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上山安敏 『ウェーバーとその社会』(その2)

 ウェーバーの「価値自由」が価値からの離脱ではなく、逆に価値への接近の学問的表現であることがよくいわれる。ウェーバーほど政治への強烈な関心を持ち続けた人は稀である。だがこの政治的志向の高まりも同世代人の意識状況と関連している。それは簡単にいえば、シュモラーらの講談社会主義の段階が前の時代のリベラル=マンチェスター派の政治闘争に対して非政治的な経済政策で克服しようとしたのに対して、ウェーバーらの世代は大衆民主主義状況の中で再び政治的教授として登場したことである。
 ドイツの19世紀のアカデミズムと大学教授の政治行動には次のような潮流の変化がある。三月革命の挫折後の1860年代には、革命の余震もあって、1862年以来の憲法闘争に見られるように、大学教授は多く進歩党に所属してビスマルクの軍拡政策に抵抗した。その過程で「法治国家」論なり「人権」論なりを学問的成果として共通の財産にすることができた。したがって大学教授の有力者は殆んど議会に進出し、講壇と議事堂とを往復した。トライチュケ、テオドール・モムゼン、ルドルフ・フィルヒョーやグナイストといった人々は学者と議会人と同一人格において矛盾なく行動し得た。聴衆は学生と民衆の違いだけである。それは当然大学の講壇におけるデマゴギー(民衆扇動)を可能にした。ウェーバーが不快と魅力のコンプレックスの中に聴講したトライチュケはデマゴーグであった。
 ところがシュモラーらの講壇社会主義の時代になると、帝国創設期の政治状況の下で、学者層の政治志向がぐっと変ってくる。1860年代の自由主義政党の後退(進歩党の分裂と国民自由党の体制化)とそれに代る利益団体を基礎にした大衆政党の抬頭によって、ずっと名望家支配にのっかっていた教授達は、かつての政治的関心を失ない、大学人の政治への非参加が美徳とされたのである。(p.88)


ドイツが統一されたのは1871年であるが、それを控えた激動の時代には大学教授達も知識人として積極的に政治に参加する必要に迫られていたのに対し、体制がある程度安定してくると講談社会主義者のように政治的教授である必要はなくなった。しかし、講談社会主義者たちは政治家にはなっていないが、政治と無関係だったわけではなく、ウェーバーはその欺瞞に対して批判していくことになる(次の引用文参照)。このような感じだろうか。ドイツの学問と政治の状況を踏まえるとウェーバーの言動も一つ一つ時代を映し出す鏡となっていることがわかり、より興味深いものと感じられる。



イギリスの議会のように立法調査機能をもたなかったドイツでは、とくにウィルヘルム体制に入り、政府と社会政策学会との関係は、一種の政府の立法下請機関的要素をもっていたのである。そうした点でイギリスのフェビアン協会のように労働党という新党の結成への母胎になるような政治団体と対照的であったといわなければならない。こうしたシュモラー的客観性を装った社会政策学会がえせ中立的な官僚制と密着した体質をもっていることを、新しい政治意識をもった世代は嗅ぎとったのだ。(p.90)


社会政策学会の位置づけについて、ウェーバー関係の解説書などを見てもあまり的確に説明されることがなかったが、この叙述はそれらとは異なり非常に参考になった。ウェーバー自身が行った農業労働調査なども確かに立法調査的な志向と明らかに結びついている。



 とくにプットカーマー内相(1881~1888)は、保守的でない書記官の行政官庁への流入をすべて阻止した。リベラルな官僚層がプロイセンで急速に消失していったのはこの時期である。(p.132)


これはひどい。現代日本でも安倍政権によって内閣人事局が設置されて以降、官僚の上層部は同じような状況になっているのではないかというのが私の見立てであり、これがもたらす悪影響は計り知れないものであり、他人事ではない。こうした制度的なものであり、極端な動きが見えにくい部分は報道でもあまり注目されることがなく、一般の人びとにはあまり関心がもたれないが故に、その危険性はさらに高まる。



 私講師法の背景を分析していくと、それを実質的に推進させたのは、実は文部官僚よりも議会での自由保守党と国民自由党グループであることが分る。さらに財界が強力にその後押しをしていた。これがザールの大工業家シュトゥム男爵のグループなのである。ビスマルク時代、講壇社会主義は政府とともにその与党であった国民自由党、自由保守党両党に対して対立関係にはなかった。大学教授の多くはこの両党に所属していた。だがウィルヘルム体制に入り、社会主義者弾圧法が画餅に帰し、社会民主党が次第に帝国議会に進出し始めて(1890年に35議席、93年に44議席)から、資本家側は、「ドイツ工業家中央連合」を中心にして反社会主義の運動を自ら担い、皇帝カマリラとともに社会主義の抑圧に狂奔するに至った。彼らは、1894年にいわゆる「転覆法案」を用意し、その失敗後の1897年「小社会主義法」を、98年、99年には帝国議会でいわゆる「懲役法案」を強行しようと試みた。これらの反社会主義法案を契機にして、シュトゥム王国(1896~1901年)と、講壇社会主義との闘争が開始されることになる。(p.156)


