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アヴェスターにはこう書いている?
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山崎雅弘 『歴史戦と思想戦――歴史問題の読み解き方』

 端的に言えば、権威主義的性格の日本人にとって、「大日本帝国」は今なお、自分の求める要素をすべて高い次元で備えている権威のパッケージであり続けています。(p.136)


本書によると「歴史戦」を主張する人々は、「日本」という概念の多義性を利用して(「日本国」と「大日本帝国」という大きく異なる理念や制度を是とする国をその都度都合よく「日本」という言葉に含ませて)誤ったトリッキーな議論を展開する。彼らは「大日本帝国」の価値観・理念に自己同一化しており、その自身の立場から発言していると考えると整合的に理解できる。この点は本書を読むとよく整理される。「大日本帝国」に自己同一化してしまう一つの要因としての権威主義的性格などについての指摘も、本書では十分に実証的に示されたわけではないが、論理的な筋道は明確に見せてくれる。



 クシュナーによれば、当時の日本政府は日本に有利な記事を書かせるために、ウィリアム以外にも複数のアメリカ人ジャーナリストを雇用し、資金の提供を行っていました。
 この歴史的事実を見て、現代の「歴史戦」でも似たような事例、つまり「日本人が書いた文書であるかのように日本の残虐行為を否定している」外国人が何人かいることを連想した人がいるかもしれません。日本政府から直接的に雇用される関係にはなくても、結果として「歴史戦」で「大日本帝国」を擁護する側に立って言論活動を行い、南京虐殺などの残虐行為を「日本軍は行っていない」と主張する外国人が存在しています。
 ところが、不思議なことに、そのような外国人は見たところ、母国語でそのような情報を発信する作業をしておらず、日本国内での言論活動に留まっているようです。(p.230-231)


こうした言説を垂れ流している外国人としては、本書にもしばしば登場するケント・ギルバートなどが想起されるが、彼らは日本語以外で発信していないという指摘は興味深い。


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上山安敏 『世紀末ドイツの若者』

イスラムでは性的禁欲や宗教的理由による独身というものはないことからも、キリスト教の性への敵視性をもった傾向は、ヨーロッパの伝統の中に肉体的成熟を余り顧慮しないという特徴を浮かび上がらすだろう。
 しかもこの思考は、キリスト教がヨーロッパの教育体制を制度的に独占に近い形で掌握してきたことと関連してその意味の重大さが分かる。ヨーロッパの大学はいわば教会施設の分身として誕生し、育成されてきたからだ。宗教改革でドイツの大学は、たとえ領邦国家による帰趨によって左右されたとはいえ、カソリック系とプロテスタント系とに分裂した。世紀末段階でも、大学の宗教色はたんなる装飾でなく、信仰の核の部分では生きていたのである。これはウェーバーの大学論にもでて来るように、20世紀も10年代に、当時カソリック系の大学で一定数の非宗教的教授職にも事前の大司教の同意が得られなければならなかった。しかも、一元論同盟に加担した学者はローマ教会の反一元論勅令に従って大学から追放されるという夢のような話が現実にある。大学のみではない。青春期の若者の教育機関であったギムナジウムも、キリスト教の宗教的雰囲気に覆われていた若者の反体制志向が反国家より反キリスト教に向けられるという現象は、後のワンダーフォーゲルや青年運動の核心部にかかわっている。(p.132-133)


ヨーロッパの大学と教会の関係については、具体的にもっと知りたいところ。本書では、ヨーロッパの大学が教会施設の分身として誕生したということは何度か繰り返し語られるが、これが具体的にどのようなものだったのか、ということに興味がある。例えば、いわゆる近代の哲学などがキリスト教を問題にしなければならなかった理由はまさにこの問題とも深く関わっているのだろう。



プロイセンは修学期間を、医学部を除いて、6ゼメスター、3年間と決めた。それに対して南ドイツのハイデルベルクは法学部も含めて8学期制であった。日本も旧制大学は4年制であったが、京都大学が明治36年に改革して3年制にした時期があった。これはプロイセンのベルリン大学帰りの新進気鋭の少壮学者がベルリン大学にならって改革したのである。(p.146-147)


京都帝大の改革の背景には、留学先の違いなども影響があったということか。



転学の自由はドイツの学生の自由の特権である。これも中世の遍歴学生の名残りである。そのためにボン大学の大学生はハイデルベルクの学生より決闘技術で劣っていたので軽蔑的にそう呼ばれたのである。学生というのは、彼らの間で決闘技術の高低を基準にして大学間の格差と特色をつけていたのである。(p.147)


転学の自由があることがドイツの大学の大きな特徴だが、これも中世の遍歴学生の名残りというのは興味深い。もっとその経緯や過去にどのような状況だったのかなどを知りたい。



もともと大学はイタリアのボローニャ大学に見るように郷土の学生が一緒になった同郷団体から成り立っていた。だから各郷土がナティオンnationといった。ここから今日の「国家(ネーション)」概念を生んでいる。そういうわけだから伝統として郷土による組合が残っている。(p.148)


中世の大学と近代の大学との連続性と非連続性がどのようなものなのかということが、私が大学に関する歴史で知っておきたいと思っていることの一つだが、こうした断片的な叙述に触れる度に、もっと詳しく知りたくなってくる。



