アヴェスターにはこう書いている?
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渡辺悌之助 『小樽運河史』

 運河はこの場合、これらの艀船を収容する波静かな溜り場であったが、また海陸運輸の通路として既存の倉庫はもとより新らたに埋立地に建つ倉庫や上屋を極度に利用すると共に従来の繋舟岸を三倍にして、荷役の能率をいちゞるしく高めた。
 然も埋立地を造成するに当って、海底の土砂を浚渫してこれに充てたから水深を増すに一挙両得であり、また工事に当っても常に運河と航路の水面を保ちつゝ一区より順次に施行したことは、倉庫・荷役の工事中に蒙る障害を軽減するものとして運河式埋立の利点とされた。(p.98)


「従来の繋舟岸を三倍」にするとは、本来の陸地にある岸、運河の陸側、運河の海側と3つの岸ができるため三倍の艀を留めることができるということだろうか。

海底の土砂を浚渫して海側に埋立地を造成したので、水深を増すというメリットもあったという。大型の船が停泊できるかどうかという点(そのための一つの要素として水深が十分かどうかという問題)は、北海道の西側の海岸を見る限りではかなり重要な問題であったと思われる。

さらに、運河と航路の水面を保ちつつ一区から四区へと順次に施行したため、工事中でも利用可能な岸が常にある状態だったため効率をあまり下げずに工事が出来たという指摘も興味深い。本書を読んで最も参考になったことの一つは、こうした一区(現在の北運河の端の部分)から四区(現在の浅草橋より札幌側の今ではほとんど埋め立てられた部分)まで順次施行されたという経過が認識できたことである。それぞれの地区に残っている倉庫や歴史的建造物の古さなどもこうした工事時期と関連している。



設計の変更五度び18年の長きに及び、工事施工に着手して更に10年、合せて28年の長年月を要した運河の出現は、遅きに失して、世界の趨勢から置き去られたのである。(p.118)


小樽運河が竣工後まもなく時代遅れのものとなったのは確かである。しばしば言われる運河方式を推奨した廣井勇の判断は、ある意味では誤っていたのではないかと私は考えている。(すなわち、彼は物流のための手段として埠頭より運河が望ましいと考えたのだろうが、埠頭方式にした方が明らかにその後の流れに適合的である。)

ただ、戦後を含めた現在までの経過から見ると、当時は思いもよらないような形で観光資源となっており、そうした町の資産を大切にしていこうとする立場から見ると、廣井という権威が推奨したものだということを肯定的に評価しようという気になることは理解できる。



 商船が入港し繋留する対岸の陸地に、貨物を収受し出荷する倉庫の必要になることは当然であるが、小樽の場合、明治14年の金曇町大火を境に町勢が西に移動したゝめ従来、勝納有幌沖に懸っていた船舶が入船川を越えた以西の手宮湾に集中するようになり、この方面に営業倉庫の群落を見るに至った。(p.123)


なるほど。



右近倉庫-図51に就いては、大正7年運河工事進捗中に動議が出て、既に埋立の了った右近倉庫前を再び掘り返えして運河にするという案が出て揉めたことは、第三章一の(三)に述べた通りである。(p.174)


小樽運河の設計と施工の間の議論のグダグダぶりは確かにかなりひどいものがある。



 仲川以南いまのトンボハイヤーの在る辺りは、もと日本郵船発祥の地として此処に船入場があり、郵船橋が架かり、周囲に郵船の荷捌倉庫(40より41にいたる11棟)が密集した処である。(p.175)


郵船の倉庫が密集というのは、この会社の当時の小樽でのプレゼンスの大きさが反映しているように思われる。



日本郵船の船入場がいつ出きたのか不明であるが、明治27年実測小樽港図7には既に見えており、おそらくは小樽支店の設置(明治18年)と共に造られたものと思われる。
 またその閉鎖埋立に就いては、市の港湾部にのこる記録として、昭和31年7月1日から18日まで、郵船澗の面積2,100平方メートルに渉って工事ひ31万7千余円で浚渫工事を行っていることから、埋立は博物館の開館(昭和31年6月)以後である。
 因みに博物館の建物である旧日本郵船小樽支店(国指定文化財)は、明治38年11月この船入澗に面して再築されたものである。(p.176-177)


現在、この船入澗は埋め立てられて運河公園として整備されているが、いつできたか不明だと言われると妙に知りたくなる。本書は今から40年近く前に書かれた本(1979年)であるため、恐らく現在は建築年代くらいは分かっているのだろう。調べてみたい。



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藤田文子 『北海道を開拓したアメリカ人』

 外国人の雇用にあたって、黒田はとくに「風土適当ノ国ヨリ開拓ニ長ズル者ヲ雇ヒ」いれることの重要性を強調した。その点で、日本人のイメージのなかにあるアメリカは、まさにぴったりの国だった。アメリカには北海道と似た風土をもつ地域があり、未開地開拓の経験も豊富であることを知っていた。また当時のアメリカが、南北戦争後の南部再建や国内開発に専念し、他国――とりわけロシア――との関係に巻きこまれていないことも、開拓だけでなく防衛にも大きな関心をもっていた開拓使にとっては、好都合だった。(p.23)


なるほど。前段の理由はいろいろなところで述べられているが、実際には後段の理由を前提として成り立っていたように思われる。



 ケプロンの一行が日本の発展に多くの貢献をすることは当然とみなされた。しかし、それにもまして新聞が強調したのは、日本との貿易が増大し、アメリカの産業が活発になることへの期待だった。……(中略)……。
 アメリカ人専門家を雇うにあたって、日本側の期待は、北海道の開拓に必要な知識・技術をもつ人材をえたいという具体的なものだった。これにたいして、アメリカ人の反応は多分にロマンティックで、文明の先進国として後進国を指導するという役割を甘美なものとして受けとめた。(p.26)


お雇い外国人を雇ったことについて、日本側でどのような影響があったか(何がもたらされたか)といったことはしばしば語られるが、人材を日本に送る側の社会でどのように受けとめられていたかといったことはあまり語られない。開拓使にアメリカ人お雇い外国人が雇われる際のアメリカ側の反応として、経済活性化という関心があったという点は非常に興味深い。

実際に、お雇い外国人が北海道に来た後、アメリカからいろいろなものを購入しているからである。蒸気機関車(義経号、弁慶号、しづか号など)、農具、牛などまでいろいろなものを購入している。その意味では、多少はアメリカの産業に貢献した面はあったのではないか。派遣した人数の割には日本にそれなりに多くのものを売ることができたとは言えそうである。



