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樋口直人、永吉希久子、松谷満、倉橋耕平、ファビアン・シェーファー、山口智美 『ネット右翼とは何か』(その2)
「第5章 ネット右翼と政治」より

 自民党のネット戦略は、野党だった2009年に始まっている。自民党のネットキャンペーン戦略はNTT広報部出身で経済産業相である世耕弘成の設計によるもので、二つの柱があった。「Facebook」や「ニコニコ動画」のログインページに広告を出す一方で、09年にはボランティアとして立ち上げたグループを、12年にネットサポータークラブとして正式に発足させている(1万5千人の会員は、ネット右翼の親安倍派と重なっていると思われる)。興味深いことに、このネットサポータークラブを公式に立ち上げたのと、安倍が「Facebook」を使い始めた時期は重なっている。安倍は「Facebook」をネット上の後援会として活用し、あいさつやメディア批判のメッセージをよく投稿している。(p.140)


安倍がFBをネット上の後援会として活用していることや、それが自民党のネット戦略とも連動しているという点はなるほどという感じである。



 ネット右翼からすると、2000年代初頭に「言説の機会構造」が開かれたことで、ナショナリスト的議題を押し出せるようになった。……(中略)……。
 日本の場合、言説の機会がネット右翼に開かれることで、「慰安婦」などの未解決の東アジアの歴史問題や中国や韓国との領土問題などに関わる要求が政治のなかで正統性をもつようになった。ネット右翼の潜在的な言説と公的な政治的言説では言葉遣いが異なる。だが、ネット右翼は非合理的な嫌韓・憎中のアジェンダと安倍の外交政策上の願望をつなげることで、「排外主義運動の言説と日本政府やメディアが語ってきたこととの親和性」を作り出した。ネット右翼は制度政治との接点を確立できなかったが、歴史問題や東アジアをめぐる言説の変化と自らの人種差別的な言説を関連づけることに成功した。(p.151-152)


これはその通りだと思うが、この状況をどのように変えていくべきかということが問題であると思われる。


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樋口直人、永吉希久子、松谷満、倉橋耕平、ファビアン・シェーファー、山口智美 『ネット右翼とは何か』(その1)
「第1章 ネット右翼とは誰か」より

 第二に、従来の説とは違いネット右翼やオンライン排外主義者は社会経済的地位が低かったり、社会的に孤立していたりしているとはいえない。通説が当てはまる可能性があるのは、性別と、主観的な地位を示す階層帰属意識の効果だけである。つまり、客観的にみて学歴や世帯収入、雇用形態の面で不利な立場にいるわけではなくとも、本人が主観的に自分は不利な地位にいると認識している場合には、ネット右翼やオンライン排外主義者になりやすくなる。この場合、不満が原因という通説も一定の妥当性をもつ。(p.36)


ネット右翼的な言説には明らかに屈折した感情や承認欲求が満たされていない感じがついて回る。こうした書き込み内容などから従来、ネット右翼らは社会経済的地位やそれらと結びつきの強いと思われる学歴が低いと思われてきたし、社会的にも孤立していると想像されてきた。主観的に自分は不利な地位にいると認識していると、ネット右翼のようになりやすい、というのは、彼らの書き込み(言説)の内容と適合的であることには何ら驚きはないが、社会経済的に低い地位ではない人が、あのような言説をまき散らしているという点は社会にとっては、従来抱かれてきた通念よりもネット右翼は危険な存在であり得ることを示していると言えるように思われる。



 第四に、政治・社会問題の情報源としてインターネットや本・雑誌、所属団体からの情報を利用する人ほどネット右翼になりやすく、テレビを利用する人ほどなりにくい傾向がみられた。書籍やインターネットは選択的接触が起こりやすいメディアである。また、インターネット上ではニュースや掲示板、SNSなど異なる媒体の間で相互参照がおこなわれ、それによって互いに情報に信憑性を付与することができる。保守系雑誌・書籍やインターネット上の情報を通じて「マスコミが報じない真実」を学習することで、人々はネット右翼へと近づいていくのではないだろうか。(p.37)


ヘイトスピーチ的な言説を垂れ流したり、歴史修正主義の言説を公言するような保守系雑誌・書籍に対する規制が必要であると思われる。表現の自由については、それを盾に自称「保守」(実際は反動)的な言説を守ろうとする自称「保守」(実際は反動)主義者が散見されるが、その辺りについて一定の決着をつけていく必要があるように感じる。(誤った「表現の自由」理解を正す。)



オンライン排外主義者はニュースサイトの運営者が編集した情報や、発信力をもつブログの著者の声ではなく、ネットワークのなかに流れる無数の「個人の声」を重視するといえるのではないだろうか。仮にそうだとすれば、反中・反韓が社会の「標準的」態度となっていくことが、より多くのオンライン排外主義者を生み出していく可能性もある。(p.38)


中国や韓国については、政府の動きだけでなく、人びとが日本に対してどのような見方をしているのかを知り、相互の関係を良くしようとしている動きがどの程度あるのかといったことなどにも目を向けていく必要があるように思われる。



 本章での検討を通して明らかになったのは、排外意識をもち、インターネット上で意見発信をしている人々のなかには、政治への意識や情報の取得方法が異なる二つの集団が混在している可能性があるということである。ネット上での排外的言説を発信・拡散している人々を一枚岩の集団と見なしてしまうと、彼らの動機の多様性を見落とす危険性がある。(p.38)


確かに。



「第2章 ネット右翼活動家の「リアル」な支持基盤」より

 しかし、これらの人々を「極右」支持層と位置付けた場合、階層的な偏りや特徴がないという点は、ヨーロッパ極右と異なる日本の特徴といえる。ヨーロッパの場合、高学歴層、専門職層などには明らかに極右を忌避する傾向がみられる。日本の場合、階層的地位が相対的に高い人々に極右的なものへの警戒心や反発が少ないということを意味するのかもしれない。(p.65-66)


このことは、社会科学的な教育が日本ではほとんど行われていないという教育内容の貧困さが要因になっているのではないかと私は考えている。本書では自営業、経営者、IT関係の専門職などにネット右翼的な傾向があることが示されていたが、前二者は学校教育を受けても、それを尊重する態度があまりない人々と思われ、後者のIT関係は理系であるため、社会科学をまともに学ぶ機会がほぼない人々であると私は見る。もしそうであるとすれば、社会科学的なパラダイムを習得しない傾向が強い人々という点でこれらの人々には共通点が認められるのではないか。このことが日本の特性へとつながると思われる。なお、大学が入学すれば誰でも卒業できるようなシステムであることも、このことに繋がっているのではないかと考えている。



「第3章 ネット右翼の生活世界」より

すなわち、地域政治が保守優位の状況にあるため、地域が基盤の生業と右派政治勢力は親和的な関係にあるといえる。そのため、自らの商売――地域活動――政治活動――ネトウヨ活動が、断絶することなく社会生活のなかに収まっている(こうして点で、自民党員にはかなり多くのネット右翼がいると予想できる)。(p.98)


なるほど。この説明は腑に落ちた。



「第4章 ネット右翼と参加型文化」より

 以上のように振り返ると、ウェブが登場してから約30年がたとうとしているいま、インターネットをめぐる状況は初期の思想とはまるで逆の方向に向かっていることがわかる。「フリー」「オープン」「シェア」ではなく、管理され、クローズドで、商業化されているのが現在のインターネット文化なのである。(p.110)


確かに。



 このとき立ち上がった現象の構造的側面は、「参加型文化」と「集合知」と呼べるものである。すなわち、1990年代の右派論壇は、歴史学の通説に対して「みんなで考えよう」「みんなで考えたことを共有しよう」という姿勢を示したのである。さらに重要なのは、これが学術出版ではなく商業出版で展開されたことだった。右派の政治言説は、インターネットやCS放送といったオルタナティヴなメディアにしか言論空間がなかった。こうした背景のもとで、言論空間は「ビジネス」として展開されるようになり、政治言説では売れる言説こそが正しいという「文化消費者の評価」が重要視されていく時代へと変化していったのである。(p.11-112)


