アヴェスターにはこう書いている?
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関口信一郎 『シビルエンジニア 廣井勇の人と業績』

 開拓使は従来、幌内鉄道を炭山・幌内太間とし、それ以後は石狩川経由で石炭を搬出する計画であったが、1879(明治12)年12月には幌内鉄道を小樽手宮港まで延伸することに決定し、機関車購入・土木補助手雇用等のためクロフォードを米国に派遣した。クロフォードは約4か月間、東部の産業都市ピッツバーグ、フィラデルフィア、ウィルミングトン、ニューヨーク・シティなどを回った。1880(明治13)年5月、クロフォードは集めた技術者4人とサンフランシスコを出発し、6月に横浜経由で小樽に入港した。サンフランシスコの各新聞は、日本でアメリカの狭軌鉄道が敷設されることを報道し、かなりの話題になった。(p.51)


「アメリカで話題になった」ということから、多くの人は「すごいこと」という印象を受けると思われるが、アメリカ側から北海道開拓を見ると、ビジネスチャンスであった(そのためニュースバリューがあった)という点に留意する必要がある。



この頃、クロフォード指揮の敷設班が札幌に向かって1日1マイルのペースで進んでいるニュースが東京・横浜に流れ、英文紙に取り上げられるほどのセンセーショナルを巻き起こした。(p.51-52)


英文紙がどこの国の新聞かは明示されていないが、アメリカの新聞はこの問題(北海道の鉄道)への関心は高かったと思われる。



したがって自らと同じような境遇にある、才能に恵まれた勤勉な廣井を励まし可愛がった。その松本でさえ「アメリカへ渡っても随分苦しいぞ」と言って容易に賛成しなかった。しかし、廣井の動かぬ決意と工学に寄せる情熱は松本の考えを変えていった。そして、ついに松本の賛意を得、その推薦で米国政府のミシシッピー河改修工事雇員に雇われる内諾を得ることができた。(p.59)


松本荘一郎と廣井勇は互いに単に面識があるという程度を超えた交流があったようだ。



当時予科主任および教務部長の事務を担当し、かつ懇請により札幌初めての中学校北鳴学校の校長を兼ね、遠友夜学校なる貧家子弟の学校をも経営した新渡戸稲造は心を労するの余り、遂に激しい神経衰弱症に罹り、一時重体に陥ったので、1898(明治31)年3月官を辞して米国太平洋岸に転地療養のやむなきに至った。(p.99)


新渡戸の神経症を過労に帰している点について、今まであまりこのような書き方をした本に出会っていないため、本当かどうかという点には多少留保をつけておきたいが、激務による労災的なものだったという理解には確かにそれなりの説得力があると思われる。



函館、小樽の両築港の着工についても北垣長官に負うところが非常に大きい。失敗続きの築港を政府に決断させるには、琵琶湖疏水工事の成功によって京都を蘇らせた北垣の卓越したビジョンと政治家としての手腕が必要とされた。(p.107-108)


なるほど。琵琶湖疏水と築港とを結びつけて見るという見方は参考になった。



 廣井は東京に移ってからも相変らず多忙であった。1900(明治33)年には震災予防調査委員並びに港湾調査会委員を命じられ、秋田県知事の委嘱による雄物川加工改良調査および小倉氏委嘱による小倉築港調査の監督を行い、1901(明治34)年には台湾総督府の委嘱により基隆および淡水の両港を視察し、6月には静岡県知事の委嘱により清水港を視察した。(p.157)


廣井による台湾視察の内容はどのようなものだったのだろう。台湾にも関心を持っている者としては気になる点である。



 昭和初期、我が国の重要港は1種と2種に分かれていた。……(中略)……。北海道および植民地の港湾は別で、所轄する行政庁が管理し、その費用は国庫の負担とされていた。(p.189)


昭和初期になっても北海道はまだ植民地としての扱いが続いている部分が残っていた点には留意しておきたい。



19世紀に入ると欧州では盛んに運河が建設され、その世紀の中葉以降には鉄道建設が世界中で展開され、鉄道網の発達は社会経済の発展は勿論、国家の統治に大きな役割を果たしていった。それは同時にトンネル工学、橋梁工学、材料力学の発展を促したけれども、海陸の接点である港湾を整備する工学には及んでいなかった。19世紀も中期に入ると規則的な波については理論的にも実験的にも解明が進んだが、複雑で不規則な海洋波については解明の端緒さえ発見できない状況にあった。それまでの近代科学において主流であった決定論的アプローチでは複雑に変化する海洋波を解析することは困難であった。(p.227)


