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前田健太郎 『市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道』(その3)

無駄な財政支出は、既に決められた目標を執行する「行政(administration)」よりも、具体的に目標を判断する「政策(policy)」において生じるという。(p.206)


90年代末から00年代頃までは「行政の無駄」ということがよく言われた。最近は以前ほどの勢いがなくなっているが、私見では安倍政権によるやりたい放題の権力の私物化(支持率維持のための財政支出拡大とその結果としての政府の債務の増大)の結果、しばらくしてから、またこの考え方が流行り出す可能性が高いと見ている(2020年オリンピック後不況の頃か?)。

行政を効率化することで無駄を省き、費用を捻出するといったような愚かな考え方(というか行政や財政に対する無知に基づく思い込み)に対して、本書で紹介しているこの考え方は、適切な批判対象を提供してくれていると思う。本来的に取り組むべき問題は、行政の非効率性ではなく、政策決定の実質的な非効率性(間違った目標に対して支出することによるロスや目標に対して過大または過少な額の支出をするために生じるロスなど)こそが問題なのである。(もちろん、これは行政の活動に非効率性がないということを意味しない。ここ(administration)を改善しても費用はさほど捻出されないということである。)



 この過程を振り返ると分かるのは、サッチャー政権が僅か数カ月間の世論の変動によって誕生したことである。有権者の重視する争点や党首に対する満足度の推移を見れば、公務員のストライキに対する有権者の批判が、そのまま労働党への批判につながり、投票行動に結びついたと考えるべきであろう。つまり、有権者の求める政策を掲げたサッチャーが勝ったのではなく、選挙直前の不運に見舞われたキャラハンが負けたのである。近年のアメリカの選挙研究では、有権者の多くは政権の業績を全体的に判断するのではなく、選挙の直前に起きた出来事に基づいて政権党に投票するかどうかを決めているという議論が行われている(Bartels 2008, 99-104)。1979年のイギリスの総選挙は、まさにそうした有権者の近視眼的投票によって大勢が決した事例であったといえよう。その選挙結果は、キャラハン政権下の3年間の経済政策に対する有権者の業績評価投票に基づくものではなかったのである。(p.220)


サッチャー政権と言えば新自由主義改革が真っ先に思い浮かぶが、この政策に対する支持があって政権が成立したわけではなく、敵失により獲得した権力を利用して新自由主義に基づく政策を実施しようとしたに過ぎない。

多くの有権者は選挙の直前に起こった出来事に基づいて政権党に投票するかどうかを決めるというのは、まったくその通りだと思われる。安倍政権が選挙から遠い時期に好き勝手なことをやり、選挙が近づくと事を荒立てないようにし、自分の有利な時期を選んで恣意的に解散権を違法に行使することで議席数を確保し続けているという状況は、まさにこの考え方のとおりに投票行動が行われていることを示している(対照群がないため完全な立証まではできないが)。

私の眼には、安倍政権に有権者たちが操り人形として操られているように映るが、大衆に賢くなれ(より正確には、大局的に全体を総合して考えろ)などと言ったところで(それ自体は大事なことだが)ほとんど効果がないこともまた事実であり、やはり立憲主義に基づいて権力者たちに恣意的に権力を使わせないルールをしっかり作り、それを関心を持つ人びと(メディア)が監視していくということが重要である。



 本書では、政府による公務員の給与水準のコントロールを難しくする公務員制度が、結果として公務員数の抑制を促したと論じた。しかし、一度開始された行政改革が今日まで持続してきたメカニズムについては、必ずしも重点的な考察を行ったわけではない。そこで、試論的にではあるが、ここでは行政改革がさらなる行政改革の呼び水となるメカニズムについて見通しを示しておきたい。
 そのメカニズムとは、公務員数の削減によって公共部門の相対的な給与水準が上昇し、民間部門の不満を生み出すというものである。一般に、行政改革が行われると、業務の効率化のために人員が削減され、あるいは民間委託によるコストの削減が図られる。この時、削減の対象となるのは、定型化され、置換の容易な業務である。そうした業務に従事する職員の賃金は低いことが多い以上、公務員の数が減るほど一人当たりの人件費は高くなる。……(中略)……。
 こうしたスケッチは、試論の域を出るものではない。しかし、この論理に従えば、一般市民が公務員の給与の平均にしか目配りしない限り、行政改革による「無駄」の削減は公共部門に対する市民の不満を逆に高めてしまう可能性がある。(p.263-265)


興味深い仮説。

本書はこのことも踏まえて人事院勧告制度を団体交渉制度へ改めるべきだという立場だが、これに対しては、比較の対象を変える(例えば、業務内容が相対的に近いと思われる企業の企画部門や総務部門と一般行政職員の給与を比較する)ことによって一般市民が公務員の給与は平均値による見かけほど高くないというコンセンサスを作るなど、適切な情報や判断基準を示すことによって悪循環を断つということも必要ではないか。少なくとも、労働運動が十分に力を持てない状況を政府や与党が長年かけて作ってきたという歴史的経路の中で団体交渉制度を導入すべきだという判断はフェアではないし、変化の規模の割に必要な労力も相対的に大きく、そのような所に政治的なリソースを割くよりは人事院勧告制度は維持したまま別の手段を講じる方が効果的かもしれない。

というのは、本書では人事院勧告制度の意味が制度が出来た当初と高度成長期以後で変わったことが指摘されているが、今後、民間給与の上昇が望めない低成長時代においては、再び人事院制度の持つ意味が変化するはずだからである。それは給与の上昇もほとんどさせないが政府の都合による給与引き下げもできない制度であり、これ以上給与が上がらないのであれば制度を据え置いてもそれほど大きな問題にはならないとも考えられる。(日本の公務員の1人当たり給与は他国と比べて平均すれば給与が高いようだが、同じ業種で見た場合にどうなのだろうか?この水準が特別に高いのではない限り、給与水準自体を引き下げる必要性があるとは言えないのではないか。)

