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竹中亨 『ヴィルヘルム2世 ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」』

 ビスマルク時代の対外関係が平穏だったと先に述べたが、その理由は、ビスマルクが平和外交を旨としていたからであった。彼が平和主義者だったというのではない。彼にとっての至上目標はドイツ帝国の存立を守ることであった。そのためには彼はヨーロッパで戦争がおこるのを何としても避けなければならなかったのである。
 その理由は、1871年のドイツ帝国誕生というできごとがもつ意味にある。これは、単にドイツの国家統一が成就したというだけの話ではない。それ以上にヨーロッパ全体に深刻な変化を与える事件であった。
 中世末期に神聖ローマ帝国が有名無実化して以来、数世紀にわたってドイツの地には確固たる国家がなく、小国分立が続いてきた。言い換えれば、ヨーロッパ大陸のまん真ん中に一種の政治的真空が数百年間も存在してきたわけである。このことは、ドイツ以外のヨーロッパの人びとにとっては決して不都合なことではなかった。まさしくこの真空が緩衝地帯となったおかげで、ヨーロッパ内の覇権をめぐる各国間のせめぎ合いが調整され、緩和されてきたからである。
 ところが、1871年にそこに突如として一箇の国家が誕生した。しかも、それはフランスをしのぐ国力をもつ大国であった。つまりドイツは今や摩擦調整の場どころか、自身がヨーロッパの国際関係の能動的な担い手となったわけである。ヨーロッパの政治地図を根本から塗り替える事態である。イギリスの首相のディズレーリが1871年をフランス革命にまさる大革命だと評したことがあるが、けだし慧眼であった。(p.101-102)


ここで述べられているドイツ帝国成立の意味は、19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの政治の動きを考える上で非常に重要な視点である。そして、恐らくはそれ以後にも深い影響を及ぼしていると思われる。

本書はヴィルヘルム2世という個人の評伝ではあるが、こうしたマクロな流れについての理解を得ることもできた。



 ドイツの経済的躍進は、ドイツの側でも人びとの心性に大きな変化をもたらした。ドイツ人は元来、イギリスやフランスに対する劣等感が根強い。これら西欧諸国の文明的洗練に比して、自分たちの生活慣習や文化は粗野だという引け目である。ところが今、その自分たちは目覚ましい発展をなしとげた。諸外国からも賛嘆されるほどの成功である。だとすれば、われわれは何も他国に遠慮することなどあるまい、自信をもって、もと堂々とふるまってもよいのではないか――そう人びとが考えるようになるのは自然の趨勢である。
 だが、長年の劣等感は一朝一夕で拭いきれるものではない。それにもかかわらず、強いて自己肯定に努めるものだから、結果的に優越感がしばしば過剰に発揮されることになる。高坂正堯いわく、ドイツ的心性に特有の「劣等感=優越感のアンビバレンス」である。こうして、ドイツ人といえば、尊大、傲慢というステレオタイプが生まれた。
 実際この時代、ドイツ人の評判はよくない。世界大戦開戦前後にアメリカの駐独大使を務めたジェイムズ・ジェラードは、ドイツ人は他国でははっきりと嫌われていると断言している。日本人の間でも当時、嫌悪感をもつ者は少なくなかった。一般にはよく、日独は近代を通して友好的だったと考えられがちだが、実はこれはかなり「神話」である。国のレベルでは交流が繁くても、人びと同士が近づくとは限らない。(p.121-122)


ドイツ人に対する悪いイメージがあったというのは、言われてみればなるほどと思わされる。ある意味では、現代の中国をほうふつとさせる。なお、日本とドイツの関係についても確かに、私自身も近代化の際には比較的よい関係だと思っていた節がある。



ヴィルヘルムが「影の皇帝」にとどまっていたということは、つまり、ドイツは国家の存亡をかけた戦争の最中、政軍間の調整を欠いたままだったということである。(p.174)


第二次大戦の前と最中の日本と似ているように思われる。


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キリスト教史学会 編 『マックス・ヴェーバー「倫理」論文を読み解く』

 福祉分野にかんするエスピン=アンデルセンらによる近年の研究では、実証研究に基づいて、いわゆる社会国家型の北欧諸国、それに対する自助・国家不介入のアメリカ自由主義型、さらに大陸西方ヨーロッパ型(オランダ、ドイツ、オーストリア、スイス)としての類型化が見られます。宗派的に見れば、北欧では早くからルター派国教会が確立し、教会に代わって領邦が福祉を提供する仕組みが発展し、国民は国教会教区の福祉に信頼することができたので、北欧では結果として現在まで税金による国の福祉が続いています。一方、大陸西方ヨーロッパでは、カトリック、複数のプロテスタント宗派と人文主義的伝統(市民自治)が混在し、多数の中間団体が生まれて福祉を担い、国家はそれらを補完する形で福祉に関与することになりました。……(中略)……。
 こうして宗派状況と社会福祉の在り方の関連が確認できましたが、そのカギとなったのは西方ヨーロッパを「宗派混在地域」ととらえたことにあります。これはヴェーバーが暗にそれぞれの「国」に当てはめた宗派性とは異なっています。明示的に述べていなくても、ヴェーバーにとってドイツはルター派、オランダとイギリスはカルヴァン派の国ではなかったでしょうか。宗派が「混在」しているととらえるようりも、本質をなすであろう宗派性を割り当て、そこから理念型を導く方向をヴェーバーは選びました。(p.109-110)


福祉分野の研究成果から示される「宗派混在地域」という見方から適切な類型化ができている事例をベースに、ヴェーバーの「倫理」論文における理念型構成の選択を批判している。確かに、ヴェーバーは明示的には言及していない(そのため擁護しようとする側からはある程度理屈をつけて部分的に擁護することもできてしまうかもしれない)が、ドイツの後進性のようなものを示すためにルター派が「資本主義の精神」の推進力にはならなかったことを使ったことなど、「国」に「宗派」を割り当てて考えている捉えられる叙述はかなりあると思われ、適切な批判であると思われる。

