アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

Powered By FC2ブログ

Powered By FC2ブログ
ブログやるならFC2ブログ

横手裕 『中国道教の展開』

 これにたいし「宗教」はヨーロッパで成立し、近代に東アジアへはいってきた概念である。日本で明治維新が起こり、西洋の文化や学問の輸入が積極的におこなわれるなかで、ラテン語religioをもとにした西洋諸国語(英仏religion/独Religionなど)の和訳後が複数あらわれることになったが、明治十年代ころからそのうちの「宗教」が優位になり、しだいに定着していくことになったようである。ここで「宗教」という言葉をさかんに語りながら仏教、神道、儒教などにたいして文明的優越を主張したのがキリスト教であり、それに対抗して仏教も自らを優れた「宗教」であると説きはじめるようになった。そのような過程をへながら、「宗教」はキリスト教を範型としつつ、世界共通の文化の一つとして人が思考するにあたって必要な概念とみなされて定着した。そして、日本では仏教をはじめとしてそれに類似する既存の文化も「宗教」の名で呼び、その型にあわせて理解することになっていくのである。このような状況下で、道教もいつしか宗教とされたようである。(p.5-6)


日本における「宗教」の概念の形成史。この用語自体がキリスト教を範型としていたということは極めて重要なポイントであり、それにあわせて他の「宗教」も裁断されることとなった。「宗教」という言葉の核心部分に「超越的な神への信仰」が漠然とイメージされるのも、このことによると言えよう。

私としてはキリスト教であれ、仏教であれ、道教であれ、イスラームであれ、こうした「宗教」と呼ばれる現象は、「共通の信仰」がそのメルクマールであるというよりは、むしろ、集団形成のひとつの形態として捉えるべきであると考える。集団を形成する際のメルクマールとして教義や信仰というよりも、とりわけ儀礼を共有している場合にその集団が形成される形態を「宗教」と呼ぶべきだと考えている。即ち、理論ないしイデオロギーを中心として形成される学派や政党とは異なり、共通の教義に基づく儀礼――実質的に自己目的的な儀礼であって、プラグマティックには何らかの目的のための手段として位置付けられないような儀礼――を共有している集団形成の様式を宗教と呼ぶ。

このような読み替えを行うことによって、「超越的なもの」への信仰を中心として捉えられがちな、キリスト教をモデルとした宗教観よりも、様々な「宗教」の現象を捉えやすくなるのではないかと考える。



一言でいえば、文化を形成し担う中心的主体が貴族から富裕市民層に移り、その質も貴族趣味から庶民化したといえよう。(p.57)


唐代から宋代は中国の文化のターニングポイントとされるが、道教も同じであったと本書はいう。唐から宋にかけての時代における文化の性質の変化を分かりやすく端的に表現していると思う。

もちろん、唐代にも「庶民の文化」は存在したが、それがメインカルチャー的な扱いを受けてこなかったのに対し、宋代になると「庶民の文化」が肯定的な評価を受け、残されるようになったというところだろう。



 「道士と道観の道教」が道教として正統であり権威をもつということは一般論的に認められているが、じつはそれ自体の活動内容は伝統に依拠しその遵守をむねとするわけであり、大きな内容的変化は起こりにくいことになる。それにたいし、本来は非道士による道教文化がいろいろなかたちで展開発展し、道士の道教にも流れ込んでそれを豊かにしていくものであったといってよいであろう。(p.78)


興味深い現象であり、道教以外の分析にも使えそうなモデルだと思われる。フォーマルなものはフォーマルであるがゆえに伝統に拘束されて固定化される傾向にあるが、インフォーマルなものにはそれほどの拘束性がないために時代とともに変遷していき、それがフォーマルな世界にも影響を与えていくとする。

「伝統」とされるものの多くは実際には過去も現在もそれほど長く同じものは続いていないということからすれば、ややフォーマルなものの伝統的拘束性を高く評価しすぎているきらいはあるが、それらが実際には時代と共に変化していくことを説明するモデルにはなりうる。余談になるが、80年代の村上陽一郎の「意味空間」という仮説とも通じるところがあるのが興味深い。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

奥村哲 『中国の現代史 戦争と社会主義』(その3)

 こうして「新民主主義」は放棄され、社会主義化に急旋回していったが、注意すべきは、これによって社会主義という言葉がもつ意味内容自体が、実は決定的に変化したということである。さきに示したように、遠い将来のこととされていた社会主義は、基本的にはまだユートピアであった。それは理念を実現するものと考えられており、だからそのための十分な経済的文化的条件を前提とし、合意にもとづく国公有化を志向し、民主主義の形式をとろうとしていたのである。
 しかし、アメリカと厳しく対立したからといって、急に社会主義化のための「さまざまな条件が備わ」ったわけではない。ただ指導者の認識が転換しただけであり、その結果強行される社会主義化は、以後もいやおうなしに現実認識に追随して変化していかざるをえない。そして、現実認識の根底にあるのが戦争への危機感であり、圧倒的な敵の侵略に対応しようとするものである以上、その社会主義化はもはや戦争、それも総力戦のための手段でしかなくなる。つまり、ユートピアとしての社会主義を目指す形をとりながら、実際には総力戦の態勢が構築されていったのである。実態が理念と食い違うのは当然であった。ただし、ユートピアは掲げ続けられ、それが正体を見えにくくしたのである。(p.132-133)


同意見である。むしろ、こうしたことがどうしてもっと多くの人に主張されないのか不思議なくらいである。

未だに中国というと社会主義・共産主義という体制だと考えている人が多い(日本の一般人で75%以上)ということがアンケート(工藤泰志 編 『言論ブログ・ブックレット 私ならこう考える――有識者の主張011 三年連続で実施した日中共同世論調査から明らかになった 中国人の日本人観 日本人の中国人観』)にも出ているが、それらの人々の考える社会主義や共産主義とは一体何なのか、もう少し掘り下げる必要があるのではないだろうか。(日本の知識人では45%程度まで下がるのは妥当なところだろう。なお、知識人では、これに代わって、大国主義、全体主義、覇権主義という見方が多くなる。)



 要するに、これまでみてきた改革開放政策とは、戦時態勢の論理(それが社会主義体制の実質であった)から、経済発展の論理への転換であり、社会主義体制の解体であった。(p.179)

 共産党の一党独裁は続いているが、それはもはや、国家資本主義の色彩を多少帯びた開発独裁の一つでしかなく、冷戦の一端を担った社会主義の体制は、すでに崩壊しているのである。(p.188-189)