ネトウヨ的な言説がビジネスとして展開されてきた点は非常に重要な指摘だと思われる。このルートを断つことが必要と思われる。



これまでの研究では、ネット右翼が一般に認知されるきっかけは02年のサッカー日韓ワールドカップでの日韓翻訳掲示板での日韓双方のユーザーの「論争」にあるとされている。日本の「2ちゃんねる」利用者は歴史認識問題をめぐる論戦で「勝利」した。そして、インターネットでの「論破」というコミュニケーション・モードに快感を得て、自ら知識を探求するわけではなくその手法だけを模倣する「フリーライダー」を増殖させた。
 こうした「論破」に熱中する傾向は、1990年代の歴史修正主義者の「歴史ディベート」にもみられた特徴である。歴史のテーマをめぐって2チームに分かれ、それぞれの主張のどちらに説得力があるかで勝者を決めるゲームを歴史認識の真理判断に導入しようとする活動がおこなわれていた。しかし、これはその場で相手を沈黙させることができればいいだけであり、単に自分の主張に都合のいい知識と論理を強化するばかりで、歴史の真実を明らかにしようとする営為とはとうていいえない。(p.112-113)


ネトウヨ言説のもつ特徴の一面を良く捉えている。「敵」を「論破」して「勝つ」ことが目的となっている。満たされない人(現状に不満がある人)であることとこれは関係がある。



 ここでは明らかに完全な「反転」が起こっている。「全体主義」「ファシズム」「プロパガンダ」「マルクス主義」、そして「メディア・リテラシー」といった用語はすべて左派が体制批判のために用いてきた分析概念だった。これらの用語が、本来の意味やそれまでに使われていた文脈を無視することで「右旋回」させられているのである。
 このことこそ、インターネット時代の一つの特徴ではないか。自分たちを攻撃するものとして敵視する「サヨク」の言葉をまさしく自己の武器にしているのである。(p.119-120)


この点については、私もかねがね思ってきたところではある。概念だけではなく、安倍晋三がしばしば口にする「印象操作」などの言葉もこれである。

なお、安倍政権では左派の政策を奪いながら「右旋回」させている点にも一言触れておきたい。例えば「アベノミクス」と呼ばれているもののうち、大規模な金融緩和とそれによる財政のファイナンス、財政出動という形式は欧州左派の政策であり、それの使い道が人々の生活ではなく経済界の意向に沿うものである点が異なっている。


宮本みち子 『若者が《社会的弱者》に転落する』

これらの「やりたいこと」という論理の帰結を久木元は次のように分析する。
 やりたいことは結局、自分の内部にしか発見できない。しかもその認定基準は厳しくなる傾向があって、ますます見つけにくくなってしまう。しかし社会は「やりたいこと」の選択を彼らに許す。しかし、「その選択に社会が責任を負わないしくみになっている」。その結果、「《やりたいこと》という《心理主義化》は、容易にシンプルな自己責任の論理に転嫁しうる」〔久木元、2001〕。
 選択の自由は与えられているが、現実に利用できる資源には格差がある。そのため選択の結果は、それらの格差を反映したものになることも明らかである。先述したライフコースの個人化と問題解決の私化という傾向と重なる指摘である。
 さらにまた、「何がやりたいことなのか」を自問自答するなかからは、やりたいものをみつけることはむずかしい。自分の内なる世界から出て、実際に体を動かすことを通してこそ、やりたいことはみつかるはずだ。社会から隔絶された家庭と学校に閉じ込められた状態で、やりたいことを見つけようとする矛盾
 「やりたいこと」は実はかならずしも「できること」ではないし、できることに比べ「価値あること」ともかぎらない。だが、親も子もその呪縛にとらわれ、結果として現実逃避が続いていることに、問題の根があるのではなかろうか。(p.80-81)


主に90年代から00年代にみられたフリーターをめぐる言説についての分析だが、妥当である。「やりたいこと」という個人の欲求に問題を矮小化することは、社会全体として若者の働く環境の整備という課題を人びとの視野に入らないように妨害するものであった。そして、若者やその家族がこの「やりたいこと」の論理を当然のものとして受け入れることによって、社会が果たすべき責任が等閑視され、フリーターという選択は個人の選択であり個人の責任において行っていることとされた。

後段の指摘も全く同意見であり、現在でも進学や就職の際に同じような論理に囚われている者はそれなりに存在していると思われる。社会から隔絶された環境に置かれながら、「やりたいこと」を見つけ出すよう強いられる学生。この矛盾した状況を改善することは社会にとってもこれから進学や就職しようとする若者にとっても必要であると思う。



「家庭の教育力は昔より低下した」と、多くの人が信じているのだ。ところが子どものしつけの変遷を研究してきた広田照幸氏によれば、実は、現代の親のほうが子どものしつけに対する自覚はずっと高く熱心であるという(広田照幸著 『日本人のしつけは衰退したか』 講談社現代新書)。
 戦前から高度成長期にいたるまで、農村社会では、子どもの自然の成長や自覚を期待する放任的なしつけが一般的であった。……(中略)……。
 戦前から戦後のある時期まで、教育の課題とは、子どもに関心を払うことを親に勧め、子どもの教育にもっと熱心になるよう啓蒙することだった。大正時代、都市部のサラリーマンやインテリ層に登場した「教育する家族」、つまり、子どもの教育が主要な目標となる家族が、高度経済成長期を経て、全国・全階層へと広まり、今では多数派となっている。つまり、家庭の教育力は低下したのではなく、事実は逆だったのである。
 ……(中略)……。
 現代の家庭には、子どもが一人前になるために必要な多様な経験をする条件がない。……(中略)……。よその大人たちの影響を受けなくなったことは、子どもの環境変化を考える時、たいへん大きなポイントだと思う。
 ……(中略)……。
 低下したのは家庭の教育力ではなく、社会と家庭を支えてきたトータルな力のほうなのではないだろうか。(p.108-114)


概ね言われていることには同感である。家庭の教育力は低下したのではないという言い方は、若干の問題がある。このことを言う根拠として述べられているのは、家庭の教育力ではなく、家庭の教育への関心が高まっているということである。関心が高まっていることは必ずしも教育する力が高まっていることは一致しない。本書が言うように、現代の家庭には多様な経験をする条件がないのであれば、家庭の教育への関心は高まったが教育をするための条件は劣化したといったところであろう。

問題は、その責任は必ずしも家庭にあるわけではなく、社会の変動が要因となっているということを明確にしておくことだろう。家庭の教育力が低下したという類の、大雑把で雑な判断をしようとする人というのは、そのことを言うことによって、各家庭の責任にしようとしている。あるいは、各家庭の責任にした上で、各家庭の努力には期待できないので政府などの権力が道徳教育などに介入すべきだといった類のことを言おうとしていることが多いのではないか。本書の指摘している議論はこうした類のトンデモ言説に対して、それとは異なるあり方を事実に基づいて提示する方向性のものであるという点で共感できるものである。



 子どもたちは、家庭でも地域社会でも、何の役割も責任も課されない。だから、いつどうやって親離れをし、自立するかという道筋が見えない。(p.120)


既に別のところで「社会から隔絶された家庭と学校に閉じ込められた状態で、やりたいことを見つけようとする矛盾」といったフレーズで指摘されていたことと同じだが、こちらの言い方の方が問題を解決に向けるヒントを多く含んでいる。つまり、子どもたちに社会の中での役割や責任を与えることによって、子どもの自立への道筋が見えてくるのではないか、と。



