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小熊英二 『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(その2)

石川島や三菱にかぎらず、日本の鉱業や製造業は、官営企業の払い下げが基礎を作った。
 そして官営企業は、民間への払い下げ以前から、官庁の三層構造と官等を採用していた。おそらく払い下げを受けた民間企業は、こうした官庁の組織編成を、アレンジしながら受けついだものと考えられる。(p.251)


日本で官庁の様々な仕組みが民間企業に広がっていた経路として納得できる。



財閥系企業は、同学歴で官庁に勤めた場合とほぼ同じ初任給を、高等教育卒業者に提示していたようである。(p.253)


人材の獲得競争などの観点からは当然の考え方と思われる。ここから想起されることとして、00年代頃に公務員バッシングが盛んだった頃、労働運動側が公務員の給与を引き下げるとその他の労働者の給与引き下げにもつながるという論を展開していたのをどこかで見たことが思い出された。確かに、給与引き下げをすることは様々な面から考えてプラスにならないし、正義にもなわないと私は当時から考えていたが、この議論にはイマイチ実感がわかないというか、どのような経路でそうなるのかが分からないとも思っていた。この個所を読んで、確かに初任給など公開して見えやすいところでは影響が出てもおかしくないかも知れない、とは思えた。



20世紀初頭のプロイセン一般行政官吏では、行政試補に採用された平均年齢は29.5歳、参事官に昇進したのは平均40.2歳であった。
 つまり高級官吏になるには、およそ40歳まで、何らかの手段で生計を確保しなければならなかった。親が資産家か貴族、あるいは資産家の娘を妻にするのでなければ、それは困難だった。(p.283)


この辺りの事情は、当時のドイツの大学教授になる場合とも似ている。(当時のドイツの大学教授は官吏だったはず。)



 戦前の人々にとって、徴兵は共通の体験だった。そうした社会では、軍隊用語だった「定限年齢」は、おなじく軍隊用語だった「現役」と同じく、受け入れられやすい概念だったと考えられる。(p.309)


「定年」と「現役」が軍隊用語だったとは、全く意識していなかった。確かに、本書が指摘しているように、昭和前半の時代について言えば、徴兵という共通経験はいろいろな面で社会のあり方に影響を与えていても不思議ではない。



企業別の混合組合は日本の文化的伝統などではなく、戦争と敗戦による職員の没落を背景として生まれたものだったのである。(p.361)


戦前の特権的階層であった「職員」が没落し、職員であっても工員と同じような生活苦を感じていたことによる一体感があったことが混合組合結成の背景の一つだったとする。



 それにくらべ、「能力」によって賃金を決めるという職能資格制度は、労働者の支持を得やすかった。なぜなら「能力」とは、どうにでも解釈できる言葉だったからである。(p.483-484)


これは60年代頃の話だが、この時期に限らずあてはまりそうである。



数学が得意でどの科目もこなせる者がまず「国立理系」を選び、その残余が「国立文系」「私立理系」を選び、そのまた残余が「私立文系」となるという消去法的選択をしていたのである。(p.508)


これは、80年代半ばの調査の結果についての分析。最近は、推薦入試がかなり増えたが、これによる変化はあるのだろうか?



 それにもかかわらず、この会社が「成果主義」を導入したのは、バブル期に大量入社した中堅層の賃金抑制が目的だったからだった。こうした「成果主義」の導入は、若手・中堅層の士気を低め、彼らの離職率が上昇した。さらに抑制された賃金を補うため、残業代を目的に職場に居残る社員が増え、かえって人件費は二割近く増加してしまった。(p.542)


これは90年代の富士通の事例だが、賃金抑制のための「成果主義」や「能力主義」の導入は、基本的にうまくいかないものと思われる。



 透明性を高めずに、年功賃金や長期雇用を廃止することはできない。なぜならこれらの慣行は、経営の裁量を抑えるルールとして、労働者側が達成したものだったからである。日本の労働者たちは、職務の明確化や人事の透明化による「職務の平等」を求めなかった代わりに、長期雇用や年功賃金による「社員の平等」を求めた。そこでは昇進・採用などにおける不透明さは、長期雇用や年功賃金のルールが守られている代償として、いわば取引として容認されていたのだ。(p.573-574)


なるほど。



 だが厚生労働省は、2019年4月末時点の「高プロ」適用者が、全国で一名だったと発表した。これを報じた新聞記事によると、労組の反対があっただけでなく、企業もこの制度を適用したがらなかった。その理由は、高プロを導入した企業には過労防止策の実施状況を報告する義務があり、労働基準監督署の監督が強まるからだったという。(p.574)


経営側はこれほどに透明化を嫌う、ということがわかる。高プロはデメリットだらけであるだけでなく、誰も欲していない制度であるならば、すぐに廃止すべきだろう。



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小熊英二 『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(その1)

 なお、2013年以降は好景気といわれ、大卒就職者が増加し、2015年には40万人を超えた。とはいえ文科省の「学校基本調査」によると、大卒就職者で比率が増えているのは、販売従事者と専門的・技術的職業従事者である。かつては大卒者の最大の就職先だった事務従事者は、その比率が下がっている(図1-12)。(p.54)


雇用される側の構造が変わらず、進学率だけが上がったので、かつては高卒で就業していた人たちが、いわゆる名門校や有名校、難関校ではない「大学」に進学し、結局、かつては高卒で就職していた就職先に収まっている。本書では日本の相対的な低学歴化(大学院進学率の低さ)を問題視しているようにも見えるが、私としては、むしろこのような「大学」の教育のあり方や学生の「生態」に興味がある。いわゆる名門校や有名校、難関校と言われる大学とそうでない大学で通う学生たちの「生態」に違いがあるのかどうか?また、どのような違いがあるのか?



しかし国際的にみると、日本は大学院とくに博士課程の進学が伸びず、博士号取得者数も伸びなやんでいる(図1-14)。国際比較でいえば、「日本の低学歴化」が起きているともいえる。
 ……(中略)……。
 その最大の理由は、日本では「どの大学の入試に通過したか」は重視されても、「大学で何を学んだか」が評価されにくいことである。専門の学位が評価されるのではなく、入試に通過したという「能力」が評価されるのだ。
 海老原嗣生によれば、企業は新卒採用者の選抜にあたり、卒業大学のランクを重視している。企業がそれによって評価しているのは、「地頭のよさ」「要領のよさ」「地道に継続して学習する力」といった「ポテンシャル(潜在能力)」だという。この三つの能力があれば、どの部署に配置してもまじめに努力し、早く仕事を覚え、適応することが期待できるからだ。(p.60-62)


この指摘は確かにそのとおりと思える。企業の採用担当者や面接官ではなくても、団塊世代が現役だった頃は若者の就職難で、団塊世代が退職すると急に就職しやすくなったという社会の状況を反映して、私の身の回りでの観察でも、就職してくる新規採用者の出身大学が大きく変化した。就職難の頃は旧帝大やMARCHあたりの卒業者がほとんどだったが、その後、いつの間にかそうした出身校が全く違うものになっていた。そのことの結果として現場で感じられる実感は、まさに上記引用文で評価されている3つの能力の違いと深く関係しているように思われる。

