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アヴェスターにはこう書いている?
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マルクス・ガブリエル 『なぜ世界は存在しないのか』

意味の場の存在論的概念で説明できるのは、数多くの意味の場が存在するほかないということと、それらの意味の場が互いに区別されるということだけです。しかしそれだけでは、どんな意味の場が存在するのか、それがどんな状態にあるのかを具体的に言うことはできません。それを言うには、存在論だけでなく、ほかのさまざまな学問、経験、わたしたち自身の感覚、言語、思考――ひとことで言えば、人間による認識の営みの現実全体が必要です。存在論からわかるのは、さまざまな意味の場がいずれも完璧に同じだとすれば、現実は、そのような結局のところ区別できない意味の場から成り立っているわけではない、ということです。そのつどどんな意味の場が存在するのか、そうした具体的な意味の場を列挙するのは、存在論ではなく経験科学の役目です。(p.127-128)


本書を読んで、意味の場の存在論で語られる「意味の場」は、形式的であり、実質を欠く印象を持っていたが、著者もそうした点についての認識は持っているようだといういことがわかる。ただ、意味の場の存在論では、いろいろな意味の場の間の関係性を十分に捉えられないように思われる。河本英夫のオートポイエーシスでは、感覚によって感じられることと、反省によって認識されることとの間には違いがあり、後者の方が派生的なものであることが示されており、そのメカニズムが説明されているのに対し、意味の場の存在論では、それらの関係性について説明されていないように思う。意味の場同士の関係性を認識したり秩序付けるのは、経験科学ではなく哲学の役目ではないかと思うが、もし、そうだとすれば、この辺りのガブリエルの議論は物足りなく思う。



わたしたち自身が日々している経験をあっさり跳び越えて、途方もなく巨大な世界が存在するかのように考えてはいけません。そのような世界には、わたしたち自身の経験を容れる余地がないからです。(p.141)


この辺りの発言は、ガブリエルが「世界は存在しない」と主張する意図ともかかわっているように思われる。



フェティシズムとは、自らの作った対象に超自然的な力を投影することです。そのような投影によって、ひとは合理的な全体に自らの同一性を統合しようとするわけです。何らかの仕方で理解することのできる全体の一部分として自信を捉えることができれば、自分は孤立せずに守られていると感じられて安心できるからです。(p.205)


最後の一文は、昨今目にするいわゆる「愛国主義」的な言説に完全に当てはまる。いわゆる「愛国主義」はフェティシズムである。つまり、「国家フェチ」といったところか。



 人間は、自身が何なのかを知りません。だから探求を始めるのです。人間であるとは、人間とは何なのかを探求しているということにほかなりません。ハイデガーは、これを特に鋭く定式化していました。「自己であることは、探求することのなかにすでにある発見物である」と。自らを探求することができるためには、わたしたちは、まず自らを失っていなければなりません。わたしたちの存在そのもののなかに、わたしたち自身にたいする距たりが組み込まれていなければなりません。いや、わたしたち自身の存在とは、つまるところこの距たりにほかなりませんこの距たりの最初の経験、この最大限の距たりの経験が、「神」ないし「神的なもの」として体験されるのです。したがって人間の精神は、神的なものという形態のなかに、じつは自分自身を探っているわけです。そのさい人間の精神は、自らの外部に探求している神的なものが、じつは当の人間の精神にほかならないということを知らずにいるのです。(p.224)


自分自身との距たりという考え方は参考になる。



 芸術の意味とは何かという問いに、また別の視点からアプローチしてみましょう。わたしたちが美術館に行くのは、美術館では、あらゆるものにたいして違った見方をするという経験ができるからです。わたしたちが芸術に触れるなかで学んでいくのは、「確固とした世界秩序のなかで、わたしたちはたんに受動的な鑑賞者にすぎない」という想定から自らを解放することにほかなりません。じっさい美術館では、受動的な観察者のままでは何も理解できません。訳のわからない、無意味にすら見える芸術作品を解釈することに努めなければなりません。何の解釈もしなければ、塗りたくられた絵の具が見えるにすぎません。それはポロックだけでなく、ミケランジェロでも同じことです。芸術の意味の場がわたしたちに示してくれるのは、さまざまな意味のなかには、わたしたちが能動的に取り組まなければ存在しないものもある、ということなのです。(p.244-245)


美術館鑑賞の意味は、現代のかなり多くの人にとって、確かにこうした点にあるかも知れない。



意味に直面する経験は、もちろん芸術や哲学でしか得られないわけではありません。そのような経験の宝庫として、旅行があります。といっても、商業主義的な意味での旅行のことではありません。商業主義的な旅行で問題になるのは、そもそも旅行ではなく、たんに気候条件のよいところに場所を変えて過ごすとか、絵葉書向けの写真を撮るといったことにすぎません。これにたいして本当の旅行では、なじみのない物ごとに触れる驚きを体験するものです。わたしたちとは異なる環境に暮らす人たちがしている多くのことは、わたしたちに疎遠・珍奇に映る。ほとんど意味がわからないことさえある。わたしたちは、その人たちの振る舞いを理解するように努めるほかありません。つまり、わたしたちは突然にして異なった意味の場に置かれ、その意味の場の意味を探求している状態にあるということです。これにたいして慣れ親しんだ環境では、わたしたちは何よりもまず対象に向かっています。(p.255)


哲学、芸術鑑賞、旅行、いずれも私が関心を持ったり好んで行ってきたことだが、それはガブリエルが指摘しているような共通の構造(日常とは異なる意味に直面する経験をし、その意味の場を探求するという)があるからであるように思われる。


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マイケル・サンデル&ポール・ダンブロージョ 編著 『サンデル教授、中国哲学に出会う』(その2)
第五章 儒教から見たサンデルの『民主政の不満』 陳来

