アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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ダンカン・ワッツ 『偶然の科学』

 このように、常識の矛盾とは、世界に意味づけをするのに役立つにもかかわらず、世界を理解する力を弱めてしまうことだ。(p.13)


世界のメカニズムを理解することとそのメカニズムの意味を見出したり解釈することは別のことであるが、常識は前者が得意ではなく、後者を得意としているという。だから常識で世界を理解しようとすると誤りやすい。

思うに、情報に分かりやすさを求めてしまう傾向が広くみられることも(例えば、マスメディアで政治を取り上げるとき、ワイドショーで取り上げられると「盛り上がりやすい」など)、人間のこうした性質と関係があるように思われる。



 これらの心理学の実験が明証していることを一言でまとめるとこうなる――われわれの行動にきわめて現実的、具体的な影響を与えるにもかかわらず、もっぱらわれわれの意識しないところで働く関係要因は実に数多くある。(p.54)


本書の前半は方法論的個人主義が批判されるが、ここでの指摘の内容はウェーバーの理解社会学の方法(これは本書で言う「常識」に基づく方法に属する)が、いかに社会における因果関係などを把握するのに適切ではないかを示すものである。



ダ・ヴィンチは賞賛されてこそいたものの、1850年代まではティツィアーノやラファエロのような絵画の真の巨匠には及ばないと見なされており、このふたりの作品の一部は<モナ・リザ>の10倍近い価値があった。
 実のところ、<モナ・リザ>が急激に人気を博して世界に名を知られるようになったのは20世紀になってからである。……(中略)……。すべてのきっかけは、一件の盗難事件だった。(p.72)


このあたりの経緯(ここでは詳細に引用しないが)も非常に面白い。



われわれは芸術作品をその特質に基づいて評価しているように思えるが、実は反対のことをしている。つまり、まずどの絵が最高かを決めたうえで、その特質から評価基準を導き出している。こうすれば、すでに知っている結果を一見すると合理的かつ客観的な形で正当化するのに、この評価基準を引き合いに出せる。しかし、これがもたらすのは循環論法である。われわれは<モナ・リザ>が世界で最も有名であるのはXとかYとかZとかの特質を備えているからだと言い張る。だがほんとうのところは、<モナ・リザ>が有名なのはそれがほかの何よりも<モナ・リザ>的だからだと言っているにすぎない
 ……(中略)……。だが、いま述べたような循環論法、つまりXが成功したのはXがXという特質を持っていたからだとする論法は、何かが成功したり失敗したりする理由を常識に基づいて説明するときに広く見受けられる。(p.75-77)


ここでの指摘はウェーバーの理解社会学で行われている手続きに対しても全く同様に当てはまるものであり、方法論的個人主義の問題点を的確に抉り出していると思われる。



 方法論的個人主義の主張者は、この根本中の根本の説明ができると考えていたが、あいにくそれを打ち立てようとする試みは、ことごとくミクロ-マクロ問題に正面から阻まれてきた。そのため実際のところ社会科学者は、代表的個人と呼ばれるものを引き合いに出し、この架空の個人の決断に集団の行動を代弁させている。(p.84)


実際、私自身もミクロ・マクロ問題が解決できる方法としてウェーバーの理念型を用いた理解社会学の方法をかつて非常に高く評価していた。



 言い換えれば、われわれは結果の原因をひとりの特別な人間に求める誘惑に駆られるが、この誘惑はわれわれがそのような世界の仕組みを好むからであって、実際にそのような仕組みになっているわけではないことに留意しなければならない。……(中略)……。
 このようにして常識に基づく説明は、なぜ物事が起こったかを教えているように思えても、実は何が起こったかしか述べていないのである。(p.155-156)


ここで指摘されていることは、政治について話題にする場合に、政策論よりも政治家のスキャンダルや問題発言などの方が話題になりやすいこととも関連があると思われる。



したがって、進行中の歴史は語りえないのであって、その理由は当事者たちがあまりに忙しかったりあまりに混乱していたりして歴史を解き明かせないからだけでなく、起こっていることは結果が明らかになるまで意味づけができないからでもある。(p.161)


なるほど。



 要するに、うまく機能したチームがすぐれた結果を出したのではなく、見かけ上のすぐれた結果がチームはうまく機能したという錯覚をもたらしたことになる。そして注意していただきたいのだが、この評価は内部情報を持っていない外部の観察者がくだしたのではない。チームのメンバーたち自身がくだしたのである。つまり、ハロー効果は成績や実績にかかわる世間一般の通念をくつがえす。結果の評価はそれに至った過程の質で決まるのではなく、観察された結果の性質が過程の評価を決めるのである。(p.279)


能力給や成果主義、短期的な人事評価制度などといったものがうまくいかないのも、ここで述べられている点と関連が深いと思われる。見かけ上のすぐれた結果を得たチームにいれば評価され、実際にうまく機能したかどうかは問われない。評価は偶然によって生まれた結果によって決まってしまう。これでは意欲が削がれるのも当然であろう。



 この累積的優位の効果と生まれながらの才能や努力の差とを区別するのはむずかしいが、似た能力の人々をどれだけ慎重に選ぼうとも、マートンの理論が示すとおり、その成功の度合いは時間とともに大きく異なってくることが、数々の研究によって明らかにされている。たとえば、不況時に大学を卒業した人は、好況時に卒業した人より、稼ぎが平均して少ないことが知られている。(p.289-290)


偶然のもたらす結果の違いは大きい。


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ライプニッツ 『単子論』
この『単子論』は岩波文庫版であり、訳者は河野与一である。

『説』le systèmeは17世紀及び18世紀前半に於ては今日の「体系」の意味に用ゐられたことは寧ろ少く、普通には「意見」「見解」「説」「仮説」の意味に用ゐられてゐた。(p.61)


訳注より。用語の意味の変遷は面白い。次に知りたいことは、何が契機や背景となって意味の変化が起こったのか?である。



 ここにライプニツの最善観 l'optimismeが現れてゐる。現実の世界は可能的世界の最善なるものである。最も豊富な合成体で、場所が最もうまく利用されて、できるだけ多数の要素を含み、而もその要素は展開して最も完全な調和を実現するやうになつている。勿論さう云つたところで世界が毫も悪を含まないといふのではなく又悪の量が少いといふのでもない。創造に先立つて可能的なものの中に豫め必然的に存した不完全性は神と創造物との区別をつける点であつて創造の後にも消滅せずにゐる。さうしないと想像につて神と同じものが出来ることになるから不合理である。然し神の選んだ世界は悪の量ができるだけ少くなつてゐる。(p.268)


訳注より。最善観とされているものの意味内容が理解できたように思う。ただ、不完全性は神と被造物の区別のために必要だとする理由づけは、誰もが承認しうるような議論とは言えず、キリスト教の特定の考え方に抵触しない世界観を表現しなければならないという前提のもとで、その前提から発してひねり出された理由としか思えず、説得力には乏しい議論と言わざるを得ない。また、ライプニッツの哲学全体に言えることだが、これこれのものとして観察し、確認された事実を述べているところは形而上学的な著作においてはほぼないと言ってよいほどであり、これに代わって上記のような前提からひねり出された発想に基づく想定をあたかも事実として扱い、それによって前提に抵触せずに説明できたことにライプニッツは満足しているように見える。(こうしたことはライプニッツに限らず、同時代の哲学にはよくみられるが。)



