FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

大木毅 『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』

こうした、ソ連にとっての悲劇をいっそう深刻なものにしたのは、大粛清等による権力集中によって、ソ連指導部からは異論が排除され、スターリンの誤謬や先入観、偏った信念が、そのまま、国家の方針となったことであった。(p.8)


この叙述の内容は、ほぼそのまま現代の日本、安倍政権にも当てはまると思われる。確かにかつてのソ連ほどの大粛清は行われていないが、安倍政権は、官僚に対する人事――安倍政権にとって都合の悪い事実を隠蔽することに加担した官僚が露骨に出世していることは明らかだし、東京高検の検事長の定年延長問題などにもそれは続いているが、そこに至るまでの経過も政権に政治的な立場が近い人間を厚遇し、そうでない人間を冷遇しているのは明らかだろう――やマスメディアに対する脅し――特に政権開始直後からしばらくの間、これを続けることで逆らいにくい雰囲気を醸成した面がある――などの手段によって異論を排除することにかなりの程度成功している。

新型コロナウイルス感染症に対する対応でも、客観的な知見などを十分に考慮せずに独断で全国の学校を一斉休校させたり、突然、布マスクを全世帯に2枚配布すると言いだしたりと、かなり頓珍漢なことを続けているのも、「安倍の誤謬や先入観、偏った信念が、そのまま、国家の方針となった」事例ではなかろか。

学校を全国で一斉に休校にするよりも、首都圏での感染拡大の状況から見れば、人が密集している首都圏の人の動きをどうにかすることが先だったはずだろう。休校はさらに様々な手を打つ中での一つとして必要な局面も出てくることもあり得るにせよ全国一律での実施は的を外していると考えられる。布マスクの配布は、ざっくり言えばマスク不足による不安を解消するためのものであり、感染拡大を防ぐためではないようだが、そんなことよりもう少し実質的な対策はできないのかと首をかしげたくなる。(何でも「やっているふり」ばかりの安倍政権らしいと言えばその通りだが…。)


スポンサーサイト



I.ウォーラーステイン 『近代世界システムⅣ 中道自由主義の勝利 1789~1914』

19世紀の歴史は――20世紀のそれも――、特権と優位を享受した少数者が、つねに市民権を狭く解釈しようとし、他の人びとは、よりひろい解釈を採用することで、これに対抗してきた歴史である。(p.177)


このことは21世紀でも変わっていない。ただ、20世紀の多くの時期(戦後から1970年代頃まで)よりも現在の方が少数者にとってより優位になってきているという点では変わってきているが。


