アヴェスターにはこう書いている?
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内藤辰美、佐久間美穂 『戦後小樽の軌跡 地方都市の衰退と再生』(その2)

 明治中期になると高島は次第にコミュニティとしての要件を備えていく。「明治17年11月、祝津学校分校として高島学校が発足、この年にはまた高島墓地も現位置に設定、高島稲荷(元禄3年)、祝津恵比寿神社(安政3年)の建立や寺院(正法寺―明治初年色内庁、浄応寺―明治13年手宮裡)の開山(同上:108-109)があった。墓地の設立はここを郷土とする人々が多くなってきたことの表れである。そして、「この頃、高島、祝津も移住が相次ぐ。高島へは越後(新潟)を主として越中(富山)、加賀(石川)から家族を挙げて移住・定着する」人が増えてきた。(同上:108-109)。(p.342)


祝津小学校は平成25年(2013年)3月31日で閉校となっており、学区としては高島小学校がかつての祝津小学校の学区を組み込むような形であったと思うが、歴史的には祝津学校から高島学校が出てきていたというのは興味深い。

墓地設立がこの地を郷土とする人々が増えてきたことの反映というのは納得。



 高島における越後盆踊りは内地から北海道の地、高島に移植された文化である。『新高島町史』は記述する。以下、『新高島町史』に目を向けてみることにしよう。「明治初期の頃から現在の新潟県北蒲原郡北部郷地方の村々は高島に移住者を出していた。特に藤塚浜では村の三分の二が焼失するという大火があり、それを契機に大量の移住者が現れた。現在、高島に多い、須貝・本間・小林という姓はその先祖は藤塚浜からの移住者である。(p.343)


北海道への移民について、どのような人々がどのような時期に移動していたのかというのは興味を持っているテーマの一つだが、火災で集落が被害を受けたことが契機となった地方もあったということか。こうした事例はどの程度あるのか?



越後盆踊りの歌詞は恋愛や性に関する内容を含んでいたために第二次世界大戦中は禁止された歴史がある。(p.350)


このことはあまり語られていないように思う。



高島は文化活動の盛んなところでもある。文化活動の拠点が高島町会館。この建物は町民の寄付と市の補助金で建てられた。土地は旧高島小学校跡地。この土地は一度市に寄付されたあと、市はここに支所をおいていたが、支所が廃止されてからその跡地に現在の会館を建設した。(p.351)


現在の高島会館が竣工したのは平成11年(1999年)のことだが、この場所が旧高島小学校の跡地ということか。現在、敷地に隣接する場所に広い駐車場があるが、ここは高島保育所があったという情報もある。斜め向かいには旧高島町役場の庁舎もあることから、一時期は高島という町の中枢をなす場所だったと言えそうである。今の現地は、旧庁舎と会館の存在によって辛うじてそうした面影を残しているものの、それ以外にはそのように思わせるような要素はほとんどないように思われる。



小樽市は日本資本主義と小樽市がおかれている歴史的位置を冷静に分析し、向かうべき方向を確認しなければならない。一時的な誘惑に駆られて小樽市の発展に馴染まない政策を採用してはならない。私見を言えば、話題になった「カジノ」は小樽の歴史にも現状にも馴染まない。カジノの風景に最も合致するのは新自由主義である。小樽市はむしろ新自由主義と対極にあってその存在を訴えることができる都市である。これからの日本は、そして小樽市は、一時的な発展よりも中長期的な安定的発展を志向する以外途はない。(p.381)


カジノを小樽市に誘致することには反対であり、それは小樽の歴史にそぐわないという主張には共感するが、小樽が明治期から急速な発展を遂げて最盛期を迎えるまでの経過はブローデル的な意味での「資本主義」(国家と資本が結び付いて相互の権力を高めていく過程)の産物という側面が極めて濃厚であったという点を見落としてはならないように思われ、カジノ誘致に積極的であろうとする人びとの考えは、発想の上では、その時代の流れと同じ圏内にあるということに留意すべきである。

むしろ、「国家」側が小樽に資源を割く可能性が当時よりも遥かに期待できないため、誘致には成功しないだろうし、客観的に成功する条件が不足しているため誘致に成功した場合には経済的に期待したような成功は得られないだろうという見通しを持つことが重要であるように思われる。そして、経済的にカジノが成功する条件がどのように失われているのかということを的確にまとめて説明することが必要であろう。



官僚群の機能は国家、都道府県、市町を貫徹する。そしてそれは過度といってもよいほど顕著である。その点に留意していえば、単純に選挙のような表面的・形式的な制度の普及をっもって日本を民主国家と断定することには慎重でなければならない。この国の政治がどのように動かされているのかを突き詰めた上でなければ民主主義について論ずることができない。民主主義や民主国家を論ずる場合には、国民・政治家の憲法・法律の遵守意識、委員会等議会運営の在り方、三権分立の実態、投票行動の実態等々が検討課題として存在するであろう。そうしたことを含めて「政治運営の主体は誰か」という点の確認なしに、民主主義を論じることはできない。(p.395-396)


選挙で政治家を選んでいるという形式的に代議制民主主義をとっているというだけで、その国が民主的であるとは言えないというのはその通りである。ただ、ここでの文脈では官僚が実際に行政を運営しており、それが国民の意見を反映していないのであれば民主的とは言えないといったことを言いたいように見えるが、この議論は私に言わせれば90年代頃の議論であり、もう古い。

