FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

中西聡 『近世・近代日本の市場構造 「松前鯡」肥料取引の研究』

 つまり鯡魚肥生産が開始された近世中期には、両浜組商人―荷所船―敦賀問屋―大津納屋のルートで鯡魚肥は輸送され、近江・畿内で鯡魚肥は主に使用された。日本海から下関を経由して直接海路大坂へ輸送する西廻り航路は、寛文12年(1672)に河村瑞賢によりすでに整備されていたが、鯡魚肥は依然として敦賀から陸送されるルートで輸送された。その背景には敦賀問屋・大津納屋衆と近江商人の強固な結合があり、そのため西廻り航路の整備によって直ちに北海道から大坂までを直接結ぶ海運網が形成されたわけではなく、日本海航路では依然として船の活動範囲が地域的に限定されていた。(p.69-70)


この辺りのことについて、簡単な説明を聞くと、西廻り航路ができるとすぐにそこを通って運ばれたかのような印象を受けてしまうことが一般的だと思う。実際にはすぐに西廻り航路が鰊魚肥の流通路になったわけではなかったというのは、やや意外だった。



日本海海運は遠隔地間「交通」の典型的な例であり、菱垣・樽廻船における江戸・大坂間の価格差に比して、北海道・大坂間の価格差ははるかに大きかった。とすれば日本海海運においては、価格差を利用して大きな利を得られる自分荷物積の方が船主にとって有利であり、実際19世紀には北海道産商品は長崎俵物など一部の御用荷物を除き、ほとんどが自分荷物積で運ばれた。(p.73)


北前船の商売のやり方も、その背景には北海道と大坂との物価の価格差が大きかったという条件があったということを理解しておくことは重要。明治になり交通や通信の技術が発達し、普及してくると、こうした環境はなくなってしまった。



このように三井物産と近世来の諸勢力が正面から競争した函館・大阪市場では、近世来の諸勢力の団結が明確にみられ、三井物産に対してグループとして対抗し、資金力や価格支配力に現れる三井物産の取引上の優位性を押さえ込んだ。逆の見方をすれば、三井物産の進出が結果的には近世来の諸勢力間の競争を制限させ、近世来の諸勢力同士の協調を促し、明治20年代の鯡魚肥市場をより競争制限=安定的な方向へ進めた。(p.323)


三井物産に対抗するために近世来の諸勢力が結束して対抗したため、三井物産は鯡魚肥の市場から撤退させた。次に引用するように、この後、国内の市場を十分に確保できなかった三井物産は外地や外国への進出を強めていった。この辺りは非常に参考になった。



 三井物産はそれに対し、樽前漁業組合と委託販売契約を結び(明治23年(1890))、北浜漁場産物も扱ったが、十分な利益を上げるに至らず、明治28年に栖原家より漁場を譲り受け、北海道漁業部を設置して鯡魚肥生産に乗り出した。しかし北海道漁業本部(北海道漁業部を明治31年に改称)も十分な利益を上げられず、明治30年代初頭に、逆に小樽出張所・函館支店を廃止し、鯡魚肥市場から徐々に撤退して肥料取扱の中心を「満洲=中国東北部」産の大豆粕へ移した。……(中略)……。
 ……(中略)……。この間米穀取引でも三井物産取扱高は、明治23~27年にかけて減少しており、こうした国内市場掌握の限界性が、明治30年代以降の三井物産の積極的な海外市場進出の背景にあったと考えられる。(p.337-339)


国内市場を把握しきれなかったがゆえに海外市場に目を向けざるを得なかったというのは、現在から見る三井のイメージとは乖離があり興味深い。


スポンサーサイト



黄昭堂 『台湾総督府』(その2)

 台湾の建設が、在台日本人の努力のみに頼ったものではなかったにもかかわらず、支配者としての内地人の台湾人蔑視は無垢の子にも教えこまれていく。そして、せっかくつくられた中等以上の学校は公平な競争によらないで、こうした「二世」によってしめられた。そして台湾青年は台湾で高等教育を受ける機会が少ないから内地へ行く。ところが泉風浪も指摘しているように、「内地で高等教育を受け、郷土台湾へ帰へって来ると、大手を拡げて待っている筈の仕事は皆無と来てゐる」(泉、前掲書、341頁)。官学万能のためのみではない。台湾人が差別待遇を受け、採用されないからである。
 しかし、こうした差別待遇よりも、「蔑視」が台湾人の心を大いに傷つけた。親日知識人たることを自任して一生を終えたある台湾人は、「日本の台湾総督は“一視同仁”ひとしく日本人なりと唱えてはいたものの、本島人である我々からみると差別が多く、何んとしても我慢ならなかったのは、正式に日本国籍にある本島人を、中国人に対する蔑称(チャンコロ)で呼ぶ内地人が多かった事である」とその遺稿につづっている(周慶源 『台湾人からみた日本人の英知』 蔵元文焜発行、59頁)。
「チャンコロ」だけではない。
「儞(リー)や」ということばがある。これはふつう、雇い人、車夫、物売りの人たちに呼びかけるばあいに使うといわれるが、内地人はふだん台湾人に呼びかけるときに平然と使う。「おい、こら」もよく使われ、また台湾人のことをいうのに「土人が土人が」と頻発するのに台湾人は耐えがたい侮辱の感をおぼえたと、台湾を訪問した衆議院議員田川大吉郎も報告している(田川 『台湾訪問の記』 127頁)。(p.247-248)


