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アヴェスターにはこう書いている?
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小樽市総合博物館 監修 『小樽市総合博物館 公式ガイドブック』

戦時中に急造された貨物用大型機関車D52形のボイラーを転用して戦後、新たな旅客用機関車に作り替えたのがC62形だ。この背景として、戦時中には軍事輸送のために貨物機が大量に必要となり、終戦後は一転して旅客機が不足するという輸送事情の急変があった。(p.83)


このガイドブックではこの記述より前のコラムで、旅客用と輸送用の違いは動輪直径にあるとの説明がされている。輸送用は直径が小さく(速度が遅い)、その代わりに車軸が4つとする(名前の頭にはDがつくもの)ことで滑りにくさを確保するのに対し、旅客用は直径が大きく、車軸が3つとなる(名前の頭はC)ことが説明されている。上記の個所は、これを踏まえて読むとより分かりやすくなる。

軍事輸送のための機関車(4軸)のD52を利用して、旅客用(3軸)のC62が造られたわけだが、その背景は、戦時中には軍事物資輸送の必要性があったのに対し、戦後にはその必要がなくなるという輸送需要の変動があったという。

鉄道自体にはあまり詳しくないが、歴史の動きを見ていくに当たっては、鉄道に注目することでいろいろと見えてくるものがあると私は考えているのだが、この観点からもこのガイドブックはなかなか参考になる記述があったように思う。


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都道府県研究会 『地図で楽しむ すごい北海道』

もともとは、神様を祀るのに建物は立てず、山や滝、岩、森、さらには大木など、神聖だと感じるものを信仰対象の御神体として直接拝んでいた。しかし、仏教が入ってきて寺が多数建ち始めると、それに対抗するように神社の築造も増えていった。神も仏も信仰の対象としては変わりなく、本州と同じように明治に「神仏分離令」が出される前までは、とくに区別する必要もなかったため、どちらも含めて扱われることが多かった。(p.40)


神社建築が仏教寺院建築に対抗すように増えていったという点は興味深い。本州でも同じような現象はあったのだろうか?



当時の函館の坂は道幅が狭く曲がっていて、また開拓期の家はほとんどが木造建築であったため、ひとたび火が上がると次々と延焼を招き大火事になっていた。
 そこで防火対策として幅が広く直線的な道につくり替えられたのだ。現在、この広くまっすぐな道には街灯が並びたち、民家やオフィスの照明器具が点灯する。この光が直線的な道を彩り、函館山からの夜景を美しく演出している。(p.46)


日本三大夜景の一つとされる函館の夜景が美しい理由の一つは、ここで述べられているような直線的で大きな道があるためだという。明治期の北海道では函館に限らず小樽や札幌でも大きな火事が起こっており、防火対策として広い道路を設けた点は共通。函館の場合は、これを丁度良い距離と位置から見下ろせる函館山があったことが幸運だったと言えるのではないか。そして、さらにこれに次の引用文のような幸運が付け加わる。



 また函館山の見晴らしのよさは人為的につくられたもの。じつは明治時代に戦争を予測した政府が、防衛のため函館山の要塞化に着手。その際に敵を発見しやすく、周りを一望できるよう、山頂や尾根を削ったのだ。実際にこの要塞が使われることはなかったのだが、要塞化の副産物として夜景の眺望に必要な見晴らしのよさが生まれたのだ。(p.47)


函館山には軍事的な意味があったため、動植物が保護されたというような話は今までいくつかの本で読んだことがあったが(例えば、このブログに記録しているものとしては『北海道歴史探訪ウォーキング』)、地形まで削っていたとは知らなかった。だから、街の全体を一挙に見渡せるようになっているのか。



明治政府はそれまで開拓総督であった鍋島直正を7月8日開拓長官に任命。ところが8月25日、今度は東久世通禧を2代目の開拓長官に任命した。……(中略)……。この2カ月足らずで、2代目の開拓長官が任命されたことには、重要な意味があったと考えられる。それは当時、外務卿であった沢宣嘉を開拓長官にしようとする動きへの対抗策だったようだ。……(中略)……。
 沢宣嘉を開拓長官にしようとするグループは、ロシアに対し極めて強硬な姿勢で臨むことを要求。いっぽう、東久世を開拓長官に推してきたグループは、対ロシアでは友好的な対応を求める考えだった。明治初期の日本とロシアには、樺太を巡り紛争が発生していた背景があり、ロシアに対して強硬姿勢で臨む沢宣嘉が開拓長官になると、北方問題を機にロシアとの対立がより深刻な状態になっていくことが懸念され、ロシアとの対立を避けたいと考える開拓時間の黒田清隆にとって、宥和政策的な考えをもつ東久世が開拓長官になるほうが都合がよかったのだ。とくに黒田は樺太の開拓に消極的で、それよりもまず北海道から開拓を進める必要性を何度も語ってきている。(p.82-83)