 欧米の政治思想の中心原理が、個人の権利と個人の自由を優先することに根ざしているのだとすれば、そしてわれわれが、共通善という概念に関する要求が基本的な個人の自由を侵害していると思っているのだとすれば、儒教は、権利をそのように優先させることをけっして認めない。……(中略)……。市民の権利、政治的権利、経済的権利、社会的権利は、論理レベルでは、儒教と欧米文化では順番が異なるし、その実現(歴史的な状況と密接に関連している)の順序、そしてとりわけ責任と権利の根本的な関係という点で異なる。儒教の立場としては、権利にも個人にも優先権を与えない。
 ……(中略)……。大昔から、とくに儒教の伝統では、中国は国家に対する個人の権利と要求を最重要事項としてこなかった。儒教では、国民の幸福を守るのは為政者と政府の義務だが、その焦点となるのは、経済的権利と社会的権利だった。(p.113)


ここで述べられていることは、中国政府(それ以上の権力機構である中国共産党)が人権を尊重していないことについて外国や国際機関から指摘を受ける際に持ち出す屁理屈と同じ内容ではないか。まず、ここで述べられていることは儒教は為政者にとって都合の良いイデオロギーであって、支配を受ける側の人のことなど顧みていない(為政者側が反乱を起こされない程度の正当性を調達できる程度にしか顧慮しない)と言っているのに等しい、ということを指摘しておく。

つまり、市民権、政治的権利、経済的権利、社会的権利などの優先順位が異なっており、中国では経済的権利と社会的権利を重視していたと本章では主張しているが、果たして中国に経済的権利や社会的権利を尊重した政治があったかどうか甚だ疑問である。労働に関する権利が歴代の王朝(現代を含む)で尊重されてきたとは思えないし、社会保障や適切な生活水準を保証される権利も尊重されてきたとは思えないし、教育を受ける権利が尊重されてきたとも思えない。むしろ、市民権や政治的権利を人々には与えず、経済的及び社会的な為政者側の権限を尊重してきたというのが実態ではないだろうか(専制政治が行われる社会や封建社会などの状況は中国に限らず概ねこのようなものだろう)。



第九章 道徳的主体なき道徳性についてどう考えるべきか  ヘンリー・ローズモント・ジュニア

 マイケル・サンデルは、彼のいう自我が、負担を取り除かれた同胞たちとどの程度同じく尊厳と敬意を認められ得るかは述べていない。おそらく、サンデルはこれを説明できるだろうし、あるいは、他の哲学者の誰かができるだろう。だが、誰かがそれをはっきり説明するまでは、ロジャーと私が両方の選択肢を退けることも許してもらいたい。(p.235)


この論法は利用価値があるが、ここでの著者の意図とは異なり、一般的に有利な状況にいる側にとってより有利になるやり方だということには留意しておきたい。


マイケル・サンデル&ポール・ダンブロージョ 編著 『サンデル教授、中国哲学に出会う』(その1)
第四章 市民道徳に関するサンデルの考え方 朱慧玲

彼の政治哲学はコミュニタリアニズムというより、ある種の共和主義と考えるのが妥当であることを、私はこれまでの数本の論文で示してきた。
 まず、共通善についての彼の理解は、コミュニタリアニズムに見られるものとは異なる。サンデルの主張によれば、ある集団内で共有される価値観は、その集団の共通善を完全には実現あるいは支持しないかもしれない。そのうえ、コミュニティの善の構想を決めるのは、特定のコミュニティでたまたま幅を利かせている恣意的な価値観だけではない。より重要なのは人々の熟議である。そして、共通善をめぐる熟議は必ずしもそのコミュニティの内部や共有される伝統の中で実現されるとは限らない。したがって、サンデルの意見では、共通善の構想とコミュニティの伝統の間には緊張関係が存在することもあり得る。共通善は、たまたま人気のある価値観をただ受け入れるということではない。逆に、その価値観とコミュニティの共通善に批判的な見方を示し、それによって、コミュニタリアニズム的姿勢がはらむ多数決主義の危険を回避することもあり得る。サンデルの共通善についての理解の仕方と、熟議の強調は、コミュニタリアニズムよりも共和主義の理論に沿ったものだ。(p.90-91)


中国ではサンデルの哲学をコミュニタリアニズムとして理解する人が多いということに対して、本章の著者はむしろ共和主義と考えるのが妥当だと指摘する。これは妥当な理解である。ただ、中国で共和主義として見なされないのには、理由があるように思える。ここで指摘されるような熟議が中国の政治体制には(少なくとも公共的なものとしては)存在しないからである。存在しないどころか、こうしたものを排除しようとさえしていると考えることができる。一党支配下でメディアを統制するということも、公共的な熟議を妨げるためのものとも言える。



とりわけ、サンデルは強力な市民的共和主義の提唱者であり、現代の政治哲学においてリベラリズムを市民的共和主義に置き換えることを究極の目標としていると理解するのが妥当だろう。(p.91)


確かにこのように捉えるのはほぼ的確な表現であるように思われる。

サンデルとは直接関係がないが、前の2つのエントリーでメモした井手英策の財政思想(このブログにはほとんど書いていないがベーシック・サービスというアイディア)は、リベラリズムよりも市民的共和主義と適合しているのではないかと思われる。例えば、ベーシック・サービスにおいては、社会の共通のニーズを探し出し、それを満たすサービスを普遍主義的に実施することになるが、この「社会の共通のニーズを探し出す」ということと、市民的共和主義における熟議やコミュニティの重視から帰結できるが、リベラリズムの人間観・社会観からは引きだしにくいからである。


『現代思想2018年10月臨時増刊号 総特集マルクス・ガブリエル 新しい実在論』
宮﨑裕助、大河内泰樹、斎藤幸平 「討議 多元化する世界の狭間で マルクス・ガブリエルの哲学を検証する」より

