アヴェスターにはこう書いている?
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橘木俊詔・森剛志 『新・日本のお金持ち研究』

資本利得課税の税率は現在10%で、アメリカよりも低い。現在の相当下げられた税率に関しては、政治の世界からもたらされたという評価が可能で、資本市場の活性化と富裕者層の税負担を軽減するという、二つの目的を持ったものといえる。(p.157)


二つの目的のうち、前者は建前として語られるが、むしろあまり語られない後者の方が本音(政治的な動きの背景にある主たる要因)ではないか。このあたりの税法が非常に込み入って分かりにくいことも、この見方に適合的であると思う。(なぜなら、投資を促進したいのならば、関連する税の仕組みも分かりやすくしようとする誘因が働くと考えられるからである。)


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ダン・アリエリー 『アリエリー教授の人生相談室 行動経済学で解決する100の不合理』

 私は大学院を卒業するとき、研究者としての最初の就職先にどの大学を選ぶべきかを、指導教授のジブ・カーモンに相談したんだ。教授は、五年過ごしたら今とまったくちがう人間になれそうなところに行きなさいといった。人生は学習と向上の積み重ねだから、まだ融通の利く今のうちに(私には当時まだ妻も子もいなかった)、自分の開発と成長に次の五年間を投資するべきだと。(p.18-19)


この考え方は重要。



 私がしばらく前にジーナ・フロストとマイク・ノートンと行った研究では、デート相手に関していえば、相手のことを知れば知るほど、恋愛感情は高まるどころかむしろ薄れるという結果が出た。簡単にいうと、恋人候補のことをほとんど知らないとき、私たちは想像をはたらかせて楽観的すぎる方法で情報の欠落を埋めるものの(たとえば相手が音楽好きとしか知らなければ、17世紀のバロック音楽じゃなく、自分の好きなタイプの音楽が好きにちがいないと思い込むなど)、その後実際に会ってお茶するうちに、過大な期待が砕け散るってわけだ。……(中略)……。
 恋愛の領域で得られる教訓の多くは、生活のほかの面にもあてはまる。人を雇う場合もそうだ。外から招かれたCEOは、生え抜きのCEOに比べて高い報酬を得るが、実績はむしろ低いことを示す証拠がいくつかあがっている。この場合も情報不足のせいで、期待がむやみに高まるのが原因なんじゃないかな。(p.30)


外部からのCEOの実績が低いという点はもう少し詳しく知りたい。行政や政治に習熟していない政治的リーダーの実績が期待よりかなり低い傾向が指摘できるのであれば、例えば、トランプ大統領のような反エスタブリッシュメントの風潮を背景や追い風として就任した政治的リーダーの実績がどのようなものになるのかを予想する際に有益だろう。(それよりもはるかに小物であり、小物過ぎて語る程の価値もないのだが、私の研究フィールドの一つである小樽市の市長にはこの傾向は明らかに成り立っている。)



 つまり、私たちは何か(選んだ歌など)をよく知っていると、その知識をもたない状態を想像しにくくなるんだ。これを「知識の呪縛」という。(p.49)


これは日常的によく感じる。



彼らは殺されようとしているマウスを助けるか、見殺しにして報酬を得るかを被験者に選ばせた。……(中略)……。
 実験の結果、マウスを見殺しにした被験者の割合は、個人条件(45.9%)よりも、市場条件の方がずっと高かった(二者間取引では72.2%、多者間取引では75.9%)。このことから、人は市場に集まると個人的な利益のために道徳的基準をないがしろにしがちだということがわかる。(p.52)


マイケル・サンデルの議論を彷彿とさせる実験。



 

どうしてゴシップ新聞や雑誌に人気があるのかさっぱりわからない。どこが魅力なんだろう?
デイブより



 私もよくわからないが、たぶんあの魅力は社会的協調とも関係があるんじゃないかな。私たちは社交の集まりに出ると、誰もが参加できる話題を探そうとして、天候やスポーツ、ゴシップなどのネタを選ぶことが多い。つまり、そういう場では誰もが会話に参加できりょうに、話題が自然と低俗になりがちだということもわかるね。(p.78)


なるほど。説得力がある。



「楽しい時間は経つのが早い」のは知っているけど、一週間をもっと長く感じられる方法はないものかな?
アヴィより


 ……(中略)……。
 今度旅行に行くときは、毎日ちがうことをして過ごすのはどうだろう。スノーボードをするもよし、スキーをしない日をつくるもよし、スキーのレッスンを受けたり、ソリ滑りを楽しんだり、ただスキーの道具を変えてみるだけでもいい。たとえスキーほど楽しめなくても、いろんな活動を織り交ぜることで、休暇が一つの長いスキーの経験としてではなく、多様な経験の連続として記憶される。(p.131-132)


なるほど。同じようなことを続けると、それがひとまとまりの記憶となる。多様な活動をすれば多様な経験の連続として記憶される。



損失回避は、社会科学の原理のなかでもとくに本質的で理解が進んでいる考え方で、ざっくりいうと、同じ価値のものであれば、得るより失う方が感情的なインパクトが大きいことをいう。(p.175)


公共事業について考えると、最初に大盤振る舞いをして後からそれを絞っていくと、絞っていく時に感情的な反発を受けやすい。最初は小出しにしておいて少しずつ必要性を満たしていく方が反発は受けにくい。しかし、場合によっては初動で大きな額を動かさなければ効果がなかったり、効果が小さい場合もある。このバランスをどうとるかというのが難しいところであると思われる。(最初から撤退の時期などを決めておくというのは一つの知恵かも知れない。)



 フェイスブックやツイッター、メールなど、インターネットで情報をやりとりする人は、なぜネット上で低俗な行動をとりがちなんだろう?
ジェームズより


 ……(中略)……。インターネットをとおすと、ふだんいかに内容の乏しいやりとりをしているのかが見えやすくなるだけなんだ。(p.181)


