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木山実 『近代日本と三井物産――総合商社の起源――』

北海道で準備金をもとに「確実ナル巨商」を通じて勧業政策を展開し、そこで生産されたものを清国に輸出すれば「物産ノ繁殖ヲ助ケ」ることになるし、外債償却の一助にもなるというのである。この上申はすぐに裁可を得ている。準備金の運用による勧業政策と外債償却策という手法がイギリスへの日本産品売込み以外に、北海道の勧業政策および清国との貿易にも適用されようとしていたのである。そしてそこで抜擢された商人は、この直後の六月に新たに設立された広業商会であった。(p.31)


明治9年のこと。当時の政府は外債を返済するため外貨を必要としていた。北海道の産品を清国に売ることで外貨を得ようとしていたというのは、興味深い。それ以前から中国東北地方とは交易があったというのは今までも聞いたり読んだりしたことがあったが、明治政府が始めようとした貿易とそれ以前の交易の異同について把握したい。なお、広業商会は注目に値するということが本書を読んでよく分かった。



広業商会は明治9年6月に政府の準備金40万円の資金貸与を受けて設けられたものであり、その店長(社長)笠野熊吉は薩摩出身の人物で、彼は薩摩閥が跋扈する開拓使との関係を築いた結果、五代友厚の後押しもあってこのような抜擢を受けたのであった。広業商会は、創設後すぐに清国上海に支店を設け、次いで明治12年までに香港にも支店を設置した。それらの支店を通じて、北海道で漁業者に勧業資金を貸与して生産された昆布や、また税として徴収された昆布、また開拓使管下の官営事業の産品などを売込んだのである。広業商会は、さらに清国向け荷為替業務や委託販売にも従事した。(p.36)


明治前半の北海道は薩摩閥抜きに語ることはできないようだ。



 以上みてきたように、物産は明治10年代には北海道方面への進出にきわめて熱心であり、官営幌内炭取扱んお商権獲得や三菱との競争については、井上馨や品川弥二郎というような、まさに前節でみた長州閥とのコネクションに依存しつつ、他方で益田孝は、随所で実働部隊として松岡譲、宮路助三郎、小川又蔵などという旧幕臣ネットワークの人材を駆使して、薩摩閥の勢力と調和をはかりつつ進出をはかったと見られるのである。ただ益田と松岡、宮路、小川らの間で、もともとどのような接点があったのかは判然としない。ここでも、間に渋沢が橋渡し役的に介在した可能性なども考えられるが、詳しいことはわからない。ともあれ、物産はこのようにして、幌内炭あるいは魚肥、昆布などの北海道産品の取扱に従事していくことになる。(p.200-201)


私が三井物産に着目するようになり、本書を手に取ることになったのも、三井物産や三井銀行などの北海道への進出が積極的だと見えたからであった。

なお、本文では薩摩閥、長州閥、旧幕臣ネットワークという3つの人的ネットワークについて言及されているが、この視点は極めて重要であり、明治期の政治経済過程を見ていく上で非常に重要な意義を持つ概念であると思う。



 だが物産上海支店にとっては、ここでその清国綿花取扱高の増大に応じたその輸入資金の調達という課題が生じてきた。横浜正金銀行の上海出張所が設置されるのは、明治26年であるから、それ以前には、物産は主に外国銀行で荷為替を組んでいたといわれるが、当時の物産はまだ外国銀行から十分な信用もなかった。そこで物産上海支店は、日本昆布会社から委託を受けていた昆布を抵当に入れ、荷為替を組む約束で融資を受け、それを綿花の購入資金に充てたのである。物産が企業勃興期に雨後の筍のごとく出現した紡績会社からの注文に応じることを可能にしたのは、北海道の昆布であったともいえる。このような清国綿花と北海道昆布の事例は、明治半ばにおいて、物産が他地域にわたって多様な商品を取り扱っていたことによる相乗効果が生じていた例を示すものであろう。こうして紡績業界からの信頼を築きつつあった物産は、26年には、別なる綿花供給国を求めてインドのボンベイに出張店を開設するのである。(p.202)
昆布と紡績の関係は興味深い。



 浦長瀬隆氏の研究によれば、渋沢、益田らがかつて出仕した大蔵省についてみた場合、明治初年に官僚機構が未整備な段階で大蔵省が官吏として雇用した者の多くは、旧幕臣層であったが、官僚機構の整備の過程で、彼ら旧幕臣たちは、広く全国から地方官庁を経て登用される人物にとってかわられていったという。そのように旧幕臣が政府から去っていくような事態は、大蔵省以外の官省でも、当然ある程度予想されるところである。その際、政府を去った旧幕臣たちは、新たな職を求めねばならなかった。明治前期における渋沢ら旧幕臣たちは、明治期に入り、「朝敵」の汚名を着せられつつも、時代の逆風のなかで、人的ネットワークを維持しつつ、協力しあいながら、懸命に生きていたということであろう。(p.204)


旧幕臣は当初は官吏として登用されたが、人材や組織が育ってくると職を去ることとなった。こうした官職を離れた旧幕臣たちは実業界で活躍することになった。



 明治7年5月には、かつて琉球人が台湾に漂着した際、現地人に殺害された事件の問責を口実とする、いわゆる台湾出兵が開始された。この際、明治政府は軍需物資の調達や輸送の担い手として、当初、三井や小野などの特権商人の活躍を期待したが、彼らの働きはまったく明治政府を満足させるものではなく、それとは対照的に危険の中で果敢に政府の期待に応えたのが、岩崎弥太郎の三菱や大倉喜八郎であった。三菱は軍事輸送を、大倉は軍隊輜重の任を引き受け、彼らは政府からの信頼を大いに高めていく。軍関係では、明治10年2月に西郷隆盛による西南戦争が勃発した時も、大倉組は陸軍の御用に応じている。
 明治8年9月、明治政府の軍艦雲揚号が朝鮮を挑発して起こった江華島事件を経て、翌年挑戦は開国を余儀なくされる。朝鮮の開港後、明治政府の予想に反して、日本人の中から朝鮮貿易に従事しようという者はあまり現れなかった。政府内で独裁体制を築きつつあった大久保利通は、当時内務卿となっており、大倉喜八郎を呼び出し、大倉組が率先して朝鮮貿易に従事するよう要請したという。大倉喜八郎はこれにも応じて、明治9年中に手代の富田重五郎、鈴木真太郎を派して朝鮮釜山に支店を出した。(p.215)


本書から得られる大倉組のイメージは「武器や戦争や植民地支配に積極的に関わる商人」というものであった。



大倉組の東アジア市場での飛躍は、やはり日清戦争後に日本の権益が拡大したことを受けての朝鮮、台湾への進出、さらには日露戦争後の清国本土への進出を待たねばならなかった。(p.217)


ここでも大倉組のイメージは上述のものの通りとなっているが、台湾にも関心を持つ者としては台湾での大倉組の活動なども気になるところである。



 会計法公布で大倉の事業は停滞していくかに思われたなか、大倉を救ったのは日清・日露戦という国運をかけた戦争であった。両戦争において大倉は精力的に政府(軍部)御用をつとめ、戦勝で日本の権益が拡大するなか、台湾・朝鮮での大規模な土木建設工事を請け負い、また大陸中国の多数の諸鉱山に大々的に投資活動を展開することによって急成長していく。(p.222)


大倉組以外にも同じような活動をしていた有力な商人(会社)はいたのだろうか?