これに類することは、本書以後にもいろいろと指摘されており、基本的な内容は同じである。それだけ台湾の島内で普遍的にみられた現象であったということだろう。

私は最近、いじめ問題についても考えているが、台湾人に対する差別と基本的な構造というか、差別する(いじめる)側のまなざしは限りなく同一と言ってよいように思う。


黄昭堂 『台湾総督府』(その1)

 ところで、台湾史の時代区分において、研究者は清国統治時代と日本統治時代のあいだに「台湾民主国時代」をいれることをさけている。台湾民主国の存続期間が短かったこと、支配権力の実体が不明であることのほかに、研究者が意識的もしくは無意識裡に政治的配慮を加えているように思われる。
 日本帝国についていえば、台湾民主国の存続期間が台湾総督府による支配の初期と重複しているゆえに、それを認め難いであろう。中華民国についてみれば、台湾が一時的であるとはいえ、「独立した」との事実を認めるのは、現在の政策上、不都合であろうし、これは中華人民共和国のばあいも同じである。これら支配者や「支配者的立場」にある国とは別の立場にいる台湾人にしても、台湾民主国の政府要員の多くが、清国官吏であったことや、総統としての唐景崧の清廷への通電で、さかんに「朝廷にたいして他意はなく、忠誠である」ことをるるとして述べていることに違和感をもっているであろう。台湾民主国が台湾史の一時代を画したとの評価を得られなかったのは、このためである。(p.47)


本書は台湾に戒厳令が敷かれていた1980年代に書かれた本であるため、ここでの「中華民国」の立場は、現在の中華民国政府の立場とは必ずしも一致しない。現在の台湾の中華民国政府の国民党の歴史観からすると、確かに台湾が独立した時期があったとするのは都合が悪いことになる。台湾は中国ではなく台湾であるという感覚の台湾人から見ても、本書が言うように、清朝に忠誠を誓うような姿勢であったのであれば、清国統治の一部でしかないということになる。

個人的には、蝦夷共和国と台湾民主国を比較してみたいと考えているのだが、旧幕臣たちが指導層だった前者と旧(?)清国官吏が指導層だった点は類似点と言える。リーダー選出を選挙で行うという点や短期間で制圧されたことなども類似点だろう。ただ、清朝が日清戦争で負けた結果、条約により台湾を割譲することを決めているのに、現地で日本に抵抗を示した台湾民主国と、幕府が内戦で敗れたことに納得できない旧家臣たちが辺境の地へと逃げて体制を立て直そうとした蝦夷共和国とでは、住民との関係性は異なっている面があるかも知れない。



 その反面、日本の台湾領有によって、台湾と沖縄との境界は、むしろあいまいなままに残されることになった。そしてそれは「尖閣列島の帰属問題」として、今日にいたるまで尾を引いている。(p.49)


なるほど。確かに。



 しかし有能な将官だからといって、必ずしも行政能力を持っているとはかぎらない。そこで一般行政を担当する民政部門の首脳に行政手腕が期待されるのである。(p.59)


台湾総督が初期には武官であったが故に、民政長官のような民生部門のポストが必要となり、後者が日常の政治を司るような体制になった。この辺りの理解は本書のおかげで深まったように思う。武官総督時代が終わり、文官になっても残されたあたりも興味深い。



 乃木総督が手をやいた抗日ゲリラは児玉・後藤時代でも変わりはなかった。後藤の告白によると、かれが赴任した明治31年から35年までの5年間に、総督府が殺害した「叛徒」は1万1950人に達している(後藤新平著・中村哲解題『日本植民政策一斑』64頁)。日本が台湾を領有してから明治35年までの8年間に、日本政府側の統計にあらわれている分だけでも、台湾人の被殺戮者数は3万2000にんに達するのである。これは台湾人口の1パーセントを上まわる。ことに児玉・後藤コンビ時代の台湾人殺害数が、初期の台湾攻防戦時に匹敵することにあらためて注目すべきである。(p.83)


こうした点は児玉・後藤時代の称揚する傾向が強い日本側の記述では触れられることはほぼない。本書では、私が近年日本側で出版された本で読むよりも、抗日活動はより活発であり、長期にわたったことが強調されている。これが研究の進展により訂正されたものなのか、著者の立ち位置の違いから出てきているものなのかが気になるところである。



 しかし、原内閣が成立した大正7年以降、状況は一変した。例外を除いて、台湾総督および総務長官の座は政治色が濃くなり、中央における政変に連動して、政党的人事がむしろふつうになった。その先鞭をつけたのが、原政友会内閣による田健次郎の任命である。(p.109)


台湾総督や総務長官(民政長官に相当)の人事や台湾で実施された政策の意味を理解するに当たって、本国の政治状況と結び付けて見ることで見えてくるものが結構ある。この点の認識を深めてくれたのは、本書からの収穫だった。



文官総督時代から顕著にみられる台湾・朝鮮での同化政策は、こうしたナショナリズムの運動法則と合致するものである。異民族=植民地人を同化するには、「教化」もさることながら、その地位の向上をもはからなければならない。(p.146)


内地延長主義への政策転換については、ナショナリズムに基づくという面と地位向上にも繋がるというリベラルな面があった。ナショナリズムは右派と考えられ、リベラルは左派と考えられることが現代では多いが、これらは特段矛盾はしないものであるという認識も重要だろう。



