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吉田徹 『感情の政治学』(その3)

政治と信頼というテーマが大きな注目を浴びるようになったのは1990年代、アメリカの社会学者ジェームズ・コールマンや政治学者ロバート・パットナムが「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」が民主主義の質にとって非常に大きな影響を与えている、と唱えるようになってからだ。(p.230)


確かにソーシャル・キャピタルに信頼は不可欠であり、ソーシャル・キャピタルに注目が集まるなかで信頼ということがテーマとなっていくという流れはある意味で自然なものだったと思われる。



自分のかいた汗が見知らぬ他人に正当に評価され、他人もまた自分のために汗をかいてくれるにちがいないという信頼があるからこそ、共同体は円滑に機能する、というのが社会関係資本論のエッセンスだった。信頼なくして民主主義はなく、民主主義が機能するには信頼がなければならない。(p.231)


分断が進む社会は、まさにこれとは真逆の方向に進んでいると言わざるを得ないが、現代日本でこのテーマに関連して見落とすことができない点の一つは、安倍政権という政権は全体として、極めて国民を信頼していない集団である、という点である。それはまず、マスメディアの統制を通じて事実を知らせないようにしたり、政権にとって都合の良い意見ばかりが流れるようにしている点に現れている。また、情報公開や国会での国民の代表からの質問にも、一切答えようとしない姿勢もこれと共通している。つまり、国民が事実を知ってしまえば、権力の座に居座ることができないと考えるからこそ、こうした誤魔化しをしなければならないのであって、その基本的なスタンスとしていかに国民を欺くかということに大いに気を遣っている。つまり、自らの権力を維持するために、政治の中枢から国民を遠ざけることに腐心している。

確かに、事実を知ってしまえば、国民の多くは安倍政権など支持しないだろう。その意味では政権は国民の意識をある程度正しく捉えている。しかし、国民からの負託を受けた権力を恣意的かつ利己的に使い続けるために、国民の目を欺き続け、国民の手に政治を取り戻させないというのは、あたかもその方が悪い政治であるかのように考えている点で国民に対する信頼がないというべきだろう。こうして国民を信頼しない集団が権力を手中にすることによって、民主主義とは異なる政治が実施されていく。この関係性は中国共産党と中国人民との関係と非常に似ているということを指摘すべきだろう。



つまり、日本の社会には社会関係資本があっても、それを使いこなし、駆動させる一定程度の人びとがおらず、このため人びとは「シニカルな市民」に留まり、「賢い市民」とはなり得ていないのである。(p.248)


デモや市民運動などが力を持てていないことと関係があるように思われる。



しかも社会学者の数土直紀は、アメリカでは有意に認められる教育水準と社会関係資本の相関関係が日本ではない、という。教育水準が高ければ、他人への信頼度が高く、逆に教育水準が低ければ信頼度も低いというのが一般的なパターンだからだ。しかし日本では、こうしたパターンが成り立たない。その理由として数土は、先の猪口の指摘と同じように、日本では信頼関係が既存の関係の上にしか構築されない「権威主義的な信頼関係」の方が支配的だからだ、と推論している(数土 2013)。(p.252)


この理由については是非知りたいところだ。



 ここで、先に紹介したロトシュタインがかかえた問題、すなわち信頼と税、とりわけ社会保障の関係をふたたび取り上げてみよう。ここでもやはり水平的な信頼関係が大きな影響を及ぼしていることがわかる。というのも、他人との信頼関係の高低と福祉規模は相関関係にあるというパターンが一般的に指摘できるからだ。
 フランスの経済学者のアルガンとカユックは、その国の社会の「民度」の高さと、公共部門の効率性や福祉の水準との間に密接な相関関係があることを証明した(Algan & Cahuc 2007)。例えば、その国での相互不信の度合いと腐敗度(汚職や規範意識の低さ)は明らかに相関しており、そうした国では公共心が薄いゆえ、公的な制度への信頼が低いという関係が成り立つという。反対に他人への信頼や公共心が高く、公的制度に対する信頼が厚い国の人びとほど、福祉国家への支持が強いという関係が成り立つ。(p.252-253)


新自由主義は、この観点から言うと、社会の信頼を壊すことで、公的な制度への信頼も低くし、福祉の水準を下げ、汚職を増やし、規範意識を低くするものだ、ということができる。いかに碌でもないものかということがよくわかる。



 しかし、人びとの間に信頼があって、そこから人びとが信頼を寄せる制度が作られるのではなく、人びとの信頼はまず公平無私な制度があって生まれるのだという立場をとらない限り、社会のなかで信頼を増やしていくのは難しい。これは、実証上の問題ではなく、優れて倫理的かつ論理的な課題である。社会の全員にとって公平な普遍主義的な政策があり、それが人びとの間の信頼を高める作用を持つという因果関係を仮定しなければ、問題は解決されない。税制の例でいえば、すべての納税者を受益者とすることが政策への信頼を高めるためにまず必要であり、増税はこうしてはじめて可能になる。反対に、増税が何らかの特定の目的のためであることが強調されると、その社会での信頼がないと、増税は難しくなる。少なくとも、信頼が生成されるためには、増税の目的と対象は普遍的なものでなければならない。すなわち、特定の誰かのための政策ではないという「無私性」がなければ、個人間の信頼は生まれようがないのである。
 こうした論理は、社会心理学でも証明されている(中谷内 2008)。実験で観察されたのは、人は一般的に、他人が自分の問題を解決する能力をどれだけ持っていても、それだけの理由でその他人は信頼されないということだった。人は他人の持つ客観的な能力ではなく、その人の価値観、その人が信頼に値する人間であるかどうかの方が、信頼の条件とするのである。
 こう考えると、信頼のない社会で最初に必要とされるのは、「善意の政治権力」である。(p.259)


現代の日本社会を良くするために必要な基本的な方向性を指摘しているように思われる。しかし、現在の政治権力の中枢である安倍政権は、「悪意に満ちた政治権力」であるため、またもや悪い方向へと進んでいるのが現代日本の状況であるということも、はっきりする。(「無私性」というキーワードに照らしても、安倍晋三が「無私」とは程遠い「ぼくちゃんがやった」と功績を誇りたがり、他人をけなすことで自尊心を保とうとする人間であることなどから、正反対と言ってよいことが了解されるだろう。毎度の組閣が結局は「お友達内閣」であることも、「無私性」がないことをはっきりと示している。)

このような暗い状況ではあっても、本書がここで示している方向性は、日本にとって今後取っていくべき基本的な方向性として参考にすべきものだと考える。


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吉田徹 『感情の政治学』(その2)

 もっとも、「討議/熟議民主主義」が予定調和的な市民の合意を導くのではなく、反対に参加者の意見を急進化させ、態度を硬化させてしまうような効果を持つことも明らかになっている。……(中略)……。
 ここでなぜ熟議についての議論をしたのかは、もうわかるだろう。ただ単に異質な者同士を一堂に集めても、そこで調和的な政治が自然発生するわけでも、より良い知恵が生まれるわけでもない。その前提条件として、まず政治的に社会化されていること、すなわち他人と政治を介してつきあうという作法を身につけている必要があるのだ。(p.106-107)


