アヴェスターにはこう書いている?
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武田尚子 『ミルクと日本人』

 この時期の牧畜奨励の背景には、政府が財源不足解消のため秩禄処分、士族授産を進めたことがある。明治4年(1871)12月に太政官布告が出され、華士族が農工商に従事することが解禁された。さらに農業・牧畜志願者(家禄・賞典禄100石未満)に官有林野・田畑・荒蕪地を払い下げる太政官布告・達が発せられた。秩禄処分の段階的実施と並行して、士族を農業・牧畜へ誘導する法制度が整えられていった。
 秩禄処分によって、士族の農業・牧畜への参入が著しく増加したわけではないが、士族授産を進めた時期に、牧畜業へ参入可能な基盤が整えられた。(p.44-45)


士族授産を進めるため農業を奨励するという流れは屯田兵制度とも時期的にも内容的にも一致する。一連の政策の中の一つだったと見るべきだろう。ただ、政府の意図と実際の社会の変動とは直ちに繋がるわけではないのだが。


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若林滋 『屯田学校 北海道教育の礎』(その2)

 ホーレス・ケプロンが現地調査のうえ、屯田兵入植地に適しないと開拓使に報告したにもかかわらず、室蘭を軍港にする防衛上の理由から、山縣有朋の意向で兵村が設置された。(p.92-93)


農業には適さない土地であっても防衛上の理由から屯田兵の入植が行われた土地もあった。室蘭が軍港として適していると考えられていた、ということと、その後の工業都市としての発展とは結びついているのではないか。今後、室蘭についてももう少し詳しく調べてみたい。



 和田の屯田開拓は防衛を優先し、農業の立地条件を無視したため失敗に終わった。明治37年の屯田兵制度の廃止を待たず、入植した屯田兵の多くがこの地から転出してしまう。同じように立地無視で失敗した輪西兵村(室蘭市)は、天然の良港だったので今日の発展をみた。東西和田兵村を地域社会発展の核にするという、屯田兵本部の目論見は虚しかった。(p.97)


屯田兵というと、今ではそれほど悪いイメージはないかも知れないが、かなり劣悪な環境で政府の役に立つように使われたという面があるという認識を持つことは重要だと思われる。



 屯田兵本部が、防衛優先から農業には適しない海霧地帯に入植させた和田屯田開拓。食べ物も不自由とあっては、屯田兵と家族は暮らしてゆけず、離村、逃亡の道を選ばざるをえなかった。屯田兵給与規則違反による土地没収は、37の全兵村中最悪の64件にのぼった。(p.104)


上で指摘した内容をもう少し具体的に述べている箇所。



 募集の時は北垣京都府知事が疎水工事を完成して北海道庁長官に抜擢された頃で、上川に離宮が建つと聞いた。父母に話したらそれなら行こうか、と一言のもとに賛成を得てここへ来たものです(p.191)


旭川の兵村への入植者の証言。明治22年の上川離宮計画が応募の呼び水になったことがわかる。離宮は実際には建てられなかったが、この地域への関心を呼び起こし、人を集める効果はあったようだ。



 道内にはあちこちに「囚人道路」と呼ばれる道がある。その中でも、忠別太(旭川)と網走を結ぶ北見中央道路、現在の国道39号線の開削では多くの囚徒が死亡したことで知られる。
 ……(中略)……。
 当時の北海道長官は永山屯田兵本部長(司令)。対露防衛と開拓の必要から上川の屯田兵村墓地とオホーツク沿岸の結合を重視し、19年(1886)自ら沿岸を視察したうえでこの道路建設を命じた。(p.212-213)


人の命を守るはずの防衛が絡むと人の命がより粗末にされる。目的は手段を神聖にしない。

「人を守るため」とか「国を守るため」という神聖な目的を掲げて何かをしようとしている輩に対しては、実際にやろうとしていることを行った場合、何が結果として生じうるかということに通常以上に敏感にならなければならない。現在の憲法を変えようとする論の中で自衛隊の明記や緊急事態条項の創設などと言っている輩がいるが、そのようなルール変更をした場合、何が起り得るかを善く見据える必要がある。



 松前藩では忠長の配流を契機として、以後六回にわたり公家と婚姻を結んだ。京洛との往来も盛んになり、最果ての城地に都振りが浸透していった。北海道ただ一つの小京都として、松前公園の梅や桜、言葉や食べ物にまで都の名残を留めている。(p.273)