幕末から明治期の北海道を考えるに当たって、ロシアとの関係は極めて大きなファクターである。北海道の観光スポットでは、開拓使の長官などの名前や経歴などが書かれた資料を目にすることが多いが、政治的な対立は、あまり真正面から紹介されることがない。しかし、こうしたことを理解することは非常に重要な意味があると思う。簡単なガイドブック的なものや観光スポットの解説文なども、もう少し踏み込んで記載することが必要ではないか。



 当時最大の引き揚げ港といわれた函館には10万人以上が、樺太との交易が盛んだった小樽にも1万人以上が引き揚げ、住居や仕事を見つけるのに苦労しながら戦後の苦しい生活を迎えていた。引揚者の多くは収入を求めて露天商になり、それが闇市そして市場へ発展していった。現在も市場の多い函館や小樽。それは引揚者たちの再出発の証でもあったのだ。(p.91)


市場は次第に減っており、こうした証も次第に減っている現状ではある。買い物をする場所や機会も時代とともに変化していくのはやむを得ないとしても、ただ単になくなっていくというのはもったいないと感じる。


池田貴夫 『なにこれ!? 北海道学』

言うなれば、関東や近畿といった日本列島の中心部ではなかなか落花生に変わっていかない。そして、その外側の北海道と東北、中部地方北部、九州などで、落花生が好んでまかれるようになったという現象が浮き彫りになる。(p.33)


節分の豆まきに大豆ではなく落花生をまくことについて、北海道では北海道特有の現象と見なされているのだが、その認識は誤りであることがわかる。興味深い。

なぜ関東や近畿では大豆なのか?それ以外の地域では落花生なのか?

北海道に移住してきた人は、時期によって異なるが北陸や東北の人が多かったことを考えれば、これらの地方との結びつきが強い北海道で落花生がまかれるのは、明治期からであれ、それ以後からであれ、不思議ではない、とは言えそうである。この問題は、各地域がいつから落花生をまくようになったのかを知るところから探っていくのが良いように思われる。



 私の知る範囲では、この韓国東海岸から日本列島の日本海沿岸、そして北海道に至る地域に、イカにもち米などを詰めて調理した家庭料理が分布してきた。
 ……(中略)……。
 このように、イカにものを詰める調理法は、主にスルメイカの回遊路である日本海の沿岸地域で育まれてきた。また、この分布域は、出稼ぎやイカ釣りの伝習に伴う人の移動によって広まった佐渡式イカ釣具の分布域とおおむね一致する。(p.49-50)


函館の「いかめし」も韓国東海岸を含む日本海沿岸地域に広く分布する調理法の一種ということか。韓国東海岸までの広がりというのは私にとっては意外であり、一つの地域だけでなく様々な地域の事例と比較するというのはやはり必要なことだと思わされる。



多くの神社は林で囲まれている。……(中略)……。
 では、なぜ林で囲まれているのか。防風林などとしての機能はもちろんだが、民俗学的な視点からは、それ以外の理由を見いだすことができる。
 神社は、その集落や地区を見守る神様が鎮座される神聖な空間である。一方で、人々が生業や暮らしを営む空間は俗なる場所である。「聖」と「俗」との境界が、この神社を取り囲む林なのである。(p.74)


なるほど。


関秀志 編 『札幌の地名がわかる本』

このあたりから北49条まで、東1丁目から同8丁目あたりは、そもそも北大第三農場として開墾された地域で、北26条東3丁目に開墾費が残されている。(p.58-59)


美香保公園のあたりについての記述。



 この地区は明治41年(1908)、小樽で海運業などを営む山本久右衛門が、厚別原野と呼ばれる泥炭の低湿地だったこの一帯の払い下げを受け、翌年に山本農場を開設して開拓がはじまった。(p.81)


厚別町山本についての記述。厚別と小樽はあまり関係性が意識されない地域だと思うので、こうしたつながりがあるという指摘は興味深い。



 しかし、その戸口をみると、明治3年の9戸・13人から、開拓使時代末期(同14年)には1136戸・3823人へと増加してはいるものの、未だ少なく、10万人を超えたのは約半世紀後の大正9年(1920)になってからのことであった。(p.185)


札幌の人口。低湿地の開発状況などもこうした人口の動態に関係するものと思われるが、より短期的な政治経済的な要因も考えられ、そちらの方の詳細な分析というものをあまり見たことがないので(簡単な説明はされることはあるが、十分な説得力を持つほどのものではない)、この点に興味がある。



 このように、札幌市域で営みを続けてきた地付きのアイヌ社会は、明治15年(1882)頃までにその姿が確認できなくなる。市内に暮らしたアイヌの人々は、石狩川支流でのサケ・マス漁禁止など開拓政策を受け、本流の茨戸へ、ついで旭川近文の「旧土人保護地」jへの移転を余儀なくされたのである。(p.205)


こうした「開拓」と名付けられた侵略的な行為はもっと明らかにされるべきだろう。北海道開拓を全否定する必要はないとは思うが、負の側面についてももっと記憶にとどめられるべきである。