中西聡 『海の富豪の資本主義 北前船と日本の産業化』

 これらの北前船主が、垂直統合経営に向かうか複合経営に向かうかの分岐点は、近世期の北海道への進出時期と進出形態にあったと考えられる。
 第Ⅰ部で取り上げた西川・酒谷・右近家は、いずれも18世紀から北海道産物取引が商業的蓄積の基盤であり、それぞれ両浜組商人あるいは荷所船主として、その利益基盤が支配権力により保護されていた。もっとも、その対価として支配権力へのかなりの御用金を負担する必要があったが、近世北海道の封建領主であった松前藩は、18世紀には北海道産物の生産・流通を商人に委ねて、運上金や沖の口口銭の形態で、間接的に収益の一部を取得する支配形態を採用したため、北海道産物の生産・流通の中心的担い手であった両浜組商人や荷所船主が直接御用輸送・御用商売を担う必要はなく、彼らの商業的蓄積は、支配権力による規制の範囲内での自由な商取引に基盤を置いていた。
 それゆえ、18世紀末以降江戸系商人の北海道進出とともに、両浜組商人や荷所船主の特権は失われたが、場所請負を行った両浜組商人は自ら船を所有して場所経営を拡大することで、また荷所船主は買積経営に転換することで、それぞれ経営危機を乗り切り、大坂など本州の集散地と北海道との地域間価格差を活かして商業的蓄積を進めた。
 19世紀初頭に場所請負に進出した藤野家を含め、これらの北前船主にとっては、すでに近世期から地域間価格差を活かして北海道産物を専ら取り扱うことが、商業的蓄積の中心的基盤となっており、支配権力との経済的関係は、御用金を負担するか否かのみの関係に集約され、廃藩置県により、封建的支配権力が消滅しても、その経営形態を転換する必要はなかった。しかも1880年代に米・綿・砂糖などそれまで北前船主が主に扱った産品の地域間格差が縮小するなかで(前掲表序-9)、北海道産物では、依然として北海道・畿内間でかなりの地域間価格差が残されたため、彼らは近世期と同様の垂直統合経営を近代期も継続した。幕末期に雇船頭から自立した西村家は、成長期が1880年代であり、北海道産物を専ら扱い、北海道と大阪の両方に経営拠点を設け、垂直統合経営を展開した。
 そのため、三井物産のような近代的巨大資本が北海道物産市場に参入した際に、西川・酒谷・右近家らは自らの商権を守るために団結し、北陸親議会を中心として商取引と輸送をめぐって近代的諸勢力と争った。その結果彼らは、1890年代も北海道産物取引でかなりの商業的蓄積を上げたが、競争相手の三井物産が北海道産物市場から撤退した後は、団結するインセンティブがなくなり、またさらなる汽船網・通信網の整備とともに、地域間価格差が縮小したため旧荷所船主の北前船主は、汽船経営に転換したり、海運経営から撤退した。そして、旧場所請負商人の北前船主は、北海道での漁業経営に専念するようになった。
 一方、第Ⅱ部で取り上げた北前船主は、北海道物産取引への進出がいずれも19世紀中葉以降と考えられ、その時点では、北海道産物の商権を第Ⅰ部の北前船主らが握っていたため、北海道産物よりむしろ米・木綿・綿・砂糖など出身地元市場と深く関係する多様な商品を主に扱った。それゆえ、近世期より地域経済とのつながりが強く、幕末期にある程度の土地を出身地元で取得していた。近代に入り、彼らは北海道産物も取引するようになり、前述のように米・木綿・綿・砂糖などの地域間価格差が1880年代に縮小すると、80年代後半から北海道産物取引を主に行った。とはいえ、北海道産物・米・塩・砂糖などの地域間価格差は70年代にはかなり残されたと思われ、特に70年代後半のインフレ期に相当の商業利益を上げた。その商業的蓄積が、1880年代の土地取得の原資となり、彼らは商業上の拠点を北海道に設けつつ、出身地元でも大規模な地主となった。
 その結果彼らは、北海道産物を専ら扱った1890年代でも、出身地元市場と深く関わり、例えば野村家・伊藤家は地元産の米を北海道へ運んで販売し、熊田家は北海道産魚肥を地元へ運んで販売した。このような土地経営や地元市場を介する地域経済との深いつながりが、彼らの複合的経営展開の背景にあり、家業の商業の他に、野村家は地元で土地経営・酒造経営・銀行経営を行い、伊藤家は地元で金銭貸付業や農業経営を行い、熊田家は地元で土地経営や運輸・倉庫業を行った。そして秋野・斎藤・瀧田家や東岩瀬の船主も地元で土地経営・銀行経営などを行った。(p.390-392)


本書では北前船主を3つの類型に区別して、その特徴などを明らかにしているが、そのうち、①北海道物産を中心に扱い、海運関連部門に進出し、出身地域経済との関係が弱いタイプと②近世期に支配権力から相対的に離れており、近代期に多様な業種に展開し、地域経済との関係が深いタイプについて、その経営形態が異なっている理由についてコンパクトに説明した箇所。もともと18世紀以前の経営形態というか利益の源泉がどこにあったかということが、明治中期頃の経営形態にまでつながっていることが見えて興味深い。北海道と本州との地域間価格差が比較的後まで残ったことは、それに適応することで大きく資産を増やしたりなどの影響もあったにせよ、ある程度の長い時間軸で考えれば、基本的には一時的/一過性の現象であったと見ることもできるのかもしれない。

ちなみに、本書が扱う第三の類型は、近世期には支配権力と近く、近代に入ると海運業は停滞し、土地経営に展開したタイプである。本書が記述する内容から判断すると、この類型が他の類型よりもピケティの示す最富裕層(上位1%の階層)に近いと思われる。それに対し、第一と第二の類型は上から2-10%の階層に近いように見える。



近代日本における人口分布は、東京を含む南関東(東京府・千葉県・神奈川県)と大阪を含む近畿臨海(大阪府・兵庫県・和歌山県)に特に人口集中が進んだわけではなく、第一次世界大戦前は、近代初頭の地域別人口分布がほぼそのまま維持された。第一次世界大戦以降に、東京・大阪の巨大都市化が進んだなかで、南関東・近畿臨海の全国に占める人口比率は若干増加したが、前掲表終-12で示した工業生産額の地域別偏差に比べれば人口の地域別偏差ははるかに小さかった。
 むろん、南関東や近畿臨海地方の内部で、大都市部への人口集中は進んだと考えられるが、本書で問題とした日本海沿岸地域と大都市圏との地域比較の視点では、東北地方の全国に占める人口比率は1876年から1935年までほとんど変化がなく、北陸地方は企業勃興期に一度人口比率が増大して、それから徐々に人口比率が低下した。1895年以降の北海道の人口比率の増加と北陸地方の人口比率の現象が同じペースで進み、北海道の人口増加は、北陸・東北日本海沿岸からの流入が中心であったと考えられる。また、山陰地方の全国に占める人口比率もそれほど減少せず、山陽・四国地方の方の人口比率が減少しており、その部分が恐らく大阪・神戸を含む近畿臨海地方への人口移動となったと考えられる。(p.436-437)


