現に過ぎない。)

しかし、本書に書かれているように、18世紀を通じて砂糖精製業以外の産業が急速に発達し、それが砂糖精製業や西インド諸島の砂糖プランターたちの利害と相反するようになっていった。こうして18世紀末には次第に重商主義からレッセフェールへの動きが出てきた(p.163-166)。保護主義を採用することでイギリスへの輸入が制限されるため、イギリスが輸出したいものがあっても相手国が買えない(買ってくれない?)という支障が出たのである。それが奴隷貿易や奴隷制の廃止という結果をも伴った。

こうして自由貿易が有利である状態にまで高まったイギリスの経済力があってこそ、インドとの交易も本格化しえたのではないか。

つまり、三角貿易による金銀の流入がイギリスにインドとの交易を可能にし、同時に、三角貿易はイギリスの産業の力を向上させた。(ちなみに、インドや中国の優れた技術も見本にできた。)次第にアメリカ植民地は「お荷物」になっていき――奴隷制と奴隷貿易の廃止はこの文脈の中に位置する――代わりに本命であるインド交易と取り組むことができるようになった。(もちろん、イギリスがさらにその先に目指すものがあるとすれば、中国との交易だっただろう。)

私はこのように見ており、本書はその一部をかなり的確に捉えていると思われた。つまり、単純化すれば「三角貿易→産業革命→インド交易」という関係である。

細部についてのコメントは改めて述べることにする。

テーマ:歴史全般 - ジャンル:本・雑誌

高橋伸夫 『できる社員は「やり過ごす」』
本書の概要等はウェブサイトに掲載した。

◆高橋伸夫は「見通し」ということを非常に重視しており、それが仕事の満足度や退出願望などと深く関わっていることを示している。

その「退出の意思決定」は単に「会社を辞める」離職を含むだけでなく、欠勤やサボリなども含まれるとする。ということは、非常に適用範囲が広いということだ。

◆また、本書で紹介されていたバーナードの経営観も興味深いものだった。「経営する」とは「現存する組織を管理する」のではなく「これから『組織』を成立・存続させる」という見方。これはオートポイエーシスにも通じるものがあり、興味深い。

◆次の点も近年は「改革」などの名の下で忘れられがちであると思う。それをはっきり言ってくれているのは非常に良いことだと思う。

システムやルーチンはやっかいなお荷物などではなく、むしろ諸先輩の努力の結果確立した大いなる遺産である。それこそが競争力の源泉にちがいなかった。(p.193)


やたらと「変わること」や「変えること」それ自体を良いことだと勘違いする人たちがしばしばいるが、日常的に持続しているものの力や意味を侮ってはいけない。こうした過去を引き継ぎながら、未来を実感し、それを次の世代へと伝えることが大事なんだろう。

そして、その「未来を実感する」上で組織のもつ力、意義を強調していることも重要なポイントだと思う。だからこそ、未来傾斜原理に則って組織を「成立させ」なければならないのだ!(現在の日本社会が進もうとしているのとは反対に!)

未来を実感するのに、とりたてて想像力や構想力にすぐれている必要はない。わたしのようなふつうのおじさんや、ふつうのおばさんであっても、「自分がいなくなっても、自分ののこしたものはつづいていく」と気づけば、未来を実感できるのである。そして、それは未来傾斜型の組織に所属し、見通しの高さを体感することでかなえられる。(p.214)



例えば、年俸制や成果主義の類は未来傾斜原理とは異なった原理に則っている。次のような本書のコメントは傾聴に値する。

1990年代、学者のなかには、雇用制度改革の意義を、給与で「差をつける」ことに求める人もいた。しかし、考えてみてほしい。どうして「差をつける」ことが先にあるのだろうか。何かの評価制度が導入されて、その結果として昇進・昇格・昇給に差がついていた、というならば話はわかる。しかし「差をつける」ことが先にあって、その差のつけ方に納得性が必要であるという昨今の議論の組み立て方は明らかに本末転倒ではないだろうか。そのことに気づけば、1990年代半ばからさかんになった年俸制導入の胡散臭さがすぐに気になるはずである。(p.239、強調は引用者)