熟議民主主義というと、基本的にはある種の理想的な状況であると考えられ、好意的に語られることが多いように思うが、実際には必ずしもバラ色のものではなく、うまく機能しない、思っていたのとは全く逆の効果を持つことすらあり得ることを踏まえておくことは重要と思われる。他人と政治を介してつきあう作法を身につけるということについて言うと、少なくとも現状の世界は、どんどんこの状態から遠ざかっている。アメリカでトランプがある程度の固い支持を得ていること、イギリスのブリグジットをめぐる混乱(世論の分断状況)などが典型的だが、ヨーロッパでも既存の権威と見なされるものを強く否定するようなポピュリズム政党がある程度の支持を受けていることなど単純で極端な意見へと流れる人びとがかなりの数おり、世論の分断が深まってきているというべきだろう。こうした姿勢を身につけるには、ある程度の若い時期(高校生や大学生くらいの時期)に社会的な問題に関して理性的な議論を重ねる経験を積むことが必要だ(効果的だ)と思われ、社会科学の訓練diciplineを積むことこそが、その最良の方法の一つと思う。しかし、日本の教育では、この点が極めて弱いことも問題である。



このスイスでは選挙の投票率を上げようと、1970年代から郵便による投票を認め、いくつかのカントン(州)ではインターネット投票が認められるまでになった。
 普通に考えて、先のダウンズの仮定を受け入れれば、投票コストは投票所に行くよりも、郵便で投票する方が下がるはずである。そして投票コストを下げれば、投票率は多少なりとも上がるはず、という推測が成り立つだろう。
 ところが、スイスではその逆の現象が起きてしまった。投票にまつわるコストを下げたところ、投票率は高くなるどころか、低くなる事例が多く観察されたのである(Funk 2008)。しかも投票所に赴くコストが高く、ネットや郵便投票でそのコストが決定的に下がるであろう過疎地域や小さなカントンで、さらにそれまで高投票率を実現していた地域であればあるほど、投票率が低下するという傾向がみられた(1000人以下の市町村の連邦選挙での投票率は平均2.5パーセント低下した)。スイス全体でみた場合、投票率はたしかに上がったものの、わずか2.3パーセントポイント程度の増加に留まった。なぜだろうか。
 こうした実態を突き止めた研究者は、郵送という投票方法が採用されたことで有権者は投票する義務(形式的ではあるがスイスでは棄権者は罰せられる)から解放され、むしろ小さなコミュニティでは投票所に足を運ぶことで得られていた社会的尊敬が失われることで、投票することの魅力が失われてしまったために投票率は下がった、と説明した。自分が投票に行く立派な市民であることを誇示するのも大切なことだったのだ。
 このように、投票という行為にも社会のさまざまな関係性が映り込んでいる。
……(中略)……。いずれにしても、投票するかどうかは、投票コストの高低や、自分の一票の軽重ではなく、何らかの外部的要因、それも社会や他人との関係性を無視して論じることはできない。(p.117-119)


興味ぶかい指摘。こうした社会的尊敬のような観点は見落とされがちだが、場合によっては無視できない重みがある。



新自由主義が真に非難されるべきなのは格差を拡大させたり、権威主義的な政治を行ったりするからではない。それは社会全体を他人に対する不信を前提に組み立てようとした「新自由主義モード」をもたらしたことにある。
 ……(中略)……。
 もし、政治家も公務員も市民も、自分の利益しか顧みずに、そして自分の利益を実現するために政治的な活動をしているとの考えが蔓延した場合、どのような帰結が生じるだろうか。それは、まず政治不信を帰結させる。政治家や公務員が市民の利益のために働いていないのだとすれば、有権者は政治に期待などしなくなってしまうだろう。公務員は納税者の「血税」を私利私欲で無駄遣いする存在でしかなくなるからだ。さらなる問題は、このような回路がいったんできあがってしまうと、有権者が最も重視するのは、こうした政治エリートから自分の利益を守るということになってしまう点にある。こうして、それぞれが互いに合理的な人間だとみなすことで、共同体全体の厚生が損なわれていくことになる。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 1980年代に台頭した新自由主義は、自身の論理を貫徹させることで、思わぬ副作用を生み出した。政治家や公務員が自己利益的な存在だとするならば、どのようにして政治に中立性と公平性をもたらしたらよいのか。
 その解答として出されたのが、公的な政治アクターを政治そのものから除外してしまうこと、すなわち「脱政治化」を進めることだった。(p.124-125)


新自由主義に対する興味深い批判。新自由主義の世界観を受けれ入れてしまうと、社会全体を他人に対する不信を前提に組み立てることになる。それは政治や行政への不信を帰結させ、こうした政治エリートから身を守るために、これらのアクターを政治の世界から除外しようとすること(民営化)に繋がっていく、というわけだ。



 政治的恩顧主義というと、腐敗や汚職といったダーティなイメージがつきまとうかもしれない。しかし、キッチェルトの他の研究では、恩顧主義的な政治を展開しているとされる国と、その国の政治腐敗度に明らかな相関関係はみられない(Kitschelt 2007)。恩顧主義と腐敗を同一視するのだとすればそれは、新興民主主義国や途上国一般が恩顧主義的政治をとっており、これらの国々では他の何らかの要因から汚職が発生しているという「観察上の一致」が生じていること、すなわち我々の偏見から生じているとした方が適切だろう。(p.142-143)


何となく、恩顧主義というと悪いものとされているが、必ずしもそうではないという理解は重要。



 こうしたエルスターの分類にしたがえば、政治とは人びとの手段に矮小化されるわけでもなければ、人びとの活動の目的として存在しているわけでもなく、その中間にあるものだ。そうであるのだとすれば、手段と目的をつなぐことのできる、個人と政治を結びつける何らかの行為が想定されなければならない。政治「によって生きる」のでも、政治「のために生きる」のでもなく、政治を他人と「作り上げて」いくためには、どうしても自分以外の存在と何がしかのものを交換しつづけていかなければならない。(p.144-145)


政治によって生きると政治のために生きるという表現は言うまでもなく、マックス・ヴェーバーの『職業としての政治』における分類である。政治を他人と「作り上げて」いくという表現は、確かにヴェーバーのパースペクティブでは捉え切れていない部分であり、自己言及的なものとしての政治という本書の政治観のイメージをつかみやすい表現であるように思われ、参考になる。



 個人が求めるものを与えるのが政治の使命と機能である、という観方は最終的に他人を手段として扱うようになってしまうことを、最後に協調しておこう。(p.147-148)


言われてみればその通りであると思う。この観点はかなり重要であり、より深く考えるに値するものであるように思う。


吉田徹 『感情の政治学』(その1)

なぜなら、政治とは何よりも、それが達成すべき目的について、誰がそこに参加するのかに応じて、「正しさ」絶えず再定義されていく、自己言及的なものだからだ。目的から逆算して手段が決まるのではなく、手段に応じて目的がつねに変わっていくもの、と言い換えてもいい。ある目的を達成しようとして、ある手段を用いようとした場合、その手段を用いること自体についての是非が生じることになり、そしてその是非の如何によって目的の妥当性そのものについても議論が起こるのである。(p.22)


この政治とは自己言及的なものであるという政治観は、本書の随所で語られているが、参考になった。



好ましいと思い、支持している政治家や政党に論理上の過誤があったとしても、それは認識されず、逆に嫌いな政治家や政党に対しては必要以上に論理性を求めるといった行動があることなどが明らかにされた。(p.24)


なるほど。政治的な判断においては、政党や政治家に対する好感度や愛着のようなものが論理に先立っており、優位にあるわけだ。確かにこうした傾向はネットなどの言説ではっきり見て取れるし、ネットによって増幅もされているようにも思われる。



秘密投票は、投票所の仕切りのなかで自分自身の考えを何の躊躇もなく、自分自身への内閉を可能にして、政治行為を行うことを正当化し、ソシアビリテによる政治変革の道をマージナルなものへと追いやっていった。1980年代にも、イギリスのサッチャー政権は労働組合の力を削ごうと、ストライキ決行の判断を組合員による秘密投票で決めさせるよう法律を変えた。集団を個人化によって解体しようとしたのだ。こうみると、秘密投票はネット空間の「つぶやき」と似ていなくもない。(p.65)


