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トマ・ピケティ 『格差と再分配 20世紀フランスの資本』(その2)

人民戦線が確立した新しい税率表は、それによって何が可能になるかという点においてとくに野心的なものだった。税率を平均税率で表わすことによって高所得層に対する税額をかなり増やせるが、その際、並み外れて高い限界税率を表に出さなくてすむのである。事実、人民戦線の税率表に示された最高税率(40パーセント)は、最高限界税率が60パーセントと72パーセントだった1923~1925年の所得課税時の歴史的な最大値よりだいぶ低い(表4-2を参照)。だが本質的な違いは、限界税率ではなく平均税率だということである。……(中略)……。そのポワンカレ時代の税率表と比べると、人民戦線が採用した40パーセントの平均税率は、高所得層の総合所得税の負担を著しく大きくする結果をもたらした。(p.354)


税率表が限界税率で書かれているか平均税率で書かれているかということは、税率を決める際の人びとの認識に大きな影響を及ぼす。現在のような超高所得者にとって有利な税制になっている現状においては、この効果を利用しない手はないと考えられる。



言い換えると、「200家族」(分位P99.99-100)の所得と平均所得、および「200家族」(分位P99.99-100)と高所得層の各分位との隔たりが、20世紀末のおよそ5倍以上だった時代には、最も給与の高い人々を含めて、賃金労働者を税制面で優遇することに「事実上」の根拠があったのだ。……(中略)……。超高額の資本所得が過去ほど高い水準でなくなった世界で、「所得の高い賃金労働者」に対して適用除外の税制を認めることはしだいに根拠を失っていった。(p.410-412)


給与所得と資本所得に対する課税の重さについて、興味深い指摘。超高額の資本所得が存在し、それが誰の目にも明らかであった時代には、資本所得より給与所得への課税を軽くすることに対する社会的なコンセンサスが存在したが、両大戦の時期に超高額の資本所得が大打撃を受け、さらに累進的な所得税などによってその復活が妨げられてきた20世紀末にあっては、その根拠はないとみなされるようになってしまった。



じつは、こうした適用除外の方式が帯びる重要性はかなり高いので、20世紀末に適用されている税制について「単一」の所得税という言い方をすることはおそらく誇張になる。20世紀末の所得税はかなりの程度まで、1914-1917年に確立された所得税と同じくらい「複合的」であって、本質的な違いは、いま寛大な扱いを受けているのが賃金所得ではなく動産資本所得だということである。(p.426)


この指摘は日本にも当てはまる。動産資本所得の優遇はやめなければならない。



 概して、資本所得への優遇を正当化するために第二次世界大戦直後になされた主張(戦争による荒廃、インフレなど)は1945年から今日までに著しく説得力を失い、20世紀末のフランスでそうした優遇になお意味があるのか考えてみることはきわめて理にかなっている。(p.429)


このことは日本にもそっくりそのまま当てはまるが、本書のいう通りである。



 所得税の分散化と「大衆化」の過程が「栄光の30年」と同時に終わることもまた注目に値する。前章で指摘したように、所得税は1980-1990年代には「下げるべき税」になる。1980年代初めにモロワ政権が実施した増税が20世紀最後の増税で、それ以後、所得税は引き下げる方向でしか改革できないというのが暗黙の了解になる。1980-1990年代のこうした転換がかなりの程度まで経済成長の不確実性によって説明できることは疑う余地がない。「栄光の30年」を通じて、所得が力強い伸びを示したことが、所得税増税を根拠づける口実になった(いずれにせよ、所得税は購買力の増大をきわめて部分的にしか削らなかった)。逆に、購買力が停滞した1980-1990年代には、所得税は納税者にとってしだいに耐えがたい徴収となる。(p.459)


この流れは日本もほぼ同様である。これを下げてしまったがゆえに、超高所得者への課税が軽くなり、膨大な格差が広がっていったことは21世紀も20年近く経過した現在から見れば誰でもわかることであろう。



所得税の目的は常に超高所得者の資産家に重点的に課税することであって、「高所得の賃金労働者」を標的にすることではなかった。(p.508)


なるほど。この認識は本書から得た大きな収穫だったように思う。



 1990年代末には、累進所得税の名目で申告される動産資本所得(主として「直接的」に所有される株の配当)は年に1000億フラン強である。同じ時期、源泉分離が適用される所得の総額は年に600億フランを超え、完全に非課税の各種預金口座と積立口座(A預金、青の通帳、産業振興向け預金口座、大衆向け預金口座、住宅購入積立口座、大衆向け積立口座、株式積立口座など)の保有者が毎年受け取る所得の総額は1300億フランに達する。したがって、適用除外制度が通常の規則になり、一般法の制度が例外になったと言っても過言ではないことがわかる。1990年代末には、源泉分離が適用される所得と、完全に非課税の預金口座と積立口座の所得の総額は年におよそ2000億フラン、つまり所得税納税のために申告された動産資本所得の2倍近い額である。これら二つの適用除外制度がなくなれば、つまり源泉分離制度が廃止され、完全に非課税の預金口座と積立口座すべてが、1914-1917年に制定された税法におけるように一般法としての所得税の対象になれば、累進所得税を課せられる動産資本所得の総額はおよそ3倍になるだろう。この数字から、動産資本所得に対する課税方法が20世紀を通じていかに劇的に変化したかが理解できる。(p.526)


恐らく日本でも同じような傾向になるのは間違いないと思われるが、具体的な数字としてどの程度になるのかが気になる。



1970-1996年に申告をした超高所得層は(1981-1982年を含めて)、最高限界税率の変化にはっきりした形で反応した様子はなく、超高所得の相対的水準の短期的変化をもたらしたのは、課税による刺激よりもむしろ、マクロ的経済循環(限界税率の変化とは無関係に、景気後退局面では超高所得層は他の所得層よりも落ち込みが著しく、景気回復局面では他の所得層よりも上昇が早い)である。(p.568)


前段の事実は、いわゆるキャピタルフライト論に対する批判となる事実(少なくとも過度に心配する必要はないことを示す事実)であると思われる。



アングロサクソン諸国が、今日私たちが知るような非常に不平等な国になったのは1980-1990年代のことである。イギリスは1970年代の初めには北欧諸国と同じ水準であったが、20世紀末にはヨーロッパで最も格差の大きい国になった。アメリカは1970年代初めはヨーロッパ諸国の平均値と同じ水準だったが、20世紀末には西洋諸国の中で最も格差の大きい国になった。(p.652)


