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太田雄三 『クラークの一年 札幌農学校初代教頭の日本体験』(その2)

しかし、これらの文化施設にしろ、新宿試験場や下総牧羊場にしろ、この期間にクラーク達の見た多くのものは上からの近代化の一環として政府が採算を度外視してやっているもので、必ずしも日本全体の進歩の指標として使えるものでもなかったし、また見かけほどうまくいっているわけでもなかった。(p.73)


クラークたちが東京で様々な産業施設を見学し、クラークたちは日本が「進歩」していると感じたと推察されるが、彼らが感じたであろうほどうまくいっているわけではなかったという指摘。

短期的な採算は度外視しても、導入してみていろいろと試していくことによって学習していこうという中長期的な発想を当時の政府は持っていたのだろうか?この辺りは気になるところ。



私の健康は申し分なく、私の仕事はたくさんありますが、私の能力以上ではなく、私の雇用者は気前よく、かつ私を高く評価してくれている、そして私のこれまでになしとげた所は私自身にも満足がいくし、私の知るかぎりでは、〔日本〕政府をも満足させているという状態です。私は、きっと、売り買い、雇い人の雇用解雇、建築改修から、自分の公印を使って会計から金を引き出すことに至るまで、日本人の役人の監督を全然受けずに行なう全権を付して、貴重な財産の管理を一任された最初の外国人だろうと思います。(p.125)


クラークが日本での仕事に満足していることを表明する発言は多いが、当時のお雇い外国人で、ここまでの裁量を持たされた事例というのは例外的なものであったことは押さえておきたい。クラークが来日中に西南戦争が起こっているが、その前後で政府の財政事情も大きく違っていたことや北海道という中央からは遠い辺境の地であったために実験的な試みが行いやすかったことなど、様々な条件が重なってこのような例外的な状況が形成された。黒田が大きな権力を持ち、黒田とクラークは馬が合ったというのもよく言われるが、そうした個人的な条件だけではなかったことを押さえるのは重要と思われる。



私達の石狩川を上る旅行中に私は黒田長官と話して、彼が〔聖書を教えることに〕反対するのはキリスト教自体に敵意を持っているためでは全然なく、ただ、英国国教とか、フランスカトリック教、ロシア正教やギリシャ正教といった国家〔外国〕と結びついた宗教を恐れるためだと分りました。(p.134)


ある意味、江戸時代の初期にいわゆる「鎖国」が行われた頃から、日本の政府(幕府)のキリスト教に対する警戒の源泉は変わっていないのかも知れない。いずれにせよ、キリスト教宣教の政治的な意図を正しく捉えており、西洋列強からの干渉に対する警戒は、当時の国際情勢を踏まえれば必要な構えだったということまでは言えるように思う。



これを見ても、クラークの信仰についての正しい理解は非常に信仰に熱心な男が日本に行って伝道を行ったというより、ごく普通の、名目的なクリスチャンとたいして違わなかった平信徒が思いがけずに始めた日本での伝道活動の成功から信仰熱心になって本国に戻ってきたということであるようだ。(p.242)


クラークの信仰に関するこの見方はなるほどと思わされたところ。クラークは日本において学生たちに道徳的な模範を示そうと努力した一面があると私は見ており、そのことが自身の信仰の熱量を上げることに繋がったように思われる。多くの学生が入信して彼についてきたことに対して、自分たち西洋人の優越性を見せたかったというような思いもあったのかもしれない、と想像する。



この講演を通じて日本の農業に対する高い評価を知るとき、私達が疑問に思うことの一つはクラークが日本の伝統的農業をそのように高く評価しながら、札幌農学校での初期の農業教育が、

 例えば作物でも、日本には何等の関係のない外国のものなどは教わっても、日本に最も必要な米作などのことは少しも聞かされたことがなかった。(南鷹次郎先生伝記編纂委員会編『南鷹次郎』、1958年)


と二期生の南鷹次郎がいったような、日本の実情に合わない欧米一辺倒の、南の言葉で言えば、「妙な教育」にとどまったことである。エドウィン・ダンも彼の「日本における半世紀の回想」(高倉新一郎編『エドウィン・ダン――日本における半世紀の回想――』、札幌、エドウィン・ダン顕彰会、1962年、所収)の中でクラークがマサチューセッツ農学校でのやり方を「そのまま札幌に移すつもりで来て、その通り実行した」ことを批判して、「日本とアメリカでは農業のやり方は全く異なっているので、肥料の価値とその施用ということを唯一の例外として、その他のことは、アメリカの大学でやっていることをそのまま持ってきても何等の結果も期待できない。」(同書、90-91ページ)と言っている。(p.256-257)


日本の農業を評価していても、結局はアメリカが一番と思っていたということが大きいということではないか?つまり、クラークが日本の農業を評価したとしても、「思っていたよりすごい」という評価だったということではないか。

また、実際、数カ月しか教育期間がない中で、十分な知識を持っていない日本の農業のやり方を適切にアレンジして教えるというのはかなり難易度が高かったとも想像される。実際、本州の農業と北海道とでは気候もかなり違うので、本州で見たことがそのまま北海道では役に立たないという面もある。(ダンは長期にわたって北海道にいたので、その立場からクラークに対して上記の批判をするのは理解できるところであり、妥当な批判ではあるだろうが。)


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太田雄三 『クラークの一年 札幌農学校初代教頭の日本体験』(その1)

