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アヴェスターにはこう書いている?
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奥井隆 『昆布と日本人』

 江戸時代までは1艘の船は1年一航海が原則でしたが、明治時代に入り、年に3~4回の航海ができるようになりました。それは松前藩の入港制限が撤廃されたことによります。こうして北前船の船主たちは莫大な財をなしていきます。戦国船は19世紀から明治の終わりごろまで活躍します。(p.35)


なるほど。江戸末期から明治にかけて北前船の船主が物凄い勢いで富を蓄積していったのは、このような制度的というか政治的な条件もあったということか。



 つまり、昆布で得た莫大な利益が、倒幕資金となったのです。潤沢な資金が、薩摩藩を中心とした官軍(反幕府側)の軍事費となり、近代的な軍備を整えた新勢力が幕府を倒し、明治維新を迎えることになります。いってみれば、昆布が日本の近代化に貢献したといっても過言ではないと私は考えます。(p.41)


昆布ロードでの貿易において清と密貿易を行うことで、薩摩藩は藩の財政を立て直すことができただけでなく、軍備力増強のための資金にもなり、それが幕府を倒すことに繋がったというのはそうなのだろう。

ただ、明治維新をしなければ近代化しなかったかのような言説はやや割り引く必要がある。例えば、西洋式の城郭である五稜郭を建設したのは明治政府ではなく幕府であったし、幕府も西洋から軍艦を購入するなどのことはしていた。明治時代に西洋化が進んだからといって、後に明治政府を設立する薩長と対立していた幕府が旧守派や日本の伝統に固執していたに違いないと考えるのは恐らく誤りだろう。どちらも西洋化しようとしながら争っていたという見方をすることも可能である。実際、幕府はフランスとも通じていた。英仏の帝国主義の争いにおいて弱い側をバックにつけてしまったことが幕府の敗因かも知れない。



 右近家は江戸中期から明治中期にかけて大坂と蝦夷地を結んで隆盛を極めた北前船主です。幕末には日本海五大船主の一人に数えられ、最盛期には19艘の廻船を所有し、日清、日露の戦役には数隻を軍用に提供しています。
 ……(中略)……。
 右近家の歴史を振り返ってみます。北前船のオーナーとしてゆるぎない地位を築いたのは幕末期。(p.42)


右近家が幕末期にゆるぎない地位を築いたのは、松前藩が入港規制を緩めたことを(他の船主たちよりも)有効に活用したということなのではないか?



 そうした社会の変化のなかで、右近家は、近代的な経営へ向かうことになります。海運業を続ける一方で、最も関係の深い海上保険業への進出を図り、1896年に、石川県の船主・廣海家らとともに、現在の日本興亜損害保険株式会社の礎となった「日本海上保険会社」を設立しました。これはかつての北前船の難破や破損事故から、「保険」を切望した経験があったからこそ、保険会社を立ち上げたのではないかと思われます。(p.44)


北前船の経験にから他の北前舩主らと海上保険へとつながるあたりは、イギリスで船主たちが出入りしていたロイズ・コーヒーハウスで、ロイズ海上保険が誕生したことと似ている。

北前船の船主たちは手に入れた資本をもとにして、様々な業種に手を伸ばし、近代的な経営へと業種を転換していったのだろう。有力な船主たちを個別に調べていくといろいろと面白いことが見えてくるかも知れない。



 実際に、今に伝えられている「江戸料理」のだしは鰹節からのものであり、昆布はほとんど使わないといっていいぐらいです。昆布を使うとしても、日高昆布が主流です。私が東京で初めて商売をするようになった30年前は、築地市場でも昆布は日高しかありませんでした。
 その理由は昆布の流通の歴史に答えが見つかります。北前舩で蝦夷地から上方へ運ばれ、まず上質の昆布から売れていき、量が多かった日高昆布を上方から江戸に送ったのです。言い方は悪いですが、上方で売れ残ったものが江戸で消費されたということになります。(p.71)


なるほど。面白い。流通は地域の食文化にも大きな影響を与える。



 富山は1世帯で昆布を消費する金額と数量は日本一だといわれています。その背景にはやはり北前舩の寄港地だったことがあげられます。なかでも、羅臼昆布は、富山で最も多く消費される昆布です。北海道開拓時代、富山から多くの入植者が知床半島に移住し、親戚縁者にその羅臼昆布を送ってきたつながりが今も残っているからです。(p.117)


開拓のための移住と昆布の消費に関係があるとは、考えたこともなかった。



 琉球は定期的に中国へ貢物を送り、それに対して皇帝からの使節団により恩賜が与えられるという関係でした。その中国からの使節団をもてなすのが豚肉料理でした。使節団は400人、半年も滞在するのが慣例で、大量の食材が必要とされました。豚の飼育が奨励されたのをきっかけに豚肉料理が定着し、昆布と組み合わせたと考えられます。
 中国は、貿易の品に昆布を望み、琉球はその昆布を薩摩藩から手に入れ、薩摩藩は昆布の対価に中国から到来した薬種を求める……そのつながりが昆布と豚肉を結びつけたといっていいでしょう。(p.118)


これも興味深い。


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中川裕 『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』