 初等普通教育においては従来と同じく、小学校は内地人子弟、そして公学校は台湾人子弟のための学校であるが、大正8年(1919)からは例外的に、相互の小・公学校への入学が可能になり、大正11年の台湾教育令(勅令第20号)によって、「国語を常用する者は小学校に、常用しない者は公学校に入るべきもの」と規定された。形の上では、国語(にほんご)能力による選別になったわけである(253頁参照)。(p.147)


小学校と公学校というシステムとこれらのシステムに基づく進学などの差別があったという批判は確かに妥当なものではある。ある意味、既定としては最初から日本語能力による選別としている方が妥当だったのではないかとも思う。小学校と公学校という学校の区別自体がない方がよかったのかも知れないが、日本語の初歩から教えなければならない児童と、日本語を母語とする児童とを日本語話者の教師が同じように教えるというのは、かなり無理のある設定である。どのようなやり方が最善だったのか、この問題は考えるといつもモヤモヤする

(植民地支配という前提が誤っているのだから、何の問題もない方策などないのだが、当時の国際社会の状況下や人権意識の程度などを考えると、現代的な視点からの批判は、必ずしも当時とり得たであろう現実的な方策を示唆しない。)



 昭和3年に開学し、最終的には文政・理・農・工・医の五学部を擁する台北帝国大学は学生数約500(昭和18年)だが、講座数は114、教官は助手をのぞいてなお163人もおり、学生3人に教官1人という恵まれた大学であった。……(中略)……。
 戦後、台湾人が親日的傾向に転じたのは、かつて自分たちが教えを受けた国民学校をはじめとする各級学校の教師への敬愛の念がそうさせたのであり、それを、「日本の統治がよかったからだ」と曲解する日本人が多いのは、きわめて残念なことである。(p.190-191)


前段の台北帝大についての指摘は、この大学は統治のための研究のための機関であり、教育より研究を重視していたということが表れているのではないだろうか?という気がする。

後段の指摘は日本人はよく理解しておく必要がある。また、戦後に生きた世代は統治初期の抗日運動が激しかった時代を経験していないということも重要なポイントだろう。



 発電力は昭和12年に17万キロワットであったのが、6年後の昭和18年には倍増して35万7000キロワットに躍進したが、これは台湾が軍需生産に追い立てられた賜物である(以上の数字は台湾総督府『台湾統治概要』による)。
 このように躍進はめざましかったが、多くの矛盾をはらんでいた。台北帝大は農・医学部をのぞけば、ほとんど日本本国人子弟専用の感があり、台北高等学校ですらそうであった。多くの台湾人学生は台湾での高等教育が受けられずに「内地留学」を余儀なくされた。もちろん私立大学に入るのがほとんどで、ことに明治大学、早稲田大学に学んだ人の中から人材が輩出した。本国政府および総督府は意識的に、人文・社会科学を学んだ台湾人を登用しなかったため、東京帝国大学を卒業した台湾人学生(全期をとおして計130人程度)ですら、その多くは官途を閉ざされたままであった。(p.192)


昭和12(1937)年に日中戦争が始まると台湾も軍需のために工業化が進んだことがわかる。

人文・社会科学を学んだ人に対する警戒感は台湾人に限ったことではなく、特に後発の帝国大学(東北、九州、北海道)で文系の学部の整備が遅れたことなどにも強くそれが反映している。この傾向は、現代の日本でも社会科学を十分学ぶ機会が少ないことなどの形で継続しているように思われる。(これが政治に対する感度が低い人が多いことに繋がっていると思われる。)



日本帝国の領域内において、台湾はもっとも稠密に警察が配置されていた地域である。(p.234)


初期の抗日運動や抗日ゲリラがそれなりにいたことの影響か。



 その結果、10年後の明治38年(1905)には、在台日本人の10.3パーセントにあたる6710人が台湾語(福佬話、客話、高砂族の各種言語のいずれか)を「話す」ことができ、しかもそのうちの208人は、それを常用語にしていたという(『明治38年臨時台湾戸口調査記述報文』232頁)。「話す」とはいっても、どの程度まではかは明らかではないが、台湾領有10年にして、このような高率をみせたのは、台湾人の日本語教育が未だに普及せず、日本人の日常生活と公務執行上の必要性にせまられたからであり、必ずしも台湾語を尊重したからではない。(p.244)


この指摘は興味深い。


木村光彦 『日本統治下の朝鮮 統計と実証研究は何を語るか』

 1919年の万歳騒擾事件は日本政府・朝鮮総督府に大きな衝撃を与えた。政府は、併合以来の強権的統治を見直し、朝鮮人に融和的な政策を採ることにより民心の安定を得ようとした。(p.32)


1919年というと大正8年にあたるが、一つの事件だけのインパクトというよりも、その前年の原敬内閣の成立のような大正デモクラシーの流れというものも考慮すべきであるように思われる。同じ1919年には台湾でも文民総督が置かれ、内地延長主義による統治へと移行した時代であったことが想起される。



朝鮮の一人当たり国民総生産は、内地の3-4割、台湾の6-7割にすぎなかったからだ。(p.42)


戦前の朝鮮が台湾より経済的に低い水準だったというのは、やや意外だった。当時の日本国内では、朝鮮総督の方が台湾総督よりも地位が高かったとされることなどからも、それは言える。



 以上の結果、補充金と公債金が朝鮮財政に欠かせなかった。言い換えれば、朝鮮財政は内地依存から脱却し得なかったのである。(p.43)


この点から見ても、植民地台湾と比較して植民地朝鮮は内地(日本帝国本国)にとって経済的には有用性が低かったことになる。上述の総督の地位のことなども考えると、それだけ政治的・軍事的な意味が大きかったということか。