さらに、

そう、じつは、年功ベースとはいったって、差なんかとっくの昔からついていた・・・(中略)・・・つまり、年功序列的といわれる多くの日本の会社では、たしかに、20歳代ではほとんど差がついていないように見える。しかし、40歳代ともなると明らかに昇進・昇格・昇給で差がついてしまっているのである。・・・(中略)・・・20歳代でも、じつは、すでに差はついているのである。・・・(中略)・・・実際には仕事の内容に大きな差がついてくるのだ。・・・(中略)・・・日本型の雇用システムの本質は、給料で報いるシステムではなく、つぎの仕事の内容で報いるシステムなのだということである。(p.245-251、強調は引用者)


「次の仕事で報いる」これが「未来傾斜原理」に則っていることは明らかである。

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マルク・ブロック 『封建社会2』
マルク・ブロックの『封建社会』の第二巻から、「アルプス以北の世界」と「地中海世界」の対比に関連する箇所を2箇所ほど抜粋しておく。

 言うまでもなく自分たちの住居を攻撃から護ろうとする富んだ人々の配慮は、動乱そのものと同じほど古く遡るものであった。かの城塞化されたヴィラ(villae)がその証拠であるが、これは四世紀頃、ガリアの農村に現れたものでローマの平和の衰頽を裏付けている。この伝統が、フランク王国の時代にあちこちで存続していることもあった。しかし、富んだ土地所有者の居住する≪館≫(cour)や、国王の宮殿までも、長い間恒久的な防禦施設を施されることはほとんどなかった。アドリア海から、北イングランドの平原に至るまで、修復されたり再建されたりした都市の堡塁と共に、農村の≪砦≫を建設させるようになったのはノルマン人ないしハンガリー人の侵入のためであり、それ以来ヨーロッパの農村部にこの砦の姿がたえず重くのしかかることになる。やがて内戦のためにそれらがさらに数を増していった。・・・(中略)・・・これらの館は基本的な諸要請に応えたものであり、それが自ずと感知され、かつ満たされたというわけである。・・・(中略)・・・要するに城は己れを護り他を支配するためのものであった。
 これらの建造物は、一般に形式はきわめて簡単であった。少なくとも地中海諸地方以外では長い間最も広く普及していたのは、木造の塔であった。・・・(中略)・・・最初に、石材を利用したのは大諸侯たちであった。・・・(中略)・・・石材は、十二世紀、いや、十三世紀になってからさえ、徐々に中小騎士の住居に採用されるようになったにすぎなかった。大規模な森林開拓の始まる前には、採石場よりも森林の開発の方が楽で費用も安いように思われたのである。それに石工の仕事は、専門の労働力を必要としたが、いつでも強制労働を課すことのできた保有農は、ほとんど全部が樵夫と同時に大工の仕事をも少しは心得ていたのである。(p.21-22、イタリック体は著者、強調は引用者)


これらの南北の世界で建築の素材が異なっていたことがわかる。地中海世界は昔から長い間石造建築が多く造られていたのに対し、以上の記述によれば北方(アルプス以北の世界)では経済力がある程度向上し、一つの頂点をなしていた13世紀頃になってようやく高価な石造建築が普及し始めたということになる。もちろん、ブロックが言うような開発による森林の後退という要素もあっただろうが、地域の経済状態と支配層の権力の拡大が建築の素材の転換の大きな要素だったのではなかろうか。

次の引用に移る。以下はカペー朝がカロリング朝の伝統を引き継いでうまく統治を引き継いだということに関する部分からのものである。

要するに予め定められた一族に神秘的な特権が結びついているとする考え方はローマ世界にはほとんど知られておらず、ゲルマニアを通じて、遠い原始の時代から西ヨーロッパに伝えられたものであるが、それがきわめて力強い持続性をもっていたので、偶然にも男系子孫に恵まれ、かつ王家を守り立てる多数の誠実誓約者に助けられるや、旧い〔血統の〕正統性の廃墟の上にきわめて速やかに、新鮮な正統性がいち早く再建されてゆくのが見られることになる。(p.105、強調は引用者)


フランク王国の大部分は、「地中海世界」ではなく北西ヨーロッパという「アルプス以北の世界」に属しており、ローマ帝国は言うまでもなく「地中海世界」の帝国であったことを考慮すると――ここで「ローマ的なもの」と「ゲルマン的なもの」という対比を用いるとすれば――王権(王)についての観念においては、アルプス以北では「ローマ的なもの」よりも「ゲルマン的なもの」が強く継承されていたと読める。