 学生は転学の自由があるから、学期によって転学する。以前は新しい大学に移るときは自由な選択が許されていたが、次第に学校間で、学生団体の内に「カルテル」ができて一定のカルテルのある学生団体の中では他の系列団体に移ることは許されなくなっていった。(p.150)


転学の「自由」とは言っても、完全な自由というわけではなく、人的ネットワークがここでも強く作用することになったことが分かる。リバタリアン的な自由というものは現実にはほぼ存在しないということがよくわかる。



 決闘の数は、19世紀の初頭のラントマンシャフトの全盛時代は多かった。たとえばイエナ大学では1815年の夏に400人の大学生の間に、1年間で147件の決闘があった。ところが死に至るのは僅かである。1820年になってメンズールという新しい形式になると、刀剣の決闘の危険度が少なくなり、あまり真剣な闘いとは考えられなくなると、それに従って騎士のスポーツと考えられるようになる。決闘のスポーツ化は、決闘が自然発生的に名誉を侮辱されたところから行なわれるというより、むしろ決闘によって名誉がかき立てられるという逆の現象になっている。(p.163)


興味深い推移。



もともと大学が教会の分身として出発しており、半聖職者の雰囲気が大学を覆っている。(p.173-174)


中世に教会の分身として出発したことが、世紀末になってまで半聖職者の雰囲気があるというのは、もしそうだとすれば、何らかの制度的な担保というかアンカーのようなものが必要であるように思われるが、それは何なのだろう?



ドイツでは大学ではなく、学生団体が学閥の社会的機能を果たすようになっていた。どうしてそうなったのか、それには前述したようにドイツの大学は学寮(カレッジ)制が発展せず、下宿制をとったために特有の大学街の居酒屋(クナイベン)を生んだ。これが学生組合の人間関係の母胎になっている。居酒屋は狭い、貧弱な居酒屋を意味していたが、学生の生活の主要舞台になっていた。不快な、刺激のない下宿に住む学生にとって、気持のよい便利な施設をもっている居酒屋に入りびたりになる。しかし居酒屋生活はどうしても飲酒強制になるし、悪習を生むことになる。そこで19世紀も20年代になると、学生団体のためにハイム(集会所)がつくられるようになる。世紀末には次々と学生団体はハイムを建てた。1904年には128の学生団体ハウスがつくられた。
 こうした学生の住居のあり方は、もともと大学の遍歴学生に遡るわけで、それは学生が一つの大学に定着せず、次々と他の大学へ遍歴することから来ている。これが、「大学の自由」が確立するとき、「転学の自由」=「勉学の自由(レルンフライハイト)」となって表現された。学寮制の発展したイギリスでは貴族の教育と結びついて大学が設立されている。オックスフォードにしろ、ケンブリッジにしろ、そこで得られる専門的知識が問題ではなく、大学への所属が重要な意味をもつ。さらに大学への所属性にとどまらず、学問、スポーツ、社交術を通じて人格形成を行なう学寮(カレッジ)の中で、チューター式によって結ばれた人間交友関係が生まれる。これがジェントルマン社会での学閥を形成する。これに対してドイツでは転学の伝統が、こうした学閥に代わる学生組合閥発生の基礎をつくったといえるだろう。(p.180-181)


興味深い。


中西聡 『北前船の近代史――海の豪商たちが遺したもの――(増補改訂版)』(その2)

 北海道開拓の進展とともに、小樽と札幌でも1880年代後半から「企業勃興」現象が生じたが、その性格は小樽と札幌で全く異なった。小樽では、函館に匹敵する流通拠点としての重要性の高まりとともに、流通関連の銀行・商業・海運・倉庫業などで会社設立が進んだのに対し、札幌では、開拓使時代に開設された札幌近郊の官営工場が払い下げられるなかで製造業中心の会社設立が進んだ。(p.31)


小樽は民間の資本がベースになっているのに対し、札幌は官営工場がベースになっている点は重要。札幌はかなりの程度、官庁が置かれたことによって発展した都市という面が強い。ただ、対する小樽も純粋に民間の力で発展した街だったかというと、そうも言えない。確かに、企業の面では民間の資本が進出したと言えるだろうが、そもそも流通の拠点となり得た要因を考えると、鉄道の敷設や港湾の建設などといった政策的なインフラ整備があったからこそ、発展の条件が整ったという面がある。(このことは、戦中から戦後に小樽が衰退し、斜陽の街と呼ばれるようになるのは、国の政策の転換が大きく作用しているということからも裏付けられるだろう。)



 汽船運賃積はある程度まとまった輸送量を確保できないと効率は悪く、汽船購入には多額の資金が必要となるため、北海道産魚肥市場が完全に汽船運賃積輸送には至っていない段階では、汽船を所有することに経営リスクが大きかった。ところが、定期汽船網が定着し、本州の肥料商が汽船運賃積を利用して直接北海道の海産物商と取引するようになると、まとまった汽船輸送量が確保できるようになり、また日清戦争での日本の勝利により、朝鮮や「満洲」への日本勢力の進出が拡大し、東アジアでの定期汽船網の拡大が見られると、そこへの進出も見越して廣海二三郎家は1904年から積極的に大型汽船を購入し始めた。(p.148-149)


