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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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ターリ・シャーロット 『事実はなぜ人の意見を変えられないのか 説得力と影響力の科学』

 実のところ、今日の私たちは押し寄せる大量の情報を身に受けることで、かえって自分の考えを変えないようになってきている。マウスをクリックするだけで、自分が信じたい情報を裏づけるデータが簡単に手に入るからだ。むしろ、私たちの信念を形作っているのは欲求だ。だとすれば、意欲や感情を利用しない限り、相手も自分も考えを変えることはないだろう。(p.14-15)


インターネットによる情報の流通が、人々の「事前の信念」を強化する機能を果たしており、その信念に反する事実を提示したとしても、それを否定しようとする論を容易に目にすることができ、欲求に答えてくれるそうした論によって「事前の信念」がより強固なものとなってしまう。世論の分断などもこれによって強化されている面があると言えそうである。



死刑を強く支持していた学生は、有効性が立証された資料をよくできた実証研究と評価する反面、もう一方を不用意で説得力のない研究だと主張した。そして、もともと死刑に反対していた学生はまったく逆の評価をした。最終的に、死刑支持者は極刑へのさらなる熱意を抱いて研究室をあとにし、死刑反対論者はそれまでより熱い思いで死刑に反対するようになった。この実験によって、物事の両面を見られるようになったどころか、意見の両極化が進んでしまったのだ。(p.22-23)


意見が分かれる問題に対して両論併記をすると、この実験のように意見の両極化を進めてしまう可能性が高い。

なお、両論併記によって物事の両面を見られるようになるためには、自分自身の価値観や様々な議論から距離を取る能力(メタ認知)がかなり鍛えられている必要があると思われる。ただ、これは少なくとも、現代の日本で平均的な人々に期待することができない要求である。哲学や社会学などのトレーニングはこれらを多少なりとも高める教育となり得ると私は信じるが、これらの教育が適切にされてきていないのが日本の教育の現状であり、大学を卒業した世代にはもはや追加で施すことが期待できないものである。

歴史修正主義(歴史改竄主義)などが広がりを見せるに至るプロセスでは、ディベート教育などとのリンクがあったとされているが、彼らが好む虚偽の情報をまともな学説と並記して議論させることで、虚偽の情報を正当な学説と同等の立場に置き、虚偽の情報の支持者を増やすことに繋がったことが想起される。適正な手続きを経て検証された知見であるかどうかということを、社会全体がより重視する必要がある。

安倍政権が様々なデタラメなことを行っても何一つ説明せず、むしろ説明をしないことに全力を挙げているような現状は、むしろ、上記のような偽ディベートに類似した言説(いわゆる「ご飯論法」などもこうしたところから出てきた小賢しいテクニックであろうと私は見ている)を人々が目にすることとなり、それを広めてしまっており、「適正な手続きを経て検証された知見」を評価することにも今の社会は逆行してしまっている。)



 こうした研究結果から、「自分本位な推論は知的でない人の特性だ」という思い込みは誤っていることがわかる。それどころか、認知能力が優れている人ほど、情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなり、ひいては自分の意見に合わせて巧みにデータを歪めてしまう。だとしたら皮肉な話だが、人間はより正確な結論を導き出すためではなく、都合の悪いデータに誤りを見つけるために知性を使っているのではないだろうか。(p.32)


ここの説明で使われている事例では、数学が得意な分析的思考の持ち主ほど、都合の悪いデータを曲げて解釈したため正確な回答ができなかったという。この点はネトウヨが多い職業の一つがIT系の仕事であるという事実と符合する。

思うに、数学や工学などのトレーニングを積んだ人で、人文社会科学を十分に学んでいない人は、メタ認知を鍛える回路が弱いため、ある種の頭のキレはあっても、目的(である自らの欲求)のために知性を使うことになるのではないか。私としては、数学や工学的な知性ではなく、メタ認知が高い人と低い人で、都合の悪いデータを捻じ曲げる度合いがどの程度違うかという実験結果を知りたいと思う。(ただ、この点に拘ってもそれほど良い解決策は期待できないとは考えるが。)