サッチャーやレーガンに代表されるような新自由主義的な政策が採られた結果、どのようなことが起こるかが如実に表れている。ある意味、このように不平等で貧困層が厚い不安定な社会になったからこそ、その後、アメリカではラストベルトの人々などがトランプのようなポピュリスト的な排外主義者を称揚して支持するような事態になったり、イギリスもEUから離脱するような選択をしてしまったり、といった政治的に不安定な事態に繋がっていると理解すべきだろう。



 ただし、経済的な観点からは、1914年から1945年までに起こった資産格差の縮小が、戦後の発展した経済を活性化するのに貢献したという考え方は完全に正しく、妥当であるように思える。資本蓄積のカウンターを「ゼロにリセット」することにより、資本と権力を手に入れる方法を独占していた資本主義の古い財閥の没落は加速されたが、それは新しい世代の個人事業主の出現に有利に働いた。……(中略)……。
 したがって、この説によれば、大きすぎる資産格差の存在は経済発展と経済成長にマイナスの影響を与える。なぜなら、こうした格差のせいで、重要な決定(新たな投資、新しい企業の創設など)が一握りの国民の中で行われるようになり、価値ある計画をもっている多くの人々が決定にかかわれなくなるからである。同様の理由から、累進所得税と累進相続税は、あまりにも大きな資産格差とあまりにも大きな相続格差がふたたび形成されるのを防ぐので、経済成長にとってプラスの影響を与えるだろう。その場合、これらの税の正当性に反論することはむずかしいだろう。累進性の高い税の存在は、資本主義が生み出す最も不当な格差を消滅させるだけでなく(あるいは少なくともかなり減少させるだけでなく)、経済発展も活性化させる。とはいえ、これは仮説にすぎず、激しい政治論争が起きたとしてもどんな言い訳にでも逃げ込んでしまえるほど不確定要素が強い。事実、このような説の妥当性を、誰にでも受け入れられるような完璧に厳密な方法で証明することはきわめてむずかしい。経済成長には多くの要因があり、個々の要因を切り離すのは不可能なことが多いからである。「栄光の30年」にはすべての先進国で非常に累進性の高い税が適用されたが、明らかに、そのことが例外的に速い経済成長を達成する妨げにはならなかったことを確認するにとどめよう。(p.706-707)


資産や所得の格差が大きくならない方が経済的な活力も大きくなりやすいという説には私も同意見である。少なくとも経済の需要側を活性化させることは間違いない。供給力が需要を上回る社会においては間違いなく妥当するだろう。

少なくとも累進税が高度経済成長を妨げた事実はないという点はピケティと同様に強調する価値があると思う。



20世紀の経験は、あからさまに格差が大きくなった社会は本質的に不安定だということを示している。過去についての研究から、資本が集中しすぎると社会正義の観点からだけでなく、経済効率の点でも否定的な結果になるように思える。1914年から1945年までに起こった資産格差の縮小は、昔の資本家による財閥を衰退させ、新しい世代の個人事業主の出現を促したことで、「栄光の30年」の時期に西洋社会において経済を活性化させたというのは大いにありえることである。累進税には、第一次世界大戦前と同じような状況がふたたび現れることを妨げるという長所がある累進税が適切に適用されなければ、長期的にはある種の経済停滞が起こってしまうだろう。(p.715)


全く同意見である。ピケティは膨大なデータに基づき、厳密な方法で論証を積み重ねた結果この結論に達しているということに注意を促しておきたい。

逆進性の高い税制にしていくと経済停滞に陥る。現在の日本政府の政策を見ていくと、それが真実だとわかる日が来るだろう。ただ、誰の目にも明らかになった時には恐らく手遅れだろうが。(というか、政策の効果が表れるタイムラグが数年や十数年にわたることを考えると、因果関係をはっきり認識できる人は少数派にとどまるのだろう。)

このことに多くの人が気付くにはどうすればよいのだろう?高等教育、マスメディア、インターネットといったものの情勢を総合的に考えると、楽観視することは私には到底できない。


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トマ・ピケティ 『格差と再分配 20世紀フランスの資本』(その1)

これから見ていくように、所得税とはおもに、高給与者が多い「中流階級」(分位P90-95)や「上位中流階級」(分位P95-99)ではなく、資本所得による超高所得者が分布している所得階層トップ百分位の上層に対して課税するための手段であった。(p.296)


しかし、現在の所得税は資産に対して軽い税率が適用される傾向にある。このため、十分に本来の機能を果たせていないと考えている。



限界税率の最高値が、私たちにとって長らくなじみ深いものになっている数十パーセントといった「現代的な」レベルに達するのは、第一次世界大戦以降なのである。(p.309)


所得税は導入された当初はそれ以前のいわば「伝統的」な税率であった(最高税率2%とか)。総力戦のために所得税が導入・拡大されたという面は否めない。



それに対して「限界税率」による税率表では、算出のしかたがより複雑なためにいろいろな誤解が生じ、多くの識者や納税者に、高所得層に実際に適用される税率をかなり過大評価させてしまうことがある。(p.333)


確かに。


リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン 『実践行動経済学 健康、富、幸福への聡明な選択』

民間企業や政府当局がある政策のほうがより良い結果を生みだすと考えている場合には、それをデフォルトに選べば結果に大きな影響を与えることができる。(p.21)