 正義感の強いライマンにとってとくに我慢できなかったのは、一部の個人を優遇する開拓使の政策だった。開拓使は、北海道に商人を誘致するために低利の融資を提供していた。……(中略)……。
 漁場の賃貸制度も自由競争とは相いれなかった。実質的な独占権を手にする少数の網元はまるで「大名」のようだった。たしかに彼らは、自分をたよりとする漁師やその家族のめんどうをよくみてはいるが、特権をもつ者と依存する者との関係にはかならず「抑圧」の要素がふくまれるし、個人の自発性も育たないと、ライマンは指摘した。また、網元たちが低利の融資をえていることも問題だった。(p.89-90)


ライマンは本書によるとかなりリベラルな思想を持っていたようであるという点が興味深いが、開拓使が一部の個人を優遇する政策をとっていたという点はよく理解する必要がある。



 ダンはウィリアム・スミス・クラークが教頭である札幌農学校にも批判的だった。クラークが「有能な優れた指導者であり組織者」であることも、「知的にも道徳的にもすぐれた」学生たちを集めたこともダンは認めたが、マサチューセッツ農科大学をモデルとする学校が北海道の開拓に役立つとは思えなかったのである。ダンは、農閑期の冬のあいだだけ机にむかう小規模な農業専門学校で十分だと思った。しかし日本人は高等教育機関には敬意をはらうが、実践的な地味な学校には関心をもたないだろうとダンは思った。案の定、予算不足をなげくダンの目の前で、巨額な資金に支えられた札幌農学校が誕生し、クラークは「日本全体、そしてとくに北海道の恩人としてたたえられた」のであった。(p.128)


エドウィン・ダンのこの見解は現在から見ると、評価がなかなか難しいところがある。当時の短期的な農業事情を考えると、確かにダンの言うような専門学校で足りたかも知れない。ただ、札幌農学校がアメリカのカレッジを模倣して高度な教育を行ったことは、中期的に見ると、その後の北海道におけるリーダー育成や道外からのリーダーとなりうる優れた人材を集めるという点では効果があったと思われる。廣井勇による北海道の港湾の設計や新渡戸稲造による遠友夜学校やスミス女学校をはじめとする教育への貢献などがすぐに想起される。もう少し長期に見ると、札幌農学校がある程度高度なレベルの学校として基礎が与えられていたが故に北海道帝国大学が発足できる可能性を高めることができたとも言える。

ただ、札幌農学校が開拓使の時代にかなり優遇された立場にあったということも事実のようであり、それはお雇い外国人の過ごしやすさにも影響を及ぼしており、農学校教師のブルックスが開拓使が雇った外国人の中でも最長の滞在年数だったことにもそれが表れている。



 たしかにクラークは、開拓使に雇われた他の外国人とくらべると、大幅な自由をあたえられたが、それでも完全に自由だったわけではない。しかし妥協が必要なとき、クラークはそれに応じる柔軟性を示した。(p.155)


柔軟性があったという点はクラークが現在にまで語り継がれるほど「成功」した要因の一つだと思われる。本書で取り上げられているかなりの数のお雇い外国人は、ある意味、現在の常識的な基準から見ると傲慢過ぎたり自己中心的過ぎて問題(開拓使や他のお雇い外国人たちとの軋轢)を起こしていたという面が否定できない。クラークにはそうした軋轢が相対的に少なく、周囲との関係がこじれていなかったことは、それだけ多くの人から慕われることができたことの背景となっていたと言える。



 ペンハローとブルックスが札幌農学校の仕事に満足した理由のひとつは、アメリカで土木技師として活躍することに執着があったホイーラーとはちがって、日本に来ることが仕事をえる機会だったということである。(p.173)


母国に帰国した後の栄達のための手段として日本での経験を位置づけていたお雇い外国人は日本での経験に対する評価が否定的な傾向があったようである。これでは日本での活動が単なる手段であることになるため、そこに充実感を感じる余地は少ないのも無理はないだろう。



開拓使時代の経営費総額は二千万円をこえ、同じ時期の内務省と工部省の歳出総額二千六百万円に迫るものであったにもかかわらず、開拓使が廃止されたとき、北海道の大半が依然として未開のままだった。(p.193)


開拓使の予算規模がいかに大きかったかが分かり興味深い。開拓使以後の時代の北海道は、公的支出を抑えて民間主導を方針として運営されていく。



しかも、この「札幌新道」は、経由地点の室蘭がまだ港として整備されていなかったことや、良質の石が手に入らないために補修が困難だったことからあまり使われず、鉄道が開通するまでは、小樽から石狩川を通って札幌にいたるルートが主に使われた。(p.197)


せっかくかなりの予算を使って道路ができたのに使われなかったとは。しかし、中長期のスパンで考えると札幌新道は結果的に無駄ではなかったとは言えるだろう。この道路と作ることに対する評価は難しい。


草原克豪 『近代日本の世界体験 新渡戸稲造の志と拓殖の精神』

 なお、台湾協会学校と並んでこれまたユニークな学校としては、1901(明治34)年に上海に設立された東亜同文書院がある。こちらは主として中国語・中国文化を学ぶための学校で、1939(昭和14)年には大学に昇格したが、日本の敗戦とともに廃止され、愛知大学に受け継がれることになった。かつての施設は現在は上海交通大学として使われている。(p.45-46)


帝国主義や植民地主義を実施しようとする社会においては、自国の影響下に置きたい地域についての関心が高まることが反映していると思われる。戦前のかなりの長期間にわたり仮想的国であったロシアなどについてももっと学んでよかったのではないかと思われる。



 この頃には、日韓併合が実施されたこともあって、卒業生の就職先では朝鮮が一番多くなった。朝鮮においては貧しい農村の窮状を救うための金融組織として1907(明治40)年に朝鮮金融組合が設立されたが、その第一期理事30名の全員が東洋協会専門学校の出身者であった。
 ……(中略)……。
 こうしてみると、卒業生の三分の二近くが外地で活躍しており、そのほとんどが朝鮮、台湾、満蒙、中国を舞台に活躍していたことになる。
 ……(中略)……。
 このように外地で活躍する人材を育てることが拓殖大学の建学当初からの目的であり、その目的を達成するための組織的な教育が行われていたところに、拓殖大学の伝統と特色を見ることができる。(p.68-70)


東洋協会専門学校は拓殖大学の前身となった学校である。もともと台湾協会学校として台湾統治のための人材育成のための学校であったが、この目的は日本の領土や海外利権の拡大によって拡張され、この学校の場合はかなり直接的に人材供給を行ってきたことが分かる。

北海道という植民地支配のための人材を育成することを目的として設立された札幌農学校(北海道帝国大学)の卒業生を見ても、外地で活躍した者がそれなりの数いたことがしばしば指摘されるが、こちらの場合は主に技術者や技官としての活躍(理系的)が多いように見受けられるのに対し、拓殖大学の前身の場合はここで例示されているものも金融であり、どちらかというと文系的な職で活躍した人が多かったのだろうか?



