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大野哲也 『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』(その2)

旅する地域には旅の難易度があると考えられていて、難易度の高い地域を旅することで、旅人はステイタスや自尊心を高めていく
 地域別の難易度ランキングや困難性の分析は、現在、日本人バックパッカーが、情報収集のために急速にその依存度を高めているインターネット内でもさかんにおこなわれている。表現に差異はあるが、そこではおおよそ、簡単な東南アジアから最難関のアフリカに至るグラデーションで構成されている。そしてまた、実際に旅をしている日本人バックパッカーも似たような地域観を共有している。
 旅のステイタスはそれだけではない。旅の年数、何カ国旅をしたか、旅でどのような「珍奇」な経験をしたかなど、旅にまつわるあらゆる要素が、旅人のステイタスを測るモノサシへと変換される。これらの要素を、ゲストハウスなどで出会ったバックパッカーと、なにげない会話をとおして互いに提示しあうことで、暗黙のうちにみずからの位階序列を確定させていくのである。バックパッカー・コミュニティで、ゆるやかで流動的なヒエラルキーが形成されていくのだ。
 ……(中略)……。
 カーターによれば、旅人の出身地域と旅する地域の文化的な距離によって旅の難易度が判断される、つまり、日本人にとっては、アフリカや南米などよりも、東南アジアのほうが文化的な距離が近いので、日本人バックパッカー・コミュニティでは東南アジアの旅の難易度は低いと評価されるのである。(p.118-120)


旅する地域には難易度があるという見方は、確かにあり、暗黙裡にある程度共有された見方となっているように思われる。

そのため、カーターの説には説得力があるが、私見では経済的な水準の近さも大きな要因であるように思われる(経済力の水準は、水道や交通機関などのインフラ整備の状況などにも影響し、インフラ整備の状況は人々の個々の振舞にも影響するので、経済水準の差異と文化的距離の大きさとは相互に影響し合う要素であるとは思われるが)。ある程度経済的に豊かな地域や旅人が住んでいる地域と同じ程度の経済水準の地域に旅をするのは相対的に容易であり、旅人が住んでいる地域よりも経済的に貧しい地域に行く方が何かと不便であるため難易度は高いと言えるのではないか。

ただ、これは「地域観」というだけでなく、「当該旅人にとっての難易度」をある程度は反映しているのではないか。少なくとも私自身の実感としてはそのように感じている。



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大野哲也 『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』(その1)

バックパッキングは、ことばも通じない右も左もわからない異国の地を、現地社会に全身全霊を浸らせながら自力で進んでいかなければならない旅である。その異文化体験をとおして味わう、スリル、達成感、恐怖心と克己心などの総体が旅の面白さを構成している。そして波乱万丈の旅をやり遂げた自分を振り返ることで、旅人は自分が成長したことと自分が変わったことを実感することができるのである。(p.42)


旅の面白さを非常によく言い当てているように思う。

ただ、本書では、日本人バックパッカーたちが、実は異文化体験をあまり志向していないことや、スリルや達成感などもマニュアル化され、商品化され、消費されるものになる傾向などが指摘されており、そうした側面があるという認識に基づく留保はつけられることになる。この指摘も妥当なものと思う。

そして、本書ではアイデンティティと旅との関係において、ここで述べられている「旅をやり遂げた自分を振り返ること」が果たす機能に焦点が当てられているのが特徴的な観点であると思われた。



だが、旅の面白さが自己変革や自己成長と接続する可能性がつねに開かれているという開放性こそが、バックパッキングの大きな特徴であり、バックパッキングの魅力を増大させているのである。(p.43)



この指摘にも同感である。上述の「波乱万丈の旅をやり遂げた自分を振り返ること」によって、成長した自己像が描かれ、自分自身が成長したという実感へと繋がっていく。本書ではこの点について、成長した「実感」という表現までで止めているように思うが、現実の社会での活動に変化が生じており、それがその社会の「共通善」を志向しているのであれば、それは「成長した」と言ってもよいのではないかと思う。

なお、本書のこの後の議論を踏まえた(やや先回りしすぎな)コメントになるが、この点は、本書の見方と私の見方の分岐点になっているように思われる。日本社会の中に回帰することを「前進主義的価値観」の元に回収されたものと見る本書の見方は、日本社会の中に存在する価値観を過度に単純化しているように思われる。アイデンティティは個人が持つものではなく、社会の中でのみ意味を持つものだとすれば、そして、社会の中での役割や立場、自分の「居場所」こそがアイデンティティの根源であるとすれば、元々住んでいた社会に回帰し、そこで新たな立ち位置を見出し、自分自身が満足しながら社会に貢献できる道を見つけたのだとすれば、それは実際に成長したと言ってよいはずである。

逆に、本書が評価する(本書ではこの言い方は使っていないと思うが)ノマド的な生き方は、もともといた社会の中には居場所を見つけることが「できず」、やむを得ず、複数の社会の間で、それら(が作り出している制度)に「貢献する」よりは「利用する」ことで何とか居場所を確保しているにすぎない。この「貢献」の少なさを私は低く評価したい。例えば、社会保障制度をつまみ食いしている点などに、それは象徴的に表れている。つまり、住民票を置いたまま国保に加入せずに他人の保険証を使用するといったことを本書は知恵があるとして称揚しているが、これは詐欺罪に該当する犯罪である(少なくとも、国保法や健保法には違反している)。(なぜならば、医療機関を錯誤させることで医療機関から保険者に不正な請求をさせ、保険者から不正に給付を受けている。)また、社会に住んでいる人が拠出している保険料や税金に便乗しながら、この人は保険料や税を払ってくれた人々に対して何の貢献をしているのか、ということも考えなければならない。こうした行為を高く評価することは妥当な評価とは言えない。