デフォルトの力は大きい。



人々の意図を測定すると、人々の振るまいに影響が及ぶのである。「単純測定効果」とは、なにをしようとしているのか質問されると、答えに沿った行動をとる可能性が高くなるという発見をいう。この効果は様々な文脈で認められる。ある特定の食品を食べるつもりであるか、ダイエットをするつもりであるか、運動するつもりであるかどうか質問されると、質問に対する答えが行動に影響を与える。単純測定効果はわれわれの言うところの「ナッジ」であり、民間部門や公的部門で使うことができる。
 選挙戦略の担当者は支持者を投票に行かせるようにしたい。どうすればそうできるのだろう。すぐに思い浮かぶ答えは、投票の大切さを強調することである。支持者が投票に行きやすくして、コストと負担を減らすという方法もある。しかし、もう一つ別の策がある。選挙の前日に投票するつもりかどうか質問すると、その人が投票に行く確率を25パーセントも高められるのだ!また、携帯電話や自動車など、特定の商品の新規購入を増やそうとしているとしよう。全米の代表的サンプルの4万人以上を対象とする調査で、対象者に簡単な質問をした。「今後6カ月以内に新車を買うつもりですか」。こう質問しただけで、購入率は35パーセント上昇した。今度は、当局者が人々が健康を増進する手だてをとるように促したいと考えているとしよう。健康に関連する行動については、人々の意向を測定することによって大きな変化が生まれている。次の週に何回デンタルフロスを使って歯の間を掃除するか質問すると、フロスを使う回数は増える。次の週に高脂肪の食品を食べるつもりかどうか質問すると、脂肪の多い食品を食べる量は減るのだ。(p.116-117)


この知見は結構応用範囲が広そうな気がする。仕事の使えそうな場面で使ってみたい。



 全体的に見ると、宣伝は幸せな夢より悪夢に近かったことがヘンリック・クロンクビストの研究によって明らかになっている(Cronqvist[2007])。ファンドの宣伝のうち、手数料など、合理的な投資家にとって問題になる特性について直接的に情報を提供していると判断できるものはごくわずかしかなかった。そして、ファンドは過去のリターンを喧伝していたが(リターンが高かったファンドの場合だが)、広告は決して将来のリターンが高くなることを保証するものではなかった。それでも、ファンドの宣伝は投資家のポートフォリオの選択に強い影響を与えた。期待リターンが低く(手数料が高い)、リスクが高い(株式の組み入れ比率が高く、アクティブ運用の比重が大きく、“ホット”なセクターの比率が高く、ホーム・バイアスが強い)ポートフォリオを選ぶように人々を誘導したのだ。(p.240)


この件を読んで心配になった(増大した)のが、日本の国民投票法では憲法改正の際の宣伝が、通常の国政選挙のような縛りのない中で行うことができるという点であった。宣伝(広告)は合理的な判断から遠ざからせ、悪い結果へ人々を導くとされているが、金があればいくらでも宣伝をすることができ、デマを事前に排除するような審査も十分ではないため、たとえデマを流しても、それがデマだったことが投票の後になってから明らかになるということが起きかねない。

安倍政権のように不都合な情報は隠蔽し、真実を知ろうとする質問をはぐらかし続け、政治を私物化し続けるような政権が長く続き、権力者が使う不誠実な論法(ご飯論法)が巷にあふれている状況が続いている昨今の日本においては、とりわけこうした制度設計がもたらす危険性は高いように思われる。(例えば、日大のアメフトの危険タックル指示問題に対する大学当局側の対応も――この対応が安倍政権と似ているとの妥当な指摘もあったようだが――、安倍政権の不誠実な対応を日常茶飯事として見せられ、そのような対応をしても政権側がまともに責任も問われないという状況を日々目にしていることと無関係とは言えないだろう)。



 こうした問題にアプローチするため、われわれの指針原則の一つに立ち戻ることにする。「透明性」である。この文脈では、ジョン・ロールズの言う「公知性の原則」を支持する(Rawls [1971])。最も単純な形の公知性の原則とは、政府が市民に対して正当性を公然と主張できないか、そうする意思のない政策を選択してはならないというものである。われわれは二つの理由からこの原則に好感をもっている。第一の理由は、実際的であることだ。政府が正当性を公然と主張できないような政策を導入すれば大きな困惑を呼び、政策やその根拠が開示されたりしたら大問題になるだろう(アブグレイブ刑務所にこの原則が適用されていたら、あのような残酷で品位を貶める行為は起こらなかっただろう)。第二の、そしてもっと重要な理由は「尊重」という概念に関係する。政府は統治する人々を尊重すべきであり、正当性を公然と主張できないような政策を導入するのは、統治する人々を尊重していないということだ。国民を操作の道具として扱っているのである。この意味では、公知性の原則はうそを禁じることに結びつく。うそをつく者は人々を目的ではなく、手段とみなしているのである。(p.357)


この件は安倍政権に対して最も欠けているものであり、私がこの政権を最悪の政権と評価する所以である。森友問題、加計問題、日報問題、裁量労働制を巡るデータの捏造など、いずれも公然と公表できないようなこと(政治の私物化)をしているからそれらの情報を隠蔽したり改竄したりごまかしの答弁で時間を稼いだりし続けているのは誰の目にも明らかだろう。

なお、安倍政権の国民を全く尊重しない対応というものは、こうした問題に限ったことではない。安倍政権は最初からごまかしばかりであり、論点ずらしの発言ばかりを続けているからである。例えば、「アベノミクス」などというのも、財政の悪化などを隠しながら(論点化させないように情報操作ないし印象操作しながら)行ってきたものであり、不都合な点を隠蔽しているからできているに過ぎない(政権が交代したり首相が代わった後になってから、この数年間で撒かれた問題が表面化してくるだろう)。

「公知性の原則」は再認識されるべき時を迎えていると思う。


沼上幹 『組織戦略の考え方――企業経営の健全性のために』

自分自身でモノを考え、決断を下す原理を確立していないから、他社の経営者たちを見て、世間的に見て自分の所にふさわしそうな経営手法の「落としどころ」を探しているのである。(p.133)


企業の上層部が主体的に決定を下せない場合、経営改革検討委員会(プロジェクト)が増加するとして、その際の理由として述べられている箇所から引用。

判断すべきポジションにいる人間が自分で判断できない場合、周囲を見て同調するという考え方に流れがちだといことだが、これは私の身の回りでもよくみられる事態である。この方法は比較的安易に使えるので、このようなやり方ばかりに頼らないような自らの判断力を磨いていく(そのためには実行し、効果を経験しなければならない)ことが重要だろう。



 第二に、いま組織運営のボトルネックになっているのは決断のできる人なのだから、このボトルネックが生きるように細心の注意を払うべきである。どこからどこまでが各自の責任範囲なのかがあいまいな日本の組織では、少しでもできる人には大量の仕事が集中してくる傾向がある。一つの課の仕事の八割くらいを一人の人間が処理し、残りの数名があとの二割を処理しているという状況など、日本中どこに行っても見受けられる。
 忙しくて死にそうだと思っている当人には申し訳ないが、エースに重要な仕事が集中するのは組織全体にとっても適切だから、経営上の深刻な問題ではない。問題は、重要でない仕事までエースに集中してしまうという点にある。本当のボトルネックであるエースの仕事処理能力を無駄遣いしてしまうことになるから、こっちの方は経営上の深刻な問題である。(p.136-137)


