FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

トマ・ピケティ 『不平等と再分配の経済学 格差縮小に向けた財政政策』

 言い換えるならば、学校教育を成功させるチャンスは、その教え方の質よりも、クラスの仲間の「質」にいっそう依存している。この点はとくに、初等・中等教育のレベルで示される。苦しい生活状況にある郊外に、大学教授資格(アグレガシオン)を持った教員を派遣することは、学校教育の成功をはっきりと改善させることにほとんどならない。他方で、生活困難な状況にある郊外の高校生をパリの高校に送り込むことは、かれらの成功する確率を著しく高めるチャンスを強く与える。(p.132)


教師よりもクラスの仲間の質が重要というのは、私の実感とも合致している。


スポンサーサイト



リチャード・セイラー 『行動経済学の逆襲(下)』

どの管理職も、自分が責任を負うことになる結果については損失回避的になる。組織では、人間が生まれながらにして持っている損失回避性が、報酬と懲罰の体系によって悪化することがある。多くの企業では、大きな利益をあげても報酬は小さいが、それと同じ規模の損失を出せばクビが飛ぶ。このような条件だと、最初はリスク中立的で、平均的な利益を見込めるリスクならとりにいこうとする管理職でさえ、やがて非常にリスク回避的になっていく。こうした組織構造は、問題を解決するどころか、いっそうこじらせてしまうのである。(p.28)


個人の資質の問題というより組織の運用のされ方、その運用の蓄積が大きな意味を持ってくる。ここでは企業について述べられているが、行政組織にもこの考え方は当てはまる。

例えば、森友問題の時の佐川元理財局長などは、これが反対方向に作用していることがわかる。どのような不正行為(虚偽答弁)であっても、安倍にとって都合よく振舞えば政権からは利益を保障されるということであれば、リスクを取りに行く(虚偽答弁、誤魔化しの答弁を連発する)。セイラーはこうした損失回避性が強められてしまうことは、組織の問題だと指摘しているが、佐川元理財局長の振る舞いも、内閣がその時の内閣に都合の良いように官僚を処遇できるようになっている組織の問題が大きな背景要因となっていることを理解すべきであろう。まずは、内閣人事局を廃止することが必要だろう。

なお、これは2つ前のエントリー(『ウェーバーとその社会』)で19世紀末から20世紀初頭のドイツの大学に関して私講師法が成立したという話とも共通する問題である。ドイツの大学の教授たちだけでなく私講師にまで政府が人事介入できるようになったという問題だったが、日本の内閣人事局も人事を通じて時の政府に都合の良いものだけに権限や権威を与えていくことで社会を歪めて行こうとする点で全く同じである。



 リスク回避的な部長の例も、23件の投資プロジェクトを実行したくても3件しかできないCEOの話も、プリンシパル=エージェント問題の重要なポイントを雄弁に説明している。経済学の文献では、このような失敗はたいてい、企業の利益を最大化しない意思決定をして、自分の利益を優先させて行動したエージェントに“責任”があるかのように描かれている。組織の厚生ではなく自分の厚生を最大化しているために、まずい意思決定をしているというわけだ。この記述が正しいことも少なからずあるが、多くの場合、真犯人は上司であって、部下ではない
 管理職がリスクをとりにいくようにするには、事前に価値を最大化していた意思決定に報いる環境を整える必要がある。つまり、事後に損失を出すことになったとしても、管理職が意思決定した時点で入手可能な情報に基づいて評価するということだ。こうした政策を実行する障害になるのが、後知恵バイアスである。……(中略)……。この組織では適正なリスクをとることができないと社員が感じられる環境をつくれていないことこそが、問題なのである。(p.32)


後知恵バイアスに打ち勝って事前に入手し得た情報だけで評価するというのは、広く人々に求めていくのは、そのままでは難しいように思う。そのための具体的な仕組みを考える必要があるように思う。



 行動学的な分析が強く求められる重要なマクロ経済政策の1つが、経済を刺激するための減税措置である。……(中略)……。ケインズ型の減税の場合、政策当局は消費行動を最大限に刺激したいと考えるだろう。これについては、合理性の枠組みでは無関係とされているが、政策当局が考慮するべき点がある。減税額を一括して還付するか、1年間にわたって分散させるか、という問題だ。エビデンスに基づく消費者行動のモデルがなければ、この疑問に答えを出すことはできない(私としては、支出を刺激するために減税をするのであれば、減税額の還付を分散させることを勧めたい。還付金が一括して支払われると、貯蓄や借金の返済に回ってしまいやすい)。(p.279-280)


一度このような問題に目が開かれてくると、通常の理論的なマクロ経済学の記述の多くに不満を感じるようになる。例えば、私は本書を読んだ後に、ピケティの初期の本『不平等党再分配の経済学』を読んだのだが、データ重視の『21世紀の資本』と異なり、初期の本では理論的な説明が主体となっているため、この不満を多く感じることになった。経済学では、実際には同じではないものを同じであると勝手に仮定して述べることがいかに多いかを実感した。

(私の個人的な感じとしては、初めて経済学について勉強した際に感じた違和感の正体が、行動経済学を知ってからわかるようになったと思っている。恣意的な強い仮定をおいた杜撰な推論を重ね、数式やグラフを用いることで、その問題点が目立たないように糊塗している議論がいかに多いことか。教科書の記述でさえそうである。)