私講師法とは、1898年に成立した法律で、それまで(教授とは異なり)国家の官吏ではなかった私講師を国家の官吏として位置づけることによって文部省が任免の権限などを持つようにしたものであり、それまでは大学の学部に属しており、学部の内部で後進の養成をしていたところに政府が介入できるようにしたものであった。このことの問題については、前のエントリーの2つ目の引用文についてのコメントでも触れた。

財界による反社会主義の運動については、もっと詳しく知っておいた方がよいように思う。ある意味では、今も財界の行動の傾向に変わりはないのだから。



 この講壇社会主義者シュモラーやウァーグナーらと、若い世代のウェーバー、テニエス、ゾンバルトらと、シュトゥム王国との間には三極構造がみられる。三者は相互に対敵関係にあった。しかしこの1896・7年段階では、まだ若い社会政策学会のグループと旧い講壇社会主義者とは一体性があり、対シュトゥム闘争において共同的立場にあった。しかし1900年以降、学者でなく、財界人であり、議会人であったシュトゥムの攻撃が終り、代ってドイツ工業家連合が彼らの利益代弁者の学者を大学に進出させ全面的に講壇社会主義に攻撃をし向けるに至って、この三極構造は微妙な変化を伴ってくる。社会政策学会の内部で価値判断論争が本格化したとき、資本家の代弁グループは、ウェーバーの唾棄し、酷評した「にせ価値自由」論者として、この世代間論争としての価値判断論争に積極的に介入したのである。この間に資本家の側の発言力が増大し、ブレンターノを含めて講壇社会主義が衰退していく中で、ウェーバーは両者に対して論争を挑んでいったのである。(p.159)


ウェーバーの価値自由の議論がどのような状況で出されたものだったのかが非常によくわかる。看過できないのは財界が代弁者を大学教授として大量に大学に送り込むことが出来ていたドイツの大学制度である。政府を仲介として財界が影響力を持てるようになっていたことがわかる。現代日本でも特に国立大学の法人化以後、大学の独立性や自治が急速に失われて行っているように見えるのが憂慮される



上山安敏 『ウェーバーとその社会』(その1)

 大学の拡大は大学の団体としての独立性に微妙な影響を与えた。学生聴講生の数の増大によって国家の負担する費用が増加すればするほど大学の物的施設が整備拡充され、それに伴って国家権力の大学に対する影響も財政・人事の国家による把握と管理権の強化となってあらわれる。しかも権力の側の大学の官僚制化への社会的基礎は前述のように十分にでき上っていた。そこに立ち現われたのは、ドイツの大学史上有名な「アルトホフ体制」であった。(p.22)


アルトホフ体制にもそこに至るまでの前史があったことがわかる。大学の数的な規模の拡大が、政府からの費用負担の必要性を高め、政府からの財源に依存すればするほど(もともと「組合」というような意味を持つ)大学の団体としての独立性が侵食されていったというプロセスがあり、その基礎の上だったからこそ、アルトホフ体制が可能となっていたわけだ。



その上アルトホフのやり方の最も特徴的なものは、特定の大学でなく、一般的大学目的の使用と結びついて政府が自由に処分しうる額を大量に用意したことである。その額は彼の在職中三倍になった。しかも重要なことは、その費用の中に優秀な私講師の招聘と保持並びに講義担当の委任という名目が入っていたのだ。(p.23)


私講師の招聘や保持、さらには担当する抗議まで政府が介入できるという体制には驚くほかない。戦前のドイツの大学の大きな問題点だと、私が思うのは、大学が事実上、政府の官僚組織の一部になってしまっており、大学の自治がなかった点にあると考える。どこの大学の教師を誰にするのかということまで政府の側に握られており、さらに次の世代の教授の卵である私講師までも政府が決められるというのであれば、政府に対して批判的な教師が大学で教える可能性は狭められる。批判の度合いが強ければ強いほど忌避されることとなり、結果的に政府の利益にとって都合の良い立場の人間たちが知識人としての重要な地位を独占していくことになる。ワイマール体制というものがありながら、容易にナチスの台頭を許したことの背景の一つとして、こうした大学制度に基づく、代表的知識人の右傾化・保守化傾向というものが当時のドイツの一般の言論空間に影響を与えていたことが遠因の一つになったのではないか、と思われる。

ある意味、当時の日本の「帝国大学」のシステムにも通じる部分があったのではないか。



 ウェーバーは大戦前にドイツの大学に少なからぬ点でアメリカ化が進行していることを認めるが、1900年以降大学は帝国主義段階に入って新たな再編成の時機を迎えていた。化学を筆頭にした自然科学、心理学を花形にした社会科学の研究分野では研究システムの革命が徐々に進行しており、それにともなって研究者集団の官僚制化と研究者の手段からの疎外状況が深刻な問題をはらんでいた。この研究体制は、産業化が飛躍的に進んだ段階において、財団方式=アメリカ化の問題につき当たらなければならなかったのだ。ドイツのように殆んど全面的に国家に財政を依存していた大学体制は、従来と異なって財界を含めた私的基金による財団大学と財団研究所の設立のラッシュでその様相を変えていった。財団による大学への寄金は、たんに大学の枠を超えて文部省の教育政策を匡正しかねない、深刻な政治問題に転化していったのだ。しかもこの研究体制の変化に、実はシュモラーらの講談社会主義者とウェーバーらの若い世代の間に体制原理の選択をめぐる対立があって、これが価値判断論争に流れ込んでいる。「価値自由」の草稿を生んだ価値判断討議の中に「一般的方法論的原則と大学教育の使命」がとりあげられたのもそうした意味をもっている。(p.62)