 学長に就任した当時の後藤は、日露協会副会頭として日露親善の推進に力を入れていた。翌1920(大正9)年には会頭に就任し、日露の親善を実現するためにはまずロシア語の習得が必要と考えて、ハルピンに日露協会学校(のちのハルピン学院)を創設したりしている。(p.79)


後藤新平の活動は多方面にわたっており感心する。



 拓殖大学の学長に就任した後藤新平は、前年に大学令が公布されたことを踏まえて、拓殖大学を大学令に基づく大学に昇格させることを決意した。……(中略)……。
 大学に昇格するためには、教育研究内容の充実をはじめとして種々の準備が必要であった。なかでも重要かつもっとも困難な課題は、50万円という文部省への供託金をどうやって調達するかであった。図書館の建設も認可条件のひとつとなっていたが、そちらのほうは卒業生の浄財を集めてようやく完成させることができた。その建築費が約4万5千円であったことを考えると、当時の50万円がいかに巨額なものであったかが理解できよう。このほかにも本館校舎や付属設備、運動場などの建設に25万円ほどの資金が必要とされたが、こうした資金のほとんどが後藤学長の名声と並々ならぬ努力によって台湾の製糖会社からの寄付金によってまかなわれたのである。(p.80-81)


後藤新平の働きかけなどもあって台湾の製糖会社から多額の寄付が得られたという点は興味深い。当時の台湾で最も有望な業会だったことも反映している。



 アメリカの排日運動は、日露戦争以前からカリフォルニア州のサンフランシスコで起こっていた。……(中略)……。
 ……(中略)……。パリ講和会議において日本代表が人種差別撤廃を提案した背景にはこうした事情があった。(p.102-104)


日本の人々が欧米から差別を受けている時だからこそ、日本政府は人種差別撤廃を訴えている。問題は、日本側が台湾や朝鮮などを統治するにあたって彼らを差別しないという誓いから出てきているわけではないようだ、ということである。



 大学よりも簡単に設置できる専門学校では、1939(昭和14)年に官立の高等工業学校が室蘭、盛岡、多賀、大阪、宇部、新居浜、久留米に一挙に七校も発足した。同じ年、戦争による医者不足に対処するために、七帝大医学部と官立六医科大(新潟、千葉、金沢、岡山、熊本、長崎)に医学専門部が併設された。……(中略)……。
 文部省は1943(昭和18)年10月の「教育に関する戦時非常措置方策」に基づいて、私学に対しても、文科系の規模縮小、理科系への転換を指示した。(p.188-189)


工学や医学を推進し、文系学部の縮小するという当時の政府の方針が見える。なお、室蘭高等工業学校は戦後に室蘭工業大学の前身の一つとなったが、他の6校も同様に新制の国公立大学の工学部になっている。


蝦名賢造 『札幌農学校 クラークとその弟子達』(その2)

 またスミス女学校の第一期卒業生であった河井道子が、のちに東京世田谷・経堂に恵泉女学園を創設するにあたって、新渡戸はその学園のために積極的に協力したが、それは札幌時代からの河井と新渡戸との深い信頼と尊敬によるものだった。(p.166)


恵泉女学園はスミス女学校(現在の北星学園)の卒業生が創設したとは知らなかった。新渡戸が協力したという点はスミス女学校の設立にも関わっているので理解しやすい。



札幌農学校が明治維新以降の日本の近代化にたいして各分野にわたってはたした功績は広汎であり、また多様だった。とはいえ総じてその役割は、河上徹太郎の言葉を借りると“日本のアウトサイダー”としてであったと思われる。1867(明治9)年に創設された札幌農学校独自の精神は、まず第一に農学校教頭クラーク博士が教育の根本原理として「聖書」にもとづくキリスト教主義のもとに、その文化と教養とを植えつけようとしたことだった。そのことは、わが国においてはまったく最初の画期的な試みだった。
 つぎに、農学校教育と経営にあたる指導者たちは、近代日本の建設に必要なものは単に法律、経済、政治などの社会科学部門だけではなく、理学、自然科学などを修学して産業をおこすことが必要であると説いた。それが農学校教育の眼目となった。このような考え方は、明治初年における青少年の一般的な夢と希望が、いわゆる青雲の志をいだいて東京帝国大学に入学し、主として法制を学び官吏となり、政府部門における権力の座にあって天下国家を論じようとすることであったのにくらべて、まさに正反対の行き方であった(そのような意味においては、あるいはアウトサイダーであったのかもしれない)。(p.182)


最初の段落で述べられているキリスト教主義のもとに文化と教養を植えつけるという点は、現在の北大の理念のうち、全人教育という点に受けつがれている。

但し、キリスト教的な教育が可能だったのは当時の北海道が東京から遠く隔たっており、細部までの統制ができなかったことや黒田清隆がワンマンでかなりのことを決めることができたという開拓使の権力の配分などの様々な偶然的な要素が重なっていたために辛うじて成立することができたものであり、クラークの希望がたまたま実現できたという偶然的な要素が強かった点は押さえておきたい。

後半の理学や自然科学を重視するという点も現在の北大の「実学の重視」という理念として継続性が認められる。但し、この点は北大だけの特徴とは言えず、むしろ日本の大学の全般的な特徴とでも言えるものであって、明治維新以後に語られてきた「和魂洋才」や「富国強兵」といった標語が広く受け入れられていたような事情が反映しているものだろう。その点で本書が東大が法律を学んで官吏となる学校であり、それが主流であるかのように対比しているのは、やや行き過ぎているように思われる。ただ、札幌農学校から北海道大学に至る歴史の経過を振り返ると、少なくとも東大との比較で言えば、やはりアウトサイダーとしての貢献をしてきたという特徴づけは的を射ている面があると思う。植民地開拓のための学校としてスタートしていることが、アウトサイダー的な特性の要因となっていると思われる。



新妻タケ子は群馬県安中に生まれ、新島襄から洗礼を受けて京都の同志社女学校に学んだ才媛であった。
 しかしふたりの結婚はわずか八カ月で破れた。(p.188)


内村鑑三と同志社、新島襄との関係はやはりそれなりに深いというか太いパイプがあるように見受けられる。結婚が短期間しか続かなかったのは、内村鑑三という人物の「円満な人格」とは言えない側面(人との関係が丸く収められないところがある)が関係しているのではないかという気がする。



しかし内村らを中心に反戦論がこのように公然と戦われたことは、明治以降の歴史において最初にして最後の事件であった。(p.201)


日露戦争に対して内村が反戦論を主張したことについて。明治末期にはまだ昭和初期ほどには検閲なども厳しくなく、言論の自由度も相対的に高かったということを理解しておくことは重要。なぜならば、言論の自由を侵害するに当たり、行政や警察等における組織の運用や治安維持法のような法律の存在が果たす役割の大きさに注目することになるからである。現在国会で審議されている共謀罪(テロ等準備罪という実態とは異なるレッテルを貼られている)の議論においても、こうした歴史の教訓を踏まえて議論されなければならない。残念ながら政府はまともに議論せずに採決したいと考えているようだが。