エースに仕事が集中するというのはよくある。仕事を割り振る側として見ると、そこにしか任せられないというのが一つの原因となっている。そのこと自体はやむを得ない面があるとしても、重要ではない仕事はエースから切り離すようにするというのは理に適っており、参考にしたい。(ちなみに、実行部隊にエースが不在の場合、割り振る側(監督職や管理職)が自ら処理しなければならなくなり、これはこれでより高次の判断能力を浪費させるため、組織にとって損失となる。)



真実か否かを確かめることもなく、単に「信じたい気持ち」があり、欲求不満が溜まっていさえすれば、噂はあっという間にスキャンダルに仕立て上げられる。過度に欲求不満になった人々がインターネットで結びつけられた現在は、本当に恐ろしい時代である。(p.161)


本書は2003年に出た本なので、ネットの常時接続が漸く一般的になってきた頃の記述であるが、妥当な見解だと言うべきだろう。

インターネットというメディアは「大手メディアは嘘や隠蔽しか報じない」とか「ネットに真実がある」というようなナイーブな意見が跋扈しやすい環境であるということは最近ではかなり知られるようになってはいるものの、こうした認識はできるだけ広く共有されるべきであろう。さらに言えば、少なくとも日本では社会科学についての教育がまともになされていないという点も問題だと考えている。真実か否かを確かめるための手段をある程度以上の教育を受けた全ての者が身に着けている方が、信じたい気持ちが先行する状況に対して批判的な言説が力を持ちやすいと考える。


橘木俊詔・森剛志 『新・日本のお金持ち研究』

資本利得課税の税率は現在10%で、アメリカよりも低い。現在の相当下げられた税率に関しては、政治の世界からもたらされたという評価が可能で、資本市場の活性化と富裕者層の税負担を軽減するという、二つの目的を持ったものといえる。(p.157)


二つの目的のうち、前者は建前として語られるが、むしろあまり語られない後者の方が本音(政治的な動きの背景にある主たる要因)ではないか。このあたりの税法が非常に込み入って分かりにくいことも、この見方に適合的であると思う。(なぜなら、投資を促進したいのならば、関連する税の仕組みも分かりやすくしようとする誘因が働くと考えられるからである。)


ダン・アリエリー 『アリエリー教授の人生相談室 行動経済学で解決する100の不合理』

 私は大学院を卒業するとき、研究者としての最初の就職先にどの大学を選ぶべきかを、指導教授のジブ・カーモンに相談したんだ。教授は、五年過ごしたら今とまったくちがう人間になれそうなところに行きなさいといった。人生は学習と向上の積み重ねだから、まだ融通の利く今のうちに(私には当時まだ妻も子もいなかった)、自分の開発と成長に次の五年間を投資するべきだと。(p.18-19)


この考え方は重要。



 私がしばらく前にジーナ・フロストとマイク・ノートンと行った研究では、デート相手に関していえば、相手のことを知れば知るほど、恋愛感情は高まるどころかむしろ薄れるという結果が出た。簡単にいうと、恋人候補のことをほとんど知らないとき、私たちは想像をはたらかせて楽観的すぎる方法で情報の欠落を埋めるものの(たとえば相手が音楽好きとしか知らなければ、17世紀のバロック音楽じゃなく、自分の好きなタイプの音楽が好きにちがいないと思い込むなど)、その後実際に会ってお茶するうちに、過大な期待が砕け散るってわけだ。……(中略)……。
 恋愛の領域で得られる教訓の多くは、生活のほかの面にもあてはまる。人を雇う場合もそうだ。外から招かれたCEOは、生え抜きのCEOに比べて高い報酬を得るが、実績はむしろ低いことを示す証拠がいくつかあがっている。この場合も情報不足のせいで、期待がむやみに高まるのが原因なんじゃないかな。(p.30)


外部からのCEOの実績が低いという点はもう少し詳しく知りたい。行政や政治に習熟していない政治的リーダーの実績が期待よりかなり低い傾向が指摘できるのであれば、例えば、トランプ大統領のような反エスタブリッシュメントの風潮を背景や追い風として就任した政治的リーダーの実績がどのようなものになるのかを予想する際に有益だろう。(それよりもはるかに小物であり、小物過ぎて語る程の価値もないのだが、私の研究フィールドの一つである小樽市の市長にはこの傾向は明らかに成り立っている。)



 つまり、私たちは何か(選んだ歌など)をよく知っていると、その知識をもたない状態を想像しにくくなるんだ。これを「知識の呪縛」という。(p.49)


これは日常的によく感じる。



彼らは殺されようとしているマウスを助けるか、見殺しにして報酬を得るかを被験者に選ばせた。……(中略)……。
 実験の結果、マウスを見殺しにした被験者の割合は、個人条件(45.9%)よりも、市場条件の方がずっと高かった(二者間取引では72.2%、多者間取引では75.9%)。このことから、人は市場に集まると個人的な利益のために道徳的基準をないがしろにしがちだということがわかる。(p.52)


マイケル・サンデルの議論を彷彿とさせる実験。



 

どうしてゴシップ新聞や雑誌に人気があるのかさっぱりわからない。どこが魅力なんだろう?
デイブより



 私もよくわからないが、たぶんあの魅力は社会的協調とも関係があるんじゃないかな。私たちは社交の集まりに出ると、誰もが参加できる話題を探そうとして、天候やスポーツ、ゴシップなどのネタを選ぶことが多い。つまり、そういう場では誰もが会話に参加できりょうに、話題が自然と低俗になりがちだということもわかるね。(p.78)


なるほど。説得力がある。



「楽しい時間は経つのが早い」のは知っているけど、一週間をもっと長く感じられる方法はないものかな?
アヴィより


 ……(中略)……。
 今度旅行に行くときは、毎日ちがうことをして過ごすのはどうだろう。スノーボードをするもよし、スキーをしない日をつくるもよし、スキーのレッスンを受けたり、ソリ滑りを楽しんだり、ただスキーの道具を変えてみるだけでもいい。たとえスキーほど楽しめなくても、いろんな活動を織り交ぜることで、休暇が一つの長いスキーの経験としてではなく、多様な経験の連続として記憶される。(p.131-132)


