アヴェスターにはこう書いている?
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山谷正 『さっぽろ歴史なんでも探見』

 北海道に玉葱が入ってきたのは明治4年(1871)、開拓使がアメリカから輸入した種子を札幌官園(現在の北区北6条西6丁目付近)で試作したのが始まりで、その後札幌村でも小規模の玉葱栽培が行われるようになった。(p.85-86)


北海道ではなく日本全体で見た場合の玉葱の導入はどうだったのだろう?

西洋野菜の日本における普及は、食文化の歴史的展開を見る上で興味深いテーマだと思っているが、なかなかこうしたテーマを掘り下げて語ってくれる本がないのが残念である。



 昭和17年(1942)、当時の軍が農地約250㌶を買い上げ、学生や市民と強制連行の朝鮮人労働者を使って陸軍飛行場として建設させたものだ。そのため、太平洋戦争末期には米軍飛来機の攻撃目標にされ、爆撃をうけたこともあった。(p.89)


札幌の丘珠空港についての記述。軍事に関わると攻撃を受ける。広島や長崎が原爆投下の対象となったのも同じ理由が含まれていることは忘れてはならない。



 この建物は大正以降に流行したマンサード屋根を使った洋風住宅の先駆けとなったもので、大正2年(1913)に現在の北区北12条西3丁目に建てられた。(p.135-136)


現在は芸術の森に移築された有島武郎の邸宅についての既述。マンサード屋根が大正以降に流行した理由はなぜだろうか?

この時期のマンサード屋根と言えば、明治39年の旧日本郵船小樽支店が想起されるが、この建物はその近くに建つ建物に強い影響を与えたようで、いろいろな建物がマンサード屋根になっている。また、明治42年の古河記念講堂もマンサード屋根である。このように北海道の明治末期には、マンサード屋根がある程度使われ始めていた。大正期という中間層が育ってきて生活が洋風化していった時期に、個人邸宅にも使われるようになったということだろうか?



 しかし、簾舞地区の本格的な開拓は、明治21年(1888)に旧札幌農学校第四農場が開設された時に始まる。(p.139)


第四農場が南区にあったのは何かで読んだことがあるが、簾舞地区だったのか。跡地は現在、何になっているのだろう?



 昭和30年(1955)に旧琴似町と篠路村が札幌市に合併されたが、この頃から新琴似、屯田、篠路地区の市街化が進み、それまでの農業や酪農地が次第に姿を消していった。(p.150)


第二次大戦後の復興から立ち直り、高度成長へと移る頃、札幌が大きく変わっていったことが分かる。札幌の発展と反比例するかのように小樽の斜陽化が進む。これは一体の現象であろう。



 かつて帝国製麻琴似製線工場があり、麻布の生産が行われていた麻生、亜麻事業の名残が町名になっている。
 昭和53年(1978)、地下鉄南北線(北24条~麻生)が開通してからは急速な発展をとげ、麻生駅周辺は一大商店街となった。(p.163)


麻生の地名は確かにアイヌ語っぽくないが、その土地で行われていた産業が「そのまま」地名になるのが面白い。


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北村崇教、本郷敏志 監修 『北海道「地理・地名・地図」の謎』

 北海道の地名の多くがアイヌ語に語源を持つことはよく知られているが、そのアイヌ語由来の地名の多くが「川」に関するものだということはあまり知られていない。これはアイヌの人々の生活の中心に「川」があったことによる。アイヌの人々にとって「川」は重要な食料のありかであり、通行のための道でもあり、地域の目印としての役割も担っていたため、その特徴を示す名前がつけられたのだ。(p.12)


言われてみれば、確かに川や水に関係する語源が多い。本書が指摘するように、「●●別」はアイヌ語の「ペツ」に由来し、「●●内」はアイヌ語の「ナイ」に由来するが、いずれも川である(ペツの方が比較的大きな川で、ナイは小さな川を指すことが多いらしい。)。



 1890(明治23)年に、現在の砂川・歌志内に奈江村が設置されているが、同じころ、砂川がオタシナイと呼ばれていたという記録も残っており、1891(明治24)年に北海道庁から刊行された「北海道鉱床調査報文」のなかの地図で現在の砂川市街は「歌臼内」と表記されている。音訳と意訳の両方が現在の砂川市を指す名称として使われていたのである。音訳と意訳を使い分けるようになったのは1891(明治24)年の鉄道開通の際に、砂川駅と歌志内駅が設置されたのがきっかけである。(p.36)


砂川と歌志内は「オタウシナイ」の意訳と音訳であるという。鉄道の駅が地名を決めるというパターンが結構見られるようだ。北海道の場合、開拓の進展と並行するようにして鉄道が普及していったため、地名をつける時期と鉄道の駅を設置する時期が重なっていたことが駅名が地名を確定させる効果を持ったのではないか。



1874(明治7)年に制定された屯田兵制度は、明治維新後の廃藩置県で失職した武士たちの救済策でもあった。そのため屯田兵への応募は当初士族出身者に限られていたのだ。士別は、この屯田兵が開いた最後の町なのである。(p.38-39)


武士が開いたから「士」をつけているという説。



 曽田氏は北海道の北見・札幌、千葉、長野、岡山の五ヶ所で栽培を試みた。そのうち札幌で育てたラベンダーが発育状態や色、香り、すべてにおいて最良だったために、1940(昭和15)年に、札幌市南区南沢に農場を作って栽培を開始したのである。つまり、ラベンダー発祥の地は、富良野ではなく札幌だったのだ。
 農場設置から二年後、曽田氏は日本初のラベンダーオイル抽出に成功している。
 戦時中は、食糧増産のため、多くの畑が転作を余儀なくされたが、戦争が終わると、ラベンダーオイルの生産が本格化し、南沢のラベンダー園には周辺から多くの見物客が訪れるようになったという。
 やがてラベンダーの苗は、富良野をはじめとする北海道全土に移植され、北海道のあちこちで花を咲かせるようになった。ところが、昭和40年代にラベンダーオイルの輸入自由化が決定すると、ラベンダーオイルの価格は急落。ラベンダー園は次々と閉園に追い込まれてしまったのである。
 札幌の南沢ラベンダー園も1972(昭和47)年に閉鎖され、富良野のラベンダー園も、わずかひとつが残されるのみだったのが、1976(昭和51)年、国鉄(当時)のカレンダーに富良野のラベンダー畑が採用されたことで一躍その存在が全国に知れ渡り、多くの観光客が訪れるようになったのだ。以後、富良野ではほかのラベンダー園も復活し、今では観光の目玉となっているのである。(p.48-49)


