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自民党の憲法改正草案を爆発的にひろめる有志連合 『あたらしい憲法草案のはなし』

 いままでの十三条は〈すべて国民は、個人として尊重される〉となっていましたが、憲法草案では〈全ての国民は、人として尊重される〉とあらためられました。
 「個人」と「人」。たった一字の差ですが、これは大きなちがいです。
 「個人として尊重される」といったばあい、ひとりひとりの個性や考えかたのちがいを尊重するという意味です。いっぽう、「人として尊重される」というのは、ひとりひとりの個性や考えかたはどうでもよく、人間としてあつかえばそれでよろしい、という意味です。きょくたんにいうと、動物あつかい(おりにとじこめる、くさりでつなぐなど)しなければ、それでよいのです。とくに「人として問題な人」の人権は、尊重しなくてよいでしょう。(p.38)


自民党憲法草案の問題点は多岐にわたり、まさに論外の案なのだが、よく指摘される点の一つは、この13条の規定で「個人」が「人」になったという点である。「人として尊重」というのは、「動物扱いしなければそれでよい」という読み替えはなかなか直観的に理解できる分かりやすい指摘であり参考になった。今後、憲法草案について人に説明するときに使えそうなフレーズである。



 ですので、「個人の自由は国より大事」という「個人主義」をぼくめつするためにも、「個人」を「人」に変えたのです。「個」の一字を削除するだけで、わがままな人はへり、政府や国の仕事をする人たちは、仕事がやりやすくなるでしょう。
 憲法草案は人権を剥奪する(うばう)のではありません。人権を制限したい(はんいをせばめたい)だけなのです。(p.39)


最後の一文は、自民党憲法草案の考え方の重要な点を、起草者の立場に寄り添いながら非常に端的に指摘している箇所である。人権を制限する、すなわち一部を奪うことで、「国」を動かす人々が何の障害もなく自分たちの思い通りのことができるようにしたい。これが自民党憲法草案を貫く考え方の非常に重要な要素であると言える。



 緊急事態のときは、国民の生活も大きく制限されます。
 〈 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない〉(99条)
 ……(中略)……。
 緊急事態宣言が出たら、みなさんは政府の指示(命令)にしたがわなければなりません。人権は制限されるか、停止されるでしょう。……(中略)……。
 表現の自由(21条)はまっさきに規制されるでしょう。まえにも申しましたように、表現活動は、もともと国の安定をそこねる元凶なのです。(p.51-52)


最後の一文の考え方は、自民党的な発想というべきものである。自民党そして、自民党憲法草案の発想は、「国」が「国民」を支配することが第一義的な出発点であり、「国民」は「国」の活動を邪魔しない範囲で自由や権利が認められるべきだ、という発想に立っている。少なくとも、「国」から「国民」に人権が賦与されている(保障されている)という考え方が基本となっている。これは個人の人権が先にあり、それを守るために政府が存在するという発想とは逆のものである。

もう少し具体的なレベルに落としてみると、日本国憲法では自由や人権に関連して「●●を侵してはならない」というような表現が多くみられるが、自民党草案では基本的にそれらの箇所は「●●は保障する」と書き換えられている。ここには主語が書かれていないが、日本国憲法では、まず個人が自由や権利を持っており、これを政府が「侵してはならない」と規定しているのは明らかであり、政府を規制する法となっている。これに対して、自民党草案では、隠された主語は個人ではなく「国」であり、「国」が「国民」に対して自由や権利を保障する、という書き方になっている。少なくともそのように読む余地を十分に残した書き方になっている。この発想は個人が権利を持つのではなく、「国」が「国民」に権利を与えている、という発想に立つもの、少なくともそうした考え方を排除していないという点で問題があり、また、憲法が政府を規制するのではなく、政府が国民への権利の付与の度合いを調整できる余地を与えている点で立憲主義の考え方にも抵触する点があることを指摘しておきたい。



 また、緊急事態条項は国民への命令をふくむ強い条項ですので、これを徹底させるには、政府をバックアップして国民をだまらせる強い力が必要です。そこでかつやくするのが「三」でおはなしした国防軍なのです。
 戦前の日本でも、日露戦争後の日比谷焼き討ち事件(明治38年)、関東大震災(大正12年)、2.26事件(昭和11年)のさいに、緊急事態宣言に似た「戒厳」という措置がとられ、軍隊がかつやくして国民をきびしくとりしまりました。
 憲法草案の三原則が「日ごろのそなえ」だとしたら、緊急事態条項は「いざというときの切り札」です。この両面からのまもりで、日本はますます強い国になるのです。(p.53-54)


