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内藤葉子 『ヴェーバーの心情倫理 国家の暴力と抵抗の主体』

実際のところ、E・ハンケや牧野が指摘するように、ヴェーバーが責任倫理を導入したのは最晩年の講演「職業としての政治」の加筆原稿においてである。厳密にいえば、ヴェーバーは責任倫理の内容について多くを語ったわけではない。ここには、それまで使っていた「結果倫理」や「結果に対する責任」や「<権力>責任政治」ではなく、なぜ最終的に「責任倫理」という概念を導入したのかという問いが現れるだろう。
 また心情倫理をいったん『職業としての政治』から切り離して見直すことも必要である。というのも、心情倫理は『職業としての政治』以前に宗教社会学研究を通じてすでに用いられていたからである。(p.11)


心情倫理と責任倫理は対になるものとして見なされる傾向があるが、それに対し、本書は批判的な視点を提供している。この点は本書の特色。責任倫理がメインで、心情倫理はそれを補完するような位置づけで語られがちであり、私自身もそうした理解を持っていたが、そもそも心情倫理は責任倫理が登場する前から使用されている概念であり、(職業としての政治では否定的な評価がされているが、)そこでは否定的な評価が下されていたわけでもないと本書は言う。そうだとすれば、責任倫理とは切り離して考えることは確かに必要だと思われる。



Ge-は集合名詞をつくる接頭語であり(ex., Berg(山)→Gebirge(山脈))、元来はHaus(家)の集合としてのGehäuse(家々)という意味をもった言葉である(p.87)


倫理論文の末尾に現れる「鉄の檻」と訳されたことがあるGehäuseについての注釈だが、もともと家Hausの集合名詞だと分かると、解釈のニュアンスもつかみやすくなった感じがする。



 第四に以上の見解から、責任倫理は、心情倫理が現世の倫理的非合理性に対して応答する倫理であり、かつそれが政治的領域のなかで露呈させる問題性を十分に認識するからこそ、あらためて導入されたと考えらえることである。(p.243)


心情倫理が政治的に問題を露呈するという認識に基づき責任倫理という概念が『職業としての政治』において新たに導入されたという。なるほどと思わされたところ。


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野口雅弘 『マックス・ウェーバー 近代と格闘した思想家』

権力が一部の人に「偏重」し、開かれた言論によってそれが問い直される可能性が閉ざされているところでは、権力の中枢への近さがものをいう。こうした関係性においては、権力に対する卑屈な振る舞いがはびこることになる。(p.40)


ウェーバーの「ピエテート」概念が日本で注目されたということの関連の中でのコメントだが、これは明らかに現在の安倍政権への批判が意図された発言と思われる。少なくとも現状を捉えた発言ではある。



資本主義と権威主義の間に、一定の相性のよさがあるようにもみえる。この結合を避けようとするならば、「流れに抗する」必要がある、とウェーバーは考えていた。(p.97)


資本主義も権威主義もその時点で政治的・経済的・社会的な権力を持っている側の人間にとって有利なものであり、それをさらに強化するためのシステムないし考え方であるという点で共通している。これらに親和性があるのは当然であると思われる。



 とはいえ、もう少し若ければ、志願して最前線で戦闘に参加しかねないほどのウェーバーのナショナリスティックな感情は、敗戦とドイツ革命のなかで問い直されていく。敵が明確で、戦い方がほぼ決まているような場合、ナショナリズムは比較的わかりやすい形をとる。
 しかし、「なにが愛国か」をめぐって争いが起こり、対立する立場がそれぞれ「愛国」を語るような局面になると、ナショナリズムという概念では問題が摑めなくなる。(p.99)


ナショナリズムというより愛国主義という観点から見ると、現在の世界には右派の愛国主義と左派の愛国主義があるように思われる。

右派の愛国主義は、現行の保守(反動)政権を支持することを目的として、その政策や言動に対して批判する者を非愛国者なり非国民のような存在として決めつけ、非難したり攻撃したりする。日本のネトウヨや中国共産党政権(香港に対する国家安全法の施行などを見れば分かりやすいだろう)は、これに当たる。これが愛しているのは、現行政権だけであり、それと同一化した自己だけ、というのが私の評価である。社会にとっての益は何もない。

左派の愛国主義は、現行の政権がどのような政治的な立場であっても関係なく、その政策や言動がその社会にとって利益にならなかったり、悪い副作用が生じることなどを批判し、改善を求めようとし、それこそが「国がよくなること」と考えている。香港で民主的な政治や政策を求めるものなどを考えれば分かりやすいが、民主派や左派の市民運動などの立場は概ねこうしたものだろう。(純粋な個人主義の立場も似たようなスタンスをとることは多いように思うが、個人主義から運動は出てきにくいので、行動を伴わない単なる観念的な賛同者であれば愛国主義ではなく個人主義者である可能性が高いだろう。)

