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アヴェスターにはこう書いている?
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マックス・ヴェーバー 『政治論集1』(その1)
テーオドーア・ホイス 「マックス・ヴェーバーとその現在」より

 マックス・ヴェーバーという現象は、目覚めている同時代の人にとって、そして、耽溺的な怨念の虜となったり、耽美的な気取りのために憂き身をやつしたりはしない青年にとって、なにを意味したか。これについてヨーゼフ・シュンペーターは、〔ヴェーバーの〕突然の死に打ちのめされてまだ動揺の続くなかで、次のような飾らぬ簡潔な言葉を発した。「彼の勢力圏を通ってきた者は、将来をよりはっきりと見るようになり、将来に向けてより健やかにになった」と。(p.34)



このシュンペーターの言葉は、私にも確かに実感がある。



「ヨーロッパ列強とドイツ」より

 わが国の対外的利害は、純然たる地理的条件に著しく規定されています。わが国は権力国家です。どの権力国家でも、他の権力国家が隣接していることは、その国の政治的決定の自由にとって障害となります。なぜなら、隣接の権力国家のことを考慮しなければならないからです。どの権力国家でも、できるだけ弱い国に、せめてできるだけ少数の権力国家にしか取り巻かれないことが望ましいのです。ところが、ドイツだけが大陸の三大強国と国境を接し、しかもそのうちの最強国と隣接し、その上最大の海軍国とは間接的に隣り合わせです。したがってこれらの国々の邪魔になっています。わが国の運命はこのように定められています。地上のいかなる国といえども、このような位置にある国は他にありません。(p.178-179)


ドイツ帝国成立後のヨーロッパにおける地政学的な位置を的確にとらえている。ドイツが統一される以前には、逆に、ドイツの地域は小邦が分立していた権力の空白地帯であったために、緩衝地帯として機能してきたものが、統一国家ができたことによって緊張の場となった。このことが第一次大戦や第二次大戦が発生し、どちらにもドイツが深く関わることとなった要因であった。

ちなみに、ドイツが隣接する三大強国とはイギリス、フランス、ロシアである。



いずれにせよ、今日のわれわれが政治的観点からではなく、たとえそれがどんなに納得のいくものであろうとも、憎悪の感情からわが国の政治目標を定めようとするなら、愚かなのはわれわれの方です。わが国に対する憎悪は、フランスがもっとも強く懐いています。ところがわが国では、憎しみはもっぱらイギリスにたいして向けられています。これは、オーストリアの憎しみがイタリアにたいしてのみ向けられているのとちょうど同じです。双方のばあいについて憎しみが人間的にみていかに納得できるものであろうとも、――おそらく!――今大戦中に犯した真の失策は、まさしくこの憎悪という冷静さの欠如(ウンザッハリヒカイト)から生じたのです。
 さらに、冷静な政治とは虚栄の政治、すなわち大言壮語や切り札の政治ではなく、無言の取引の政治を意味します。(p.180)


最後の一文などは、明らかにヴィルヘルム二世に対する批判が含まれているが、上記引用文は全体として現在のアメリカのトランプ政権に当てはまる批判になっているように思われる。

特に「虚栄の政治、すなわち大言壮語や切り札の政治」というのは、まさにトランプのやっていることであると思われる。メキシコ国境の壁建設というあたりも憎悪の政治であるし、貿易赤字を問題視して中国などと貿易戦争をするというのも、中長期的に見て、アメリカの世界での覇権喪失を早める結果になるように思われ(中国の企業はむしろアメリカの態度を逆手にとって中国政府の国有企業優遇を改めさせ、それによって民間企業の活力を高める方向に利用しようとしている向きもある)、そうだとすれば、「アメリカファースト」「アメリカを再び偉大にする」というスローガンとは逆の事態を招くものであろう。



「帝国憲法第九条の改正」より

 議会に所属している指導的な帝国官職の保持者がそのままの資格で連邦参議院の使節に任ぜられるなら、彼は、決定的に重要な点で自分の政治的信念に反するようなやり方で訓令をうけたときには、職をやめなければならない。指導的為政者ならば、すでに今日でも、そのように行為すべきであったのだ。このことを行政の長にしっかりと教え込むことが、まさしく意図された改革のもっとも重要な目的のひとつであることは言うまでもない。この改革によって、わが国では相変わらず、為政者の責任と官吏のそれとが混同されているという状態に終止符がうたれることが望ましい。両者の責任のとり方は、まったく別である。責任はいずれの職にもあるが、しかしそれぞれの職にのみふさわしい責任というものがある。官吏は、上級の官庁が彼に与える指令に重大な疑義を抱くときは、報告と異議申し立てによってその疑義を認めさせることができるし、重要なばあいにはそうすべきである。しかし上級の機関が彼の意見に反して指令に固執するならば、誠実にしかも自分自身の意見をまったく押えて、これを実行することが官吏の職務上の義務というものである。こうしたことができる能力こそが、彼の職務名誉となる。政治的に責任のある国政担当者は正反対である。彼は政治的に決定的な点で、自分の良心にしたがった政治的信念と一致するような訓令を出せないときは、いつでも職を去らねばならない。彼がそうしないなら、それは軽蔑すべき政治的義務の不履行であって、彼の〔政治的〕節操のうえに重大な汚点を残すことになる。このような人間のことを、ビスマルク候はへばりつきやと呼んだのであった(彼は、たいしたことのない問題ではあの原則どおりに行為した)。(p.236-237)