話をしても、一つのことを伝えたときに、どこまで理解が及ぶのかという範囲が違っているように見えることが多いし、何より物事に対する取り組みの姿勢に違いが感じられることが多い。例えば、一見仕事に対してネガティブな態度をとっているかのような場合であっても、一定レベルはクリアした上で、それ以上はもういいやという感じで留めておくスタンスと、一定レベルに達していないまま十分ない意欲を見せない(場合によっては無駄に残業をして残業代で稼ごうとしているとしか思えないような事例もある)といったスタンスでは、全く意味合いが異なるが、後者に近い姿勢を示すようなものを目にすることが出てきた。これなどは、受験勉強に対するスタンスと非常に通じるものがあるように思う。多くの受験生たちは、受験勉強を好んでやっているわけではないが、一定レベルの水準(例えば、偏差値で65くらいを安定的にキープできる学力水準)に達したところで、これ以上の難問は解かなくてよいと捨てる人と、その程度にすら達しないのに十分な習得のための努力や工夫をしていない人との違いと重なって見える。



1990年代以降も、東京中心部の風景はそれほど変わっていない。朝の通勤ラッシュも、オフィス街のスーツ姿も、六本木や霞ヶ関の街並みもあまり変わらない。その一因は、正社員が減っていないからだ。
 だが地方都市や農山村、東京圏でも郊外では、風景が大きく変わっている。自営商店や農家が減り、駅前商店街がシャッター街になった。入れ替わるように、街道沿いの巨大なショッピングモール、介護施設、在宅やコンビニむけの物流倉庫などが増えた。そこで働く人々には、非正規労働者も多い。そして統計的にも、自営業者が減り、非正規労働者が増えているのである。(p.81)


激しく同意。私も90年代末頃から「東京にいると国内の変化は見えない」ということを強く感じてきた。むしろ地方に住む方が様々なものが切り崩されている様を目の当たりにして実感することになり、今起こっていることが見えるだけではなく体感さえされる、と。



 日本の学校教育で「偏差値」が発案されたのは1957年だったが、これは当初は生徒の得意教科や不得意教科の基準を明確にする指導法としてのものだった。しかし1960年代半ばには、受験対策として学校のランキングに活用されることが始まった。それが本格的な広まりをみせたのは、1970年代になってからである。1960年代後半から70年代は、高校進学率・大学進学率が上昇して「大学卒」というだけでは意味がなくなり、「どの大学を卒業したか」が以前に増して重視されるようになった時期だった。(p.125-126)


偏差値導入の目的がこのようなものだったとは知らなかった。それが学校のランキングに活用されるというここ数十年間の一般的な使い方(?)になったのは、こちらの方が明らかに相性がいいからだろう。得意教科と不得意教科の基準を明確にするという指導法の場合、どの分野が苦手かというだけでは改善に直結せず、どの分野がどのように理解できていないのか、というさらに掘り下げたところまで分析が必要だが、偏差値にはそのような機能は十分ではない。逆にランキングにとっては、同じ基準で数字が一列に並ぶのだから明らかに相性が良い。



ヨーロッパでもアメリカでも、労働者が望んだのは、雇用主の気まぐれで運命を左右されない状況を作ることであり、差別を撤廃することであり、職業集団の地位を向上させることだった。それが結果的に、企業を横断した基準を作ったのである。(p.199)


本書ではこの経緯などが詳しく説明されている。



 当時はまだ民間産業が育っておらず、安定的な収入を得られるのは官吏や教員など公務セクターに限られていた。その状況のなかで、学歴を重視する公務セクターの俸給が、社会に強いインパクトを与えていった。(p.234)


戦前の日本の状況。民間産業が育っていなかったという条件が公務セクターの働き方が社会全体に強い影響力を持ったことの背景にあったという点は、本書を読み、なるほどと思わされた点の一つだった。



 官吏は「無定量勤務」が原則だったため、勤務時間が設けられていなかった。そして明治初期の官庁の勤務時間は、きわめて短かった。省庁の執務時間規則はあったものの、1869(明治2)年の規則では、午前10時登庁、午後2時退庁、昼休みが1時間で、実働時間は3時間だった。
 これは1871年には9時から3時までとなり、1886年には9時から5時となった。とはいえ、夏季の勤務は午前中までという慣習が昭和期まで続いた。(p.235)


なかなか衝撃的という感じだった。ただ、言われてみると、確かに、福祉国家的なものが表れる前はいわゆる夜警国家だったわけだから、官庁の仕事などあまり多くはなかったとしても不思議ではない。いかに現在の基準で物事を考えがちかという歴史を見る際の基本的なことを思い起こさせられる記述だった。


小樽市人口減少問題研究会 『人口半減社会と戦う 小樽からの挑戦』

現在でも、新規高卒者の地元就職内定率は50%前後で推移しており、就職希望者の半数は市外に転出している可能性がある(小樽市2017a)。(p.35)


この個所の少し前には年代別にみると高校や大学を卒業するタイミングでの人口減が最も多いことが指摘されている。就職先が市外になること人口減の大きな要因であると言える。

本書は小樽市と小樽商科大学の共同研究の成果ということらしいが、上記のような明白な事実がありながら、本書の内容は子育て支援策を手厚くするという方向性など、的外れな方向に(これが言い過ぎだとすれば、少なくとも、主要な要因ではない論点へと)議論が進められていくことに非常に違和感を感じる。研究会発足は当時の市長の発案のようだが、市長が自らの政策の正当性をこの研究から得ようと考え、研究会側もそれを忖度しながら(あるいは当局側からそのような方向性で進めてほしいという意向が伝えられた上で)研究の方向性が選ばれたのではないかとさえ勘繰りたくなるような不自然さである。(このズレは、市の行政、市議会、経済団体へのインタビューに関する分析(本書第5章)でも見出すことができる。)

上記の年齢での社会減が最大なのであれば、それ以前の子育て支援策を充実させることは、この最大の要因に対してほとんど何らの効果も持たないであろうことは明白なはずである。(その年齢以前の社会減を減らすというより小さな要因には影響する可能性があるが。)本書は、ここに焦点を合わせて掘り下げる必要があったはずである。(もちろん、行政の施策でそこで発見された事実に対応がほとんどできないものだったとしても、そうすべきであろう。第二章あたりでは多少関連する問題に触れられているが、十分に議論が深まっていない印象が強い。)



1997(平成9)年以降の推移でみると、札幌市以外との転出入はほぼ均衡している状態であり、小樽市の社会減は、約200万人の人口を抱える札幌市への転出超過が、その主な要因となっていることがわかる(図9)。その中でも、小樽市に近接する手稲区、西区への転出超過が全体の5割を占めている(小樽市2017b:10)。(p.37)


この点はもっと掘り下げるべきであろう。札幌に転出した後、その人々はどこで働いているのか(業種や収入なども含めて)、といったことを追跡すれば見えてくるものがあるはずである。本書ではこの点の掘り下げがほとんどされていない。(第二章などで若干関連する問題は扱っているが、上述のとおりあまり掘り下げられていない。)個人情報も絡むので調査が難しいのは分かるが、例えば、直接確認することが難しい部分については、どのような代理指標を用いれば計りたいものが計れるのかという工夫が欲しいところである。いずせにせよ、本書全体を通して、アンケート調査に安易に頼ったという印象は否めず、その設問によって議論に予め限界が設けられてしまっている感が強い。