インフラ建設と工学との関係性についての指摘は興味深い。複雑な系である海洋波について当時は扱う事ができていなかったという点も廣井の業績とも関わる重要なポイント。


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山本紀夫 『トウガラシの世界史 辛くて熱い「食卓革命」』

しかし、イタリアで聞いたところによれば、現在トウガラシはイタリア南部で利用がさかんだが、北部地方ではさほどでもないといわれる。その一因は、気候に関係があるかもしれない。というのも、イタリアは南北に長い国であり、北部は緯度も高くて一般に気温が低いので、そこではトウガラシの栽培が容易ではないと考えられるからである。
 このイタリアで、とりわけトウガラシ利用で有名なところが、南部のカラブリア地方である。……(中略)……。
 こうして見ると、ンドゥイヤもモルゼッロも肉や内臓を使っていることからトウガラシはその臭みをとるために使われているのかもしれない。また、これには南イタリアの貧しさも関係しているのかもしれない。じつは、イタリアのなかで南イタリアはもっとも貧しく、そのせいでマフィアが暗躍したり、治安も悪いことで知られているのだ。そのような貧しさのなかで、残りものの内臓などを使うトウガラシ料理も生れたのではなかったかと考えられるのだ。(p.63-72)


最後に述べられている仮説は興味深い。歴史的に見ると南イタリアは貧しい地方だったとは言えないと思うが、いわゆる大航海時代になり、地中海世界の内部での交易の重要度が低下すると、南イタリアの交易の場としての重要度も下がっていったと考えられる。そして、まさにその大航海時代にトウガラシはヨーロッパに入ってきたのであった。したがって、例えば、南イタリアが「没落」しつつある時にトウガラシが入ってきて、残り物を活用するのに適した香辛料としてトウガラシが普及したという経過であったとすれば、本書の仮説が示していることは妥当ということになる。


高安正明 『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』

 島判官、岩村判官が本府づくりに取りかかったころ、札幌のメーンストリートは大友掘(のちの創成川)の東側に沿った通りで、官邸などの建築もまずこれに沿って始まった。しかしこののちの区画割りは札幌通の東の方向へは創成川の西方面ほどには進まなかった。(p.74)


明治初期の札幌は、現在の創成川の東側の通りがメインストリートだったという点は、現在の都市のあり方から見ると非常に違和感を感じて興味深い。札幌の都心と言えば創成川の東側よりも西側の方が遥かに開発されているし、街のまとまりを見ても、南北よりも東西の一体感の方が強い印象がある。例えば、大通公園や狸小路はいずれも創成川の西側にあり、かつ、東西に連なって都市を区切っている。なぜ西と東でこのように開発の進み方に相違ができたのかには興味がある。地形や地質の問題が関係していそうな気はする。



 この意味では、太平洋戦争後は別として、戦前、開拓使から道庁に至る高級行政官で、札幌に自宅を建て、終身、道内で官職を全うした永山武四郎は、“腰かけ”ではなく“北海道人”として生き抜いた数少ない一人であることは確かであり、最高の評価をしてよい。(p.75)


この「北海道人」という見方は、本書が描くところの永山の「実像」の核心をなす部分であるように思われる。なお、この点は永山が内陸開発を進めるべきだと主張していたこととも関係が深いのではなかろうか。



 札幌市中央区部の公園は、西の円山公園は島判官が奉持し来って安置した開拓三神を祭る札幌神社(現北海道神宮)が明治3年に創始されたのを中心としている。北の偕楽園は明治4年に岩村判官がつくり同13年の清華亭建築により公園として一層の機能を確立した。南の中島公園は同20年に物産陳列場が設置されて物産共進会が開催されてから中島遊園地として札幌人士のいこいの場となった。東方だけはこれまでこれに類するものがなかったが、初めて永山記念公園が登場し、しかもその焦点に旧永山邸が置かれているのはきわめて意義深い。(p.76)


永山記念公園が公開されたのは平成元年(1989年)のことであった。初期の札幌では東の開発があまり進まなかったことが、東側には「都市を象徴するような公園が欠けていること」に現れているように思われる。