 こうしたサイクルが成立する一因は、冒険的な旅の経験によって刷新された「個性豊かでタフ」という自己が、「強い者が勝ち、弱い者が負ける」という資本主義のルールときわめて親和的だからである。このサイクルのなかで、日本社会で支配的な価値観からの解放を願って旅に出たバックパッカーの多くは、結局は日本社会が強制する前進主義的価値観に自発的に服従し、かつて逃走を試みた社会秩序へ再参入していくのである。(p.52-53)


「個性豊かでタフ」をよしとする価値観が資本主義のルールと親和的であるという指摘はなるほどと思わされた。

しかし、一点だけ疑問がある。もし、本書が言うようにバックパッカーの多くが「日本社会で支配的な価値観からの解放を願って旅に出た」としても、日本に帰ることを始めから意図せずに旅に出発するバックパッカーがどれほどいるのか、という点である。本書の観点ではここが抜け落ちているように思われる。

多くのバックパッカーが始めから帰国の意図を持たずに「解放」を願って出国しているというのであれば、本書がここで指摘している内容は十全なものと言い得ると思うが、そもそもバックパッカーたちの殆どは帰国することを前提して旅に出ているのである。価値観から解放されたいと思っているとしても、一時的にそこから身を離すことで、より落ち着いた環境の中で自分自身の身の処し方を再構築したい、といった考え方なのではないか。この発想自体は「前進主義的価値観」とは何の関係もない。他の価値観の社会であっても十分あり得る発想である。



バックパッキングという実践が、生きる意味について葛藤し自信を喪失していた者に、生きる希望を与え新たな活力を付与したことはまぎれもない事実なのである。さらに今まで想像すらしたことがない生き方が世の中には多く存在することを、身体のすべてを使って知ることで、彼らの人生観や価値観が根底から変化する可能性もある。
 彼らがバックパッキングをとおして得た自信と確信は、彼らがこれから歩もうとする新しい人生のステージで、新たな地平を切りひらく原動力になり得るのだ。つまりマクロレベルでみると既成の価値観の再生産につながっているものの、ミクロレベルでみれば個々人の生を活性化させる力がまぎれもなく備わっているのである。(p.53-54)


バックパッキングがミクロレベルでは生の活性化という機能を持つことについては全く異存はない。マクロレベルで既成の価値観の再生産に繋がっているということ自体も表現としては誤ってないと思う。ただ、既成の価値観を「前進主義的価値観」に回収しきってしまうような扱い方と、バックパッカーたちがこの価値観とは相容れない価値観を持とうとしているかのような扱い方には、単純化しすぎであると批判しておきたい。一時的に既存の価値観から離れて自分の考え方を再調整したいという発想は、既存の社会の中での自分の役割を考え直すことであって、既存の価値観を否定することではないと考える。このように考えれば、バックパッキングは合目的的な行為となっていると言うことすらできる。



 このようなプロセスを経て日本人バックパッカーがひとつの場所に集まり、沈潜者と新参バックパッカーが親密になり交流を深めることで、たとえ沈潜者が日本人宿コミュニティから移動していったとしても、情報だけは、残された者に引き継がれ蓄積され続けていくのである。さらに蓄積された情報をもとに旅を遂行することによって、彼らの多様であるはずの旅の経験はひとつのモデルへとゆるやかに収斂していく。相似形の旅物語が生産されていくことになるのだ。(p.85)


この指摘ももっともだと共感する。実際、バックパッカーが泊まる宿を転々とすると、以前別の国(都市)で出会った旅人と再会することはしばしばある。(イスファハーンで出会った旅人とイスタンブールで偶然再会するといった経験は私にもある。)こうした画一化には確かに本書が批判するような、「本来のバックパッキング」からの乖離はある。

しかし、そもそも旅のあり方は時代によって変わるものであり、バックパッキングが始まった時代の旅が最高のものであったと言える根拠は特にない。ガイドブックや情報によって収斂していくことは確かに画一化の方向性ではあるが、なぜそのに画一化するのかという理由を考えると、それは市場によって良い商品が選ばれるのと同じである。誰かが既存の情報とは違う情報を書き込んでも、それと同じルートで旅をした人が良いと思わなければ、そのルートは他の旅行者に追随されることは(あまり)ない。それと違う道を行きたい人はそこを行けばよく、そうでない人は良いとされている道を行けばよい。それだけのことではないのか。なお、ここではブローデルに倣い、「市場」と「資本主義」とは同一のものではない、と断っておこう。



異文化経験を熱望する一方で、日本的なものを強く求める二律背反性が沈潜型バックパッカーの旅の核心であるなら、バックパッカーの再生産は避けられない帰結であった。(p.85)


沈潜型バックパッカーには会ってみても今一歩、彼らの価値観というものは理解できなかったのだが、本書の指摘は、こうした一面はありそうだと思える内容であり参考になった。



野嶋剛 『台湾とは何か』(その2)