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前田健太郎 『市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道』(その2)

2009年に経済危機に陥ったギリシャの事例のように、公共部門の肥大化が財政危機の原因として指摘されることもあるが(村田2012,272-276)、先進国全体を見れば公務員数と財政の健全性の間には特に見るべき相関関係はない。(p.45-46)


これは、財政が悪化すると公務員バッシングが始まりやすいが、そうした非難は大抵的外れだということを意味する。90年代末から00年代前半頃にはこうした風潮が非常に強かったが、当時の公務員バッシングも完全に的外れなものだった。当時の私がこの類の的外れな非難に対して行った批判は、「財政の赤字は確かに急激に膨らんでいるが、それと並行して公務員の人件費が急激に増えたという事実はなかったのであり、そこには問題の原因や本質は関係がない」というものだった。本書で指摘されている事実関係も当時の私のような見方を補強するものと言える。



また、民間企業に対する強力な解雇規制による正社員の保護は、長期雇用による企業特殊的な技能の蓄積を前提とする雇用システムを生み出すことを通じて、逆説的にではあるが、出産と育児の負担を強いられるために長期勤続の難しい女性を労働市場から締め出す働きを持っていた(Estévez-Abe, Iversen and Soskice 20011)。(p.48)


公務員数と女性の雇用創出に関係があるという本書の指摘は今までほとんど考えたことがないテーマであり、新鮮だった。



 公務員数を説明するという課題には、戦争や革命などの政治現象を説明するのとは異なる独特の難しさがある。その難しさは、問題設定のスケールの大きさでもなければ、その事実の反直観性でもなく、それが「事実」であるということ自体に由来している。一見些細な言葉遣いの違いであるが、公務員数は事実であるのに対して、戦争や革命は出来事である。そして、一般的に事実は出来事よりも遥かに説明することが難しい。出来事にはそれを直接引き起こす人間が存在するのに対して、事実にはそのような観察対象が明確には存在しないからである。この問題に取り組むには、説明の対象である公務員数という事実を、何らかの出来事の結果として記述し直さなければならない。(p.51)


この事実と出来事の区別は本書の方法論に特徴的なところである。出来事はそれを生じさせる行為やコミュニケーションなどが観察できるのに対し、事実は現にそうであるということが観察可能なだけで、それを成立させている出来事やコミュニケーションは必ずしも観察できない。個々の公務員の採用という出来事は観察できるだろうが、その出来事を観察しても公務員数が少ないという事実を説明することはできない。本書は公務員給与制度や国際収支の制約下で60年代という高度成長期に欧米諸国よりも経済的な水準が低い段階で政府が公務員数の抑制という決定をしたことにその原因を求める。



1960年代半ばまで、外貨準備は「国際収支2000億円の天井」に沿って推移し、1968年以降は急速に上昇している。これは、日本の輸出が伸びた結果、国際収支が常に黒字となったことを示している。注目すべきなのは、外貨準備高が急速に伸長した時期と、日本の国債発行額が急速に伸び始めた時期が、ほぼ完全に一致しているということである。通常、財政赤字は国内景気の好転による輸入の増大を通じて外貨準備高の減少をもたらすはずである以上、こうした外貨準備の蓄積が、日本の財政状況の変化の帰結だとは考えられない。むしろ、輸出部門が強化されたことによって、財政赤字が外貨準備高の払底へと直結しなくなったことが、日本の財政赤字の拡大を可能にしたのだといえよう。逆に言えば、それ以前の日本では財政赤字の余地が外貨準備高によって制約されていたのである。(p.103-104)


この時期から赤字国債(65年の発行の後は75年以後)を含めた国債の発行額が急激に増えていき、財政の規律がなくなったことは知っていたが、これが国際収支の黒字と連動しているという指摘は参考になった。なぜこの時から財政規律が緩くなったのかという政府(当時の大蔵省?)の判断の理由が推察できるからである。



1955年に春闘が始まり、1960年代に民間部門で急速な賃金上昇が生じると、その効果は人事院勧告を通じて公共部門に波及した。官公労組の賃金攻勢を封じる仕組みだったはずの給与制度が、逆に民間部門に合わせて公務員の給与を上昇させる仕組みに変化したのである。(p.149)


人事院勧告の制度の機能が変化したという指摘は興味深い。当初は公務員の労働組合の運動を封じるための手段だったものが、民間給与の上昇により、公務員の給与を上昇させる機能を果たすようになったということである。公務員の労働基本権の問題をどう考えればよいのか(労働三権の一部が制限されていることについて回復すべきか人事院勧告の制度が機能すればよいのか)という点について、私は今まで答えが見いだせなかったが、本書によって得られた歴史的な見通しは、この問題を考える際の参考となるように思われる。



 第二次世界大戦の終結後、大陸ヨーロッパ諸国が軒並み経済的繁栄を謳歌する中で、イギリスは長きに渡る低迷を経験することになった。イギリスの1950年から1973年までの年平均GDP成長率は僅か2.3%であり、1960年には一人当たりGDPでスウェーデンやデンマークに追い越されただけでなく、フランスや西ドイツにも後れを取るようになっていた。(p.192)


技術などの模倣ができたり、大戦後の被害の復興による「成長」があったり、という国とイギリスの置かれていた位置は全く異なることを考えると、成長率が2.3%というのは「僅か」と言えるようなものではなく、十分高い数値だと考えなければならない。ピケティが言うように、高度成長はキャッチアップする時に一時的に生じる現象でしかない。



