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アヴェスターにはこう書いている?
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井出明 『ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅』

左派的な市民運動が結実し、環境保護が実現した例として、知床は社会科学的にも大きな意味を持っている。世界遺産登録の際、ユネスコはこうした市民運動も重視しており、単に自然が美しいとか大切だなどという理由の他に、「市民が自然を守った」という点が高く評価されたことにも留意しておきたい。こうした経緯は環境省もほとんど言及していないが、それは林野庁の失政を明かすことにもなるのでやむを得ないのかもしれない。(p.76-77)


環境省が言及していないことについて著者はやむを得ないのかもしれないとしているが、私としては、もっと突っ込んでほしいところである。むしろ、そうした失政があったことを反省して現在の施策を進めていると政府の側が言えるような取り組みをしているのであれば、かつて失政があったとしても政府としての説明をしても何の問題もないないはずであるし、そうあるべきであろう。そうした失政をなかったかのごとく隠蔽して、やり過ごすことを許しておくことは、「やり過ごしてしまえばそれで済まされる」と官僚や省庁に学習させることになり、政府の政策決定の質を低下させることになり、問題である。



田舎の島なので地域が閉鎖的なのかと思ったが、このエリアは旧大日本帝国においては台湾との交流ルートに位置しており、人の行き来がかなり多くあった。というよりもむしろ、近代国家が意識される以前から、中国や東南アジアを含めた広い交流圏が成立していたと言ってよい。(p.84)


西表島についてのコメント。



もともと詐欺同然で本土や沖縄本島、そして当時日本領であった台湾などから集められた労働者は、口入れ屋(仲介事業者)の周旋によってこの島に辿り着く段階でかなりの借金を背負わされていた。
 島に到着した人々は、その時をもって貨幣経済から隔離されることとなった。というのも、飯場では、その内部でのみ通用する地域通貨が使われており、炭鉱の労働者に対する賃金はこの制度に基づいて支払われた。島の売店では酒などを買うことができたが、その価格は相対的に高額であり、いくら働いても借金の元金は減らず、稼いだ金は日々の消費でなくなっていったそうだ。現地でのみ通用する地域通貨を使うというということは、仮にその紙幣を握りしめて島を脱走したとしても、脱走先での生活が不可能になることを意味している。
 現代では、地域通貨といえば、経済学の教科書でも取り上げられるように地域活性化の切り札のような紹介をされるが、こちらの例が示すとおり、搾取と隔離のために地域通貨が用いられた例もあることを忘れるべきではない。(p.92-94)


前段は現代の外国人技能実習制度を想起させる。戦前と同じことが現代においても行われている。こうした事実があったにもかかわらず反省や改善が見られない点に留意したい。日本政府には事実を認識し、それに対して適切に対策をするという能力が欠けているようだ。

後段で、地域通貨が搾取と隔離のために用いられたことを指摘している点も興味深い。地域通貨というと、何かと善いものとして持ち上げられることが多い昨今だが、それにはこうした歴史があったということも踏まえておくことは重要である。過ちを繰り返さないために。



土木工事を始めるとして、男たちが集住する地域には、必ず女郎屋が出現する。これは、良いとか悪いとかといったレベルで捉えるべきではなく、いわば論理必然としての現実である。この地にも、慰安所として女郎屋が現れたのであるが、そのハードは地元住民の屋敷が国家によって接収されたものであった。慰安所の設営にあたっては、朝鮮の女衒(せげん)が活用され、いわゆる慰安婦たちも朝鮮から連れて来られた女性が多かった。
 先の労働者の説明のところでは言及しなかったが、労働者の募集にあたっても、朝鮮の現地の口入れ屋が暗躍しており、不当な詐術を用いて労働者が集められていた。(p.138)


松代大本営に関するコメント。これに類する事態は様々なところで行われていたと思われるが、個々の事例について記憶の継承をしていくことは重要である。



廃墟は、ハードウェアとして打ち捨てられた物体そのものである。一方、遺構は、客観的な見た目は廃墟と同じようであっても、そこにコンテクストを読み込み、人間の文明活動の所産として存在している状況にあるものを指す。(p.156)


著者はこれに続いて、ここにガイドと歩くことの意味があると言い、ダークツリーズムという経験においてガイドの見識は重要な意味を持つという。確かにその通りだと思われる。



 ダークツーリズムポイントでしばしば出会うガイドは、いかに大変な悲劇があったのかということを全力で語ることがよくあるが、状況を客観化できない語りは、旅人に「大変だったんですね」としか言わせられず、内面的な啓発を与えることが難しい。これは、ダークツーリズム以外の観光形態にも言え、「ここが素晴らしい」という押しつけがあると、旅人の内なる革新につなげることがやはりできない
 眼前の状況を他の地域との比較の中で述べ、最終的な解釈は旅人に委ねるとともに、旅人にゆっくりと考える時間を与えながらガイドをしてくれる専門家というのは日本ではあまりいない。(p.157)