先述したが、小樽の観光業は賃金の点では札幌を凌ぐが、飲食・宿泊業は他産業と比べて、賃金水準が低い。これは、日本の観光業が1960年代の日本の経済成長期に確立された日本人団体旅行向けビジネスモデルからいまだに脱していないことが原因の一つである。地方の観光都市に、観光バスを仕立てて訪れ、安く効率的に旅を楽しむことを前提とするこのモデルは、休暇期間の短い日本人にとって最適なモデルであった。
 しかし、「おもてなし」は善意から行うものであり価格に反映させるべきでないとする倫理観の中で、サービスに対する適切な評価がなされてこなかった。さらに2000年の道路運送法の改正によりバス事業が許可制となり新規参入が急増したため、日本の観光業は熾烈な価格競争に巻き込まれることとなった。この価格競争の中で、コストカットの対象は人件費へと向かい、観光業界は低賃金産業となった。(p.66-67)


ここは重要な論点の一つと思われる。ただ、ここの記述でよくわからないのは、前段からすると個々の顧客の支払いが安いのだから観光業に落ちる金の単価も低かったことが予想されるのだが、その後の競争の激化によって低賃金産業となったとされている。90年代以前は低賃金産業ではなかったのだろうか?基本的には他の産業よりはもともと低賃金だったのが、さらに競争により切り下げられてきたという意味だろうか。(この個所に限らず、本書の分析は単なる意見で説明を済ませているかのような箇所が多く、一文一文に対するエビデンスが見えない点が問題である。)



都市圏も地方部も各産業バランスの取れたまちづくりを重視しているものの、都市圏においてその傾向はより強いことが分かる。他方、ものづくりのまち、食のまちづくり、観光業中心のまちづくりについては、地方部においてその傾向が強く、これについては統計的な有意性が確認されている。とりわけ、食と観光については、都市圏と地方部では大きな差がついている。なお、商業中心のまちづくり、文教的なまちづくりについては、都市圏と地方部で統計的に有意な差はみられなかった。
 したがって、全体としては八割に近い市区において各産業のバランスの取れたまちづくりが重視されているものの、その傾向は地方部よりも都市圏でより強く、また地方部においては都市圏に比べると「ものづくり」、「食」、「観光」のまちづくりなど、ある産業を中心としつつ、その他のバランスを図るまちづくりが重視されている傾向があると考えられる。(p.217)


こうした一つの産業だけを前面に出すやり方は、人口規模が小さければ、その産業に関連する人口が生活できることで、その自治体に住むほとんどの人が生活できるというようなことがあり得るため、それなりに有効だが、ある程度人口規模が大きくなると、特定の産業とその関連産業だけでは生活を維持していくことができないため、バランス重視になっていくという議論が本書でもされている。このこと自体はその通りであろうと思われる。

ただ、この点は人口の少なさを要因とする政策決定の傾向であって、その逆ではないであろう。本書はアンケート調査で相関関係を抽出するにとどまり因果関係まで明らかにしていない点が多く、分析不足と感じる。(相関関係であると断りつつ、因果関係であるかのように書いていたり、そのように誤認させそうな記述も散見される…。)総じて、行動経済学などでは統計的な分析から因果関係を明らかにするようなものがあるのだが、本書は数十年前の研究の分析レベルにとどまっている感じがする。

樋口直人、永吉希久子、松谷満、倉橋耕平、ファビアン・シェーファー、山口智美 『ネット右翼とは何か』(その2)
「第5章 ネット右翼と政治」より

 自民党のネット戦略は、野党だった2009年に始まっている。自民党のネットキャンペーン戦略はNTT広報部出身で経済産業相である世耕弘成の設計によるもので、二つの柱があった。「Facebook」や「ニコニコ動画」のログインページに広告を出す一方で、09年にはボランティアとして立ち上げたグループを、12年にネットサポータークラブとして正式に発足させている(1万5千人の会員は、ネット右翼の親安倍派と重なっていると思われる)。興味深いことに、このネットサポータークラブを公式に立ち上げたのと、安倍が「Facebook」を使い始めた時期は重なっている。安倍は「Facebook」をネット上の後援会として活用し、あいさつやメディア批判のメッセージをよく投稿している。(p.140)


安倍がFBをネット上の後援会として活用していることや、それが自民党のネット戦略とも連動しているという点はなるほどという感じである。



 ネット右翼からすると、2000年代初頭に「言説の機会構造」が開かれたことで、ナショナリスト的議題を押し出せるようになった。……(中略)……。
 日本の場合、言説の機会がネット右翼に開かれることで、「慰安婦」などの未解決の東アジアの歴史問題や中国や韓国との領土問題などに関わる要求が政治のなかで正統性をもつようになった。ネット右翼の潜在的な言説と公的な政治的言説では言葉遣いが異なる。だが、ネット右翼は非合理的な嫌韓・憎中のアジェンダと安倍の外交政策上の願望をつなげることで、「排外主義運動の言説と日本政府やメディアが語ってきたこととの親和性」を作り出した。ネット右翼は制度政治との接点を確立できなかったが、歴史問題や東アジアをめぐる言説の変化と自らの人種差別的な言説を関連づけることに成功した。(p.151-152)


これはその通りだと思うが、この状況をどのように変えていくべきかということが問題であると思われる。


樋口直人、永吉希久子、松谷満、倉橋耕平、ファビアン・シェーファー、山口智美 『ネット右翼とは何か』(その1)
「第1章 ネット右翼とは誰か」より

 第二に、従来の説とは違いネット右翼やオンライン排外主義者は社会経済的地位が低かったり、社会的に孤立していたりしているとはいえない。通説が当てはまる可能性があるのは、性別と、主観的な地位を示す階層帰属意識の効果だけである。つまり、客観的にみて学歴や世帯収入、雇用形態の面で不利な立場にいるわけではなくとも、本人が主観的に自分は不利な地位にいると認識している場合には、ネット右翼やオンライン排外主義者になりやすくなる。この場合、不満が原因という通説も一定の妥当性をもつ。(p.36)


ネット右翼的な言説には明らかに屈折した感情や承認欲求が満たされていない感じがついて回る。こうした書き込み内容などから従来、ネット右翼らは社会経済的地位やそれらと結びつきの強いと思われる学歴が低いと思われてきたし、社会的にも孤立していると想像されてきた。主観的に自分は不利な地位にいると認識していると、ネット右翼のようになりやすい、というのは、彼らの書き込み(言説)の内容と適合的であることには何ら驚きはないが、社会経済的に低い地位ではない人が、あのような言説をまき散らしているという点は社会にとっては、従来抱かれてきた通念よりもネット右翼は危険な存在であり得ることを示していると言えるように思われる。



 第四に、政治・社会問題の情報源としてインターネットや本・雑誌、所属団体からの情報を利用する人ほどネット右翼になりやすく、テレビを利用する人ほどなりにくい傾向がみられた。書籍やインターネットは選択的接触が起こりやすいメディアである。また、インターネット上ではニュースや掲示板、SNSなど異なる媒体の間で相互参照がおこなわれ、それによって互いに情報に信憑性を付与することができる。保守系雑誌・書籍やインターネット上の情報を通じて「マスコミが報じない真実」を学習することで、人々はネット右翼へと近づいていくのではないだろうか。(p.37)