「私、四年制大学に行く。このまま就職するっていってもどうせアルバイトしかないでしょ?だったら大学でバイトした方が楽じゃん。それに親も四大の授業料出してくれるって言ってるし」
 彼女たちは、今という時代を直感的にわかっているのだ。大学は無業という暗い現実からの最終避難所となりつつあること、学校で学ぶことの積極的な意味など初めからないこと、学生と社会人の境界が薄くなっていることを。そして、いくらがんばっても先が見えないから、ほどほどのところで今を楽しく暮らす方がトクだという諦めがあるのだ。(p.155)


本書が出てから15年以上経ち、団塊世代の退職により就職難の時代が終わり、人手不足の時代が到来しているため、大学進学の意味は変わってきていると思われるが、それでも無業からの避難所としての大学という性格は現在でも残っているように思われる。



 親子が同居する期間が長くなっている弊害を克服するためには、子どもをときどき親元から引き離すしくみが有効であろう。友人同士の泊まりあい、田舎の祖父母の家への一人旅、夏休みのホームステイ、国内外留学、寮のある高校、合宿、寄宿舎、泊り込みの農業体験等、公私さまざまな「家から離れる」工夫が必要だ。(p.169)


この考え方は非常に参考になる。子供は高校生くらいになったら留学させるのが良いかも知れない。


マックス・ウェーバー 『仕事としての学問 仕事としての政治』
「仕事としての学問」より

「事実などはなく、あるのは解釈のみだ」(ニーチェ 『権力への意志』481)という遠近法主義からは、自分にとって都合がいい「事実」しか見ないという傾向が当然出てくる。そうすると、それぞれの立場が自分に有利なエビデンスを持ち出し、相手の「事実」を「捏造」だと言って罵ることになる。客観的な事実よりも感情的な訴えかけのほうが影響力をもちやすい事態を「ポスト真実」と呼ぶならば、こうした状況においてこそ、自分にとって「都合の悪い事実」と向き合え、という政治教育の仕事は重要になる。(p.64-65)



優れた教師は都合の悪い事実を認めることをその弟子に教える、という件についての訳注。「ポストトゥルース」のような用語を使っているあたりが、現代の読者に向けたメッセージとなっている。少し言い方を変えると、ヴェーバーのメッセージは、現代の日本においても届けられるべき内容を持っていることを、この訳注は示している。

私自身、ヴェーバーから学んだことのうち、最も重要なことの一つはこのことだったと思っている。なお、もう一つ同じくらい重要なのは「職業としての政治」の方で強調されることになる「距離の感覚」であった。



「仕事としての政治」より

 政治が「導く」ないし「リードする」活動だというのは、あまりに自明だと思われるかもしれない。しかし、ミシェル・フーコー(Michel Foucault)(1926-84年)は、1977-78年度のコレージュ・ド・フランス講義において、古代ギリシアの語彙には基本的に「牧者(berger;Hirte)」のメタファーがないと指摘している。牧者の「導き(conduite;Führung)」(フーコーの訳語では「操行」という訳語が用いられることが多い)は、17世紀末まではほとんど見られず、「キリスト教的司牧が西洋社会に導入した根本的な要素の一つ」だと述べられている(ミシェル・フーコー『安全・領土・人口――コレージュ・ド・フランス講義 1977-1978年度』 高桑和巳訳、筑摩書房、2007年、239頁)。リーダーシップの強弱でしか政治を語れないとすれば、それは政治概念の貧困化ということになるかもしれない。(p.91-92)



講演冒頭の辺りで政治についての概念を規定しようとしている箇所への訳注。ヴェーバーの政治や権力の概念に対して、もう少し現代的な概念を知りながら読むべきだというような訳者からの示唆が感じられる。

なお、リーダーシップの強弱でしか政治を語れないことは政治概念の貧困化だという指摘は、多くの人々のリーダー待望論(願望)とポピュリストの登場という構図が世界的にみられる(ヴェーバーの時代にもこれに似たところがあったと思われる)ことを踏まえてのものであろう。



 では、このシステム全体は、どのような効果を生んだのでしょうか。今日、イギリスの議員は二、三人の閣僚(と少しの一匹狼)を例外として、通常の場合、よく規律化された票以外のなにものでもありません。ドイツの帝国議会では、せめて自分の席の机で私的なメールを片づけることで、お国のために活動しているふりをするのが常でした。この手のジェスチャーは、イギリスでは要求されもしません。議会のメンバーがしなければならないのは投票だけで、党を裏切らなければよいのです。内閣、あるいは野党のリーダーが命令するのに応じて、それをするように院内総務から呼び出されれば、議員のメンバーは顔を出さなければなりません。一人の強力なリーダーがいる場合、全国のコーカス・マシーンに至っては、ほとんど主義をもたず、リーダーの手に完全に掌握されています。したがって、こうして議会の上に君臨するのは、事実上の人民投票的な独裁者です。この独裁者は「マシーン」を介して大衆を自分の後ろに従える。そして、この独裁者にとって、議員などは彼の支配下にある政治的なサラリーマンにすぎなくなります。(p.160-161)



『政治論集』でコメントした箇所と全く同じ個所。つけるべきコメントも基本的に同じ。

訳文について一言述べると、本書は野口雅弘による新しい訳だが、私としては古い訳の方が読んだものが記憶に残るように思う。今回の訳は、言葉の選び方は現代の若者に向けていろいろ考えているように見えるが、読んでみると(少なくとも私にとっては)何となく回りくどいというか、意味内容が頭の中にスッと入ってこない感じがある。講演なんてむしろそんなもんだという見方もあるかも知れないが、こうした種類の本を読むことの意味を考えたとき、やはり著者が考えている意味内容が読者に何らかの形で伝わることが重要であることを考えると、読んですぐ頭に入る方がいい。



ところが、政治家の仕事の聖なる精神に対する罪が始まるのは、もっぱら「なにごとか」にコミットするのではなく、この権力追求がなにごとかに即さず(unsachlich)、純粋に個人的な自己陶酔の対象になるところです。(p.182)



一つ前のエントリーでもこの部分を含む個所を引用しておいた。



 戦争を倫理的に埋葬するのは、実際の問題に即していることと騎士道的な礼節によって、とりわけ品位によってのみ可能です。〔どちらが善で、どちらが悪かという「あれか、これか」を問う〕「倫理」によってではないのです。「倫理」〔による戦争の終結〕では、〔勝者と敗者の〕双方の品位が失われてしまいます。(p.187)



この個所も一つ前のエントリーで引用した。「倫理」に対する注釈の内容が両訳書で異なっている。こちらの解釈の方が素直に理解できるように思う。



「訳者あとがき」より

もちろんウェーバー自身は「ポスト真実(post-truth)」という語を用いているわけではないが、「事実」よりも受け手の感情や好みがより大きな政治的意味を持つような事態は、すでに彼の考察の射程に入っている
 ドナルド・トランプがアメリカ合衆国大統領に選出されたとき、反知性主義のポピュリズムという点で似ているとして、第七代大統領のアンドリュー・ジャクソンが引き合いに出された。ウェーバーが「政治」講演で特に注目するのは、イギリスのバーミンガムから始まった「コーカス・システム」の発展とともに、白人男性の普通選挙権が実現した、いわゆる「ジャクソニアン・デモクラシー」の時代の政治の変容である。大規模で、かつ規律化された「重い」政党組織は、「軽い」風によって動く「世論」に支えられた政治リーダーのパーソナリティへの依存を高めていく。組織化とパーソナル化がともに進んでいくという「官僚制化とカリスマの弁証法」を、彼はこの講演で印象深く描いている。(p.220-221)