 最初の琴似屯田(明治8年)をはじめ明治10年代から一部は23年までの兵村がそれであり、これらはまず札幌本府の周辺、次いで太平洋沿岸の“戦略的要地”に配置された。(p.91)


「戦略的要地」として設置された兵村は現在の根室市、室蘭市、厚岸町にある。これらの地域は、札幌周辺よりも入植の際には苦労が多かったとされる。根室に兵村が置かれたことと、開拓使が解体された後の三県の時代に根室県があったことからみて、明治初期には北海道を支配する側から見ると、根室は大きな意味を持つ土地だったらしいことが見えてくるように思われる。



 半年後の12月、黒田清隆が伊藤博文の後継で内閣総理大臣に任ぜられた。黒田-永山ラインが北海道開拓の軸となったのである。
 ともに鹿児島出身、薩摩藩の伝統である兵農兼ねた郷士制を手本にして、北海道の屯田兵の生みの親となった二人である。このラインによって、すでに十余年を経た屯田兵制の改正、大幅な拡充が進められた。これには永山の一年間にわたる最新の外国兵制視察が重要な参考となった。(p.92)


北海道開発は明治の前半は薩摩出身者が中心となって行われたが、薩摩の郷士制が屯田兵制の手本だというのは興味深い。現在放送中の大河ドラマ「西郷どん」でも若き日の西郷の薩摩での生活は、士族であっても半ば農業に従事しているように描かれていたが、これも郷士制と関係があるのではないか。この制度についても少し調べてみたくなった。


荒松雄 『ヒンドゥー教とイスラム教――南アジア史における宗教と社会――』

 バラモンの権威を容認しない異教徒の支配者たちは、バラモンの権威がなおまかり通っていた囲いの内側にまでは入ってこなかった。その囲いのなかの伝統的な世界では、バラモンの権威は依然として通用し、力たり得た。しかし、その権威と力たるや、囲いの外に出ていくことはできない。その結果、抑制されたバラモンたちの欲求不満は、それまでにもまして、ヒンドゥー社会という囲いのなかで、そのはけ口を求めていったとは考えられないだろうか。
 こうして、カースト的秩序を少なくとも原理的には否定し拒否するイスラムの信徒たる王権がヒンドゥーの社会をその従属下に置いたときに、カースト=ヴァルナ制は、解体に向かうどころか、かえって、それ自体の内部にあって、旧来の社会関係と階層意識とを一層強固なものとしていったのではないかと、私は推察する。(p.137-138)


興味深い仮説。本書ではある社会層の意識(動機)を想定して推論しているが、別の社会構造なり制度なりによってこれが助長されたような要素を見つけることが肝要であろう。



 思想の上部構造に見られたこのような知的交流は、私の見るところでは、ムスリム知識人の側からするものが目立ち、逆に、ヒンドゥーの世界にあって知識を独占していたバラモンや一部の上層貴族たちのなかでムスリム思想や法学体系に関心を示したものはほとんどいなかったように思われる。それも、おそらくは、ムスリム思想が、外の世界に対する積極的関心をつねに持っていたのに対して、ヒンドゥー思想家たちは、どちらかといえば、自らの教学と思想の枠のなかにだけ安住していたという一般的な傾向によるものではなかろうか。
 ただ、このような知的交流への意欲は、ムスリムの場合であっても、正統派教学のなかからはあらわれなかったと思う。ダーラー=シコーをはじめとする一部のムガル宮廷知識人が古典サンスクリットの文献に興味を抱いたのは、一つには、彼らがスーフィー神秘主義思想に傾倒していたからである。イスラムとは全く性格を異にするヴェーダーンタ哲学やヨーガ教典などに関心を示したのも、両者に共通する汎神論や広義の神秘主義的傾向を媒介としてはいjめて可能だったと、私は考えたい。(p.157-158)


ムスリム知識人(スーフィー聖者などの非正統的な人々)によるインドの思想への関心はあったが、正統派ムスリムやヒンドゥー知識人の側から相手の宗教への関心は低かったという点は興味深い。

ただ、そのようになった理由については本書の指摘が妥当かどうかという点には留保したい。というのは、外から入ってきた側の人間が、現地のことを知りたくなるのと、そこで住み続けている側の人が外から来た人々のことを知りたくなるのとでは、その度合いが違うように思われ、このバイアスが両者の相違の要因ではないかと私は考えるからである。