現状の日本はそんなことが問題なのではない。官僚機構は大規模な組織には不可欠なものであり、その意味で普遍的な現象である。官僚機構の活動が逐一、個々の人々の意見を反映すると考えるのはナイーブであり、そのようなことはあり得ないと前提しなければならない。むしろ、代議制民主主義とは委任と責任の連鎖であり、個々の国民の意見とは異なることを官僚が実行していても、官僚が国民ないし国民の代表に対して必要な説明が出来るのであれば、委任を受けるに値すると言える(委任を受けていないとまでは言えない)。90年代の政治改革を通じて実現してしまった現在の政治運営の最大の問題は中央政府レベルで言えば、官邸に権力が集中しすぎており、ほとんど誰もそれに逆らえない仕組みになってしまっていることであって、ごく少数の人間が文字通りやりたい放題のことができる仕組みになってしまっているということである。

森友・加計学園問題、自衛隊の日報問題で、政府がいかに説明をしようとしていないかを想起されたい。説明できないということは、委任を受けるに値するとは言えないということであり、それはすなわち公権力の行使は許されないということであり、それは民主主義の国家なのであれば、内閣は辞職するに値するということを意味する。




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内藤辰美、佐久間美穂 『戦後小樽の軌跡 地方都市の衰退と再生』(その1)

 すしの町小樽はつくられたものだった。テレビという媒体が活用された。やって来た観光ブームがすしの町小樽を実現させた。(p.163)


小樽の名物の一つとされる寿司だが、このイメージはそれほど古いものではない。運河論争により小樽に対する全国的な関心が高まっていた1980年代半ばになってメディアを通じて創られていったという。



 小樽の直面する停滞と危機には複数の要因がある。外部的要因だけでなく、財政危機を招いた内部的要因もある。小樽の直面する危機、とりわけ財政的危機が、力量を超えた大規模投資、あるいは内発的必然性の乏しい外部資本に期待した都市づくりにあったことはまちがいない。マイカルや石狩湾新港には行政にも反省の声がある。衰退する都市に何とか歯止めをかけたいという焦りが身の丈を超えた一発逆転的な都市経営を生んできたのであろうか。一発逆転と言えば、いま、小樽ではカジノ誘致に熱心であると聞く。そこに、これまでの経験が活かされているのかどうか、外部者ながら懸念がある。(p.220-221)


最近はやや勢いが衰えた印象であるが、カジノ誘致について数年前まではかなり積極的に推進している人々が目立っていた。このカジノ誘致の動きを、過去の「大規模投資」や「外部資本に期待した都市づくり」と連続的なものとして見ている点は重要な見方であると思われる。



大東亜戦争中は何等進歩の跡はなかったが、昭和27年より同26年にわたり外地からの引上げ者を収容するため最上町と緑町五丁目に市営住宅を建築した。これによって最上町の住民が急増した、これらの住民に対する日用品の販売店が必要となり、鮮魚、青物商、その他の雑貨商が最上町に続々として開業した。昭和28年には、最上町の児童を収容するために最上小学校を新設するまでに発展したのである(小池信繁、緑町発達史、序:4-5)。(p.245)


小樽では人口が増えるにつれて市街地も広がっていったが、そうした動きの一つとして、緑町から最上町へと山側へ向かって市街地が展開していったことがわかる。



高島の町は、飯田さんのところから奥に船主の家があり成金町と呼ばれていた。松田市議の父も元は船であった。減船で経営が成り立たなくなって廃業した人が多く、その結果、成金町は衰退・消滅した。(p.318)


船主が同じ地域に密集したのは何故なのだろう?



 大事なのは彼の温厚な性格と控え目な生き方であった。彼は若くして機関士会の統合を実現した才能の持ち主であったが、その温厚な性格と控え目な生き方は彼をしてトップ・リーダーを支えるコミュニティ・リーダーの補佐役に終始させてきた。山田さんのような人の生き方には一つの特徴があるというのが私の仮説である。彼らは社会通念や政治思想については保守的であり革新的ではないけれども、かれらの生き方は献身的であり保身的ではなかった。ここで保守と保身とは厳密に区別されなければならない。保守的な人の中にも革新的な人の中にも献身的な人はいるし保身的な人がいる。これまで日本の地域社会は保守的で献身的なタイプの人物、とりわけ⟨世話役的なリーダー⟩によって支えられてきた。(p.326)


保守-革新という軸と保身-献身という軸による分類は参考にできそうに思う。

例えば、現在、衆議院選挙が始まっているが、安倍晋三が憲法を濫用して解散を実施したのは、彼の「保身的」な理由によるものであったと見るのが妥当だろう。それに対して、今回の選挙に当たっての目まぐるしい政局の動きの中で、私の関心を引いている政治家の一人に枝野幸男がいる。小池百合子と前原誠司が民進党が持つ金をいかに収奪するかに腐心して民進党は党として残しつつ、個別の議員が希望の党に持参金を貢ぐなどという手法を使ったのに対し、枝野が立憲民主党を立ちあげたことは、民進党からの寄附などについても言及はしているようであり、また、中道的リベラル派議員の議席を失わないための受け皿を作らなければならないという事情に押されてではあるにせよ、それなりに勇気のいる決断をしたように思われ、これを保身的か献身的かという軸で考えると、「献身的」に分類できるものだと見ている。

政治家を見るとき、最近はやりの「保守」かどうか、どのくらい「保守的」かという尺度で見ることに慣らされているが、その人の行動が「保身的」かどうかということを、口先の言葉だけでなく行動で判断する。この見方の方が確かなことが分かると思われる。