これらは普通に社会科学的に分析すれば当然出てくる結論だと思われる。



 朝鮮戦争やベトナム戦争では、日本は発進基地あるいは後方として、アメリカ軍を支えた。そして、朝鮮特需は日本を経済復興へ導き、ベトナム特需も高度経済成長の一部を支え、経済大国化に道を拓いた。他方、中国は朝鮮戦争後、「帝国主義の侵略」に備えた総力戦態勢を構築していく。これが社会主義化にほかならないことは、すでに何度も述べてきたことである。その「帝国主義」の中心はもちろんアメリカであるが、中国民衆にとって、「帝国主義の侵略」という言葉の具体的なイメージは、なによりも日本が与えたものであった。この意味では、日本の全面的な侵略を受けた体験こそが、民衆レベルで社会主義体制を支えていたともいえよう。しかも日本は、アメリカ「帝国主義」と安全保障条約を締結し、軍事同盟関係に入って軍隊(自衛隊)を復活させた。これが、「日本軍国主義」・「日本帝国主義」の復活を示すものとして受けとめられたのである。今日の北朝鮮を考える場合にも、こうした点は軽視できないと思われる。
 このようにみてくれば、日本がアメリカに追随し、中国に対する独自の外交を展開しなかったことの結果は、明らかであろう。一言でいえば、帝国主義の残像を維持・温存させ、それが社会主義体制を支えさせたのである。(p.207)


(中国政府の方針も影響している部分もあると思うので)日本側の一方的な責任とはいえないにしても、日本から発信される情報(外交におけるスタンス、政治家の発言等)が中国の民衆に「帝国主義の残像」を維持させることに寄与したことは間違いないだろう。この残像を消し去っていくためには、政治家の右翼的な発言を封じていくことや首相の靖国参拝のような行為をなくしていくことによって、刺激を減らし、ある種の風化現象を起こさせていく必要があるのではないだろうか。

また、中国の「社会主義体制」がこうした日本帝国主義の残像によって構成され、具体的な脅威としてのアメリカによる侵略に備えたものだったとすれば、昨今のようにアメリカ側から中国との関係は最も重要な国際関係の一つとまで言われるような状態が続けば、これまでの中国政府がとってきた行動パターンも大きく変わっていく可能性があるのではないか。

例えば、「大国主義」や「覇権主義」のような、追い詰められているがゆえに採らざるを得なかった威嚇的な行動も幾らかは減っていく可能性はある。国力が相対的に強まり、一党独裁の態勢が変わらないために過激な行動がしやすくなるため、こうした動きは減らない可能性があり、むしろ増える可能性も否定できない。しかし、それでもかつてのような孤立に近い状況とは昨今の中国は違っているから、国内的には独裁であっても国際関係による制限はある程度受けるようになってきている。

いずれにせよ、日本から見る中国のイメージにも今後変更が必要になってくるかもしれない現在の中国にある日本のイメージが戦前の時代遅れのものであるのと同じように、将来、気がついたら、日本の側から見た中国のイメージがその時点での中国の実態とは大きくかけ離れた「過去の残像」になってしまっている可能性は否定できない。



しかし残念ながら、日本は国際的孤立という中国の弱みにつけこんで、謝罪を値切り国家賠償を放棄させたのである。これでどうして真摯な反省をしたといえるのだろうか?
 これ以後も、自民党政府は謝罪表現を値切り続けていった。日本の首相が初めて「侵略」という表現を使って謝罪したのは、国交回復からさらに20年以上たち、自民党が野に下って成立した細川護煕内閣のときである。この間、教科書検定によって、次代を担う人々に侵略という歴史的事実を伝えないようにし続けた。こうした歴史に対する歴代自民党政府の不誠実な態度や、繰り返される閣僚の「問題発言」が、「日本帝国主義」あるいは「日本軍国主義復活」のイメージを、放棄しがたくしたのである。これは中国だけの問題ではない。周辺国すべての疑念をあおり、不信感を抱かせ続けることが、決して日本の国益にはならないことだけは、確かであろう。(p.209)


「日本は国際的孤立という中国の弱みにつけこんで、謝罪を値切り国家賠償を放棄させた」というのは、なかな興味深い見解である。政治は道徳ではないという観点から見て、やや道徳的過ぎる見解だというのが、この見解に対する私の評価である。

しかし、後段の自民党政府の不誠実な態度が「日本帝国主義」「軍国主義」のイメージを維持させてしまったのであり、こうした態度は改めるべきであるというのは国際政治的な観点からも同意できる。すなわち、自国の敵を減らすという意味での安全保障の意味でも、もっと大きく、世界レベルでの平和構築という観点から見ても支持できるものである。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

奥村哲 『中国の現代史 戦争と社会主義』(その2)

 そもそもナショナリズムは、思想というよりも情緒であり、自己の存在への危機から生まれ、自己が帰属すると考える集団に価値を認めた上で、それを守り発展させようとするものである。自己と同一と考える集団に対しては連帯し、統合を進めるが、異なると考える集団は価値的に低いとみなし、排斥し対立する。また、自己と同一と思われるにもかかわらず、自分たちに同調しない者は、無能力者か裏切り者であった。こうしてナショナリズムは、人々の連帯と対立、社会の統合と分裂という、矛盾する二つの契機となるのであり、イギリスやフランスに対抗して上から急激に国民国家化を進めた後発資本主義国では、それだけ排外性の強いナショナリズムをその核としたのである。そして、より排外主義的なナショナリズムは弱者に対してより侵略的となった。こうして国民国家の排外主義的な国家利益が追求され、互いに衝突し、帝国主義に向かっていく。(p.60)


ナショナリズムが思想というよりも情緒であるという指摘は妥当だと思う。だからこそ概念的には捉え難い。そして、その情緒は「危機感」から生まれるがゆえに、抵抗すなわち「防御のための攻撃」の性格を常にもつことになる。ナショナリズムにおいては建前上の防御という口実と実質的な攻撃性が表裏一体のものとして結びついている。「防御のための攻撃」の論理から「攻撃される前に攻撃する」という先制攻撃論にはほとんど壁がない。「外敵」から攻撃されることへの恐怖(危機感)が常にある人が抱く情緒なのだから、その緊張感に耐えられなくなる時点で常に先制攻撃論という理屈が出てくるのである。そして、実際問題としてこの先制攻撃が行われるのは自国より弱いと見なしうる地域に対してに限られる。

本書の主張で見落としていると思われるのは、侵略する側のロジックとして、被侵略地域の人々(あるいはその地域の人々の中の「同胞」)を「解放する」という名目が使われることであろう。そして、しばしば、それらの人々を「自己が帰属する集団」の一部だと見なそうとする点に、本書では力点が置かれていないところにはやや違和感がある。

例えば、中国で言えば、中華民国時代以降のナショナリズムは「中華民族」という集団を想定(想像上で作り出)し、そこにチベット族やモンゴル族やウィグル族なども含まれているという論理で、こうした「少数民族」を「中華民族」の一部として取り込んできたし、かつての日本帝国が台湾や韓国を侵略したときにも似たようなイデオロギー的な言辞がよく使われたと聞く。