ラベンダーを栽培してオイルの生産をしていたが輸入自由化でラベンダー畑が閉鎖されていく中、国鉄のカレンダーをきっかけに富良野のラベンダーが観光産業としてブレイクしたという流れは興味深い。



 しかし、同じように欧米に倣ったとはいえ、札幌と旭川や帯広では、街の様子が少し違っている。旭川や帯広には、碁盤の目のように南北・東西に伸びた道路とは別に、斜交する道が組み入れられているからだ。
 この違いは、札幌の建設を担当した開拓使判官の島義勇が、当初、中国の長安や日本の平安京のような東洋風の街をイメージしていたことによる。ところが、島は1870(明治3)年に罷免され、当時開拓使のトップだった岩村通俊がアメリカ式の都市計画を推し進めた。そのため、札幌は、東西路は「南一条」、南北路は「西一丁目」といった京都風の名称がある一方、当初は道に「札幌通」や「石狩通」といった名前をつけるアメリカ風のネーミングが採用されるなど、和洋折衷の様相を呈していたのである。
 一方、旭川や帯広は、全面的にアメリカの都市をモデルとして造られた町だ。それは、これらの町を計画したのが、アメリカのミシガン大学、ニューヨーク大学で学んだ経歴を持つ時任静一という人物だったからである。(p.86)


これも面白い。「札幌通」などの名称が「アメリカ風」というのは今まで気づかなかった。



 北海道は炭酸飲料の消費が非常に多い土地である。2008(平成20)~10(平成22)年の一世帯当たりの炭酸飲料の年間消費額は、札幌市が4165円で全国二位。全国平均の3276円を大きく上回る結果である。(p.136)


これは何故だろうか?



 明治はじめの開拓期、多くの欧米人が開拓に協力するために北海道を訪れている。その影響で札幌近郊ではキリスト教がよく広まっていたという。そのため、キリスト教由来の行事であるハロウィーンと七夕が混ざり合って「ろうそくもらい」の行事ができあがったのではないかというわけである。(p.138-139)


興味深い説。



 そもそも北海道の主要道路は、未開拓地を整備していった関係で、家々が集まり町になったところに道路をつくったのではなく、道路をつくったところに人や家が集まって町を形成してきたという歴史がある。そうした事情から、北海道には広くてまっすぐな道が多いのである。(p.166)


なるほど。



とくに上川方面の開拓を早く進めたいという目論見があった北海道庁では、上川方面の開拓をスムーズに進めるためにも上川道路(国道12号線)の建設が急務であると判断したのだ。こうして樺戸集治監の囚人500人が動員され、国道12号線の原形となった上川仮道はわずか95日間で完成している。(p.167)


思うに上川方面の開拓を早く進めるというのは、北海道という島の支配を固める(ロシアの南進に備える)にあたっての軍事的な必要性があるという判断に基づくものと思われる。なお、囚人労働が北海道の開拓でもそれなりに多くあったということはよく銘記すべきことである。


堀淳一 『北海道 地図の中の鉄路』

 なぜこの線がそんなに早く完成したのかというと、札幌から旭川を経由して帯広や釧路に到達するのを急いだからで、実際につくりはじめた時の名前は「十勝線」。つまり、幹線扱いだったのである。ただし、これが実際に帯広まで届いたのは、ようやく1907年になってのこと。……(中略)……。
 しかし、今の根室本線の滝川-富良野間が1913年(大正2年)に開通すると、札幌から釧路へ行く直通列車は当然、距離のはるかに短いこちらを通るようになり、旭川を通らなくなった。そのため、旭川-富良野間は幹線としての地位を失って、「富良野線」という55キロ足らずのローカル線に転落してしまった。(p.10-13)


前段の部分は二つ前のエントリーで『北海道の鉄道』を取り上げた際にも言及されていたところであるが、なぜ完成を急いだのかという社会的な背景が気になる。

後段からは路線の扱いにも栄枯盛衰があることがよく分かる。



 なぜ、ホームが曲がっているのか?
 その答えは地図(図2-2)を見れば一目瞭然だ。かつては、レールが函館港の中にナナメに突き出ている青函連絡船の鉄道桟橋につながっていたからだ。(p.26)


函館駅のホームが曲がっている理由。



 実際、昭和20年(砂原回りの函館本線をつくったのと同年――つまり戦争末期の輸送力増強に躍起になっていた年だ)にそれが実行されて、この区間が複線化されたのだった(図2-8)。(p.43-47)


函館本線に関する記述。本書によると、日本政府は戦争末期に輸送力増強に躍起になっていたという。実際にいくつもの鉄道路線がその時につくられているからそうなのだろうが、何故、戦争も末期になって敗戦が濃厚になっている時期に金をかけて輸送力増強をしようとしたのかが気になる。



 長万部からは、室蘭本線が分かれる。昔は函館本線が、札幌あるいはそれより奥地へ行く時の大幹線で、優等列車もすべて函館本線を通っていたのだが、戦後の昭和35年(1960年)頃から優等列車は次々と急勾配のない室蘭本線・千歳線を経由するようになり、今では函館本線の長万部-小樽間は完全なローカル線――普通列車しか走らず、しかも本数が少ないというさびしい線――と化している(小樽-札幌間に優等列車は走っていないが、札幌近郊の通勤・通学・行楽列車の本数は多い)。(p.51-52)


昭和35年頃は小樽が斜陽化する時期と重なっているだけでなく、本書の千歳線などの記述を読んでも分かるが、室蘭本線・千歳線の沿線の都市が急速に都市化していった時期とも重なっている。高度成長の始まる頃だが、石炭から石油へのエネルギーの転換などが小樽の斜陽化の要因の一つとして語られるが、この路線変更に例えば何らかの技術的な理由があったとすれば、この路線変更自体が小樽の斜陽化の要因の一つとして数えられるべきものである可能性がある。(社会的な背景があって路線変更が行われた場合には、その社会的背景を要因として数えることが出来るかもしれない。)

なお、千歳線沿線の都市の都市化の原因は恐らく、この路線変更に求めてよいように思われる(それぞれの都市に発展する要因があったとしても、鉄道の路線沿いの都市が軒並み同じような時期に同じような都市化をしているとすれば、個々の要因よりも全体に共通する要因の方が原因と考えられるため)。