ヘイトスピーチ的な言説を垂れ流したり、歴史修正主義の言説を公言するような保守系雑誌・書籍に対する規制が必要であると思われる。表現の自由については、それを盾に自称「保守」(実際は反動)的な言説を守ろうとする自称「保守」(実際は反動)主義者が散見されるが、その辺りについて一定の決着をつけていく必要があるように感じる。(誤った「表現の自由」理解を正す。)



オンライン排外主義者はニュースサイトの運営者が編集した情報や、発信力をもつブログの著者の声ではなく、ネットワークのなかに流れる無数の「個人の声」を重視するといえるのではないだろうか。仮にそうだとすれば、反中・反韓が社会の「標準的」態度となっていくことが、より多くのオンライン排外主義者を生み出していく可能性もある。(p.38)


中国や韓国については、政府の動きだけでなく、人びとが日本に対してどのような見方をしているのかを知り、相互の関係を良くしようとしている動きがどの程度あるのかといったことなどにも目を向けていく必要があるように思われる。



 本章での検討を通して明らかになったのは、排外意識をもち、インターネット上で意見発信をしている人々のなかには、政治への意識や情報の取得方法が異なる二つの集団が混在している可能性があるということである。ネット上での排外的言説を発信・拡散している人々を一枚岩の集団と見なしてしまうと、彼らの動機の多様性を見落とす危険性がある。(p.38)


確かに。



「第2章 ネット右翼活動家の「リアル」な支持基盤」より

 しかし、これらの人々を「極右」支持層と位置付けた場合、階層的な偏りや特徴がないという点は、ヨーロッパ極右と異なる日本の特徴といえる。ヨーロッパの場合、高学歴層、専門職層などには明らかに極右を忌避する傾向がみられる。日本の場合、階層的地位が相対的に高い人々に極右的なものへの警戒心や反発が少ないということを意味するのかもしれない。(p.65-66)


このことは、社会科学的な教育が日本ではほとんど行われていないという教育内容の貧困さが要因になっているのではないかと私は考えている。本書では自営業、経営者、IT関係の専門職などにネット右翼的な傾向があることが示されていたが、前二者は学校教育を受けても、それを尊重する態度があまりない人々と思われ、後者のIT関係は理系であるため、社会科学をまともに学ぶ機会がほぼない人々であると私は見る。もしそうであるとすれば、社会科学的なパラダイムを習得しない傾向が強い人々という点でこれらの人々には共通点が認められるのではないか。このことが日本の特性へとつながると思われる。なお、大学が入学すれば誰でも卒業できるようなシステムであることも、このことに繋がっているのではないかと考えている。



「第3章 ネット右翼の生活世界」より

すなわち、地域政治が保守優位の状況にあるため、地域が基盤の生業と右派政治勢力は親和的な関係にあるといえる。そのため、自らの商売――地域活動――政治活動――ネトウヨ活動が、断絶することなく社会生活のなかに収まっている(こうして点で、自民党員にはかなり多くのネット右翼がいると予想できる)。(p.98)


なるほど。この説明は腑に落ちた。



「第4章 ネット右翼と参加型文化」より

 以上のように振り返ると、ウェブが登場してから約30年がたとうとしているいま、インターネットをめぐる状況は初期の思想とはまるで逆の方向に向かっていることがわかる。「フリー」「オープン」「シェア」ではなく、管理され、クローズドで、商業化されているのが現在のインターネット文化なのである。(p.110)


確かに。



 このとき立ち上がった現象の構造的側面は、「参加型文化」と「集合知」と呼べるものである。すなわち、1990年代の右派論壇は、歴史学の通説に対して「みんなで考えよう」「みんなで考えたことを共有しよう」という姿勢を示したのである。さらに重要なのは、これが学術出版ではなく商業出版で展開されたことだった。右派の政治言説は、インターネットやCS放送といったオルタナティヴなメディアにしか言論空間がなかった。こうした背景のもとで、言論空間は「ビジネス」として展開されるようになり、政治言説では売れる言説こそが正しいという「文化消費者の評価」が重要視されていく時代へと変化していったのである。(p.11-112)


ネトウヨ的な言説がビジネスとして展開されてきた点は非常に重要な指摘だと思われる。このルートを断つことが必要と思われる。



これまでの研究では、ネット右翼が一般に認知されるきっかけは02年のサッカー日韓ワールドカップでの日韓翻訳掲示板での日韓双方のユーザーの「論争」にあるとされている。日本の「2ちゃんねる」利用者は歴史認識問題をめぐる論戦で「勝利」した。そして、インターネットでの「論破」というコミュニケーション・モードに快感を得て、自ら知識を探求するわけではなくその手法だけを模倣する「フリーライダー」を増殖させた。
 こうした「論破」に熱中する傾向は、1990年代の歴史修正主義者の「歴史ディベート」にもみられた特徴である。歴史のテーマをめぐって2チームに分かれ、それぞれの主張のどちらに説得力があるかで勝者を決めるゲームを歴史認識の真理判断に導入しようとする活動がおこなわれていた。しかし、これはその場で相手を沈黙させることができればいいだけであり、単に自分の主張に都合のいい知識と論理を強化するばかりで、歴史の真実を明らかにしようとする営為とはとうていいえない。(p.112-113)


ネトウヨ言説のもつ特徴の一面を良く捉えている。「敵」を「論破」して「勝つ」ことが目的となっている。満たされない人(現状に不満がある人)であることとこれは関係がある。



 ここでは明らかに完全な「反転」が起こっている。「全体主義」「ファシズム」「プロパガンダ」「マルクス主義」、そして「メディア・リテラシー」といった用語はすべて左派が体制批判のために用いてきた分析概念だった。これらの用語が、本来の意味やそれまでに使われていた文脈を無視することで「右旋回」させられているのである。
 このことこそ、インターネット時代の一つの特徴ではないか。自分たちを攻撃するものとして敵視する「サヨク」の言葉をまさしく自己の武器にしているのである。(p.119-120)


この点については、私もかねがね思ってきたところではある。概念だけではなく、安倍晋三がしばしば口にする「印象操作」などの言葉もこれである。

なお、安倍政権では左派の政策を奪いながら「右旋回」させている点にも一言触れておきたい。例えば「アベノミクス」と呼ばれているもののうち、大規模な金融緩和とそれによる財政のファイナンス、財政出動という形式は欧州左派の政策であり、それの使い道が人々の生活ではなく経済界の意向に沿うものである点が異なっている。


宮本みち子 『若者が《社会的弱者》に転落する』

これらの「やりたいこと」という論理の帰結を久木元は次のように分析する。
 やりたいことは結局、自分の内部にしか発見できない。しかもその認定基準は厳しくなる傾向があって、ますます見つけにくくなってしまう。しかし社会は「やりたいこと」の選択を彼らに許す。しかし、「その選択に社会が責任を負わないしくみになっている」。その結果、「《やりたいこと》という《心理主義化》は、容易にシンプルな自己責任の論理に転嫁しうる」〔久木元、2001〕。
 選択の自由は与えられているが、現実に利用できる資源には格差がある。そのため選択の結果は、それらの格差を反映したものになることも明らかである。先述したライフコースの個人化と問題解決の私化という傾向と重なる指摘である。
 さらにまた、「何がやりたいことなのか」を自問自答するなかからは、やりたいものをみつけることはむずかしい。自分の内なる世界から出て、実際に体を動かすことを通してこそ、やりたいことはみつかるはずだ。社会から隔絶された家庭と学校に閉じ込められた状態で、やりたいことを見つけようとする矛盾
 「やりたいこと」は実はかならずしも「できること」ではないし、できることに比べ「価値あること」ともかぎらない。だが、親も子もその呪縛にとらわれ、結果として現実逃避が続いていることに、問題の根があるのではなかろうか。(p.80-81)