クラークにしろホイーラーにしろ西洋文明こそ唯一の真の文明と信じていたと思われるから、その摂取に非常な熱意を見せている日本人に彼らが中国人に対する以上の好感を持ったのはある意味では自然であったと言えよう。(p.26)


本書では随所にクラークが日本人に対して好感を持ち、政府高官などとも関係が良好だったことが語られている。クラークが無批判的に日本びいきとなった点について本書はやや批判的であり、ホイーラーの方が日本の長所と短所を冷静に距離を取って評価できていたと考えられているのが特徴的だったりする。それはそれとして、クラークの日本観の形成に寄与した要因のひとつとして、この引用文のような日本人の欧米に学ぼうとする姿勢があったのは確かだろう。

本書でも言及されている通り、この後数年もすると、この流れは変わっていくし、幕末の頃にも攘夷思想などがもっと強かったため、クラークが来ていた時期は、ちょうどお雇い外国人にとって当時の日本の人々は受け入れる雰囲気が高まってた時期だったということは押さえておいて良いだろう。



ありがたいことに日本では新聞の編集者たちは彼らが印刷する記事について責任を負わされています。そして、彼らのうちのかなりの数がアメリカの新聞編集者たちの大多数がいるべきところ、つまり監獄、に入れられています。私は自由を愛しますし、出版の自由(一定の規制を受けた)の大切なことも信じていますが、多くの点でアメリカでは私達は極端に走りすぎたと思います。私は〔日本で〕公人や公的機関に対する誤解と中傷に基づいた記事に満ちていない日刊新聞を読むことが出来ることをとても愉快に感じています。(p.47)


クラークが言論統制を支持する見解を表明していることについては、私も最初は驚きを感じた。ただ、本書が解説するとおり、クラーク個人の経験に基づく背景がある。つまり、本書によれば、「政府による新聞の弾圧を肯定するような口吻をもらしたのはおそらくクラーク自身がアメリカにおいて新聞による直接間接の批判にさらされ、アメリカの新聞に対してかなり強い敵意を抱くようになっていたためであろう」(p.52)という。これはこれでクラークの発言がどこから発しているかが分かり的確な解説と思われる。

ただ、新聞がマサチューセッツ農科大学(本書ではマサチューセッツ農学校)の経営がうまくいっていないことを批判するのはジャーナリズムとしては当然のことであり、ましてや民主主義のシステムを採用している国で政府に対して監視をしない新聞などほとんど社会的意義がないと言ってよい。疑義を向けられたらそれに応答する(response)のが公的な側の責任(responsibility)であろう。当時のアメリカの報道がどのようなものだったのか、わずかしか知らないが、自らが批判を受けたからと言って言論統制を是認する発言をすることは、自らの立ち位置などを適切に把握できないとしか言えず、適切ではないだろう。(クラークにはこうした反省が十分でない点がしばしば見られるように思われる。)



日本ではクラーク達の来日の前年の1875年(明治8年)6月に新聞条例が改正され、また同時に讒謗律が制定されて政府による言論・出版の取締りが強化された。(p.52)



讒謗律は「ざんぼうりつ」と読むそうだが、「事実の有無に関係なく、他人の名誉を損ねる行為を暴き、広く知らせることを讒毀」として、罪に問うものだったようである。個人的には、事実があっても名誉を損ねたら罪になるというのは、全く理解に苦しむところである。支配する側が勝手に言論を統制できるという体制は、現在の香港(中国が国家安全法を押しつけている)を見ても極めて問題が大きいことは明白。立憲主義と権力分立が重要である所以だろう。


飯島渉 『感染症の中国史 公衆衛生と東アジア』

 中華民国政府はさまざまな面で日本をモデルとした国づくりを進めようとしました。しかし、大総統に就任した袁世凱が急速な中央集権化政策を進めたため、各地でそれに反対する動きが起こりました。(p.102)


中華民国政府の政策と日本の政策との関係には興味がある。台湾での中華民国政府の政策も日本をモデルとした政策や制度は、国民皆保険制度などそれなりにあるように思う。戦前の中国に政権があった時の中華民国でも日本をモデルとした政策や制度の設計が行われていたというが、それらは中華民国政府の中でどのような位置づけにあったのかということを知りたい。



 コレラが国家や社会に与えた影響を考えるとき、最も重要なのがコレラ対策として進められた水道事業の整備です。これはヨーロッパ諸国から進められます。ロンドンでコレラが流行したのは1832年のことです。濾過機で給水した地域に患者が少ないことがわかると、各地で大規模な都市計画とともに水道が整備されていきますが、その目的のひとつはコレラ対策でした。
 水道事業の整備には莫大な資金が必要となります。この結果、衛生行政の役割がしだいに拡大し、政府が積極的に関与する体制になっていきます。これは「国家医療」(state medicine)と呼ばれます。感染症対策、とくにコレラ対策が政府の役割を肥大化させたことは、感染症が歴史に与えたインパクトとして見逃すことのできない事実です。(p.127)


感染症対策が政府の役割を肥大化させたというのは、本書を読むまで考えたことがなかった観点だった。統治と感染症対策とは意外なほど深い関係があるということに気づくことができたことは、本書から得た収穫だった。