ジャクソン時代のアメリカをヴェーバーが見ていたという点は確かに押さえておいた方が良いかも知れない。



いろいろな感想や指摘をもらい、そのいくつかはこの訳書に反映されている。しかし、この本を扱ったゼミでは、あまり話が通じず、かつ議論もうまく展開しないことがしばしばだった。かつてよく読まれた本が次第に読まれなくなるのには、それなりの理由がある。原著者のウェーバーが語りかけている読者は、革命のさなかにいた。そこでは、いずれのイデオロギーも急進化しつつあり、コミューン的な結びつきや「神秘主義」も近くにあった。いま日本でこれを読んでいる若い読者とは大きくかけ離れている。(p.222-223)


かつて読まれた本が読まれなくなるには理由があるのは確かであり、ヴェーバーの本は全体としてその傾向にあるだろう。

ただ、ゼミで話が通じないことの原因は、訳者がここで指摘するようなことが主要な原因ではないと思う。なぜならば、この本を読んできた(かつての)若者たちは、そのほとんどがヴェーバーが語りかけている学生たちとは大きく異なる環境に置かれていたからである。むしろ、話が通じないことの大きな原因は、日本の大学の変容にあると思われる。特に私立大学は現在では学力試験を経ないで推薦で入学する学生が半分近いという現状がある。つまり、学力レベル的に進学する生徒とそうでない生徒をすべて含めて真ん中かそれ以下の生徒たちが大学に進学してくる。例えば、歴史を学んでおらず、古典を読んだこともなく、古典についての解説書すら読んでおらず、政治的あるいは社会的な問題意識が特にあるわけでもない、といった学生がこうした本を読んだとして、本書のような本を短時間で理解できるとは思えない。かつてであれば進学できなかったような学生が大量に進学してくるようになったという大学の状況の変化が話が通じない真の原因はなかろうか。(もちろん、訳者としてそのような「不都合な真実?」をこの場に書くことは憚られるだろうが。)

鈴木幸壽・山本鎮雄・茨木竹二 編 『歴史社会学とマックス・ヴェーバー――歴史社会学の歴史と現在――(下)』
雀部幸隆 「ヴェーバーの政治思想研究の意義と課題」より

 こうした発言から窺えるヴェーバーの政治への基礎視点は、①国民的観点=国益第一の視点であり、②国家の統治可能性の重視であり、③歴史的地政学的諸条件の冷静な考量である(雀部1999年、185頁以下、雀部2001年、20頁以下)。
 かれは、その観点から、あくまでもドイツの世襲君主制の維持にこだわった(以下について詳しくは、雀部1999年、91頁以下、雀部2001年、23頁以下を参照)。そのこだわりがまた、あたかも「共和制」をもって人間理性の自然にかなった――だからまた自然法的に与えられた――合理的な国制と考える傾きのある戦後のわれわれのつまづきの石となる。もちろんヴェーバーは、ドイツの第一次大戦敗北後、ヴィルヘルム二世の国外逃亡によって帝制の崩壊が不可逆な事実となるにおよんで、共和政体を基礎にドイツ国家の再建策を追求することとなる。「国民投票的大統領制と代表制的議会制とが併存する=代議制的統治」というのが、その回答である(WuG, 5. Aufl., S.173. 『支配の諸類型』、196頁)。しかし、ヴェーバーの「君主制」へのこだわりに釈然としないわれわれは、その場合にも、結局ヴェーバーはワイマール共和国大統領にたいして「代替皇帝」としての役割を期待したのではないか、その意味においてかれの君主主義的原思考は形を変えて生きながらえているのではないか、との疑念を払拭することができないでいる。(p.131-132)


まず、ウェーバーの政治への基礎視点として3点がまとめられているが、この整理は概ね妥当と思われる。国益第一といったとき、誰のどのような利益なのか、ということを明確にする必要がある。ウェーバーの場合、基本的には②の観点とも関係して、為政者の立場にとって好都合なものを重視していることととなる(国民一人一人の福利や権利を守ることが第一義的なものとはなっていない点に注意!)。

国民投票的大統領制と代表制的議会制の併存というアイディアも、雀部と異なり、素直に「君主主義的原思考は形を変えて生きながらえている」と解釈するのが適当ではなかろうか。ウェーバー研究者はウェーバーを批判から守ろうとするあまり、不当な解釈をすることがあるが、ここもその一つではないか。




丸川哲史 『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』(その3)

朝鮮戦争は、台湾における中華民国の事実上の主権状態が成立した起点でもあり、それがなければ、今日私たちが知る台湾はあり得ていない。台湾は大陸から派遣された解放軍によって「解放」されていた可能性が高いのである。その意味で、朝鮮戦争という出来事は、台湾においてタブー視されている。(p.94)


朝鮮戦争によってアメリカが台湾を西側に組み入れることにしたため、国民党は台湾で生き延びることができた。国民党にとっては触れられたくない事実であることは確かだろう。ただ、現在は当時の国民党の政権とは異なる状況になっている。現在においてもタブー視が継続しているのだろうか。それとも過去にタブー視された期間が長かったため、多くの人々にその重要性が忘却されてしまい、誰も(多くの人が)「論じることができない状況になっているのだろうか。この辺りは気になるところである。



 本書は、大陸中国内部の政治・経済状況について深い分析と洞察を展開する任を持たないので、天安門事件にかかわる原因について深くは触れられないが、この事件は、大陸中国国内では改革開放政策の挫折と認識されるものであった。その背景には、都市における市場経済の導入によって国有財産が民間に転化される際、多くの政府関係者がそれを私物化する不正行為が現れ、また国有経済と市場経済の価格・給与の二重化によって、都市生活者に不安と焦燥を与えていた事態があった。市民たちは、学生が主張した「民主化」や「表現の自由」というスローガンには乗ったものの、大きな意味での不満の種は、それら改革開放の都市への適用の失敗に由来するものだった。
 しかし台湾や、日本も含めた西側のメディアでは、経済政策的な側面からの説明ではなく、西側「民主主義」の基準から、共産党の一党独裁を批判する、という態度を採った。ちょうどその頃台湾では、徐々に直接選挙制度による政治決定(議会政治)のルートが整備されつつあった。その意味で、この天安門事件は、民主主義的制度が整いつつある台湾、そしてそのような制度とは無縁な大陸中国、という二元論的な認識の構図を形成することとなった。これ自体を誤ったものとは認定できないものの、こうした単純化された構図によって大陸中国で発生する現象全てが裁断される傾向が生まれ、台湾における大陸中国認識についてマイナス面が形作られるようになった。(p.98-99)


確かに、天安門事件に関して日本で語られるときは、現在でも民主化されていない一党独裁の下では、国家権力によりいかに悪事がなされるか、といった文脈で語られている。このこと自体は確かに間違ってはいない。しかし、なぜ中国の人々が政府(共産党)に対して抗議や要求をしたのか、ということまで考えに入れれば、本書が指摘するように改革開放の都市への適用の失敗が要因となって起こった事件であると捉えるのが妥当であろう。この事件について語るときは、忘れられがちな点をしっかりと念頭に置きながら語るべきであろう。



そこで、サンフランシスコ講和条約の発効の日付、1952年4月28日をもって、日華平和条約が締結されることになった。……(中略)……。
 ……(中略)……。条約を取り交わしたことで、初めて正式な二ヵ国間外交関係が発生し、東アジアにおける中華民国(台湾)の安定的位置が定まった、との見方も可能となる。
 中華民国は、元より米国と外交関係を持っていたが、台湾に移った後の体制による関係の構築という点では、後の米華相互防衛条約の締結を待たねばならなかった。日華平和条約は、台湾に居を移した中華民国体制にとっては、逸早き援助となった。日華平和条約は、戦後補償の点から実質的な賠償請求の取り下げというマイナス面があり、日本が放棄した領土の帰属先を明確にできなかったとはいえども、台湾において中華民国が存続するためには、是非とも必要な契機だったのである。(p.132-133)


なるほど。賠償請求をしないことにしたのは、そうしてまで締結したいだけの理由が中華民国(国民党)側にはあった、ということか。少なくとも、戦後数年間の国民党が置かれた状況というのは、それほどまでに不安定なものであったという点は理解しておく価値があるかもしれない。