第一次大戦前は地域間の人口比率がそれ以前とあまり変わっていなかったというのは意外な感じがする。大正期に勤労者が増加し、都市的なライフスタイルが広まったことなどは、それ以前と比べると都市化の速度が速くなったことと関係があるように思われる。この辺りのことはなかなか面白そうなので、機会があれば調べてみたい。


大庭幸生・永井秀夫 編 『県民100年史1 北海道の百年』

 屯田兵村は、官による計画村落の典型というべきものであった。兵村は当初札幌周辺に配置され、十年代終りから遠く室蘭・根室・厚岸各郡へむかったが、これは主として警備上の理由からであり、つぎに二十年代は空知・雨竜・石狩国上川各郡の農業適地へ配置され、三十年代はふたたび警備上の理由が加わって常呂・紋別・天塩国上川各郡に設置をみた。多分このことと関連して、おおむね初期の兵村では兵員招集や監督上の便宜から密居制をとり、中期には粗居制、さらに後期にふたたび密居制に戻っている。(p.80)


兵村の設置目的に応じて村落の配置も変わるというのは興味深い。



タコ労働者は道外から募集されたものが多い。募集人は甘い言葉で労働者を誘い、遊興を勧めて前借を重ねさせ、土木現場に送りこむことで、かなりの報酬を業者から受け取ることができた。
 大正期の後半から、新聞紙上に多く監獄部屋の酷使・虐待・殺傷などの記事があらわれるようになり、人道主義的な批判が高まった。やがて道庁官吏による社会政策的立場からの避難や、司法関係者による犯罪防止的立場からの非難も加わった。……(中略)……。しかし、土木請負業者はタコ労働者を抜きにしては北海道の拓殖は進められないといい、募集方法の改善などが試みられたが監獄部屋そのものを消滅させることはできなかった。かえって戦時中には労働強化が進み、監獄部屋はふたたび増加の傾向をたどったと考えられる。(p.182-183)


囚人労働を継ぐものとしてタコ労働者が活用されたが、その手法は、いわゆる従軍慰安婦などとも共通点があると思われる。むしろ、北海道で先に実施されていたタコ労働者の募集が先例となっていたのではないかとも思わされる。これらの「業者」は同じ業者がやっていた事例はないのだろうか?または、関連がある業者が行っているといったことはなかったのだろうか?また、本書では戦時中についての記述は推定の域を出ていないが、これを裏付けるような議論というものはないのだろうか?



 明治12年(1879)「学制」にかわって「教育令」が公布され、これを機に開拓使の本・支庁では、小学校のうち規定の六科を具備しない「変則小学校」制を施行する学校を定めたが、先進地をのぞくほとんどの学校は変則小学校であった。このような教育制度上の差別は、このあと昭和初期まで継続したが、その理由とされたのは、人民の経済力の薄弱さやそれを強化するための実用的教育の必要性などであった。(p.197)


人民の経済力の薄弱さを理由として教育機会を制限するというのは、本末転倒の議論であるように思われる。経済力がないからこそ教育機会を平等に与えて、そこから抜け出せるようにするというのが教育制度の本来のあり方ではないのか?



キリスト教はとくに明治20・30年代の伸長が著しい。各派別教会数の変遷をみると、明治・大正期に設立された各派教会数199の65%・130がこの間に設立されており、現在まで残存している教会数81の72%・58がこの時期のものである。北海道開拓全盛期の時代は、その前後にくらべて官憲による迫害も少なかったようである(福島恒夫『北海道キリスト教史』)。(p.198)


興味深い。官憲の迫害が少なかったのだとすれば、その要因はどのような点にあったのだろう?人口の増加(社会増)が大きかったために、社会の変動が大きく、管理しようにもできなかったということだろうか?それとも、憲法の制定(明治23年)に伴う政府の体制(機構の改革)なども関係しているのだろうか?