斎藤 (前略)
 フェラーリスやポール・ボゴシアンといったガブリエルが新実在論の賛同者として挙げている人々は、ポストモダンは最初の動機はよかった、という話をします。ジェンダー的規範にせよ、植民地支配にせよ、近代ヨーロッパ的な理性中心主義の普遍主義が、実は知の権力性によって構築されており、抑圧や排除を含んでいる、だから、そこから解放されなくてはならない、というもともとの動機はよかったわけです。けれど、自然的なものは変えられないが、社会的に構築されたものであれば変革することができる、あらゆるものを脱構築することによって社会は変革できる、という戦略が行き過ぎてしまうと、すべてが構築されたものになって、真理や普遍性の地位は脅かされ、相対主義、ポスト・トゥルースが蔓延してしまう。……(中略)……。そうした状況を一度リセットして、事実や普遍性に根づいた理論を再構築しようとする新実在論の試みは、排外主義的なポピュリズムが台頭するなかで有効な軸を打ち出せない左派にとっても、一考の価値があるのではないでしょうか。


同意見である。



宮﨑 (前略)
 ただ、いろいろ見ていて気づいたのは、「Sinn」という言葉についてです。これは基本的にはフレーゲの文脈原理の議論から来ているようですが、でもSinnには感覚やセンスの意味がありますよね。……(中略)……センスの意味を単に意味ではなく感覚、つまり人間に限らない動物なども含めて、自律した近くの契機にまで拡大して考えるのであれば、一応この議論をクリアできる方向で理解できるのかなとは思いました。(p.109-110)


SinnfeldのSinnについて、「意味」と「感覚」の二つの意味があり、「感覚」の意味で用いる場合もあるとすることで、社会構築主義的な構図に陥らない形で議論を展開できるという見解だが、これも同意見である。ただ、ガブリエル自身は、この使い分けのようなものを十分踏み込んで論じているわけではないらしい。個人的にはオートポイエーシスとガブリエルの理論を比較するにあたって、この区別は重要であろう。この点は、私が今後ガブリエルの本を読む際にチェックしたいと思っているところである。



マウリツィオ・フェラーリス 「新しい実在論 ショート・イントロダクション(1)」より

いま問題となっている「新しい実在論者」は、いずれも大陸哲学のなかから出てきた。反実在論の重みは、分析哲学よりも大陸哲学でのほうが、ずっと大きかったからである。……(中略)……。
 しかし、分析哲学者にとって問題が認識論的なものだったとすれば(「概念図式と言語は、わたしたちの世界観にどこまで介入しているのだろうか」)、大陸哲学者にとって問題は政治的なものだった。ポストモダニズムが陥っている誤謬について、わたしは「知=権力の誤謬」という呼称を提案したことがある。この誤謬にしたがってポストモダニズムが育んだ観念は、現実は実際のところ支配を目的とした権力によって構築されているのであり、知は解放の手段ではなく権力の道具であるというものだった。(p.178)


なるほど。



そのような無節操な態度は、大量破壊兵器にかんする偽の証拠に基づいて戦争を始めるところまで来てしまった。「事実は存在せず、解釈だけが存在する」というニーチェの原理がじっさい何を結果したのかを、わたしたちはメディアに――いくつかの政治綱領にも――目の当たりにさせられてきた。……(中略)……。かくしてニーチェのモットーの本当の意味は、むしろ「最強者の理屈がいつでも最良のものである」ということであるのが明らかになった。(p.178-179)


相対主義は強者にとってこそ都合がよいものだということを喝破している。



景山洋平 「精神と現存在の差異 ガブリエルとハイデガーにおける様相・歴史・自由」より。

ポイントは、ハイデガーにおいて、生の意味がそれとの関係で成り立つ事実性が、同時に、生の意味の消失に我々を直面させることである。つまり、「自由・福祉・健康・正義を『課題』としよう」とガブリエルのように断言できる自信はハイデガーの現存在にはなく、生の意味をめぐる絶えざる試行錯誤しかない。(p.262)


私見ではハイデガーの哲学のこうした不安定性こそ、ナチスへと繋がっていくものであると考える。ナチスに限らずポピュリズム的な扇動に動員される人々の心理には、こうした不安定性と結びついた不安や恐れがある。ポピュリズムの扇動はこうしたものと親和的である。



丸山俊一 『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』

 だからたとえば、もし友人や家族などの身近な環境で、深く皮肉で虚無的で、反民主主義の会話を見かけたら、戦え。「ノー」と言え。(p.77)


ガブリエルは権力と柔らかく向き合うべきだという。権力に対して直接、激しく対立するのではなく、ファイアウォールを毎日見直してアップデートすべきだという。ファイアウォールをアップデートするということは、上記引用文のような対応をしていくことと繋がっている。確かに、反民主主義的な言説を垂れ流してもどこからも反論が来ない社会は、権力者が反民主主義的な言動をしても、それに対して批判し、是正させる力も弱い社会であろう。現在の日本のように。



もし、インターネットをリアルな社会的な活動範囲にまで積極的に広げてしまったら、社会的現実を破壊することになるだろう。僕らは、こうして民主主義を壊してしまっているんだ。インターネットは決して民主的なメディアではない。(p.80)


ネットを使った社会活動のすべてが民主主義を破壊するとは限らないが、インターネットには民主主義や言論の自由、表現の自由などを蝕んでいく傾向があることは事実だろう。例えば、言論の自由などの言葉の意味を履き違えながらヘイトスピーチをまき散らすという行為が行われ、無知な輩がそのような粗末な言説に影響され、拡大していき、次第にそれが市民権を得たかのように大きくなっていき、それが批判されると言論の自由を盾にとって自らの主張を正当化しようとする場合など。



 もちろん、僕もインターネットを使う。フェイスブックやツイッターもやっている。しかし、僕はそれらを、「告知」の道具としてのみ使っているんだ。(p.82)