 減税の呼び名でさえ、意思決定に影響を与えると考えられる。エプリーらは「特別減税」と呼ばれる減税は「戻し減税」と呼ばれる場合よりも消費性向が高くなることを突き止めている(Epley et al.,2006)(p.281)


使われる呼び名が印象だけでなく行動まで大きく変える。

安倍政権がやたらと印象操作的な用語(安保法制ではなく平和安全法制、検察庁法改正ではなく国家公務員法改正など)を多用するのは、明らかにそれが効果的だ(費用対効果がある)からであることが分かる。

呼び名はそれが実態をどの程度反映しているのかをまず確認し、そこからの偏倚によってその呼び名の意図がどこにあるのかを良く考える必要がある。また、邪悪な意図(誤魔化しや虚偽)が疑われる場合、その用語法に(特にメディアは)乗らないようにすることも重要だ。


リチャード・セイラー 『行動経済学の逆襲(上)』

経済学者にはそれぞれ流儀というものがあり、自分のやり方を変えようとはしない。たとえそれが、いまある地位を長い年月をかけて築いてきたというだけの理由であってもだ。(p.84)


ここで述べられていることは経済学者に限ったことではないが、この振る舞いはホモ・エコノミクス(エコン)とは全く違うものだ、ということを経済学者には特に指摘してやることはできるだろう。



しかし、機会費用のことがいつでも頭から離れないようだと、視野が狭くなって、まちがいを犯しやすくなる。今月の家賃をどう工面しようかとずっと心配していなければいけない状態にあるようでは、払わなければいけない勘定すべてに気を配るのが難しくなり、そのせいで、給料を担保にした高利のローンを組んでおきながらもそれを借り換えるといった、貧しい人がする悪い意思決定をやってしまいがちになる。(p.111)


生活保護の受給者などが借金を返すために別の借金をする(本来のルール上は借金はしてはいけないことになっているはずだが)というようなやり方で次々と無意味な借金を重ねていくというのは、まさにここで言われている悪い意思決定だが、なぜこうした人たちのある程度の割合の人がそのような愚かな行動をするのか、少し腑に落ちたように思う。



アメリカがベトナムで不毛な戦争を続けたのは、莫大な戦費を投入していたために撤退できなくなったからだと、多くの人が考えている。……(中略)……。新たに1000人の命が失われ、新たに10億ドルが投入されるたびに、負けを認めて撤退することはどんどん難しくなっていったと、スタウは指摘する。このように、無関係とされている要因が非常に大きな重みを持つことがある。(p.122-123)


これはマックス・ヴェーバーもすでに20世紀初頭に指摘していたことだが、行動経済学ではこうした指摘の内容をより具体的に実証し、理論化することが出来る点で、ある意味、進歩がみられると言える。そろそろヴェーバー没後100年ということもあり、ヴェーバー関係の本が何冊か出版されるようだが、私が最近考えるのは、ヴェーバーの議論は行動経済学の観点から見ると、かなり相対化することができる、つまり、行動経済学の知見を使うことで彼の理論の誤った想定などを指摘していくことが出来るのではないか、ということを考えている。



 MBAコースの学生は、エコンのように考えることを学ぶが、それと同時に、ヒューマンのように考えるというのがどういうことなのかを忘れてしまう。これもカーネマンの言う「理論による眩惑」の事例である。実際、「雪かき用シャベルの公正性」に関する質問をMBAコースのクラスでしたところ、学生たちの反応は、標準的な経済理論に沿うものとなった。(p.224)


あらゆる社会科学の中でも、経済学の専門家に対して、「この人は頭が悪い」という感覚を覚えることが多い。その理由はここにあるように思われる。この「理論による眩惑」は経済学に限らず、政治学や社会学などでも当然あると思うが、これらの学問では経済学ほどには標準的な理論が現実離れしていないため、まだヒューマンの考え方に近いものを保持しやすいという違いがあるように思われる。

初めて経済学を学んだとき(当時はまだ社会学など他の社会科学の考え方もほとんど身につけていなかった頃)に「現実を説明したり理解するのに役立ちそうにない間違った理論ばかりだ」と直観的に感じたことが想起される。(まぁ、現実とは異なる理念型ないしはモデルとして理解することによって、ある程度の役には立て得るということは、それから少しすること分かったが。)



ヘザー・ブーシェイ、J・ブラッドフォード・デロング、マーシャル・スタインバウム 編 『ピケティ以後 経済学と不平等のためのアジェンダ』(その2)
エローラ・デレノンコート 「世界格差の歴史的起源」より