 総督府は、武断政治の強化あるいは恐怖政治(強制収容所や広範・稠密な秘密警察網をともなう)ではなく、それとは逆の融和政策への転換を通じて、反日運動をコントロールし得たといえよう。(p.44)


融和政策は統治の目的に沿って言うと、それなりに有効に機能したらしい。



 要するに朝鮮の特徴は、貨幣経済の進展が換金作物の増産を促進しただけでなく、耕作法の変化を引き起こした点にある(日本統治下台湾も同様である)。この事実から、朝鮮の農民は東南アジアの農民に比べ、市場機会にいっそう積極的、革新的に反応したと言えよう。(p.51)


日本の統治下に入ることによって、ウォーラーステインの言う近代世界システム(資本主義世界経済)により深く組み込まれたと言えそうである。



 産米増殖計画は、帝国日本で最初の大規模な農業開発といわれる(東畑・大川『朝鮮米穀経済論』12頁)。それを立案、実施したのは朝鮮総督府であった。総督府はこの面からみても、たんなる行政機関ではなかった。同計画は総督府が、米作という産業の開発を推進する一大企業体でもあったことを示している。(p.53)


単なる統治機構というだけでなく、産業開発を推進する企業体的な側面があるというのは、北海道の開発からの共通点かも知れない。植民地統治機構のこの性格についてはもう少し掘り下げて調べてみても面白いかも知れない



 1910年代後半、朝鮮大豆の移出量は急増する(1914年、50万石、19年、130万石)。それは、第一次世界大戦の影響で大豆相場が急騰したからである。移出量は、以後も高い水準で推移し、1930年代、移出対生産比は2-3割にのぼった。(p.55)


この点も北海道と共通ではなかろうか。



 共産主義(マルキシズム)と反共的国家主義(ファシズム)はまったく相反する思想のようにみえる。しかし全体主義(totalitarianismあるいはcollectivism)という点では、そうではない。全体主義の核心は、個人の自由な政治・経済活動を禁じ、国家にすべての権力を集中することである。共産主義と反共的国家主義は、この特徴を共有する。
 ……(中略)……。
 帝国崩壊後の北朝鮮では、大きな混乱なしに政治体制の転換が進んだ。その要因のひとつがここにある。体制転換は、統治の理念あるいは精神の根本的変革を必要としなかったのである。
 戦前朝鮮には、内地以上に自由主義の精神が乏しかった。戦時期、それまでにかなりの発展をとげた市場経済・自由企業制度が破壊されると、全体主義が政治、社会、思想、そして経済を支配した。この上に、ソ連が共産主義を移植した。それゆえ、相対的に少数の異分子、すなわち自由主義的知識人、宗教信者とくにキリスト教徒、企業者を放逐すれば、北朝鮮内部に体制を揺るがすものは残らなかった。
 このように戦時・戦後北朝鮮は、全体主義イデオロギーの点で連続していた。
(p.178-179)


なるほど。共産主義とファシズムが全体主義という点では共通しているというのは、以前から同意見であるが、現在の北朝鮮は戦前の大日本帝国と地続きに形成されてきたという視点は参考になった。


吉田秀樹+歴史とみなと研究会 『港の日本史』

 大津百艘船は享保年間(1716~1736)に1300艘を超える船を保有していたという。琵琶湖水運の最盛期をこの時期に求めることもできるが、敦賀に陸揚げされる物資の量でいえば、寛文期から元禄末期(1661~1704)までの約40年間でほぼ半減している。これは河村瑞賢いよる西廻り航路の開拓が大きく影響している。
 従来の琵琶湖を介した輸送では、北国の物資は敦賀において一度陸揚げしなければならず、問丸(輸送業者)への手数料などの面で不便があった。一方の西廻り航路では、北国の物資は関門海峡から瀬戸内海を通って大坂へ、紀伊水道を抜けて江戸まで陸路を使わずに運ぶことができた。これに打撃を受けた大津百艘船は次第に衰退し、1766(明和3)年には39艘にまで減少したという。(p.46-47)


西廻り航路は北前船に多少の興味を持っている者であれば、必ず耳にするものであるが、これができる前は琵琶湖の水運が繁栄していたというところまで繋げて理解すると、北前船の運営に近江商人が積極的に関与し、活躍していた時期があることとの関係性が見えるように思う。近江商人はもともと琵琶湖水運で利益を得ていたが、こちらよりも有利なルートが開拓されたことを察知し、西廻り航路を利用した北前船によるビジネスに乗り換えていったため、北前船の歴史においても近江商人が大きな役割を果たしたのであろう。



 日本に招聘したオランダ人のように、欧米の進んだ科学技術や社会制度を学ぶために、日本政府が雇った西洋人を「お雇い外国人」という。じつは、同じような存在は江戸時代にもいた。(p.168)


江戸時代にも「お雇い外国人」と同じような人々がそれなりの数いたという認識は重要である。明治維新を美化する立場のホイッグ史観(薩長らの明治政府が江戸幕府を倒したことを正当化する立場から描かれた歴史叙述)で見ると、江戸幕府は近代化に後ろ向きであり、それに抵抗したかのようなイメージで、必ずしも事実と一致しない像が描かれることになる。西洋の技術の導入などは明治政府でなくても江戸幕府が既にやっていたということを理解している方が、より公平かつ適切に歴史を認識し、評価することができるだろう。