私はこの作用力があらゆる実体に内在し如何なる作用も常にそこから生ずると説く。従つて、物体的実体でも(精神的実体と同様に)作用を止めることは決してない。物体的実体の本質が専ら拡がりにのみ存する、乃至不可入性にのみ存すると考へ、物体はどう見ても静止してゐるものだと考へる人々は、十分この点に気附いてゐないやうである。(p.470)


これは「単子論」ではなく「第一哲学の改善と実体概念」という論文からの引用だが、例えば、デカルトは物体を「延長」として規定したが、「延長」や「拡がり」や「侵入できないこと」といった性質によって物質を規定する場合、極めて静態的なイメージにより理解されることになるが、ライプニッツはこれに対して、「実体」をより動的なものであると捉えているところに特徴がある。観察者の視点で書かれているが、システムの作動の局面を感得しているものと推察される。


W.G.ランシマン 『マックス・ウェーバーの社会科学論』

徹頭徹尾実証主義者である人々の主張の、また徹頭徹尾観念論者である人々の主張の、最も容易な吟味は、その困難ゆえにあえて選ばれた範例に即して、それを吟味してみることである。(p.22-23)


ある主張にとって都合の良い範例に即してその主張を吟味してみても、その主張を検証したことにはならない。むしろ、その主張にとって説明が難しい範例に即してどのような説明が可能かということを吟味することが、その主張の妥当性や妥当する範囲などを確認することに繋がる。



ユルゲン・コッカ 『〔新版〕ヴェーバー論争』

まず、フーフナーゲルが浩瀚な文献的知識に依って明らかにしているように、ヴェーバーは彼の「理念型」概念を決して十全かつ体系的に説明したことはなく、それ以来理念型には、高度の――ある人には厄介な、他の人には「可能性豊かな」――「両義性(アンビヴァレンツ)」がつきまとっている。次に、モムゼンが明確に示した如く、マックス・ヴェーバーの理念型理解はいくつかの段階を経てきた。後期ヴェーバーの理念型は、「プロテスタンティズム」論文や「客観性」論文の理念型と較べると、現代の社会科学者・行動科学者のつかう一般命題により近似していると言えるのではなかろうか。(p.33)


理念型理解がいくつかの段階を経たというのは、「十全かつ体系的に説明したこと」がないのであれば、単に揺れ動きがあるだけ、という可能性もあるように思われる。今後、モムゼンの本も何冊か代表的なものは押さえておきたいと考えている。



一方でヴェーバーの徹底した

「価値の不可知論」

、つまり価値と行為目標に関する理性的な討論の断念、そしてこの問題をもっぱら闘争と決断の領域に放っておこうとすることは、民主主義概念のこうした危険な形式化へ、議会制の道具化へ、そうして(行政がますます目的合理性を増してゆくなかで)政治的な〔意思〕決定過程の形骸化、いやまさにその非合理化へと導いた。(p.40)


このあたりの指摘は、サンデルがリベラリズムの中立性の要請を批判しているのと同じ論点と思われる。



もしも――グスタフ・シュミットが明らかにしたように――人民投票的指導者民主主義の諸要素へのヴェーバーと同様な共感が――他の面では、価値の問題性に関するヴェーバーの見解も、「官僚制的凍死」に対する彼の懊悩もほとんど分かち持ってはいなかった――マイネッケやトレルチにおいても見出せるならば、かのヴェーバーの提案を、モムゼンが行っているようにひたすらヴェーバーの思想全体の傾向から説明しようとするのは正しいかどうかが問われることとなる。(p.42)


なるほど。



近代的官僚制と経営の革新能力は、ヴェーバーにとって(他には例えばシュンペーターによっても)著しく過小評価されていたようである。これは社会的変動に関する彼のモデルの弱点を示している。彼のモデルでは――イデオロギー的な倍音を少しく含んで――変化の運動法があまりにも偉大な人間個性――経済の領域でいうと、企業者個人の資質――につなぎ留められている。(p.55)


伝統的支配や合法的支配のもつ硬直的というか変化に抵抗する局面をカリスマ的支配によって打破するというモデルになりやすい。ウェーバーの理論では、社会変動について説明する道具立てが不足している



 この半世紀の発展は、いったいヴェーバーの社会硬直化という予測を確証しているであろうか?政治、経済及び文化における偉大な独一の個性をもった人間の役割が疑いなく減少したにもかかわらず、変動はますます急速かつ全般的となっている、と少なからず確実に論じられるのではないか?このことは再度、こうした諸々の変貌とスピードアップとを説明することも予測することもなかった彼の社会変動モデルの弱点を示している。(p.55)


ウェーバーの社会変動モデルに対する鋭い批判。



 最後に、ヴェーバーのとった態度や彼のなした定式化の多くを、彼が論争し、抗議を行なっていた当時の状況から理解すべきではないか、という問題が吟味されるべきであろう。彼は、不断の闘争と評価の分析に対する独立性というテーゼを、彼の基本的な傾向に適切であった以上のものにまでしてしまったのではなかったか?というのも、固有の政治的立場の隠蔽のために専門知識を濫用することに対して、彼は徹底した反対の意を表していたからである。彼はまた恐らくは、認識を導く観点の、研究対象の構造からの、実際にはただ相対的でしかない独立性を――彼の確信に照らしてみると正当であったものの度を越えて――強調しすぎたのではないか?というのも彼は、客観主義者たちに対して、認識論の領域における素朴さや独断主義に対して、論争的に議論していたからであり、また彼の学問論は、論争的な個別論文の一集成だからである。彼はおそらく、その立憲政治の諸提案の中で、多くのリベラルで民主主義的な、反権威主義的な、また反情念的な保証――そんなものへの言及など当時の具体的な状況裡にあっては何ら論争的な機能を持たなかったであろう――については、この保証が、多分彼の基本的な立場の帰結にあったのであろうが、いや彼にはこんな保証などおそらくは明々白々と思われていたにせよ、彼は黙殺したのではないか?このような考察は、ヴェーバーの著作における亀裂を取り除くことはないが、それでも次のことの助けとはなりうるであろう。まずその亀裂を理解すること、そうして、〔論者による〕多くの定式化が有する論争上の一面性について、強調されることが余りに少なかったそれの対重局面を見逃すようなことからヴェーバー解釈を救うこと、である。この対重局面は、ヴェーバーの立場を〔従来の解釈と〕全く同等に刻印づけているのである。(p.56-57)


ウェーバーの議論の論争的な性格が、様々な定式化を一面的なものとしており、ウェーバー本人の考え方を正しく表現していないところがあるとコッカは見ている。論争的に書くことで一面性が高まるというのは確かにありがちなことであり、ウェーバーに限らず一般にテクストを読む際には、発言の相手や文脈を踏まえて読み解くことは、テクストのより深い理解のためには重要



河本英夫 『<わたし>の哲学 オートポイエーシス入門』

忘れたことは、次に思い起こすとき、まったく別様なものになることが多い。想起とは、再組織化の仕組みでもある。忘れることは、最も貴重な経験の一つであり、なにを学ぶかではなく、なにを忘れるかによって、経験の輪郭は決まる。少年は忘れることをつうじて、学んでいるのである。少年とは忘れるということの弾力のことである。
 ……(中略)……。
 そのため誤解しやすいのだが、ほとんどの根本的な問いは、直接解答の出るようなものではない。同じ問題を考え続けていれば、誰であれどこか妄想様の想念に取りつかれたり、偏執性のこだわりが生じやすくなる。同じ問題は一度忘れて、しばらく経ってから再度取り組んでみるのがよい。忘却と想起をつうじて、問いそのものが変容していくのである。(p.7-8)