帝国憲法9条の改正はウェーバーが繰り返し主張していた論点の一つである。そのことの詳細はここでは説明しないが、ここで述べられている官吏の責任と政治家(国政担当者)の責任の対比は、『職業としての政治』などでも繰り返される有名な区分である。ウェーバーは当時のドイツの政治状況について、ドイツでは政治家が育たず、官吏が政治を行っているとして嘆いていた。すなわち、政治的に指導的な立場にあるべき職にある者が、ウェーバーのいう政治家の責任において行為するのではなく、官吏と同様にしか行為できていないことを問題視していた。

この点は、現在の日本の政治(特に安倍政権になって目立つようになってきた問題)にもかなり当てはまる批判ではないか。特に責任のとり方という点で、安倍はある大臣(総理大臣を含む)が不祥事を起こした場合であっても、その不祥事についての事実の解明や再発防止の取り組みなども、その大臣が職を全うすることで責任を果たしたい、という論を主張する。まさしく「責任」という言葉の曖昧さを使った論の立て方で、欺瞞的であり汚いやり方という点で非常に安倍晋三に似つかわしいとは思うが、このようなやり方にメディアなどが十分に論理的に批判していない点は問題である。これを許していると戦前のドイツの轍を踏むことになってもおかしくない。

ある大臣が不祥事に関わった(と疑われる)ならば、その人にとっては、その問題は解明したくない問題となる。解明したくないはずの人間が、その解明や再発防止を実施することで責任を果たすというのは、ウェーバーの言う官吏の責任のとり方である。その場合、必要なことは、解明や再発防止といった課題に対し「誠実にしかも自分自身の(解明したくないという)意見をまったく押えて」実行することである。果たしてこのようなことが可能だろうか?少なくとも、ここ数年、安倍政権下で起こった様々な政府の不祥事とそれに対する「職を全うすることで責任を果たす」とした人々が関わっている案件で、これが実行されたと思えるような事例は皆無である。

官吏の場合、職務上の権限の範囲などが明確に決められており、何より常に彼より上位の権限を持ち、同じ組織に属するために日ごろの言動をチェックすることもできる官吏が監督するという建付けになっているからこそ、誠実に、官吏自身の意見に固執せずに実行することも一般社会よりはやりやすい。しかし、大臣という立場にいる者には同じことを期待することは不可能と言ってよい。彼を監督すべき代議士たちは、官庁の中におらず、同じ情報を共有できない立場にあることがその要因の一つである。自分に権限を与えている側の人間に対して、いくらでも隠し事ができるという考えが共有されている場合(ここは安倍政権で起こった様々な不祥事への行政側の国会に対する対応を念頭に置いている)、誠実な対応などと言うものが期待できると思う方がおかしい。

現代日本の場合、国会には国政調査権があるが、これが機能しない仕組みが現在の制度には別途組み込まれてしまっている。官僚の政治家による任用がその最たるものである。このような仕組みにより、内閣に都合の悪い情報はもみ消されることになる。90年代の政治改革による「政治主導」「官邸主導」を追求した結果がこれであり、安倍晋三という、極めてずる賢く、公正さのかけらもない人物が権力を握ったことによって、制度の問題がはっきりと露呈するようになった。彼の力量が優れているからではなく、彼のような人間にとって都合の良い制度設計になってしまっている(それは権力を握った者以外にとっては不利益以外の何物でもない)という理解はもっと広く共有されるべきである。



岡本全勝 『明るい公務員講座』

 私は、部下が説明に来てくれたら、その案を作るに当たって誰に相談したか、どのような前例や類例を調べたかを聞きます。ただし、何でも前例通りでは困ります。それらの中で最も良いものを参考にして、それをさらに良くするか、あるいはこれまでの事例を前提として、違った発想でより良い案を考えてほしいのです。あなたの能力を発揮するのは、前例を踏まえた上での、改良であり改革案です。(p.31-32)


行政に関するステレオタイプ的な非難として前例踏襲ということが言われた時代があった(現在でもなくなったわけではないだろうが)。確かに行政に限らず広義の官僚制のような組織(当然、多くの民間企業も含まれる)では、前例踏襲をベースとして動かざるを得ないとか、あるいはそのように動くのが最も自然であり無駄も少ないといった場合は多い。その中でそれをどのように改良したのかということは著者が言うように重要なポイントである。本書の特徴は、多くの個所が(明示的であれ暗示的であれ)上司の立場から書かれることによって、よい部下とはどのように振舞うべきものなのか、といったことを感得できるところにあるように思う。同時に、上司の側から書かれることによって、読者の側も部下に対してどのように対処するかということの参考にもなり得ているように思う。この分野の本で本書は結構売れているようだが、こういったところにも要因があるのではないかという気がする。



 そもそも、「きょう中に片付けなければならない」というような、スリリングな気持ちを味わわなくてもよいように、めどを立てて、早め早めに片付けておくことが重要です。そのためには、1日単位で仕事を管理していては駄目なのです。例えば1週間単位で管理しましょう。来週中に片付ける課題一覧を、書き出しておきます。きょうの予定をきょう考えているようでは、駄目なのです。(p.44-45)


今日の課題を今日考えているようではダメ、というのは、私も仕事をするようになってすぐに気づいたことだった。確かに、「仕事ができない」と周囲から言われるような人は、大抵こうした状態かそれに非常に近い状態にあるように見える。

本書を読んで参考になったのは、1週間単位で仕事を管理するという点である。ここまではっきりと単位を決めて管理するというところまでは私も考えていなかったかもしれない。仕事が発生する時期と今やっていることをこなし終わるまでにかかる時間、さらにイレギュラーが発生した際に対応するための余力を計算に入れて比較的大きな仕事のまとまりの期間で考えていたが、単位を明確化することによって、さらに細かく進行管理ができるように思われる。試してみたい。