ここに見られるのは「排外主義」とはやや異質な論理と感情であって、排外主義だけで説明するのはやや単純化しすぎのきらいがある。この点を除けば概ね著者の意見に賛同する。

興味深いのは、「自己と同一と思われるにもかかわらず、自分たちに同調しない者は、無能力者か裏切り者」という発想がナショナリズムでは頻出することについて明確に指摘していることである。かつての日本では「非国民」というのがあったが、昨今の日本のウェブ上では日本国籍保有者に対して「反日」という言葉でラベリングすることなどが、まさにこれにあたるだろう。



 ここでもう一度ナショナリズムの特性を振り返ってみよう。ナショナリズムは自己の存在への危機感からアイデンティティを求め、その集団に価値付与を行ない、集団の発展に敵対すると考えられるものに対して闘争していくものである。本来理性的であるよりは情緒的であり、集団の統合を進める一方で、「内なる敵」や異端と考えられる者に対しては抑圧的になる。というよりは、むしろ「外」との闘争とともに、しばしばつくられさえする「内なる敵」への抑圧を媒介として、統合が進められるのである。反漢奸闘争の場合、一村ないし数か村を単位に行われ、村人が集められ、その真ん前で「漢奸」が吊し上げられた。参加しなければ疑惑を招き、自身が次の闘争対象にされるかもしれない。逆に積極的に「内なる敵」を摘発し闘争すれば、より多い果実が得られるし、自分が「内なる敵」とされることもなくなる。「敵」か「味方」かがいやおうなしに鮮明にさせられるなかで、相互に監視しあい、運動に参加して身の潔白さを証明し、「敵」を共同で抑圧する「味方」の体制が村としてつくられ、それを共産党が掌握していったのである。それは社会の厳しい緊張を前提とした、早熟的な統合であり、これを背景に、戦争末期に共産党はその勢力を拡大していったのである。(p.102-103)


本書におけるナショナリズムにおける統合の分析のうち、この「内なる敵」への抑圧を媒介として相互監視的な抑圧的な社会として統合が進められるという指摘は非常に興味深いところである。

昨今の日本で「内なる敵」とされているものの一つが「公務員」であるという点は一応指摘しておこうと思う。もっとも、これはナショナリズムの感情というよりは、行き先の見えない社会の不安をぶつける対象として発見された「内なる敵」ではあるだろうが、このように「内なる敵」が常に探されている社会の状況があるとすれば、早晩、かつての中国のような「強制的かつ自発的な監視社会」が実現していく可能性は否定できない。

実際、私は第二次世界大戦後から冷戦終結までの時期と冷戦終結後の時期において、日本と中国の地政学的な位置はほぼ逆転したと認識している。

すなわち、戦後の冷戦体制の下では日本の置かれた位置は極めて有利なものだった。東西の境界線にあり反共の砦として経済的に有利な条件が国際的に整っていた。そのお膳立ての上で日本の経済発展があった。逆に、中国は国際的に封じ込めの対象とされ、ソ連ともアメリカとも関係が悪い中で孤立していた。当然、貨幣の流通が血液のようなものである経済はそうした環境下では発展することは難しかった。

冷戦後は状況が一転した。冷戦構造の中でアメリカ一辺倒の外交を続けてきた日本は政治的に孤立の傾向を示した。経済的には国際資本移動が加速したために安価な労働力が大量にあるインドや中国に有利な状況となり、工業が売りだった日本にとっては不利な状況となった。アメリカやイギリスとは異なり、金融のヘゲモニーが確立していなかったため、没落を食い止める要素が少なく、没落の速度は早かった。中国は冷戦が終結したことにより、かつての封じ込めは終わり、現在は全方位外交を進めている。安価な労働力が大量にあることによって、工業と市場としての優位性が発揮されている。国際資本移動の自由化の恩恵である。

国際社会・世界経済のネットワークの再編が起きる中で、もともと有利な状況があったが、その状況が一挙になくなってしまった日本と、もともと不利な状況にあったが、その状況が一挙になくなってしまった中国とが対照的な動きをしており、冷戦後の日本の歴史は第二次大戦後の中国の歴史と、いろいろと共通点があると私は見ているのである。今後、日本で「大躍進」や「文化大革命」のようなことが起こらないとは限らない、そんな情勢になってきているのではないか。(まぁ、日本は曲がりなりにも「中核」に属してきたので、一挙にここまで酷い事態には陥らないだろうが、それと似たような社会情勢にはなっていくかもしれない。)

余談だが、「一国の歴史」を一つのものとしてみる見方を私は基本としてしないので、「日本の歴史」とか「中国の歴史」という言い方はしたくないのだが、一応、政治的な単位として国民国家が機能していることは認めており、この単位の中では比較的同じ情報が共有されるし、財政的にも国際経済的にも利害を共有する部分はあるため、社会的な意識のあり方に着目する際には、一国史観的な見方をある程度採用しなければならず、そのために上記のような書き方になってしまった、ということを一言断っておく。

冷戦体制はブレトン・ウッズ体制とセットだったと私は見ているので、本当は冷戦が画期とは言えない。ブレトン・ウッズ体制の終焉から移行期がスタートしたのであり、冷戦の終結によってその移行期が終わったことを意味する。ブレトン・ウッズ体制が終わったとき(1971年)に、中国とアメリカの関係が改善に向かい、その後、中国で改革開放路線が選択された(1978年)ことは偶然ではないのである。



 朝鮮戦争は1953年7月に休戦協定が調印されたが、以後も、中国はアメリカと鋭く対立するようになった。不意を突かれてアメリカ軍が壊滅に瀕したとき、マッカーサーは中国軍の後方補給基地となった東北に数十発の原爆を投下するよう提案し、トルーマンも原爆の使用を考慮していると声明した。原爆投下自体は国際世論の反対もあって回避されたが、アメリカは中国を東アジアの秩序に対する最大の脅威とみるようになり、その封じ込めを謀って周辺のアジア諸国と次々に軍事同盟を締結していった。1951年9月に締結された日米安全保障条約もまたその一環であることは、記憶されねばならないであろう。逆に中国にとっては、アメリカのこうした動きこそが中国への脅威であり、中国への「帝国主義」的侵略の企図を実証するものであった。こうして、ありうるアメリカ「帝国主義」の侵攻に、総力をあげて対処できる態勢を築くことこそが、中国の最大の課題となったのである。それが、中国を社会主義体制に導いた。(p.121-122)


東アジアにおける東西冷戦の構造はこの頃に確定したのであり、日本はこの恩恵にあずかり、中国はこの体制により封じ込められた。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

奥村哲 『中国の現代史 戦争と社会主義』(その1)

社会主義体制とは、相対的に後進的な国における、「帝国主義の侵略」に対処する総力戦の態勢であり、中国の場合、日本の侵略が決定的な転換点になった。まさしく、日本の侵略があとに遺したものだったのである。(p.6)