 明治時代に築港をはじめとする近代的なインフラ設置に関わったのは、オランダ人、イギリス人技術者である。インフラ面においていえば、日本の近代化を先導したのはイギリス人技術者だったが、こと築港や水運に限っていえばオランダ人技術者たちが主流であった。というのも、当時の港湾・河川は海運・水運を目的としていたからだ。(p.169)


分野によってどこの国の影響を強く受けたかが違い、それも時期によって変わっていたということは他の本などで指摘されていたので一応の理解はしていたが、ここでの指摘について言えば、私としてはオランダにはあまり港湾のイメージはなかったのでやや意外な感じがした。


荒松雄 『インド史におけるイスラム聖廟』(その2)

 以上、トゥグルグ朝後期の史書の記述を引用しつつ、スルターン=フィーローズ=シャーの治世におけるスーフィーを含めた宗教者の処遇の改善、ハーンカーや宗教建造物の建設や改築・補修事業の進展、あるいは、公費によるダルガーおよびハーンカーの維持といった事実などについて、その一端を紹介してきた。ズィヤーウッディーン=バラニーやシャムセ=スィラージュ=アフィーフの如き宮廷史家、あるいはスルターン自身の手になるという文献だけに、その記述の内容には、若干の誇張が認められることは致し方ない。しかし、これらの叙述によって、大筋においては、トゥグルグ朝後期のスルターン=フィーローズ=シャーの治世には、さきのムハンマド=シャーの時代に企てられたスーフィー教団の抑圧、あるいは権力によるスーフィー聖者の統制・支配といった政策が、大幅に転換をみたことが、ほぼ推察されるのである。……(中略)……。
 これらのことがらは、右に私がいくつかの例を挙げて紹介した同時代の文献の記述内容によって推察されるばかりでなく、スルターン=フィーローズの治世に造営されたと思われる建造物が、デリー地域に残存している一部のダルガーの内域やその周辺の地に見出されることや、その時期に造られたと思われる建造物で、今日なお往古のシェイフたちのハーンカーあるいはチッラーガーchillagahと伝えられている遺跡が残っているという事実によっても裏づけられると思うのである。それらの遺跡のなかには、スルターン=フィーローズ=シャーの名やその治世に当る年次とを記している歴史碑文が現存している建造物も見出されるのである。
 ……(中略)……。しかしながら、こうした建造物の数や、本節で私が述べてきたような状況が、一部の文献が記しているように、スーフィー聖者の活動あるいは拠点となったハーンカーやダルガーの権威に対する、スルターン=フィーローズ=シャーの側からの崇敬の心情や寛大な政策の結果であるとだけ考えるとしたら、それは、一面的な考察というそしりを免れないであろう。一方において、宗教者の活動、とくに一部のスーフィーの熱心な実践、あるいは一部スーフィー聖者のダルガーの持つ社会的影響力を考え、他の一方において、支配権力の側からする支配貫徹の論理を考えるとき、サルタナット権力による宗教者および宗教施設の掌握という政策的意図を、さきの歴史的事実のなかに見出さざるを得ないのである。とりわけ、上に述べてきたスルターン=フィーローズ=シャーの場合には、彼のイスラムへの信仰の根強さの背後に秘められた、サルタナット最高主権者としての政策的意図を認めないわけにはいかないのである。
 このことと関連して注目すべき点は、この時代を契機として、ハーンカーの社会的意味に変化が見られるということである。くり返し述べてきたように、ジャマーァト=ハーナやハーンカーの如き宗教施設は、スーフィー同士、あるいは、ヒンドゥーその他の異教徒をも含む民衆とスーフィーとのあいだの接触の場であった。それは、第一義的には、ムスリム宗教者にとっての修道・布教の拠点であり、ムスリム=コミュニティーのメンバーの連帯意識を相互に確認し合う場所でもあった。しかしながら、私がさきに引用したバラニーその他同時代の文献に見る記述内容は、トゥグルグ朝後期におけるハーンカーが、そうしたハーンカー本来の目的乃至は機能とは少しく異なった方向に利用されていったことを推測させはしないであろうか。数百から千を越える数にものぼって建てられたとされるハーンカーが、むしろそうしたムスリム社会本来の宗教的・社会的目的のほかに、交通の整備、流通経済の維持、治安の確保、あるいは未知の旅行者や遊行者などの把握を最も能率的かつ組織的に行い得る施設としての機能を持つものとして造営されたものであることを思わせるのである。(p.642-643)


宗教者に対して強硬なムハンマド=シャーのに対し、次のフィーローズ=シャーの政策は宗教者に対して融和的であると見えるが、単に飴を与えるだけでなく、宗教者たちの影響力を(経済政策なども含めた)統治のために利用する意図を持って寛容な政策をとったという。この辺りは、本書の考察の中でも最も興味深い部分の一つである。


荒松雄 『インド史におけるイスラム聖廟』(その1)

 すでに記したように、ムガル皇帝の墓地がデリーの著名なダルガーの内域に設けられたのは、七代皇帝シャー=アーラムⅠ世のこのダルガー[引用者注;シェイフ=クトゥブッディーンのダルガー]におけるものが最初の例であった(本章177頁以下を参照)。その前後から他のダルガーも含めて、ムガル皇族の墓地もダルガーの内域やその周辺の地域に設けられている。そうした事実が、さまざまな理由と根拠とに基づいたものであることは、本書の別章で触れておいた(527-533頁参照)。ムガル皇室の側にしてみれば、それは、大規模な墓を別の地に造営するよりはずっと安くあがるし、その墓所の管理と維持も、ダルガーのハーディムたちに一任することもできた。さらに、政治的、社会的な面でも、さまざまな利点があったことはいうまでもない。一方、ダルガーの側にしてみれば、ムガル帝室の墓地を自らのダルガーの内域に持つことは、ダルガーの運営の面で、その権威を増大させることにおいて著しいプラスとなったのであり、また、経済的利害関係においてもきわめて有利なことであった。すでに紹介したような地方的権力者やナワーブたちの墓を域内に持つことは、彼らダルガー関係者にとっては、社会的、経済的意味においても、さらに政治的な利害関係の面でさえ、きわめて大きな利益を齎らしたのである。(p.179)