このように汽船購入へと舵を切るのと並行して買い積みの経営を縮小していったという。北前船の消滅は概ねこの時期のことだったと言ってよいかも知れない。



1916(大正5)年に刊行された日本の資産家番付から、日本の大資産家の分布を示すと、当時500万円以上の資産を所有した家が約130家、100万円以上の資産を所有した家が約770家、50万円以上の資産を所有した家が約2200家存在していたと推定される。そのうち北前船主で500万円以上の資産を所有していたと推定されるのは、石川県の廣海二三郎家・大家七平家、富山県の馬場道久家、福井県の右近権左衛門家の4家で、いずれも汽船経営に展開した北陸の大規模北前船主であった。その一方で、汽船経営に展開せずに廻船経営から撤退した北前船主も、資産額50万~200万円の間にかなり存在しており、北前船経営時代の資金蓄積の多さを物語っている。(p.157)


旧北前船主たちの資産レベルが概ねわかる。ピケティ的に言えば、上位1%に入る世帯はごく少なく、上位10%程度の世帯が多かったのではないか。



 北前船主が銀行に関心を持った背景には二つの面が指摘できる。まず北前船主は、輸送手段を持っていたことを活かし、江戸時代から遠隔地間の手形決済を行っていた。一般に、遠隔地間取引では、現金輸送のリスクが高いため、手形による決済が進展すると考えられるが、江戸や大坂のように両替商が発達した大都市ではなく、両替商があまり存在しない地方の湊町では、手形決済を北陸船主のような遠隔地承認が商人為替として直接担うことが多かった。こうした江戸時代からの金融面での北前船主の役割が、明治時代に銀行制度が広まるなかで彼らが銀行設立に積極的に関与した背景にあったと考えられる。(p.158)


倉庫業は物を保管するだけではなく、一種の金融業でもあったといった解説を聞いたことがあるが、そのこともここで述べられているようなことが関わっているのではなかろうか。
中西聡 『北前船の近代史――海の豪商たちが遺したもの――(増補改訂版)』(その1)

 ところが、明治に入り、鉄道網・定期汽船網などの交通網が発達すると、こうした地域間価格差は次第に縮小した。最後まで大きな地域間価格差が残されたのが、北海道と関東・東海・関西・瀬戸内・九州などとの間で、結果的に明治時代には大部分の北前船主が北海道へ進出することとなった。北海道では、明治時代に大規模な開拓が行われ、人口が急増するとともに本州・四国向けの北海道産魚肥の生産も急増した。それをめがけて北前船が北海道へ殺到したために、明治時代前期に北前船の最盛期を迎えることとなった。(p.3-4)


北前船の買い積みというビジネスモデルが前提していた地域間価格差が、交通網や電信網などの発達によって縮小していき、地域間価格差が最後まで残り続けた上に、開拓による人口増による物資の需要があり、魚肥の供給地でもあった北海道との交易によって北前船が明治期前半に全盛となった。北前船というと江戸時代のものというイメージがもたれてきたことに対し、著者は北前船の最盛期は明治の前半であるとして批判している。



 その後、1780年代になると、幕府老中の田沼が北海道の開発を計画したこともあり、江戸商人が松前城下に進出し始めた。幕府は1799~1822(寛政11~文政5)年まで蝦夷地を直轄したが、江戸商人の進出は、松前藩にとって新たなスポンサーの登場を意味し、江戸商人も松前藩の御用金を負担する代わりに商場(場所)請負を望むようになった。新たなスポンサーを得た松前藩は、両浜組に特権を与える必要がなくなり、免税特権を失った両浜組商人の経営は苦しくなった。その結果、両浜組商人の多くは北海道から撤退し、商場(場所)請負へ進出していた両浜組商人が北海道に残った。(p.10)


幕府の北海道開発や直轄の方針は、商人たちの北海道への関心を高めた大きな要因であったことが窺える。これによる江戸商人が進出し、それ以前に進出していた近江商人の多くを駆逐していくこととなる。



 日露交渉の先駆者として様々な小説の題材となってきた高田屋嘉兵衛は、兵庫の廻船問屋の船の船乗りとなり、1796(寛政8)年に和船を所有して独立した。この年に嘉兵衛は初めて北海道の箱館を訪れ、両浜組商人が勢力を保っていた福山湊(松前城下)や江差湊ではなく、幕府の蝦夷地開発計画で脚光を浴び始めた箱館湊を北海道での拠点に定めた。そのことが、1799年の幕府蝦夷地直轄後に幕府と高田屋を結びつける契機となり、高田屋は幕府用達として幕府の物資の輸送にあたることとなった。高田屋は、1798年時点で5隻の和船を所有していたと考えられるが、99年には幕府の命を受けて、択捉航路を開くとともに、官船の建造を請け負い、1800年に幕府定雇船頭となってそれらの運航を任された(柴村羊五『北海の豪商 高田屋嘉兵衛』)。(p.18)


幕府の蝦夷地開発・直轄の計画に伴い江戸商人が進出したのと同じような関心に基づき高田屋嘉兵衛も箱館に進出し、幕府の後ろ盾の下で様々な事業を展開していったことがわかる。