コロナ対策が世界的に行われているが、コロナ対策以後の時代は権威主義的な政府が増える可能性がある。人権や個人の自由を制限できるような制度が創設されたり、使われる事例となることなど様々な経路を通ってそれが実現しうるからである。すぐに急速に進むかどうかということではなく、例えば、5年や10年後に権威主義的統治を志向する支配者が表れたときに、コロナ時に創られた人権や自由を制限できるような制度を活用してしまい、それに歯止めがかけられない事態などが想定される。



 台湾総督府のマラリア対策を回顧するなかで、堀内次郎(台湾総督府医学校教授・校長)や羽鳥重郎は、「欧米人が新領土を新しく統治していくには、先ず宗教家をやってそうしてその方から段々宣撫していくのが普通ですけれども、日本人にはそういう便宜がありませんので医者を中心として」と述べ、水利事業などの土地整理やインフラの整備もマラリア対策を理由として実施されたと指摘しています。
 マラリア対策は日本の台湾統治の根幹であり、台湾総督府が台湾社会、とくに原住民社会を含む農村社会との関係を築く重要な回路だったのです。
 台湾の医療・衛生事業は、植民地統治のプラスの部分とされることがあります。たしかに、マラリアがある程度抑制されるようになったことは事実ですが、他方、台湾総督府が血液検査という回路を通じて原住民を含む台湾社会への介入を強めたことも事実なのです。(p.159-160)


安易に植民地統治を称揚するのは慎むべきだということがこうした指摘からもわかる。



 その意味では、戦後の日本は、近代日本の植民地医学をほぼ継承しました。しかし、戦後の感染症や寄生虫の研究の基礎に植民地医学があったことは、封印されます。そして、中国も日本住吸血虫対策に日本の植民地医学が関係していたことはこれを封印したのでした。(p.187)


こうした隠された歴史を明るみに出すことは重要である。


ポール・キンステッド 『チーズと文明』

 18世紀にはロードアイランドやコネティカットでもアフリカ人の奴隷がたくさんのチーズを製造していた。こうしたチーズの多くが西インド諸島の奴隷の食糧として輸送され、モラセスと交換されると、ニューイングランドでラム酒製造に使用された。そして、ラム酒はアフリカで奴隷を購入し、西インド諸島へと送り、そこでモラセスと取引する……、というサイクルが続くのだ。ロードアイランドはこうした、いわゆる三角貿易のアメリカ植民地のリーダーだった。しかしマサチューセッツとコネティカットもある程度これに加わっていた。(p.272)


チーズも三角貿易に関係していたというのは、考えたこともなかった。ラム酒が果たした役割も調べてみると面白そうである。


アンドリュー・ドルビー 『チーズの歴史 5000年の味わい豊かな物語』

 1948年頃、終戦後の「ヤミ市」全盛の国内経済は駐留米軍とその家族相手の業者を生み出し、また、米軍ルートからドロップアウトした「米軍放出物資」なるおのが大いにもてはやされた。
 米軍の携行食であり、栄養バランスの良いプロセスチーズ(クラフト・チーズ)は、食糧難の当時としては格好の商材であった。このアメリカ軍が持ち込んだプロセスチーズが、日本のチーズ文化のリード役になったのは当然のことであった。このことが、プロセスチーズを日本の直接消費チーズの主流にした理由である。
 一方、ナチュラルチーズを一般市民が口にできるようになったのは1951年になってからである。連合国側と日本との講和条約が正式調印され、外国との輸出入ができる「独立国」に生まれ変わったためである。(p.175)


以上は本文ではなく、村山重信氏による解説からの引用。ある意味、80年代頃までのチーズと言えば、プロセスチーズばかりで、味も金太郎飴的に同じようなものがほとんどだったように思うが、その基礎となった事情が少しばかり分かったように思う。


出口治明 『グローバル時代の必須教養 「都市」の世界史』(その2)

 このような伝統があるので、ウィリアム一世はイングランドを支配すると、全土の状態を把握するために、早速に土地台帳(ドゥームズデイ・ブック)をつくらせました(1085)。この土地台帳は興味ある事実を教えてくれます。この台帳には当時の有力者の実名が200名近く記録されているのですが、この中でアングロ・サクソン系の名前は10名前後、残りはすべてフランス系の名前だったのです。
 フランス人といってもフランク族につながる生粋のフランス人ではなく、ウィリアム一世がノルマンディー公国から引き連れてきた元ヴァイキング、ノルマン人の豪族たちです。彼らがイングランド貴族の大半になっていったのです。僕たちはイングランドを「アングロ・サクソンの国」と呼びますが、そう呼ばれる国は11世紀にはすでに伝説化していたのです。(p.274)


ノルマンディーから来た元ヴァイキングのノルマン人たちがイングランドの貴族の大半を占めるようになったというのは重要な指摘。ただ、「アングロ・サクソンの国」が伝説になっており、実情とは違うという類の指摘は、被支配層が誰だったのかということを考えると、そう簡単には言えないのではないかと思われる。その支配領域に実際に多く住んでいたのが誰だったのかという観点からみれば、「アングロ・サクソンの国」と呼ぶことはできるように思われるからである。

もし、上記引用文のような言い方が適当なのだとすれば、清朝は女真族の国であり漢民族の国ではないことになるし、一つ前のエントリーで指摘されていた隋や唐が鮮卑族から出たのだということから、隋や唐は鮮卑族の国ということになる。これらは確かに(前のエントリーでも唐の時代や国の特徴が支配層の志向と関係が深いと指摘されていたように)事実の一面を正しく捉えているとも言えるが、被支配層は支配者が変わっても日常の生活を送ってきたことを考えれば、支配層だけに注目して国を特徴づけるのも問題を含むと言えるだろう。