ちなみに、このような王を神聖視する観念は「形式的に見れば」フランス革命の時代まで続いていたと言えるようである。例えば、1791年憲法でも「国王の身体は不可侵で神聖である」と規定されていた。(松浦義弘(1997)『フランス革命の社会史』p.42)

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マルク・ブロック 『封建社会1』(その2)

12世紀中にローマ法はいろいろな学校に侵入した。・・・(中略)・・・
 その地方の慣習法の伝統がローマ法の刻印を強く保っていた南フランスでは、やがて法学者たちの努力によってローマ法原典の参照が可能になり、その結果、このローマ法という≪成文≫法は、一種の一般法の地位にまで引き上げられ、明らかに矛盾する慣習がない場合に適用された。このことはプロヴァンスにおいても同じであった。そこでは、早くも12世紀中葉ごろユスティニアヌス法典の知識が素人にも非常に重要であると考えられ、俗語による要約を作成しようとする関心が高まった。他の地方では影響はそれほど直接的ではなかった。(p.110)


南フランスは「地中海世界」であり、ローマ帝国の遺産が色濃く残されていた。北方世界は違った。

フランス本部およびブルゴーニュにおいては、一連の影響の協力によって、封建時代の第一期の間に、古い社会的語彙が真に除去されるに至った。成文法は忘れられていた。フランク時代のサンス帳のうち、ある数は消滅し、他のものは、多くの領主地の構成に混乱が生じたため、また用語が変化したために、利用・参照に非常な苦労を要した。最後に、領主と裁判官は、一般に余りにも無知であったので、豊富すぎる法的記憶で困ることもなかった。(p.231)


マルク・ブロック自身もイル・ド・フランス周辺に対して同情的であり、南フランスを「結局は取り残された地域」として扱おうとするが、それでも認めざるを得ない違い、それも南フランスの方がより洗練されていたという事実は重要であると思われる。

個人的な課題としては、こうした「地中海世界」と「アルプス以北の世界」との相違はどの時期までどのような形で存在したのか、という点である。様々な領域で時には影響を与えあい、時には融合を拒んできたのであろうが、そのあり様がいかなるものであったのか、興味がひかれるテーマである。

ちなみに、これに関連して、印象派など19世紀末から20世紀初頭のフランスの画家たちの多くが南フランスを訪れたことなどもこうした長期持続的な要素と関連があるように見える今日この頃である。

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マルク・ブロック 『封建社会1』

ガリアやイタリアの哀れな都市にはバグダッドやコルドバの華麗さに比肩し得るものは、長いあいだ何もなかった。12世紀まで、イスラム世界はビザンツ世界と並んで西ヨーロッパに対して真に経済的覇権を握っていた。(p.10)


ブロックは12世紀までと言っている。確かに、後世になって「十字軍」と呼ばれる軍事遠征によって「フランク」がレヴァントに侵攻した。恐らくブロックはこうした事実などをもって「イスラム世界」が「西ヨーロッパ」に対する覇権を失ったことを示していると考えたのだろう。

しかし、世界史的に見れば、たまたまこの11~12世紀頃の歴史的シリアは政治的分断化が進んで衰退し、東からはモンゴルとそれに追われるようにトュルク系の人々が押し寄せてきた時期に相当する。「フランク」の面々はそうして東地中海のムスリムの勢力が弱体化したところにつけこんで、彼らの世界に入り込んだに過ぎない。

実際、その後のマムルーク朝の繁栄やさらに後にはオスマン朝の脅威は「西ヨーロッパ」を遥かに凌駕し続けていたのであり、経済的にも「ヨーロッパ」はほとんど常に赤字だった。なぜなら、豊かな中東地域の人々に対して貧しい「ヨーロッパ」の人々には売るものがなかったからである。

ブロックは「封建時代の第一期」――11世紀中葉頃まで――には「西ヨーロッパ」は「オリエント」との経済的関係で赤字だったとしているが、この関係は概ね18世紀頃までは変らなかったのである