インターネットは双方向のコミュニケーションではなく、一方的に知らせる告知として使うというガブリエルの使い方は、個人としての使い方としては妥当なものの一つである。私もフェイスブックやライン、それどころかメールなどはコミュニケーションのツールというより、告知(通知)するためのツールだと考えている。ネットのメディアで議論をすることは全く現実的ではない。



トランプは、ポストモダン理論を政治へ完璧に組み入れた例だ。ここに、僕らの新しい哲学的な敵が存在する。……(中略)……。彼はポストモダン的天才で、ポストモダニズムの洞察を経済的な言動力にしている。
 ポストモダニズムの基礎的な概念は、覚えているだろうか、これらすべてを突き動かしていたのは、僕らは現実を見ることができない、社会的現実などない、そして映像の外の現実もなく、ただ一つの鏡がもう一つの鏡の横にあるという概念だった。
 だが、もう明らかに、鏡を投げ捨て、新しい段階を始める時だろう。(p.143)


私がガブリエルの思想に興味を持ったのは、彼のこの種の洞察に共感したからである。現代のポストトゥルースと呼ばれる事態は、まさに権力者たちがポストモダニズムを利用しながら統治を行っている事態を反映している。その典型的な実例がドナルド・トランプであり、安倍晋三である。カリスマの有無という問題ではなく、ポストモダニズム的な観点から、マスメディアの批判を封じ込め、野党の批判をはぐらかし続けながら、事実を自らの都合の良いように社会構成主義的に作り直して発信していけば、民衆を容易に騙すことができることを彼らは理解している。彼ら自身には大した能力がなかったとしても、社会の側が権力者の権力を縛ることへの関心を失った(意味を理解しなくなった)結果、大した能力がない者でも、大きな権力を思いきり使えるような制度になっていることも、その背景にある。



そして、もし道徳観がただの好みの問題であるならば、……(中略)……、「正義などなく、あるのは征服だけである」と結論せざるを得なくなる。……(中略)……。だから、社会的現実においては――真実がなければ――純粋な闘いが生じる。それがドナルド・トランプの世界観だ。結局のところ、正義などなく、あるのは征服だけだ。それが彼のビジネスモデルだ。(p.149)


この問題意識に共感する。哲学的にはガブリエルは、この問題意識に対して新しい実在論によって、意味の場の実在論によって答えを出していくことになるのだろうが、この解決策がどの程度妥当であり、どの点で批判すべきかということは、今後、彼の本を実際に読んでみて考えてみたいと思う。



 道徳的事実は、他人の立場になって考えてみた時にわかる類のものだ。……(中略)……。だから、あなたは相手の立場から道徳的事実の意味を理解するんだ。……(中略)……。
 そして理性的な人であれば、テーブルにすべての事実を議題に挙げれば、あなたに異を唱えはしない。あなたが完全に状況を説明すれば、何をすべきかをも知ることができる。これこそが、この知識がとても重要な理由だ。知識と科学は道徳観を形成する上で絶対的に重要だ。もし僕らが知識と科学を攻撃すれば、それにしたがって僕らは人間が道徳的になることを不可能に、またはより難しくするだろう。
 だから、現代の権威主義的人物が科学を攻撃することは、偶然ではないんだ。トランプのような気候変動を否定する人々は、実際の知識を疑うために科学的専門家を攻撃する。これを次の構造にまとめることができる。

 ポストモダンの独裁者――僕らの時代の多くの残念な反民主主義者、ポストモダンの悪しき利用を目論む反啓蒙活動家――には、次の計画がある。
 彼らはあなたを、あなたが知っていることを、本当は知らないと信じさせたいんだ。それは新しいレベルの厄介な計画だ。
 あなたは実際に何かを知っているが、政治の仕組みがあなたに、「現実を知らない」ということを信じさせる。……(中略)……。
 だが実際には、あなたはシリアで何が起こっているかを完璧に知ることができる。だが彼はあなたに教えはしないんだ。
 要するに、あなたが、あなた自身の知る能力を疑うということ。そしてもしあなたが知る能力を自ら攻撃するようになれば、それに従ってあなたはあなた自身の道徳観を攻撃するようになるだろう。なぜなら道徳観は、僕らの知る能力の実践だからだ。だから、もしあなたが現実を知ることは不可能か、または難しいと考えるなら、それに従ってあなたは直ちに、道徳観を理解することも難しいと考えるようになるだろう。
 そしてこれは道徳的間違いを犯す可能性を高める。(p.153-155)


以上のことから、事実を知ることができるということを主張する哲学が公的領域で必要とされているとガブリエルは言う。思想という観点から見れば、この主張は概ね妥当であると思われる。



 ドイツでは、クレジットカードすら、まだあまり受け入れられていないんです。(p.191)


本当か?もし本当なら、昨今の日本の雰囲気、すなわち、「先進国ならキャッシュレスが当たり前、日本は遅れているのでキャッシュレス決済を導入すべきだ」といった風潮は事実に反する認識から出発した議論ということになるのではないか?


矢内原忠雄 『日本精神と平和国家』

太平洋戦争を始めたときに、八紘を宇となすとか大東亜共栄圏とか東亜の諸民族の解放とか、さういふことが言はれたのでありません。あれは戦争遂行上政治工作が必要となった時に始めて言はれたことです。あとから附加へた理窟です。(p.49)


ここで指摘されている視点は、これらの言葉が当時どのような意図をもって、あるいはどのような効果を狙って言われたのか、という点を考えるときにポイントとなる要所である。