阿部謹也 『「世間」とは何か』

 斎藤毅氏の研究によると「社会」という言葉は明治10年(1877)に西周がsocietyの訳語として作り、その後定着したものという。日本でのこの言葉の初見は文政9年(1826)の青地林宗訳の「輿地誌略」であるが、それは「修道院」Kloofterの訳語としてであった。この「社会」という訳語に定着するまでには実に40以上の訳語が考えられていた。その中にはいうまでもなく世間という言葉も入っていたのだが、それが訳語として定着することにはならなかった。何故なら久米邦武が述べているようにsocietyという言葉は個人の尊厳と不可分であり、その意味を込める必要があったためにこの訳語を採用することができなかったのである。彼らの苦労のおかげで私達は、社会という言葉を伝統的な日本の人間関係から離れた新しい人間関係の場として思い描くことができるようになったのである。(p.175)


societyの概念と個人の尊厳とが関わっているという指摘には、なるほどと思わされた。


後藤治+オフィスビル総合研究所「歴史的建造物保存の財源確保に関する提言」プロジェクト 『都市の記憶を失う前に 建築保存待ったなし』

古社寺保存法の時代は、寺社の建物が危機に瀕しており、それのみが対象だったが、それが国宝保存法にかわると、城郭建築の保存に力点が置かれるようになった。そして、文化財保護法の施行後は、昭和30年代に入る頃には、危機に瀕した民家建築の保存が叫ばれるようになり、その後に全国の調査が進み、昭和40年代に多くの民家建築が重要文化財に指定された。また、昭和30年代中頃には、昭和42年に明治維新から100年を迎えることもあって、明治年間に建てられた洋風建築の保存が叫ばれるようになり、同じく昭和40年代にその重要文化財指定が進められた。(p.125-126)


建築保存の対象の変遷は興味深い。古社寺保存法は明治30年に施行された法律であり、国宝保存法は昭和4年に施行、文化財保護法は昭和25年施行である。昭和30年代に民家建築や明治洋風建築などの保存が叫ばれるようになったのは、高度経済成長の時期に入り、次々と建物が建て替えられていくことで、かつての建物が壊されていき、景観も大きく変わってきた時代だったということが背景にありそうである。



長い歴史をもつ先進諸国の首都のなかで、保存地区が存在しないのは東京ぐらいのものである。(p.129)


ヨーロッパを基準として見ると確かにこの点は際立っているかもしれない。ロンドン、パリ、ベルリン、ローマなどいずれも歴史的な地区や景観が残っている。

いわゆる先進国でないところも入れるならば、北京やカイロなどが私が訪れたことがある中では想起される。北京は今ではかなり古建築の破壊が進んでいそうな気はするが、故宮や円明園などのような史蹟まで完全になくしたりはしないだろう。(なお、イスタンブールは首都ではないが、経済的にはトルコでは最も発展した都市であるが歴史的地区も残っていることなども付記しておこう。)
『市民の科学 2015年第8号 責任倫理から共生倫理へ ヴェーバー生誕150年』
「現代は「エートス」を生成するか」より

 レスリスバーガーは、次のように観察を総括する。労働者たちは金銭的欲求よりも、職場における人間関係性の中で社会的承認を求める存在であることを指摘する。(p.23)


労働者たちは職場において社会的承認を求めるということは、ある意味では非常に当たり前のことではある。しかし、金銭上の取り扱いによって「インセンティブ」を与えようとする誤った方法がしばしば提唱されることによって、こうした当たり前のことが見えにくくされてしまうことがある。



「東北弁と「知性」」より

英語中心社会であるアメリカ社会では、スペイン語に対する見下しが日常的に行われている。スペイン語への見下しは、もとをただせばスペイン語圏、そしてスペイン語話者たちへの見下しが原因である(白人は、見下しとは思っていないが)。(p.124)


日本において東北弁に対してもこれと同様の見下しがあるとする点は興味深い論点と思われた。これは掘り下げて調べてみる価値がある問題であるように思われる。


『中央公論 2017年3月号 特集 ふるさと納税の本末転倒』
特集 ふるさと納税の本末転倒 「鼎談 そして、都市の逆襲が始まる……」より

片山 それから、どこかの自治体で、「寄付していただけたら実家などの雪かきをします」というのがありましたよね。これも物欲とはちょっと違う。そういう社会貢献とか地域貢献とかに限定した制度にリニューアルするという行き方は、一つあるだろうと思います。(p.37)


ふるさと納税と呼ばれている寄付金控除制度を何らかの形で存続させるのであれば、基本的にこうした方向に改正していくべきだろう。現行の制度のように、「2,000円の支払いで商品を買う」ような制度では、公共的なものというより私的な買い物(それも富裕層ほど有利な!)になっている。



石破 「物欲競争になっている」という批判はよく分かります。ただ、これも全否定すべきものではなくて、この制度を始めたからこそ「自分の地域の魅力を再発見しよう」「うちの町の素敵なもの全国にアピールしていこう」という一大ムーブメントが起こったのも、事実なのです。(p.38)


本書でこの鼎談の後に掲載されている幾つかの自治体の取り組みの状況などを見ると、確かに石破茂のこの指摘には一面の真理が含まれている。

しかし、それに対しても批判するとすれば、次のように言うことはできる。こうして探そうとする「自分の地域の魅力」のうち、活用されるものは大部分が商品や産業に偏るようなバイアスが、この制度にはあるということである。また、自分の地域の魅力を再発見しようという動きは、この制度がなくても各地域がすでに取り組まざるを得ない状況に置かれる中で取り組んでいるというのが実情ではないか。

