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由水常雄 『ガラス工芸――歴史と技法――』

 たとえば、無色透明の窓ガラスやショー・ウィンドウのガラスを透してみる世界は、自分の立っている世界とは隔絶した別の世界であるような幻視性がある。そしてそのことが、われわれの空想を大いにかきたてる。科学的にこれを説明すると、無色透明のガラスは、光を最大限で92パーセント透過して、8パーセントを、反射その他の理由で拡散する。だから無色透明のガラスを透して見たものでも、約8パーセントほど見にくくなっていることになる。その見にくくなって不明の部分は、人間の頭脳が想像によって補正して見ているのである。そして、この想像による補正作用が、幻想性を生み出すのである。(p.5)


この説明が妥当なのかどうか、やや疑問は感じるが面白い説明だとは思う。ガラスに対してわれわれが持っている幻想的なイメージを何となくそれっぽく説明しているように思うからである。

ちなみに、疑問に思うというのは、科学的に説明するには単に物理学的な説明だけでなく、脳科学や心理学の知見を活用することが必要であると思われるからである。



イスラーム教の諸領主はもちろんのこと、ヨーロッパの諸君主たちからも、それは垂涎の的となっていた。今日、ヨーロッパの寺院や古い宝物のコレクションのなかに、イスラーム・グラスが金銀の荘厳具をつけた姿で、大切に保存されているのをみることができるが、それらは当時イスラーム商人によって、ヨーロッパにもたらされたほんの数少ない遺存例にすぎない。(p.24)


イスラーム・グラスに関する説明。ガラスに限らず、様々な文化についてここで語られていることは当てはまる。



また、13世紀頃より、十字軍の活動を契機にして興隆してきたヴェネチア共和国によって、イスラーム・グラスの技法が積極的に導入されて、ヴェネチアにおいて、西側世界では独占的に製作が行われるようになり、新たな発展段階に突入するのである。
 このローマン・グラスから、ヴェネチアン・グラスまでの空白の時代を、イスラーム・グラスは着実に受け継ぐとともに、それをさらに飛躍発展させて、西側へと受け渡していったのである。西側だけではない。東方へも技術を伝えて、中国人にガラスの製法や技法を教え、それがやがて、清朝のいわゆる乾隆ガラスとなって開花する種子となるのである。
 イスラーム・グラスは、このように、工芸史上、もっとも重要な貢献を果たし、技術的にも、エナメル・鍍金・レリーフ・カット・モザイクなど、新しい分野の開拓を行いつつ大発展を遂げた。いわば今日われわれが使っている大部分の技法を開発していたのであるが、わが国をはじめ諸外国でも、あまりその重要な意義が認識されていない。(p.25)


この叙述もガラスに限らずイスラーム文化全般において大体同じようなことが言える。



この島全体が、国家財政を潤すために働かされる永世強制収容所であり、奴隷島であったといってもいい。華やかなヴェネチアン・グラスの背景には、こうした過酷な犠牲を強制されていた人々がいたのである。(p.42)


有名なムラノ島についての叙述。この側面はマスメディアなどではあまり語られない側面であり、押さえておきたい。



そして、ちょうどヨーロッパ社会におけるイギリスの政治・経済的な優位性が確立して、こうしたガラス工芸の水準の高さをしっかりと支えていたこともあって、いわゆるイギリスのこうしたテーブル・グラスは、ヨーロッパ社交界の必需品となり、ガラス食器の形式をほとんど決定づけていくのである。
 今日われわれが使っているガラス類や、ガラス食器の原型は、ほぼ18世紀に、イギリスのガラス界が作りあげた原型をもとにしているといっていい。(p.63)


この点は、英語が現在の国際的な共通語となっていることと同じメカニズムが働いている。グラスの形にまでこうした経路依存性があるというのは興味深い。



19世紀に入ると、彫りの深いカットを施したテーブル・グラスが、イギリスのガラス工芸の主流となる。わが国の薩摩切子や江戸切子は、この時代のイギリスのガラス工芸から影響を受けたものである。(p.64)


交流を始めた当時の流行が入ってきて、その流行が本国で廃れた後も、影響を受け側の方ではある種の伝統として残り続けるというのもガラスに限らず様々な文化形象で見られる現象であり興味深い。



 中国においては、戦国時代のこうしたトンボ玉が作られた以前の段階には、特殊なトンボ玉への発展を示すようなガラス玉類の出土はなく、ガラスの出現は(微少な一、二の例を除いて)、この時が最初なのである。そしてその最初のガラスの形式が、こうした西アジア出土のトンボ玉と酷似しているトンボ玉なのである。しかも中国の戦国時代は、急速に西方文物を吸収した時代であり、殷代より伝統のあった青銅器の形にまでも、新しい西方的意匠が積極的に採り入れられていたのである。いわば戦国時代は、外国文化を積極的に吸収して、中国古代文化に活を入れて、大いなる飛躍をみせた時期であったといってもいい。これまで言われていたように、漢文化は中国古代文化の一つの頂点であったのではなくて、むしろ戦国の文化的高まりが、漢民族的に修正され、様式化された、いわばマンネリ化された文化であったとみるべきであろう。そのような文化摂取の時代に出現したこうしたトンボ玉は、素材の製作技術はもちろんのこと、その形式も技法も、外来のものであったと考えるべきである。(p.77)