ナショナリストや愛国者を名乗る人には、その人が言う「国」の定義を述べさせることにより、それが真正なものか、そうでないかが見えてくるように思われる。(大体、前者のタイプの議論ではまともな定義は出て来ない。その意味するところが明確に自他に自覚されてしまうと、議論を維持できなくなる。)



ウェーバーは基本的に「正義とはなにか」を主題化して問おうとはしない。正義について論じても、彼が関心を寄せるのは、正義をめぐるコンフリクトに対してである。形式合理性と実質合理性の対立は論じるが、それに対する一義的な解答を出すことはない。これに対してロールズの著作では、権力(power)が主題化されることはない。(p.109)


ウェーバーの権力や支配に関する議論の特徴をつかむのに的確な対比と思われる。



 集票マシーンについて論じるとき、ウェーバーがドイツ社会民主党とともに取り上げるのが、アメリカのタマニー協会だった。……(中略)……。毎年、大量に流入する移民の生活の面倒をみると同時に、タマニー協会はこうした移民を選挙人登録し、民主党への集票に結びつけた。……(中略)……。
 優れた政策を提案し、それが支持されて、選挙に当選する、という論理が崩壊する。優秀なマシーンさえもっていれば、どんなに製作が貧弱で、候補者がダメでも、票を積み上げ、当選者を増やし、政治的影響力をもつことができてしまう。(p.120)


これは現代日本の自民党や公明党について完全に当てはまっている。



日本語文献でエントツァベルンクは、「脱魔術化」と訳されることが多い。「魔術からの解放」や「呪力剥奪」と訳されることもある。ここでは「魔法が解ける」とする。
 訳語の選択において重要な論点は、エントツァベルンクがある行為主体による「作為」なのか、それともそれとは異なる意図せざるプロセスなのか、という違いである。「脱魔術化」という訳語は、囚われているものから主体的に脱する、という意味合いが強く、「魔法が解ける」という場合は、かつてあれほど強かった心理的呪縛が、まるで嘘のように解けていく、という意味である。(p.144)


Entzauberungの訳語については、今までもいろいろなものが出されてきた。どれもそれなりに考えられているとは思うが、個人的には「脱魔術化」や「魔術からの解放」という用語には、意図してそうするというニュアンスと意図しているわけではないがそうさせられるというニュアンスの両方を読み込めるように思っていた。本書の著者は受動的な側面を強調して理解しているようだが、このEntzauberungの語はウェーバーの厳密な術語ではなく、比喩的で曖昧な表現であり、主知主義的合理化が進んで行く様については主体的な契機もあることをも考え合わせると、両方の契機を含む訳語の方が良いのではないか、と思う。

また、ある意味ではEntzauberung der Weltというタームが、詩的に格好良く言おうとしている用語なのだとすれば、その訳語として「魔法が解ける」だとあまりに普通過ぎて「特別感」が出ないような気がする。ウェーバーの論文の多くは末尾の部分がやや詩的な格好をつけた文章になっていることを考えると、それに見合った訳語の方がよいように思う。



 ウェーバーのテクストは、「前近代」を批判しようとする研究者からすると「近代的」にみえ、近代に対して批判的に対峙しようとするポストモダニストからすると「ニーチェ的」に映る。山之内の問題提起は、ウェーバーの両義性を確認する結果になった。(p.244)


ウェーバーのテクストの特性を的確に表現しているように思われ、かつ、ウェーバーの受容のあり方を考える上で参考になる捉え方。



 今日、大塚らの世代がしたような仕方で「ヨーロッパ近代」を主題化することは、ほとんどなくなった。むしろそれぞれの国や文化圏にはそれぞれの形の「複数の近代」があるという、イスラエルの社会学者・文明論者のS・N・アイゼンシュタット(1923~2010)が論じる「複数の近代」(multiple modernities)の方が受け入れられやすくなっている。
 しかし、それにともなって「近代」という概念がなにを意味するのかがますます摑みにくくなっている。そもそもその概念を使ってものを考える必要があるのかどうかも怪しくなってきている。マックス・ウェーバーのテクストとそれをめぐって日本でなされてきたウェーバーに関する研究が、近年、急速に色あせてきたことは、おそらく当然の帰結である。(p.244)


近代という概念が怪しくなってくることで、ウェーバーに関するかつての研究が色あせるというのは、その通りであるように思われる。90年代後半から00年前後くらいにウェーバーについて多少関心が高まった時期があったように思うが、結局、そこで従来の「近代」を巡る議論とは別のウェーバーの可能性を引きだすことができなかったことが、この道を決定づけたのではないか、という気がする。

なお、こうした衰退の状況があればこそ、羽入の「犯罪」のような議論が一定の支持(?)を得てしまったともいえるようにも思う。例えば、「学ばされる」側の学生から見て、ウェーバーの議論から得られるものがなく、容易に理解もできないという中で、あの議論は偽物だと言ってくれることはその学生にとっては解放となる。ウェーバーの議論から得られるものがあると感じていれば、読解に努力をしようという気にもなるだろうが、それが得にくい時代状況になってきたからこそ、あのような議論が受け入れられる余地が生じてしまったのではないか。