 明治維新を経験した日本は、欧米からの制度や技術の輸入による近代化を成し遂げ、清朝を戦争で打ち破り、台湾経営に乗り出した。日本の統治は苛烈なものだったが、日本が台湾に移植したものは、日本自身が学んだ近代だった。そこでは、限界はありながらも、言論の自由や法の支配、教育の普及、行政の平等主義などが実現され、統治50年を経験した台湾には、そのエッセンスがすでに根づいていた。台湾の人々のなかには自らを日本人と見る人もいれば中国人とみる人もいたが、共通するのは、近代人になっていたことだ。
 日本が去り、中華民国がやってきたとき、台湾の人々は「祖国復帰」を本気で喜んだ。しかし、その期待はあっという間に裏切られる。大陸の中国人は、前近代の世界に生きていた人々だったからだ。(p.240)


大胆に単純化しているが(様々なものを捨象してしまったり、多少の誤認を導く要素もないわけではないが)、当時の台湾の人々が大陸から来た中国人に対して感じた違和感の原因を非常に分かりやすく説明していると思われる。

ある意味では、現在でも台湾の人々の多くが、大陸の人々に対して同様の違和感を感じ続けているように思われる。(台湾の人々が中国の人びとよりも韓国や日本の人びとに対して、よりシンパシーを感じる場面は少なくないと思う。少なくとも私の知る「天然独」の人々にはほとんど当てはまると思われる。)



 民進党を勝利させ、国民党を敗北させたのは「台湾は台湾」と信じる人たちの群れであった。台湾に生きる人がそう考えているのであれば、我々もその政治的現実を受け止めるべきである。そのうえで、台頭した大国・中国とどう距離を取るべきか、どのような政治体制が台湾にふさわしいか、中台関係の平和的解決や安定的マネジメントの解答がどこにあるのか、といったテーマを積極的に議論していきたい。そこに立場や意見の分岐があることは極めて健全なことである。不健全なのは、何も考えないことであり、思考停止を続けることだ。(p.259-260)


同意見である。


野嶋剛 『台湾とは何か』(その1)

 盗聴については、台湾では今日でも、アジアのなかで群を抜いて当局によって盛んに行われているのは確かだ。原因は中国との対立にある。台湾に浸透した共産党スパイの摘発のため、法務部調査局、国家安全局、国防部軍事情報局など各インテリジェンス組織が強力な陣容を持ち、盗聴をその有力な捜査方法にしている。すでに共産党のスパイへの懸念は低減したが、組織は能力があれば使いたくなるもので、民進党の議員などは自分たちの電話が盗聴されているという前提で生活しており、この「口きき」問題は図らずも台湾の盗聴大国ぶりを印象づける形にもなった。(p.31)


現在では台湾というと日本よりも民主的な政治が行われている地域と私は考えているが、こうしたイメージからすると盗聴が盛んであるというのはやや意外にも思われたが、中国との関係という歴史的経緯を踏まえれば合点がいく。



「湾生回家」の価値は、激動の歴史を歩んだ台湾の近代史のなかで、「台湾から日本に戻ったあとも、台湾を忘れず生きてきた」という湾生の物語を新たに発掘したところにある。台湾社会のなかで、1945年以降に台湾を去った日本人たちが、これほど台湾を深く懐かしみ、思い続けたことは、台湾でも日本でも語られなかった話だ。(p.73-74)


なるほど。是非ともこの映画は見てみたい。



戦前の台湾の経済水準は日本の地方都市を大きくしのぎ、給料面でも東京に遜色ない金額を得ることができたとされている。(p.75)


全般的にこのような状況だったかどうかは疑問。どのような人がこのような恵まれた状況にあったのか、また、こうした恵まれた状況になかった人はどうだったのか、ということには興味がある。



 日本人は中国が領土拡張の野心を持っていると警戒しがちだが、中国は建前でも本音でも、「新たな領土」への野心はそれほど強くない。それは、ロシアや中央アジアとの間で進めた国境画定交渉における比較的冷静かつ実務的な対応にも現れている。彼らが固執するのは「取り戻す」ことであって「広げる」ことではない。中国にとっては台湾も尖閣諸島も「取り戻す」という論理で重要になっているのである。(p.94-95)


なるほど。この見方は重要かもしれない。

中国の一般の人々もナショナリスティックに反応するのも、これらの土地が「奪われた」ことによる「屈辱」と結びつけられているからだと合点がいく。

とは言え、本書の指摘には落とし穴がある。ナショナリズムというものは、他国より力が劣る間は「防衛的ナショナリズム」として発現し、拡張は志向せず、「奪われないこと」や「取り返すこと」のために国民が協力することを促す。しかし、他国より力が強くなると「侵略的ナショナリズム」に変質する。中国の領土の場合にだけ、こうした一般的な傾向が当てはまらないと言える根拠はない。

従って、これまでの中国は「取り戻す」論理と感情によって動いてきたとは言えるが、今後はこの論理を使って侵略や拡張を正当化しようとすることはない、とは言えない。中国から見た「失地」を「回復」することができたとすると、その次には拡張の動きに転じるという可能性は残る。もちろん、私もすぐにこうした動きが全面的に展開するとは考えていないが、中国の動き方が過去から未來まで不変であるかのような印象を与えてしまう点には留意すべきと思われる。