本書では、ヴェーバーが宗教の教義や各教派の特徴づけなどについていろいろと誤りを犯していることが明らかにされている。それはそれとして重要なことであるが、理念型という方法論の持つ問題性を明確化することも必要だと思われる。理念型という方法論には曖昧さがあり、それを利用することでいろいろな擁護の仕方ができてしまうところがある。描いている事柄が事実と違っていても理念型構成なのだから問題はない、少なくとも直ちに否定はされない、といった類の反論もいろいろな場面で使えてしまう理論になっていることは問題があるように思われる。



 今日のメソジスト史研究が共有する歴史的実態に照らし合わせれば、ヴェーバーが描いたウェスレーやメソジスト派の像は、数々の「間違い」だらけだと指摘されても仕方ないです。しかし、この種の「間違い」を理由に、短絡的に「倫理」テーゼを学術的に評価に値しないものと捨て去ることはできません。なぜならば、ヴェーバーは、歴史学などの従来の学問の手法では明らかにできないものを過去の世界から抽出するために、独自の「理念型」を作成し、そのために複雑な歴史を意図的に単純化・純化させたと主張しているからです。絵画で例えるならば、写実的画法には不可能なものを表現しようとしたピカソのキュビスムの画法に似ています。キュビスムの挑戦を、写実的画法の評価基準に照らし合わせて無価値とすることは滑稽だと思います。(p.128-129)


基本的にこのスタンスには共感できる。ただ、この挑戦の意味やヴェーバー自身の挑戦がどの程度成功しているのかを明確化するためも、理念型という方法論の「妥当な使い方(あるいは構成の仕方)」と「不当な使い方(あるいは構成の仕方)」のようなものを腑分けする必要があるのではないか、このような問題意識が本書(だけではないが)を通じて自分の中で高まってきた。



 アレヴィ・テーゼと歴史実態との一致をめぐる論争は、ヴェーバー・テーゼと歴史的実態との一致をめぐる論争と一つの本質的問題を共有しているように思えます。双方とも、個々のメソジストの歴史研究の結果で得られたテーゼではなく、哲学や社会学の研究用にいくつかの類型やフレームワークを便宜的に設定し、それらを用いて展開された推論の結果で得られたテーゼであり、これらのテーゼの賛否をめぐって他の学者が哲学や社会学をはじめ神学や経済学などさまざまな分野の類型やフレームワークを加えながら議論を展開するにつれ、歴史的実態からますます遊離してしまうといった事態に陥っています。(p.140)


実態に即しながら、少なくともそれを視野に入れながら議論をすることは確かに重要だと思われる。それを欠いた議論は不毛なものになってしまうリスクが高い。


野﨑敏郎 『大学人ヴェーバーの軌跡――闘う社会科学者――』

当時のドイツ諸大学の法学部は、全体として、こうした法学・国家学部への改組に向かおうとしており、同時期の1897年には、自由保守党によって、ベルリン大学におけるこうした改組が提案されていた(Lindenlaub 1967:69)。その理由のひとつは、ともすれば左翼の巣窟ともみられてきた国民経済学部門ないし国家学部門を、一般に大学のなかでもっとも保守的な法学部に編入することによって、左翼教授の動きを牽制しようとする配慮である(上山安敏 1978a:162)。(p.39)


本書を読んでつくづく感じたのは、当時のドイツの大学が行政から独立していないこと、特に人事や組織の面で独立性がないことがいかによくないか、ということであった。ここで指摘されていることなども、それを示すものである。学問の自由や思想の自由などといったものよりも、ある種の党派性というか一部の統治者側にいる人びとの利益が優先される。しかも、このように扱われるのが教育機関でもある大学であるという点に大きな問題がある。



ほぼ同時期に、南および西南ドイツの諸大学が国家学系や自然科学系の学部を設置していくなかで、フライブルク大学は、学部の数こそ一定(四学部)だが、けっして古典的構成のままだったのではなく、内部に大きな変動を生じさせていたのである。その渦中にいたハインリヒ・リッケルトは、まさにこの変動の最中に『自然科学的概念構成の限界』を書きつづけている(Rickert 1896/1921)。彼にとって、文化科学と自然科学とをめぐる方法的問題群は、自分の所属する学部の改組をめぐる焦眉の課題と不可分に結びついているのである。(p.40)


西南ドイツ派が科学論的な議論を展開したことの背景には、当時の大学の改組などの問題があったと理解しておくのは重要と思われる。



ハイデルベルク大学は、大公フリードリヒⅠ世自身を名誉学長に戴くバーデンの最重要大学であって、フライブルク大学とは別格の存在である。また教授の待遇や、ドイツにおける大学教授のリクルート経路を勘案すると、ベルリン大学に次ぐ高ランクの大学でもある。(p.60)


日本のような大学が個別に入学者を選別するシステムを採用していると、いわゆる「良い大学」には多くの人が入りたがる傾向が出るので、序列が目に見えやすいように思うが、ドイツの大学は入学のシステムなどが日本とは全く異なる中で、どのような経緯や基準によってランク付けがされてきたのか興味を惹かれる。



 ヨハン・カスパル・ブルンチュリは、1877年の学長講演において、学部改組の問題を正面から取りあげ、その方針を明示している。
 彼は、学部区分には、学問的な根拠だけでなく、実務的な根拠もあることに注意を促している。神法医の三学部が、聖職者・法曹・医師養成という職業教育学部(Berufs-Facultäten)の性格をもつのにたいして、哲学部は、①一般研究と②他の三学部における専門研究のための予備教育という二つの性格を併せもっていた(Bluntschli 1877:5)。ところが、官房専門学校の編入によって、哲学部内にも職業教育(官吏養成)の色彩をもつ領域が存在するようになり、哲学部の変質が始まったのである。彼は、19世紀において、国家学と自然科学とにかかわる諸事情が一変した以上、それが学部区分にも影響を及ぼすことは不可避だと喝破する(ebd.:18)。(p.86)


職業教育と大学の学部編成との関係という観点は興味深い。



レクシス、ヴィンデルバント、リッケルト、ヴェーバーらが、自然科学との対比において社会科学ないし文化科学を再定義しようとこころみたのは、ある意味では、西南ドイツにおける自然科学系学部の勃興にたいして、哲学部残留組がみずからのレゾン・デートルを賭けて挑戦した行為だと解釈できる。(p.92)