その前年の1823年に幕府の蝦夷地直轄が終了し、松前藩に蝦夷島が復領されたが、北海道での有力な後ろ盾を失った高田屋は、結果的に密貿易の疑いをかけられて松前藩によってとり潰された。(p.19)


高田屋がいかに幕府との結びつきによって支えられていたかがよくわかる。なお、幕府の蝦夷地直轄化は松前藩にとっては死活問題であり、幕府とは利害が対立する関係にあったことも関係している。



江戸時代に魚肥の中心であった鰯魚肥が、1880年代の鰯漁の不漁で衰退したなかで、それに代わって北海道産鯡魚肥が日本各地に普及するに至り、場所請負時代に優良漁場を確保していた旧場所請負人にとって、漁業経営拡大の絶好の機会が訪れた。そのため、日本海沿岸・オホーツク海沿岸を請け負っていた旧場所請負人は場所請負経営で得た資金を、漁業経営の拡大に投入し、北海道の銀行・会社設立にはあまり投入しなかった。むしろ、鯡漁とあまり関係のない太平洋沿岸を請け負っていた函館港の旧場所請負人が、漁業から撤退して函館の行政に携わったり、函館の銀行設立に参加した(『函館市史』通説編第2巻)。(p.23-24)


鰯魚肥から鰊魚肥へ、そして化学肥料などへと変わっていくわけだ。

北前船主や場所請負人たちが、鰊漁が下火になる中、その後、どのように地域の経済に影響を及ぼしたか(近代化に貢献したか)という点への関心は本書の特徴の一つ。




永田信孝 『北前船 主な寄港地の今昔』

 長崎は、元亀2年(1571)に開港して以来、ポルトガル、オランダ、中国との貿易拠点として発展した。寛永13年(1636)に完成した出島と、元禄2年(1689)に完成した唐人屋敷が、オランダ、中国との貿易の中心であった。オランダからは、生糸、綿布、砂糖、香料、薬類、皮類など、中国からは、生糸、絹織物、麻布、薬類、砂糖、錫、茶、皮類、角類などが輸入された。日本からの輸出品としては、金、銀、銅をはじめ、俵物(フカヒレ、イリコ、干しアワビ)、瀬戸物、漆器などであった。
 貿易がつづき発展してくると、金、銀、銅の算出が徐々に減少し、その代役として重要な役目を果たしたのが長崎俵物とよばれるフカヒレ、イリコ(ナマコから内臓を取り除き、茹でて干したもの)、干しアワビである。やがて長崎県で生産する量では不足し、北海道をはじめ全国各地から集荷されるようになった。その時、俵物などを長崎まで運搬してきたのが、北前船廻船問屋の廻船であり、福井県廻船問屋の記録に記載されている。(p.92)


琉球からの昆布の密輸出などとも共通性があるモノの流れであると思われる。



 初期の頃は、北海道の松前、江差、箱館と福井県の敦賀、小浜との間の交易が主体であったが、「千石船」とよばれる大型木造船が出現すると、比較的安全にしかも安価に運ぶことができるようになった。その結果、若狭、越前に陸揚げされる量は徐々に少なくなり、大坂、神戸に直接運ぶようになる。
 主な交易品としては、北海道、東北地方からはニシン、コンブ、米、ヒノキアスナロ(ヒバ)などの農林水産物を、大坂、神戸、若狭、越前方面からは綿織物、紙類、塩、醤油、酒、砂糖などの生活必需品であった。このような物資の動きによって各地域の生活レベルを向上させた。(p.97)


北前船の交易も、日本海各地を次々に結ぶものから次第に蝦夷地と大坂を直接結ぶものへとシフトしていった。その技術的な要因としては船の大型化があった。本書では重点的に語られてはいないが、中西聡などの議論では、明治に入り、電信や鉄道などの発達により地域間価格差がなくなっていったことにより、蝦夷地と大坂を直接結ぶようになったとされている。本書の議論と合わせると、船の大型化によって江戸時代後期には徐々に直接交易の方向性に近づいていたが、明治になってその傾向がより一層進んだというところだろうか。

ちなみに、ヒノキアスナロは蝦夷地(現在の檜山地方)から搬出されたものが含まれるだろうが、東北地方などからはどの程度出ていたのだろう?


堀淳一 『地図の中の札幌 街の歴史を読み解く』

大通は無名だが、当初はこれより北の官公庁・学校地域を南の民間街から隔離するための空閑地だったらしい。
 しかし明治20年代に火防帯と位置づけられる。何れにしても札幌市の自慢である大通公園が、草創期には民間の茅屋群から官公庁街を守るための、官尊民卑思想の産物だったとは皮肉な話だ。(p.19)


大通は火防帯として設けられたという説明がなされることがしばしばあるが、本書によるとそうではないらしい。最初は官公庁エリアを民間エリアから隔離するための空閑地として設けられたが、それを明治20年代に火防帯として位置づけなおしたという。



 なぜ開拓使の設置が明治元年(1867年)ではなくて同二年なのか?という疑問をもつ人は、少なくないのではなかろうか。
 実は明治元年には、箱館(現函館)に司法・行政機関を兼務する裁判所(すぐのちに箱館府となる)が設置されたのみで、エゾ地はまだ維新政府の手中に入らないままだった。……(中略)……。
 政府軍が巻き返して榎本を降伏させたのは明治二年の五月のことで、蝦夷が北海道と改められて開拓使が置かれたのが同年七月のことだったのだ。(p.25)