主に90年代から00年代にみられたフリーターをめぐる言説についての分析だが、妥当である。「やりたいこと」という個人の欲求に問題を矮小化することは、社会全体として若者の働く環境の整備という課題を人びとの視野に入らないように妨害するものであった。そして、若者やその家族がこの「やりたいこと」の論理を当然のものとして受け入れることによって、社会が果たすべき責任が等閑視され、フリーターという選択は個人の選択であり個人の責任において行っていることとされた。

後段の指摘も全く同意見であり、現在でも進学や就職の際に同じような論理に囚われている者はそれなりに存在していると思われる。社会から隔絶された環境に置かれながら、「やりたいこと」を見つけ出すよう強いられる学生。この矛盾した状況を改善することは社会にとってもこれから進学や就職しようとする若者にとっても必要であると思う。



「家庭の教育力は昔より低下した」と、多くの人が信じているのだ。ところが子どものしつけの変遷を研究してきた広田照幸氏によれば、実は、現代の親のほうが子どものしつけに対する自覚はずっと高く熱心であるという(広田照幸著 『日本人のしつけは衰退したか』 講談社現代新書)。
 戦前から高度成長期にいたるまで、農村社会では、子どもの自然の成長や自覚を期待する放任的なしつけが一般的であった。……(中略)……。
 戦前から戦後のある時期まで、教育の課題とは、子どもに関心を払うことを親に勧め、子どもの教育にもっと熱心になるよう啓蒙することだった。大正時代、都市部のサラリーマンやインテリ層に登場した「教育する家族」、つまり、子どもの教育が主要な目標となる家族が、高度経済成長期を経て、全国・全階層へと広まり、今では多数派となっている。つまり、家庭の教育力は低下したのではなく、事実は逆だったのである。
 ……(中略)……。
 現代の家庭には、子どもが一人前になるために必要な多様な経験をする条件がない。……(中略)……。よその大人たちの影響を受けなくなったことは、子どもの環境変化を考える時、たいへん大きなポイントだと思う。
 ……(中略)……。
 低下したのは家庭の教育力ではなく、社会と家庭を支えてきたトータルな力のほうなのではないだろうか。(p.108-114)


概ね言われていることには同感である。家庭の教育力は低下したのではないという言い方は、若干の問題がある。このことを言う根拠として述べられているのは、家庭の教育力ではなく、家庭の教育への関心が高まっているということである。関心が高まっていることは必ずしも教育する力が高まっていることは一致しない。本書が言うように、現代の家庭には多様な経験をする条件がないのであれば、家庭の教育への関心は高まったが教育をするための条件は劣化したといったところであろう。

問題は、その責任は必ずしも家庭にあるわけではなく、社会の変動が要因となっているということを明確にしておくことだろう。家庭の教育力が低下したという類の、大雑把で雑な判断をしようとする人というのは、そのことを言うことによって、各家庭の責任にしようとしている。あるいは、各家庭の責任にした上で、各家庭の努力には期待できないので政府などの権力が道徳教育などに介入すべきだといった類のことを言おうとしていることが多いのではないか。本書の指摘している議論はこうした類のトンデモ言説に対して、それとは異なるあり方を事実に基づいて提示する方向性のものであるという点で共感できるものである。



 子どもたちは、家庭でも地域社会でも、何の役割も責任も課されない。だから、いつどうやって親離れをし、自立するかという道筋が見えない。(p.120)


既に別のところで「社会から隔絶された家庭と学校に閉じ込められた状態で、やりたいことを見つけようとする矛盾」といったフレーズで指摘されていたことと同じだが、こちらの言い方の方が問題を解決に向けるヒントを多く含んでいる。つまり、子どもたちに社会の中での役割や責任を与えることによって、子どもの自立への道筋が見えてくるのではないか、と。



「私、四年制大学に行く。このまま就職するっていってもどうせアルバイトしかないでしょ?だったら大学でバイトした方が楽じゃん。それに親も四大の授業料出してくれるって言ってるし」
 彼女たちは、今という時代を直感的にわかっているのだ。大学は無業という暗い現実からの最終避難所となりつつあること、学校で学ぶことの積極的な意味など初めからないこと、学生と社会人の境界が薄くなっていることを。そして、いくらがんばっても先が見えないから、ほどほどのところで今を楽しく暮らす方がトクだという諦めがあるのだ。(p.155)


本書が出てから15年以上経ち、団塊世代の退職により就職難の時代が終わり、人手不足の時代が到来しているため、大学進学の意味は変わってきていると思われるが、それでも無業からの避難所としての大学という性格は現在でも残っているように思われる。



 親子が同居する期間が長くなっている弊害を克服するためには、子どもをときどき親元から引き離すしくみが有効であろう。友人同士の泊まりあい、田舎の祖父母の家への一人旅、夏休みのホームステイ、国内外留学、寮のある高校、合宿、寄宿舎、泊り込みの農業体験等、公私さまざまな「家から離れる」工夫が必要だ。(p.169)


この考え方は非常に参考になる。子供は高校生くらいになったら留学させるのが良いかも知れない。


マックス・ウェーバー 『仕事としての学問 仕事としての政治』
「仕事としての学問」より

「事実などはなく、あるのは解釈のみだ」(ニーチェ 『権力への意志』481)という遠近法主義からは、自分にとって都合がいい「事実」しか見ないという傾向が当然出てくる。そうすると、それぞれの立場が自分に有利なエビデンスを持ち出し、相手の「事実」を「捏造」だと言って罵ることになる。客観的な事実よりも感情的な訴えかけのほうが影響力をもちやすい事態を「ポスト真実」と呼ぶならば、こうした状況においてこそ、自分にとって「都合の悪い事実」と向き合え、という政治教育の仕事は重要になる。(p.64-65)



優れた教師は都合の悪い事実を認めることをその弟子に教える、という件についての訳注。「ポストトゥルース」のような用語を使っているあたりが、現代の読者に向けたメッセージとなっている。少し言い方を変えると、ヴェーバーのメッセージは、現代の日本においても届けられるべき内容を持っていることを、この訳注は示している。

私自身、ヴェーバーから学んだことのうち、最も重要なことの一つはこのことだったと思っている。なお、もう一つ同じくらい重要なのは「職業としての政治」の方で強調されることになる「距離の感覚」であった。



「仕事としての政治」より

 政治が「導く」ないし「リードする」活動だというのは、あまりに自明だと思われるかもしれない。しかし、ミシェル・フーコー(Michel Foucault)(1926-84年)は、1977-78年度のコレージュ・ド・フランス講義において、古代ギリシアの語彙には基本的に「牧者(berger;Hirte)」のメタファーがないと指摘している。牧者の「導き(conduite;Führung)」(フーコーの訳語では「操行」という訳語が用いられることが多い)は、17世紀末まではほとんど見られず、「キリスト教的司牧が西洋社会に導入した根本的な要素の一つ」だと述べられている(ミシェル・フーコー『安全・領土・人口――コレージュ・ド・フランス講義 1977-1978年度』 高桑和巳訳、筑摩書房、2007年、239頁)。リーダーシップの強弱でしか政治を語れないとすれば、それは政治概念の貧困化ということになるかもしれない。(p.91-92)