言われてみれば思い当たる節があるが、なかなかこうしたことを指摘してくれる人はいない。観察者がすれ違ってしまうもの、見落としてしまうものを感知できるようにしてくれるオートポイエーシスの構想から学ぶものは多い。



注意には、現実性そのものを成立させることにかかわる遂行的注意がある。注意が向き、なにかの現実に気づくのである。成立した現実を詳細に捉えようとすると、焦点的注意が働き、対象が特定されて、見るべきものを見るようになる。これが知覚である。知覚はすでに成立している現実を正確に捉える働きである。なにかあると感じられるさいには、遂行的注意が働いているが、そこからどの局面を焦点化していくかにかかわるのが、選択的注意である。
 不思議さの感覚は、まさに不思議な事象がそれとして気づかれるので、遂行的注意である。そこから焦点化の手前で、特定のなにかに局面を絞るのが選択的注意であり、一般的にはセンスと呼ばれるものである。センスのよい人は、一般には「見えているものが違う」と感じられる。学習の最短性の要請から、多くの児童や少年は一般に見えるべきものを見るように訓練され、焦点化されが知覚を学んでいる。だがそれでは「経験の可動域」が狭くなりすぎるのである。(p.54)


遂行的注意を働かせ続けるには、むしろ不思議なものは不思議なままにしておき、選択的注意を働かせ過ぎない方がよく、その方が「経験の可動域」は広くなるということか。

いわゆる詰め込み教育とか知識偏重などとして学校教育が批判されるが、その議論も、現行の教育が選択的注意ばかりを働かせるものであるところに問題が感じられているところに由来する面がある。一時期、「ゆとり教育」という方針が出されたが、遂行的注意を働かせることに寄与するかという点から見ると、そうは言えないように思われる。単に選択的注意を活用する機会を減らすだけでは、遂行的注意をよく使うことの可能性は多少は開かれるかもしれないが、それほどうまくつながる(遂行的注意の力を育てる)ことはないだろう。では、どのような教育であれば「遂行的注意」の力を鍛えることができるのだろうか?



 観察は、一般によく見ることであり、物事の意味を捉えることである。その点で観察の中心には、つねに知覚が置かれた。知覚は、対象をそれとして捉える感覚的直観であり、捉えられたものが意味である。そして発見とは、この意味を別様に捉えることだと言われてきた。そのさいしばしば、天動説から地動説への移行、フロギストン説(燃素が飛び出すことを燃焼だとする)から酸素説(酸素の化合を燃焼だとする)への移行が、歴史的な典型事例として取り上げられ、議論されてきたのである。そこでは視点を切り替えるように、物事の捉え方を全面的に変えることが発見だと言われてきた。そしてそれが「パラダイム転換」と呼ばれた。
 こうした主張に対して、私はいつもなにか変だという思いを抱き続けてきた。実は、発見とは視点の転換だというような議論は、発見がなされた後に、複数の捉え方を知っている人間から見た発見についての解釈なのである。発見が実際に起きたという事実と、発見が前のものからの不連続な飛躍であることを知った上で、そこで起きたことを、再度視点の転換だと解釈してきたのである。これは複数の捉え方をすでに知っている歴史的傍観者による解釈である。
 少なくとも、発見のプロセスのさなかを進むものは、そのとき何が起きているかが分からないような局面を進む。そのさなかで五感を目一杯開き、勘だけを頼りになお進んでいく部分がある。それは視点を切り替えるような作業とは異なる。(p.55)


科学史や科学哲学などでかつて議論されてきた問題に対するオートポイエーシスからの批判。



 現象がおのずと見えるようになるということは、ただ見ていたり、教えられたことを見つけるような学習とは異なる。教えられてはじめて見えることは、教えられたようにしか見ることはできず、また教えられたことしか見ることができない。ところが何かの拍子に、突然見え始めるような現実がある。こうしたタイプの注意は、選択的注意とは異なるタイプの注意であり、現実性そのものの成立にかかわっている。おのずと何かが見えるようになるためには、現実の宙吊りが必要であり、しばらくそれを維持することが必要になる。(p.62)


このあたりは、2つ前の引用文に対するコメントで私が最後に述べたことと深くかかわっている。思考の宙吊りとそれの維持をさせるような教育とはどのようなものか?



 アナロジーは、当の現象との隔たりがなおかなりある場合であっても、さらにそこに謎を残し、不思議さを残し続ける。アナロジーによる現象の解明は、別段決着がつかなくてもよい。現象を考えるための手掛かりは増え、少しずつピントが合う程度でも十分なのである。(p.63)


容易に決着がつかない問題には、こうした方法によって宙吊りを行うことが有効。



 キュビズムの仕組みで見る限り、形状が基本形の加算となり、持ち合わせた基本形に現実の事物を変形していく。この変形のプロセスに、イメージが関与する。物を見る。眼を閉じる。そしてさきほどの物を可能な限りイメージのなかで蘇生させる。ある意味でイメージをつうじた解釈である。そしていくつかの基本形から事物を再構成するような手順を踏んでいく。このとき現実の物との接点をどこかに残していかなければならない。物をどのように変形させようと、それが物であることの感触を残し、かつ多様でありうることの可能性を残しながら構成されなくてはならない。
 この構成には、現実の物と作品が離れすぎてはならず、近すぎてもいけないような微妙な均衡点があるに違いない。しかもその均衡点は、一つには決まらない。その均衡点をかたちと色から探り当てるところが、それぞれの作家の才能であり、資質である。……(中略)……。
 かたちの変形を極端にまで推し進めれば、実は抽象絵画になってしまう。……(中略)……。
 抽象絵画は、方法的な視点から現実性を別様に解釈できること、さらには方法的に制御できる変数を変えることで、際限のない多様性を確保できるかに見える点に特徴がある。ところが抽象絵画には「何かが欠けてしまっている」という印象が残り続ける。方法的に実行される圧倒的な多様性のもとで何かが欠けるのである。おそらくマティスにとってそれが存在するものの個体性であり、個体のもつ強さであった。
 物は、みずからによって物である。女体はそれ自身によって女体である。あるいは女体はみずから女体であることによって、それじたい一つの喜びである。絵画は、どのように方法的に制御されようと、一切の方法の一歩先において、みずから個体化する。この個体化するものが、みずからによる存在である。そしてそこにまで届かせようとすると、方法的な制御の一歩先で起きてしまうことにかかわらなければならない。それが抽象絵画ではごっそりと抜け落ちてしまうのである。
 このことは抽象絵画が、一目見ただけで面白さも良さも、またそれを描いた者の才気の質まで分かるが、それで打ち止めになってしまうことに関係している。絵から才気は感じられるが、そしてそれは小さなことではないにもかかわらず、それだけなのである。才気は、おのずと感じられることが必要であり、スタンドプレーではないはずである。見せつけるような才気には、凄さと同時にどこか過度に意図して見せつけるような余分さが感じられる。またその意味では見え透いている部分が残り続ける。一般に方法的に制御されなければ、作品は無作為が過剰となり、方法的に制御されているだけであれば、作品の現実は貧困になる。(p.106-108)