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高橋明雄 『鰊 失われた群来の記録』

 明治期以降の漁場では労働力を主に東北地方の零細農漁民の出稼ぎに仰いでいた。彼等には「鰊殺しの神様」という尊称も奉られているが、一般には若い衆・若い者と呼ばれ、広く知られている「ヤン衆」には好ましくない響きがあるとして、実際の漁場では使われていない。(p.90)


ヤン衆という言葉が漁場では使われていなかったというのは知らなかった。



 事業が軌道に乗った親方の多くは“百万石時代”と呼ばれた明治中期に、競って大きな番屋を建てたが、今に残る小樽の銀鱗荘・鰊御殿や開拓の村へ移築した青山番屋、重要文化財として復元された花田家番屋などに往時を偲ぶことができ、平成9年に遠くスペインへ移築された増毛の田中番屋などもあって、貴重な木造建築の遺産としての評価は年ごとに高まっていく。(p.91)


銀鱗荘、青山番屋、花田家番屋は知っていたが、スペインに移築された番屋があったとは知らなかった。



だが、増毛町雄冬の旧青山番屋のように民宿となった後に、火災で焼失という例もあった。また、同町阿分の田中番屋は遠くスペインへ旅立ち、日本文化を紹介する施設として余生を送ることになったケースである。(p.125)


あるサイトによるとスペインに移築されたのは1977年というから既に40年前のことである。ウェブで検索しても少なくとも日本語ではほとんど何も出てこないところを見ると、既にこの建物はなくなっているのかも知れない。英語やスペイン語であれば何かヒットするだろうか?もし現存するのなら、是非行ってみたいのだが。


竹内洋 『立志・苦学・出世 受験生の社会史』

 志望校の入学試験に合格するための学校ということであれば、すでに明治10年代前後にもみることができる。東京英語学校や共立学校、成立学舎、独逸語学校などがこれである。これらの学校は東京大学予備門やその後身の第一高等中学校(高等学校令により明治27年、第一高等学校と改称)などに入学するための受験指導の学校だった。(p.27)


初期の札幌農学校の入学生は東京英語学校から来ていたが、東京英語学校はさらなる進学のための準備をする学校だったということか。



 江戸時代の上昇移動の野心は身分によって分節化されていた。そのことは武士が、「立身」を、町人が「出世」という言葉を使ったことと、その意味内容が異なっていたことにみることができる。武士が立身を使ったのはかれらの下位文化が儒学によって、町人が出世を使ったのはかれらの下位文化が仏教によっていたからである。(p.45)


武士と町人で下位文化が異なっていたというのは、中国の儒教と道教の関係とも似ており興味深い。



 幕末から業績主義による人材登用の気運が強くなったが、能力や業績の客観的基準が確立していたわけではない。西洋の知識(実学)をもっている者が人材登用される道が開けたが、その種の判断は登用者の恣意的基準によっていた。人材選抜の合理化Ⅰ(横軸のシフト)はおこったが、合理化Ⅱ(縦軸のシフト)は不十分だった。台頭してきたのは、業績主義と恣意性の領域が大きい組み合わせの類型Ⅲの選抜様式である。
 このような状態は明治20年ころまで続く。行政官吏の任用は上司の気儘な判定とコネや情実、藩閥の絆などの混合したものであった。(p.52)


北海道の開拓使の事例を見て、初期の高官は旧薩摩藩の藩閥によるものが多いことには私も気づいていたが、これが当時の全国的な傾向であったことがわかった。



 しかし、問題は、そういうイデオロギーがあまねく受容されているわけではないことである。学力エリートとノン・エリートによって分節化されて受容されていることだ。学力上位層の生徒と保護者は「勉弱」をよしとする冷却イデオロギーをあくまで顕教(タテマエ)として受け入れた。『プレジデント Family』(雑誌)などの学力アップや進学作戦本が、大卒エリートサラリーマン家庭でよく読まれてきたことにみられるように、大卒エリートやその予備軍は学力大事を密教(ホンネ)としたのである。学力下位層の生徒と保護者には密教の余地を残さずもっぱら顕教としてひろがった。
 冷却イデオロギーが学力ノン・エリート消費用の顕教となり、学力大事が勉強エリート専用の密教になったころから、生徒の階層による教育格差や学力格差がいわれるようになる。冷却イデオロギーが学力階層や保護者の階層によってどう受け止められたかが違ってきたのだということを補助線にすれば、まことにつじつまの合う帰結である。
 学力中間以下層の学力不振にさらに追い打ちがかけられた。基礎学力や知識量などで測られる学力は旧い学力であり、ポストモダンの学力は生きる力や個性、創造性、能動性などであるとされた。新しい学力観にもとづいて、学校は座学から討論型授業、総合学習、体験学習などをそろえた。「コミュニケーション・コンピテンシー」などが新しい学力だとされ、旧来の学力観では、新しい社会のなかで成功し、新しい社会を機能させていくことは不十分であるとされはじめた。このような新旧学力観も学力階層によって分節化されて受け止められた。学力上位層は両者を断絶したものではなく、連続的にとらえたが、旧来の学力は時代に適合しないという雰囲気だけに惑わされがちだったのが学力下位層である。(p.194-195)


学力上位層と下位層で勉強や学力に関する言説が別様に受容されたという指摘は興味深いものがある。学力より「生きる力」が大事だとか勉強ができることは他のことと比べてそれほど重要ではないといった類の言説に対しては、必ずしも妥当なものとは思えない感覚が私にも若い頃にあった記憶がある。その後も、学力は大事だというのはいろいろな場面で感じており、そうした経験からも、ここでの指摘には腑に落ちるものがある。ただ、この指摘の内容についてはデータで示してほしいところではある。



英国の教育社会学者ポール・ウィルスは、英国の筋肉主義的な労働者階級の子弟である「野郎ども」は、落ちこぼれてしまうのではなく、「ちまちま勉強するなんて女々しい野郎だぜ」と積極的に落ちこぼれを選択することによって階級の再生産を担ってしまうとした(『ハマータウンの野郎ども』 熊沢誠・山田潤訳、ちくま学芸文庫)が、日本の学力下位層が「世の中気合いとコミュ力」と学力格差を気にせず、貧困の中に入っていくとしたら、あの野郎どもの再生産メカニズムと機能的には等価である。英国型が「抵抗」による階級の再生産への加担とすれば、日本型は社会的成功と学力・学歴は無関係という「誤認」による階級の再生産への加担といえよう。(p.195-196)