なるほど。松前藩と公家との接近が京の文化が松前や北海道にも入ってくるルートの一つだったわけだ。



 わが国の寺子屋と私塾の隆盛期は寛政(1789~)から天保末(1843)の約50年間だった。北海道はこれより遅れて、江戸後期の天保末から安政末(1859)とされる。(「北海道私学教育史」)
 ……(中略)……。
 隆盛期の天保年間(1830~1843)は10校、弘化年間(1844~1847)は4校、嘉永年間(1848~1853)は17校、安政年間(1854~1859)は11校、合計42校にのぼった。いずれも、道南部を中心に開校した。(「同」)
 これは天保の国内飢饉と蝦夷、積丹半島神威岬の女人禁制と関係がある。
 「北海道教育史」の山崎長吉氏によれば、奥羽地方では天保3年(1832)、4年、6年、7年と凶作が続き、暮らしに困った農民らが続々と蝦夷地に渡来し、道南の海岸部に住み着き、新しい集落を形成した。
 さらに触れたように、松前藩は元禄4年(1691)に神威岬以北への婦女の通行を禁止した。そのため、特に福山、江差、箱館の三港付近を中心に渡来者の定住が増え、寺子屋、私塾の発生を促したという次第だ。(p.279)


なるほど。蝦夷地に渡来してきても、奥地に行くことは禁止されていたから、入口に付近に留まる人が多かった。そのため、この地域に寺子屋、私塾が生まれることになった、というわけだ。

少し気になる点としては、神威岬以北までこの時期にそれほど人が移住するインセンティブがあったのかどうかという点であり、ここには若干の疑問がある。神威岬以北への入植が出来たとしても、この時期にはそれほど多くの人が北部への移住はしなかったのではないか。そうであれば神威岬の女人禁制はそれほど大きな要因とは言えないのではないか、ということである。



 開拓が進んだあと他府県と同様の学務を執行すべく、それまで北海道の普通教育に特例を設けてくれるよう求め、受け入れられた。この精神は、長く本道の教育行政を支配し、昭和16年(1941)に小学校が国民学校になるまで生かされた。正規の小学校教育に対して、便宜の教育措置がとられ、いわゆる正系教育に対する傍系教育がその後も続いたのである。本道の一般諸政策が植民地政策をとってきた歴史的過程は、教育においても明らかに見ることができる、と「北海道私学教育史」は指摘している。(p.304)


北海道における一般諸政策が植民地政策をとってきており、教育においても同様であったという認識は重要であり、戦前の北海道を考える上で見逃すことができないポイントであると考える。



 農商務省が農学校を直轄するのは不自然との批判が起こり、文部省移管が望まれたが、北海道庁管轄などを経て、同省直轄となったのは同28年4月だった。(「新撰北海道史第三巻」)
 この経緯にも、札幌農学校が北海道開拓行政と一体だったことを示している。(p.317)


なるほど。札幌農学校の歴史を見るとき、いつも、何年にどこの管轄となったということに言及されるが、その意味する所については必ずしも明確に指摘されないことが多いが、本書は非常に明快にその意味することを指摘してくれている。



 金子の復命は、開拓使-三県と続いて主導権を握った薩摩閥に対する批判でもあった。かねて道政を薩摩閥から切り離したいと願っていた長州のリーダー伊藤博文は、長州出身の山縣内務、井上外務両卿の賛同を得たうえ、清隆にも「異存なし」の言質をとって三県廃止と北海道庁の開設を決断、金子にその官制を起草させた。(p.321)


なるほど。札幌農学校を不要としたり、囚人を人と認めないような発言でも知られる金子堅太郎の復命書だが、大局から見ると薩摩閥が北海道開拓の主導権を握ってきたことへの批判という意味を持っていたという点は押さえておいてよい。



 道内の実業教育では、軍需生産拡大のため国庫補助制度を利用して工業学校の設置を奨励、昭和16年の10校が20年22校と増え、学科増設もあって生徒数は昭和12年の1,371人が20年には11,862人と激増している。
 一方商業学校は経済統制の下、必要性が薄らぎ19年の16校が20年10校に減った。工業高校への転換によるものである。(p.352)