 も一つ、朝鮮とか臺灣とかに於ける日本の政策を見れば、共栄圏理念の不明瞭・不徹底がわかる。大東亜共栄圏の理念をなぜ朝鮮臺灣に適用しなかったか。朝鮮とか臺灣に於ては神社参拝を強要したり、創氏改姓と言ひまして姓名を日本流に改めさせる。又朝鮮語臺灣語の使用を禁ずるやうなことをした。最も著しくありましたのは、国民学校や中等学校の生徒を利用しまして、創氏改姓や神社参拝を家庭に強要したのであります。姓を変へて来ない子供は学校に入れてやらない。又は明日から学校に来なくてもよい。さういふことを言って、家庭の日本化を強要し、それが日本精神だと為したのです。ところがフィリッピンやビルマに対しては、それぞれの地方の民族を解放し、その生活の自主性を尊重することが日本精神だと言った。八紘為宇の国策と言っても、さういふ矛盾した政策が行はれたのであります。
 太平洋戦争は聖戦だといふことが高調せられたのでありますが、宣長が聖人の教を批評した論法を用ひますれば、私心から出た戦争であったから特に聖戦と言ったのだ。軍官民一致といふことが繰返して言はれたのは、軍官民離反の事実があったからだ。(p.50)


フィリピンやビルマを解放すると言っても、せいぜい当時の朝鮮や台湾が解放された程度にしか「解放」されないであろう、とも言える。実際には、そもそも「解放」と呼ぶべきかどうかということが問題になるだろう。朝鮮や台湾に対する日本の統治は全否定されるべきものではないが、現地の人々に対する差別があったという点は押さえておくべきである。

後段の考え方は、現在の社会の言説を見る際にも使える見方である。例えば、「働き方改革」とは「使用者側にとってより使いやすい働かせ方の実現」という目的を隠すための呼び名である。現代の論法は単純に逆のことを言うというより、別のところに意味や意図を隠蔽しながら発せられている分だけ質が悪いが。



平和国家といふものは利益問題であるか義務の問題であるか、といふことであるのです。(p.87)


この観点は重要と思われる。ともすると、利益問題の側に引き込まれやすいが故に特に重要である。平和国家は(少なくとも主として)義務の問題であり、利益の問題でも事実の問題でもない、という理解は重要と思われる。それはあるべき状態であり目指すべき状態である。


國分功一郎 『100分で名著 スピノザ エチカ』

 「ベントー」はポルトガル語の名前です。スピノザの祖先はスペイン系のユダヤ人で、15世紀の終わり、スペインでユダヤ人への迫害が強くなった際に一家で隣国ポルトガルに逃れています。貿易商だった父はポルトガルの生まれです。しかしポルトガルでも迫害は厳しくなり、一家はフランスを経由してオランダのアムステルダムに移住することになります。スピノザは、1632年11月、この街のユダヤ人居住区に誕生しました。
 彼の肖像画を見ると、髪は黒く縮れ、瞳も黒く、肌の色も浅黒くて、イベリア半島の出身を窺わせます。(p.9)


なるほど。



 エチカの語源はギリシア語の「エートス ethos」なのですが、ここまで遡るとおもしろいことが分かります。エートスは、慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を表すようになり、さらには私たちがその場所に住むに当たってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。つまり倫理という言葉の根源には、自分がいまいる場所でどのように住み、どのように生きていくかという問いがあるわけです。(p.24-25)


エチカはその語源からしても「上から押し付ける道徳」にはなじみにくいわけだ。

話は変わるが、「エートス」というと、ウェーバーの資本主義の「精神」が想起される。ウェーバーの場合、この語は、ある種の「心理的起動力」として規定されていたが、外側から強制されるのではなく、内側から湧き出てくるイメージは、語源とも共通するところはありそうである。



 おそらく優れた教育者や指導者というのは、生徒や選手のエイドスに基づいて内容を押しつけるのではなくて、生徒や選手自身に自分のコナトゥスのあり方を理解させるような教育や指導ができる人なのだと思います。そう考えると、古典芸能などでいう「型」というのは、その型を経ることで自分の力の性質を知ることができる、そのようなものなのかもしれません。(p.51)


型を経ることで自分の力の性質を知ることができる、というのは、なるほどと思わされた。

スピノザが力(コナトゥス)に着目するところでは、オートポイエーシスの「作動」と共通するものを捉えているときがあるように思い、興味深い。



 スピノザは確かに契約説の立場を取っていますが、一度きりの契約という考え方をしません。毎日、他人に害を及ぼすことがないよう、他人の権利を尊重しながら生活すること、それこそが契約だというのです。(p.64)


スピノザの契約説の考え方は、もう少し詳しく知りたくなった。通常の社会契約説よりも妥当な考え方であるように思われる。

ただ、毎回毎回契約し直す、更新・確認され続けるということになると、契約という言葉との相性はやや悪くなり、一般に受け入れられやすくはないのではないか、とは思う。同じことを何か別の原理によって説明する方がより適切に表現できるのではないかという気がする。



 自分を知ることは自分に何らかの変化をもたらします。つまり、何かを認識すること、真理を獲得することは、認識する主体そのものに変化をもたらすのです。私たちは物を認識することによって、単にその物についての知識を得るだけでなく、自分の力をも認識し、それによって変化していく。真理は単なる認識の対象ではありません。スピノザにおいて、真理の獲得は一つの体験として捉えられているわけです。(p.105)


この辺りもオートポイエーシスと通じるものがあるのではないか。スピノザの書き方は幾分、反省的ではあるが、そこで言い表そうとしていることは反省的に記述されたものではなく、作動の局面にあるものを捉え、それを言い表そうとしているのではないかと思えるときがしばしばある。ここで説明されていることも、こうしたものの一つであると思われる。