「自衛隊」では、国民に向けての取り締まりはできないが、「国防軍」にすることによってそれが可能になるという指摘はなるほどと思わされる。

緊急事態条項について議論する際は、かつての戒厳令などが敷かれた際の歴史をしっかりと踏まえる必要がある。日本の戒厳令については私はそれほど詳しくないが、私が日頃から関心を持っている台湾の地は、戦後48年から87年までの期間、戒厳令が敷かれていたことがあり、「白色テロ」の名で呼ばれるような自由にものが言えない時代を経験していることは知っている。このことから、一時的なものであるはずの戒厳令が非常に長期にわたって恣意的に政権によって設定されることもあり得ること、それに対して抵抗しようにも言論や表現や結社の自由などが制限されるため事実上非常に困難な状況に置かれる可能性があり、また、そうした条件下で様々なこと(憲法改正国民投票や人権をさらに制限できるような法律の施行)が決定されていく可能性があること、少なくともそうしたことに大幅に余地を開けることになるということは理解しておくべきだと考えている。



 憲法で国家権力をしばる。憲法は国民から権力にむけられた命令である。このような考えかたを「立憲主義」といいます。立憲主義は、すべての国の憲法に共通した原則です。
 しかし、あたらしい憲法草案では、この原則が逆転いたしました。
 〈全て国民は、この憲法を尊重しなければならない〉(102条)
 世界じゅうの憲法で、こんな条文をもつ憲法はほかにありません。ですので、憲法学者をはじめ、おおくの人が「それはまちがっている」といいました。
 ですが、みなさん、それは日本ではなく、他の国がまちがっているのです。
 国の最高法規である憲法を、国民がまもらなくてよいなど、おかしいではありませんか。民のくせに国のリーダーに命令するなど、おこがましいではありませんか。(p.55-56)


自民党憲法草案が立憲主義に立たず、権力を持つ側が「国民」を規制しようという意図は明らかである。



 憲法を変えるということは、国のかたちを変えることです。そうして一度、国のかたちが変ったら、もとにもどすのは困難です。憲法は変えやすくなるのだから、いやならまた変えればよいと思うかもしれません。それはまったくまちがいです。
 この憲法草案がほんとうの憲法になったら、いろいろな人の意見をきいて、なにがよいかを国民みんなできめるという政治のやりかたではなくなるからです。国民主権は縮小され、基本的人権は制限され、情報は統制されますので、政府に反対する意見は日本から消え、国民は政府によろこんでしたがうほかなくなるでしょう。
 「強く美しい国」は、国外の敵(日本をこうげきしてくる国)と勇敢に戦い、国内の敵(政府に反抗的な人びと)を強い力でだんあつしなければ、つくれません。ですから憲法の三原則を変更し、国防軍をつくって、緊急事態条項をもうけたのです。
 ここでおはなしした以外にも、憲法草案にはおおくの変更があります。自民党の人たちは強い意志とかくごをもって、この草案をつくったのです。みなさんも、二度と引きかえせない道に踏みだすのだ、というかくごで、よくお考えください。勇気をもって憲法を改正すれば、みなさんも「強く美しい国」の一員になれるのです。(p.58-59)


自民党草案が憲法になってしまったら、本書が指摘するように人権や自由が縮小され、言論や情報も規制されるため、反対することが出来なくなっていくのは間違いなく、長い期間その支配下に置かれることになるだろうことを指摘しているが、正しい判断である。

変えてダメならまた変えればいい、という楽観的な発想を広めるため「お試し改憲」論が盛んに表に出て来た時期もあるが、そうした発想ではなく、より慎重な議論を行なわなければならないという考え方は広く共有されるべきである。

そのためにも、本書は自民党憲法草案の三原則を、国民主権の縮小、戦争放棄の放棄、基本的人権の制限、であると喝破しているが、このことの持つ意味を一般に広めていくことが重要である。


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半田滋 『日本は戦争をするのか――集団的自衛権と自衛隊』(その3)