軍需生産の拡大のため補助金を使って工業学校の設置を奨励していたというのは、なるほどと思わされた。


若林滋 『屯田学校 北海道教育の礎』(その1)

 最初の教育所が設けられた二十四軒は、真宗東本願寺の北海道進出に伴って新潟から招致した移民たちが入植していた。東本願寺は江戸時代を通して徳川幕府と誼を通じ、かたや西本願寺は薩摩、長州と接近していた。幕府と薩長が政治的思惑でそれぞれ大宗派の本山を利用したのである。維新に際し京都守護職の会津藩主松平容保が西本願寺を懲罰しようとし、会津善竜寺住職の弁護で思い止まった。維新後、今度は薩長政府が東本願寺の懲罰に動いた。
 「本山危うし」――東本願寺の嚴如法王はじめ一山あげて勤皇の姿勢を表した。北海道開発と移民の奨励もその一環だった。明治3年(1870)7月、現如法嗣は開拓御用掛一行180余人をひきいて函館に上陸し、胆振の長流―中山峠―札幌間108キロの本願寺道路開削を指揮した。(p.16-17)


本願寺が植民地支配(北海道に限らず台湾や朝鮮半島、満州など)で果たした役割は興味深い。北海道の開拓に関してはここで述べられているような動機が働いていたということは押さえておいてよい。



 「学制」発布後、開拓使は北海道が開拓の緒に付いたばかりで府県並みの学務執行はできない、と普通教育の特例を認めるよう政府に要請、認められた。この特例は昭和16年(1941)国民学校になるまで続いた
 これが明確になるのが、開拓使が13年から実施した「変則小学校制度」である。正規の小学校が満6歳から満14歳までの八ヵ年としているのに対して、四ヵ年で卒業できるようにした。正規の小学校は札幌第一小学校(後の創成小学校)など全道25の公立校のみとし、他は全て変則小学校として開拓地の実情に則した初等教育を実施した。(p.34)


随分長い間、内地とは異なる運用がされていたことに驚く。


札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫33 屯田兵』

 前期屯田兵が農業の分野で、これもしたあれもやったと書きつらねた中で、やらなかったのは水稲栽培、すなわち米づくりである。これはアメリカ顧問団のアドバイスによるところが大きい。単に米を作らないというだけでなく、食生活のあり方から寒地での暮らし方、体力づくりまでを見通した米作否定指導だった。開拓使はこの考えに基づき当初は米づくりを屯田兵に認めなかった。隠れて作ろうとするものを罰したことさえある。札幌農学校系の役人が持ち続けた水稲否定論を打ちやぶったのは、明治25年道庁に着任した酒勾常明で、その後石狩、空知、上川に水田が広がるのもまた、屯田兵の力によるところが大きい。(p.78)


札幌農学校やお雇い外国人について言及されるとき、相対的にプラスの面ばかりが語られがちだが、こうした判断の誤りについてももっと率直に理解することが望ましい。北海道開拓を語るときアメリカの顧問団たちは先見の明があったものとして描かれるが、必ずしも彼らは必ずしも先見の明をもっていたわけではなく、彼らがその科学的・技術的な知識だけではなく慣習的・文化的な生活様式を踏襲しようとしたに過ぎないという面も否定できないのではないか。米作否定論などはその最も分かりやすいものではないだろうか。アメリカ顧問団には日本で江戸自体から行われてきたような形での米作の知識は乏しかっただろうし、それよりも小麦などの栽培の方が詳しかっただろう。彼らの立場から見れば、知らないことよりも知っていることを推進しようとする傾向が生じるのは当然の流れではないだろうか。



 この屯田兵の入植について重要なのは出身県が琴似兵村と同様に東北地方の人々だけに限られていることである。これは明治6年の屯田兵制度の施行を要請した建白書の中に、「……旧館藩及ビ青森酒田宮城等ノ士族ノ貧窮ナル者ニツキテ兵役ニ堪ユル者ヲ精選シ…家屋ヲ授ケ金穀ヲ支給シテ産業ヲ資ク」ことを明記している通りに実施したのである。この明記した各県の藩士は琴似兵村の屯田兵と同様に戊辰戦争で賊軍と言われた人々を指しているのである。これに対して屯田事務局を構成している幹部や中隊の将校下士は薩長出身かあるいはそれに関係のある人々によって占められていた。これが西南の役に関連が生じてくるのである。(p.140)