 銭函からは比較的、直線区間が多くなる。……(中略)……。
 ただし、普通列車は相変わらずスピードが出ない。いや、かえっておそいのではないだろうか?なぜか?駅がやたらと多いからだ。札幌駅まで、何と18キロの間に9駅、約2キロごとにあるのである。
 開通当初は、手稲(はじめは軽川)、琴似の2駅しかなく、それに大正13年(1924年)、桑園駅が加わっただけの状態が長らく続いたのだが、戦後、札幌の市街地がとめどもなく拡大しだしたため、その各所からの通勤・通学・買物・遊楽客を拾おう、と、昭和60年あたりから続々と駅をつくりはじめた結果、駅数が三倍増してしまったのである。(p.84)


鉄道と都市化との関係は興味深い。



 北一已を出ると右側は低い丘陵になるが、それが遠ざかる頃、秩父別駅に着き、ここを出るとふたたび水田のただ中を走って石狩沼田駅となる。ここはかつて、札幌・桑園から札沼線が来ていた。札沼線の「沼」の字はこれに由来するのだが、今ではかなりの鉄道通でも「この沼はどこから来たのか?」と頭を悩ますようだ。
 ……(中略)……。
 次の駅は藤山。この名は、明治29年に藤山要吉が農場を開いたことに由来するという。さらに次の大和田駅も、同31年に大和田荘七がこの付近で炭鉱を創業したことによっている。そうそう忘れていたが、石狩沼田駅の沼田も開拓者沼田喜三郎の姓だった。これほど人名由来の駅名が多い線区も、ちょっと珍しい。(p.166-168)


これらの人物が名を残しているのは、富裕層に大きな富が蓄積されやすい社会だったことも関係していると思われる。



 それが千歳線となって20年足らずの昭和35年頃から、まずそれまでは函館本線の山線経由で運転されていた急行列車が、峠越えがなく平坦な室蘭本線・千歳線経由で運転されるようになり、それに伴って昭和40年から複線化、また同42年から北広島以北のルート変更化の工事がはじまって、同48年には全線が複線となった。また、昭和55年には全線が電化された。(p.194)


先ほど函館本線の章から引用したp.51-52の記述と対応する。千歳線沿線の都市(千歳、恵庭、北広島)の都市化の進展や同時期の小樽の斜陽化とも関連していると見るべきだろう。



内藤辰美 『北の商都「小樽」の近代 ある都市の伝記』(その3)

小樽市内で入舟町ほど隣接町の多い町はない、これは一面入舟町が小樽発展史における中枢地区であったことを物語るものでもある。……天狗山から海岸続くこの町が同じ町内に下町と山の手という二つの違った両面を持つのも無理ではない。5丁目から以西9丁目までは住宅地であり1丁目から4丁目までは純然たる商店街でありその中間が工場外を形成している。明治4・5年前までは土人部落であったが、住吉町一帯にアイヌが移住し11年から14年まで公認貸し座敷が許可され、それが住ノ江町遊廓の移籍と共に明治20年を中心として入舟街小売の繁盛となったのである。主なる物産問屋や港町に軒をならべ入舟町は専ら市内向けの雑貨、花柳界宛て込みの呉服屋、大三岡田、山三山田などが巾を利かせていた、明治30年代から小松を始め戸出物産などが卸専業の店を構え南小樽駅との連絡に便利な位置としてだんだん卸屋街に変わった……。入舟町が真に織物問屋に進んだのは欧州戦争ころで南小樽駅へ殺到する七島包みの織物の出荷は年々増した」(北海タイムス社、「おらが町内人記」:31)。(p.260)


入船町が小樽発展史の中枢地区という発想は斬新に感じられる。歴史の実態を捉えているかは別として。



 花園町の場合、町内の成立が小樽の発展=人口増と関係する。……(中略)……。「……(中略)……17年1月になって漸く花園町が新設せられた。これは南部入舟町添と北部の於古発添に住家が建設せられたので行政の運営上独立の町名を付けざるを得なくなったからである」(『花園町史』1962:1-2)。
 当時の花園町はその大部分が草原であった。「新町名が設置せられたが最初に建物が建築されたのは明治15年で現市役所の場所に避病所が出来たのがそれである。小樽は、大正4年全市及ぶ町名番地の変更を実施した。その結果、錯綜していた「入船町と花園町の境界が整理」されることになった」(『花園町史』1962:98)。(p.262)


花園町というと、現在の小樽では商業などの面では衰退の傾向にあるとはいっても、一応、市の中心的な地区の一つと言ってよい地域である。明治17年になって漸く町名がつき、その頃にはまだ草原であったというのは容易に想像できない意外さがある。隣りの稲穂町が沢だったことも併せて考えると、明治後半にいかに市街が急速に発展したかが想像できる。



最下層には日雇いの港湾労働者があった。しかし、都市小樽の再生産にかかわる射程を、この都市に石炭を運び、この都市を成立させる一因となった幌内炭鉱にまで広げてみると、繁栄する都市小樽を支えた真の下層民が都市小樽の内部にではなく、都市小樽の外側における幌内炭鉱にあることが明らかとなる。われわれはともするとこの視点、都市の繁栄を支えた資源供給地における人々を見逃しがちである。幌内を嚆矢として開発されていった北海道の炭鉱とその炭鉱で働いた労働者たちこそ、囚人を含め過酷な作業に堪えた労働者たちこそ、都市小樽の発展=再生産を、「最底辺」において支えた人々であり、都市小樽の形成史において忘れてはならない人々である。(p.282)


この視点は本書で最も興味深かった点の一つであった。都市の最下層民は都市の内部にいるとは限らず、むしろ、都市の外にいる。都市を考える際にも、行政的な区域で完結して考えるのではなく、より広いシステムの中に位置づけて考える必要がある。



 囚人労働は北海道開拓史を特徴づける強制労働の源流であった。
 「北海道開拓史を特徴づける強制労働とは、〈集治監囚徒〉(囚人)と〈タコ部屋労働者(タコ労働者)〉と戦時中に強制連行された〈朝鮮人・中国人の強制労働〉」を指すものであった」(小池喜學 1983:280)。(p.287)


北海道の「開拓」において忘れてはならない側面。



 もちろん、幌内炭鉱にも囚人は動員されている。
 「明治15年(現在三笠市)に空知集治監が設置されたのは、幌内炭鉱に外役所を設けて囚人を投入するためで、以来27年11月まで囚人は幌内炭鉱の主要労働力であった。……(中略)……。」(小池喜學、前掲:293)。(p.289)