明治元年時点の「日本地図」を描くとしたら、北海道は抜きにして(せいぜい箱館の一部を加えるのみ)描かなければならない状況だった。このことは理解しておく必要がある。北海道は明治に入ってから日本の一部とされ、開拓という名の下で征服(植民地化)されていった、と押さえるべきなのだろう。(それ以前の場所請負人たちがアイヌを使役したやり方に問題があったため、アイヌの人口が激減していたことが、明治になってからの植民地化を比較的スムーズに進めることに寄与したものと思われる。)



 いや、それよりも何よりも、ゴムタイヤにしてしまったせいで、JR北海道との相互乗り入れができなくなってしまったではないか!ふつうの鉄のレールにしておけば、新さっぽろ駅で千歳線に、麻生駅から新琴似駅までちょっと延ばして札沼線に、宮の沢駅から発寒駅までちょっと延ばして函館本線に乗り入れることができたのに……。
 そしてさらに、せっかく真駒内駅まで定山渓鉄道跡を利用したのだから、真駒内で停まらずに定山渓までの全線を利用して地下鉄を定山渓まで、とはいわずとも、人口密度の高い簾舞まで走らせることもできたのに。(p.239)


札幌の地下鉄がゴムタイヤを使っていることの結果としてJRとの乗り入れができなくなったという指摘。あまり考えたことがなかったが、言われてみるとその通りだと思う。



金田章裕 『30の都市からよむ日本史』

 一方で江戸には、世界の大都市と比べて先進的だった面もありました。それは上下水道です。江戸東部の湿地帯や埋め立てで拡張した区域では、地下水を得ることができません。そこで幕府は、神田上水や玉川上水など「江戸六上水」を拡充させ、市民の生活用水としました。
 ……(中略)……。糞尿は肥料としてリサイクルされたため、下水として放流されることはありません。当時の江戸は非常に清潔で、かつエコロジカルな都市だったのです。(p.78)


ロンドンやパリが汚物で満ちた都市だったことと対比しながら、どちらかというと「日本スゴイ」的な文脈も加味されながら語られることがある。(本書ではそれほどこのテイストはないと思われるが。)

確かに当時の江戸はこれらの点で称賛されるべき内容を持っていたと言ってよいと思われる。ただ、それが「日本スゴイ」の根拠になるかどうかは別問題だろう。このエコロジカルな都市がどのように近代の東京に受け継がれているのかどうかを考えなければならないし、「19世紀にはすごかった」ということと「21世紀に現にすごい」ということとは全く別のことであり、さらに、東京が仮にすごいとしても、「日本」がすごいかどうかは別問題だからでもある。



俗にいう「大江戸八百八町」という言葉は、4代将軍・家綱の時代に、ひとつの町(家屋数20~30程度の町組)につきひとりだけ営業が許された髪結い職人が808人いたことに由来します。(p.79)


これもどこかで聞いたことがあるようなネタだが、とりあえず、なぜ4代将軍の時代が基準になったのだろう?という疑問と共に書き記しておくことにする。



 震災後、帝都復興院と東京市は、地主層に土地の1割を無償で供出させ、新たな都市計画を実行に移しました。このときに建造されたのが、従来よりも広い幅員をもつ昭和通りや大正通り、永代通りなどの幹線道路です。また都内の各所には延焼を防ぐための緑地帯も設けられました。(p.80-81)


関東大震災後、建築に関してはレンガ造などの建築は姿を消し、コンクリート造などが普及していくが、ここで述べられているような都市の構成も他の都市に波及したのだろうか?波及したとすると、どの程度普及したのだろうか?興味がある。



 日本が大陸に進出した昭和初期には、満州への玄関口として定期航路が開かれ、多くの人員、物資が新潟を起点に往来しました。(p.129)


新潟と満洲の関係か。考えたことがなかったが、言われてみれば関係が深くても何ら不思議はない。もう少し具体的に知りたいテーマではある。



 それまで那覇の港は、大陸から仕入れた陶磁器や絹織物などを朝鮮半島や東南アジアに転売する一方、東南アジア産の香木や宝飾品を大陸に転売したり、日本の刀を東南アジアに転売して大きな利益を上げていました。しかし、交易の利益が薩摩藩に吸い上げられてしまい、幕府の方針で清以外との交易も禁じられたため、那覇は一時的に活気を失います。
 ところが、18世紀に入ると、近畿地方の廻船問屋が海運のネットワークを拡大して日本の北と南を結びつけ、蝦夷地(北海道)で獲れた昆布などの海産物を、那覇経由で清に輸出するようになりました。沖縄料理には炒め煮のイリチーなど、本来ならば南西諸島にはない昆布を使ったものが多いのはこのためです。(p.298)


沖縄(那覇)をめぐる明治以前の流通について、コンパクトに説明している。


奥井隆 『昆布と日本人』

 江戸時代までは1艘の船は1年一航海が原則でしたが、明治時代に入り、年に3~4回の航海ができるようになりました。それは松前藩の入港制限が撤廃されたことによります。こうして北前船の船主たちは莫大な財をなしていきます。戦国船は19世紀から明治の終わりごろまで活躍します。(p.35)