鈴木幸壽・山本鎮雄・茨木竹二 編 『歴史社会学とマックス・ヴェーバー――歴史社会学の歴史と現在――(上)』
島田信吾 「比較歴史社会学序説」より

ドイツでは言葉を通じての議論、並びに文章を通じての“歴史”が重く見られ、それが過去の分析の中心になっていると思われる。それが一つには歴史学でもあるし、他方では歴史合理性と呼ばれるものであるのかもしれない。日本の場合、確かに歴史学的な議論は存在するし、過去の事実のテーマ化には事欠かない。しかし、社会的な傾向として、こうした言語を通じた議論はどうしても日常生活からかけ離れ、二次的なものになっているという印象を受ける。過去の意味はどうしても“歴史の中”にディスクールを通じて探られるということにはならず、いかに生存者が死者に意味付けを行うかということにあるからである。
 この意味付けが政治的な象徴性を帯びていることは2001年8月13日における小泉首相の靖国神社参拝にも色濃くに現れている。また1963年以来、毎年8月15日には、全国戦没者追悼式が行われているが、そこでの歴代の首相の挨拶の言葉を追っていくと、大変はっきりとした意味付けが行われているのが見えてくる。吉田裕が指摘するように、戦没者が生存者のための犠牲になり、今日の繁栄の礎となったという見方である。こうした追悼儀礼はもちろん一つの宗教とは呼べないが、ここで強く出ているのは、先祖があって現在があるという、時間の連続性である。この国家儀礼が日本人の戦没者の追悼を目的としている以上、この時間の連続性が国家の連続性、並びに文化アイデンティティーと深く結びついていることは明確であろう。
 さらに各地に存在する護国神社の祭りを見ていった場合、この時間の連続性が宗教儀礼を通じて人々に伝えられていっていると見なせるであろう。祭られている“英霊”と現在の間には儀礼によって関係が保たれ、後裔のために自ら犠牲となった先祖という意味付けがはっきりと見てとれる。
 ここでの歴史観は先祖から受け継いだ連続性の時間の流れであり、“現在”はこうした意味で過去に規定され、歴史の流れの他の可能性は否定される。いってみれば、この先祖のおかげでの現在というコンセプトは過去の対象化をはばみ、戦没者を加害者として見る視点を否定するわけである。つまりこうした思考は過去の“現在性”を強調しその対象化を阻む。こうした過去は結局は歴史になり得ないわけである。(p.104-105)


ある事実が歴史叙述の対象になりにくいということがありうる。この点の指摘にはなるほどと思わされた。

日本で第二次大戦や日中戦争などのことについて歴史学での研究があっても、それが参照されることなく、ネトウヨ的な自慰史観に基づく歴史物語がやたらと流通していることの要因を、上記引用文は指摘し得ているように思われる。すなわち、戦没者は現在のわれわれのために犠牲となった先祖であると意味づけられ、その犠牲により現在に貢献してくれた人である、という意味付けがされているため、戦没者は被害者としての側面だけが言われることになる。彼らの加害性は否定され、隠蔽される

客観的かつ公平公正に歴史を叙述しようとすると、戦没者を含めた当時の人々の被害性と加害性の両面を見なければならないが、「現在に貢献してくれた恩人」として(事実を知る前に、あるいは、事実を知っていたとしても、それ以上に強く)意味づけされてしまっているため、「英霊」たちの加害性を認めることができない。このような不当な信念が先立っているため、公的な場で議論をしようとしても議論が成り立たず、不毛な議論しかできない。不毛な議論ばかりが続くと、議論をしようという気も起きなくなっていく。結果、ドイツのような状況とは全く異なる現在の日本の言論状況が現れることになる、といったところか。




カール・ヤスパース 『われわれの戦争責任について』

 道徳上の過誤は、政治上の罪と刑事犯罪との生じてくるような状態の土台をなすものである。数知れぬ小さな怠慢行為とか安易な順応とか、安価な理由をつけて不正を正当化したり、知らず識らずのうちに不正をうながしたり、社会全般に不明朗をかもし出してそれ自体が悪の温床となるような社会的雰囲気の発生に力を添えたりする行為は、社会の状態や出来事に対する政治上の罪を生ずる一つの条件ともなるべき結果をも生むのである。
 人間の共同生活における権力の意義をはっきりと見極めないということも、道徳上、問題となることである。このような根本的な事実要素を隠蔽することは、不正にも権力を絶対化させて事態の唯一の決定要因たらしめることと同じく、罪なのである。生きる上に頼りとしている権力関係のなかに巻き込まれてしまっているということが、人間誰しもの逃れられぬ致命的な災厄である。これはすべての人間の逃れられない罪、人間としてのあり方の罪である。正義ないし人権を実現するような権力のために献身的な努力をすることによって、この罪に対抗していくのである。正義に奉仕する権力関係を築き上げ、このような権力のために戦うということに協力を怠るのは、政治上の根本的な罪であるが、この罪は同時に道徳上の罪でもある。(p.57-58)


最初の段落で述べられている「道徳上の過誤」が政治上の罪や刑事犯罪をもたらしうる蓋然性は、ヤスパースの時代よりも現代の方が遥かに大きなものになっているように思われる。それというのもネットによってこうした道徳上誤った言動にふれる機会が増大しているからである。政治家や公的な立場にある人が(ネット上や私的または党派的または公共的な集会などで)問題発言(ヘイトスピーチや差別的発言など)をしたことがニュースになることがあるが、このような言動は通常「道徳上の過誤」であり、こうしたものを放置しておくと、そのうちそうした考え方が当たり前のものとして流布することを助長することになる。このようなものがコモンセンスとなってしまえば、権力者たちが政府に誤った行為をさせることを許すことに繋がる。

ヤスパースが後段で述べているように、そうしたものに対抗する権力関係を築き上げるように努力・協力しなければならず、このような努力や協力をしないということ自体が罪である。ヤスパースの基準は極めて理想的であり厳格なものではあるが、このような理念を掲げるか否かは、日常の言動にも差が生じるものであり、少なくとも心にとめておく価値がある。



類型的な見方が何ものかを正しく捉えているからといって、この一般的な性格づけが個人に当てはまると見られる場合に、それですべての個人を把握し得たつもりになったりしてはならない。これこそは諸民族、諸団体相互間の憎悪の手段として過去幾世紀を通じて見られた考え方なのである。最大多数の人間が遺憾ながら自明当然の考え方と感じているこの考え方こそ、ナチスが最も悪辣な用い方をしたところのものであり、かれらが宣伝によって国民の頭に叩き込んだところのものである。(p.69)