トンボ玉の由来についての考察であるが、中国の古代文明論にまで議論が展開しているのが興味深い。また、漢代の文化に対する見直しを迫っている点も傾聴に値する。



 ガラス器類は、吹いて作ると、わずか数分間で瓶や鉢や壺や皿ができる。そして冷えて常温になるまでには、十数秒もたてば十分であろう。それは完成品と何ら変るところはない。しかしそのままでは、それこそ程大昌の記述しているように「手を隨れるによって破裂する」のである。つまりそのままでは、ガラス器としてはまったく使いものにならないのである。これが舎利容器のような薄くて、高さがせいぜい4、5センチのものならば、あるいはそのままでも使用に耐えるものもできるが、それ以上のものや、それ以下のものでも厚手のガラスは、すべてそのまま使うと、いつかは破裂してしまうのである。つまり、ガラスは急速に冷却するので、表面と内部との間に激しい温度差が生じて、それがガラスの中に歪みとなって残っている。したがって、ほんのちょっとしたショックによっても、このバランスがくずれて破裂を起こすのである。こうした歪みを残したままのガラス器は、まったく使用に耐えない。使えるようにするためには、この歪みを取り去ってやる必要がある。その作業が徐冷(なまし)である。作ったガラス器類を、一定温度に引きあげて、それの表面と内部の温度差ができないように静かにゆっくりと冷ましてやるのである。ガラスが作られはじめた大昔から、ガラスの窯には、必ずガラスを熔かす窯とこの徐冷窯がついているのは、このためなのだ。おそらく中国におけるガラス窯は、この重要な徐冷窯の部分が欠如していたのではないだろうか。そしてその流れを汲んだ朝鮮や日本の古代ガラス窯についても、それと同じことが言えるのである。(p.87-88)


ガラス細工を作った後、ゆっくりと温度を下げるため作品ができるまで1日とか2日くらい待たされることになるが、その理由が初めて分かった。


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『似鳥美術館』
宗本順三 「旧北海道拓殖銀行小樽支店の建築について 小樽のモダニズム銀行建築の華」より

同年竣工の小樽支店は、東南部の角に4本の列柱を設けて、象徴的で魅力的なデザインである。(写真-1,2)このような角のデザインは、神戸税関(昭和2年竣工)や旧警視庁庁舎(昭和6年竣工)に見られる敷地のコーナーに曲線と円柱形状を巧みに持ち込んで、形状の建物の顔である躍動的で象徴的なエントランスを設けた矢橋賢吉の設計手法の初期モデルであったと言える。この支店は、後の上記の作品と較べると、スケールが小さくまた表現としても控えめなデザインであったが、確実な造形力を持って設計されたことが分かる。それまでの銀行建築は、小樽の他の銀行建築を見れば分かるように、多くは鉄筋コンクリート造建築であっても、やや閉鎖で中央に入口を設ける左右対称のクラシックデザインのファサードに終始していた。この建築では、コーナーポーチにドーリア式の列柱を用いた導入部、それに続く銀行営業室にコリント式の列柱を用いた流動的な動線計画は、当時の銀行建築になっては秀逸の建築である。(写真-3)(p.112)


なるほど。確かに入口がコーナーにあるというのは、この建築に特徴的なところだと言えそうである。この建築は何度も目にしていたが、あまりこの点を気にしたことがなかった。この点に着目するだけでも、この建築に対する見方が変わるかもしれない。


志田政人 『小樽芸術村 ステンドグラス美術館(旧高橋倉庫)ガイドブック』

 当館に展示されている作品の中にも、戦地に赴く兵士の無事を祈るものや、大戦の戦勝記念として作られた作品があります。(p.4)


この美術館の作品をサラッと見ると、どうしても戦勝記念のタイプが目立ってしまうように思われる。実際に、このように解釈できる作品は多いと思うし、龍を退治する聖ゲオルギウスなどは非常にわかりやすいモチーフであり、こうした意味も汲み取りやすい。これに対し、戦地に赴く兵士の無事を祈る作品が、そうした意味を持つということは、一目で見ただけではなかなかわかりにくい。

この美術館では、説明文やオーディオガイドなどもなかなか充実しているので、しっかりこれらを読みながら見て回ると、見て取ることができるようにはなっているため、それぞれの作品にいろいろな思いが込められているということが理解できるようになっている。しかし、あれだけの作品と図像の情報量もかなりのものがあるため、あまりステンドグラスやキリスト教に関係する物語などになじみがない場合、そこまでしっかり理解するのはやや難しいかも知れない、という気もする。