 封建時代の第一期のヨーロッパは、全く後向きに生きていたのではなかった。ヨーロッパと隣接諸文明との間には、交流の道が一つならず存在していた。最も活発な道は、恐らくヨーロッパとイスラム教のイスパニアとを結びつけていたものである。多数のアラビア金貨が、この道に沿ってピレネ山脈の北側に浸透し、そこで頻繁な模造の対象となるほど珍重されたのである。これに反して西地中海にはもはや長距離の航海がほとんど見られなくなった。オリエントとの主要な連絡路はそれとは別のところにあった。・・・(中略)・・・
 この通商はこのように極めて少数の交通網に集中されていたうえに、非常な貧血常態にあった。さらに悪い事に、収支は明らかに赤字であったらしい。少なくとも、オリエントに対してはそうであった。西ヨーロッパは、近東諸国から、重量に比して非常に高価で、輸送の費用と危険とを償って余りある若干の奢侈品のほかはほとんど買い付けなかったが、その見返りに奴隷のほかはほとんど何も提供するものがなかった。・・・(中略)・・・東地中海はこの商品を豊富すぎるほど自給し得たので、極めて多量に輸入する必要はなかった。この奴隷売買の利益は結局かなり低いものであったため、ビザンツ世界、エジプト、近東の諸市場で奢侈品や香料を購入する費用を償うに不十分であった。そのために、銀の、特に、金の緩慢な流出が生じた。(p.64-65、下線は引用者による)



このようにヨーロッパでは、貨幣も自前で造るより「アラビア金貨」やそれの「模造」を使っていたし、それよりも重要なことには、中東に対して売るべき産品がなかったので、奴隷を売るしかなく、それでもなお赤字だったので金銀が流出したわけである。後にヨーロッパ諸国は中南米から銀を大量に手に入れるが、その多くが中東に流れ込んだという事実が加われば、上の私の見解の妥当性は確保される。そして、実際にそうだったのである。

歴史観としての「ヨーロッパ中心史観」は、現代の私たちにはほとんど避けがたく浸透している。それは最近100~200年ほどの欧米諸国の政治経済的な優位という状況を過去に不当に投影したものに過ぎないのである。

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堀越宏一 『中世ヨーロッパの農村世界』

 10世紀から11世紀初めのヨーロッパは、政治的、社会的にたいへん不安定だった。・・・(中略)・・・最大の脅威は、大西洋沿岸のヴァイキング、ドナウ川流域のマジャール人、地中海沿岸地域のイスラム教徒といった外民族の侵略であり、当時のヨーロッパの支配者たちはこれにたいして非常な苦戦を強いられたのだった。
 しかし紀元1000年前後までにこれらの外敵の撃退や同化に成功した結果、ヨーロッパ社会は新たな発展の時期をむかえることになった。(p.39)


確かに11世紀頃から「ヨーロッパ」の「外部への拡大」が始まる。その前のカロリング朝期には多くの技術革新があったことも考えに入れておく必要がある。

つまり、その技術革新は11世紀頃までヴァイキング、マジャール人、ムスリムといった「外敵」の「脅威」があったとされていることと関連しているのではないか?それらの勢力が「外部」から侵入してくることによってこそ、様々な技術や考え方が「西ヨーロッパ」地域に流入したのではないか?その意味で、これらの勢力は単に「外敵・脅威」として捉えるだけは不十分ではないか?技術の恩恵をもたらした人々としての側面があるのではないか?特にムスリムからは高度な技術の流入があったのではないか?

これが私の仮説である。もちろん、個別の事例について調べる必要があるが、カロリング朝の時代は商品経済が西ヨーロッパの地域でも発達した時代だったことから考えても、十分にありそうなことである。

差し当たり、本書で指摘されているカロリング時代の技術革新は次の2点である。

◆製粉用水車(メロヴィング時代にも存在したが、カロリング時代に普及が開始)
◆三年輪作システム

製粉用水車は明らかにこの時代のムスリムたちに多用されていた。『イスラム技術の歴史』(アフマド・Y・アルハサン、ドナルド・R・ヒル著)によると「スペインや北アフリカからトランスオキシアナにいたるイスラム世界のどの地域にも製粉水車があった」(p.75)。また、既に10世紀のメソポタミア(現在のイラク)には大型の製粉船水車(浮き水車)がティグリス川とユーフラテス川のモースルとラッカからバグダードにいたる岸辺にあり、ひとつの船水車あたり1日に10トンもの穀物を製粉していた(同書p.75-76)。