前半ではキュビズムに関して述べられているが、現実の物と作品との距離の微妙な均衡点について語られているところは、なるほどと思わされた。そして、その一つに決まらない均衡点を見つけるには才気がいるということも然り。一見すると子どもでも描けそうだ、などと言われるキュビズムや抽象絵画なども、実際に書いてみようとするとそううまくは行かないことが分かるが、その秘密が少し理解できたように思う。

また、抽象絵画に対する批評も、今まで抽象絵画に対して私が感じてきた違和感のようなもののかなりの部分を言い当ててくれているように思われる。ある意味、今まで読んできた中で最良の絵画に対する批評・解説だと思う。



 制作の試行錯誤は、一般に次のプロセスに進むことができるかどうかである。次のプロセスに進むことができたものは、その手前の部分が集合のメンバー(構成素)として確定していく。そしてプロセスの接続点には、ほぼ必然的に選択肢がある。このときプロセスが進めば、なにか特定の傾向がそのプロセス群のなかに出現してくることがある。そのとき作者は、よく分からない力によってそちらに引っ張られていくと感じることがあり、時としてまるで出発点では気づいていなかったものに向かって行ってしまうこともある。
 ところがこのプロセスの連鎖は、どこまでも続くわけではない。制作プロセスの連鎖が、どこかのプロセスに接続して、プロセスの閉域ができたとき、そこに作品の個体が出現する。すると、これはすでにある個体の必要条件を述べているのではなく、個体そのものの出現の仕方を定式化しようとしていることになる。
 しかもプロセスのさなかを進む経験は、個体が出現したとき、それが何であるかを知りようがない。……(中略)……。
 制作プロセスと作られた作品は、異なる次元(ディメンション)にあり、二重の現実性として成立している。(p.120-121)


一つ前の引用文の中で「絵画は、どのように方法的に制御されようと、一切の方法の一歩先において、みずから個体化する」と述べられているが、こうした個体化のプロセスがどのようなものであるかを示しているのがこの箇所である。

制作する行為の連鎖がシステムであり、作品はそのシステムの外部に副産物的なものとして生成している。一つ前の引用文で「方法的に制御されているだけであれば、作品の現実は貧困になる」と述べられているが、これは、こうした場合には、システムと作品とのギャップが非常に小さなものになることと関係している。



 ちなみに新たな角度や観点から、なにかが分かるということじたいは、それほど重要なことではない。むしろ重要なのは、どの程度の展開可能性があるかである。「器官なき身体」という概念で、さらにどの程度、展開見込みがあるかを感じ取り、考えてみるのである。そうするとこの語に込められた主張は、いささか過激なものだが、ほとんど展開見込みがないことが分かる。こうした場面で働く評価が、センスである。こうした場合には、一度それを理解したら笑って脇に置いておくのがよい。少なくともこうした視点を全面的に切り替えるような主張を、自己正当化の言説として活用するようなことは、ただの自己主張である。そこでは実際にはほとんど何も生み出されはしないのである。(p.186-187)


ここではドゥルーズとガタリについて批判しているが、ポストモダンと呼ばれたような議論のほとんどが、展開可能性はほとんどないように思う。あれらはいずれも過度に観察者の立場に立ちすぎており、それまで誰も語らなかった観点を探し、その角度から何かを語ってみただけ、(そして、そういう発見をした自分はすごいだろうと誇ってみたいだけ)という程度のものでしかない、というのが私の評価である。ある意味、二つ前の引用文で、河本は抽象絵画について才気は感じられるが、ただそれだけだと語っていたが、ポストモダニズムもそれと同じようなものだと考えている。

なお、展開可能性がないという主張に対して反論するためには、実際に展開させてみてどれほどのことが言えるかを示すことが重要であり、単に反論者があり得ると思っている可能性について語るだけではほとんど何の意味もない。


H.R.マトゥラーナ、F.J.ヴァレラ 『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』

 言語が指示的なものとみなされる限り、必然的に言語は情報伝達の手段とみなされてしまう。「受け手」の不確かさの範囲が、「送り手」の特定化の度合いに応じて縮小されるような仕方で、有機体から有機体へとなにかが伝えられるというのである。だが言語は指示的ではなく内包的であり、言語の機能は方向づけるものの認知領域にはかかわりなく、方向づけられるものの認知領域で、相手を方向づけることだということが認められるならば、言語をつうじての情報伝達はありえないことが明らかになる。方向づけられるものは、自分自身の活動が独立に働くことの結果として、自分の認知領域のどこに方向づけが働くかを選択しなければならない。この選択は「メッセージ」によってひきおこされるが、こうしてつくり出された方向づけは、「メッセージ」が方向づけるものにとってもつ意味とは独立である。だから厳密には、話し手から聞き手への思想の伝達はなにもない。聞き手は、自分の認知領域に、相互作用をつうじて不確かさを縮小しながら情報をつくり出すのである。合意が成立するのは、結果としてそれぞれの有機体に生じた行動が、双方の維持に役立つような協働的相互作用が行われる場合だけである。(p.203-204)


マトゥラーナは、ルーマン的に情報・伝達・理解としてコミュニケーションを捉える場合に当てはめると、理解の場面に言語は主に関わっていると捉えているようだ。



生命システムで生じていることは、飛行機で生じていることに似ている。パイロットは外界に出ることは許されず、計器に示された数値をコントロールするという機能しか行わない。パイロットの仕事は、計器のさまざまな数値を読み、あらかじめ決められた航路ないし、計器から導かれる航路にしたがって、進路を確定していくことである。パイロットが機外に降り立つと、夜間の見事な飛行や着陸を友人からほめられて当惑する。というのもパイロットが行ったことと言えば計器の読みを一定限度内に維持することであり、そこでの仕事は友人(観察者)が記述し表わそうとしている行為とはまるで異なっているからである。(p.231)


オートポイエーシスにおける行為(作動)と観察との説明として分かりやすい説明と思われる。



以下、訳者・河本英夫による解題より。

 オートポイエーシス論は、コード化された情報やプログラムという発想そのものに異を唱えている。……(中略)……。生命システムの基礎に存在する情報プログラムから、生命システムは設計されているという構想そのものに異論が立てられているのである。(p.274)


このあたりの考え方は、私もあまり詳しくは知らないのだが、もしかするとエピジェネティクスの考え方と近いのではないかという気がする。



 未来社会への移行のコードは、ある種の歴史的変化をコード化するものである以上、必然的に「物語」の形式をとる。未来社会への必然的な移行を説く歴史哲学の「大きな物語」は今や崩壊し、日常的実践の「小さな物語」だけが残されていると、昨今しばしば指摘される。未来社会を予言する歴史哲学的な「大きな物語」は前世紀の遺物となり、もはや身近でコマゴマとした「小さな物語」を描き続ける以外にはないというわけである。このタイプの議論には、過度の自己限定がふくまれている。未来への志向は、行為者であるとともに観察者にもなりうる人間の固有性なのだから、未来社会をコード化すること自体は避けるべき禁止事項ではない。そうだとすると「大きな物語」のなにが放棄されねばならないのか、という問いが生じる。コード化という点についてだけ言えば、「大きな物語」に含まれる未来社会のコード化の仕方は、多くの場合、実現されるべき「未来社会像」を描いている。まるで箱庭を上から見下ろすように未来社会の見取図を描くのである。さらにそこに到達するための段階的な手順が設計図に書き込まれることになる。その結果大多数の人間はたんなる行為者となり、解読されたコードに従って見取図に接近するよう行動するだけになる。「大きな物語」に特有な未来社会を箱庭俯瞰的に描く、このようなコード化の仕方はもはや放棄されたのである。たとえ「大きな物語」をコード化する場合でも、人間の行為のプロセスの関係を規定するようコード化することはできる。その結果同じ未来社会に到達することはできるのである。だがこのようなコード化の仕方は、「小さな物語」の作製を積み上げて行くことによってしか修得されないであろう。オートポイエーシス論が提起するのは、このコード化の仕方の変更である。(p.278-279)