 問題は日本版NSCが集め、議論する大前提となる外交・安全保障上の情報が米国頼みとなることにある。……(中略)……。
 日本の安全保障に関係する重要な情報は、とりわけ中国や北朝鮮を宇宙から撮影した米国の偵察衛星からの画像である。……(中略)……。
 仮に米国から一年前の画像を見せられ、「昨日撮影した画像」といわれても、そのウソを見破る手段がないのである。日本政府はスパイと呼ばれる特殊な工作員を一人も持っておらず、また情報を収集する在外公館は十分な活動をしているとは言い難い。アフリカではひとつの在外公館が三カ国も四カ国も兼任しており、集まる情報の質・量ともたかが知れている。
 米国が正しい情報を提供してくれれば問題ないが、米国には「フセイン政権が大量破壊兵器を隠し持っている」との誤った情報をもとにイラク戦争に突入した過去がある。大統領を頂点にする少人数のNSCで議論すれば、大統領の思う方向へとゆがんだ情報が集まる危険性があることをNSCの本家、米国が証明した。故意であれ、過失であれ、事実と異なる情報が米国から提供され、日本版NSCの閣僚が日本にとって重大な決断を下すことになるのである。(p.98-100)


安倍政権のような、物事の客観的な判断ができない(偏った考え方を持ち、事実より自分たちの願望を優先して判断する傾向が強い)人物が集まった政権ではこの危険性はさらに高い。



 発足からわずか20日後の2013年12月23日、早速、日本版NSCは重大な決断を下した。アフリカの南スーダンで国連平和維持活動(PKO)に参加中の自衛隊が韓国軍に銃弾一万発を提供することを決めたのである。
 ……(中略)……。
 菅氏は過去の国会答弁と整合性がとれない点を「人道性」「緊急性」という反論しにくい理由を挙げた。「だから仕方ないだろう」との開き直りである。韓国で日本から銃弾を受け取った事実が報道されると、批判が高まり、韓国政府は「追加防御の意味で国連に弾薬の支援を要請し、国連を通じて支援を受けたというのがすべてだ」(2013年12月24日、趙泰永韓国外交部報道官)と緊急性を否定、日本側の根拠が揺らぐことになった。その後、銃弾は南スーダンで自衛隊に返還された。
 銃弾の提供は日本版NSCを拡大した元の安全保障会議メンバーである九人が集まり、即決された。会合は非公開のうえ、議事録は作成していないので当然、残っていない。どのような情報を基にどのような議論があったのか、検証する術がない。国民の見えないところで、重要政策が転換されるおそれが現実のものになった。(p.100-102)


数人だけの秘密の会合で、違法・違憲の判断を含めた判断が、まともな議論もなく恣意的に決めることができるようになった、というのが日本版NSCの本性と考えるのが妥当であると思われる。

すなわち、憲法違反に当たる行為を「即決」したということは、その点について慎重に議論をしなかった、ということである。また、外部からの検証も不可能な中で、憲法との整合性がとれないような判断を下したということは、公共的な場での議論に耐えられるような内容の議論はなかったと考えるべきであり、恣意的な判断であったと言える。



 政府の弾道ミサイルに対する対応方針は、日本に影響が及ぶ事態ではない場合でも全国瞬時警報システム(Jアラート)で内閣官房から自治体に伝えることになっている。今回は二度の発射とも使われなかった。日本版NSCが創設されたことで政治的な思惑が絡む余地が生まれ、かえって情報伝達が遅くなったといえるだろう。(p.102-103)


2014年の3月3日と3月26日に北朝鮮がミサイルを発射した際、日本政府の発表は前者は18時間近く後、後者は3時間弱が経過した後と遅かった。特に前者は日朝赤十字会談への影響を考慮したものと見られ、日本版NSCなるものがどのような効果を持つものなのかがより如実に明らかになったと言える。



 GSOMIAが締結されて、米国の軍事技術が提供され、日本の防衛産業でも米軍の最新兵器の生産や修理ができるようになった。米国製の最新鋭戦闘機F35の国内生産は、その典型例である。F35の生産をきっかけに、安倍政権は武器輸出三原則を見直し、防衛装備移転三原則として全面解禁した。「わが国を取り巻く安全保障環境が一層悪化している」といって憲法解釈まで変えようという政権が、武器を海外に輸出して安全保障環境を一層悪化させようというのだから、まるで漫画である。(p.106)