秘密投票が持つ効果ということについて、この側面から考えたことはなかったので若干の驚きを感じた個所。秘密投票はこうした否定的ともいえる効果も持っているが、それでも、票の売買(買収)や政府や集団からの思想信条の自由の確保などのための制度でもあり、安易に捨てて良いものではないという点には変わりはないだろう。



しかし「ボートマッチ」のもとで展開される政治観はかなり非現実的な前提に基づいている。
 まず、争点に基づいて有権者が投票する選挙という想定自体が、きわめて思い込みの強い想定からの演繹である。というのも、このモデルが機能するためには、まず有権者が自分の意志が何であるかを自分で了解しており、各党がそれぞれ異なる政策を掲げており、その政党が政権をとった場合にはその政策が必ず実行されるはずだという信頼感を有権者が持っていることを前提とするからだ。しかし、これだけの条件が現実で出揃うのは、無理とまでは言わなくとも、かなり希少なことである。
 さらに、自分が好ましいと思う政策のすべてが、ひとつの政党や政治家の公約に集約されているとも限らない。(p.79)


候補者の人柄――多くの場合、実際には単なる「人柄のイメージ」だが――などではなく、掲げている政策に基づいて候補者や政党を選ぶべきだという考え方は、確かに正論ではあるが、こうした考え方は現実の政治から見逃しているものが多くあり、その点で誤りも多く含まれている。特に、上記引用文で強調した政策が実行されるかどうかについての信頼感という観点は重要であると思われる。むしろ、「ある政党や政治家はあることを実現すると言っているが、実際にはこのように動くだろう」という予想は投票先の決定に思われている以上に大きな影響力を持っているように思う。



そもそも、個人の個々の意思を積み重ねたとして、それはおそらくきわめて脆弱で移り変わりの激しい政治しか生まないだろう。党派性が薄れ、無党派層が増大したのと並行して、政治が争点の激しい入れ替わり(失言問題、郵政民営化、消えた年金、政権交代選挙等々)を経験するようになったことは無関係ではない。(p.80)


この観点から見たとき、現在の安倍政権がこれに対して極めて有効な対策を取っている点が想起される。マスメディアに圧力をかけることで批判的な意見が流れにくくした上で、官僚の人事を官邸が握れるように制度を変えることにより掌握することで、情報公開的な要求に対いても恣意的に不都合な情報は出ないようにする。記者会見なども多くは不都合な質問が出ないように「配慮」されている。こうして権力を極めて私物化する傾向が強い政権であるにもかかわらず、そのイメージを個々人が持ちにくいように仕向けることによって政権を維持している。これは反動的な勢力だからこそやりやすいやり方であって、民主的な勢力にはこのような情報統制的なやり方は支持者からの支持が得にくいという点だけで見ても不利である。この点はリベラル側の勢力にとっての課題の一つとなっているように思われる。



 つまり、同じ志向を持つ人びとがコミュニケーションをする場合、人びとは連帯意識や自分たちの正しさを再確認し、自分の思い込みを強化していくいのが一般的である(だからこそ集会は今も昔も重要な政治的動員の手段となる)。その地域で共和党支持者が多ければ多くの人びとが共和党に、反対に民主党支持者が多ければ多くの人びとが民主党に投票することになると推定するのが当然であり、アメリカでは、だから「ブルー・ステイツ(民主党常勝州)」と「レッド・ステイツ(共和党常勝州)」が存在する。(p.84)


新しい人が参加してこなくても同じ人たちだけで集まっていれば集会には意味があるということか。この点はあまり考えたことがなかった、というか、そんなことをして意味があるのかとさえ考えていたが、やはり意味はあるようだ。



アメリカの大統領選が「政策の選択」ではなく、単なる候補者の「人気投票」に過ぎず、あまりにも大統領の人格や性格が注目されすぎるというコメントが聞かれることがあるが、それは政治の本質を理解していない証である。アメリカの多くの青少年は大統領の権威を認めるなかで、徐々に民主政治を実現する政治制度への愛着を持つようになると言われる(Hess & Torney 1967)。自分よりも上位の権威に愛着を持ったうえで自分の存在を受容し、そしてその権威が保障する制度そのものに愛着を持つようになるというプロセスは、民主政治のなかの重要な契機なのであって、それゆえアメリカ大統領選では候補者の人格や生活態度一般までもが厳しい目で見られるのだ。(p.94)


この指摘はもっともだが、共同体の善を実現するためにどのような方法をとっていくのか、つまりどのような政策を実行していくのか、ということは軽視されるべきではなく、政治指導者の人格や性格などよりも重視される「べき」ものであるように思われる。その点で、人気投票的な形で選挙が行われる傾向の中、政策の妥当性をどのように担保していくのかということが、もっと厳しく問われるべきではないかと思う。


瀬畑源 『公文書管理と民主主義 なぜ、公文書は残さなければならないのか』

 1980年代に、対日貿易赤字が深刻になったアメリカのレーガン政権から、日本の官僚による行政指導や基準・認証制度などを利用した企業活動への介入が、アメリカからの貿易障壁となっているとの批判を受け、行政手続きの透明化や情報公開制度の導入を行うように求められました。日本の官僚制が、企業活動に「行政指導」を行うことで介入し、自由な経済活動を阻害しているとの問題意識が、当時のアメリカには存在したのです。たとえば、日本企業はアメリカの情報自由法によって、競合他社の薬品の製造認可申請書を米国食品医薬品局から入手できますが、日本側は公開されていなかったことが問題にされていました。
 そこで、官僚からの恣意的な介入を批判し、企業情報の公開を迫ったのです。1989年から90年にかけての日米構造協議でも、同様の主張がなされました。
 そのため、市民からの要望とアメリカからの要望の両方からの圧力により、日本政府は行政手続きの透明化を図るための行政手続法を1993年に制定することになりました。(p.32-33)


ここで重要なのは、日本政府はこうした外圧がなければ行政手続法を制定しなかっただろう、ということである。手続きの透明化やルールの明確化などにいかに後ろ向きだったのか、ということに注意が必要である。それは、次の引用文で語られることともつながっている。



 情報公開運動が地方や民間で進み、アメリカからの要望があったにもかかわらず、政府の動きは鈍く、情報公開法の制定には、1993年の自民党の下野が必要でした。(p.33)


自民党がいかに情報公開に後ろ向きなのか、行政の透明化(公平さや公正さを確認できるようにしておくこと)を避けようとしてきたのか、といったことはよく理解しておく必要がある。この政党の存在や活動自体が、情報公開や行政の透明化、さらには法の支配や立憲主義といったルールを適正に適用しようとする考え方に対して敵対的なのである。それは、一般の市民にとって敵対的であることを意味する。一般の市民には必要な情報を知らせずに、自分たちだけで情報を独占し、都合の悪い情報は隠蔽し、税金として市民から強制的に集めた金を自分たちに都合の良いように恣意的に使おうとしているということだからである。(常にそのように振舞うのではないとしても、こうした行動を防ごうとしていないのであるから、このように振舞おうとしていると指摘されても、それに反論することは事実上不可能である。次の引用文における安倍政権の対応を見れば、一目瞭然であろう。)

90年代を通じて行われた政治改革による制度の変更は、こうした隠蔽体質、恣意的な権力行使の志向をさらに強めることになった。こうしたお膳立てが揃った上で、これを最大限に利用しているのが安倍政権である。特に、90年代以前よりも格段に強くなった権限を利用してマスコミに批判をさせないことで、政権のイメージ悪化を防ぎ、何か仕事をしているかのような印象操作をしていることが大きい。