この訳書が出版されたのは1991年であり、その頃によく議論された「大きな物語」の終焉という議論に対するオートポイエーシスの構想から下された診断。なかなか興味深い。どのように行為のプロセスを継続させていくことによって望ましい未来社会に到達できるのかということが欠けており、到達したい結果だけが語られ、そこに至る道は現状との差から暗示されるというタイプの議論になってしまうことについて鋭い批判となっている。



多元論は、その主張のソフトムードにもかかわらず、みずからのみが観察者の立場に立ち、他の複数のシステムを判定しうるとする特権的な視点を前提にしている。それとともに各システムを産出のダイナミクスとしてではなく、並置されるべき固定した立場として誤解するのである。(p.302)


リベラルな考え方の人にとって馴染みやすい多元主義の問題点を鋭く指摘している。

オートポイエーシスの構想に触れて、行為と観察の相違が感じ取れるようになると、嘘くさい議論に対する感度が上がる。例えば、観察者の立場から無理に構成されている議論はたいてい現実との接点が十分でない。こうしたことはこの構想に触れる大きなメリットの一つだと私は考えている。



仲正昌樹 『マックス・ウェーバーを読む』(その2)

 私たちは日々様々な場面、テーマについて「価値判断」をしているが、それがどのような「価値規準」に基づいているのかはっきりと意識していないことの方が多い。事実についての認識と「価値判断」が漠然と一体になっていて、いつのまにか“判断”している。そのため、他者との意見の食い違いが、事実認識のズレによるのか、拠って立つ価値の違いかが判然としない。
 「価値規準」の違いではなく、事実誤認だと思うと、相手が愚かに見え、“教えさとし”たくなる。しかし、実際に、上から目線で相手を教えさとそうとすれば、相手の怒りを買い、余計に話が通じなくなる。事実の問題と、「価値規準」の問題を分けて考えることは、生産的な知的対話の大前提である。因みに、2010年に日本でもブームになった政治哲学者マイケル・サンデル(1953~)による「ハーバード白熱教室」は、中絶、徴兵、臓器売買など、具体的な問題に対する意見表明を通して、討論者に自らの拠って立つ「価値規準」を明示させ、それを政治哲学の既存の学説と関係付けることを特徴としていた――日本のサンデル・ファンにはその肝心な処を理解せず、彼の司会力にだけ魅了されてしまう人が多かった。
 そう考えると、事実の部分と、自らの「価値判断」を、はっきり分けて書くというのは、決着しようのない、不毛な“論争”を避けるための大前提である。大学入学時の基礎教育の中で学ぶべきことである。しかし、日本の“一般向け人文書”やジャーナリズムの文章には、そうなっていないものが極めて多い。(p.142-143)


文章を書くにあたり、事実と価値判断を分けて書くべきだということは、まさに私もウェーバーから学んだこと一つであり、後輩の学生たちにもかつて何度も指摘してきたことであった。

しかし、これも万能ではない。何をもって事実として認識するかは、その人の価値判断だけでなく背景にもっている広い意味での「理論」によって決められる部分があり、そうした広義の「理論」は、その人の原体験的な経験や深い感情的な起動力によってどのような「理論」を前提するかがかなりの程度制約されてくるからである。

現在国会で審議されている安保関連法案の議論などで言うと、どのような「脅威」が存在すると認識するかという事実認識は、未だ顕在化していないものを見ようとするが故に、こうした背景理論の相違が明確に現れることとなり、賛成派と反対派の議論がかみ合わない要因の一つとなっている。(もっとも、その最大の原因は政府側がまともに議論をするとボロが出るということをはっきり認識した上で、まともに議論をせず、単に別件を表の争点として出し、少数の得票で大量の議席を得たことに基づく力によって、論理や正義を欠いたまま「力による現状変更」(!)を試みようという暴挙に出ているということにある。)

事実が既に存在しており、容易に感覚により知覚できるものであれば、そうした「事実」による意見の相違も起こりにくいが、そもそも「事実」が認識する側の認識枠組みによって規定されてしまうような問題に関しては、単に事実と価値規準の峻別だけでは十分ではない。しかし、この峻別によって問題が整理しやすくなるのは確かであり、必要なことである。

筆者は事実と価値判断の峻別を大学入学時の基礎教育の中で学ぶべきだとするが、私もそれには同意見である。しかし、そうしたトレーニングを学部や教養課程的なところで十分に施されるような仕組みにはなっていないのが問題であり、実際には卒業論文(や修士論文)を書く時点くらいで、こうしたことの必要性が学生側に認識される「ことがある」という程度にすぎない。

政府は国立大学の文系学部を縮小しようとしているが、これはむしろこうした現状を大きく悪化させるものであると言わなければならない。



また近年は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、社会科学共通の古典として強く推奨する大学教員は激減している。私は17年近く大学教員をしているが、ウェーバーを――部分的でもいいから――自分で読んだという学部生に出会ったことはない。「ウェーバー」は、ウェーバー専門家のための古典となりつつある。(p.241-242)


確かに指摘の通りであると思う。私も学部生で、自らウェーバーを曲がりなりにも読んだという学生には、私自身を除いて出会ったことがない。確かに「プロ倫」やウェーバーの宗教社会学が提示するような近代資本主義の成立にあたって宗教的な倫理が積極的な役割を果たし、それが地域ごとの違いの要因となっているという説はすでに廃れていると言ってよい。しかし、ウェーバーの議論の運び方などにはやはり非常に参考になる見方が散りばめられており、社会科学の古典として読み継がれるだけの価値はまだ残っている。これを「ウェーバー専門家のための古典」にとどめておくのはもったいないことであり、こうした初学者向きの入門書が出版されたことは望ましいことと考える。



仲正昌樹 『マックス・ウェーバーを読む』(その1)

ウェーバーは、人間にとって、自らが身に付けた価値観を離れて物事を見ることの困難さを強く意識していた。だからこそ、自らの拠って立つ価値観を認識し、それに無自覚的に引きずられないよう、自らの立脚点を常に批判的に検証し、「客観性」を追究し続けることを、学者の使命と考えた。
 そこが――階級的立場に起因する党派性を積極的に肯定したマルクスとは異なる――ウェーバーに固有の魅力である。実践的な問題に関心はあるものの、イデオロギー闘争とは一定の距離を取り、理論的な考察を深めたい学者の多くが、「理論」と「実践」の間の緊張感を保とうと苦心し続けるウェーバーのスタイルに惹かれた。(p.16)