北海道で現在私たちが知っているようなアイヌ文化が成立するのは13世紀頃と言われており、本州で言うと、ちょうど平安時代から鎌倉時代に移った頃のことです。これはおそらく偶然ではありません。源頼朝が東北地方にいた奥州藤原氏を倒して鎌倉幕府を樹立しますが、それは当時の中央政権が東北地方の端まで勢力を及ぼしたことを意味しており、蝦夷と和人(日本のマジョリティ:いわゆる「日本人」)の関係が大きく変わる要因になったことは十分に考えられます。
 13世紀以前に北海道にあったのは、擦文文化とオホーツク文化と呼ばれるもので、それぞれ擦文式土器とオホーツク式土器を使っていました。オホーツク文化はやがて擦文文化に吸収されて、それが現在知られるようなアイヌ文化のもとになったというのがこれまでの定説ですが、アイヌ文化になったところで何が変化したかというと、なんとそれまで作っていた土器の使用を一切やめてしまったのです。これはすごい変化です。……(中略)……。その理由は、鉄製品が豊富に手に入るようになったからだと考えられています。
 ……(中略)……。このように豊富な鉄製品がどこからもたらされたかというと、やはり本州からというのが自然な流れでしょう。(p.55-56)


歴史の変遷は興味深い。さらに言えば、平安から鎌倉への支配層の変化は、大陸の動向(宋から元が支配する)とも関連しているのではなかったか。

土器を使わなくなったというのも興味深い。本書の説明では本州から来た鉄を使ったから、ということだが、もしそういう理由が成り立つのであれば、本州でも鉄で食器などを作ってもおかしくないのではないか?という疑問は生じる。このように、本書の説明には概ね納得はするが、多少の疑問はある。



アイヌの世界観も、カムイとの物々交換――つまり交易という考えを前提にしたもので、これは和人や近隣の諸民族との交易が盛んになってきてから、完成されていった考え方だろうと思います。(p.58)


なるほど。



 樺太アイヌの文化には北方の狩猟民との交流の結果として、彼らとの共通点がいろいろ見られます。網走などで、アイヌのお土産ということで、人の形をしたニポポ人形というものが売られていますが、これはニーポーポという樺太アイヌの玩具兼子どもの守り神で、北海道では一般的にはこのような人型の人形を作ることはありません。(p.59)


ニポポというとアイヌというイメージだったが、そういうものだったとは。



東北地方でも18世紀半ばまで、アイヌ語は生きていたことになります。(p.63)


この辺も興味深い。



 江戸時代に入るまでは、北海道のアイヌと和人は交易相手としてほぼ対等だったと思われます。それが変わってきたのは、1604年に松前藩が徳川家康から黒印状を受けて、正式に松前藩が確立してからです。当時北海道では米はとれませんでしたので、松前藩は俸禄の代わりにアイヌとの交易権を藩士の給与として分け与えました。これを商場知行制と言います。つまり藩士何某がアイヌ何某と独占的に交易する権利を与えたのですが、これはアイヌ側からしたらそれまでの自由貿易ができなくなったわけで、松前藩士の言い値で取引しなければならない土壌ができあがってしまいました。そこへもってきて、特にキリシタン禁教令によって逃れてきた本州からの移民が、アイヌの居住地へどっと入ってくるという状況が生まれました。そのおもな理由が砂金掘りです。「ゴールデンカムイ」という物語の背景は、その300年前から準備されていたのです。
 そのようにして和人への不満が募っていった中で、1669年にシャクシャイン戦争という、歴史上最大のアイヌ対和人の戦争が起こります。(p.63-64)


商場知行制がアイヌ側にとって意味した内容はよく押さえておくべきと思われる。



結果的にシャクシャインは和議といつわった酒宴の席でだまし討ちにあって殺され、アイヌ側の敗北となりました。
 これを機に松前藩はアイヌへの政治的・経済的支配を強め、享保・元文期(1716~41年)には場所請負制という体制が確立しました。それまでは藩士が直接アイヌと取引をしていたのですが、それをやめて、商人に運上金を納めさせ、その代わりに各「場所」(アイヌとの交易地域)の経営を商人に請け負わせるという制度です。利益を上げるために、商人たちは交易などというまどろっこしい方法はとりませんでした。アイヌの成人男女を漁場労働にかり出して、ニシン漁やイワシ漁などに従事させたのです。(p.66)


場所請負人について、北海道では各地域でかつて力を持っていた商人として比較的好意的に紹介されることが多いように思うが、彼らには陰の面もあったということを十分理解しておく必要がある。



私が感心しているのは、作者の野田先生が小樽の街を「治安が悪いけれど、金の匂いがする街」というイメージでお描きになっていることです。
 これは、歴史的には非常に正確な描写なのです。……(中略)……。
 ……(中略)……。他の地域では、たとえば「農地を開くために北海道に来ました」というように、特定の目的のもとで人々が入植したのですが、小樽だけは「小樽に行けば何とかなる」という思いでやって来た人が多い、非常に特殊な環境だったのです。(p.104-105)


この引用文は、小樽市総合博物館館長の石川直章氏によるコラム「小樽から見た「ゴールデンカムイ」」からのものである。

北海道に人を住まわせ、産業を起こさせ、ロシアの南下に対して備えようという当時の政策を実行するに当たり、最も重要な拠点の一つが小樽だったことが、こうした特殊な環境となった理由の一つだろう。国の政策が変わることで、こうした条件が一気になくなってしまったのが戦後の小樽であり、その変化が激しかったことが、古い町並みが残ることになった要因の一つだろう。

大谷渡 『台湾と日本 激動の時代を生きた人びと』(その2)

 日本では、本当に待遇が良かった。東京に住んでみると、日本人が台湾のことをあまり知らないことがわかった。高等学校へ入った時、「台湾ってどこ。」と尋ねられたことがあった。台湾に対する認識がないから、台湾に対する差別もわからない。むしろ、台湾からよく来たと言って、歓迎された。中学時代に思い描いたように、日本での生活はよかった。(p.162)


ここの叙述は非常に腑に落ちた。台湾在住の日本人は本島人(台湾人)を差別することがよくあったが、日本に留学に来ると良くしてくれたという思い出はしばしば語られるが、その理由が非常に明快になった。ただ、台湾という土地にあまり関心がなかったが故に差別がなかったということであり、これもあまり良いこととは言えないのだが。