黄熱病やマラリアといった感染症がどう広がるかについてのヨーロッパの知識がないため、各種の植民地候補地で直面された自然環境は、著者たちに言わせると、ヨーロッパ人がどこに入植できるかについての外生的なばらつきの源となる。入植能力は、ヨーロッパ人が別個の制度を構築するインセンティブを決定した。死亡率が高かった地域では、入植はしにくかったので、収奪的な制度は奴隷による換金作物の生産を特徴とし、フランチャイズ化にも制限がかかった。死亡率が低いところでは、ヨーロッパ人たちは自ら入植して比較的包括的な制度を構築し、政治システムに抑制と均衡を持たせ、私有財産保護を強調した。
 この病気環境が決定した当初の制度的な分岐は、今日の経済制度やパフォーマンスを予測できる。旧植民地の中で、病気環境がヨーロッパ人たちの入植を阻止した場所では、財産権も確立しておらず、一人あたりGDPも低い。これに対し、ヨーロッパ人の死亡率が低かったところは相対的によい結果を出している。したがって、著者たちはこの実証的結果を、包括的な制度が長期的な経済パフォーマンスを改善し、収奪的な制度はそうでないという仮説を支持するものと解釈している。(p.505)


見せかけの因果関係である可能性は残るが、興味深い視点ではある。



エリザベス・ジェイコブズ 「どこにでもあり、どこにもない――『21世紀の資本』における政治」より

アメリカの政治は一般に、権力が断片化され権限が広く分散した制度環境として特徴づけられている。政治社会学者マーガレット・ウェアーとテダ・スコクポルがまとめたように、アメリカは「弱い国家行政、分断され断片化された公的権威と、非プログラム的政党の独特な複合体を持つ」。アメリカにおける州別歳出は、アメリカにおける政治権力の断片化の直接的な結果だ。議会レジームの税制を作る中央集権的な力とはちがい、アメリカでは税制は議会で書かれている。これはきわめて断片化した意思決定機関だ。そして議員たちの選挙当落を決定的に左右できる強力な政党がないので、議員たちは地元の有権者の声を聞き、おかげで地元で定義された要求や解くべき利益団体の圧力にことさら弱くなる。この断片化は金持ちの力を増幅し、さらにその政策への分不相応な影響力にさらに貢献し、経済格差が政治的格差につながる格差のサイクルを永続化させるのだ。(p.528)


政治権力が断片化されていることが利益団体の圧力の影響力を相対的に強いものにしており、格差のサイクルが永続化されるという見方は興味深い。ただ、この見方では70年代以前と80年代以降のアメリカの(例えば税制の累進性などの)変化を説明できないのではないか。



ヘザー・ブーシェイ、J・ブラッドフォード・デロング、マーシャル・スタインバウム 編 『ピケティ以後 経済学と不平等のためのアジェンダ』(その1)
J・ブラッドフォード・デロング、ヘザー・ブーシェイ、マーシャル・スタインバウム 「『21世紀の資本』から3年たって」より

金持ちは、自分と似た人びとを好む――そして厚生の分布が「金持ちのお気に入りは誰か」で決まる社会は、社会民主主義時代に実現した人種的、ジェンダー的な平等の進歩を維持する可能性が低い。(p.26)


これは金持ち、すなわち経済的権力者だけでなく、政治的権力者に置き換えてもほぼ同じことが言える。ここで言う政治的権力者というのは、単に現に政治権力を持った立場にいるというだけでなく、政治権力を持ちやすい立場に生まれたことによって、そうした地位を得ているような人のことである(例えば、かつての大物政治家を世襲した政治家は、その政治的リソースを相続するため、権力を得やすい)。

安倍晋三や麻生太郎などはその代表例であるが、彼らはまさに「似た人びと」であり、人種的、ジェンダー的な平等を掘り崩す方向に社会を進めているのを見て取るのは容易いだろう。



アーサー・ゴールドハマー 「ピケティ現象」より

多くのアメリカ人の目で見ると、シチズンズ・ユナイテッド対FEC裁判で、投票日直前の選挙応援コマーシャルの禁止が最高裁により違憲とされたことで、政治におけるお金の影響に対する防止策は一気に崩壊した。集中した富が、民主政治プロセスを歪める能力を持つという点は、ピケティの根底にある主題だ(ただし同書ではいささか展開が不十分ではあるが)。ピケティによれば、こうした影響こそがアメリカを、きわめて累進性の高い所得税や相続税のレジームから、最高所得に対してすら限界税率が低いレジームへと一変させた要因だ。(p.47)


日本の憲法論議でもテレビCMのあり方などが議論されているが、それと共通する論点がアメリカでも争点となったことがあり、それが極めて大きな影響を与えているのだとすれば、こうした事例を良く知ることは重要と思われる。



スレシュ・ナイドゥ 「W/Yを政治経済的に考える」より

なぜ極端な富の格差が、必然的に政治権力の格差を意味する必要があるのか?だが富が、リソースそのものではなく、そのリソースに対する警察の裏付けを持った紙の上での権利主張だと理解するなら、富の格差が持つ民主的でない性質がずっとはっきりする。(p.117)



富がある種の権利主張なのだという理解は、確かに富が権力であることを理解するにあたって参考になる見方である。



航空会社は金融を通じたカルテル化の見本のようなものとなった。少数の機関投資家が、ユナイテッド航空、デルタ航空、サウスウェスト航空などの大半の株を持っている。最近の研究によると、ある航空会社の株が追加でブラックロック社により購入されたら、航空運賃は3から10%跳ね上がる。(p.125)


