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アヴェスターにはこう書いている?
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井手英策 『幸福の増税論――財政はだれのために』(その2)

 リベラルは弱者の救済をまさに「正義」として語ってきた。だが、人間は正義のために助けあってきたのではない。命やくらしという必要のために助けあってきた。だからこそ、連帯と共助の象徴である財政を起点として、痛みと喜びを分かちあい、利害関係を共有できる空間を作りあげ、「僕たちがともにある」という共在感を再生していくのだ。(p.88)


確かに。正義として語ることが現在の日本では共感を呼ばず、広がりを欠くことの大きな要因であるように思われる。必要のために助けあうという観点からの語りが多くの論者から発せられることが必要であると思われる。



だれがムダづかいをし、だれが不正をはたらいているかをあげつらう、犯人さがしの政治、袋だたきの政治は、特定のだれかを受益者とした勤労国家の落とし子だった。
 ……(中略)……。
 富裕層や大企業に重税を課せば彼らは国外に流出する、金融資産に課税すれば株価が暴落する、そう指摘された瞬間、ほとんどの有権者は左派やリベラルの政策に関心をうしなった。勤労国家とは、所得の減少が生活不安に直結する社会だ。もっともな反応である。
 むしろ、富裕層や大企業が豊かになれば、まずしい人たちもその恩恵にあずかれるという主張の方が断然説得力をもった。……(中略)……。
 ようするに、勤労国家という枠組み、土台が維持されている以上は、人びとにとっての関心は、経済成長の実現可能性、あるいはそういう期待を抱かせてくれるか否かに集中する。(p.100-101)


最後の一文は確かに現状を的確に捉えているように思われる。安倍政権は、まさにこのことを利用して政権を維持している。しかし、これを続けることは社会にとっての利益にはならない。



 税は人びとの命やくらしをまもるために使われる。であれば、税の負担が減れば、その分、生活のたくわえ、将来へのそなえを自己責任、すなわち貯蓄でおこなわなければならなくなる。
 たしかに、低い貯蓄率と小さな政府のギャップを借金で埋めるアメリカのような例もあるが、統計的に見ると、税や社会保険料の国民負担率と家計貯蓄率とのあいだには、有意の負の相関がある。つまり、国民負担率があがれば、家計貯蓄率はさがり、反対に国民負担率がさがれば、家計貯蓄率はあがる傾向にあるわけだ(古川尚志ほか「国民負担率と経済成長」)。
 ……(中略)……。
 僕たちは税を「取られるもの」と考え、貯蓄を「資産」と考える。しかし、税と貯蓄のあいだにあるのは、前者が悪、後者が善というような関係ではない。
 ……(中略)……。貯蓄をすれば、資産が増えることは事実である。ただし、それが将来へのそなえであり、いま使うことのできない資産である以上、税を取られるのと同じように消費は抑えられている。このことをわかりやすく示したのが図4-4である。
 注意してほしいのは、人間は自分が何歳で死ぬのかを知らないということだ。したがって、90歳、100歳まで生きてもいいように過剰な貯蓄をする。マクロで見ればこの分の消費抑制がおきるうえ、相続人も高齢化がすすむため、相続した貯蓄をそのままためこんでしまう。
 頼りあえる社会では、人びとが将来へのそなえとして銀行にあずけている資金を税というかたちで引きだし、これを医療、介護、教育といったサービスで消費する。たしかに僕たちは取られる。だが、自分が必要なときにはだれかがはらってくれる。(p.118-120)


増税すると消費が冷え込むということはよく言われるが、実際にはそれよりも増税すると貯蓄が減る。税をきちんと払う社会になっていないと過剰な貯蓄が生じてしまい、その分消費に回らないため、税が軽い自己責任社会の方が消費が構造的に冷え込む。