これは本書の結論ないし中心となる主張である。私も概ね同意見である。

いわゆる「社会主義」は冷戦時代の東側諸国で採用された体制だが、これらの国々は、世界経済の中で半周辺的だと位置づけることができる。それは経済的にも軍事的にも優位な位置にある「中核」からのある種の(経済的なものを含めた)「侵略」に対し、自国のエリア内のリソースを政治的に動員することによって防衛しようとするものであった。

ウォーラーステインの理論の枠組みでは経済的な面が強調されるのに対し、本書の特色は軍事的な面、即ち、国防という目的がさらに上位にあったことを強調する点である。中国の場合、重工業の開発が、敵に侵略された場合に、容易に侵略され敵の戦力になってしまいかねない沿海部ではなく、経済的な効率が落ちる内陸部に重点が置かれていたことが、国防がより上位の目的であったことの認識根拠となっている。

社会主義や共産主義の理論・理念と現実の体制は大きく乖離したものであったが、イデオロギーに引きずられて的外れの議論が多く繰り返されてきた中にあって、本書の見方はそうした「体制正当化のレトリック」に引きずられていない点で評価されるべきであろう。なお、私としては本書の見方はかなり当然のものに思えるのだが、意外とこうした見方をしている本は少ないように思われる。

ちなみに、本書の別の箇所ではほぼ同じことを次のように書いている。

 私の結論を先に言えば、社会主義体制とは、工業化が相対的に遅れた地域における、ファシズムないし全体主義国の侵略を受けたことを歴史的経験とした、ファシズム以上に徹底して全体主義的な国家の防衛態勢であり、総力戦の態勢である、ということである。(p.41)





 しかし社会的所有というのは、平たく言えば、「みんなのもの」ということであった。そのみんなには、自分ももちろん含まれる。とすれば、問題は法律上あるいは形式上でどうなっているかではなく、実質の上で、自分が働く土地や機械などに対して、自分も含めた個々人の意志が反映されるかどうかである。「みんなのもの」とは、みんなの意志に任されるもの、ということであろう。もちろん、個々人の考え方や利害はさまざまであり、しばしば対立する。だから、「みんなの意志に任される」というのは、考え方や利害の違いが民主主義によって調整されて、社会の合意が得られることが、前提になるはずである。そう考えるなら、中国の国有・公有は、きわめて高度の民主主義を前提として、はじめて「みんなのもの」といえるであろう。しかし残念ながら、改革開放以前の中国では、初歩的な民主主義さえ欠如し、完全な共産党による一党独裁であった。国や公的集団の意志決定も、すべて共産党が独占していた。このような状況のもとでの国有と公有は、単に「共産党のもの」でしかなく、決して「みんなのもの」ではない。ただ、共産党がみんな(全人民)の意志を代表しているという、なんの制度的保証もない建前が、「全人民的所有」という虚構の看板を支えているだけである。(p.28)


これもほぼ同意見であるが、意外とこのような素直な見方を示す人は少ないように思われる。

強いて付け加えるならば、「民主的な意思決定」は「デモクラシーの制度」を整えてもできるとは限らないし、「デモクラシーの制度」がなくても一時的には「民主的な意思決定」ができる場合があり、これらを同一視してはならないということは付け加えなければならないだろう。そして、デモクラシーの体制があっても、間接デモクラシーの場合、「みんなのもの」という度合いはかなり低く、実質的に「エリート(選ばれた人たち)のもの」である度合いが高いということ。つまり、純粋に「みんなのもの」という状態は、多数の人間からなる共同体では完全に実現されることはないということである。

いずれにせよ、「共産党がみんな(全人民)の意志を代表しているという、なんの制度的保証もない建前が、「全人民的所有」という虚構の看板を支えている」というのは間違いない。中国国内に、このことに明確に気づく人が増えるべきであると考える。



 では、五ヵ年計画とは何だったのか。実際には、経済を五ヵ年でそこまで発展させたいという、願望でしかなかった。(p.30)


またまた同意見である。

ただ、これは「計画経済」を標榜していた諸政府を笑ってばかりもいられない。日本の景気判断や年金の保険料や給付水準を決める際に使われてきて人口推計なども、かなりの程度、政府の願望を反映して表明されており、それに沿って政策が作られているからであって、日本の有権者も他国を笑える状態では全くないのである。



テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

村上哲見 『中国の都城4 蘇州・杭州物語 天に天堂 地に蘇杭』

 紀元三世紀、漢が衰えたあとの魏と呉と蜀の対立は、小説の『三国志』(『三国演義』)の物語として名高いが、三国鼎立とはいっても、基本図式としては黄河流域の、いわゆる中原を支配する魏に対し、長江下流の江南地方を占めた呉が対抗する南北の対立であって、蜀はその間に介在する第三勢力だったのである。つまり江南地方が黄河流域の中原と対抗できるほどに成長したのであり、これよりのちには、しばしばこの南北対立という情況が起こることになる。(p.44-45)


適切な図式であると思われる。



 この五代十国の乱世の半世紀は、杭州にとっては都市として一段と発展した時期である。覇権争いの焦点となった中原から遠いという地理的位置が幸いし、この地域は十国のひとつ、呉越と称する王国が支配して比較的安定した状態が続き、杭州はこの王国の首都として栄えた。呉越王の銭氏は、もとより王室の繁栄、財源の確保のためではあるが、杭州の治水に充分に心を砕いたのである。(p.165)


杭州に限らず、江南地方はこうした華北・中原の混乱期にこそ、経済的な基盤を固めていったようである。政治的な力を持っていた華北地方が疲弊している間に、相対的な平和を享受している地域が経済発展したわけである。



 女真族の金は、開封を占領し、二帝を捕えてはみたものの、広大な華北の農業地帯を恒常的に支配する自信はなかった。強力な騎馬兵団によって軍事的に勝利を得たとしても、農民を恒常的に支配するシステムについては無知であるし、だいいち広大な中国大陸に浸透するだけの人口がない。このあたりは、1937年から8年間にわたって、中国大陸のかなりな部分を占拠した日本の場合と類似関係がないではない。
 こういうときに侵略者が思いつくのは、かいらい政権である。金は、はじめは張邦昌の楚、のちには劉豫の斉という国をつくって華北を治めさせ、吸い上げるものは吸い上げようとするが、どちらもうまく行かなかった。日本が華北政務委員会や南京国民政府をあやつろうとして失敗したのとよく似ている。(p.194、本文傍点部は下線を付した。)


なかなか興味深い対比である。

火器が発達する以前は遊牧民が軍事的に力を持っていたが、それ以後は海に面した地域の方が相対的なパワーが増してきた。こうした傾向は16世紀ないし18世紀頃から世界的に見られたが、19世紀に決定的になった。かつては北方遊牧民が行ったことを20世紀には日本が行ったというのは、そうした世界システム的な変動局面を反映しているように思われる。