興味ぶかい指摘。


ダン・アリエリー、富永朋信 『「幸せ」をつかむ戦略』

ソーシャルメディアでは、すべての人が自分のことを過度にポジティブに描き出している。フェイスブックにケンカについて投稿するカップルがどれほどいるでしょうか。あまりないことです。ソーシャルメディア上ではすべての人が自分より幸せだと考えるバイアスがあるということです。(p.52-53)


確かにこのバイアスは間違いなく存在する。



研究室では、正しいプロセスを経たら、その人はとても良い仕事をしたんです。私としては、プロセスではなく結果に報いるようなことはしたくない。ちなみに、これは人に不正直になるインセンティブも与えるんですよ。(p.120)


結果に報いることは人を不正直にする誘因になるというのは、安倍政権における官僚や閣僚などの言動を見るとまさにその通りだと思える。

安倍政権では正しいプロセスを踏むことを蔑ろにしていることは疑い得ない事実である。森友問題、加計問題、防衛省(自衛隊)の日報問題、IR汚職、桜を見る会、そして政権に近い検事長の定年延長問題などなど、いずれもプロセス自体にも問題があるが、安倍政権はこれらの事柄に関する情報開示の内容や方法なども、適正なプロセスを経ているとは到底言えない異常な対応を続けている。そして、その際、閣僚や官僚たちが極めて不誠実な答弁や回答を繰り返していることは明白な事実である。

余談だが、検事長の定年延長問題はIR汚職問題や河合克之・案里両議院の公職選挙法違反の疑惑とリンクしているものと推測する。これらの政権に不利な問題について、政権の不利になる度合いを減らすように働きかけることが目的ではないかと思われる。もちろん、政権側の意図や目的を明白に知ることは困難であり、しかもそれを知られたくないと思っているわけだから、立証することはできないが、裁判などの推定無罪の原則とは異なり、政府は、様々な疑問や疑念に対して政府の側こそが疑いを晴らす義務を負っている(それが有権者からの負託に対する説明責任を果たすということである)のであって、説明責任を果たさないということは有権者の権利行使を代表しているとは言えないということであり、権力の濫用をしているということになる。



明石順平 『アベノミクスによろしく』

日銀の金融緩和って、食欲が全然ない人の前に、思いっきり食べ物を積み上げるようなことだよね。そんなことしたって食べるわけないのに。(p.33)


マネタリーベースを増やせば、人びとにインフレ予想を起こさせ、貸し出しが増えて市中にお金が沢山出回るし、消費も伸びる、と前提されていたが、実際のデータはこのようになっていないことを示した後のコメント。「アベノミクス」で景気が良くなったかのような演出がされるが、自分の生活を顧みると全くそのように感じられないのは、実感の方が正しい(データと整合している)、というわけだ。



 (前略)ところでさあ、なんで直近2年だけ正規社員が増えているの?
 ずっと続いていた傾向が急に変わる背景には、法改正による強制力があると見るべきだね。これは正規社員の推移を男女に分けてみるとよくわかるよ。図5-10の表は、正社員減少が底打ちした2014年と、直近2016年の男女別の正規社員の増加を比較している。
 え?全然違うじゃん。男性は約20万人だけど、女性はその3倍の約60万人も増えてるね。増えた正社員の約75%を女性が占めているということか。これなんで?
 おそらく、労働契約法の改正が影響しているんじゃないかな。労働契約法の改正により、非正規でも5年を超えて雇った場合は、その社員からの申込みがあれば、正社員として雇うことが義務付けられた。
 非正規社員を雇って5年を超えたら正社員にしなければならないということか。
 そう。この法律の影響で正社員が増えたとすれば、男女差が異常に大きいのも説明できる。図5-11のグラフのとおり、非正規に占める女性の割合は約7割で、圧倒的に男性より多いからね。
 なるほどね。この法律改正が公布されたのっていつ?
 2012年の8月10日。つまり、民主党政権の時だ。だから、アベノミクスとは関係ない。(p.109-111)


安倍政権は、自身の政策の成果として求人倍率や失業率が改善したかのように言いふらしているが、それは全く成り立たない議論であることを本書は示している。その点をまとめたものは次の引用文にメモするが、上記は、正規雇用が減り非正規雇用が増える傾向が続く中、2年間だけ例外的に正規雇用が増えた時期についての説明。

この辺りは「悪夢のような民主党政権」という安倍政権による誹謗中傷も、やはり不当なものだということを示す一つのデータであると思われる。



日本は生産年齢人口(働き手)が減っていく傾向にある。
日本は、正規雇用が非正規雇用に置き換えられることにより、雇用をたくさん必要とする雇用構造に変化している。
高齢化の影響で、医療・福祉分野の需要が伸びている。

  以上の3つが重なって、人手不足の状態となり、有効求人倍率や失業率が改善していく。これらはアベノミクスが引き起こした円安とはまったく関係ない。
 だから、アベノミクスの前後で有効求人倍率や失業率のグラフの傾きが全然変わらないということなんだね。

……(中略)……。
モ そう。いろんな数字が「アベノミクスで良くなった」と言われているけど、鵜呑みにしてはいけない。アベノミクス前後で傾向に変化があったのかどうかを見極めなくてはならない。多くの場合、アベノミクスの前から改善傾向が続いている数字について、アベノミクスの「成果」とされてしまっている。(p.112-114)