社会的成功と学力・学歴が無関係であるという考え方が「誤認」であるということをもっと前面に出していく必要はあると思う。さらには、学力・学歴が生まれによって規定されている面があり、これを社会的に是正する必要があるということも同時に主張する必要がある。


渡辺悌之助 『小樽運河史』

 運河はこの場合、これらの艀船を収容する波静かな溜り場であったが、また海陸運輸の通路として既存の倉庫はもとより新らたに埋立地に建つ倉庫や上屋を極度に利用すると共に従来の繋舟岸を三倍にして、荷役の能率をいちゞるしく高めた。
 然も埋立地を造成するに当って、海底の土砂を浚渫してこれに充てたから水深を増すに一挙両得であり、また工事に当っても常に運河と航路の水面を保ちつゝ一区より順次に施行したことは、倉庫・荷役の工事中に蒙る障害を軽減するものとして運河式埋立の利点とされた。(p.98)


「従来の繋舟岸を三倍」にするとは、本来の陸地にある岸、運河の陸側、運河の海側と3つの岸ができるため三倍の艀を留めることができるということだろうか。

海底の土砂を浚渫して海側に埋立地を造成したので、水深を増すというメリットもあったという。大型の船が停泊できるかどうかという点(そのための一つの要素として水深が十分かどうかという問題)は、北海道の西側の海岸を見る限りではかなり重要な問題であったと思われる。

さらに、運河と航路の水面を保ちつつ一区から四区へと順次に施行したため、工事中でも利用可能な岸が常にある状態だったため効率をあまり下げずに工事が出来たという指摘も興味深い。本書を読んで最も参考になったことの一つは、こうした一区(現在の北運河の端の部分)から四区(現在の浅草橋より札幌側の今ではほとんど埋め立てられた部分)まで順次施行されたという経過が認識できたことである。それぞれの地区に残っている倉庫や歴史的建造物の古さなどもこうした工事時期と関連している。



設計の変更五度び18年の長きに及び、工事施工に着手して更に10年、合せて28年の長年月を要した運河の出現は、遅きに失して、世界の趨勢から置き去られたのである。(p.118)


小樽運河が竣工後まもなく時代遅れのものとなったのは確かである。しばしば言われる運河方式を推奨した廣井勇の判断は、ある意味では誤っていたのではないかと私は考えている。(すなわち、彼は物流のための手段として埠頭より運河が望ましいと考えたのだろうが、埠頭方式にした方が明らかにその後の流れに適合的である。)

ただ、戦後を含めた現在までの経過から見ると、当時は思いもよらないような形で観光資源となっており、そうした町の資産を大切にしていこうとする立場から見ると、廣井という権威が推奨したものだということを肯定的に評価しようという気になることは理解できる。



 商船が入港し繋留する対岸の陸地に、貨物を収受し出荷する倉庫の必要になることは当然であるが、小樽の場合、明治14年の金曇町大火を境に町勢が西に移動したゝめ従来、勝納有幌沖に懸っていた船舶が入船川を越えた以西の手宮湾に集中するようになり、この方面に営業倉庫の群落を見るに至った。(p.123)


なるほど。



右近倉庫-図51に就いては、大正7年運河工事進捗中に動議が出て、既に埋立の了った右近倉庫前を再び掘り返えして運河にするという案が出て揉めたことは、第三章一の(三)に述べた通りである。(p.174)


小樽運河の設計と施工の間の議論のグダグダぶりは確かにかなりひどいものがある。



 仲川以南いまのトンボハイヤーの在る辺りは、もと日本郵船発祥の地として此処に船入場があり、郵船橋が架かり、周囲に郵船の荷捌倉庫(40より41にいたる11棟)が密集した処である。(p.175)


郵船の倉庫が密集というのは、この会社の当時の小樽でのプレゼンスの大きさが反映しているように思われる。



日本郵船の船入場がいつ出きたのか不明であるが、明治27年実測小樽港図7には既に見えており、おそらくは小樽支店の設置(明治18年)と共に造られたものと思われる。
 またその閉鎖埋立に就いては、市の港湾部にのこる記録として、昭和31年7月1日から18日まで、郵船澗の面積2,100平方メートルに渉って工事ひ31万7千余円で浚渫工事を行っていることから、埋立は博物館の開館(昭和31年6月)以後である。
 因みに博物館の建物である旧日本郵船小樽支店(国指定文化財)は、明治38年11月この船入澗に面して再築されたものである。(p.176-177)


現在、この船入澗は埋め立てられて運河公園として整備されているが、いつできたか不明だと言われると妙に知りたくなる。本書は今から40年近く前に書かれた本(1979年)であるため、恐らく現在は建築年代くらいは分かっているのだろう。調べてみたい。



藤田文子 『北海道を開拓したアメリカ人』

 外国人の雇用にあたって、黒田はとくに「風土適当ノ国ヨリ開拓ニ長ズル者ヲ雇ヒ」いれることの重要性を強調した。その点で、日本人のイメージのなかにあるアメリカは、まさにぴったりの国だった。アメリカには北海道と似た風土をもつ地域があり、未開地開拓の経験も豊富であることを知っていた。また当時のアメリカが、南北戦争後の南部再建や国内開発に専念し、他国――とりわけロシア――との関係に巻きこまれていないことも、開拓だけでなく防衛にも大きな関心をもっていた開拓使にとっては、好都合だった。(p.23)


なるほど。前段の理由はいろいろなところで述べられているが、実際には後段の理由を前提として成り立っていたように思われる。



 ケプロンの一行が日本の発展に多くの貢献をすることは当然とみなされた。しかし、それにもまして新聞が強調したのは、日本との貿易が増大し、アメリカの産業が活発になることへの期待だった。……(中略)……。
 アメリカ人専門家を雇うにあたって、日本側の期待は、北海道の開拓に必要な知識・技術をもつ人材をえたいという具体的なものだった。これにたいして、アメリカ人の反応は多分にロマンティックで、文明の先進国として後進国を指導するという役割を甘美なものとして受けとめた。(p.26)


お雇い外国人を雇ったことについて、日本側でどのような影響があったか(何がもたらされたか)といったことはしばしば語られるが、人材を日本に送る側の社会でどのように受けとめられていたかといったことはあまり語られない。開拓使にアメリカ人お雇い外国人が雇われる際のアメリカ側の反応として、経済活性化という関心があったという点は非常に興味深い。

実際に、お雇い外国人が北海道に来た後、アメリカからいろいろなものを購入しているからである。蒸気機関車(義経号、弁慶号、しづか号など)、農具、牛などまでいろいろなものを購入している。その意味では、多少はアメリカの産業に貢献した面はあったのではないか。派遣した人数の割には日本にそれなりに多くのものを売ることができたとは言えそうである。



 正義感の強いライマンにとってとくに我慢できなかったのは、一部の個人を優遇する開拓使の政策だった。開拓使は、北海道に商人を誘致するために低利の融資を提供していた。……(中略)……。
 漁場の賃貸制度も自由競争とは相いれなかった。実質的な独占権を手にする少数の網元はまるで「大名」のようだった。たしかに彼らは、自分をたよりとする漁師やその家族のめんどうをよくみてはいるが、特権をもつ者と依存する者との関係にはかならず「抑圧」の要素がふくまれるし、個人の自発性も育たないと、ライマンは指摘した。また、網元たちが低利の融資をえていることも問題だった。(p.89-90)