なるほど。江戸末期から明治にかけて北前船の船主が物凄い勢いで富を蓄積していったのは、このような制度的というか政治的な条件もあったということか。



 つまり、昆布で得た莫大な利益が、倒幕資金となったのです。潤沢な資金が、薩摩藩を中心とした官軍(反幕府側)の軍事費となり、近代的な軍備を整えた新勢力が幕府を倒し、明治維新を迎えることになります。いってみれば、昆布が日本の近代化に貢献したといっても過言ではないと私は考えます。(p.41)


昆布ロードでの貿易において清と密貿易を行うことで、薩摩藩は藩の財政を立て直すことができただけでなく、軍備力増強のための資金にもなり、それが幕府を倒すことに繋がったというのはそうなのだろう。

ただ、明治維新をしなければ近代化しなかったかのような言説はやや割り引く必要がある。例えば、西洋式の城郭である五稜郭を建設したのは明治政府ではなく幕府であったし、幕府も西洋から軍艦を購入するなどのことはしていた。明治時代に西洋化が進んだからといって、後に明治政府を設立する薩長と対立していた幕府が旧守派や日本の伝統に固執していたに違いないと考えるのは恐らく誤りだろう。どちらも西洋化しようとしながら争っていたという見方をすることも可能である。実際、幕府はフランスとも通じていた。英仏の帝国主義の争いにおいて弱い側をバックにつけてしまったことが幕府の敗因かも知れない。



 右近家は江戸中期から明治中期にかけて大坂と蝦夷地を結んで隆盛を極めた北前船主です。幕末には日本海五大船主の一人に数えられ、最盛期には19艘の廻船を所有し、日清、日露の戦役には数隻を軍用に提供しています。
 ……(中略)……。
 右近家の歴史を振り返ってみます。北前船のオーナーとしてゆるぎない地位を築いたのは幕末期。(p.42)


右近家が幕末期にゆるぎない地位を築いたのは、松前藩が入港規制を緩めたことを(他の船主たちよりも)有効に活用したということなのではないか?



 そうした社会の変化のなかで、右近家は、近代的な経営へ向かうことになります。海運業を続ける一方で、最も関係の深い海上保険業への進出を図り、1896年に、石川県の船主・廣海家らとともに、現在の日本興亜損害保険株式会社の礎となった「日本海上保険会社」を設立しました。これはかつての北前船の難破や破損事故から、「保険」を切望した経験があったからこそ、保険会社を立ち上げたのではないかと思われます。(p.44)


北前船の経験にから他の北前舩主らと海上保険へとつながるあたりは、イギリスで船主たちが出入りしていたロイズ・コーヒーハウスで、ロイズ海上保険が誕生したことと似ている。

北前船の船主たちは手に入れた資本をもとにして、様々な業種に手を伸ばし、近代的な経営へと業種を転換していったのだろう。有力な船主たちを個別に調べていくといろいろと面白いことが見えてくるかも知れない。



 実際に、今に伝えられている「江戸料理」のだしは鰹節からのものであり、昆布はほとんど使わないといっていいぐらいです。昆布を使うとしても、日高昆布が主流です。私が東京で初めて商売をするようになった30年前は、築地市場でも昆布は日高しかありませんでした。
 その理由は昆布の流通の歴史に答えが見つかります。北前舩で蝦夷地から上方へ運ばれ、まず上質の昆布から売れていき、量が多かった日高昆布を上方から江戸に送ったのです。言い方は悪いですが、上方で売れ残ったものが江戸で消費されたということになります。(p.71)


なるほど。面白い。流通は地域の食文化にも大きな影響を与える。



 富山は1世帯で昆布を消費する金額と数量は日本一だといわれています。その背景にはやはり北前舩の寄港地だったことがあげられます。なかでも、羅臼昆布は、富山で最も多く消費される昆布です。北海道開拓時代、富山から多くの入植者が知床半島に移住し、親戚縁者にその羅臼昆布を送ってきたつながりが今も残っているからです。(p.117)


開拓のための移住と昆布の消費に関係があるとは、考えたこともなかった。



 琉球は定期的に中国へ貢物を送り、それに対して皇帝からの使節団により恩賜が与えられるという関係でした。その中国からの使節団をもてなすのが豚肉料理でした。使節団は400人、半年も滞在するのが慣例で、大量の食材が必要とされました。豚の飼育が奨励されたのをきっかけに豚肉料理が定着し、昆布と組み合わせたと考えられます。
 中国は、貿易の品に昆布を望み、琉球はその昆布を薩摩藩から手に入れ、薩摩藩は昆布の対価に中国から到来した薬種を求める……そのつながりが昆布と豚肉を結びつけたといっていいでしょう。(p.118)