 屯田兵の兵役期間は長期におよんだが、明治29年から同34年に後備役が終了し、屯田兵村も終焉を迎えた。しかし、開拓移民となった屯田兵とその子息たちは、識字者が多かったことや、札幌周辺に居留したこともあり、兵役終了後も官吏(役人)、警察、教員などになるケースが多かった。明治初期の札幌官界の裏側を支えていたのは、こうした屯田兵村の出身者たちであった。(p.268)


こうした社会的な移行がどのように行われたのかということは興味を惹かれる。ここでは屯田兵が制度がなくなった後、その子息たちがどのような進路へと進んだのかが述べられているが、明治以後、アイヌの人々もどんどん社会の中でのプレゼンスが下がるなか、どのように移動し、どのような社会的な役割を担うようになったのか、という点が気になるところである。



水害が多発する泥炭地帯を明治41年(1908)、小樽の実業家山本久右衛門が払い下げを受けて開拓が始まる。養子の厚三が後を継ぎ、開拓を完成させた。昭和9年(1934)、厚三の姓にちなんで地区名を山本と命名。厚三は衆議院議員であり、自作農創設の気運の中で農地を解放した。(p.298)


またもや厚別町山本についての叙述だが、ここで明治末に泥炭地を農地に変えたという話は、札幌の人口増加とも深く関わる論点であり、本書は淡々と各地域に関することが書かれているが、それをどのように有機的に結びつけて理解できるかによって、面白く読めるかそうでないかが決まってくる。


藻谷浩介 『世界まちかど地政学 90ヵ国弾丸旅行記』(その2)

 台湾高鐵は、これまでのところ海外で唯一、日本の新幹線方式(在来線と完全に分離された高速軌道を専用の電車が走行する)を採用した高速鉄道として知られる。それに対して韓国や中国は、欧州同様、在来線の駅を使いつつ途中区間で専用軌道に乗り入れて行く方式を採用した。
 高鐵が新幹線方式を受け入れたのは、「台湾人が親日的だから」と説明されることが多いが、実際の理由は台湾の鉄道の状況が日本と似ているからだろう。台鐵は日本の在来線と同じ狭軌(軌間1067ミリ)であるために、標準軌(同1435ミリ)である新幹線車両の乗り入れができないのだ。だからこそ専用軌道を一から建設するしかなかったし、そうであれば独立したシステムとした方が混乱が少ない。
 新幹線方式には他にも、事故が少ない、高頻度運行ができるなどの特色があるというが、次回以降に紹介する韓国や中国でも言われるほど事故は多くないし、中国では線によっては日本同等の高頻度運行が行われている。台湾高鐵の運行本数も、韓国や日本の九州新幹線、北陸新幹線などと同レベルで、中国の北京-上海ほどではない。(p.175-176)


適切な評価と思う。



 より構造的な問題は、台中、台南とどんどん客席が空いていくことだろう。旅客流動が対台北の一方向で、全線通しての乗車効率が悪いのだ。これは日本で言えば、上越新幹線や、東北・北海道新幹線の仙台以北と似ている。
 とはいえ繰り返すが、台中や高雄は福岡や札幌、台南は広島や仙台と人口で同規模なのだ。九州新幹線がそうであるように、台北以外の都市の相互間にも、本来はかなりの移動需要があるはずなのである。うまくつかめば、乗車効率はもっと改善するはずだ。
 そこを取り逃している元凶は、台北以外の全駅が、まるで岐阜羽島駅のように都心から30分内外も離れた位置に設けられていることだろう。都心に駅のある台鐵を使えば、たとえば台中-高雄は一時間に一本の特急で二時間半少々、1800円程度。高鐵なら一時間だが、3000円するうえ、駅までの交通手段の料金と時間が別途かかる。それどころか台北-台中であっても、毎時二本の特急で二時間内外、1400円程度で行けるのだから、値段が2700円程度で台中駅から台中市街まで30分かかる高鐵の競争力は弱まる。
 このような設計は、台鐵の経営への悪影響を減らそうとしたのか、新駅周辺への土地投機でもうけようとした勢力が暗躍したのか、いずれにせよ高鐵の利用を減らす方向に働いた。しかも新駅周辺の開発は軒並み進んでいない。日本でも新幹線の新駅の周囲で、歩いてみたくなるような魅力のあるまちづくりに成功した事例は、古くは新大阪や岐阜羽島から、最近の上越妙高、新高岡、新青森、新函館北斗に至るまで皆無ではないか在来線に乗り入れない新幹線方式は、都心駅への直接乗り入れとセットでこそ真価を発揮する方式であると、台湾高鐵は改めて教えてくれる。(p.184-185)


