アヴェスターにはこう書いている?
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老川慶喜 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇 日露戦争後から敗戦まで』

 その後、1931年には満州事変、32年には上海事変と、戦争への道を突き進み、国際観光局の外客誘致宣伝活動にもかかわらず、外国人観光客の数は低迷した。しかし、1933年に国連から脱退したのを契機に円貨が暴落すると、外国人観光客が増えはじめた。(p.154)


昭和初期の旅行ブームについて背景の一つとして知っておいてよいかもしれない。



 国民精神総動員運動の一環として奨励されてきた「神社巡り」などの行楽旅行も、全面的に制限を受けるようになった。三等寝台車や食堂車も廃止され、一般の「不急不要」の旅行は、次第に窮屈なものとなった。国民精神の振興と尽忠報国の名のもとに存続してきた修学旅行も、1943年には学生や生徒が戦時動員されてしまったため、実施できなくなった。(p.201)


戦前における神社巡りや修学旅行の意味づけは興味深い。当時の政府は本音で言っていたのかも知れないが、それを言われていた側(教師や生徒たち)が、建前として受けとっていたのか、本音で受け取っていたのか?



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老川慶喜 『日本鉄道史 幕末・明治篇 蒸気車模型から鉄道国有化まで』

初詣は正月の伝統的な行事のように思われるが、それが定着するのは、意外にも鉄道が開通してからであった。初詣は、鉄道が生み出した正月三ヶ日の行事なのである(平山昇『鉄道が変えた寺社参詣』)。(p.157)


初詣も「創られた伝統」という側面を持つ近代の行事だったとは!非常に興味深い。


陳柔縉 『日本統治時代の台湾 写真とエピソードで綴る1895~1945』

 戦後第一世代の企業家たちにはひとつの共通点があった。
 ……(中略)……、みな公学校しか出ていない。
 いや、当時ならこれで「相当な学歴」であり、その競争力は現代の大学卒を上回る。呉火獅までの四人は公学校卒業後、みな日本人が経営する商店で見習い奉公をした。戦後、自ら起業した彼らは、その日本語能力から日本の商社との密接な関係を維持し、日本の書籍や新聞をよく読み、日々新しい情報を吸収した。(p.37-38)


戦後第一世代として活躍した人びとの学歴について、公学校卒が高学歴となるのは、228事件によってより高いレベルの教育を受けた人々が大量に殺されたことも関わっているように思われる。



 植民支配の差別待遇により、多くの台湾人が精神的に苦痛を感じていた。当時の台湾を代表する名家・霧峰林家の林献堂は、中国の新聞をよく読み、梁啓超を崇拝していた。1907年(明治40年)、日本を旅した林献堂は奈良の旅館で梁啓超と邂逅した。……(中略)……。
 梁啓超は林献堂に言った――これから30年、中国は台湾を助ける能力を絶対に持ち得ない。台湾人はイギリスにたいするアイルランド人の抵抗運動を見習うべきだ。その初期、アイルランド人は暴動を繰り返し、イギリスは警察または軍隊でそれを鎮圧した。犠牲者ばかり多く、成果は乏しかった。のちにアイルランド人は戦略を変え、イギリス政界に働きかけることで、ついには参政権を得たのだ――甘得中はその提言に「まったくもって妙案」と唸った。
 林献堂はその温和な性格もあり、自ずと梁啓超の路線を進んだ。台湾総督府との正面対決は避け、海を越えて日本中央政界の要人と交友を結び、苦境を訴えた。ではどの大物に働きかけるのが効果的か、考えた挙句、「自由党の名において政党政治の基礎を作り」「全国各層に崇拝者がいる」板垣退助しかないという答えに達した。(p.80)


台湾では十分な成功を得られなかったとはいえ、梁啓超が言い、林献堂が行ったような方法は重要である。



 当初は、在台日本人(内地人)も台湾人(本島人)も、同化会の考えを歓迎した。もっともそれは、昨今の言い方を借りるなら、「ひとつの同化に、それぞれの解釈がある」といったところであろう。台湾人が同化に込めた夢は、「日本人と同等に扱ってほしい」であった。つまり、自分たちも参政権を持ち、高官登用への道が開け、日本人と自由に結婚できること。
 一方、日本人の頭にあった同化は「俺たちと同じになってみろ」に違いなく、台湾から陋習をなくし、台湾人を本当の日本人に脱皮させることが本旨であった。(p.81)


板垣退助が「台湾同化会設立趣意書」を持って台湾を訪れた。1914年当時の内地人と本島人の「同化」観。基本的にはその通りであっただろう。



板垣は日本で、もはや時代遅れの非主流派となっていたのだ。(p.85)


本書を読んで、板垣退助という人物に興味を持った。

彼は比較的リベラルな考え方であったがゆえに、幕府と政府が対抗していたり、政府が権力を握っても旧勢力を取り込んでいく必要があった場合には、政府側にも好都合な面があったが、政府が中央集権的な権力を得てしまうと、政府にとっては不都合な面も出てくる、大まかな潮流としてはそうした流れがあったのではないか、と想像する。