なるほど。確かにそういう面はありそうだ。



社会規範について覚えておくべき重要なことは、ささいな違反をした人のことも容赦なく批判する必要があるということ。違反が繰り返されるうちに規範そのものが変容し、望ましくない新しい規範に誰もがとりこまれるおそれがあるからだ。(p.212)


ヘイトスピーチや歴史修正主義などにこのことは非常によくあてはまる。もっと強くこれらは批判されるべきである。



 自分の経験したことをよく覚えている人ほど、人生に対する満足感と幸福感が高いことがわかっている。(p.235)


経験を覚えていると、その記憶を思い出すことでも幸福感を感じられるということも、その要因だろうか。このためには新しい経験を積み続けることが有効であるようだ。



運のいい人はいろんなことをしょっちゅう試していて、頻繁に試す分、成功することも多いんだ。……(中略)……。
 ……(中略)……。つまり運のいい人っていうのは、何かを試す回数が多いだけじゃなく、うまくいかなさそうな道をすばやく切り捨てて、有望な道に力を注いでいるんだね。(p.239-240)


これに当てはまるような人が確かにいる。次々とアイディアを出していろいろなことを試している。試行錯誤を重ねる中で研ぎ澄まされた感覚で事の軽重を直観的に判断している。そんな人に見習うべき点は多い。



 いったん環境が決まると、私たちはおおむねそれに見合った行動をとるようになる。とはいえ、現実の私たちは日々ドーナツの誘惑にさらされる必要はない。職場からドーナツ売りを締め出すことはできるし、より一般的にいうと、失敗の可能性を減らすように環境を設定することはできるんだ。
 私たちの自由意思が宿るのはそこだ。自分たちの強みを活かし、より重要なこととして、弱みを克服するような方法で環境をデザインする能力にこそ、自由意思がある。(p.244-245)


環境のコントロールは重要だ。このことに思い至らない人が結構いる。社会科学的な知識や多様な経験を積んでいることは、環境をコントロールするための工夫を促しうる要素の一つであるように思われる。


橘木俊詔 『21世紀の資本主義を読み解く』

平均所得200万円以下の家庭の大学進学率は28.2%、600万~800万円未満で49.4%、1200万円超で62.8%となっています。家計所得の低い層と高い層、いわゆる年収の差によって30ポイント以上の大きな差が出ています。
 また上図を見ると、国公立大学の進学率はどの所得階層も10%前後なので、家計所得、すなわち親の年収による差がほとんどないことがわかります。(p.111-112)


親の所得が大学進学に関係することは分かっていたが、国公立大学の場合はほとんど差がないというのは興味深い。ただ、東大などへの進学者の場合、所得の影響があることが分かっている。国公立大学内での親の所得階層ごとの進学率を知りたい。



 1959年には国立大学の授業料は年間9000円、私立大学の平均では年間3万円で約3倍の差がありました。ところが10年後の1969年には国立大学が年間1万2000円に対して私立大学は平均7万6400円と、約6倍強に拡大しています。
 この事情に対して、国立大学の学生だけが優遇されすぎではないのかという不公平感が世の中に生まれてきました。また国立大学で良質の教育を受けられる学生には、それ相応の自己負担を求めるべきではないか、という見方が強まってきました。
 とくに「自己負担すべきだ」という考え方は、それまで公共財的に考えられてきた国立大学の教育に、より私的材の要素を加味もしくは転換すべきだと判断されるようになってきたということです。
 そして現在、日本の大学の平均授業料は文部科学省の調査では国立・公立とも53万円ほどとなっており、一方の私立大学は学部により大きく異なりますが、85万円ほどとなっています。

 この背景には大きな経済的な要因があります。1965年に戦後初めて赤字国債が発行されるなど、国家財政が逼迫し始め、いくつかの財政支出を抑制する政策が実施されるようになり、国家による教育費支出の抑制が進んだこともあります。
 1970年代後半から、国公立大学に通う学生にも相応の学費を求めるようになってきました。つまり、国公立大学の授業料や入学金が上昇し始めます。そして、現在は、国立と私立の格差は1.5倍から3.0倍あたりまで縮小しています。格差という面で、国立と私立の格差は縮小しましたが、学費の面で、いわば「上に合わせる」施策をとってきたため、今度は経済状況から進学できる人とできない人の格差が拡大してきたのです。
 なお、この傾向には例外があります。それは医学部です。医学部の学費における国立と私立の格差は今日、6~10倍に達しています。(p.115-116)


学費に対する考え方の変化が、経済と財政の状況に応じて生じてきたのは、教育以外の分野でも同様だろう。これに対する再度の転換が必要である。



政府は、祖父母からの教育費支援を促すために、教育に関して相続税制の緩和を打ち出しました。それは、国家挙げての高所得家族への優遇策と言えますし、教育格差を助長させそうです。(p.117)


実際に、かなりの金持ちの家庭で、この制度を使って孫に資産を移転している事例を知っているので、この指摘は非常にリアリティをもって感じられる。



 韓国や日本に特有である塾について、欧米人に説明することは困難です。このような学校外教育機関は、欧米にはほとんどないからです。(p.129)


欧米には塾がないというのは、今まであまり気にしたことがなかった。台湾にはあるように思われるが、これらの国に塾が多いのはどうしてなのか?逆に気になる。日本の場合は、明治以前からの民間の教育機関があったということもあるだろうが、明治以後、政府があまり教育に予算を割いてこなかったことなどが関係しているのではないかと思われる。


松尾匡 『この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案』

 そしてこの本では、「アベノミクス」と銘打って遂行されている経済政策もまた、安倍さんの野望実現のための手段だと見ています。もしそうならば、「アベノミクスはお金持ちや財界や金融資本のためにやっていることで、すぐに破綻する」というような見方をしていたら、足をすくわれることになります。選挙のときに最も効果的に好景気になるように、政策のタイミングを計っているとしたらどうでしょうか。(p.6)