当時のドイツの「政府がコントロールできる大学」に対して、私的な資本が財団大学や財団研究所という形で「政府がコントロールできない研究機関」が設立され、競争関係に立つことになり、政府の側は懸念を強めたわけだ。


大木毅 『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』

こうした、ソ連にとっての悲劇をいっそう深刻なものにしたのは、大粛清等による権力集中によって、ソ連指導部からは異論が排除され、スターリンの誤謬や先入観、偏った信念が、そのまま、国家の方針となったことであった。(p.8)


この叙述の内容は、ほぼそのまま現代の日本、安倍政権にも当てはまると思われる。確かにかつてのソ連ほどの大粛清は行われていないが、安倍政権は、官僚に対する人事――安倍政権にとって都合の悪い事実を隠蔽することに加担した官僚が露骨に出世していることは明らかだし、東京高検の検事長の定年延長問題などにもそれは続いているが、そこに至るまでの経過も政権に政治的な立場が近い人間を厚遇し、そうでない人間を冷遇しているのは明らかだろう――やマスメディアに対する脅し――特に政権開始直後からしばらくの間、これを続けることで逆らいにくい雰囲気を醸成した面がある――などの手段によって異論を排除することにかなりの程度成功している。

新型コロナウイルス感染症に対する対応でも、客観的な知見などを十分に考慮せずに独断で全国の学校を一斉休校させたり、突然、布マスクを全世帯に2枚配布すると言いだしたりと、かなり頓珍漢なことを続けているのも、「安倍の誤謬や先入観、偏った信念が、そのまま、国家の方針となった」事例ではなかろか。

学校を全国で一斉に休校にするよりも、首都圏での感染拡大の状況から見れば、人が密集している首都圏の人の動きをどうにかすることが先だったはずだろう。休校はさらに様々な手を打つ中での一つとして必要な局面も出てくることもあり得るにせよ全国一律での実施は的を外していると考えられる。布マスクの配布は、ざっくり言えばマスク不足による不安を解消するためのものであり、感染拡大を防ぐためではないようだが、そんなことよりもう少し実質的な対策はできないのかと首をかしげたくなる。(何でも「やっているふり」ばかりの安倍政権らしいと言えばその通りだが…。)


I.ウォーラーステイン 『近代世界システムⅣ 中道自由主義の勝利 1789~1914』

19世紀の歴史は――20世紀のそれも――、特権と優位を享受した少数者が、つねに市民権を狭く解釈しようとし、他の人びとは、よりひろい解釈を採用することで、これに対抗してきた歴史である。(p.177)


このことは21世紀でも変わっていない。ただ、20世紀の多くの時期(戦後から1970年代頃まで)よりも現在の方が少数者にとってより優位になってきているという点では変わってきているが。