高倉新一郎、関秀志 『風土と歴史1 北海道の風土と歴史』

ことに明治19年(1886)の北海道庁設置以後は、資本家の誘致・保護に重点をおいた。目的は、資本主義への転換にあたって必要な植民地をもたない日本の資本主義化のために食料・原料を提供し、余剰人口を吸収せしめることにあった。そのためには山林原野の耕地化、農民の扶植、すなわち開墾事業が必要であったが、まず農村を確立してからその活動を広げるためのサービスを生むという形ではなく、最初から進んだ経済組織のなかにある農村として、すなわち自給自足から出発した農業を基礎としたものではなく、最初から交換経済社会を前提とした農村づくりであり、まずサービス部門である市街地がつくられて、その周囲に、多くは農家の集団としてよりは、広い耕地に取り巻かれた一戸一戸の農家連続として農村が展開するという形をとった。したがって、開拓の最初からすでに商業資本とは切り離せぬ関係にあったのである。(p.267-268)


北海道の農村の成り立ちに関する議論として興味をひかれた。


中西聡 『近世・近代日本の市場構造 「松前鯡」肥料取引の研究』

 つまり鯡魚肥生産が開始された近世中期には、両浜組商人―荷所船―敦賀問屋―大津納屋のルートで鯡魚肥は輸送され、近江・畿内で鯡魚肥は主に使用された。日本海から下関を経由して直接海路大坂へ輸送する西廻り航路は、寛文12年(1672)に河村瑞賢によりすでに整備されていたが、鯡魚肥は依然として敦賀から陸送されるルートで輸送された。その背景には敦賀問屋・大津納屋衆と近江商人の強固な結合があり、そのため西廻り航路の整備によって直ちに北海道から大坂までを直接結ぶ海運網が形成されたわけではなく、日本海航路では依然として船の活動範囲が地域的に限定されていた。(p.69-70)


この辺りのことについて、簡単な説明を聞くと、西廻り航路ができるとすぐにそこを通って運ばれたかのような印象を受けてしまうことが一般的だと思う。実際にはすぐに西廻り航路が鰊魚肥の流通路になったわけではなかったというのは、やや意外だった。



日本海海運は遠隔地間「交通」の典型的な例であり、菱垣・樽廻船における江戸・大坂間の価格差に比して、北海道・大坂間の価格差ははるかに大きかった。とすれば日本海海運においては、価格差を利用して大きな利を得られる自分荷物積の方が船主にとって有利であり、実際19世紀には北海道産商品は長崎俵物など一部の御用荷物を除き、ほとんどが自分荷物積で運ばれた。(p.73)


北前船の商売のやり方も、その背景には北海道と大坂との物価の価格差が大きかったという条件があったということを理解しておくことは重要。明治になり交通や通信の技術が発達し、普及してくると、こうした環境はなくなってしまった。



このように三井物産と近世来の諸勢力が正面から競争した函館・大阪市場では、近世来の諸勢力の団結が明確にみられ、三井物産に対してグループとして対抗し、資金力や価格支配力に現れる三井物産の取引上の優位性を押さえ込んだ。逆の見方をすれば、三井物産の進出が結果的には近世来の諸勢力間の競争を制限させ、近世来の諸勢力同士の協調を促し、明治20年代の鯡魚肥市場をより競争制限=安定的な方向へ進めた。(p.323)


三井物産に対抗するために近世来の諸勢力が結束して対抗したため、三井物産は鯡魚肥の市場から撤退させた。次に引用するように、この後、国内の市場を十分に確保できなかった三井物産は外地や外国への進出を強めていった。この辺りは非常に参考になった。



 三井物産はそれに対し、樽前漁業組合と委託販売契約を結び(明治23年(1890))、北浜漁場産物も扱ったが、十分な利益を上げるに至らず、明治28年に栖原家より漁場を譲り受け、北海道漁業部を設置して鯡魚肥生産に乗り出した。しかし北海道漁業本部(北海道漁業部を明治31年に改称)も十分な利益を上げられず、明治30年代初頭に、逆に小樽出張所・函館支店を廃止し、鯡魚肥市場から徐々に撤退して肥料取扱の中心を「満洲=中国東北部」産の大豆粕へ移した。……(中略)……。
 ……(中略)……。この間米穀取引でも三井物産取扱高は、明治23~27年にかけて減少しており、こうした国内市場掌握の限界性が、明治30年代以降の三井物産の積極的な海外市場進出の背景にあったと考えられる。(p.337-339)


国内市場を把握しきれなかったがゆえに海外市場に目を向けざるを得なかったというのは、現在から見る三井のイメージとは乖離があり興味深い。


黄昭堂 『台湾総督府』(その2)