これが都市小樽の最底辺の労働者である。



 都市小樽における下層貧民と炭山における底辺層は共に厳しい搾取にさらされた人々であったが、北海道炭礦汽船株式会社は前近代的制度に依存して成長した。その初期段階で不安定であった炭山と鉄道経営を成長の軌道に乗せるまで、国家による惜しみない支援が行われ、賃下げや拂下げによる富の民間移転、事業の官業から民業への移転が実施された。北海道炭礦汽船株式会社は藩閥を中心とする、少数の特権的、特恵的階層や華族の資本参加によって富を築き、圧倒的多数の下層労働者は徹底的に収奪された。(p.311)


北炭が「前近代的制度」に依存して成長したと本書は指摘するが、世界システム論的な見方では、この奴隷制的な労働搾取はむしろ、「近代的」なものとされているものだろう。



〈むかし炭鉱、いま原発〉 次々に起こるニュースに見入る中で、思わず頭に浮かんだ言葉だ。福島の原子力発電所は、長い間、首都圏にエネルギーを送り続け、人々の生活を支えてきた。いわばフクシマは、日本の経済を動かす心臓部だったとも言えた。同じように、かつて日本全国の炭鉱から掘り出された石炭は、明治以降、日本の発展をささえてきた。そんな日本を動かすエネルギーをつくり出してきたのは、いつも地方の、名もない無数の労働者であった。構造があまりにも似ていた。だが、同じに見えても、炭鉱と原発には決定的な違いがある。炭鉱は文化を生みだしたが、原発は文化を生みださなかった」(熊谷博子 2012:1-2)。(p.315)


確かに明治期の炭鉱と現在の原発とは構造が非常によく似ている。非常に鋭い指摘である。炭鉱が文化を生みだしたという点で原発よりも肯定的な評価となっているが、その評価の根拠となっている文化とはどのようなものを指しているのだろう?私としては炭鉱都市における相互扶助の仕組みなどが想起される。



幌内鉄道の敷設に黒田清隆のもった影響力は絶大であった。黒田なくして幌内鉄道はなく、結果的に小樽の発展もなかったといえよう。(p.317)


明治初期の北海道における黒田清隆のはたらきは非常に大きなものがある。



榎本は小樽に「地所熱」をもたらした。小樽は大きな地主を誕生させたがその背景に榎本・北垣による土地取得があった。(p.317)


「地所熱」が発生するには、この頃(明治後半)にはそれが発生するほど経済力がある者がいたという背景が必要である点に留意しておこう。


内藤辰美 『北の商都「小樽」の近代 ある都市の伝記』(その2)

 一言でいえば、明治以前の小樽は、運上屋の時代であった。
「明治以前の所謂運上屋時代には、運上屋自体が豊富な資力で、独占的に漁獲した鰊や鮭の製品を、自己の所有する千石船(弁財船)に積んで、北陸一帯の港や、関門、四国、尾道、兵庫、大阪、名古屋まで輸送して此れを売り捌き、帰りの船には漁業用資材や米味噌、雑貨、大物類を満載して漁民に此れを鬻いだ。すなわち運上屋が漁業と商業を兼業する立場にあったのである。尤も其他にも小規模ながら鰊製品を漁師から買入れて此れを東北、北陸方面へ売捌き、その見返へりとして生活物資を移入していた商人が幾らかあったが、真の商人が現れたのは、維新後運上屋が廃され、自由漁業が許された以後と見做して宜しかろう」(本間勇児 1970:1-2)。
 そして、草創期から明治20年代までの小樽における支配的勢力は、幕末以来小樽において漁業を営み、明治初期には戸長などをつとめた山田吉兵衛や船樹忠郎をはじめ、明治10年代から漁業・商業などをもって小樽の財界に地盤を固めて来た人々であった。その当時の小樽はそうした支配層が君臨し都市の秩序を形成した。しかし、明治30年代に入るとそうした状況に変化が生まれてくる。その契機は何と言っても都市小樽の成長である。(p.85-86)


明治30年代における変化の背景には、明治15年に全通した幌内鉄道や北海道の内陸への開拓の進展があると言ってよいのではないか。それ以前は鰊を中心とする漁業が中心的な産業であったが、北海道からの石炭の移出のほか、内陸への生活物資の出入口として商業都市へと比重を移していったのではなかろうか。



小樽には早川系と唱え、寿原系と呼び、野口系と称し、何系と名乗る「連絡商店」が多く、全道各市街地に亘って緊密な連絡を形成している商店が少なくない。(p.101)


ここは小町谷純、倉内孝治からの引用の部分である。連絡商店とは聞き慣れない語であるが、どのようなものなのか気になる。



 小樽は、鰊漁を中心にした漁業家の繁栄期、鰊の不漁と海産商の盛況、第一次世界大戦後の雑穀商の旺盛(本間勇児、前掲:2)という変遷を経験した。(p.103)


明治大正期の小樽の中心的ないし代表的な産業の変遷について簡潔に述べていると思われる。海産商は海産物を移出し、生活物資を移入するという経済が確立する過程で盛況したと思われ、雑穀商は北海道における農業の発展と交通網の整備と関連していると思われる。



 近代日本の場合、国家による都市の支配(権力の構造)が明確で、国家と都市の関係には権力をめぐるダイナミックな関係があまり見られない。それに対し、都市の内部は、複数勢力による対立・紛争がありきわめてダイナミックであった。しかし、そのダイナミックな勢力関係も権力との対抗にまで発展しなかった。小樽の場合で言えば、勢力による国家(道庁)への非同調的行動はあったけれども、それは権力=国家との対抗にまでは至らなかった。そこに、すなわち、勢力間の闘争が権力の対抗までに至らなかったところに近代日本の特質がある。それは自治のエネルギーを内部に潜在させながら、その発露を勢力に留め、権力=国家に向けることのできなかった近代日本の都市がもつ脆弱性であった。その形は現代においても継承されている。戦後の日本においても都市と国家の対立という例はまれである。(p.111)


都市(住民や地方政府)が国家(中央政府)の権力を脅かすことが少ないというのはその通りであると思われる。



明治初期、石狩、天塩、北見、胆振方面の農産物は、大小豆が主で、夫等奥地の農産物は札幌の商人の手にかかって小樽え運ばれ、それが小樽の海陸物産商に依て本州各府県に移出されたが、その頃大きな雑穀商は多く札幌にあった。ところが明治25年札幌に大火があって以来、札幌の商人が疲弊した。これがたまたま、此の年室蘭・夕張線の鉄道が開通し、それ以来雑穀類は小樽の商人の手を経ることが多くなった。(p.117)


本間勇児からの引用。雑穀商は初期は札幌が優勢だったが、明治25年の大火により札幌の勢力が疲弊し、同時に石炭輸送における幌内線のライバルとなる室蘭・夕張線ができたことで、小樽では石炭よりも雑穀などの生活必需品へと港で扱われる商品も変わっていった、ということか。(室蘭・夕張線と小樽の雑穀商が活躍することとの関係が明示されておらず分かりにくい。)