当時はコロンの新大陸到達後、スペインが新大陸の金や銀を独占し、イングランドの進出を許しませんでした。女王は対抗策として、金銀や新大陸の産物を積んでヨーロッパに帰ってくるスペイン船舶を襲撃する目的で、海賊行為を認めました。スペインの新大陸から帰ってくる船は、スペインの港を目指すのではなく、ネーデルランドのアムステルダムやロッテルダムに帰港しました。当時のネーデルランドはスペインの領土だったのです。大西洋側にはポルトガルもあり、スペイン本国に良好な港がなかったため、ネーデルランドの港に帰港していたのです。イングランドの海賊は、ネーデルランドの港に向かうスペイン船舶を襲ったわけです。
 この海賊行為は女王が公認したものでした。すなわち海軍としての行動だったのです。非道のようにも思えますが、新大陸に勝手に上陸して先住民を迫害して略奪したスペインと、そのスペインの船を襲うイングランドと、どちらを悪とするか、断言しきれない問題でもあります。海軍は同時に海賊でもあった時代で、別にイングランドに限られたことではありませんでした。(p.290-291)


新大陸と往来していたスペインの船がネーデルランドの港に帰港していたという点は、スペインからオランダへと世界システムの覇権が移っていったことの大きな要因のひとつだったのではないかと思われ、興味深い。

また、海軍と海賊の関係も、掘り下げて見ると面白そうなテーマであると気づかされた。

ただ、スペインとイングランドとどちらが悪かという問いはミスリーディングであろう。どちらも悪に決まっているからである。本書の叙述はイングランドの襲撃行為を正当化しようとする方向に流れているという点は指摘しておく必要があろう。



フランス革命のとき、王室が倒れたことで王急に召し抱えられていた宮廷料理人たちが失業し、パリ市内でレストランを開店したことが、パリを美食の都にしました。また王室や貴族の衣装をデザインしていた人たちもパリ市内にブティックを出さざるを得なくなり、ファッションの都パリが誕生する契機となります。このように共和政となったことで、パリの市民文化はいち早く豊かになりました
 そして多くの芸術家たちもパリに集まってきました。それはなぜかといえば、パリには、他の皇帝や君主がいる街にはない、市民だけの街の自由があったからです。(p.349-350)


パリの華やかさ(美食、ファッション、芸術)は、共和政となったこと(王がいなくなったこと)にその大きな要因があった。


出口治明 『グローバル時代の必須教養 「都市」の世界史』(その1)

 二世紀頃から地球は寒くなり始めました。そのためにユーラシア大陸の北方に広がる草原地帯では、多くの部族が南に移動し始めました。北の部族から順に南に移動してくるので、北から南へと部族移動の玉突き現象が始まり、膨大な部族の大移動が起こりました。
 この大移動は南下して天山山脈にぶつかります。ここで東西に分れて、東に向かった集団は中国において、五胡十六国と呼ばれる諸国家の興亡する時代をもたらします。西に向かった集団が、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」であると、教科書に出ていました。しかし今日では、ゲルマン民族と分類されていた集団の中で共通項が見出せないこともあって、「諸部族の大移動」と呼ぶ学者が増えています。(p.23)


地球の気温の変化が様々な歴史現象の背後で構造的な要因として作用していたことが、本書ではしばしば言及される。これは比較的新しい歴史学の考え方だが、私もこうした考え方についてはもう少し勉強してみたいと思う。場合によっては、かなりの説得力を持つ説明がされることがあるし、バラバラのものと思われていた別々の現象(ここの例では諸部族の大移動と五胡十六国)が、実は同じ背景因が作用して生じたものだと理解できる点が面白い。



 地球は十世紀後半から暖かくなり始めました。そのため食糧が増産され、人口も増加しました。ドイツやフランスでは、子どもが増えた結果、土地が不足したり、人々が職にあぶれるようになりました。要するに、ユースバルジ(若年層の膨張)が生じたのです。(p.37)


このことが十字軍の派遣へと繋がっていく。11-12世紀頃からヨーロッパが力をつけ始めたことと関係が深そうであり、建築のロマネスク様式や十二世紀ルネサンスなどとも関係があると思われる。



 16世紀前半のヨーロッパでは、フランス王のフランソワ一世とドイツ・スペイン王ハプスブルク家のカール五世が、全面対決していました。ハプスブルク家の本貫の地はオーストリアです。したがってウィーンを狙っているスレイマン一世は、フランソワ一世からみれば敵の敵なので味方、ということになります。そこで両国は同盟を結びました。時に1536年。
 こうして両国は協力関係に入りましたが、当時の国力をみるとオスマン朝が圧倒的に上です。そこでスレイマン一世は、彼からみれば貧しい国に過ぎないフランスに、カピチュレーションと呼ばれる外交上の特権を与えました。帝国内であってもフランス人の裁判はフランス人にまかせる領事裁判権、帝国内での通商や居住の自由、そして関税もフランスに任せる通商特権などです。スレイマン一世が強国の君主として、小国に恩恵として与えた最恵国待遇でした。やがて、このことを聞き知ったイングランドやネーデルランドなども、この最恵国待遇を求めました。「貧しき我が国にもどうぞお恵みを」というわけです。
 オスマン朝は大国らしく、鷹揚にこの要求を認めました。そして、この条約にたいへん旨みがあることを知った西欧列強は、カピチュレーションの内容を世界に広げていきます。日本が幕末の頃に各国と結んだ不平等条約も、その一例でした。(p.42-44)