「なぜヨーロッパにおいてのみ」「普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる文化的諸現象が姿を現すことになったのか」というウェーバーの問題設定には、私も疑問を抱く。「オリエンタリズム」の問題についても、すでに言及した通りである。ただし、なんらかの普遍的な規準を追求することを放棄して、「ありのまま」の自分を認めようとすれば、その「ありのまま」の自分が自明視しているものを問題化することができなくなる。
 日本のウェーバー研究はウェーバーのテクストの「ロスト・イン・トランスレーション」だったかもしれない。しかしそれでも、ウェーバーが描く「ヨーロッパ近代」のスケッチを何度もくりかえし、さまざまな仕方で読み解こうとすることで、日本社会のあり方を批判的に、つまりイマ・ココに閉じこもらない仕方で問い直すことには、大きな意味があった。(p.245-246)


ここは本書の中でも最も重要な部分かと思う。現代においてかつてのウェーバー研究が持っていたような意義を持ちうる研究はどのようなものになるのだろうか?この点についてもう少し掘り下げて描いてもらえると、より良かったのではないかと思う。(大部分の人にとっては、本書でなされた指摘だけで次につなげていくことは極めて困難と思う。)

なお、本書とはやや文脈が違うかも知れないが、現在、マルクス・ガブリエルが普遍性を復権しようとしていることは、本書で指摘されている問題とも通じるところがあるかも知れない。私としては、まだこの辺りについては明確に整理ができていないところであり、今後、もう少し考えを深めていきたいところである。


今野元 『マックス・ヴェーバー――主体的人間の悲喜劇』

 歴史学として見ると、このヴェーバーの「資本主義の精神」論には論理の飛躍がある。ここで指摘するのは以下の三点である。第一にヴェーバーは、経済活動の有様がそもそも宗教思想の違いに由来するとの前提で議論を始めているが、そんなことが言えるのかどうかは分からない。それはオッフェンバッハ―やゴートハインらの研究を基に彼が出した仮説でしかない。第二に、ヴェーバーは分析対象を、プロテスタント教会に属する商工業者の心理から禁欲的プロテスタント理論家の教説へとすり替えている。一応ヴェーバーは両者の違いに気付いており、だからこそR・バクスター(ピューリタニズム)、P・J・シュペー1920ナー(ドイツ敬虔主義)、R・バークレイ(クウェイカー派)のような生活実践に近い神学書を分析したのだが、本来は神学思想研究ではなく、商工業者の社会史研究を行うべきだった。第三に、「予定説」が生み出す救済への不安から商工業者が労働に邁進したという核心部分は、全くの想像でしかない。(p.79)


私の理解では、上記の三点の指摘については次のようになる。

第一の指摘に対しては、ヴェーバー自身も一応は押さえた上で議論をしている体裁をとっていると理解している。つまり、ヴェーバーはプロ倫全体を仮説として扱っている。もっとも、そのように扱いながらも実際には単なる仮説ではなく、実態を捉えているものと思っているであろうが。

第二の指摘についても、ヴェーバーは理解しており、だからこそ単なる神学思想の本ではなく、牧会に関する本を選んでいたものと理解している。つまり、一応は、牧会を通して信徒たちの行動が方向づけられたのではないかとの仮定の下でヴェーバーは論理を構成している。ただ、本来すべきであるのは社会史研究であったという点には完全に同意する。

第三の指摘も同意見である。

概ね三点とも批判としては妥当である。ただ、ヴェーバーは前2つの批判に対する予防線はある程度張っている(が、自説を守ることには成功していない)。



 のち1920年に刊行された改訂版「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、ヴェーバーは大幅な改訂を行った。新旧両版を比較した安藤英治の分析を踏まえると、ヴェーバーが最も拡充したのはカトリシズムの分析である。旧版でヴェーバーはカトリシズムの理論や実例には踏み込まず、お決まりの先入観(「理念型」?)を繰り返していたが、カトリック系学者からは猛批判を浴びた。(p.80)


プロ倫に対する当時の反響については、なかなか日本では追うことが難しい。



「鋼鉄のように硬い殻」の説明がないと、彼が描いた近世の禁欲的プロテスタンティズムの世界と、近代の無宗教的な資本主義の世界とが架橋されないのである。ただこの架橋の試みもヴェーバーの想像の産物であって、論証されたわけではない。(p.83)


ここの意向の部分の論証が欠けている点は、プロ倫の論証の中でも最も不十分な点の一つであるように思われる。


丸山俊一、NHK「欲望の時代の哲学」制作班  『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ』

したがって、他者の自由意志は、私たちが私たち自身であるために必要なものであると同時に、私たちが持つ自分自身のイメージを損ねる可能性があるがゆえに、私たちが恐れるものでもあるのです。
 これが、社会的な複雑性に対する一つの反応であり、ポピュリズムの先導のもとに、まさにいま、起こりつつあることです。自由民主主義への攻撃は、社会性そのものを破壊しようとする試みなのです。(p.34)