内藤辰美 『北の商都「小樽」の近代 ある都市の伝記』(その1)

都市=小樽の構造は、まず何よりも、国家の意思=権力によって規定されている。都市=小樽の発展の端緒は明治国家の北方政策であった。……(中略)……。
 ……(中略)……。小樽の経済的繁栄を原初的に規定したのは明治国家の意思と権力であった。明治国家の意思と権力に依存していた限り、小樽は大きな制約を有していた。具体的に言えば小樽における発展の可能性と都市自治は明治国家の枠を超えることができなかった。(p.15-16)


小樽という都市を見る視点としては適切な見方である。本書のこの部分をもう少し敷衍すると、小樽というより北海道開拓自体が明治政府の北方政策に大きく規定されており、その北海道開拓という事業において小樽という都市が極めて重要な位置を占めていた(占めるように政策により規定された)、と理解すべきだろう。



 顧みて、こうした小樽の発展にとって重要な契機をなした出来事は開拓使の設置であった。小樽にとって開拓使の設置は大きな意味をもっていた。開拓使が陸海運輸の近代的基地をここに定めたことは小樽発展の基盤が開拓使によって始まったことを意味している。小樽の繁栄を約束した全国第三番目の鉄道と築港によるインフラの整備は開拓使にその淵源をもつものである。小樽港を活用する機関、船会社、銀行が次々と立地した。開拓使は、「小樽市における生産業の燭光は実に漁業に始まる」(小樽市役所 1949:28)といわれる事態=漁業の小樽という歴史に大きな転換をもたらした。官営事業をはじめ開拓使の先駆的方針は後の小樽産業の発展に寄与するところ大であった。明治13年、機関車や各種鉄具製作・客車・貨車などの製造と修理のために設けられた手宮工場はその象徴である。(p.43-44)


この部分には、一つ前の引用文に対するコメントで私が述べたことと共通の認識が示されているように思われる。

開拓使が札幌に設置され、小樽がその外港となったことにより、「漁業の小樽」に大きな転換がもたらされたという認識は適切であろう。もちろん、明治期には漁業も小樽の繁栄にとってまだ大きな位置は締め続けるが、逆に言えば、札幌の外港であり北海道の物資の玄関口とならなければ、漁業が廃れた時点で小樽の経済発展は止まってしまっていたと見てよく、大正時代に全盛期を迎えることはなかっただろう。

余談だが、以上の引用文で「全国第三番目の鉄道」と呼ばれている幌内鉄道は、(その約9か月前に岩手県の釜石鉱山鉄道が開通しているため)厳密には三番目ではないことが明らかになっており、四番目かどうかという確証が得られていないこともあって、最近では「北海道最初の鉄道」と呼ばれることが増えている。

ちなみに、「手宮工場」があった場所は現在の小樽市総合博物館本館がある場所であり、現在も現存する国内最古の機関車庫や明治15年にアメリカから輸入されたSLしづか号(7100型)、大正時代の転車台、国産の機関車として2番目に製造され、現存では最古の国産機関車「大勝号」(7150型)などが展示されている。



小樽の周縁部に下層階級の居住者が多く、内部には大体中流以上の者が住んでいるという事は前記貧民層の研究において述べた通りである。更にこの研究に依り南部及び北部には下層階級中でも生活能力を有するものが多く居住し、中の沢付近には生活能力の小なるものが多く住んでいると云う事になるのである。……以上を要約すれば小樽の日雇労働者の大約は手宮富士付近に、残りの大部分は勝納川下流沿岸に住み、中部には僅少であって、その分布状態は大体において貧民の分布と似ているが、中の沢部落には殆んど日雇を見ることが出来ない。即ちこの現象は港小樽の荷役を反映するものである」(渡辺祐一郎1936:1-4)(p.60-61)


渡辺祐一郎とは、昭和初期の庁立小樽中学校の生徒であるらしいが、旧制中学ってこんなにレベル高かったのか?と思わされる内容である。

昭和初期の小樽の地区ごとの社会階層の居住状況。「中の沢」というのは聞きなれない地名だが、私の推測では、現在の入船町あたりで、国道5号線より山側ではないかと思っている。確かに、この地域は仕事をするには川も海も遠い(当時はメルヘン交差点に流れ込む川があったようだが、勝納川のように工場があったわけではないようだ)。

手宮富士というのは、現在の石山町、長橋、稲穂5丁目あたりで囲まれた山を指すらしい。石山町界隈はいかにも労働者の町だったという雰囲気が今でも感じられる。手宮よりもこの界隈の方が運河に近く、当時の港湾労働者にとっては好都合な立地であることは頷ける。勝納川周辺に工場があったため、この周辺にも労働者が多かったというわけだ。

職場と住居の関係、経済的な階層と居住地区の関係が分かると地区ごとの特性もいろいろと見えてきそうだ。



「手宮の石炭桟橋は明治45年から使われていた。……昭和11年には114万トンをここから京浜方面に送った。日本を代表する重工業地帯の、ライフラインを支える桟橋のIGR(インペリアル・ガバメント・レールウェー)の大文字は港を睥睨していた。その頃手宮の労働者は鉄道員と人夫に二分された。鉄道員はエリートで、垣根をまわした官舎に住まいし、水汲み女を雇えた。官舎は手宮公園への傾斜に段々と広がっていた。人夫の多くは、手宮を流れるドブ川沿いの長屋に肩を寄せ合うように暮らしていた。石炭人夫千人、沖中人夫千人がここにいた。人夫のほとんどが日銭稼ぎで、波止場の朝は仕事をも求める人夫たち、艀の出入り、石炭列車の入れ替え、機関車、サンパンの汽笛で戦場になった。……」(北海道新聞社 2002:16)(p.62)


手宮の中でも階層があったという指摘。ところで、人夫があたりに住んでいたドブ川とはどこにあったのだろうか?