前田健太郎 『市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道』(その1)

 他方、日本の公務員数が少ないという認識を共有する論者の間でしばしば見られるのが、その理由を公共部門が他国よりも効率的に運営されていることに求める議論である。……(中略)……。しかし、本書はこの見解には与しない。第1章で詳しく述べ得るように、公務員数が少ないことは、公務員ではない主体が公共サービスの供給を担っていることを示すものではあっても、公共部門が効率的に運営されていることを示すものではないからである。(p.3-4)


なるほど。ここで略した部分で批判されている稲継紙の著書は私もかつて読んでおり、日本の公務員数は少ないが効率性は高いという議論にそうだったのか、と当時は思った覚えがある。

本書の批判は正しいと思うが、本書では、公務員と公務員以外の主体を合わせた広義の公務員数で比較しても他国より日本は公務員数が少ないことが指摘されている。公共サービスの供給量自体が測定できれば(あるいは代理指標となるものがあれば)効率性が割り出せるのだが、そうした方法はあるのだろうか。「公共サービスの総供給量/(広義の公務員数×サービス残業込みの一人当たり総労働時間)」を比較すれば効率性を一応出すことができるように思う。行政の効率性を改善すべきなのかそれほど必要性がないのかという点には興味があるので、この点は是非知りたいところである。



ただし、1980年代の新自由主義的改革を政策理念の産物として理解する見方に対しては、Prasad(2006,20-21)による強力な反論がある。すなわち、新自由主義の理念を掲げる政治勢力が影響力を行使しえたのは、それに先立って既に政権を獲得していたためであって、思想それ自体が独立に影響を及ぼしたわけではないというのがその主張である。(p.12)


なるほど。確かに。「政権を獲得したということは民意が反映しているはずだ」と推論したがる人もいるかもしれないが、政権を獲得しているかどうかは「選択のためのルールに従った結果」ではあっても、もともと投票していた人々が持っていた思いを反映しているとは言えないのだから、余り単純にそのように言うことはできない(※)。そう考えると、新自由主義の思想自体が政策に影響を与えたとは単純に言えない。

(※)かつてのドイツにおけるナチスも、投票した人は少ないし、投票した人もユダヤ人虐殺を支持していたわけではない。現在の日本でも安倍政権が5年にわたり続いているが、選択のためのルールを都合の良いように使い――創価学会などの組織票の土台がある中での小選挙区制という極めて自公にとって有利な選挙制度の下で恣意的に解散を繰り返している――、また、メディアによる批判も封殺されるように働きかけられていることなどが作用している結果として安倍政権が残っているだけのことであって、それほど強い支持を得ているわけではない。



20世紀のアメリカ連邦政府における機構改革の試みを包括的に調査したジェームズ・G.マーチとヨハン・P.オルセンによれば、改革提言によって業務の効率化などの実質的な成果が出たことはほとんどない。行政改革を実施すべきだという「適切性の論理」が関係者に共有されても、行政改革によって達成すべき成果が何であるのかを示す「結果の論理」は必ずしも共有されないからである。従って、短期的に見れば、そうした行政改革の試みは政治指導者の意欲を表現するための文化的な儀式に過ぎないのである(March and Olsen 1989,69-94)。(p.15)


なるほど。ただ、政府が発信する言論の影響力は考慮に入れるべきかも知れない。




港千尋 『革命のつくり方 台湾ひまわり運動――対抗運動の創造性』

 群衆は、これを実体ではなく過程としてとらえたほうがよい。どこかに群衆と呼ばれる集団が、実体として存在するわけではない。群衆はある時点に存在するが、別の時点には消えている。群衆はいくつかの種類に分類することができるが、そこには必ず人間が群衆となる過程がある。この過程こそが群衆の本質である。だから群衆には全体がない。通常わたしたちは、群衆を人間の塊として、全体としてイメージするが、それは輪郭を持たない全体なのである。この全体の不在こそが群衆を群衆にするのである。
 そのよい例がデモの参加者数の発表だ。たいていデモの後で発表される人数は、主催者側と警備側で大きく異なる。……(中略)……。だが、この現象の本質は別のところにある。群衆は数えられないのである。(p.46-47)


本書(というか著者)のこうした「群衆」の捉え方は興味深い。これはオートポイエーシスや自己組織化の考え方を援用するとどのような事態なのかよく理解できるように思う。

例えば、ある人が街頭である政治的主張をする。それに賛同する人が周囲に集まる。それを見てさらに通りがかりの人が「何だろう?」と思って集まる。その一部は興味を抱いて話を聞く、一部は興味がなく立ち去る、またある一部はより積極的に賛同の声を上げる、など様々な反応があるだろう。こうやって人が集まっていく中で交わされるコミュニケーションがある熱量を持つ、あるいはノことがある。このとき、このプロセスとそれに伴って生じる熱量ないしノリは、コミュニケーションに関わっている個々の人間の総和とは何か違うものになっている。こうしたプロセスの継続によって立ち現れるものを、ここでは「群衆」と呼んでいると思われる。



すでに述べたように、イスタンブールのゲジ公園が占拠され、これを支援するデモが市内で繰り広げられたとき、首相は即座に彼らを「野蛮人」と呼んだ。これは太陽花運動の学生を「暴民」すなわち暴徒と呼んだことと同じである。2005年にフランスの大都市の郊外で若者の反乱がおきたとき、サルコジ大統領は彼らのことを「クズ」と呼んだが、これも似たようなものだろう。強権的な政治が抵抗や反乱を扱う際に、こうした呼び名を使うのは珍しいことではないが、それを単なる「暴言」として忘れてしまうのは双方にとってマイナスである。このような細部にも、なにがしかの真実が宿っているかもしれない。
 これらの呼称には、ある暗黙の了解が隠れている。野蛮人には言葉が通じない、話せる相手ではないという意味である。バルバロイ、サバルタン、暴民と呼び名は異なってはいても、意味するところは、彼らに話して分かる言葉はないということだ。この呼称と鎮圧のための強権発動は表裏一体であり、実際イスタンブールでもサンパウロでも台北でも血が流れるのはその瞬間になる。ささいな一言は危険な一言なのだが、実はそこにこそ民衆が声を上げる意味がある。声を上げるのは、何よりもまず、民衆が言葉を持っているということを示すための行為だからである。(p.61-62)