ウェーバーの魅力は、確かにこうした点にあったように思う。しかし、著者(仲正)も指摘するように、現在、ウェーバーの魅力は以前ほど人々(研究者や読者)の心を捉えなくなってきているように思われる。社会の側の変化が反映していると思われるが、この点は自分でももっと掘り下げて考えてみたい問題である。

実際、私自身も、10年ほど前まではかなりウェーバーの思想に魅力を感じていたが、ここ数年はウェーバーを研究するというよりウェーバー研究をメタレベルから俯瞰したいという見方が強くなってきている、こうした私自身の変化もまた、社会の動きと某か関係しているのかも知れない。



 ここで述べられているように、資本主義システムが、企業家と労働者の双方に一定の規範(Norm)を内面化させ、“自発的”にそれに従って振る舞う「主体」へと形成し、それによって自己再生産しているのだとしたら、資本主義社会に生きる個人が、新たな規範を作り出すことはほぼ期待できない。しかしウェーバーは、そうしたシステムが出来上がる“以前”の状態に注目する。資本主義の特性に適合した生活態度や職業観念が「淘汰Auslese」――「淘汰」というのは、ダーウィン(1809~82)の進化論を念頭に置いた表現である――によって選び出されるからには、そうした生活態度や職業観念が予め成立していなければならない。(p.69-70)


こうしてウェーバーの探求は、資本主義の「精神」に先立って成立していた古プロテスタンティズムの生活態度や職業観念に遡っていくことになる。

しかし、ルーマンなどもそうだが、オートポイエーシス的にシステムを捉えると、必ずしも予め同じようなものがあり、それが進化ないし展開していったと考えなければいけない理由はなくなる。この点は「プロ倫」の論理の最も弱いところであろう。



 ウェーバーは、「職業政治家」が生まれてきた歴史的経緯を説明したうえで、「政治家」に必要な資質を問題にする。政治家が得られる第一の内的喜びは、自分が他人を動かす権力に関与している、日常を超えているという昂揚感、「権力感情Machtgefühl」である。この感情を制御して、権力に相応しい振る舞い方をするには、①情熱(Leidenschaft)②責任感(Verantwortungsgefühl)③判断力(Augenmaß)――の三つの倫理的資質が必要である、という。(p.111)


『職業としての政治』の割と有名な箇所であり、小泉純一郎が首相だった頃、しばしばこの3つの資質について語っていたのが想起された。

今、ここを改めて読み直して思うのは、安倍晋三という政治家は、まさにこの「権力感情」の虜となっているのではないか、ということである。安倍の好むタカ派的で軍事優先的な考え方は、それを主張することで「自分は強い」という錯覚を覚えることができる類のものだし、その考え方に沿って他の政治家や官僚たちを従えることもまた権力感情を呼び起こす。歴史修正主義と呼ばれる歴史観についても、「かつて日本は悪いことをした」という考え方を否定したいという願望が根本にあると考えられ、これは軍事的な拡張に対する反省をしたくないという考え方と繋がっている。当然それは上述の軍事優先的発想と軌を一にしている。安倍が「支持率」を異様に気にしていること――異常なメディア支配・統制もここに由来していると私は見る――も、自らの権力を維持すること、そして、その権力によって軍事優先主義的な政策を実現していくことのための手段だからであり、これらは安倍の権力感情は昂ぶらせてくれる。また、首相就任後など盛んに外交のため外遊していたが、政治記者などに言わせると、安倍はこうして「国を背負って」外遊すること自体を好むということも耳にしたことがあるが、これもまた権力感情が高揚するからだろう。

安倍には自分の利己的な思いを実現しようとする情熱は持ち合わせているかもしれないが、責任感と判断力が欠けている。責任感という語にはantwortungsという綴が見られるが、安倍は「戦争法案」とも呼ばれる安保関連法案などについて質問されてもはぐらかすだけで何ら答えようとはしない(問題から目を背けるばかりで責任を果たそうとしない)、というのが安倍の基本的な政治姿勢を端的に示している。北朝鮮や中国への脅威を(政府というより自民党として)持ち出しながら、アメリカとの同盟を強めることで「抑止力」が高まるなどと言って「戦争法案」と呼ばれる安保関連法案を提出しているが、北朝鮮の「脅威」は実際にはかなり小さなものだし、中国については、アメリカと緊張感はあるがかなり重要なパートナーとなっており、日本がアメリカ側についてアメリカと一緒に中国に対抗する、といった一面的な図式には収まらない。まさにこの法案の提出は、客観的な情勢への判断を伴わず、自らの権力感情の充足を優先させているところから出ている。



「大衆」にとっての「民主化」とは、指導者に対して影響力を行使する可能性が増えることにすぎない。(p.131-132)


こうした醒めた認識は重要と思われる。しかし、この見方には将来への希望がほとんどない。影響力をより大きく行使できるようにする方法や仕組みといったものを提示するなどして、少数支配の原理に対抗するビジョンを人々が共有できるような理論が求められるのではないか。




小林正弥 『サンデルの政治哲学 〈正義〉とは何か』

 日本における戦後の知のブームについて考えてみると、早い時期にはまずマルクス主義の流れがあって、左翼的思想が隆盛を極めていた。この系譜において、最近まで思想界の中心にあったのは、ポスト・モダンと言われるようなフランス系の現代思想であった。しかし、このポスト・モダン思想においては、「私たちはどう生きるべきか」「政治経済はどうあるべきか」といった問いに建設的な答えを見出すことはできないように思われる。そもそもポスト・モダンは、そういった理想や真理の体系を批判する所から生まれた知だからである。原理的に理想を見出せない思想は、いわば知の自殺行為とも言えるのではないだろうか。(p.29)


ポスト・モダンに対する評価としては概ね妥当と思われる。むしろ、ポスト・モダンによる過度の相対主義の傾向は、道徳的空白を作り出すことに積極的に寄与しており、右派の国粋主義的で全体主義的な主張の跋扈を助長しているとも言える。



 なぜ日本では政治哲学が導入されなかったのだろうか。どうやら、「多くの学問が導入された明治時代には、政治哲学を研究すると、すぐに主権とか天皇制の問題などに触れてしまうので、その危険を避けた」という説が有力である。戦後は主権在民となったにもかかわらず、明治以来の学問的伝統が影響を及ぼしているのである。(p.31)


私自身、哲学書を読み漁った時期にも、政治哲学の本はあまり読まなかったし、あまり興味を惹かれるほどのものとは出会えなかった。むしろ、政治や行政の問題に取り組む中で、政治哲学にも関心が拡がり、サンデルの思想を知ることでそれ以前に信奉していたリベラリズムの限界を認識するようになったという経緯がある。



ミルによれば、高級な喜びと低級な喜びという相違を認めることは、功利主義という考え方の改良である。だが、そもそも功利主義は、一つの基準によって、望ましさを判断するものではなかったか。だとすると、喜びに量的な違いではなく、質の違いをも考慮するような考え方は、もはや功利主義とはいえないのではないか。(p.50)


妥当。ミルの議論に、高級な喜びと低級な喜びとは、コミュニティによって決まる(部分がある)という要素を付け加えると、(功利主義というより、むしろ)コミュニタリアニズムの枠内の議論になると思われる。