こうしたことからわかるように当時の「ヨーロッパ」の人々は製粉用水車の技術を恐らくムスリムたちから学んだと言えそうである。(もちろん、確定するためには形式などもっと詳細に検討する必要がある。)

また、輪作システムに関してもほぼ同じ時期にムスリムの世界で(7-8世紀にムスリム世界の東方に始まり、11世紀末にはイスラム帝国全土に達した)大きな農業技術の革新が起こり、その中で農法にも画期的な変化があったことがわかっている。例えば、夏作と輪作が採用されたことがそれである。

この農業技術の革新に関しては『イスラム技術の歴史』もそれほど詳細には記録されていないため詳しい比較はできないが、少なくとも、こうしたユーラシア規模での動きの一部としてヨーロッパの動きも捉えるべきであろう。

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A.ネグリ、M.ハート 『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』

このようにさまざまの原理主義に共通する特徴を、前近代的または伝統的な世界とその社会的諸価値への回帰として特徴づけることは、しかし、解明するものよりも隠蔽するもののほうが多い。じっさい、過去への回帰という原理主義者の構想は、一般に歴史的錯覚にもとづいている。たとえばキリスト教原理主義者が掲げている安定した異性愛的な核家族の純粋さや健全さといったものは、合衆国にはかつて一度も存在したことがないものである。彼らのイデオロギー的基礎となっている「伝統的家族」とは、家族制度の内部でなされるいかなる現実の歴史的経験からよりも、テレビ番組からより多く引き出された価値観や実践の寄せ集め(パスティーシュ)にすぎないのだ。それは過去に投影された虚構のイメージで、ディズニーランドの「メインストリートUSA」のようなものであり、現代の不安や恐れのレンズを通して遡行的に構築されたものなのである。キリスト教原理主義の「伝統的家族への回帰」とは、回顧的なものではまったくなくて、むしろ現代の社会秩序に抗する政治的プロジェクトの一部をなす新しい発明品なのである。
・・・(中略)・・・
思い切り単純化して言えば、ポストモダニズムの言説はグローバリゼーションの過程における勝者に主として訴えかけ、原理主義はその敗者に訴えかけているのだと論じることもできるだろう。(p.196-198、強調は引用者)


近年の日本でも似たようなことが起こっているのではないだろうか?例えば、自民党の改憲案などに見られる「復古調」の論調の言説である。

「伝統」などを持ち出すので「復古調」に見えるが、これはネグリらが言うように回顧的というよりは「新しい発明品」という面を持っている。

ネグリらはこの新しさを<帝国>的秩序を拒否するものとして肯定的に評価している。しかし、現代日本の「復古調」はむしろ<帝国>的秩序を肯定するものであるように思われる。

しかし、受容層が「グローバリゼーションの敗者」であるという点は概ね妥当に見えるからである。(詳細は省くが、これらの言説を受容した人々が語り、書く内容からの推定による。)


じつをいうと、第三世界は世界市場の統一化のプロセスのなかで消滅してしまったわけではなく、いまや第一世界のなかへと入り込んでいるのである。しかも、そのようにして第三世界は、絶えまなく生産および再生産されつづけるゲットーやバラック地区やスラム街にその姿を変えながら、第一世界の心臓部に住みついているのだ。そして、その代わりに第一世界は、証券取引所や銀行や多国籍企業さらにはマネーと指令でできた冷ややかな超高層ビルといったかたちで、第三世界に移されているのである。(p.330)


こうしたモザイク的な階層構造は、ウォーラーステインの中核-半周辺-周辺といった世界システムの階層構造論がしばしば見落としてしまいがちになる点であることは確かである。ただ、ネグリらの考えは地理的な位置が持つ地政学的な重要性を軽視しているという点でウォーラーステイン的な立場からも反批判できるし、されるべきだろう。

<帝国>による規制的で抑圧的な手続きの有効性は、最終的には潜在的で構成的なマルチチュードの活動に帰すべきである。(p.452)