ヘイトスピーチやしばしば差別発言をする人々は、大抵この考え方に捉われている。



 けだし人間世界の問題については、現実がそのまま真理なのではない。むしろこの現実に対抗して別な現実を立てていかなければならない。別な現実が存在するか否かは、人間の意思にかかっている。(p.98)


今ある現実をそのまま認め、その流れに乗ることをよしとする人がいる。それ以外の現実を想像したり、意志したりすることができない人がいる。ヤスパースが言っているのは、あるべき未来を構想し、それを実現するよう努力することの重要性であろう。

これに対し、昨今の「フェイクニュース」といった言葉が言われるようになっていることや森友・加計問題に対する安倍政権の対応、裁量労働制に関して政府がどう考えても彼らにとって不都合なデータを意図的に隠蔽し、彼らにとって都合の良さそうに見えるデータを無理やりでっち上げようとしたとしか考えられないような対応――政府がやりたい方向に有利になるようなデータを作成し、比較することができないデータを比較して見せ、その比較の結果に対する注釈をせずに公衆の面前にさらし、かつ、より適切で比較可能なデータは可能な限り隠蔽する、というのが現時点での政府の対応であろう――に見られるように、「真理ではない現実」すら隠蔽し、より誤謬に満ちた「権力者の願望」を現実であると思わせようとする権力者たちの言動は極めて危険なものである。



 それはともあれ、祖国に対する義務はその時々の支配権に対する盲目の服従よりもはるかに根本的なものである。祖国の魂が破壊されれば、祖国はもはや祖国ではない。国家の権力はそれ自体が目標なのではない。それどころか、国家がドイツ的な本質性格を破壊する場合には、国家権力はむしろ有害である。それゆえ祖国に対する義務ということからは決して理論上当然にヒットラーに対する服従という結論が出てくるわけではなく、またヒットラー政権下の国としてもドイツはなおかつ是が非でも戦争に勝たなければならないという結論が当然に出て来るわけではない。ここに良心の錯誤がある。(p.112)


これは現代の日本の右派にも頻繁に見られる錯誤である。彼らは「国賊」とか「売国奴」といった類の言葉をしばしば口にするが、時の政権がこれから行おうとしていること、現に行っていること、過去に行なったことなどに対して「否」を言うことと、ヤスパースがここで言う「祖国」を否定することとは全く別のことである。

むしろ、大抵の場合、前者のような否定の言動をすること(つまり、現在の政府の方針に反対することなど)は、より根本的な「祖国」への忠誠から発することもあり得るし、ほとんどの場合、こうした関係になっているのではないか。ここで「祖国」と呼ばれているような「ある共同性に対して概ね共通して抱かれる想像」を前提しなければ、現在の政府の方針を変えさせて「この社会」を良くしようと思うことは難しい(より身近な人のことだけを考えて行動することもあり得るが、そのような活動では――誰にとっても常に身近な人に関係するというような場合を別とすれば――普遍性を持つことは難しい。)。



 罪の意識を基礎にした内面の清めがどこまで進んだかは、攻撃に対する態度を見て知ることができる
 罪の意識を持たなければ、あらゆる攻撃に対するわれわれの反応は、依然として反撃の形をとるのである。これに反して内面的な揺さぶりを経験したあとでは、外部的な攻撃は今はただわれわれの上面を掠めるだけである。悲しみや心の痛みは覚えるであろうが、攻撃が魂の奥底までしみるということはない。
 罪の意識が真におのれの意識となっていれば、間違った不公正な非難には平然として堪えられる。それは尊大な気持ちと横柄な気持ちとが消えてしまったからである。
 ……(中略)……。
 われわれの心を照破して変化させることを怠れば、防ぐすべもなく無力であるがゆえに、われわれの敏感さは高まる一方であろう。ものごとを心理的に劣弱意識に転換させることによって生ずる毒素がわれわれを内面的に破滅させるであろう。非難を甘受し、それを聞いたあとで検討してみる心構えでなければならない。われわれに加えられた攻撃はわれわれ自身の考え方を調整することにもなるのだから、これを避けるよりは進んで求めるようにしなければならない。われわれの内面的態度はこのようにして裏づけを得ることになろう。(p.208-209)


これを読んですぐさま念頭に浮かぶのは、安倍晋三やその周辺の人々が、従軍慰安婦問題や南京事件、その他日本政府の過去の戦争犯罪を含む歴史問題に対する際の態度である。彼らは批判されれば反論する(時には根拠がないデマやそれに近いような不適切なデータや複数あるデータのうちの都合の良い一部だけを切り取ったものを切り札として)。そこには尊大さと横柄さが見られる。罪の意識は微塵も感じられない。表面上の言葉より、こうした態度の方が彼らの思っていることを的確に見せてくれる。


社会思想史学会年報 『社会思想史研究 №22 1998 シンポジウム:社会システムの現状と問題点』(その2)
細見博志 「マックス・ウェーバーと価値判断論争」より。

 反講壇社会主義者は、自らはあらゆる価値判断を排除して、経済学を浄化すると主張しているが、ウェーバーによれば似非価値自由論者であり、一見中立的な装いのもとで密かに大資本の利益を代弁しており、それによって甘い汁を吸っているのだ、というのである。「懲罰教授」や「迎合教授」の存在をみれば、そのような疑いは色濃く残っている。しかしここでは彼らに対するウェーバーの非難の当否はひとまずおいて、事実として確認すべきは、反講壇社会主義者は、存在と当為を峻別し、その上で経済学からあらゆる当為を放逐せよ、と主張したということである。その放逐すべき当為とは、なかんづく講壇社会主義者の説く労働者保護政策である。しかし経済学が実践的学問である限り、やはり当為は不可欠である。その当為は、反講壇社会主義者の場合、「事実をして語らしめる」という彼らのお気に入りのスローガンの通り、まさに存在から導出されたのである。しかしながらそのようにして導出された彼らの当為には、反社会政策という一定の方向性が常について回っていた。「事実をして語らしめる」とは、事実の選択、その因果付けの方向、に聞くものをして意識せしめない誘導がなされている。とすれば、政治のレトリックとして、極めて有効で洗練された技法であるが、知的に誠実な学問の方法ではない、とウェーバーなら言うところである。(p.68-69)