 最後に、陳水扁(前)総統が自身の家族も含め不正な金脈を蓄積したという疑惑が第二期の任期の途中より深まり、馬英九の総統当選の後、正式に司法当局によって逮捕・起訴された事態について若干補っておきたい。この出来事は、民進党支持者に大きな衝撃を与えることになったが、実はそれだけではなかった。と言うのは、第二期目の選挙において、疑惑の「銃撃事件」が介在したことにも起因するのであるが、選挙万能論に対する反省が生じたからである。後期の陳水扁は、台湾メディアにおいて、「民選皇帝」とも呼ばれていたが、選挙で当選したならば何でも可能となるその権力振りに対して、党派の立場を超えて不信感が広がっていた
 ……(中略)……。国政レベルでの選挙制度が完成していることが、これまで大陸中国の政治と自分たちとを分かつ大きなメルクマールとして台湾の民主主義的優位を象徴していたわけであるが、それへの疑義が僅かながらも生じるようになったのである。(p.161-162)


選挙に当選後、そのことを不当に利用して強権を行使する権力者たちが、日本でも00年代以降、散見される。

安倍政権でも、森友学園問題や加計学園問題はそのような動きが隠れて行われていることが明らかになった事例と言える(安倍政権は隠蔽と虚偽とごまかしを重ねることによって非を認めようとはしていないが、出てきた証拠に基づいてみれば、何が起こっていたのかの概要は誰の目にも明らかだろう)。これらは中国の官僚がその地位を利用して私腹を肥やすのと大差ない行いであるが、安倍政権に関して言わなければならないのは、合意を得る努力をせずに(正直に話をすれば多数の同意を得られないと分かっているが故に本当のことを語らないようにしてごまかし続けるという事例を含む)数の力だけで通した法案がいくつもある。特定秘密保護法然り、共謀罪法(これは「テロ等準備罪」というごまかしを含むネーミングで印象操作をしている)然り、集団的自衛権の行使容認(これも「平和安全法制」などというピントの外れた印象操作ネーミングを政府は使っているようだ)然り、また、特定の方向に回答を持っていくように作った調査を行い、それに基づき「裁量労働制で働く方の労働時間の長さは、平均な、平均的な方で比べれば、一般労働者よりも短いというデータもある」などという印象操作を行おうとしたことが暴かれてしまったため、裁量労働制の部分は取り下げたが、労働者は誰も望んでいないに等しい「高プロ」(このネーミング自体も印象操作であって、実際には「労働時間等に関する規定の適用除外」と言うのが正しい)を導入する働き方改革法然り。

他にもいろいろと自治体の(元)首長などで指摘したい者たちがいるが、それを書くことが本題ではないので今回は割愛する。いずれも白紙委任を受けたかの如く振舞うのは誤った振る舞いであると理解すべきであり、制度的にこの誤りを防止するような仕組みが必要だと思われる。

なお、本書によると台湾には選挙万能論への反省が出てきたというが、日本ではまだまだこうした反省の機運は弱いように思う。やはり日本よりも台湾の方が民主主義や共和主義に対する人々の感度は高いように思う。


丸川哲史 『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』(その2)

つまり、日本人の台湾原住民への関心は、そのような日本人の「中国コンプレックス」の跳ね返りとして解釈され得る、ということである。(p.38)


霧社事件が日本人が台湾原住民に対して持った強い思い入れの象徴となったことに関連するコメント。



 しかし、真珠湾攻撃から太平洋戦争が勃発すると、南方戦線への兵士の供給の問題が強く意識されるようになり、翌42年には、軍に志願することがまた「許可」された。以後の三年間に、漢人系が4200名、原住民約1800名が陸軍特別志願兵として徴集され、その他海軍なども含め約1万7000名が軍に「志願」したとされている。さらに戦争末期になると、終に内地と同様、徴兵制がしかれることとなった。それまでは、台湾人に広範に武器を渡すこと自体に危険がともなう、と見做されていたようである。いずれにせよ、こうして敗戦までに20万を超える台湾住民が戦場に送られ、そして3万人以上が亡くなったのである。(p.39)


台湾の人々は戦時中もすぐには徴兵されなかったということはよく目にする。武器を渡すこと自体に危険が伴うと見なされていたというのは、なるほどと思わされた。確かに、台湾の人々の一部は日本が台湾を領有するようになってからもしばらくの間は武力で抵抗していたし、皇民化運動が進められていたのも、ある意味ではやはり異質だと前提しているから同化させようという発想になるわけだから、為政者側はやはり台湾の人々(本島人)を完全には内地人と同質化していない人々と見ていたとは言えそうである。(軍隊は特にそうした見方をしそうだ。)



日本から台湾の歴史を見る場合、特に戦前の植民地期の台湾のあり方を考える場合、このような世代のギャップが存在していることを見逃してはならない。日本の植民地統治は、初期の武力平定期から、特別統治主義による統治の時期、そして内地延長主義の時期、さらに最後の皇民化期など、政治、経済、文化全般にかかわる政策モードが変化しており、どの時期を見るかによって、植民地台湾のイメージは変わったものにならざるを得ないのである。(p.41)


日本や中国に対する見方も、どの時期にどのくらいの年齢だったかという世代ごとにかなり異なったものとなっている。最近20年くらいの間に生の声を聞くことができた人の多くは、皇民化期にはまだ社会に出ていないくらいの世代であるが、この世代とそれ以前の世代とはかなりのギャップがある。武力平定期に既に大人になっていた世代や十分に物心がついていた世代と、そうした武力平定の時代にはまだ生まれていなかったような世代とでは、日本に対する印象を訪ねても全く異なるものになる。

この点は本書を読んだ最大の収穫だったと思う。



 50年代の台湾は、米国による有形無形の援助を受けていたことで、反共の砦として米国の世界冷戦戦略の中の重要拠点に位置づけられるものとなっていた。第二次世界大戦に敗れた日本は相対的に、台湾社会において比較的影の薄い存在になっていた。50年代に書かれたり記録されたりしたものを読んでも、日本に対する言及はあまり出て来ない。日本の存在は、台湾社会の関心からは遠ざかっていたのである。その日本が台湾社会において、もう一度存在を主張しはじめるのは、60年代の半ば、日本の文脈で言えば東京オリンピックを成功裡に終え、高度経済成長のラッパを鳴らした時期である。日本がもう一度、韓国、台湾、東南アジアへと「進出」をはじめた頃でもあった。
 歴史的メルクマールとなるのは、1965年である。……(中略)……。
 ……(中略)……。戦後台湾は、軍事分野その他様々な領域において一貫して米国からの「援助」に頼った経済建設を行っていたわけであるが、その「援助」が、1964年に失効することが取り決められていたのである。これは主に、米国の財政難によるものであったが、これをカバーするように、台湾の経済を支える日本のイメージと存在が、この頃から台湾社会の中でせり上がってくる。(p.51-52)


なるほど。台湾における日本の存在感は薄かった時代があったというのは、昨今の台湾と日本との関係から見ると意外にすら思える。ただ、この時代の台湾社会を牛耳っていたのは大陸から来た外省人たちであり、白色テロの下で言論の自由も制限されたことなどを考えると、それほど不思議ではないことがわかる。その背後に「美援」(アメリカによる支援)があり、他の地域に頼る必要性がなかったのであればなおさらであろう。

ただ、当時の台湾にとって最も重要な関係であったアメリカとの関係において、援助が打ち切られるとなれば、一挙に台湾社会の置かれた状況は変わってくることになる。本省人たちによる日本とのネットワークも活用できる、もともと繋がり深かった日本との関係を模索するのは当然であっただろう。日本側も高度成長の下で経済的に海外進出が必要になってきていたという事情がそこに重なってくる。