 翌年、宋と金との間に講和条約が成立した。それは、黄河と長江の中間の淮河を境界とするのは、いわば現状維持であるからしかたがないとしても、宋の天子は金の天子に対して臣下の礼をとり、かつ「歳貢」、毎年銀二十五万両と絹二十五万匹をさし出すという、屈辱的な不平等条約であった。しかしいかに屈辱的な条件であったとしても、とにかく講和が成立したので、秦檜はこのあとも、亡くなるまで十数年のあいだ権力を独占し、栄華をほしいままにした。
 後世になると、岳飛は愛国の烈士、民族の英雄として尊敬を集めるいっぽう、秦檜は奸智にたけた売国奴として憎まれ役となる。今も杭州の岳墳にみられる光景が、そのことを如実に示している。
 しかしながら、感情をぬきにして平静に考えてみると、秦檜の人物はともかくとして、このとき彼が平和をとり戻した功績はやはり大きい。このあと、十三世紀の終わり近くになってモンゴル族が侵入してくるまで、百数十年の間というものは、時おり戦端が再開されたことはあるものの、おおむねは平和が続いた。その間に江南の経済的発展はおおいに進み、臨時首都となった臨安すなわち杭州をはじめ、江南の諸都市は空前の繁栄を享受することになった。
 条約は不平等にちがいないが、それが当時の宋と金との軍事力の差の結果であるとすれば、必ずしも秦檜の責任ではない。天子が金帝に対して臣と称するなどは、庶民にとってはどうでもよいことであるし、歳貢、毎年大量の銀と絹をさし出す負担はもちろん小さくないが、平和を金で買ったと考えれば、高いか安いかは一概にはいえない。平和でさえあれば、宋と金との間の貿易、商人同士の取り引きは盛んにおこなわれ、それはつねに茶などを中心に宋の輸出超過であったから、大きい目で見ればとり上げられたものを貿易でとり返すことになっていたのである。(p.199)


この評価について、ほぼ同意見である。

私も去年、杭州にある岳飛廟に行ってきたが、岳飛の何が偉いのかがよくわからなかった。岳飛が「民族の英雄」として称揚されているのは、アヘン戦争以後の中国の状況について、中国では諸外国から被害を受けたという考え方が強く広まっており、「外敵(非『中華民族』)」に対して徹底抗戦するという姿が「愛国的」なものとされてきたことを反映しているにすぎないというのが私の認識である。




 考えてみると、ヨーロッパで印刷、出版が発展するのは十五世紀半ば、グーテンベルク以後のことであるし、日本では法隆寺に残存する百万塔の無垢浄光大陀羅尼経が、八世紀後半に印刷されたことが確かめられることを自慢にしているが、これは一枚の刷り物にすぎず、技術的には初歩的段階に属する。書物の出版ということになると、寺院における仏典の出版などは十一世紀あたりからはじまってはいるが、町の本屋の営業出版ということになると、江戸時代に入ってから、十七世紀以後にさかんになるので、十一、二世紀の宋代における営業的出版は、世界的にみて異常に早く発展したといわねばならず、世界における出版産業の元祖といえよう。そして杭州、臨安はその一大中心地だったのである。(p.233)


ヨーロッパでも一般の庶民にまで出版の成果が広まったのはもう少し後だろう。宋代にどの程度の所得階層まで出版の成果を享受したのかは分からないが、かなり早い時期に、ある程度広い層に向けた出版が行われたということは事実だろう。

これも中国の経済力や文化水準が世界的に見て高かったことを示しているように思われる。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

阿部幸夫 監修、新保龍太 著 『面白ほどよくわかる 三国志 英雄・豪傑たちの激闘の軌跡と三国興亡のすべて』

 魏の明帝が亡くなる前年、倭の女王の卑弥呼が使者を魏に送ってきた。この記事が載っている部分が、『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」である。
 当時、呉と遼東の公孫淵が使者をやりとりしたり、魏がそれを妨害しようとしたりと、海上で交渉がかなり活発になっていた。こうした状況が、はるか東方の海上にあった「倭」の国、日本にも影響を与え、歴史上に記録が残るようになったのだ。
 ・・・(中略)・・・。
「魏志倭人伝」を読むと、倭国の地図上の位置がずいぶん実際より南になっている。これが日本史上では、卑弥呼の国が九州にあったか近畿にあったかで大変な議論の対象となっているが、魏の立場からすれば大した問題ではない。南にあるほうが戦略上都合がよいから、そう書いたのである。
 史書を読むときには、こうした時代の状況を考慮に入れないと、場合によって大きな誤解を生む原因となる。自戒しよう。(p.218)


なるほど。



 司馬氏の一族は、それぞれ五胡の勢力を利用しようとしたが、反対に晋の皇帝が捕らえられたり殺されたりして、晋の勢力は江南に逃れる。
 江南に脱出する前を西晋、あとを東晋というのだが、なんのことはない、華北を異民族にとられて自分たちは呉の領土に移ったのである。
 これから華北は五胡の国々が乱立する五胡十六国、江南は東晋によって統一され、東晋が宋に交代してからは南北朝の時代と呼ばれる。後漢末の黄巾の乱から、隋による全土統一までの約四百年間、中国は分裂の時代だった。(p.235)


中国の歴史を捉えるとき、北と南の力関係として捉えると非常にスッキリと整理できる。

北方 魏   → 晋(西晋)     → 五胡 → 北魏 → 隋

南方 呉・蜀 → 晋(西晋)に統合 → 東晋 → 宋  → 隋に統合

そして、軍事力では当面、北方が優勢であり続けた。少なくとも、世界史的に遊牧民の軍事力が優勢であり続けていた間は。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

野村達朗 『大陸国家アメリカの展開』

 大平原を舞台にカウボーイが活躍する西部劇でおなじみの情景が展開するのも南北戦争後のことである。乾燥した土地が農作物などを育ててくれるとは思えず、農民が進出する前の大平原の公有地でまず栄えたのは牛の放牧だった。しかし牛の放牧が発展するには、肉牛の市場としての北東部都市社会の拡大、生産地と消費地を結ぶ鉄道の伸張が必要だったのであり、「牛の王国」も資本主義的市場関係に支配されていた。そして放牧とロングドライヴは資本主義的な労使関係に立つ営利事業だった。カウボーイは放牧労働者だった。彼らは馬乗り、ロープ捌き、焼印押しの熟練をもった労働者であり、朝早くから過酷な労働に従事した。またカウボーイのなかには黒人やメキシコ人が多く含まれていた。(p.66-68)


アメリカ大陸の歴史にはどちらかというと疎く、ユーラシア大陸の方がどちらかというとよく知っているのだが、こうして「カウボーイ」についての記述を読むと、アメリカのカウボーイは、ユーラシアにおける遊牧民(例えば、トュルク系やモンゴル系の人々)と重なる存在であるように思われて面白い。そう思うと俄然親近感が湧いてくるから面白いものだ。