 もしもあなたがツイッターの熱心なユーザーだったらご用心。ツイッターを利用することは、日常生活において最も感情を刺激する行為の一つだからだ。これがあれば運動いらず?――ツイッターは脈拍上昇、発汗、瞳孔拡大(すべて興奮状態の指標となる)を促すことが研究で明らかになっている。単にウェブを閲覧しているときに比べて、ツイートやリツイートをする行為は、感情の高まりを示す脳活動を75%上昇させるという。ツイッターのタイムラインを読むだけでも、65%ほど上昇するそうだ(注・これはツイッター社が独自の目的のために出資した研究であり、論文審査は受けていない)。私の頭の中には、ツイッターは「インターネットの扁桃体」ではないかという考えが前々からあった。メッセージの短さ、伝わる速さや範囲の広さなど、扁桃体の役割を果たすのに必要な材料がすべて揃っているからだ。ツイッターが元来もつこうした特徴は、人間として生きるうえで大いに必要なフィルターを迂回し、感情システムに何度も働きかける(ダニエル・カーネマンが「速い思考」、「遅い思考」と名づけたことで有名になった理論である)。このツールは有益な情報を伝達するのに役立つかもしれないが、一方で人間の慎重ではない側面を助長してしまう。(p.61)


ツイッターに限らず、SNSの持つ問題点を指摘しているように思われる。



 スタンフォード大学のアレクサンダー・ジェネブスキーとブライアン・ナットソンは、オンライン上での資金募集1万3500件を分析した。その結果、ネガティブな写真よりも、ポジティブな感情を喚起する写真(特に笑った顔)が依頼文に添えられている方が資金提供を受けやすいことが判明した。(p.83-84)


クラウドファンディングの際にも、内容以外のものが影響している。



 他人に影響を与えるためには、コントロールしたいという衝動を押さえ込み、相手が主体性を必要としているのを理解することだ。人は自分の主体性が失われると思ったら抵抗するし、主体性が強まると考えたら、その経験を受け入れ報酬とみなすものだからだ。(p.105)


簡単ではないが、その通りではある。



 皮肉に感じるかもしれないが、他人の行動を変えたければ、コントロール感を与えるべきだ。主体性を奪われたら、人は怒り、失望し、抵抗するだろう。社会に影響を与えることができるという感覚が、意欲や順守率を高めるのだ。実験の参加者は実勢にコントロールを任されたわけではなかった――自分たちの税金を何に使ってほしいか尋ねられただけなのだ。それでも、彼らの行動を変えるには十分だった。選択肢を与えられたら、たとえそれが仮定の話でも、コントロール感は増大し、それによって人々の意欲は高まるのだ。(p.108)


選択肢を与えるというやり方によって影響を与える方法は興味深い。日常生活でも試してみたい。



たとえその情報をうまく利用できないとしても、人間には知識のギャップを埋めたいという欲望がある。情報不足は人を不安させるが、ギャップを満たすことで人は満足感を覚える。(p.135)


情報不足は人を不安にさせるというのは、今流行の新型コロナでも見られる。マスク不足やトイレットペーパーなどの買い占めが起こるのもこうした不安の高まりがある。



 人間は、報酬を得たり苦痛を避けたりすることに意欲的だ。しかしそれだけではなく、これから訪れる報酬や苦痛を信じることにも意欲を燃やす。なぜなら信じることは、実際の出来事と同じように人を幸せにしたり悲しくさせたりするからだ。……(中略)……。結果として人は選択的になり、心地良い信念を形成してくれる情報で心を満たし、不快な考えをもたらす情報を避けようとする。(p.140-141)


歴史修正主義や「日本スゴイ」言説が受け入れられてしまう条件の一つ。



 私たちは自分を気持ち良くさせてくれそうな情報を知りたいがゆえに、悪い知らせよりも良い知らせを探し求める。ミュージカル調の機内安全ビデオに行き着いた航空会社のように、ポジティブな観点からメッセージを伝えれば、人はより聞く耳をもち、結果として影響を受けやすくなる。逆に悪い知らせが来そうなときは、たとえ無視することで自分を傷つけるとしても、そのメッセージを避けるものである。(p.143)


なるほど。



次は編集部によるコメント。

 ところで、事実で人の考えを変えられないということは、裏を返せば、事実でないもので人をコントロールできることでもあります。禁煙の世界的な傾向として、本来であれば社会を良い方向に導くべき各分野の権力者たちが、こぞって不都合な事実を隠蔽する一方で、マスメディアやインターネットを利用して大衆の感情をうまく誘導しようと画策している印象を強く受けます。そして私たちの多くは、まんまとその戦略に乗せられてしまっているようです。小説家のバーバラ・キングソルヴァーはかつて「蛇と戦うには、その毒を知らなくてはならない」と述べました。私たちが必ずしも事実をもとに判断していないことは、人間の脳という「蛇」がもつ「毒」の一つだと言えるでしょう。本書がその毒を知る一助となることを願います。(p.262)