中西聡 『海の富豪の資本主義 北前船と日本の産業化』

 これらの北前船主が、垂直統合経営に向かうか複合経営に向かうかの分岐点は、近世期の北海道への進出時期と進出形態にあったと考えられる。
 第Ⅰ部で取り上げた西川・酒谷・右近家は、いずれも18世紀から北海道産物取引が商業的蓄積の基盤であり、それぞれ両浜組商人あるいは荷所船主として、その利益基盤が支配権力により保護されていた。もっとも、その対価として支配権力へのかなりの御用金を負担する必要があったが、近世北海道の封建領主であった松前藩は、18世紀には北海道産物の生産・流通を商人に委ねて、運上金や沖の口口銭の形態で、間接的に収益の一部を取得する支配形態を採用したため、北海道産物の生産・流通の中心的担い手であった両浜組商人や荷所船主が直接御用輸送・御用商売を担う必要はなく、彼らの商業的蓄積は、支配権力による規制の範囲内での自由な商取引に基盤を置いていた。
 それゆえ、18世紀末以降江戸系商人の北海道進出とともに、両浜組商人や荷所船主の特権は失われたが、場所請負を行った両浜組商人は自ら船を所有して場所経営を拡大することで、また荷所船主は買積経営に転換することで、それぞれ経営危機を乗り切り、大坂など本州の集散地と北海道との地域間価格差を活かして商業的蓄積を進めた。
 19世紀初頭に場所請負に進出した藤野家を含め、これらの北前船主にとっては、すでに近世期から地域間価格差を活かして北海道産物を専ら取り扱うことが、商業的蓄積の中心的基盤となっており、支配権力との経済的関係は、御用金を負担するか否かのみの関係に集約され、廃藩置県により、封建的支配権力が消滅しても、その経営形態を転換する必要はなかった。しかも1880年代に米・綿・砂糖などそれまで北前船主が主に扱った産品の地域間格差が縮小するなかで(前掲表序-9)、北海道産物では、依然として北海道・畿内間でかなりの地域間価格差が残されたため、彼らは近世期と同様の垂直統合経営を近代期も継続した。幕末期に雇船頭から自立した西村家は、成長期が1880年代であり、北海道産物を専ら扱い、北海道と大阪の両方に経営拠点を設け、垂直統合経営を展開した。
 そのため、三井物産のような近代的巨大資本が北海道物産市場に参入した際に、西川・酒谷・右近家らは自らの商権を守るために団結し、北陸親議会を中心として商取引と輸送をめぐって近代的諸勢力と争った。その結果彼らは、1890年代も北海道産物取引でかなりの商業的蓄積を上げたが、競争相手の三井物産が北海道産物市場から撤退した後は、団結するインセンティブがなくなり、またさらなる汽船網・通信網の整備とともに、地域間価格差が縮小したため旧荷所船主の北前船主は、汽船経営に転換したり、海運経営から撤退した。そして、旧場所請負商人の北前船主は、北海道での漁業経営に専念するようになった。
 一方、第Ⅱ部で取り上げた北前船主は、北海道物産取引への進出がいずれも19世紀中葉以降と考えられ、その時点では、北海道産物の商権を第Ⅰ部の北前船主らが握っていたため、北海道産物よりむしろ米・木綿・綿・砂糖など出身地元市場と深く関係する多様な商品を主に扱った。それゆえ、近世期より地域経済とのつながりが強く、幕末期にある程度の土地を出身地元で取得していた。近代に入り、彼らは北海道産物も取引するようになり、前述のように米・木綿・綿・砂糖などの地域間価格差が1880年代に縮小すると、80年代後半から北海道産物取引を主に行った。とはいえ、北海道産物・米・塩・砂糖などの地域間価格差は70年代にはかなり残されたと思われ、特に70年代後半のインフレ期に相当の商業利益を上げた。その商業的蓄積が、1880年代の土地取得の原資となり、彼らは商業上の拠点を北海道に設けつつ、出身地元でも大規模な地主となった。
 その結果彼らは、北海道産物を専ら扱った1890年代でも、出身地元市場と深く関わり、例えば野村家・伊藤家は地元産の米を北海道へ運んで販売し、熊田家は北海道産魚肥を地元へ運んで販売した。このような土地経営や地元市場を介する地域経済との深いつながりが、彼らの複合的経営展開の背景にあり、家業の商業の他に、野村家は地元で土地経営・酒造経営・銀行経営を行い、伊藤家は地元で金銭貸付業や農業経営を行い、熊田家は地元で土地経営や運輸・倉庫業を行った。そして秋野・斎藤・瀧田家や東岩瀬の船主も地元で土地経営・銀行経営などを行った。(p.390-392)


本書では北前船主を3つの類型に区別して、その特徴などを明らかにしているが、そのうち、①北海道物産を中心に扱い、海運関連部門に進出し、出身地域経済との関係が弱いタイプと②近世期に支配権力から相対的に離れており、近代期に多様な業種に展開し、地域経済との関係が深いタイプについて、その経営形態が異なっている理由についてコンパクトに説明した箇所。もともと18世紀以前の経営形態というか利益の源泉がどこにあったかということが、明治中期頃の経営形態にまでつながっていることが見えて興味深い。北海道と本州との地域間価格差が比較的後まで残ったことは、それに適応することで大きく資産を増やしたりなどの影響もあったにせよ、ある程度の長い時間軸で考えれば、基本的には一時的/一過性の現象であったと見ることもできるのかもしれない。

ちなみに、本書が扱う第三の類型は、近世期には支配権力と近く、近代に入ると海運業は停滞し、土地経営に展開したタイプである。本書が記述する内容から判断すると、この類型が他の類型よりもピケティの示す最富裕層(上位1%の階層)に近いと思われる。それに対し、第一と第二の類型は上から2-10%の階層に近いように見える。



近代日本における人口分布は、東京を含む南関東(東京府・千葉県・神奈川県)と大阪を含む近畿臨海(大阪府・兵庫県・和歌山県)に特に人口集中が進んだわけではなく、第一次世界大戦前は、近代初頭の地域別人口分布がほぼそのまま維持された。第一次世界大戦以降に、東京・大阪の巨大都市化が進んだなかで、南関東・近畿臨海の全国に占める人口比率は若干増加したが、前掲表終-12で示した工業生産額の地域別偏差に比べれば人口の地域別偏差ははるかに小さかった。
 むろん、南関東や近畿臨海地方の内部で、大都市部への人口集中は進んだと考えられるが、本書で問題とした日本海沿岸地域と大都市圏との地域比較の視点では、東北地方の全国に占める人口比率は1876年から1935年までほとんど変化がなく、北陸地方は企業勃興期に一度人口比率が増大して、それから徐々に人口比率が低下した。1895年以降の北海道の人口比率の増加と北陸地方の人口比率の現象が同じペースで進み、北海道の人口増加は、北陸・東北日本海沿岸からの流入が中心であったと考えられる。また、山陰地方の全国に占める人口比率もそれほど減少せず、山陽・四国地方の方の人口比率が減少しており、その部分が恐らく大阪・神戸を含む近畿臨海地方への人口移動となったと考えられる。(p.436-437)