例えば、ここ数年、テレビなどでも外国人が日本を高く評価する様子を見て自尊心をくすぐろうとしているように見える番組が散見される。このような番組を素直に見ている人は、果たして日本に来た外国人の話を聞き、どの程度、その人の出身国について知りたいと思うだろうか?むしろ、思考ないし関心の向きは、内向き志向になるのではないか。


イブン・ハルドゥーン 『歴史序説3』

 これらは哲学関係の基本的学問で、七部門ある。まず第一は論理学で、次に数学がくるが、これは算数にはじまって幾何学、天文学、音楽学と続く。次に自然学がきて、最後が形而上学である。(p.331)


ヨーロッパの自由七科――文法学、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽――とかなり共通性がある。ヨーロッパの自由七科は、ローマ時代の末期に確立したようだが、イスラーム世界にはヨーロッパ以上に多くのギリシア・ローマの文献が知られていたから、根はおよそ同じような所にあるものと推察され、興味深い。



 カルデア人やそれ以前のシリア人、シリア人と同時代のコプト人などは、魔法や占星術やそれらと関係のある催眠術や呪符などに強い関心を示し、ペルシャ人とギリシャ人が彼らからそれを学んだ。(p.331)


ここでの学問の流れは、『黒いアテナ』でバナールが主張する方向性と一致している。古代ギリシアの文化が開化する以前の時代、レヴァントやエジプトからギリシアへと学問や文化が伝播し、影響を与えた。


宮原辰夫 『インド・イスラーム王朝の物語とその建築物』

 インドに現存するデリー・スルターン朝やムガル帝国の建築物は、「インドの富」の略奪や都市の破壊、住民の殺りくという歴史的側面から見る限り、多数のヒンドゥー教徒にとっては歴史の負の遺産以外のなにものでもないと言えよう。しかし、たとえインド・イスラーム王朝に関連するすべての建築物を破壊したとしても、歴史の事実が消える訳ではない。むしろ歴史の事実を継承し、そこから学ぶ機会を失ってしまう。(p.5)


この辺りは日本の植民地支配を受けた二つの地域の対照的な対応(建造物ごと負の歴史を消し去ろう、否定しようとする志向がある韓国と日本の統治時代をも自分たちの歴史の一部として継承して行こうという志向がある台湾)が想起された。



 またティムールは、フィーローズ・シャー・トゥグルクが建てた素晴らしいジャーメ・マスジド(現在のフィーローズ・シャー・コートラー(図78))に余りにも魅せられてしまったので、それと同じマスジドをサマルカンドに建てたいと考え、そのマスジドの設計者とレンガ職人や技術者をデリーからサマルカンドに連れ帰った。それが後にサマルカンドに建造された未完の金曜モスク「ビービー・ハーヌム・マスジド」であると言われる。
 ただ、写真で見る限り、この「ビービー・ハーヌム・マスジド」(図76)の入口の門は、明らかにテランガーニーが建造したと見られるベーガムプリー・マスジド(図64)やカラーン・マスジド(図67)の門と同じ特徴を備えている。つまり、門の両端に丸太のような柱が張り付いているという特徴からして、このマスジドはフィーローズ・シャー・コートラーだけでなく、当時建立されていたデリーのマスジドの影響を受けているといえよう。(p.109)


ビービー・ハーヌム・マスジドにインドからの影響があるとは気づかなかった。門の両端の大きな柱は、確かにインドのイスラーム建築では割と多くみられるように思われる。



山崎元一 『世界の歴史4 古代インドの文明と社会』

 『リグ・ヴェーダ』に登場するこれらの神のなかには、ゾロアスター教の神々やギリシア・ローマの神々と共通するものも多い。たとえば、天神ディヤウスはギリシアのゼウス、ローマのユピテル(父なる天、ディヤウス・ピタル)に、天空・友愛の神ミトラはゾロアスター教の太陽神ミトラ(ミスラ)に相当する。(p.54)


イランのゾロアスター教との相互関係は隣接しているので容易に理解できる。ギリシアの神も、ギリシア人が結構いたということが本書では説明されている。本書により認識が深まった点は、ギリシアとインドではそれまで思っていたよりも文化的な交流があったということだった。