ライマンは本書によるとかなりリベラルな思想を持っていたようであるという点が興味深いが、開拓使が一部の個人を優遇する政策をとっていたという点はよく理解する必要がある。



 ダンはウィリアム・スミス・クラークが教頭である札幌農学校にも批判的だった。クラークが「有能な優れた指導者であり組織者」であることも、「知的にも道徳的にもすぐれた」学生たちを集めたこともダンは認めたが、マサチューセッツ農科大学をモデルとする学校が北海道の開拓に役立つとは思えなかったのである。ダンは、農閑期の冬のあいだだけ机にむかう小規模な農業専門学校で十分だと思った。しかし日本人は高等教育機関には敬意をはらうが、実践的な地味な学校には関心をもたないだろうとダンは思った。案の定、予算不足をなげくダンの目の前で、巨額な資金に支えられた札幌農学校が誕生し、クラークは「日本全体、そしてとくに北海道の恩人としてたたえられた」のであった。(p.128)


エドウィン・ダンのこの見解は現在から見ると、評価がなかなか難しいところがある。当時の短期的な農業事情を考えると、確かにダンの言うような専門学校で足りたかも知れない。ただ、札幌農学校がアメリカのカレッジを模倣して高度な教育を行ったことは、中期的に見ると、その後の北海道におけるリーダー育成や道外からのリーダーとなりうる優れた人材を集めるという点では効果があったと思われる。廣井勇による北海道の港湾の設計や新渡戸稲造による遠友夜学校やスミス女学校をはじめとする教育への貢献などがすぐに想起される。もう少し長期に見ると、札幌農学校がある程度高度なレベルの学校として基礎が与えられていたが故に北海道帝国大学が発足できる可能性を高めることができたとも言える。

ただ、札幌農学校が開拓使の時代にかなり優遇された立場にあったということも事実のようであり、それはお雇い外国人の過ごしやすさにも影響を及ぼしており、農学校教師のブルックスが開拓使が雇った外国人の中でも最長の滞在年数だったことにもそれが表れている。



 たしかにクラークは、開拓使に雇われた他の外国人とくらべると、大幅な自由をあたえられたが、それでも完全に自由だったわけではない。しかし妥協が必要なとき、クラークはそれに応じる柔軟性を示した。(p.155)


柔軟性があったという点はクラークが現在にまで語り継がれるほど「成功」した要因の一つだと思われる。本書で取り上げられているかなりの数のお雇い外国人は、ある意味、現在の常識的な基準から見ると傲慢過ぎたり自己中心的過ぎて問題(開拓使や他のお雇い外国人たちとの軋轢)を起こしていたという面が否定できない。クラークにはそうした軋轢が相対的に少なく、周囲との関係がこじれていなかったことは、それだけ多くの人から慕われることができたことの背景となっていたと言える。



 ペンハローとブルックスが札幌農学校の仕事に満足した理由のひとつは、アメリカで土木技師として活躍することに執着があったホイーラーとはちがって、日本に来ることが仕事をえる機会だったということである。(p.173)


母国に帰国した後の栄達のための手段として日本での経験を位置づけていたお雇い外国人は日本での経験に対する評価が否定的な傾向があったようである。これでは日本での活動が単なる手段であることになるため、そこに充実感を感じる余地は少ないのも無理はないだろう。



開拓使時代の経営費総額は二千万円をこえ、同じ時期の内務省と工部省の歳出総額二千六百万円に迫るものであったにもかかわらず、開拓使が廃止されたとき、北海道の大半が依然として未開のままだった。(p.193)


開拓使の予算規模がいかに大きかったかが分かり興味深い。開拓使以後の時代の北海道は、公的支出を抑えて民間主導を方針として運営されていく。



しかも、この「札幌新道」は、経由地点の室蘭がまだ港として整備されていなかったことや、良質の石が手に入らないために補修が困難だったことからあまり使われず、鉄道が開通するまでは、小樽から石狩川を通って札幌にいたるルートが主に使われた。(p.197)


せっかくかなりの予算を使って道路ができたのに使われなかったとは。しかし、中長期のスパンで考えると札幌新道は結果的に無駄ではなかったとは言えるだろう。この道路と作ることに対する評価は難しい。


草原克豪 『近代日本の世界体験 新渡戸稲造の志と拓殖の精神』

 なお、台湾協会学校と並んでこれまたユニークな学校としては、1901(明治34)年に上海に設立された東亜同文書院がある。こちらは主として中国語・中国文化を学ぶための学校で、1939(昭和14)年には大学に昇格したが、日本の敗戦とともに廃止され、愛知大学に受け継がれることになった。かつての施設は現在は上海交通大学として使われている。(p.45-46)


帝国主義や植民地主義を実施しようとする社会においては、自国の影響下に置きたい地域についての関心が高まることが反映していると思われる。戦前のかなりの長期間にわたり仮想的国であったロシアなどについてももっと学んでよかったのではないかと思われる。



 この頃には、日韓併合が実施されたこともあって、卒業生の就職先では朝鮮が一番多くなった。朝鮮においては貧しい農村の窮状を救うための金融組織として1907(明治40)年に朝鮮金融組合が設立されたが、その第一期理事30名の全員が東洋協会専門学校の出身者であった。
 ……(中略)……。
 こうしてみると、卒業生の三分の二近くが外地で活躍しており、そのほとんどが朝鮮、台湾、満蒙、中国を舞台に活躍していたことになる。
 ……(中略)……。
 このように外地で活躍する人材を育てることが拓殖大学の建学当初からの目的であり、その目的を達成するための組織的な教育が行われていたところに、拓殖大学の伝統と特色を見ることができる。(p.68-70)


東洋協会専門学校は拓殖大学の前身となった学校である。もともと台湾協会学校として台湾統治のための人材育成のための学校であったが、この目的は日本の領土や海外利権の拡大によって拡張され、この学校の場合はかなり直接的に人材供給を行ってきたことが分かる。

北海道という植民地支配のための人材を育成することを目的として設立された札幌農学校(北海道帝国大学)の卒業生を見ても、外地で活躍した者がそれなりの数いたことがしばしば指摘されるが、こちらの場合は主に技術者や技官としての活躍(理系的)が多いように見受けられるのに対し、拓殖大学の前身の場合はここで例示されているものも金融であり、どちらかというと文系的な職で活躍した人が多かったのだろうか?