私が本書を手にとった動機(問題意識)と見事に同期している。こうした権力者たちの暴走を止めるには、社会運動の力が必要になると思われるが、その前段として、本書のような知識(自己認識)により「毒」が一般的に知られていくことは必要であると思われる。


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キャロル・S・ドゥエック 『マインドセット 「やればできる!」の研究』(その2)

 能力の劣る部下をいじめるのは、上司がそれによって優越感を得られるからだが、もっとも有能な部下がいじめの対象になることも少なくない。硬直マインドセットの上司にとって、自分の地位を脅かす存在だからである。(p.181)


有能な部下を硬直マインドセットの上司がいじめるというのは、心当たりがある事例なので非常に納得した。



 上司が部下をきびしく管理し虐待するようになると、従業員全員が硬直したマインドセットに凝り固まってしまう。新しいことを学んで、成長し、会社を押し上げていこうとはせず、ひたすら評価を恐れるようになるのである。上司自身が評価を下されることに不安を抱いていると、やがて、職場の全員が評価を恐れるようになる。(p.183)


なるほど。マインドセットはこのようにして伝染していき、その組織のある種の「文化」を形成するのだろう。



硬直マインドセットの指導者は、たとえ地球を股に掛けて各国の大物と渡り合っていたとしても、ごく狭い限られた世界から抜け出せない。マインドセットが常に「自分の優秀さを確かめたい、示したい!」という1点で釘付けにされているからだ。(p.184)


この「自分の優秀さを示したい」というのは、硬直マインドセットに基づく言動の根本原理と言ってもよいのではないか。



エリート主義ほどしなやかマインドセットと相容れないものはないからだ。(p.190)


エリート主義としなやかマインドセット(growth mindset)とは相性が悪いというのは「言われてみれば」という気がする。硬直マインドセットの人にとっては、自身をエリートとして規定することは上述の根本原理に沿うものであり、他の多くの人々とは自分は違っている特別の存在であることを示すものだからである。そこには「共に成長しよう」というモメントは確かに欠けている。少なくとも相性は非常に悪いと思われる。



 妻にとっても、夫にとっても、何より腹立たしいのは、自分の権利が侵されること。それから、相手が勝手に何かを自分の権利だと思いこんでいることである。(p.220)


相手が勝手に何かを自分の権利だと思いこんでいるというのは、確かによくありそうなことであり、こうしたことを自他に明らかにしながら折り合いをつけていくということが重要なのだろう。



 人間関係は、育む努力をしないかぎり、ダメになる一方で、けっして良くなりはしない。(p.221)


近い関係であるほどこのことはより強くあてはまると思われる。遠い関係でも当てはまるが必要な努力の質や量は小さい。



 硬直マインドセットの問題点の2つ目は、夫婦間にトラブルが起きるのは、根深い性格的な欠陥がある証拠だと思っていることだ。けれども、挫折を経験せずに、偉業を成しとげることなどできないのと同じように、衝突して苦しんだ経験もなしに、息の合った夫婦になれるはずがない
 硬直マインドセットの人は、もめごとについて話すとき、必ずそれを何かのせいにする。自分を責めることもあるが、たいていパートナーに矛先を向ける。しかも、相手の性格的欠陥を槍玉に挙げる。
 それだけでは終わらない。パートナーの人格を問題にしながら、相手に怒りや嫌悪の感情を向けるのだ。そして、変えようのない資質からくる問題なのだから解決のしようがない、というところにまでいってしまう。
 だから、硬直マインドセットの人は、パートナーに欠点を見つけると、相手を軽蔑するようになり、夫婦関係全般に不満を抱くようになる(それに対し、しなやかマインドセットの人は、パートナーに欠点を見つけても、夫婦関係そのものがいやになったりはしない)。(p.222-223)


パートナーが硬直マインドセットであり、ここに書かれているようなルートで関係が悪い方向に進んでいる時、それを立ち直らせるための方法はどのようなものになるのか。



これまで、他人を踏み台にして優越感を得ようとする人たちについてお話ししてきたが、内気な人というのは、他人に自尊心を踏みにじられるのを恐れている人たちなのである。人前で自分を否定されたり、恥ずかしい思いをさせられたりするのを恐れていることが多い。(p.235-236)


なるほど。他人からの評価を気にしている点で硬直マインドセットとは共通性があるので、相乗効果がありそうな気がする。



 いじめは、人に優劣をつけるところからはじまる。どっちがえらいか、どっちが上か。そして強い方が弱い方を、くだらない人間と決めつけて、毎日のようにいやがらせを加える。いじめ加害者がそこから得ているものは、シェリ・リーヴィが調査した少年たちの場合と同じく、自尊心の高揚感だ。加害者は特に自尊心が低いというわけではないが、他人を見下し、卑しめることによって、自尊心の高揚感を味わうことができるのである。(p.241)