政府が信じられないから増税に反対するのはよい。だが、その拒絶によって、この社会がいったいどのようによくなるのだろうか
 ……(中略)……。
 政府への不信感が税への抵抗を生みだしていることは事実だ。しかしだからといって、事態を放ったらかしにするのではなく、「信頼できない政府がどうすれば自分たちの期待どおりに行動するようになるか」を考える方がはるかに大事なのではないだろうか。
 オランダの経済政策科学局(Central Planbureau、以下CPB)という組織を紹介しよう(OECD Journal on Budgeting, Vol.2015/2, 内閣府『世界経済の潮流2010Ⅱ』)。
 CPBは1945年に創設された政府機関であるが、政府から独立して経済分析をおこなうことが法的に義務づけられている。四半期ごとに短期の経済見通しを発表し、中長期の経済・財政の見通し、労働や貿易等、幅ひろい経済分野にかかわる政策の評価をおこなっている。
 興味ぶかいのは、選挙の際に、政党や市民団体の要望にしたがい、各党の公約を実施した場合に予想される経済や財政への影響を分析し、これをひろく公表していることである。
 この分析によって、あの政党の政策を実施すれば財政赤字が何%拡大するとか、この政党の政策が実現すれば、失業率や家計所得がこれくらい変化するといった感じで、有権者は政策効果を目に見えるかたちで知ることができる。
 各党はこうした分析の洗礼をうけるわけだから、非現実的な選挙公約をかかげることができなくなる。また、各党は、CPBに対して、教育、環境、住宅などの個別政策でどれくらいの費用がかかるのかを試算してもらうことができ、質の高い公約を作ることもできる。(p.166-167)


前段の指摘は私自身も日本のリベラルがリバタリアニズム的であるということを痛感して以来、ずっと同様の思いを抱いていたことである。

オランダのCPBについて、著者はそのまま真似をすることは推奨していないが、是非とも日本にもほぼ同じ機能を持つ機関が欲しいと思う。安倍政権のように権力を維持するための情報操作・印象操作のみに腐心するような政権が成立し、人事などをすべて政権に押さえられてしまっているため、経済の指標の発表時期が都合の悪いものは選挙後へと先送りされたり、統計自体を官庁が不正に操作してしまったり、といった事態が生じてしまっている現状を変える必要がある。



 いつのまにか、社会主義は、人びとを恫喝するためのことばとなってしまった。ソビエト連邦の崩壊、冷戦体制の終焉とともに、社会主義は非効率で、硬直的で、停滞する社会の代名詞のように使われるようになってしまった。(p.185)


適切な指摘。もっと言えば、経済的な権力を持っている側に加担しない主張を貶めるための決まり文句になってしまったと言ってもよい。これも定義を欠く印象操作が続けられたことによって、そのような機能を果たすようにされてしまったことは指摘しておきたい。


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井手英策 『幸福の増税論――財政はだれのために』(その1)

国は愛せるけれど、仲間を愛せないなんて、どこかおかしくないだろうか。
 問題を解決するためにはお金がいる。であればなぜ、国を大切に思うみなさんは、国家の経済活動である「財政」のあるべき姿を語ろうとしないのだろう。(p.ⅱ)


これは愛国主義的な右派向けのメッセージとして書かれた部分だが、自称愛国者である右派の多くは「国」など愛してはいない。政府に取り入る(すり寄る)言説を吐くことで(一種の心理的な貸しを作ったかのように感じ)、何か自分が政府から守ってもらえると思える(一種の心理的な貸しを返してもらう)。そういう謎の(偽りの)安心感を得たいという動機だったり、結局は自己愛でしかない。少なくともその言説に触れる限りではそのように見ざるを得ない。ただ、このように彼らの建前をうまく利用して語りかけることは有用であるように思われる。



 先進国の常識では、いいにくい増税をうったえてでも、人びとの命とくらしの保障を要求するのがリベラルだ。でも日本では、政府ぎらいのリベラルがこぞって増税に反対する。自由の条件整備を棚あげにしながら、自由を語る僕たちとはいったいなんなのだろう。(p.ⅲ)


これも日本に特有の現象を的確に捉えている。日本でリベラルと考えている人の多くはリバタリアニズムとリベラリズムを適切に腑分けできておらず、リバタリアンへの抵抗力が弱い。



 ここで確認しておきたいのは、勤労国家とは、いわば毎年所得が9.3%増えていくことを前提にして成りたってきた自己責任モデルだということである。(p.35)


このモデルに慣れ親しんできた世代が現役で投票している間は、この呪縛から逃れるのは困難かも知れない。それでもこうした成長依存型のモデルが成り立ちえないという主張を広げていく必要がある。



 いや、それ以前に、円安による実質GDPの増大は、ドル建てでのGDPをむしろ減少させた。第二次安倍政権で名目GDPは、2012年の494.5兆円から17年の548.6兆円へと増大した。だが、同時に、各年の平均ドル円レートで計算したドル建てGDPを見てみると、6.2兆ドルから4.9兆ドルに減少している。(p.40)