 台湾の建設が、在台日本人の努力のみに頼ったものではなかったにもかかわらず、支配者としての内地人の台湾人蔑視は無垢の子にも教えこまれていく。そして、せっかくつくられた中等以上の学校は公平な競争によらないで、こうした「二世」によってしめられた。そして台湾青年は台湾で高等教育を受ける機会が少ないから内地へ行く。ところが泉風浪も指摘しているように、「内地で高等教育を受け、郷土台湾へ帰へって来ると、大手を拡げて待っている筈の仕事は皆無と来てゐる」(泉、前掲書、341頁)。官学万能のためのみではない。台湾人が差別待遇を受け、採用されないからである。
 しかし、こうした差別待遇よりも、「蔑視」が台湾人の心を大いに傷つけた。親日知識人たることを自任して一生を終えたある台湾人は、「日本の台湾総督は“一視同仁”ひとしく日本人なりと唱えてはいたものの、本島人である我々からみると差別が多く、何んとしても我慢ならなかったのは、正式に日本国籍にある本島人を、中国人に対する蔑称(チャンコロ)で呼ぶ内地人が多かった事である」とその遺稿につづっている(周慶源 『台湾人からみた日本人の英知』 蔵元文焜発行、59頁)。
「チャンコロ」だけではない。
「儞(リー)や」ということばがある。これはふつう、雇い人、車夫、物売りの人たちに呼びかけるばあいに使うといわれるが、内地人はふだん台湾人に呼びかけるときに平然と使う。「おい、こら」もよく使われ、また台湾人のことをいうのに「土人が土人が」と頻発するのに台湾人は耐えがたい侮辱の感をおぼえたと、台湾を訪問した衆議院議員田川大吉郎も報告している(田川 『台湾訪問の記』 127頁)。(p.247-248)


これに類することは、本書以後にもいろいろと指摘されており、基本的な内容は同じである。それだけ台湾の島内で普遍的にみられた現象であったということだろう。

私は最近、いじめ問題についても考えているが、台湾人に対する差別と基本的な構造というか、差別する(いじめる)側のまなざしは限りなく同一と言ってよいように思う。


黄昭堂 『台湾総督府』(その1)

 ところで、台湾史の時代区分において、研究者は清国統治時代と日本統治時代のあいだに「台湾民主国時代」をいれることをさけている。台湾民主国の存続期間が短かったこと、支配権力の実体が不明であることのほかに、研究者が意識的もしくは無意識裡に政治的配慮を加えているように思われる。
 日本帝国についていえば、台湾民主国の存続期間が台湾総督府による支配の初期と重複しているゆえに、それを認め難いであろう。中華民国についてみれば、台湾が一時的であるとはいえ、「独立した」との事実を認めるのは、現在の政策上、不都合であろうし、これは中華人民共和国のばあいも同じである。これら支配者や「支配者的立場」にある国とは別の立場にいる台湾人にしても、台湾民主国の政府要員の多くが、清国官吏であったことや、総統としての唐景崧の清廷への通電で、さかんに「朝廷にたいして他意はなく、忠誠である」ことをるるとして述べていることに違和感をもっているであろう。台湾民主国が台湾史の一時代を画したとの評価を得られなかったのは、このためである。(p.47)


本書は台湾に戒厳令が敷かれていた1980年代に書かれた本であるため、ここでの「中華民国」の立場は、現在の中華民国政府の立場とは必ずしも一致しない。現在の台湾の中華民国政府の国民党の歴史観からすると、確かに台湾が独立した時期があったとするのは都合が悪いことになる。台湾は中国ではなく台湾であるという感覚の台湾人から見ても、本書が言うように、清朝に忠誠を誓うような姿勢であったのであれば、清国統治の一部でしかないということになる。

個人的には、蝦夷共和国と台湾民主国を比較してみたいと考えているのだが、旧幕臣たちが指導層だった前者と旧(?)清国官吏が指導層だった点は類似点と言える。リーダー選出を選挙で行うという点や短期間で制圧されたことなども類似点だろう。ただ、清朝が日清戦争で負けた結果、条約により台湾を割譲することを決めているのに、現地で日本に抵抗を示した台湾民主国と、幕府が内戦で敗れたことに納得できない旧家臣たちが辺境の地へと逃げて体制を立て直そうとした蝦夷共和国とでは、住民との関係性は異なっている面があるかも知れない。



 その反面、日本の台湾領有によって、台湾と沖縄との境界は、むしろあいまいなままに残されることになった。そしてそれは「尖閣列島の帰属問題」として、今日にいたるまで尾を引いている。(p.49)


なるほど。確かに。



 しかし有能な将官だからといって、必ずしも行政能力を持っているとはかぎらない。そこで一般行政を担当する民政部門の首脳に行政手腕が期待されるのである。(p.59)


台湾総督が初期には武官であったが故に、民政長官のような民生部門のポストが必要となり、後者が日常の政治を司るような体制になった。この辺りの理解は本書のおかげで深まったように思う。武官総督時代が終わり、文官になっても残されたあたりも興味深い。