GSOMIAとは「軍事情報包括保護協定」といい、第一次安倍政権下で締結された日米の軍事に係わる秘密保護協定である。本書によると、これが特定秘密保護法の原点であり、かつては日本政府はGSOMIAの締結を否定していたが、2003年に小泉政権が米国からミサイル防衛システムの導入を閣議決定したことによって方向転換が行われたという。

アメリカとの軍事的一体化を進める一環として理解すると、安倍政権が進める様々な動きが説明できる。GSOMIAの締結、武器の生産や修理、武器輸出三原則の否定(転換)、日本版NSCの創設、特定秘密保護法の制定、そしてもちろん、集団的自衛権の行使可能とする憲法解釈(解釈改憲)。安倍晋三らが言う憲法改正の内容がどのようなものを志向しているのかは、この流れの中に位置づけて見なければならない。



 安倍首相が取り上げたのは、日本が攻撃を受けていない場合に自衛隊が武力行使する「マイナー自衛権」の問題である。……(中略)……。
 現に中国との間で尖閣諸島の問題があるのだから、「集団的自衛権を行使して米国を守る」といった荒唐無稽な議論と比べ、現実味を帯びたテーマであることは間違いない。しかし、警察や海上保安庁では手遅れになるから、最初から自衛隊を使えとの発想は、紛争の火種をバラまくのに等しい。中国でさえ、尖閣諸島には海上警察である「海警局」が対応している。米国では軍の下にナショナル・ガードや沿岸警備隊を、ロシアは軍隊とは別の国境警備軍を設けている。他国との揉め事にいきなり軍隊が出ていって国際紛争にしないための知恵である。軍隊が国境警備を担うのは、海を隔てた大陸側の欧州各国が安定していて、警備出動の機会がない英国の例がある。
 「隙間」を埋める作業とは、結局、自衛隊の現場指揮官に武力行使の権限を与える新たな法制の整備ではないのか。(p.162-163)


先人の知恵が次々と頭の悪い安倍政権によって剥ぎ取られていくのを見るのは腹立たしいとしか言いようがない。一度失われた知恵は、再度形になるまで相当の時間を必要とするだろう。



 これまでも自衛隊を海外へ送り出すまでは国会で論議するが、派遣してしまえば「よきに計らえ」だった。達成すべき目標も撤収時期も定めず、戸惑う自衛官の背中を「とりあえず行け」と押すだけである。(p.175-176)


無責任な政治家の決定と、それに翻弄される自衛官、という側面もあるということは押さえておきたい。この場合、明確なミッションがないという点は非常に問題となる。



 ベトナム戦争で米国と、中越戦争で中国と血で血を洗う壮絶な経験をしたベトナムは、軍隊を海外へ送り出すことに慎重だった。太平洋戦争で軍人、民間人合わせて三百万人以上が死亡し、二度と戦争はしないと誓って平和憲法を制定し、海外派遣を見合わせていた日本と似ている。近年、日本のPKO協力法に相当する法律をつくり、海外派遣の検討を始めた。
 その実績からPKO大国と呼ばれるカナダ、オーストラリアではなく、なぜ日本を研修先に選んだのか。ビン少将はこういう。
 「PKOとは何か、たくさんの疑問があり、実態を知りたかった。日本は武器を使わない国際貢献を積み上げ、PKOでは人道支援に徹している。日本のPKO協力法が定めている参加五原則(①紛争当事者間の停戦合意、②紛争当事者による日本の参加同意、③活動の中立性、④以上のいずれかが満たされなくなった場合の撤退、⑤武器使用は必要最小限度にとどめる)に強い印象を受けた。いずれもベトナムの国情に合うものです」(p.184-185)


安倍政権の思惑が実現すればするほど、日本はベトナムのような平和志向の国に対する模範性を失うことになる。



 しかし、安倍政権において安全保障問題で主導権を握るのは防衛省ではなく、外務省である。……(中略)……。
 外務省と防衛省との対立は国連平和維持活動(PKO)協力法が制定された1991年当時から続く。自衛隊の海外活動を通じて、日本の国際的な評価を高め、国連安全保障理事会の常任理事国入りを目指す外務省に対し、防衛省は「外務省の道具ではない」と反発してきた。
 ……(中略)……。
 阪田雅裕元内閣法制局長官は集団的自衛権の行使を認めろ、というのは霞が関で外務省だけという。その外務省と安倍首相が相思相愛の仲なのである。(p.200-201)