この制度によって基本的には大都市から地方の市町村へと税源が移る傾向はあるようだが、税収が減る自治体は、交付税による穴埋めで大部分は埋まるが、歳入が増える自治体も、財政を見ると、お礼の品のために使っている金を考えると、財政的にはそれほど足しになっていない(むしろトータルで見ると悪化する圧力となっていると思われる)。もっとも、財政としては支出することになるお礼の品に充てる金も、地元の産業に回るということを考えると経済効果は多少なりとも認められるようであり、評価は難しい。



特集 ふるさと納税の本末転倒 別所俊一郎 「地方財政の格差はいかに是正されるべきか」より

 制度の趣旨からは、「選ばれた」地方政府の収支が改善し、逆に選ばれなかった地方政府の収支が悪化すれば足りるように思われる。しかし、現状では選ばれなかった地方政府の収支はそれほどは悪化せず(地方交付税交付金を受け取らない不交付団体では大きく悪化する)、国の収支の悪化をもたらす。(p.81)


中央政府の財政収支が悪化するという指摘は、この論稿を読むまで気づかなかった点であり、参考になった。ある意味、「選ばれた」地域の地場産業などに対して補助金を配ったり、公共事業を実施するような側面もあるということだろう。



 正常な価格のついた市場取引を通じた販路の拡大が地方創生には不可欠であり、政策に依存した生産者が増えることは健全な地域振興とは呼べないだろう。(p.83)


産業の振興という結果が出ているかのように見える場合であっても、それは公共事業としてその産業に金が払われているようなものであって、それは健全な地域振興とは言えない。全くその通りである。それに、この金もいつ来なくなるかわからないような安定性のないものである点にも留意したい。



 しかし、ふるさと納税にはこれまでに述べてきたようなさまざまな問題点があり、徴税権を持つ地方政府が他地域からの寄付に頼りかねず、自地域の住民と向き合わなくてもよい制度となっている。(p.83)

確かに、自地域の住民より他地域からの寄付をどう集めるかという方向に関心が向かってしまう制度と言えるかもしれない。

ただ、自分の住む町の魅力や強みのようなものを見つけ出そうと努力するとき、間接的ではあるが自地域の住民の活動などに対しても配慮することになりうる、という反批判は可能かもしれない。例えば、このエントリーの最初の引用文で片山善博が語っているように、商品による競争ではなく、地域貢献的な社会活動という形で寄附に対して応えて行くならば、現行制度よりは自地域の住民と向き合ったものになりうるのではないか。



特集 新書大賞2017 「大賞 言ってはいけない」より

 建前よりも本音が優先される時代。本書は、時代の風を掴んだ一冊とも言えるだろう。(p.121)


「建前」はエスタブリッシュメントの世界に属しており、「建前」の世界にとってのタブーを語る「本音」は反エスタブリッシュメントの色彩を帯びている。ある意味、反エスタブリッシュメント的なものが説得力を持ってきている時代を反映しているということだろう。

私は未だこの本を読んでいないが、一読はしておいてもよいかもしれない。



特集 新書大賞2017 「対談 厳しい時代に“骨のある”レーベルが生き残った」より

渡邊 そうですね。新書は教養の入門書として書かれたものもありますが、ニュースを迅速に書籍化する媒体でもある。(p.151)


確かに。大学の学部生あたりには、できれば良質の新書をある程度の数読み、新書の程度の内容は容易に理解できるようになってほしいと思う。



永江 読書といえば、黙読を創造しますが、1000年以上前は、一つの書物を大勢で音読するものだった。また、書物は貴重で高価なので、読書は貴族しかできないことでした。だからここ100年が、多分、日本人にとって読書の黄金時代だった、ともいえるでしょう。(p.154)


確かに。



永江 新書市場があふれかえっている、と言われますが、2016年を振り返って思うのは、読むべきレーベルは絞られてきたな、ということです。新書は1938年の岩波新書の創刊以来、今が四度目のブームだそうですが、幾度かのブームを経た結果、読むべきレーベルと読まなくていいレーベルがはっきりしたように感じます。新書“御三家”の岩波、中公、講談社。ちょっと岩波新書のパワーダウンが気になりますが、あとは“新御三家”の、ちくま、新潮、光文社、それに集英社、幻冬舎。平凡社も渋い本を出しますね。ここらへんでしょうか。やっぱり出版社も人材や知識や、いろいろな要素の蓄積が必要なんですよ。(p.155-156)


この指摘は私が新書に対して漠然と感じてきたことをかなり明確にしてくれた。私の場合、新書を買う際に参考にする情報の一つは、どこの会社の新書か、という点を参考にしている。同じ著者が書いた本でも、どのレーベルかによって内容の掘り下げの度合いや、政治的な立ち位置のニュアンスや論理の運び方まで違いがあるように思う。

個人的には中公新書が掘り下げて論じる度合いが高いと感じており、一般向けであっても一番学術的なレベルに近いものが多いように感じる。(その分、読者の理解力や知識が要求される。)この対談によれば中公は歴史に強いと指摘されているが、その点も納得した。

岩波新書は確かにパワーダウンと言われているとおり、掘り下げが足りない本も結構散見される。ただ、現在の社会に起きている問題、それも新聞やニュースだけではなかなか見抜けないようなところまで気づかせるような内容のものが多いように思う。その意味で、入門としては最低限使えるので、このレーベルには失敗がないという安心感がある。

ここで触れられていないものとしては、朝日新書なども濫立した新興レーベルの中では、私としては知りたいと思えるテーマを扱っていることが多い。しかし、何となく買って読むほどの深みを感じないようなテーマだったりするので、それほど多くは読んでいないが…。