渡辺祐一郎によって確認された地形が形成される一方、富裕層や名望家がそして中間層が多く居住する地域が分化・形成されていく。小樽の場合、富裕層の住む水天宮の丘や日銀支店長の公舎がおかれた富岡町そして富裕層の別荘や中間層が居住した緑町は、いずれも高い所に位置する場所で、明らかに、北部の手宮などとは趣を異にした異国情緒を漂わせた地域であった。(p.63-64)


ここに指摘されている居住地区の相違は、現在の歴史的建造物(のうち、住宅)の所在を見ても分かる。旧板谷邸や旧寿原邸は水天宮の丘にあり、富岡町には旧遠藤邸(現在は立正佼成会が使用)などがある。緑町のあたり(住所としては入船5丁目だが、緑町と隣接)には先日、公開が終了してしまったが坂牛邸がある。



 港湾労働者の内部もまた階層的に構成されていた。常雇と日雇・臨雇は別であった。艀の労務者も、大頭・小頭・船頭・道具方・常雇に分かれていた(北海道立総合経済研究所、前掲:15)。常雇・日雇いを含めて小樽における港湾労働者の社会的地位は低いものであった。その一因は彼らの得る収入にあったというよりは港湾労働者の杜撰な雇用形態と過酷な労働条件にあった。「昭和2年当時、小樽にどの程度の港湾労働者がいたかを明確にする統計はない。それなのに工場労働者については明治43年からの統計がある。大きな違いである。その頃朝鮮人労働者もかなりいたが、それについても、わからないことが多い」(毎日新聞社1985)という事態は彼らの社会的地位の低さを物語る。
 発達・成長する小樽は、統計に表されることにない人々の世界を、絶対に必要な部分として抱えていたのであろる。かれらは名望家の対極に位置していた。名望家は記憶され記録された人であるが、労働者や下層民は忘れられ記録されていない人間である。戦前に小樽のコミュニティを生きた人はそのような人々であった。(p.73-74)


統計に表れるか否かということをメルクマールとして社会的地位の程度を推定しているのが興味深い。

社会的地位が低かったことやどの程度低かったかを具体的に示すには、別の資料からももう少し説明する方が良いようにも思うが、社会的地位が高いほど記録が残りやすく、低いほど忘れられた存在になりやすいというのは、傾向としてはその通りであるように思われ、個人としてではなく数としてすら記録に残らない人々の社会的地位はかなり低いものだったと見ることは可能であろう。

また、この箇所で注目しなければならないのは、昭和初期の頃に朝鮮人労働者もかなりいたという指摘である。日本の近代化の過程において底辺の労働者として、こうした人びとがおり、社会的な待遇は必ずしも良くなかったということは知っておく必要があることであると思われる。


荒井宏明 『なぜなに札幌の不思議100』

 北側は、大友亀太郎の測量によって造成した大友堀(現在の創成川)を軸線としていますが、この軸が西に約9度傾いています。大友掘を基準にして、東西の通りができていったのですから、大通なども東西の軸がずれています。
 それに対して南側の山鼻地区は、ほぼ南北に合わせてつくられた兵村中央道路(現在の石山通・国道230号)を軸に道路を敷設しています。
 この2区画が互いに広がって接したのが南3~4条のあたりです。(p.24-25)


札幌は碁盤の目と言われるが、元々複数の村が繋ぎ合わされているため、それらの繋ぎ目毎にこうしたズレがある。したがって、この種のズレに着目することで札幌の市街の歴史的展開が見えてくる。この視点は、札幌の街を見るにあたってポイントの一つになる。



 七福神信仰は室町時代末期に、日本・中国・インドの神々が組み合わさって生まれたものです。徳川家康の政治指南役・天海僧正が推奨し、江戸期の庶民の間で大流行しました。(p.28)


室町時代は大陸との交易が相対的に大きかった時代であり、この時代に中国やインドの神々と土着の神々が組み合わされたというのは、なるほどと思わされる。これが江戸時代に流行したというあたりは、もう少しその経緯を知りたいところである。家康の政治指南役が推奨したというあたりからすると、政治的な目的があったのだろうと推測するが、それがどのようなものだったのか?また、実際にこの信仰が広がったことでどのような効果が得られたのか?興味をそそられる。



もともと大通の西10丁目以西は屯田兵の練兵場で、屯田兵制度が廃止になった後に大通の一部になりました。しかし、利用する人は少なく、ゴミ捨て場や雪捨て場にされてしまいます。(p.53)


大通の歴史というと札幌市資料館で紹介されているのが想起されるが、私が以前訪れた際に見た際には、このあたりのことは印象に残っていない。紹介されていたのだろうか?次に訪れるときに注意して見てみよう。(以前訪れた際の資料も見直してみたい。)



それぞれの区画で南北に走る車道があるのですが、なぜか8、9丁目だけがつながっています。しかし、もともとは他の区画と同じく、南北に抜ける車道があったのです。
 今から約20年前、札幌市が世界的彫刻家イサム・ノグチ氏に「大通公園のシンボルとなるような彫刻を」と制作を依頼しました。札幌市は9丁目のクジラ山(滑り台)を撤去して、ノグチ氏の作品を置こうと考えていました。しかし、1988(昭和63)年に現地を訪れたノグチ氏は、歓声を上げながらクジラ山を楽しんでいる子どもたちを見て、それを拒否します。そして8、9丁目間の道路の真ん中に立つと「ここがいいね」と言いました。
 クジラ山を残し、自分の作品を置くことで2丁画をつなげ、子どもたちがのびのび遊べるようにしよう、と提案したのです。(p.54) 


大通の歴史はなかなか面白い。

こうして最終的にこの場所に置かれたのが「ブラック・スライド・マントラ」という作品だという。この作品が現在の大通のシンボルとなっているかどうかはやや疑問という感じはするが、話としてはいい逸話。(上記の引用文の後の経過も含めて興味深い。この冬にはノグチは死去し、市は最初は西8丁目に作品を設置したが、その後、故人の意思に従って道路をふさいだという。)

機会があれば、子どもを連れて遊びに行ってみたい。



 明治の初期は、創成川に接した南1条あたりがもっとも賑わい、そこを軸に民家も広がっていました。一方、北海道開拓使本庁舎(現在の北海道庁本庁舎)から駅前通あたりは地価が極端に安く、商店などもまったく栄えませんでした。
 しかし、草木が生えるままにしておかないのが、明治人の律義さです。1874(明治7)年からその翌年にかけて、開拓使は、南北は北5条から北1条、東西は西4丁目から西8丁目、現在でいうと札幌グランドホテルやHBC、道警本部、毎日新聞社北海道支社などが丸ごと入る一帯に大規模な果樹林を設けたのです。……(中略)……。
 1880(明治13)年になると、石炭輸送のために手宮鉄道が開通。創成川による水上輸送から陸上輸送へのシフトが始まり、賑わいの中心線が現在の駅前通に移りました。そうなると、いつまでも果樹林にしておくわけにもいかず、一帯は行政や民間の建物が並ぶ地区へと変わっていきます。