ガイドの側からコメントを付け加えると、他の地域と比較しながら説明するという点にも、もう一つの留意事項がある。それはガイドを受ける側の旅人が持っている知識とある程度結びつくようなものを使わなければならない、と私は考えている。このため、どの人に対しても適切なガイドをするということは非常に難しいことだ、ということになる。その地域について十分に知悉するだけではなく、他のあらゆる地域の事情についても知らなければならないからである。ある意味、この辺りにガイドをすることの奥深さがあるのではないかとも考えている。



1泊2日、約80キロの旅ではあるが、足尾銅山から渡良瀬川を下り、遊水池に至る旅路には近代日本の社会問題が集中している。……(中略)……。わずか80キロの間に、鉱工業・外交・労働争議・過疎・農業・環境問題・地域間対立・除染・強制移住・土木事業・政治などさまざまに近代日本を俯瞰できるコンテンツがあり、これは壮大な大河ドラマを構成するほどであるし、現代の福島に通じる論点も内包している。にもかかわらず、コンテクストとして体系的に供される状況にはなっていない。
 これは非常に残念な状況であるが、克服の可能性がないわけではない。その役割は、旅人(ツーリスト)という非常に“無責任”な存在が担う。上流域と下流域の交流は基本的に薄いのだが、旅人は自由に行き来でき、旅先で見たことを別の場所で話をする。受け入れるホストの側は、旅人の話で啓発を受け新しい道を模索する。まさに旅という「弱いつながり」が地域イノベーションを誘発する。(p.167-168)


この指摘は本書で得た収穫の一つだった。旅という行為は、旅をする人だけでなく、旅をする地域にも貢献する可能性を秘めている。個人的には旅をして旅人が帰ってきた地域にも影響する可能性があるのではないかと考えている。


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高橋真紀 『現地在住日本人ライターが案内する 子連れで楽しむ台湾』

台湾の小学校では1年生から中間・期末テストが実施されるのです。(p.123)


台湾は日本以上に受験競争が激しいと聞くが、小学校から定期テストを行っているとは思わなかった。どのような意味合いのテストなのかが少し気になるところ。


西村幸夫、埒正浩 編著 『証言・町並み保存』(その3)
「松場登美 ―石見銀山- 足元の宝を見つめて暮らしをデザインする」より

 この家で今一番楽しんでいるのが台所です。ここでは薪でご飯を炊きます。薪で炊いたご飯は本当においしい。スイッチひとつでもご飯は炊けますが、プロセスが全く違うんです。焚付けの柴を拾いに行けば、野の花が咲いていたり、虫に出会ったり、風を感じたりという経験ができます。そして薪割りにも、火を熾すにも、気の組み方などにコツがあるんです。火吹き竹一本で火の勢いが全然違うんです。そうやって勘を働かせながら、水加減、火加減、蒸らし加減をみるんです。加減というものを今の人たちはみることがなくなりましたよね。お風呂でも温度設定をすれば、常にその温度なわけですから、「お湯加減はいかがですか」という言葉もめったに聞かなくなりました。ですが、勘を働かせるということは、すごく大事なことだと私は思っています。(p.158-159)


勘を働かせることは、感覚を働かせることでもある。反省的に頭で考える二次的なシステムではなく、直接的に身体が感じて動いていくシステムが作動する。ここで指摘されていることには、このことが関わっているように思う。



 店でも町でもキャパシティというものがあって、経済優先でそれを無視してしまうといろんな問題が起きてくると思います。(p.162)


石見銀山が世界遺産に登録されたが、この発言はその前の暫定リストに上がっていた時期のものである。知床なども世界遺産に登録されることで観光客が来て自然が破壊されることを懸念する声があった。小樽も堺町通りなどの状況は運河保存運動に直接かかわったような人々などからは批判的な目で見られている。その土地とあまり関係のない土産物屋などが増えたりする、というのは、恐らく、ここで指摘されているキャパシティをオーバーしているのだろう。



「岡田文淑 ―内子―引き算型のまちづくりと村並保存」より

市民参加というのは行政側が発する言葉で、本来、市民主体が前提にあって、その後に行政参加という言葉が出てくるのが本来の地域づくりのあり方のはずです。市民参加ということになると、主役は行政になって、行政に関わっている人たちが、「じゃあ、市民との対話を」ということになるんです。そのとき、誰を対象にしていくかというと、「肩書き組」の人。(p.184-185)


なるほど。鋭い指摘。


西村幸夫、埒正浩 編著 『証言・町並み保存』(その2)
「峯山冨美 ―小樽― 運河と共に生きるまちは過去・現在・未来に生きる人たちの共同作品」より

 今は、小樽の人たちに、自分の住んでいる町がこんなにすばらしい遺産を持っていたのか、この町で暮らせるのは本当に幸せだという意識の変化があったことが運河問題の一番の収穫だと思っています。(p.36)


運河問題は10年ほどかけて展開されてきたのだが、確かに運動が始まった頃と終わる頃では、市民だけでなく日本全体として地域の持つ歴史的遺産に対する考え方は変わった。このインタビューが行われたのは2004年であり、今から14年以上前のことだったりする。運河とその周辺の木骨石造倉庫や銀行建築などが大事なものだという認識は共有されてきたし、現在も恐らく続いていると思われる。