なるほど。欧米諸国は最初は弱者として恩恵を被る形でカピチュレーションを与えられていたが、時代の変遷とともに経済力や軍事力を高めていき、他国よりも強い経済力・軍事力を得た後には、形式的にはカピチュレーションと同じ権利を自分たちより弱い国々に押しつけていったということか。興味深い。



人が旅をするときは、東西に移動するほうが南北移動より楽です。気候の変化が少ないからです。東西に広がるユーラシアの大草原地帯が民族移動の大動脈(草原の道)になったのも、同様の理由からでした。(p.62)


東西移動の方が南北移動より楽だというのはその通り。札幌の雪まつりに台湾の友人が子連れで来たとき、衣服が濡れると体温を奪われるので、北国の人間は自然と雪で衣服が濡れないように気を遣うものだが、そうした「北国の生活の知恵」を十分に体得していない彼らの服装や防寒装備の貧弱さと、そのことにあまり気にせずにはしゃいで、びしょ濡れになっていたことが想起される。



 古い街を壊して新しい街をつくるのではなく、古い街の隣に新しい街をつくってきたカイロという都市は、時の流れに中断されることなく、歴史の遺産を見られる都市かもしれません。(p.145)


以前、カイロのイスラーム建築を見に行ってきたことがあるが、古代の街、中世の街、近代の街がそれぞれ隣り合うような形になっていた。この個所はその時の私の実感を要約してくれているように感じられた。



 なお東西の交易路と言えば、天山北路(天山山脈の北側のルート)や南路に代表されるシルクロードがわが国では有名ですが、東西交易の大半は往来が容易な海の道や草原の道を通じて行われており、シルクロードは商品ではなく、むしろ人(玄奘など)や情報が行き交う道であったようです。(p.149-150)


なるほど。確かに長距離の交易ということで言えば間違いなく海の道や草原の道がメインだっただろう。シルクロードは比較的短距離の交易路であった。非常に遠くのものが届いた場合でも、間に何か所もの都市が介在して届いたものが多い。逆に言えば、オアシス都市が点在していたこともあり、その間での人の往来はしやすかったと言えそうである。海の上や草原の上では人口密度が低いので日常的には情報は伝達されないが、いわゆるシルクロードは日常的な交易や人の往来があったと思われる。



ところで、隋と唐は同じ一族です。しかも漢に代表される漢民族ではなく、異民族です。「五胡十六国時代」に登場した遊牧民の中に鮮卑という部族がいました。この鮮卑の中に拓跋部という協力で優秀な一族がいました。この一族は、ちょうどローマ帝国に押し寄せた諸部族同士が相争う中でフランク族が勝ち抜いたように、五胡十六国時代を勝ち抜き、南北朝時代に北魏という強力な国家を建てました。北魏は、最終的には中国を支配するために拓跋部全体を中国の文化に同化させ、漢民族のように振る舞います。この北魏が分裂抗争するプロセスの中で、拓跋部の中の一族が隋を建国し、さらに唐を建国したという歴史があるのです。
 余談ですが、隋や唐の前身は遊牧民なので、遊牧民に対しては友好な関係を希求します。したがって、始皇帝が築き始めた万里の長城という、遊牧民の侵入を防ぐための大城壁の建設に、この二国は関わっていません長城を築いた王朝の代表は、漢民族の明でした。今日まで残っている長城の大半は明代のものです。(p.183-184)


隋は統治期間が短いので別としても、唐がどのような王朝だったかを考えるにあたっては、この王朝が遊牧民出身であるということを考慮に入れると理解しやすいことが多いように思われる。領土が西に長くアッバース朝と接するまでであったこと、それと関連して長安などが非常に国際色豊かな都市だったとされること、唐三彩なども西方から伝わった技術とも言われていたり、ペルシア人の形をしたものなども多いこと(なお、個人的には唐三彩の質感は中東の陶器と似ているように感じている)など。



節度使のいた役所は幕府と呼ばれました。この幕府の呼称が、そのまま日本に入り鎌倉幕府や室町幕府という呼び名となり、日本では幕府の最高権力者のことを将軍と呼ぶようになりました。将軍とは征夷大将軍のことです。本来は陸奥の蝦夷を征討するのが、征夷大将軍の役割でした。ところで夷とは、もともと中国が東方の蛮族を呼んだ呼称です。従って節度使と征夷大将軍はよく似た役割を担っていたのです。(p.184-185)


なるほど。



「陛下、いっそ鄭和艦隊を潰してそのお金で万里の長城を増築しませんか」
……(中略)……。
 大国明にしては、愚かな発想でした。海賊がいなくなって安全となったインド洋に、ポルトガルから150トンほどの船3~5隻に150人ほどの乗組員を乗せてヴァスコ・ダ・ガマがやってきたのは、1498年でした。彼らは、その貧弱な船団で無事にインド西海岸のカリカットに上陸し、領土としました。もしも、鄭和艦隊がいたら、決してこの行動を許さなかったでしょう。このヴァスコ・ダ・ガマのインド到達が、東南アジア諸国、インドそして中国自体が植民地化されていく、大きな契機になったのです。
「万里の長城など造っても、受け身の防備のみで遊牧民の攻撃を避け切れるものではない。鄭和艦隊を潰すな」
 誰かそう進言する人間がいたら、ポルトガルやスペインなど西欧諸国の海上帝国は現出しなかったかも知れないのです。(p.212-213)