価値判断論争に関する論争の背景についてこの論文で論じられているということを知り、この論文を読もうと思い、この雑誌を手に取ったのだが期待通り興味深い事実がわかった。ウェーバーとシュモラーらの社会政策学会内での論争の背景には、社会政策学会外に社会政策を否定しようとする反講壇社会主義者(その背後には産業資本)がおり、彼らは価値自由論を誤用することでその主張を正当化しようとしていた。ウェーバーの方法論を読むときには、単に相手方のシュモラーらだけでなく、反講壇社会主義者にも配慮しながら書かれたことも念頭に置く必要がある。

また、当時と同じ論法を使うかどうかは別として、経済政策について発言する学者やエコノミストなる者たちの中には、ウェーバーの時代の反講壇社会主義者と同様、大資本の利益を代弁し、甘い汁を吸っているような輩も多い(メディアへの露出のチャンスも多い)ということは念頭に置く必要があり、彼らの使う「知的に不誠実な政治的なレトリック」には常に注意が必要であろう。



渡辺孝次 「マルクス・エンゲルスとマイノリティの論理」より。

 近年、マイノリティ研究がさかんである。そのことは、近代をもっぱら自由と解放の時代と見る単純な「進歩史観」から脱し、近代こそある意味で抑圧が強化された時代であったとする、近代再考の動きと関係が深い。近代に解放されたのは、結局のところマジョリティにほかならず、それまで容認されていたマイノリティの権利は、かえって制限されていったとする認識において、両者はあい通ずる。(p.134)



私としてはあまり近代を「解放の時代」とは考えていなかったが、私より少し上の世代にはこのようなイメージで近代が捉えられていたのだということに久しぶりに思い至った。本書は1998年に出ているが、この頃にはまだ80年代や70年代以前の感覚を持った人がそれなりの数活動しており、その時代の考え方も参照しながら批判していくような作業がされたと思われるが、それから約20年も経過すると、ここで言う「近代再考」により修正されてきた「近代観」が常識になってきたのかな、という気がする。



藤野寛 「ユダヤ人問題との関連においてみられたホルクハイマー/アドルノの「非同一的なもの」概念」より。

一方の解釈では、ユダヤ人は、近代化過程に必死でしがみついている者たちから、あたかも啓蒙的近代の艱難辛苦から自由であるかのような存在として恨みを買う、とされるのに対し、他方では、その同じユダヤ人が近代化過程の成功者、成り上がり者とみなされ、そこから落ちこぼれた者たちに妬まれる、という話になるのである。ほとんど正反対の議論が二つながらまかり通っている、というしかなく、『啓蒙の弁証法』も、その両方に目配りすることを忘れていない。
 この事態は何を物語っているのか。要するに、反ユダヤ主義者にとっては、ユダヤ人が何者であるのかは、実は問題ではない、ということである。反ユダヤ主義の根は、ユダヤ人の側にあるのではなく、反ユダヤ主義者の側にこそ見出されるものなのだ。反ユダヤ主義は「ユダヤ人を必要としている。(215)」そして、このメカニズムに光をあてるのが「投影」についての分析に他ならない。(p.184)


これは反ユダヤ主義だけでなく、恐らくほとんどあらゆる人種差別及びそれに類する差別に当てはまると思われる。現代日本においてこれに類するものとしては、在日コリアンらへの排外主義的な差別や中国や韓国の人々に対するネトウヨ的な嫌悪などを挙げることができよう。そうだとすれば、差別や嫌悪の対象となっている人々が問題なのではなく、差別や嫌悪を表明している側に問題があるのである。



齋藤哲郎 「ネオ・マルクス主義と台湾」より。

 やがて、85年8月にレーガン大統領が台湾に民主化を勧告し、87年7月15日、戒厳令が正式に解除され、11月には中国大陸への親族訪問が許可され、さらに、蒋経国死去による李登輝総統時代の開幕(88年1月)以降、いわゆる政治的民主化・自由化が進み、表現の自由も大幅に許容され、学術・思想の分野も様変わりした。注目すべきことは、多くの台湾知識人や青年が、解禁されたマルクス主義出版物を貪るように渉猟し始めたことである。マルクス主義は、サルトルやウェーバーと同様に、台湾の知的ブームの一つになったのである。(p.201-202)


日本でも60年代頃はウェーバーや実存主義が流行した時期があったが、この思潮は台湾でも同様に流行していたということか。マルクス主義が90年代台湾で知的ブームになったことについては正直あまり驚きはないが、ウェーバーやサルトルが台湾でどの程度、また、どのように読まれたのかというのは興味が惹かれる。



安川寿之輔 「白井厚編著 『大学とアジア太平洋戦争――戦争史研究と体験の歴史化』」より(書評)。

「初めから国家目的に従属」していた戦前日本の大学が(だからこそ)専門教育・職業教育に偏向し、侵略戦争の進行に傍観者的で無力な知識人の形成しかできなかったという反省から、新制大学は、一般教育を大学教育の「根幹的意義を有する」中核に位置づけることを目ざし、その「成否こそ、新制大学の運命を決するカギ」と考えた。90年代の大学「改革」は、その一般教育を縮小・解体する歴史邸な誤りの道を歩んでいる。(p.228)


この見方は参考になる。この本も手に取ってみたい。