これも興味深い。


中川裕 『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』

北海道で現在私たちが知っているようなアイヌ文化が成立するのは13世紀頃と言われており、本州で言うと、ちょうど平安時代から鎌倉時代に移った頃のことです。これはおそらく偶然ではありません。源頼朝が東北地方にいた奥州藤原氏を倒して鎌倉幕府を樹立しますが、それは当時の中央政権が東北地方の端まで勢力を及ぼしたことを意味しており、蝦夷と和人(日本のマジョリティ:いわゆる「日本人」)の関係が大きく変わる要因になったことは十分に考えられます。
 13世紀以前に北海道にあったのは、擦文文化とオホーツク文化と呼ばれるもので、それぞれ擦文式土器とオホーツク式土器を使っていました。オホーツク文化はやがて擦文文化に吸収されて、それが現在知られるようなアイヌ文化のもとになったというのがこれまでの定説ですが、アイヌ文化になったところで何が変化したかというと、なんとそれまで作っていた土器の使用を一切やめてしまったのです。これはすごい変化です。……(中略)……。その理由は、鉄製品が豊富に手に入るようになったからだと考えられています。
 ……(中略)……。このように豊富な鉄製品がどこからもたらされたかというと、やはり本州からというのが自然な流れでしょう。(p.55-56)


歴史の変遷は興味深い。さらに言えば、平安から鎌倉への支配層の変化は、大陸の動向(宋から元が支配する)とも関連しているのではなかったか。

土器を使わなくなったというのも興味深い。本書の説明では本州から来た鉄を使ったから、ということだが、もしそういう理由が成り立つのであれば、本州でも鉄で食器などを作ってもおかしくないのではないか?という疑問は生じる。このように、本書の説明には概ね納得はするが、多少の疑問はある。



アイヌの世界観も、カムイとの物々交換――つまり交易という考えを前提にしたもので、これは和人や近隣の諸民族との交易が盛んになってきてから、完成されていった考え方だろうと思います。(p.58)


なるほど。



 樺太アイヌの文化には北方の狩猟民との交流の結果として、彼らとの共通点がいろいろ見られます。網走などで、アイヌのお土産ということで、人の形をしたニポポ人形というものが売られていますが、これはニーポーポという樺太アイヌの玩具兼子どもの守り神で、北海道では一般的にはこのような人型の人形を作ることはありません。(p.59)


ニポポというとアイヌというイメージだったが、そういうものだったとは。



東北地方でも18世紀半ばまで、アイヌ語は生きていたことになります。(p.63)


この辺も興味深い。



 江戸時代に入るまでは、北海道のアイヌと和人は交易相手としてほぼ対等だったと思われます。それが変わってきたのは、1604年に松前藩が徳川家康から黒印状を受けて、正式に松前藩が確立してからです。当時北海道では米はとれませんでしたので、松前藩は俸禄の代わりにアイヌとの交易権を藩士の給与として分け与えました。これを商場知行制と言います。つまり藩士何某がアイヌ何某と独占的に交易する権利を与えたのですが、これはアイヌ側からしたらそれまでの自由貿易ができなくなったわけで、松前藩士の言い値で取引しなければならない土壌ができあがってしまいました。そこへもってきて、特にキリシタン禁教令によって逃れてきた本州からの移民が、アイヌの居住地へどっと入ってくるという状況が生まれました。そのおもな理由が砂金掘りです。「ゴールデンカムイ」という物語の背景は、その300年前から準備されていたのです。
 そのようにして和人への不満が募っていった中で、1669年にシャクシャイン戦争という、歴史上最大のアイヌ対和人の戦争が起こります。(p.63-64)


商場知行制がアイヌ側にとって意味した内容はよく押さえておくべきと思われる。



結果的にシャクシャインは和議といつわった酒宴の席でだまし討ちにあって殺され、アイヌ側の敗北となりました。
 これを機に松前藩はアイヌへの政治的・経済的支配を強め、享保・元文期(1716~41年)には場所請負制という体制が確立しました。それまでは藩士が直接アイヌと取引をしていたのですが、それをやめて、商人に運上金を納めさせ、その代わりに各「場所」(アイヌとの交易地域)の経営を商人に請け負わせるという制度です。利益を上げるために、商人たちは交易などというまどろっこしい方法はとりませんでした。アイヌの成人男女を漁場労働にかり出して、ニシン漁やイワシ漁などに従事させたのです。(p.66)


場所請負人について、北海道では各地域でかつて力を持っていた商人として比較的好意的に紹介されることが多いように思うが、彼らには陰の面もあったということを十分理解しておく必要がある。



私が感心しているのは、作者の野田先生が小樽の街を「治安が悪いけれど、金の匂いがする街」というイメージでお描きになっていることです。
 これは、歴史的には非常に正確な描写なのです。……(中略)……。
 ……(中略)……。他の地域では、たとえば「農地を開くために北海道に来ました」というように、特定の目的のもとで人々が入植したのですが、小樽だけは「小樽に行けば何とかなる」という思いでやって来た人が多い、非常に特殊な環境だったのです。(p.104-105)


この引用文は、小樽市総合博物館館長の石川直章氏によるコラム「小樽から見た「ゴールデンカムイ」」からのものである。

北海道に人を住まわせ、産業を起こさせ、ロシアの南下に対して備えようという当時の政策を実行するに当たり、最も重要な拠点の一つが小樽だったことが、こうした特殊な環境となった理由の一つだろう。国の政策が変わることで、こうした条件が一気になくなってしまったのが戦後の小樽であり、その変化が激しかったことが、古い町並みが残ることになった要因の一つだろう。

大谷渡 『台湾と日本 激動の時代を生きた人びと』(その2)