鄭和の艦隊が活動を続けていればポルトガルやスペインの進出を防ぎ得たのではないかという指摘は興味深い。インド洋を安全な海にした後、活動をやめたことで、西欧からの侵入がしやすくなった上に、彼らに侵略行為による拠点の獲得をも許してしまった、というわけだ。まぁ、いつまでも活動し続けられるとは考えられないが、それでも当面活動を続けていれば歴史はそれなりに変わっていただろうとは言えそうだ。



 ところで日本は、1937年の盧溝橋事件から1945年の敗戦までの八年間中国と戦争を行い、その間北京を占領していました。読者の皆さんのお父さんやお祖父さんの中には北京生まれの人がいるかもしれません。(p.217)


北京を占領していたということについては、あまりイメージがないかも知れない。大同の雲崗石窟なども日本が占領していたのだから、それより近い北京が占領されていてもおかしくはないのだが、あまり語られないように思う。



上山安敏 『ウェーバーとその社会』(その3)

そこでは責任倫理は「権力政治を正当化する論理になっている。果して、彼の『職業としての政治』のためのメモ用紙には、権力の倫理」(Ethik der Macht)が「責任の倫理」(Ethik der Verantwortung)と書き改められている。つまり「責任倫理」と「心情倫理」の対立はもとは「権力倫理」と「心情倫理」との対立だったわけである。ウェーバーが「権力」を「責任」にスウィッチしえたことからわれわれは逆に彼の「権力」(ウェーバーのいう「真の権力」)が何であるか見ることができよう。(p.219)


これは興味深い指摘。責任倫理は権力政治を正当化する論理というのは、確かにその通りであろう。それよりも広い意味を持ってはいるとも思うが。



 ウェーバー・クライスは、もともとウェーバーが設け、主宰したサークルなのではなく、ハイデルベルクの知的風土を背景にしてつくりだされたものであり、ウェーバーも途中から参加したが、次第にウェーバーの問題関心を中心に動くようになったものである。(p.258)


このことの詳細はこれに続く行論によって説明されていくが、非常に興味深いものである。当初は宗教史の問題が研究の中心だったサークルが、メンバーの世代交代によって社会学の問題へと関心がシフトしたとされ、その媒介となったのがウェーバーとトレルチだったという。ウェーバーが倫理論文などを書くことになったのも、そうしたサークルとして歴史的に共有されていた問題関心の影響があったと考えてよいだろう。



イェリネックは、人権論にしても、社会契約論にしてもその起源を大陸ではなく、スコットランド、イギリス、アメリカの運動に求めている。それは、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がイギリス、アメリカのピューリタニズムにその起源を求めた発想と共通する同時代の思想潮流であったといえよう。(p.294)


イギリスやアメリカに起源を求めることで、フランスからの影響という風にしなくて済むという点は当時のドイツのナショナリズムにとって意味があった(感覚として腑に落ちやすかった)のであろう。



テニエスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』を前に、社会思想界を大きくリードしたものに、ギールケのゲノッセンシャフト論がある。ギールケは歴史法学派の掉尾をかざった法学者であるが、彼は一般的な団体理論に基づいて当時の社会運動を進化論的(エヴォルティオン)に解明しようとした。このゲノッセンシャフトは、従来の「国家と社会」の二元論のシェーマではなく、「支配と共同体」(Herrschaft und Genossenschaft)の図式を人々に提示した。(p.295)


ウェーバーのいわゆる『経済と社会』の中に、よくゲノッセンシャフトという概念が登場してくるが、ある意味、こうしたウェーバーの一つ上の世代(ギールケは1841年生)の議論を前提にしたものだったことを踏まえて読むことができれば、より深く読むことができるように思われる。



 フランス啓蒙からの離脱現象が、大衆民主主義状況の中で、労働者をも包含できる近代人の主体を前提にした、新しい個人主義、市民的自由の確立を求める思想家群から起こっていることは、ドイツの思想界の変動の兆候である。フランス啓蒙家のルソーの社会契約論、モンテスキュウの三権分立論、さらにフランス人権宣言などのフランス革命の遺産から脱出する運動は、自由と民主主義の人類史の金字塔であるフランス革命の遺産を破壊したり、それとの断絶を意図するのでなく、その現代的意義の組替えを求めるために、それらの淵源を他に遡らす、いわゆる「起源論争」という形態をとったのである。(p.308)


2つ前の引用文と関係する箇所。大衆民主主義という政治状況とナショナリズムとは結びつきがあることを一言添えておきたい。



 かくて、現在ウェーバー像をめぐって、神々の闘争に似た多面的解釈を許しているのは、多少とも彼の思想を社会的脈絡の中で診断することの少なかったことが帰因していると思われる。(p.343)


本書は1978年に出た本だが、これから20年経過した90年代末(例えば、山之内靖)や40年経過した現在においても「新しいウェーバー像」が出されるが、ウェーバー像を示すには本書の言うように社会的脈絡を十分に捉えることが欠かせないように思われる。


上山安敏 『ウェーバーとその社会』(その2)