これは琴似兵村に次いでいち早く入植がはじまった山鼻兵村についての説明だが、ここに書かれていることから屯田兵というものがどのようなものだったのかよく分かる。戊辰戦争で賊軍とされた藩では減俸されたので授産が必要となる。様々な士族の授産がなされたが、その一つが屯田兵による新領土の防備・開拓だったというわけだ。そして、それを指揮するのは飽くまでも「官軍」の側であり、これは初期の北海道における政治行政が薩摩出身者によって支配されていたことと通じている。

本書ではこれに続いて西南の役に山鼻の屯田兵が出兵したことは、兵士たちにとっては戊辰戦争の際の親族たちへの弔い合戦という意味を持っていたのに対し、将校らにとっては親族同士の争いを意味していたことが指摘されている。このため、将校らは活躍しなかったが兵士たちが活躍した。それにもかかわらず戦後は薩長の将校らが評価されたため兵士たちは不満を抱くことになったという。明治初期の日本を見るとき、廃藩置県前の出身藩が持つ意味付けは無視できない



 私がかつて道内に点在している37の旧兵村を調査した結果、各兵村に屯田兵およびその子弟が残留しているのは10~20%しかないという事実を知った。その時私が考えた結論は開拓者―屯田兵は未開地を開墾し終わったとき目的を完了したと考え、再びフロンティア精神を燃え上がらせて新しい道へと向かって行ったということであった。(p.205)


後備役から解放された後、急速に離散したらしいことから見て、このような解釈は正しくないだろう。最適の条件ではないところに縛り付けられていたところから解放を求めたという程度のことだろう。


山本紘照 『北門開拓とアメリカ文化――ケプロンとクラークの功績――』

 この選挙こそは『広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ』との五箇条の御誓文が渙発されたその年であり、衆議院議員の第一回総選挙よりも23年前、昭和22年春に行なはれる第一回地方長官の公選に比較すれば、実に80年も前のことである。榎本武揚こそは、日本で一番先に民主主義政治を実践した人ではあるまいか。(p.21)


「蝦夷共和国」などとも呼ばれることがある蝦夷島政府の明治元年(1868年)の選挙(入札)についての論評。

本書は1946年、敗戦直後に出版された本であり、当時の日本における民主化への期待や民主的な国を作ろうとする思いなどが随所にちりばめられているのが興味深い。こうした思いは、アメリカ的民主主義は北海道から日本に広がったという主旨の発言がある序(著者とは別の者が書いたものだが)に端的に表れている。

こうした発想は、単に本書だけではなく、北海道大学総合博物館の展示で紹介されている矢内原忠雄東大総長の1952年の発言にも見て取ることができると思われる。すなわち、 「明治の初年において日本の大学教育に二つの大きな中心があって、 一つは東京大学で、一つは札幌農学校でありました。 この二つの学校が、日本の教育における国家主義と民主主義という 二大思想の源流を作ったものである。(中略)札幌から発した所の、 人間を造るというリベラルな教育が主流となることが出来ず、東京大学に発したところの国家主義、国体論、皇室中心主義、そう言うものが、日本の教育の支配的な指導理念を形成した。その極、ついに太平洋戦争をひき起こし、敗戦後、日本の教育を作りなおすという段階に今なっておるのであります。」というものである。

こうした考え方には戦後まもない時期において多くの人々に共有されていた価値観が表れていると思われる。戦後のアメリカによる民主化と明治のアメリカから学んだ民主主義とを重ねて、その当時進んでいた民主化が、単に与えられたものではなく、日本の歴史の中に根を持つものであり、それを掘り起こして育てていく、だから日本には民主主義が根づくことができる、といった期待が抱かれていたのではないだろうか。

そして、こうした歴史の見方は(時に多少の誇張はあるかもしれないが)単なる虚構というわけでもない。むしろ、現在のようなバックラッシュが酷い時代においては新鮮でもあり、想起・銘記すべき内容を含んでいるようにも思われる。