A・ツィンゲルレ 『マックス・ウェーバー 影響と受容』

ウェーバーのカリスマ構図の場合、この構図の理論的ないっそうの展開、もしくは経験的に新しく増加しつつある事態へのその適用を目安とする限り、何よりもまず20年間にわたる影響および受容の空白が確認されるべきである。おそらく1920年と1940年の間の20年間の政治の世界に、このカリスマ構図に対応する現実的な現象が大量に存在したことが、まさしくウェーバー流の距離を置いた分析への眼差しをさえぎったのかもしれないし、――おそらく、ドイツの社会学者で英雄崇拝的風潮のなかでウェーバーの直接あとに成長した世代も、ウェーバーの人格の印象がまだあまりにも強すぎたために、かれの学説に沿った分析上の含みを十分に理解できなかったのかも知れない。(p.149-150)


ウェーバーの理論の中でももっとも有名なものの一つは支配の正当性に関する3つの理念型であり、カリスマ的支配であろう。それが彼の死後20年間はほとんど影響を与えなかったというのは意外であった。特にこの時期にムッソリーニやヒトラーのようなカリスマ的支配者が台頭しているのだからなおさらである。

ただ、ツィンゲルレがここで述べている理由は論拠としては弱いような気がする。むしろ、いわゆる支配の社会学に関連する叙述の大部分は基本的に生前は発表されていなかったのではなかったか?政治的主張を新聞等に寄稿することはあっても、まとまった理論として著作を出していなかったのではなかろうか。そのことがすぐに影響が生じなかった大きな要因ではなかろうか?


O・シュタマー 編 『ウェーバーと現代社会学 下』
ラインハルト・ベンディックスによる発言より。

ところで、よく考えておかなければならないことは、ドイツ国内ではくりかえし専ら政治家マックス・ウェーバーが語られるのですが、たとえばインドへ研究旅行しました折などには、いろいろなインドの学者が私に向かってインドに関するウェーバーの宗教社会学研究のことを驚嘆しながら語っていた、ということであります、もしもこういった事態が将来にもちこまれますと、ドイツではウェーバーの論稿は政治的側面からのみ見られるだけだ(現在でも、このようになんでも政治的に見るという傾向があるために、時折彼の科学的理念はもはやさっさとどこかへ片づけられています)とされ、科学的著作の継受は外国にまかされたままになっているという仕儀になりかねないのです。(p.57)


確かにドイツでは政治的な著作についての議論がアメリカや日本よりも盛んだったことは確かであり、これらの地域の方が方法論や宗教社会学などに関する業績に対して相対的に関心が強い傾向が続いたということは、この学会があった時期以後にも言えそうである。

もしかすると、この学会から50年ほど経過した現在における『マックス・ヴェーバー全集』の編纂にあたっても、今一つちぐはぐな対応のまま編纂が進められている面があるとすれば、それは学問的な側面への関心が相対的にドイツでは日米などより低かったことも反映しているのかもしれない。



つまり、前述の箇所で、ウェーバーは心理的刺激(アンライツ)についてだけ述べるべきだったのですけれども、実際には信仰に含まれている心理的起動力のことを述べておりますために、問題の理解にとって興味深い一つの誤りを犯しているのです。と申しますのは、信仰に含まれている刺激がどの程度まで起動力となりうるものか、もしくは、どの程度まで起動力となっているのかということが、ウェーバーの研究の決定的な問題にほかならないからです。……(中略)……。
 ……(中略)……。ウェーバーが繰り返し強調しているところによりますと、単純化と誇張とを援用する時にのみ、無限に多様な歴史的世界とこの世界を特色づける流動的な変化とを概念的に把握できるのです。プロテスタンティズム=論文においてウェーバーがとくに述べておりますのは、彼の論述がある種の神学的な根本思想を体系化しているから、厳密に原典にだけのっとってものされたものよりも、論理的には一層高度の整合性をもちうるであろうということです。……(中略)……。他方、この際閑却してはならないことは、つぎのことでありましょう。つまり、分析を行なう際にぜひとも必要だということでこういった単純化と誇張を行ないますと、理念と行為にいろいろな意味があることが捨象され、さらには、概念的に現象を捉えることが人間の関心事を理解するにあたって有効性をもつかどうか疑わしいものとなる、ということです。上に挙げた問題にあてはめて考えてみますと、このことの意味はこうです。つまり、ウェーバーにとって仮定されたある種の神学上の教義のもつ働きが全面的な妥当性をもつのは、自分の信仰にまったく忠実な人――こういう人にとっては、カルヴァン派の教義学の論理的にねられた終局的な帰結というものが心理的に決定的な意味をもっています――を考えてみるときだけである、ということです。たしかに、ウェーバーは、たいていの人間がこういった意味での宗教的な達人ではないことを強調してはおりましたが、ウェーバーは――私の見るところでは―― 一義的な概念構成と多義的な人間存在との間にここで私が述べた関係があることを明らかにしてくれてはいないのです。(p.58-59)


ウェーバーのプロテスタンティズム研究を例として理念型の構成に対して批判しているが、適切な批判であると思われる。

私の理解に基づいて、上記のベンディックスの批判の内容を敷衍すると以下のようになる。すなわち、ウェーバーが現実を一面的に上昇させたり捨象したりして構成した理念型を使って現実を認識しようとする場合、改めて現実の因果関係などを反映しているかどうかの検証をしなければならないが、ウェーバーはそうした検証をしていないために、現実を誤って認識してしまっている、ということになる。