同意見であるが、テレビや新聞などではこうした角度からの分析などが非常に少ないように思われ、あまり政治に関心や知識が深くない人にとってはこのことはまだ十分認識されていないように思う。政権の意図を推定することになるためやりにくいという面があるのだろうが、時系列的に政策と経済情勢の変動を追えば(本書が示した通り)そろそろ示すことができる時期になっているはずである。



「左翼」というものは、搾取され虐げられた民衆のためにある勢力だということを忘れてはいけません。新自由主義の緊縮政策に苦しめられてきた民衆が望んでいるのは、政府が民衆のためにおカネを使い、まっとうな雇用をつくりだすことです。その資金は、おカネのあるところから取ればいいし、それでも足りなければ無からつくればいい!それが今、左翼の世界標準として熱狂的に支持されている政策なのです。(p.10)


左派・左翼が誰の利益を擁護する勢力かという点を正しく指摘している。本人が「虐げられている」と思っていなくても、「より権力(政治的権力だけでなく経済的な権力や社会的な権力を含む広義の権力)が小さい側の人々の権利や利益を守るべきだ」というのが左派の基本的な立場だと私も思っている。(もちろん、これとは逆に、「より権力が強い者の利益を守り、強めよう」というのが右翼や保守の立場である。)

私にとって本書の提示する議論が新しかったのは、おカネを無からつくり出す政策を採っても、現在の経済情勢の下では副作用が生じるリスクが低いため望ましいということがはっきりしてきたことであり、欧米の左派的経済政策と日本における経済政策とのズレやねじれがあるという認識である。



 でも、そういえば、世界の名うての大物左派・リベラル派論客が、「アベノミクス」を高く評価するような発言をしていました。アメリカのリベラル派ノーベル賞経済学者のポール・クルーグマンさんやジョセフ・スティグリッツさん、インド出身のノーベル賞経済学者アマルティア・センさん、フランスの人口学者エマニュエル・トッドさん。『21世紀の資本』(みすず書房、2014年)がベストセラーになったトマ・ピケティさんも、「安倍政権と日銀が物価上昇を起こそうという姿勢は正しい」と言っています。
 しかし、この本でくわしく見ますが、これらの論客の誰も、「第三の矢」の規制緩和路線や、消費税増税や、「第二の矢」のこれまでのおカネの使い道をほめているわけではないのです。これらの論客が支持しているのは、金融緩和と政府支出の組み合わせという枠組みだけです。(p.10-11)


この枠組みこそ欧米の左派の経済政策の枠組みであり、日本の左派はこの枠組みをさらに推進するよう圧力をかけるとともに、規制緩和路線や消費税増税に反対し、政府支出の使い道を福祉や医療、子育てなどの分野に振り分けるべきだとする。

論理的には非常に説得力があると思うが、正直に言って経済政策についてまともな知識を持たないほとんどの有権者にとってどこまで届くか、ということには不安がある。問題はどのように伝えていくかという所にあるように思われる。



円安は、約2年のラグをおいて、国内生産比率の増大をもたらすということが見て取れます。(p.37)


こうした統計の見方などで本書は参考になる点が多々あった。



 こうして、いわゆるアベノミクス「第一の矢」の金融緩和によって、輸出と設備投資が増加して、もっぱらそれに支えられて景気回復が進められてきたというのが、ここしばらくの動きだったと言えるでしょう。
 その一方で、消費税増税で消費は低迷し、政府支出も緊縮気味になっているために、しっかりした内需に支えられない、弱々しい景気回復になってしまいました。(p.41)


アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものだというわけだ。ただ、私から見て本書の理論に欠けているのは、人口の動きを加味していないところにあるように思われる。総人口または生産年齢人口が減少へ向かっていることが自動的に需要を伸び悩ませる要因の一つであり、全体の経済成長を鈍らせる働きをしている点も加味して説明を行って欲しいところである。



それに、後でもふれますが、世界の景気が悪い中で日本も景気が悪くなったのならば、有権者にはかえって、野党に経済運営を任せるのを恐れる気持ちが働くのが自然です。(p.42)


このあたりのことを考慮に入れると、著者の意見とは若干異なるが、私としては次のように考える。

ある意味ではもはや安倍政権はそれほど景気対策を本気でやらなくてもよい段階に入っているのではないだろうか。メディアに対しては十分に対策を施して(飼い慣らして)おり、よほどの問題がない限り安倍政権が強く叩かれることはない状態となっているため、あとはメディアに攻撃材料を与えないように口封じを続けれいれば、安倍政権としては次の参院選でも勝利は確実と計算しているのではないだろうか。



 官邸のしかける情報戦というものは、政権側に都合よく見える情報を流すものばかりではない、ということに注意しなければならないと思います。政権側は、一方では大衆向けに、ちょっとしたことをとらえては「アベノミクスは成果を上げている」という宣伝情報を流しますが、他方では敵側に「つぶれる、つぶれる」と言わせる作戦も考えていると思います。(p.53-54)


なるほど。この点から見ても、本書の提案するように金融緩和や政府支出が足りないと批判する方が安全な方法だというわけだ。



 これからだんだん説明していきますが、景気拡大が不充分な間は、日銀の緩和マネーで政府支出しても問題は生じません。民間から無理に借金したり増税したりして、わざわざ総需要の足を引っぱる必要はないのです。(p.99)


この件に関する説明が分かりやすくなされていたことが本書から得た大きな収穫だった。

ただ、それらの説明もやや合理主義的すぎる発想が前提されている部分があり、景気のフェイズが変わった時に適切に政策を変えられるかといったところには多少の不安がある(いかにインフレターゲットで定めておくとしても、その時の総裁が著者と同じ考え方であるとは限らない)。