齋藤尚文 『鈴木商店と台湾 樟脳・砂糖をめぐる人と事業』

また昭和9年末に完成した日月潭水力発電所によって、安価で安定的な電力供給が可能となると、高雄港一帯が「台湾工業化」の拠点として開発される兆しが見え始めた。昭和11年に日本アルミニウム株式会社の高雄工場が操業を開始したのはその先駆けである。さらに昭和12年の日中戦争開始をきっかけに、総督府の「台湾工業化」政策の方針が整備されると、南日本化学(高雄)・旭電化(高雄)・東邦金属(花蓮)・台湾セメント(高雄)・台湾化成(台北・蘇澳)などが設立され、高雄を中心として台湾全域に及ぶ工業化が一挙に進展した。(p.267-268)


日月潭水力発電所と高雄が工業化の拠点となることの繋がり、日中戦争と台湾工業化政策との繋がり、こうした動きは台湾の歴史を考える上でも重要な変化であると思われる。

なお、日本の右派が日本による台湾統治は台湾にインフラを残してやったかのごとく(良いことをしたと)発言することがあるが、統治者側が都合の良いように動いた結果として工業的なインフラなども残ったというに過ぎないということは銘記すべきだろう。

日本アルミニウムという会社はこの時代の台湾を調べるとしばしば目にする。この会社についてももう少し詳しく知りたいところである。


赤江達也 『矢内原忠雄 戦争と知識人の使命』

 神戸中学校の校風は忠雄に大きな影響を与えた。創立以来の校長・鶴崎久米一は、クラーク博士が教育の基礎を築いた札幌農学校の二期生で、内村鑑三、新渡戸稲造と同級生であった。鶴崎校長の指導によって、神戸中学校には「質素剛健」「自重自治」をモットーとする校風ができあがっていた。「自重自治」とは、クラーク博士が一期生に説いた「紳士たれ」という教えを意味していた(二期生が入学したときには、クラーク博士はすでに帰国していた)。(p.6)


矢内原は札幌農学校の二期生と縁が深いが、中学校時代から既に縁があったとは興味深い。また、札幌農学校をはじめとする明治初期の高等教育機関の卒業者は、官僚になる以外には教育者としての役割が大きかったと考えられるが、そうした社会の傾向も垣間見えて興味深い。



新渡戸の植民政策講義には、元植民地官僚らしい実際的なところがあった。だが、その基調にはリベラルで人道主義的な立場があり、台湾の原住民討伐について語るときには講壇を拳でたたき、激しい怒りをあらわにした。矢内原が四年生のときに取った講義ノートの結論部には、「植民は文明の伝播である」という新渡戸の言葉が記されている。(p.26)


東京帝大での講義。新渡戸の植民政策学の講義がどのようなものだったのか興味がある。できるものなら私自身がその講義を聴いてみたい。「植民は文明の伝播」というのは、なかなか含蓄がある言葉であるように思われる。いろいろな意味で解釈しようと思えばできる。新渡戸はどのような意味でこれを語ったのか知りたい。



 だが、『帝国主義下の台湾』は台湾の青年読者から熱烈に支持された。この書物は刊行後すぐに台湾総督府によって台湾への持ち込みが禁止される。そのため、内地へとやってきた台湾人の留学生たちはこの本をむさぼり読んだといわれる。
 台湾の青年たちから強く支持された理由としては、矢内原が台湾議会設置請願運動に共感的であったこと、長期的には植民地の独立を支持していたことが挙げられる。しかし、より重要なのは、台湾の資本主義化を論じる『帝国主義下の台湾』の議論が「台湾」という想像的な共同性とその発展の可能性を示唆していたことにある。
 日本統治下の台湾では、議会設置による自治の推進か、あるいは中国への祖国復帰かといった複数の選択肢のなかで、「台湾」という共同性への想像力が生じつつあった。『帝国主義下の台湾』は、そのような「台湾」の想像力と共鳴し、それを触発する役割を果たしたのである。(p.74-75)


日本統治下で「台湾」という想像的な共同性についての意識が芽生えたということはしばしば指摘されるが、矢内原のあの名著もそうした想像力と共鳴し合っていたというのは、なるほどと思わされた。