とくに、このことは、ウェーバーの政治上の予測についていえることでして、といいますのも、ウェーバーの政治上の予測が理念型の映像にもとづいてつくられているからであります。理念型の映像というのは、論理的妥当性があると主張しうるだけで、歴史的妥当性があるとはいえないものだからであります。(p.63)


上記の批判と同じことだが適切な批判である。理念型を構成したことによって描き出されたイメージは、歴史的な現実を捉えたものとして主張することは(検証を経て妥当性が確証されるまでは)できない性格のものである。

これに続いてベンディックスは、ウェーバーによる「全般的な官僚制化の進行」というビジョンも、自らが構成した官僚制の理念型に基づいて予測されていることを指摘しているが、この点はもう少し細かく確認しなければ妥当かどうか私にはわからない。



クリスティアン・ジークリストの報告より。

ウェーバーはその苗字からしても織物師であったし、それのみか、近い先祖をたずねると、以前に排斥されていた職業集団――彼の祖父は亜麻布商人であった――と関係が深かったのであって、こういう事はウェーバーの発言の成立と連関のある、外的な事情ではある。(p.285)


ウェーバーが提起した「パーリア民族」の概念に関しての指摘。



 私には、ウェーバーの概念構成は、その構成にあたって少ないメルクマールだけに局限されることなく、概念が曖昧なままにおかれているというところに、欠点があるように思える。曖昧だというのは、ウェーバーが、概念を用いる際に、同じメルクマールを、場合によって、必要だといったり、無くともよいといったりしていることをいうのである。職業的専業化と儀礼的不浄とが、このように使われることもあり、使われないこともあるメルクマールである。……(中略)……。しかし、こんな風にメルクマールを用いたり用いなかったりしてもよいとすると、具体的な場合には常に、概念と現実との不一致が指摘され、つまり、理念型が現実によって「充実」されることがないことになるのだから、研究上の便宜主義的な戦術が生まれることもありうるのだ。(p.286-287)


ウェーバーの「パーリア民族」の理念型に対する批判。この理念型をインドに適用する場合と古代ユダヤ教に適用される場合で概念構成が異なっていることについて指摘されているものと思われる。



とりわけ、理念型に一致する、つまり極端な変異を示すことのない、場合をのみ追求し、それとは反対の場合を軽視するという傾向には、問題がある。(p.287)


理念型を用いた研究には一般にこうした傾向になりがちであると思われるため、この指摘は理念型という方法自体に備わる問題点として認識されるべきだと思われる。



 支配に反抗的な心情の投射が、支配者から少数のパーリアへ「移動」する、近代における一つの例は、産業社会における反ユダヤ主義である。抑圧されている社会層にとって、水平化の行動を実行することが安全弁となるが、反ユダヤ主義は、階級分化とそれに伴い要求される社会的安定とを破壊することなしに、この機能を果すのである。(p.298)


なるほど。



社会的保障のための整備されたシステムが欠けていると、パーリア集団の発生ないし永続化を促進する(アメリカ合衆国)。(p.301)


アメリカにおいて黒人差別が他国よりも根強く残ってきた歴史を説明する一つの要因と思われる。



 きわめて一般的に、マージナルな集団に対する排斥思想と迫害行為を刺激する魔術的な観念群が克服された時に、治療を効果的に始めることができる。……(中略)……。
 このような観念群を分析的に解明することによって、社会科学は世界の魔術からの解放に寄与する。(p.302)


現代の日本における生活保護バッシングや中国・韓国に対する排外主義的な言説などについても、確かに、「魔術的な観念群」即ち、「非合理的な観念群」があることに気付かされる。対象者に対する現実的な認識ではなく、虚像を注入された者が、これらの虚像をヘイト言説の中で再生産することで、排外主義的な言説や行為が増幅されている。こうした「魔術的な観念群」を分析的及び実証的に批判することは、確かに社会科学が果たすべき役割であろう。(ただ、誰もが社会科学の成果を理解できるわけではないという点には留保が必要にはなるが、政策立案に関わる集団やこうしたヘイト言説に対して対抗的な市民運動をエンパワメントしていくことにはなるだろう。)


O・シュタマー 編 『ウェーバーと現代社会学 上』(その2)
レイモン・アロンの講演「マックス・ウェーバーと権力政治」より。

 政治において彼が他の何よりも重んじた最高の価値、すなわち彼が忠誠を誓った神(あるいはデーモン)とは、ドイツの偉大さであるのだと、彼はきっぱりと決断しておりました。(p.172)


アロンのこの指摘に対しては、後の討論で異論も提示されていたが、概してウェーバーをリベラリズムや左派的な主張に引き付けたいという立場からは、この指摘に対して異論が提出され、(モムゼンのように)帝国主義や国家主義的なものとウェーバーとの親和性を指摘せざるを得ないと認める立場からは概ね賛同されるという図式が見て取れた。

私としては、現在ではアロンの見方の方がリベラルにひきつけようとする側よりも概ね適切に捉えていると考えている。こちらの説明の方がウェーバーの他の政治的な主張との整合性がとりやすく、無理がないと思われるからである。