なるほど。「外務省と防衛省との対立」および「外務省と安倍晋三との蜜月の関係」という観点は非常に重要であると思われる。

このように見てくると、安倍晋三がやたらと外遊したがる傾向(国会対応よりも重視している感がある外遊の多さ)と外務省との関係の近さとの間に関連があるのでは?というあたりも気になってくる。


半田滋 『日本は戦争をするのか――集団的自衛権と自衛隊』(その2)

 「集団的自衛権」という言葉の誕生はそれほど古くない。……(中略)……。
 1945年2~3月、中南米諸国が参加したチャプルテペック会議で米州いずれかの一カ国への攻撃をすべての加盟国に対する侵略行為とみなして軍事力行使を含む対抗措置をとることで合意した。「集団的自衛権」という言葉の誕生である。会議は圧倒的な軍事力を持つ米国が主導した。ダンバートン・オークス会議の武力行使の禁止から大幅に後退した。
 ……(中略)……。
 当時、東西冷戦が始まりつつあった。集団的自衛権は、同盟国・友好国を陣営に取り込む必要性があると考えた米国が生みの親となった政治的産物である。ただ、国連憲章第51条は「安全保障理事会が(略)必要な措置をとるまでの間」との条件を付けて個別的自衛権、集団的自衛権の行使を認めているに過ぎず、自衛権行使そのものが例外的措置であることを明記している。
 集団的自衛権は東西冷戦のゆりかごの中で成長した。驚くべきことに第二次世界大戦後に起きた戦争の多くは、集団的自衛権行使を大義名分にしている。(p.46-47)


集団的自衛権は、冷戦を背景として成立した政治的産物だという理解は重要と思われる。西側の軍事力が強くない国が東側から攻撃を受けた場合、アメリカをはじめとする他の西側諸国が東側に反撃するということで、攻撃を抑止する効果や実際に攻撃が生じた場合でも攻撃を受けた国が東側に制圧されないようにアメリカなどが軍事介入することができるようにした、ということ。

現在の日本での議論でも集団的自衛権を行使することができるようになれば「抑止力になる」と推進側は主張しているが、実際には、何らかの攻撃やそれに近い状態が一度生じた場合には、集団的自衛権の行使は戦火を拡大する方向に作用する傾向があるということははっきりさせなければならないだろう。推進しようとする側が、こうした点についてまともな説明をしているのを私は聞いたことがない。(自衛隊に犠牲が出る可能性について問われた安倍晋三は、数日前に放送されたNHKの「クローズアップ現代」でも、質問に答えず、自衛隊の仕事に敬意を表するなどと的外れの回答をしたに過ぎなかった。)

第二次大戦後の戦争の多くが集団的自衛権を名目にしている点は驚くにあたらない。当然のことである。この点については、客観的な事実を共有すべきである。現在の政府(安倍政権)は、都合の悪い事実は報道されないように振る舞っている。極めて不公正であり、不誠実であり、恣意的だと言わざるを得ない。



 ベトナム戦争を参考にすると、集団的自衛権行使を理由に参戦するのは、米国のように「攻撃を受けた外国を支援する例」、韓国のように「参戦した同盟国・友好国を支援する例」の二つのケースがあることが分かる。前者の典型例はソ連によるアフガニスタン侵攻であり、後者は自衛権を行使して攻撃を開始した米国のアフガニスタン攻撃を支援した英国の例がある。
 興味深いのは、集団的自衛権を行使して戦争に介入した国々が「勝利」していない点にある。(p.48)


集団的自衛権によって参戦する事例に2パターンあることを指摘している。安倍政権のこれまでの説明では、前者を強調しているようだが、実際に起こることは後者の方が遥かに可能性が高く、恐らくはそうした事例に軍事力の投入をすることが本当の狙いではないかと思われる。

なお、介入した国が「勝利」していないという指摘は重要である。介入された国の一般の人々から得られる支持が当該国の軍隊と比べてかなり低い場合が一般的だと思われるが、このようなことなども大きな要因と思われる。



自民党は野党だった2012年7月、それらを下位法と位置づけ、上位法である「国家安全保障基本法(概要)」を制定することを総務会で了承した。
 ……(中略)……。安倍政権はパズルをひとつひとつ埋めるように概要の項目を先取りしている。
 ……(中略)……。
 概要の第八条「自衛隊」には、「必要に応じ公共の秩序の維持に当たる」とある。(p.50-51)