 新渡戸はボン大学で農政学、農業経済学を専攻した。さらにベルリン大学でシュモレル教授について農業史を、マイチェン教授について統計学を学んだ。(p.216)


シュモレルはシュモラーであり歴史学派の重鎮だが、マイチェンは恐らくマイツェン(Friedrich Ernst August Meitzen)であろう。彼はウェーバーが教授資格請求論文を出した先生である。新渡戸とウェーバーが意外と近い時期に似たようなコースで勉強していたという点はやはり興味深い。



そしてこれらのうち農業経済学のセミナーを“演習”と呼ぶようになったのは、新渡戸の発案によるものであった。(p.219)


確かに、大学時代の演習というのはゼミナール形式の講義のことだったが、このネーミングが新渡戸稲造にまで遡るとは当時は思いもよらなかった。



後藤がかくも熱心に新渡戸に固執したのは、東京帝国大学教授田尻稲次郎に「台湾統治の要諦は財政の独立にある。それには産業の発展が必要である。だれかもっとも適当な指導者はいないか」と相談したところ、一言の下に新渡戸がよかろうとの返事がかえってきたからであった。新渡戸は東京帝国大学で田尻から財政学、経済学を学んでいた。(p.220)


新渡戸は確かに東京帝国大学で一時学んだが、新渡戸の人生にとってはここで学んだことはあまり有意義ではないことが多かったとされる。しかし、人間関係のつながりという点では、東京帝大で一時であれ学んだことはそれなりの意味があったと言える。興味深い。



 さらに彼は糖業のみにとどまらず農事試験場をせ設立し、農産業全般の発展をも企図している。その初代の場長は、札幌農学校の教え子である大島金太郎教授が選ばれた。それ以後札幌農学校出身者にして台湾に渡り、糖政に、あるいは農業行政に従事するものが多くなっていった。こうして当時の新領土・台湾のなかに、新渡戸一流の文化的精神が注入されたのであった。(p.222)


札幌農学校の卒業生が植民地であった台湾に多くわたっていたが、このことも新渡戸が台湾総督府で働いたことがそれなりの影響を及ぼしているということか。こうした人脈を相互の関係にまで着目して追跡すると面白いだろう。とはいえ、こうした調査は研究者でなければなかなかできそうにないので、誰か調べて本にしてほしい。



 この暗闇の時代を支配する軍国主義とファシズムの勢力に、クラークの残した「ボーイズ・ビー・アンビシャス」というスローガンは、むしろ利用されはじめていた。事実、1931年以降、日本のかいらい政権として成立した満州国建設に、北大の卒業生のなかから積極的に参加するものが数多くあらわれてきたのである。(p.263)


スローガンが利用されたから卒業生が満州国に行ったわけではないだろう。この点、上記の文は誤解しやすい書き方になっているので注意が必要だろう。北海道という植民地開拓のための学校からは、台湾、朝鮮、満州と次々と植民地(的なもの)が増えると、それぞれに適任者として卒業生が送りこまれることになったと理解すべきだろう。そのような「活躍」をさせる際にスローガンが利用されたことはあり得るが、具体的にどのように利用されたのかは本書にはきちんと書いてほしかった。




蝦名賢造 『札幌農学校 クラークとその弟子達』(その1)

 そのような状況のもとで、黒田次官は北海道の開拓を促進する大方針をたてたが、そのなかで北海道と気候風土の酷似した国々から開拓技術者を雇い入れて計画をたてさせ、その見識と技術とによって開拓を進めようという意見をのべ、明治新政府によって採用されることになった。……(中略)……。黒田次官はそれらの考え方を再検討し採用したのであるが、彼がその後も北海道開拓長官として、長期間にわたる権力の座についていたことは、これらの諸政策の実施の上においてきわめて重要な役割をはたしたのである。(p.16)


北海道開拓の初動の段階で黒田清隆が長期間権力を維持しできたことは、その後の開拓を進めるにあたって大きな意味を持ったという点はなるほどと思わされた。



またこの八月、開拓使の予算が十カ年一千万円と定められ、開拓使は十年計画として資金計画を認められている。このことは、北海道開拓政策上画期的なことであった。それはケプロンの理想を具体化させる大きな原動力となったのである。(p.17)


黒田が長期間権力の座についたことと合わせて、開拓使の予算も長期的に大きな金額が認められたことがわかる。(もっともこの予算は確か後に削られたはずだが。)



ところが札幌農学校の場合、東京大学の場合と異なってクラーク自身そのお雇い教師たちの詮衡の責任と権限を与えられ、彼が学長をしていたマサチューセッツ農科大学の出身者のなかからすぐれた人材を選ぶことに成功したことが、その後の札幌農学校の運営にたいして決定的に重要な意味を与えることになった。
 すなわち、クラークが北海道開拓史とかわした一年間の契約によりその教頭の職を辞して札幌を去るようになったとしても、クラークのうちたてた教育の理念、教育の理想はその後継者たちに受けつがれ、マサチューセッツ農科大学で実施されていた教育課程がその後ひきつづき札幌農学校において実施されてゆくという教育体制がとられることになったのである。(p.62)


興味深い見解。ただし、クラークが去ってから大学のカレッジのような一般教養教育は次第に後退していったという歴史的事実から見ると、この見解の通りに歴史が辿ったわけではない

しかし、マサチューセッツ農科大学という明確なモデルがあったことには、クラークが去った後も急に方向性を変えられてしまうようなことを防ぐような効果はあったかもしれない。特に10年以上札幌農学校の教師を務めたブルックスがいた期間などには、そのようなことを示すような事件もあったのではないかと想像する。この点はさらに詳しく調べる必要がある。



そして1884年の第四期卒業生からは就職上の拘束が解かれたので、卒業生はそれぞれ自由に各方面に職場を求めていった。このことは農学校設立当初の目的から大きく後退したともいえるが、そのような札幌農学校の後退が、実は、逆に札幌農学校の「子」たちを道内のみならず全国的に雄飛させてゆく機会を提供することになったのであった。(p.74-75)


就職上の拘束とは卒業生は卒業後の一定期間、開拓使に奉職しなければならないという規定を指す。この拘束がなくなった方が、むしろ農学校の卒業生が幅広く活躍する機会へと繋がったという見方は面白い。



 しかしときあたかも日本の教育の近代化が文部大臣森有礼を中心に進められ、全国的に中等学校勃興の機運に際会していた。……(中略)……。そうした動きのなかで、農学校出身者は英語、英文学などのすぐれた教育を受け、また博物学、ことに植物学に長じていたので、全国の農学校はもとより新設の中学校、師範学校における教師の適任者として大いに歓迎されることになった。
 このような関係から、農学校の卒業生で北海道の拓殖関係の職場に奉職できなかった者は、積極的に内地各府県の中等教育界にとびこむようになった。さらにそこで職場がえられない場合には、遠く台湾、そしてのちには朝鮮、満州方面、さらには南米諸国にまで雄飛していった。(p.105)