 ここで注意しなければならないのは、この俳句の会「台北歌壇」の成立が、1968年だということである。前節で述べたように、1945年以降に遠ざかっていた日本の存在が、この時期、観光客や進出企業という形で再び台湾人の目に触れるようになっていた。そのようなタイムラグを経た再会によって、皇民化世代の人々の中で自身の青春に対するノスタルジーが掻き立てられた、という言い方が成立しよう。(p.56)


皇民化世代(日本語世代などとも言われることが多い)が日本に対してかなり好意的な印象を持つにいたる要因。しかもこのタイムラグの間には国民党による白色テロの時代が始まり、この時期も継続していたのだから、なおさら好意的に記憶が再構成されやすかっただろう。



 八田與一の顕彰にかかわる戦後のプロセスは、非常に興味深いものである。忘れてはならないのは、水利事業は全て日本総督府の予算だけで完遂したものではなかったということ、その建設に働いたのは、ほとんど地元の台湾農民であったという当たり前の事実である。八田與一の顕彰には、植民地統治時代という歴史的環境にありながらも、その事業を成し遂げた「自分たち」への誇りの感覚が被さっている側面を見逃してはならない。八田與一の顕彰について、日本側では、日本統治が台湾人に大きな恩恵を与えたとする論拠に充てる傾向もあるが、植民地統治の中に含まれている様々な側面を慎重に推し量る必要がある。(p.57)


八田与一に関わる言説には、私も違和感を感じてきたが、日本側の八田与一顕彰言説の多くが持つ問題点を的確に指摘してくれている。


丸川哲史 『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』(その1)

 ここから出兵までのプロセスであるが、それは日本単独の力では為し得なかったということが歴史資料から分かっている。牡丹社事件を知った清国アモイ駐在の米国総領事リゼンドルという人物が、米国駐日公使デ・ロング(C.E.De Long)を通じて維新政府に台湾出兵を進言したとされる。かつて1867年、米国政府は二隻の艦艇で台湾に侵入したものの(これをローバー号事件という)結局は拠点を作り得なかったが、米国側はこのとき、地図などの資料を作成していた。リゼンドルは、日本の台湾出兵に際して、この資料を維新政府に引き渡しているのである。政権の実権を握っていた大久保利通がリゼンドルの意見に興味を示し、九州を中心とした不平武士たちの余剰エネルギーを台湾への出兵にあてることとなった。
 ……(中略)……。つまり維新政府は、近代国家としての領土概念を戦略的に用いたということ、またそうした知識は西洋列強(米国)によってもたらされたものであったというところが肝要である。(p.21-22)


台湾出兵はアメリカ側からの進言や助言、資料提供などのサポートがあって行われることになった。日本はこれにより近代国家の論理を学習した。



 翌年台湾に乗り込んだ劉銘伝は、台湾の海防と殖産興業を一体のものとし、基本的な政策として、海港防衛、兵士養成、租税体系の整備、原住民対策の充実をめざした。……(中略)……。この近代化路線は、その政策の大胆さから、すぐに財政難に陥ることになり、任期半ばにして劉銘伝は台湾を去ることになる。しかし台湾における近代化は、清朝における「洋務運動」の一環として推し進められて行くはずのもので、1895年の日本による領有がなければ、台湾はそのまま中国の一部としてさらに近代化が進展したことが予想される。(p.26)


日本における台湾の歴史紹介本などの中では、劉銘伝による近代化は不十分なものとされ、例えば鉄道も粗末なものだったので日本の技術で作り直さなければならないところがあったことなどが強調される傾向にある。これは台湾を近代化したのは日本なのだという主張に繋がり、この主張は、日本は台湾を植民地化したが良いこともしたという主張へと明示的であれ暗示的であれ結び付けられる傾向がある。こうした方向性に妥当性が全くないとは思わないが、あまりにもこの方向だけで解釈するのも一方的であり植民地統治を正当化したい人たちの受けを狙いすぎのようにも思う。

本書のように劉銘伝による近代化路線というものが大陸の洋務運動に連なるものであったという理解は、日本統治前の台湾の状況を理解する上で重要であり、上記のような「日本的な解釈」を正しく位置付けるために必要な要素の一つであるように思われる。ただ、劉銘伝の路線ですら財政難で実施できなかったという点やその後の中国の政治の乱れなどを考慮すると、日本統治がなくても近代化は進んだであろうということ自体には異論はないが、植民地統治を成功させるために大金をつぎ込んだ日本による政策よりも積極的に推進されることはなかったのではないか、ということくらいは言えるのではないか。



 この戦争は、双方に大きな被害を出すこととなった。日本軍の死者(病死者も含む)だけで5000人にも上り、実に日清戦争の過半数にも相当する。これは、日本の歴史教育でも留意されなければならないことである。台湾領有戦争は、日清戦争本体の「おまけ」のような扱いか、あるいはその情報自体、取り上げられていない。日本において台湾認識を作る上でも、この台湾領有戦争の軽視は問題であると言えよう。
 また、この戦争によって、当時の台湾住民の中に、日本の台湾領有に対する態度をめぐって大きな亀裂が生じたことも念頭に置かなくてはならない。一つに、中部南部において激しい抵抗戦争が発生したことと対比的に、台北など北部においては、流血の事態を避けるため、日本軍の入城に協力した地主・郷紳層が現れ、後に日本の植民地統治の重要な協力者となったという事実である。もう一つは、日本総督府が布告した台湾籍民(日本臣民)への転換を潔しとせず、大陸へと渡って行った人々も多く存在したという事実である。(p.30-31)


日清戦争後に台湾を領有することになったが、その初期の段階では台湾の住民から激しい抵抗を受けた。この時の日本側の被害について日本の歴史叙述は無視、軽視しているという。この犠牲者数は台湾認識を形成するにあたり重要な事実であると思われる。台湾の人々は当初はそれほど歓迎していたわけではなかったという認識は重要。

後段の2つの方向性については、日本における歴史叙述では前者には触れられることが多いが、後者は無視される。どの程度の数いたのか(資料がないので難しいだろうが)なども示されればなおよいように思われる。



 今日、日本でも台湾でも台湾領有戦争について語る機会は、さほど多くないが、それはなぜなのか。台湾の統治がこの後、51年にも及んだことが挙げられるかもしれない。日本の植民地統治が終了した時点で、台湾領有戦争のことを経験として記憶している世代はごく少数はとなり、日本による台湾植民地統治を語る際には、勢いその末期の数年のみが語り草となっていたことが予想される。……(中略)……。そのために、日本の植民地経営が軌道に乗っていた時期の経済建設の記憶や、日中戦争の勃発に伴って進展した皇民化運動(台湾人を日本人化するための施策)の持つ鮮明な記憶が前景化する中で、台湾領有戦争の記憶は、歴史の重さというよりも記憶の重さの点で、薄められることになったと考えられよう。(p.31)


なるほど。このような日本統治期の台湾人の世代による認識の相違に留意する必要があるという点は本書から得た収穫の一つだった。



 では、台湾投資のためのコストへの不安を押してまで台湾の植民地経営を続けていくことに、どのようなメリットがあったのか。それは結局のところ、台湾の植民地経営を立派に「成功」させることにより、西洋列強と同様の地位を主張するところに最大の眼目があったからである。だから、台湾における公的な建物や道路などのインフラ整備には、内地以上に重視された部分も見受けられる。(p.32)


後段の部分は、日本統治時代の学校建築などを見るとよくわかる。例えば、現在の立法院(日本の国会に相当)や台北当代芸術館などは、それぞれ高等女学校と小学校の校舎であった。



さらに後藤は、抗日勢力を分断する企図として、臨時台湾旧慣調査会なる組織を立ち上げ、台湾の生活文化、商文化を徹底的に調査させたが、この仕事は、後の満州における南満州鉄道調査部に繋がる日本植民地統治の一つの方法論を作り上げた、とも言える。(p.33)