先住民の信仰と関係するものとしては蛇(ナーガ)崇拝があり、わが国の竜王・竜神信仰はここに起源の一つをもっている。香川県の琴平町に祀られている金毘羅は、ガンジス川のワニ(クンビーラ)に由来する竜神である。(p.55)


龍というと日本には中国から来たというイメージがあるが、インドにまで遡る(ものがある)と知っておくのは悪くない。



 不可触民の存在は、ヴァイシャとシュードラにある種の優越感をもたせ、経済活動の担い手であるかれらと支配階級との間に生ずる緊張関係を緩める効果をもっていた。(p.82)


ヴァルナ制やカースト制は支配者にとっては極めて都合の良い身分制度である。



 俗世を支配する王といえども、輪廻転生から自由ではありえない。古代インドの王たちは、善政や大供犠・大布施・寺院建立といった功徳を積んで来世に天国に生まれることを願い、悪政や不信心の報いで地獄に堕ちることを恐れた。だからといって、善王が他の文明世界にくらべて圧倒的に多かったというわけではないが……(p.87)


宗教が説く倫理や世界観と、そうした教説が現実にもたらす効果とは別のものである。恐らく寄付や寄進のような「善行」であればイスラーム世界においての方が遥かに活発だったであろう(このようになったのは思想的な理由というよりも制度的な理由が大きいのだが)。



布施を意味する語はダーナで、施主はダーナ・パティと呼ばれた。わが国の「旦那」や「家」は、このダーナ〔・パティ〕に由来する。もともと敬虔な信者を意味する仏教語であったが、俗化して、財物を与えてくれる「ご主人さま」を旦那と呼ぶようになった。(p.128)


日本語の単語にはインド由来のものが結構あるようだが、一つ一つがなかなか面白い。



『論蔵』として総括される一群の仏典は、各部派の教理解釈を収めたものである。この『論蔵』にさきの『律蔵』『経蔵』を加えたものが三蔵であり、三蔵に精通した学僧が三蔵法師(ほつし)と呼ばれた。中国の仏教史上でこの尊称に最もふさわしい人物は唐の玄奘であるため、玄奘個人がこの称で呼ばれることもある。(p.132)


この点については、玄奘個人の尊称なり通称を「三蔵法師」と呼ぶものだと思っていた。今までこれが一般名詞だと考えたことはなかったので、驚いた。



 歴史的に眺めると、バラモンたちの南インドへの移住は、この地の王たちによる積極的な誘致によって促された。部族制の段階から王制への移行期において、バラモンは王権の正統性を宗教的に承認し、その強化に貢献したからである。
 またバラモンがもち込んだヴァルナ制度のイデオロギーは、階級社会に秩序を与える上に役立った。王たちが村や土地を施与してバラモンの定着を図ったのは、かれらのこうした役割に期待したからである。(p.220)


中世以前において宗教は一般にここで述べられているのと同様の役割を果たしてきたと私は考えている(例えば、日本に仏教が入ってきた時も、政治的な意味を抜きにしては考えることはできないであろう)。ヒンドゥー教やバラモン教ではヴァルナ制度やカースト制度が伴ってくるため、支配者にとっては他の宗教と比べても、かなり都合の良いものだったと思われる。



 ユーラシア大陸の中央に位置し、隊商が頻繁に往来したこの地域も、ヨーロッパ人が海路アジアにやって来るようになると、その歴史的役割を終え、やがて西方世界の人びとから忘れられてしまった。
 ヨーロッパ人がこの地の重要性に目を向けるようになったのは、19世紀の後半になってからである。当時、南下策を進める帝政ロシアは中央アジア・アフガニスタン方面への進出を企てており、その先駆けとして、中央アジア探検を推進した。一方、この動きを植民地インドに対する脅威とみたイギリスも、中央アジア方面への関心を高めた
 こうした動きがきっかけとなり、19世紀末から20世紀初めにかけて、これら両国をはじめ、ドイツ、フランス、スウェーデン、日本などの国々が、地理、民族、歴史、宗教、文化を調査するという目的を掲げて、この地に探検隊を送り込んだ。(p.343)