講演冒頭の辺りで政治についての概念を規定しようとしている箇所への訳注。ヴェーバーの政治や権力の概念に対して、もう少し現代的な概念を知りながら読むべきだというような訳者からの示唆が感じられる。

なお、リーダーシップの強弱でしか政治を語れないことは政治概念の貧困化だという指摘は、多くの人々のリーダー待望論(願望)とポピュリストの登場という構図が世界的にみられる(ヴェーバーの時代にもこれに似たところがあったと思われる)ことを踏まえてのものであろう。



 では、このシステム全体は、どのような効果を生んだのでしょうか。今日、イギリスの議員は二、三人の閣僚(と少しの一匹狼)を例外として、通常の場合、よく規律化された票以外のなにものでもありません。ドイツの帝国議会では、せめて自分の席の机で私的なメールを片づけることで、お国のために活動しているふりをするのが常でした。この手のジェスチャーは、イギリスでは要求されもしません。議会のメンバーがしなければならないのは投票だけで、党を裏切らなければよいのです。内閣、あるいは野党のリーダーが命令するのに応じて、それをするように院内総務から呼び出されれば、議員のメンバーは顔を出さなければなりません。一人の強力なリーダーがいる場合、全国のコーカス・マシーンに至っては、ほとんど主義をもたず、リーダーの手に完全に掌握されています。したがって、こうして議会の上に君臨するのは、事実上の人民投票的な独裁者です。この独裁者は「マシーン」を介して大衆を自分の後ろに従える。そして、この独裁者にとって、議員などは彼の支配下にある政治的なサラリーマンにすぎなくなります。(p.160-161)



『政治論集』でコメントした箇所と全く同じ個所。つけるべきコメントも基本的に同じ。

訳文について一言述べると、本書は野口雅弘による新しい訳だが、私としては古い訳の方が読んだものが記憶に残るように思う。今回の訳は、言葉の選び方は現代の若者に向けていろいろ考えているように見えるが、読んでみると(少なくとも私にとっては)何となく回りくどいというか、意味内容が頭の中にスッと入ってこない感じがある。講演なんてむしろそんなもんだという見方もあるかも知れないが、こうした種類の本を読むことの意味を考えたとき、やはり著者が考えている意味内容が読者に何らかの形で伝わることが重要であることを考えると、読んですぐ頭に入る方がいい。



ところが、政治家の仕事の聖なる精神に対する罪が始まるのは、もっぱら「なにごとか」にコミットするのではなく、この権力追求がなにごとかに即さず(unsachlich)、純粋に個人的な自己陶酔の対象になるところです。(p.182)



一つ前のエントリーでもこの部分を含む個所を引用しておいた。



 戦争を倫理的に埋葬するのは、実際の問題に即していることと騎士道的な礼節によって、とりわけ品位によってのみ可能です。〔どちらが善で、どちらが悪かという「あれか、これか」を問う〕「倫理」によってではないのです。「倫理」〔による戦争の終結〕では、〔勝者と敗者の〕双方の品位が失われてしまいます。(p.187)



この個所も一つ前のエントリーで引用した。「倫理」に対する注釈の内容が両訳書で異なっている。こちらの解釈の方が素直に理解できるように思う。



「訳者あとがき」より

もちろんウェーバー自身は「ポスト真実(post-truth)」という語を用いているわけではないが、「事実」よりも受け手の感情や好みがより大きな政治的意味を持つような事態は、すでに彼の考察の射程に入っている
 ドナルド・トランプがアメリカ合衆国大統領に選出されたとき、反知性主義のポピュリズムという点で似ているとして、第七代大統領のアンドリュー・ジャクソンが引き合いに出された。ウェーバーが「政治」講演で特に注目するのは、イギリスのバーミンガムから始まった「コーカス・システム」の発展とともに、白人男性の普通選挙権が実現した、いわゆる「ジャクソニアン・デモクラシー」の時代の政治の変容である。大規模で、かつ規律化された「重い」政党組織は、「軽い」風によって動く「世論」に支えられた政治リーダーのパーソナリティへの依存を高めていく。組織化とパーソナル化がともに進んでいくという「官僚制化とカリスマの弁証法」を、彼はこの講演で印象深く描いている。(p.220-221)


ジャクソン時代のアメリカをヴェーバーが見ていたという点は確かに押さえておいた方が良いかも知れない。



いろいろな感想や指摘をもらい、そのいくつかはこの訳書に反映されている。しかし、この本を扱ったゼミでは、あまり話が通じず、かつ議論もうまく展開しないことがしばしばだった。かつてよく読まれた本が次第に読まれなくなるのには、それなりの理由がある。原著者のウェーバーが語りかけている読者は、革命のさなかにいた。そこでは、いずれのイデオロギーも急進化しつつあり、コミューン的な結びつきや「神秘主義」も近くにあった。いま日本でこれを読んでいる若い読者とは大きくかけ離れている。(p.222-223)


かつて読まれた本が読まれなくなるには理由があるのは確かであり、ヴェーバーの本は全体としてその傾向にあるだろう。

ただ、ゼミで話が通じないことの原因は、訳者がここで指摘するようなことが主要な原因ではないと思う。なぜならば、この本を読んできた(かつての)若者たちは、そのほとんどがヴェーバーが語りかけている学生たちとは大きく異なる環境に置かれていたからである。むしろ、話が通じないことの大きな原因は、日本の大学の変容にあると思われる。特に私立大学は現在では学力試験を経ないで推薦で入学する学生が半分近いという現状がある。つまり、学力レベル的に進学する生徒とそうでない生徒をすべて含めて真ん中かそれ以下の生徒たちが大学に進学してくる。例えば、歴史を学んでおらず、古典を読んだこともなく、古典についての解説書すら読んでおらず、政治的あるいは社会的な問題意識が特にあるわけでもない、といった学生がこうした本を読んだとして、本書のような本を短時間で理解できるとは思えない。かつてであれば進学できなかったような学生が大量に進学してくるようになったという大学の状況の変化が話が通じない真の原因はなかろうか。(もちろん、訳者としてそのような「不都合な真実?」をこの場に書くことは憚られるだろうが。)

鈴木幸壽・山本鎮雄・茨木竹二 編 『歴史社会学とマックス・ヴェーバー――歴史社会学の歴史と現在――(下)』
雀部幸隆 「ヴェーバーの政治思想研究の意義と課題」より