第一次大戦前は地域間の人口比率がそれ以前とあまり変わっていなかったというのは意外な感じがする。大正期に勤労者が増加し、都市的なライフスタイルが広まったことなどは、それ以前と比べると都市化の速度が速くなったことと関係があるように思われる。この辺りのことはなかなか面白そうなので、機会があれば調べてみたい。


大庭幸生・永井秀夫 編 『県民100年史1 北海道の百年』

 屯田兵村は、官による計画村落の典型というべきものであった。兵村は当初札幌周辺に配置され、十年代終りから遠く室蘭・根室・厚岸各郡へむかったが、これは主として警備上の理由からであり、つぎに二十年代は空知・雨竜・石狩国上川各郡の農業適地へ配置され、三十年代はふたたび警備上の理由が加わって常呂・紋別・天塩国上川各郡に設置をみた。多分このことと関連して、おおむね初期の兵村では兵員招集や監督上の便宜から密居制をとり、中期には粗居制、さらに後期にふたたび密居制に戻っている。(p.80)


兵村の設置目的に応じて村落の配置も変わるというのは興味深い。



タコ労働者は道外から募集されたものが多い。募集人は甘い言葉で労働者を誘い、遊興を勧めて前借を重ねさせ、土木現場に送りこむことで、かなりの報酬を業者から受け取ることができた。
 大正期の後半から、新聞紙上に多く監獄部屋の酷使・虐待・殺傷などの記事があらわれるようになり、人道主義的な批判が高まった。やがて道庁官吏による社会政策的立場からの避難や、司法関係者による犯罪防止的立場からの非難も加わった。……(中略)……。しかし、土木請負業者はタコ労働者を抜きにしては北海道の拓殖は進められないといい、募集方法の改善などが試みられたが監獄部屋そのものを消滅させることはできなかった。かえって戦時中には労働強化が進み、監獄部屋はふたたび増加の傾向をたどったと考えられる。(p.182-183)


囚人労働を継ぐものとしてタコ労働者が活用されたが、その手法は、いわゆる従軍慰安婦などとも共通点があると思われる。むしろ、北海道で先に実施されていたタコ労働者の募集が先例となっていたのではないかとも思わされる。これらの「業者」は同じ業者がやっていた事例はないのだろうか?または、関連がある業者が行っているといったことはなかったのだろうか?また、本書では戦時中についての記述は推定の域を出ていないが、これを裏付けるような議論というものはないのだろうか?



 明治12年(1879)「学制」にかわって「教育令」が公布され、これを機に開拓使の本・支庁では、小学校のうち規定の六科を具備しない「変則小学校」制を施行する学校を定めたが、先進地をのぞくほとんどの学校は変則小学校であった。このような教育制度上の差別は、このあと昭和初期まで継続したが、その理由とされたのは、人民の経済力の薄弱さやそれを強化するための実用的教育の必要性などであった。(p.197)


人民の経済力の薄弱さを理由として教育機会を制限するというのは、本末転倒の議論であるように思われる。経済力がないからこそ教育機会を平等に与えて、そこから抜け出せるようにするというのが教育制度の本来のあり方ではないのか?



キリスト教はとくに明治20・30年代の伸長が著しい。各派別教会数の変遷をみると、明治・大正期に設立された各派教会数199の65%・130がこの間に設立されており、現在まで残存している教会数81の72%・58がこの時期のものである。北海道開拓全盛期の時代は、その前後にくらべて官憲による迫害も少なかったようである(福島恒夫『北海道キリスト教史』)。(p.198)


興味深い。官憲の迫害が少なかったのだとすれば、その要因はどのような点にあったのだろう?人口の増加(社会増)が大きかったために、社会の変動が大きく、管理しようにもできなかったということだろうか?それとも、憲法の制定(明治23年)に伴う政府の体制(機構の改革)なども関係しているのだろうか?


高倉新一郎、関秀志 『風土と歴史1 北海道の風土と歴史』

ことに明治19年(1886)の北海道庁設置以後は、資本家の誘致・保護に重点をおいた。目的は、資本主義への転換にあたって必要な植民地をもたない日本の資本主義化のために食料・原料を提供し、余剰人口を吸収せしめることにあった。そのためには山林原野の耕地化、農民の扶植、すなわち開墾事業が必要であったが、まず農村を確立してからその活動を広げるためのサービスを生むという形ではなく、最初から進んだ経済組織のなかにある農村として、すなわち自給自足から出発した農業を基礎としたものではなく、最初から交換経済社会を前提とした農村づくりであり、まずサービス部門である市街地がつくられて、その周囲に、多くは農家の集団としてよりは、広い耕地に取り巻かれた一戸一戸の農家連続として農村が展開するという形をとった。したがって、開拓の最初からすでに商業資本とは切り離せぬ関係にあったのである。(p.267-268)