この法律の内容が出てくるのは来年の夏頃だろう。自民党の考え方については、いかに個人の自由や権利を蔑ろにしているか、もっと広く知られるべきだと思う。



半田滋 『日本は戦争をするのか――集団的自衛権と自衛隊』(その1)

 尖閣諸島をめぐる日中の意地の張り合いが続く限り、常に不測の事態に発展するおそれはある。中国がソ連、インド、ベトナムとの間で繰り返してきた国境紛争をみると、領有権争いが本格的な戦争に発展した例はない。(p.ⅰ)


安倍政権が憲法解釈の変更(解釈改憲)が必要だと言う理由は、煎じ詰めれば「国際情勢の変化」しかない。そして、必要だから(安倍政権が示している解釈が憲法のテクストに照らして可能であるかどうかということには触れず)解釈の変更が必要だと叫ぶだけである。しかし、中国との領土をめぐる問題は、過去の例に照らすと戦争に発展するようなものではなく、それ以外の情勢は東北アジアは概ね安定していると見るべきだというのが、本書の議論の一つである。

こうした主張をテレビや主要な新聞などのマスメディアではまず見かけないように思う。安倍政権は漠然とした不安を煽って自らの思惑の方向に世論を誘導しようとしている。このことに対して、人びとはもっと自覚的になるべきである。



 安倍首相は、2013年4月23日の参院予算委員会で「村山談話」について聞かれ、「侵略という定義は学会的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」と答弁した。明らかに間違っている。
 1974年の国連総会決議3314は「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全もしくは政治的独立に対するまたは国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であって、この定義に述べられているものをいう」と侵略の定義を明快に示し、条文で具体的な侵略行為を挙げている。日本は、もちろん賛成し、全会一致で決議された。(p.14)


安倍晋三のこの発言に対して、大手の新聞(電子版)を見た限りでは、問題だという認識は示されていても、本書のように「明らかに間違っている」とまで断言したものは未だに見たことがない。明らかな間違いに対しては、本書のように明快に指摘すべきである。

報道の「自由」は政府によって首根っこを摑まえられている(取材拒否などの手段のほか、例えばテレビは放送する権限などを握られている――だから、本当の意味で「自由」ではない)。このため安倍政権のような強権的で自身と異なる意見及び事実に対して不寛容な態度をとる権力者の前では、まともに批判が行われない。この言論の不自由と、それを利用した偽りと誤魔化しに満ちた世論誘導。これらのことには、本当に苛立たされる。



 もっとトンチンカンなのは、海保に即応予備自衛官を編入させるとの主張だ。即応予備自衛官は約5千8百人いるが、すべて陸上自衛官である。陸上戦闘のプロを船乗りにしろというのは筋違いに過ぎる。安倍首相は2006年から07年まで首相として自衛隊の最高指揮官でもあったが、護衛艦のことも、即応予備自衛官のことも知らなかったと考えるほかない。この勘違い発言は価値ある提言のように報道され、マスコミの無知が証明されることにもなった。(p.22)


安倍晋三らしいトンチンカンぶりである。マスコミがこうした安倍晋三の主張に対して批判しないあたりもまた、権力の飼い犬という印象を増幅させる。



 勘違いというより、事実をねじ曲げた発言もある。2013年2月15日にあった自民党憲法改正推進本部で安倍首相はあいさつの後、非公開の場で約15分間講演した。
 翌日の『朝日新聞』によると、安倍首相は北朝鮮による拉致被害者を引き合いに出して「こういう憲法でなければ、横田めぐみさんを守れたかもしれない」と改憲を訴えたという。1970年代から80年代にかけて日本各地であった失跡事件について、警察庁は当初から北朝鮮による拉致と確信していた。しかし、政治がその重い腰を上げるのは2002年、小泉純一郎首相の訪朝まで待たなければならなかった。 
 北朝鮮と向き合ってこなかったのは、自民党政権の問題であって、憲法の問題ではない。日本が改憲して「国防軍」を持てば、北朝鮮は頭を下げ、拉致事件は解決するのだろうか。では、日本とは異なる憲法を持ち、国防軍が存在する韓国でも五百人近い拉致被害者がいる理由を安倍首相はどう考えているのか。(p.22-23)