この地域とは中央アジア(西域)のこと。

19世紀末から20世紀の初めころにこの地域に各国が探検隊を送ったことについて、探検隊はロマンを求めていたかのように描かれることがあるが、ここで指摘されているように当時の国際情勢が背景にあったと見るべきだろう。(なお、19世紀の前半からイギリスはアフガニスタンを勢力下に置こうとしてアフガン戦争を起こしていた点にも留意すべきだろう。つまり、19世紀末よりも前から関心が高まる条件は整ってきていた。)

ちなみに、「シルクロード(ドイツ語のSeidenstraßen)」という言葉が出てきたのも1877年のことであるが、ここで指摘されているような形で中央アジアに対するロシアやヨーロッパ諸国での関心が高まったことと関連としていると思われる。



E&F-B.ユイグ 『スパイスが変えた世界史 コショウ・アジア・海をめぐる物語』

 1497年7月8日のリスボン港では、カリカットに向けて出港する船舶が、威容をみせていた。それは一隻のカラベル船、補給用の随伴船、この機に建造された同型の二隻の船のことである(修理に便利なように、二隻は互換性のある部品だといわれていた)。乗組員は150人以上の人たちで構成された。なかには、普通法の受刑者である「デグラダドス」がいた。かれらはとある場面で、さほど値うちのない人生を賭けることで、名誉の回復をはかることになっていた。それはヴァスコ・ダ・ガマが、有能な船員の人生を危険にさらしたがらない場面のことだった。未知の人たちと最初の接触をはかるために送りだされたのは、こうした人たちだったのだ。かれらが生きのびれば、うけとるのは自由という報酬だった。(p.194-195)


犯罪を犯した人に対して非人道的な扱いをすることが許されるという発想は、現代では否定されるべきものとなっている。このことを理解していない人は意外といるように思われる。(受刑者ではなく被疑者に対する考え方も誤っている人は多い。)


白井厚 編 『大学とアジア太平洋戦争 戦争史研究と体験の歴史化』(その3)
白井厚 「戦争体験の歴史化をめざして――慶大経済学部における「太平洋戦争と大学」の講義」より。

「七三一部隊」とは「前列七人、中列三人、後列一人という編成で攻撃する部隊」という答案を見て、私は天を仰いで嘆息した。
 昨年11月に「太平洋戦争と大学」で小テストを試みたところ、百人以上の学生の大半が知っていた単語は「現人神」だけ。以下「七③一部隊」「国体」「復員」「三光作戦」「予科」「わだつみ」「国権皇張」「仮卒業」「八紘一宇」「人民戦線事件」「醜の御楯」「修正」「甲幹」「学生狩り」の順に正答は激減し、誰も知らぬ「予備学生」に至る。半年以上講義を続けたあとでもこの程度であるから、戦時中の日記や遺書を読んで学徒兵の心を理解する能力は今や急激に低下しつつある、と考えねばならないだろう。(p.267)


この講義が行われていたのは90年代の前半から中盤頃であり、ここで戦時中の人々のことを理解する能力が低下していると指摘されているのは、現在の40歳前後の世代に当たる。90年代以降の(一般には「歴史修正主義」などと呼ばれる)「歴史改竄主義」の台頭と、ここでの指摘には関連性があるように思われる。すなわち、このような無知が背景要因としてあったことが、「歴史改竄主義」の歴史観が受け容れられることを容易にしたと考えられる。

ただ、直接戦争を経験した世代(概ね1940年以前生れ)、それに隣接する世代(50年代前後生まれ)などと比べ、70年前後生れの世代が生まれる30年近くも前の社会で通用しており、既に存在しなくなっているものを表現する言葉の意味を知らなかったとしても、一概に責められないのではないか。公的なルートで教育をしっかりしたとしても、戦争を経験した人びとがかなりの割合を占めている社会で生活してきた人と、そうした人たちが非常に少なくなった社会で生活してきた人とでは、戦時中に使われた語彙についての知識に落差があるのは当然ではある。

歴史改竄主義の歴史観に結びつかないように、社会の側が正確な知識や事実を確定するための方法論などを習得させるような教育が求められる。



白井厚 「戦争体験から何を学ぶか――「太平洋戦争と大学」最終講義」より。

我々が日本人として理解し得る事は、果たして外国人にも理解されるんだろうか、常に考えなければならないのです。
 そして更にですね、我々はこの歴史、この体験というものを未来に伝えなければならない。後世の人というのは我々にとっては外国人と同じだ、と覚悟するのが私は一番いいと考えます。(p.296)