なるほど。これらの議論は哲学部の側からのリアクションとして理解すべきものということか。



 彼は、これらの論考において、その時々の政情と大学をめぐる情勢の推移に即して、大学と大学人のありかたを考察している。こうした大学問題への取り組みが1908年以降にとくに顕著であることには理由がある。アルトホフは前年秋に引退し、この1908年に死去する。この傑出したアカデミー・カリスマがいなくなると、プロイセンの文部行政官はさっそくベルンハルト事件を起こし、大学人事への無分別な介入をすすめていく。こうしたアルトホフ以後のアルトホフ体制の問題性こそが、ヴェーバーがもっとも危惧したものであった。(p.245)


アルトホフ体制は確かに問題だが、その前提となっている文部行政が大学人事の決定権を持っているという制度が当時のドイツの大学の根本問題であると思われる。

大学という教師や学生の組合という意味合いを持っていたはずの組織である大学が、いかにして文部行政の下部組織となったのか。ドイツの大学の歴史について、是非知りたい。また、他の国、イギリスやフランスなどではどうだったのかといったことも含めて理解を深めたい。



 教壇禁欲という行動準則は、社会科学と現実政治との関係が大きな転換点を迎え、また社会科学と自然科学との再定義、および科学の方法の再検討が必要となっている過渡期においてこそとくに求められる。ハイデルベルク時代後期からミュンヒェン時代にかけての彼は、この見地から、体系的カズイスティクと比較史的研究とを広範に展開し、社会科学的分析に専心する大学人(教師と学生)と、それを会得して現実政治に向かう個人とを峻別するとともに、この両者をひとつの人格に結びつけようとした。(p.311)


多くの人々を魅了してきたマックス・ヴェーバーという人物の魅力の一つは、この辺りにあるように思う。



 ヴェーバーのハイデルベルク大学への招聘は、19世紀末における経済学者の世代交代の象徴的事例であった。前任者であるクニースが、後任として哲学部が推挙したクナップ、ビューヒャー、ヴェーバーを拒否し、彼らを激しく罵ったことについてはすでに述べた。いわゆる旧歴史学派と新歴史学派との関係については、「新」の側からみて「旧」をどう批判しどう克服したかという文脈で語られることが多かったと思われるが、1896年の人事紛糾事例は、「旧」の側から「新」をどうみていたのかをしめす貴重な例である。(p.314-315)


ヴェーバーのハイデルベルク招聘についての理解はその通りと思われる。また、新旧歴史学派の関係についての叙述も、今まで私が接してきた限りでは「新」から「旧」を見るものばかりだったので、その通りであると思われる。

ただ、クニースの側からの新歴史学派に対する反応を見ても、その低い評価は見ることができるが、「旧」にあって「新」に欠けているものが何であると考えられていたのかは示されていない。その辺りが分かるともっと面白いのだが。



したがって、この1907年を画期として、<アルトホフアルトホフ体制>と<アルトホフなきアルトホフ体制>とを分けて考えなくてはならない。アルトホフ個人は、ある種のカリスマとして、その低い職位・権限にかかわらず、プロイセンのみならずドイツ全土の大学人事に絶大な発言権・決定権を保有しつづけた。彼個人についてみると、その人物評価の異常なまでの厳密性・即物性――とりわけ辛辣な人物評価――、各大学にたいするプロイセン文部省の優位の確保、各国文部行政担当省間の確執のなかで他国の省を屈服させていく手腕、ユダヤ人であろうとカトリックであろうと、プロイセンのために有用な人材なら大胆に登用・重用する開明性――こうした諸点で傑出していたことは疑いなく、<アルトホフアルトホフ体制>は、見識あるアカデミー・カリスマ官僚の独裁だったと評価できる。むしろユダヤ人排斥等は各大学教授団のほうが露骨だったのであり、この点から、ヴェーバーがしばしばアルトホフを高く評価しているのはけっして遁辞ではないことに注意しなくてはならない。(p.319)


この辺りの整理は非常にしっくりきたところ。本書を通して、ウェーバーとアルトホフ体制との関係もかなりクリアに見えてきたように思う。


筒井清忠 『戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道』

 この経緯から、余裕があればむやみに天皇シンボルを濫用するわけでもないことがわかる。天皇型ポピュリズムに走るのは政治的に苦しい立場に立たされたときなのである(もしこのときも「大権干犯」論を持ち出せば、「俸給権干犯」論となったのであろうか)。(p.112)


天皇型かどうかにかかわらず、ポピュリズムに走るときというのは、支配や統治を行う側に対してそれに直接は深くコミットできない一般の人々が不満を持っているときなのだが、政府の側がそれに走るときというのは、他の手段が有効だと思えないときに使われるのではないかと思われる。

その意味で、ポピュリズムは「逃げ」の選択肢であり、否定的なものでしかなく、積極的に何かを作り上げていくことには結びつかないものと考えるべきではないか。



世論工作の失敗が、対米七割を達成できずワシントン会議が失敗に終わった原因と考えた海軍は、ロンドン会議に向けてその挽回を期していた。
 具体的には、新聞との意思疎通に失敗したと考えていた海軍は、ロンドン会議が始まる前に緒方竹虎ら新聞社の代表と会合を持つことにした。(p.123)


この戦前の海軍の動きは安倍政権の動きと重なる。安倍内閣はある意味では戦前の海軍と同じことをしている。

マスメディアを権力側に引きつけて世論を操作する。安倍政権の場合、このようにすることで、「妥当でない政策」を実行可能とするために「妥当ではない世論」を作り出している。「妥当な政策」であればメディアを支配下におかなくても何ら困ることはない。自らのやろうとしていることが「妥当でない」ことが分かっているから安倍政権はメディアをコントロールし、情報を隠蔽し、説明逃れを続け、文書を改ざんし、言い換えによって物事を人々に把握できなくさせている。この点を見落としてはならない。



 村田が警察部長として赴任してみると、大分県には警察の駐在所が政友会系・民政党系と二つあった。政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系・民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。結婚などは私行上のことなのでともかくとしても、土木工事・道路などの公共事業も知事が政友会系・民政党系と変わるたびにそれぞれ二つ行われていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。
 それぞれの党の県本部の下に各市町村ごとに下部組織ができあがっていて、常に党員の獲得と離党阻止に異常が努力が払われていた。しかも各支部の幹部は、日ごろから各党員の私生活にまで立ち入って、何くれとなく世話を焼いていたので、党員の団結は非常に強固で、隅々まで連絡網が張り巡らされていた。
 このような強力な組織をもって、双方の政党は、野党時代には政権党の内閣の知事の下での県職員の行動を厳重に監視し、いったん政変により政権党になると、そのたびごとに反対党の知事はじめ職員を一斉に退職させた。(p.176)