他者の自由意志を恐れるということが、排外主義やレイシズムなどの要因となり、それが多くの人が陥りやすいものであるが故にポピュリストたちによっては動員しやすい環境となっている。

この原理は、私からすると、なぜ専制や独裁などがほとんどの人にとって悪なのか、ということの原因でもあると思う。つまり、支配する側に常にいる人にとって、多くの人びとの自由意志は、支配者の自己イメージを損ねる可能性があるが故に、恐れるものでもある。そうだとすれば、支配者は人々の自由意志が自分に向けられないように情報を操作したり、(まさに香港における「国家安全法」がそうであるように)「不法を法とする」ことで統治しようとする。

第二次安倍政権は、就任以来ずっと情報操作することによって自身の支持を得てきた(正確に言えば、人々が不支持にならないように仕向けてきた)。それができてきたのは、安倍(やその周辺)に実力があるからではなく、そのための環境が整えられてしまっていたということが大きな要因である。90年代から00年代前半までの政治改革による内閣への権力集中がそれであり、安倍政権がそこに内閣人事局の設置によって、それを完成させたと言ってよいと思う。官僚がすべて首相の言いなりになり、不都合な情報を出さないようになる。あとは、マスメディアを「各個撃破」戦術によって黙らせてしまえば、誰も大っぴらに批判する者はいなくなる。よほど政治に関心がある人以外は、実際に行われていることを感知できないから、不支持は広がらない。それによって政権を維持する。コロナ発生後の対応のまずさは、政権の本来の実力を示しているものであり、最近、首相が国会にもメディアにも出て来ないことは、国民の関心が高い問題であるため、今までのような誤魔化しが通用しにくいことを分かっているためである。まともに対応する実力もないし、今までのように誤魔化すこともできない。これが現在の安倍政権の立ち位置である。

今の政府の対応や姿勢を見ると、今後、コロナの感染が国内で広がることは間違いない。数か月後にはアメリカやイタリアのようになってもおかしくない(市中感染が広がり、医療機関での対応も追いつかなくなる)と私は見ているが、そうなった場合の責任は内閣にあり、その際には(今まで安倍がやって来たような)「責任を痛感する」とか「責任は私にある」と【言うだけ】で済ますことを許すべきではない。有権者としては、そうなる前に政権を変えて対応を変えるのが望ましい。



 フェイスブックの本質、それはあなたが自己イメージを表現できるプラットフォームを提供することです。……(中略)……。
 「好き」/「嫌い」のようなパターン分けこそが、フェイスブックなのです。なぜなら、ひとたびあなたが何かを好きになると、あなたは自動的にその好きな何かを投稿します。実際、嫌いなことは投稿しません。自分自身の好みは投稿しますが、ただそうしているだけなので、あなたは意識していません。あなたは自分が何をしているかに、気がついてすらいないのです。プラットフォームはデータを登録するだけだからといって、中立であるわけではないのです。(p.35-37)


フェイスブックはこのデータによって我々の行為を予測することができ、それが売られることが問題ということだな。



こうした利害関心がすべて一体となって、私たちは現実には何も知ることができないという、ポストモダンな物語を生み出しています。現実を知る能力や自分自身の合理性に疑問を投げかけるアメリカの大衆科学小説、あるいは、私たちは合理的ではないと主張する行動経済学などがいい例です。(p.154)


ポストモダンの物語が生み出されているのはそうだとしても、行動経済学が人間を合理的ではないと主張しているかというと、そこは疑問というか誤解ではないか。従来の荒唐無稽な「合理的経済人」という現実と合わない仮定が現実に合っていないということを実際のデータから裏づけつつ、どのような規則性(従来の仮定と違うもの)があるかということを見いだそうとしているのだから、その点で行動経済学も合理的な志向を十分に持っている。また、行動経済学は現実を知る能力に疑いを持っているわけでもないだろう。



 科学的なものの見方のみが真実であるとする「自然主義」に対しての実に痛烈な批判。そして、彼を育んだドイツという国の歴史に向き合うとき、避けては通れないナチズム、すなわちファシズムに対する最大級の警戒。さらに、今回あらためて随所で言及された「ドイツ観念論」への強い信頼と、その学問的系譜に自らを位置づけることで思索を深めようとする覚悟。この三つの重い礎があってこそ、彼の思考は軽やかになり、どんなボールが来てもコースによって打ち分ける打者のように饒舌な語りとなって言葉へと結晶することを、まずは確認しておきたい。(p.200-201)


ガブリエルの思想の特徴を簡潔にまとめているように思われる。

上記の行動経済学に対する批判(?)もガブリエルの反自然主義の感覚から来ているように思われる。ただ、自然科学的な方法を使って物事を認識することと、それでなければ事実は認識できないとすることとは全く違うことである。それこそ自然科学的な方法によって物事を認識することも一つの「意味の場」における出来事であるとすれば、難なくガブリエルの思想の枠内に収まるのではないか。実際彼は他の学問はそのように扱っているように思われる。だとすれば、この一つメタなレベルにある「意味の場」の理論の枠内で考える限り、自然科学的な方法に基づく認識も批判されるべきものにはならないように思われる。