私は日本の新幹線にはあまり乗ったことがないが、知っている範囲の日本の新幹線駅と台湾高鐵に乗った経験と合致する。



 いずれにせよ以上は、戦前の大日本帝国が、島である台湾には日本と同じ狭軌の鉄道網を構築し、大陸である朝鮮では満州とシームレスにつなげられる標準軌の鉄道網を拡張した結果なのだから、今の日本人があれこれ文句を言うべき筋合いはない。当時から日本人自身が、島国向けの方式と大陸向けの方式を使い分けていたのである。(p.192)


意図的に使い分けていたのかどうかは、やや疑問がある。日本と台湾では建設コストなども考慮して狭軌としたのに対し、大陸では他の地域と接続できる可能性を考慮して標準軌としたことで、島国と大陸とで軌間に相違が出たといったところであろう。



 中国政府が、この高速鉄道システムを「中国製」と称して世界各地に売り込んでいることは、日本で強く批判されている。だが、これはある外国人が以前から指摘していたことだが、日本人が「日本の優れた新幹線システム」と力めば力むほど、外国人は買わないだろうというのだ。言えば言うほど、「あのマメでクソ真面目な日本人でなくては運用できないシステム」と聞こえてしまう、というのである。その点(中国人には失礼だが)「中国で広範に定時運行しているシステム」と聞けば、「自分たちにんも使えるかもしれない」という印象を与えやすい。だからといって、他国から導入した技術を組み合わせて、「中国製」と売って歩くのはいかがなものかとは思うが、商売は客の側から考えなくては、売れるものも売れなくなるということは自覚しておいた方がいいだろう。(p.202-203)


「日本の優れた新幹線システム」と力むことが外国の顧客に違和感を感じさせるという点には共感する。そもそも技術は国に属するものとは言えない。ところが、日本では自国中心主義的な見方を強調する形で「日本の優れた技術」とやたらと言われる。しかし、このような見方は外国では受け入れられないのではないか。これでは「日本」は優れており、外国(顧客の国)はそれより劣ると言外に言っている形になるからだ。顧客の気分を害するメッセージが付属した売り方…。



 筆のついでに日本の地政学的位置に言及しますと、良くも悪くも(多くの場合には圧倒的に良い意味で)「他の世界から放置されやすい場所」です。戦略的要衝性のない世界の東の果ての島嶼群で、天然資源にも乏しい。そのくせ地形と気候の妙から農業生産力が高く、歴史を通じてむやみに人口が多かったために、ますます誰も侵略に来ない。元寇は、鎌倉幕府本体が出て行くまでもなく九州の地侍に追い払われてしまったし、大航海時代のスペインも、戦国大名に比べればあまりに軍事的に劣勢で、城一つ設けられませんでした。中国や朝鮮に至っては、文字記録が残る時代になって以降、倭寇討伐に対馬に来たのを除いて一度も軍隊を送って来ていないのです。
 日本から仕掛けて占領されたのが第二次大戦でしたが、これは「群島にある単一言語国家」という地政学的メリットをわきまえずに、半世紀ほど帝国主義の真似をして大陸を侵略した結果の、日本人の歴史上最大の失敗だったと思われます。戦後には軍事ではなく欧米アジアを結ぶ海上通商に徹することで、逆に空前に繁栄しますが、これこそ地政学的位置を最大限に活かした妥当な道だったのです。
 そういう構造を踏まえずに、中国にとって日本がさも重大な位置にあるように騒ぐのは、内田樹氏が指摘した「日本の辺境性」のなせる業ではないでしょうか。辺境国・日本の中にこもって、日本語しか話さず、行ったこともない他の世界のあり方を勝手に解釈するのは、地政学ではありません。(p.258-259)


概ね同意見。冷戦時代に沖縄がアメリカにとってそれなりに重要度があったことなど、ここで述べられた見解と多少異なる側面があることは指摘できるかもしれないが、戦略的要衝性は基本的には高くはないし、人口が多かったため侵略されなかったという点も妥当。日本ほどの人口がなかった台湾にはスペインやオランダが拠点を築き、島の一部を支配した時期があったことなどを考えても、日本はそれより遠いというのもあるが、軍事的に見た拠点の築きやすさという観点からも納得できるところだろう。



「核の傘」論とは、米国が原爆を落とした原罪を正当化するために無理に作っている議論、現実主義的な考え方の対極にあるイデオロギーだという面が多分にあります。それにかぶれるのは、北半球のいわゆる先進地域しか見ていない人なのではないでしょうか。地球全体を俯瞰し、過去の歴史と今の地理を虚心坦懐に学べば、先入観で凝り固まった世界観がどんどん溶けて消えて行きます。(p.263)


興味深い見解。


藻谷浩介 『世界まちかど地政学 90ヵ国弾丸旅行記』(その1)

 英国では1994年の国鉄分割民営化の際、「上下分離」方式が取られた。路盤と軌道は全国一括で国有の公益法人が所有・管理・保全し、車両の保有と運行は数多くの民間企業が競争して行っている。
 税金で整備・管理される道路の上を走るバスや自家用車との、競争条件同一化(イコールフッティング)が図られているわけだ。おかげでJR北海道の路線廃止問題のようなことは起きないし、車内は清潔でインテリアは近代的、PC電源も完備だ。(p.61)