すなわち、小樽では運河問題という歴史的経路を通ったことによって地域のアイデンティティが形成(再形成というべきか)された。しかし、現在、運河問題を同時代のこととして生きた世代は次第に高齢者になりつつある(峯山さんも数年前に他界されてしまった)。その当時の社会の動きを肌で感じてきた人々が次第に社会の前線から見えなくなっていく。それが現在の情勢である。運河問題を通して得られたものから、今後引き継いでいくべき精神ないし方針とはどのようなものなのか?そのことを市民が見定めていくべき時期に来ているのかもしれない。



 今小樽は「雪あかりの路」(図10、11)という催しをやっています。……(中略)……。
 三十年経っても、運河を守る活動の延長に新しいまちづくりが続いていることがいいんです。形は違っても運河と小樽の町を意識するためのお祭りですから。運河を中心としたまちづくりはこれからも小樽の町に続いていくだろうと私は信じています。
西村 ポートフェスティバルが今の雪あかりの路に形を変えて伝わっているということですが、両方ともたしか実行委員会方式で、毎回役者が代わって手を挙げた人がやる形になっていますよね。あれはなかなかいい制度だと思います。同じ人がやっていくと疲れてきますが、毎年新しい元気な人が出てきて、つながっていく。(p.38)


ポートフェスティバルも雪あかりの路も「運河と小樽の町を意識するためのお祭り」というのは、非常に的確なとらえ方と思う。

実行委員会方式というのも、活力を維持しながら続けていくには確かに良い方法と思う。



峯山 私は決して市に対して恨みがましく思っていません。議会の議決を経て予算がついたものは断行するという市長さんの立場もよくわかる。それに私たちが異を唱えたのがそもそも無理なんです。私は無理を承知でみなさんとやってきた
 ……(中略)……。
西村 そうして計画は少しずつ見直されていったわけですが、あの埋め立ては峯山さんにとって許容範囲だったのか、それとも許されないのか。どうですか。
峯山 私はそういう気持ちはさらさらありません。十年間皆と運動を進めることができて、市民の意識が変わったことの方がよっぽど嬉しいのです。運河の幅ではなく、町に生きる人たちの意識の問題です。先輩のすばらしい働きがあって今があるのだ、小樽の町を大事にしようと市民が思えたことの方が意味があると思っています。(p.39-40)


本書では何人ものまちづくりの先駆者たちの証言が掲載されているが、私の見るところではやはり峯山さんが最もすごい人だと思っている。懐の深さというか、人間としての大きさが感じられるからである。無理を承知としながらも、十年間も大変な苦労をしながら運動を進めてきた。それも様々な立場の人をまとめながら。市に対する態度もクリスチャンらしい許しの精神が感じられる。



 一番困るのは、例えば「俺の小樽」とかいう変なのぼりを立てて観光業者が入り込むことです。全国の観光業者が町並み保存ができたところに容赦なく入ってきて雰囲気を壊してしまうんです。それに強く意見を言えるような役所でなければならないと思います。私は早速やめさせてほしいと役所に申し入れたのですが、自由経済の時代にそんなことは言えないと一蹴されました。(p.42)


自由経済だから言えないという当時の役所の対応は妥当とは言えないだろう。景観条例などによって規制できる可能性はあると思う。法令や条例の制定なしにですぐに行政指導的に言うのは確かに無理がありそうだが、条例制定などによって対応できる可能性は十分あるのではないか。



「小澤庄一 ―足助― 本物にこだわる古くて新しいまちづくり」より

地域づくりというのは、本当に地域らしいもの、つまり地域文化を取り入れることが絶対必要だと思うんです。だから歴史勉強の中から、世界的なものはないとしても、この地域固有のものはきっとあるはずだということを考えたわけです。(p.126)
その地域らしいものを取り入れるというのは、まちづくりの核心ではないかという気がする。それを見定めることに資するように地域の歴史などを学ぶ。峯山さんも学びながら運動するということを言っていたそうだが、このあたりのコンセプトは小澤氏と峯山さんで共通しているように思う。まちづくり運動のネットワークの中である程度共有されている考え方なのだろう。

自分の住んでいる地域なり市の「地域らしいもの」は何か、と言われると、意外なほどそれを言い当てるのは難しいと感じる。何かを見て「地域らしい」かそうではないかを感じ取ることはそれほど難しくないが。この違いはいったい何なのだろう?