 日本では、本当に待遇が良かった。東京に住んでみると、日本人が台湾のことをあまり知らないことがわかった。高等学校へ入った時、「台湾ってどこ。」と尋ねられたことがあった。台湾に対する認識がないから、台湾に対する差別もわからない。むしろ、台湾からよく来たと言って、歓迎された。中学時代に思い描いたように、日本での生活はよかった。(p.162)


ここの叙述は非常に腑に落ちた。台湾在住の日本人は本島人(台湾人)を差別することがよくあったが、日本に留学に来ると良くしてくれたという思い出はしばしば語られるが、その理由が非常に明快になった。ただ、台湾という土地にあまり関心がなかったが故に差別がなかったということであり、これもあまり良いこととは言えないのだが。



 ただ、東大在学時代には、今も忘れられない嫌な出来事が一つあった。一高から東大医学部に入った劉沼光と二人で、東京の街中を歩いている時のことだった。派出所の前を通った時、「学生さん、ちょっと。」と呼ばれた。「学生証を見せてください。」と言うので差し出すと、最初の言葉が「おっ、なんだ、台湾人か。」だった。「ここは大稲埕じゃないんだよ。」「よし中へ入れ。」と言われて二人で派出所の中に入ると、警察官四、五人がいきなり殴りかかってきた。恩魁は手と腕で頭と顔をかばったので歯を折られなかったが、劉沼光は歯をやられた。大稲埕はいまはもうほとんど廃れているけれど、昔は台北でいちばん賑やかな町だった。あの警察官は大稲埕を知っていたから、台湾で警察をやっていたに違いないと、恩魁は確信している。戦争のためにみんなが一生懸命にやっているのに、学生がぶらぶらと街中を歩いているのが気に食わなかったのだろう。呼び止めてみると、以前から偏見をいだいていた台湾人だったので、暴行に及んだものと林恩魁は推測しているのである。(p.164)


狂っているとしか言いようがない。ネトウヨ的なヘイトスピーチをまき散らす差別主義者が現代日本にもそれなりの数存在するが、言動に共通性を見てとらないわけにはいかない。逆に言うと、戦時中までの日本にもネトウヨ的な差別主義者がリアルに存在しており、現在もその当時と同じように存在している、2つの時代にはそういう共通性がある。



 終戦後、翁通楹と二人で牛肉を煮て乾かし、それをほぐして売っていた。満州では日本人が憎まれていたので、日本人とは離れて行動した。(p.166)


当時の台湾人のアイデンティティが、完全に日本に同化したわけではなかったことがよくわかる。満州では日本人が憎まれていたという事実も重要。憎まれるようなことをしたという事実がその結果をもたらしている。



東京で警察に殴られたことで、日本への印象を悪くしたけれど、私は小学校から中学校、さらに高等学校から大学まで、全部日本教育なんです。日本は私にとって育ての親。産みの親は台湾。台湾の人たちは、みんな日本が育ててくれたと思っている。育ての親ゆえに感情が厚いんですよ。それなのに、日本は台湾を相手にしない。日本には日本の立場があり、中国という国が後ろに構えているからかもしれないけれど、あまりにも情けない。(p.168)


この日本に「見捨てられた」ような感覚は、台湾における日本語世代の最後の世代(皇民化世代)の人の多くが抱いていた思いだったと思われる。このことを日本の人々は知っておく必要があると思う。



日中戦争が始まってから、新竹高女では、武運長久祈願で町外れの新竹神社への参拝が行われていた。秋桔が参拝に行かなかったことを、国語担当の安田教諭が知っていた。彼はそれを咎めて、「支那人だ、チャンコロだ、支那へ帰れ。」と罵った。その時秋桔は、「私は支那人ではありません。」と泣いて言ったという。公学校から日本教育を叩き込まれた彼女の頭には、「支那」も何もなかった。漢民族だけれど、私は日本人だと、秋桔はそのつもりだったのである。病後で体調不良であることを知っていれば、あんな叱り方をしなくてもよかったものをと、いまだにあの時の嫌な気持ちを思い出す。(p.173)


この安田教諭なる人物は、腐りきった差別主義者というほかなく、教師として人を教える資格などないというべきだろう。ただ、当時の台湾における差別意識がいかなるものだったのかを示す認識根拠として、また、このような愚かなことを繰り返してはならないという反省のための教材として、このエピソードは記憶されるべきである。ただ、現代の排外主義者たちはこれと同レベルの発言をしており、そうした行為こそ排除する必要がある。



高等科時代には、日本人教師による差別教育の体験がある。教師が台湾人生徒に対し、「支那人根性を叩き直す」「清国奴(チャンコロ)」と罵ったのである。日本から来た人に差別を感じたことはなかったが、台湾で育った日本人には差別意識があった。台湾人生徒の啓三たちは、日本人を陰で犬と言っていた。(p.186)


一つ前の事例などと合わせると、教師による差別はかなり見られたらしいことがわかる。昭和初期の社会の不健全さが感じられる。



 台湾においても、統治下にあった台湾の人びとが疎開を強いられ、空襲の恐怖にさらされ、大きな被害を受けた。この事実も当然のことながら、等閑視されてよいはずはない。太平洋戦争中に、徴用や徴兵によって台湾の多くの人びとが犠牲になった事実とともに、空襲による被害についても忘れてはならないと思う。(p.221)


同意見である。