小林純 『続ヴェーバー講義 政治経済篇』

ポーランド人農村住民の生活水準の低さは見聞済みであったから、それだけに、ポーランド蔑視の時代精神にのっかった「人間よりも主観的な幸福感の大きいけだもの」発言の「毒」を見過ごすべきではなかった。肥前氏の批判の正しさを認めたい。ちなみにヴェーバーはその後、第一次ロシア革命勃発(1905年)を機にハイデルベルクでロシア知識人たちと交流し、スラヴ文化の理解を深めた。そして、こうした民族的偏見で差別を受けた側に立つロシア人とユダヤ人だけを受け入れる演習・研究会を開きたいと言っていた。偏見克服の一つの証左としたい。(p.62)


ヴェーバーがポーランド人に対して差別的な発言をしていたことは間違いのない事実である。以上の指摘によると後年、多少はそれが改善しているようではある。ただ、現代の差別に対する感度を持って見たときに、十分に治ったのかと言えば、そこまでは言えないようにも思われる。ただ、多少の改善はあったという一面は押さえておこうと思う。



このプロイセンとは、本書で見てきたプロイセン・ドイツ、つまりドイツ帝国へと導いたホーエンツォレルン家の国を指す。前史がある。神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の後援のもとに1220年代に始められたドイツ騎士修道会のプロイセン進出(異教徒制圧)は「北の十字軍」と呼ばれ、二百年以上に渡ってプロイセン人を殺しつづけた。(p.73)


北の十字軍については、もう少し詳しく知っておいて良いかもしれない。



行政の活動がなぜ「支配」と思われてしまうのか。おそらく行政行為には裁量の余地があって、それが住民には一義的に理解可能ではなく、役人が勝手にコトを処理している、と見えてしまうのであろう。決定された意思内容を膨大な規則・決まりゴトに照らして施行するには、そういう局面が出てくるのかもしれない。カネの使い方にも制約が多い。不断にそうした業務に携わる役人は、行政内容については政治家よりはるかに熟知しているはず。彼らにはまず公務員試験をパスする頭脳が必要なのだ。行政の問題点を指摘する政治家は、関連する法や規則を変更することで解決策を模索することになる。だから政治家も役人に話を聞いたり、実情を詳しく調べて変更案を提起すればいい。ところが選挙では官僚批判で票稼ぎをたくらむ候補が後を絶たない。政治家の役人批判を聞くたび、筆者は、この政治家は自らの無能さを表明しているのだな、と思うことにしている。(p.133)


この見解は基本的に正しい。現在は00年代頃と比べると官僚批判というか公務員バッシングは酷くはないが、維新など一部にまだその時代の古い感覚を持っている連中は一定数いる。

ただ、現在の政府(安倍政権)が官僚批判をしないのは、内閣人事局を設けたことによって自らの傀儡を幹部に次々と登用していくことができるようになっているためであり、「官僚批判をしている無能な政治家」よりも質が悪い。公務員バッシングや政治改革という90年代から00年代に作られてきた流れがもたらした負の遺産ができてしまっている現在はフェイズが変わっている、ということも押さえておく必要があると思われる。



 2月初め、バーデン公の発議により「正義の政治のためのハイデルベルク協会」がマックス・ヴェーバー宅で設立された。西欧諸国の真実ならぬ戦争責任論の宣伝に対抗することを目的とし、2月7日の声明で、戦争責任問題を客観的に解明するための非党派的・中立的な調査委員会の設置を要求した。協会は「ヨーロッパの戦争を行った大国すべてに共同の責任」があるとし、ドイツへの処罰を隠れ蓑に(自ら断念したはずの)「帝国主義的戦争目的」の実現をはかることに抗議した。協会の活動はヴェルサイユのドイツ講和代表団の基本線に一致していたので、外務省にも好意をもたれた。その結果、協会のヴェーバーら4人が「講和交渉委員会」の審議に招かれ、またこの委員たちはパリ講和代表団の随行員に任命された。(p.194)


ヴェルサイユ条約の講和にヴェーバーが参画していたことは当然知っていたが、その経緯がよくわかった。



橋本努 『解読ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』』

 もちろんマルクスにしたって、われわれがどんな社会を目指すべきかについて、明確なビジョンがあったわけではない。でもマルクス主義者たちはその後、いろいろなビジョンを模索してきたよ。社会民主主義とか、マルチチュードといったビジョンを提起してきた。ところがウェーバー主義者たちはどうだろう?ウェーバーの認識を継承して、なにか新しい理念やビジョンを出したのかね?ウェーバー主義者たちは、「講談禁欲」とか「価値自由」とか何とか言って、世の中を変革するための規範理論やビジョンを出すことに、臆病だったんじゃないかなぁ。(p.73)