最近のニュースで言えば、安倍晋三が都議会選挙の応援演説で、安倍に抗議する人々に対して「こんな人たち」呼ばわりしたということが現在も問題とされていることが想起される。報道などでは、(全体の奉仕者である)行政のトップである首相が自分に反対する人を排除するような物言いをするのが問題だなどとされているが、こような指摘では何かしっくりしないものが残る。むしろ、本書で指摘されているように、「こんな人たち」とは話をしても通じないのだから、話をせずに、閣議決定でやりたいことを決めてしまい、国会では質問されても正面から答えずに時間を稼いでから数の力で強行採決すればいい、というようなことをやろうと思えばできるような権力を与えられている者がこの発言をしているということが問題視されるべきであろう。代議制民主主義の民主的要素も自由主義的要素も踏みにじる専制政治に繋がる言葉や認識であるということをこそ問題視すべきである。なお、トランプ大統領の粗野な発言もこうした観点から専制に繋がる要素がないかチェックしていく必要があるのではないか。

ここで問題となっているような発言をする人は、自分と意見が異なる人々に対して「言葉が通じない」と認識しているため、自身の意思を実現するには強権発動をするしかないということになる。しかし、思うに、特に昨今の右派の言説は、論理性や実証性が非常に低く、願望に基づく見解や願望に適合した内容のデマに類するものが多いため、異なる意見の者を説得することができるような代物ではない。このことも手伝って、彼等は言葉を通じさせるために必要な能力が低いため、彼等からしてみると相手方を「言葉が通じない」ものと認識してしまっている面はあるのではないか。

ちなみに、安倍内閣が第一次内閣の際には「お友達内閣」と呼ばれたことと、「こんな人たち」発言も同様に安倍の偏って歪んだ考え方に賛同する「お供代」ばかりで周囲を固め、それ以外の人々を「こんな人たち」と思っている、というのが安倍政権の一貫したスタンスであろう。森友学園や加計学園の問題も、「お友達内閣」と同じ構図がある。自分の考えに近い政治家を大臣に取り立てるという利益を与えるのと同様、復古主義的反動の思想で共鳴する森友学園や古くからの「お友達」が経営する加計学園に便宜を図るのもすべて同じところから発しているというのが私の見立てである。



 立法の議会は、語る権利を認められた者のための場所である。民衆に認められているのは、その外で、路上で語ることだ。だが議会の内部では言葉が機能せず、しかお外部では言葉が認められない。議会が占拠され、言葉を分配されていない者たちが語ることで、議会はその本来の意味を明らかにしたとも言える。(p.67)


代表として選ばれたはずの代議士たちが民衆の意見をもはや代表していないとき、民衆が言葉の場を取り戻すための方法が通常の選挙以外にも公式に用意されていると良いのではないか、という気もする。



抗議行動が拡大するときには、暴力的な解決のほうがよほど簡単で、そうなりやすい。緊張が高まれば高まるほど暴力的になるほうが「自然」であり、その意味では非暴力はこの自然な成り行きに抗して、多大なエネルギーを使わなければならない。そのエネルギーは現場における、他者を気づかう無数のアクションから生まれたのではなかったか。(p.80)


なるほど。暴力は簡単で安易であり、非暴力はより大きなエネルギーを適切に使わなければ達成できないものだということは銘記しておきたい。


俵義文 『日本会議の全貌 知られざる巨大組織の実態』

右翼団体の要求を連携する国会議員が取り上げ、それが国の政策として実現されるという恐ろしい構図がつくられているのである。(p.99)


確かに日本会議のような無茶苦茶な主張をする団体の要求が政策として実現されるルートが存在することは極めて憂慮すべきことだが、本書に足りないのは、このような手法を使う日本会議の勢力に対してどのように対抗していくべきかという実践的な見立てがないことであり、そもそも、そうした姿勢が希薄であると感じられる。

国会議員と連携して自らの主張を通していこうとすることやロビー活動をすること自体は代議制民主主義のルールとしては何ら問題のない行為ではないか。問題のある主張を通させないようにする方法やそれに反対する勢力をどのようにして政治力として動員していくのかということを左派やリベラルには考えて欲しい。むしろ、日本会議が「成功」した方法を昔の左翼から学んだのと同じように、日本会議の方法の「良いところ」を取り込んでいくような姿勢が必要ではないかと思うのである。


宇野重規 『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』

 社会も人間性も複雑である。そうだとすれば、単純な原理に基づく単純な政府は、ただそれだけで問題がある。(p.56)


バークの保守主義を解説する中で出てきたこのフレーズは、恐らく、現代のポピュリズムに対する批判として述べられているように思われる。



 エリオットに代表される英国の保守主義の基盤にあるのは、このような共通感覚であり、伝統の観念であり、さらにいえばヒューモアの感覚なのだろう。逆にいえば、このような共通感覚が失われ、イデオロギーが互いに何も共有することなしにぶつかり合うとき、政治的な空白と秩序の崩壊が生じる。(p.79)