 では、現在の安倍政権はどのような方針で、公文書管理の問題に対応してきたのでしょうか。
 実は安倍政権は、加計問題への対応策として、2017年12月に公文書管理法の運用規則である「行政文書の管理に関するガイドライン」の改正を行っています。この改正では、公文書の作成に関して、文書の「正確性」を期するために、複数の職員による確認を経た上で「文書管理者」(課長級)が確認すること、また外部との交渉記録に関しては相手からも確認をとることが付け加えられました。
 加計問題では、文部科学省から様々な文書が出てきましたが、安倍政権はそれらの文書を「怪文書」にしたい、つまり公文書ではないと言い切りたかったのでしょう。そのために、複数の人が確認し、課長が認めたものでなければ行政文書ではない、というルールを作りあげてしまった。(p.42)


このことはもっと広く知られるべきであり、こうした常軌を逸した行動は改めさせなければならない。安倍政権はいかに情報を隠すかに関心があり、いかに自身に都合の良い情報だけを社会に行き渡らせるかということに腐心している。ある意味、恣意的に権力を行使するために恣意的に権力を行使している。



 私は、森友・加計問題、中でも近畿財務局で起きた問題からは、「負の教訓」を得る人が大勢いるのではないかと危惧しています。文書の中に安倍昭恵さんの名前をきちんと書いてしまったことがまずかった、問題だったと受け止めた官僚は多いはずです。そうなると、官僚は当り障りのないことしか文書に残さないようになる。(p.44)


現に、「公開しない」という目的のために、公文書を作らない・記録は公文書ではないことにする・捨てるといったことが行われている。



 また、現場に担当官を置いたとしても、彼らにどのような権限を持たせるか、どのように教育を行うかということが問題になってきます。……(中略)……。
 ……(中略)……。そのためには、どのように各省庁への監督を行っているのかを、徹底的に公開すべきだと思います。「作るな」という指導をする可能性もありうる以上、管理監が行っていることの透明性が必要不可欠です。(p.45)


同感。
マックス・ヴェーバー 『政治論集2』(その3)
「職業としての政治」より

政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)、責任感(Verantwortungsgefühl)、判断力(Augenmaß)の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味での情熱、つまり「事柄(ザッヘ)」〔「仕事」「問題」「対象」「現実」〕への情熱的献身、その事柄を司っている神ないしデーモンへの情熱的献身のことである。それは、今は亡き私の友ゲオルク・ジンメルがつねづね「不毛な興奮」と呼んでいた、例の精神態度のことではない。……(中略)……。情熱は、それが「仕事」への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力――これは政治家の決定的な心理的資質である――が必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしまうこと」はどんな政治家にとっても、それだけで大罪の一つである。……(中略)……。
 だから政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離――この場合、自分自身に対する距離――にとって不倶戴天の敵である。
 ……(中略)……。政治家の活動には、不可避的な手段としての権力の追求がつきものだからである。その意味で「権力本能」――と一般に呼ばれているもの――は政治家にとって実はノーマルな資質の一つである。――ところがこの権力追求がひたすら「仕事」に仕えるのでなく、本筋から外れて、純個人的な自己陶酔の対象となる時、この職業の神聖な精神に対する冒瀆が始まる。政治の領域における大罪は結局のところ、仕事の本筋に即しない態度と、もう一つ――それといつも同一ではないが、しばしば重なって現われる――無責任な態度の二種類にしぼられるからである。(p.596-597)



ここは、この講演で最も有名な箇所の一つだろう。この個所を読むとき、必ず私の念頭に現れる政治家がいる。安倍晋三である。彼ほどここで批判されている対象としてふさわしい政治家はいないと思われるからである。

事柄に即するというsachlichな姿勢は安倍には全く見られない。事実には即していないが自分の情念に従って教育基本法や憲法を変えることを願い、それを実行し、あるいは実行しようとしている。

責任についても、彼は常に権力の座に「へばりつく」。つまり、彼が取り組むには不適格な課題に立ち向かわなければならないときには、本来、潔く権力の座を去るのが「官僚」ではない「政治家」の責任のとり方であるにもかかわらず、実際には、彼が取り組むには不適格な課題(例えば、森友や加計問題のような彼自身が疑惑の根源である問題――彼自身が隠蔽するための最大の誘因を持っている問題――の事実を解明し、再発を防止する)を、自分(とその仲間)が解決に向けて取り組むなどと頓珍漢なことを言い続ける。(結果、事実の隠蔽が行なわれている。)

もちろん、判断力と訳されている「距離をとる感覚」など安倍にはみじんも見られない。周囲の人間もそのことを分かっているからこそ、事実を都合よく曲げることに意を注いでいるというべきだろう。森友や加計問題に関する追求に対する政府の応答然り、統計不正に絡んで経済指標を実態より良く見せようとしていたこと然り。安倍自身がどの程度細かく指示していたかは別として、彼自身はそのような願望を持っていることは、彼の言動からははっきりと見て取れるし、周囲の人間がそれに呼応して動いてきていることを否定する要素は何もない。(それに対して、そうしたことが起こったことを示す状況証拠はいろいろある。

政治における大罪として、その根源としての「距離を失ってしまうこと」、その結果としての「事柄の本筋に即しない態度(sachlichでない態度)」と「無責任な態度」。すべてが安倍の政治には当てはまっている。大罪しかない政治と言ってもよいかも知れない。大罪を犯したのであればそれ相応の裁きを受ける必要があると考える。(政権を交代し、安倍のやってきたことを検証することが必要である。自民党ではこれはできない。)



戦争の道義的埋葬は現実に即した態度(ザッハリッヒカイト)と騎士道精神(リッターヒッヒカイト)、とりわけ品位によってのみ可能となる。しかしそれはいわゆる「倫理」〔自己弁護の「倫理」〕によっては絶対不可能で、この場合の「倫理」とは、実は双方における品位(ヴュルデ)の欠如を意味する。(p.600)


以前読んだときはこの件にはあまり引っ掛かりを感じなかったが、今回は強く共感した箇所。ここで言われていることは正しい。ここでの「倫理」は訳者の注釈によると自己弁護の「倫理」のことだというが、これを「歴史修正主義的なもの」と理解すると現代日本にも完全に当てはまる


マックス・ヴェーバー 『政治論集2』(その2)
「新秩序ドイツの議会と政府」より

民主化とデマゴギーとは切り離せない対をなしているが、これは――繰り返し述べるように――国家制度の種類とはなんの関係もない大衆を完全に受動的な行政の対象として扱うことがもはやできなくなり、大衆が大衆の立場から、なにかの仕方で重要な役割を積極的に果たすようになりさえすれば、民主化とデマゴギーのあの関係が成立するのである。現代の君主制も、事実それなりの仕方で、デマゴギーの道を歩んでいる。(p.428-429)


ヴェーバーが生きた時代は、デマゴギーの時代、現代のよりポピュラーな言葉で言い表せば、ポピュリズムの時代になってきていた。



あらゆる政治問題において軍事の権威が政治指導に従属すること、これは絶対に必要なことである。問題を政治的に決定するに当たっては、軍事状況にかんする軍事的権威の判断もまた、むろんつねに決定的に重要となる。けれどもこの判断だけで決定が下されるようなことがあっては絶対にいけない。(p.471)


第二次大戦へ向かう日本の失敗もこうしたものだが、第一次大戦の頃からのドイツもまたこうした状況があった。



 国民的な誇りとは、結局、国民を構成する者が――少なくとも可能性として――自国の政治の形成にどのくらい能動的に参画しているか、その程度の関数なのである。(p.478-479)


ここ10年か15年くらいの間、やたらと「誇り」という言葉が右側から聞こえるようになり、次第にそれが浸透してきているのを感じる昨今であるが、「国民的な誇り」というものがあるとすれば、確かに、ヴェーバーがここで言っているようなものであるべきであろう。