 2017年4月に予定されている消費税10%への引き上げは、確実に景気を後退させる要因なので、安倍さんを攻撃する側にとっては有利な材料です。民主党が消費税引き上げを決めたことをはっきり自己批判して、引き上げ反対の立場に立つならば、支持率は大きく上がることと思います。
 たしかに、将来完全雇用が達成されてインフレ気味の時代が来れば、増税が必要になると思います。しかしそのときも、消費税という手段を使うことは適切な方法とは思えません
 よく言われる、貧しい人ほど負担が大きい「逆進的」と言われる性質があることは、その理由のひとつです。でもそれだけではありません。そもそも消費税で税収をまかなうことの意義が、人々の消費を減らすことにあるからです。(p.221)


この最後の説明は腑に落ちた。論理としては目的論的な面もあるが、この場合は消費が増税分だけ減っているというデータの裏付けもあり、目的と効果が一致しているからである。

少なくとも日本では需要不足が経済の足を引っぱっているものであり、これは今後しばらくの間は変わらないと見るべきである。そうであれば、消費税という手段は適切ではないということになる。例えば所得税や法人税、さらにはピケティが言うような資産課税(富裕税)のような税で累進性を高める手段が適切である。


トマ・ピケティ 『トマ・ピケティの新・資本論』(その3)

 今回の一件は、報道機関の資金源と独立性という大きな問題も投げかけている。2007年にレ・ゼコーの記者たちは、ベルナール・アルノー率いるLVMHグループに買収を仕掛けられて抵抗した経緯がある。彼らは当然ながら、自分たちの独立性が脅かされるのではないかと懸念し、多数の署名を集めて差し止めを陳情した――が、無駄だった。こうしたわけで2007年以降、フランス最大の経済日刊紙はフランス最大の富豪の所有に帰している。同紙は、現政権が支持する案件を好意的に報じる傾向が次第にあからさまになっているが、それが買収と関係があるかどうかは、筆者の知るところではない。しかし、国民運動連合(UMP)の上院議員で資産家のセルジュ・ダッソーが所有するル・フィガロ紙を読んでいて、ほとんど政府の広報紙だと感じたことはある。あるいはレ・ゼコーの記者たちは、購買者の利益を守ろうとしているだけだが、その購読者自身が次第に世間一般から乖離してきたのだろうか。いずれにせよ、多くの記者が示すこの変身ぶりは、民主主義にとって憂慮すべきことである。(p.276-277)


ピケティが指摘する格差の拡大、超富裕層の経済的な権力が増大することが、政治的な民主性も腐食させていく。マスメディアに圧力をかけていくこと(ここで述べられているような資金源を押さえるというやり方のほか、昨今の日本での総務相などの電波停止発言などによる威嚇や公共放送のトップに政権に近い立場の人物を送り込んでコントロールしようとすることなど)で権力の監視という機能を果たせないようにしていく流れは、日本だけではなくフランスでも進んでいるということがよく分かる記事であった。



というのも保護主義は、警察と同じで、基本的に抑止力にとどまるべきものだからだ。国はこれを奥の手としてとっておくが、利益の源泉とはしない(p.291)


なるほど。あまり考えたことがない発想に触れるのは面白い。



度を超した高所得に歯止めをかけられるのは税金という武器しかない(p.311)


名言。高所得者への累進課税は徹底的に行うのが望ましい。



アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)が、ワイオミング州債かテキサス州債のどちらを買い入れるか毎朝選んでいたら、安定的な金融政策を実行することはむずかしい。欧州中央銀行(ECB)はこれに類したばかげた状況に置かれている以上、金融の安定化に十分な役割を果たすことはできない。(p.312)


ピケティは本書で繰り返し「欧州共同債」の創設を提唱しているが、その必要性の一端について最も分かりやすい例で示している箇所。



 フランスでは黒人団体代表委員会(CRAN)が2005年に結成され、フランス預金供託公庫(さきほどの「貢ぎ物」を運営したとされる)を訴えて係争中だ。ただし彼らは個人賠償を求めているのではない。賠償金は徹底的な調査と記念館(たとえばリヴァプールにある国際奴隷貿易博物館のような)の建設に充て、問題の全容を広く知らしめるために使うという。そのためには、問題全体の解明を任務とする委員会を設置する必要があろう。(p.354-355)


植民地支配や戦争犯罪などに関連する償いの方法として参考にすべき考え方が含まれている。



 まことに嘆かわしいことだが、フランスの高等教育は全体としてかなり貧しいので、さほど大金を注ぎ込まなくとも大きなちがいを生み出すことが可能だ。どのくらい貧しいかと言うと、フランスの高等教育・研究予算は、2007年には110億ユーロ足らずで、2013年にようやく120億ユーロに届いたのである。この間のインフレを考えれば、実質的には横這いである。一方、世界各国の大学は、有力な教授を引き抜き、寄付金を精力的に集めるなどして力強く成長を続けており、フランスから少なからぬ技術者、研究者、学生を呼び込んでいる。これでは、もともとあった差が開くばかりだ。
 この120億ユーロという金額は、大学その他の高等教育機関・研究所に割り当てられる予算の総額(給与、運営、設備投資)であることに注意されたい。この金額は、GDP(約2兆ユーロ)の0.5%をすこし上回る程度にすぎない。また政府支出(GDPの約半分、すなわち1兆ユーロ)に占める割合は1%ということになる。(p.371-372)


日本の教育予算の低さを考えると、フランスでこんなに嘆くのは嘆きすぎじゃないかと思えるほどだが、ピケティが日本の教育予算を見たら、どのようなコメントをするのか興味を惹かれるところだ。



 フランスでは、高校卒業時の試験でバカロレア(大学入学資格)をとっていれば、全国の国立大学に原則としてどこにでも入学できる(グランゼコールは別)。バカロレアの合格率は70%前後に達する。大学進学率が高まる一方で、教員採用とも関連するが大学の定員数が増えていないため、定員オーバー状態が続いている大学進学者の半数以上が途中でドロップアウトするという。(p.373)