①については、団塊世代が2007年頃、60歳になり定年退職を迎えたことの影響は無視すべきではないと考える。退職後もすぐに年金が出ないため、65歳まで多くの人が働くとすると、その時期がちょうど2012年であり、安倍政権が成立する時期に当たることは、この政権にとって極めて幸運な(日本に暮らす人々にとっては不運な!)結果となっている。



 まとめると、日銀(量的金融緩和・ETF購入)とGPIF(年金)のおかげで株価が維持されているということか。これ全部やめたらどうなるんだろ?
 大暴落するんじゃないかな。それがわかっているから、やめられない。でも、さすがにいつまでも続けることはできないだろう。
 大暴落したら年金吹っ飛んじゃうじゃん。
 そうだね。GPIFは2016年度に関しては7.9兆円という大きな利益を出した。だけど、そうやって短期的に利益を出した事実は、長い目で見た場合、重視すべきではない。まず、大きな利益を出したといっても、それは「含み益」であるという点が重要だ。……(中略)……。
 利益を出したといってもしょせん仮定の利益に過ぎないし、そのまま株を持っていても、やがて暴落して大きく損失を被ることが待っているということか。そう考えると確かに意味ないね。それ、結局ほぼ間違いなく年金吹っ飛ぶってことじゃん。(p.136-137)


年金などを株価の下支えに利用している点は、私も以前から苦々しく思っていたが、安倍政権に一貫しているのは、自身が権力を握っている間にだけ都合がよければよく、それ以後のことなど何も考えていない(むしろ、あとの時代を混乱させることで、自身の政権がよかったかのような誤解を広げようとしている)、という振る舞いである。このような権力者側の欺瞞的な態度に対して日本の社会全体として拒否反応があまりに小さいことに問題を感じる。



そして、はっきり言えるのは、円安も円高も行き過ぎると害があるから、ちょうど良いところでバランスを取らないといけない。だが、アベノミクスは明らかに行き過ぎた円安を引き起こし、賃金上昇を伴わない悪性インフレを招いて国内需要を冷え込ませ、経済を停滞させたと言えるだろうね。(p.145)


本書が出たのは2017年10月であり、2018年末頃に問題となった統計不正問題が問題化される前のことである。統計不正問題に対する野党の追及の中で、実質賃金の補正した値について安倍政権は実質賃金の数字は当面出さない対応としたが、これは政権に都合の悪い数字だからであろう。この疑惑を払拭する責任(これが説明責任である)は政府にある。すなわち、政府が疑惑を払拭できない限り――これとは別の解釈が可能であり、その解釈の蓋然性が高いと専門家を含めた大多数の人が思えるだけの具体的な事実を政府側が示さない限り――、そうであることを前提として政府の政策を評価すべきである。



ブラック企業は違法なサービス残業をさせて賃金をごまかしているけど、これは経営者が労働者から賃金を盗んでいるのと同じだからね。(p.166)


サービス残業とはこのようなものであるという認識は重要。





トマ・ピケティ 『格差と再分配 20世紀フランスの資本』(その2)

人民戦線が確立した新しい税率表は、それによって何が可能になるかという点においてとくに野心的なものだった。税率を平均税率で表わすことによって高所得層に対する税額をかなり増やせるが、その際、並み外れて高い限界税率を表に出さなくてすむのである。事実、人民戦線の税率表に示された最高税率(40パーセント)は、最高限界税率が60パーセントと72パーセントだった1923~1925年の所得課税時の歴史的な最大値よりだいぶ低い(表4-2を参照)。だが本質的な違いは、限界税率ではなく平均税率だということである。……(中略)……。そのポワンカレ時代の税率表と比べると、人民戦線が採用した40パーセントの平均税率は、高所得層の総合所得税の負担を著しく大きくする結果をもたらした。(p.354)


税率表が限界税率で書かれているか平均税率で書かれているかということは、税率を決める際の人びとの認識に大きな影響を及ぼす。現在のような超高所得者にとって有利な税制になっている現状においては、この効果を利用しない手はないと考えられる。



言い換えると、「200家族」(分位P99.99-100)の所得と平均所得、および「200家族」(分位P99.99-100)と高所得層の各分位との隔たりが、20世紀末のおよそ5倍以上だった時代には、最も給与の高い人々を含めて、賃金労働者を税制面で優遇することに「事実上」の根拠があったのだ。……(中略)……。超高額の資本所得が過去ほど高い水準でなくなった世界で、「所得の高い賃金労働者」に対して適用除外の税制を認めることはしだいに根拠を失っていった。(p.410-412)


給与所得と資本所得に対する課税の重さについて、興味深い指摘。超高額の資本所得が存在し、それが誰の目にも明らかであった時代には、資本所得より給与所得への課税を軽くすることに対する社会的なコンセンサスが存在したが、両大戦の時期に超高額の資本所得が大打撃を受け、さらに累進的な所得税などによってその復活が妨げられてきた20世紀末にあっては、その根拠はないとみなされるようになってしまった。