「仕事ができる」という評価には、相手に信用されることも含まれます。(p.169)


確かに。信用されるかされないか、どのくらい信用されるか、ということは、相手によって変わってくることになるから、同じ人の仕事ぶりであっても人によって評価は変わってくるということにもなる。



 格言にあるように、あなたは、他人を外見で評価してはいけません。しかし、あなたは外見で評価されていることを、忘れてはいけません。(p.169-170)


なるほど。良い心がけかもしれない。本書(著者)の価値観は評価されて出世することを是とするところから書かれているので、その目的にとっては非常によく適う行動規範であると言える。そうでない場合であっても、このような基準で振舞うことは相手に良い印象を持ってもらえるものであり悪いものではない。



出来の悪い部下は、あなたを磨く練習問題です。そう思って、平常心を保ちましょう。(p.210)


確かに。しかし、「出来の悪い上司」の場合は、「練習問題」程度では済まされないことが多い。人事が情実で行われたり、上司から見て使いやすいだけの者が昇進するような組織だとこうした問題が頻発することになる。



半田滋 『「北朝鮮の脅威」のカラクリ 変質する日本の安保政策』

 日本上空を通過するミサイルに落下の危険があるというなら、その危険性はどの国のミサイルであれ、ロケットであれ、質的に変わるはずはない。そう考えるのが常識であろう。ところが、日本政府にその常識は通用しないのだ。
 韓国政府は2013年1月30日に三回目となる人工衛星「羅老(ナロ)3号ロケット」を打ち上げると発表した。前年12月に発射された「光明星3号」と称する北朝鮮の弾道ミサイルに近い軌道を通り、沖縄の南西諸島上空を通過することになるが(図4)、小野寺五典防衛相は打ち上げ失敗という不測の事態に備えて地対空迎撃ミサイルPAC3を南西諸島に配備することをしなかった。PAC3を配備した北朝鮮の場合とどこが違ったのだろうか。(p.35)


日本政府が「北朝鮮の脅威」を過剰に煽ることで(「防衛力」というよりも)「軍事力」を持つために利用していることは明白だろう。

このような指摘が公的にされた場合、政府は「そのような意図はない」などと否定しようとした上で、政府は指摘した側に立証責任を押し付けようとするだろう(安倍政権のような姑息な手段を用いることが常套化している政権においてはほぼ確実に起こると予想している)。しかし、ある意図があると仮定した場合に採用すると想定される行為と実際に観察された行為とが一致しているような場合、そのような意図がないことを立証・説明する責任は行為者の側にある(政府ならば通常の人より以上に説明する責任がある)。その場合、単に「そのような意図はない」などと言い張るだけでは当然不足であり、そのような意図とは整合性がとれない(相反するような)行為を体系的に行っていることを立証しなければならない。さらに、仮に意図がなかったとしても、多くの行為がその意図に沿ったものとなっていることが指摘されている以上、そのように行為した(あるいは、せざるを得なかった)理由等について説明する必要がある。

ちなみに、法人(集団・組織)の場合には、その指導者本人にそのような意図がなかったとしても、誰一人としてそのような意図に基づいて行動していないということにはならない、という点にも留意が必要であるため、個人よりも法人(集団・組織)の方が、行為と意図との外的整合性から判断することの妥当性は高いと考える。



 だが、北朝鮮が目標とするのは米国に戦争を仕掛けることではない。核弾頭を搭載できる大陸間弾道ミサイル(ICBM)を保有することにより、米国から先制攻撃を受けることのない抑止力を持ち、北朝鮮の現体制を維持するという保障を取り付けて平和協定を締結することにあるのは明らかだろう。(p.42)


ここで本書で述べられているような考え方が北朝鮮の基本的なスタンスであると思われる。(日本における北朝鮮に関する報道は過度に「悪魔化」されている。北朝鮮は容易に信用できないのは確かだが、掛け値なしの悪であるかのようなラベリングや記号化は行き過ぎている。)

本書は2018年3月に出ているが、4月27日に南北首脳会談があり、朝鮮戦争の終結や朝鮮半島の非核化を目指すことなどについて合意がなされたと報道されたことと、ここでの指摘は適合的だと思われる。北朝鮮はかなりの程度、ここで述べられているような抑止力を手にしつつある現状やトランプ大統領が在韓米軍の削減などをしたがっていることなどを考えると、北朝鮮がフェイズを変える機会だと考えているとしても不思議はない

上記引用文では「北朝鮮の現体制」を維持することが大きな目的であることになるが、半島の統一と現体制の維持は必ずしも一致しない(むしろ相性が悪い?)ため、このあたりが今後どのように処理されていくのかに注目したい。


マックス・ヴェーバー、カール・シュミット 『政治の本質』
マックス・ヴェーバー 「職業としての政治」より

即ちコブデンのように理解に訴えた時代から、一寸見た所は飾り気のない「ありのままを語る」技術家であったグラッドストーンを経て、現代では、大衆を動かすために、救世軍が使用するような手段を用いて、全く感動的な演説が行われるようになったのである。今日の状態は、「大衆の感動性の利用を基礎とする独裁制」と称しても差し支えあるまい。(p.68-69)