 ウェーバーの「価値自由」が価値からの離脱ではなく、逆に価値への接近の学問的表現であることがよくいわれる。ウェーバーほど政治への強烈な関心を持ち続けた人は稀である。だがこの政治的志向の高まりも同世代人の意識状況と関連している。それは簡単にいえば、シュモラーらの講談社会主義の段階が前の時代のリベラル=マンチェスター派の政治闘争に対して非政治的な経済政策で克服しようとしたのに対して、ウェーバーらの世代は大衆民主主義状況の中で再び政治的教授として登場したことである。
 ドイツの19世紀のアカデミズムと大学教授の政治行動には次のような潮流の変化がある。三月革命の挫折後の1860年代には、革命の余震もあって、1862年以来の憲法闘争に見られるように、大学教授は多く進歩党に所属してビスマルクの軍拡政策に抵抗した。その過程で「法治国家」論なり「人権」論なりを学問的成果として共通の財産にすることができた。したがって大学教授の有力者は殆んど議会に進出し、講壇と議事堂とを往復した。トライチュケ、テオドール・モムゼン、ルドルフ・フィルヒョーやグナイストといった人々は学者と議会人と同一人格において矛盾なく行動し得た。聴衆は学生と民衆の違いだけである。それは当然大学の講壇におけるデマゴギー(民衆扇動)を可能にした。ウェーバーが不快と魅力のコンプレックスの中に聴講したトライチュケはデマゴーグであった。
 ところがシュモラーらの講壇社会主義の時代になると、帝国創設期の政治状況の下で、学者層の政治志向がぐっと変ってくる。1860年代の自由主義政党の後退(進歩党の分裂と国民自由党の体制化)とそれに代る利益団体を基礎にした大衆政党の抬頭によって、ずっと名望家支配にのっかっていた教授達は、かつての政治的関心を失ない、大学人の政治への非参加が美徳とされたのである。(p.88)


ドイツが統一されたのは1871年であるが、それを控えた激動の時代には大学教授達も知識人として積極的に政治に参加する必要に迫られていたのに対し、体制がある程度安定してくると講談社会主義者のように政治的教授である必要はなくなった。しかし、講談社会主義者たちは政治家にはなっていないが、政治と無関係だったわけではなく、ウェーバーはその欺瞞に対して批判していくことになる(次の引用文参照)。このような感じだろうか。ドイツの学問と政治の状況を踏まえるとウェーバーの言動も一つ一つ時代を映し出す鏡となっていることがわかり、より興味深いものと感じられる。



イギリスの議会のように立法調査機能をもたなかったドイツでは、とくにウィルヘルム体制に入り、政府と社会政策学会との関係は、一種の政府の立法下請機関的要素をもっていたのである。そうした点でイギリスのフェビアン協会のように労働党という新党の結成への母胎になるような政治団体と対照的であったといわなければならない。こうしたシュモラー的客観性を装った社会政策学会がえせ中立的な官僚制と密着した体質をもっていることを、新しい政治意識をもった世代は嗅ぎとったのだ。(p.90)


社会政策学会の位置づけについて、ウェーバー関係の解説書などを見てもあまり的確に説明されることがなかったが、この叙述はそれらとは異なり非常に参考になった。ウェーバー自身が行った農業労働調査なども確かに立法調査的な志向と明らかに結びついている。



 とくにプットカーマー内相(1881~1888)は、保守的でない書記官の行政官庁への流入をすべて阻止した。リベラルな官僚層がプロイセンで急速に消失していったのはこの時期である。(p.132)


これはひどい。現代日本でも安倍政権によって内閣人事局が設置されて以降、官僚の上層部は同じような状況になっているのではないかというのが私の見立てであり、これがもたらす悪影響は計り知れないものであり、他人事ではない。こうした制度的なものであり、極端な動きが見えにくい部分は報道でもあまり注目されることがなく、一般の人びとにはあまり関心がもたれないが故に、その危険性はさらに高まる。



 私講師法の背景を分析していくと、それを実質的に推進させたのは、実は文部官僚よりも議会での自由保守党と国民自由党グループであることが分る。さらに財界が強力にその後押しをしていた。これがザールの大工業家シュトゥム男爵のグループなのである。ビスマルク時代、講壇社会主義は政府とともにその与党であった国民自由党、自由保守党両党に対して対立関係にはなかった。大学教授の多くはこの両党に所属していた。だがウィルヘルム体制に入り、社会主義者弾圧法が画餅に帰し、社会民主党が次第に帝国議会に進出し始めて(1890年に35議席、93年に44議席)から、資本家側は、「ドイツ工業家中央連合」を中心にして反社会主義の運動を自ら担い、皇帝カマリラとともに社会主義の抑圧に狂奔するに至った。彼らは、1894年にいわゆる「転覆法案」を用意し、その失敗後の1897年「小社会主義法」を、98年、99年には帝国議会でいわゆる「懲役法案」を強行しようと試みた。これらの反社会主義法案を契機にして、シュトゥム王国(1896~1901年)と、講壇社会主義との闘争が開始されることになる。(p.156)


私講師法とは、1898年に成立した法律で、それまで(教授とは異なり)国家の官吏ではなかった私講師を国家の官吏として位置づけることによって文部省が任免の権限などを持つようにしたものであり、それまでは大学の学部に属しており、学部の内部で後進の養成をしていたところに政府が介入できるようにしたものであった。このことの問題については、前のエントリーの2つ目の引用文についてのコメントでも触れた。