現代アメリカの政治状況はこうした秩序の崩壊に近いように思われる。



統治とは、何かより良い社会を追い求めるものではない。統治の本質はむしろ、多様な企てや利害をもって生きる人々の衝突を回避することにある。それぞれの個人が自らの幸福を追求しつつ、相互に折り合っていくには「精緻な儀式」が必要である。そのような「精緻な儀式」として、法や制度を提供することが統治の役割なのである。
 そうだとすれば、統治者のつとめは、人々の情念に火をつけることではない。むしろ、あまりに情熱的になっている人々に、この世界には自分とは異なる他者が暮らしていることを思い起こさせることが肝心である。(p.99)


オークショットの思想について述べている箇所だが、ここでもポピュリズムに対する批判ともなる内容が語られている。



多くの異なる言葉が出会い、互いを認め合い、そして同化することを求めないのが会話の本質である。一つの「声」が他を圧倒してしまうのは、会話ではない。(p.100)


ポピュリストや現代の日本で「保守」を名乗っている復古的反動主義者たちに決定的に欠けているものの一つは、ここで述べられているような「会話」であろう。

最近の政治の場での討論や議論を見ていると、「会話」が全く成り立っていないと痛感する。森友学園に関わる問題や自衛隊の日報の問題などを見ると、政府の側の隠蔽、誤魔化し、強弁、露骨な印象操作などは明らかに度を越えている。政権側を恐れるメディアもそれを十分追及できていない。政府に対して質問をしても、不都合な事実は隠蔽し、答えると都合の悪いことは資料がないことにしたり、答えることをせずに誤魔化したりといった対応ばかりが目につく。



現状に強い不満をもつ人間が、一定の世界観に基づいて変革を主張する。このような革新主義に対し、反発を覚える自己を認識したものが保守派となる。すなわち、保守は必ず革新に遅れて登場するというのである。
 そのような保守派はイデオロギーを必要としない。自らの生活感情に根ざして必要な改革を行えばいいのであり、むしろ「保守主義」なる大義名分をかざして自分を正当化しようとすれば「反動」となってしまう。(p.160-161)


福田恆存(つねあり)の保守主義論について解説している箇所だが、この最後にのべられているものは、まさに現代日本で「保守」を名乗る人々の多くに当てはまるものである。かつて(15年くらい前まで)「保守本流」を名乗っていた相対的に中道的な保守主義者の政治力は弱まり、現在は安倍晋三が代表的だが、復古主義的な反動主義者たちが「保守」を名乗っているが、まさにこれらの人々に、ここで述べられていることはぴったり当てはまるように思われる。彼らが名乗る「保守」とは自己正当化のための大義名分に過ぎない。



 ハイトは道徳基盤を、<ケア>、<公正>、<自由>、<忠誠>、<権威>、<神聖>の六つに分類する。……(中略)……。
 ハイトの実験によれば、この六つの道徳基盤のうち、リベラルがもっぱら<ケア>と<公正>と<自由>を重視して、<忠誠>、<権威>、<神聖>を無視しがちなのに対し、保守の側は六つをほぼ等しく扱っているという。(p.196-197)


この実験結果は、マイケル・サンデルのリベラリズム批判とも通底するものがあるように思われる。例えば、「負荷なき自己」からは忠誠、権威、神聖といったものとの関わりは剥ぎ取られている。



 背景にあったのは、過去に進歩主義のおごりや迷走を批判してきた保守主義であるが、いまはむしろ保守主義におごりや迷走が見られるのではないか、という問題意識である。(p.210)


確かに。妥当な問題意識。


水島治郎 『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』

 このように既成政党・団体が弱体化し、社会に対する「把握力」が大きく低下したことは、政党エリートや団体指導者がもはや人々の「代表者」として意識されず、むしろほかの特定利益を代弁する既得権の擁護者として認識される、という結果をもたらした。政治経済エリートは「私たちの代表」ではなく、「彼らの利益の代弁者」として位置づけられてしまったのである。
 エリートに対する人々の違和感の広がり、すなわちエリートと大衆の「断絶」こそが、ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。(p.65)


団体の弱体化は、日本では、日本会議や創価学会などの宗教的な勢力の相対的なプレゼンスや影響力を高めるという意味もあった(菅野完『日本会議の研究』)が、本書が指摘するように、エリートと大衆の接点が失われることで、認識のレベルにも影響を与えているとすれば、これは想像以上に大きな変動だと言わざるを得ない。もう少しこの問題は掘り下げる価値がありそうだ。



 スイスに限らず、移民排除に賛同し、積極的に右派のポピュリズム政党を支持するのは、せいぜい有権者の二~三割である。その意味では、白い羊たちのうち、黒い羊を蹴り出そうと自分で足を突き出す羊は、やはり三匹のうち一匹にすぎないのだろう。
 しかしより重要なことは、ほかの二匹の羊が、無関心を装うことによって、黒い羊の追い出し劇を事実上支持し、そして自分が手を(足を?)出さずに済んでいることに内心ほっとしていることではないだろうか。(p.158-159)


無関心やポピュリストたちの過激な発言を訂正せずに放置していることは一般に想像される以上にポピュリズムの台頭による「多数者の専制」に手を貸すことになる。

この引用文の構図に既視感があった。何かと似ているのだろうと思っていたら、「いじめ」の問題と同じであることに気付いた。いじめに積極的に加担するのはごく一部の加害者だとしても、いじめられる被害者を見て見ぬふりをしたり、面白がって見ている多数の傍観者たちがいることで、加害者が加害者としての活動ができる面がある。ポピュリストが発する刺激的な言葉を単に面白がって消費していてはいけないということを肝に銘じたい。