上下分離方式がバスや自家用車とのイコールフッティングというのは、それなりに筋が通っている。民営化は基本的に好ましくなかったが、やるならせめてイギリスのようなやり方でやってほしかったものだ。それに引き換え、日本の国鉄民営化は地方を切り捨てるためにやったようなものである。



 首都圏への一極集中という、世界の先進国では日本と韓国でしかおきていない珍しい現象を、当たり前と思い込んでいる日本人には、浜松や静岡程度の大きさの都市で金融、情報、芸術の集積が高まっているという状況を、あるいは理解しにくいかも知れない。(p.69)


これはグラスゴーに関するコメントだが、確かに、日本では一極集中が当たり前と思っているかも知れない。ここからは、日本と韓国では一極集中が起きる原因は何なのだろう?という疑問が生じる。他国と比較してどのような条件が異なっているのかは気になるところ。



 第二次世界大戦は、化石燃料の産地や交通の要衝の争奪戦でした。ですが、化石燃料の出ない日本が戦後に大発展し、世界最大の原油埋蔵量を持つと言われるベネズエラが南米の最貧国に陥りつつある現実をみてもわかる通り、資源は買えばいいのであって、それよりも平和を前提とした貿易システムの中で勝者にならねばならない。そのためには、資源地帯だの交通の要衝だのを占領して経済制裁を受けては元も子もない。だから米国は占領地からは基地を除いて撤退しますし、中国も無人島や租借地での拠点構築はしますが、有人領土の侵略はしません。今の日本には、21世紀のこういう歴史的、地政学的変化を、理解できていない人があまりに多すぎます。(p.134)


藻谷の地政学的な見解の中でも重要な要素が語られている箇所。基本的な方向性としては私も同様に考える。



 地理を考えないと歴史の把握も難しくなります。たとえば邪馬台国論争ですが、魏志倭人伝の順路の記述は、対馬―壱岐―松浦郡―糸島郡―博多湾まで地理の教科書のように正確なのに、その先はまったくアバウトになる。もし邪馬台国が大和だとすると、なぜその途中にも数十はありそうな国への言及がほぼないのか。大阪湾から大和まで陸行一カ月というのも無理がある。つまり博多から先の記述の信頼性はがぜん低いわけですが、地理感覚なき文献史学では、博多までと区別なく金科玉条と扱ってしまいがちです。
 逆に歴史を勉強していない人が外国に行って書くことは、「建物がこんなにきれい」とか「ご飯がこんなにおいしい(あるいはまずい)」とか。どうしてこのような建物が建っているのか、どうしてこのような料理が生まれたのかという歴史的な経緯にまったく触れていない文章は、読んでいて面白くないのです。(p.135)


「地理は歴史の微分、歴史は地理の積分」との主張にも共感する。



 つまり、「“犬棒”能力」とは気づく力でもあるのですね。その際のコツは、「なぜここにこんなものがあるのか」と、頭を素にして考えること。そしてそれ以上に、「なぜここには、他所にはある〇〇がないのか」と考えることです。あと、強いて言えば、インフラのメンテナンスの状態は、国情をよく反映するのでチェックします。また、政府が外国人に見せたがる、劇作家・評論家の山崎正和の言葉を借りれば「グラマラス」な場所と、その対極にある庶民の住む場所を比較するようにしています。(p.136-137)


犬棒能力は、鍛えてみたい。旅行以外でも絶対に役立つに違いない。

また、グラマラスな場所と庶民の住む場所の比較は、確かにやった方がよい。権威主義的な国では表側のグラマラスな場所も、そのすぐ裏に入ると、もう別世界ということも多い。このように、グラマラスな場所と庶民の住む場所がどのような位置関係にあるかということも結構重要だったりする。


NHK「ブラタモリ」制作班 監修 『ブラタモリ5 札幌 小樽 日光 熱海 小田原』
札幌

 キャンパス内の北西に向かうと、第一農場(P13ⓓ)があります。……(中略)……。
「北大では、クラーク博士に続く外国人教師が、農地の排水技術をここから始めていったんですよ」と古沢さんが見せてくれたのは土管の写真です。(p.16)


札幌が200万都市になることができた要因のひとつとして、本書では低湿地の排水により宅地化を進めることができたことを挙げているが、北大の第一農場あたりが、その最初の場所(のひとつ?)だったとは。ただ、札幌の扇状地と低湿地の境目が北大キャンパスの中央ローンの少し北あたりにあるらしいということを踏まえると、そのことも見えやすくなった。



 すすきのの交差点に立って、周囲を眺めると……。歩道の幅が途中で変わっています。交差点をはさんだ2区画の約200m分だけ建物が引っ込んでいて、建物沿いをまっすぐ行くと、その先の区画のビルに突き当たってしまうのです。
 ……(中略)……。
 このへこみの部分にあったのは土塁。歓楽街で、土塁で囲まれていたところといえば……。
「遊郭だ」とタモリさん。(p.19-20)