 学長に就任した当時の後藤は、日露協会副会頭として日露親善の推進に力を入れていた。翌1920(大正9)年には会頭に就任し、日露の親善を実現するためにはまずロシア語の習得が必要と考えて、ハルピンに日露協会学校(のちのハルピン学院)を創設したりしている。(p.79)


後藤新平の活動は多方面にわたっており感心する。



 拓殖大学の学長に就任した後藤新平は、前年に大学令が公布されたことを踏まえて、拓殖大学を大学令に基づく大学に昇格させることを決意した。……(中略)……。
 大学に昇格するためには、教育研究内容の充実をはじめとして種々の準備が必要であった。なかでも重要かつもっとも困難な課題は、50万円という文部省への供託金をどうやって調達するかであった。図書館の建設も認可条件のひとつとなっていたが、そちらのほうは卒業生の浄財を集めてようやく完成させることができた。その建築費が約4万5千円であったことを考えると、当時の50万円がいかに巨額なものであったかが理解できよう。このほかにも本館校舎や付属設備、運動場などの建設に25万円ほどの資金が必要とされたが、こうした資金のほとんどが後藤学長の名声と並々ならぬ努力によって台湾の製糖会社からの寄付金によってまかなわれたのである。(p.80-81)


後藤新平の働きかけなどもあって台湾の製糖会社から多額の寄付が得られたという点は興味深い。当時の台湾で最も有望な業会だったことも反映している。



 アメリカの排日運動は、日露戦争以前からカリフォルニア州のサンフランシスコで起こっていた。……(中略)……。
 ……(中略)……。パリ講和会議において日本代表が人種差別撤廃を提案した背景にはこうした事情があった。(p.102-104)


日本の人々が欧米から差別を受けている時だからこそ、日本政府は人種差別撤廃を訴えている。問題は、日本側が台湾や朝鮮などを統治するにあたって彼らを差別しないという誓いから出てきているわけではないようだ、ということである。



 大学よりも簡単に設置できる専門学校では、1939(昭和14)年に官立の高等工業学校が室蘭、盛岡、多賀、大阪、宇部、新居浜、久留米に一挙に七校も発足した。同じ年、戦争による医者不足に対処するために、七帝大医学部と官立六医科大(新潟、千葉、金沢、岡山、熊本、長崎)に医学専門部が併設された。……(中略)……。
 文部省は1943(昭和18)年10月の「教育に関する戦時非常措置方策」に基づいて、私学に対しても、文科系の規模縮小、理科系への転換を指示した。(p.188-189)


工学や医学を推進し、文系学部の縮小するという当時の政府の方針が見える。なお、室蘭高等工業学校は戦後に室蘭工業大学の前身の一つとなったが、他の6校も同様に新制の国公立大学の工学部になっている。


蝦名賢造 『札幌農学校 クラークとその弟子達』(その2)

 またスミス女学校の第一期卒業生であった河井道子が、のちに東京世田谷・経堂に恵泉女学園を創設するにあたって、新渡戸はその学園のために積極的に協力したが、それは札幌時代からの河井と新渡戸との深い信頼と尊敬によるものだった。(p.166)


恵泉女学園はスミス女学校(現在の北星学園)の卒業生が創設したとは知らなかった。新渡戸が協力したという点はスミス女学校の設立にも関わっているので理解しやすい。



札幌農学校が明治維新以降の日本の近代化にたいして各分野にわたってはたした功績は広汎であり、また多様だった。とはいえ総じてその役割は、河上徹太郎の言葉を借りると“日本のアウトサイダー”としてであったと思われる。1867(明治9)年に創設された札幌農学校独自の精神は、まず第一に農学校教頭クラーク博士が教育の根本原理として「聖書」にもとづくキリスト教主義のもとに、その文化と教養とを植えつけようとしたことだった。そのことは、わが国においてはまったく最初の画期的な試みだった。
 つぎに、農学校教育と経営にあたる指導者たちは、近代日本の建設に必要なものは単に法律、経済、政治などの社会科学部門だけではなく、理学、自然科学などを修学して産業をおこすことが必要であると説いた。それが農学校教育の眼目となった。このような考え方は、明治初年における青少年の一般的な夢と希望が、いわゆる青雲の志をいだいて東京帝国大学に入学し、主として法制を学び官吏となり、政府部門における権力の座にあって天下国家を論じようとすることであったのにくらべて、まさに正反対の行き方であった(そのような意味においては、あるいはアウトサイダーであったのかもしれない)。(p.182)


最初の段落で述べられているキリスト教主義のもとに文化と教養を植えつけるという点は、現在の北大の理念のうち、全人教育という点に受けつがれている。

但し、キリスト教的な教育が可能だったのは当時の北海道が東京から遠く隔たっており、細部までの統制ができなかったことや黒田清隆がワンマンでかなりのことを決めることができたという開拓使の権力の配分などの様々な偶然的な要素が重なっていたために辛うじて成立することができたものであり、クラークの希望がたまたま実現できたという偶然的な要素が強かった点は押さえておきたい。

後半の理学や自然科学を重視するという点も現在の北大の「実学の重視」という理念として継続性が認められる。但し、この点は北大だけの特徴とは言えず、むしろ日本の大学の全般的な特徴とでも言えるものであって、明治維新以後に語られてきた「和魂洋才」や「富国強兵」といった標語が広く受け入れられていたような事情が反映しているものだろう。その点で本書が東大が法律を学んで官吏となる学校であり、それが主流であるかのように対比しているのは、やや行き過ぎているように思われる。ただ、札幌農学校から北海道大学に至る歴史の経過を振り返ると、少なくとも東大との比較で言えば、やはりアウトサイダーとしての貢献をしてきたという特徴づけは的を射ている面があると思う。植民地開拓のための学校としてスタートしていることが、アウトサイダー的な特性の要因となっていると思われる。



新妻タケ子は群馬県安中に生まれ、新島襄から洗礼を受けて京都の同志社女学校に学んだ才媛であった。
 しかしふたりの結婚はわずか八カ月で破れた。(p.188)


内村鑑三と同志社、新島襄との関係はやはりそれなりに深いというか太いパイプがあるように見受けられる。結婚が短期間しか続かなかったのは、内村鑑三という人物の「円満な人格」とは言えない側面(人との関係が丸く収められないところがある)が関係しているのではないかという気がする。



しかし内村らを中心に反戦論がこのように公然と戦われたことは、明治以降の歴史において最初にして最後の事件であった。(p.201)


日露戦争に対して内村が反戦論を主張したことについて。明治末期にはまだ昭和初期ほどには検閲なども厳しくなく、言論の自由度も相対的に高かったということを理解しておくことは重要。なぜならば、言論の自由を侵害するに当たり、行政や警察等における組織の運用や治安維持法のような法律の存在が果たす役割の大きさに注目することになるからである。現在国会で審議されている共謀罪(テロ等準備罪という実態とは異なるレッテルを貼られている)の議論においても、こうした歴史の教訓を踏まえて議論されなければならない。残念ながら政府はまともに議論せずに採決したいと考えているようだが。



 新渡戸はボン大学で農政学、農業経済学を専攻した。さらにベルリン大学でシュモレル教授について農業史を、マイチェン教授について統計学を学んだ。(p.216)