こうした各植民地の統治方法の連続性や差異には興味がある。台湾については概要はだんだんわかってきたので、他の地域のこともそろそろ調べてみたいと思い始めている。



 さて、この二つの植民地経営の方法について考察すると、後藤の中には、当然の立場として帝国植民地主義者でありつつも、「科学」的認識から民族の「他者性」を前提にしていた発想があったことが指摘できる。翻って、原敬の内地延長主義は、彼がクリスチャンであったことからも、西洋型ヒューマニズムに基づいた思想的背景を持つ志向性の為せるものと見られていた。しかし、皮肉にも十数年後、内地延長主義的な植民地統治理念は、究極の民族同化とも言える「皇民化運動」に道を開いたもの、という解釈も成立する。差別と同化は、表面的には反対の意味内容を持つものの、実際の植民地統治においてこの二つの概念は密接に結びついた機能として把握されるべきものである。(p.34)


後藤新平の特別統治主義と原敬の内地延長主義。権力に相違がある二つの集団が結びつく場合、どちらの考え方を採用しても暴力的な側面が出てくることは避けがたい。権力の相違があるという構造自体が様々な形をとりながら暴力として作用する。このように考えるべきではなかろうか。



ここで一つ確実に言えるのは、この時期の大陸中国における「近代」の展開、つまり辛亥革命から五・四新文化運動を経て、国民革命に至る道程について、台湾は完全にその外側にあったとも言えないということである。台湾の知識人は、大陸中国で起こりつつあることを直接間接的に採り入れつつ、日本の植民地統治への抵抗を模索していた。(p.35)


この視点、大陸と台湾との関係性について、従来の日本から見た台湾認識においては軽視ないし無視されていた。この点に焦点を当てているところに、本書の持つ重要性があると思う。


石井伸和 『小樽志民 運河保存運動の市民力』(その2)

 そもそも「運河論争」とはマスコミが用いた言葉で、保存派・埋立派が同じテーブルで議論したのは、始まりと後始末の時だけである。渦中で両派が「論争」したことはない。「運河論争」より「運河問題」といった方が正しい。(p.84)


なぜ同じテーブルで議論ができなかったのか、ということを考えると、どちらが拒否したのかと言えば体制側に立っていた埋立派が拒否していた面が強いことは否定できないだろう。

このことは、現在の安倍政権が森友問題や加計問題に対してどのような態度を示してきたか、問われたことに対してまともに答えたことがどれほどあったか、といった問題とも通じている。権力を行使する立場を与えられた人間に対して、権力行使の自由を無制限に与えてはならない。規則による規制(立憲主義)だけではなく、他の同等の権力などによる抑制と均衡(権力分立)などが極めて重要である。現在の安倍政権に見られるような問題に関しては、政治からの行政の独立性(立法府からの行政府の独立性ではなく、「政治家であると同時に行政を担う内閣のメンバーでもあるような者」と「理念的には純粋に与えられた使命を実行する行政官僚制の構成員」との間の独立性[※])が必要であろう。

[※]今の制度では内閣が高級官僚の人事を握っており、官僚が内閣にいる政治屋が正当性のない恣意的な権力行使をした場合であっても、これに対して抵抗が難しい制度になってしまっていることが問題である。

また、本書は小樽に関する本であることから、ついでに述べておけば、つい2週間ほど前に選挙で落選した森井前小樽市長のように、自分にとって都合の良い人間たちにだけ、法令や例規を無視して恣意的に利益を分配していく(漁港に自分の支持者だけ規則に反して観光事業を行わせて漁業者の事業を妨害したり、除雪の事業に自分の支持者を無理やり捻じ込んで混乱を生じさせたり、庁内の人事も規則に基づかずに知己を昇進させたり、自分の応援団を参与に任命しほとんど何も仕事をしていないのに月30万円の給料を予算の根拠を得ずに税金から払い続けた)といった権力の恣意的な濫用がされてしまったことも、権力に対する抑制が現代の政治行政において不足していることを明らかにしている。

前市長は、この件について市議会等がどのような指摘をしても回答らしい回答を示すことができなかった。負託を受けて権力を行使するという立場(政治家及び行政)においては、その権力行使が正当なものであることを説明する説明責任が生じるのだが、この説明責任を果たしていない場合、その権力行使には正当性がないということになる。このような説明責任を果たす(これは代議制民主主義における政治家のイロハのイであろう)ことすらできない無能ぶりであったから、前小樽市長に対しては、市議会等による指摘は、ある程度の歯止めにはなったが、もし、口先では説明したふりができるくらいの知性は持ち合わせている人間が同じようなことを行った場合、安倍政権と同じような事態にもなりかねなかっただろう。



「負けた原因は権力ある者のみが既成事実を積み上げることができ、その事実がぬきさしならないところまで蓄積されたということじゃないか」(p.191)


上でも述べたように、権力を行使する立場を与えられた人間に対して、権力行使の自由を無制限に与えてはならない。それによって、権力側がこのような既成事実を積み上げさせることができないようにしなければならない。これはまずは制度的に権力抑制の仕組みがあり、かつ、それが機能しなければならない。その上に政党なども、この権力は抑制されるべきであるという理念をできる限り前提として共有していることが望ましく(現在の日本では「保守」を名乗る反動勢力――自民党の多くの議員もここに含まれる――には、このことが共有されていないのが極めて大きな問題である)、さらに社会運動・市民運動といったものによって権力抑制の仕組みの実効性を担保していかなければならない、ということではないか。



「新しいまちづくり」の方向性として「観光振興」が当然のように議題に挙がった。
 昭和60年2月22日、第4回目の議論の中で、菅原氏が突如議論に水を差すように「観光するほど落ちぶれていませんよ」と発言された。我々は「えっ⁉」と絶句した。菅原氏こそが運河埋め立ての影の実力者と見ていたから、その彼が「なんと時代錯誤な物言いをするのか」と驚いた。
 明らかに時代錯誤ではあるが、こういう大人が小樽には少なからずいたことも事実である。この観光への偏見は1920年代の植民地観光に端を発しているらしい。持てる国の人々が持たざる国へ避暑観光に訪れ、持たざる国の人々を奴隷として使役したことが世界中に伝播した。ここから落ちぶれた地域の産業が観光とイメージされるようになった。(p.193-194)


1920年代頃には世界的な観光ブームがあったが、そのことの一つの側面として興味をひかれた。

ちなみに、いつから観光(観光業)のイメージが変わっていったのか、どのような変遷をたどってきたのか、ということも興味があるところである。



 自民党、公明党、社会党、地区労、小樽商工会議所の五団体が新谷氏推薦団体となった。以後長く続いた小樽市長選挙の保革相乗りはここから始まった。十数年間に亘る運河攻防の疲れでもある。(p.206-207)


ここでは「疲れ」として総括されているが、個人的にはこれは運河を巡る攻防に対する一種の反省であり知恵というべきではないか、と考えている。

事前に多くの団体で合意できる範囲で物事を進めることで、運河問題のような市の分断を避けることができる。このような反省に立った知恵の産物なのではないかと思うがどうだろうか。

そして、これはさらに言えば、「五者相乗り」として既成勢力の既得権であるとして否定することで2014年に当選を果たした森井前市長が、当選後に何をしたかということを考えても、このような「相乗り」は必ずしも悪い面だけではないことが見えてくるのではないかと思う。

すなわち、森井は先に述べたように、自分と近い関係にある者だけに法令や例規等を無視して恣意的に利益を与えた。一部のものだけに恩恵が集中し、それ以外の市民は極めて大きな迷惑をこうむっている(除雪が来なくなった、バスがなくなった(少なくなった)、漁業者の事業が妨害された、市議会の空転により本来議論されて進められるべきことの多くが足止めされた、予算の裏付けすら取れなかった参与に数百万の税金が無駄に払われた、無能な職員が昇進し、そのような人物により多くの税金で給与を払うことになっている等々)。