 乃木総督が手をやいた抗日ゲリラは児玉・後藤時代でも変わりはなかった。後藤の告白によると、かれが赴任した明治31年から35年までの5年間に、総督府が殺害した「叛徒」は1万1950人に達している(後藤新平著・中村哲解題『日本植民政策一斑』64頁)。日本が台湾を領有してから明治35年までの8年間に、日本政府側の統計にあらわれている分だけでも、台湾人の被殺戮者数は3万2000にんに達するのである。これは台湾人口の1パーセントを上まわる。ことに児玉・後藤コンビ時代の台湾人殺害数が、初期の台湾攻防戦時に匹敵することにあらためて注目すべきである。(p.83)


こうした点は児玉・後藤時代の称揚する傾向が強い日本側の記述では触れられることはほぼない。本書では、私が近年日本側で出版された本で読むよりも、抗日活動はより活発であり、長期にわたったことが強調されている。これが研究の進展により訂正されたものなのか、著者の立ち位置の違いから出てきているものなのかが気になるところである。



 しかし、原内閣が成立した大正7年以降、状況は一変した。例外を除いて、台湾総督および総務長官の座は政治色が濃くなり、中央における政変に連動して、政党的人事がむしろふつうになった。その先鞭をつけたのが、原政友会内閣による田健次郎の任命である。(p.109)


台湾総督や総務長官(民政長官に相当)の人事や台湾で実施された政策の意味を理解するに当たって、本国の政治状況と結び付けて見ることで見えてくるものが結構ある。この点の認識を深めてくれたのは、本書からの収穫だった。



文官総督時代から顕著にみられる台湾・朝鮮での同化政策は、こうしたナショナリズムの運動法則と合致するものである。異民族=植民地人を同化するには、「教化」もさることながら、その地位の向上をもはからなければならない。(p.146)


内地延長主義への政策転換については、ナショナリズムに基づくという面と地位向上にも繋がるというリベラルな面があった。ナショナリズムは右派と考えられ、リベラルは左派と考えられることが現代では多いが、これらは特段矛盾はしないものであるという認識も重要だろう。



 初等普通教育においては従来と同じく、小学校は内地人子弟、そして公学校は台湾人子弟のための学校であるが、大正8年(1919)からは例外的に、相互の小・公学校への入学が可能になり、大正11年の台湾教育令(勅令第20号)によって、「国語を常用する者は小学校に、常用しない者は公学校に入るべきもの」と規定された。形の上では、国語(にほんご)能力による選別になったわけである(253頁参照)。(p.147)


小学校と公学校というシステムとこれらのシステムに基づく進学などの差別があったという批判は確かに妥当なものではある。ある意味、既定としては最初から日本語能力による選別としている方が妥当だったのではないかとも思う。小学校と公学校という学校の区別自体がない方がよかったのかも知れないが、日本語の初歩から教えなければならない児童と、日本語を母語とする児童とを日本語話者の教師が同じように教えるというのは、かなり無理のある設定である。どのようなやり方が最善だったのか、この問題は考えるといつもモヤモヤする

(植民地支配という前提が誤っているのだから、何の問題もない方策などないのだが、当時の国際社会の状況下や人権意識の程度などを考えると、現代的な視点からの批判は、必ずしも当時とり得たであろう現実的な方策を示唆しない。)



 昭和3年に開学し、最終的には文政・理・農・工・医の五学部を擁する台北帝国大学は学生数約500(昭和18年)だが、講座数は114、教官は助手をのぞいてなお163人もおり、学生3人に教官1人という恵まれた大学であった。……(中略)……。
 戦後、台湾人が親日的傾向に転じたのは、かつて自分たちが教えを受けた国民学校をはじめとする各級学校の教師への敬愛の念がそうさせたのであり、それを、「日本の統治がよかったからだ」と曲解する日本人が多いのは、きわめて残念なことである。(p.190-191)


前段の台北帝大についての指摘は、この大学は統治のための研究のための機関であり、教育より研究を重視していたということが表れているのではないだろうか?という気がする。