 ただ、東大在学時代には、今も忘れられない嫌な出来事が一つあった。一高から東大医学部に入った劉沼光と二人で、東京の街中を歩いている時のことだった。派出所の前を通った時、「学生さん、ちょっと。」と呼ばれた。「学生証を見せてください。」と言うので差し出すと、最初の言葉が「おっ、なんだ、台湾人か。」だった。「ここは大稲埕じゃないんだよ。」「よし中へ入れ。」と言われて二人で派出所の中に入ると、警察官四、五人がいきなり殴りかかってきた。恩魁は手と腕で頭と顔をかばったので歯を折られなかったが、劉沼光は歯をやられた。大稲埕はいまはもうほとんど廃れているけれど、昔は台北でいちばん賑やかな町だった。あの警察官は大稲埕を知っていたから、台湾で警察をやっていたに違いないと、恩魁は確信している。戦争のためにみんなが一生懸命にやっているのに、学生がぶらぶらと街中を歩いているのが気に食わなかったのだろう。呼び止めてみると、以前から偏見をいだいていた台湾人だったので、暴行に及んだものと林恩魁は推測しているのである。(p.164)


狂っているとしか言いようがない。ネトウヨ的なヘイトスピーチをまき散らす差別主義者が現代日本にもそれなりの数存在するが、言動に共通性を見てとらないわけにはいかない。逆に言うと、戦時中までの日本にもネトウヨ的な差別主義者がリアルに存在しており、現在もその当時と同じように存在している、2つの時代にはそういう共通性がある。



 終戦後、翁通楹と二人で牛肉を煮て乾かし、それをほぐして売っていた。満州では日本人が憎まれていたので、日本人とは離れて行動した。(p.166)


当時の台湾人のアイデンティティが、完全に日本に同化したわけではなかったことがよくわかる。満州では日本人が憎まれていたという事実も重要。憎まれるようなことをしたという事実がその結果をもたらしている。



東京で警察に殴られたことで、日本への印象を悪くしたけれど、私は小学校から中学校、さらに高等学校から大学まで、全部日本教育なんです。日本は私にとって育ての親。産みの親は台湾。台湾の人たちは、みんな日本が育ててくれたと思っている。育ての親ゆえに感情が厚いんですよ。それなのに、日本は台湾を相手にしない。日本には日本の立場があり、中国という国が後ろに構えているからかもしれないけれど、あまりにも情けない。(p.168)


この日本に「見捨てられた」ような感覚は、台湾における日本語世代の最後の世代(皇民化世代)の人の多くが抱いていた思いだったと思われる。このことを日本の人々は知っておく必要があると思う。



日中戦争が始まってから、新竹高女では、武運長久祈願で町外れの新竹神社への参拝が行われていた。秋桔が参拝に行かなかったことを、国語担当の安田教諭が知っていた。彼はそれを咎めて、「支那人だ、チャンコロだ、支那へ帰れ。」と罵った。その時秋桔は、「私は支那人ではありません。」と泣いて言ったという。公学校から日本教育を叩き込まれた彼女の頭には、「支那」も何もなかった。漢民族だけれど、私は日本人だと、秋桔はそのつもりだったのである。病後で体調不良であることを知っていれば、あんな叱り方をしなくてもよかったものをと、いまだにあの時の嫌な気持ちを思い出す。(p.173)


この安田教諭なる人物は、腐りきった差別主義者というほかなく、教師として人を教える資格などないというべきだろう。ただ、当時の台湾における差別意識がいかなるものだったのかを示す認識根拠として、また、このような愚かなことを繰り返してはならないという反省のための教材として、このエピソードは記憶されるべきである。ただ、現代の排外主義者たちはこれと同レベルの発言をしており、そうした行為こそ排除する必要がある。



高等科時代には、日本人教師による差別教育の体験がある。教師が台湾人生徒に対し、「支那人根性を叩き直す」「清国奴(チャンコロ)」と罵ったのである。日本から来た人に差別を感じたことはなかったが、台湾で育った日本人には差別意識があった。台湾人生徒の啓三たちは、日本人を陰で犬と言っていた。(p.186)


一つ前の事例などと合わせると、教師による差別はかなり見られたらしいことがわかる。昭和初期の社会の不健全さが感じられる。



 台湾においても、統治下にあった台湾の人びとが疎開を強いられ、空襲の恐怖にさらされ、大きな被害を受けた。この事実も当然のことながら、等閑視されてよいはずはない。太平洋戦争中に、徴用や徴兵によって台湾の多くの人びとが犠牲になった事実とともに、空襲による被害についても忘れてはならないと思う。(p.221)


同意見である。


大谷渡 『台湾と日本 激動の時代を生きた人びと』(その1)

 台湾では、日本人は台湾人を差別した。植民地の者だと馬鹿にした。だが、日本へ来てみると、内地の日本人には全然それが感じられなかった。台湾からわざわざ来たんだからと、大事にされた。(p.49)


昭和16年から18年頃に福井高等工業学校に入学した台湾人についての記述より。これと類似の記述は本書では他の個所に出てくるが、本書以外の本でも同じようなことが書かれているものがある。台湾に住む日本人は少数派でありながら、台湾人を統治する側の立場におり、その立場を維持し続けたいという心理が働くのに対し、日本に来た台湾人の周囲の日本人は多数派であり、台湾人は土地勘もなく、助けになるような人間関係からも断ち切られた弱者である。