世界的なデモクラシーの風に押され、結婚は自分で決めるという考えが台湾で広がったのは、20年代に入ってからである。「自由恋愛」をスローガンとする若者たちに対し、保守派は「恋愛」と台湾語(方言)の発音が似た「乱愛(ルアンアイ)」という嫌味な言葉を作り出し、対抗した。(p.108)


大正デモクラシーは当然、日本統治下の台湾にも及んだようだ。



 異なったふたつの食文化が少しずつ譲歩しあい、一方では弁当という形式を受け入れ、一方では冷めた飯を切り捨てた。その融合の結果できたのが今日台湾で食べられている、ご飯もおかずも温かい、台湾特有の弁当なのである。(p.152)


台湾の「便當」は、日本の冷たい弁当と中国の温かい食事の両方を組み合わせているというのは興味深い。



 帰国して改めて感じたのは、台湾の歴史は台湾島の中だけに残されているのではないということだ。日本統治時代においてはなおさらである。東京は、そのなかでも台湾人の足跡がもっとも多く残された都市だろう。(p.232)


この考え方は本書を読んで最も面白かった点であった。日本側から見ると、台湾に刻まれた歴史の中にかつての日本の影響やかつて日本の人々が残した仕事などを見出して喜ぼうとする風潮があるが、逆から見ることも可能だというわけだ。

ただ、本書を読むと、東京に残る台湾人の足跡を探すことは、明らかに日本人が台湾に残した足跡を探すよりも難しいことであるようにも思われた。統治する側とされる側の非対称性はこういうところにも表れるのだろう。


大谷渡 『台湾の戦後日本 敗戦を越えて生きた人びと』

子供たちは日本語がとても上手だったが、初中に入ってからはまったく話さなくなった。「中学に入って排日でしょう。全然言わなくなった。」と、蕊は言う。日本から帰った夫は、台湾での戦後の生活になかなか慣れなかった。劉興寿は、日本語と台湾語で生涯を通した。「うちの主人は全然北京語で話さなかったの。」と彼女は言い、「とても嫌っているから言わないの。何回も手術して、85歳で逝っちゃったけど、私といる時はいつも日本語で話した。」と語る。(p.103)


蕊さんは大正11年生まれ。子の世代は、戦前は日本語(日本)の公学校、戦後は北京語(中華民国)の中学校に通った世代であり、北京語を習得していく。親世代は北京語を学校で習うこともなく、台湾語と日本語で生活していく。この場合の親子は台湾語で話している家が多かったと思われる。



宝玉は、「私は日本語しかできないから、北京語は話さない。」と言う。「家では、自分の子供たちと台湾語で話すが、孫とは話せない。」とも言う。戦後、学校教育が北京語になったから、戦後に教育を受けた子供たちの常用語は北京語になった。日本語で教育を受けた世代は、日本語と台湾語を話すことができる。この親に育てられた子供たちは、親が話す台湾語は聴き取れるが、北京語で育てられた孫たちは台湾語での会話はできないのである。
 李宝玉の言葉に耳を傾けていた李淑容は、「私は、北京語を勉強して話せるけれど、日本語がいちばん気持ちを表すことができる。」と言う。
 日本の統治下で育った人びとの半生は、その後の半生においても、日本との深いつながりの中で途切れることなく生き続けている。日本の敗戦によって、人びとの人生の歴史が区切られるかのような見方は避けた方がよいであろう。それぞれの心に残っていくもの、新たにつけ加わり変容していくものを多面的かつ慎重に見つめてこそ、人びとの人生への理解を深めることができるように思う。(p.108)


日本語世代の多くは台湾語などの母語と公用語としての日本語を習得している。戦後世代は母語と公用語としての北京語を話す。孫の世代は北京語で育てられていると、孫世代と祖父母世代の共通言語がなくなる。台湾では割とよくあるが、孫とコミュニケーションするために北京語を勉強しているという日本語世代が少なからずいる。しかし、日本語世代は昭和5年(1930年)生まれでも、既に87歳であり、台湾を旅しても街中で普通に出会うことはほとんどなくなってきた。日本語世代について記録していくことは、日本と台湾との関係に関心を持つ者にとって非常に重要である。



成績がよく家庭も裕福だった彼は、担任から州立台中農業学校への進学を勧められた。
 ……(中略)……。入学試験の合格者100人のうち、70人が日本人、30人が台湾人だった。日本人7割、台湾人3割の比率で合格させることになっていた
 ……(中略)……。
 各科目の成績は、「秀」「甲」「乙」「丙」「丁」で表記されたが、「教練」「修練」「武道」「体操」「実習」の五科目は、「甲」以上を台湾人生徒に与えてはいけないことになっていたという。だが、徳卿は鉄棒・高跳び・幅跳びに優秀な成績を修め、「軍人勅諭」を全部覚えて、二年生の時に「体操」と「実習」に「甲」の成績がついた。(p.112-113)