五者による保革相乗りは、ある意味では、こうした小さな範囲だけに利益を集中させるような権力の恣意的な濫用を事前に予防するような体制だとも言える。保革相乗りは、人材のいない市町村の首長を担いでいくには、必ずしも悪い方法ではないように思われる。人選の段階でも市内の有力者の間で一目置かれるような人から選ばれるのだから、どこの馬の骨ともわからない人物が突然やってきて恣意的に市政をかき乱すという危険は少ないからである。また、ここ10年くらいのドイツなどでは大連立が普通のことになっており、それと大差はないとも言えるということを付け加えておく。

(もちろん、こうした相乗りや大連立に危険や欠点がないとまでは言うつもりはない。特に反対者がいない(少ない)ことによる権力の暴走という可能性も状況によっては考えなければならない。しかし、一般的に言って、小さな市町村レベルでの人選のシステムとしては安易な「既得権益たたき」よりは遥かにましな可能性が高いと思われる。)



 活性化委員会による「小樽グラスアートセンター」の構想が完成した昭和61年3月、我々は横路知事に報告に出向いていた。概略説明の後、斉藤秘書官が「すでにこの計画には道として20億円の予算がつけられています」と語ったことを覚えている。しかしこの20億円は、平成2年開館の「運河プラザ」と平成8年開館の「小樽交通記念館」に使用されてしまった。なぜ活性化委員会の答申を新谷市長が反故にしたかは未だ謎である。(p.210-211)


活性化委員会の答申が顧みられなかったという話は知っていたが、運河プラザ(現在、これと同じ建物に小樽市総合博物館運河館も入っている)と交通記念館(現小樽市総合博物館本館)に道からの予算があてられたとは知らなかった。グラスアートセンターという発想も面白いが、博物館は重要文化財(手宮鉄道施設)の動態保存などにも繋がっており、博物館も地方博物館としては比較的(学芸員などの)スタッフも充実しているとも聞いているので、現在の時点から振り返ってみると、新谷市長の選択はあながち間違った選択でもなかったのではないかと思う。



 まちづくり運動を担ってきたのは小樽のまちづくり運動家である。彼らの圧倒的多数は観光産業とは直接関係のない職業に就いている。一方、小樽で観光施設を営む約八割は市外資本である。極論すれば、まちづくり運動を進める人々には観光の恩恵が直接ないのに、営業行為に専念する観光業者、それも外様資本がその恩恵を一身に受けている構図になる。(p.227)


小樽で観光施設を営む約8割が市外資本というあたりの議論は、先日このブログにもアップしたとおり、堀川三郎が『『町並み保存運動の論理と帰結 小樽運河問題の社会学的分析』において、一応データを用いて反論していた。

ただ、この堀川のデータは市の観光地域のごく一部しかカバーしていない点に難点があり、彼が言う「堺町外部資本神話」に対する反証は成功していない。一方、本書のような市民の一般的な見方にも裏付けは示されていない。データを取れば調べられることなので、この説の妥当性は検証されるべき問題である。


石井伸和 『小樽志民 運河保存運動の市民力』(その1)

 昭和25年生まれの興次郎は札幌の喫茶店「ドッコ」に勤務していた。古道具が好きで札幌・小樽の古道具屋や古物商を暇があれば回っていた。独立するつもりで札幌北24条界隈に喫茶店を計画していたが、昭和48年にドッコのオーナーに誘われて、アムステルダム、パリ、バルセロナを巡った。そこで古い建物がレストラン、カフェ、アンティークショップなどに利用されているのを目の当たりにし、「これはまるで小樽だ!」と震えるほどの興奮を覚えた。(p.20)


運河保存運動に参加してきた人々には、いろいろな動機に基づいていろいろな人々が参加してきた。ここで触れられている興次郎や山口保などのように、運河とその周辺の町並みを保存することは、現状のままの凍結保存を求めるのではなく、これらを再利用していくことで街を活性化させていくという志向を示していた人々がいたが、彼らの多くがヨーロッパなどを訪れた経験を持って当時の小樽に接した時に、ここで述べられているようなある種の閃きがあったようだ。

このことは、私自身が00年代頃に経験したことと共通性があるように思われ、興味深い。当時私も毎年のようにヨーロッパや中東などの国々を訪れ、いろいろな街並みや建物などを見て回っていた。私の場合、ヨーロッパで重厚な石造建築を見た後に、現在の日本の家々を見ると、いかにもすぐに壊れそうな安っぽい建物が並んでいるように見え、ネガティブな印象を持っていたが、いつからか小樽に点在する木骨石造の倉庫などは、他の場所には同じようなものは(まとまったものとしては)なかなかないことなどに思い至ると、これはこれで貴重なものなのではないかと思い直すに至ったという経験がある。私のこの経験は、運河周辺の状況は本書が描いている時代とは大きく異なるが、「外」に目を向けた後、「内」に目を向けなおすことで、「内」だけを見ていたのでは気付かなかったことに気づくことができるようになったという点で共通性があるように思われる。



 平成25年、小樽市内の喫茶店数は74軒しかないが、昭和55年には215軒もあったから三倍である。主に珈琲を媒介に喫茶店が地域の様々なコミュニティを形成した。小樽は昭和39年に人口20万7千人のピークを迎えた。小樽の人口ピーク時に生まれた子供が成人を迎えるのが昭和59年であるから、人口構成から見れば昭和59年までは小樽にも多くの若者が居住していた。この215軒の喫茶店は若者コミュニティの拠点となり、中でも既述三軒がやがて小樽運河保存運動を担う若者の最大のステージ「ポートフェスティバル」の巣窟になっていく。(p.22)


昭和59年にはまだ若者が多く小樽にいたという説明の論理が興味深い。この論理だけでは厳密には正しい推論とまでは言えないが、大まかにはこのように考えることで人口の趨勢が数字を見なくても見える



 それはボタンの押しどころの問題やと僕は思っとる。守る会が市長相手になんぼゆーたかて相手にされへん。だから峯山さんは全国に訴えた。外的戦略に切り替えたんや。地元のボタンではなく全国のボタンを押したことになるんや。せやからこんな大きな波紋になっとんねん。逆に小樽市民も驚いとる。全国で騒がれとる我が街の運河って、そんなに大事なものかってな。今度は小樽市民がただの汚い運河を見直さなければという、遠隔操作的な働きを持ってきたんや。というより街の公共物をどうするかは全国共通の課題でもあるんやけどな。
 僕らのポートかていっしょやで。署名や陳情で行政を相手にしていては埒があかんと思ったから、市民世論を味方につけようと考えたんや。つまり行政手続きより政治基盤となる世論を喚起してきたってこっちゃな。ええか、政治決定を遂行するのが行政でも、政治決定に持ち込むのが世論という位置づけなんや。そこで市民を味方につけるには明るい祭りがええとなって、これを実践したら市民の半分が運河に足を運んでくれたんや。
 守る会が全国の世論に、ポートが市民の世論にターゲットを定めたというこっちゃな。
 ここがかつての学生運動と違うとこや。過激を方法とする革命に走れば運動ではなくなるんや。世論に基づくから民主主義がある。ところがこの世論ってやつは、あるようでなく、ないようであるんやな。世論への浸透をあきらめてしまって過激に走り、一歩間違うと暴力にさえなってまう。(p.78-79)


行政を直接相手取っても動かすことが難しかったので、全国や市民の世論に訴えるという戦術に切り替えたことが上手くいった。特に最後の一段落は興味深い。「世論はあるようでなく、ないようである」このようなものであるからこそ、最後の最後は押し切られざるを得なかったのではないか、とも言えるように思われるからである。