帝室側の財政的メリットとダルガー側の宗教的及び経済的メリットさらには政治的なメリットが結びついているという指摘は興味深いものだった。

ムガル帝室の墓と言えば、フマユーン廟やタージ・マハルが有名だが、これらの最盛期を過ぎ第6代アウラングゼブの時代にはムガル帝室は財政難に陥っていた。この頃にはもはや最盛期のような壮大な墓を建造する力を失っていたことがこのような形で墓が設けられる背景にある。

ダルガーの側にもメリットがある宗教的権威が高まり、訪れる人が増え、集められる寄付も増える。さらに、権力者との関係も近くなる。



 ところで、本章で紹介したような、偽廟の成立という事実や、墓の主人公の名の改変といったことがらは、ダルガーの歴史、乃至はその宗教的・社会的意義に関わる問題として考えてみるときには、どのような意味を持つものであろうか。それについて考察することは本節の当面の目的ではないが、さしあたり、一、二の点に触れておきたいと思う。
 まず指摘しておきたいのは、これらの事実や現象は、スーフィー聖者の墓やダルガーが現実に民衆の崇敬する対象となっている場合、その遺跡に関する歴史的、客観的事実そのものは、屢々、第二義的意味しか持たぬものとなってしまい、その客観的事実の正確度の如何にかかわらず、そのダルガー乃至は墓や建造物が存在するという事実そのものが、権威を担い、影響力を持ってくるということを示している。これを別の言葉でいうならば、ある一つのダルガー、あるいは一つの墓が、その信奉者や巡礼者に対して意味を持つのは、その遺構に関する確実な歴史的事実そのものではなくして、たとえ歴史的には曖昧で、ときには出鱈目なことがらであっても、それに関するなんらかの伝承があればそれで十分である場合があるということである。(p.616)


事実が重んじられない2010年代の現代にとって、こうした問題は身近な問題である。



 以上、シェイフ=クトゥブッディーンとシェイフ=ニザームッディーン、およびシェイフ=ナスィールッディーンの、デリーにおけるサルタナット時代のチシュティー派の三人の指導者が選んだ活動の拠点の位置を考察の対象として、とくにその社会的・政治的意味の一端について私見を述べてきた。それによると、彼らが、サルタナットの首都デリーにおいて、その修道と宣教との目的のためにまことに都合のよい地点を選んでいることが指摘できるように思われるのである。これらのチシュティー派の指導者たちは、あくまでも、その原則においては、支配層との直接の交渉を拒むという姿勢をとりつづけていた。彼らが拠点としたハーンカーやジャマーァト=ハーナの位置は、こうした原則を貫くためにふさわしい場所であったことはたしかに指摘できるのである。しかもなお、彼らは、直ちに非ムスリムのインド人異教徒のみの居住する地域へ入っていくことは避け、イスラムを信奉し、イスラムの宣布をその聖なる目的として掲げた征服者がサルタナットの首都としたデリーを選び、しかも、彼ら支配層がその宮廷を置いた区域とは距離を置きながらも、その中央からそれほど遠くない地点に自らの活動の拠点を構えているのである。このことは、これらのチシュティー派指導者たちが、その原則はともかく、同じイスラムの旗を掲げるムスリム軍事勢力の力を、その宗教的実践や、イスラムおよびスーフィズムの宣教の現実の場において、間接的に利用しようとしたことを示すものとはいえないだろうか。このような彼らの現実的な姿勢こそ、サルタナット首都たるデリー地域における彼らの宗教活動を成功に導いた一つの要因でもあったであろう。(p.632-633)


この指摘も興味深いものだった。


山崎雅弘 『歴史戦と思想戦――歴史問題の読み解き方』

 端的に言えば、権威主義的性格の日本人にとって、「大日本帝国」は今なお、自分の求める要素をすべて高い次元で備えている権威のパッケージであり続けています。(p.136)


本書によると「歴史戦」を主張する人々は、「日本」という概念の多義性を利用して(「日本国」と「大日本帝国」という大きく異なる理念や制度を是とする国をその都度都合よく「日本」という言葉に含ませて)誤ったトリッキーな議論を展開する。彼らは「大日本帝国」の価値観・理念に自己同一化しており、その自身の立場から発言していると考えると整合的に理解できる。この点は本書を読むとよく整理される。「大日本帝国」に自己同一化してしまう一つの要因としての権威主義的性格などについての指摘も、本書では十分に実証的に示されたわけではないが、論理的な筋道は明確に見せてくれる。



 クシュナーによれば、当時の日本政府は日本に有利な記事を書かせるために、ウィリアム以外にも複数のアメリカ人ジャーナリストを雇用し、資金の提供を行っていました。
 この歴史的事実を見て、現代の「歴史戦」でも似たような事例、つまり「日本人が書いた文書であるかのように日本の残虐行為を否定している」外国人が何人かいることを連想した人がいるかもしれません。日本政府から直接的に雇用される関係にはなくても、結果として「歴史戦」で「大日本帝国」を擁護する側に立って言論活動を行い、南京虐殺などの残虐行為を「日本軍は行っていない」と主張する外国人が存在しています。
 ところが、不思議なことに、そのような外国人は見たところ、母国語でそのような情報を発信する作業をしておらず、日本国内での言論活動に留まっているようです。(p.230-231)