私が呼ぶところの「自慰史観」には、このような視点は完全に欠如している。ここで述べられているような視点を持ち続けることは、誤った歴史認識に落ち込まないために重要であると考える。

後段の内容に対応するための方法としては、後世の人は現在の自分たちが共通認識として知っていることを知らないものと前提しなければならず、その前提に立ちながらできるだけ誤解されることのないように十分に説明を尽くすべきだ、といったところだろうか。



吉田明 「「従軍慰安婦」問題から「戦後補償」へ――高校「現代社会」での授業実践の概要と考察」より。

若者たちが心底ショックだと感じたのは、「加害の事実」とともにそうした「事実を知らされてこなかった」ことであり、彼らは、事実を知らされないことによって人間としての誇りを傷つけられたと感じたのである。(p.347)


事実を知らされていなければ、しかるべき時にしかるべき行動ができなくなる。そのような状態にさせられることは人間としての誇りを傷つけられることだ、ということだろう。「加害の事実」をなかったことにしたい、あるいは矮小化したい、という人が、残念ながら今の日本の世の中にはいるが、そのような人は上記の立場から言うと、「人間としての誇りを持たずに恥知らずな行いをしている人」ということになるだろう。



白井厚 編 『大学とアジア太平洋戦争 戦争史研究と体験の歴史化』(その2)
浅野健一 「戦時中の同志社」より。

憲法の反戦主義、人権尊重を強調する人々を「青臭い」とか「人権派」と非難する風潮がある。拙著『メディア・ファシズムの時代』(明石書店)で、メディアが権力の一部になっている構造は30年代と酷似していると書いた。(p.121)


本書は90年代の半ばに出版されており、まだネットが一般に普及する前の時代に出たものであり、このコメントもオウム真理教事件に対するマスメディアの論調に対してのコメントである。しかし、その後、ネットの普及とともに表面化してきた言説の中に、ここで指摘されているものと同類のものがあった。また、この部分を現時点で読んで想起されたことは、読売新聞や産経新聞のスタンスは、ここで言われている「メディアが権力の一部になっている構造」に位置づけることができるということであった。



一橋大学名誉教授で慶應の講師だった大塚金之助は、「日本に再びファシズムの兆しがあれば出来るかぎり闘え、それが大学で社会科学を学んだ諸君の義務だ」と我々に訴えた。(p.122)


この教えと同意見である。社会科学による訓練を受けた以上は、その力を活かすことは、教育を受けたことに対する責任であろう。



平山勉 「靖国神社事件と戦時下の上智大学」より。

 そして太平洋戦争が始まると、文学部には史学科が創設された。学長土橋より文部大臣橋田邦彦宛の「学則変更ノ件許可申請」には、史学科設置の理由として「西洋史の一部として東亜共栄圏南方諸国の歴史研究の途を開き、且商学部学生中卒業後南方関係の業務に従事せんとする者に当該地方の地理歴史及び言語を学ぶの便を与へんとす」とあり、国策に沿った学科のようであったが、戦局の悪化に伴い学生は講義を受けることもままならず、いよいよ「学徒出陣」を迎えることとなる。(p.138)


この学科で学ぶ予定だった歴史はどのようなものだったのだろう。



アン・ワーズオ 「アメリカ民衆の太平洋戦争観」より。

 アメリカでは、法律を学ぶ学生は戦争の前半での「日本人と日系人の隔離」への憲法上の関わりについて考えているのは事実ですが、比較的少数のアメリカ人しか自国の歴史上のこの残念な出来事について意識していないようです。そしてさらに少数の人しか、広島と長崎の原爆以前に米国空軍が京都と福島を除くすべての日本の都市を襲撃し、ひどく怖ろしい被害を軍事施設だけではなく、工場や木造の建物、さらに一般市民に与えたこと、1945年の春東京などではゼリー状のガソリン、すなわちナパームを使用し火の嵐を起こしたのを知りません。……(中略)……。
 国民の記憶では、結果のみがあり、手段は無視されています。(p.251)


一般の人々の記憶には結果のみがあり、そこに至るプロセスは無視される、というのはなるほどと思わされた。この性質は為政者側に非常に悪用されているように思われる。