中等教育勃興の機運が高まったとされているのは明治10年代後半ころのこと。開拓使への就職が義務から外れたとき、ちょうど中等教育の需要が高まっていたこともあり、札幌農学校の卒業生は中等教育の世界を進路とした。台湾などの植民地にも多くの卒業生を送りこんでいる点は、北海道開拓という植民地開拓のための学校という設立時の目的が時代の変化によりバージョンアップして実現したという面があるように思われる。

卒業生は多方面で活躍していると本書は言い、それは農学に偏らない人間形成主義の教育をしていたことの結果であると本書は述べているが、その指摘には一理あるように思われる。



しかもこのような事実以上に重要なことは――それが本書の主題の重要な側面を形成することになるのだが――昭和の初期にはじまる十五年戦争の暗い谷間と疾風怒濤の時代に、日本の平和と独立をめざして闘った戦士のなかに、実にクラークの弟子たちの感化を受けた札幌農学校の「子」が多くふくまれていたということ、しかも戦後の日本の再建にあたっても、これらクラーク精神の継承者たちがその使命を担っていったということなのである。(p.107-108)


この箇所は本書の隠れたテーマというか著者が本書を書くにあたってのモチーフとして非常に重要な箇所である。本書は1980年に出版されているが、この時代はオイルショックの時期を経て低成長の時代へと変わっていくにつれて新自由主義やネオコン的な保守主義が台頭しつつあった時代である。著者はこうした時代の雰囲気に対して、クラークとその弟子たちを描くことを通して、抵抗しようとしていたようである。



 北海道帝国大学独立の基礎はこうして着実に築かれていったが、その背後には、親友であった一代の政治家原敬などによる積極的な協力があったことも見逃すことができない。(p.111)


佐藤昌介が北大に対して貢献があったことは否定できないとしても、大きな貢献をしたという論が多くある一方で、過大評価してはならないという批判もあり、どの程度が彼の貢献なのかは今一つはっきりしないと思われる。それはさておき、原敬の「積極的な協力」の内容についてももう少し詳しく知りたいところである。



 広井は鉄路課に勤務中、北海道最初の鉄道である小樽-幌内間の工事に従事している。(p.126)


廣井勇と小樽の関係では、小樽築港工事がまず思い浮かぶが、幌内鉄道の建設の頃からかかわりがあったとは面白い。ここではどのような仕事をしたのだろう?



広井はこのようにいわれるまで刻苦して貯えた資金をもとに1883年12月10日、横浜を発って渡米した。この広井の行動が同級生の洋行の刺激となり、翌年9月には新渡戸稲造(23歳)、つづいて11月には内村鑑三(24歳)、さらに1886年には宮部金吾(27歳)の順にアメリカに渡ることになり、おたがいにそれぞれの専門分野の研究にいそしむ結果をひきおこすことになった。このことはまた、のちに日本の学界、思想界、精神界に一時代を画する前ぶれともなったのである。(p.126-127)


同級生同士での切磋琢磨ないし競争意識のようなものがあったという見方は興味深い。新渡戸や内村などを単独で扱う視点では見落とされがちな見方かも知れない。



 広井が土木工学科の主任教授となり、北海道庁土木課長を兼任したとき、彼はまだ弱冠22歳であった。貿易港として発展の途上にあった函館や、道内最盛の商港になった小樽港の築港は、彼の設計と指導によるものだった。広井はその後、日本の主要港湾となった室蘭、釧路などの築港や鉄道敷設に従事し、北海道開拓の基本施設たる鉄道、港湾建設に貢献するところ多大だった。(p.127)


廣井勇が北海道の港湾に残した功績は確かに大きなものがある。鉄道についてもいろいろと仕事をしていたというのは港湾ほどには注目されないのはどうしてだろうか?まずはどのような仕事をしていたのか知りたい。


小菅桂子 『カレーライスの誕生』

 彼は明治3年、16歳のとき、会津藩から選ばれて、国費留学生としてアメリカへわたる。北海道の開拓を司っていた政府機関の開拓使が、北海道と似た環境の、寒さの厳しい東北から十数人の少年を選抜して、アメリカで開拓者精神と開拓技術を学ばせ、開拓に役立たせようという国策に基づくものであった。(p.13)


山川健次郎についての記述。開拓使が少年をアメリカに留学させたというのは、今まで読んだ文献でも何度か目にしていたが、東北から選んでいたというのは今まで気付かなかった。しかし、山川健次郎は帰国しても北海道の開拓には関わったという話は聞かない。そのあたりの経緯ももう少し詳しく知りたい。



ヘイスティングズがイギリスにカレーを紹介したのは1772年であるため、ヘイスティングズが直接「ヴィクトリア女王に献上」したわけではないが、ヘイスティングズが持ち帰ったカレーはやがてイギリスの社会に浸透していったのである。
 その背景にあったものとはイギリスの食文化の貧しさである、と指摘する人もいる。調味料ひとつをとっても、ろくなものがなかった、それが二人に福を呼ぶことになったというのである。
 ウスターソースやケチャップの類がイギリスで生れたのもおなじ理由からで、東南アジアに植民地を築いていたイギリスは、アジアの美味をつぎつぎとイギリスに持ち帰らせ、アレンジしてイギリス人の舌に合わせた味に仕立て上げ愛用するようになった。二人が開発したカレー粉についても、インドのガラムマサラというお手本をもとに作り上げたのではないか、と推測することもできる。(p.52)


なるほど。カレーやウスターソース、ケチャップはもともとは貧しかったイギリスの食文化を背景として、東南アジアとの接触により開発されたというわけか。食文化が貧しくなくても、異なった食材が容易に入手できるようになればこうしたことは起りうると思う(例えば、イタリアにおけるトマトなどが想起される)が、こうした調味料がもたらされた(開発された)ことにより、イギリスの食文化がそれ以前よりも豊かになったことは確かだろう。



 西洋野菜の栽培には北海道が大きく関わっている。しかも開拓使によるところが大きい。(p.72)


日本のカレーにはジャガイモ、ニンジン、玉ねぎという「西洋野菜」が三種の神器として使用されることに関連する記述。カレーというものを追う中で、新たな探求課題に突き当たったと感じる。



 ライスカレーが日本人の食卓に普及し定着した背景には、漬物、それも福神漬との名コンビが大いに存在感を発揮している。
 牛丼のトッピングにショウガが付きものであるように、トンカツには味噌汁と漬物、ご飯がセットになってはじめて日本人の定食として定着した。つまり西洋料理は和洋折衷的なコンビを組めたものが、国民食として市民権を得ているのである。(p.122-123)