ウェーバーの時代において既にこのような演説の力が重要な時代になったと認識されるような時代となっていたことがわかる。思うに、2010年代はポピュリズムが日米やヨーロッパなどでは目につくという点ではウェーバーの時代と同様に煽動的な演説が力を持っているが、それに加えて、政府が大衆に与える情報を操作することにより、真実を知らせないようにすることで人びとからの反発を回避しながら、少数の政治エリートたちの意思決定によりすべてを恣に決めて行くという手法も広がってきているように思われる。

情報を与えなかったり操作することで権力を維持するという戦略自体は、冷戦時代の東側諸国で使われた常套手段であるが、冷戦終結後に旧西側世界において、旧東側で行われていたことと同様の考え方に基づく統治を、遥かに洗練された仕方で実施するようになったのは皮肉である。



指導者の機関として役に立つためには、その追随者は名望家の虚栄とか自説の主張とかに妨害されることなく、盲目的に服従しなければならない。即ちアメリカの意味の機械(黒幕幹部)でなければならないのである。……(中略)……。この盲目的服従こそ、指導者の指導に対して支払われる所の対価なのである。しかしながら、指導者が、「黒幕幹部」を擁して民主政治を行う場合か、或は指導者のいない民主政治、即ち使命なく、正に指導者たらしむべき内的神智的素質のない「職業政治家」が支配する場合か、そのいずれかを選ばなければならぬ。(p.81-82)


ウェーバーは、この「盲目的服従」という対価を支払っても指導者による指導・支配を是とする。ここで述べられている盲目的服従は官僚(行政スタッフ)に求められているものだろうが、ウェーバーが書いた他の政治評論などの内容も考慮すると、大衆も同様の服従を求められているように思われる。


前田健太郎 『市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道』(その3)

無駄な財政支出は、既に決められた目標を執行する「行政(administration)」よりも、具体的に目標を判断する「政策(policy)」において生じるという。(p.206)


90年代末から00年代頃までは「行政の無駄」ということがよく言われた。最近は以前ほどの勢いがなくなっているが、私見では安倍政権によるやりたい放題の権力の私物化(支持率維持のための財政支出拡大とその結果としての政府の債務の増大)の結果、しばらくしてから、またこの考え方が流行り出す可能性が高いと見ている(2020年オリンピック後不況の頃か?)。

行政を効率化することで無駄を省き、費用を捻出するといったような愚かな考え方(というか行政や財政に対する無知に基づく思い込み)に対して、本書で紹介しているこの考え方は、適切な批判対象を提供してくれていると思う。本来的に取り組むべき問題は、行政の非効率性ではなく、政策決定の実質的な非効率性(間違った目標に対して支出することによるロスや目標に対して過大または過少な額の支出をするために生じるロスなど)こそが問題なのである。(もちろん、これは行政の活動に非効率性がないということを意味しない。ここ(administration)を改善しても費用はさほど捻出されないということである。)



 この過程を振り返ると分かるのは、サッチャー政権が僅か数カ月間の世論の変動によって誕生したことである。有権者の重視する争点や党首に対する満足度の推移を見れば、公務員のストライキに対する有権者の批判が、そのまま労働党への批判につながり、投票行動に結びついたと考えるべきであろう。つまり、有権者の求める政策を掲げたサッチャーが勝ったのではなく、選挙直前の不運に見舞われたキャラハンが負けたのである。近年のアメリカの選挙研究では、有権者の多くは政権の業績を全体的に判断するのではなく、選挙の直前に起きた出来事に基づいて政権党に投票するかどうかを決めているという議論が行われている(Bartels 2008, 99-104)。1979年のイギリスの総選挙は、まさにそうした有権者の近視眼的投票によって大勢が決した事例であったといえよう。その選挙結果は、キャラハン政権下の3年間の経済政策に対する有権者の業績評価投票に基づくものではなかったのである。(p.220)


サッチャー政権と言えば新自由主義改革が真っ先に思い浮かぶが、この政策に対する支持があって政権が成立したわけではなく、敵失により獲得した権力を利用して新自由主義に基づく政策を実施しようとしたに過ぎない。

多くの有権者は選挙の直前に起こった出来事に基づいて政権党に投票するかどうかを決めるというのは、まったくその通りだと思われる。安倍政権が選挙から遠い時期に好き勝手なことをやり、選挙が近づくと事を荒立てないようにし、自分の有利な時期を選んで恣意的に解散権を違法に行使することで議席数を確保し続けているという状況は、まさにこの考え方のとおりに投票行動が行われていることを示している(対照群がないため完全な立証まではできないが)。

私の眼には、安倍政権に有権者たちが操り人形として操られているように映るが、大衆に賢くなれ(より正確には、大局的に全体を総合して考えろ)などと言ったところで(それ自体は大事なことだが)ほとんど効果がないこともまた事実であり、やはり立憲主義に基づいて権力者たちに恣意的に権力を使わせないルールをしっかり作り、それを関心を持つ人びと(メディア)が監視していくということが重要である。



 本書では、政府による公務員の給与水準のコントロールを難しくする公務員制度が、結果として公務員数の抑制を促したと論じた。しかし、一度開始された行政改革が今日まで持続してきたメカニズムについては、必ずしも重点的な考察を行ったわけではない。そこで、試論的にではあるが、ここでは行政改革がさらなる行政改革の呼び水となるメカニズムについて見通しを示しておきたい。
 そのメカニズムとは、公務員数の削減によって公共部門の相対的な給与水準が上昇し、民間部門の不満を生み出すというものである。一般に、行政改革が行われると、業務の効率化のために人員が削減され、あるいは民間委託によるコストの削減が図られる。この時、削減の対象となるのは、定型化され、置換の容易な業務である。そうした業務に従事する職員の賃金は低いことが多い以上、公務員の数が減るほど一人当たりの人件費は高くなる。……(中略)……。
 こうしたスケッチは、試論の域を出るものではない。しかし、この論理に従えば、一般市民が公務員の給与の平均にしか目配りしない限り、行政改革による「無駄」の削減は公共部門に対する市民の不満を逆に高めてしまう可能性がある。(p.263-265)