これは訳者らによる注だが、フランスの大学の状況は日本とは大きく異なっており興味深い。進学者の半数以上がドロップアウトするというのは、欧米の大学は入学より卒業の方が難しいと言われるが、それが文字どおりのことだと分かり興味深い。中学生レベルの学力でも入学でき(偏差値40前後の大学の学力レベルはこのくらいである)、入学してしまえばよほどのことがない限り卒業できないなどということがない日本の大学を考えると、欧米並みに厳しい卒業の基準を設けることも必要なのではないかという気がする。



フランスの高校は公立が圧倒的に多く、公立に進む場合には入学選抜試験はない。パリの場合、中学の成績と本人の希望(第八希望ぐらいまで出すようである)に応じてコンピュータ・ソフトで振り分けられる。第一ラウンドで希望校に行けない場合、第二ラウンドで空きのある高校に振り分けられる。(p.379)


これも訳者による注だが、非常に驚いた。入学試験がなくコンピュータで振り分けられるとは…。まぁ、中学の成績が参照されているのだから、それほど大きく間違った選択はされないのだろうが、中学校ごとに成績の平準化などはできるようになっているのだろうか?共通のテストなどで学力を測定しているのだろうか?などなど、いろいろと気になる。



フランスの経済モデルは、毎年生み出される富の約半分を税金や社会保険料などさまざまな拠出金の形で共有し、国民全員が恩恵を受けるインフラ、公共サービス、国防に充当することで成り立っている。払う側と受け取る側というものはない。誰もが払い、誰もが受け取る。(p.389)


税や社会保険料について、簡潔に、かつ力強く、その意義を表現しており印象的である。今の日本に、こうした当たり前のことを十分に理解している人がどれほどいるだろうか?税の問題については、世間に正しい理解が広まることが是非とも必要である。



トマ・ピケティ 『トマ・ピケティの新・資本論』(その2)

 ここで忘れてはならないのは、企業が払う税金というものは存在しないことだ。どんな税も、払うのは必ず個人である。残念ながら現世で税金を払えるのは、生身の人間しかいない。なるほど形の上では企業に納税義務があり、小切手を国税庁に送ることになっている。しかし最終的に払うのは個人だ――つまり、企業は払った分を必ず取り返す従業員から(給与を減らす)、株主から(配当を減らす、株主資本を積み上げない)、消費者から(販売価格を引き上げる)、取り戻すのである。(p.187)


法人に対する課税で忘れられがちなポイント。

この点に着目すると、最近20年ほどの間、法人税が年々引き下げられてきたが、その分は、従業員に給与を上げる、株主に配当を増やす、株主資本を積み上げる、消費者に価格を下げる、といった仕方で還元されていることになる。株主や経営者という少数の持てる者に利益を還元し、従業員や消費者にはあまり還元されていないことを問題視すべきではないか。そして、政府は法人税を下げた分、消費税を増税することで税収の穴埋めをしてきたのであり、これは株主や経営者という金持ちが潤った分を一般の消費者(上のカテゴリーで言えば従業員ともほぼ重なる)に負担を負わせてきたことを意味する。



 悲しいかな、税というゲームは、弱い者がまず勝てないようにできている。(p.188)


確かに。弱者が身を守るためには、せめて知識の力が必要。



 無策で選挙に勝つことは可能か――もちろんである。選挙の歴史をひもとくと、そうした例は枚挙にいとまがない。大衆を熱狂させる公約のおかげではなく、単に敵の失敗や対立候補に対する嫌悪感から勝利を収めた政党はいくらでもある。問題は、有権者がいずれその代償を払わねばならないことだ。(p.194)


策がある政党が勝った場合でも、その内容が酷い場合、有権者は結局代償を払う必要が生じてしまう。安倍政権の成立(第一次も第二次も)はまさにこれに該当する。



 ご存知のとおり、ヨーロッパ最大の銀行BNPパリバが、2009年度に80億ユーロの利益を計上した。これまで最高だった2007年度を抜いて史上最高益だという。それがどうした、という読者もおられるかもしれない。銀行が倒産するより儲かっているほうがいいだろう、と。たしかに。
 だが、この巨額の利益がどこから来たのかを探ってみても悪くはあるまい。ヨーロッパの上位10行の2009年度の利益を合計すると、500億ユーロ近くになる。ここにアメリカの上位10行を加えると、1000億ユーロだ。欧米いずれも2009年は不況だったというのに、なぜこれほどの利益を上げられたのだろうか。理由ははっきりしている。金融危機の際に、中央銀行は超低金利で民間銀行に融資した。それを民間銀行はずっと高い金利で貸した、ということだ。貸した相手と言えば――個人、企業、そして国である。(p.205-206)


個人、企業、そして政府から銀行が金を巻き上げている。中央銀行の金融政策がそれを可能にしている。



税のダンピングに基づく成長戦略は失敗するに決まっているし、隣国にとっても有害だからである。重要なのはEUが主導権を握り、金融安定化と引き換えに、不当に低い税率を打ち切らせることだ。……(中略)……。
 ヨーロッパではどの国でも、政府税収と社会保険料収入がGDPの30~40%に達しており、これでインフラ整備や公共サービス(学校、病院など)、社会保障(失業保険、年金など)をまかなっている。法人税を12.5%という低水準に設定すると、こうした社会的な事業が回らなくなる労働所得に重税をかければ話は別だが、それは正当でも効率的でもないし、失業者を増やすだけだ。
 はっきり言おう。隣国との取引でゆたかになった国が、次には隣国の課税ベースを横取りするとしたら、これは市場経済や自由主義の原則とは何の関係もない。ただの泥棒である。そして盗まれた当人が無条件で泥棒に金を貸してやるとしたら、これは愚行である。
 さらに悪いことに、ダンピングは、それをする当の小国にとっても有害である。要するに軍拡競争と同じで、負の連鎖に陥ってしまう。アイルランドが低い法人税を維持するなら、ポーランドも、エストニアも……ということになる。このばかげたゼロサムゲームに終止符を打てるのは、EUしかいない。(p.234-236)