確かに、一般の市民の家の食卓に上がるためには、既存のものとの組み合わせは重要になってくる。それ以外の同時に食卓に乗る食べ物との相性にも繋がっていくだろうし。



 明治20、30年ごろは一般家庭で惣菜に西洋料理がならぶことはなかった。「和洋折衷」という言葉は、明治の終わりごろからよく使われるようになってくる。(p.136)


生活水準がある程度上がってくるのが明治30年代以後であることが、30年ごろまでは西洋料理が並ばないこととは関連があると思われる。



豚は明治30(1897)年を過ぎるころまで統計資料もなく、豚は統計以前の存在だったのである。

 豚の需要が伸びるのは明治も30年代後半のことで、その背景には、戦争という事情があった。
 日清、日露の戦争が起こって牛肉の缶詰が軍需食糧として盛んに戦地へ送られるようになると、牛肉の相場は暴騰して、明治37(1904)年には10貫目(約38キロ)14、5円だった牛肉が翌春には25、6円という極端な高値となる。……(中略)……。
 こうして市場に流通する牛肉が減り、値上がりしてくれば、安い豚肉に関心が向き、豚の飼育頭数は急増してくる。……(中略)……。
 以来関東では豚肉が定着して、カレーでいえばビーフカレーよりポークカレーが普及している。また、もしこうした背景がなかったら今日ポークカツレツ、つまりトンカツ、カツ丼、カツカレー人気はなかったとも考えられる。
 これに対し、関西は牛肉の産地を控え関西人をますます牛肉党にしてしまったのではないだろうか。(p.152-153)


関東では豚肉、関西では牛肉を使うことが多いことの歴史的背景。大変興味深い。

横尾壮英 『中世大学都市への旅』(その2)

 フェローがチューターを兼ねるというのは、学生が教師を兼ねるということである。……(中略)……。
 こうしてイギリスの学寮は、学生の教育の場となると同時に、大学教師の養成の場ともなった。ドイツやフランスでは、やがてハビリタティオンやアグレガションといった一種の教員資格試験が大学教師の関門として重要な役割を果たすようになるのだが、そういう動きとはかなり異なって、イギリスでは、学問をする者が学寮で後輩を相手に教育実習をくり返すことによって、教師としての修練を積むという方式ができていった。それは、ベルリン大学の創設時にフンボルトなどが強調した理念とは類を異にする、研究と教育の相即だったといえるかも知れない。
 それにまた、チュートリアルは教師一対学生一の最も小規模な教授形態であるから、大陸部の講義を主とする高等教育とはおよそ対照的な高等教育が、イギリスで展開する要因となったともいえるだろう。(p.84-85)


チューターに報酬が支払われるようになるのは14世紀末頃で、それ以後イギリスの二大学で急速にチューター制が広まったという。後のドイツで発達するゼミナール形式とチューター制には共通点があるように思えるが、学生が教師を務めるという点がチューター制のポイントの一つであるように思われる。



教師は、集まった学生から聴講料をかき集める自由業的な職業から、一定の給与を保証されて、その代わりに講義をする官吏へと転じていくのである。
 ……(中略)……。
 ところで、サラリー制がもたらした最も大事なことの一つは、教師の人事権の移動だろう。もともと学生がもっていた教師の選考権が、新しく金を提供するようになった公的な機関や権力者の手に移っていったのである。……(中略)……。
 このころのサラリーというものは、今と違って格差を当然のこととしていた。……(中略)……。
 ……(中略)……。その結果、大学の教師の間にいわば少数の特権階級と、数多い薄給の教師群とが対立するような構図ができていった。サラリー制は教師の階層化をも生み出したのである。(p.133-139)


教師の収入の変化は、大学の資金を誰が出すかという問題と連動している。学生と教師の組合から都市や王侯や政府の機関へと変わる中で、学生よりもパトロンの方が権力を強めていく流れが見て取れる。



少なくとも13世紀の段階では、イタリアでもフランスでもイギリスでもスペインでも、大学の設立権は都市にあるとみなされていた。
 しかし、そういう常識を破るような男が現われたのも、かなり早いことだった。その男は神聖ローマ皇帝として有名なフリードリヒ二世だ。……(中略)……。そして、大学団と都市が結びついてできる大学、という旧来の形にとらわれずに、人為的あるいは政策的に、自分の町ナポリに大学を作ることにした。
 それは、ボローニャからパドワが分かれてできた二年後の1224年のことだった。
 このフリードリヒ二世のやり方は、それまでの大学作りに一種の地殻変動をもたらした。彼のまねをする者がすぐに現われた。ローマ教皇の手でトゥールーズの大学や、ローマの教皇庁の大学が作られたのはそれから間もないことだった。
 教皇や皇帝といったヨーロッパの支配的な権力者が大学を作るのに、だれも異議を唱えることはできなかった。その結果、都市が大学を作るという方式と、教皇や皇帝が大学を作るという方式が両立することになった。そして、しだいに都市が作る場合にも教皇か皇帝の許可がいる、そのお墨付きがないと具合が悪いというふうに考えられるようになった。大学の設立権と認可権の分化がはじまったのである。(p.229-230)


ここではフリードリヒ二世やローマ教皇といった個人が下した決定が重要なものとして描かれているが、彼らに大学を設置することに意義があると考えさせたのは、どのような社会的な背景があったからだろうか、ということが気になる。

支配の道具としての法律の必要性が高まってきたということだろうか?もしそうなら、法律の必要性が高まったのは何故だろうか?13世紀世界システムが成立したことで経済活動が活性化し、この過程の中で貨幣による取引が増大したことが関係しているのだろうか?



 その先輩格の中世大学としては、ボローニャとパリが代表的な存在で、前者はいわゆる学生大学、後者は教師大学の祖となり、それぞれが、大まかにいうとアルプスの南と北の諸大学に強い影響を及ぼした。また全欧的に、法学部にはボローニャの、神学部にはパリの息がかかった。
 ……(中略)……。
 たとえばヴィーンではハインリヒ・フォン・ランゲンシュタインが、またハイデルベルクではマリジリウス・フォン・インゲンやコンラッド・フォン・ソルタウが、パリ大学方式の運び屋であった。(p.242-243)


中世の大学について知るにあたって、基本となる枠組みを与えてくれている。ハイデルベルクなどドイツ語圏の大学はパリの影響が強いらしい。今まであまりパリ大学には注目したことがなかった。パリとボローニャの大学については、それぞれ掘り下げる価値がありそうだ。



家族の生活が借家でもくりひろげられるように、大学も最初のころはよその軒先や賃借りした建物で活動をつづけていた。だが、時がたつにつれてその傾向はうすれ、自前の施設を手に入れ拡充していった。まず学寮が生活と修学の拠点となり、15、6世紀からは大学としてのいわゆる本館もできるようになる。だから中世大学は、大ざっぱにいって学ぶ者の集団化→学ぶシステムの開発→学ぶ施設の確保という段階を追って、その歴史を展開したといえるだろう。
 しかしそこまでくる、つまりシステムと設備が整うころになると、人もシステムもすべてが安定して動きがにぶくなる。順調な営みに鈍さや硬直性が同居する。
 大学は、本来自由に生まれて自由に消えるものだった。それが教皇や皇帝という権力のお墨付なしには設立できなくなったし、廃止も簡単にはできないような機関となった。……(中略)……。
 こうして大学は、時とともに国境のなかに自己を閉じるようになっていった。(p.253)