前者のような状況では、優位を失うかもしれないという脅威が潜在的にあるため、優位を失わないようにしたいという心理が働き、台湾人を低く見たいという思いに駆られる。後者のような状況では、優位を失うかもしれないという脅威は全くないため、弱者を助けてあげようとする心理の方が前に出やすい。このような関係性の相違が差別的な言動の有無(強弱)に関連していたのではないか。(もちろん、様々な要因が複合しているであろうことは想像に難くないが、要因の一つとしてありうるのではないか。)



 そのころ、小さい子供たちは、用足しに便利なように、お尻のところを開けたズボンを履いていた。(p.69-70)


大正14年頃のこと。大陸では10~15年くらい前でもこの類のズボンを履いている子がおり、町中の地面やごみ箱の中に用を足させている光景をよく目にしたものである。最近はあまり行っていないが、現在はこのようなことはなくなったのだろうか?(昨年深圳に行ったときには見かけなかったように思うが、滞在した場所も少なく時間も短かったので何とも言えない。)

台湾ではいつ頃までこのような状況だったのだろうか?



中学を卒業して台湾島内で上級学校に進学するのは、非常にむずかしかった。台湾島内で進学できる上級学校はごく限られていて、台北高等学校・台南高等工業学校・台北高等商業学校・台北帝大附属医専部・台北帝大附属農林専門部(43年に台中高等農林学校)の五校しかなかった。しかも、台湾人学生の入学比率が決められていた。日本にはたくさんの上級学校があり、選択の幅は大きかった。だから、日本で高等学校や官立私立の専門学校、公私立大学の予科や専門部へと進む人たちの方がはるかに多かったのである。(p.156)


例えば、李登輝が京都帝国大学などに入学したのもこのような流れの中で起きたことである。(台北帝大には台湾人の入学制限があったため入らなかったとされる。)


菊池一隆 『日本軍ゲリラ 台湾高砂義勇隊 台湾原住民の太平洋戦争』

 実際のところ、台湾原住民の高砂義勇隊参加は、自ら志願したものだったのか、それとも強制だったのか。これは複雑な問題である。
 2006年8月13日に筆者が各板山タイヤル族のポート・タンガ(中国名は林昭光)にインタビューした際、彼は、志願は強制ではなく、部族として自ら積極的かつ主体的に決定したものだと強調した。タイヤル族では、頭目が「太陽あって水あれば」と言いだした時、すべてが決定されるという。「太陽」と「水」とは「人間の生命」を意味し、この言葉によって部族が一つに団結した。高砂義勇隊を結成した時もそうであった。
 ――あの時もタイヤル族の頭目が「太陽あって水あれば」と言った。だから、タイヤル族は一致団結して高砂義勇隊に志願した。日本によって強制されたものでは決してない。自ら志願したのだ。中国大陸の連中や国共内戦に敗れた蒋介石・国民党とともにやって来た外省人は「強制された」と言っているが、それは間違いだ。
 このように頭目の役割は大きく、原住民を円滑に一つにまとめあげたのは頭目だと言っているのである。しかし前述したように「警察には逆らえなかった」という証言もある。この双方の事例から考察するに、警察による「志願」を名目とする強制はあったが、それを円滑に進めるには各頭目の同意と協力が不可欠だったということであろう。ただしポート・タンガ自身も、「時期によって異なる。後には強制的なものに変わっていった」と付け加えている。(p.54-55)


台湾原住民が高砂義勇隊などに参加していくのが強制だったのか自らの志願だったのか?この問題については、志願を強制する力が働いていたであろうとは思っていたが、この叙述によってかなり具体的にイメージできるようになった。



台湾原住民が高砂義勇隊に積極的に志願した動機の一つは、差別解消にあった。(p.55)


このことについては、本書では何度も繰り返し述べられるが、確かに極めて重要なポイントである。



 当時、台湾総督府理蕃課では、東南アジアの日本軍占領地への高砂族移住を検討し、軍当局に了解を求めようとしていた。これは、明治時代に北海道、樺太に布かれた屯田兵制度とほぼ同様な形態で、熱帯に抵抗力が強く、豊富な経験を持つ高砂族青年(家族を含む)約1万人を選抜して、農作物栽培に従事せしめ、かつ有事の場合は銃をもとらせる、将来は彼らを南方に永住させる、とする。台湾原住民に、農業生産とともに、日本軍による南洋支配の先兵としての役割をp担わせようと計画していたといえよう。(p.83)


北海道の屯田兵たちがかなり悲惨な経験をした者が多かったことを考えると、また、満州に満蒙開拓団のような形で行った者たちのことなども考えると、まともに実施されなくてよかったと言えよう。同じようなことが繰り返されるということは、支配者側にとってみれば、それなりにうまくいったと認識されているということなのだろうか?



 ここで看過できないのが、夫、婚約者、恋人が南洋戦場で命を賭けて戦っていた時、残された女たちの一部が近隣に駐屯していた台湾守備隊の慰安婦にされていたという事実である。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 これを調査した柳本通彦が、「なぜ慰安婦のような仕事をしたのか」と問うと、彼女らは「あの時は総動員でしょう?」と答えたという。学校に通っていた時、日本人教師から「女も総動員」と教えられたという。こうして、原住民は老若男女が日本の「聖戦」に総動員された。柳本は、台湾女性の慰安婦化は44年末、一連の「先住民女性調達計画が台湾島内で実施」され、行政(総督府)・軍・警察が三位一体となって進めた「秘密計画」であると断言する。(p.88-93)


このような政策を実施する政府や軍はクズだと言わざるを得ない。



 日本敗戦時に集団自決を含めて、日本兵と高砂義勇隊員との行動形態に違いがあったことが分かる。台湾原住民は「日本人・日本兵」になりきっていたとはいうものの、最後の状況での対処法は異なっていた。「日本人であること」から解放されて、本来の台湾原住民の姿に戻ったともいえそうだ。(p.179)