今の政府は政権維持に都合の良いことしか言わないようにし、それ以外の情報をもみ消そうとし続けているが、実際の情勢を判断するには様々な指標とその意味を十分に吟味する必要がある。有権者の側にその情報が十分に提供されていないことに現在の日本の大きな問題がある。



 また、飲食や介護といったサービス産業は、ライバルが主婦による「無償労働」だという問題もある。現実問題として価格設定がどうしても低くならざるをえないのだ。技術革新がおきにくく、価格設定が低ければ、人件費を削る、つまり、雇用の非正規化を加速させるしかない。だから賃金もさがる(長松奈美江「サービス産業化がもたらす働き方の変化」)。(p.44)


なるほど。



 中長期的に見て、かつてのような経済成長が前提としづらい状況であるにもかかわらず、政府はアベノミクスの成果を誇らしげにかたり、野党はその効果の乏しさを真っ向から批判する。しかも、オリンピックや万博といったイベントに経済をゆだね、外国人から見て割安になった経済の衰退から目をそむけながら、インバウンドが成長戦略だと公然と語られる。
 完全にズレている。いずれの政権が経済成長を実現できるかという発想そのもの、あえていえば、できないことをできるといい張る人たちの不毛な議論が本当に必要な議論のさまたげとなっている。(p.46)


全く同感である。



 OECDの「図表で見る社会2011("Society at a Glance 2011")」を見てみると、統計的には、所得格差の大きい社会は他社への信頼度が低いことが明らかにされている。
 ……(中略)……。
 人間不信、政府不信だけではない。「世界価値観調査」によれば、僕たちは、国際的にみて、平等、自由、愛国心、人権といった「普遍的な価値」すら分かちあえない国民になりつつある。(p.50-51)


このようなデータも私の実感と一致する。



だが、食べたいもの、着たいものを我慢し、ときには結婚や出産すらあきらめながら、爪に火をともすような生活をしている人たち、現実には低所得層なみの生活水準でありながら、自分は「中の下」で踏んばっていると信じたい大勢の人たちがいる。
 この人たちに格差是正、弱者への支援をうったえたとき、はたして彼らはそのさけびに共感してくれるだろうか。むしろ弱者に怒りの牙をむきはじめるのではないだろうか。(p.54)


重要な指摘。特に、こうした「中の下」だと思いたい人々がおり、その数がかなり多いという事実は、日本の現状を考える上で極めて重要であると思われる。「弱者を救済する」というロジックがこの日本という社会で通用しない理由はここにある。



 だが、弱者への配慮が成りたたない社会にあって、「弱者の自由」「弱者への優しさ」をさけび続けるリベラルに未来はあるだろうか。これが本書に課せられた大きな問い、課題である。
 ……(中略)……。
 繰り返そう。不安におびえているのは一部の弱者ではない大勢の人たちなのだ(p.65-66)


この問題は現代日本のリベラルや左派にとって真剣に取り組まれるべき課題である。


今村寛 『自治体の“台所”事情 “財政が厳しい”ってどういうこと?』(その2)

 先ほど福岡市のこれまでの借金のグラフでみたように、1993年(平成5年)ごろから2004年(平成16年)ごろまでに大量に発行した市債の償還が終わるのは2034年以降です。それまでは公債費は1千億円程度で高止まりすることになります。(p.54)


これは福岡市に限らずほとんどの自治体が同じ状況と思われる。これが事実だとすると、この公債費の累積は自治体の政策の結果なのではなく、中央政府の政策の結果であるとする方が遥かに妥当性があるということが分かるだろう。そして、実際にそうなのだ。



 ここまで「扶助費」「公債費」「人件費」の順に義務的経費の将来見通しを確認してきましたが、このほかに自治体の将来に大きな負担となってくるのが「公共施設」です。先ほど福岡市の借金の状況をご説明した際に、先輩たちがたくさんつくって遺してくれた立派な社会資本、公共施設のことをお話ししましたが、そのたくさんの公共施設が今後自治体の財政に影を落とすことになります。
 ……(中略)……。
 そこで、福岡市では公共施設のアセットマネジメントに力を入れています。計画的に修繕し、壊れる前に予防的な対応を図るアセットマネジメントで施設の長寿命化を図る実行計画を策定しました(図16)。(p.55-57)