また、カウボーイは「資本主義」があってこそ存在しえたという趣旨の指摘も大変興味深いものだ。(なお、本書の言う「資本主義」とは恐らくウォーラーステインの「資本主義」概念に近いものだと思われる。)北東部の工業地域に都市が発展し、消費市場として機能しうる潜在的な需要と、そこへのアクセス可能性(交通)が確保されることの2点が揃うことで、市場経済的な事業として放牧が成立しうるわけだ。

もう一つ気づくのは、カウボーイには黒人やメキシコ人が多くいたとされていることである。これは何となく西部劇に出てくるカウボーイのイメージとちょっと違う感じがして面白いと思った。ただ、この一文は単に意外性があって面白いという以上の意味がある一文である。

というのは、黒人やメキシコ人が多くいたということは、カウボーイたちは北東部の工業地域に対して資本主義の秩序の中で従属的な地位に位置づけられることを示唆していると思われるからである。(この点ではユーラシアの遊牧民とは異なっている。)


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

窪徳忠 『道教の神々』

中国本土の道教信仰の現状は、戦前と少しも変わりがなくなっているといっても差し支えない。
 とくに私の注意を惹いたのは、台湾との関係であった。東海岸地区とくに福建省では、台湾の人びとの寄附によって建てられた廟や道観が多い。湄州島頂上の約14メートルの高さの媽祖の石像は、台湾の人びとの寄附によって造られた。台湾から、土地公、清水祖師、媽祖、観音などの像を捧持して、それぞれの本廟に参詣し、霊力をつけてもらって帰る人たちがかなり多い。私は香港に行くたびに必ずそんな人たちに会う。信者の往来ばかりでなく、道士たちも互いに交流している。政治経済の面では緊張が伝えられるけれども、道教など宗教の面では、事情がかなり違うようで、大へん興味ふかく感ぜられる。(p.42)


本書の最初の版は1986年1月に出版されている。基本的にこうした民間レベルの交流は持続していたらしいことがわかり興味深い。それとも主に改革開放以後のことなのだろうか。



 媽祖と通称されている天上聖母(図54)は、福建省莆田県の林愿の六女で、生まれても口をきかないので黙と名づけられたが、道士がきて道を授けられ、それから神異をあらわした。ある日、機を織っていて急に気を失ったので、母が驚いてゆり起こしたら、難船した父や兄たち全部を助けようとしたのに、そんなことをするから長兄だけは救えなかったといったなどというのは、すべて後世のつくり話だというのが、李献璋の説である。
 かれによると、十世紀の後半ごろ、莆田県に吉凶禍福を予知できるすぐれたひとりの女巫がいた。かの女は、その霊力によって、すでに生前からかなり附近の人びとの人気を集めていたが、死後かの女を信じていた人びとの手によって廟に祀られた。これが、媽祖信仰の発生である。その後、かの女への信仰がしだいに附近に拡まるにつれて、その霊験力も附け加えられ、十一世紀の前半ごろにはかなり人びとの注意をひくようになった。
 それと同時に、林氏の娘などのつくり話がほしいままに附け加えられて、信仰が拡まりだした。莆田県地区には、船員や航海業者が多かったが、かれらはかれらなりの航海守護神をもっていた。ところが、かれらのなかに媽祖信仰者がふえるとともに、その守護神と媽祖とが合体して、ついに媽祖が航海守護神とされるようになった。それからは、ますます媽祖についての伝記や伝説の内容が豊富になり、十三世紀の後半ごろまでには中国の広い範囲に信仰が及ぶようになり、各地に媽祖廟が建てられた。
 福建の人びとが海外に発展するにつれて、媽祖信仰もアジア各地に伝播していったが、ことに前にのべた鄭和の上奏以後ますます信仰がさかんになった。媽祖の侍者として、こんにち必ずその左右に祀ってある千里眼や順風耳が考えだされたのも、鄭和以後のことである。現在、日本や台湾などの媽祖信仰はそのころ伝えられた名残りである。(p.231-234)


媽祖信仰の広がりは、まさに13世紀世界システムが形成される前後の時期であり、グローバルな規模でリージョナルな交易圏が連結していった後、それが崩れていくまでの時期に相当する。

この時期に福建省あたりの人びとが華僑として東南アジア各地に広がったようだが、その共同体と媽祖信仰の共同体は、ある程度重なるものと思われる。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

西村克仁 『日本は中国でどう教えられているのか』(その2)

中国人にとっての「南京大屠殺」は単なる歴史上の知識ではなく、「中華民族」としての意識や感情の部分、さらに言えば中国人にとっての「平和」についての概念にまで浸透していると感じる。
 これをどのような形であれ捻じ曲げるのは犠牲者と「中華民族」に対する冒涜であり、同時にそれは世界平和を乱す行為につながりかねない、ということがこの事件を語るときの大前提になっている。いわば、この事件に対する中国人の感覚は日本人にとってのヒロシマ・ナガサキへのそれに近い。(p.134-135)


この認識は本書から得た最も重要なものの一つである。

この文章によって、大多数の中国の人々の感覚がどのようなものであるかについて、ある程度、私の理解は深まったように思う。

あれほどの怒りと憎しみを中国の人々に感じさせている「南京大虐殺」(中国語では本文のように「南京大屠殺」とされることが多いらしい)が、彼らの「平和」の概念と通じているということは、ある意味、意外であると同時に、言われてみれば、多少納得できるとも言える。

実際に、南京事件について中国の人が語るときの憎悪の感情を直に感じたことがあるが、「平和」という観念は私にはちょっと思いつかなかった。
ただ、
  憎悪・屈辱→二度と繰り返されてはならない→戦争・侵略への反対
という論理をつうじてならば、それが「平和」の観念と結びつくことはありうるということに、本書を読んで気付いた。

もちろん、日本を敵視させることで、政権を掌握した中国共産党の支配の正当性を確保し、「中華民族」の団結を維持する機能も存在しており、日本の側から見ると、こちらの方が遥かに大きく見えるのは確かだ。

実際、私が「南京大虐殺から喚起される中国の人々の平和の概念」を理解したとは言っても、それを是認しているわけではない。部分的には是認できるが、あまりにもその平和の概念は受動的であり、攻撃に転じる要素が強すぎるからである。

すなわち、「二度と繰り返されてはならないこと」が、戦争や虐殺ということ自体なのではなく、「中国が」侵略・攻撃されること、「中国が」辱めを受けること、だけに限定されうるし、実際、そういう面があるように見受けられる。「中国が」攻撃しないこと、侵略しないこと、「他国民を」辱めないこと、は積極的には主張されていない。そのことと「日本軍」への憎悪が結びつくことは容易いことであり、「日本軍」の観念が漠然と「日本」を指すことはありうるし、実際に一部にはある。それは外部に敵を想定して「中華民族」を団結させている側面と完全に一致している。