これは興味深い指摘。



 元高砂義勇隊員などの一部が、今度は国民政府軍の一員として中国共産党軍(以下、中共軍)と戦わざるを得なくなるという事態が起こった。この事実は見逃すことのできない重要問題である。
 ……(中略)……。ごく少数の技術陣を除けば、絶対多数は脅迫、強制によって、あるいは騙して、連れていかれた者である。なぜなら228事件(台湾を日本植民地から解放したはずの蒋介石・国民政府が強制的支配をしようとし、それに反発した台湾民衆が、47年2月、台湾全土で反抗した。国民政府はそれを徹底的に鎮圧、数万人の台湾民衆が殺害されたという大事件)後、台湾民衆は蒋介石・国民政府を信用しておらず、入隊を願う者はいなかったからである。(p.191-192)

差別される側、支配される側、数が少なく弱い立場に置かれる側、こういったものとして台湾原住民は扱われ続けたことが見て取れる。その上、戦闘能力にも長けていたのでなおさら便利に「使われた」ということか。


胎中千鶴 『歴史総合パートナーズ6 あなたとともに知る台湾――近現代の歴史と社会――』

統治者が近代化政策を進め、教育水準が上がれば上がるほど、それによって誕生した知識人たちは、自身の主体性とアイデンティティを自覚し、統治者からの自立や自治の道をみいだそうとするのです。(p.40-41)


台湾を考えるに当たって、日本の植民地であったことをどのように位置付ければよいか。知れば知るほど難しく感じている。日本統治期に近代化が進んだことは確かであり、これにはその地に住んでいる人にとってもメリットはあったとは一応言い得る。ただ、植民地支配には当然、様々なレベルで差別が存在していたことも事実であり、そのような状況の中では、当然、ここで指摘されているようなある種の矛盾というかジレンマが生じる。



 実は総督府は、台湾の山林地域にある貴重な資源を手に入れようとしていたのです。それは主に、樟脳とヒノキでした。……(中略)……。これらの資源を山奥から切り出し、ふもとまで運搬するには、広い道路と多くの労働力が必要です。だから総督府は、原住民居住地区を管理し、そこに住む人々に労役を課したのでした。(p.44)


台湾総督府が台湾原住民を厳しく支配・管理した理由。納得。



 台湾は、実は国民党政府の独裁政治が続いた1950年代から80年代にかけて、順調な経済成長を遂げています。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 これについて台湾の歴史学者、何義麟さんは、「日本の研究者は植民地時代の遺産を、米国研究者は同国の経済援助を」「強調する傾向」があると述べています。日本人もアメリカ人も、どこかで「台湾の成功は自分の手柄」と思いたいのかもしれませんね。(p.68-69)


この指摘は的を射ていると思われる。



たとえば、1977年に台湾を訪れた外国人は93万人余、日本人はその60%を占めており、多くが観光客でした。
 ただ、現在と異なるのは、当時の日本人客の大半が買春目的の観光だったということです。(p.72)


潮目が変わったのはいつ頃だったのだろうか。感覚的には90年代になると変化が傍目にも見えるようになってきていたようには思われるが、90年代も初期の頃にはまだ何となくかつての旅行目的のイメージが残っていたようにも思う。



 しかし一方で、この日本人たちは買春以外の台湾にほとんど興味をもちません。車窓から農村の風景をみても日本の故郷になぞらえるだけ。中国語を聞いても日本語の美しさとくらべて軽んじるだけ。どんなに表面的には礼儀正しくても、台湾という場所への植民地主義的なまなざしは隠しようがありませんでした。
 台湾への優越感と無関心。この小説における黄春明さんの視線は、買春という下品な行為より、その向こうにみえる日本人のメンタリティそのものに注がれていると私は思います。(p.74)


こうした態度自体は、現在においても完全になくなったわけではないように思われる。

旅行に限らず、例えば、日本に来た外国人に対して何をしに日本に来たのかを訪ねる番組や海外で有名な日本人は誰かといったことをランキングするような番組などがあるが、これらの番組は国際的な要素があるように見えるが、私見では、全くそんなことはない。(もちろん、これらの番組から諸外国の状況などについての洞察を得ることは可能である。)少なくとも、グローバルな規模での視野はなく、内向きのナショナリズムを刺激するようなものでしかない。これらの番組では、その外国人の出身地についての理解を深める他所は全くないように思われるし、有名な日本人を問題にするのであれば、われわれは彼らの国の有名人としてだれを知っているだろうか?といったことも自問する必要がある。



つまり、日本統治期の近代化は、日本人が一方的に与えたものではなく、台湾人が主体的に受け入れたものだという歴史観です。(p.85-86)


明治期の日本の歴史について、西洋の文明を日本側が取捨選択して取り入れたと考える歴史観と同じことが、台湾の歴史についても言える。しかし、「日本の側」から見ると、途端に台湾史をそのようには見ずに、別の見方をしている。このバイアスに気づいていないことが問題だろう。



灌漑施設の建設は、中南部に米とサトウキビの一大生産地をつくり、日本の食料補給地にしたかったからにほかなりません。
 それでも現実には、施設の完成によって恩恵を受けた数多くの農民たちがいました。そして彼らは戦後も給排水路とダムを大切に維持・管理し、現在まで利用しています。完成してからすでに88年。近代的な施設をつくったのは日本人ですが、それを運用し、戦後70年以上にもわたってメンテナンスをしてきたのは台湾の人々でした。嘉南の人たちにとってみれば、八田與一の功績も含めて、すべてが自分の住む土地の記憶だと胸を張るのは自然なことです。
 しかし日本人は、つい日本が支配した時代の歴史だけを切り取って台湾をみてしまいがちです。八田與一を台湾人が評価すると、それを植民地支配の歴史とイコールととらえ、日本が「感謝」されていると勘違いする人もいます。おそらくその人たちは、「日本史」の文脈で台湾を眺めているのでしょう。その態度の向こうに、台湾の戦後史を軽んじる意識が透けてみるのは私だけでしょうか。(p.86-87)