現在ラフィラのある南4条西4-5丁目あたりの歩道。なるほど。すすきのに開拓使により官設の遊郭が作られたのは有名な話だが、未だに痕跡が残っているとは知らなかった。



 わずか150年で札幌が200万都市になったのには、世界規模での歴史的・地理的背景もありました。
 17~19世紀の地球は小氷河期のピーク。薪用に森林を伐り尽くしたヨーロッパに、木材と毛皮を売ることで力をつけたロシアは、次にアジアとの交易をもくろんで船を向かわせます。また世界地図の空白域だった北海道に、黄金の国ジパングを探すヨーロッパの船が来る。鯨油と交易を求めるアメリカ船も日本をめざす。一方、日本では次々に発生した大飢饉を受け、寒冷気候に適応する作物を研究栽培するため、欧米列強に収奪される前に蝦夷地の開拓を急ぎました
 それが、明治時代からの急発展の裏にある大きなポイント。(p.24)


なるほど。ロシアの進出に対抗するために北海道(蝦夷地)の開拓を急いだという話は、北海道の歴史を語る際によく言われることだが、さらに小氷河期という長期の歴史的な背景まで加えると、全体の流れがさらに見えやすくなる。日本側の要因としての寒冷気候に適応する作物というのも、説明として興味深い。(短期的な動きではもっと重要な要因もあったとは思うが。例えば石炭などの資源とか。)



小樽

 ニシン漁で栄えた町は北海道の日本海側にいくつもありました。小樽が格別に発展したのは鉄道があったからです。(p.49)


小樽の歴史を語る時、鰊漁で栄えたという話はよく語られる。ただ、それだけであれば、北海道の日本海側の多くの町と大差はない。小樽が明治から昭和初期の北海道にとって特別だったのは、港と鉄道の組み合わせがあったからである(と、引用文を補足してみる)。港はあまり観光資源にならないのであまり語られない。ただ、港湾を活用するための手段として運河が作られたこと(ほとんど活躍する前に時代が変わってしまったが)などと結び付けて上記の点を理解できると(運河-港湾-鉄道)、多くの旅行者にとって小樽の旅はより興味深くなるだろう。



 石炭の時代が終わった頃から、小樽は衰退への道をたどります。経済の中心は札幌に移りました。決定的だったのは昭和38年、苫小牧に広い埠頭をもつ新港ができたことです。(p.49)


なるほど。石炭の時代が終わったことで、幌内鉄道も有用性をかなり失い、港の価値もかなり減った。上で述べた二つの組み合わせが価値を失ったことで、小樽の他の地域と比較した優位性は失われた。冷戦時代になり大陸との交流や貿易は減り(韓国も当時はまだ貧しく)、アメリカとの関係がより重要となっていく中で太平洋岸に日本の中心はシフトしていく際に、北海道では苫小牧が新たに台頭していく。と同時に小樽は衰退していく。

経済の中心が札幌に移るにあたっても、石炭の時代が終わったことが札幌の巨大都市化を推進した面がある。空知などの炭鉱が閉山していく中で山を降りた人びとが札幌に移っていったことで、札幌への人口集中が進んだ。これを受け入れる余地を作ったのが低湿地・泥炭地の排水であり、それにより開かれた北区、東区、白石区などのエリア、という感じであろうか。


『日本を解剖する! 北海道図鑑』
北海道庁旧本庁舎

焼き過ぎれんが
 壁の下の部分のレンガが黒っぽいのは、強度を上げるため、通常より強く火入れをした「焼き過ぎれんが」を使用しているから(p.74)


「焼き過ぎれんが」を使っている建築は他にはどんなものがあるのだろう?



八角塔
 アメリカで独立と進取のシンボルとして、ドームを乗せる建築が流行。これが「『アメリカ風』ネオ・バロック様式」といわれるゆえん。(p.75)


アメリカ風ネオバロックのうち「アメリカ風」の部分は、主に中央のドームということか。



小樽×ガラス

浅原硝子製造所がニシン漁の隆盛を背景に明治43年(1910)に考案したガラス製の漁業用浮き玉は、最盛期の製造量が1000t以上。北洋漁業の縮小や、プラスチック製浮き玉の普及によりその数は減少していったが、豊漁時代の小樽を支えたのはガラス製の浮き玉だった。時は流れ昭和後期、浅原硝子製造所の小売部門を継承した北一硝子が、生活必需品だったガラス製の石油ランプを市内中心部で販売したところ、観光客を中心に大流行。小樽をガラスのまちへと導くきっかけとなった。


明治期のニシン漁という大きな産業に付随して「ガラス玉」が開発された。昭和後期に運河論争により世論の関心が高まり小樽が観光地へと変化していく中で、土産物として観光地としての魅力を高めるのに貢献した「石油ランプ」。この辺りの関連はなかなか興味深い。


橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その3)