この意味で、「南京事件に対する中国の平和主義」はあまりに不十分であり、私から見ると批判の対象である。しかし、彼らの多くが共有する観念が大枠としてこうしたものであり、当面の間、ここから抜け出すことは考えにくいということを理解することは非常に有益だ。これを手がかりにして今後の対応の仕方を考えることができるのだから。

このことと関連して、私がしばしば感じるのは、中国の人々の発想は、何につけてもあまりに「民族」単位だということだ。知識人の書いたものもそうだし、NHKスペシャルの「激流中国」のシリーズなどに出てくる中国人の発言を見てもそうだし、もっと庶民的なレベルでもそれを感じる。

民族単位で思考することは、容易に思考の飛躍を生じさせ、無用の混乱を生じさせる。また、個人間や企業間の問題を政治化する働きもある。そのほか様々な点で難点と欠点に満ちた発想である。彼らを支配する側の人間にとっては、人々を一つの単位として纏め上げる上で便利で有用なものだが。

だから、それとは別の見方があることを伝えることからはじめることが重要ではないか、という気がしている。「民族」概念を脱構築することや、もっとわかりやすい方向としては「個」の強調という方向である。恐らく、「個」の思想の比重が中国国内の思想的な風土の中に占める割合が大きくなれば、集団的なアイデンティティへの懐疑は生じていくだろうし、そこから「民族」の観念も組み直されていく可能性があると見ている。このような「中国の人々にとって」オルタナティブなパラダイムを提示し、理解するよう促すことが、相互理解を進めていくうえで役立つのではないだろうか。(これを大々的にやることは、思想や言論が統制されているので難しいが、中国国内でそうしたものを実現させることと並行して推進するという戦略があって良いと思う。)



 先述のように、古代における契丹人の遼朝や女真人の金朝、モンゴル人の元朝、満州人の清朝は、「中華民族」による王朝として語られている。一方、日本ではこうした非漢民族による王朝は漢民族を征服して成立し、伝統的中国王朝とは異なる性格をもった「征服王朝」として教えることがあるが、こうした概念は中国の教科書には登場しない。(p.145)



中国のこうした教育の仕方は、過去には「中華民族」というアイデンティティも存在したということが示せない限り、現在の共産党の立場を過去に持ち込むアナクロニズムと言える。日本の教え方もある意味では近代西欧の理論における民族観に立脚しているフシもあり、必ずしも妥当かどうかわからないが。



 言うまでもなく日本では、教育現場に軍事を持ち込むのはある種のタブーとされており、そうした姿勢が教科書表記にも表れているように思う。一方、中国では軍事とは祖国を守る重要な手段であり、そうしたことを理解させるのも教育の目的である。両国の軍事に対する考え方が表れており、非常に興味深い。(p.158-159)



歴史教科書の叙述で、日本では個別の戦役についての記述はほとんどないのに対して、中国の教科書では個別の戦役の戦力分析や戦術的なことまで詳細に記述されている。そのことを受けてのコメント。確かに「軍事はタブー」というのは、当たっているように思う。ただ、歴史教育自体が、極度に政治化されている中国を見習う必要はないだろう。

ただ、軍事という問題をどのように教育の場で扱うべきか、また、メディアの場で扱うべきか、といった問題は日本の社会にとってなかなか重要な問題ではあると思う。

バカバカしいネット右翼や自民党の国家主義的右派のような連中がいる中では、このことにはあまり触れないという方針の方が良いような気はする。日本のナショナリズムは権力者がそれに嵌っているというのが特徴の一つで、権力者がバカだと教育の場やメディアに介入しようとするというのが、ここ数年の流れを見ていてはっきりわかることなのだから。その辺を踏まえると、戦争や軍事は自国民に限らずに(←ポイント)被害者の視点を中心として描き、伝えるというのが、基本的な方向性であるべきではないだろうか。(より多面的な認識は、発展的な場面というかより専門性の高い領域で追求されるほうが良い。)




中国の中高生は原爆投下という事実は知っていても、日本人なら誰でも教えられる広島・長崎でおこった惨状はまず知らないと言ってよい。(p.161)

どうやら生徒たちは、軍部によりコントロールされた政府が、軍部の策定した戦争計画に則って戦争を遂行したという認識を持っているようだった。(p.163)

2003年の遼寧省では「抗日戦争勝利の歴史的意義を説明せよ」という問題が出題されているが、これに対する正解は「中国は近代以来の反侵略戦争に初めて完全な勝利をおさめ、ファシズムに対する戦争に重大な貢献をした」である。この正解文は教科書内容はもちろんのこと、中国人民抗日戦争記念館の展示室入り口の「前言」とも一致し、生徒たちはこうした歴史的評価を唯一のものとして暗記している。(p.163)


原爆の被害についての無理解はアメリカの方がひどいだろうが、こうしたことは国籍に関わらずもっと知られるべきことだろう。

1つ目の文は中国側の日本側への無理解の一例だが、2つ目の文は誤解の一例である。戦術的なレベルまで個別の戦役について教えるなら、指揮系統などのことも教えるのがフェアなやり方だろう。3つ目の文は評価的な歴史観を、試験という強力な手段を通して画一的に固定化するプロセスが簡潔に示されていたので引用した。



 彼ら彼女らの文章を読んでいてはっきりわかるのは、中国政府の見解同様「現在の日本」と「過去の日本」、さらに「一般の日本人民」と「右翼分子」は頭の中で分けられているということである。だからこそ政府が「過去の過ちを認め」れば、もっと友好な関係が築けるはずなのに何故?という純粋な感情が強く表現されているように感じる。(p.180-181)


これは現在の中国で多くの人が感じていることだろうと思う。日本でも同じように感じている人は結構多いだろう。

まぁ、日本だろうが中国だろうが、最初にあげられている区別がきちんとできていない馬鹿者はいるものだが、少なくとも政治家などの公的な立場にある人物がそういうバカなことをしなければ、それほど問題は大きくならないはずである。その意味で、日本の極右政治家(と、ついでに言えば、その支持者)の言動のレベルの低さが日中やアジアの国際関係を正常に保つ上で非常に邪魔になっていると言う事ができる。



日本に対しては「歴史を正視する」のかそうでないのか、といった二者択一的な考え方をもっているように思う。(p.196)


これも傾向としてはありそうだ。この点は明らかに中国側の考え方が偏狭だと言える。価値評価と事実認識を混同して教育し、その正解を一つに定めてしまうという中国の歴史教育のやり方と、日本軍による被害を情緒に訴える形で延々と教えることの2つの要素によってこの態度は養われているように思われる。

ただ、日本の極端な歴史修正主義者の存在も、中国側が柔軟な姿勢をとりにくい背景要因になりうるし、実際になっている可能性もあり、ここでも国家主義的右派は邪魔者になっている。