 こうした発言から窺えるヴェーバーの政治への基礎視点は、①国民的観点=国益第一の視点であり、②国家の統治可能性の重視であり、③歴史的地政学的諸条件の冷静な考量である(雀部1999年、185頁以下、雀部2001年、20頁以下)。
 かれは、その観点から、あくまでもドイツの世襲君主制の維持にこだわった(以下について詳しくは、雀部1999年、91頁以下、雀部2001年、23頁以下を参照)。そのこだわりがまた、あたかも「共和制」をもって人間理性の自然にかなった――だからまた自然法的に与えられた――合理的な国制と考える傾きのある戦後のわれわれのつまづきの石となる。もちろんヴェーバーは、ドイツの第一次大戦敗北後、ヴィルヘルム二世の国外逃亡によって帝制の崩壊が不可逆な事実となるにおよんで、共和政体を基礎にドイツ国家の再建策を追求することとなる。「国民投票的大統領制と代表制的議会制とが併存する=代議制的統治」というのが、その回答である(WuG, 5. Aufl., S.173. 『支配の諸類型』、196頁)。しかし、ヴェーバーの「君主制」へのこだわりに釈然としないわれわれは、その場合にも、結局ヴェーバーはワイマール共和国大統領にたいして「代替皇帝」としての役割を期待したのではないか、その意味においてかれの君主主義的原思考は形を変えて生きながらえているのではないか、との疑念を払拭することができないでいる。(p.131-132)


まず、ウェーバーの政治への基礎視点として3点がまとめられているが、この整理は概ね妥当と思われる。国益第一といったとき、誰のどのような利益なのか、ということを明確にする必要がある。ウェーバーの場合、基本的には②の観点とも関係して、為政者の立場にとって好都合なものを重視していることととなる(国民一人一人の福利や権利を守ることが第一義的なものとはなっていない点に注意!)。

国民投票的大統領制と代表制的議会制の併存というアイディアも、雀部と異なり、素直に「君主主義的原思考は形を変えて生きながらえている」と解釈するのが適当ではなかろうか。ウェーバー研究者はウェーバーを批判から守ろうとするあまり、不当な解釈をすることがあるが、ここもその一つではないか。




丸川哲史 『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』(その3)

朝鮮戦争は、台湾における中華民国の事実上の主権状態が成立した起点でもあり、それがなければ、今日私たちが知る台湾はあり得ていない。台湾は大陸から派遣された解放軍によって「解放」されていた可能性が高いのである。その意味で、朝鮮戦争という出来事は、台湾においてタブー視されている。(p.94)


朝鮮戦争によってアメリカが台湾を西側に組み入れることにしたため、国民党は台湾で生き延びることができた。国民党にとっては触れられたくない事実であることは確かだろう。ただ、現在は当時の国民党の政権とは異なる状況になっている。現在においてもタブー視が継続しているのだろうか。それとも過去にタブー視された期間が長かったため、多くの人々にその重要性が忘却されてしまい、誰も(多くの人が)「論じることができない状況になっているのだろうか。この辺りは気になるところである。



 本書は、大陸中国内部の政治・経済状況について深い分析と洞察を展開する任を持たないので、天安門事件にかかわる原因について深くは触れられないが、この事件は、大陸中国国内では改革開放政策の挫折と認識されるものであった。その背景には、都市における市場経済の導入によって国有財産が民間に転化される際、多くの政府関係者がそれを私物化する不正行為が現れ、また国有経済と市場経済の価格・給与の二重化によって、都市生活者に不安と焦燥を与えていた事態があった。市民たちは、学生が主張した「民主化」や「表現の自由」というスローガンには乗ったものの、大きな意味での不満の種は、それら改革開放の都市への適用の失敗に由来するものだった。
 しかし台湾や、日本も含めた西側のメディアでは、経済政策的な側面からの説明ではなく、西側「民主主義」の基準から、共産党の一党独裁を批判する、という態度を採った。ちょうどその頃台湾では、徐々に直接選挙制度による政治決定(議会政治)のルートが整備されつつあった。その意味で、この天安門事件は、民主主義的制度が整いつつある台湾、そしてそのような制度とは無縁な大陸中国、という二元論的な認識の構図を形成することとなった。これ自体を誤ったものとは認定できないものの、こうした単純化された構図によって大陸中国で発生する現象全てが裁断される傾向が生まれ、台湾における大陸中国認識についてマイナス面が形作られるようになった。(p.98-99)


確かに、天安門事件に関して日本で語られるときは、現在でも民主化されていない一党独裁の下では、国家権力によりいかに悪事がなされるか、といった文脈で語られている。このこと自体は確かに間違ってはいない。しかし、なぜ中国の人々が政府(共産党)に対して抗議や要求をしたのか、ということまで考えに入れれば、本書が指摘するように改革開放の都市への適用の失敗が要因となって起こった事件であると捉えるのが妥当であろう。この事件について語るときは、忘れられがちな点をしっかりと念頭に置きながら語るべきであろう。



そこで、サンフランシスコ講和条約の発効の日付、1952年4月28日をもって、日華平和条約が締結されることになった。……(中略)……。
 ……(中略)……。条約を取り交わしたことで、初めて正式な二ヵ国間外交関係が発生し、東アジアにおける中華民国(台湾)の安定的位置が定まった、との見方も可能となる。
 中華民国は、元より米国と外交関係を持っていたが、台湾に移った後の体制による関係の構築という点では、後の米華相互防衛条約の締結を待たねばならなかった。日華平和条約は、台湾に居を移した中華民国体制にとっては、逸早き援助となった。日華平和条約は、戦後補償の点から実質的な賠償請求の取り下げというマイナス面があり、日本が放棄した領土の帰属先を明確にできなかったとはいえども、台湾において中華民国が存続するためには、是非とも必要な契機だったのである。(p.132-133)


なるほど。賠償請求をしないことにしたのは、そうしてまで締結したいだけの理由が中華民国(国民党)側にはあった、ということか。少なくとも、戦後数年間の国民党が置かれた状況というのは、それほどまでに不安定なものであったという点は理解しておく価値があるかもしれない。



 最後に、陳水扁(前)総統が自身の家族も含め不正な金脈を蓄積したという疑惑が第二期の任期の途中より深まり、馬英九の総統当選の後、正式に司法当局によって逮捕・起訴された事態について若干補っておきたい。この出来事は、民進党支持者に大きな衝撃を与えることになったが、実はそれだけではなかった。と言うのは、第二期目の選挙において、疑惑の「銃撃事件」が介在したことにも起因するのであるが、選挙万能論に対する反省が生じたからである。後期の陳水扁は、台湾メディアにおいて、「民選皇帝」とも呼ばれていたが、選挙で当選したならば何でも可能となるその権力振りに対して、党派の立場を超えて不信感が広がっていた
 ……(中略)……。国政レベルでの選挙制度が完成していることが、これまで大陸中国の政治と自分たちとを分かつ大きなメルクマールとして台湾の民主主義的優位を象徴していたわけであるが、それへの疑義が僅かながらも生じるようになったのである。(p.161-162)


選挙に当選後、そのことを不当に利用して強権を行使する権力者たちが、日本でも00年代以降、散見される。

安倍政権でも、森友学園問題や加計学園問題はそのような動きが隠れて行われていることが明らかになった事例と言える(安倍政権は隠蔽と虚偽とごまかしを重ねることによって非を認めようとはしていないが、出てきた証拠に基づいてみれば、何が起こっていたのかの概要は誰の目にも明らかだろう)。これらは中国の官僚がその地位を利用して私腹を肥やすのと大差ない行いであるが、安倍政権に関して言わなければならないのは、合意を得る努力をせずに(正直に話をすれば多数の同意を得られないと分かっているが故に本当のことを語らないようにしてごまかし続けるという事例を含む)数の力だけで通した法案がいくつもある。特定秘密保護法然り、共謀罪法(これは「テロ等準備罪」というごまかしを含むネーミングで印象操作をしている)然り、集団的自衛権の行使容認(これも「平和安全法制」などというピントの外れた印象操作ネーミングを政府は使っているようだ)然り、また、特定の方向に回答を持っていくように作った調査を行い、それに基づき「裁量労働制で働く方の労働時間の長さは、平均な、平均的な方で比べれば、一般労働者よりも短いというデータもある」などという印象操作を行おうとしたことが暴かれてしまったため、裁量労働制の部分は取り下げたが、労働者は誰も望んでいないに等しい「高プロ」(このネーミング自体も印象操作であって、実際には「労働時間等に関する規定の適用除外」と言うのが正しい)を導入する働き方改革法然り。