シュモレルはシュモラーであり歴史学派の重鎮だが、マイチェンは恐らくマイツェン(Friedrich Ernst August Meitzen)であろう。彼はウェーバーが教授資格請求論文を出した先生である。新渡戸とウェーバーが意外と近い時期に似たようなコースで勉強していたという点はやはり興味深い。



そしてこれらのうち農業経済学のセミナーを“演習”と呼ぶようになったのは、新渡戸の発案によるものであった。(p.219)


確かに、大学時代の演習というのはゼミナール形式の講義のことだったが、このネーミングが新渡戸稲造にまで遡るとは当時は思いもよらなかった。



後藤がかくも熱心に新渡戸に固執したのは、東京帝国大学教授田尻稲次郎に「台湾統治の要諦は財政の独立にある。それには産業の発展が必要である。だれかもっとも適当な指導者はいないか」と相談したところ、一言の下に新渡戸がよかろうとの返事がかえってきたからであった。新渡戸は東京帝国大学で田尻から財政学、経済学を学んでいた。(p.220)


新渡戸は確かに東京帝国大学で一時学んだが、新渡戸の人生にとってはここで学んだことはあまり有意義ではないことが多かったとされる。しかし、人間関係のつながりという点では、東京帝大で一時であれ学んだことはそれなりの意味があったと言える。興味深い。



 さらに彼は糖業のみにとどまらず農事試験場をせ設立し、農産業全般の発展をも企図している。その初代の場長は、札幌農学校の教え子である大島金太郎教授が選ばれた。それ以後札幌農学校出身者にして台湾に渡り、糖政に、あるいは農業行政に従事するものが多くなっていった。こうして当時の新領土・台湾のなかに、新渡戸一流の文化的精神が注入されたのであった。(p.222)


札幌農学校の卒業生が植民地であった台湾に多くわたっていたが、このことも新渡戸が台湾総督府で働いたことがそれなりの影響を及ぼしているということか。こうした人脈を相互の関係にまで着目して追跡すると面白いだろう。とはいえ、こうした調査は研究者でなければなかなかできそうにないので、誰か調べて本にしてほしい。



 この暗闇の時代を支配する軍国主義とファシズムの勢力に、クラークの残した「ボーイズ・ビー・アンビシャス」というスローガンは、むしろ利用されはじめていた。事実、1931年以降、日本のかいらい政権として成立した満州国建設に、北大の卒業生のなかから積極的に参加するものが数多くあらわれてきたのである。(p.263)


スローガンが利用されたから卒業生が満州国に行ったわけではないだろう。この点、上記の文は誤解しやすい書き方になっているので注意が必要だろう。北海道という植民地開拓のための学校からは、台湾、朝鮮、満州と次々と植民地(的なもの)が増えると、それぞれに適任者として卒業生が送りこまれることになったと理解すべきだろう。そのような「活躍」をさせる際にスローガンが利用されたことはあり得るが、具体的にどのように利用されたのかは本書にはきちんと書いてほしかった。




蝦名賢造 『札幌農学校 クラークとその弟子達』(その1)

 そのような状況のもとで、黒田次官は北海道の開拓を促進する大方針をたてたが、そのなかで北海道と気候風土の酷似した国々から開拓技術者を雇い入れて計画をたてさせ、その見識と技術とによって開拓を進めようという意見をのべ、明治新政府によって採用されることになった。……(中略)……。黒田次官はそれらの考え方を再検討し採用したのであるが、彼がその後も北海道開拓長官として、長期間にわたる権力の座についていたことは、これらの諸政策の実施の上においてきわめて重要な役割をはたしたのである。(p.16)


北海道開拓の初動の段階で黒田清隆が長期間権力を維持しできたことは、その後の開拓を進めるにあたって大きな意味を持ったという点はなるほどと思わされた。



またこの八月、開拓使の予算が十カ年一千万円と定められ、開拓使は十年計画として資金計画を認められている。このことは、北海道開拓政策上画期的なことであった。それはケプロンの理想を具体化させる大きな原動力となったのである。(p.17)


黒田が長期間権力の座についたことと合わせて、開拓使の予算も長期的に大きな金額が認められたことがわかる。(もっともこの予算は確か後に削られたはずだが。)



ところが札幌農学校の場合、東京大学の場合と異なってクラーク自身そのお雇い教師たちの詮衡の責任と権限を与えられ、彼が学長をしていたマサチューセッツ農科大学の出身者のなかからすぐれた人材を選ぶことに成功したことが、その後の札幌農学校の運営にたいして決定的に重要な意味を与えることになった。
 すなわち、クラークが北海道開拓史とかわした一年間の契約によりその教頭の職を辞して札幌を去るようになったとしても、クラークのうちたてた教育の理念、教育の理想はその後継者たちに受けつがれ、マサチューセッツ農科大学で実施されていた教育課程がその後ひきつづき札幌農学校において実施されてゆくという教育体制がとられることになったのである。(p.62)


興味深い見解。ただし、クラークが去ってから大学のカレッジのような一般教養教育は次第に後退していったという歴史的事実から見ると、この見解の通りに歴史が辿ったわけではない

しかし、マサチューセッツ農科大学という明確なモデルがあったことには、クラークが去った後も急に方向性を変えられてしまうようなことを防ぐような効果はあったかもしれない。特に10年以上札幌農学校の教師を務めたブルックスがいた期間などには、そのようなことを示すような事件もあったのではないかと想像する。この点はさらに詳しく調べる必要がある。



そして1884年の第四期卒業生からは就職上の拘束が解かれたので、卒業生はそれぞれ自由に各方面に職場を求めていった。このことは農学校設立当初の目的から大きく後退したともいえるが、そのような札幌農学校の後退が、実は、逆に札幌農学校の「子」たちを道内のみならず全国的に雄飛させてゆく機会を提供することになったのであった。(p.74-75)


就職上の拘束とは卒業生は卒業後の一定期間、開拓使に奉職しなければならないという規定を指す。この拘束がなくなった方が、むしろ農学校の卒業生が幅広く活躍する機会へと繋がったという見方は面白い。



 しかしときあたかも日本の教育の近代化が文部大臣森有礼を中心に進められ、全国的に中等学校勃興の機運に際会していた。……(中略)……。そうした動きのなかで、農学校出身者は英語、英文学などのすぐれた教育を受け、また博物学、ことに植物学に長じていたので、全国の農学校はもとより新設の中学校、師範学校における教師の適任者として大いに歓迎されることになった。
 このような関係から、農学校の卒業生で北海道の拓殖関係の職場に奉職できなかった者は、積極的に内地各府県の中等教育界にとびこむようになった。さらにそこで職場がえられない場合には、遠く台湾、そしてのちには朝鮮、満州方面、さらには南米諸国にまで雄飛していった。(p.105)


中等教育勃興の機運が高まったとされているのは明治10年代後半ころのこと。開拓使への就職が義務から外れたとき、ちょうど中等教育の需要が高まっていたこともあり、札幌農学校の卒業生は中等教育の世界を進路とした。台湾などの植民地にも多くの卒業生を送りこんでいる点は、北海道開拓という植民地開拓のための学校という設立時の目的が時代の変化によりバージョンアップして実現したという面があるように思われる。