興味深い仮説。

本書はこのことも踏まえて人事院勧告制度を団体交渉制度へ改めるべきだという立場だが、これに対しては、比較の対象を変える(例えば、業務内容が相対的に近いと思われる企業の企画部門や総務部門と一般行政職員の給与を比較する)ことによって一般市民が公務員の給与は平均値による見かけほど高くないというコンセンサスを作るなど、適切な情報や判断基準を示すことによって悪循環を断つということも必要ではないか。少なくとも、労働運動が十分に力を持てない状況を政府や与党が長年かけて作ってきたという歴史的経路の中で団体交渉制度を導入すべきだという判断はフェアではないし、変化の規模の割に必要な労力も相対的に大きく、そのような所に政治的なリソースを割くよりは人事院勧告制度は維持したまま別の手段を講じる方が効果的かもしれない。

というのは、本書では人事院勧告制度の意味が制度が出来た当初と高度成長期以後で変わったことが指摘されているが、今後、民間給与の上昇が望めない低成長時代においては、再び人事院制度の持つ意味が変化するはずだからである。それは給与の上昇もほとんどさせないが政府の都合による給与引き下げもできない制度であり、これ以上給与が上がらないのであれば制度を据え置いてもそれほど大きな問題にはならないとも考えられる。(日本の公務員の1人当たり給与は他国と比べて平均すれば給与が高いようだが、同じ業種で見た場合にどうなのだろうか?この水準が特別に高いのではない限り、給与水準自体を引き下げる必要性があるとは言えないのではないか。)

前田健太郎 『市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道』(その2)

2009年に経済危機に陥ったギリシャの事例のように、公共部門の肥大化が財政危機の原因として指摘されることもあるが(村田2012,272-276)、先進国全体を見れば公務員数と財政の健全性の間には特に見るべき相関関係はない。(p.45-46)


これは、財政が悪化すると公務員バッシングが始まりやすいが、そうした非難は大抵的外れだということを意味する。90年代末から00年代前半頃にはこうした風潮が非常に強かったが、当時の公務員バッシングも完全に的外れなものだった。当時の私がこの類の的外れな非難に対して行った批判は、「財政の赤字は確かに急激に膨らんでいるが、それと並行して公務員の人件費が急激に増えたという事実はなかったのであり、そこには問題の原因や本質は関係がない」というものだった。本書で指摘されている事実関係も当時の私のような見方を補強するものと言える。



また、民間企業に対する強力な解雇規制による正社員の保護は、長期雇用による企業特殊的な技能の蓄積を前提とする雇用システムを生み出すことを通じて、逆説的にではあるが、出産と育児の負担を強いられるために長期勤続の難しい女性を労働市場から締め出す働きを持っていた(Estévez-Abe, Iversen and Soskice 20011)。(p.48)


公務員数と女性の雇用創出に関係があるという本書の指摘は今までほとんど考えたことがないテーマであり、新鮮だった。



 公務員数を説明するという課題には、戦争や革命などの政治現象を説明するのとは異なる独特の難しさがある。その難しさは、問題設定のスケールの大きさでもなければ、その事実の反直観性でもなく、それが「事実」であるということ自体に由来している。一見些細な言葉遣いの違いであるが、公務員数は事実であるのに対して、戦争や革命は出来事である。そして、一般的に事実は出来事よりも遥かに説明することが難しい。出来事にはそれを直接引き起こす人間が存在するのに対して、事実にはそのような観察対象が明確には存在しないからである。この問題に取り組むには、説明の対象である公務員数という事実を、何らかの出来事の結果として記述し直さなければならない。(p.51)


この事実と出来事の区別は本書の方法論に特徴的なところである。出来事はそれを生じさせる行為やコミュニケーションなどが観察できるのに対し、事実は現にそうであるということが観察可能なだけで、それを成立させている出来事やコミュニケーションは必ずしも観察できない。個々の公務員の採用という出来事は観察できるだろうが、その出来事を観察しても公務員数が少ないという事実を説明することはできない。本書は公務員給与制度や国際収支の制約下で60年代という高度成長期に欧米諸国よりも経済的な水準が低い段階で政府が公務員数の抑制という決定をしたことにその原因を求める。



1960年代半ばまで、外貨準備は「国際収支2000億円の天井」に沿って推移し、1968年以降は急速に上昇している。これは、日本の輸出が伸びた結果、国際収支が常に黒字となったことを示している。注目すべきなのは、外貨準備高が急速に伸長した時期と、日本の国債発行額が急速に伸び始めた時期が、ほぼ完全に一致しているということである。通常、財政赤字は国内景気の好転による輸入の増大を通じて外貨準備高の減少をもたらすはずである以上、こうした外貨準備の蓄積が、日本の財政状況の変化の帰結だとは考えられない。むしろ、輸出部門が強化されたことによって、財政赤字が外貨準備高の払底へと直結しなくなったことが、日本の財政赤字の拡大を可能にしたのだといえよう。逆に言えば、それ以前の日本では財政赤字の余地が外貨準備高によって制約されていたのである。(p.103-104)