 岩波茂雄は矢内原の言論活動を高く評価していた。そして、矢内原が大学を辞めた直後には、その自宅を訪れて金一封を置いていった。岩波は矢内原事件の際に発禁となった『民族と平和』の発行人であったため、警視庁や検事局に呼び出されている。しかし、そうした言論統制のなかでも、岩波は矢内原に執筆を依頼しつづけた。その象徴が岩波新書である。
 1938年11月、岩波書店は、岩波新書のシリーズを立ち上げる。これはその当時イギリスで流行していたペリカン・ブックスを参考にしたもので、日本における「新書」の判型のはじまりとなる。その岩波新書の第一冊目・第二冊目として選ばれたのが、矢内原の翻訳によるクリスティーの『奉天三十年』(上・下)であった。この本は、奉天(瀋陽)で活動したスコットランド人伝道医師の自伝である。そのような本を矢内原の翻訳で出版することは、矢内原への支持と時局への抵抗を意味していた。(p.145)


興味深いエピソードであるだけでなく、新書というものがどのようにして生まれたのか、どのような意味があったのか、ということも考えさせられる。そして、それは現在の新書がどのような役割を果たすべきかということまでも考えさせてくれる。



 矢内原は戦中に大学を離れていたこともあり、学問上の弟子は少ない。ただ、戦後の東京大学には、南原のほかにも、大塚久雄、西村秀夫、藤田若雄、前田護郎といった無教会キリスト者の人脈が広がっており、学生たちにキリスト教的な感化をおよぼしている。とくに大塚史学で知られる大塚久雄の存在は、南原・矢内原とともに戦後の知的世界における無教会キリスト教の名声を大いに高めることになる。(p.209)


大塚久雄は無教会派だったのか。知らなかった。矢内原と大塚にはどのような接点や関係があったのかが気になる。


マーティン・バナール 『『黒いアテナ』批判に答える(下)』

ギリシアの数学は、宗教セクトによってではなく、タレス〔西暦紀元前625?-547? ミレトスのタレス。ギリシア自然哲学の創始者〕やアナクシマンドロス〔西暦紀元前6世紀中期の自然哲学者。世界の根源はアペイロンという無限のものだという説をとなえた〕のような「著名」人を通じてのみ発展したという彼の提案は、彼にそのつもりはなかったとしても、「合理的」ギリシアと「非合理的」オリエントの密儀という明確な対比――私は筋の通らない対比だと考える――を創り出すという結果をもたらした。(p.484)


確かに中学や高校で古代ギリシアの歴史を学んだとき、こうした「著名人」の名前が次々と列挙されていたのが想起されるが、確かに、当時の印象としてバナールがここで述べているような印象を暗黙裡に植えつけられた面はあると思う。



保守的なギリシア人、とりわけプラトンは、統一的な君主制と農業経済的な基盤をもつエジプト社会の安定性と階層性を称揚したが、ギリシアの小さい都市国家にとって(おそらくスパルタは例外だろうが)、エジプトは適切なモデルにならなかった。ギリシアの都市ポリスは小さく、その土地基盤は限られていたので、多くの場合、製造業と商業に力を入れた。したがって、彼らにとってはるかにふさわしい政治=経済のモデルは――エジプトではなくむしろ――フェニキアだった。(p.608-609)


ポリスにとっての政治経済のモデルはフェニキアの都市国家だったという点は本書で得た収穫の一つ。



古代の奴隷制社会もそれ以後の奴隷制社会も、海と関連していたが、これは偶然ではない。船による必需品の大量輸送が容易でなければ、食糧不足の専門的製造業経済の発達は不可能である。このことは、ある程度は川を基盤にした社会でも可能だが、海を基盤にした社会のほうが発達する範囲はずっと広い。動産奴隷制には海が必要である。このため、古代の奴隷制社会でも初期の資本主義でも、富裕で力を持つ者は海路を独占した。したがって、奴隷が故郷に逃亡することは不可能だった。(p.615)


動産奴隷制には海が必要という認識も本書から得た収穫の一つだった。大変興味深い指摘であり、掘り下げてみる価値もあるように思われる。



プラトンの世代から二、三世代たたないうちに、彼のもっとも早い注釈者クラントルは次のように書いている。「プラトンの同時代人は、彼の国家論は彼の創作ではなく、エジプトの制度の引き写しだと言って彼をあざけった。……(略)……」(p.640)


確かにプラトンとエジプトからの影響を認める説は昔からずっとあったようだが、このことはあまり一般には知られていないように思われる。



「民主主義」という語は1790年代末に使われるようになったが、この場合、「共和制」あるいは「代表制」という修辞語をつけてのみ使えるようになったにすぎない。アンドリュー・ジャクソン〔1767-1845〕が大統領に当選し、ギリシア賛美の機運が高まってはじめて、「民主主義」と「民主主義者」はそれ自体として使われ始めた。(p.710)


