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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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『日本を解剖する! 北海道図鑑』
北海道庁旧本庁舎

焼き過ぎれんが
 壁の下の部分のレンガが黒っぽいのは、強度を上げるため、通常より強く火入れをした「焼き過ぎれんが」を使用しているから(p.74)


「焼き過ぎれんが」を使っている建築は他にはどんなものがあるのだろう?



八角塔
 アメリカで独立と進取のシンボルとして、ドームを乗せる建築が流行。これが「『アメリカ風』ネオ・バロック様式」といわれるゆえん。(p.75)


アメリカ風ネオバロックのうち「アメリカ風」の部分は、主に中央のドームということか。



小樽×ガラス

浅原硝子製造所がニシン漁の隆盛を背景に明治43年(1910)に考案したガラス製の漁業用浮き玉は、最盛期の製造量が1000t以上。北洋漁業の縮小や、プラスチック製浮き玉の普及によりその数は減少していったが、豊漁時代の小樽を支えたのはガラス製の浮き玉だった。時は流れ昭和後期、浅原硝子製造所の小売部門を継承した北一硝子が、生活必需品だったガラス製の石油ランプを市内中心部で販売したところ、観光客を中心に大流行。小樽をガラスのまちへと導くきっかけとなった。


明治期のニシン漁という大きな産業に付随して「ガラス玉」が開発された。昭和後期に運河論争により世論の関心が高まり小樽が観光地へと変化していく中で、土産物として観光地としての魅力を高めるのに貢献した「石油ランプ」。この辺りの関連はなかなか興味深い。


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橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その3)

 1970年、城島高原の「猪の瀬戸」にゴルフ場建設計画が持ち上がった。これに対し、湿原の植物を守るために、旅館経営者たちが中心となって「由布院の自然を守る会」が結成され、建設を阻止した。「守る会」は、翌年には「明日の由布院を考える会」となり、その後「牛一頭牧場運動」「牛喰い絶叫大会」「辻馬車」「ゆふいん音楽祭」「湯布院映画祭」などの全国的に知られるイヴェントが創出された[吉田 2006: 130-131]。
 今日の湯布院発展の基礎を築いた伝説の三人のひとり、中谷健太郎氏の話によると、1970年に中谷、溝口薫平、志手康二の三人がドイツのバーデンヴァイラーを訪ね、滞在型の温泉保養所のあり方について勉強してきた。(p.161)


小樽運河保存運動とも共通性がある。地域のある種の資源が破壊されることの危機感を持つ市民たちが運動を起こしていく点やイベントの創出によってより広く人々の関心を集めるという戦術を使っている点、運動の中核的な考え方などを担っていく人々が当時のヨーロッパなどを見てきた点など、構図が極めて似ているのに驚かされる。



 こう比較してみると、外部資本が提供するものと湯布院産のものとの違いが歴然とする。「外部資本は「わかりやすい言葉」を遣う」といった観光協会の米田事務局長の説明がよくわかってくる。全国のどこにでもあり、どのようなものかがすぐに想像できる「酒まんじゅう」や「かすりの小物」がある。また「由布院創作工房」といいながら提供しているものはどこの観光地でも見かける「とんぼ玉」などである。「わかりやすい言葉」は、「すでによく知られているもの」を指し示し、新たな理解・発見を拒む言葉であった。
 それに比べて湯布院が提供するものは、地域の人の説明が「発見を誘う」言葉となっている。説明を受けてはじめて理解し納得する品物であり、外部資本のみやげもののように「よく知られている」がゆえにためらいなく手が出る品物ではない。地元の人からの説明によって、誰が作り、どんな味で、どう使うのかがイメージできるようになる。そしてそれでは是非買ってみようと手を出す品物である。ゆず・きんかん・かぼすなどはこの地域の特産である。各宿で地産地消を進めるために多少高くても使用している地域産の鶏であり、また「牛喰い絶叫大会」に使われる地元産の牛の「たんしお」であることなど、「まちづくりのものがたり」に導かれてはじめて手にとり、一度その味わいを知ると、リピーターとなる。地域の人々の「ものがたり」によって味わいを増す品物である。
「わかりやすい言葉」が「よく知られたもの」を確認し消費するだけの観光経験を提供するとしたら、「地域の言葉」は「旅における発見」を提供する。すなわち地域の人々が地域の言葉で語る「ものがたり」は、観光者を旅人に変換する契機となるといえよう。(p.167-168)


本書では「すでに知られたもの」を軽く見にいくのは「観光」であり、「新たな発見」をともなうのが「旅」とされている。この対比に外部資本による「わかりやすい言葉」と地元の人々による「地元の言葉」とが対応している。地元の言葉をいかに磨いていけるか、外部資本によるわかりやすい言葉をいかに減らしていけるか、これは地方の観光都市にとっては重要な課題かもしれない。