こうした言説を垂れ流している外国人としては、本書にもしばしば登場するケント・ギルバートなどが想起されるが、彼らは日本語以外で発信していないという指摘は興味深い。


上山安敏 『世紀末ドイツの若者』

イスラムでは性的禁欲や宗教的理由による独身というものはないことからも、キリスト教の性への敵視性をもった傾向は、ヨーロッパの伝統の中に肉体的成熟を余り顧慮しないという特徴を浮かび上がらすだろう。
 しかもこの思考は、キリスト教がヨーロッパの教育体制を制度的に独占に近い形で掌握してきたことと関連してその意味の重大さが分かる。ヨーロッパの大学はいわば教会施設の分身として誕生し、育成されてきたからだ。宗教改革でドイツの大学は、たとえ領邦国家による帰趨によって左右されたとはいえ、カソリック系とプロテスタント系とに分裂した。世紀末段階でも、大学の宗教色はたんなる装飾でなく、信仰の核の部分では生きていたのである。これはウェーバーの大学論にもでて来るように、20世紀も10年代に、当時カソリック系の大学で一定数の非宗教的教授職にも事前の大司教の同意が得られなければならなかった。しかも、一元論同盟に加担した学者はローマ教会の反一元論勅令に従って大学から追放されるという夢のような話が現実にある。大学のみではない。青春期の若者の教育機関であったギムナジウムも、キリスト教の宗教的雰囲気に覆われていた若者の反体制志向が反国家より反キリスト教に向けられるという現象は、後のワンダーフォーゲルや青年運動の核心部にかかわっている。(p.132-133)


ヨーロッパの大学と教会の関係については、具体的にもっと知りたいところ。本書では、ヨーロッパの大学が教会施設の分身として誕生したということは何度か繰り返し語られるが、これが具体的にどのようなものだったのか、ということに興味がある。例えば、いわゆる近代の哲学などがキリスト教を問題にしなければならなかった理由はまさにこの問題とも深く関わっているのだろう。



プロイセンは修学期間を、医学部を除いて、6ゼメスター、3年間と決めた。それに対して南ドイツのハイデルベルクは法学部も含めて8学期制であった。日本も旧制大学は4年制であったが、京都大学が明治36年に改革して3年制にした時期があった。これはプロイセンのベルリン大学帰りの新進気鋭の少壮学者がベルリン大学にならって改革したのである。(p.146-147)


京都帝大の改革の背景には、留学先の違いなども影響があったということか。



転学の自由はドイツの学生の自由の特権である。これも中世の遍歴学生の名残りである。そのためにボン大学の大学生はハイデルベルクの学生より決闘技術で劣っていたので軽蔑的にそう呼ばれたのである。学生というのは、彼らの間で決闘技術の高低を基準にして大学間の格差と特色をつけていたのである。(p.147)


転学の自由があることがドイツの大学の大きな特徴だが、これも中世の遍歴学生の名残りというのは興味深い。もっとその経緯や過去にどのような状況だったのかなどを知りたい。



もともと大学はイタリアのボローニャ大学に見るように郷土の学生が一緒になった同郷団体から成り立っていた。だから各郷土がナティオンnationといった。ここから今日の「国家(ネーション)」概念を生んでいる。そういうわけだから伝統として郷土による組合が残っている。(p.148)


中世の大学と近代の大学との連続性と非連続性がどのようなものなのかということが、私が大学に関する歴史で知っておきたいと思っていることの一つだが、こうした断片的な叙述に触れる度に、もっと詳しく知りたくなってくる。



 学生は転学の自由があるから、学期によって転学する。以前は新しい大学に移るときは自由な選択が許されていたが、次第に学校間で、学生団体の内に「カルテル」ができて一定のカルテルのある学生団体の中では他の系列団体に移ることは許されなくなっていった。(p.150)


転学の「自由」とは言っても、完全な自由というわけではなく、人的ネットワークがここでも強く作用することになったことが分かる。リバタリアン的な自由というものは現実にはほぼ存在しないということがよくわかる。



 決闘の数は、19世紀の初頭のラントマンシャフトの全盛時代は多かった。たとえばイエナ大学では1815年の夏に400人の大学生の間に、1年間で147件の決闘があった。ところが死に至るのは僅かである。1820年になってメンズールという新しい形式になると、刀剣の決闘の危険度が少なくなり、あまり真剣な闘いとは考えられなくなると、それに従って騎士のスポーツと考えられるようになる。決闘のスポーツ化は、決闘が自然発生的に名誉を侮辱されたところから行なわれるというより、むしろ決闘によって名誉がかき立てられるという逆の現象になっている。(p.163)


興味深い推移。



もともと大学が教会の分身として出発しており、半聖職者の雰囲気が大学を覆っている。(p.173-174)


中世に教会の分身として出発したことが、世紀末になってまで半聖職者の雰囲気があるというのは、もしそうだとすれば、何らかの制度的な担保というかアンカーのようなものが必要であるように思われるが、それは何なのだろう?