同意見である。課税ベースの奪い合いは自由主義の原則とは関係がなく、泥棒だという評価は興味深い。


トマ・ピケティ 『トマ・ピケティの新・資本論』(その1)

 サッチャーの首相就任と傾きかけた国を救ったとされる数々の改革から四半世紀が過ぎた現在、イギリスは生産性の低い国に成り下がっており(生産性格差はいっこうに縮まる気配がない)、他の先進国と肩を並べるために貧しい国のとる方策、すなわち税のダンピングと長時間労働に頼らざるを得なくなっている。イギリスの労働人口の生産性が低いのは、教育制度に投じる予算が少ないことと、貴族政治時代を引きずる顕著な階層化に大きな原因がある。(p.49-50)


サッチャーの新自由主義政策の帰結に対する的確な批判。なお、税のダンピングと長時間労働という方策に追い込まれているのは、日本も同じである。



また、候補者選びをぎりぎりまで先送りすることの弊害も、改めて浮き彫りになった。候補者がなかなか決まらないと、一般受けする政策を打ち出す傾向が強まり、まともな議論ができなくなってしまう。(p.77)


なるほど。



 フリードマンが経済学の研究から導き出した政治的な結論は、やはりイデオロギーを免れていない。「よい中央銀行」があればよいと言うなら、「よい福祉国家」があってもよかったはずだし、おそらく後者のほうがよいではないか。とは言え、フリードマンの重厚な研究が、20世紀で最も深刻な危機を巡る当時のコンセンサスに疑義を提出したことはまちがいないし、あのみごとな研究に裏付けられていたからこそ、彼のメッセージはあれほどの影響力を持ったのである。(p.84)


ミルトン・フリードマンに対する批判。イデオロギーであるという指摘は妥当。また、見事な研究の裏付けがあればこそ、あれだけの影響力に繋がったという指摘はなるほどと思わされた。ピケティが注目されるようになったのも、同じく見事な実証的な研究の裏付けがあればこそという点では同じだろう。その意味で、フリードマンとピケティは意外と似たところがあるのかもしれない。



 税のダンピングに基づく成長戦略は、多くの小国が採用しているが、必ず悲惨な結果につながる。アイルランドに続けとばかり多くの国が同じ道をたどっており、もはや抜けられない状況だ。いまではおおかたの東欧諸国が、法人税率を10%程度に設定している。2008年には、コンピュータ大手のデルがアイルランドの生産拠点を閉鎖してポーランドに移転すると発表し、アイルランドにパニックを引き起こした。
 外国資本への過度の依存に伴う代償は、これだけではない。アイルランドのような国は、毎年GDPの約20%を利益や配当の形で、工場や本社の外国人所有者や株主に支払っている。このため、アイルランド国民が自由に使える国民総生産(GNP)は、国内総生産(GDP)より20%も少ない。(p.166)


グローバル経済の下で、法人税のダンピングが行われているが、これがまともな成果を挙げないことを指摘している。まず、税のダンピングをすると税収が下がり、国内で生活している人々に対する行政サービスの面で支障が出る。とくに社会的な弱者ほど打撃が大きい。もし、行政サービスの切り下げが行われないとすれば国債等が増発される。この場合、返済を通じて低所得層が高所得層に所得移転を行うことになる。ピケティが指摘しているのは、こうした直接的なデメリットがありながらも、この方針を転換できなくさせられてしまうという点であり、自由に変更することができなくなる点である。

そして、外国から資本を呼び込むことに成功しても、富は国内の住人ではなく出資する側へと吸い上げられる。これもやめることができない。

重要な論点である。




国民所得は、一国の国民が実際に自由に使える所得の総額を計測する指標であり、経済活動の中心にある「人間」に注目した数字だと言える。一方GDPには、「栄光の30年」と呼ばれた経済成長期(1945~75年)の生産至上主義が反映されている。
 言い換えれば、GDPは、工業製品をどんどん買い込むことが人生の目的と化し、そのためには生産を増やせばよいと考えらえていた時代の名残なのである。いまはもうそういう時代ではない。したがって、国民所得に回帰すべき時が来たと考えられる。(p.181-182)


GDPではなく、国民所得を経済活動の指標とすべきという。



すなわち、一国の中で生産されたモノやサービスだけを計測し、その最終目的地は考慮しないので、他国に送られる利益もGDPに含まれている。たとえば、企業や生産資本の大半を外国人株主が所有しているような国では、GDPは大きくても、国外に送られる利益を差し引いた国民所得はきわめて小さくなる。(p.183)


アイルランドを例にして2つ前の引用文で述べられていること。



ダン・アリエリー 『お金と感情と意思決定の白熱教室 楽しい行動経済学』

だから、問題行動をひとつひとつなくしていくことが大切だ。なぜなら一人の問題行動の影響は、それだけにとどまらず、「皆そうしているから大丈夫だ」とほかの人に思わせてしまう危険性があるからだ。一人の良くない行動が連鎖的にほかの人たちに影響を与え、それが社会にとって当たり前のことになってしまう恐れがある。だからそういう行動に対しては、はっきりと批判的な態度をとり、容赦しないことが大切だ。そうしないと、やがてひとつひとつの問題に対処するよりもはるかに高いコストがかかるようになる。(p.65-66)


これはいわゆる「割れ窓理論」などで言われている結論と同じことになる。「割れ窓理論」それ自体は実証されていないという反論もあるようだが、少なくとも、本書で示された実験結果から導かれる帰結は同じところに行きついているように思われる。

このような問題行動の連鎖は、ルーマンの社会システム理論によっても理解しやすい領域の一つであるように思われる。すなわち、ある一人の問題行動が他の人々に認識される際に「そのような行動をとっても批判(非難)を受けない」ものとして理解され、他の人々がそれを規範として動き始めることで、社会の新たな規範が形成されてしまう、という社会の変動。