かつてのアメリカのスポイルズシステム(猟官制)が想起させられる。こうした党派的な行政運営は当然、(ここでも反対党の家の消火をしない消防などに端的に表れているように)行政の公正さに悪影響を及ぼす。

しかし、現在の日本の政治システムに目を向けると、90年代を通じて行われた政治改革や行政改革の中で、内閣府への権限集中が進んだが、安倍政権が深くコミットして作られた(注)内閣人事局の設置(2014年)は、現行の日本の官僚システムを再び猟官制に戻した(少なくともそれに近づけた)。最もそれがはっきりわかるのは佐川元理財局長による森友問題に関する態度である。官僚があのような異常な言動をするようになったのは、再猟官制化がもたらした弊害であると理解すべきだろう。

(注) 安倍内閣は、第一次内閣の際に創設に繋がる検討会を立ち上げ、政権復帰後に設置法案も提出した。



久保田哲 『帝国議会――西洋の衝撃から誕生までの格闘』

 他方で、「天皇は国家危急の場合及公共の危難を避くる為め、内閣の責任を以て法律の効力を有する勅令を発す」とある。つまり、内閣の判断で法律と同じ効力を持つ勅令の発令が定められた。この緊急勅令には、議会の事後承認も不要であった。また、「罰則を付し及強制処分を施す」勅令も発令できた(「伊藤巳代治関係文書」)。(p.162)


これは明治憲法の規定だが、どこかで見たことがあるような感じである。自民党の改憲案は明治憲法への回帰を志向しているということがこうしたところからもわかる。(もちろん異なるところもあるが、それをもって自民党案と明治憲法とが無関係と主張するのも妥当とは言えないだろう。日本会議の目論見などを考慮に入れればなおさらである。)



金子の演説には、イギリスの貴族と異なり、日本の華族には「憲法の発達又は民権の伸暢」に大した功績がないとの発言があった。(p.220)


金子堅太郎という男は、常に他人を見下しており、彼の精神には悪い意味でのエリート意識が充満していると感じる。北海道に設置された集治監の囚人たちを労働に駆り出し、過酷な労働で死んでも財政負担が減るからよいのだといった人権意識のかけらも見られないような発言や札幌農学校は高尚過ぎて無用であるといった論も然りである。



 戦後日本の議会である国会にも、官僚が立案した法案を粛々と可決しているに過ぎず、ほとんど意味をなしていない、という見方がある。しかし官僚は、国会で可決されないと思われる法案を提出しない。国会の多数を占める与党の政策志向を考慮した法案が提出される。つまり、立法過程に国会の意向が反映されており、それは国会が存在する意義である。(p.241-242)


なるほど。しかし、小選挙区制の下では国会の意向と国民の意向のズレが極めて大きく、多くの人々の意見を代表しないという問題がある。その意味では、現行制度の下では国会の意向は反映するが、国民の意向は反映されないということが多くなっているのではないか、とは言えそうである。



 兆民は言う。内閣とは何か、政府とは何か、政党とは何か、租税とは何か、人びとはもっと考えるべきである。「今の政党家は、人民の財布の盗賊にして、又輿論の盗賊なり、既に財布を盗まれ、又輿論を盗まる。猶お是れにても考えざる乎」(『中江兆民全集』13)。(p.245)


中江兆民のこの言葉、特に「世論の盗賊」というワードは、まさに安倍政権を形容するに相応しい。



 議会開設に対する福沢の「沈黙」は、彼なりの政治論であった。過度な政治熱は、やがて冷める。政治家を崇拝すれば、自らが政治の担い手であるという、本来国民が持つべき政治意識は薄れる。それでは、議会が開設されたところで、実態は身分制度のあった前時代に戻ってしまう。(p.247)


政治家を崇拝すれば本来国民が持つべき政治意識が薄れる。確かに、ポピュリスト政治家に支持が集まっているとき、国民の側には本来の主体としての政治意識はなく、強いリーダーに従属することを欲している。崇拝するから主体性がないのか、主体性がないから崇拝する対象を求めるのか。私見では後者がより実態に近いように思われ、その意味では本書の述べ方には多少の違和感はあるが、リーダーへの崇拝と主体性の欠如(従属したがっている)という現象が同時に現れることについては的確に指摘していると思う。

ただ、政治的主体としての意識が欠けているとしても、それはある意味では大多数の人々にとっては常態なのであり、それであっても成り立つような制度が必要なのである、という点は付け加えたい。


山室信一 『キメラ――満州国の肖像 増補版』(その2)

 このように、利益線論は、次々に絶え間なく国共の先にもう一つの勢力圏をつくるという発想になり、そうでないと安全でないという強迫観念に近い考えに囚われていくことになりました。(p.326)


一見もっともらしく聞こえることがある「利益線論」だが、際限のない領土拡張論へと繋がっていくものである。外交交渉が先にあり、軍事的な手段は最後の手段であるという基本を忘れた議論(交渉不可能な敵だけがいるものと前提した欠陥理論)と言わざるを得ない。



 総務庁次長を務めた古海忠之は、「満州国というのは、関東軍の機密費作りの巨大な装置だった」とみていますが、満州国のみならず、陸軍がアジア各地で広範な活動ができたのも、満州国が吸い上げる資金をつぎ込めたからだともいわれています。基本的な資金源はアヘンでした。これは台湾での統治体験からつながてくる問題ですが、アヘン吸引がやがて廃人に導くことを考えれば、その廃止は当然の要求になります。しかし、一挙に廃止すれば却って社会的な混乱を招くという口実で、政府専売の形にして徐々に少なくする方針が採られます。満州国でも一応そういう形をとりましたので満州国の善政として自賛されていますが、実は密売されたアヘンが満州国の財政を支えただけでなく、機密費の主要な資金源となりました。(p.348)