 明治初期の札幌の市街の変遷もなかなか興味深い。物流の中心が創成川(大友掘)だったときはそこが軸であったが、鉄道に物流の中心が移ると駅前通が軸となった。

なお、果樹林の西側に接続するような場所に現在の北大植物園が設置されている。札幌農学校の植物園が設置されたのが明治19年であることから推すと、果樹園がなくなっていく中にあって、植物園がその西側に残された形になる。これらの間に何らかの関係があったのか?興味が惹かれる。



朝日新聞社小樽通信局 編 『坂と歴史の港町 小樽 改訂版』

 安政年間に小樽内の場所請負人、恵比須屋半兵衛が、箱館奉行所の許可を得て私費により熊碓(今の東小樽)から銭函まで海沿いに約10キロの道をつけた記録がある。
 やがて明治政府が北海道開拓をはじめ、半兵衛の道を改良し、さらに明治13年、クロフォードなどの指導で、この道に鉄道が敷設され、汽車が札樽間を走るようになった。(p.72-73)


幌内鉄道が短期間のうちに敷設できたのは、こうした既存の道路を利用できたことも理由として大きかったのだろうか。



 明治41年の5月に小樽高等商業学校の地ならし工事が始まった。……(中略)……。校舎の設計は未定であったらしいが、文部省建築課札幌出張所長からの通達では大体は長崎高商の建物の平明図までつけられていたという。着工以来1年余をへて明治43年2月に、はるか港を見下ろす高台の地に木造二階建ての校舎ができあがった。(p.86)


小樽高商の校舎は、長崎高商の校舎を参考にして、あるいはそれをコピーして建てられたということか?



かつての小樽市民病院跡には立派な水道局の建物が建っており、古い図書館の建物がいっそう素朴に見えてくる。坂道を港の方に向かって下りて来ると、通りに面して右側に勤労婦人センターや職員会館の目新しい建物がめにつく。
 坂道の中ほど左側に郵船海陸運輸株式会社の嵐山社宅がある。その基礎地盤を支えている石がきにふと目を見張った。……(中略)……。
 市の社会教育研究所におられる高橋利蔵先生にうかがったところ、大正5年ごろ、小豆相場で巨万の富をきずいた高橋直治が、邸宅を建てるのに築いた石がきで、当時の金で一個につき10円出すから持ってこいと言って集めたとのことである。(p.88-89)


小樽は坂が多い町なので、この種の石垣は多く残っていそうである。



 現在の中野植物園内奥の源山にわいた清流のいくところを清水町、川幅が広くなった所は豊川町と決めた。その流れの源となる辺り一帯を源町として、「源、清水、豊川の流れは美しくにしきの如し」というわけで錦町の名が生まれたというのである。(p.125)


源町という地名は現在は使われておらず、清水町に含まれているが、一連の流れを長命にするというのは面白い。



 大正時代の小樽繁栄期に三井、三菱、住友系の各商社、銀行などが競って小樽に出先機関を設け、本州からの転勤者のために社宅の建設が急がれることになった。社宅地に選ばれたのが現在の富岡町一帯。板谷商船や榎本武揚らの北辰社の社有地で、買収が容易であったらしい。
 社宅ができると、古くから開けた勝納川、オコバチ川の流域や、港に近い町並みとは違った雰囲気をかもしだしてきたが、これは港町共通のものである。函館市の山の手ハリストス教会やカトリック教会、そして多くの寺院が集まっている元町あたりの住宅地がそのよい例。そのほか横浜、神戸、長崎なども下町と対照的な山の手ができあがっている。(p.130)


小樽の繁栄期に銀行や商社などが進出してきたため社宅が必要になり、買収が容易であり、函館からの鉄道も開通した駅の付近でもある富岡町に建てられることになり、それによってこの界隈が山の手を構成することとなったということか。



蘭島、塩谷はブドウ産地として知られるが、昭和の初期のニシン不漁期に、収入安定を図るための殖産としてすすめられ、今日に至っている。(p.207)


現在の蘭島や塩谷にはあまりブドウ産地というイメージはない。むしろ、すぐ隣の余市町や仁木町にこうした果物産地のイメージが色濃い。ブドウ栽培もやめてしまったということか?少し調べてみたい。


北海道新聞社 編 『おたる再発見』(その4)

だが昭和19年、小樽経済専門学校と名称が変わって終戦。存亡の危機に直面した。占領下、百万都市以外については大学統合案が示され、北大に吸収合併されるピンチにさらされた。しかし、これを完全に阻止したのが四代目校長大野純一だった。大野は小樽高商出身で、愛校心は人一倍おう盛。日夜、各界に説いて回り、ついに熱意はGHQと政府を動かし、計画案撤回どころか、さらに単科商科大学昇格を実現させる大偉業を達成した。(p.116)


現在の小樽商科大学にも北大への吸収合併という危機があったということか。この時、大野純一がどのように政府やGHQを説得したのか、どのような考え方を最終的に採用させたのか、という点には興味が惹かれる。



 龍宮神社の創建は明治9年(1876年)で、前二社に比べ歴史は浅いが、小樽駅周辺の繁華街に面し、祭りは非常ににぎわう。(p.123)


一つ前のエントリーで龍宮神社の由来や歴史について詳しく知りたいと述べたが、創建は明治9年ということがここでわかった。明治初期の廃仏毀釈の時代にかなりの数の神社が日本中で創建されたというが、恐らく龍宮神社もそうしたものの一つだったものと想像される。

また、「稲穂」という地名はアイヌ語の「イナウ」(神)であるとの指摘があったが、この点を考えると少し意外な感じがする。龍宮神社は明治9年にできたのであれば、イナウ沢という地名はそれ以後にできたことになる。アイヌ語の地名というとかなり古いもののようにイメージしていたが、私の想像よりも遥かに新しい地名ということになる。(それとも龍宮神社が創建される前に別の神社があったのだろうか?)



 洋菓子が小樽で普及しはじめたのは大正10年代から。……(中略)……。
 ……(中略)……。「米華堂」は昭和3年のオープンで、英語のベーカー(パン屋)と仏語のガトー(菓子)を、巧みにゴロ合わせして付けられた店名といわれる。(p.136)


この米華堂という店は現在もまだあるが、名前の由来は意外だった。



明治初期の廃藩置県で、寺の維持ができなくなり、同42年(1909年)になって寺は小樽在住の松前出身者により、仏像ごと現在地に移された。(p.140)


小樽の五百羅漢の由来。寺の維持ができなくなったのは廃藩置県によるのか?廃仏毀釈ではないのか?