後段の指摘は日本人はよく理解しておく必要がある。また、戦後に生きた世代は統治初期の抗日運動が激しかった時代を経験していないということも重要なポイントだろう。



 発電力は昭和12年に17万キロワットであったのが、6年後の昭和18年には倍増して35万7000キロワットに躍進したが、これは台湾が軍需生産に追い立てられた賜物である(以上の数字は台湾総督府『台湾統治概要』による)。
 このように躍進はめざましかったが、多くの矛盾をはらんでいた。台北帝大は農・医学部をのぞけば、ほとんど日本本国人子弟専用の感があり、台北高等学校ですらそうであった。多くの台湾人学生は台湾での高等教育が受けられずに「内地留学」を余儀なくされた。もちろん私立大学に入るのがほとんどで、ことに明治大学、早稲田大学に学んだ人の中から人材が輩出した。本国政府および総督府は意識的に、人文・社会科学を学んだ台湾人を登用しなかったため、東京帝国大学を卒業した台湾人学生(全期をとおして計130人程度)ですら、その多くは官途を閉ざされたままであった。(p.192)


昭和12(1937)年に日中戦争が始まると台湾も軍需のために工業化が進んだことがわかる。

人文・社会科学を学んだ人に対する警戒感は台湾人に限ったことではなく、特に後発の帝国大学(東北、九州、北海道)で文系の学部の整備が遅れたことなどにも強くそれが反映している。この傾向は、現代の日本でも社会科学を十分学ぶ機会が少ないことなどの形で継続しているように思われる。(これが政治に対する感度が低い人が多いことに繋がっていると思われる。)



日本帝国の領域内において、台湾はもっとも稠密に警察が配置されていた地域である。(p.234)


初期の抗日運動や抗日ゲリラがそれなりにいたことの影響か。



 その結果、10年後の明治38年(1905)には、在台日本人の10.3パーセントにあたる6710人が台湾語(福佬話、客話、高砂族の各種言語のいずれか)を「話す」ことができ、しかもそのうちの208人は、それを常用語にしていたという(『明治38年臨時台湾戸口調査記述報文』232頁)。「話す」とはいっても、どの程度まではかは明らかではないが、台湾領有10年にして、このような高率をみせたのは、台湾人の日本語教育が未だに普及せず、日本人の日常生活と公務執行上の必要性にせまられたからであり、必ずしも台湾語を尊重したからではない。(p.244)


この指摘は興味深い。


木村光彦 『日本統治下の朝鮮 統計と実証研究は何を語るか』

 1919年の万歳騒擾事件は日本政府・朝鮮総督府に大きな衝撃を与えた。政府は、併合以来の強権的統治を見直し、朝鮮人に融和的な政策を採ることにより民心の安定を得ようとした。(p.32)


1919年というと大正8年にあたるが、一つの事件だけのインパクトというよりも、その前年の原敬内閣の成立のような大正デモクラシーの流れというものも考慮すべきであるように思われる。同じ1919年には台湾でも文民総督が置かれ、内地延長主義による統治へと移行した時代であったことが想起される。



朝鮮の一人当たり国民総生産は、内地の3-4割、台湾の6-7割にすぎなかったからだ。(p.42)


戦前の朝鮮が台湾より経済的に低い水準だったというのは、やや意外だった。当時の日本国内では、朝鮮総督の方が台湾総督よりも地位が高かったとされることなどからも、それは言える。



 以上の結果、補充金と公債金が朝鮮財政に欠かせなかった。言い換えれば、朝鮮財政は内地依存から脱却し得なかったのである。(p.43)


この点から見ても、植民地台湾と比較して植民地朝鮮は内地(日本帝国本国)にとって経済的には有用性が低かったことになる。上述の総督の地位のことなども考えると、それだけ政治的・軍事的な意味が大きかったということか。



 総督府は、武断政治の強化あるいは恐怖政治(強制収容所や広範・稠密な秘密警察網をともなう)ではなく、それとは逆の融和政策への転換を通じて、反日運動をコントロールし得たといえよう。(p.44)


融和政策は統治の目的に沿って言うと、それなりに有効に機能したらしい。



 要するに朝鮮の特徴は、貨幣経済の進展が換金作物の増産を促進しただけでなく、耕作法の変化を引き起こした点にある(日本統治下台湾も同様である)。この事実から、朝鮮の農民は東南アジアの農民に比べ、市場機会にいっそう積極的、革新的に反応したと言えよう。(p.51)


日本の統治下に入ることによって、ウォーラーステインの言う近代世界システム(資本主義世界経済)により深く組み込まれたと言えそうである。



 産米増殖計画は、帝国日本で最初の大規模な農業開発といわれる(東畑・大川『朝鮮米穀経済論』12頁)。それを立案、実施したのは朝鮮総督府であった。総督府はこの面からみても、たんなる行政機関ではなかった。同計画は総督府が、米作という産業の開発を推進する一大企業体でもあったことを示している。(p.53)


単なる統治機構というだけでなく、産業開発を推進する企業体的な側面があるというのは、北海道の開発からの共通点かも知れない。植民地統治機構のこの性格についてはもう少し掘り下げて調べてみても面白いかも知れない