じつは、こうした適用除外の方式が帯びる重要性はかなり高いので、20世紀末に適用されている税制について「単一」の所得税という言い方をすることはおそらく誇張になる。20世紀末の所得税はかなりの程度まで、1914-1917年に確立された所得税と同じくらい「複合的」であって、本質的な違いは、いま寛大な扱いを受けているのが賃金所得ではなく動産資本所得だということである。(p.426)


この指摘は日本にも当てはまる。動産資本所得の優遇はやめなければならない。



 概して、資本所得への優遇を正当化するために第二次世界大戦直後になされた主張(戦争による荒廃、インフレなど)は1945年から今日までに著しく説得力を失い、20世紀末のフランスでそうした優遇になお意味があるのか考えてみることはきわめて理にかなっている。(p.429)


このことは日本にもそっくりそのまま当てはまるが、本書のいう通りである。



 所得税の分散化と「大衆化」の過程が「栄光の30年」と同時に終わることもまた注目に値する。前章で指摘したように、所得税は1980-1990年代には「下げるべき税」になる。1980年代初めにモロワ政権が実施した増税が20世紀最後の増税で、それ以後、所得税は引き下げる方向でしか改革できないというのが暗黙の了解になる。1980-1990年代のこうした転換がかなりの程度まで経済成長の不確実性によって説明できることは疑う余地がない。「栄光の30年」を通じて、所得が力強い伸びを示したことが、所得税増税を根拠づける口実になった(いずれにせよ、所得税は購買力の増大をきわめて部分的にしか削らなかった)。逆に、購買力が停滞した1980-1990年代には、所得税は納税者にとってしだいに耐えがたい徴収となる。(p.459)


この流れは日本もほぼ同様である。これを下げてしまったがゆえに、超高所得者への課税が軽くなり、膨大な格差が広がっていったことは21世紀も20年近く経過した現在から見れば誰でもわかることであろう。



所得税の目的は常に超高所得者の資産家に重点的に課税することであって、「高所得の賃金労働者」を標的にすることではなかった。(p.508)


なるほど。この認識は本書から得た大きな収穫だったように思う。



 1990年代末には、累進所得税の名目で申告される動産資本所得(主として「直接的」に所有される株の配当)は年に1000億フラン強である。同じ時期、源泉分離が適用される所得の総額は年に600億フランを超え、完全に非課税の各種預金口座と積立口座(A預金、青の通帳、産業振興向け預金口座、大衆向け預金口座、住宅購入積立口座、大衆向け積立口座、株式積立口座など)の保有者が毎年受け取る所得の総額は1300億フランに達する。したがって、適用除外制度が通常の規則になり、一般法の制度が例外になったと言っても過言ではないことがわかる。1990年代末には、源泉分離が適用される所得と、完全に非課税の預金口座と積立口座の所得の総額は年におよそ2000億フラン、つまり所得税納税のために申告された動産資本所得の2倍近い額である。これら二つの適用除外制度がなくなれば、つまり源泉分離制度が廃止され、完全に非課税の預金口座と積立口座すべてが、1914-1917年に制定された税法におけるように一般法としての所得税の対象になれば、累進所得税を課せられる動産資本所得の総額はおよそ3倍になるだろう。この数字から、動産資本所得に対する課税方法が20世紀を通じていかに劇的に変化したかが理解できる。(p.526)


恐らく日本でも同じような傾向になるのは間違いないと思われるが、具体的な数字としてどの程度になるのかが気になる。



1970-1996年に申告をした超高所得層は(1981-1982年を含めて)、最高限界税率の変化にはっきりした形で反応した様子はなく、超高所得の相対的水準の短期的変化をもたらしたのは、課税による刺激よりもむしろ、マクロ的経済循環(限界税率の変化とは無関係に、景気後退局面では超高所得層は他の所得層よりも落ち込みが著しく、景気回復局面では他の所得層よりも上昇が早い)である。(p.568)


前段の事実は、いわゆるキャピタルフライト論に対する批判となる事実(少なくとも過度に心配する必要はないことを示す事実)であると思われる。



アングロサクソン諸国が、今日私たちが知るような非常に不平等な国になったのは1980-1990年代のことである。イギリスは1970年代の初めには北欧諸国と同じ水準であったが、20世紀末にはヨーロッパで最も格差の大きい国になった。アメリカは1970年代初めはヨーロッパ諸国の平均値と同じ水準だったが、20世紀末には西洋諸国の中で最も格差の大きい国になった。(p.652)


サッチャーやレーガンに代表されるような新自由主義的な政策が採られた結果、どのようなことが起こるかが如実に表れている。ある意味、このように不平等で貧困層が厚い不安定な社会になったからこそ、その後、アメリカではラストベルトの人々などがトランプのようなポピュリスト的な排外主義者を称揚して支持するような事態になったり、イギリスもEUから離脱するような選択をしてしまったり、といった政治的に不安定な事態に繋がっていると理解すべきだろう。