初期の頃の大学が自前の施設すら十分に持たないものであり、自由に生まれ自由に消える、まさに自発的な結社であり組合だったという認識は本書から得た収穫だった。現代の大学のありようが、こうした過去の姿と対比することでより明確に浮かび上がると思われる。


横尾壮英 『中世大学都市への旅』(その1)

中世大学は、最初は、土地も建物もない人間だけの大学だった。
 やがて、そういう人間だけの大学、集団としての大学が、しだいに建物を入手する時代が来るのだが、そうした建物をもつ時代になっても、それらの建物がある敷地にまとまった形で存在したわけではない。大学の所有にかかる施設は、町のあちこちに民家と混って散在するだけで、けっして○○通りの○丁目あたりに――しかも塀をめぐらして――集中的に存在するのではなかった。(p.37)


12世紀にヨーロッパの大学が成立した頃は現在とは大きく様相を異にしていることがわかる。土地や建物を持たない「人間だけの集団としての大学」、そして土地や建物を取得するようになっても、まとまったものとして取得したのではなかった。貴族や都市そして「国家」などからの大きな財政的支援が得られる前の状態を知ることで、それ以後との変質の様子が浮かびあがあってくるように思う。



 いわゆるキャンパスというのは、ヨーロッパ起源のことばではない。アメリカの多分プリンストン大学あたりから使われだしたことばである。もともと原っぱや耕地を意味するキャンパスが大学の敷地という用語になったのは、城壁とも都市とも縁遠いアメリカの大学の環境ではじめて可能なことだった。オックスフォードやケンブリッジでさえ、そういうことばは使われなかったのである。(p.38)


なるほど。「原っぱ」が「校地(大学の敷地)」となったアメリカでこそ、キャンパス=校地という用語が誕生し得たわけだ。



 しかし14世紀になると、設立者たちの関心は、神学の助成よりもむしろ法学の助成へと移る。ボニファチウス八世とフィリップ美王の闘争以後に創設された学寮は、多かれ少なかれ世俗権と教皇権の問題、市民法と教会法を学ぶ若者のために奨学金を用意した。パリでいえばナルボンヌやボワシイといった学寮である。信頼のできる法律家や官僚を養成し確保することは、聖俗いずれの体制にとっても大事なことが年とともに強く認識された。恐らくは、今日いうナショナル・ニーズに基づく人材の養成以上にさし迫ったエリート教育の場として、学寮が新しい役割を与えられた。「学部の闘争」でも法学部が神学部に優越するようになったのである。(p.68)


中世の学問では神学が最高位にあった、といったことが(比較的通俗的な)哲学史などでは語られているのを読んだことがあるが、14世紀にはすでに法学の地位が向上していた、すなわち社会からの要求が高まっていた



 しかし、中庭を囲む建物の配置そのものは、どちらかといえば伝統的で、修道院の構造をそのまま踏襲しているように思われる。いや、修道院よりも古い、たとえばポンペイの遺跡に見られる古代ローマの住居や、ウィトルウィウスの説くギリシャの家屋とも、大いに血のつながりがあるように思われる。あるいは、中山茂の指摘するとおり、イスラム圏のマドラサとも切れない縁があるのかもしれない。(p.76-77)


ボローニャのスペイン寮についての叙述より。中庭式の建物配置がマドラサと関係があるかもしれないという指摘は興味深い。この学寮がスペインの若者のための学寮であるだけになおさらそうである。


飯田洋介 『ビスマルク ドイツ帝国を築いた政治外交術』

 1880年代前半は、ドイツ国内において自由主義左派勢力が活気づいた時期でもあった。その背景には、1880年に83歳を迎えた皇帝ヴィルヘルム一世がいつ亡くなってもおかしくない状況があった。皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルムはこのとき49歳、普墺戦争や独仏戦争では一軍を率いて勝利に貢献しており、後継者としては何の問題もなかった。ただ、ビスマルクにとって不都合なことには、彼がイギリスのヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアを妃に迎え、かねてから自由主義に好意的な存在として周囲の目に映っており、また彼自身そのように振舞うこともしばしばあった。進歩党や国民自由党離脱組の自由主義左派勢力は、このような状況を前に大同団結して「ドイツ自由思想家党」を1884年に結成していたのである。フリードリヒ・ヴィルヘルムが即位すればこの政党が大きく躍進し、宰相の地位を追われるかもしれない。危機感を抱いたビスマルクは、同党に代表される親英的な自由主義左派を「帝国の敵」と位置づけて攻撃したのである。
 この時期に「帝国の敵」というレッテルを貼られたもののなかには、ポーランド人勢力もあった。「文化闘争」の折にもカトリック抑圧策を通じてプロイセン東部地域におけるポーランド人勢力を抑え込もうとしたビスマルクは、1880年代半ばになるとドイツ語教育の推進やドイツ人農民の入植といったゲルマン化政策をさらに推し進めるとともに、ドイツ国籍を持たないポーランド人農業労働者を国外に追放したのである。(p.174-175)


マックス・ウェーバーに関心を持ってきた者としては、ウェーバーが1890年に行なった東エルベの農業労働者に関する調査を行ない、ポーランド人に対して敵対的な主張がなされたことが想起される。ウェーバーの父が国民自由党の代議士であり、父と親交を持つ政治家たちとの議論などを聞きながら育ったという彼の生育環境なども伝記的なところではよく指摘されるが、こうした環境がどのようなものだったのかということを知る意味でも、ウェーバーに焦点を当てていない同時代の出来事や動きを知ることは参考になる。



 かくして、ビスマルクは政界を離れ、そしてこの世を離れたときにはじめて崇拝の対象となり、カリスマ的な存在となってその後のドイツに君臨し続けていったのである。H・U・ヴェーラーはビスマルクの統治スタイルを、マックス・ヴェーバーによる支配の三類型の一つ「カリスマ的支配」として位置づけた。確かにビスマルクは「カリスマ的」な存在としてよいであろう。だが、近年の研究が明らかにするように、彼がカリスマとして崇め奉られたのは、彼が政界を離れた1890年以降のことであり、しかも彼の実像とは大きくかけ離れたものであった。ここに見られるカリスマとしての「ビスマルク」は、常に軍服を着て、「鉄血宰相」を彷彿とさせる武断的で強力なリーダーシップを持ち、ドイツ・ナショナリズムを体現する天才的な政治能力を持った人物であった。それは20世紀ドイツの辿った激動の歴史が、まさにそうさせてしまったのであろう。(p.234-235)