民主主義という言葉はその当時はかなりイメージが悪い言葉であったということは押さえておきたい。



一般に保守派は、彼ら自身を守るために自分たちの著述の客観性を当然視する一方で、現状に異議を申し立てる著作を「政治的」と称する傾向がある。(p.711)


現在の日本であれば、いわゆる「保守派」は、彼らに都合の悪い事実を報じるメディアに対して「偏向している」「中立でない」といった類の攻撃をすることがある。ちなみに、これらは明らかに「レッテル貼り」である。


マーティン・バナール 『『黒いアテナ』批判に答える(上)』(その2)

 啓蒙の17、18世紀からロマン主義と実証主義の19世紀へという変化は、新しい「科学的な」人種差別を強烈かつ顕著に増進させたにすぎなかった。(p.278)


19世紀に人種差別が顕著に増進されたことは、ヨーロッパ諸国の帝国主義的な支配が拡大していき、自らの優位性を信じるようになっていったことが大きな要因である。ロマン主義は自民族中心主義的な傾向があり、「民族」を実体化し、普遍の本質があると考える傾向があるため、ヨーロッパの「民族」の普遍の本質は他の有色人種たちより優れているという観念に容易に到達できるし、そうした信念が強固な場において、実証主義はそうした信念に都合の良い事実を(意識していない場合もあるが)恣意的に選びだし、それに「科学」によるお墨付きを与えることを可能にする。



 前述したポプキンのリストの最後はイマニュエル・カントである。彼の「純粋」哲学を見れば、のっぴきならない証拠がよりはっきりする。カントは論理学、形而上学、道徳哲学の講座で講義するよりも、むしろ、「人類学」の講座で講義するほうが多かった。内省的なのはヨーロッパ人だけであり、内省的でない非ヨーロッパ人は、「正確には」人間でないと彼は主張した。
 しかし、カントにとって、「劣等」人種にはそれぞれ違いがあった。彼はアメリカ先住民は教化できないと考えたが、黒人は訓練できると考えていた。ただし、「使用人としてのみ」だったが。カントにとって、打擲は訓練の一環であり、その場合、「鞭のかわりにささらの竹棒」の使用を勧めた。そうすれば、「黒人は死ぬことはないだろうが、苦痛にひどく苦しむだろう。[黒人の皮膚は厚いため、鞭でたたくくらいでは十分な苦痛を与えることにはならないからだ]。(p.294-295)


現代の人権の感覚や基準から見ると、ほとんど「狂っている」としか言いようがない酷い考え方。カントと言えば、一般には偉大な哲学者と見なされており、認識論におけるコペルニクス的転回などには歴史的に大きな意義も認められる大思想家と言いうる人物である。さらに、普遍主義的な志向の倫理学も有名であり、正・不正や善悪、公正ということを考える上でも示唆に富む議論を行った人物であった。その彼においてもここまでひどい人種差別的な観念を持ち、それを堂々と語ったというのは殆ど信じられないほどである。



まず第一に、社会科学では自明だが、「政治的」というレッテルが張られるのは、権威を支持・擁護する研究ではなく、ほとんどつねに権威に異議を申し立てる研究に限られる。(p.320)


現代日本の(主にネット上の)言説で使われる「偏向」という言葉の使われ方は、ここで指摘されているのと同様のものである。

ネット上の右派や反動政治家(いわゆる「保守」などと自称する右派系の代議士のこと)は、政府や与党に都合の悪い事実を報道したり議論したりする者に対して「偏向」しているとレッテルを貼る。しかし、「公正」とはどのようなことなのかについて、彼らは考えていないか、又は意図的に無視しており、彼らにとって「心地よい」言説上の地点が「中立」の地点だと勝手に見なしているに過ぎない。



功利主義者のジェイムズ・ミルは、ギリシア人が古代エジプトを尊敬していたことに不信と嫌悪を抱いていたが、この不信と嫌悪を強力に補強したのがゲッティンゲン学派のK・O・ミュラーであり、ミュラーは<古代モデル>の神話の扱いを批判し論破していた。ミュラーは証拠の立証に必要な条件を確立し、立証責任を<古代モデル>を批判したいと考えている人びとではなく、<古代モデル>を擁護しようとしている人びとに転嫁した。(p.386)