観光経験に過度の「真正さ」を求めることは問題である。観光は「(観光者にとっての)異郷において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして、売買すること」という特徴を持つ。(p.236)


著者による観光の定義は本書で何度も繰り返されるが、本書を読み進めていくと、これが「旅」や「フィールドワーク」のようなものと区別する定義であることがはっきりしてくる。観光ガイドという観点から見ると、ここでの「観光」の定義に、少しだけ何かを付け加えてやることができればガイドという役割はかなりうまく果たせたことになるのではないかと思う。



 観光者が求めるものは対象の「真正性」ではない。観光者は、観光経験を豊かなものにし思い出深い「真正なものがたり」にする地域の人々との出会いと、彼らの「真摯」な対応を求めているのである。(p.239)


上記の「付け加えてやる」ものの一つとして、これは重要であると思われる。個人的にはこうした真摯な対応によって、観光者の認識や知識や関心のあり方を揺さぶることができればよいと考える。


橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その2)

筆者は、観光対象についての出発前の認識が、途中では確認・強化されるだけであり、終了後は出発前の認識を追認して終わると指摘してきた。観光後に語られる内容は出発前にあらかじめ提供された事例をなぞるだけであり、観光中の視線もすでに設定された枠組みのなかでしか焦点を結ばない。語りにはスタイルがあり、語り手はそのスタイルを踏襲する。観光者が現地の人々や現地の生活・文化を見て「何かを発見すること」を期待することは困難である。「語るように」または「語られたように」ものを見ること、そしてあらかじめ与えられた情報に示されたように見ることが観光の基本的特徴であるなら、それから抜け出ることは可能だろうか。観光にそれ以上のことを求められるだろうか。観光者が「語られたように」しか、または「与えられた情報のように」しか対象を見ず、新たな発見をしないという批判が現在もなされているが、その批判は観光に観光以上の要素を求めようとすることになる[橋本 1999: 120-121]と筆者は主張してきた。(p.93)


基本的にはこの指摘は妥当と思われる。ただ、本書でも後に指摘されると思うが、小さな発見は観光の中にも取り込み可能であり、その点を過小評価すべきではないと思われる。著者は観光と旅とを異なるものと定義しているようだが、観光のために出かけることを好む人の中には、この小さな発見を積み重ねることを楽しみにしているため、いろいろなところに出かけようとするという人も多いように思われる。

私の見立てでは、海外旅行については、2-3回程度するとやめてしまう人とハマってしまい度々行く人とに分かれるように見えるが、前者は「小さな発見」があまりできなかったため、最初の目新しさだけで終わってしまった人たちであり、後者は「観光の中の小さな発見」などの楽しみをある程度の数や重みをもって経験できた人なのではないか、と思っている。ただ、全体としては前者の方が数は多いと思われるため(データはないが)、観光者にあまり発見は求められないという点は妥当であると思われる。



民族誌家はあらかじめ仕入れた情報をいつでも白紙に戻す覚悟で、フィールドでの「発見」を第一に考える。自分の認識がひっくり返り、新たな世界を発見できるような経験がむしろ望まれている。しかし観光者が自らの認識をひっくり返るような経験を望んでいると考えるべきではない。むしろ「古い話を語るための新しい場所」を探していると考えた方が妥当である。(p.94)


対比としては誤っていないと思うが、民族誌家を含む研究者と言えども、必ずしも事前の情報を白紙に戻すことは好まない、というか、事前の仮説を正しいと思おうとするバイアスはかなり強いということは指摘しなければならないだろう。パラダイム変換という言葉が一時期流行ったが、同一世代の科学者の中ではこれはほとんど起こらず、世代交代の際に変わっていくということが科学史や科学論の著作で指摘されていたのが想起される。

ただ、研究者のフィールドワークでは新たな発見をしようという目的意識があるのに対し、観光者の観光にはその要素は少ない(ほとんどない)という点は言えるだろうと思う。私自身、自分が旅行中や旅行前後にしていることを人に語った時、「それは社会科学のフィールドワークじゃないか」と言われたのが想起される。(研究者である友人には、旅行中にも、「君との旅行はフィールドワークと同じだから楽しい」という趣旨のことを言われたことが想起される。実際、現地の人たちからも私の旅行中の振舞を見て、研究者か教育者だと思われたことが何度もある。)