確かにビスマルクというと、「鉄血宰相」として武断的なイメージがある。本書ではそうしたイメージとは異なる姿が描かれており、大変参考になったのだが、武断的なイメージはその後のドイツ・ナショナリズムの高揚の中で一種の「国父」のようなものとしてビスマルクが祀り上げられたことにより作りだされたもののようである。

ウェーバーはビスマルクが政界を引退した後の1890年代頃から1910年代に政治的な発言をしていくが、これに関連して、ビスマルクなきあとのドイツの政治を誰が担うべきかという課題を彼は持っていたことがよく指摘される。ウェーバーのこうした問題設定自体もビスマルク神話の形成と同時進行していったものであることが見えてくるように思われる。


マーティン・バナール 『ブラック・アテナ 古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ Ⅰ.古代ギリシアの捏造1785-1985』(その3)

 人種主義のうねりは帝国主義の確立とも結びついていたし、野蛮な非ヨーロッパ系「土着民」に対抗して植民地宗主国内部で形成されつつあった国民的連帯意識とも結びついていた。皮肉なことに、1880~90年代の20年間は、ヨーロッパとアメリカとが世界支配を完成させた時期でもあった。アメリカとオーストラリアの先住民はほとんど絶滅させられ、また、アフリカとアジアの先住民は全面的に植民地化され、屈辱的な状態に置かれた。「白人」が彼ら先住民を政治的に配慮しなければならない理由はもはやなくなったのである。こうした意味では、反ユダヤ主義は、外部に敵がまったくいなくなった段階でのみ楽しむことができる「ヨーロッパ産の贅沢品」である、とも言うことができよう。(p.444-445)


なるほど。ナチスに見られたような反ユダヤ主義の高まりには、有色人種に対する配慮が必要なくなったことにより、「白人」による人種主義の露骨な発露が容易となったことが背景にあるということか。



ベラールが大胆であり得たもう一つの重要な要因、それはベラールが「純粋な」学者ではなかったということである。彼は、学界以外にジャーナリズムや政治といった別の世界をもっており、それによって広い視野をもつことができたのである。シュリーマンやグラッドストーンにも、似たような特徴があることに注目しておかなければならない。
 この二つ目の要因は、個々の学者の発表能力という学問の第二レベルにおいて、決定的に重要である。学界の異端児が、その「不健全な」考えを発表できるのは、学問以外の広い世界において社会的地位をもっているときだけである。(p.458)


興味深い指摘。ある学問の世界で支配的な考えに対して、それとは全く異なる考えを発表するには、その世界だけに生きる「純粋な」学者よりも、別の世界にも社会的地位を持っている者の方がはるかにやりやすい。また、学問の世界に限らず、異端的な発言を公にするには、様々な分野で社会的な地位(深い関係性やそれぞれの世界でのリスペクトなど)を得ている方がやり易そうである。

この指摘には説得力があるが、歴史的な事例としてはどのような事例があるのか、もう少し掘り下げてみたい気がする。



 1920年代には、人種主義的な雰囲気がさらに過酷なものとなった。ロシア革命においてユダヤ人が、そのように見られていただけでなく実際に中心的な役割を果たしたことを受け、ヨーロッパと北アメリカ全体においては、反ユダヤ主義が強まった。経済危機や国家的緊張の原因になっていると非難するために、スケープゴートとして狙われたユダヤ人の銀行家や金融業者はどこにでもいた。ここにおいて、キリスト教の道徳と秩序とを破壊し、転覆しようとするユダヤ人の陰謀、という曖昧だった従来のイメージが、ボルシェヴィキ党という眼に見える形をとって映し出されるようになったのである。(p.465)


ロシア革命においてユダヤ人が大きな役割を果たしたことが、反ユダヤ主義を高める要因となったというのは、本書の指摘を受けるまで全く気付かなかった点であった。「ユダヤ人」とは、実際には「ユダヤ教徒」と呼ぶべき人々であり、「人種」でも「民族」でもないのだが、それが「人種」や「民族」として扱われた上で人種主義的な差別を受けるというのだから、差別される側としては全くたまったものではないだろう。



 ここでも50年前のヴィクトル・ベラールの場合と同様に、なるべく単純で大きな連合によって全体像をつかもうとする門外漢の志向と、その逆に、細分化によって分析しようとする専門家の志向とが衝突した。つねに専門性というものは、研究者による学問・知識の「私物化」に適した狭くて孤立した研究分野を必要とする。専門家たちは、ベラールとゴードンの二人に強い脅威をいだいた。なぜかといえば、旧態依然とした学界に反抗する彼らの学説の方にこそ信憑性があったからである。(p.502)


本書ではここで指摘されているような主張がしばしば出てくるが、バナール自身が中国の専門家であり古代ギリシアやエジプトの専門家ではない「門外漢」として発言しているためだろう。とはいえ、単なるポジション・トークを超えて、こうした指摘には妥当なものが含まれていると思われる。

専門化が私物化に適しているというのは、まさに指摘の通りである。日本の一時期のウェーバー研究における大塚久雄などもこの手の私物化をしていたと言うべきだろう。



 私が本書全体で論じようとした主要な点は、古代モデルが破壊されてアーリア・モデルに置き換えられた理由についてであったが、それは古代モデル自体がもつ内在的な欠陥からではなく、また、アーリア・モデルの方がすべてをうまく説明でき、よりもっともらしかったからでもなく、実際には、アーリア・モデルがつくりあげたギリシアの歴史と、アーリア・モデルがつくりあげたエジプトやレヴァントの歴史との関係が、19世紀の世界観に、わけても組織的な人種主義的世界観に合致していたからに他ならない、ということである。(p.531)


分厚い本の割にはかなり短い文章でかなりの内容まで、本書の内容がまとめられている。古代モデルは内在的欠陥から棄てられたのではなく、また、それを支持する根拠も十分にあるのだから、アーリア・モデルの背景にあった人種主義的世界観が後退すれば、再度古代モデルが復権することになる、少なくともその余地がある、というわけだ。



 G.G.M.James(1954,pp.112-30)によれば、アリストテレスはこの地位についたおかげでエジプトにおける文献調査が容易となり、まったくそのおかげで驚くべき膨大な分量と分野にわたる彼の著作が可能となった。このことは、一般論として考えてみても、ギリシア人による中東征服がその1000年後のアラブ人による征服と同様であったことをうかがわせるものである。すなわち、征服によってそれ以前の文化の多くをギリシア化あるいはアラブ化し、その残りは失われてしまったということである。(p.599)


「この地位」とはアレクサンドロス大王の家庭教師という地位である。アリストテレスがアレクサンドロス大王の家庭教師だったということはアリストテレスを紹介する際によく言及されるが、その意味について、このように明快な指摘をしているものは少ない。