なるほど。同じようなことを続けると、それがひとまとまりの記憶となる。多様な活動をすれば多様な経験の連続として記憶される。



損失回避は、社会科学の原理のなかでもとくに本質的で理解が進んでいる考え方で、ざっくりいうと、同じ価値のものであれば、得るより失う方が感情的なインパクトが大きいことをいう。(p.175)


公共事業について考えると、最初に大盤振る舞いをして後からそれを絞っていくと、絞っていく時に感情的な反発を受けやすい。最初は小出しにしておいて少しずつ必要性を満たしていく方が反発は受けにくい。しかし、場合によっては初動で大きな額を動かさなければ効果がなかったり、効果が小さい場合もある。このバランスをどうとるかというのが難しいところであると思われる。(最初から撤退の時期などを決めておくというのは一つの知恵かも知れない。)



 フェイスブックやツイッター、メールなど、インターネットで情報をやりとりする人は、なぜネット上で低俗な行動をとりがちなんだろう?
ジェームズより


 ……(中略)……。インターネットをとおすと、ふだんいかに内容の乏しいやりとりをしているのかが見えやすくなるだけなんだ。(p.181)


なるほど。確かにそういう面はありそうだ。



社会規範について覚えておくべき重要なことは、ささいな違反をした人のことも容赦なく批判する必要があるということ。違反が繰り返されるうちに規範そのものが変容し、望ましくない新しい規範に誰もがとりこまれるおそれがあるからだ。(p.212)


ヘイトスピーチや歴史修正主義などにこのことは非常によくあてはまる。もっと強くこれらは批判されるべきである。



 自分の経験したことをよく覚えている人ほど、人生に対する満足感と幸福感が高いことがわかっている。(p.235)


経験を覚えていると、その記憶を思い出すことでも幸福感を感じられるということも、その要因だろうか。このためには新しい経験を積み続けることが有効であるようだ。



運のいい人はいろんなことをしょっちゅう試していて、頻繁に試す分、成功することも多いんだ。……(中略)……。
 ……(中略)……。つまり運のいい人っていうのは、何かを試す回数が多いだけじゃなく、うまくいかなさそうな道をすばやく切り捨てて、有望な道に力を注いでいるんだね。(p.239-240)


これに当てはまるような人が確かにいる。次々とアイディアを出していろいろなことを試している。試行錯誤を重ねる中で研ぎ澄まされた感覚で事の軽重を直観的に判断している。そんな人に見習うべき点は多い。



 いったん環境が決まると、私たちはおおむねそれに見合った行動をとるようになる。とはいえ、現実の私たちは日々ドーナツの誘惑にさらされる必要はない。職場からドーナツ売りを締め出すことはできるし、より一般的にいうと、失敗の可能性を減らすように環境を設定することはできるんだ。
 私たちの自由意思が宿るのはそこだ。自分たちの強みを活かし、より重要なこととして、弱みを克服するような方法で環境をデザインする能力にこそ、自由意思がある。(p.244-245)


環境のコントロールは重要だ。このことに思い至らない人が結構いる。社会科学的な知識や多様な経験を積んでいることは、環境をコントロールするための工夫を促しうる要素の一つであるように思われる。


橘木俊詔 『21世紀の資本主義を読み解く』

平均所得200万円以下の家庭の大学進学率は28.2%、600万~800万円未満で49.4%、1200万円超で62.8%となっています。家計所得の低い層と高い層、いわゆる年収の差によって30ポイント以上の大きな差が出ています。
 また上図を見ると、国公立大学の進学率はどの所得階層も10%前後なので、家計所得、すなわち親の年収による差がほとんどないことがわかります。(p.111-112)


親の所得が大学進学に関係することは分かっていたが、国公立大学の場合はほとんど差がないというのは興味深い。ただ、東大などへの進学者の場合、所得の影響があることが分かっている。国公立大学内での親の所得階層ごとの進学率を知りたい。



 1959年には国立大学の授業料は年間9000円、私立大学の平均では年間3万円で約3倍の差がありました。ところが10年後の1969年には国立大学が年間1万2000円に対して私立大学は平均7万6400円と、約6倍強に拡大しています。
 この事情に対して、国立大学の学生だけが優遇されすぎではないのかという不公平感が世の中に生まれてきました。また国立大学で良質の教育を受けられる学生には、それ相応の自己負担を求めるべきではないか、という見方が強まってきました。
 とくに「自己負担すべきだ」という考え方は、それまで公共財的に考えられてきた国立大学の教育に、より私的材の要素を加味もしくは転換すべきだと判断されるようになってきたということです。
 そして現在、日本の大学の平均授業料は文部科学省の調査では国立・公立とも53万円ほどとなっており、一方の私立大学は学部により大きく異なりますが、85万円ほどとなっています。

 この背景には大きな経済的な要因があります。1965年に戦後初めて赤字国債が発行されるなど、国家財政が逼迫し始め、いくつかの財政支出を抑制する政策が実施されるようになり、国家による教育費支出の抑制が進んだこともあります。
 1970年代後半から、国公立大学に通う学生にも相応の学費を求めるようになってきました。つまり、国公立大学の授業料や入学金が上昇し始めます。そして、現在は、国立と私立の格差は1.5倍から3.0倍あたりまで縮小しています。格差という面で、国立と私立の格差は縮小しましたが、学費の面で、いわば「上に合わせる」施策をとってきたため、今度は経済状況から進学できる人とできない人の格差が拡大してきたのです。
 なお、この傾向には例外があります。それは医学部です。医学部の学費における国立と私立の格差は今日、6~10倍に達しています。(p.115-116)


学費に対する考え方の変化が、経済と財政の状況に応じて生じてきたのは、教育以外の分野でも同様だろう。これに対する再度の転換が必要である。



政府は、祖父母からの教育費支援を促すために、教育に関して相続税制の緩和を打ち出しました。それは、国家挙げての高所得家族への優遇策と言えますし、教育格差を助長させそうです。(p.117)