この時期から赤字国債(65年の発行の後は75年以後)を含めた国債の発行額が急激に増えていき、財政の規律がなくなったことは知っていたが、これが国際収支の黒字と連動しているという指摘は参考になった。なぜこの時から財政規律が緩くなったのかという政府(当時の大蔵省?)の判断の理由が推察できるからである。



1955年に春闘が始まり、1960年代に民間部門で急速な賃金上昇が生じると、その効果は人事院勧告を通じて公共部門に波及した。官公労組の賃金攻勢を封じる仕組みだったはずの給与制度が、逆に民間部門に合わせて公務員の給与を上昇させる仕組みに変化したのである。(p.149)


人事院勧告の制度の機能が変化したという指摘は興味深い。当初は公務員の労働組合の運動を封じるための手段だったものが、民間給与の上昇により、公務員の給与を上昇させる機能を果たすようになったということである。公務員の労働基本権の問題をどう考えればよいのか(労働三権の一部が制限されていることについて回復すべきか人事院勧告の制度が機能すればよいのか)という点について、私は今まで答えが見いだせなかったが、本書によって得られた歴史的な見通しは、この問題を考える際の参考となるように思われる。



 第二次世界大戦の終結後、大陸ヨーロッパ諸国が軒並み経済的繁栄を謳歌する中で、イギリスは長きに渡る低迷を経験することになった。イギリスの1950年から1973年までの年平均GDP成長率は僅か2.3%であり、1960年には一人当たりGDPでスウェーデンやデンマークに追い越されただけでなく、フランスや西ドイツにも後れを取るようになっていた。(p.192)


技術などの模倣ができたり、大戦後の被害の復興による「成長」があったり、という国とイギリスの置かれていた位置は全く異なることを考えると、成長率が2.3%というのは「僅か」と言えるようなものではなく、十分高い数値だと考えなければならない。ピケティが言うように、高度成長はキャッチアップする時に一時的に生じる現象でしかない。



前田健太郎 『市民を雇わない国家 日本が公務員の少ない国へと至った道』(その1)

 他方、日本の公務員数が少ないという認識を共有する論者の間でしばしば見られるのが、その理由を公共部門が他国よりも効率的に運営されていることに求める議論である。……(中略)……。しかし、本書はこの見解には与しない。第1章で詳しく述べ得るように、公務員数が少ないことは、公務員ではない主体が公共サービスの供給を担っていることを示すものではあっても、公共部門が効率的に運営されていることを示すものではないからである。(p.3-4)


なるほど。ここで略した部分で批判されている稲継紙の著書は私もかつて読んでおり、日本の公務員数は少ないが効率性は高いという議論にそうだったのか、と当時は思った覚えがある。

本書の批判は正しいと思うが、本書では、公務員と公務員以外の主体を合わせた広義の公務員数で比較しても他国より日本は公務員数が少ないことが指摘されている。公共サービスの供給量自体が測定できれば(あるいは代理指標となるものがあれば)効率性が割り出せるのだが、そうした方法はあるのだろうか。「公共サービスの総供給量/(広義の公務員数×サービス残業込みの一人当たり総労働時間)」を比較すれば効率性を一応出すことができるように思う。行政の効率性を改善すべきなのかそれほど必要性がないのかという点には興味があるので、この点は是非知りたいところである。



ただし、1980年代の新自由主義的改革を政策理念の産物として理解する見方に対しては、Prasad(2006,20-21)による強力な反論がある。すなわち、新自由主義の理念を掲げる政治勢力が影響力を行使しえたのは、それに先立って既に政権を獲得していたためであって、思想それ自体が独立に影響を及ぼしたわけではないというのがその主張である。(p.12)


なるほど。確かに。「政権を獲得したということは民意が反映しているはずだ」と推論したがる人もいるかもしれないが、政権を獲得しているかどうかは「選択のためのルールに従った結果」ではあっても、もともと投票していた人々が持っていた思いを反映しているとは言えないのだから、余り単純にそのように言うことはできない(※)。そう考えると、新自由主義の思想自体が政策に影響を与えたとは単純に言えない。

(※)かつてのドイツにおけるナチスも、投票した人は少ないし、投票した人もユダヤ人虐殺を支持していたわけではない。現在の日本でも安倍政権が5年にわたり続いているが、選択のためのルールを都合の良いように使い――創価学会などの組織票の土台がある中での小選挙区制という極めて自公にとって有利な選挙制度の下で恣意的に解散を繰り返している――、また、メディアによる批判も封殺されるように働きかけられていることなどが作用している結果として安倍政権が残っているだけのことであって、それほど強い支持を得ているわけではない。



20世紀のアメリカ連邦政府における機構改革の試みを包括的に調査したジェームズ・G.マーチとヨハン・P.オルセンによれば、改革提言によって業務の効率化などの実質的な成果が出たことはほとんどない。行政改革を実施すべきだという「適切性の論理」が関係者に共有されても、行政改革によって達成すべき成果が何であるのかを示す「結果の論理」は必ずしも共有されないからである。従って、短期的に見れば、そうした行政改革の試みは政治指導者の意欲を表現するための文化的な儀式に過ぎないのである(March and Olsen 1989,69-94)。(p.15)


なるほど。ただ、政府が発信する言論の影響力は考慮に入れるべきかも知れない。




港千尋 『革命のつくり方 台湾ひまわり運動――対抗運動の創造性』

 群衆は、これを実体ではなく過程としてとらえたほうがよい。どこかに群衆と呼ばれる集団が、実体として存在するわけではない。群衆はある時点に存在するが、別の時点には消えている。群衆はいくつかの種類に分類することができるが、そこには必ず人間が群衆となる過程がある。この過程こそが群衆の本質である。だから群衆には全体がない。通常わたしたちは、群衆を人間の塊として、全体としてイメージするが、それは輪郭を持たない全体なのである。この全体の不在こそが群衆を群衆にするのである。
 そのよい例がデモの参加者数の発表だ。たいていデモの後で発表される人数は、主催者側と警備側で大きく異なる。……(中略)……。だが、この現象の本質は別のところにある。群衆は数えられないのである。(p.46-47)