 1970年、城島高原の「猪の瀬戸」にゴルフ場建設計画が持ち上がった。これに対し、湿原の植物を守るために、旅館経営者たちが中心となって「由布院の自然を守る会」が結成され、建設を阻止した。「守る会」は、翌年には「明日の由布院を考える会」となり、その後「牛一頭牧場運動」「牛喰い絶叫大会」「辻馬車」「ゆふいん音楽祭」「湯布院映画祭」などの全国的に知られるイヴェントが創出された[吉田 2006: 130-131]。
 今日の湯布院発展の基礎を築いた伝説の三人のひとり、中谷健太郎氏の話によると、1970年に中谷、溝口薫平、志手康二の三人がドイツのバーデンヴァイラーを訪ね、滞在型の温泉保養所のあり方について勉強してきた。(p.161)


小樽運河保存運動とも共通性がある。地域のある種の資源が破壊されることの危機感を持つ市民たちが運動を起こしていく点やイベントの創出によってより広く人々の関心を集めるという戦術を使っている点、運動の中核的な考え方などを担っていく人々が当時のヨーロッパなどを見てきた点など、構図が極めて似ているのに驚かされる。



 こう比較してみると、外部資本が提供するものと湯布院産のものとの違いが歴然とする。「外部資本は「わかりやすい言葉」を遣う」といった観光協会の米田事務局長の説明がよくわかってくる。全国のどこにでもあり、どのようなものかがすぐに想像できる「酒まんじゅう」や「かすりの小物」がある。また「由布院創作工房」といいながら提供しているものはどこの観光地でも見かける「とんぼ玉」などである。「わかりやすい言葉」は、「すでによく知られているもの」を指し示し、新たな理解・発見を拒む言葉であった。
 それに比べて湯布院が提供するものは、地域の人の説明が「発見を誘う」言葉となっている。説明を受けてはじめて理解し納得する品物であり、外部資本のみやげもののように「よく知られている」がゆえにためらいなく手が出る品物ではない。地元の人からの説明によって、誰が作り、どんな味で、どう使うのかがイメージできるようになる。そしてそれでは是非買ってみようと手を出す品物である。ゆず・きんかん・かぼすなどはこの地域の特産である。各宿で地産地消を進めるために多少高くても使用している地域産の鶏であり、また「牛喰い絶叫大会」に使われる地元産の牛の「たんしお」であることなど、「まちづくりのものがたり」に導かれてはじめて手にとり、一度その味わいを知ると、リピーターとなる。地域の人々の「ものがたり」によって味わいを増す品物である。
「わかりやすい言葉」が「よく知られたもの」を確認し消費するだけの観光経験を提供するとしたら、「地域の言葉」は「旅における発見」を提供する。すなわち地域の人々が地域の言葉で語る「ものがたり」は、観光者を旅人に変換する契機となるといえよう。(p.167-168)


本書では「すでに知られたもの」を軽く見にいくのは「観光」であり、「新たな発見」をともなうのが「旅」とされている。この対比に外部資本による「わかりやすい言葉」と地元の人々による「地元の言葉」とが対応している。地元の言葉をいかに磨いていけるか、外部資本によるわかりやすい言葉をいかに減らしていけるか、これは地方の観光都市にとっては重要な課題かもしれない。



観光経験に過度の「真正さ」を求めることは問題である。観光は「(観光者にとっての)異郷において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして、売買すること」という特徴を持つ。(p.236)


著者による観光の定義は本書で何度も繰り返されるが、本書を読み進めていくと、これが「旅」や「フィールドワーク」のようなものと区別する定義であることがはっきりしてくる。観光ガイドという観点から見ると、ここでの「観光」の定義に、少しだけ何かを付け加えてやることができればガイドという役割はかなりうまく果たせたことになるのではないかと思う。



 観光者が求めるものは対象の「真正性」ではない。観光者は、観光経験を豊かなものにし思い出深い「真正なものがたり」にする地域の人々との出会いと、彼らの「真摯」な対応を求めているのである。(p.239)


上記の「付け加えてやる」ものの一つとして、これは重要であると思われる。個人的にはこうした真摯な対応によって、観光者の認識や知識や関心のあり方を揺さぶることができればよいと考える。


橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その2)

筆者は、観光対象についての出発前の認識が、途中では確認・強化されるだけであり、終了後は出発前の認識を追認して終わると指摘してきた。観光後に語られる内容は出発前にあらかじめ提供された事例をなぞるだけであり、観光中の視線もすでに設定された枠組みのなかでしか焦点を結ばない。語りにはスタイルがあり、語り手はそのスタイルを踏襲する。観光者が現地の人々や現地の生活・文化を見て「何かを発見すること」を期待することは困難である。「語るように」または「語られたように」ものを見ること、そしてあらかじめ与えられた情報に示されたように見ることが観光の基本的特徴であるなら、それから抜け出ることは可能だろうか。観光にそれ以上のことを求められるだろうか。観光者が「語られたように」しか、または「与えられた情報のように」しか対象を見ず、新たな発見をしないという批判が現在もなされているが、その批判は観光に観光以上の要素を求めようとすることになる[橋本 1999: 120-121]と筆者は主張してきた。(p.93)