実際に、かなりの金持ちの家庭で、この制度を使って孫に資産を移転している事例を知っているので、この指摘は非常にリアリティをもって感じられる。



 韓国や日本に特有である塾について、欧米人に説明することは困難です。このような学校外教育機関は、欧米にはほとんどないからです。(p.129)


欧米には塾がないというのは、今まであまり気にしたことがなかった。台湾にはあるように思われるが、これらの国に塾が多いのはどうしてなのか?逆に気になる。日本の場合は、明治以前からの民間の教育機関があったということもあるだろうが、明治以後、政府があまり教育に予算を割いてこなかったことなどが関係しているのではないかと思われる。


松尾匡 『この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案』

 そしてこの本では、「アベノミクス」と銘打って遂行されている経済政策もまた、安倍さんの野望実現のための手段だと見ています。もしそうならば、「アベノミクスはお金持ちや財界や金融資本のためにやっていることで、すぐに破綻する」というような見方をしていたら、足をすくわれることになります。選挙のときに最も効果的に好景気になるように、政策のタイミングを計っているとしたらどうでしょうか。(p.6)


同意見であるが、テレビや新聞などではこうした角度からの分析などが非常に少ないように思われ、あまり政治に関心や知識が深くない人にとってはこのことはまだ十分認識されていないように思う。政権の意図を推定することになるためやりにくいという面があるのだろうが、時系列的に政策と経済情勢の変動を追えば(本書が示した通り)そろそろ示すことができる時期になっているはずである。



「左翼」というものは、搾取され虐げられた民衆のためにある勢力だということを忘れてはいけません。新自由主義の緊縮政策に苦しめられてきた民衆が望んでいるのは、政府が民衆のためにおカネを使い、まっとうな雇用をつくりだすことです。その資金は、おカネのあるところから取ればいいし、それでも足りなければ無からつくればいい!それが今、左翼の世界標準として熱狂的に支持されている政策なのです。(p.10)


左派・左翼が誰の利益を擁護する勢力かという点を正しく指摘している。本人が「虐げられている」と思っていなくても、「より権力(政治的権力だけでなく経済的な権力や社会的な権力を含む広義の権力)が小さい側の人々の権利や利益を守るべきだ」というのが左派の基本的な立場だと私も思っている。(もちろん、これとは逆に、「より権力が強い者の利益を守り、強めよう」というのが右翼や保守の立場である。)

私にとって本書の提示する議論が新しかったのは、おカネを無からつくり出す政策を採っても、現在の経済情勢の下では副作用が生じるリスクが低いため望ましいということがはっきりしてきたことであり、欧米の左派的経済政策と日本における経済政策とのズレやねじれがあるという認識である。



 でも、そういえば、世界の名うての大物左派・リベラル派論客が、「アベノミクス」を高く評価するような発言をしていました。アメリカのリベラル派ノーベル賞経済学者のポール・クルーグマンさんやジョセフ・スティグリッツさん、インド出身のノーベル賞経済学者アマルティア・センさん、フランスの人口学者エマニュエル・トッドさん。『21世紀の資本』(みすず書房、2014年)がベストセラーになったトマ・ピケティさんも、「安倍政権と日銀が物価上昇を起こそうという姿勢は正しい」と言っています。
 しかし、この本でくわしく見ますが、これらの論客の誰も、「第三の矢」の規制緩和路線や、消費税増税や、「第二の矢」のこれまでのおカネの使い道をほめているわけではないのです。これらの論客が支持しているのは、金融緩和と政府支出の組み合わせという枠組みだけです。(p.10-11)


この枠組みこそ欧米の左派の経済政策の枠組みであり、日本の左派はこの枠組みをさらに推進するよう圧力をかけるとともに、規制緩和路線や消費税増税に反対し、政府支出の使い道を福祉や医療、子育てなどの分野に振り分けるべきだとする。

論理的には非常に説得力があると思うが、正直に言って経済政策についてまともな知識を持たないほとんどの有権者にとってどこまで届くか、ということには不安がある。問題はどのように伝えていくかという所にあるように思われる。



円安は、約2年のラグをおいて、国内生産比率の増大をもたらすということが見て取れます。(p.37)


こうした統計の見方などで本書は参考になる点が多々あった。



 こうして、いわゆるアベノミクス「第一の矢」の金融緩和によって、輸出と設備投資が増加して、もっぱらそれに支えられて景気回復が進められてきたというのが、ここしばらくの動きだったと言えるでしょう。
 その一方で、消費税増税で消費は低迷し、政府支出も緊縮気味になっているために、しっかりした内需に支えられない、弱々しい景気回復になってしまいました。(p.41)


アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものだというわけだ。ただ、私から見て本書の理論に欠けているのは、人口の動きを加味していないところにあるように思われる。総人口または生産年齢人口が減少へ向かっていることが自動的に需要を伸び悩ませる要因の一つであり、全体の経済成長を鈍らせる働きをしている点も加味して説明を行って欲しいところである。



それに、後でもふれますが、世界の景気が悪い中で日本も景気が悪くなったのならば、有権者にはかえって、野党に経済運営を任せるのを恐れる気持ちが働くのが自然です。(p.42)


このあたりのことを考慮に入れると、著者の意見とは若干異なるが、私としては次のように考える。

ある意味ではもはや安倍政権はそれほど景気対策を本気でやらなくてもよい段階に入っているのではないだろうか。メディアに対しては十分に対策を施して(飼い慣らして)おり、よほどの問題がない限り安倍政権が強く叩かれることはない状態となっているため、あとはメディアに攻撃材料を与えないように口封じを続けれいれば、安倍政権としては次の参院選でも勝利は確実と計算しているのではないだろうか。



 官邸のしかける情報戦というものは、政権側に都合よく見える情報を流すものばかりではない、ということに注意しなければならないと思います。政権側は、一方では大衆向けに、ちょっとしたことをとらえては「アベノミクスは成果を上げている」という宣伝情報を流しますが、他方では敵側に「つぶれる、つぶれる」と言わせる作戦も考えていると思います。(p.53-54)


なるほど。この点から見ても、本書の提案するように金融緩和や政府支出が足りないと批判する方が安全な方法だというわけだ。



 これからだんだん説明していきますが、景気拡大が不充分な間は、日銀の緩和マネーで政府支出しても問題は生じません。民間から無理に借金したり増税したりして、わざわざ総需要の足を引っぱる必要はないのです。(p.99)