 ただし、経済的な観点からは、1914年から1945年までに起こった資産格差の縮小が、戦後の発展した経済を活性化するのに貢献したという考え方は完全に正しく、妥当であるように思える。資本蓄積のカウンターを「ゼロにリセット」することにより、資本と権力を手に入れる方法を独占していた資本主義の古い財閥の没落は加速されたが、それは新しい世代の個人事業主の出現に有利に働いた。……(中略)……。
 したがって、この説によれば、大きすぎる資産格差の存在は経済発展と経済成長にマイナスの影響を与える。なぜなら、こうした格差のせいで、重要な決定(新たな投資、新しい企業の創設など)が一握りの国民の中で行われるようになり、価値ある計画をもっている多くの人々が決定にかかわれなくなるからである。同様の理由から、累進所得税と累進相続税は、あまりにも大きな資産格差とあまりにも大きな相続格差がふたたび形成されるのを防ぐので、経済成長にとってプラスの影響を与えるだろう。その場合、これらの税の正当性に反論することはむずかしいだろう。累進性の高い税の存在は、資本主義が生み出す最も不当な格差を消滅させるだけでなく(あるいは少なくともかなり減少させるだけでなく)、経済発展も活性化させる。とはいえ、これは仮説にすぎず、激しい政治論争が起きたとしてもどんな言い訳にでも逃げ込んでしまえるほど不確定要素が強い。事実、このような説の妥当性を、誰にでも受け入れられるような完璧に厳密な方法で証明することはきわめてむずかしい。経済成長には多くの要因があり、個々の要因を切り離すのは不可能なことが多いからである。「栄光の30年」にはすべての先進国で非常に累進性の高い税が適用されたが、明らかに、そのことが例外的に速い経済成長を達成する妨げにはならなかったことを確認するにとどめよう。(p.706-707)


資産や所得の格差が大きくならない方が経済的な活力も大きくなりやすいという説には私も同意見である。少なくとも経済の需要側を活性化させることは間違いない。供給力が需要を上回る社会においては間違いなく妥当するだろう。

少なくとも累進税が高度経済成長を妨げた事実はないという点はピケティと同様に強調する価値があると思う。



20世紀の経験は、あからさまに格差が大きくなった社会は本質的に不安定だということを示している。過去についての研究から、資本が集中しすぎると社会正義の観点からだけでなく、経済効率の点でも否定的な結果になるように思える。1914年から1945年までに起こった資産格差の縮小は、昔の資本家による財閥を衰退させ、新しい世代の個人事業主の出現を促したことで、「栄光の30年」の時期に西洋社会において経済を活性化させたというのは大いにありえることである。累進税には、第一次世界大戦前と同じような状況がふたたび現れることを妨げるという長所がある累進税が適切に適用されなければ、長期的にはある種の経済停滞が起こってしまうだろう。(p.715)


全く同意見である。ピケティは膨大なデータに基づき、厳密な方法で論証を積み重ねた結果この結論に達しているということに注意を促しておきたい。

逆進性の高い税制にしていくと経済停滞に陥る。現在の日本政府の政策を見ていくと、それが真実だとわかる日が来るだろう。ただ、誰の目にも明らかになった時には恐らく手遅れだろうが。(というか、政策の効果が表れるタイムラグが数年や十数年にわたることを考えると、因果関係をはっきり認識できる人は少数派にとどまるのだろう。)

このことに多くの人が気付くにはどうすればよいのだろう?高等教育、マスメディア、インターネットといったものの情勢を総合的に考えると、楽観視することは私には到底できない。


トマ・ピケティ 『格差と再分配 20世紀フランスの資本』(その1)

これから見ていくように、所得税とはおもに、高給与者が多い「中流階級」(分位P90-95)や「上位中流階級」(分位P95-99)ではなく、資本所得による超高所得者が分布している所得階層トップ百分位の上層に対して課税するための手段であった。(p.296)


しかし、現在の所得税は資産に対して軽い税率が適用される傾向にある。このため、十分に本来の機能を果たせていないと考えている。



限界税率の最高値が、私たちにとって長らくなじみ深いものになっている数十パーセントといった「現代的な」レベルに達するのは、第一次世界大戦以降なのである。(p.309)


所得税は導入された当初はそれ以前のいわば「伝統的」な税率であった(最高税率2%とか)。総力戦のために所得税が導入・拡大されたという面は否めない。



それに対して「限界税率」による税率表では、算出のしかたがより複雑なためにいろいろな誤解が生じ、多くの識者や納税者に、高所得層に実際に適用される税率をかなり過大評価させてしまうことがある。(p.333)


確かに。


リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン 『実践行動経済学 健康、富、幸福への聡明な選択』

民間企業や政府当局がある政策のほうがより良い結果を生みだすと考えている場合には、それをデフォルトに選べば結果に大きな影響を与えることができる。(p.21)