旧植民地は比較及び関連性見ていくことが重要。


熊谷正吉 『改訂 樺戸監獄 「行刑のまち」月形の歴史』

 しかし、樺戸集治監は偶然に設置されたのではなく、維新後の明治7年(1874年)の佐賀の乱、明治9年(1876年)の熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱、そして明治10年(1877年)の西南戦争などの落とし子と言った方が適当かもしれない。
 明治新政府が誕生し、国内の行政機構が着々と整備されつつあったが、政府の施策に対して、士族階級などの不平不満が内乱となって現れ、そのためおびただしい国事犯(政治犯)を生む結果になった。(p.18)


明治政府に対する反乱により生じた大量の国事犯を収容するため、樺戸を含む集治監の設置が必要となった。

内乱といっても、そもそも明治新政府自体が武力を背景としたクーデタによって権力を奪取しただけの集団でしかなく、選挙のような民主的な制度もなければ、憲法による立憲主義的な権力の抑制もなかった。つまり、明治政府は国民を代表するわけでもなかった上に、恣意的に権力を行使することがかなりの程度できてしまう状況の下にあった政府であった。このような支配の正当性に欠ける政府に対して抵抗が行われるのは、ある意味では避け難かった。国事犯などと言うと極悪人であるかのような印象を与えてしまうが、明治政府から見て都合が悪い人であるに過ぎないことは押さえておきたい。



なお大倉組が北海道で工事を始めたのは、この樺戸集治監の建築が最初であった。(p.23)


明治時代の大倉組というとどうしても「死の商人」のイメージが強い。集治監が上記のように政治犯の増加に伴って必要になったという点から見ても、「明治政府の御用商人」ぶりがはっきりとわかる。



 この沿線の美唄、滝川、深川、旭川(永山)に屯田兵が逐次、入植して、道央地帯の開拓が急速に進んでいった。これは上川道路開削のおかげといっても過言ではない。(p.60)


明治22年に完成した上川道路(樺戸と空知の集治監の囚人たちが工事を担当した)。その沿線に屯田兵が入植していった。これらの土地は現在の札幌・旭川間の特急列車の停車駅とも重なっているのは興味深い。



 幸い私は昭和19年3月、月形村役場に書記補として奉職し、兵事戸籍係を担当していた。終戦と同時にその筋の達しにより兵事関係の書類はいっさい焼却処分にするよう、また村の兵事戸籍主任からは、ついでに保存年数の経過した古文書も同時に焼却するよう命じられた。(p.82)


都合の悪いことは証拠隠滅を図る。戦後を否定し、戦前戦中を肯定しようという志向を持つ安倍政権の下で、様々に公文書や情報を隠蔽したり改竄したりといったことが起きていることと重なって見える。



 建物は寄棟造りで下見板張り、窓は上下に開放する様式になっており、豪雪地帯のため床が高く、また寺院風に屋根のひさしが異状に長く、したがって内部は暗く日中でも電灯を必要とする。(p.121)


現在も残る樺戸集治監の建物について、私が見た時に非常に特徴的だと思ったものの一つが、庇の張り出しの大きさであった。豪雪地帯だから冬に窓ガラスが割れないようにしようという配慮なのだろうか?あるいは、当時の大規模建築というとやはり寺院建築が多かったと思われるが、そこから転用してきたのだろうか?



 定刻近くになり看守の手により各監房がつぎつぎ開錠され、出房の号令をかけたにもかかわらず、一人大須賀のみ従わず、屁理屈を言い看守に反抗したため、里見看守は木刀で一撃、あえなく彼は絶命している。(p.191)


現代から見ると異様なまでに人権感覚が欠如している。これが明治の初期というのならまだわかるが、大正2年になってもこのような状況だったというのは、やや驚きですらある。


松沢裕作 『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』

 このように借金をした農家にとって、いきなり物価が下落してしまうと、大変に困ったことがおこります。予想に反して収入が減ってしまうので、お金が返せなくなり、土地が人の手にわたってしまうのです。養蚕農家ばかりでなく、土地を担保としてお金を借り、一時的に生活を支えていた農家はたくさんありました。そうした農家は、インフレーションからデフレーションへの突然の変化によって、自分の土地を失ってしまう危機に直面したのです。彼らはいわば、日本経済全体の激しい動きにまきこまれてしまったわけです。この時期、一方には多くの土地を自分のものとし、その土地を他人に貸して収入を得る地主が、一方には自分の土地を失い、他人から土地を借り、小作料をしはらって農業をおこなう小作人の数が増えます。「地主制」と呼ばれる、第二次世界大戦前の日本を特徴づける農業の在り方が、この時期に定着したのです。(p.12)


大隈の積極財政からいきなり松方の緊縮財政へと転換したことにより、インフレからデフレに一気に政策が転換されたことから、地主と小作が増え、「地主制」が定着した。地主制も何となく江戸時代以前からあったかのような「伝統」のように見えてしまうことがあるが、これも「創られた伝統」の一つと言えなくもないように思われる。



 設置まもない1874年6月、内務省は、政府の最高意思決定機関である太政官(現在でいえば内閣に相当します)に、恤救規則制定の提案をおこないます。しかし、内務省の当初の考えは、この規則は内務省の内部の規則にとどめ、一般に知らされるものにはしないというものでした。困窮者の救助について、各地の府県から個別に問い合わせがあった際に、この規則に照らして内務省が判断する、という手続きが考えられていたのです。これには大蔵省(現在の財務省に相当)が異論をとなえ、太政官はこの規則を、各地の府県に明示するという決定を下します。この結果出されたのが恤救規則なのです。
 内務省の当初の考えと異なって、規則は秘密にされたわけではありません。しかし、規則の存在が周知されたのはあくまで府県までです。国民一人ひとりに「こうした制度がありますよ」と広報されるようなことはありませんでした。(p.50-51)


現在の生活保護法でも行政側のスタンスは方向性としては変わっていないように思われ、興味深い。ある意味では、この時代からの流れを引きずっているように思われる。現代日本の政府の動きを見ていると、憲法によって政府の対応が縛られていなかったとすれば、生存権などの基本的人権が国民の権利として認められることもなく、また、制度が国民に周知されることもないだろう

憲法というのは、このように広義の政府を規制するためのものである。安倍晋三などが度々言うような「国家の理想を語るもの」などではない。少なくとも、それが主要な役割であるなどということはあり得ない。