 1910年代後半、朝鮮大豆の移出量は急増する(1914年、50万石、19年、130万石)。それは、第一次世界大戦の影響で大豆相場が急騰したからである。移出量は、以後も高い水準で推移し、1930年代、移出対生産比は2-3割にのぼった。(p.55)


この点も北海道と共通ではなかろうか。



 共産主義(マルキシズム)と反共的国家主義(ファシズム)はまったく相反する思想のようにみえる。しかし全体主義(totalitarianismあるいはcollectivism)という点では、そうではない。全体主義の核心は、個人の自由な政治・経済活動を禁じ、国家にすべての権力を集中することである。共産主義と反共的国家主義は、この特徴を共有する。
 ……(中略)……。
 帝国崩壊後の北朝鮮では、大きな混乱なしに政治体制の転換が進んだ。その要因のひとつがここにある。体制転換は、統治の理念あるいは精神の根本的変革を必要としなかったのである。
 戦前朝鮮には、内地以上に自由主義の精神が乏しかった。戦時期、それまでにかなりの発展をとげた市場経済・自由企業制度が破壊されると、全体主義が政治、社会、思想、そして経済を支配した。この上に、ソ連が共産主義を移植した。それゆえ、相対的に少数の異分子、すなわち自由主義的知識人、宗教信者とくにキリスト教徒、企業者を放逐すれば、北朝鮮内部に体制を揺るがすものは残らなかった。
 このように戦時・戦後北朝鮮は、全体主義イデオロギーの点で連続していた。
(p.178-179)


なるほど。共産主義とファシズムが全体主義という点では共通しているというのは、以前から同意見であるが、現在の北朝鮮は戦前の大日本帝国と地続きに形成されてきたという視点は参考になった。


吉田秀樹+歴史とみなと研究会 『港の日本史』

 大津百艘船は享保年間(1716~1736)に1300艘を超える船を保有していたという。琵琶湖水運の最盛期をこの時期に求めることもできるが、敦賀に陸揚げされる物資の量でいえば、寛文期から元禄末期(1661~1704)までの約40年間でほぼ半減している。これは河村瑞賢いよる西廻り航路の開拓が大きく影響している。
 従来の琵琶湖を介した輸送では、北国の物資は敦賀において一度陸揚げしなければならず、問丸(輸送業者)への手数料などの面で不便があった。一方の西廻り航路では、北国の物資は関門海峡から瀬戸内海を通って大坂へ、紀伊水道を抜けて江戸まで陸路を使わずに運ぶことができた。これに打撃を受けた大津百艘船は次第に衰退し、1766(明和3)年には39艘にまで減少したという。(p.46-47)


西廻り航路は北前船に多少の興味を持っている者であれば、必ず耳にするものであるが、これができる前は琵琶湖の水運が繁栄していたというところまで繋げて理解すると、北前船の運営に近江商人が積極的に関与し、活躍していた時期があることとの関係性が見えるように思う。近江商人はもともと琵琶湖水運で利益を得ていたが、こちらよりも有利なルートが開拓されたことを察知し、西廻り航路を利用した北前船によるビジネスに乗り換えていったため、北前船の歴史においても近江商人が大きな役割を果たしたのであろう。



 日本に招聘したオランダ人のように、欧米の進んだ科学技術や社会制度を学ぶために、日本政府が雇った西洋人を「お雇い外国人」という。じつは、同じような存在は江戸時代にもいた。(p.168)


江戸時代にも「お雇い外国人」と同じような人々がそれなりの数いたという認識は重要である。明治維新を美化する立場のホイッグ史観(薩長らの明治政府が江戸幕府を倒したことを正当化する立場から描かれた歴史叙述)で見ると、江戸幕府は近代化に後ろ向きであり、それに抵抗したかのようなイメージで、必ずしも事実と一致しない像が描かれることになる。西洋の技術の導入などは明治政府でなくても江戸幕府が既にやっていたということを理解している方が、より公平かつ適切に歴史を認識し、評価することができるだろう。



 明治時代に築港をはじめとする近代的なインフラ設置に関わったのは、オランダ人、イギリス人技術者である。インフラ面においていえば、日本の近代化を先導したのはイギリス人技術者だったが、こと築港や水運に限っていえばオランダ人技術者たちが主流であった。というのも、当時の港湾・河川は海運・水運を目的としていたからだ。(p.169)


分野によってどこの国の影響を強く受けたかが違い、それも時期によって変わっていたということは他の本などで指摘されていたので一応の理解はしていたが、ここでの指摘について言えば、私としてはオランダにはあまり港湾のイメージはなかったのでやや意外な感じがした。