北海道の農村の成り立ちに関する議論として興味をひかれた。


中西聡 『近世・近代日本の市場構造 「松前鯡」肥料取引の研究』

 つまり鯡魚肥生産が開始された近世中期には、両浜組商人―荷所船―敦賀問屋―大津納屋のルートで鯡魚肥は輸送され、近江・畿内で鯡魚肥は主に使用された。日本海から下関を経由して直接海路大坂へ輸送する西廻り航路は、寛文12年(1672)に河村瑞賢によりすでに整備されていたが、鯡魚肥は依然として敦賀から陸送されるルートで輸送された。その背景には敦賀問屋・大津納屋衆と近江商人の強固な結合があり、そのため西廻り航路の整備によって直ちに北海道から大坂までを直接結ぶ海運網が形成されたわけではなく、日本海航路では依然として船の活動範囲が地域的に限定されていた。(p.69-70)


この辺りのことについて、簡単な説明を聞くと、西廻り航路ができるとすぐにそこを通って運ばれたかのような印象を受けてしまうことが一般的だと思う。実際にはすぐに西廻り航路が鰊魚肥の流通路になったわけではなかったというのは、やや意外だった。



日本海海運は遠隔地間「交通」の典型的な例であり、菱垣・樽廻船における江戸・大坂間の価格差に比して、北海道・大坂間の価格差ははるかに大きかった。とすれば日本海海運においては、価格差を利用して大きな利を得られる自分荷物積の方が船主にとって有利であり、実際19世紀には北海道産商品は長崎俵物など一部の御用荷物を除き、ほとんどが自分荷物積で運ばれた。(p.73)


北前船の商売のやり方も、その背景には北海道と大坂との物価の価格差が大きかったという条件があったということを理解しておくことは重要。明治になり交通や通信の技術が発達し、普及してくると、こうした環境はなくなってしまった。



このように三井物産と近世来の諸勢力が正面から競争した函館・大阪市場では、近世来の諸勢力の団結が明確にみられ、三井物産に対してグループとして対抗し、資金力や価格支配力に現れる三井物産の取引上の優位性を押さえ込んだ。逆の見方をすれば、三井物産の進出が結果的には近世来の諸勢力間の競争を制限させ、近世来の諸勢力同士の協調を促し、明治20年代の鯡魚肥市場をより競争制限=安定的な方向へ進めた。(p.323)


三井物産に対抗するために近世来の諸勢力が結束して対抗したため、三井物産は鯡魚肥の市場から撤退させた。次に引用するように、この後、国内の市場を十分に確保できなかった三井物産は外地や外国への進出を強めていった。この辺りは非常に参考になった。



 三井物産はそれに対し、樽前漁業組合と委託販売契約を結び(明治23年(1890))、北浜漁場産物も扱ったが、十分な利益を上げるに至らず、明治28年に栖原家より漁場を譲り受け、北海道漁業部を設置して鯡魚肥生産に乗り出した。しかし北海道漁業本部(北海道漁業部を明治31年に改称)も十分な利益を上げられず、明治30年代初頭に、逆に小樽出張所・函館支店を廃止し、鯡魚肥市場から徐々に撤退して肥料取扱の中心を「満洲=中国東北部」産の大豆粕へ移した。……(中略)……。
 ……(中略)……。この間米穀取引でも三井物産取扱高は、明治23~27年にかけて減少しており、こうした国内市場掌握の限界性が、明治30年代以降の三井物産の積極的な海外市場進出の背景にあったと考えられる。(p.337-339)


国内市場を把握しきれなかったがゆえに海外市場に目を向けざるを得なかったというのは、現在から見る三井のイメージとは乖離があり興味深い。


黄昭堂 『台湾総督府』(その2)

 台湾の建設が、在台日本人の努力のみに頼ったものではなかったにもかかわらず、支配者としての内地人の台湾人蔑視は無垢の子にも教えこまれていく。そして、せっかくつくられた中等以上の学校は公平な競争によらないで、こうした「二世」によってしめられた。そして台湾青年は台湾で高等教育を受ける機会が少ないから内地へ行く。ところが泉風浪も指摘しているように、「内地で高等教育を受け、郷土台湾へ帰へって来ると、大手を拡げて待っている筈の仕事は皆無と来てゐる」(泉、前掲書、341頁)。官学万能のためのみではない。台湾人が差別待遇を受け、採用されないからである。
 しかし、こうした差別待遇よりも、「蔑視」が台湾人の心を大いに傷つけた。親日知識人たることを自任して一生を終えたある台湾人は、「日本の台湾総督は“一視同仁”ひとしく日本人なりと唱えてはいたものの、本島人である我々からみると差別が多く、何んとしても我慢ならなかったのは、正式に日本国籍にある本島人を、中国人に対する蔑称(チャンコロ)で呼ぶ内地人が多かった事である」とその遺稿につづっている(周慶源 『台湾人からみた日本人の英知』 蔵元文焜発行、59頁)。
「チャンコロ」だけではない。
「儞(リー)や」ということばがある。これはふつう、雇い人、車夫、物売りの人たちに呼びかけるばあいに使うといわれるが、内地人はふだん台湾人に呼びかけるときに平然と使う。「おい、こら」もよく使われ、また台湾人のことをいうのに「土人が土人が」と頻発するのに台湾人は耐えがたい侮辱の感をおぼえたと、台湾を訪問した衆議院議員田川大吉郎も報告している(田川 『台湾訪問の記』 127頁)。(p.247-248)