個人的には、このような、発見をしようという目的意識を持つことは旅を楽しむ上で重要なポイントの一つだと思っている。



ある出来事を単なる事故で終わらせるか、観光の貴重な出来事とするかは、「導きのものがたり」を提供するガイドにかかっている。それがガイドの役割である。しかしガイドが万能であるわけではない。内容によってはブルーナーのインドでの事例のように、ガイドの能力を超える出来事に遭遇することもある。そのような事前の「ものがたり」と相容れない、それを圧倒するような出来事が生じたとき、全体を統辞論的に再編成して解釈の枠組みを提供するものは、経験者自身が時間の経過とともに自らの実存(生き方)と照らし合わせて再構築する新たな「ものがたり」である。それはもはや筆者が定義する観光の枠組みを超えた領域、「発見」をともなう「旅」の領域に入る経験となろう。(p.95)


ガイドには限界があり、それは観光者たちの事前の認識枠組みによって大きく左右される。このことはガイドする際にも参考になるように思う。観光者たちの枠組みがどのようなものなのか見極めて、そこから大きく外れない範囲で物事を紹介していきながら、トラブルには意味付けをしつつ、適宜、枠組みを軽く揺さぶっていく、といったことが良いガイドの一つのイメージのように思う。



ガイドは、民族的偏見を捨て、現地の人々にシンパシーをもって案内し、かつ現地に経済的貢献をするという条件には触れていない。この条件を満たしていれば、トラジャ人から先のような非難を受けることはなかったはずである。(p.108-109)


現地の人々にシンパシーをもって案内するという点は、ガイドにとって結構重要なポイントかもしれない。ただ、批判的な視点も多少は必要であるようには思う。とは言え、反感を持って非難をするのは、少なくとも観光者を相手にする場合には良くないとは言えるだろう。例えば、特に地域の負の歴史について説明する際に、ガイドの姿勢(共感・反感)は重要かもしれない。



観光者は自分なりの「確認」や「発見」を期待はするが、自ら構築した事前の「ものがたり」にそぐわない内容は受けつけない。観光では当初の目的を白紙に戻し最初からツアーを再構成することは、観光の失敗を意味する。ガイドは観光者の「ものがたり」に何かを付け加えることは可能であるが、「ものがたり」の構造を作り直すことはできないのである。(p.143)


ガイドの役割と限界として押さえておきたいポイント。


橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その1)

地域の人々が地域の文化資源について真摯に観光者に語りかけ、由来や製法について説明し提供する姿が、観光者の観光経験を豊かにするのである。そして第四章では、これまでの観光研究における「真正性」の議論を総括し、当初の客観的「真正性」に関する議論を乗り越えて、地元の人々が地域文化資源を提供するときの誠実な姿勢・真摯な姿勢が、人と人との「実存的な」かかわりのなかでの間主観的な「真正性」にたどり着く可能性について論じていく。観光者は地元の人々が地域文化資源を提供する真摯な姿にひかれる。そこに観光経験を豊かにし、通り過ぎるだけの「カンコー」を地元の人々を「発見」し地元の人々と出会う「旅」に転換させる契機が存在することを指摘するつもりである。(p.22)


単なる「もの」を見たり買ったりするというだけでなく、それを見せたり売ったりする側の人々が、いかに誠実に真摯に見せていくか、語っていくか、そのことが観光する側の人の経験を豊かにしていく、単なる観光から「旅」へと転換させていく、そうした考え方は実感として納得がいく。翻って、自分が友人たちなどをガイドする際の姿勢としても、参考にし得る。



参考までにアンダーソンたちの1993年の調査では、若い観光者は「ユニークさやオリジナリティ」に注目し、年配者は「文化的・歴史的真正性」に注目していることが報告されていた。また経験の浅い観光者は「ユニークさ」に真正性を求め、経験の豊富な観光者は「誠実さ」に真正性を求めるという結果が出た。(p.38)


この調査結果は、自分の旅行経験に照らしても、実感としてわかるように思う。



この女性がこのバッグを忘れられないのは、作り方や仕事ぶり、苦労などを全部知っており、皮製の取っ手を額にあてて、ココナッツなどをはじめ何でも背中に背負う姿を見てきたからである。高価な品物ではなくても、その品にまつわる「ものがたり」が重要であり、その語りが思い出深いみやげものを構成しているのである[Anderson and Littrell 1995:340]。(p.44)


土産物に限らず、単に観光地を見るという場合でも、そこに至るまでそれなりに苦労をした経験や辿り着くまでにした失敗や事件などがあると、その旅が思い出深いものとなる。人との関係について言えば、確かに誠実さや真摯さというものは、それだけではないようにも思うが、大きな要素だと思われる。(自分の経験で言えば、例えば、イスタンブールで人をだまそうとしている客引きが大勢いたが、それをうまくかわすことができたことや当時のものすごいインフレを利用して釣銭を少なく渡されたといった経験なども思い出深い経験になりうる。良い思い出になるとは限らないが…。)