大部分の周辺施設を見ましても、流行りでやってだめになったようなものが多いですから。戦略的に長い期間かけて勉強して、その中からいい計画を立てるということが足りなかったんだろうと思うんです。(p.138)


地域について学ぶ、それも戦略的にじっくりと長く、ということが重要。



 ディズニーランドの仕掛けのようにいつも投資をして目新しいことをやっていくのは企業の論理です。そうではなく地域の論理でやれることをやらないかんと思うんです。だから、いつもいつも本物を追い求める姿がなければいかんと思います。(p.139)


おそらく「地域の論理」と言われていることは、じっくりと勉強して見出した本物の地域の文化を取り入れてまちづくりを進めるということであろう。

先日読んだ小樽の事例についての研究を、この「地域の論理」と「企業の論理」という対比を用いると、現在の状況を捉えるのに役立つように思われる。

小樽運河保存運動に当てはめて言えば、小樽運河を守る会は当初、「地域の論理」に基づく主張をしていたが、当初メンバーではなくもう少し若い世代の主張は、運河や倉庫は文化的な価値がある遺産だということを理解している点では「地域の論理」に根ざしているが、観光のための活用という運動の影響力を高める効果があった部分は「企業の論理」によっても意味を見出しうるものだった。

しかし、運河問題が半分埋立てという結果となり、守る会が分裂の上、瓦解すると、実際の観光開発の主流となったのは「企業の論理」に基づくものであった。このため、地区が歴史的景観として指定されていたり、建物が文化財として指定されていたりすると容易に改変できないところもあるが、それ以外のところは次第に景観の改変が進んでおり、売られているものなども地域とはあまり関係のないものが主流になってきている。この流れを見直し、「地域の論理」を改めて導入していくことが大事な時期に来ていると理解している。


西村幸夫、埒正浩 編著 『証言・町並み保存』(その1)
西村幸夫 「「町並み保存運動」由来記――日本において「町並み保存」はどのようにして生まれたか」より

 つまり妻籠と同じような危機的な状況におかれた町並みにおいて、同時多発的に危機に目覚めた人々が出現し始めたんである。そして、町並みの危機自体が仲間の応援を要請し、それがさらなる町並み保存のネットワークにつながった。それだけでなく、町並み保存の論拠を確固としたものにするために都市計画の制度や各種事業の仕組みを学ばなければならず、そのことが町並み保存運動の深化をうながすという予期せぬ効果もあった。(p.16-17)


市民運動ないし社会運動が学びと共にあることは、町並み保存運動の特徴の一つであると思う。

ただ、市民運動とか社会運動は一般的に言ってに、そもそも学びと共になければ持続していくことが難しいものなのではないか、という気がしてきた。運動はまずは知ることから始まるし、問題を解決するためにも様々な知識に基づいて解決策を考えていかなければならないのだから。



 欧米先進国では町並み保存の仕組みは、詳細な地区計画や都市計画の中に制度として組み入れられている。そして、保存をめぐる住民の声も民主的な手続きによって都市計画へ反映させることが形式上可能となっている。したがって、町並み保存を推進しようとするグループの主張は、個別の民間運動というかたちをとるよりも、都市計画の手続きの中で意見を表明し、計画や政策へ反映させるというプロセスを取ることが一般的である。
 対する日本は、こうした都市計画制度の発達がいま一歩であり(形式上は整っていたとしても、効果的に機能しているかどうかは疑問である場合が多い)、住民の町並み保存の<おもい>はいきおい単発の運動として発現せざるを得ないということになる。
 つまり、日本の町並み保存において運動的側面が強いというのは、都市計画の制度が未熟で硬直化しているために住民の意向を汲んだ臨機応変の対応が困難であることに起因していることが少なくない(もちろん、妻籠のように都市計画以前の過疎問題が深刻だというところもあるので、一概には言えないが)。
 他方、興味深いことに、日本の都市計画が制度上の問題を孕んでいるというまさにそのことのために、日本の町並み保存運動は困難な合意形成というプロセスそのものに運動団体として取り組まなければならないことになり、結果的に柔軟な合意形成を地道に達成する能力を鍛えられていくことになったのである。(p.20-21)



制度に頼れないことから市民運動が発達してきたこと自体は悪いことではないが、安定性や持続性に欠ける。特に制度化を進めることは重要である。


陳來幸・北波道子・岡野翔太 編 『交錯する台湾認識 見え隠れする「国家」と「人びと」』
松本充豊 「民主化後の政党政治――2016年選挙から展望される可能性」より

ひまわり運動には馬政権への批判・反発だけでなく、既成政党である民進党への不満が表れた側面もあった。馬政権を十分に監督できず、国民党の横暴を許したのは民進党だった。(p.26-27)


選挙で選ばれる議員や政党が有権者を代表するというのが代議制民主主義だが、この代表が有権者の意見を代表していると認められないとき、市民運動(社会運動)を通して意見を表現するという手段がありうる。台湾では代議制が機能しないとき運動により社会に訴えることが盛んだ。国民党、民進党のいずれも不十分であるとき、制度化された代議制民主主義は、その人々にとっては役に立たないため、直接民主制的な手段を使う誘因が高まる。

ちなみに、「野党がだらしない」などと日本ではしばしば言われるが、これはかなりの程度的外れな批判である。なぜならば、小選挙区制だからである。小選挙区制は投票された数と議席数が非常に大きく乖離してしまう制度だからである。この制度の下では、与党は有権者から実際には与えられていないほど大きな権力を行使できてしまい、野党は本来与えられるべき力よりも遥かに小さなことしかできないようにされてしまう制度なのである。だから、小選挙区制では常に有権者にとっては違和感のある結果しか出ない。したがって、「野党がだらしない」と直感的に感じるとき、批判すべきは野党ではなく、選挙制度の誤りを正すべきだ(より比例的な制度を採用すべき)と主張すべきであり、さらには、与党に対して負託されたこと以上のことを恣意的に行ってはならないと批判すべきなのである。