卒業生は多方面で活躍していると本書は言い、それは農学に偏らない人間形成主義の教育をしていたことの結果であると本書は述べているが、その指摘には一理あるように思われる。



しかもこのような事実以上に重要なことは――それが本書の主題の重要な側面を形成することになるのだが――昭和の初期にはじまる十五年戦争の暗い谷間と疾風怒濤の時代に、日本の平和と独立をめざして闘った戦士のなかに、実にクラークの弟子たちの感化を受けた札幌農学校の「子」が多くふくまれていたということ、しかも戦後の日本の再建にあたっても、これらクラーク精神の継承者たちがその使命を担っていったということなのである。(p.107-108)


この箇所は本書の隠れたテーマというか著者が本書を書くにあたってのモチーフとして非常に重要な箇所である。本書は1980年に出版されているが、この時代はオイルショックの時期を経て低成長の時代へと変わっていくにつれて新自由主義やネオコン的な保守主義が台頭しつつあった時代である。著者はこうした時代の雰囲気に対して、クラークとその弟子たちを描くことを通して、抵抗しようとしていたようである。



 北海道帝国大学独立の基礎はこうして着実に築かれていったが、その背後には、親友であった一代の政治家原敬などによる積極的な協力があったことも見逃すことができない。(p.111)


佐藤昌介が北大に対して貢献があったことは否定できないとしても、大きな貢献をしたという論が多くある一方で、過大評価してはならないという批判もあり、どの程度が彼の貢献なのかは今一つはっきりしないと思われる。それはさておき、原敬の「積極的な協力」の内容についてももう少し詳しく知りたいところである。



 広井は鉄路課に勤務中、北海道最初の鉄道である小樽-幌内間の工事に従事している。(p.126)


廣井勇と小樽の関係では、小樽築港工事がまず思い浮かぶが、幌内鉄道の建設の頃からかかわりがあったとは面白い。ここではどのような仕事をしたのだろう?



広井はこのようにいわれるまで刻苦して貯えた資金をもとに1883年12月10日、横浜を発って渡米した。この広井の行動が同級生の洋行の刺激となり、翌年9月には新渡戸稲造(23歳)、つづいて11月には内村鑑三(24歳)、さらに1886年には宮部金吾(27歳)の順にアメリカに渡ることになり、おたがいにそれぞれの専門分野の研究にいそしむ結果をひきおこすことになった。このことはまた、のちに日本の学界、思想界、精神界に一時代を画する前ぶれともなったのである。(p.126-127)


同級生同士での切磋琢磨ないし競争意識のようなものがあったという見方は興味深い。新渡戸や内村などを単独で扱う視点では見落とされがちな見方かも知れない。



 広井が土木工学科の主任教授となり、北海道庁土木課長を兼任したとき、彼はまだ弱冠22歳であった。貿易港として発展の途上にあった函館や、道内最盛の商港になった小樽港の築港は、彼の設計と指導によるものだった。広井はその後、日本の主要港湾となった室蘭、釧路などの築港や鉄道敷設に従事し、北海道開拓の基本施設たる鉄道、港湾建設に貢献するところ多大だった。(p.127)


廣井勇が北海道の港湾に残した功績は確かに大きなものがある。鉄道についてもいろいろと仕事をしていたというのは港湾ほどには注目されないのはどうしてだろうか?まずはどのような仕事をしていたのか知りたい。


小菅桂子 『カレーライスの誕生』

 彼は明治3年、16歳のとき、会津藩から選ばれて、国費留学生としてアメリカへわたる。北海道の開拓を司っていた政府機関の開拓使が、北海道と似た環境の、寒さの厳しい東北から十数人の少年を選抜して、アメリカで開拓者精神と開拓技術を学ばせ、開拓に役立たせようという国策に基づくものであった。(p.13)


山川健次郎についての記述。開拓使が少年をアメリカに留学させたというのは、今まで読んだ文献でも何度か目にしていたが、東北から選んでいたというのは今まで気付かなかった。しかし、山川健次郎は帰国しても北海道の開拓には関わったという話は聞かない。そのあたりの経緯ももう少し詳しく知りたい。



ヘイスティングズがイギリスにカレーを紹介したのは1772年であるため、ヘイスティングズが直接「ヴィクトリア女王に献上」したわけではないが、ヘイスティングズが持ち帰ったカレーはやがてイギリスの社会に浸透していったのである。
 その背景にあったものとはイギリスの食文化の貧しさである、と指摘する人もいる。調味料ひとつをとっても、ろくなものがなかった、それが二人に福を呼ぶことになったというのである。
 ウスターソースやケチャップの類がイギリスで生れたのもおなじ理由からで、東南アジアに植民地を築いていたイギリスは、アジアの美味をつぎつぎとイギリスに持ち帰らせ、アレンジしてイギリス人の舌に合わせた味に仕立て上げ愛用するようになった。二人が開発したカレー粉についても、インドのガラムマサラというお手本をもとに作り上げたのではないか、と推測することもできる。(p.52)


なるほど。カレーやウスターソース、ケチャップはもともとは貧しかったイギリスの食文化を背景として、東南アジアとの接触により開発されたというわけか。食文化が貧しくなくても、異なった食材が容易に入手できるようになればこうしたことは起りうると思う(例えば、イタリアにおけるトマトなどが想起される)が、こうした調味料がもたらされた(開発された)ことにより、イギリスの食文化がそれ以前よりも豊かになったことは確かだろう。



 西洋野菜の栽培には北海道が大きく関わっている。しかも開拓使によるところが大きい。(p.72)


日本のカレーにはジャガイモ、ニンジン、玉ねぎという「西洋野菜」が三種の神器として使用されることに関連する記述。カレーというものを追う中で、新たな探求課題に突き当たったと感じる。



 ライスカレーが日本人の食卓に普及し定着した背景には、漬物、それも福神漬との名コンビが大いに存在感を発揮している。
 牛丼のトッピングにショウガが付きものであるように、トンカツには味噌汁と漬物、ご飯がセットになってはじめて日本人の定食として定着した。つまり西洋料理は和洋折衷的なコンビを組めたものが、国民食として市民権を得ているのである。(p.122-123)


確かに、一般の市民の家の食卓に上がるためには、既存のものとの組み合わせは重要になってくる。それ以外の同時に食卓に乗る食べ物との相性にも繋がっていくだろうし。



 明治20、30年ごろは一般家庭で惣菜に西洋料理がならぶことはなかった。「和洋折衷」という言葉は、明治の終わりごろからよく使われるようになってくる。(p.136)