いじめている側は人に優劣をつけており、いじめを受ける側を劣ったものと見な(そうと)している。この指摘は非常に鋭いものであり、いじめる側のメンタリティの非常に重要な部分を明らかにしてくれているように思われる。



 人をいじめるという行為は、硬直マインドセットと大いに関係がある。いじめの根っこにあるのは、人間には優れた者と劣った者がいるという考え方なのだ。いじめの加害者は、劣った人間だと評価した相手をいじめの標的にする。(p.242)


これを見ると、エリート主義と硬直マインドセットとの関係と同じだと気づかされる。ここ20~30年くらいの間に「保守」を名乗る反動勢力や新自由主義の支持者たちは、一貫して強い者(政治的ないし経済的な権力者)の側に自分を置こうとする。これらの者もまた、ある種のエリート主義である。

私の知る非常に硬直的なマインドセットの人に、ネット世界ではなく現実世界でネトウヨ的な発言(中国の人々に対する人種差別的発言など)を臆面もなくする人がいる。ある意味、こうしたネトウヨ的人種差別発言というものは、自らの空想の上で「劣った人間」を想定して――この人もその例に漏れないが、一般にこうした人は中国や韓国などに行ったことがないし、外国に友人もいない―――それを「いじめる」ことによって自尊心の高揚感を得ようとしていると見ることができる。この人は少なくともそうなのだが、恐らく同種の人たちの多くは、現実世界では、(能力や機会などがないため)あまり人の役に立てないため、自尊心の高揚感を感じることができない人なのではなかろうか。



 そうは言ってもやはり、自分を変えるのは容易なことではない。
 硬直マインドセットにしがみついているのには、たいていそれなりの理由がある。人生のある時点までは、それが良い意味での目標になっていたのだ。自分はどんな人間か、どんな人間になりたいか(頭の良い子とか、才能豊かな子とか)、どうすればそうなれるか(良い成績を取るなど)を示してくれていた。そして、その通りにすることで自尊心が満たされ、人からの愛情や尊敬が得られていたのである。(p.321-322)


マインドセットを変えることはできるが、それほど簡単にできることではないという現実は重要。心に染みついた習慣や常態的な態度を一挙に正反対にできると考える方が楽観的過ぎるというものだ。ただ、たとえそうではあっても、硬直(fixed)マインドセットとしなやか(growth)マインドセットという理念型を意識することによって、今の自信の心理状態を把握しやすくなり、そこから改善すべき方向性も見えやすくなる。マインドセットを成長の方向に持って行けば行くように努力を続けることが、しなやかマインドセットが身に付いていくことにつながる。



キャロル・S・ドゥエック 『マインドセット 「やればできる!」の研究』(その1)

 自分の能力を正確に評価するのは、だれにとっても難しいことだが、特にそれが苦手なのはどのような人たちだろうか――最近それを調べる研究をはじめた。その結果、自分の業績や能力に見当違いな評価を下すのは、硬直マインドセットの人たちであって、しなやかマインドセットの人たちは驚くほど正確な判断を下すことが明らかになった。
 考えてみれば、これは理にかなったことと言えるだろう。しなやかマインドセットの人のように、能力は伸ばすことができると信じていれば、現時点での能力についての情報を、たとえ不本意であってもありのままに受け入れることができる。さらに、学ぶことに重点を置くとなると、効果的な学習をするためには、現時点の能力についての正確な情報が必要になる。
 ところが、硬直マインドセットの人のように、もう伸ばしようのない能力が値踏みされていると思うと、どうしても受けとめ方がゆがんでしまう。都合の良い結果ばかりに目を向け、都合の悪いことは理由をつけて無視し、いつの間にか本当の自分を見失ってしまうのだ。(p.18-19)


このコントラストは実際に私の身の回りで起こっていたこととそのままリンクするものであり、私としては、ものの見方が整理された箇所であった。

なぜ「あの人たち」は自分の仕事ぶりや仕事に関する見識の程度について、これほどまでに勘違いも甚だしい見解を抱き、それを反省も改めようともしないのか、と疑問に思うようなことが続いていたのだが、彼等はいずれも硬直マインドセットが支配的な人たちであると仮定すると、すべての言動に一貫性を見出すことができるようになった。これがわかれば、それらの人々への対処法も考えやすい。この意味で、本書は、私自身にとって人間を理解する力を一つ引き上げてくれた(有力な手段を一つ増やしてくれた)と思っている。