宮原暁 「台湾とフィリピン、そして日本――「近さ」と「隔たり」の政治学」より

台北市内に「バンカ」(Bangka)という先住民の言語に由来する地名があるが、この語はタガログ語を始めとするフィリピン諸語で「船」を意味する。(p.50)


台湾原住民は太平洋の人々と関係が深い。フィリピンと台湾はバシー海峡を隔ててすぐ隣であり、台湾とフィリピンの関係の深さに着目することは台湾理解のために意外と重要な着眼点であると思われる。



ちなみに基隆と淡水で要塞の建築にあたったのは、福建省などからマニラに来ていた職人たちであったといわれる。(p.50)


大陸とフィリピンと台湾は意外と近いということだろう。距離だけでなく関係も。



やまだあつし 「1940~50年代の日台経済関係――分離から再統合へ」より

 台湾からの輸出の中心であった砂糖も、国と国との間の貿易になったことで問題が生じた。日本統治期の台湾糖はジャワ糖に比べて割高であり、日本は関税で台湾糖を保護していた。……(中略)……。しかしながら、外国となってしまった1950年代において台湾糖の割高さは、日本国にとってはマイナスでしかなかった。(p.82)


日本による台湾の植民地統治を語るとき、台湾経営は比較的成功していたと語られる。このとき、産業としては製糖業に触れられることが多い。そのような場合にジャワ糖より競争力がないので保護していたということはまず語られない。しかし、当時の社会の実相を知るにはこうした側面も含めて理解することが必要である。



近藤伸二 「ノーブランドのIT大国」より

 このような独立志向は、台湾の近代史を反映した結果でもある。戦前からの住民である「本省人」は人口の80パーセント以上を占めながら、国共内戦に敗れた国民党政権とともに戦後、中国大陸から台湾に移ってきた「外省人」が支配する公営の大企業で働く道は閉ざされていた。そのため、自分で会社をつくらざるを得なかった。台湾企業の97.7パーセント(『2016年中小企業白書』2015年)が中小企業であるのは、こうした理由による。(p.114)


中小企業が多く、企業の回転も速いという台湾社会の経済的特徴は歴史的な構造の影響も受けながら形成されてきたものという理解は社会の現状認識として重要と思われる。



 04年にはその一人である大物実業家の許文龍氏を、中国共産党機関紙の人民日報が名指しで批判した。許氏は筋金入りの独立派と見られていたが、05年になって突然、台湾紙・聯合報に「台湾と大陸は『一つの中国』に属する」と表明した書簡を発表し、台湾社会に衝撃を与えた。
 許氏が創設した樹脂大手の奇美実業グループは、中国で大規模な事業を展開している。聯合報は後日、許氏の書簡は、傘下企業が中国で円滑にビジネスが行えるようにするのと引き換えに、中国側が許氏に公表を迫ったものだと伝えた。台商は、中国に生殺与奪の権利を握られているのが現実なのだ。(p.115)


一党独裁であり、法よりも人(権力者)が優位に置かれる人治の国であり、表現の自由も結社の自由もいろいろな自由が制限されている、中国。経済活動に政治的な介入をするのが当然と思っているが、ここでのやり方はひどい。



 台湾企業にとって、中国の人件費高騰も頭痛の種だ。
 アジア各国の製造業作業員の月額基本給(15年10月時点)は、中国424ドルに対し、タイ348ドル、インドネシア250ドル、ベトナム185ドルなどとなっている。中国はもはやアジアで人件費の安い国とは言えないのが現実だ。
 ……(中略)……。
 中国では、30年以上も続いた一人っ子政策によって少子高齢化が急速に進んでおり、15~59歳の生産年齢人口は12年から減少し始めた。(p.122-123)


一人っ子政策→生産年齢人口減→賃金上昇 という経路の因果関係が存在している。

台湾企業は言語の共通性や地理的な近さなども加わり、早期から大陸に進出してきたが、このことが逆に東南アジアなどへの進出というある意味「合理的」な選択を妨げる効果も発揮しているというのが現在の台湾の状況といったところか。(新南進政策は進めている。)



王惠珍 「1960年代台湾文学の日本語翻訳活動について――『今日之中国』における文学翻訳とカルチュラル・ポリティクス」より

 1960年代初頭、アメリカによる東アジアの戦略的位置づけに変化が起こり、台湾に対する経済援助政策も見直されることとなった。そこで、国民党政権は、「旧植民者」であった日本の資本を経済発展の資源として導入せざるを得なくなり、日本をよく知る本省人の人材を起用して、日本の投資を呼び込むための宣伝になるような刊行物の主編集者とした。こうして『今日之中国』が誕生したのである。(p.125)