 しかし今回の投票後に表出した離脱賛成者への批判的視点は、実はかつてジョーンズが『チャブたち』で赤裸々に示したような、中産階級の労働者層に対する侮りのまなざしと共通するものがあった。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 『チャブたち』を著したジョーンズは、国民投票後、ただちに『ガーディアン』に論稿を寄せた。「嘆くなら嘆くがよい――しかし目の前の大きなチャレンジに備えよう』と題する文章のなかでジョーンズは、今回の投票結果はまさに「労働者階級の反逆」だったと位置づける。そして、既存の政治が彼らの抱える不安や困窮に応えられなかったことに最大の原因を見たうえで、離脱票を投じた彼らを非難することは、「ますます事態を悪化させるだけだ」と主張する。なぜなら、「離脱票を投じた人々の多くは、すでに(傍点水島)除け者にされ、無視され、忌み嫌われてきたと感じてきた」からである。
 その彼らへの軽蔑こそが、今回の投票結果を生んだのであって、その軽蔑の念を一層強め、言語化したところで、問題は解決するどころか深刻化の一途をたどるだろう。(p.186-187)


2016年のイギリスのEU離脱の国民投票について。ここで指摘されている点は非常に参考になった。こうした置き去りにされた人々に対して、たとえ少しであっても意見や不満が聞いてもらえたと実感できるような政治が出来れば、ポピュリズムの台頭を抑制する方向に作用するだろう。


待鳥聡史 『代議制民主主義 「民意」と「政治家」を問い直す』(その2)

たとえば、有権者の視野が狭く、民意が移ろいやすいとしても、議員に十分な裁量範囲が与えられているのなら、裁量範囲を活かした議員の自律的な政策決定によって、選挙公約とは異なるが、結局は有権者に最大の利益をもたらすことが起りうる。
 逆に、権力分立をしていたとしても、異なった種類の政治家がすべて選挙時の有権者からの委任に厳格に拘束されるとすれば、妥協の余地がない政策決定はすぐに行き詰まり、有権者にはマイナスになってしまうであろう。つまり、委任と責任の関係における説明責任を果たすことは、民意に忠実であることと同じではない。(p.137)


民意に完全に忠実ではなくても、有権者にそれなりに納得できるような説明ができるような政策を実施することが委任を受けた者には求められる。



 議員や官僚の仕事を無償のヴォランティアにしたり、人員をできるだけ削減して一人当たりの業務量を増大させ「何でも屋」にしてしまうことは、委任内容を曖昧にし、制裁が難しくなることにつながってしまう。そもそも誰が担うべき仕事だったのかが分からなければ、適当にやっつけ仕事として済ます、あるいはやらずに済ませるという誘因を与えているのと同じことになる。委任内容が曖昧な仕事について、不始末の責任は問えないからである。議員や官僚の業務内容は、代議制民主主義が円滑に作動しているときには意識されにくく、ともすれば無用にすら思える。もっとたくさんの仕事を、もっと少ない人数で、もっと安くできるような気がするのも分からないではない。
 しかし、意識しないからといって存在していないこととは異なる。……(中略)……。
 ……(中略)……。委任と責任の連鎖関係を曖昧にし、政治家や官僚の業務を「何でも屋」にすることは、一見したところ代議制民主主義に要する費用を削減するように思える。だが、実際には委任内容が果たされなくなり「タダより高いものはない」という状態を招く恐れが大きい。ヴォランティアとして、あるいは極めて低水準の報償であっても、みんなのためになることなのだから献身的に奉仕すべきだ、というのは、誘因構造を無視した精神論か一時的なカタルシスに過ぎない。
 必要な改革は、むしろ逆の方向にある。委任と責任の連鎖関係を円滑に機能させることで代議制民主主義をより良いものにしていくには、適切な誘因構造に基づいた明確な契約関係の構築が不可欠である。すなわち、誰に何を委任するのか、委任内容が果たされた場合にいかなる報償を与えるのか、あるいは果たされなかったときにいかなる責任を問い、制裁を加えるのかについて、できるだけ明示するとともに、褒賞や制裁の水準を適正化することが必要となる。
 それはとりもなおさず、委任と責任の連鎖関係を規定している執政制度と選挙制度の改革を意味する。委任先である政治家や官僚が担う業務や裁量の範囲、複数の委任先の間に存在する役割分担、そして説明責任を確保する手段、これらを規定するルールを変えることで、政治家や官僚を「より上手に使う」ようにすることが、世界的に見て代議制民主主義を改革する上での焦点なのである。(p.202-204)


議会の定数削減などの議論が適切ではなく、執政制度と選挙制度を変えることで政治家や官僚をうまく使いこなせるようにすべき。まっとうな意見であり、議員や官僚が何をしているかが一般に知られていないことが誤った意見がまかり通る背景にあることも指摘されているが、現実問題として政治家は別としても個々の官僚の動きを直接有権者が知ることは極めて難しいし、必ずしも適当でもない。その意味では、政治のこうした仕組みを教育の段階から深く理解させられるような教育が必要であるように思われる。



アメリカで生まれた大統領制は、議会の暴走すなわち「多数者の専制」を拒否権などによって大統領が止めるという構想から出発したが、20世紀に入ると政策課題の複雑化や困難化に対応して、大統領と官僚の役割が拡大した。今日の大統領制は、執政長官の暴走を議会が止めるのが基本的な構図になっている。これが先にふれた大統領制の現代化である。(p.216-217)


興味深い変化。三権分立のうち行政が強くなったことがこうした変化をもたらしている。これを前提すると必要なのはいかに行政に対する歯止めを設けるか、ということになる。特に官僚よりもそのトップに対する歯止めが重要である。



有権者から説明責任を果たすよう求められることと引き換えに、一定の裁量と自律性を政治家に認めることによって、現在の有権者には不人気な政策決定を可能とするとともに、民意の一時の動きが致命的な悪影響を及ぼさないようにするところに、代議制民主主義が自由主義的要素を持つ積極的な意義がある。(p.252)