この問題は福岡市に限ったことではないし、自治体や行政だけに限ったことではない。高度成長期に急速に整備されてきたインフラが、その耐用年数が近づいてきている。私が特に懸念するのは水道だが、それ以外にも自治体庁舎の老朽化も自治体財政が悪化(硬直化)している状況では対応しきれない課題となってきているのではないか。



図17を見てわかるように、4千億円もの自由に使えるお金がありながら、そのほとんどが「経常的経費」に充てられ、新たな政策を推進する「政策的経費」には10%も充当されていません。
 その「政策的経費」に充当できる一般財源がどんどん減っていく。新たな政策への投資ができなくなる。これが自治体の「お金がない」ということの正体なのです。(p.59)


この事実は財政にある程度の関心を持っている人であれば、誰でも知っているというか気づいてはいることである。ただ、その含意をどれだけ深く理解しているかとなると、怪しくなってくる。本書は、ここで述べられていることの含意を明確に把握できる手助けになるという点にひとつの意義があるように思う。この点は以下のいくつかの引用文の個所などにも明確に出ている。



 講座でよく「どこまで財政健全化すればいいのか」「どういう状態になれば財政健全化が達成できたと言えるのか」という質問をいただきます。
 非常にいい質問です。私は即座に答えます。「財政健全化は目的ではなく手段です。」と。


財政健全化の指標とされるものは確かにいろいろある。財政力指数や経常収支比率などがまず思い浮かぶが、こうした指標を知っていると、むしろこれらの指標がどの程度の数字になればよいのかということで財政健全化を考えてしまいがちである。しかし、それは本当にシンプルで重要なポイント、すなわち「財政健全化は目的ではなく手段である」ことを忘れさせてしまうものである。

このポイントを押さえながら考えるやり方が次の個所で述べられている「ビルド&スクラップ」である。



 まずやらなければいけないこと、重要な取り組みの実施(ビルド)を企て、すでに行っている施策事業がその新たな取り組みよりも優先順位が高いか低いかを判断しながら、これまで正当化されていた既存事業の優先順位を並べ替え、現在の社会環境や時代の要請に応じた順位へと「最適化」する。その結果、廃止縮小(スクラップ)を余儀なくされるものが現れます。これが「ビルド&スクラップ」と呼んでいる財政健全化の手法です。(p.111)


このアイディアは非常にシンプルだが重要なもので、財政健全化とは目的ではなく手段であるということを明確に理解した計画の立て方である。



財政健全化は目的ではなく手法。新しいことをやるために必要な財源を生み出すために行う事務事業の見直しですから、何を新たに取り組むのかが先に論じられるべきであって、見直しありき、予算削減前提で議論してはいけない、という考え方に立つべきだったのです。(p.113)


新自由主義的な立場から財政健全化を論じると、削減ありき、削減こそが目的(削減すればその結果として「効率化」といった目的が達成される)という考えになる。これは誤った考え方である。

ビルド&スクラップはそうした類の発想ではなく、目的論的な思想と相性が良い。


今村寛 『自治体の“台所”事情 “財政が厳しい”ってどういうこと?』(その1)

 福岡市では2005年度(平成17年度)当初予算編成移行、「枠配分予算」という手法を導入しています。これは、あらかじめ推計した翌年度財源を一定のルールで各部局に予算編成前に配分し、その範囲内で自主的、自律的に部局単位の予算原案を作成してもらい、それを財政課が全体で束ねて調整するという仕組みです。(p.26-27)


本書では枠配分予算の実際の運用の苦労がいくらか語られているが、これは財政課がすべての予算を個別に査定するやり方よりは、財政課という限られた人員の部署で庁内全体の状況を把握できるはずがないという欠点があるのに対し、現場に近いところで予算を編成できるという利点があるように思われる。ただ、引用文でも「自主的、自律的」ということが言われているが、このことは裏を返せば、実施する個々の部局に「強い個人」であることを求めるものでもある。様々な負荷にさらされながらも適切な判断を下せる者であることを求められる。自治体には定期的な人事異動があり、十分な適性に欠ける人物が運用することになる可能性も考慮した制度設計が求められるように思われる。



私たちは、先輩方がつくり、残してくれた社会資本のおかげで、豊かな都市生活を送ることができているのです。

 その代わりに「お前も使うんだからお前も払え」と先輩方が遺してくれたのが、市の借金、市債残高です。資産があればその分負債があるのは当たり前。(p.45)


自治体の借金が社会資本整備を基本にしていることが前提されている。妥当な説明。参考になる。