 台湾に優良な中華文化が維持されているというのは正しい理解でもある。蒋介石は台湾に逃げてくるときに、中国の文学、演劇、映画、学者など、一流の文化人をこぞって連れてきた。彼らは共産中国で活躍の場がないと考え、国民党と一緒に台湾に渡り、そのまま大陸に帰ることなく、台湾で文芸の道を極めた。多くの弟子をとって、文化の種を台湾に撒いた。その結果、台湾には、高いクオリティの中華文化が育つことになった。(p.128-129)


なるほど。



そして、たどり着いたのは、「大陸反攻を放棄し、台湾化した中華民国は、台湾の人々にとってはもはや『克服』すべき対象ではなくなりつつあるかもしれない」という認識だった。(p.182)


国名としての中華民国。実態としての台湾の政治的自律性。「国名としての中華民国」は大陸との間で「一つの中国」という点に合意することにより大陸からの武力介入を外交論理上防ぐ機能を担う。これが実体としての台湾の政治的自律性を守ることに繋がる。ある意味では台湾の多くの人が望む「現状維持」をするために「中華民国」という国名は(少なくとも現状では)役立つようになっている。


村串栄一 『台湾で見つけた、日本人が忘れた「日本」』

新竹駅は駅前にも風情がある。かつての日本時代の路線転換設備が保存され、その公園で子どもたちが鉄路を跨いで遊んでいる。柳が枝垂れる疎水の流れも趣きがある。(p.37)


行ってみたい。



 ここ新竹が戦時中、日本の航空前線基地だったことを知る人はあまりいない。戦況が悪化するなか、米軍は沖縄を襲って日本本土侵攻を企図し、日本はその前に米軍をつぶそうと新竹から特攻機を発進させた。しかし、新竹飛行場は米軍機の奇襲を受け、日本兵、住民らが多く死傷し、何機もの航空機が炎上した
 日本は沖縄や本土を守ろうと新竹飛行場を拠点に、旧式航空機で体当たり戦法を試みようとしたが、徒労に終わった。新竹には死亡した日本兵を祀る霊堂がひっそり置かれているという。建立したのは台湾住民で、国民党政府の目を警戒しながら堂を守り続けてきたとされる。(p.43)


こうした歴史は、「アジアのシリコンバレー」と呼ばれる現在に至る要因の一つではないかと思われる。航空前線基地とアジアのシリコンバレーを繋ぐ媒介項としては国立精華大学が想起される。これについては、具体的な繋がりを検証したりはまだできていないが、恐らく、関連付けられるような歴史的経緯があるものと想定している。



 南方、台湾、日本には似たような浦島伝説がある。それも黒潮の流れが成したことであろう。黒潮は海上の道であり、文化結節の道でもある。2005年に製作された台湾映画『飛び魚を待ちながら』(原題『等待飛魚』)が蘭嶼島の生活、漁の様子などを描いている。(p.133-134)


黒潮を通って人と文化が伝播する。なるほど。


今村敏明 『小樽蔵めぐり イラスト帖』
小樽ナトリ倉庫(旧日本郵船小樽支店残荷倉庫)

 旧日本郵船小樽支店の隣にある倉庫。設計もお隣と同じく佐立七次郎です。
 ……(中略)……。
 この倉庫は、佐立が設計した唯一の石造倉庫ではないかと推測されます。(p.74)


佐立七次郎が設計した建築で残っているものは、東京にある日本水準原点標庫と小樽にある旧日本郵船小樽支店しか残っていないとしばしば言われる。本書の記述が正しければ、三棟目が残っているということになる。



小樽運河食堂(旧浪華倉庫)

 かつて三井物産や三菱商事としのぎを削った鈴木商店(本店・神戸)が使用した倉庫です。鈴木商店は砂糖、樟脳の取引から出発し、金子直吉大番頭の統率で事業を拡大。第1次世界大戦で莫大な利益を上げ、傘下に50余社を抱えた振興財団でした。(p.80)


台湾と北海道という二つの地域に注目している身としては、鈴木商店の倉庫には注目してしまうところ。運河食堂の倉庫が鈴木商店が使用していた倉庫とは知らなかった。



住吉神社旧宮司邸蔵

ニシン漁は、まだ雪が降る3月から6ごろまでがピークです。加工が一段落する7月上旬に合わせて北前船が入港し、商取引が盛んになります。住吉神社の祭礼「小樽祭り」が始まるのはちょうどそのころ。収穫がコメでなくニシンなので、祭りが秋ではないのです。(p.127)


なるほど。興味深い。小樽の大きな祭り(水天宮、龍宮神社、住吉神社)が同じ時期に重なっているのもこのことと関係しているのだろうか?


山谷正 『さっぽろ歴史なんでも探見』

 北海道に玉葱が入ってきたのは明治4年(1871)、開拓使がアメリカから輸入した種子を札幌官園(現在の北区北6条西6丁目付近)で試作したのが始まりで、その後札幌村でも小規模の玉葱栽培が行われるようになった。(p.85-86)


北海道ではなく日本全体で見た場合の玉葱の導入はどうだったのだろう?