 マックス・ウェーバーが、さまざまな幻想を拒んだことは、正しかったのです。つまり、闘争なき政治はなく、暴力なき闘争もなく、そして闘争の手段は、キリストの教えあるいは単純なモラルと、必ずしも調和するものではない、というのです。しかしながらこの理論は、二つの点で私の気に入らないのです。
 第一に、責任倫理と心術倫理という、二つの倫理概念のアンチノミーに対して、極端な、ある意味でラディカルな形式が付与されていることです。自己がくだした決断が生んだ諸結果を、まったく無視することができるでしょうか?決断をくだすその瞬間に、道徳的意識を完全に排除することが、一体できるものでしょうか?ウェーバー自身がそんなことのできぬことを知っていたことは、いうまでもありません。けれども、ただ極端な場合にのみ、現実的であるような二者択一をば、根本的なものと決めつけたことによって、彼は次のような二重の危険に自己を曝らすことになりました。すなわち、ひとつには、道徳家が浴びせるいっさいの非難を、軽蔑しつつ片づける、偽の現実主義者を正当化するという危険です。そしてふたつには、政治というものが自分たちの理想に一致しないという理由で、すべての政治に対して、みさかいもなく非難を加える、偽の理想主義者を正当化するという危険であります。このような理想主義者は、結局は、知ってか知らずか、盲目の革命家や独裁者に味方して、現存の秩序を破壊することに寄与することになるのです。
 マックス・ウェーバーは、目的によって手段を正当化しうるか、という永遠の問題には、理論的な解決はないのだ、ということを、われわれに銘記させてくれます。このことは、正しいのです。けれども、さまざまな諸価値の異質性を承認するだけでなく、それらの価値相互の葛藤が解けないものだということをも、肯定したものですから、彼は彼自身の価値体系を、正しく基礎づけることができないようになったのです。われわれが生きてゆくためには、最小限の人権が、どうしても必要である、と彼は書きました。にもかかわらず、彼は自由主義と議会主義という、彼が尊ぶ宝の値打ちを低くしてしまいました。それはそれらの宝をドイツ国(ライヒ)の偉大さに奉仕するための、単なる道具へとおとしめてしまったからであります。(p.192-193)


責任倫理と心情倫理の対比が、日常的に現実的な範囲のものではなく、極端な場合にだけ成り立つような図式として提示している(理念型を「鋭く」構成している)ため、それに伴って生じうる問題が指摘されているのは参考になる。責任倫理の立場に立てば、「道徳家」から非難されても、自分の行為は正しい結果をこれからもたらすのだから不当ではないと主張できることとなり、心情倫理の立場に立てば、現実の政治に対して「正しくない動機」が含まるとして政治への不信を正当化することになり、逆に独裁者の出現に寄与する可能性があることが指摘されている。

理念型が「鋭く」構成されて提示されているがゆえに、われわれはこうした極端な倫理的立場を意識できるようになるが、意識できるようになったが故に、それが現実的に可能な(あるいは日常的によくある)立場であると錯覚しやすくもなっている。こうした理念型そのものの立場は、むしろそれほど現実的な判断基準の実例ではないことが忘れ去られてしまう。こうしたことは理念型の弊害(問題点)の一つと言えそうである。

後段の自由主義と議会主義をウェーバーは結局、ドイツの偉大さという価値に従属させてしまったために、それらの価値を貶めたという批判は、リベラル側にウェーバーを引き付けたいと考えている側からの反論がなされる内容ではあるが、やはり基本的にはアロンの主張は妥当なものと考えるべきだろう。



 したがいまして、マックス・ウェーバーは社会学者としては、昔と同じように今日なお生き生きしてはいますが、政治家としましては、必ずしも時代に先んじてはいませんでした。(p.194)


レイモン・アロンは「政治家」と言っているが、ここは「政治思想家」ないし「政治批評家」といった意味で捉えた方がいいだろう。そして、この指摘はウェーバーの政治論を読む際には銘記しておくべき点であると思われる。もちろん、上記のように言ったからといって、社会学的な業績と政治的な主張とは無関係であるわけではないのだが、社会学という学問の成立と発展にとって、ウェーバーの理論がかつて果たしてきた役割があり、また、現在においても参考にしうるものが含まれているということと、そうした有益な理論構想と結びついている政治的な主張が前時代的で誤った要素を含んでいることとは両立しうる。



ヴォルフガング・J・モムゼンの発言より。

もし権力の濫用があった場合、どうしたらそれに対して、原理的に歯どめをかけられるのか、あるいは「正当性の中に宿る制限」を権力の濫用に対抗させることができるのか、という今日火急の問題を、ウェーバーは格別ていねいに扱うようなことはいたしませんでした。このような規範的な歯どめのためのひとつの体系としては、当時自然法がよくしられた形式でありましたが、ウェーバーは、自然法が現代の法体系あるいはさらに「立憲的民主主義」の理論を与える基礎になりうるということを拒みました。これはよくご存じのところであります。マックス・ウェーバーにとっては、支配に歯どめをかけるということよりも、むしろ積極的に権力行使を展開するという、正反対の問題が、もっぱら、緊急の問題でありました。(p.226)


ウェーバーの政治論が彼の時代に先んじていない理由はここにあると私は考える。もちろん、ウェーバーはファシズムやナチスの具体的な台頭を見ることなく世を去ったのだが、こうした経験を踏まえた後の政治論はモムゼンの言うようにどちらかというと権力濫用に対してどのように制限をかけるかという問題を無視することはできなくなったのに対し、ウェーバーはこの点に関しては非常に無邪気だと言わざるを得ないため、彼の主張をそのまま参考にすることはできない内容となっている。

ただ、ファシズムの台頭から70年以上を経過してその時代を生きていた世代が不在となりつつあり、経済のグローバル化(これと結びついた富裕層の経済的および政治的な権力の増大)という状況も戦前と類似してきた中、最近は各国で戦前的な主張が現実性を持って受けとられる傾向も現われている。各国でカリスマ的なポピュリストをリーダーとして求める機運もあるが、こうした動きとウェーバーの政治的主張は非常に重なる部分が大きいことに気付かされる。こうした点を考慮すると、ウェーバーに学んだ者が彼の誤りを明確に把握しておくことは重要であると思われる。