この指摘は確かにそうだと思える。

そもそもマルクスとウェーバーでは本人たち自身が社会の変革に対するスタンスが違っているし、それぞれの理論が志向している方向も違っている。ざっくり言えば、マルクスの理論は社会を変革することを目指しているが、ウェーバーの理論は過去の歴史についての認識を通じて社会についての認識を目指している。ウェーバーの理論は、その意味で(少なくともマルクスの理論と比べると)社会変革への応用は利きにくい。ただ、ウェーバーは様々な理論を見定めるための道具として役立つものを提供してきたとは考えられる。

しかし、ウェーバー主義者は、ウェーバーが提示してきたそれらの考え方を精緻化したり、ウェーバーの提示したもの自体が、まとまった形で提示しきれていなかったものが多いので、それを理解したりしようとすることにかなりの労力を削がれてしまっていて、結局、ウェーバーによって残された道具を使える人を増やすことに貢献したという以外、社会に対する貢献・還元という点ではあまり目立った成果は上げられていないように思う。


河本英夫 『経験をリセットする』

 日本の地熱発電は、全国に17箇所ある。北海道電力管内に一基、東北電力管内に六基、九州電力管内に五基、さらに民間(三菱マテリアル、杉乃井ホテル、九重観光ホテル、大和紡観光)が四基所有しており、東京電力管内では、八丈島の一基だけである。出力規模も小さい。東北電力や九州電力の地熱発電に比べて、一基当たりの出力規模が、一桁小さいのである。ここにはなにか事情があるに違いない。
 地熱の潜在エネルギー量では、日本はアメリカ、インドネシアに次ぎ、第三位の埋蔵量がある。つまり地熱はいまだほとんど活用できていないエネルギー源である。……(中略)……。
 ……(中略)……。インドネシアの地熱発電所の建設には、多くの日本企業が参入している。日本にはすでに地熱発電の技術はあるが、さまざまな規制がかかっているために活用できていないのが実情である。(p.152)


興味ぶかい指摘。事情というのは恐らく地熱を活用できない事情ではなく、やりたくない人がいる、別のことをやりたい人がいる、ということと関係があるのではないかと思える。例えば、原子力を使いたいために、地熱や風力などは使いたくないという類の人たちの意向が政策に反映しているのではないかと思える。



 いわき市には、原発事故直下の町村の人たちが移住している。事故前には、発電所への補助金で潤っていた人たちである。補助金で潤い、仕事のあった人たちが、何もかも失って流民のように流れてくる。その後も被災民としての補助金、支援金は支払われている。そこでできることは時々、不釣り合いなほどの買い物をすることである。それは生活ではなく、持っていき場のなさの表現でもある。いまだ次の選択肢に踏み出すことが出来ていないのである。そしてそうした人たちを見かければ、どうしても「裁く」「捌く」という感情が働いてしまう。裁くという感情は、他人に向けられる場合でも、自分自身に向けられる場合でも、さらには東電や福島県や国家に向けられる場合でも、選択肢が足らない場面で強く出てしまう。他人を裁いてはいけないと思っても、なお裁く思いが残ることがる。ここから不要なほどの差別感情が生じることがある。
 ……(中略)……。
 裁くのではなく、自分自身のなかに選択肢を開くことが必要となる。放射線は、この選択の道を極端に狭くしている。……(中略)……。圧倒的に足りていないのは、労働力や資金ではなく、多くの人にとってそれぞれがさらに次の選択肢を選び、さらに能力を発揮することができるようなるためのデザインなのである。(p.232-233)


選択肢と裁く感情の関係はなるほどと思わされた。これは、他人を裁こうとしている人たちに対しては、より良い選択の余地を開いてやることが必要ということでもあるだろう。ただ、不当な政策が行われようとしていることや自由(選択肢)が奪われていると感じる市民が政府を批判する場合などを考えると、そうした人の心の中にだけ選択肢を広げても不満を軽減するだけで本当の解決にはならないことが多いのではないか、ということには留意しておきたい。本書で最後に「デザイン」と言われているが、制度設計を含めたシステムの変更によって心理的・精神的な選択肢だけでなく、行為や言動に関する選択肢も開くことが必要になる。



マルクス・ガブリエル 『「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学』

 脳の10年が、1989年のベルリンの壁崩壊直後、つまりは特筆すべき冷戦終結直後にジョージ・ブッシュによって宣言されたのは本当に偶然でしょうか?単に医学の進歩を政治が支援するためだったのでしょうか?脳が何かを考えているときの、その脳の様子――つまりは国民の様子――を眺めることができるというのは、監視社会(と軍事・工業複合社会)が新たなチェック機能を獲得することを意味しないでしょうか?脳の理解を深めれば消費者をコントロールできると期待する声があることは、以前から知られていました。もしや(宣伝による消費者操作はもとより)神経科学に基づく医薬品によって、新たな人間操作のメカニズムが生まれるのでしょうか?
 フェリックス・ハスラー(1965年生)が『神経神話学』で、なるほどと思わせたように、脳の10年は新たなロビー活動を生み出しました。その結果、アメリカの大学ではタバコを吸う学生より向精神薬を飲む学生のほうが多くなりました。(p.34)