こうした<帝国>とマルチチュードとの関係性の捉え方は非常に興味深いものがある。本書から得た着想のうち、個人的にはもっとも重要なものだとさえ言える。<帝国>システムの抑圧の原動力になっているのはマルチチュードの創造性・主体性にあり、ある意味で表裏一体のような関係にあるということだ。

とはいえ、私見では<帝国>の存在をネグリらと同じものとして考えることはできない。彼らの考えはあまりにも「ポストモダン」的である。ここも詳論は省くが「モダン」を前提していながら、それとの断絶を強調し過ぎている。つまり、国民国家や近代的主権は破綻しているのは確かだが、全く無意味なわけではない。ネグリらが想定するよりもそれらの影響力は大きいと私は見ているのである。

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二宮厚美 『憲法25条+9条の新福祉国家』

現代は、1930年代のニューディールが事実上依拠し、またベヴァリッジが依拠したケインズ主義的福祉国家思想が、ほかならぬ帝国主義陣営の新自由主義によって、無残にも攻撃にさらされている時代である。
 これは25条の対決する相手がその姿形を変えているということを意味している。(p.74)



私としても、新自由主義の脅威に対して無防備な世論が形成されている現状に対して危うさを感じており、著者の時代認識には共感できる。そうした時代だからこそ25条の生存権を強調するという戦略も妥当である。

ちなみに25条の条文はは以下の通り。

第二十五条{生存権、国の生存権保障義務}すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進につとめなければならない。



二宮氏の著書はこれまで何冊か読んできたが、本書は以前の著書と比べるとキレがあまりなかったと感じた。(それはジェンダー・エクィティにこだわって書いていることとも関係があるかもしれない。)しかし、後半で展開された賃金論には共感するところが多かった。

絶対水準としての家族賃金それ自体は破壊されるべきものではなく、労働者家族の生存権からみれば、むしろ擁護されるべきものということになる。(p.160)



この点でもまさに現代の労働環境は最低生活保障の切り崩しが行われつつあるのであり、守っていかなければならない権利を明示したことには意義がある。

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軍司泰司『シラクのフランス』

「当たり前のことだが、軍は宿命的に暴力と死を背負う。装備をハイテク化し、標的をコード化することで生身の切なさから遠ざかろうとしても、戦争の実相を隠し通すことは適わない。スマートな言葉と酸鼻な現実との落差が、滑稽なほど広がった世界だ。ただ、将校や兵士たちはそのことに疑問を差し挟むことはない。異論はご法度、「問答無用」がまかり通る。軍を取材していると私はしばしばその幼児性、幼稚さにハッとすることがある。
・・・(中略)・・・
 たとえ国益が掛かっているとしても、核兵器の保持が国際政治の舞台で影響力の源泉になっていたとしても、現場を見ると分かってしまうことがある。はっきり言おう。そう、ここでは何かが決定的に馬鹿げている。」(p.32、強調は引用者)


こうした経験は軍に限らず、通常の組織の中でも体験することがある。しかし、軍隊というものはその「馬鹿げている」度合いが別格なのだろうと想像できる。


「FNの幹部たちにはその後も取材する機会が何度かあったが、いつも感じるのは「自分たちは選ばれた存在だ」という根拠のない矜持である。根拠があるのかもしれないが、普遍性はない。基本的には滑稽である。訳のわからぬ自信と使命感のグロテスクな肥大化が、この人々の特徴であり、主張を聞いていると常に薄気味悪さを感じた。
 だが、FNの論理に多くの失業者が吸い寄せられた事情は理解できた。
 FNの政策は一種の短絡である。だが、たとえば失業や貧困などの切羽詰った事情から、社会の中で疎外感を味わい、自分に誇りを抱けず、何ら前向きのことを考えられない人々が、「あなたは移民たちとは違う。フランス人だ。誇りを抱いていいのだ」とささやかれたら、FNの他に選択肢はないと思うかもしれない。FN支持者の胸のうちほど、フランス社会のゆがみを正確に投影した鏡はなかった。逆説的に言えば、FNはフランス社会の反面教師であり、政治の空白の在りかを指し示していた。」(p.141-142)