これに類することは、本書以後にもいろいろと指摘されており、基本的な内容は同じである。それだけ台湾の島内で普遍的にみられた現象であったということだろう。

私は最近、いじめ問題についても考えているが、台湾人に対する差別と基本的な構造というか、差別する(いじめる)側のまなざしは限りなく同一と言ってよいように思う。


黄昭堂 『台湾総督府』(その1)

 ところで、台湾史の時代区分において、研究者は清国統治時代と日本統治時代のあいだに「台湾民主国時代」をいれることをさけている。台湾民主国の存続期間が短かったこと、支配権力の実体が不明であることのほかに、研究者が意識的もしくは無意識裡に政治的配慮を加えているように思われる。
 日本帝国についていえば、台湾民主国の存続期間が台湾総督府による支配の初期と重複しているゆえに、それを認め難いであろう。中華民国についてみれば、台湾が一時的であるとはいえ、「独立した」との事実を認めるのは、現在の政策上、不都合であろうし、これは中華人民共和国のばあいも同じである。これら支配者や「支配者的立場」にある国とは別の立場にいる台湾人にしても、台湾民主国の政府要員の多くが、清国官吏であったことや、総統としての唐景崧の清廷への通電で、さかんに「朝廷にたいして他意はなく、忠誠である」ことをるるとして述べていることに違和感をもっているであろう。台湾民主国が台湾史の一時代を画したとの評価を得られなかったのは、このためである。(p.47)


本書は台湾に戒厳令が敷かれていた1980年代に書かれた本であるため、ここでの「中華民国」の立場は、現在の中華民国政府の立場とは必ずしも一致しない。現在の台湾の中華民国政府の国民党の歴史観からすると、確かに台湾が独立した時期があったとするのは都合が悪いことになる。台湾は中国ではなく台湾であるという感覚の台湾人から見ても、本書が言うように、清朝に忠誠を誓うような姿勢であったのであれば、清国統治の一部でしかないということになる。

個人的には、蝦夷共和国と台湾民主国を比較してみたいと考えているのだが、旧幕臣たちが指導層だった前者と旧(?)清国官吏が指導層だった点は類似点と言える。リーダー選出を選挙で行うという点や短期間で制圧されたことなども類似点だろう。ただ、清朝が日清戦争で負けた結果、条約により台湾を割譲することを決めているのに、現地で日本に抵抗を示した台湾民主国と、幕府が内戦で敗れたことに納得できない旧家臣たちが辺境の地へと逃げて体制を立て直そうとした蝦夷共和国とでは、住民との関係性は異なっている面があるかも知れない。



 その反面、日本の台湾領有によって、台湾と沖縄との境界は、むしろあいまいなままに残されることになった。そしてそれは「尖閣列島の帰属問題」として、今日にいたるまで尾を引いている。(p.49)


なるほど。確かに。



 しかし有能な将官だからといって、必ずしも行政能力を持っているとはかぎらない。そこで一般行政を担当する民政部門の首脳に行政手腕が期待されるのである。(p.59)


台湾総督が初期には武官であったが故に、民政長官のような民生部門のポストが必要となり、後者が日常の政治を司るような体制になった。この辺りの理解は本書のおかげで深まったように思う。武官総督時代が終わり、文官になっても残されたあたりも興味深い。



 乃木総督が手をやいた抗日ゲリラは児玉・後藤時代でも変わりはなかった。後藤の告白によると、かれが赴任した明治31年から35年までの5年間に、総督府が殺害した「叛徒」は1万1950人に達している(後藤新平著・中村哲解題『日本植民政策一斑』64頁)。日本が台湾を領有してから明治35年までの8年間に、日本政府側の統計にあらわれている分だけでも、台湾人の被殺戮者数は3万2000にんに達するのである。これは台湾人口の1パーセントを上まわる。ことに児玉・後藤コンビ時代の台湾人殺害数が、初期の台湾攻防戦時に匹敵することにあらためて注目すべきである。(p.83)


こうした点は児玉・後藤時代の称揚する傾向が強い日本側の記述では触れられることはほぼない。本書では、私が近年日本側で出版された本で読むよりも、抗日活動はより活発であり、長期にわたったことが強調されている。これが研究の進展により訂正されたものなのか、著者の立ち位置の違いから出てきているものなのかが気になるところである。



 しかし、原内閣が成立した大正7年以降、状況は一変した。例外を除いて、台湾総督および総務長官の座は政治色が濃くなり、中央における政変に連動して、政党的人事がむしろふつうになった。その先鞭をつけたのが、原政友会内閣による田健次郎の任命である。(p.109)