「ご当地キティ」は1998年に北海道限定で「ラベンダーキティ」として売り出されたのが最初であった。(p.64)


そうだったのか。確かに新千歳空港で00年前後に見かけたように思う。当時はそれも比較的物珍しい感じだったかも知れない。それと比べると、今はこれと同じような形のご当地キャラが氾濫していると感じさせられる。



みやげものを介して観光経験が「ものがたられる」ときには、購入した所有者の現時点の自己について語られ、過去の観光経験が再編成・再構築されているのである。それは、みやげものを手放すときを想定してみれば明確になる。残すに値しないと判断された品物は、保有者がそれにまつわる「ものがたり」を忘れているか、思い出すに値しないと判断したものである。(p.78)


なるほど。この点は、観光の土産物に限らず、例えば音楽のライブのグッズなどのような記念品全般に当てはまるように思う。さらに言えば、コレクションしている品物など、何らかの思い入れを持って保有している物品についても同様のことが言えるように思われる。

それは自らを語るための媒体となるものであり、その「ものがたり」がその時点での自分にとって意味がある限り、保有しておこうとする。これを拡張すると、次のように言うこともできるかもしれない。「物持ちがいい」人にとって、それらの物は現時点では語るほどの物語がないとしても、物語を語りうる可能性があると感じられているために捨てられないという面もあるのかもしれない。



藤田賀久 『スタディーツアーガイド1 台湾へ行こう! 見えてくる日本と見えなかった台湾』(その2)

台湾人を「二等国民」扱いする風潮もあった中で、公平かつ平等な姿勢を貫いたのである。
 このような八田の態度を考えるとき、背後にあると思われるのは彼の恩師である広井勇(1862~1928年)である。札幌農学校に学び、熱心なキリスト教徒であった広井は、八田が学ぶ東京帝国大学で土木学の教鞭を執っていた。そして、学生に対しては「技術者は技術を通しての文明の基礎作りだけを考えよ」と常に教え込んだ。内村鑑三によると、広井は清い人であり、広井の学問は「自身を益せずして国家と社会と民衆とを益した」。立身出世を脇に置き、技術者として人々に貢献することを常に自らに課し、学生に考えさせた広井の教えは、国籍や身分を越えて人々の生活を改善させようとする八田の信念を形成したのではないかと思われるのである。(p.87-88)


興味深い指摘。東京帝国大学で八田が学んでいた時、広井とどの程度の交流があったのか、これをある程度調べなければ確かなことは言えないが、本書ではそのような点には踏み込まれていない。調べてみたい。



 2012年に転機が訪れた。再開発計画が立ち上がり、哈瑪星は更地にして駐車場とされることになった。すると市民の反対が起こり、哈瑪星が有する歴史的意義が発掘され始めた。そして打狗文史再興會社という団体が生まれ、地域の歴史を保存・研究し、その魅力を発信しはじめた。(p.113)


高雄の哈瑪星(ハマセン)エリアについての叙述だが、40年近く前の小樽運河保存運動と共通の構図が見えて興味深い。



また、2014年には台東まで電化区間が延伸された結果、JR九州885系電車がベースの「タロコ号(太魯閣号)」(TEMU1000形)や名古屋鉄道2000系電車の技術を採用した「プユマ号(普悠瑪号)」(TEMU2000形)などの最新特急が次々と登場しました。(p.129)


台湾新幹線が日本の新幹線の車両をベースにしたものだということはよく知られているが、タロコ号とプユマ号もそうだったとは知らなかった。ただ、これらの特急列車が比較的取りあげられる理由が分かった気がする。


藤田賀久 『スタディーツアーガイド1 台湾へ行こう! 見えてくる日本と見えなかった台湾』(その1)

 こうした古い建物に歴史的価値を認めて保存する動きがあります。その旗振り役は台北市文化局であり、2012年に「老房子文化運動」(「老房子」は古い家屋のこと)をはじめました。修復費用の補助や税金負担を軽減し、さらには民間企業と組んでリノベートする試みです。その結果、台北市内では古民家などが美しく蘇り、新たな観光資源となっています。(p.15)


ここ数年、台湾がメディアで紹介される際や各種ガイドブックなどを見ても、このようにリノベーションされた建物を活用した店舗が増えていると感じるし、迪化街なども様変わりしつつあるとも聞いているが、地方政府が旗振り役をしていたとは興味深い。



台北市内には次の2館が二二八事件を取り上げている。いずれも、事件の概要を丁寧に説明している。また、犠牲者の写真と詳細な経歴もあり、多くが日本留学を経験した高学歴エリートであったことに気づく。(p.46)