前段を読んだときは、差別と見るべきかアファーマティブアクション的なものと見るべきかという疑問が浮かんできたが、後段は完全な差別であり不当な評価法だと言わざるを得ない。こうした決まりがどのように決められているのかを知りたいところだが、「甲」の成績が実際についた台湾人子弟がいるというあたりからして、教師の間の不文律的なものだったのだろうか。



 終戦後、中国国民党軍が台中にもやってきた。彼らが畳の上に、土足で上がり込んで来たことがあった。徳卿は、無礼をきびしく叱責したという。二二八事件の時、友達だった台中農業学校の同級生が連れ去られて銃殺されたことは、決して忘れえない出来事であった(2009年9月1日談)。(p.119)


戦前日本の教育は価値観にかなりコミットするものであったことが、当時の少年たちにこうした心性(畳に土足で上がることを無礼とする)を持たせ、そうした考え方に誇りを感じさせているところからもよく分かる。



進駐した米軍との関係があって、台湾人少年工たちは戦後、神奈川県庁から優先的に食料をもらえたという。(p.134)


米軍占領時代には、台湾人は中華民国国籍ということになったから連合国側の人間となり、日本人より優遇された。



事務職には、戦前から勤めていた台湾人のほかは、日本人に代わって大陸から入ってきた「外省人」が就いたので、就職の余地がなかった。戦前から台湾に住んでいる「本省人」より事務能力が劣っていても、課長以上は「外省人」が占めたという。(p.135)


戦後の中華民国の統治下でも台湾の人々は、日本による植民地統治と同じように差別を受けたと言える。ただ、その後の経過を見ると、言語が同じになっていくと、日本人に対してよりは同化しやすかったとは言えるかもしれない。



私たちはね。やはりあの時は、早く戦争を終ってほしいと願っていた。台湾が日本によって統治されている。そういうことから、内心は早く自立したいという思いを持っていた。だから終戦は、台湾が日本の統治から脱する勝利を意味した。台湾人の中には、その時中国が悪い人であるということを知らなくて、祖国に帰りたいという人もいた。だけど帰ってみたら大変だった。やっぱり日本がいいと言うんですよね。(p.146)


戦前の台湾人にも政治的に自立したいという考えを持っていた人がいた。これがどのくらいの規模と強さで存在したのかが重要な論点だと思う。当時の台湾の人々のアイデンティティとして「日本人」「台湾人」「中国人」といった要素がどのように絡まり合っていたのか。それぞれの社会層や母語や居住地などによるアイデンティティの差異はどのようなものだったのか。



 二二八事件の犠牲者について、おおっぴらに話せるようになったのは、1988年に李登輝が本省人として総統に就任して以降のことであった。(p.149)


これに続く部分に「二二八事件の被害者は、みんな隠れていたのです」という証言があるが、こうした歴史に対する最近の台湾の人々の向き合い方には羨ましいものを感じる時がある。ここ数年、台湾でもバックラッシュ的な言説が漏れ聞こえているが、全般としては歴史に対する感覚は現在の日本(歴史修正主義者たちが公の場で事実に基づく反論をほとんど受けずに発言が垂れ流しになっている)よりも健全であるように感じられる。



 台湾が日本の統治下にあった時代に、台湾の教会と日本の教会は密接な関係にあった。(p.151)


このあたりはもう少し掘り下げて知りたいところであり、本書からもらったテーマ。台湾は日本よりもキリスト教が普及しており、私の友人たちもクリスチャンが結構いることもあり、台湾のキリスト教の歴史的な背景には特に興味を持っている。


金子展也 『台湾旧神社故地への旅案内――台湾を護った神々――』(その2)

 神社が造営されたのは昭和12年(1937)、丁度この年に支那事変が勃発し、第17代総督小林躋造が就任早々打ち出したのが「皇民化政策」、「国民精神総動員運動」と「一街庄一神社政策」である。清水神社はそのような時代背景を持ち、総工費6万7,000円を投じて大甲郡に造営された神社であった。(p.87)


本書を見ていると、この時期に「鎮座」となっている神社が非常に多いことに気がつく。「一街庄一神社政策」の詳細は本書でも語られていないが、この政策が関係しているのだろうということは容易に想像できる。中国との戦争に突入し、「皇民化」や「国民精神総動員」といった排外的で国粋主義的な動きと連動している。



 昭和14年(1939)に入ると台湾全土で敬神観念を高め、国民精神作興の徹底を図るために神社造営計画が慌ただしく進められた。員林郡においても神社崇敬の念を涵養せしめ、且つ、皇紀2600年記念行事として、員林神社の遷座(昭和15年末頃か)が行われた。これが現在も残る神社故地である。戦況が激しさを増し、更なる「皇民化」運動が推進されるに及んで、官民や学生児童の神社参拝が求められだした。そして、昭和17年(1942)2月28日に郷社に列格された。(p.95)