西洋野菜の日本における普及は、食文化の歴史的展開を見る上で興味深いテーマだと思っているが、なかなかこうしたテーマを掘り下げて語ってくれる本がないのが残念である。



 昭和17年(1942)、当時の軍が農地約250㌶を買い上げ、学生や市民と強制連行の朝鮮人労働者を使って陸軍飛行場として建設させたものだ。そのため、太平洋戦争末期には米軍飛来機の攻撃目標にされ、爆撃をうけたこともあった。(p.89)


札幌の丘珠空港についての記述。軍事に関わると攻撃を受ける。広島や長崎が原爆投下の対象となったのも同じ理由が含まれていることは忘れてはならない。



 この建物は大正以降に流行したマンサード屋根を使った洋風住宅の先駆けとなったもので、大正2年(1913)に現在の北区北12条西3丁目に建てられた。(p.135-136)


現在は芸術の森に移築された有島武郎の邸宅についての既述。マンサード屋根が大正以降に流行した理由はなぜだろうか?

この時期のマンサード屋根と言えば、明治39年の旧日本郵船小樽支店が想起されるが、この建物はその近くに建つ建物に強い影響を与えたようで、いろいろな建物がマンサード屋根になっている。また、明治42年の古河記念講堂もマンサード屋根である。このように北海道の明治末期には、マンサード屋根がある程度使われ始めていた。大正期という中間層が育ってきて生活が洋風化していった時期に、個人邸宅にも使われるようになったということだろうか?



 しかし、簾舞地区の本格的な開拓は、明治21年(1888)に旧札幌農学校第四農場が開設された時に始まる。(p.139)


第四農場が南区にあったのは何かで読んだことがあるが、簾舞地区だったのか。跡地は現在、何になっているのだろう?



 昭和30年(1955)に旧琴似町と篠路村が札幌市に合併されたが、この頃から新琴似、屯田、篠路地区の市街化が進み、それまでの農業や酪農地が次第に姿を消していった。(p.150)


第二次大戦後の復興から立ち直り、高度成長へと移る頃、札幌が大きく変わっていったことが分かる。札幌の発展と反比例するかのように小樽の斜陽化が進む。これは一体の現象であろう。



 かつて帝国製麻琴似製線工場があり、麻布の生産が行われていた麻生、亜麻事業の名残が町名になっている。
 昭和53年(1978)、地下鉄南北線(北24条~麻生)が開通してからは急速な発展をとげ、麻生駅周辺は一大商店街となった。(p.163)


麻生の地名は確かにアイヌ語っぽくないが、その土地で行われていた産業が「そのまま」地名になるのが面白い。


北村崇教、本郷敏志 監修 『北海道「地理・地名・地図」の謎』

 北海道の地名の多くがアイヌ語に語源を持つことはよく知られているが、そのアイヌ語由来の地名の多くが「川」に関するものだということはあまり知られていない。これはアイヌの人々の生活の中心に「川」があったことによる。アイヌの人々にとって「川」は重要な食料のありかであり、通行のための道でもあり、地域の目印としての役割も担っていたため、その特徴を示す名前がつけられたのだ。(p.12)


言われてみれば、確かに川や水に関係する語源が多い。本書が指摘するように、「●●別」はアイヌ語の「ペツ」に由来し、「●●内」はアイヌ語の「ナイ」に由来するが、いずれも川である(ペツの方が比較的大きな川で、ナイは小さな川を指すことが多いらしい。)。



 1890(明治23)年に、現在の砂川・歌志内に奈江村が設置されているが、同じころ、砂川がオタシナイと呼ばれていたという記録も残っており、1891(明治24)年に北海道庁から刊行された「北海道鉱床調査報文」のなかの地図で現在の砂川市街は「歌臼内」と表記されている。音訳と意訳の両方が現在の砂川市を指す名称として使われていたのである。音訳と意訳を使い分けるようになったのは1891(明治24)年の鉄道開通の際に、砂川駅と歌志内駅が設置されたのがきっかけである。(p.36)


砂川と歌志内は「オタウシナイ」の意訳と音訳であるという。鉄道の駅が地名を決めるというパターンが結構見られるようだ。北海道の場合、開拓の進展と並行するようにして鉄道が普及していったため、地名をつける時期と鉄道の駅を設置する時期が重なっていたことが駅名が地名を確定させる効果を持ったのではないか。



1874(明治7)年に制定された屯田兵制度は、明治維新後の廃藩置県で失職した武士たちの救済策でもあった。そのため屯田兵への応募は当初士族出身者に限られていたのだ。士別は、この屯田兵が開いた最後の町なのである。(p.38-39)


武士が開いたから「士」をつけているという説。



 曽田氏は北海道の北見・札幌、千葉、長野、岡山の五ヶ所で栽培を試みた。そのうち札幌で育てたラベンダーが発育状態や色、香り、すべてにおいて最良だったために、1940(昭和15)年に、札幌市南区南沢に農場を作って栽培を開始したのである。つまり、ラベンダー発祥の地は、富良野ではなく札幌だったのだ。
 農場設置から二年後、曽田氏は日本初のラベンダーオイル抽出に成功している。
 戦時中は、食糧増産のため、多くの畑が転作を余儀なくされたが、戦争が終わると、ラベンダーオイルの生産が本格化し、南沢のラベンダー園には周辺から多くの見物客が訪れるようになったという。
 やがてラベンダーの苗は、富良野をはじめとする北海道全土に移植され、北海道のあちこちで花を咲かせるようになった。ところが、昭和40年代にラベンダーオイルの輸入自由化が決定すると、ラベンダーオイルの価格は急落。ラベンダー園は次々と閉園に追い込まれてしまったのである。
 札幌の南沢ラベンダー園も1972(昭和47)年に閉鎖され、富良野のラベンダー園も、わずかひとつが残されるのみだったのが、1976(昭和51)年、国鉄(当時)のカレンダーに富良野のラベンダー畑が採用されたことで一躍その存在が全国に知れ渡り、多くの観光客が訪れるようになったのだ。以後、富良野ではほかのラベンダー園も復活し、今では観光の目玉となっているのである。(p.48-49)