台湾では「美援」がなくなることで日本からの経済援助が復活するのだが、そのために雑誌メディアも活用したというのは興味深い。



黄裕元 「誰がここで他人の歌を歌っているのか――「日歌台唱」にみる、台湾人の世代交代とその交差点」より

 戦後初期の台湾で、「古い国語」となった日本語は人々から切り離され、文化商品の流通も多くの制限を受けることとなってしまった。一方、「新たな国語」となった中国語は、まだ社会的にも脆弱なものであったがゆえ、社会の共通語とも言うべき「台湾語」で創作が行われたことは自然な現象であった。(p.246)


戦後初期の台湾における言語の状況についてだが、中国語がまだ脆弱だったという指摘にはなるほどと思わされた。


水野俊平 『台湾の若者を知りたい』
★台湾には多くの友人がいるので、台湾の社会のことはそれなりに知っているつもりだったが、本書が扱う小学校入学前から大学までに至る生活については全く知らなかったことがいろいろと載っており、興味深く読むことができた。

台湾の大学では「入学式」が行われません。その代わりにあるが「新生輔導」です(「新生」とは新入生のこと)。……(中略)……。
 最初に「国旗」に敬礼して「国歌」を斉唱した後、校長の祝辞と教職員の紹介があります。これが終わると、サークルの公演や大学の各部署の紹介、大学生活のガイダンス、校歌の学習などが昼食と休憩をはさんで8時間にわたって行われます。この行事を仕切っているは大学に配置されている軍訓教官です。(p.110-111)


本書を読むと台湾の学校は日本と比較すると生徒の自主性を重んじる傾向がはっきりしている。しかし、それとはまったく方向性を異にする、独裁政権の時代(または戦前の日本統治時代)に設けられたと思われる慣習がしばしばある。こうした慣習は儀式の場面などにはとりわけ顕著に出ているのかも知れない。「国旗」に敬礼し「国歌」を斉唱するというあたりのほか、台湾の高校や大学にはここで触れられている「軍訓教官」なる軍人が配属されていることなどにそれが見て取れる。私としては、軍訓教官の存在には非常に驚いた。



「日本人はメイクや服装に気を遣う」という回答ですが、台湾人の目には、日本の女性が厚化粧に見えるようです。台湾の女性のメイクは日本の女性に比べて全般的に薄く、ノーメイクであることも多いのですが、おそらく、これは気温が高く、汗でメイクが流れやすいためです。また、気候が暑い台湾ではTシャツにショートパンツだけでも十分で、服装に気を遣う必要がありません。そのため、台湾人には、日本人が男女問わず外出時の服装に非常に神経を使うように見えます。(p.172-173)


台湾人が服装にそれほど気を遣わず、メイクも薄いのは、暑い気候が要因であるという点と、このように薄化粧であることが普通である社会から見ると、日本人はメイクや服装に気を遣っているように見えるという。なるほどと思わされた。


大野哲也 『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』(その2)

旅する地域には旅の難易度があると考えられていて、難易度の高い地域を旅することで、旅人はステイタスや自尊心を高めていく
 地域別の難易度ランキングや困難性の分析は、現在、日本人バックパッカーが、情報収集のために急速にその依存度を高めているインターネット内でもさかんにおこなわれている。表現に差異はあるが、そこではおおよそ、簡単な東南アジアから最難関のアフリカに至るグラデーションで構成されている。そしてまた、実際に旅をしている日本人バックパッカーも似たような地域観を共有している。
 旅のステイタスはそれだけではない。旅の年数、何カ国旅をしたか、旅でどのような「珍奇」な経験をしたかなど、旅にまつわるあらゆる要素が、旅人のステイタスを測るモノサシへと変換される。これらの要素を、ゲストハウスなどで出会ったバックパッカーと、なにげない会話をとおして互いに提示しあうことで、暗黙のうちにみずからの位階序列を確定させていくのである。バックパッカー・コミュニティで、ゆるやかで流動的なヒエラルキーが形成されていくのだ。
 ……(中略)……。
 カーターによれば、旅人の出身地域と旅する地域の文化的な距離によって旅の難易度が判断される、つまり、日本人にとっては、アフリカや南米などよりも、東南アジアのほうが文化的な距離が近いので、日本人バックパッカー・コミュニティでは東南アジアの旅の難易度は低いと評価されるのである。(p.118-120)


旅する地域には難易度があるという見方は、確かにあり、暗黙裡にある程度共有された見方となっているように思われる。

そのため、カーターの説には説得力があるが、私見では経済的な水準の近さも大きな要因であるように思われる(経済力の水準は、水道や交通機関などのインフラ整備の状況などにも影響し、インフラ整備の状況は人々の個々の振舞にも影響するので、経済水準の差異と文化的距離の大きさとは相互に影響し合う要素であるとは思われるが)。ある程度経済的に豊かな地域や旅人が住んでいる地域と同じ程度の経済水準の地域に旅をするのは相対的に容易であり、旅人が住んでいる地域よりも経済的に貧しい地域に行く方が何かと不便であるため難易度は高いと言えるのではないか。

ただ、これは「地域観」というだけでなく、「当該旅人にとっての難易度」をある程度は反映しているのではないか。少なくとも私自身の実感としてはそのように感じている。



大野哲也 『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』(その1)