 一般にネオ・リベラリズムは、市場の効率を最大にして経済成長という結果を実現するという経済学的な議論なので、その点では哲学的には功利主義ないし帰結主義の考え方に近い。これに対して多くのリバタリアニズムは哲学的な原理を主張しており、自由型正義論ないし義務・権利論の一種である。特にレーガン政権以降のアメリカでは、リバタリアニズムとネオ・リベラリズムとは、共に民営化・規制緩和や減税・福祉削減といった政策を支持し推進してきたので、あまり区別はされないこともあるが、論理的には上記のような違いが存在する。簡単に言えば、ネオ・リベラリズムの論者は経済成長という結果を可能にするためにこれらの政策を主張し、リバタリアニズムは主として自己所有に基づく正義を実現するために課税に反対する。(p.58-59)


なるほど。同じ政策を主張・支持するので通常は区別されないが、論理的にはこうした区別を立てることができるわけだ。

一般的には、ネオリベとリバタリアニズムは、同じ論者がアドホックに都合の良い方の議論を使って自分の支持する政策を擁護しているのではなかろうか。

問題は、一つは、ネオリベの発想に立って政策を推進すると「経済成長」という結果はむしろ遠のく場合があり、現代の日本はその事例だということである。ネオリベは事実認識のレベルで誤っている。そして、リバタリアニズムの問題は、自己所有の原理が事実としては成り立っていないために根本から誤っていることだろう。だから、どちらの立場も支持し得ない、というのが私見である。



 しかし、滔々たる政治科学の流れの中では、こうした政治哲学は時代錯誤と思われていた。ところが、1960年代後半から、ベトナム反戦運動や公民権運動が燃え盛るにつれ、アメリカのそれまでの正統的な考え方が様々な領域で疑われ始めた。政治に関しては、多元主義論をはじめとする政治科学は、アメリカの政治を基本的には進んだ民主主義的なものと考えており、他国がそれを見習うべきだとしていた。だからこそ、政治に理想や規範を掲げる政治哲学の必要性はアメリカ国内についてはあまり感じられず、現実の民主政治を経験的に分析することが政治学の役割と思われたのである。
 しかし、そのアメリカがベトナム戦争を行ったり、実は黒人差別問題を内包していたことが批判されたので、それまでの政治科学、さらには社会科学全体に対する反省が生じた。そして、政治の理念や原理を根本から考え直す機運が生まれた。これが、ロールズの『正義論』の出現の背景であり、彼の提起した契約論的な論理により政治哲学が復権したのである。(p.99-100)


「進んだアメリカを見習うべき」という発想は、戦後の60年代まで特に有力であり、冷戦構造の中で西側陣営に諸国をとどめておくためのイデオロギーだった「近代化論」の発想全般の特徴である。

ポスト・モダンへも繋がっていった「疑い」(問い直し、考え直し)が、政治哲学ではロールズの議論の登場へと繋がっていったというのは興味深い。



 功利主義は、英米圏の哲学でも圧倒的な影響力を持っていたが、人権については、確固たる論理を提供することが難しかった。(p.101)


功利主義の最大の弱点の一つ。



実際の人間は他の人にも関心があるから、普通の社会保障の議論では、「貧しい人がこのままでは可哀想だし非人道的だから、貧者を助けよう」と考える。ところがロールズの議論では、仮設的な状況の下で、「他の人に無関心で、他の人の利益は考えず、あくまでも自分の利益を合理的に考える」という人間主体を想定するのである。
 普通は、自分のことだけを考える人は、「貧しい他人はどうでもいい。自分さえ豊かになればいい」と考える利己主義的(エゴイスティック)な人間だ、と思うだろう。ところが、ロールズは非常にパラドキシカルな工夫をしていて、他人に無関心で合理的な主体を考えながら、自分に「無知のベール」がかけられているために、その合理的な主体は自分が最悪な状況に置かれている場合を考えざるを得なくなって、「格差原理」に合意するのである。そのため、この原理は、現実の世界に適用された場合には、最も貧しい人のためになる内容になっている。
 このような思考は、普通の状況で考えれば、「最も惨めな人の立場になって考える」ということであり、「その人の利害を自分のそれと同一視する」ということを意味している。これは、普通の人にはなかなかできないことである。それを可能にするのが、原初状態という仮設的状況なのである。カントが格率[行為の個人的・主観的な原則]に対して普遍化可能性のテストを行うのと同じように、ロールズは原初状態という仮設的状況を想定することによって、合理的な人間が最も貧しい人の身になって考えるということを可能にしたのだ。
 ここはとても大事なところで、英米の政治哲学者の多くは、ロールズも含めて、「他の人ではなく、自分の合理的な利益を考える」人間像を想定する。主流派経済学でもやはり、利益の最大化をいわば公理として考えている。そのような考え方に基づく合理的選択理論(公共選択理論)も発展しており、ロールズもそのような流れを意識して自分の議論を展開している。
 仮にロールズが、「可哀想な人のために福祉を行わなければならない」というような議論を提起しても、彼の『正義論』のようなインパクトは持たなかっただろう。あくまでも、他人に無関心で、合理的な主体を想定しているからこそ、「誰もがそれなら合意するだろうし、その結果が福祉擁護の議論になる」と考えられて、大きな影響を与えたのである。(p.118-120)


なるほど。



 この革新主義運動の中から現れ、その後で進展していくのが消費者主義であった。これは、共和主義のように公民性を重視するのではなく、消費者の利益ないし経済的満足を実現しようとする考え方で、経済的豊かさとその公正な分配を目指すものである。これは「公民性の政治経済から消費者福利(consumer welfare)を目的とする政治経済へ」という変化を意味し、成長や分配的正義を重視する今日の政治経済への出発点となっていく。(p.199)


消費者の利益を強調する考え方とリベラリズムとの相性の良さには注目すべき。例えば、行政などでも民間企業に倣って「顧客満足度」を高めるという考え方が強調される場合がある。この考え方では、「顧客」の利益や権利を守ることには繋がるという点で功利主義やリベラリズムの利点が現われるが、共和主義的な公民性のほか、恐らく行政にとって最も重要な価値の一つである「公共性」への配慮が薄くなるという問題が生じると思われる。


マイケル・サンデル 『ハーバード白熱教室 世界の人たちと正義の話をしよう+東北大特別授業』

成績向上のための金銭的インセンティブのほうは、どれもあまりうまくいかなかった。一方で、本を一冊読むたびに二ドルもらった八歳の生徒たちは、実際に本をたくさん読むようになった。どんどん薄い本を選ぶようになったのだが。(一同笑)
 だが一番の問題は、本を読んでもお金をもらえなくなったとき、子どもたちがどうなるかということだ。(p.44)


学ぶことによる成長が本来の目的であり、学んだ結果の状態を確認し、その後への反省のために成績の評価が行われるのが本来の姿である。成長の手段が学習であり、学習をよりよくするための手段として成績評価がある。

これに対して、成績向上のために金銭を与えるというやり方は、学習する主体であるはずの子どもの側から見れば、お金をもらうための手段として勉強を行うということになる。学習が金銭取得という目的のための手段となっている。この場合の「勉強」は、成長を目的とする学びの場合とは異なり、「外部(金銭を支払う評価を行う人)から見て一定の基準を満たしいているという姿を見せること」が主な活動となる。その結果として、成績向上に結び付くような内容を習得することよりも、一定の外形的な見かけの状態を作ることを行うこととなり、結果として学ぶべき内容を習得(成長)できず、その結果として成績も向上もしない、ということになるのだろう。