ラベンダーを栽培してオイルの生産をしていたが輸入自由化でラベンダー畑が閉鎖されていく中、国鉄のカレンダーをきっかけに富良野のラベンダーが観光産業としてブレイクしたという流れは興味深い。



 しかし、同じように欧米に倣ったとはいえ、札幌と旭川や帯広では、街の様子が少し違っている。旭川や帯広には、碁盤の目のように南北・東西に伸びた道路とは別に、斜交する道が組み入れられているからだ。
 この違いは、札幌の建設を担当した開拓使判官の島義勇が、当初、中国の長安や日本の平安京のような東洋風の街をイメージしていたことによる。ところが、島は1870(明治3)年に罷免され、当時開拓使のトップだった岩村通俊がアメリカ式の都市計画を推し進めた。そのため、札幌は、東西路は「南一条」、南北路は「西一丁目」といった京都風の名称がある一方、当初は道に「札幌通」や「石狩通」といった名前をつけるアメリカ風のネーミングが採用されるなど、和洋折衷の様相を呈していたのである。
 一方、旭川や帯広は、全面的にアメリカの都市をモデルとして造られた町だ。それは、これらの町を計画したのが、アメリカのミシガン大学、ニューヨーク大学で学んだ経歴を持つ時任静一という人物だったからである。(p.86)


これも面白い。「札幌通」などの名称が「アメリカ風」というのは今まで気づかなかった。



 北海道は炭酸飲料の消費が非常に多い土地である。2008(平成20)~10(平成22)年の一世帯当たりの炭酸飲料の年間消費額は、札幌市が4165円で全国二位。全国平均の3276円を大きく上回る結果である。(p.136)


これは何故だろうか?



 明治はじめの開拓期、多くの欧米人が開拓に協力するために北海道を訪れている。その影響で札幌近郊ではキリスト教がよく広まっていたという。そのため、キリスト教由来の行事であるハロウィーンと七夕が混ざり合って「ろうそくもらい」の行事ができあがったのではないかというわけである。(p.138-139)


興味深い説。



 そもそも北海道の主要道路は、未開拓地を整備していった関係で、家々が集まり町になったところに道路をつくったのではなく、道路をつくったところに人や家が集まって町を形成してきたという歴史がある。そうした事情から、北海道には広くてまっすぐな道が多いのである。(p.166)


なるほど。



とくに上川方面の開拓を早く進めたいという目論見があった北海道庁では、上川方面の開拓をスムーズに進めるためにも上川道路(国道12号線)の建設が急務であると判断したのだ。こうして樺戸集治監の囚人500人が動員され、国道12号線の原形となった上川仮道はわずか95日間で完成している。(p.167)


思うに上川方面の開拓を早く進めるというのは、北海道という島の支配を固める(ロシアの南進に備える)にあたっての軍事的な必要性があるという判断に基づくものと思われる。なお、囚人労働が北海道の開拓でもそれなりに多くあったということはよく銘記すべきことである。


堀淳一 『北海道 地図の中の鉄路』

 なぜこの線がそんなに早く完成したのかというと、札幌から旭川を経由して帯広や釧路に到達するのを急いだからで、実際につくりはじめた時の名前は「十勝線」。つまり、幹線扱いだったのである。ただし、これが実際に帯広まで届いたのは、ようやく1907年になってのこと。……(中略)……。
 しかし、今の根室本線の滝川-富良野間が1913年(大正2年)に開通すると、札幌から釧路へ行く直通列車は当然、距離のはるかに短いこちらを通るようになり、旭川を通らなくなった。そのため、旭川-富良野間は幹線としての地位を失って、「富良野線」という55キロ足らずのローカル線に転落してしまった。(p.10-13)


前段の部分は二つ前のエントリーで『北海道の鉄道』を取り上げた際にも言及されていたところであるが、なぜ完成を急いだのかという社会的な背景が気になる。

後段からは路線の扱いにも栄枯盛衰があることがよく分かる。



 なぜ、ホームが曲がっているのか?
 その答えは地図(図2-2)を見れば一目瞭然だ。かつては、レールが函館港の中にナナメに突き出ている青函連絡船の鉄道桟橋につながっていたからだ。(p.26)


函館駅のホームが曲がっている理由。



 実際、昭和20年(砂原回りの函館本線をつくったのと同年――つまり戦争末期の輸送力増強に躍起になっていた年だ)にそれが実行されて、この区間が複線化されたのだった(図2-8)。(p.43-47)


函館本線に関する記述。本書によると、日本政府は戦争末期に輸送力増強に躍起になっていたという。実際にいくつもの鉄道路線がその時につくられているからそうなのだろうが、何故、戦争も末期になって敗戦が濃厚になっている時期に金をかけて輸送力増強をしようとしたのかが気になる。