昭和14年には上で述べられていた「一街庄一神社政策」が具体化の段階に入ってきたということか?こうして設営されていった神社に対して皇民化を推進するために神社参拝が求められるようになっていく、という流れなのだろう。

引用文の最後に、「郷社に列格」とあるが、本書を読んでいると、戦争の後期にはこのように神社の格を持ち上げる動きが各地で見られる。各地域の人々から忠誠心を調達するための政策であったと思われる。



 当時の北斗郡には神社がなく、国民精神涵養上遺憾であるとの理由で、昭和10年(1935)3月、当時の藤垣郡守により、尊崇の念を養い国民精神を涵養するために、神社造営が計画された。(p.97)


こうして北斗神社は昭和13年に鎮座したという流れは、まさに先に引用した2つの文章の流れと一致するものであることがわかる。



 大東亜戦争が始まると、地方での神社造営費の調達が難しくなり、総督府の「一街庄一社」政策は一向に進まなかった。このような状況下に於いて、総督府は地方の神社造営費や運営費を軽減できる「摂末社」の造営を許可する。これに呼応するよう、斗六郡に於いては、斗六神社を中心に、各庄街に昭和16~17年にかけて末社が9ヶ所造営された。非常に珍しい例である。(p.111)


日中戦争の段階では神社が次々と建てられたが、太平洋戦争の段階になるとそれが止まったということだろう。確かに本書を見ていても昭和12~14年頃に鎮座した神社が多かったという印象が強い(詳しく数は数えていないが)。



また、日本と同様に清朝を敵に回した明朝に対する忠節であることに加え、当初から純日本式神社では抗日運動を助勢することを考慮したのではないか。(p.137)


明治30年という台湾統治が始まって日が浅い時期に鎮座した開山神社は、なぜ日本の古来の神ではなく「鄭成功」を祀る神社だったのか、という理由の一つ。台湾統治初期には、現地で様々な抵抗を受けながら統治を進めていった事情が反映している。



 当時の東港郡には神社はなかった。そこで、国民精神作興10周年である昭和8年(1933)に神社造営に向けての具体的な活動が進み、2年後の昭和10年(1935)10月18日、鎮座祭を執り行った。「皇民化」運動が叫ばれ、時局の進展に伴い、戦勝および国威宣揚武運長久を神前に祈願するようになり、一般郡民の参拝が急増した。そして、昭和17年(1942)10月31日に郷社に列格する。(p.157)


上に引用してきた流れと同じ。昭和10年前後に計画と鎮座、太平洋戦争後には神社の建設は難しくなったのに代えて格上げすることで忠誠心を調達する。神社の建築にはかなりの費用がかかるが、ランクを上げるだけなら政府支出はそれほど必要ない。総督府は、恐らく、新しい神社を建てられないので、神社のランクを上げることにしたのではないか。



 戦局が益々悪化する昭和19年(1944)初めに南方および西方における地勢上の重要な港であるとのことから、海上守護神として総督府の許可を得て讃岐の金刀比羅宮の祭神である大物主神を東港神社の境内に摂社として祀ったようである。(p.157)


第二次大戦末期になってこんなことをしている人がいたとは驚いた。


金子展也 『台湾旧神社故地への旅案内――台湾を護った神々――』(その1)

 大正9年(1920)、水返脚街を同じ意味の汐止街に改めた。水返脚の名前の由来は、満潮時には逆漲がこの地に及び、干潮時には再び海に返るのでこの名前がでたようである。(p.33)


現在の新北市汐止区の地名の由来。中国語というよりは日本語の語順であることからも日本統治時代に改名されたというのも納得。



 基隆はもともと同地一帯に住んでいた台湾原住民平埔族ケタガラン族の族名がなまってケランとなり、漢字で鶏籠があてられた。今日でも台湾語での呼称はこれで呼ばれる。(p.41)


あまり気にしたことがなかったが、基隆も原住民が関係する地名だったのか。



1980年代には台北東部の新市街(東区)の発展により活気を奪われていた西門町は、1990年代後半以降、歩行者天国となり、年配向けの繁華街から若者向けの繁華街への転換が進み、現在に至っている。(p.70)


台北の街と言えば、私などはまず西門町が思い浮かぶところだが、活気が失われていた時代もあったというのは興味深い。



明治38年、台湾における煙草の専売制度が開始される。そして、明治44年には台北煙草工場鉄道駅を設置し、それまで大稲埕での旧台北停車場東側で行われていた請負による刻み煙草の製造を拡大していく。大東亜戦争が勃発すると、紙巻タバコは台湾市場のみならず、華中、華南及び南洋諸島への輸出が拡大し、更なる生産拡大に迫られた。(p.71)