デフォルトの力は大きい。



人々の意図を測定すると、人々の振るまいに影響が及ぶのである。「単純測定効果」とは、なにをしようとしているのか質問されると、答えに沿った行動をとる可能性が高くなるという発見をいう。この効果は様々な文脈で認められる。ある特定の食品を食べるつもりであるか、ダイエットをするつもりであるか、運動するつもりであるかどうか質問されると、質問に対する答えが行動に影響を与える。単純測定効果はわれわれの言うところの「ナッジ」であり、民間部門や公的部門で使うことができる。
 選挙戦略の担当者は支持者を投票に行かせるようにしたい。どうすればそうできるのだろう。すぐに思い浮かぶ答えは、投票の大切さを強調することである。支持者が投票に行きやすくして、コストと負担を減らすという方法もある。しかし、もう一つ別の策がある。選挙の前日に投票するつもりかどうか質問すると、その人が投票に行く確率を25パーセントも高められるのだ!また、携帯電話や自動車など、特定の商品の新規購入を増やそうとしているとしよう。全米の代表的サンプルの4万人以上を対象とする調査で、対象者に簡単な質問をした。「今後6カ月以内に新車を買うつもりですか」。こう質問しただけで、購入率は35パーセント上昇した。今度は、当局者が人々が健康を増進する手だてをとるように促したいと考えているとしよう。健康に関連する行動については、人々の意向を測定することによって大きな変化が生まれている。次の週に何回デンタルフロスを使って歯の間を掃除するか質問すると、フロスを使う回数は増える。次の週に高脂肪の食品を食べるつもりかどうか質問すると、脂肪の多い食品を食べる量は減るのだ。(p.116-117)


この知見は結構応用範囲が広そうな気がする。仕事の使えそうな場面で使ってみたい。



 全体的に見ると、宣伝は幸せな夢より悪夢に近かったことがヘンリック・クロンクビストの研究によって明らかになっている(Cronqvist[2007])。ファンドの宣伝のうち、手数料など、合理的な投資家にとって問題になる特性について直接的に情報を提供していると判断できるものはごくわずかしかなかった。そして、ファンドは過去のリターンを喧伝していたが(リターンが高かったファンドの場合だが)、広告は決して将来のリターンが高くなることを保証するものではなかった。それでも、ファンドの宣伝は投資家のポートフォリオの選択に強い影響を与えた。期待リターンが低く(手数料が高い)、リスクが高い(株式の組み入れ比率が高く、アクティブ運用の比重が大きく、“ホット”なセクターの比率が高く、ホーム・バイアスが強い)ポートフォリオを選ぶように人々を誘導したのだ。(p.240)


この件を読んで心配になった(増大した)のが、日本の国民投票法では憲法改正の際の宣伝が、通常の国政選挙のような縛りのない中で行うことができるという点であった。宣伝(広告)は合理的な判断から遠ざからせ、悪い結果へ人々を導くとされているが、金があればいくらでも宣伝をすることができ、デマを事前に排除するような審査も十分ではないため、たとえデマを流しても、それがデマだったことが投票の後になってから明らかになるということが起きかねない。

安倍政権のように不都合な情報は隠蔽し、真実を知ろうとする質問をはぐらかし続け、政治を私物化し続けるような政権が長く続き、権力者が使う不誠実な論法(ご飯論法)が巷にあふれている状況が続いている昨今の日本においては、とりわけこうした制度設計がもたらす危険性は高いように思われる。(例えば、日大のアメフトの危険タックル指示問題に対する大学当局側の対応も――この対応が安倍政権と似ているとの妥当な指摘もあったようだが――、安倍政権の不誠実な対応を日常茶飯事として見せられ、そのような対応をしても政権側がまともに責任も問われないという状況を日々目にしていることと無関係とは言えないだろう)。



 こうした問題にアプローチするため、われわれの指針原則の一つに立ち戻ることにする。「透明性」である。この文脈では、ジョン・ロールズの言う「公知性の原則」を支持する(Rawls [1971])。最も単純な形の公知性の原則とは、政府が市民に対して正当性を公然と主張できないか、そうする意思のない政策を選択してはならないというものである。われわれは二つの理由からこの原則に好感をもっている。第一の理由は、実際的であることだ。政府が正当性を公然と主張できないような政策を導入すれば大きな困惑を呼び、政策やその根拠が開示されたりしたら大問題になるだろう(アブグレイブ刑務所にこの原則が適用されていたら、あのような残酷で品位を貶める行為は起こらなかっただろう)。第二の、そしてもっと重要な理由は「尊重」という概念に関係する。政府は統治する人々を尊重すべきであり、正当性を公然と主張できないような政策を導入するのは、統治する人々を尊重していないということだ。国民を操作の道具として扱っているのである。この意味では、公知性の原則はうそを禁じることに結びつく。うそをつく者は人々を目的ではなく、手段とみなしているのである。(p.357)


この件は安倍政権に対して最も欠けているものであり、私がこの政権を最悪の政権と評価する所以である。森友問題、加計問題、日報問題、裁量労働制を巡るデータの捏造など、いずれも公然と公表できないようなこと(政治の私物化)をしているからそれらの情報を隠蔽したり改竄したりごまかしの答弁で時間を稼いだりし続けているのは誰の目にも明らかだろう。

なお、安倍政権の国民を全く尊重しない対応というものは、こうした問題に限ったことではない。安倍政権は最初からごまかしばかりであり、論点ずらしの発言ばかりを続けているからである。例えば、「アベノミクス」などというのも、財政の悪化などを隠しながら(論点化させないように情報操作ないし印象操作しながら)行ってきたものであり、不都合な点を隠蔽しているからできているに過ぎない(政権が交代したり首相が代わった後になってから、この数年間で撒かれた問題が表面化してくるだろう)。

「公知性の原則」は再認識されるべき時を迎えていると思う。