この件に関する説明が分かりやすくなされていたことが本書から得た大きな収穫だった。

ただ、それらの説明もやや合理主義的すぎる発想が前提されている部分があり、景気のフェイズが変わった時に適切に政策を変えられるかといったところには多少の不安がある(いかにインフレターゲットで定めておくとしても、その時の総裁が著者と同じ考え方であるとは限らない)。



 2017年4月に予定されている消費税10%への引き上げは、確実に景気を後退させる要因なので、安倍さんを攻撃する側にとっては有利な材料です。民主党が消費税引き上げを決めたことをはっきり自己批判して、引き上げ反対の立場に立つならば、支持率は大きく上がることと思います。
 たしかに、将来完全雇用が達成されてインフレ気味の時代が来れば、増税が必要になると思います。しかしそのときも、消費税という手段を使うことは適切な方法とは思えません
 よく言われる、貧しい人ほど負担が大きい「逆進的」と言われる性質があることは、その理由のひとつです。でもそれだけではありません。そもそも消費税で税収をまかなうことの意義が、人々の消費を減らすことにあるからです。(p.221)


この最後の説明は腑に落ちた。論理としては目的論的な面もあるが、この場合は消費が増税分だけ減っているというデータの裏付けもあり、目的と効果が一致しているからである。

少なくとも日本では需要不足が経済の足を引っぱっているものであり、これは今後しばらくの間は変わらないと見るべきである。そうであれば、消費税という手段は適切ではないということになる。例えば所得税や法人税、さらにはピケティが言うような資産課税(富裕税)のような税で累進性を高める手段が適切である。


トマ・ピケティ 『トマ・ピケティの新・資本論』(その3)

 今回の一件は、報道機関の資金源と独立性という大きな問題も投げかけている。2007年にレ・ゼコーの記者たちは、ベルナール・アルノー率いるLVMHグループに買収を仕掛けられて抵抗した経緯がある。彼らは当然ながら、自分たちの独立性が脅かされるのではないかと懸念し、多数の署名を集めて差し止めを陳情した――が、無駄だった。こうしたわけで2007年以降、フランス最大の経済日刊紙はフランス最大の富豪の所有に帰している。同紙は、現政権が支持する案件を好意的に報じる傾向が次第にあからさまになっているが、それが買収と関係があるかどうかは、筆者の知るところではない。しかし、国民運動連合(UMP)の上院議員で資産家のセルジュ・ダッソーが所有するル・フィガロ紙を読んでいて、ほとんど政府の広報紙だと感じたことはある。あるいはレ・ゼコーの記者たちは、購買者の利益を守ろうとしているだけだが、その購読者自身が次第に世間一般から乖離してきたのだろうか。いずれにせよ、多くの記者が示すこの変身ぶりは、民主主義にとって憂慮すべきことである。(p.276-277)


ピケティが指摘する格差の拡大、超富裕層の経済的な権力が増大することが、政治的な民主性も腐食させていく。マスメディアに圧力をかけていくこと(ここで述べられているような資金源を押さえるというやり方のほか、昨今の日本での総務相などの電波停止発言などによる威嚇や公共放送のトップに政権に近い立場の人物を送り込んでコントロールしようとすることなど)で権力の監視という機能を果たせないようにしていく流れは、日本だけではなくフランスでも進んでいるということがよく分かる記事であった。



というのも保護主義は、警察と同じで、基本的に抑止力にとどまるべきものだからだ。国はこれを奥の手としてとっておくが、利益の源泉とはしない(p.291)


なるほど。あまり考えたことがない発想に触れるのは面白い。



度を超した高所得に歯止めをかけられるのは税金という武器しかない(p.311)


名言。高所得者への累進課税は徹底的に行うのが望ましい。



アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)が、ワイオミング州債かテキサス州債のどちらを買い入れるか毎朝選んでいたら、安定的な金融政策を実行することはむずかしい。欧州中央銀行(ECB)はこれに類したばかげた状況に置かれている以上、金融の安定化に十分な役割を果たすことはできない。(p.312)


ピケティは本書で繰り返し「欧州共同債」の創設を提唱しているが、その必要性の一端について最も分かりやすい例で示している箇所。



 フランスでは黒人団体代表委員会(CRAN)が2005年に結成され、フランス預金供託公庫(さきほどの「貢ぎ物」を運営したとされる)を訴えて係争中だ。ただし彼らは個人賠償を求めているのではない。賠償金は徹底的な調査と記念館(たとえばリヴァプールにある国際奴隷貿易博物館のような)の建設に充て、問題の全容を広く知らしめるために使うという。そのためには、問題全体の解明を任務とする委員会を設置する必要があろう。(p.354-355)


植民地支配や戦争犯罪などに関連する償いの方法として参考にすべき考え方が含まれている。



 まことに嘆かわしいことだが、フランスの高等教育は全体としてかなり貧しいので、さほど大金を注ぎ込まなくとも大きなちがいを生み出すことが可能だ。どのくらい貧しいかと言うと、フランスの高等教育・研究予算は、2007年には110億ユーロ足らずで、2013年にようやく120億ユーロに届いたのである。この間のインフレを考えれば、実質的には横這いである。一方、世界各国の大学は、有力な教授を引き抜き、寄付金を精力的に集めるなどして力強く成長を続けており、フランスから少なからぬ技術者、研究者、学生を呼び込んでいる。これでは、もともとあった差が開くばかりだ。
 この120億ユーロという金額は、大学その他の高等教育機関・研究所に割り当てられる予算の総額(給与、運営、設備投資)であることに注意されたい。この金額は、GDP(約2兆ユーロ)の0.5%をすこし上回る程度にすぎない。また政府支出(GDPの約半分、すなわち1兆ユーロ)に占める割合は1%ということになる。(p.371-372)


日本の教育予算の低さを考えると、フランスでこんなに嘆くのは嘆きすぎじゃないかと思えるほどだが、ピケティが日本の教育予算を見たら、どのようなコメントをするのか興味を惹かれるところだ。



 フランスでは、高校卒業時の試験でバカロレア(大学入学資格)をとっていれば、全国の国立大学に原則としてどこにでも入学できる(グランゼコールは別)。バカロレアの合格率は70%前後に達する。大学進学率が高まる一方で、教員採用とも関連するが大学の定員数が増えていないため、定員オーバー状態が続いている大学進学者の半数以上が途中でドロップアウトするという。(p.373)