大東亜戦争という表記を何の注記もなしに使っているあたりなど、本書のスタンスには疑問を感じるところがある。

台湾で製造されたタバコは輸出品になっていたということは、砂糖の移出による外貨の流出を防いだことはよく知られているが、それ以外に外貨の獲得にも貢献したということか。(それとも日本が占領した地域の日本兵のために煙草を売ったということか。)台湾のタバコ産業の歴史も注目してみる価値があるかもしれない。



旧台湾総督府専売局台北南門工場

日本統治時代に東南アジアで最大規模を誇った樟脳やアヘンの製造工場であった。明治32年に建設され、最盛期には世界の樟脳の八割が台湾製で占められた。(p.72)


こんなにシェアが大きかったとは驚いた。


岡田哲 『明治洋食事始め とんかつの誕生』

その鹿鳴館の連日にわたる舞踏会や大夜会も、外国人からは「猿真似の三流趣味」「不格好な洋風ものまね」との悪評を受け、わずかに三年余で幕を閉じてしまう。(p.89)


鹿鳴館の名は日本では悪いイメージで語られることは少ないが、こうした側面もあったという指摘は重要。



しかし、中国料理の本格的な普及は、第二次世界大戦まで待たねばならなかった。(p.90)


意外な遅さに驚く。だが、確かに、明治とか大正の時代に中国料理に関連するような話というのはあまり聞かない。これは単に語られていないだけというわけではなさそうだ。



 ところで、当時の日本人はたいてい欧米崇拝におちいっており、欧米の食事は、ふるくから「近代化」されていたと錯覚していた。実際には、日本の明治期よりわずか百数十年ほど前までは、ナイフもフォークもない手づかみの不作法ぶりであったのだ。欧米の庶民が、ナイフ・フォーク・スプーンを用いはじめるのは、17世紀末から18世紀にかけてのことであったからである。(p.95)


日本や中国では古くから箸などが使われていたことを考えると、庶民の食の作法という点では、少なくとも現在の基準から考えるならば、17世紀以前で比較すれば日本や中国の方が欧州よりも「近代的ないし文化的」だったと言ってよいだろう。



 ところが、明治維新になり、文明開化の進むなかで、先人たちは、パンを不思議な形態に作りかえていく。おやつ(間食)の機能をもたせた、和洋折衷型の「菓子パン」である。そして、独創的な「あんパン」の誕生。これもまた、「とんかつ」と同じように、日本人がつくりだした「洋食」なのである。(p.112)


現在でも日本のパン文化は独特だと感じる。欧米や中東とは全く違うものを食べていると感じる。最近はコンビニなどの普及もあってか中国や台湾など近隣諸国では日本のパンとほとんど同じようなものが普通に見られるようになったが、これらの国のコンビニで買う「日本風パン」はあまりおいしくない。日本で買うものとは違いがある。真似しているが追い付いていない感じがする(それぞれの国の人々の味覚に合うようにしているのかも知れないが)。

最近は海外に行く機会が減っているので、あまり詳しく論じることができないのが残念だが、「日本のパン」というのも調べてみるといろいろと面白いかも知れない。



 1905年(明治38)頃から、あんパンの駅売りが始まり、全国的に普及していく。日清戦争の後に、台湾から砂糖が大量に運ばれ、菓子パンが作りやすくなり拍車をかける。(p.143)


日本の人々の生活が洋風になって行く明治末から大正期に、ちょうど植民地となった台湾から砂糖が移入されてくる。このことは菓子パン以外にも影響があるに違いない。例えば、コーヒーや紅茶などの普及にも影響しているのではないか?



 たとえば、古代ギリシアでは涙から生まれたといわれていた「キャベツ」は、17世紀の後半に、南蛮船により長崎に伝えられる。当初は、葉ボタン・ボタンナと称して、もっぱら観賞用であった。キャベツが野菜として利用されるようになるのは、1871年(明治4)に、北海道に導入されてからである。当時は、キャベイジと呼ばれていたが食べ物としての関心は薄く、とんかつの添え物として華々しく登場することになる。(p.202)


西洋野菜の歴史はなかなかまとまった本が見つけられない。日本での西洋野菜の普及は北海道での栽培と関係が深いものが多いようだが、キャベツもその一つのようだ。当初は関心が薄く、とんかつの添え物としてブレイクしたというのは興味深い。



 ちなみに、「ジャガイモ」は、安土桃山期の1598年(慶長3)に、ジャワのジャガタラ(バタビア)から、オランダ人により長崎に伝えられる。ジャガタライモと呼ばれた。1874年(明治7)に、北海道開拓使がアメリカより種芋を入手し、本格的な栽培が始められ、1884年(明治17)の米の凶作のときには、米飯の代わりになる。(p.202-203)


キャベツと同様、明治期に北海道で栽培された西洋野菜の一つ。ジャガイモに関しては手頃な本があるので、機会を見て読みたいと思っている。


井黒弥太郎 『人物叢書 黒田清隆』(その2)