ドイツでは大学ではなく、学生団体が学閥の社会的機能を果たすようになっていた。どうしてそうなったのか、それには前述したようにドイツの大学は学寮(カレッジ)制が発展せず、下宿制をとったために特有の大学街の居酒屋(クナイベン)を生んだ。これが学生組合の人間関係の母胎になっている。居酒屋は狭い、貧弱な居酒屋を意味していたが、学生の生活の主要舞台になっていた。不快な、刺激のない下宿に住む学生にとって、気持のよい便利な施設をもっている居酒屋に入りびたりになる。しかし居酒屋生活はどうしても飲酒強制になるし、悪習を生むことになる。そこで19世紀も20年代になると、学生団体のためにハイム(集会所)がつくられるようになる。世紀末には次々と学生団体はハイムを建てた。1904年には128の学生団体ハウスがつくられた。
 こうした学生の住居のあり方は、もともと大学の遍歴学生に遡るわけで、それは学生が一つの大学に定着せず、次々と他の大学へ遍歴することから来ている。これが、「大学の自由」が確立するとき、「転学の自由」=「勉学の自由(レルンフライハイト)」となって表現された。学寮制の発展したイギリスでは貴族の教育と結びついて大学が設立されている。オックスフォードにしろ、ケンブリッジにしろ、そこで得られる専門的知識が問題ではなく、大学への所属が重要な意味をもつ。さらに大学への所属性にとどまらず、学問、スポーツ、社交術を通じて人格形成を行なう学寮(カレッジ)の中で、チューター式によって結ばれた人間交友関係が生まれる。これがジェントルマン社会での学閥を形成する。これに対してドイツでは転学の伝統が、こうした学閥に代わる学生組合閥発生の基礎をつくったといえるだろう。(p.180-181)


興味深い。


中西聡 『北前船の近代史――海の豪商たちが遺したもの――(増補改訂版)』(その2)

 北海道開拓の進展とともに、小樽と札幌でも1880年代後半から「企業勃興」現象が生じたが、その性格は小樽と札幌で全く異なった。小樽では、函館に匹敵する流通拠点としての重要性の高まりとともに、流通関連の銀行・商業・海運・倉庫業などで会社設立が進んだのに対し、札幌では、開拓使時代に開設された札幌近郊の官営工場が払い下げられるなかで製造業中心の会社設立が進んだ。(p.31)


小樽は民間の資本がベースになっているのに対し、札幌は官営工場がベースになっている点は重要。札幌はかなりの程度、官庁が置かれたことによって発展した都市という面が強い。ただ、対する小樽も純粋に民間の力で発展した街だったかというと、そうも言えない。確かに、企業の面では民間の資本が進出したと言えるだろうが、そもそも流通の拠点となり得た要因を考えると、鉄道の敷設や港湾の建設などといった政策的なインフラ整備があったからこそ、発展の条件が整ったという面がある。(このことは、戦中から戦後に小樽が衰退し、斜陽の街と呼ばれるようになるのは、国の政策の転換が大きく作用しているということからも裏付けられるだろう。)



 汽船運賃積はある程度まとまった輸送量を確保できないと効率は悪く、汽船購入には多額の資金が必要となるため、北海道産魚肥市場が完全に汽船運賃積輸送には至っていない段階では、汽船を所有することに経営リスクが大きかった。ところが、定期汽船網が定着し、本州の肥料商が汽船運賃積を利用して直接北海道の海産物商と取引するようになると、まとまった汽船輸送量が確保できるようになり、また日清戦争での日本の勝利により、朝鮮や「満洲」への日本勢力の進出が拡大し、東アジアでの定期汽船網の拡大が見られると、そこへの進出も見越して廣海二三郎家は1904年から積極的に大型汽船を購入し始めた。(p.148-149)


このように汽船購入へと舵を切るのと並行して買い積みの経営を縮小していったという。北前船の消滅は概ねこの時期のことだったと言ってよいかも知れない。



1916(大正5)年に刊行された日本の資産家番付から、日本の大資産家の分布を示すと、当時500万円以上の資産を所有した家が約130家、100万円以上の資産を所有した家が約770家、50万円以上の資産を所有した家が約2200家存在していたと推定される。そのうち北前船主で500万円以上の資産を所有していたと推定されるのは、石川県の廣海二三郎家・大家七平家、富山県の馬場道久家、福井県の右近権左衛門家の4家で、いずれも汽船経営に展開した北陸の大規模北前船主であった。その一方で、汽船経営に展開せずに廻船経営から撤退した北前船主も、資産額50万~200万円の間にかなり存在しており、北前船経営時代の資金蓄積の多さを物語っている。(p.157)


旧北前船主たちの資産レベルが概ねわかる。ピケティ的に言えば、上位1%に入る世帯はごく少なく、上位10%程度の世帯が多かったのではないか。



 北前船主が銀行に関心を持った背景には二つの面が指摘できる。まず北前船主は、輸送手段を持っていたことを活かし、江戸時代から遠隔地間の手形決済を行っていた。一般に、遠隔地間取引では、現金輸送のリスクが高いため、手形による決済が進展すると考えられるが、江戸や大坂のように両替商が発達した大都市ではなく、両替商があまり存在しない地方の湊町では、手形決済を北陸船主のような遠隔地承認が商人為替として直接担うことが多かった。こうした江戸時代からの金融面での北前船主の役割が、明治時代に銀行制度が広まるなかで彼らが銀行設立に積極的に関与した背景にあったと考えられる。(p.158)


倉庫業は物を保管するだけではなく、一種の金融業でもあったといった解説を聞いたことがあるが、そのこともここで述べられているようなことが関わっているのではなかろうか。