八田與一が台湾で評価されると日本が感謝されていると勘違いしている人たちというのは、日本の右派で台湾を論じている人たちに非常に多い。日本における八田與一認識や台湾認識は、ある意味で、彼らによって曇らされている



 というのも、青田街には戦前は確かに日本人が住んでいたのですが、戦後は大陸から来た外省人が多く居住しました。だからこの場所は、外省人の暮らしとも深く結びついた街ともいえるのです。台湾人が日本家屋をみたとき、誰もが日本や日本人を連想するとは限らないことが、この例からもわかります。(p.88)


日本風の建築を見ると、日本人は日本を連想し、日本文化と関連付けて理解しようとするが、台湾人から見ると、そのような見方は必ずしも成り立たない。この点は歴史を見る上で非常に重要な見方だろう。



台湾を理解したいと思うなら、彼らが否応なく向き合わざる得なかった「日本」と、そこから主体的に受け入れた「日本」があることを、まず想像してみることが必要ではないでしょうか。(p.88)


この見方は日本と台湾の関係を考える上で非常に重要と思われる。



 また、多文化主義そのものが、単なる政治的な戦略にすぎない、ととらえる意見もあります。つまり中華人民共和国との違いを際立たせ、「台湾らしさ」とはイコール「自由と民主」であると世界に主張するための、いわば独立をめざす動きの一端であるという見方です。(p.94)


台湾は日本よりもリベラルな思想が具現化している度合いが高いと私は考えているが、確かに、ここで指摘されているような動機から推進しようという力が多少なりともあるからこそ日本や他のアジア諸国よりも比較的スムーズに進んでいるというのはあるのかもしれない。


黒川高明 『ガラスの技術史』(その2)

 初期のステンドグラスには、鮮明な黄色や無色ガラスをつくることは、炉の雰囲気の微妙なコントロールの難しさと、ブナの木灰からのマンガンと鉄の含有により大変難しかったのです。この技術的な問題のためロマネスク時代の教会と大聖堂には黄色や無色ガラスは少ないのです。しかしは、銅を添加することによって容易につくることができました。
 この時期のステンドグラス(シャルトル、サンドニ、ルマン、ポアティエ)に見られる代表的な色は、色数も少なく容易につくれる赤と青と緑で、色合いも鮮明なものです。それだけに赤と緑、橙黄と青といった対比色を組み合わせた作風は、簡明にして雄渾な印象を醸し出します。コバルトブルーは、地中海地域で使われていましたが、この時代の北ヨーロッパにはあまり-使われていません。当時酸化コバルトはダマスカス顔料といわれ、多額の費用をかけてレバントから入手していて、大変貴重なものでした。
 黄色や無色ガラスの製造は、13世紀後半には新しい技術が開発され容易になりました。
 無色ガラスは、砂の精製による金属酸化物の除去と、マンガン(パイロリュウサイト鉱MnO2)の添加による鉄分の消色によりつくられるようになりました。ヨーロッパ中世のガラス技術はローマの技法を受け継いだもので、ソーダベースのガラスにマンガンを加え消色することを知っていました。このように13世紀のガラスは、原料の精製、炉での清澄、燃焼方法の改善により以前のものより良い品質になりました。
 黄色ガラスは、イスラムガラスで開発されたシルバーステイン技法を導入してつくることができるようになりました。(p.203-205)


ステンドグラスのデザインもこうした技術による影響を受けている。単に審美的な見方や図像学的な見方だけでなく、こうした技術的な見方も加えて見ると、ステンドグラスの見方にはさらに奥行きが出てきそうに思う。



 19世紀は多くの教会が建設され、ステンドグラスの再復興の時代といわれています。板ガラスの市場は拡大を続け、1870年代の後半には、ハートレイ社のロール法でつくられた色ガラスのカセドラルガラスが、教会向けに大量につくられるようになりました。(p.227)


ステンドグラスの再復興の時代はゴシックリバイバルの時代と重なっているということは当然だが一応触れておこう。



 紀元前1世紀のある時に、芯を保持するために用いられていた硬い金属棒が長い中空管に置き替わり、吹きガラスが発明されました。(p.249-250)


この一文は、ガラス製造に携わったことがない私にとって、コアテクニックから吹きガラスが生まれた理由というか経路というようなものを直観的に非常に説得力をもって理解させてくれた。ある意味、この一文からの知識を得ただけでも、この本を読む意味があったと思う。



1686年より少し前にねじコルク栓が採用された後、しっかり栓のできるコルクが使われるようになりました。このことは一見重要な発明ではないように思われますが、この発明によってワインをボトルの中で熟成させたり、シャンパン法で発泡ワインをつくる際にボトルを水平にねかせて貯蔵させたりすることができるようになりました。(p.253)


コルク栓も意外と調べてみると面白そうな対象だったりする。


黒川高明 『ガラスの技術史』(その1)

 コアガラス容器をつくるため、溶融ルツボからガラスを巻き取るのに鉄の棒を使用していました。作業しやすくするためとガラスの温度を下げないために、軽い中空のパイプが使われるようになり、これから宙吹きに発展しました。(p.10)