現在の日本の政治で問題なのは、説明責任を果たさなくても政府が裁量で何でも決めることができてしまうことにある。集団的自衛権の閣議決定やそれに続く安保法制などがその典型だろう。説明責任が果たされていないことを判定する基準を設け、これを満たさない決定を強行した場合には、政府(行政)に対して内閣不信任などのペナルティを課すような仕組みが作れないだろうか、などと考えさせられる。


待鳥聡史 『代議制民主主義 「民意」と「政治家」を問い直す』(その1)

 代議制民主主義に対するこれらの挑戦は、共産主義とファシズムとしてそれぞれに括られる。その主たる唱道者のイデオロギー的位置の違いから、最左派と最右派という二つの極端な立場からの挑戦だと理解されることが多いが、両者には共通点もある。それは、代議制民主主義の持つ自由主義的要素をとりわけ否定したことである。……(中略)……。
 ……(中略)……。このように、社会全体の利益を強調し、それが政治的競争ではなく実質的な独裁によって追求できるという考え方を全体主義という。(p.57)


本書では共産主義を左派全体主義、ファシズムを右派全体主義としてどちらも全体主義の一部だという見方が示されるが妥当である。

本書の見方では、代議制民主主義は民主主義要素と自由主義要素から成ると理解されるが、自由主義要素を否定した純粋な民主主義的な考え方では、社会全員が全員を直接統治することができない以上、全員の意見を代表しているとする少数者が統治することにならざるを得ない。しかし、自由主義的要素を否定してしまっているが故に、少数者の行為が社会全体の意見と異なる場合でも歯止めをかけることができないという問題が生じる。また、私がこの問題に関していつも思うのは、支配する少数者が社会全体の意見を代表するということを担保する制度や仕組みといったものが存在したことがないし、どのようにして担保させるかについて誰も知らないということである。



 戦勝国であるか敗戦国であるかを問わず、平和の到来とともに復員する男性兵士が多数出現して、各国にベビーブームが起こった。たとえば日本の場合、1949年の年間出生数は269万6638人で、自然人口増は175万1194人に達した(厚生労働省『人口動態統計』)。……(中略)……。
 ……(中略)……。彼らは1960年代後半になると大学に進学し、成人するようになるが、大人になったベビーブーム世代が見出したのは、各国の戦後社会の「いかがわしさ」であった。とりもなおさず、それは代議制民主主義の「いかがわしさ」でもあった。
 かくして、アメリカ、フランス、日本など先進諸国の各地で、1960年代後半にはベビーブーム世代を中心にした大規模な社会への異議申し立てが発生した。それは、具体的な異議申立ての対象と担い手によって、学生運動、住民運動、女性運動、反公害運動、反戦運動、差別反対運動などさまざまな形をとった。各国の運動が国際的に連帯する例や、過激で暴力的な反体制、反社会的運動に転化する例も見られた。しかし共通して認識されていたのは、選挙をはじめとする従来の政治参加ルートの機能不全であった。……(中略)……。代議制民主主義への懐疑、あるいは代議制民主主義における民主主義的要素の強化こそが、これらの異議申し立ての隠れたテーマだったともいえよう。(p.67-69)


60年代末の様々な異議申し立てをベビーブーム世代の生育環境と、彼らの代議制民主主義の体制に対する疑念によってある程度の共通の背景を説明できており、その隠れたテーマについて指摘しているが、このあたりは目から鱗という感じで、非常に参考になった。



マクロに見れば、先進諸国の経済成長は60年代後半には鈍化しはじめ、70年代の石油危機がとどめを刺す形で、成長に依拠していた戦後和解体制の維持は困難になっていた。それまで主流であった社会保障の拡充を中心とするケインズ政策や福祉国家化は財政悪化や社会規律に悪影響を及ぼすものとして批判の対象となり、代わって市場経済の潜在能力を重視した政策が追求されて、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本などで保守長期政権が登場した。
 この現象は、代議制民主主義の持つ自由主義的要素と民主主義的要素の裂け目という観点からは、1960年代から70年代前半までの民主主義的要素の重視から、自由主義的要素の再台頭として位置づけられる。(p.71)


この現象を、一つ前の引用文のような世代論を敷衍して説明すると、次のようになるのではないか。民主主義的要素を強化しようとする60年代から70年代の運動が、様々な個別の成果は挙げつつも、代議制民主主義の体制自体は変革しきれなかった挫折ののち、働き盛りで納税により社会を主として支える役回りを演じる時期に入ったベビーブーム世代は、その政府・政治への不信から、納税額が少なく済むことを望んだという一面もあるのかもしれない。もっとも、このような世代論による説明は部分的なものでしかないが。



 無党派層とは、政治や政党に対して関心を持たない人々のみを指すわけではなく、むしろ政治的関心や政党への期待水準が高く、そうであるがゆえに既成政党に満足できない人々を含んでいる。このような人々は、自らの利害関心をより適切に政策決定に表出してくれる政党が登場したと感じた場合に、雪崩を打ってその政党を支持する場合がある。(p.92-93)


なるほど。無党派層というと、何となく特定の党派を支持する人よりも政治的関心が低そうなイメージで捉えがちだが、逆に政治への関心が高いが故に既成政党に満足できない人々もここに分類されている。無党派層には本当に無関心な人と感心や要求水準が高い人の2つの異なったカテゴリーに属する人が含まれていると考えると、これらには別の名前を与えて分類する方が適切かもしれない。