当時の台湾人から見て、大陸から来た中国人たちの知的レベルの低さが指摘されることがあるが、逆に大陸から来た支配層にとって、自分たち以上に教養を身につけている台湾人の存在は統治するに当たって脅威と感じられたであろう。そうした支配層の保身の感覚と、228事件で高学歴エリートが狙われたことは関係しているであろう。



中国人を観察してあることに気づいた。蒋介石像が緑豊かな公園に美しく陳列されているのを見て、「台湾人は蒋介石を今も敬愛している」と受け止めているようなのである。台湾社会で居場所がなくなったとは思いもよらないのであろう。
 公園の訪問者は中国人観光客だけではなかった。私が見たのは車いすに乗る老人であった。孫娘と公園をゆっくり一周して蒋介石像を静かに眺めていた。聞けば大陸出身の老兵であった。国共内戦を戦い、蒋介石とともに台湾に逃れ、大陸奪還の日を夢見たのである。しかしその日は来なかった。台湾に生まれた孫娘は、もはや大陸を故郷とは思っていないとのことであった。(p.53)


桃園にある両蒋文化園区についての叙述。台湾が民主化したことによって、それ以前の国民党の独裁に対する批判が自由に言えるようになってきた。そうした状況の変化により、かつて台湾中にあった蒋介石の像が急速に姿を消した。この公園はそうした行き場のなくなった蒋介石像を集めて芸術作品として陳列しているという。

大陸の中国人に対する観察から見て取れることは、中国の人々は台湾の歴史を恐らくあまり知らないのだろう、ということである。もし知っていたら、台湾に対する見方は大きく変わるであろう。

もう一点は、外省人の第一世代と孫娘の世代についてである。直接大陸から来た人にとっては、大陸は故郷であり、自らを中国人と思っても不思議はない。しかし、孫娘の代にしてみれば、行ったこともない土地でしかない。アイデンティティも当然、台湾人へと傾くだろう。



 本来は土の中に埋められるべき棺が部屋に安置されているのは、蒋介石が「大陸奪回後に南京の紫金山に埋葬してほしい」と息子の蒋経国に言い遺したからである。つまり、現在は仮置きの状態である。中国人観光客は「蒋介石は中国人だから祖国の土に還りたいのだ」と納得していた。これを聞いた台湾人は「蒋介石は中国人だから台湾の土にはなりたくないのだ」とつぶやいていた。(p.54)


中国人と台湾人の捉え方の違いが興味深い。台湾人の側の論理では、台湾は中国ではないということが含意されていることに留意しておきたい。


井出明 『ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅』

左派的な市民運動が結実し、環境保護が実現した例として、知床は社会科学的にも大きな意味を持っている。世界遺産登録の際、ユネスコはこうした市民運動も重視しており、単に自然が美しいとか大切だなどという理由の他に、「市民が自然を守った」という点が高く評価されたことにも留意しておきたい。こうした経緯は環境省もほとんど言及していないが、それは林野庁の失政を明かすことにもなるのでやむを得ないのかもしれない。(p.76-77)


環境省が言及していないことについて著者はやむを得ないのかもしれないとしているが、私としては、もっと突っ込んでほしいところである。むしろ、そうした失政があったことを反省して現在の施策を進めていると政府の側が言えるような取り組みをしているのであれば、かつて失政があったとしても政府としての説明をしても何の問題もないないはずであるし、そうあるべきであろう。そうした失政をなかったかのごとく隠蔽して、やり過ごすことを許しておくことは、「やり過ごしてしまえばそれで済まされる」と官僚や省庁に学習させることになり、政府の政策決定の質を低下させることになり、問題である。



田舎の島なので地域が閉鎖的なのかと思ったが、このエリアは旧大日本帝国においては台湾との交流ルートに位置しており、人の行き来がかなり多くあった。というよりもむしろ、近代国家が意識される以前から、中国や東南アジアを含めた広い交流圏が成立していたと言ってよい。(p.84)


西表島についてのコメント。



もともと詐欺同然で本土や沖縄本島、そして当時日本領であった台湾などから集められた労働者は、口入れ屋(仲介事業者)の周旋によってこの島に辿り着く段階でかなりの借金を背負わされていた。
 島に到着した人々は、その時をもって貨幣経済から隔離されることとなった。というのも、飯場では、その内部でのみ通用する地域通貨が使われており、炭鉱の労働者に対する賃金はこの制度に基づいて支払われた。島の売店では酒などを買うことができたが、その価格は相対的に高額であり、いくら働いても借金の元金は減らず、稼いだ金は日々の消費でなくなっていったそうだ。現地でのみ通用する地域通貨を使うというということは、仮にその紙幣を握りしめて島を脱走したとしても、脱走先での生活が不可能になることを意味している。
 現代では、地域通貨といえば、経済学の教科書でも取り上げられるように地域活性化の切り札のような紹介をされるが、こちらの例が示すとおり、搾取と隔離のために地域通貨が用いられた例もあることを忘れるべきではない。(p.92-94)