 松本退去のあとは、子飼いの薩摩人あるいは宦官的帰化族によって固められた。ここには薩長もしくは薩長土肥のバランス=オブ=パワーの原則は成り立たない。中央各省も特定藩への偏向はあったが、開拓使のような独占的官庁は外にはない。このことは黒田をして安心して中央に活躍させる余裕を与えたが、反面において彼が憎まれる一因ともなった。ことに長州ゼロのうらみは、いわゆる開拓使官有物払下事件に複雑にからみつくのである。(p.115-116)


なるほど。開拓使の要職には旧薩摩藩士が多いが、長州の勢力がないということにはあまり焦点を当てて考えたことがなかった。官有物払下事件は中央政治とも関係が深いようだが、当時の政治に関わる人々の人的関係を理解することで事件の背景がよく見えるようになりそうである。



かつまた千島樺太交換条約の成立によって、対露緊張が緩和されると、国家財政ののびに比較して、開拓使への国費投入のパーセンテージは漸次低下した。(p.123)


なるほど。開拓使には当初莫大な予算が投下されたが、それが次第に民間の活力に期待する路線へと切り替わっていくのだが、その背景にはこうした国際環境の変化もあったわけだ。



 両度の航海で得たもののうち、馬車と馬橇は最も開拓に貢献した。アメリカ馬車は札幌本道の工事と共に失敗したが、ロシア式馬車・馬橇は道内の悪路・雪道にあつらえ向きであった。(p.127-128)


北海道開拓を語るとき、しばしばアメリカの影響が語られる。確かにアメリカの影響は極めて大きいので強調されるのは妥当ではある。ロシアの影響についてもそれなりにあるのだが、あまり強調されることがない。なぜだろうか。いくつか要因はありそうだが、冷戦という国際環境が開拓の物語に影響した可能性もあるのではないか。冷戦以前の時代でも、北海道(特に支配層)は常にロシアの脅威を意識してきた歴史があり、ロシアも狙っていた土地であることは確かなので、ロシアとの親近性を強調する語りは、ロシアに併合されることへの抵抗を減らす方向のものであるから、あまり好まれなかったということも考えられる。



 北海道庁は23年7月5日、首相直属から、府県なみの内相管轄に変更された。黒田時代の天皇直属からみると甚だしい格下げである。(p.254)


「格下げ」というよりは、植民地たる「外地」から「内地に近い土地」になっていったことの反映と見るべきと思われる。



 山県のあと松方内閣のとき、内相は長州人品川弥二郎で、彼は残存する北海道の薩摩閥を根絶しようと、自分が就任して二週間目に、黒田の盟友永山長官をくびきり、渡辺千秋に旨を含めて北海道庁長官として乗り込ませた。
 渡辺は赴任そうそう大量の官吏を免職し、東京から引具してきた部下を要職につけ、官吏の利権に関与することを厳に禁じた。(p.254)


北海道における薩摩閥が根絶された後は、藩閥政治は下火になっていった印象を持っているが、具体的にはどうなのだろうか?



 折しも24年末、第二国会において、田中正造が早くも北炭の横暴を攻撃しはじめるなどで神経を尖らしている折柄、夕張線の工事にあたって、無許可で一部の路線を変更していることがわかった。北炭は利子補給を受ける道庁の保護会社であり、その監督権限は北海道庁長官にあった。その変更は北海道庁技師の選定によるものであるとの弁解もあらばこそ、25年2月、渡辺は職権を以てただちに堀を罷免してしまった。……(中略)……。堀の連類の同郷人も続いて引払い、ここに道内の薩摩閥といわれるものは全く姿をけした。(p.256-257)


薩摩閥が北海道において勢力を失った後、彼らはどうなったのだろうか、というのも気になる問題である。


井黒弥太郎 『人物叢書 黒田清隆』(その1)

 これまでの明治史は、いわゆる薩長史観とされるが、実はその薩と長の間にも激しい抗争があった。明治前半は薩が優勢であったが、後半になると長の伊藤の独走体制になってしまった。黒田清隆の名だけはよく知られているけれども、その生涯特に後半生は、伊藤主流に覆いかくされて殆ど分からない。ここでは黒田は幕臣榎本らよりもいっそう敗者として埋没している。(p.1)


明治維新は江戸の幕府に対して薩長を中心とする勢力によるクーデタという側面を持つが、その勢力争いに関して短い叙述で概要を把握できるように記されているのがよい。



 長州の実力者は木戸孝允である。東北諸藩主の処分のときから、……(中略)……強硬ぶりであった。これは独り木戸ばかりではなく長州人一般の傾向である。これに対して薩摩人はすでに西郷・黒田にみたように、もっぱら寛典を主張したのである。(p.40)


興味深い対比。いわゆる「民族性」論のような書きぶりにはなっているが、性格というより当時の政治における対応方針の違いと理解すべきだろう。



 明治3年5月9日、黒田を樺太専任の開拓次官に発令した。……(中略)……。
 一時は兵部省の輝ける星であった黒田は、その好みの武官から文官へ、四等官から二等官へ進んだとはいうものの、官吏100人そこそこの辺境へ流竄されたも同然である。そしてそれは結局軍人西郷から文官大久保路線への転換でもあった。生涯の決定的な曲り角である。(p.49)