バックパッキングは、ことばも通じない右も左もわからない異国の地を、現地社会に全身全霊を浸らせながら自力で進んでいかなければならない旅である。その異文化体験をとおして味わう、スリル、達成感、恐怖心と克己心などの総体が旅の面白さを構成している。そして波乱万丈の旅をやり遂げた自分を振り返ることで、旅人は自分が成長したことと自分が変わったことを実感することができるのである。(p.42)


旅の面白さを非常によく言い当てているように思う。

ただ、本書では、日本人バックパッカーたちが、実は異文化体験をあまり志向していないことや、スリルや達成感などもマニュアル化され、商品化され、消費されるものになる傾向などが指摘されており、そうした側面があるという認識に基づく留保はつけられることになる。この指摘も妥当なものと思う。

そして、本書ではアイデンティティと旅との関係において、ここで述べられている「旅をやり遂げた自分を振り返ること」が果たす機能に焦点が当てられているのが特徴的な観点であると思われた。



だが、旅の面白さが自己変革や自己成長と接続する可能性がつねに開かれているという開放性こそが、バックパッキングの大きな特徴であり、バックパッキングの魅力を増大させているのである。(p.43)



この指摘にも同感である。上述の「波乱万丈の旅をやり遂げた自分を振り返ること」によって、成長した自己像が描かれ、自分自身が成長したという実感へと繋がっていく。本書ではこの点について、成長した「実感」という表現までで止めているように思うが、現実の社会での活動に変化が生じており、それがその社会の「共通善」を志向しているのであれば、それは「成長した」と言ってもよいのではないかと思う。

なお、本書のこの後の議論を踏まえた(やや先回りしすぎな)コメントになるが、この点は、本書の見方と私の見方の分岐点になっているように思われる。日本社会の中に回帰することを「前進主義的価値観」の元に回収されたものと見る本書の見方は、日本社会の中に存在する価値観を過度に単純化しているように思われる。アイデンティティは個人が持つものではなく、社会の中でのみ意味を持つものだとすれば、そして、社会の中での役割や立場、自分の「居場所」こそがアイデンティティの根源であるとすれば、元々住んでいた社会に回帰し、そこで新たな立ち位置を見出し、自分自身が満足しながら社会に貢献できる道を見つけたのだとすれば、それは実際に成長したと言ってよいはずである。

逆に、本書が評価する(本書ではこの言い方は使っていないと思うが)ノマド的な生き方は、もともといた社会の中には居場所を見つけることが「できず」、やむを得ず、複数の社会の間で、それら(が作り出している制度)に「貢献する」よりは「利用する」ことで何とか居場所を確保しているにすぎない。この「貢献」の少なさを私は低く評価したい。例えば、社会保障制度をつまみ食いしている点などに、それは象徴的に表れている。つまり、住民票を置いたまま国保に加入せずに他人の保険証を使用するといったことを本書は知恵があるとして称揚しているが、これは詐欺罪に該当する犯罪である(少なくとも、国保法や健保法には違反している)。(なぜならば、医療機関を錯誤させることで医療機関から保険者に不正な請求をさせ、保険者から不正に給付を受けている。)また、社会に住んでいる人が拠出している保険料や税金に便乗しながら、この人は保険料や税を払ってくれた人々に対して何の貢献をしているのか、ということも考えなければならない。こうした行為を高く評価することは妥当な評価とは言えない。



 こうしたサイクルが成立する一因は、冒険的な旅の経験によって刷新された「個性豊かでタフ」という自己が、「強い者が勝ち、弱い者が負ける」という資本主義のルールときわめて親和的だからである。このサイクルのなかで、日本社会で支配的な価値観からの解放を願って旅に出たバックパッカーの多くは、結局は日本社会が強制する前進主義的価値観に自発的に服従し、かつて逃走を試みた社会秩序へ再参入していくのである。(p.52-53)


「個性豊かでタフ」をよしとする価値観が資本主義のルールと親和的であるという指摘はなるほどと思わされた。

しかし、一点だけ疑問がある。もし、本書が言うようにバックパッカーの多くが「日本社会で支配的な価値観からの解放を願って旅に出た」としても、日本に帰ることを始めから意図せずに旅に出発するバックパッカーがどれほどいるのか、という点である。本書の観点ではここが抜け落ちているように思われる。

多くのバックパッカーが始めから帰国の意図を持たずに「解放」を願って出国しているというのであれば、本書がここで指摘している内容は十全なものと言い得ると思うが、そもそもバックパッカーたちの殆どは帰国することを前提して旅に出ているのである。価値観から解放されたいと思っているとしても、一時的にそこから身を離すことで、より落ち着いた環境の中で自分自身の身の処し方を再構築したい、といった考え方なのではないか。この発想自体は「前進主義的価値観」とは何の関係もない。他の価値観の社会であっても十分あり得る発想である。