さらに言うと、高史明の『レイシズムを解剖する』という本について、そう遠くないうちにこのブログにもアップすることになると思うが、この本で、ネット上(ツイッター上)の在日コリアンに対するレイシズムを広めようとする言説が、少数の差別主義的な煽動者によって発せられていることが明らかにされており、この少数者をSNSの運営者が発言を制限すれば、かなりの差別発言をネット上から減らすことができ、そこからの間接的な影響も軽減できることが示唆されている。煽動者が差別発言をしても批判されない(制裁を受けない)ことによって、「皆そうしているから大丈夫だ」と思わせてしまうことになっており、それが差別発言を流通させるのに大きな意味を持ってしまっているという現状は、上記で指摘されているように、既に「一つ一つの問題に対処するよりもはるかに高いコストがかかる」段階に入ってしまっているように思われる。



優秀なスタッフは言われなくてもやるべきことを心得ている。君たちが一流の歌手だとして、報酬が減らされたからといって、わざと下手に歌うだろうか?一流の歌手なら、おのずと上手く歌うだろう。むしろキーを外して歌う方が面倒だ。コールセンターのスタッフの中には電話のマナーが良かったり、会話が上手な人もいるが、今以上の成果を期待するのは難しい。業績が高くない人にこそ、ボーナスの効果は大きいんだ。(p.176)


なるほど。あまりこのような道筋で考えたことがなかったが、言われてみればその通りだ。金銭がパフォーマンスを高める動機としては機能しにくいものであることは理解していたが、パフォーマンスの質が高ければ高いほど、お金などでは動機や技能を高めることには役立ちにくい。この辺りまではよく考えていたが、ここから一歩先に進めば、むしろ、質が低い方が効果的というところまで導くことができるわけだ。(アリエリーの行動経済学の強みは実験によってこうしたことがある程度確かめられた上で指摘している点である。)

成果主義的な考え方によれば、成果が上がっている人にボーナスを多く払い、そうでない人には低く払うべきだということになるが、これは上記のような現実から見ると明らかに倒錯したものであることが分かる。



面白いことに、人は何かに労力を注げば注ぐほど、それを高く自己評価するんだ。最も端的な例はもちろん、子供だ。
 ……(中略)……。子育ては困難で手間がかかり、説明書だってないからだ。子供への愛情の大半は、実は自分への愛情なんだが、このふたつは区別がつけ難いので、親は子供を溺愛するんだ。(p.192-193)


なるほど。面白い。子供への愛情がかなりの程度、親の自己愛と区別ができないことがあるというのはそのとおりであるように思われる。

思うに、この区別がきちんとできていなければいないほど、育て方はよくないものになる傾向にあるように思われる。



トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その7)

国富や国民所得という考え方の長所は、それが国の豊かさについて、GDP概念よりもバランスのとれた見方を与えてくれるということだ。GDPはある面ではあまりに「生産主義的」なのだ。たとえばもし自然災害が富の相当部分を破壊したら、資本の減価償却が国民所得を引き下げるが、GDPは再建活動のために増える。(原注p.23)


適切な指摘。



中央値とはそれより下に人口の半数が属する水準。実際には、中央値は平均よりも常に低い。なぜなら現実世界の分布は常に高位に長い尻尾があって平均を上げているが、中央値は上がらないからだ。労働所得では、中央値は一般的に平均値の80%になる(たとえば、もしも平均賃金が月2000ユーロならば、中央値は1600ユーロ程度になる)。富については、中央値は極端に低く、たいてい平均資産の50%以下で、人口の貧しい半数がほとんど何も所有していない場合には、ゼロになることもある。(原注p.39)


経済的指標に関しては中央値と平均値の関係はここで述べられたようなものになるのが一般的だろう。



意味のある成長率の比較をするためには、かなり長期(最低でも10年か20年)の平均をとるのが重要だ。もっと短期で見ると、成長率は各種の理由で変動するので、まともな結論を引き出すのは不可能だ。(原注p.78)


率というものは扱いが難しいものだと弁える必要がある。



理論モデルにおいては(また累進課税の歴史でも同様)、累進税はまったくちがう二つの役割を果たしてきたことに注目。まず収奪的な税率(分配のトップ0.5-1%に対する80-90%の税率)は不適切で無意味な報酬を止めさせる役割を果たし、高いが没収的ではない税率(トップ5-10%の層に対する50-60%の税率)は所得分布の下位90%からくる歳入を超えて社会国家のための資金を集める役割を果たす。(原注p.79)


なるほど。



トマ・ピケティ 『21世紀の資本』(その6)

税金というのが常に、単なる税金以上のものだということを理解するのは重要だ。税金はまた、規範や分類を定めて、経済活動に対する法的枠組みを課す手段なのだ。(p.544-545)


この認識はこれまでも何度か引用したかもしれないが本書の重要なポイントのひとつであり、本書から私を含めた多くの人々が学ぶべき点でもある。



自由貿易と経済統合でお金持ちになった個人が、隣人たちを犠牲にして利潤をかき集めるなどというのは正当ではない。それは窃盗以外の何物でもない。(p.547)


まさに現在起っているのがこれだ。



 政府が支出をまかなう方法は主に二つ。税金と負債だ。一般に、公正と効率の観点からして、税金のほうが負債よりもはるかに望ましい。負債の問題は、通常は返済が必要だということだ。したがって負債による資金調達は、政府にお金を貸せる人々の利益になる。社会的な利益の観点からすると、金持ちに借りるより、金持ちに課税するほうが通常は望ましい。(p.567)


国債・公債に関する議論でいつも抜け落ちているのが、貸し手は誰なのか、ということだ。政府に金を貸せるだけの資金に余裕がある人が貸す。逆にこれらの金持ちに対して累進課税をすれば金を借りる必要などなく、利子を返す必要もない。この程度のことすら公けに議論されないということは問題だ。



新興経済は富裕国より所得でも資本でも貧しいが、公的債務はずっと低い(平均でGDPのほぼ30パーセント)。これは公的債務の問題が、絶対的な富の水準の問題ではなく、富の分配の問題だということを示している。特に公的アクターと民間アクターとの分配が問題だ。金持ち世界は金持ちだが、でも金持ち世界の政府は貧乏なのだ。(p.567)