本書(というか著者)のこうした「群衆」の捉え方は興味深い。これはオートポイエーシスや自己組織化の考え方を援用するとどのような事態なのかよく理解できるように思う。

例えば、ある人が街頭である政治的主張をする。それに賛同する人が周囲に集まる。それを見てさらに通りがかりの人が「何だろう?」と思って集まる。その一部は興味を抱いて話を聞く、一部は興味がなく立ち去る、またある一部はより積極的に賛同の声を上げる、など様々な反応があるだろう。こうやって人が集まっていく中で交わされるコミュニケーションがある熱量を持つ、あるいはノことがある。このとき、このプロセスとそれに伴って生じる熱量ないしノリは、コミュニケーションに関わっている個々の人間の総和とは何か違うものになっている。こうしたプロセスの継続によって立ち現れるものを、ここでは「群衆」と呼んでいると思われる。



すでに述べたように、イスタンブールのゲジ公園が占拠され、これを支援するデモが市内で繰り広げられたとき、首相は即座に彼らを「野蛮人」と呼んだ。これは太陽花運動の学生を「暴民」すなわち暴徒と呼んだことと同じである。2005年にフランスの大都市の郊外で若者の反乱がおきたとき、サルコジ大統領は彼らのことを「クズ」と呼んだが、これも似たようなものだろう。強権的な政治が抵抗や反乱を扱う際に、こうした呼び名を使うのは珍しいことではないが、それを単なる「暴言」として忘れてしまうのは双方にとってマイナスである。このような細部にも、なにがしかの真実が宿っているかもしれない。
 これらの呼称には、ある暗黙の了解が隠れている。野蛮人には言葉が通じない、話せる相手ではないという意味である。バルバロイ、サバルタン、暴民と呼び名は異なってはいても、意味するところは、彼らに話して分かる言葉はないということだ。この呼称と鎮圧のための強権発動は表裏一体であり、実際イスタンブールでもサンパウロでも台北でも血が流れるのはその瞬間になる。ささいな一言は危険な一言なのだが、実はそこにこそ民衆が声を上げる意味がある。声を上げるのは、何よりもまず、民衆が言葉を持っているということを示すための行為だからである。(p.61-62)


最近のニュースで言えば、安倍晋三が都議会選挙の応援演説で、安倍に抗議する人々に対して「こんな人たち」呼ばわりしたということが現在も問題とされていることが想起される。報道などでは、(全体の奉仕者である)行政のトップである首相が自分に反対する人を排除するような物言いをするのが問題だなどとされているが、こような指摘では何かしっくりしないものが残る。むしろ、本書で指摘されているように、「こんな人たち」とは話をしても通じないのだから、話をせずに、閣議決定でやりたいことを決めてしまい、国会では質問されても正面から答えずに時間を稼いでから数の力で強行採決すればいい、というようなことをやろうと思えばできるような権力を与えられている者がこの発言をしているということが問題視されるべきであろう。代議制民主主義の民主的要素も自由主義的要素も踏みにじる専制政治に繋がる言葉や認識であるということをこそ問題視すべきである。なお、トランプ大統領の粗野な発言もこうした観点から専制に繋がる要素がないかチェックしていく必要があるのではないか。

ここで問題となっているような発言をする人は、自分と意見が異なる人々に対して「言葉が通じない」と認識しているため、自身の意思を実現するには強権発動をするしかないということになる。しかし、思うに、特に昨今の右派の言説は、論理性や実証性が非常に低く、願望に基づく見解や願望に適合した内容のデマに類するものが多いため、異なる意見の者を説得することができるような代物ではない。このことも手伝って、彼等は言葉を通じさせるために必要な能力が低いため、彼等からしてみると相手方を「言葉が通じない」ものと認識してしまっている面はあるのではないか。

ちなみに、安倍内閣が第一次内閣の際には「お友達内閣」と呼ばれたことと、「こんな人たち」発言も同様に安倍の偏って歪んだ考え方に賛同する「お供代」ばかりで周囲を固め、それ以外の人々を「こんな人たち」と思っている、というのが安倍政権の一貫したスタンスであろう。森友学園や加計学園の問題も、「お友達内閣」と同じ構図がある。自分の考えに近い政治家を大臣に取り立てるという利益を与えるのと同様、復古主義的反動の思想で共鳴する森友学園や古くからの「お友達」が経営する加計学園に便宜を図るのもすべて同じところから発しているというのが私の見立てである。



 立法の議会は、語る権利を認められた者のための場所である。民衆に認められているのは、その外で、路上で語ることだ。だが議会の内部では言葉が機能せず、しかお外部では言葉が認められない。議会が占拠され、言葉を分配されていない者たちが語ることで、議会はその本来の意味を明らかにしたとも言える。(p.67)


代表として選ばれたはずの代議士たちが民衆の意見をもはや代表していないとき、民衆が言葉の場を取り戻すための方法が通常の選挙以外にも公式に用意されていると良いのではないか、という気もする。



抗議行動が拡大するときには、暴力的な解決のほうがよほど簡単で、そうなりやすい。緊張が高まれば高まるほど暴力的になるほうが「自然」であり、その意味では非暴力はこの自然な成り行きに抗して、多大なエネルギーを使わなければならない。そのエネルギーは現場における、他者を気づかう無数のアクションから生まれたのではなかったか。(p.80)