 天狗山の足元に広がる小樽は、文化の薫り高い町だ。そんな一面を物語るのが市立小樽文学館で、市民有志の熱心な運動が実り、市町村立の文学の殿堂としては全国で初めて、昭和53年オープンした。(p.164)


市町村立の文学館というものがこんな遅い時代までなかったということに驚いた。



 北海道画壇史の草創期を築いた画家たちを育てた小樽にふさわしい美術館を――と、文学館同様に市民運動がきっかけとなって昭和54年8月、市立美術館としては網走市に次いで道内二番目に設立された。(p.165)


こちらは道内で2番目ということなので、文学館ほどは珍しくなかったことが分かるが、文学館も美術館も70年代末に相次いで市民運動の結果として設立されているというのは興味深い。この頃の小樽は運河論争がほぼ決着しかかっていたであり、市民たちの間では自分たちの街のアイデンティティのようなものを守りたいという思いは高まっていた時期だっただろう。そうしたことは相次いで設立された背景と見ることはできるように思う。いずれにしても文学館と美術館の設立の経緯については、もう少し詳しく知りたい



 小樽港は昭和41年以来、道内唯一の畜肉輸入指定港として、北海道で消費される羊肉を一手に引き受けている。……(中略)……。
 “羊肉輸入基地”の地の利を生かした加工業も盛んだ。中でも北上商店(小樽市高島一)は試行錯誤のすえ昭和57年、「ラムステーキ」を新発売。焼くとバラバラになるロール肉を植物性タンパクなどで固め、ステーキ状に焼けるようにした画期的製品で、本州を中心に「羊肉特有の臭みもない」と売れ行き好調だ。(p.188)


この点は現在はどうなっているのだろう?今でも唯一の指定港なのだろうか?

北海道新聞社 編 『おたる再発見』(その3)

 小樽の港は明治5年(1872年)、手宮港から小樽港へと改称された。当時の市街地の中心は現在の堺町周辺。手宮は地形的にも小樽市街との間を石山=荒巻山という丘陵に海までさえぎられ、人馬の通行を妨げていた。
 荒巻山は地主の荒巻家からその名が起きており、明治以来、その形状は人為的に変化してきている。当初、手宮と小樽を区切るような形で海まで続いていた丘陵は、人馬を通すためまず海岸部分が削られ、車馬道が完成。明治13年、今度は鉄道工事のためさらに山側が削られた。さらに、各種土木工事の増大で、石材の必要性から内陸部へと削り取られていった。鉄道、道路、築港工事など、小樽発展に欠かせない重要な事業に、荒巻山はその形を変えながら、かかわってきたといえる。
 荒巻山が手宮、小樽の交通体系整備の妨げとなっているのは、今も昔も変わらない。(p.84)


小樽の歴史を語るとき、しばしば、駅名が変わったということは指摘されるが、港の名前もかつては手宮港だったとは知らなかった。港の北側の方が現在も波が小さいことが多いことを踏まえると、港の重要な部分もおそらく北部の手宮側だったのだろうと想像する。

また、石山=荒巻山が、形を変えながらも交通の妨げとなり続けているという指摘はその通り。



 現在の稲穂(小樽駅前周辺)が小樽の中心街となったのは、明治末期以降である。明治38年(1905年)、現国鉄函館本線が開通した当時、駅(高島駅と呼ばれていた)前には、まだ沢地が残っていた。この周辺が稲穂沢といわれていた名残りである。稲穂はアイヌ語でイナウ。神の意味があり、神のいる沢を指していた。ここでいう神とは、龍宮神社のことで、アイヌの人々は龍宮神社のある沢という意味から、イナウ沢と呼んだ。函館本線開通以後は、沢のほとんどが埋め立てられ、次々に家並みが造られていった。(p.86)


明治末期に稲穂界隈が市街の中心地になったことはしばしば言及されるが、それ以前に沢地だったことはあまり語られない。龍宮神社のある沢地だからイナウ沢であり、稲穂沢となり、沢が埋め立ててなくなったら稲穂となったという地名も面白い。欲を言うと、龍宮神社の由来についてももう少し掘り下げて書いて欲しかった。



 明治17年(1884年)、花園町という名前が生まれたが、それまでは町名が不要なほど、人家に乏しい所だった。町名が生まれる二年前の同15年、避病所(伝染病患者を隔離、治療する所)が建設されたが、人里離れた山奥ということで選ばれたのが、現在の小樽市役所の土地だった。
 今、街の中心部に位置している小樽公園(花園公園)も同様である。明治13年、時の開拓長官黒田清隆は、小樽総代人渡辺兵四郎らを宿舎に呼び、小樽は将来、大きく発展するであろうから、公園造成を今から考えておく必要がある、と説いた。これを受けて提出された公園予定地は、水天宮裏だった。
 黒田はそれを聞いて、水天宮裏は将来、町の中心にはなり得ないとして、櫛形山(現在の小樽公園東山)周辺を逆提案、現在地に決められたという。
 実際に工事が着手されたのは明治26年だったが、人家がほとんど無かった場所が、将来小樽の中心になると、黒田は読み取っていたのだろう。今から百年近く前、原野と山林に覆われた場所に小樽公園が完成した時、どれほどの住民が現在の姿を予想しえただろうか。(p.87)


現在の市役所の土地が明治初期には「人里離れた山奥」であり、避病所が置かれていたとは知らなかった。

小樽公園(花園公園)の場所は黒田が将来を見据えて提案してきたものだったというのも面白い。



 三本木急坂側、つまり入船一帯が信香側に代わって小樽の街の中心となったのは、明治13年の鉄道開通以降からである。住吉停車場(現南小樽駅)ができ、乗降客が増えるにつれ、駅周辺には小間物、雑貨屋、料理屋が軒を並べていった。(p.91)


明治期の小樽の市街地の変遷はしばしば大火と結びつけて説明されるが、鉄道やその他の経済的な動きなどが背景になっていた面も加えて考慮すべきだと思う。



 明治28年(1895年)ごろから、北辰社は思い切った整地事業に乗り出し、高いところは12メートル以上切り下げ、低い場所は逆に12メートルを埋め立てて平坦な路面にした。
 この整地により、稲穂地区は市街地として急速に発展することになる。榎本の号が通りの名前として残っているのは、このいきさつのためだろう。(p.95)


この整地事業によって「イナウ沢」の沢が埋め立てられわけだ。鉄道(現在の函館本線)が開業することが決まったのはいつなのだろう。開業することに合わせて整地したのか別々の理由で進めていたところに鉄道が来たのかは気になるところである。