生活水準がある程度上がってくるのが明治30年代以後であることが、30年ごろまでは西洋料理が並ばないこととは関連があると思われる。



豚は明治30(1897)年を過ぎるころまで統計資料もなく、豚は統計以前の存在だったのである。

 豚の需要が伸びるのは明治も30年代後半のことで、その背景には、戦争という事情があった。
 日清、日露の戦争が起こって牛肉の缶詰が軍需食糧として盛んに戦地へ送られるようになると、牛肉の相場は暴騰して、明治37(1904)年には10貫目(約38キロ)14、5円だった牛肉が翌春には25、6円という極端な高値となる。……(中略)……。
 こうして市場に流通する牛肉が減り、値上がりしてくれば、安い豚肉に関心が向き、豚の飼育頭数は急増してくる。……(中略)……。
 以来関東では豚肉が定着して、カレーでいえばビーフカレーよりポークカレーが普及している。また、もしこうした背景がなかったら今日ポークカツレツ、つまりトンカツ、カツ丼、カツカレー人気はなかったとも考えられる。
 これに対し、関西は牛肉の産地を控え関西人をますます牛肉党にしてしまったのではないだろうか。(p.152-153)


関東では豚肉、関西では牛肉を使うことが多いことの歴史的背景。大変興味深い。

横尾壮英 『中世大学都市への旅』(その2)

 フェローがチューターを兼ねるというのは、学生が教師を兼ねるということである。……(中略)……。
 こうしてイギリスの学寮は、学生の教育の場となると同時に、大学教師の養成の場ともなった。ドイツやフランスでは、やがてハビリタティオンやアグレガションといった一種の教員資格試験が大学教師の関門として重要な役割を果たすようになるのだが、そういう動きとはかなり異なって、イギリスでは、学問をする者が学寮で後輩を相手に教育実習をくり返すことによって、教師としての修練を積むという方式ができていった。それは、ベルリン大学の創設時にフンボルトなどが強調した理念とは類を異にする、研究と教育の相即だったといえるかも知れない。
 それにまた、チュートリアルは教師一対学生一の最も小規模な教授形態であるから、大陸部の講義を主とする高等教育とはおよそ対照的な高等教育が、イギリスで展開する要因となったともいえるだろう。(p.84-85)


チューターに報酬が支払われるようになるのは14世紀末頃で、それ以後イギリスの二大学で急速にチューター制が広まったという。後のドイツで発達するゼミナール形式とチューター制には共通点があるように思えるが、学生が教師を務めるという点がチューター制のポイントの一つであるように思われる。



教師は、集まった学生から聴講料をかき集める自由業的な職業から、一定の給与を保証されて、その代わりに講義をする官吏へと転じていくのである。
 ……(中略)……。
 ところで、サラリー制がもたらした最も大事なことの一つは、教師の人事権の移動だろう。もともと学生がもっていた教師の選考権が、新しく金を提供するようになった公的な機関や権力者の手に移っていったのである。……(中略)……。
 このころのサラリーというものは、今と違って格差を当然のこととしていた。……(中略)……。
 ……(中略)……。その結果、大学の教師の間にいわば少数の特権階級と、数多い薄給の教師群とが対立するような構図ができていった。サラリー制は教師の階層化をも生み出したのである。(p.133-139)


教師の収入の変化は、大学の資金を誰が出すかという問題と連動している。学生と教師の組合から都市や王侯や政府の機関へと変わる中で、学生よりもパトロンの方が権力を強めていく流れが見て取れる。



少なくとも13世紀の段階では、イタリアでもフランスでもイギリスでもスペインでも、大学の設立権は都市にあるとみなされていた。
 しかし、そういう常識を破るような男が現われたのも、かなり早いことだった。その男は神聖ローマ皇帝として有名なフリードリヒ二世だ。……(中略)……。そして、大学団と都市が結びついてできる大学、という旧来の形にとらわれずに、人為的あるいは政策的に、自分の町ナポリに大学を作ることにした。
 それは、ボローニャからパドワが分かれてできた二年後の1224年のことだった。
 このフリードリヒ二世のやり方は、それまでの大学作りに一種の地殻変動をもたらした。彼のまねをする者がすぐに現われた。ローマ教皇の手でトゥールーズの大学や、ローマの教皇庁の大学が作られたのはそれから間もないことだった。
 教皇や皇帝といったヨーロッパの支配的な権力者が大学を作るのに、だれも異議を唱えることはできなかった。その結果、都市が大学を作るという方式と、教皇や皇帝が大学を作るという方式が両立することになった。そして、しだいに都市が作る場合にも教皇か皇帝の許可がいる、そのお墨付きがないと具合が悪いというふうに考えられるようになった。大学の設立権と認可権の分化がはじまったのである。(p.229-230)


ここではフリードリヒ二世やローマ教皇といった個人が下した決定が重要なものとして描かれているが、彼らに大学を設置することに意義があると考えさせたのは、どのような社会的な背景があったからだろうか、ということが気になる。

支配の道具としての法律の必要性が高まってきたということだろうか?もしそうなら、法律の必要性が高まったのは何故だろうか?13世紀世界システムが成立したことで経済活動が活性化し、この過程の中で貨幣による取引が増大したことが関係しているのだろうか?



 その先輩格の中世大学としては、ボローニャとパリが代表的な存在で、前者はいわゆる学生大学、後者は教師大学の祖となり、それぞれが、大まかにいうとアルプスの南と北の諸大学に強い影響を及ぼした。また全欧的に、法学部にはボローニャの、神学部にはパリの息がかかった。
 ……(中略)……。
 たとえばヴィーンではハインリヒ・フォン・ランゲンシュタインが、またハイデルベルクではマリジリウス・フォン・インゲンやコンラッド・フォン・ソルタウが、パリ大学方式の運び屋であった。(p.242-243)


中世の大学について知るにあたって、基本となる枠組みを与えてくれている。ハイデルベルクなどドイツ語圏の大学はパリの影響が強いらしい。今まであまりパリ大学には注目したことがなかった。パリとボローニャの大学については、それぞれ掘り下げる価値がありそうだ。



家族の生活が借家でもくりひろげられるように、大学も最初のころはよその軒先や賃借りした建物で活動をつづけていた。だが、時がたつにつれてその傾向はうすれ、自前の施設を手に入れ拡充していった。まず学寮が生活と修学の拠点となり、15、6世紀からは大学としてのいわゆる本館もできるようになる。だから中世大学は、大ざっぱにいって学ぶ者の集団化→学ぶシステムの開発→学ぶ施設の確保という段階を追って、その歴史を展開したといえるだろう。
 しかしそこまでくる、つまりシステムと設備が整うころになると、人もシステムもすべてが安定して動きがにぶくなる。順調な営みに鈍さや硬直性が同居する。
 大学は、本来自由に生まれて自由に消えるものだった。それが教皇や皇帝という権力のお墨付なしには設立できなくなったし、廃止も簡単にはできないような機関となった。……(中略)……。
 こうして大学は、時とともに国境のなかに自己を閉じるようになっていった。(p.253)


初期の頃の大学が自前の施設すら十分に持たないものであり、自由に生まれ自由に消える、まさに自発的な結社であり組合だったという認識は本書から得た収穫だった。現代の大学のありようが、こうした過去の姿と対比することでより明確に浮かび上がると思われる。