樺太開拓次官になったことが黒田にとって転機だった。



アメリカの大陸横断鉄道に乗ってみて、たちまち鉄道費削減の愚を悟った。(p.52)


興味深いエピソード。



 ケプロン批判もないわけではないが、アメリカとしては著しく向英的な日本を向米に切り換えるために、第二のペリーとして彼を送ったのである。(p.52)


興味深い見方。(事実かどうかは保留。)



 明治6年11月、内務省が設置され、大久保が内務卿となる。その殖産興業政策は、むろん開拓使がその眼目であったが、それはいわゆる官業政策であって、外資を仰がず自己資本によって産業革命を達成しようとするものであった。従ってケプロンの外資依存の構想は抑圧されざるを得ない。黒田も時にはケプロンの意に添わんとして、開拓使の例外的ケースをのぞんだこともあったが、結局、5年度から規模を縮小し、官業政策に合せざるを得なかった。そこにケプロンの財政介入拒否の理由があった。もしそのことにも容喙させることになれば、結局開拓使の主導権はあげてアメリカ人に委し、黒田不在の開拓使におちたかもしれない。黒田はこの一線をまもり、ケプロンの反感をなだめつつ、しかも顧問団の効果的運用を期するのは苦心のいるところであった。(p.57)


明治政府・開拓使はできるだけ外国の資本に頼らずに自国の資本と産業を育成しようとしたのに対し、ケプロンらはむしろアメリカ製品の市場として日本・北海道を見ていた。実際には北海道の開拓に当たってはアメリカからそれなりの物資を輸入したことは間違いないが、自国の産業を育成しようという方向性自体は守られたように思われる。



 東京官園は広さ68ヘクタール、そこで輸入作物・苗木・家畜・農具などを試験した。その指導にはアメリカ人のエドウィン=ダンがあたった。彼としては東京でやるよりも、直接北海道でやる方が能率的であると指摘したのに対してケプロンは、それには別の意味があるのだと答えたと。たぶん彼は官園を東京に置いて、開拓使とアメリカの勢威とを誇示することが、政治的に意味があるとしたのであろう。(p.59)


なるほど。開拓使の官園が東京に置かれたことにはこうした隠された意図があったのか。興味深い。



木山実 『近代日本と三井物産――総合商社の起源――』

北海道で準備金をもとに「確実ナル巨商」を通じて勧業政策を展開し、そこで生産されたものを清国に輸出すれば「物産ノ繁殖ヲ助ケ」ることになるし、外債償却の一助にもなるというのである。この上申はすぐに裁可を得ている。準備金の運用による勧業政策と外債償却策という手法がイギリスへの日本産品売込み以外に、北海道の勧業政策および清国との貿易にも適用されようとしていたのである。そしてそこで抜擢された商人は、この直後の六月に新たに設立された広業商会であった。(p.31)


明治9年のこと。当時の政府は外債を返済するため外貨を必要としていた。北海道の産品を清国に売ることで外貨を得ようとしていたというのは、興味深い。それ以前から中国東北地方とは交易があったというのは今までも聞いたり読んだりしたことがあったが、明治政府が始めようとした貿易とそれ以前の交易の異同について把握したい。なお、広業商会は注目に値するということが本書を読んでよく分かった。



広業商会は明治9年6月に政府の準備金40万円の資金貸与を受けて設けられたものであり、その店長(社長)笠野熊吉は薩摩出身の人物で、彼は薩摩閥が跋扈する開拓使との関係を築いた結果、五代友厚の後押しもあってこのような抜擢を受けたのであった。広業商会は、創設後すぐに清国上海に支店を設け、次いで明治12年までに香港にも支店を設置した。それらの支店を通じて、北海道で漁業者に勧業資金を貸与して生産された昆布や、また税として徴収された昆布、また開拓使管下の官営事業の産品などを売込んだのである。広業商会は、さらに清国向け荷為替業務や委託販売にも従事した。(p.36)


明治前半の北海道は薩摩閥抜きに語ることはできないようだ。



 以上みてきたように、物産は明治10年代には北海道方面への進出にきわめて熱心であり、官営幌内炭取扱んお商権獲得や三菱との競争については、井上馨や品川弥二郎というような、まさに前節でみた長州閥とのコネクションに依存しつつ、他方で益田孝は、随所で実働部隊として松岡譲、宮路助三郎、小川又蔵などという旧幕臣ネットワークの人材を駆使して、薩摩閥の勢力と調和をはかりつつ進出をはかったと見られるのである。ただ益田と松岡、宮路、小川らの間で、もともとどのような接点があったのかは判然としない。ここでも、間に渋沢が橋渡し役的に介在した可能性なども考えられるが、詳しいことはわからない。ともあれ、物産はこのようにして、幌内炭あるいは魚肥、昆布などの北海道産品の取扱に従事していくことになる。(p.200-201)