また、付け加えると、積極的な権力行使をどのようにすべきかという問題は、ある意味では、戦後しばらくの間よりも現在の方が真剣に検討すべき問題となっているのではないか。いかにして権力を暴走させずに、有効な具体的対応策を提示できるか、ということは現在を生きる者にとっての課題であると気づかされた。


O・シュタマー 編 『ウェーバーと現代社会学 上』(その1)
ハンス・アルバートの発言より。

さらに進んでは、究極的な矯正しうべくもない諸々の立場の間にある越え難き対立というものは、マックス・ウェーバーがしばしばそれを強調したという印象があるので大きく受けとられていますけれども、実際には遥かにわずかな意味しかもたないものです。(p.115)


確かに、ウェーバーのいわゆる「神々の闘争」の世界観に対しては、このような世界観も対置しながら批判的に検証が必要であるように思われる。



ユルゲン・ハバーマスの発言より。

パーソンズ氏は、マックス・ウェーバーの教説はイデオロギーの終焉を到来させる上で一つの発展を示していると主張されました。ウェーバーは歴史主義、功利主義、マルクス主義というトリレンマを突破し、ヨーロッパの思想的内戦の前線を乗り越えて、自由な議論の場へと進めた人だ、というように言われています。私はマックス・ウェーバーについてこのような線の太い、そして語の最良の意味で、自由主義的な受けとり方を許す政治的伝統の中に、アメリカの同僚たちがおられることを、羨ましく思います。ここドイツの私たちはいまだに戦争責任のアリバイ探しに追われておりますので、このようなウェーバー理解にはまったく喜んで従いたいものです。ところがそうはいかないのです。ウェーバーの政治社会学は私たちのところでは今一つの歴史をもっているのです。ウェーバーは第一次世界大戦の時代に、シーザー的な指導者民主主義の像を、当時の国民国家的帝国主義を踏まえて描いてみせました。この軍国主義的な後期自由主義の帰結はワイマール時代という時期になって現われました。もっともその帰結に対しては――われわれがウェーバーを現在のドイツにおいて受けとる場合のことですが――ウェーバーに責任があるのだというべきではなくて、われわれ自身が責任を負うのでなくてはなりませんが。ということは、カール・シュミットがマックス・ウェーバーの正統的な弟子であったという事実を、われわれはおろそかにはできない、ということなのであります。以後の思想史に与えた影響という点から見るならば、ウェーバー社会学の中にある決断主義的要素は、イデオロギーの呪縛を打ち砕いたのではなく、むしろそれを強めたといえるのです。(p.128-129)


アメリカとドイツでのウェーバーに対する受けとり方、それを許す社会的文脈の相違が語られており興味深い。現在の私自身としてはアメリカよりもドイツでの受け取り方の方がより妥当だと考えている。ただ、ここでのハーバーマスの理解は、モムゼンの見方に影響を受けているように見受けられるが、責任をウェーバーではなくその後を生きているドイツの人々に負わせている点で相違があり興味深い。モムゼンよりも穏健で、より妥当な見方であるように思われる。

ただ、ウェーバーの言説がどの程度の影響を持ったのかという点については私はやや疑問視しているのだが、人民投票的指導者民主制の像を描いて当時の人々に見せたことは確かであり、このことがシュミットのように権力分立的な要素を代議制デモクラシーから排除する結果を正当化する考え方を提示し、権力側(ナチス)にそれを利用される者がいたことは少なくとも指摘されても仕方がないと考える。そして、このような結果が生じたことは、ウェーバーの影響が主たるものというわけではなく、その時代として、代議制民主主義における自由主義的要素と民主主義的要素の内、自由主義的要素を縮小ないし排除することで独裁を正当化してしまう議論が受け入れられやすい情勢があったことがより大きな要因ではないかと私は考えているが、こうした文脈が生じつつある時期にウェーバーが発言し、その発言の内容が、実際にその時代の流れ(民主主義の貫徹による独裁の正当化)を食い止めるよりは推進する方向のものであったことを軽視すべきではないという点でハーバーマスやモムゼンのような見方に賛成である。(ウェーバーは議会主義的な要素を前面に出す議論もしてはいたが、人権を保護するような観点や権力の暴走に対する抑止という発想はほとんどなかったため、結果的に、人民投票という民主主義的方法により指導者を選び、このような方法で(部分的に)支配を正当化しながら、政策の内容はその指導者に任されることを容認する主張に至ったというのが現時点での私の理解である。)



テーオドール・W・アドルノによる公式レセプションでの挨拶より。

ウェーバーは自ら次のような模範を、すなわちウェーバーからインスピレーションを受けるということは、ウェーバーが展開したことを繰り返したり、普及したりすることではないということの模範を示したわけです。……(中略)……。世間で往々にして行なわれていますように、ウェーバーをたんなる信念の英雄に仕立てるのではなくて、ものごと(ザッヘ)自体の内的論理に従ってゆく人こそ、彼に忠実な人だといえるのです。(p.160)


ウェーバーを研究すると、どうしても彼の研究内容をなぞっていくだけで、ある程度の労力が必要となってしまい、また、それをどのように解釈すべきかということに対してもテクストが比較的開かれているため、ウェーバーが展開したことを繰り返したり、普及したり、といったことになりやすい。前段はこの傾向を踏まえての発言だろう。また、後段部分については、Sachlichkeitということがウェーバーから学ぶべきことのうち最も重要なものの一つであると私も考えるが、それも端的に指摘しており適切である。