しばしば、「日本の技術」――これについては、「そもそもそんなものがあるのか?」と疑義を呈しておこう――や「日本の文化」なるものに対して、賛美した上で、「誇りに思う」などという言説が垂れ流されることがあるが、その時に常々思うのは、その発話者に対して「お前はそれを形成するにあたって、どの程度の積極的な貢献をしたのか?」ということである。自分が所属していたチームなり会社なり集団が、ある技術を開発し、自分自身もその開発にある程度の貢献をしたと自他に対して説明できる又は、それを認識している人々が説明をしなくても実感し、それを共感しているような場合、その技術の開発に貢献できたことに対し「誇りに思う」と言って差し支えない。しかし、何ら具体的な貢献もしていない人間が同じように言った場合は、「それはお前の功績ではない」と皆に一笑に付されるべきである。こうした政治的な思惑が絡んでいる言葉は、正しく使わなければ、認識がどんどん歪んでいくことになる。このことに危機感を持つべきであろう。



政治的に成熟した民族のみが「王者の民族(ヘレンフォルク)」である。「王者の民族」とは、じぶんの問題の処理にたいする統制を手にし、じぶんの選んだ代表者を通じて政治的指導者の選抜に決定的に参画する民族のことである。そうした王者の民族にふさわしいことがらを、この国民は――ビスマルクの偉大な政治的支配者精神にたいする反作用を介して――とり逃してしまった。ひとたび身を持ちくずした議会は、そうやすやすとは立ち直れない。(p.479)



王者の民族なるものが存在することや存在すべきこと――これはヴェーバー自身のかねてからの持論ではあるが――については、同意しかねるが、単に手続きだけでなく、また、単なる結果だけでもなく、実質的に民主的な政府を形成することができる人びとをこそ是とすべきという点では同意できる。残念ながら現在の日本の人びとはここでヴェーバーが言う意味での「王者の民族」ではない。上記引用文の最後の一文は現在の日本の国会にも完全に妥当する。



「職業としての政治」より

しかし「官僚」というものは、デマゴーグとして強い影響力をもつ個性的な指導者には、わりと簡単にくっついてゆくものである。(p.584)


今までこの講演は何度も読んだが、あまりこの指摘には注目してこなかった。今回はこの点に非常に共感するところがあった。現状の政治に対する感覚や知識が変わってくると同じものを読んでも見え方は変わってくる。

ヴェーバーは当時のドイツでは政治家としての立場の人間たちも「官僚」と同じように動いており、そのことを批判していた。したがって、ここでの「官僚」は行政官僚を示すものではなく、広義の官僚制的組織に属する官僚に当てはまる議論として語られていると見なければならない。

現代日本で私が強く感じるのは、自民党という政党(政党官僚組織を持つ)に所属する議員たちの言動が、ヴェーバーの言う「官僚」のようになっているということである。しかも、デマゴーグとして強い影響力を持っていなくても、制度的に総裁に権力が集中しているために個々の議員(党官僚)が組織に逆らいにくくなっているという点で、当時のドイツの政党(ないし、上記でヴェーバーが指摘する状況)よりも悪質なものとなっている点に危惧を覚える。



 ところで、このシステム全体はどのような効果を生んだか。今日イギリスの国会議員は、二、三の閣僚(と若干の奇人)を除いて、一般に訓練の行き届いたイエス・マンに過ぎなくなっている。ドイツの国会では、自分の議席の机でせめて私用の手紙でも書いて、お国のために働いているようなふりだけはしたものである。こんなジェスチュアはイギリスでは無用である。議員は投票だけして党を裏切らなければよい。事情に応じて内閣や野党の党首(リーダー)から出される指令をおこなうよう、院内幹事(ホイップ)から呼び出しがかかれば、何はさておき登院しなければならない。強力な指導者がいる時の全国各地のコーカス・マシーンはほとんど無原則で、完全に党首(リーダー)のいいなりになる。こうして議会の上には、「マシーン」の力を借りて大衆の支持を得た独裁者――事実上人民投票的な――が君臨し、議員はこれに追従する政治的な受禄者に過ぎなくなる。(p.586-587)


これはまさに現在の日本の政党のあり方と同じである。


マックス・ヴェーバー 『政治論集2』(その1)
「新秩序ドイツの議会と政府」より

とにかく調査権があるというだけで、行政長官は調査権が不要になるくらい答弁に立つことを迫られる、調査権はそうした鞭のようなものである。この権利をこういう仕方で行使したところに、イギリス議会の挙げた見事な成果のもとがある。さらに、イギリス官僚層の廉潔もイギリス国民の政治教育の水準の高さも、そのもとは、主としてここにある。委員会の討議がイギリスの新聞とその読者層に監視される仕方をみれば、政治的成熟度を測る最上の物差しがえられる、とはよく言われることである。政治的成熟度というものは、不信任投票とか大臣弾劾とか、フランス・イタリア式の無組織な議会政治にみられるこの種のスペクタクル大興行によって示されるのではなく、国民が官僚層によって自分たちの用件が処理される仕方に通じていて、たえずそれを監視し、それに影響を与えるところに示されるからである。強力な議会の委員会だけがかような教育的効果の波及してゆく根拠地であるし、ありうるのである。が、官僚層そのものもこれによって究極的に得るところがあるはずである。(p.386)


ヴェーバーの持論がよく出ている箇所の一つと思われるし、現代日本の政治状況を考えるに当たって重要なポイントでもある。

官僚(行政)の権力の源泉の一つが専門知識にあることを喝破したことでもヴェーバーの議論は知られているが、ここでもこの指摘に続いて上記の引用文が述べられている。官僚層の専門知識や秘密知識を監視するための権限を議会に与えることが、行政による権力の暴走を防ぎ、適切な事務が行われることに繋がるというわけである。ヴェーバーのこの指摘は普遍妥当的な内容である。

現代の日本でも国政調査権などが国家(両議院)に与えられており、これに基づいて様々な質問がなされ、日々いろいろな事実が明らかにされている。こうした権利が極めて重要なものであることは疑問の余地がない。しかし、現代日本の政治の動きを見ると、ヴェーバーの議論だけでは物足りないと感じざるを得ない。

例えば、上の引用文で言えば、「強力な議会の委員会」と述べられている。ヴェーバー当時の調査権がない帝国議会の状況を考えれば、調査権があるというだけでかなり強力になるのは確かだが、形式上、調査権があるだけでは十分に強力な議会、強力な委員会とは言えないということは、現代日本の政治を見ると明らかである。日本のような議院内閣制を採用している場合、議会の多数派と内閣とはほぼ一体のものとなる(最近30年ほどでその傾向をさらに強化する方向で様々な政治改革が行なわれた)。この状況の下で、議会の少数派がどのような質問をしても、議会多数派と内閣が共謀することによって不都合な質問に対してはゼロ回答で済ませることができている。このようにならないような質問権の規定が必要になる。回答する側に質問者を納得させる義務が生じるようでなければならない。

また、視点を変えれば、質問権自体の問題というよりも、内閣が官庁に対して不当な政治介入をできない仕組みが必要である。象徴的な事例を挙げれば、2014年の内閣人事局の創設と森友問題における佐川元理財局長の答弁姿勢とは極めて深い関係があると見なければならない不正を望む政治家(内閣)からの不当な要求を官庁の側がはねのけることができず、むしろ、それに従うことで昇進などの可能性があるという期待が生じるような仕組みは廃止すべきである。官庁内部の人事は官庁内で行う方が遥かに適切な行政運営ができるはずである。少なくとも、議会の少数派からの質問であれ、多数派からの質問であれ、回答する際に生じる差別(与党には多く答え、野党には少なくしか答えない)は現行制度よりもはるかに少なくなると見るべきである。