この叙述のおかげで、コアテクニックから吹きガラスの技法が登場する筋道が理解できた。



 ステイニングは、ガラスに着色する意味で、銀または銅の金属イオンをガラス内部に入れ込んで着色する方法です。……(中略)……。黄色を出すシルバーステイニングは、イスラムガラスの色彩を豊かにしました。この技法は中世ヨーロッパのステンドグラス(初期のステンドグラスは黄色のない、青と赤色が主体の単純なものでした)に導入されました。また後の19世紀にシルバーステイニングとカッパーステイニングが、ボヘミアでガラス装飾に盛んに使われました。(p.22-23)


ステンドグラスは美的な観点から見がちだが、技術の側面から見てみるのも意外と面白そうである。



 17世紀になると、国際的な様式を主導してきたヴェネツィアのヨーロッパのガラス工場におよぼす影響力が弱まり、ガラス製作にさまざまな国民的様式が現れるようになりました。(p.31)


技術の流出というか一種の争奪戦のようなものがあったということはしばしば語られるが、国民国家の成立期と時期を同じくしている点は興味深い。



 18世紀から19世紀にかけて化学が発展してガラスの製造に大きな影響を与えました。(p.103)


このひと言からは、元素についての知識、特に化学反応についての知識などが確立してくることと関係が深いことがすぐに思い浮かぶが、それ以上の関係があったらしいことが本書から垣間見える。



しかし帝国の崩壊後北部ヨーロッパと南部ヨーロッパとでは製造法が異なってきました。これは北部での地中海沿岸からのソーダの入手が困難となり、内陸の植物の灰を使用するようになったことから生じました。この南北の違いは窯の形式にまで影響を及ぼしました。南部の窯は円形をしており、北部の窯は長方形をしています。(p.116)


ローマ帝国の崩壊はアルプス以北と地中海世界とを様々な分野において切り分ける(これらの世界を別々のシステムとして分離していく)が、ここにもそれが見られる。



光学の分野で有名な人物は、イブン・アル・ハイサムまたの名アルハゼン(965-1039)です。
 彼はバスラに生まれ、カイロに「知恵の家」を建てたファーティマ朝のカリフのアル・ハーキムの治下においてエジプトで活躍し、カイロで死にました。天文学、数学にも通じ、とくに光学の方面で優れた業績を残しました。この分野はアラビアが科学の世界に貢献した最も重要な学問分野でした。彼は視覚器官としての目の構造をくわしく論じ、ガラス体、角膜、網膜などの西洋名は全て彼の『光学の書』に由来するといいます。(p.153-154)


アラビアの学問はギリシアやローマの伝統を継承し発展させたことは周知のことだが、光学においても貢献は大きかったようだ。何となく、光学というといわゆる科学革命の時代の展開(ニュートンの『光学』とか)が想起されるが、アラビアの学問もかなり重要な発見をしていたと理解しておくことは重要だろう。



近眼用の凹レンズを初めて述べたのは、1450年のクサのニコラウス(1401-64)ですが、16世紀中頃までは一般的な使用には至りませんでした。(p.155)


ニコラウス・クザーヌスと言えば、神学的な哲学やある種の宇宙論(地動説などを含む)を連想してしまうので、近眼用の凹レンズというと意外な感じがした。が、確かに言われてみれば、宇宙についての議論と光についての議論は確かに関係が深そうではある。


酒井充子 『台湾人生 かつて日本人だった人たちを訪ねて』

 ビルマに着いて一年が過ぎたころ、内務班の軍曹が、めしあげ当番の台湾人がすぐに食器を下げなかったことを理由にビンタで制裁を始めたんです。……(中略)……。しかも「このチャンコロが」とののしりながら。ぼくは我慢できなかった。
 その晩、いったん就寝しましたが、蚊帳から飛び出して行って、たまたま居合わせた日本人の上官に向かって「なにがチャンコロだ。同じように死を覚悟して来ている者に向かって」とまくし立てたんです。その上官は中年の補充兵で、穏やかな人でした。「まあ落ち着け」と、ぼくをなだめてくれました。
 軍曹が、ぼくたちにチャンコロと言ったのは、本当に悔しかったですよ。涙が出ました。当時、台湾は植民地だから不平等な待遇を受けていて、戦場に出て兵隊さんと一緒になれば平等になると思っていただけに、そのひと言は永遠に忘れられません。むろんぼくたちは小さかったから、将校たちにはかわいがってもらっていました。
 ただ、この軍曹だけは一生忘れません。このひと言。今でもまだ悔しくて。同じように国のために出ているのにどうして、と。
 確かにぼくたちは血統的には違うけど、国を思う、国を守る心は同じですよ。日本人以上の日本人だとぼくは信じておりますよ。軍隊から逃亡したりする人たちもあったけど、わたしとしてはそういうことは絶対やりません。桜の花みたいに散っていく、そういう決意で出ていっているんですから。
 それを言われたぼくとしては本当に悔しかったですよ。わたしの一生の深い傷だと思いますね。チャンコロと言ったら、清の国の奴隷。ぼくたちは何代か過ぎてるんですよ。教育も環境も全部日本人のように仕立てられてきたんですから、チャンコロというのは、すごい侮辱です。(p.84-86)


当時は高砂族と呼ばれていた台湾原住民を巡る差別の実態と、当の原住民が戦争に参加するに際しての思い(日本人と同じように命を懸けて戦場に立つことで平等になれるとの思い)が印象的に語られている。話者の悔しさがひしひしと感じられる点でも印象的な箇所の一つ。