金銭的インセンティブに限らず、勉強した形を残すことに対して短期的な評価を行い、「そうした評価に基づいた意味づけを行った遊びに連れて行く」などの報奨を与えるという行動を続けることによって、学ぶということがどういうことなのか全く理解していない子供が育つことがある。その場合でも、小学生くらいの間はよほど基準を下回らない限りテストの点数も80~90点くらいは誰でもとれるが、次第に中学や高校へと進む頃になると、そうした活動をしてきた子どもとそうでない子どもの間にはっきりとした違いが現れてくる。誤った習慣づけをされた子どもがここから転換することは極めて困難となる。

これは子どもの勉強に限ったことではなく、大人の仕事の評価についても同じだろう。成果主義的な発想がうまくいかない事の説明も以上と全く同じ形で行うことができる。



 長いあいだ、スイス政府は核廃棄物処理場を建設する場所を探していた。しかし、そんな施設を抱え込みたいというコミュニティはなかった。最終的に政府は、処理場建設にもっとも安全な場所として、スイス山中のある小さな村を候補地に選んだ。……(中略)……。そこで建設地決定の前に、政府はその小さな村の住人に調査を行った――「あなたの村が核廃棄物処理場の建設地として選ばれたら、受け入れに賛成票を投じますか?」
 さまざまなリスクが伴うにもかかわらず、51パーセントの住民が受け入れいると回答した。
 続いて、調査員は二つ目の質問で「アメ」を付け加えてみた。「この村が核廃棄物処理場の建設地に議会で選ばれた場合、村民一人ひとりに毎年補償金を支払います」――ちなみに、提案した額は一人当たり6000ユーロ。「それなら核廃棄物処理場の建設に賛成してくれますか?」
 ……(中略)……。
 現実はこうだった。補償金をプラスした二つ目の質問では、処理場の受け入れに賛成と答えた人は51パーセントから25パーセントに半減した。つまり、標準的な経済分析とは矛盾する結果が出たわけだ。標準的な経済分析によれば、ある負担を受け入れてもらうための金銭的インセンティブや金銭の提供は、受け入れの意欲を増すことはあっても、減らすことはないとされる。しかし、この調査では賛成が半分以下になった。(p.45-46)


インセンティブを与えれば、その通りに誘導できるという考え方自体が必ずしも成り立たないということは重要な指摘。なお、この点も住民の受け取り方を考慮した上で目的論的に整理すると説明が付きやすい。



男子学生6
 ……(前略)……。しかし、僕たちは共産主義社会に生きています。共産主義の定義は、誰もが高い道徳心を持つことですから、(一同笑)経済的な利益を犠牲にしてでも道徳や国や社会への貢献を選んでも不思議はありません。(p.47)


一つ前の引用文でサンデルが中国の学生たちに求めた質問に対する学生側の回答より。共産主義の定義として、述べられている内容が日本での一般的な理解とあまりにかけ離れているのが興味深い。中国の学生たちもこれに対して笑ったということからも、その定義が完全にまじめに受け止められているわけではないことはわかるが、施されてきている教育内容が(日本とは)異なっているだろうということは垣間見えるコメントではある。

逆に言うと、日本国内で流通している観念も諸外国から見ると同様にズレているものがあるかも知れない、ということは念頭におくべきだ、ということでもある。



 社会の中で市場の力が大きくなると、市民のもっとも重要な価値観が締め出されてしまう可能性がある。損なわれる恐れのある最も重要な価値の一つとは、公共という意識だ。つまり連帯感、私たちはみんな共にあるという意識
 ……(中略)……。私が子どものころは、最も高価な座席と最も安価な外野席の値段の差は二ドルほどだったんだ。そのことが当時もたらしていた効果の一つとして、スポーツイベントというものが、社会的背景も職業も階層も異なる人たちが一緒になって楽しめる場だったということが挙げられる。……(中略)……。今ではもう、そんなことはない。
 なぜなら今では野球でもサッカーでも、ほとんどのスタジアムに特等席、ボックス席があるからだ。……(中略)……。
 多くの点で社会全体、社会生活全般が分かれてしまっている。……(中略)……。民主主義は完全に平等であることは求めないが、社会的、経済的背景の異なる人たちが、日々の生活の中で、公共の場で交流することを求めている。(p.126-127)


市場が余りに力を持ちすぎると、民主主義の前提である公共的な意識が失われてしまう。サンデルの近年の主な主張はこの点にあると思われ、現代という時代にとって重要な指摘である。



女性教師
 ……(前略)……。聞き取りや小テストなどで満点を取った時など、生徒に青いシールをあげていましたが、シールをあげるのをやめると子どもたちは勉強しなくなりました。やる気をなくしたのです。
 子どもたちにとって青いシールはプレゼントと同じで、勉強の目的がプレゼントをもらうことになってしまって、勉強そのものではなくなるのです。ですから、子どもたちには長期的な動機づけをすべきだと思います。つまり読書という行為そのもののために読書をさせるようにするのです。お金は子どもに直接わたすのではなく、学校施設や教師の研修などのために使うべきだと思います。(p.157-158)


韓国での講義で勉強と金銭的インセンティブの問題を議論した際に出てきた意見より。p.44からの引用文の最後に、「本を読んでお金がもらえなくなたっとき、子どもたちがどうなるか」が問題だと指摘しているが、この教師によると、効果は持続しないということだ。目的と手段を逆立ちさせる非本来的なやり方は避けるべきだと私も思う。



51パーセントの住民が受け入れの意志を示した時、彼らは公共のために犠牲となる重責を受け入れようとした。……(中略)……。しかし、補償を提示されると、住民はそれを金銭の絡む取引であるととらえ、自分や家族にリスクにさらしてまで6000ユーロを受け取ろうとは思わなかったのだ。……(中略)……。補償の提示が責任感を追いやった。これは、金銭的インセンティブの重要な特徴を示している。金銭的インセンティブはほかの価値を追いやることがある。
 ……(中略)……。責任感がいったん金銭的な関係性によって追いやられ、失われてしまうと、それを取り戻すのは非常に難しいということだ。(p.162-163)


p.45-46の引用文と同じ問題について、韓国での講義でも議論している。ここでは中国での場合よりもさらに踏み込んで議論が行われているように思う。

ここで金銭的インセンティブの特徴として述べられていることを、同じくNHKの「白熱教室」シリーズ(お金と感情と意思決定の白熱教室)で取り上げられたダン・アリエリー教授の講義では、確か「社会的動機と金銭的動機は両立しない」として定式化していた。この講義を聴いた時、サンデルの指摘がより明確に私の中で理解できたと思った。すなわち、「社会的動機」は利他的な志向を持っているのに対して、「金銭的動機」は利己的な志向を持っているものだから両立しえない、少なくともほとんど常に衝突する、と理解できた。だから、金銭的インセンティブが跋扈する社会では公共的な意識が育ちにくくなる。常に利己的な方向へと意識が誘導されるからである。



納得とは、みなの意見を聞き、それぞれの考えを理解することから始まる。全員の意見を採用することはできないかもしれない。それでも、みなが共に暮らす地域を再建するには、全員の声を聞き、その意見について検討されるということが大切なのだと。(p.215)


民主的なプロセスが善き社会をつくる上で重要である理由。