安倍晋三を含む極右の連中の認知および発言に共通してみられる特徴は、「事実認識と価値判断の区別ができていない」ということである。もっと分かりやすく(このケースに引き付けて)言い直すと、「事実がどうであるか」ということと「こうだったら自分にとって都合がいい」ということの区別がついていないのである。拉致問題を憲法が悪いからだとすることができれば、現在の憲法を貶めることができ、世論を憲法を変える方向に誘導しやすい。だから、事実がどうであるかなどお構いなしに、願望を述べる。こうしたことはもっと公の場で批判されるべきだ。



 国会論戦を経ないで閣議決定だけで憲法の読み方を変えてよいとする首相の考えは、行政府である内閣の権限を万能であるかのように解釈する一方、立法府である国会の存在を無視するのに等しい。憲法が定めた三権分立の原則に反している。(p.30)


同意見である。立憲主義にも反している。ただ、このような暴挙が許されるのだとすれば、「自衛隊は違憲であり、いかなる自衛権の行使も禁じられている」という解釈に変更することもできるということである。少なくとも、安倍政権の解釈は憲法の本文からは明らかに導き出すことができない内容となっているが、こうした方向の解釈は憲法の法文から導き出せるという点で違憲性の度合いは全く違うことになる。



栃木県弁護士会 編 『生活保護法の解釈と実務』

 他方、生活保護制度においては、従来から補足性の原則や不正受給の防止等を理由として、過度の調査による負担を課したり、申請を回避させるなどの問題が指摘されていたところであるが、平成12年(2000年)5月の「社会福祉の増進のための社会福祉事業法等の一部を改正する等の法律案」に係る附帯決議などで生活保護制度の検討や見直しが必要とされ、平成15年(2003年)8月に厚生労働省の社会保障審議会福祉部会に「生活保護制度の在り方に関する専門委員会」が設置された。(p.8)


一応このあたりが、現在の制度改正(老齢加算の廃止や母子加算の廃止など)の動きが具体化し始めた時点であるといえるらしい。

もちろん、基本的な趨勢として捉えるならば、80年代頃の第二臨調や第三次行革審などの時代にまで遡れるのだろうが。具体的な生活保護制度との兼ね合いについてはまだ踏み込んで調べていない。



 しかしながら、生活保護基準は、人間に値する生活を保障する極めて重要な基準である。平成19年(2007年)11月28日に可決成立した改正最低賃金法は、「生活保護との整合性に配慮する」ことを銘記して最低賃金引き上げに道を開いたが、生活保護基準が下がれば、最低賃金の引き上げ目標額も下がることとなる。また、生活保護基準は、地方税の非課税基準、介護保険の保険料・利用料や障害者自立支援法による利用料の減額基準、公立高校の授業料免除基準、就学援助の給付対象基準、さらに、自治体によっては国民健康保険料の減免基準など、医療・福祉・教育・税制などの多様な施策の適用基準にも連動している。したがって、生活保護基準の引下げは、現に生活保護を利用している人の生活レベルを低下させるだけでなく、所得の少ない市民の生活全体にも大きな影響を与えることは明らかである。(p.9)


生活保護基準が他の制度とリンクしていることについては当然の指摘と言えばそれまでだが、議論の展開の仕方として、どの制度のどの部分と関連するかを個別に列挙すると説得力が増す。

今のところ、老齢加算や母子加算などの漸次的縮小、廃止はあったものの、大幅な基準引き下げは行なわれていない。むしろ、生活保護基準以上に低所得層の所得水準の下がり方の方が激しいのが現状である。日本の生活保護制度には一度受給してしまうとなかなかそこから脱け出すことが難しい構造があり、こういう状況では生活保護制度を充実させること以上に、生活保護を受給せずに済むための体制が重要であるように思う。

制度から立ち直りやすくする方法は、制度を分野ごとに分立させることである。制度を利用しなくて済むようにするためには、それ以前の雇用・労働法制を整備し、社会保障を充実させることである。いずれも破壊が進められてきたものであることが、こうした時期になって社会に大きなダメージを与えることになるのである。



現行の水準均衡方式により算定される保障基準は、一般勤労世帯の消費水準の67パーセントを目安として決められているが、それが客観的に「健康で文化的な最低限度の生活」又は「健康で文化的な生活水準」を満たすものであるか否かの検証はされていない。(p.19)