 硬直マインドセットの人は、自分が他人からどう評価されるかを気にするのに対し、しなやかマインドセットの人は、自分を向上させることに関心を向ける。(p.21)


どうしてあの人はあれほど人からの評価ばかりを気にするのだろう?と疑問に思うことが今まで何度もあったが、その謎が氷解した。

ここの対比はマスロー的な欲求の区分を援用すると、その人にとって最も重要な種類の欲求が、承認欲求である場合と自己実現欲求である場合と見ることができて興味深い。もっとも、マスローの理論は実証されていないのでそのまま受け入れることはできないが、欲求の種類を区別して描き出す際には参考にはなる。



 化学の授業がはじまった当初は、大多数の学生が意欲満々だった。ところが学期の途中で異変が生じた。硬直マインドセットの学生は、すんなりうまくいっている間だけは関心が保たれていたが、難しくなったとたんに興味もやる気もガクンと落ちこんだ。自分の賢さが証明されないと、面白く感じられないのである。(p.34)


これはまさに私の職場で発生していた事象であった。ある硬直マインドセットの人が、それまでは上述のように自己自身の能力や実績について実力よりはるかに高い自己評価を下していたため、好調に仕事をしていたが、管理職から業務上の問題について指摘を受けたり、人事評価で低い評価が下されると、途端にやる気を失い、その低いモチベーションのまま仕事を続けていた人がいた。

成果主義的な人事評価制度は世の中に一定数いる硬直マインドセットの人(彼らは過剰に高く自己評価を下す傾向がある)のやる気を殺ぐ制度だと言える。また、この種の人の扱い方として、不当に高い自己評価を傷つけないように(勘違いをひどくさせないがそのまま維持できる程度に)応じていく方が、事実を突きつけるよりはマシなやり方なのではないか、とも思う。



(前略)近年、「失敗」の意味あいに変化が生じている。私は失敗した、というひとつの出来事に過ぎなかったものが、私は失敗者だ、というアイデンティティにまでなってきているのだ。とりわけ、硬直マインドセットの人の場合にはその傾向が著しい。(p.47)


新自由主義の蔓延とこの引用文で指摘されていることとは関係があるのではないか。

新自由主義のイデオロギーと硬直マインドセットは相性が良いように思われる。硬直マインドセットから見て、「能力がある人」は、新自由主義では勝者として競争に勝利し、より多くの富と権力を得た勝利者である。同様に「能力のない人」は競争に敗れた敗者である。そして、新自由主義を推進したり支持する人は、自分を前者(勝利者側)だと仮定している

(しなやかマインドセットが信じる)「成長」という要素は、新自由主義にもないわけではないが、経済全体の成長や企業の収益の増加といった何らかの行為の複合体の「結果」が大きくなることとして組みこまれているだけであって、個々人の能力の成長については、新自由主義の考え方の大本にではなく、批判から理論の本体を守るための副次的な部分に、「敗者にもセーフティネットとして職業訓練などによる再挑戦の機会を与えればよい」といった議論などに多少組み込まれに過ぎないように思われる。



 試験に落ちた学生や、勝負に負けた運動選手は、否応なしに自分のヘマを思い知らされる。ところが、権力を手にしているCEOは、自分は正しいと思っていたい欲求を、たえず満たしてくれる世界を作り上げてしまうことができる。どんな警告サインが出ていようとも、自分は完璧だし会社は順調だという耳を喜ばせるニュースだけで自分を取り囲んでしまうことが可能なのだ。これこそが、前にも述べたCEO病――硬直マインドセットの人が罹りやすい危険な病である。(P.169-170)


安倍政権とトランプ大統領が想起される。安倍政権下における森友・加計の恣意的な優遇とそのための記録の不開示・隠蔽とそのための改竄という一連の問題や南スーダンとイラクの日報の扱いなどは、いずれも官邸(少なくともその中枢)が全体としてCEO病であるが故に起きたものだと見ることができる。また、トランプ大統領については自分に都合よく作り上げたフェイクニュース(オルタナファクト)を垂れ流し続けていることだけを見るだけでも十分だろう。

いずれも不都合な事実に向き合わずに目を逸らし続け、都合の良い事実に書き換えて(作り変えて)しまおうとしている。日本の自称「保守」とされる反動勢力が与する「歴史修正(改竄と言う方が正確だろう)主義」(慰安婦問題や南京事件や侵略行為の有無や程度について過小評価しようとする無理のある言説)にも、これは共通している。