基本的にはこの指摘は妥当と思われる。ただ、本書でも後に指摘されると思うが、小さな発見は観光の中にも取り込み可能であり、その点を過小評価すべきではないと思われる。著者は観光と旅とを異なるものと定義しているようだが、観光のために出かけることを好む人の中には、この小さな発見を積み重ねることを楽しみにしているため、いろいろなところに出かけようとするという人も多いように思われる。

私の見立てでは、海外旅行については、2-3回程度するとやめてしまう人とハマってしまい度々行く人とに分かれるように見えるが、前者は「小さな発見」があまりできなかったため、最初の目新しさだけで終わってしまった人たちであり、後者は「観光の中の小さな発見」などの楽しみをある程度の数や重みをもって経験できた人なのではないか、と思っている。ただ、全体としては前者の方が数は多いと思われるため(データはないが)、観光者にあまり発見は求められないという点は妥当であると思われる。



民族誌家はあらかじめ仕入れた情報をいつでも白紙に戻す覚悟で、フィールドでの「発見」を第一に考える。自分の認識がひっくり返り、新たな世界を発見できるような経験がむしろ望まれている。しかし観光者が自らの認識をひっくり返るような経験を望んでいると考えるべきではない。むしろ「古い話を語るための新しい場所」を探していると考えた方が妥当である。(p.94)


対比としては誤っていないと思うが、民族誌家を含む研究者と言えども、必ずしも事前の情報を白紙に戻すことは好まない、というか、事前の仮説を正しいと思おうとするバイアスはかなり強いということは指摘しなければならないだろう。パラダイム変換という言葉が一時期流行ったが、同一世代の科学者の中ではこれはほとんど起こらず、世代交代の際に変わっていくということが科学史や科学論の著作で指摘されていたのが想起される。

ただ、研究者のフィールドワークでは新たな発見をしようという目的意識があるのに対し、観光者の観光にはその要素は少ない(ほとんどない)という点は言えるだろうと思う。私自身、自分が旅行中や旅行前後にしていることを人に語った時、「それは社会科学のフィールドワークじゃないか」と言われたのが想起される。(研究者である友人には、旅行中にも、「君との旅行はフィールドワークと同じだから楽しい」という趣旨のことを言われたことが想起される。実際、現地の人たちからも私の旅行中の振舞を見て、研究者か教育者だと思われたことが何度もある。)

個人的には、このような、発見をしようという目的意識を持つことは旅を楽しむ上で重要なポイントの一つだと思っている。



ある出来事を単なる事故で終わらせるか、観光の貴重な出来事とするかは、「導きのものがたり」を提供するガイドにかかっている。それがガイドの役割である。しかしガイドが万能であるわけではない。内容によってはブルーナーのインドでの事例のように、ガイドの能力を超える出来事に遭遇することもある。そのような事前の「ものがたり」と相容れない、それを圧倒するような出来事が生じたとき、全体を統辞論的に再編成して解釈の枠組みを提供するものは、経験者自身が時間の経過とともに自らの実存(生き方)と照らし合わせて再構築する新たな「ものがたり」である。それはもはや筆者が定義する観光の枠組みを超えた領域、「発見」をともなう「旅」の領域に入る経験となろう。(p.95)


ガイドには限界があり、それは観光者たちの事前の認識枠組みによって大きく左右される。このことはガイドする際にも参考になるように思う。観光者たちの枠組みがどのようなものなのか見極めて、そこから大きく外れない範囲で物事を紹介していきながら、トラブルには意味付けをしつつ、適宜、枠組みを軽く揺さぶっていく、といったことが良いガイドの一つのイメージのように思う。



ガイドは、民族的偏見を捨て、現地の人々にシンパシーをもって案内し、かつ現地に経済的貢献をするという条件には触れていない。この条件を満たしていれば、トラジャ人から先のような非難を受けることはなかったはずである。(p.108-109)


現地の人々にシンパシーをもって案内するという点は、ガイドにとって結構重要なポイントかもしれない。ただ、批判的な視点も多少は必要であるようには思う。とは言え、反感を持って非難をするのは、少なくとも観光者を相手にする場合には良くないとは言えるだろう。例えば、特に地域の負の歴史について説明する際に、ガイドの姿勢(共感・反感)は重要かもしれない。



観光者は自分なりの「確認」や「発見」を期待はするが、自ら構築した事前の「ものがたり」にそぐわない内容は受けつけない。観光では当初の目的を白紙に戻し最初からツアーを再構成することは、観光の失敗を意味する。ガイドは観光者の「ものがたり」に何かを付け加えることは可能であるが、「ものがたり」の構造を作り直すことはできないのである。(p.143)


ガイドの役割と限界として押さえておきたいポイント。