財界による反社会主義の運動については、もっと詳しく知っておいた方がよいように思う。ある意味では、今も財界の行動の傾向に変わりはないのだから。



 この講壇社会主義者シュモラーやウァーグナーらと、若い世代のウェーバー、テニエス、ゾンバルトらと、シュトゥム王国との間には三極構造がみられる。三者は相互に対敵関係にあった。しかしこの1896・7年段階では、まだ若い社会政策学会のグループと旧い講壇社会主義者とは一体性があり、対シュトゥム闘争において共同的立場にあった。しかし1900年以降、学者でなく、財界人であり、議会人であったシュトゥムの攻撃が終り、代ってドイツ工業家連合が彼らの利益代弁者の学者を大学に進出させ全面的に講壇社会主義に攻撃をし向けるに至って、この三極構造は微妙な変化を伴ってくる。社会政策学会の内部で価値判断論争が本格化したとき、資本家の代弁グループは、ウェーバーの唾棄し、酷評した「にせ価値自由」論者として、この世代間論争としての価値判断論争に積極的に介入したのである。この間に資本家の側の発言力が増大し、ブレンターノを含めて講壇社会主義が衰退していく中で、ウェーバーは両者に対して論争を挑んでいったのである。(p.159)


ウェーバーの価値自由の議論がどのような状況で出されたものだったのかが非常によくわかる。看過できないのは財界が代弁者を大学教授として大量に大学に送り込むことが出来ていたドイツの大学制度である。政府を仲介として財界が影響力を持てるようになっていたことがわかる。現代日本でも特に国立大学の法人化以後、大学の独立性や自治が急速に失われて行っているように見えるのが憂慮される



上山安敏 『ウェーバーとその社会』(その1)

 大学の拡大は大学の団体としての独立性に微妙な影響を与えた。学生聴講生の数の増大によって国家の負担する費用が増加すればするほど大学の物的施設が整備拡充され、それに伴って国家権力の大学に対する影響も財政・人事の国家による把握と管理権の強化となってあらわれる。しかも権力の側の大学の官僚制化への社会的基礎は前述のように十分にでき上っていた。そこに立ち現われたのは、ドイツの大学史上有名な「アルトホフ体制」であった。(p.22)


アルトホフ体制にもそこに至るまでの前史があったことがわかる。大学の数的な規模の拡大が、政府からの費用負担の必要性を高め、政府からの財源に依存すればするほど(もともと「組合」というような意味を持つ)大学の団体としての独立性が侵食されていったというプロセスがあり、その基礎の上だったからこそ、アルトホフ体制が可能となっていたわけだ。



その上アルトホフのやり方の最も特徴的なものは、特定の大学でなく、一般的大学目的の使用と結びついて政府が自由に処分しうる額を大量に用意したことである。その額は彼の在職中三倍になった。しかも重要なことは、その費用の中に優秀な私講師の招聘と保持並びに講義担当の委任という名目が入っていたのだ。(p.23)


私講師の招聘や保持、さらには担当する抗議まで政府が介入できるという体制には驚くほかない。戦前のドイツの大学の大きな問題点だと、私が思うのは、大学が事実上、政府の官僚組織の一部になってしまっており、大学の自治がなかった点にあると考える。どこの大学の教師を誰にするのかということまで政府の側に握られており、さらに次の世代の教授の卵である私講師までも政府が決められるというのであれば、政府に対して批判的な教師が大学で教える可能性は狭められる。批判の度合いが強ければ強いほど忌避されることとなり、結果的に政府の利益にとって都合の良い立場の人間たちが知識人としての重要な地位を独占していくことになる。ワイマール体制というものがありながら、容易にナチスの台頭を許したことの背景の一つとして、こうした大学制度に基づく、代表的知識人の右傾化・保守化傾向というものが当時のドイツの一般の言論空間に影響を与えていたことが遠因の一つになったのではないか、と思われる。

ある意味、当時の日本の「帝国大学」のシステムにも通じる部分があったのではないか。



 ウェーバーは大戦前にドイツの大学に少なからぬ点でアメリカ化が進行していることを認めるが、1900年以降大学は帝国主義段階に入って新たな再編成の時機を迎えていた。化学を筆頭にした自然科学、心理学を花形にした社会科学の研究分野では研究システムの革命が徐々に進行しており、それにともなって研究者集団の官僚制化と研究者の手段からの疎外状況が深刻な問題をはらんでいた。この研究体制は、産業化が飛躍的に進んだ段階において、財団方式=アメリカ化の問題につき当たらなければならなかったのだ。ドイツのように殆んど全面的に国家に財政を依存していた大学体制は、従来と異なって財界を含めた私的基金による財団大学と財団研究所の設立のラッシュでその様相を変えていった。財団による大学への寄金は、たんに大学の枠を超えて文部省の教育政策を匡正しかねない、深刻な政治問題に転化していったのだ。しかもこの研究体制の変化に、実はシュモラーらの講談社会主義者とウェーバーらの若い世代の間に体制原理の選択をめぐる対立があって、これが価値判断論争に流れ込んでいる。「価値自由」の草稿を生んだ価値判断討議の中に「一般的方法論的原則と大学教育の使命」がとりあげられたのもそうした意味をもっている。(p.62)


当時のドイツの「政府がコントロールできる大学」に対して、私的な資本が財団大学や財団研究所という形で「政府がコントロールできない研究機関」が設立され、競争関係に立つことになり、政府の側は懸念を強めたわけだ。