台湾総督や総務長官(民政長官に相当)の人事や台湾で実施された政策の意味を理解するに当たって、本国の政治状況と結び付けて見ることで見えてくるものが結構ある。この点の認識を深めてくれたのは、本書からの収穫だった。



文官総督時代から顕著にみられる台湾・朝鮮での同化政策は、こうしたナショナリズムの運動法則と合致するものである。異民族=植民地人を同化するには、「教化」もさることながら、その地位の向上をもはからなければならない。(p.146)


内地延長主義への政策転換については、ナショナリズムに基づくという面と地位向上にも繋がるというリベラルな面があった。ナショナリズムは右派と考えられ、リベラルは左派と考えられることが現代では多いが、これらは特段矛盾はしないものであるという認識も重要だろう。



 初等普通教育においては従来と同じく、小学校は内地人子弟、そして公学校は台湾人子弟のための学校であるが、大正8年(1919)からは例外的に、相互の小・公学校への入学が可能になり、大正11年の台湾教育令(勅令第20号)によって、「国語を常用する者は小学校に、常用しない者は公学校に入るべきもの」と規定された。形の上では、国語(にほんご)能力による選別になったわけである(253頁参照)。(p.147)


小学校と公学校というシステムとこれらのシステムに基づく進学などの差別があったという批判は確かに妥当なものではある。ある意味、既定としては最初から日本語能力による選別としている方が妥当だったのではないかとも思う。小学校と公学校という学校の区別自体がない方がよかったのかも知れないが、日本語の初歩から教えなければならない児童と、日本語を母語とする児童とを日本語話者の教師が同じように教えるというのは、かなり無理のある設定である。どのようなやり方が最善だったのか、この問題は考えるといつもモヤモヤする

(植民地支配という前提が誤っているのだから、何の問題もない方策などないのだが、当時の国際社会の状況下や人権意識の程度などを考えると、現代的な視点からの批判は、必ずしも当時とり得たであろう現実的な方策を示唆しない。)



 昭和3年に開学し、最終的には文政・理・農・工・医の五学部を擁する台北帝国大学は学生数約500(昭和18年)だが、講座数は114、教官は助手をのぞいてなお163人もおり、学生3人に教官1人という恵まれた大学であった。……(中略)……。
 戦後、台湾人が親日的傾向に転じたのは、かつて自分たちが教えを受けた国民学校をはじめとする各級学校の教師への敬愛の念がそうさせたのであり、それを、「日本の統治がよかったからだ」と曲解する日本人が多いのは、きわめて残念なことである。(p.190-191)


前段の台北帝大についての指摘は、この大学は統治のための研究のための機関であり、教育より研究を重視していたということが表れているのではないだろうか?という気がする。

後段の指摘は日本人はよく理解しておく必要がある。また、戦後に生きた世代は統治初期の抗日運動が激しかった時代を経験していないということも重要なポイントだろう。



 発電力は昭和12年に17万キロワットであったのが、6年後の昭和18年には倍増して35万7000キロワットに躍進したが、これは台湾が軍需生産に追い立てられた賜物である(以上の数字は台湾総督府『台湾統治概要』による)。
 このように躍進はめざましかったが、多くの矛盾をはらんでいた。台北帝大は農・医学部をのぞけば、ほとんど日本本国人子弟専用の感があり、台北高等学校ですらそうであった。多くの台湾人学生は台湾での高等教育が受けられずに「内地留学」を余儀なくされた。もちろん私立大学に入るのがほとんどで、ことに明治大学、早稲田大学に学んだ人の中から人材が輩出した。本国政府および総督府は意識的に、人文・社会科学を学んだ台湾人を登用しなかったため、東京帝国大学を卒業した台湾人学生(全期をとおして計130人程度)ですら、その多くは官途を閉ざされたままであった。(p.192)


昭和12(1937)年に日中戦争が始まると台湾も軍需のために工業化が進んだことがわかる。

人文・社会科学を学んだ人に対する警戒感は台湾人に限ったことではなく、特に後発の帝国大学(東北、九州、北海道)で文系の学部の整備が遅れたことなどにも強くそれが反映している。この傾向は、現代の日本でも社会科学を十分学ぶ機会が少ないことなどの形で継続しているように思われる。(これが政治に対する感度が低い人が多いことに繋がっていると思われる。)



日本帝国の領域内において、台湾はもっとも稠密に警察が配置されていた地域である。(p.234)


初期の抗日運動や抗日ゲリラがそれなりにいたことの影響か。



 その結果、10年後の明治38年(1905)には、在台日本人の10.3パーセントにあたる6710人が台湾語(福佬話、客話、高砂族の各種言語のいずれか)を「話す」ことができ、しかもそのうちの208人は、それを常用語にしていたという(『明治38年臨時台湾戸口調査記述報文』232頁)。「話す」とはいっても、どの程度まではかは明らかではないが、台湾領有10年にして、このような高率をみせたのは、台湾人の日本語教育が未だに普及せず、日本人の日常生活と公務執行上の必要性にせまられたからであり、必ずしも台湾語を尊重したからではない。(p.244)


この指摘は興味深い。