江戸幕府の最後の将軍徳川慶喜は、10月に、政権を天皇に「返還」する、「大政奉還」をおこないました。いきなり政権を返すといわれても、天皇・朝廷も困ってしまいます。……(中略)……。
 徳川慶喜のねらいは、一度天皇に政権を返還する姿勢をしめしたうえで、新たにつくられる政権のなかで、自分がふたたび重要な地位を占めるような流れをつくることにありました。
 この慶喜のねらいを打ち砕くために、薩摩藩の大久保利通や、公家の岩倉具視が主導しておこしたのが、12月9日のクーデターなのです。徳川慶喜をなんとしても新政権から排除したい大久保らは、この日の夜、軍事力によって、天皇が住んでいた京都御所の門を封鎖し、慶喜の勢力を御所周辺から追放しました。そして、「王政復古の大号令」という命令を天皇の名で発し、慶喜抜きの新政権を強引に成立させたのです。
 こうして成立した新政権には、カネがありません。単に「自分たちは新しい政府だ」と名乗っただけなのだから当然です。やがて、新政府と、旧幕府勢力の一部は軍事衝突をおこし、内戦が勃発します。戊辰戦争です。この戦争を担ったのは、新政府の直轄軍ではなく、新政府への支持を表明した各藩の軍隊です。各藩の軍隊の費用は各藩もちです。足りない費用は、新政府が大阪の商人から無理やり借りたり、取り上げたりしてまかないました。
 1869(明治2)年になると、旧幕府勢力の抵抗はすべて抑え込まれ、全国が新政府の統治のもとにはいります。首都は東京に移りました。しかし、この時期にはまだ各地の藩は存在していました。そして、各藩が領民から取り立てる年貢は、各藩の収入になり、政府の収入にはなりません。この点は江戸時代と変わりません。新政府が引き継いだのは、おおよそ旧幕府の直轄地からの収入だけです。
 1871(明治4)年7月、新政府は廃藩置県を断行します。江戸時代以来の藩を廃止し、全国に府県を置いて、国土のすべてを政府の直轄地としたのです。これによってようやく、全国からの年貢が政府の収入になりました。
 ただし、この廃藩置県も、ほとんどクーデターといっていいやり方でおこなわれました。何の予告もないまま、各藩の当主を呼び出し、藩の廃止を電撃的に発表したのです。このことを事前に知っていたのは、政府のなかの、ごく限られた一部の政治家だけでした。(p.64-66)


明治政府というものが、如何に支配の正当性の欠けた政府であったのかがよくわかる。同時に、財政がなぜ厳しかったのかということや、廃藩置県などに見られる公明正大さのかけらもない姑息で強引なやり方によって権力を強化していったことが見て取れる。

明治という時代について、本書は人々の生活やものの考え方などについて述べているが、一般的には「富国強兵」や「文明開化」などといった言葉によってイメージが形成されている。「富国強兵」や「文明開化」のどちらにも「政治の近代化」は事実上含まれていない点に注目すべきではないか。富国は経済力や技術力を高めるということであり、強兵は強い軍隊を持つということでしかなく、まっとうな政治体制を構築することとは何のかかわりもない。文明開化には本来、これが含まれてしかるべきであろうが、実際には西洋の技術や文化の導入に関して使われることが多く、「政治の近代化」、つまり、立憲主義や民主主義や法の支配などといったことが進められたわけではなかった

政府の側は当初一貫してこうしたものに対しては消極的であり、明治も半ばになってようやく議会や憲法といった体裁を整えたに過ぎない。明治維新は民主化にもつながったかのような漠然とした印象を与えられてはいるが、実際には当初はそうしたものとはかけ離れていたということは銘記すべきである。ある意味、明治の日本というのは、現在の中国のようなあり方に近いと捉えておくべきである。いずれの政府も、政治は、選挙で選ばれてもいない、その他の資格で選ばれたわけでもない、たまたま武力闘争で勝つことができただけの少数者の独裁による統治が行われながら、経済だけは近代的なやり方を導入して経済成長を実現することにより、民に不満を持たせないようにしすることで、正統性のない自らの統治を正当化する。こうした仕組みはかなり良く似ていると言うべきだろう。

明治150年ということが言われ、あたかもその時代が良い時代だったかのように語られる風潮があるが、少なくともその一面について言えば、明治という時代を理想化することは現代中国を理想とするようなものだ、と理解しておくことは重要である。(中国のような統治が行われている社会で自分が生きたいと思うか自問すべきである。)



 士族の反乱があいついだということは、武力で政府を打ち倒すことができると考えている人がかなりいたということを意味しています。明治政府とは、結局のところ、1867年の王政復古と、1871年の廃藩置県という二つのクーデターを成功させ、その賭けに勝った人たちが権力を独占している、そんな政府にすぎません。したがって、クーデータで権力から排除されたり、うまく新しい権力に潜り込むことに失敗したりした人たちからは、「なんであいつらが権力をもっているんだ?」という不満が生じます。(p.67-68)


明治政府というものに対する捉え方としては、少なくともその前半の時期についてはここで要約されている通りに理解するのが妥当であろう。

ただ、士族の反乱が比較的短期間に鎮圧されてしまった理由などについては、もう少し知りたいと思う。



 ここまでの流れをふりかえるとわかることは、明治政府は、クーデターによって成立した、人びとから信頼されていない政権だったので、高い税金をとることができず、政府の財政を通じて、豊かな人から貧しい人へ富を再分配するような力をもちようがなかった、ということです。(p.69-70)


地租改正をしてもすぐにその税率を下げなければならなくなったことなどについてのコメント。財政的に小さな政府としてスタートしなければならなかった要因としては、江戸時代からの分権的な財政制度があったこと、クーデタによって中央政府が成立したこと、財政の中央集権化もクーデタによって成し遂げたこと、このため支配の正当性が希薄だったため、民に負担を強いる力がなかったことなどが浮かんでくる。


大山綱夫 『札幌農学校とキリスト教』

 札幌農学校の本科(農学科)全卒業生名簿を入学前・卒業後の所属を含めて諸キリスト教会の会員名簿と照合すると、五・六期生あたりからキリスト教色が盛り返していることが窺える。……(中略)……。
 以上を集計すると、札幌農学校一期生から、最終の二四期生までの本科卒業生総数382人のうち、生涯、あるいは生涯の一時期にしろキリスト者であった者は、84人であり、約5人に1人の割合である。このうち56人は、一・二期生のキリスト者が中心となって作った札幌独立基督教会の会員であった。約5人に1人という割合は、おそらく当時のキリスト教主義学校内の割合に遠くなかったのではないかと思われる。(p.56-58)