ヴェーバーの議論に戻ると、現代の日本の政治は、政府による不誠実な答弁が常態化することによって、国民が「自分たちの用件が処理される仕方」についてまともに知らされることがないため、それに精通することが全くできず、監視できていないために、それに影響を与えることができなくされている。こうして、ヴェーバーの用語を使えば、政治的成熟度が極めて低い国民を温存することになっている。



 調査権のふくむ唯一の難点は国法学者の指摘しているところだが、この指摘は実質的な意味で注目に値する。国法学者はふつうつぎのように主張する。帝国議会は議事規則の運用について完全に自律的であるから、ときどきの多数派は一方的に調査を中止することもできるし、自分に不利なことが明らかにならないようなかたちに調査を運ぶこともできる、と。この(間接的に)イギリスの理論から無批判に取り入れられた議事規則の自立性(帝国憲法第27条)が、この権利〔調査権〕に適合しないことは明瞭である。むしろ、法的規範によって信頼性の保障がつくり出されるべきである。この権利は、――当然のことながら少数派の弁論・質問・参考報告等の請求権とともに――とりわけ無条件に少数者の権利として(たとえば100人の代議士が要求すれば行使できる)かたちづくられねばならない。この権利は、将来いつか実現しうるあらゆる議会主義的「多数派経営」と、それのもつ周知の危険にたいして、公開の対抗力――これは諸外国にはないものであって、イギリスでもこれまでは政党相互間の礼儀にもとづいてのみ存在したにすぎない――を提示するためにも必要である。(p.392)



ヴェーバーが国法学者の見解として指摘している事態(ときどきの多数派が一方的に調査を拒否したり、自分たちに不利にならないように調査を進るということ)は、まさに現在の日本の政治(特に安倍政権下における政治)で現実に生じていることである。

ヴェーバーはこれに対して、このようなやり方は適切ではなく、調査権は「無条件に少数者の権利」でなければならないとする。極めて妥当な見解である。例えば、日本の現在の政治では、野党がある人物の参考人招致や証人喚問を求めても与党が拒否することで実現しないことが多々ある。(逆に言えば、それらの人に事情を聞かれることは与党や内閣にとって都合が悪いと自ら認めているということであり、この場合、野党側が抱いている疑惑は妥当なものとして前提しても差し支えないと私は考えている。こうした拒否の姿勢を多数派が示すことにより、多数派の方が潔白であることを自ら示す義務が生じる。こうした考え方が一般化しなければならない。)こうした状況に対して、ヴェーバーは少数者がある程度の人数で求めれば、彼らの求めのとおりに質問ができなければならないとしている。日本の制度もこうした考え方を導入すべきである。



誰でも思いあたる無数の経験によれば、昇進をもっとも確実に保証するものは、装置(アパラート)にたいする従順の程度、つまり上司にとって部下がどれほど「重宝」か、その度合なのである。選抜というものは、概して天成の指導者の選抜ではまったくない。……(中略)……。これにひきかえ、公権力に到達する政治家、ことに政党指導者は、紙上で政敵と競争者の批判を浴びることによって白日のもとに曝されるのであり、彼は、おのれにたいする闘争のなかで、自分の擡頭の前提となった動機や手段が容赦なく暴露されることを覚悟しておかねばならない。だから冷静に観察してみれば、政党デマゴギー内部における選抜が――長い眼で大局をみるとき――官僚制の閉ざされた扉の奥で行われる選抜に比して、わけのわからぬ標識を基準に行われるものではけっしてないことが明らかになるだろう。(p.427-428)


官僚と政治家のそれぞれの選抜を対比し、閉鎖的な方法による官僚と比べ、公開的な方法による政治家の方が大局的に見れば適切であるとしている。政治家が批判にさらされるのは確かにそうだが、これが機能するためには、公衆の側にそうした批判の意味を理解する能力や判断のために必要な情報が行き渡っていることが前提されなければならない。また、この議論は組織票のようなものが持つ力を軽視しすぎている点にも留意する必要がある。それに、多数決は多数の選択肢からの選択方法としては必ずしも適切とは言えないことなど、社会的選択理論が示す諸事実にも留意が必要である。

つまり、政治家の選抜も制度設計が適切でなければ適切な政治家が選ばれないことが続くということは十分にありうる話であり、二世三世四世の政治家ばかりが誕生する日本の政治の選抜制度は明らかに官僚の選抜方式に劣ると言って間違いない。





マックス・ヴェーバー 『政治論集1』(その2)
「第七次のドイツの戦時公債」の訳注より

 1914年10月から戦時中のドイツ軍最高司令部は「最高統帥部」(Oberste Heeresleitung)と称された。最高統帥権は皇帝にあったが、それは名目だけで、事実上はその時どきのドイツ軍参謀総長がこれを行使した。……(中略)……。ドイツ軍最高統帥部に特徴的なことは、それが政府の管轄下に位置づけられていない点、それゆえ軍部が政府に干渉し得た点にある。(p.242)


具体的な制度上の類似がどの程度あったかは別として、同時代の日本の軍部が政府に対して干渉したり独走したりできてしまっていた点と似ているように見える。



「ドイツにおける選挙法と民主主義」より

あるいはむしろこう問うた方がよいならば、ある階層が――本質的に封建的(「貴族(アーデル)」であるか、市民的(「都市貴族(パトリツィアート)」)であるかにかかわりなく――、政治的意味での貴族として機能し、政治的に役立つにはどのような条件が必要だろうか。第一の条件は、敵から経済的攻撃をうけるおそれのないことである。貴族とは、――これがもっとも基本的な前提条件であるが――国のために生きることができるものでなければならないが、国によって生きるものであってはならない。(p.291)


この議論は、若干ニュアンスを変えて『職業としての政治』でも繰り返される。現時点の私はこの議論には懐疑的である。国(政治)によって生きることをヴェーバーは否定的にとらえ、国(政治)によって生きなくても生活できる経済的余裕があることが、国(政治)のために生きることができる前提であると考えているようである。しかし、そうだろうか?確かに「のために」と「によって」という言葉は反対の意味を持っていると理解することもできる。しかし、ヴェーバーの議論を見ると、「ために」は生活態度ないし内面的なものを指しているのに対し、「によって」は経済的な条件を指している。

経済的に政府による扶助を受けていても、その国にとっての善を実現しようと努力することはできるのではないか?また、経済的には国(政治)によって生きていなくても、そうした政治家によって自らの(富裕層ばかりの)生計の手段を守るような政治がなされるということは常に見られてきたことである(この点はヴェーバーも言及している)。したがって、言葉の上では「~のために」と「~によって」とは確かに対立的な意味を持つが、ヴェーバーの議論においては内的な意味で「~のために」が語られ、外的な意味で「~によって」が語られているため、意味内容としては対立するものではないにもかかわらず、あたかも対立的であるかのように語っており、この点で誤っている(不当である)と思われる。