バックパッキングという実践が、生きる意味について葛藤し自信を喪失していた者に、生きる希望を与え新たな活力を付与したことはまぎれもない事実なのである。さらに今まで想像すらしたことがない生き方が世の中には多く存在することを、身体のすべてを使って知ることで、彼らの人生観や価値観が根底から変化する可能性もある。
 彼らがバックパッキングをとおして得た自信と確信は、彼らがこれから歩もうとする新しい人生のステージで、新たな地平を切りひらく原動力になり得るのだ。つまりマクロレベルでみると既成の価値観の再生産につながっているものの、ミクロレベルでみれば個々人の生を活性化させる力がまぎれもなく備わっているのである。(p.53-54)


バックパッキングがミクロレベルでは生の活性化という機能を持つことについては全く異存はない。マクロレベルで既成の価値観の再生産に繋がっているということ自体も表現としては誤ってないと思う。ただ、既成の価値観を「前進主義的価値観」に回収しきってしまうような扱い方と、バックパッカーたちがこの価値観とは相容れない価値観を持とうとしているかのような扱い方には、単純化しすぎであると批判しておきたい。一時的に既存の価値観から離れて自分の考え方を再調整したいという発想は、既存の社会の中での自分の役割を考え直すことであって、既存の価値観を否定することではないと考える。このように考えれば、バックパッキングは合目的的な行為となっていると言うことすらできる。



 このようなプロセスを経て日本人バックパッカーがひとつの場所に集まり、沈潜者と新参バックパッカーが親密になり交流を深めることで、たとえ沈潜者が日本人宿コミュニティから移動していったとしても、情報だけは、残された者に引き継がれ蓄積され続けていくのである。さらに蓄積された情報をもとに旅を遂行することによって、彼らの多様であるはずの旅の経験はひとつのモデルへとゆるやかに収斂していく。相似形の旅物語が生産されていくことになるのだ。(p.85)


この指摘ももっともだと共感する。実際、バックパッカーが泊まる宿を転々とすると、以前別の国(都市)で出会った旅人と再会することはしばしばある。(イスファハーンで出会った旅人とイスタンブールで偶然再会するといった経験は私にもある。)こうした画一化には確かに本書が批判するような、「本来のバックパッキング」からの乖離はある。

しかし、そもそも旅のあり方は時代によって変わるものであり、バックパッキングが始まった時代の旅が最高のものであったと言える根拠は特にない。ガイドブックや情報によって収斂していくことは確かに画一化の方向性ではあるが、なぜそのに画一化するのかという理由を考えると、それは市場によって良い商品が選ばれるのと同じである。誰かが既存の情報とは違う情報を書き込んでも、それと同じルートで旅をした人が良いと思わなければ、そのルートは他の旅行者に追随されることは(あまり)ない。それと違う道を行きたい人はそこを行けばよく、そうでない人は良いとされている道を行けばよい。それだけのことではないのか。なお、ここではブローデルに倣い、「市場」と「資本主義」とは同一のものではない、と断っておこう。



異文化経験を熱望する一方で、日本的なものを強く求める二律背反性が沈潜型バックパッカーの旅の核心であるなら、バックパッカーの再生産は避けられない帰結であった。(p.85)


沈潜型バックパッカーには会ってみても今一歩、彼らの価値観というものは理解できなかったのだが、本書の指摘は、こうした一面はありそうだと思える内容であり参考になった。



野嶋剛 『台湾とは何か』(その2)

 明治維新を経験した日本は、欧米からの制度や技術の輸入による近代化を成し遂げ、清朝を戦争で打ち破り、台湾経営に乗り出した。日本の統治は苛烈なものだったが、日本が台湾に移植したものは、日本自身が学んだ近代だった。そこでは、限界はありながらも、言論の自由や法の支配、教育の普及、行政の平等主義などが実現され、統治50年を経験した台湾には、そのエッセンスがすでに根づいていた。台湾の人々のなかには自らを日本人と見る人もいれば中国人とみる人もいたが、共通するのは、近代人になっていたことだ。
 日本が去り、中華民国がやってきたとき、台湾の人々は「祖国復帰」を本気で喜んだ。しかし、その期待はあっという間に裏切られる。大陸の中国人は、前近代の世界に生きていた人々だったからだ。(p.240)


大胆に単純化しているが(様々なものを捨象してしまったり、多少の誤認を導く要素もないわけではないが)、当時の台湾の人々が大陸から来た中国人に対して感じた違和感の原因を非常に分かりやすく説明していると思われる。

ある意味では、現在でも台湾の人々の多くが、大陸の人々に対して同様の違和感を感じ続けているように思われる。(台湾の人々が中国の人びとよりも韓国や日本の人びとに対して、よりシンパシーを感じる場面は少なくないと思う。少なくとも私の知る「天然独」の人々にはほとんど当てはまると思われる。)



 民進党を勝利させ、国民党を敗北させたのは「台湾は台湾」と信じる人たちの群れであった。台湾に生きる人がそう考えているのであれば、我々もその政治的現実を受け止めるべきである。そのうえで、台頭した大国・中国とどう距離を取るべきか、どのような政治体制が台湾にふさわしいか、中台関係の平和的解決や安定的マネジメントの解答がどこにあるのか、といったテーマを積極的に議論していきたい。そこに立場や意見の分岐があることは極めて健全なことである。不健全なのは、何も考えないことであり、思考停止を続けることだ。(p.259-260)


同意見である。