バナールはゲッティンゲン学派とその史料批判の考え方に対してしばしば批判するが、その理由がよく分かる箇所。実証主義的な手続き論を確立することで、客観的な事実を証明できると考えられがちだが、いかに手続きが適正であっても、証明しようとする事実の選び方が恣意的であれば妥当な結論は導かれない。より広い文脈を考慮に入れながら妥当性を競うべきだという競合的妥当性の考え方をバナールが主張するのは、こうしたゲッティンゲン学派に対する批判でもあるだろう。

広い文脈を考慮すれば、相対的に妥当性が高いのは「アーリア・モデル」ではなく「古代モデル」であり、それゆえ、「古代モデル」を否定しようとする場合の立証責任は「古代モデル」を批判する側になければならない、ということになる。ミュラーはそれを――不当にも――ひっくり返してしまった。これを元に戻すべきだというわけだ。



この要因の印象的な例は、アラビア語dār aṣ ṣina'a(「工場」)からイタリア語が借用した二つの語――おそらくジェノヴァ方言から来たであろうdarsena(船舶の武装解除や修理を行う港湾の屋内施設)と、ヴェネチア方言から来たarsenale(「海軍工廠、造兵廠」)――のなかにも見ることができる。(p.408-409)


ヴェネツィアの歴史などを学ぶと「アルセナーレ」は重要な位置を占めるものだったことが語られるが、これもアラビア語から来た語だったとは興味深い。



マーティン・バナール 『『黒いアテナ』批判に答える(上)』(その1)

また、歴史叙述や説明にたいして、「正しい」とか「間違っている」とか、はっきりしたレッテルを貼るべきではなく、私が「競合的妥当性」と呼んでいるものさしで測るべきだと考える傾向もある。
 その上で次のことが言える。「歴史的方法」という魔法のお守りはない。また、過去の再構成には多くの異なった方法がある(p.114)


本書は『黒いアテナ』に対する批判に対する反批判の書だが、研究方法についてはこの「競合的妥当性」が主張の中心の一つである。バナールに対して「立証」を求めて、それに足りないとしてその説は採用に値しないと切り捨てるような議論に対して、より広い文脈やそれを支持する諸々の証拠を考慮した上で、他の説とどちらに妥当性があるかという比較によって採用すべき説を選ぶべきだという。批判者側の主張も立証されているわけではないにも関わらず、立証責任を相手方に一方的に押し付けようとする姿勢に対する反論としては妥当なものだと考える。

昨今の日本にも見られる歴史修正主義者は、やたらと「正しい」歴史観というような言葉を使いたがるが、そのような姿勢は不誠実なものであり信用に値しないと私は考えるが、バナールがここで述べているとおり、彼らが用いる「正しい歴史」という言葉は、内実のないレッテルに過ぎないということは指摘しておきたい。

引用文の後段は、歴史を研究・叙述する際に、科学的・学問的に認められた唯一の方法があり、それに従って研究すべきだという前提に立った批判に対する反批判ということになろう。これは歴史に限らず、社会科学一般にも当てはまる。恐らく自然科学にも適用可能な考えだろう。



 ジェイサノフとヌスバウムはこの怠慢を正当化し、「原則上、名前の意味はほぼ何でもありだ」(p.190)と述べている。名前はたんに名前として反復される場合も多いが、もともと、とりわけ地名のばあいには必ず意味があるので、このアプローチは受け入れられない。私たちが地名の意味を理解できない理由は、多くの場合、たんに地名を構成している言語について私たちが知らないか、あるいは気がついていないからだ。(p.250-251)


地名には意味がある。なるほど。確かにそうかもしれない。少なくとも、このような想定をして地名の語源などを調べることには意味がある。



モンゴルや中国のように、圧倒的多数の住民の眼の色が茶色である多くの社会では、青い眼は伝統的に獰猛さのしるしと見られてきた。ギリシアでは、古代でも近代でも、青い眼は「邪悪な眼」と関連づけられ、あらゆる種類の悪い特性を示していた。(p.269-270)


確かに、現代の中東でよく売られているお守りevil eyeの色も青だ。