他にもいろいろと自治体の(元)首長などで指摘したい者たちがいるが、それを書くことが本題ではないので今回は割愛する。いずれも白紙委任を受けたかの如く振舞うのは誤った振る舞いであると理解すべきであり、制度的にこの誤りを防止するような仕組みが必要だと思われる。

なお、本書によると台湾には選挙万能論への反省が出てきたというが、日本ではまだまだこうした反省の機運は弱いように思う。やはり日本よりも台湾の方が民主主義や共和主義に対する人々の感度は高いように思う。


丸川哲史 『台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア』(その2)

つまり、日本人の台湾原住民への関心は、そのような日本人の「中国コンプレックス」の跳ね返りとして解釈され得る、ということである。(p.38)


霧社事件が日本人が台湾原住民に対して持った強い思い入れの象徴となったことに関連するコメント。



 しかし、真珠湾攻撃から太平洋戦争が勃発すると、南方戦線への兵士の供給の問題が強く意識されるようになり、翌42年には、軍に志願することがまた「許可」された。以後の三年間に、漢人系が4200名、原住民約1800名が陸軍特別志願兵として徴集され、その他海軍なども含め約1万7000名が軍に「志願」したとされている。さらに戦争末期になると、終に内地と同様、徴兵制がしかれることとなった。それまでは、台湾人に広範に武器を渡すこと自体に危険がともなう、と見做されていたようである。いずれにせよ、こうして敗戦までに20万を超える台湾住民が戦場に送られ、そして3万人以上が亡くなったのである。(p.39)


台湾の人々は戦時中もすぐには徴兵されなかったということはよく目にする。武器を渡すこと自体に危険が伴うと見なされていたというのは、なるほどと思わされた。確かに、台湾の人々の一部は日本が台湾を領有するようになってからもしばらくの間は武力で抵抗していたし、皇民化運動が進められていたのも、ある意味ではやはり異質だと前提しているから同化させようという発想になるわけだから、為政者側はやはり台湾の人々(本島人)を完全には内地人と同質化していない人々と見ていたとは言えそうである。(軍隊は特にそうした見方をしそうだ。)



日本から台湾の歴史を見る場合、特に戦前の植民地期の台湾のあり方を考える場合、このような世代のギャップが存在していることを見逃してはならない。日本の植民地統治は、初期の武力平定期から、特別統治主義による統治の時期、そして内地延長主義の時期、さらに最後の皇民化期など、政治、経済、文化全般にかかわる政策モードが変化しており、どの時期を見るかによって、植民地台湾のイメージは変わったものにならざるを得ないのである。(p.41)


日本や中国に対する見方も、どの時期にどのくらいの年齢だったかという世代ごとにかなり異なったものとなっている。最近20年くらいの間に生の声を聞くことができた人の多くは、皇民化期にはまだ社会に出ていないくらいの世代であるが、この世代とそれ以前の世代とはかなりのギャップがある。武力平定期に既に大人になっていた世代や十分に物心がついていた世代と、そうした武力平定の時代にはまだ生まれていなかったような世代とでは、日本に対する印象を訪ねても全く異なるものになる。

この点は本書を読んだ最大の収穫だったと思う。



 50年代の台湾は、米国による有形無形の援助を受けていたことで、反共の砦として米国の世界冷戦戦略の中の重要拠点に位置づけられるものとなっていた。第二次世界大戦に敗れた日本は相対的に、台湾社会において比較的影の薄い存在になっていた。50年代に書かれたり記録されたりしたものを読んでも、日本に対する言及はあまり出て来ない。日本の存在は、台湾社会の関心からは遠ざかっていたのである。その日本が台湾社会において、もう一度存在を主張しはじめるのは、60年代の半ば、日本の文脈で言えば東京オリンピックを成功裡に終え、高度経済成長のラッパを鳴らした時期である。日本がもう一度、韓国、台湾、東南アジアへと「進出」をはじめた頃でもあった。
 歴史的メルクマールとなるのは、1965年である。……(中略)……。
 ……(中略)……。戦後台湾は、軍事分野その他様々な領域において一貫して米国からの「援助」に頼った経済建設を行っていたわけであるが、その「援助」が、1964年に失効することが取り決められていたのである。これは主に、米国の財政難によるものであったが、これをカバーするように、台湾の経済を支える日本のイメージと存在が、この頃から台湾社会の中でせり上がってくる。(p.51-52)


なるほど。台湾における日本の存在感は薄かった時代があったというのは、昨今の台湾と日本との関係から見ると意外にすら思える。ただ、この時代の台湾社会を牛耳っていたのは大陸から来た外省人たちであり、白色テロの下で言論の自由も制限されたことなどを考えると、それほど不思議ではないことがわかる。その背後に「美援」(アメリカによる支援)があり、他の地域に頼る必要性がなかったのであればなおさらであろう。

ただ、当時の台湾にとって最も重要な関係であったアメリカとの関係において、援助が打ち切られるとなれば、一挙に台湾社会の置かれた状況は変わってくることになる。本省人たちによる日本とのネットワークも活用できる、もともと繋がり深かった日本との関係を模索するのは当然であっただろう。日本側も高度成長の下で経済的に海外進出が必要になってきていたという事情がそこに重なってくる。



 ここで注意しなければならないのは、この俳句の会「台北歌壇」の成立が、1968年だということである。前節で述べたように、1945年以降に遠ざかっていた日本の存在が、この時期、観光客や進出企業という形で再び台湾人の目に触れるようになっていた。そのようなタイムラグを経た再会によって、皇民化世代の人々の中で自身の青春に対するノスタルジーが掻き立てられた、という言い方が成立しよう。(p.56)


皇民化世代(日本語世代などとも言われることが多い)が日本に対してかなり好意的な印象を持つにいたる要因。しかもこのタイムラグの間には国民党による白色テロの時代が始まり、この時期も継続していたのだから、なおさら好意的に記憶が再構成されやすかっただろう。



 八田與一の顕彰にかかわる戦後のプロセスは、非常に興味深いものである。忘れてはならないのは、水利事業は全て日本総督府の予算だけで完遂したものではなかったということ、その建設に働いたのは、ほとんど地元の台湾農民であったという当たり前の事実である。八田與一の顕彰には、植民地統治時代という歴史的環境にありながらも、その事業を成し遂げた「自分たち」への誇りの感覚が被さっている側面を見逃してはならない。八田與一の顕彰について、日本側では、日本統治が台湾人に大きな恩恵を与えたとする論拠に充てる傾向もあるが、植民地統治の中に含まれている様々な側面を慎重に推し量る必要がある。(p.57)


八田与一に関わる言説には、私も違和感を感じてきたが、日本側の八田与一顕彰言説の多くが持つ問題点を的確に指摘してくれている。