 代議制民主主義は、アドルフ・ヒトラーを筆頭に繰り返し扇動政治家の登場を許し、そのたびごとに反省が語られてもきた。だが、民主主義は有権者の意向が政策決定に反映されることに意義を見出し、意向が形成される際の判断基準が理性的であることまでは求めていない以上、扇動政治家の出現は避けきれない面もある。代議制民主主義にとって大きな課題である。(p.113)


このエントリーの最初の引用文に対するコメントで私が述べたことと関連する問題である。

説明責任を果たす圧力を高めること、説明責任が果たされなかった場合に、いかに速やかに委任を受けた者を退場させたりペナルティを与えることができるかということが、この問題を解くためのポイントの一つなのかも知れない。(説明を受ける有権者側の判断が妥当かどうかという問題は残るが。)

例えば、現在行われている国会でも、森友学園に関する追及への首相や政府の答弁や名前を変えた共謀罪法案に対する法務大臣の体をなさない答弁など、説明責任を果たしていない重大な事例が次々と出ているが、これを追及しきれないような制度設計には極めて大きな問題があると言わざるを得ない。



2010年に始った「アラブの春」は、反体制運動に加わった人々がインターネットのSNSを使いこなして相互に連帯し、かつ先進諸国をはじめとする海外からの支持を集めた点に注目が集まった。確かに運動の手法ないし技術という点で新奇さはあったが、それまで約20年にわたって続いてきた世界的な民主主義体制の拡大が、中東地域にまで及んだという側面も持っていた。(p.114)


世界的に民主的要素を求める動きが強まっていることがアラブの春の背景の一つになっていたわけだ。なるほど。


ヴォルフガング・J・モムゼン 『マックス・ヴェーバー 社会・政治・歴史』

問題は明白である。すなわちヴェーバーは、現代の党組織を、その階層制的・技術的・機能主義的特徴を強調することによって、オストロゴルスキの意味での「マシーン」の型とやや軽率に同一視しなかったかどうか、ということである。こういう疑問は他の場合にも、とくに官僚制概念についても湧いてくる。事実ヴェーバーの現代政党機械の描写は、彼の主観とはうらはらに、全体主義政党にピッタリのものである。(p.65)


最後の一文の指摘はなるほどと思わされた。ウェーバーの理念型は、価値自由に構成しようという努力は払われているが、その政治的な意味合いを明らかにしていくと、いろいろと問題が摘出できそうに思う。(少なくとも、政治以外の視点からの分析によって問題点を析出しようとするより、遥かに難易度が低いのではないか。)



第一に、「人民投票的指導者民主制」は、ボナパルティズムとカエサル主義の周知の現象に、ある点で接近していると言うことができる。支配する者と支配される者との関係が、人に結びついた激情的な性格のものであること、これが両者に共通している。選挙は公然と人間的=人民投票的性格を帯びる。選挙行為は「賛同」の形に近づく。すなわち、勝利を得る政治家の純個人的な指導者資質の承認という形に近づく。(p.79)


人民投票的指導者民主制においては、選挙では、ある政治家が行おうとしている(とされる)「政策」が選ばれるのではなく、「リーダーとしての資質」さらに言えば「人間性」や「人柄」(に対する有権者が抱くイメージ)によって当選者が決められるということだろう。これはまさに21世紀初頭の現在世界中で起こっている潮流と合致する。ここでは、選挙は政策決定ではなく人気投票に近づく。

ウェーバーが人民投票的指導者民主制の議論において決定的に見落としているのは、このように選ばれた指導者が独裁的な権力を行使し、被治者の人権を(生存権を含めて)決定的に奪い得るということである。こうしたリスクに対して、ウェーバーは次の選挙で落とせばよいとも主張していたようだが、言論や情報の統制により正しい判断が出来ないように仕向けられるリスクもある。こうした致命的な政策が実施される場合、数年ごとに行なわれる選挙で落選させるという選択では遅すぎる。

最近、待鳥聡史の『代議制民主主義』を読んでいるところだが、この本に対する私の(読んでいる最中の)理解に従って、ウェーバーの議論を特徴づけてみたい。人民が国の政策を決定しようとする民主主義的な要素だけが強調されることになると全体主義になる危険があるが、代議制民主主義というのは、議会という自由主義的な要素(エリート間の競争による権力の相互抑制)によって民主主義のそうした行き過ぎを抑制する制度として機能してきた(近頃は機能不全になってきているが)。民主主義が行き過ぎると全体主義に転化するため、必ずそれを抑制する別の原理が必要だというのが私がこの本から受け取っている理解であり、ウェーバーの議論もまさに「民主主義の過剰」の典型であるように思われる。また、ポピュリズム的な政治家の台頭もまた、同様に「抑制を欠いた民主主義」の要求を背景としているように思われる。



指導的政治家は――彼の術語の意味で――完全にカリスマ的な特質を備えている。政治家はもっぱら自分自身と、自分が特定の個人的価値理想に照らして選びとった課題とに対して義務を負う。彼の責任は「証すること」に限定される。すなわち彼は、彼のひとそのものに対する従士団の無条件の帰依が内面的な根拠に基づくものであることを、結果によって証明しなければならない。これに反して、大衆の物質的目標に対する義務づけは一切ない。民主主義的指導者は彼の選挙民の負託を実行せねばならなぬ、という理論の残滓は、すべてヴェーバーの断固として排撃するところとなった。(p.193)


ウェーバーの人民投票的指導者民主制の恐ろしい所は、まさにここにあると思われる。「政策」ではなく「人」が選ばれるが故に、指導者に選ばれた者はやりたい放題で、大衆の利益など全く顧慮に値しないとされる。現実には、有権者たちは自分たちに指導者が利益をもたらしてくれるかどうかをかなり計算に入れて指導者を評価するだろうから、理念型の通りにはならないだろうが。