これは訳者らによる注だが、フランスの大学の状況は日本とは大きく異なっており興味深い。進学者の半数以上がドロップアウトするというのは、欧米の大学は入学より卒業の方が難しいと言われるが、それが文字どおりのことだと分かり興味深い。中学生レベルの学力でも入学でき(偏差値40前後の大学の学力レベルはこのくらいである)、入学してしまえばよほどのことがない限り卒業できないなどということがない日本の大学を考えると、欧米並みに厳しい卒業の基準を設けることも必要なのではないかという気がする。



フランスの高校は公立が圧倒的に多く、公立に進む場合には入学選抜試験はない。パリの場合、中学の成績と本人の希望(第八希望ぐらいまで出すようである)に応じてコンピュータ・ソフトで振り分けられる。第一ラウンドで希望校に行けない場合、第二ラウンドで空きのある高校に振り分けられる。(p.379)


これも訳者による注だが、非常に驚いた。入学試験がなくコンピュータで振り分けられるとは…。まぁ、中学の成績が参照されているのだから、それほど大きく間違った選択はされないのだろうが、中学校ごとに成績の平準化などはできるようになっているのだろうか?共通のテストなどで学力を測定しているのだろうか?などなど、いろいろと気になる。



フランスの経済モデルは、毎年生み出される富の約半分を税金や社会保険料などさまざまな拠出金の形で共有し、国民全員が恩恵を受けるインフラ、公共サービス、国防に充当することで成り立っている。払う側と受け取る側というものはない。誰もが払い、誰もが受け取る。(p.389)


税や社会保険料について、簡潔に、かつ力強く、その意義を表現しており印象的である。今の日本に、こうした当たり前のことを十分に理解している人がどれほどいるだろうか?税の問題については、世間に正しい理解が広まることが是非とも必要である。



トマ・ピケティ 『トマ・ピケティの新・資本論』(その2)

 ここで忘れてはならないのは、企業が払う税金というものは存在しないことだ。どんな税も、払うのは必ず個人である。残念ながら現世で税金を払えるのは、生身の人間しかいない。なるほど形の上では企業に納税義務があり、小切手を国税庁に送ることになっている。しかし最終的に払うのは個人だ――つまり、企業は払った分を必ず取り返す従業員から(給与を減らす)、株主から(配当を減らす、株主資本を積み上げない)、消費者から(販売価格を引き上げる)、取り戻すのである。(p.187)


法人に対する課税で忘れられがちなポイント。

この点に着目すると、最近20年ほどの間、法人税が年々引き下げられてきたが、その分は、従業員に給与を上げる、株主に配当を増やす、株主資本を積み上げる、消費者に価格を下げる、といった仕方で還元されていることになる。株主や経営者という少数の持てる者に利益を還元し、従業員や消費者にはあまり還元されていないことを問題視すべきではないか。そして、政府は法人税を下げた分、消費税を増税することで税収の穴埋めをしてきたのであり、これは株主や経営者という金持ちが潤った分を一般の消費者(上のカテゴリーで言えば従業員ともほぼ重なる)に負担を負わせてきたことを意味する。



 悲しいかな、税というゲームは、弱い者がまず勝てないようにできている。(p.188)


確かに。弱者が身を守るためには、せめて知識の力が必要。



 無策で選挙に勝つことは可能か――もちろんである。選挙の歴史をひもとくと、そうした例は枚挙にいとまがない。大衆を熱狂させる公約のおかげではなく、単に敵の失敗や対立候補に対する嫌悪感から勝利を収めた政党はいくらでもある。問題は、有権者がいずれその代償を払わねばならないことだ。(p.194)


策がある政党が勝った場合でも、その内容が酷い場合、有権者は結局代償を払う必要が生じてしまう。安倍政権の成立(第一次も第二次も)はまさにこれに該当する。



 ご存知のとおり、ヨーロッパ最大の銀行BNPパリバが、2009年度に80億ユーロの利益を計上した。これまで最高だった2007年度を抜いて史上最高益だという。それがどうした、という読者もおられるかもしれない。銀行が倒産するより儲かっているほうがいいだろう、と。たしかに。
 だが、この巨額の利益がどこから来たのかを探ってみても悪くはあるまい。ヨーロッパの上位10行の2009年度の利益を合計すると、500億ユーロ近くになる。ここにアメリカの上位10行を加えると、1000億ユーロだ。欧米いずれも2009年は不況だったというのに、なぜこれほどの利益を上げられたのだろうか。理由ははっきりしている。金融危機の際に、中央銀行は超低金利で民間銀行に融資した。それを民間銀行はずっと高い金利で貸した、ということだ。貸した相手と言えば――個人、企業、そして国である。(p.205-206)


個人、企業、そして政府から銀行が金を巻き上げている。中央銀行の金融政策がそれを可能にしている。



税のダンピングに基づく成長戦略は失敗するに決まっているし、隣国にとっても有害だからである。重要なのはEUが主導権を握り、金融安定化と引き換えに、不当に低い税率を打ち切らせることだ。……(中略)……。
 ヨーロッパではどの国でも、政府税収と社会保険料収入がGDPの30~40%に達しており、これでインフラ整備や公共サービス(学校、病院など)、社会保障(失業保険、年金など)をまかなっている。法人税を12.5%という低水準に設定すると、こうした社会的な事業が回らなくなる労働所得に重税をかければ話は別だが、それは正当でも効率的でもないし、失業者を増やすだけだ。
 はっきり言おう。隣国との取引でゆたかになった国が、次には隣国の課税ベースを横取りするとしたら、これは市場経済や自由主義の原則とは何の関係もない。ただの泥棒である。そして盗まれた当人が無条件で泥棒に金を貸してやるとしたら、これは愚行である。
 さらに悪いことに、ダンピングは、それをする当の小国にとっても有害である。要するに軍拡競争と同じで、負の連鎖に陥ってしまう。アイルランドが低い法人税を維持するなら、ポーランドも、エストニアも……ということになる。このばかげたゼロサムゲームに終止符を打てるのは、EUしかいない。(p.234-236)


同意見である。課税ベースの奪い合いは自由主義の原則とは関係がなく、泥棒だという評価は興味深い。