前段は現代の外国人技能実習制度を想起させる。戦前と同じことが現代においても行われている。こうした事実があったにもかかわらず反省や改善が見られない点に留意したい。日本政府には事実を認識し、それに対して適切に対策をするという能力が欠けているようだ。

後段で、地域通貨が搾取と隔離のために用いられたことを指摘している点も興味深い。地域通貨というと、何かと善いものとして持ち上げられることが多い昨今だが、それにはこうした歴史があったということも踏まえておくことは重要である。過ちを繰り返さないために。



土木工事を始めるとして、男たちが集住する地域には、必ず女郎屋が出現する。これは、良いとか悪いとかといったレベルで捉えるべきではなく、いわば論理必然としての現実である。この地にも、慰安所として女郎屋が現れたのであるが、そのハードは地元住民の屋敷が国家によって接収されたものであった。慰安所の設営にあたっては、朝鮮の女衒(せげん)が活用され、いわゆる慰安婦たちも朝鮮から連れて来られた女性が多かった。
 先の労働者の説明のところでは言及しなかったが、労働者の募集にあたっても、朝鮮の現地の口入れ屋が暗躍しており、不当な詐術を用いて労働者が集められていた。(p.138)


松代大本営に関するコメント。これに類する事態は様々なところで行われていたと思われるが、個々の事例について記憶の継承をしていくことは重要である。



廃墟は、ハードウェアとして打ち捨てられた物体そのものである。一方、遺構は、客観的な見た目は廃墟と同じようであっても、そこにコンテクストを読み込み、人間の文明活動の所産として存在している状況にあるものを指す。(p.156)


著者はこれに続いて、ここにガイドと歩くことの意味があると言い、ダークツリーズムという経験においてガイドの見識は重要な意味を持つという。確かにその通りだと思われる。



 ダークツーリズムポイントでしばしば出会うガイドは、いかに大変な悲劇があったのかということを全力で語ることがよくあるが、状況を客観化できない語りは、旅人に「大変だったんですね」としか言わせられず、内面的な啓発を与えることが難しい。これは、ダークツーリズム以外の観光形態にも言え、「ここが素晴らしい」という押しつけがあると、旅人の内なる革新につなげることがやはりできない
 眼前の状況を他の地域との比較の中で述べ、最終的な解釈は旅人に委ねるとともに、旅人にゆっくりと考える時間を与えながらガイドをしてくれる専門家というのは日本ではあまりいない。(p.157)


ガイドの側からコメントを付け加えると、他の地域と比較しながら説明するという点にも、もう一つの留意事項がある。それはガイドを受ける側の旅人が持っている知識とある程度結びつくようなものを使わなければならない、と私は考えている。このため、どの人に対しても適切なガイドをするということは非常に難しいことだ、ということになる。その地域について十分に知悉するだけではなく、他のあらゆる地域の事情についても知らなければならないからである。ある意味、この辺りにガイドをすることの奥深さがあるのではないかとも考えている。



1泊2日、約80キロの旅ではあるが、足尾銅山から渡良瀬川を下り、遊水池に至る旅路には近代日本の社会問題が集中している。……(中略)……。わずか80キロの間に、鉱工業・外交・労働争議・過疎・農業・環境問題・地域間対立・除染・強制移住・土木事業・政治などさまざまに近代日本を俯瞰できるコンテンツがあり、これは壮大な大河ドラマを構成するほどであるし、現代の福島に通じる論点も内包している。にもかかわらず、コンテクストとして体系的に供される状況にはなっていない。
 これは非常に残念な状況であるが、克服の可能性がないわけではない。その役割は、旅人(ツーリスト)という非常に“無責任”な存在が担う。上流域と下流域の交流は基本的に薄いのだが、旅人は自由に行き来でき、旅先で見たことを別の場所で話をする。受け入れるホストの側は、旅人の話で啓発を受け新しい道を模索する。まさに旅という「弱いつながり」が地域イノベーションを誘発する。(p.167-168)


この指摘は本書で得た収穫の一つだった。旅という行為は、旅をする人だけでなく、旅をする地域にも貢献する可能性を秘めている。個人的には旅をして旅人が帰ってきた地域にも影響する可能性があるのではないかと考えている。


高橋真紀 『現地在住日本人ライターが案内する 子連れで楽しむ台湾』

台湾の小学校では1年生から中間・期末テストが実施されるのです。(p.123)