五・六期生あたりからキリスト者の割合が再び増えてきたと指摘しているのは、有名なキリスト者を輩出した一期生と二期生に続いた三期生と四期生は反キリスト教的なスタンスの者が多く、有名な国粋主義者も輩出していることから、札幌農学校のキリスト教的な色彩は最初だけであるという議論を否定するためであろう。その上で、全卒業生と主な教会の会員の名簿を照合して実証的にキリスト教徒の割合が1/5ほどになることを明らかにしている。このことは筆者の一つの功績であると思われる。

ただ、気になるのは、以下の点である。

この調査が農学科に限定している点である。札幌農学校がどのような特色の学校だったかということを明らかにするには全体、すなわち全学科の卒業生(あるいは入学生)の数字を提示するのがより妥当だと思われる。農学科は一・二期生のいわば直系の後輩たちであり、彼らの影響力も他の学科よりずっと強かったと想像される。この想定から推せば、他の学科の「キリスト教色」は農学科よりもかなり薄いものとなるだろうと予想しても不当ではないだろう。(つまり、サンプルが全体を代表すると想定できない。)全卒業生の中でのキリスト者の割合はそれほど高くないのであれば、札幌農学校のキリスト教的な色彩といっても、それは主に農学科の特徴であるという限定が必要になるのではないか?



学内はかつての「禁酒禁煙の誓約書」の精神が支配するキャンパスではなく、学生生活は他官学のそれと似てきた。札幌農学校は1907(明治40)年に東北帝国大学農科大学となり、1918(大正7)年には北海道帝国大学となった。さらに農学部の他に諸学部が増設され、規模が拡大すると教員構成にも変化が生じた。帝国大学としての研究・教育プログラム充足のためには、精神的伝統とはかかわりのない人事が進められた。農学校から帝国大学への拡大・充実期は、キリスト教色の減退期と重なり合ったといえる。(p.66)


建学の目的がキリスト教の普及にあったわけではなく、官学として政府が設定する政策目的のために創設された教育機関である以上、このような規模の拡大が小規模な集団では維持できていた精神的な伝統と相容れなくなるのは尤もなことであり、内村鑑三などがこうしたことを指して堕落などと評価するのは果たして正当なことなのか、と思わされる。

本書は内村や大島正健のようなキリスト者に比較的共感的なスタンスが見え、佐藤昌介や宮部金吾などに対しては、それなりに事情を見てはいるものの否定的な評価が見え隠れしている。佐藤や宮部の志向は明らかに教育研究機関としての目的に照らすと概ね納得のできる妥当な方向性での動きをしており、それを学校の存在理由とは本来無関係なキリスト教の観点から批判するのは的が外れているのではないか。もちろん、自分が在学した学校がこのようなものであってほしいという理想を各自が持つことは当然のことではあり、内村らが言いたいこともわからないでもないが。

ただ、キリスト教的な大学であり続けろ、というのであれば、政府が大学に課す目的や大学自体の存在理由を変更する必要があり、その目的に適った組織の構成や運営が行われる必要がある。その大本のところからキリスト教に沿ったものとするのであれば、神権政治による統治の下で、全ての学問は神学に奉仕するような学校や世俗の法よりも宗教法の方が優位にあると考えるような状態を理想とすることに繋がるものであるということには留意しておいて良いのではないかと思う。



最晩年の内村のもとで聖書を学んだ、のちの西洋経済史研究家の大塚久雄が、キリスト教とマルクス主義のどちらも捨てられないことから生ずる悩みを告白したところ、内村は「私もキリスト教の信仰と進化論の間で非常に苦しんだ。しかし、自分は、どちらを捨てるようなことはしなかった。いまだに未解決のところはあるけれど、そうしてよかったと思う。君もそれをやればよいではないか」と答えたという(p.213)


大塚と内村が交流があったとは知らなかった。



 佐藤と宮部のアイデンティティは米国留学中に完成する。佐藤はジョンズ・ホプキンス大学へ進み、“History of the Land Question in the United States”と題するアメリカの土地政策を巡る研究論文で博士号をとり、宮部は、ハーヴァード大学で、“The Flora of the Kurile Islands”と題する千島列島の植物相の研究論文で博士号をとった。二人共、札幌農学校入学時点からの関心、しかも札幌農学校や開拓使の方針に沿った関心を、当時考えられる最高の学歴を全うする形で貫くことができた。彼らのほかに新渡戸稲造(二期生、卒業後アメリカのアレガニー大学、ジョンズ・ホプキンス大学、ドイツのボン大学、ベルリン大学、ハレ大学へ留学)と渡瀬庄三郎(四期生、卒業後ジョンズ・ホプキンス大学留学)らも留学によって札幌農学校の教育や研究の延長線上で自己の帰属先を発見した。彼らは、札幌農学校というカレッジを終えて、ドイツ型の学問論の影響を受けつつあった、ジョンズ・ホプキンス(1876年創立)やハーヴァードという、総合大学あるいは大学院大学へ進んだ佐藤は、ドイツ型セミナー方式を導入し「科学的史学派」を形成しつつあったハーバート・バクスター・アダムス(Herbert Baxter Adams,歴史学)やドイツ歴史学派に思想的に位置するリチャード・セオドア・イーリー(Richard Theodore Ely,経済学)のもとで学び、宮部は、チャールズ・エリオット(Charles William Eliot)総長のもとでニューイングランドのカレッジから総合大学へと変質しつつあったハーヴァードで、当時世界屈指の植物学者エイサ・グレイの薫陶を受け、学問的には最も高度な恵まれた経験の積み上げを、札幌農学校の教育の延長上で行うことができた。一・二期生のキリスト者の中でこうした人々と対照的に激しいアイデンティティ混乱に陥ったのが内村である。彼は、ジョンズ・ホプキンスやハーヴァードとは対極にあるニューイングランド福音主義のアマスト大学(Amherst College)に入り、いわば二度目のカレッジ生活を送らざるを得なかった。彼にはカレッジ生活のやり直し、つまり札幌農学校(Sapporo Agricultural College)の教育のある意味での清算の上にしか、そのとき人生は見えていなかったといえる。彼の帰国後の言辞の中にみえる札幌農学校に対するアンビヴァレントな態度は、この辺の消息を反映しているものであろう。(p.218-219)