この叙述はまさに現在の日本の右傾化した状況に当てはまる。

右翼の政策は一種の短絡である。だが、たとえば失業や貧困などの切羽詰った事情から、社会の中で疎外感を味わい、自分に誇りを抱けず、何ら前向きのことを考えられない人々が、「あなたは中国人たちとは違う。日本人だ。誇りを抱いていいのだ」とささやかれたら、右翼の他に選択肢はないと思うかもしれない。」


といった具合だ。

ネット右翼のブログなどを見ていて、やたらと「誇り」なんてことを言ってみたり、「『反日』に反対する」のような排外主義的な論調などはまさにこれである。

H.フォション『西欧の芸術1 ロマネスク』

「少なくとも建築については、フランス北東部、特にシャンパーニュ地方やロレーヌの辺境地帯、カペー王家の領地でも事情は同じであった。ムーズ河流域のカロリンガ芸術のいくつかの大中心地からさして離れていないこれらの地方は、カロリンガ的精神に溢れ、一般にアーケード状装飾と平帯装飾に対して反抗的な地方であった。
・・・(中略)・・・
 したがって、11世紀初頭以来すでに、西欧の建築の世界にはひとつの北方圏が存在していたことになる。初期ロマネスク芸術の典型的な特徴、すなわちアーケード状装飾がきわめて疎らにしか浸透していなかったので、初期ロマネスク芸術とは全く縁のない、かといってカロリンガ時代の方式をただ受身的に繰り返して生き永らえているということもできない建築がおこなわれていたのである。」p.53-54



以上、アンリ・フォションの『西欧の芸術1 ロマネスク』からの引用である。

フォションはフランスの北東部がアーケードに対して「反抗的」であったとして、「フランス北東部」が「自ら主体的に」アーケードを選択しなかったかのように語っている。

私はこうした見方には与しない。恐らくこの地域にアーケードが(ほとんど?)なかったのは確かなのだろうと私も考える。そのこと自体はフォションと私の見解の相違はない。しかし、それの持つ意味が大きく異なっている。

私見では次のように読む。

アーケードの基本技術はアーチであるが、これこそローマ帝国の遺産であって、フランス北東部にはその遺産が継承されなかったことを示しているに過ぎない。建築に限らずローマの遺産は、アルプス以北にはそれほど目ぼしいものは残らず、地中海沿岸と東の地域にもたらされたのである。

フォションのような見解を支持しない理由は幾つかある。

一つは、11世紀に至るまでの経済動向の推移からして、フォションの考えはある種の不自然さを抱えてしまうということである。

ローマ帝国の時代以前からレヴァントとアルプス以北とでは常に経済的水準が決定的に異なっており、学問、技術、社会制度、社会的インフラストラクチャー等、様々な面で東の方が優れていたことがわかっている。そして、建築ではこれらの地域でアーチが使用されていた。実際、アーチは高度な技術を要する。

高度な技術は社会経済が活発な地域でなければ維持できない。一般に高度な技術を開発したり使用すること自体、それを維持するためには相応の条件が必要だからである。

そう考えると、単に11世紀初頭のフランス北東部は(レヴァントなどと比較して)それほど経済的な水準が高くなく、他の地域との人的交流も少なかったために、当時における高度な技術を受け入れることができず、それ以前の水準の技術を利用し続けるほかなかった、と考えるほうが無理がないように思われるのである。

また、フォションのような説明にはもう一つ重大な欠点がある。何らかの技術などを受け入れる主体が、なぜそれを受け入れなかったのか、説明しなければならない。上の文脈で言えば「どうしてフランス北東部はアーケード状装飾に対して反抗的だったのか」を説明しなければならない。

従来、こうした場合にしばしば持ち出されてきたのは「文化」による説明である。しかし、これもまた多いに疑問を呼び起こすものである。なぜそのような文化が育まれたのかを説明しなければならなくなるのである。

さらには、どうして「フランス北東部」をひとまとまりとして扱えるのかという問題が生じる。建築様式だけを見ていれば、11世紀のこの地域にはまとまりがあったかもしれないが、別のものを見ればこの地域の外部も含めて一つの世界と見なすことがあるに違いない。それをどう説明するか?

以上の言及で分かるように、これでは説明にならないのである。一般に「文化」による説明は説明ではない

とりあえず、時間と体力の都合上、この一文についてのコメントはこれくらいにしておく。

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