公的債務の問題が分配の問題だというのは当然のことである。だが、このこともしばしば忘れられている。



大恐慌の開始時点で、工業国の中央銀行はきわめて保守的な政策を採用した。金本位制を廃止してまだ間がなかったので、トラブルに陥った銀行を助けるのに必要な流動性創造を拒否して、これが連鎖反応的な倒産を創り出し、これが危機を深刻に悪化させて、世界を奈落の縁にまで押しやった。この悲劇的な歴史体験がもたらしたトラウマはぜひとも理解しよう。それ以来、みんな中央銀行の主要な機能は金融システムの安定性を確保することだという点で合意するようになった。(p.576)


大恐慌があれほどの深刻な事態を引き起こしたのは、金融体制が変わってから十分に時間が経過していなかったため、適切な方法での対処をすることへの意見の一致がなかったことが要因のひとつであったとも言える。



税制競争は通常は消費税への依存に向かうことを認識するのは重要だ。これはつまり19世紀に存在したような税制であり、累進性がまったくつけられない。現実問題として、これは貯蓄できる者、居住国を変えられる者、その両方ができる者に有利に働く。(p.591)


消費税は品目ごとに累進性をつけることもある程度はできるが、制度としては複雑になるし、所得税や法人税ほど有効に累進課税の効果を発揮することもできないように思われる。



 最後に、債務や財政赤字の適切な水準を判断するには、国富に影響する他の無数の要素を考慮しないわけにはいかない。あらゆる手持ちのデータを見ると、何より驚かされるのが、ヨーロッパの国富が空前の高い水準にあるということだ。たしかに公的債務の大きさを見れば、純公共財産は実質ゼロなのだが、純民間財産があまりに高すぎて、両者の合計は1世紀前の高い水準になっている。だからこそ、私たちが恥ずかしい債務負担を子孫の代に遺そうとしているとか、ボロをまとい灰をかぶって許しを請うべきだなどという発想は、まるっきり筋が通らないのだ。ヨーロッパ諸国がこれほど豊かだったことはない。一方、恥ずべき真実は、この巨額の国富がきわめて不均等に分配されているということだ。民間の富は公的な貧困の上に成り立っているし、これがもたらす特に不幸な結果のひとつは、私たちが高等教育に行う投資よりも債務の利払いに費やすお金のほうが今でははるかに多いということだ。さらにこれはずいぶん昔から続いているのだ。1970年以来の成長はかなりゆっくりしていたので、歴史的に私たちは債務が公的財源にかなりの重圧をかける時代にいる。だからこそなるべくはやく債務を減らさねばならないのだし、その手法は民間資本に対する累進的な1回かぎりの課税か、それがだめならインフレによるものであるべきだ。いずれにしても、この決定は民主的な論争の後で独立した権限を持った議会により行われるべきものだ。(p.597)


ヨーロッパについて書かれているが日本もほぼ同じと言ってよい。中央政府と地方政府の債務が大きく、「日本はお金がない」などと言われるし、「債務を子孫の代に遺さないようにしよう」などと言われる。そして、増税ではなく歳出削減という方法でそれを実現しようなどと無謀な試みもなされてきた。第二次安倍政権の下では、この声は下火になり、アベノミクスの名の下で膨大な公共事業が再開され、債務は膨らみ続けている。これを解消するための方法として(政府の一部の人びとに)考えられているのは、インフレによる債務の実質的な削減ではないかと勘繰りたくなる。現在の金融政策を続けるとどこかで起こるであろうハイパーインフレによって債務を帳消しにしようというわけだ。(安倍政権ほどあらゆる面で悪意に満ちた政権は見たことがない。)

民間資本に対する1回かぎりの累進的課税は劇薬ではあるが、インフレよりはコントロール可能という点で優れているし、民主的な合意の下で行われるという点でも正当性がある。民間の富が公的債務の犠牲の上に成り立っているという事実を有権者たちの間で共有することができれば、この方法の正当性は明らかに担保されるだろう。



社会科学研究の目的は、各種の意見がすべて代表された、オープンな民主論争に取って代わるような数学的確実性を作り出すことではない。(p.601)


これは数学的な法則をひねり出して政策決定に影響を及ぼそうとする傾向のある最近の経済学への批判だろう。



今日の経済学者たちは、対照実験に基づく実証手法にえらく夢中だ。適度に使うなら、こうした手法は有益なこともあるし、一部の経済学者の目を具体的な問題と、その分野の直接的な知見に向けたという点(こうした展開はすでに遅すぎるくらいだ)では賞賛されるべきものだ。でもこうした新しいアプローチ自体も、ときにある種の科学性の幻想にしがみついてしまう。たとえば純粋かつ本物の因果関係の存在を証明するのに多大の手間暇をかけつつ、その問題自体がそれほど興味深いものではないことを忘れてしまうことだってあり得る。新手法はしばしば歴史の無視につながり、歴史的な経験こそが今でも主要な知識の源泉なのだという事実も見失わせてしまう。(p.605)


ピケティは数式を多用するような経済学に対して手厳しく批判しているが、この箇所は行動経済学への批判と思われる。ある意味、実証主義に対する歴史主義からの批判という点では、比較的古典的な議論が繰り返されているように思われ興味深い。



 逆に、他の分野にいる社会科学者たちは、経済的な事実の研究を経済学者たちに委ねたままではいけないし、数学が出てきただけで震え上がって逃げ出したり、あらゆる統計など社会的構築物でしかないなどと言うだけで満足したりするようではだめだ。もちろん社会構築物だというのは事実ではあるが、それでは不十分なのだ。逃げるのも社会構築物だと言うのも、根っこでは同じでしかない。それはその分野を他人に明け渡すということだからだ。(p.606)


経済という現象、分野を経済学者に明け渡してはいけない、という指摘は非常に重要。