なるほど。暴力は簡単で安易であり、非暴力はより大きなエネルギーを適切に使わなければ達成できないものだということは銘記しておきたい。


俵義文 『日本会議の全貌 知られざる巨大組織の実態』

右翼団体の要求を連携する国会議員が取り上げ、それが国の政策として実現されるという恐ろしい構図がつくられているのである。(p.99)


確かに日本会議のような無茶苦茶な主張をする団体の要求が政策として実現されるルートが存在することは極めて憂慮すべきことだが、本書に足りないのは、このような手法を使う日本会議の勢力に対してどのように対抗していくべきかという実践的な見立てがないことであり、そもそも、そうした姿勢が希薄であると感じられる。

国会議員と連携して自らの主張を通していこうとすることやロビー活動をすること自体は代議制民主主義のルールとしては何ら問題のない行為ではないか。問題のある主張を通させないようにする方法やそれに反対する勢力をどのようにして政治力として動員していくのかということを左派やリベラルには考えて欲しい。むしろ、日本会議が「成功」した方法を昔の左翼から学んだのと同じように、日本会議の方法の「良いところ」を取り込んでいくような姿勢が必要ではないかと思うのである。


宇野重規 『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』

 社会も人間性も複雑である。そうだとすれば、単純な原理に基づく単純な政府は、ただそれだけで問題がある。(p.56)


バークの保守主義を解説する中で出てきたこのフレーズは、恐らく、現代のポピュリズムに対する批判として述べられているように思われる。



 エリオットに代表される英国の保守主義の基盤にあるのは、このような共通感覚であり、伝統の観念であり、さらにいえばヒューモアの感覚なのだろう。逆にいえば、このような共通感覚が失われ、イデオロギーが互いに何も共有することなしにぶつかり合うとき、政治的な空白と秩序の崩壊が生じる。(p.79)


現代アメリカの政治状況はこうした秩序の崩壊に近いように思われる。



統治とは、何かより良い社会を追い求めるものではない。統治の本質はむしろ、多様な企てや利害をもって生きる人々の衝突を回避することにある。それぞれの個人が自らの幸福を追求しつつ、相互に折り合っていくには「精緻な儀式」が必要である。そのような「精緻な儀式」として、法や制度を提供することが統治の役割なのである。
 そうだとすれば、統治者のつとめは、人々の情念に火をつけることではない。むしろ、あまりに情熱的になっている人々に、この世界には自分とは異なる他者が暮らしていることを思い起こさせることが肝心である。(p.99)


オークショットの思想について述べている箇所だが、ここでもポピュリズムに対する批判ともなる内容が語られている。



多くの異なる言葉が出会い、互いを認め合い、そして同化することを求めないのが会話の本質である。一つの「声」が他を圧倒してしまうのは、会話ではない。(p.100)


ポピュリストや現代の日本で「保守」を名乗っている復古的反動主義者たちに決定的に欠けているものの一つは、ここで述べられているような「会話」であろう。

最近の政治の場での討論や議論を見ていると、「会話」が全く成り立っていないと痛感する。森友学園に関わる問題や自衛隊の日報の問題などを見ると、政府の側の隠蔽、誤魔化し、強弁、露骨な印象操作などは明らかに度を越えている。政権側を恐れるメディアもそれを十分追及できていない。政府に対して質問をしても、不都合な事実は隠蔽し、答えると都合の悪いことは資料がないことにしたり、答えることをせずに誤魔化したりといった対応ばかりが目につく。



現状に強い不満をもつ人間が、一定の世界観に基づいて変革を主張する。このような革新主義に対し、反発を覚える自己を認識したものが保守派となる。すなわち、保守は必ず革新に遅れて登場するというのである。
 そのような保守派はイデオロギーを必要としない。自らの生活感情に根ざして必要な改革を行えばいいのであり、むしろ「保守主義」なる大義名分をかざして自分を正当化しようとすれば「反動」となってしまう。(p.160-161)


福田恆存(つねあり)の保守主義論について解説している箇所だが、この最後にのべられているものは、まさに現代日本で「保守」を名乗る人々の多くに当てはまるものである。かつて(15年くらい前まで)「保守本流」を名乗っていた相対的に中道的な保守主義者の政治力は弱まり、現在は安倍晋三が代表的だが、復古主義的な反動主義者たちが「保守」を名乗っているが、まさにこれらの人々に、ここで述べられていることはぴったり当てはまるように思われる。彼らが名乗る「保守」とは自己正当化のための大義名分に過ぎない。



 ハイトは道徳基盤を、<ケア>、<公正>、<自由>、<忠誠>、<権威>、<神聖>の六つに分類する。……(中略)……。
 ハイトの実験によれば、この六つの道徳基盤のうち、リベラルがもっぱら<ケア>と<公正>と<自由>を重視して、<忠誠>、<権威>、<神聖>を無視しがちなのに対し、保守の側は六つをほぼ等しく扱っているという。(p.196-197)


この実験結果は、マイケル・サンデルのリベラリズム批判とも通底するものがあるように思われる。例えば、「負荷なき自己」からは忠誠、権威、神聖といったものとの関わりは剥ぎ取られている。



 背景にあったのは、過去に進歩主義のおごりや迷走を批判してきた保守主義であるが、いまはむしろ保守主義におごりや迷走が見られるのではないか、という問題意識である。(p.210)


確かに。妥当な問題意識。