台湾は日本以上に受験競争が激しいと聞くが、小学校から定期テストを行っているとは思わなかった。どのような意味合いのテストなのかが少し気になるところ。


西村幸夫、埒正浩 編著 『証言・町並み保存』(その3)
「松場登美 ―石見銀山- 足元の宝を見つめて暮らしをデザインする」より

 この家で今一番楽しんでいるのが台所です。ここでは薪でご飯を炊きます。薪で炊いたご飯は本当においしい。スイッチひとつでもご飯は炊けますが、プロセスが全く違うんです。焚付けの柴を拾いに行けば、野の花が咲いていたり、虫に出会ったり、風を感じたりという経験ができます。そして薪割りにも、火を熾すにも、気の組み方などにコツがあるんです。火吹き竹一本で火の勢いが全然違うんです。そうやって勘を働かせながら、水加減、火加減、蒸らし加減をみるんです。加減というものを今の人たちはみることがなくなりましたよね。お風呂でも温度設定をすれば、常にその温度なわけですから、「お湯加減はいかがですか」という言葉もめったに聞かなくなりました。ですが、勘を働かせるということは、すごく大事なことだと私は思っています。(p.158-159)


勘を働かせることは、感覚を働かせることでもある。反省的に頭で考える二次的なシステムではなく、直接的に身体が感じて動いていくシステムが作動する。ここで指摘されていることには、このことが関わっているように思う。



 店でも町でもキャパシティというものがあって、経済優先でそれを無視してしまうといろんな問題が起きてくると思います。(p.162)


石見銀山が世界遺産に登録されたが、この発言はその前の暫定リストに上がっていた時期のものである。知床なども世界遺産に登録されることで観光客が来て自然が破壊されることを懸念する声があった。小樽も堺町通りなどの状況は運河保存運動に直接かかわったような人々などからは批判的な目で見られている。その土地とあまり関係のない土産物屋などが増えたりする、というのは、恐らく、ここで指摘されているキャパシティをオーバーしているのだろう。



「岡田文淑 ―内子―引き算型のまちづくりと村並保存」より

市民参加というのは行政側が発する言葉で、本来、市民主体が前提にあって、その後に行政参加という言葉が出てくるのが本来の地域づくりのあり方のはずです。市民参加ということになると、主役は行政になって、行政に関わっている人たちが、「じゃあ、市民との対話を」ということになるんです。そのとき、誰を対象にしていくかというと、「肩書き組」の人。(p.184-185)


なるほど。鋭い指摘。


西村幸夫、埒正浩 編著 『証言・町並み保存』(その2)
「峯山冨美 ―小樽― 運河と共に生きるまちは過去・現在・未来に生きる人たちの共同作品」より

 今は、小樽の人たちに、自分の住んでいる町がこんなにすばらしい遺産を持っていたのか、この町で暮らせるのは本当に幸せだという意識の変化があったことが運河問題の一番の収穫だと思っています。(p.36)


運河問題は10年ほどかけて展開されてきたのだが、確かに運動が始まった頃と終わる頃では、市民だけでなく日本全体として地域の持つ歴史的遺産に対する考え方は変わった。このインタビューが行われたのは2004年であり、今から14年以上前のことだったりする。運河とその周辺の木骨石造倉庫や銀行建築などが大事なものだという認識は共有されてきたし、現在も恐らく続いていると思われる。

すなわち、小樽では運河問題という歴史的経路を通ったことによって地域のアイデンティティが形成(再形成というべきか)された。しかし、現在、運河問題を同時代のこととして生きた世代は次第に高齢者になりつつある(峯山さんも数年前に他界されてしまった)。その当時の社会の動きを肌で感じてきた人々が次第に社会の前線から見えなくなっていく。それが現在の情勢である。運河問題を通して得られたものから、今後引き継いでいくべき精神ないし方針とはどのようなものなのか?そのことを市民が見定めていくべき時期に来ているのかもしれない。



 今小樽は「雪あかりの路」(図10、11)という催しをやっています。……(中略)……。
 三十年経っても、運河を守る活動の延長に新しいまちづくりが続いていることがいいんです。形は違っても運河と小樽の町を意識するためのお祭りですから。運河を中心としたまちづくりはこれからも小樽の町に続いていくだろうと私は信じています。
西村 ポートフェスティバルが今の雪あかりの路に形を変えて伝わっているということですが、両方ともたしか実行委員会方式で、毎回役者が代わって手を挙げた人がやる形になっていますよね。あれはなかなかいい制度だと思います。同じ人がやっていくと疲れてきますが、毎年新しい元気な人が出てきて、つながっていく。(p.38)