ドイツ型のユニヴァーシティや大学院大学とアメリカのカレッジを対比させながら、札幌農学校の卒業生のその後のアイデンティティ形成との関係を論じているのは非常に面白い。

この問題はもう少し掘り下げて見てみる価値がありそうな気がするが、ここで対比されているような人物に関して言うと、佐藤や宮部はより高度な学問的な研鑽を続けることになった(その結果、社会的にもそれに見合った役割を見出すことができ、そうした社会的役割の中で自らのアイデンティティも安定した)のに対し、内村がカレッジに入りなおすことにしかならなかったのか(その結果、佐藤や宮部、新渡戸のような社会的な地位や役割はある意味では得られず、社会からの評価や支持が少ないためアイデンティティも安定しにくい状態が続いた)と言えば、宗教(内面)に対して関心が集中してしまい、学問や社会といった外へと目を向ける(関心が向かう)度合が少なかったからではないかと思う。10代の学生の関心を超えることが少なかった内村と普通に成長していった他の学生との違いではないか。(内村も水産学など学問的な関心があったのはそうだろうが、これも多分に宗教的な世界観を前提として考えながら学問をするのであれば、究極的には同じことである。)



 公人となってからの佐藤と宮部は、青年期のような伝導熱心は見せず、ましてや内村のように強烈な主張をすることもなく、大学人として、ひとりは大学行政に、ひとりは研究活動に専心する。そして二人の大学への関わり方は、かつてのニューイングランドのカレッジを範型とした札幌農学校の性格をドイツ型のユニヴァーシティへ変化させる方向のものであった。これは、彼らの青年時代にアメリカの高等教育の世界に起こっていた趨勢を後追いするものであり、同時に日本の近代化の中で生じていた学問の世界での重心の推移と軌を一にするものだった。そうした趨勢、推移の中で、初期札幌農学校が、理科系学校でありながらも備えていた人文主義的傾向や、全人教育的要素を継承・実践したのは、彼ら二人ではなく、新渡戸であった。彼は課外においても多くの学生をひきつけ、その学生たちはセツルメント的性格を帯びる遠友夜学校(1894〔明治27〕年創立)の担い手となった。有島武郎(19期生)も新渡戸に似た役割を果たしたが、彼らの行き方は大学の拡大・発展の中では主流とは言えなくなっていた。主流を代弁して南(二期生、後に北大総長)は、「徒らに普通教育的思想、或は文学的観念を増長せしめるが如き昔の弊風は社会の気運に反す」と述べた(ただし、南の場合は、ユニヴァーシティ化の視点からというより主流を構成するもうひとつの要素である実学の観点からの発言と考えられる)。宮部ら二期生は、札幌をエジンバラの如く「北のアテネ」(Athens of North)たらしめようと論じ合ったが、19世紀末から20世紀にかけてのアテネ化は、客観的方法論と専門分化による学問の発展を目指すドイツ型のユニヴァーシティ化たらざるを得なかった。(p.228-229)


学問の専門性が深まり分化が急速に進んでいく中、旧来のアメリカ型のカレッジでは高等教育として不足なのは明白であり(カレッジというのは、現在日本の普通高校程度の教育に若干の研究の要素が付け加わる程度というイメージではないか)、そこからの変化は不可避のものだっただろう。

新渡戸のここでの位置づけもなかなか興味深い。



日本がキリスト教圏内の対抗的勢力(カトリック)や異端ではなく、キリスト教圏外でプロテスタント・キリスト教勢力になる高い期待を寄せられた非キリスト教国であったことが、キリスト教宣教という大義のために積極的に評価されたのである。(p.347)


日清戦争の頃のアメリカのプロテスタント宣教団体らの日本への評価が、キリスト教の宣教対象として有望と見られており、かつ、カトリックや異端にはなびかないだろうという見積もりの下で積極的に評価されていたという。なるほどと思わされる。ただ、「宣教対象として有望」という宣教師たちの見込みは明らかに見誤ったものだったのは言うまでもないが。


柏原宏紀 『明治の技術官僚 近代日本をつくった長州五傑』

 明治26年(1893)10月には文官任用令が定められた。これまでに伊藤は内閣を支える官僚制の充実にも力を入れ、同20年7月に文官試験試補及見習規則を制定し、官僚の試験採用に道筋をつけ、その供給源となる帝国大学も整備していた(清水唯一朗『政党と官僚の近代』)。それ以前の官僚は、試験ではなく推薦や情実により採用されており、採用された官僚たちの能力にも差があって、効率的でも近代的でもなかったが、実際に業務を推進する中で淘汰されて行った部分もあり、彼らが役に立たなかったわけでは決してなかった。(p.194)


明治維新が語られるとき、何となく、封建制の江戸時代から近代社会になったかのようにイメージされるが、初期には欧米の技術を導入することにはある程度の積極性はあったにせよ、それは幕府にもあったことであり、政府も国民から選ばれた政治家が運営しているわけではなく、単に幕府や大名たちから権力を武力により奪い取った集団が統治しているに過ぎなかった。政治家が選挙などで選ばれていなかったのと同様、官僚たちも試験ではなく情実採用が大日本帝国憲法制定後まで続いていたことが分かる。

つまり、政治や行政のシステムについて、ある程度近代的な制度が整ったのは明治20年代後半以降のことであり、明治時代の半分以上の期間、統治機構は近代的でも民主的でも立憲的でもなかった。そのような時代であったということは銘記されてよいと思われる。



 特に御雇外国人ヘンリー・ダイア―の構想に基づいて明治6年(1873)8月に開設された工部大学校(当初は工学寮)が、学舎完成に伴い、同11年7月に改めて開校式を迎え、翌年11月に初めて卒業生を送り出せたことは(三好信浩『日本工業教育成立史の研究』〔増補〕)、それを当初から目指してきた山尾にとって大きな成果であった。(p.202)


建築の分野では辰野金吾などが最初の卒業生だが、彼らを教育する前の段階に長州五傑のような幕末留学組の人々が関わっていた。