なお、この区分による議論は、現実の政治家の動きとも合致しないため、理論的な枠組みとしても現状分析には堪えないと考える。



「国内情勢と対外政治」より

ストライキの起こりやすい雰囲気が作られたのはそんなことではなく、一、ドイツの外交政策がデマゴギー的なやり方で扱われ、立派な精神を持っているすべての人々から見放されるような全くの個人的動機から発するアジテーションが行なわれたためであり、二、この国の指導的人物、とくに軍隊指導者が受けていた信用という資本を使って、遠慮会釈のない党派的狂奔が行なわれてきたためである。
 冷静な戦争目的を冷静な話し合いによって労働者たちに理解させるのは決して難しいことではない。敵はそうやって成功しているのである。イギリスの大臣は皆〔労働者との〕討論の機会を探す。しかも――ここが〔ドイツと〕違うところだ!――多くの場合、労働者が、たとえ客観的にはどんなに不当な理由からであれ不信を抱いている時に、あるいはストライキで脅かしている時に、そうするのである。イギリス政府が、ひどい物資の欠乏状態にありながら、しかも外国の、それも(エルザス)併合という戦争目的に対してこれまで労働者の戦争意欲を維持することに成功していることは、何といっても、「民主的な」やり方のよさを明瞭に物語っている。それは信頼の成果なのであり、この意味で「民主的な」国家は――たとえ「民主的」という言葉がわが国では極めて不快な感じで受けとられるとしても!――そうした信頼によって、外交上決定的な時点で「より強力な」国家であることが証明されている。(p.323)


前段の記述は、第一次大戦当時のドイツにおいてポピュリズム的な状況があったことを推察させる。ヴェーバーはこうした状況下で「デマゴーグ」(デマゴギー)や「カリスマ」といった概念を使用していたということは押さえておくべきところだろう。

後段はイギリスの政治を持ち上げつつ、ドイツの政治状況を批判しているが、民主的な討論や説得によって人々の納得の度合いが上がり、国全体としての意思が政府によってより強く代表されるようになることについての指摘として読むと、現代の日本や大生の国の状況を考える上で参考になる。

例えば、果たして現代の日本の政治、特に安倍政権下での政治において、このような討論や対話や説得といったものがあっただろうか?2月24日に行われた沖縄の住民投票(辺野古への基地移設の是非が問われた)に対する安倍政権がとってきた態度はいかなるものだったか?口先だけの空疎な「沖縄の民意に寄り添う」という発言だけが繰り返されつつ、実際には民意を一顧だにせず政府の意思のみを貫徹しようとする。しかも、沖縄県に対して法を曲げて審査請求をするという暴挙まで行って、といった状況を見ると、現代日本にはヴェーバーがここで述べているような意味での「信頼」は存在できず、民主的国家の強みというものも全く見当たらないと言わざるを得ない。

その弱さを補強するために行っているのがメディアへの牽制とコントロールである。情報統制によって政府に不都合な情報を流させないようにする。こうして、人々を事実から遠ざけることによって、政府がでたらめなことをやっていても、人びとがそれに気づかなかったり、問題意識を持つこと自体が妨げられるため、反発を受けにくくする。現在の日本の政治の運営はおおよそこのような状況であると言えるだろう。

ちなみに、ここ数か月にわたり議論されている毎月勤労統計などに関する不正や政治介入の有無についての議論も、これまで出てきている情報から見て、統計が不当な状態であることに付け込んで政権にとって都合の良くなるような政治介入も行なわれたと見るのが自然であろう。だからこそ政府は事実を隠そうとし、情報を出さないようにしている。森友・加計問題でこの方法が政府としては成功したと捉えているので、同じ手法を使っているという点には留意すべきである。安倍政権にとってはあのやり方が都合がよいのである。つまり、疑惑は事実だと見るのが妥当であって、本来は疑惑が事実ではないことを証明する責任は政府の側にある、という考えが人々に共有されなければならない



マックス・ヴェーバー 『政治論集1』(その1)
テーオドーア・ホイス 「マックス・ヴェーバーとその現在」より

 マックス・ヴェーバーという現象は、目覚めている同時代の人にとって、そして、耽溺的な怨念の虜となったり、耽美的な気取りのために憂き身をやつしたりはしない青年にとって、なにを意味したか。これについてヨーゼフ・シュンペーターは、〔ヴェーバーの〕突然の死に打ちのめされてまだ動揺の続くなかで、次のような飾らぬ簡潔な言葉を発した。「彼の勢力圏を通ってきた者は、将来をよりはっきりと見るようになり、将来に向けてより健やかにになった」と。(p.34)



このシュンペーターの言葉は、私にも確かに実感がある。



「ヨーロッパ列強とドイツ」より

 わが国の対外的利害は、純然たる地理的条件に著しく規定されています。わが国は権力国家です。どの権力国家でも、他の権力国家が隣接していることは、その国の政治的決定の自由にとって障害となります。なぜなら、隣接の権力国家のことを考慮しなければならないからです。どの権力国家でも、できるだけ弱い国に、せめてできるだけ少数の権力国家にしか取り巻かれないことが望ましいのです。ところが、ドイツだけが大陸の三大強国と国境を接し、しかもそのうちの最強国と隣接し、その上最大の海軍国とは間接的に隣り合わせです。したがってこれらの国々の邪魔になっています。わが国の運命はこのように定められています。地上のいかなる国といえども、このような位置にある国は他にありません。(p.178-179)


ドイツ帝国成立後のヨーロッパにおける地政学的な位置を的確にとらえている。ドイツが統一される以前には、逆に、ドイツの地域は小邦が分立していた権力の空白地帯であったために、緩衝地帯として機能してきたものが、統一国家ができたことによって緊張の場となった。このことが第一次大戦や第二次大戦が発生し、どちらにもドイツが深く関わることとなった要因であった。

ちなみに、ドイツが隣接する三大強国とはイギリス、フランス、ロシアである。



いずれにせよ、今日のわれわれが政治的観点からではなく、たとえそれがどんなに納得のいくものであろうとも、憎悪の感情からわが国の政治目標を定めようとするなら、愚かなのはわれわれの方です。わが国に対する憎悪は、フランスがもっとも強く懐いています。ところがわが国では、憎しみはもっぱらイギリスにたいして向けられています。これは、オーストリアの憎しみがイタリアにたいしてのみ向けられているのとちょうど同じです。双方のばあいについて憎しみが人間的にみていかに納得できるものであろうとも、――おそらく!――今大戦中に犯した真の失策は、まさしくこの憎悪という冷静さの欠如(ウンザッハリヒカイト)から生じたのです。
 さらに、冷静な政治とは虚栄の政治、すなわち大言壮語や切り札の政治ではなく、無言の取引の政治を意味します。(p.180)


最後の一文などは、明らかにヴィルヘルム二世に対する批判が含まれているが、上記引用文は全体として現在のアメリカのトランプ政権に当てはまる批判になっているように思われる。

特に「虚栄の政治、すなわち大言壮語や切り札の政治」というのは、まさにトランプのやっていることであると思われる。メキシコ国境の壁建設というあたりも憎悪の政治であるし、貿易赤字を問題視して中国などと貿易戦争をするというのも、中長期的に見て、アメリカの世界での覇権喪失を早める結果になるように思われ(中国の企業はむしろアメリカの態度を逆手にとって中国政府の国有企業優遇を改めさせ、それによって民間企業の活力を高める方向に利用しようとしている向きもある)、そうだとすれば、「アメリカファースト」「アメリカを再び偉大にする」というスローガンとは逆の事態を招くものであろう。