でもね、たったひとつ、政府から「過去の台湾の軍人軍属のみなさん、ごくろうさんでした。ありがとうございました」、そのひと言がぼくはほしいんですよ。それを願っとるんですよ。どうしてひと言だけでももらえないかと。年金ももらっていない。日本人だけにしかやれないそうです。
 なんでこんなにまで見捨てられてしまうかと、これがわたしはほんとに悔しいです。政府としてはなにひとつしてくれていない。国のために死を覚悟してぼくたちは志願して行ったんですよ。何も自分のためで、なんのごほうびがあるからといってそこに行ったわけじゃないですよ。だから、ぼくはすごく、政府に対しては了解できません。
 いつも口癖のように言いますけど、日本のみなさんには親しみを感じますよ。たしかに昔のぼくたちの同胞だと。ぼくはいまで支那人だと、そういう観念がないです。毛頭ないです。まだ日本人だというふうにね、生きてきましたよ。(p.96-97)


こうした思いは本書で随所で語られている。皇民化教育を受けた日本語世代に共通する思いではないかと思われる。



 わたしの見方では、戦後来た大陸の人たちは、台湾を治めるという気持ちはなかった。台湾はおれたちが制圧した戦利品だから、という気持ちで台湾に来ておって。なんでも金になるものは、自分たちのもんだという考えで来たわけだ。だから来た人たちは文化的に法というものを守っていません。おれらが制圧したところだから、何でも全部取れると。だから摩擦が毎日あるわけ。わたしから見たら文化衝突だ。もうひとつは文化よりも心の思い。台湾を統治する、という思いがない。法を守って統治しているんじゃない。(p.103-104)


法治主義や法の支配は大陸中国では現在でもあまり通用していないが、近代的な思想の普及の程度が台湾と大陸では違っていたことが、こうした見方が出てくる要因の一つだろう。



台湾の日本語世代が「自分はいまでも日本人」というとき、彼らは、日本統治下の台湾で、自分を日本人と強く意識しなければ日本人でいられなかったのだということを思う。(p.236)


この指摘は日本語世代の台湾人のアイデンティティ形成にとって非常に重要なポイントの一つと思われる。


竹中亨 『ヴィルヘルム2世 ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」』

 ビスマルク時代の対外関係が平穏だったと先に述べたが、その理由は、ビスマルクが平和外交を旨としていたからであった。彼が平和主義者だったというのではない。彼にとっての至上目標はドイツ帝国の存立を守ることであった。そのためには彼はヨーロッパで戦争がおこるのを何としても避けなければならなかったのである。
 その理由は、1871年のドイツ帝国誕生というできごとがもつ意味にある。これは、単にドイツの国家統一が成就したというだけの話ではない。それ以上にヨーロッパ全体に深刻な変化を与える事件であった。
 中世末期に神聖ローマ帝国が有名無実化して以来、数世紀にわたってドイツの地には確固たる国家がなく、小国分立が続いてきた。言い換えれば、ヨーロッパ大陸のまん真ん中に一種の政治的真空が数百年間も存在してきたわけである。このことは、ドイツ以外のヨーロッパの人びとにとっては決して不都合なことではなかった。まさしくこの真空が緩衝地帯となったおかげで、ヨーロッパ内の覇権をめぐる各国間のせめぎ合いが調整され、緩和されてきたからである。
 ところが、1871年にそこに突如として一箇の国家が誕生した。しかも、それはフランスをしのぐ国力をもつ大国であった。つまりドイツは今や摩擦調整の場どころか、自身がヨーロッパの国際関係の能動的な担い手となったわけである。ヨーロッパの政治地図を根本から塗り替える事態である。イギリスの首相のディズレーリが1871年をフランス革命にまさる大革命だと評したことがあるが、けだし慧眼であった。(p.101-102)


ここで述べられているドイツ帝国成立の意味は、19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの政治の動きを考える上で非常に重要な視点である。そして、恐らくはそれ以後にも深い影響を及ぼしていると思われる。

本書はヴィルヘルム2世という個人の評伝ではあるが、こうしたマクロな流れについての理解を得ることもできた。



 ドイツの経済的躍進は、ドイツの側でも人びとの心性に大きな変化をもたらした。ドイツ人は元来、イギリスやフランスに対する劣等感が根強い。これら西欧諸国の文明的洗練に比して、自分たちの生活慣習や文化は粗野だという引け目である。ところが今、その自分たちは目覚ましい発展をなしとげた。諸外国からも賛嘆されるほどの成功である。だとすれば、われわれは何も他国に遠慮することなどあるまい、自信をもって、もと堂々とふるまってもよいのではないか――そう人びとが考えるようになるのは自然の趨勢である。
 だが、長年の劣等感は一朝一夕で拭いきれるものではない。それにもかかわらず、強いて自己肯定に努めるものだから、結果的に優越感がしばしば過剰に発揮されることになる。高坂正堯いわく、ドイツ的心性に特有の「劣等感=優越感のアンビバレンス」である。こうして、ドイツ人といえば、尊大、傲慢というステレオタイプが生まれた。
 実際この時代、ドイツ人の評判はよくない。世界大戦開戦前後にアメリカの駐独大使を務めたジェイムズ・ジェラードは、ドイツ人は他国でははっきりと嫌われていると断言している。日本人の間でも当時、嫌悪感をもつ者は少なくなかった。一般にはよく、日独は近代を通して友好的だったと考えられがちだが、実はこれはかなり「神話」である。国のレベルでは交流が繁くても、人びと同士が近づくとは限らない。(p.121-122)


ドイツ人に対する悪いイメージがあったというのは、言われてみればなるほどと思わされる。ある意味では、現代の中国をほうふつとさせる。なお、日本とドイツの関係についても確かに、私自身も近代化の際には比較的よい関係だと思っていた節がある。



ヴィルヘルムが「影の皇帝」にとどまっていたということは、つまり、ドイツは国家の存亡をかけた戦争の最中、政軍間の調整を欠いたままだったということである。(p.174)


第二次大戦の前と最中の日本と似ているように思われる。