 長万部からは、室蘭本線が分かれる。昔は函館本線が、札幌あるいはそれより奥地へ行く時の大幹線で、優等列車もすべて函館本線を通っていたのだが、戦後の昭和35年(1960年)頃から優等列車は次々と急勾配のない室蘭本線・千歳線を経由するようになり、今では函館本線の長万部-小樽間は完全なローカル線――普通列車しか走らず、しかも本数が少ないというさびしい線――と化している(小樽-札幌間に優等列車は走っていないが、札幌近郊の通勤・通学・行楽列車の本数は多い)。(p.51-52)


昭和35年頃は小樽が斜陽化する時期と重なっているだけでなく、本書の千歳線などの記述を読んでも分かるが、室蘭本線・千歳線の沿線の都市が急速に都市化していった時期とも重なっている。高度成長の始まる頃だが、石炭から石油へのエネルギーの転換などが小樽の斜陽化の要因の一つとして語られるが、この路線変更に例えば何らかの技術的な理由があったとすれば、この路線変更自体が小樽の斜陽化の要因の一つとして数えられるべきものである可能性がある。(社会的な背景があって路線変更が行われた場合には、その社会的背景を要因として数えることが出来るかもしれない。)

なお、千歳線沿線の都市の都市化の原因は恐らく、この路線変更に求めてよいように思われる(それぞれの都市に発展する要因があったとしても、鉄道の路線沿いの都市が軒並み同じような時期に同じような都市化をしているとすれば、個々の要因よりも全体に共通する要因の方が原因と考えられるため)。



 銭函からは比較的、直線区間が多くなる。……(中略)……。
 ただし、普通列車は相変わらずスピードが出ない。いや、かえっておそいのではないだろうか?なぜか?駅がやたらと多いからだ。札幌駅まで、何と18キロの間に9駅、約2キロごとにあるのである。
 開通当初は、手稲(はじめは軽川)、琴似の2駅しかなく、それに大正13年(1924年)、桑園駅が加わっただけの状態が長らく続いたのだが、戦後、札幌の市街地がとめどもなく拡大しだしたため、その各所からの通勤・通学・買物・遊楽客を拾おう、と、昭和60年あたりから続々と駅をつくりはじめた結果、駅数が三倍増してしまったのである。(p.84)


鉄道と都市化との関係は興味深い。



 北一已を出ると右側は低い丘陵になるが、それが遠ざかる頃、秩父別駅に着き、ここを出るとふたたび水田のただ中を走って石狩沼田駅となる。ここはかつて、札幌・桑園から札沼線が来ていた。札沼線の「沼」の字はこれに由来するのだが、今ではかなりの鉄道通でも「この沼はどこから来たのか?」と頭を悩ますようだ。
 ……(中略)……。
 次の駅は藤山。この名は、明治29年に藤山要吉が農場を開いたことに由来するという。さらに次の大和田駅も、同31年に大和田荘七がこの付近で炭鉱を創業したことによっている。そうそう忘れていたが、石狩沼田駅の沼田も開拓者沼田喜三郎の姓だった。これほど人名由来の駅名が多い線区も、ちょっと珍しい。(p.166-168)


これらの人物が名を残しているのは、富裕層に大きな富が蓄積されやすい社会だったことも関係していると思われる。



 それが千歳線となって20年足らずの昭和35年頃から、まずそれまでは函館本線の山線経由で運転されていた急行列車が、峠越えがなく平坦な室蘭本線・千歳線経由で運転されるようになり、それに伴って昭和40年から複線化、また同42年から北広島以北のルート変更化の工事がはじまって、同48年には全線が複線となった。また、昭和55年には全線が電化された。(p.194)


先ほど函館本線の章から引用したp.51-52の記述と対応する。千歳線沿線の都市(千歳、恵庭、北広島)の都市化の進展や同時期の小樽の斜陽化とも関連していると見るべきだろう。



内藤辰美 『北の商都「小樽」の近代 ある都市の伝記』(その3)

小樽市内で入舟町ほど隣接町の多い町はない、これは一面入舟町が小樽発展史における中枢地区であったことを物語るものでもある。……天狗山から海岸続くこの町が同じ町内に下町と山の手という二つの違った両面を持つのも無理ではない。5丁目から以西9丁目までは住宅地であり1丁目から4丁目までは純然たる商店街でありその中間が工場外を形成している。明治4・5年前までは土人部落であったが、住吉町一帯にアイヌが移住し11年から14年まで公認貸し座敷が許可され、それが住ノ江町遊廓の移籍と共に明治20年を中心として入舟街小売の繁盛となったのである。主なる物産問屋や港町に軒をならべ入舟町は専ら市内向けの雑貨、花柳界宛て込みの呉服屋、大三岡田、山三山田などが巾を利かせていた、明治30年代から小松を始め戸出物産などが卸専業の店を構え南小樽駅との連絡に便利な位置としてだんだん卸屋街に変わった……。入舟町が真に織物問屋に進んだのは欧州戦争ころで南小樽駅へ殺到する七島包みの織物の出荷は年々増した」(北海タイムス社、「おらが町内人記」:31)。(p.260)