ガブリエルが彼の言う「神経(ニューロ)中心主義」に執拗に対抗しようとするのは、こうした懸念に発しているのではないかと思わされた箇所。神経科学などが社会の運営に有益な形で関与できる余地もあると私は考えるため、ガブリエルがここまで執拗に神経中心主義を批判することには若干の違和感を感じているのだが、批判する意図が垣間見えたように思う。

最後に述べられている事例については、もう少し具体的に知りたいところ。



 神話の形成というのは自己認識から逃げるための典型的なやり方で、今日でも行われており、たいていは過激ダーウィン進化論に感染させれています。「私」とはいったい誰なのか、あるいは何なのかと問い、その問いに対して、「私」が歴史的にどのように記述されてきたのかについても教えてくれる一貫性のある答えを構築する代わりに、現実には認識しようのない過去が持ち出されるのです。そのような過去はかなり大昔であり、証拠となる発掘品は二、三の頭蓋骨や槍の先端、せいぜい洞窟画くらいでなければなりません。それなら、その過去からどのようにして我々が生まれたのかについて、かなり好き勝手な話をすることができるからです。
 まさに、これが神話なのです。神話の政治的中心機能は、太古の昔を思い描くことによって、現在の社会全体の状況についてのイメージをつくることです。その過去について実際に分かっていることが少なければ少ないほど、思いのままにイメージを作ることができます。(p.274)


少し違うがいわゆる歴史修正主義とも通じるものがあるかも知れない。根拠薄弱なところから無理やりいい加減なやり方で社会のイメージを作ろうとするあたりが。


マルクス・ガブリエル 『世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見ているか』

境界線がぼけていることは現代のイデオロギーです。事実とフェイクの境界線、フィクションと事実の境界線などがぼけているという考えは、ポストモダンの哲学的思考の結果生まれたものです。
 そして今世紀に何が起きたかというと、右派政党が哲学左派の哲学的ジャーゴンを乗っ取ったのです。簡単に言うと、1990年代のフランスの理論や世界中で起きた他の理論が、保守的なイデオロギーという袋の中に一緒くたに入れられてしまったということです。(p.47)


安倍政権の言動と通じている。安倍政権では自身の権力維持にとって不都合な事実についてはなかったことにしようとし、あまり政治に関心がない人々から見たときに、悪いイメージを持たれないようにイメージ操作をしようとする。長期政権を維持している要因は徹頭徹尾これしかないと言ってもよい。政権がそのような言動をしていることに対して、厳しい批判が出にくい社会的雰囲気となることに、ポストモダンの考え方は力を与えている。



 人から人間性を奪うには、二つの方法があります。一つは相手を悪だと思うことで、もう一つは相手を善だと思うことです。本来なら善悪などありません。相手も自分と同じ、ただの人間なのですから。
 2015年、ドイツは移民の歓迎ムードに浸っていました。誰もが移民を手放しで歓迎していましたが、私は当時からその愚かさを指摘していました。……(中略)……。
 移民をむやみに歓迎することは、移民の人間性を奪うことにつながります。移民の人間性を保つためには、彼らが難民だとは気づかれないようにするべきなのです。(p.82-83)


相手を善だと思うことで人間性をはく奪するという点はなるほどと思わされる。日本では天皇や皇室の人々が、こうした仕方で人間性や人権を奪われているが、これも上記の移民歓迎と同じように愚かであると思われる。



我々は民主主義の本質とその価値を理解しなければなりません。緩慢な官僚的プロセスが善であることを理解しなければなりません。
 ……(中略)……。結果までの過程で、この民主的な制度が「何かうさんくさいことが行われていないか」とチェックするからスピードが遅くなるのですが、我々はその手続きを是認するべきです。我々は、事が即自分の思い通りにいかない世界に生きていることに満足しているというべきなのです。それが民主的思考です。
 非民主的思考というのは、「これが消えてほしい」という考え方です。(p.104-105)


安倍晋三が彼にとって都合の悪い意見や質問に接しているときの表情や言動を見ると、彼がいかに非民主的な思考に漬かっているかがよくわかる。

ガブリエルの言うように人々は緩慢な官僚的プロセスが善であるということを理解すべきである。安倍晋三が行っている様々なこと(森友問題、加計問題、桜を見る会、そして最近の学校一斉休校の性急な決定)を見れば、「何かうさんくさいことが行われている」ことは明白である。それを許している(というより現行制度の下では適切な批判が機能しないという面が大きい)ことが、日本という社会をどんどん非民主的な方向へと進めている(この7年間で極めて状況は悪化した)。この悪影響は、おそらく5-10年程度後になって誰の目にも明らかな悪として現れるのではないかと考えるが、その時には、安倍政権が行なった悪行と結び付けて認識されないか、それに気づいた時にはすでに手遅れとなっているのではないか、と危惧する。