「帝国憲法第九条の改正」より

 議会に所属している指導的な帝国官職の保持者がそのままの資格で連邦参議院の使節に任ぜられるなら、彼は、決定的に重要な点で自分の政治的信念に反するようなやり方で訓令をうけたときには、職をやめなければならない。指導的為政者ならば、すでに今日でも、そのように行為すべきであったのだ。このことを行政の長にしっかりと教え込むことが、まさしく意図された改革のもっとも重要な目的のひとつであることは言うまでもない。この改革によって、わが国では相変わらず、為政者の責任と官吏のそれとが混同されているという状態に終止符がうたれることが望ましい。両者の責任のとり方は、まったく別である。責任はいずれの職にもあるが、しかしそれぞれの職にのみふさわしい責任というものがある。官吏は、上級の官庁が彼に与える指令に重大な疑義を抱くときは、報告と異議申し立てによってその疑義を認めさせることができるし、重要なばあいにはそうすべきである。しかし上級の機関が彼の意見に反して指令に固執するならば、誠実にしかも自分自身の意見をまったく押えて、これを実行することが官吏の職務上の義務というものである。こうしたことができる能力こそが、彼の職務名誉となる。政治的に責任のある国政担当者は正反対である。彼は政治的に決定的な点で、自分の良心にしたがった政治的信念と一致するような訓令を出せないときは、いつでも職を去らねばならない。彼がそうしないなら、それは軽蔑すべき政治的義務の不履行であって、彼の〔政治的〕節操のうえに重大な汚点を残すことになる。このような人間のことを、ビスマルク候はへばりつきやと呼んだのであった(彼は、たいしたことのない問題ではあの原則どおりに行為した)。(p.236-237)


帝国憲法9条の改正はウェーバーが繰り返し主張していた論点の一つである。そのことの詳細はここでは説明しないが、ここで述べられている官吏の責任と政治家(国政担当者)の責任の対比は、『職業としての政治』などでも繰り返される有名な区分である。ウェーバーは当時のドイツの政治状況について、ドイツでは政治家が育たず、官吏が政治を行っているとして嘆いていた。すなわち、政治的に指導的な立場にあるべき職にある者が、ウェーバーのいう政治家の責任において行為するのではなく、官吏と同様にしか行為できていないことを問題視していた。

この点は、現在の日本の政治(特に安倍政権になって目立つようになってきた問題)にもかなり当てはまる批判ではないか。特に責任のとり方という点で、安倍はある大臣(総理大臣を含む)が不祥事を起こした場合であっても、その不祥事についての事実の解明や再発防止の取り組みなども、その大臣が職を全うすることで責任を果たしたい、という論を主張する。まさしく「責任」という言葉の曖昧さを使った論の立て方で、欺瞞的であり汚いやり方という点で非常に安倍晋三に似つかわしいとは思うが、このようなやり方にメディアなどが十分に論理的に批判していない点は問題である。これを許していると戦前のドイツの轍を踏むことになってもおかしくない。

ある大臣が不祥事に関わった(と疑われる)ならば、その人にとっては、その問題は解明したくない問題となる。解明したくないはずの人間が、その解明や再発防止を実施することで責任を果たすというのは、ウェーバーの言う官吏の責任のとり方である。その場合、必要なことは、解明や再発防止といった課題に対し「誠実にしかも自分自身の(解明したくないという)意見をまったく押えて」実行することである。果たしてこのようなことが可能だろうか?少なくとも、ここ数年、安倍政権下で起こった様々な政府の不祥事とそれに対する「職を全うすることで責任を果たす」とした人々が関わっている案件で、これが実行されたと思えるような事例は皆無である。

官吏の場合、職務上の権限の範囲などが明確に決められており、何より常に彼より上位の権限を持ち、同じ組織に属するために日ごろの言動をチェックすることもできる官吏が監督するという建付けになっているからこそ、誠実に、官吏自身の意見に固執せずに実行することも一般社会よりはやりやすい。しかし、大臣という立場にいる者には同じことを期待することは不可能と言ってよい。彼を監督すべき代議士たちは、官庁の中におらず、同じ情報を共有できない立場にあることがその要因の一つである。自分に権限を与えている側の人間に対して、いくらでも隠し事ができるという考えが共有されている場合(ここは安倍政権で起こった様々な不祥事への行政側の国会に対する対応を念頭に置いている)、誠実な対応などと言うものが期待できると思う方がおかしい。

現代日本の場合、国会には国政調査権があるが、これが機能しない仕組みが現在の制度には別途組み込まれてしまっている。官僚の政治家による任用がその最たるものである。このような仕組みにより、内閣に都合の悪い情報はもみ消されることになる。90年代の政治改革による「政治主導」「官邸主導」を追求した結果がこれであり、安倍晋三という、極めてずる賢く、公正さのかけらもない人物が権力を握ったことによって、制度の問題がはっきりと露呈するようになった。彼の力量が優れているからではなく、彼のような人間にとって都合の良い制度設計になってしまっている(それは権力を握った者以外にとっては不利益以外の何物でもない)という理解はもっと広く共有されるべきである。



岡本全勝 『明るい公務員講座』

 私は、部下が説明に来てくれたら、その案を作るに当たって誰に相談したか、どのような前例や類例を調べたかを聞きます。ただし、何でも前例通りでは困ります。それらの中で最も良いものを参考にして、それをさらに良くするか、あるいはこれまでの事例を前提として、違った発想でより良い案を考えてほしいのです。あなたの能力を発揮するのは、前例を踏まえた上での、改良であり改革案です。(p.31-32)


行政に関するステレオタイプ的な非難として前例踏襲ということが言われた時代があった(現在でもなくなったわけではないだろうが)。確かに行政に限らず広義の官僚制のような組織(当然、多くの民間企業も含まれる)では、前例踏襲をベースとして動かざるを得ないとか、あるいはそのように動くのが最も自然であり無駄も少ないといった場合は多い。その中でそれをどのように改良したのかということは著者が言うように重要なポイントである。本書の特徴は、多くの個所が(明示的であれ暗示的であれ)上司の立場から書かれることによって、よい部下とはどのように振舞うべきものなのか、といったことを感得できるところにあるように思う。同時に、上司の側から書かれることによって、読者の側も部下に対してどのように対処するかということの参考にもなり得ているように思う。この分野の本で本書は結構売れているようだが、こういったところにも要因があるのではないかという気がする。



 そもそも、「きょう中に片付けなければならない」というような、スリリングな気持ちを味わわなくてもよいように、めどを立てて、早め早めに片付けておくことが重要です。そのためには、1日単位で仕事を管理していては駄目なのです。例えば1週間単位で管理しましょう。来週中に片付ける課題一覧を、書き出しておきます。きょうの予定をきょう考えているようでは、駄目なのです。(p.44-45)


今日の課題を今日考えているようではダメ、というのは、私も仕事をするようになってすぐに気づいたことだった。確かに、「仕事ができない」と周囲から言われるような人は、大抵こうした状態かそれに非常に近い状態にあるように見える。

本書を読んで参考になったのは、1週間単位で仕事を管理するという点である。ここまではっきりと単位を決めて管理するというところまでは私も考えていなかったかもしれない。仕事が発生する時期と今やっていることをこなし終わるまでにかかる時間、さらにイレギュラーが発生した際に対応するための余力を計算に入れて比較的大きな仕事のまとまりの期間で考えていたが、単位を明確化することによって、さらに細かく進行管理ができるように思われる。試してみたい。



「仕事ができる」という評価には、相手に信用されることも含まれます。(p.169)


確かに。信用されるかされないか、どのくらい信用されるか、ということは、相手によって変わってくることになるから、同じ人の仕事ぶりであっても人によって評価は変わってくるということにもなる。



 格言にあるように、あなたは、他人を外見で評価してはいけません。しかし、あなたは外見で評価されていることを、忘れてはいけません。(p.169-170)


なるほど。良い心がけかもしれない。本書(著者)の価値観は評価されて出世することを是とするところから書かれているので、その目的にとっては非常によく適う行動規範であると言える。そうでない場合であっても、このような基準で振舞うことは相手に良い印象を持ってもらえるものであり悪いものではない。



出来の悪い部下は、あなたを磨く練習問題です。そう思って、平常心を保ちましょう。(p.210)


確かに。しかし、「出来の悪い上司」の場合は、「練習問題」程度では済まされないことが多い。人事が情実で行われたり、上司から見て使いやすいだけの者が昇進するような組織だとこうした問題が頻発することになる。