入船町が小樽発展史の中枢地区という発想は斬新に感じられる。歴史の実態を捉えているかは別として。



 花園町の場合、町内の成立が小樽の発展=人口増と関係する。……(中略)……。「……(中略)……17年1月になって漸く花園町が新設せられた。これは南部入舟町添と北部の於古発添に住家が建設せられたので行政の運営上独立の町名を付けざるを得なくなったからである」(『花園町史』1962:1-2)。
 当時の花園町はその大部分が草原であった。「新町名が設置せられたが最初に建物が建築されたのは明治15年で現市役所の場所に避病所が出来たのがそれである。小樽は、大正4年全市及ぶ町名番地の変更を実施した。その結果、錯綜していた「入船町と花園町の境界が整理」されることになった」(『花園町史』1962:98)。(p.262)


花園町というと、現在の小樽では商業などの面では衰退の傾向にあるとはいっても、一応、市の中心的な地区の一つと言ってよい地域である。明治17年になって漸く町名がつき、その頃にはまだ草原であったというのは容易に想像できない意外さがある。隣りの稲穂町が沢だったことも併せて考えると、明治後半にいかに市街が急速に発展したかが想像できる。



最下層には日雇いの港湾労働者があった。しかし、都市小樽の再生産にかかわる射程を、この都市に石炭を運び、この都市を成立させる一因となった幌内炭鉱にまで広げてみると、繁栄する都市小樽を支えた真の下層民が都市小樽の内部にではなく、都市小樽の外側における幌内炭鉱にあることが明らかとなる。われわれはともするとこの視点、都市の繁栄を支えた資源供給地における人々を見逃しがちである。幌内を嚆矢として開発されていった北海道の炭鉱とその炭鉱で働いた労働者たちこそ、囚人を含め過酷な作業に堪えた労働者たちこそ、都市小樽の発展=再生産を、「最底辺」において支えた人々であり、都市小樽の形成史において忘れてはならない人々である。(p.282)


この視点は本書で最も興味深かった点の一つであった。都市の最下層民は都市の内部にいるとは限らず、むしろ、都市の外にいる。都市を考える際にも、行政的な区域で完結して考えるのではなく、より広いシステムの中に位置づけて考える必要がある。



 囚人労働は北海道開拓史を特徴づける強制労働の源流であった。
 「北海道開拓史を特徴づける強制労働とは、〈集治監囚徒〉(囚人)と〈タコ部屋労働者(タコ労働者)〉と戦時中に強制連行された〈朝鮮人・中国人の強制労働〉」を指すものであった」(小池喜學 1983:280)。(p.287)


北海道の「開拓」において忘れてはならない側面。



 もちろん、幌内炭鉱にも囚人は動員されている。
 「明治15年(現在三笠市)に空知集治監が設置されたのは、幌内炭鉱に外役所を設けて囚人を投入するためで、以来27年11月まで囚人は幌内炭鉱の主要労働力であった。……(中略)……。」(小池喜學、前掲:293)。(p.289)


これが都市小樽の最底辺の労働者である。



 都市小樽における下層貧民と炭山における底辺層は共に厳しい搾取にさらされた人々であったが、北海道炭礦汽船株式会社は前近代的制度に依存して成長した。その初期段階で不安定であった炭山と鉄道経営を成長の軌道に乗せるまで、国家による惜しみない支援が行われ、賃下げや拂下げによる富の民間移転、事業の官業から民業への移転が実施された。北海道炭礦汽船株式会社は藩閥を中心とする、少数の特権的、特恵的階層や華族の資本参加によって富を築き、圧倒的多数の下層労働者は徹底的に収奪された。(p.311)


北炭が「前近代的制度」に依存して成長したと本書は指摘するが、世界システム論的な見方では、この奴隷制的な労働搾取はむしろ、「近代的」なものとされているものだろう。



〈むかし炭鉱、いま原発〉 次々に起こるニュースに見入る中で、思わず頭に浮かんだ言葉だ。福島の原子力発電所は、長い間、首都圏にエネルギーを送り続け、人々の生活を支えてきた。いわばフクシマは、日本の経済を動かす心臓部だったとも言えた。同じように、かつて日本全国の炭鉱から掘り出された石炭は、明治以降、日本の発展をささえてきた。そんな日本を動かすエネルギーをつくり出してきたのは、いつも地方の、名もない無数の労働者であった。構造があまりにも似ていた。だが、同じに見えても、炭鉱と原発には決定的な違いがある。炭鉱は文化を生みだしたが、原発は文化を生みださなかった」(熊谷博子 2012:1-2)。(p.315)


確かに明治期の炭鉱と現在の原発とは構造が非常によく似ている。非常に鋭い指摘である。炭鉱が文化を生みだしたという点で原発よりも肯定的な評価となっているが、その評価の根拠となっている文化とはどのようなものを指しているのだろう?私としては炭鉱都市における相互扶助の仕組みなどが想起される。



幌内鉄道の敷設に黒田清隆のもった影響力は絶大であった。黒田なくして幌内鉄道はなく、結果的に小樽の発展もなかったといえよう。(p.317)


明治初期の北海道における黒田清隆のはたらきは非常に大きなものがある。



榎本は小樽に「地所熱」をもたらした。小樽は大きな地主を誕生させたがその背景に榎本・北垣による土地取得があった。(p.317)


「地所熱」が発生するには、この頃(明治後半)にはそれが発生するほど経済力がある者がいたという背景が必要である点に留意しておこう。