確かにその通りである。

ただ、そうしたことの厳密な検証は事実上不可能であろう。「健康で文化的」という概念が一義的に測定不可能な概念であることがその一つの理由であるが、仮にそれをある指標によって代表させることにし、そのように代表させることに正当性を認めた場合でも、検証するためには受給者個別の生活状況を具体的に把握しなければならないため、実際に調査すること自体が難しいからである。

そして、具体的な個別事例の状況を把握できる場合には、具体的に把握すればするほど、最初に述べた概念の曖昧さが問題を難しくしていくことであろう。

こうしたことを検証しようとする姿勢は重要なものではあるが、厳密さを求めると実現不可能な問題であるから、かなり緩やかな基準によって大まかに測るしかない。その際、すべての人が最低限度を満たす「客観的な基準」を設けてしまうと、多くの人にとっては「過支給」となる。いずれにしても問題はなくならない難問である。ある意味、この問題に拘泥して保護基準の適正さを問うよりは、生活保護制度以外の「過度に保険主義に陥っている制度設計」を見直すほうが重要であると私には思われる。



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太田光、中沢新一『憲法九条を世界遺産に』

 法律も宗教も、人間からディスコミュニケーションをなくして、みんな同じことを考えれば世界は完璧なものになると考えていますね。みんな同じ宗教を信じ、同じ神様に心を向けていれば、最高の共同体ができると思っている。それを信じている人びとの間では、矛盾が発生しにくいですね。
 ところが、僕らの世界は、ディスコミュニケーションでできている。(p.32-33)



確かに、「みんな同じことを考えるのがよい」という類の発想は陥りがちな誤りと言うべきだろう。近年の言論に対する抑圧的傾向(ネットでのものにせよ、実社会での政治的意見であるにせよ、法律レベルでは共謀罪が審議されてきたことなどにも表れている)の流れに乗ってしまっている人々もまた、これと同類の誤りを犯しているように思われる。

アメリカを全否定したり、全肯定したりしているうちはだめだと思います。(p.62)



これは近年の世界の言論にとって有意義な指摘だと思う。私見では、実体のない「国家」を対象にして語ると、この誤りに陥る確率が増大する。

政治的組織としての政府は存在するが、その広義の政府が制定した実定法により国籍を持つとされた法的な諸個人が一つの単位をなす共同体であるという考えは幻想にすぎない。同一の法規範に準拠して行為する人びとであるとはかなりの程度まで言えるにせよ、それは共同体ではない。(規範や規則の意味は異なる例にはなってしまうが、雨が降ったら多くの人々が同時に傘をさすだろうが、だからと言ってそれらの人びとが共同体をなしているなどとはいえまい。)

全肯定する人も全否定する人も分析や批判がなく、単なる個人の信じているものが前面に出ているだけである。そこから社会で起こる諸問題への解決策を引き出すことは出来ない。


本書に対しては、批判すべき点も多いが、それなりに自分たちの進むべき方向性について「考えるのに役立つヒント」やその方向が持つ「イメージを喚起する言葉」を含んでいるという意味で、読む価値はある本である。

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二宮厚美 『憲法25条+9条の新福祉国家』

現代は、1930年代のニューディールが事実上依拠し、またベヴァリッジが依拠したケインズ主義的福祉国家思想が、ほかならぬ帝国主義陣営の新自由主義によって、無残にも攻撃にさらされている時代である。
 これは25条の対決する相手がその姿形を変えているということを意味している。(p.74)



私としても、新自由主義の脅威に対して無防備な世論が形成されている現状に対して危うさを感じており、著者の時代認識には共感できる。そうした時代だからこそ25条の生存権を強調するという戦略も妥当である。

ちなみに25条の条文はは以下の通り。

第二十五条{生存権、国の生存権保障義務}すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進につとめなければならない。



二宮氏の著書はこれまで何冊か読んできたが、本書は以前の著書と比べるとキレがあまりなかったと感じた。(それはジェンダー・エクィティにこだわって書いていることとも関係があるかもしれない。)しかし、後半で展開された賃金論には共感するところが多かった。

絶対水準としての家族賃金それ自体は破壊されるべきものではなく、労働者家族の生存権からみれば、むしろ擁護されるべきものということになる。(p.160)



この点でもまさに現代の労働環境は最低生活保障の切り崩しが行われつつあるのであり、守っていかなければならない権利を明示したことには意義がある。

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