私が三井物産に着目するようになり、本書を手に取ることになったのも、三井物産や三井銀行などの北海道への進出が積極的だと見えたからであった。

なお、本文では薩摩閥、長州閥、旧幕臣ネットワークという3つの人的ネットワークについて言及されているが、この視点は極めて重要であり、明治期の政治経済過程を見ていく上で非常に重要な意義を持つ概念であると思う。



 だが物産上海支店にとっては、ここでその清国綿花取扱高の増大に応じたその輸入資金の調達という課題が生じてきた。横浜正金銀行の上海出張所が設置されるのは、明治26年であるから、それ以前には、物産は主に外国銀行で荷為替を組んでいたといわれるが、当時の物産はまだ外国銀行から十分な信用もなかった。そこで物産上海支店は、日本昆布会社から委託を受けていた昆布を抵当に入れ、荷為替を組む約束で融資を受け、それを綿花の購入資金に充てたのである。物産が企業勃興期に雨後の筍のごとく出現した紡績会社からの注文に応じることを可能にしたのは、北海道の昆布であったともいえる。このような清国綿花と北海道昆布の事例は、明治半ばにおいて、物産が他地域にわたって多様な商品を取り扱っていたことによる相乗効果が生じていた例を示すものであろう。こうして紡績業界からの信頼を築きつつあった物産は、26年には、別なる綿花供給国を求めてインドのボンベイに出張店を開設するのである。(p.202)
昆布と紡績の関係は興味深い。



 浦長瀬隆氏の研究によれば、渋沢、益田らがかつて出仕した大蔵省についてみた場合、明治初年に官僚機構が未整備な段階で大蔵省が官吏として雇用した者の多くは、旧幕臣層であったが、官僚機構の整備の過程で、彼ら旧幕臣たちは、広く全国から地方官庁を経て登用される人物にとってかわられていったという。そのように旧幕臣が政府から去っていくような事態は、大蔵省以外の官省でも、当然ある程度予想されるところである。その際、政府を去った旧幕臣たちは、新たな職を求めねばならなかった。明治前期における渋沢ら旧幕臣たちは、明治期に入り、「朝敵」の汚名を着せられつつも、時代の逆風のなかで、人的ネットワークを維持しつつ、協力しあいながら、懸命に生きていたということであろう。(p.204)


旧幕臣は当初は官吏として登用されたが、人材や組織が育ってくると職を去ることとなった。こうした官職を離れた旧幕臣たちは実業界で活躍することになった。



 明治7年5月には、かつて琉球人が台湾に漂着した際、現地人に殺害された事件の問責を口実とする、いわゆる台湾出兵が開始された。この際、明治政府は軍需物資の調達や輸送の担い手として、当初、三井や小野などの特権商人の活躍を期待したが、彼らの働きはまったく明治政府を満足させるものではなく、それとは対照的に危険の中で果敢に政府の期待に応えたのが、岩崎弥太郎の三菱や大倉喜八郎であった。三菱は軍事輸送を、大倉は軍隊輜重の任を引き受け、彼らは政府からの信頼を大いに高めていく。軍関係では、明治10年2月に西郷隆盛による西南戦争が勃発した時も、大倉組は陸軍の御用に応じている。
 明治8年9月、明治政府の軍艦雲揚号が朝鮮を挑発して起こった江華島事件を経て、翌年挑戦は開国を余儀なくされる。朝鮮の開港後、明治政府の予想に反して、日本人の中から朝鮮貿易に従事しようという者はあまり現れなかった。政府内で独裁体制を築きつつあった大久保利通は、当時内務卿となっており、大倉喜八郎を呼び出し、大倉組が率先して朝鮮貿易に従事するよう要請したという。大倉喜八郎はこれにも応じて、明治9年中に手代の富田重五郎、鈴木真太郎を派して朝鮮釜山に支店を出した。(p.215)


本書から得られる大倉組のイメージは「武器や戦争や植民地支配に積極的に関わる商人」というものであった。



大倉組の東アジア市場での飛躍は、やはり日清戦争後に日本の権益が拡大したことを受けての朝鮮、台湾への進出、さらには日露戦争後の清国本土への進出を待たねばならなかった。(p.217)


ここでも大倉組のイメージは上述のものの通りとなっているが、台湾にも関心を持つ者としては台湾での大倉組の活動なども気になるところである。



 会計法公布で大倉の事業は停滞していくかに思われたなか、大倉を救ったのは日清・日露戦という国運をかけた戦争であった。両戦争において大倉は精力的に政府(軍部)御用をつとめ、戦勝で日本の権益が拡大するなか、台湾・朝鮮での大規模な土木建設工事を請け負い、また大陸中国の多数の諸鉱山に大々的に投資活動を展開することによって急成長していく。(p.222)


大倉組以外にも同じような活動をしていた有力な商人(会社)はいたのだろうか?