基本的には、日中の政治的な関係が改善されることで、この傾向は多少は弱まるだろうが、根本的には中国共産党の一党独裁に何らかの変化がなければ、本当の意味での改善にはならないように思う。その意味では中国の人々と対する(中国政府と対峙する)とき、短期的には中国側では、こうした見方をする人が多いということは所与の要素として捉えておき、その上で行為の選択肢を選んでいくというやり方にならざるを得ないだろう。



 古代史における「中華民族の拡大と発展」、近代史の「反帝国主義・反封建勢力との闘争」、現代史の「社会主義建設への模索」は、全て「中華民族の偉大なる復興」(第三章「アヘン戦争」参照)へとつながる物語であると言ってもいい。
 それが、彼ら彼女らが言う「正しい歴史」である。残念ながら、そこで語られる日本は現代部分に至ってもなお、「靖国」や「教科書問題」「防衛費の増額」といった中国に対する脅威として語られることが多く、戦後の日本がおこなった中国への友好努力についてはほとんど語られていない。(p.201)


中国における「正しい歴史」を極めて鋭く簡潔に表現している箇所。これが十分に相対化されるのは、今のままの状況ではまず無理であり、何らかの状況が大きく変わらなければ難しいだろう。

しかし、歴史観などというものは、本来異なっていようと共存することはできるのであり、それを政治問題化さえさせなければ、それほど面倒なことはではないとも思う。政治と絡まなければより客観的なレベルで議論を重ねることができるのだから。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

西村克仁 『日本は中国でどう教えられているのか』(その1)
本書は、日本の高校の歴史の教師が、中国の歴史教育の現場に半年間、参加・見学してきた際の見聞録である。歴史問題が外交問題にまで発展する関係にある日中関係だが、相手国の人々の認識を内在的に理解するチャンスはお互いにほとんどない。そうした中にあって、本書は非常に有益な手がかりを与えてくれる良書である。

全体として、私の数少ない中国への渡航経験に照らしても、かけ離れていないため、中国の人々の発想を理解する上で、本書はとても役立ちそうだと思っている。

とはいえ、このブログはきちんとした「書評」のブログではないので、いつもの通り「読書メモ」として思ったことや気付いたことを記録していくことにする。



 中国人民抗日戦争は、近代に中国が外敵の侵入に対して抵抗して以来、初めて完全な勝利を勝ち取った民族解放戦争である。中国人民抗日戦争の勝利は中華民族が衰退から復興へと向かう重大な転換点であり、中国共産党が全国の各民族人民を団結させ民族独立・人民解放の実現へ導き、新中国建設への重要な基礎となった。(p.33-34)


これは盧溝橋近くの中国人民抗日戦争記念館の展示室入り口にある「前言」の一部である。

私が本書から読み取った限りでは、中国の歴史教育とは、基本的に「現在の中国共産党に都合が良いか悪いか」を判断基準として、個々の歴史的事実について評価を行い、その評価と客観的事実とを混合して教え、各種の応用学習を通して内面化していくところに特徴がある。(その際に「高考」という大学入試に出題することで、事実の重要度をコントロールしていることも重要である。)

Max Weberを師と仰ぎ、Wertfreiheitを(批判しながらも、その正しい部分を受け入れて)歴史認識においても基本的な方法論としている私からすると、到底受け入れられない歴史観ではある。

しかし、この一文は上記のような性質を念頭に置くと、中国共産党にとって日本を特別の敵として扱うことが持つ意味を明らかにしていると思われる点で興味深い。

つまり、「日本」という外敵は、また、日中戦争という戦争は、中国にとって復興に向かうにあたって最初に倒された敵であり、その復興と解放を担った中国共産党の支配の正当性に結びつくものであることがわかる。南京事件などが強調されるのも当然、この文脈の中でのことであると考えていいだろう。

このように捉えると、「日本人としては」中国共産党に対して反感も湧くかもしれない。しかし、そのような感情は不要であり、客観的な認識を得るためには、その感情は括弧に入れるべきである。

むしろ、上記の認識は、逆に言えば、中国共産党が支配の正当性を容易に維持できるならば、共産党はこのような歴史問題にこだわる必要がないということでもある。また、複数政党制が実現すれば、早晩、上記のような一方的で一面的な認識は消えていく、ということでもある。(共産党以外の党派から見れば、日中戦争を重要視することが共産党の価値を増やすのだとすれば、それを否定する歴史観を提示するインセンティブが働くだろう。)さらに、より現実的な方向性としては、一党独裁の状態であっても、「現在の共産党の利害状況」を「日本を敵とする認識を薄れさせるほうが得策だ」という状態にしてしまえば、負の価値を強く付加された「日中戦争における日本」という認識は後退するということだ。

感情的になると単純な反発に走りがちになる。それはかえって問題の解決を難しくするということを知るべきだろう。



 今回、見学していた高三クラスの女子生徒と話をしていたとき、「広田弘毅は日本の歴史の授業ではどのように教えているのですか?」と尋ねられたことがある。中国の歴史教育が政治と密接に関わっていることを考えれば、A級戦犯と靖国神社は彼女にとっては常識の範疇なのであろう。
 翻って日本では、政治的問題と歴史教育が関連付けられることは稀である。広田弘毅や東条英機は高校の「日本史」で教えるが、中学で教えることはない。さらに彼らが靖国神社にA級戦犯として祀られているかどうかに関しては、高校でもとくに教える必要はない。おそらく知らない高校生が大半ではないだろうか。こうした知識の積み重ねが、歴史問題をますます複雑なものにしているように思える。(p.114-115)



中国の政治化された歴史教育に対して、日本では「政治的問題と歴史教育が関連付けられることは稀」である。確かにそうだ。ただ、思うに、日本の近現代史の場合、政治的な問題になりうる事柄についての言及や判断は極力避けるという形で、中国とは逆方向に政治的な、ある種の圧力が働いているというべきだろう。

確かに、大局的な歴史認識の中において、誰が靖国神社に祀られているかということは些細なことである。その意味で、教える必要はないとは言える。学校教育以外の場で、こうした問題と触れる機会が多い方が良いのかもしれないが、それができないなら、政治的に問題になりうることは触れないということも「特定の立場」だから、そのこと(政治的に問題でありうること)を明示した上で、教えるという選択肢は「あり」だろう。

著者が言うように、日中双方の過剰な価値付加が相互の理解を妨げている。中国は歴史を政治利用しすぎであり、一部の事実は「事実」でなく「信仰箇条」になっており、日本は歴史を政治から距離をとりすぎであり、それによって「無知」の状態を作っている。「信仰箇条」も「無知」もいずれも無知の一種であり、相手を知ることとは逆である。

(ただ、歴史教育としては、政治と距離をとることは、むしろ健全であり、この方向性を大きく変える必要はないだろう。ただ、問題によっては、この原則を柔軟に適用することが必要な場合がある、かもしれない、ということだ。)

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