 ですから、明白な事実を考慮に入れることは、民主的制度の役割であるべきです。明白さを否定してはいけません。独裁主義は明白さを否定します。スターリン時代の見せしめの裁判で明白だったのは、裁判がなかったことです。裁判のように見えていただけで、明白さを否定していました。だから、スターリン時代は民主的ではなかったことがわかる。事実ではないことを誰もが知っているのに、実際に起きているふりをしていたからです。(p.106)


森友問題の文書改竄について、近畿財務局の自殺に追い込まれた職員の手記が公表されたが、安倍政権は明白な事実を否定している。こうしたことからも安倍政権は非民主的であり独裁政治を行っていることは明白となっている。この明白な事実を多くの人が認める必要がある。



ポストモダン思想には批評のパワーはありません。ポストモダン思想が唯一批判するのは、非常に独善的な考えを持った人や、非常に強い信条を持った人、それだけです。むしろ反対にポストモダン思想が批判できないのは、統計しか信じないフレキシブルな人です。(p.148)


ポストモダン思想には批評のパワーがないというのは的確な指摘と思われる。独善的な決めつけに対しては相対化するという程度のことはできるかも知れないが、それ以上のことはできない。


マルクス・ガブリエル、マイケル・ハート、ポール・メイソン 『未来への大分岐 資本主義の終わりか、人間の終焉か?』
マイケル・ハート

 本来、特定の経済システムが果たすべき責任とは、生産力を増やして人々にまともな生活を提供することにとどまらず、人々の才能や能力を十分に活用することなのです。(p.29)


才能や能力を活用するという言い方には、個人主義的な考え方がやや強すぎる感じがする。むしろ、社会の中ですべての人がそれぞれ然るべき位置を占め、そこでそれぞれ何らかの貢献をする、といった方が良いのではないか。



マルクス・ガブリエル

斎藤 現在の状況全体が最低だから、それに対処する政治も最低じゃないといけないというわけですね。でも、どうして人々はまともでない状況をまともな形に直そうとせずに、最低な状況で生きることを選んでしまうのでしょうか。
MG 心理学的な説明になりますが、もし政治がまともになれば、ないことにしている他者の権利を認める必要が出てくる。それに対する、暗黙の恐れがあるのです。(p.158)


明らかな嘘に基づくような政治であっても人々がそれを直そうとせず受け入れてしまうことについての議論。現在、「保守」と呼ばれている「反動」勢力は、普遍的な人権などを認めようとせず、それをないことにしようとしているが、そのことに対する「彼ら」の心理としては、確かに、マルクス・ガブリエルが言うように解釈できる。



とくに相対主義と社会構築主義は、事実のあるところに事実を見ないという帰結をもたらします。
 あなたが事実を見なければ、目の前の問題に対して自分がどんな態度をとるのかを決められない。つまり態度の調整が不可能になります。社会構築主義は、人々から現実を見る力と問題に対応する力をそいでしまうのです。(p.173)


マルクス・ガブリエルが繰り返し述べる、この問題意識には共感する。90年代頃にポストモダニズムが流行していた時に、私自身が非常にうさん臭さを感じたのは、まさにこの問題意識に通じていると思っている。ただ、社会構築主義には、私もその後、00年代頃にはかなりコミットしてしまったが、いわゆる「保守」(つまり、実際には「反動」)や権力を握っている側が、これを明確に悪用することが世界的に増えてきた00年代後半には、そこからどのように抜け出すべきかということが徐々に意識されるようになってきたと思う(その前の2003年のイラク戦争などもこの問題点が感じられる事例であろう)。私にとって、その手掛かりとなってきたのはオートポイエーシスであり、マルクス・ガブリエルの新実在論も観察者の理論である点で多くのポストモダニズムの議論と共通の誤りを犯しているとは思うが、そうであっても、相対主義を乗り越えようとする姿勢自体は評価に値するし、彼のこうした議論によって相対主義や社会構築主義の問題点がより広く認識されること自体は歓迎したい。



ポール・メイソン

 世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)が国連総会で採択されてから、すでに70年以上が経っています。ところが、中国の大学では、「七不講」という政府からの通達によって「人類の普遍的価値」という言葉が使用禁止になっています。その一方で、中国政府は企業などの民間部門に対して、データと専門知識を供出するよう命令しています。2035年までに中国が、AI開発における世界的リーダーになるためにです。(p.301)


中国共産党にとって「人類の普遍的価値」が認められることは不利益だということを宣言しているようなものだが、それはつまり、自らそれを否定(踏みにじっている)と認めているということ。中国の人々は、中国共産党が行っているこうした事実をより深く知るべきである。それを知らせていくような運動というものも必要なのではないか。

ただ、これは他人事ではない。桜を見る会の招待者や招待の経緯を意図的に明らかにしないようにしている政府、森友問題と加計問題、労働や経済に関する統計の(意図的な)不正操作など、政府にとって都合が悪い情報はなかったことにしようとしているのは安倍政権も全く同じだということを日本の人々ははっきり知った上で政権を選ぶべきなのだ。(中国共産党と同じような安倍政権の支配を受けたいかどうか。)