ポートフェスティバルも雪あかりの路も「運河と小樽の町を意識するためのお祭り」というのは、非常に的確なとらえ方と思う。

実行委員会方式というのも、活力を維持しながら続けていくには確かに良い方法と思う。



峯山 私は決して市に対して恨みがましく思っていません。議会の議決を経て予算がついたものは断行するという市長さんの立場もよくわかる。それに私たちが異を唱えたのがそもそも無理なんです。私は無理を承知でみなさんとやってきた
 ……(中略)……。
西村 そうして計画は少しずつ見直されていったわけですが、あの埋め立ては峯山さんにとって許容範囲だったのか、それとも許されないのか。どうですか。
峯山 私はそういう気持ちはさらさらありません。十年間皆と運動を進めることができて、市民の意識が変わったことの方がよっぽど嬉しいのです。運河の幅ではなく、町に生きる人たちの意識の問題です。先輩のすばらしい働きがあって今があるのだ、小樽の町を大事にしようと市民が思えたことの方が意味があると思っています。(p.39-40)


本書では何人ものまちづくりの先駆者たちの証言が掲載されているが、私の見るところではやはり峯山さんが最もすごい人だと思っている。懐の深さというか、人間としての大きさが感じられるからである。無理を承知としながらも、十年間も大変な苦労をしながら運動を進めてきた。それも様々な立場の人をまとめながら。市に対する態度もクリスチャンらしい許しの精神が感じられる。



 一番困るのは、例えば「俺の小樽」とかいう変なのぼりを立てて観光業者が入り込むことです。全国の観光業者が町並み保存ができたところに容赦なく入ってきて雰囲気を壊してしまうんです。それに強く意見を言えるような役所でなければならないと思います。私は早速やめさせてほしいと役所に申し入れたのですが、自由経済の時代にそんなことは言えないと一蹴されました。(p.42)


自由経済だから言えないという当時の役所の対応は妥当とは言えないだろう。景観条例などによって規制できる可能性はあると思う。法令や条例の制定なしにですぐに行政指導的に言うのは確かに無理がありそうだが、条例制定などによって対応できる可能性は十分あるのではないか。



「小澤庄一 ―足助― 本物にこだわる古くて新しいまちづくり」より

地域づくりというのは、本当に地域らしいもの、つまり地域文化を取り入れることが絶対必要だと思うんです。だから歴史勉強の中から、世界的なものはないとしても、この地域固有のものはきっとあるはずだということを考えたわけです。(p.126)
その地域らしいものを取り入れるというのは、まちづくりの核心ではないかという気がする。それを見定めることに資するように地域の歴史などを学ぶ。峯山さんも学びながら運動するということを言っていたそうだが、このあたりのコンセプトは小澤氏と峯山さんで共通しているように思う。まちづくり運動のネットワークの中である程度共有されている考え方なのだろう。

自分の住んでいる地域なり市の「地域らしいもの」は何か、と言われると、意外なほどそれを言い当てるのは難しいと感じる。何かを見て「地域らしい」かそうではないかを感じ取ることはそれほど難しくないが。この違いはいったい何なのだろう?



大部分の周辺施設を見ましても、流行りでやってだめになったようなものが多いですから。戦略的に長い期間かけて勉強して、その中からいい計画を立てるということが足りなかったんだろうと思うんです。(p.138)


地域について学ぶ、それも戦略的にじっくりと長く、ということが重要。



 ディズニーランドの仕掛けのようにいつも投資をして目新しいことをやっていくのは企業の論理です。そうではなく地域の論理でやれることをやらないかんと思うんです。だから、いつもいつも本物を追い求める姿がなければいかんと思います。(p.139)


おそらく「地域の論理」と言われていることは、じっくりと勉強して見出した本物の地域の文化を取り入れてまちづくりを進めるということであろう。

先日読んだ小樽の事例についての研究を、この「地域の論理」と「企業の論理」という対比を用いると、現在の状況を捉えるのに役立つように思われる。

小樽運河保存運動に当てはめて言えば、小樽運河を守る会は当初、「地域の論理」に基づく主張をしていたが、当初メンバーではなくもう少し若い世代の主張は、運河や倉庫は文化的な価値がある遺産だということを理解している点では「地域の論理」に根ざしているが、観光のための活用という運動の影響力を高める効果があった部分は「企業の論理」によっても意味を見出しうるものだった。

しかし、運河問題が半分埋立てという結果となり、守る会が分裂の上、瓦解すると、実際の観光開発の主流となったのは「企業の論理」に基づくものであった。このため、地区が歴史的景観として指定されていたり、建物が文化財として指定されていたりすると容易に改変できないところもあるが、それ以外のところは次第に景観の改変が進んでおり、売られているものなども地域とはあまり関係のないものが主流になってきている。この流れを見直し、「地域の論理」を改めて導入していくことが大事な時期に来ていると理解している。