その意味では、事後的にではあってもこうしたガイドブックで解説してあるのは良いと思われた。



指昭博 特別寄稿「ヴィクトリア時代の教会とステンドグラス」より

 ただ、イギリスの国教会はプロテスタントですから、描かれる主題は自ずと中世カトリック教会とは違いました。聖人崇敬につながるような主題は避けられ、聖書の物語に取材した作品が多く、聖人が描かれる場合も、国教会にゆかりの深い聖職者や、イングランドの守護聖人である聖ジョージやスコットランドの守護聖人である聖アンドリュースなど、国を意識したものが多いのです。(p.5)


なるほど。確かにこの美術館に所蔵されている作品でも、随所にイングランドやスコットランドなど、イギリスを構成する土地の守護聖人が登場していた。こうしたガラス工芸の隆盛のきっかけとなったゴシックリバイバルという運動自体が、ネイションとしてのアイデンティティを探そうとするナショナリズムの一環でもあったことを考えると、こうしたガラス工芸作品も当時のものの考え方がかなり反映していると見ることはできそうである。



『ルイス・C・ティファニー ステンドグラスギャラリー』

 また、ルイスがおこなった、何枚ものガラスを重ねることによる新しい表現法も画期的なものでした。(p.2)


このティファニーのステンドグラスギャラリーは小樽芸術村の似鳥美術館にある。このギャラリーで見られるステンドグラスの大きな特徴の一つは、この様々な種類のガラスを開発し、それらを重ねることによってさまざまな質感を表現しているところにあると思われた。

これがどのくらい画期的なのかをぜひ知りたいと思う。久しぶりにガラス関係の本も読んでみたくなった。そして、その後、再度、このギャラリーを訪れてみたい。



 19世紀後半、欧米でガラス工芸が隆盛したのは、フランスのゴシック大聖堂修復で中世の技法が再発見されたのが機縁だった。(p.5)


ゴシックリバイバル(それに伴うゴシック大聖堂の修復)がガラス工芸の隆盛に繋がったという流れはなるほどと思わされた。この隆盛が新たな技法の開発に繋がっていく。アール・ヌーヴォーやアール・デコの作品などにも様々な技法が使われているが、それはこうした歴史の流れの中に位置づけられるということか。


下村仁 『西洋館の履歴書~北海道~』(その2)

明治45年(1912年) 北2条の裁判所庁舎は手狭となり、老朽化したことや駅前通の再開発の動きもあり、札幌地方裁判所、札幌区裁判所の合同庁舎が大通西13丁目の旧練兵場の一部(現札幌市教育文化会館付近)約3千5百坪の敷地に南面して新築され、札幌軟石造の二階建本館に木造平屋の付属屋のある建物が6月に竣工、7月に開庁。
 その後、北大通西12丁目には官舎が建てられた。(現在の札幌家裁・簡易裁判所合同庁舎付近)

▷前述の通り、まだ大通は西10丁目までしかなく、それより西側は練兵場の跡のほか住宅も殆どなく、牧草地として牛が放牧され、原っぱの中に裁判所庁舎がポツンと建っている状態であった。(p.216)


100年ほど前の札幌の状況。



大正15年/昭和元年(1926年) 8月、工期4年半を要して「札幌控訴院」が竣工。
 ……(中略)……。
 この頃から南大通西10~13丁目にかけて弁護士の住宅兼事業所が建ちだす。
▷この札幌控訴院や札幌地方裁判所の庁舎正面上部の飾り破風にはかつて「菊の紋章」がついていた。
 戦前の全国の地方裁判所以上の裁判所には、大日本帝国憲法により、天皇の名において裁判を行ったことから、「菊の紋章」が掲げられた。(p.217)


具体的にどこの場所なのか次会訪れる時には注意してみてみたい。



昭和19年(1944年) 12月、男性医師が軍医として次々と招集された結果、国内の医師不足を補うための措置として「北海道庁立女子医学専門学校」(女子医専と記す)が設立されることになり、その付属病院として社会事業協会病院を転用、この病院に近く女子の寄宿舎もある北星高等女学校に白羽の矢が立てられた。
 そのため女子医専との間で――北星高等女学校の校舎・寄宿舎及び敷地を無期限、無償で女子医専の校舎が完成するまで貸与することを内容とする――賃貸借契約が結ばれた。
 また覚書きには、昭和20年度から北星は保育科以外の生徒募集を一時休止することなどの条件もつけられた。それは在校生が卒業した後は事実上廃校の危機に直面するものであった。(p.227)


第二次大戦末期の医師不足とそれへの対応としての女子医専が設立されたことに加え、このような「国策的」な女子医専を成立たせるために「ミッションスクール」である北星高等女学校が廃校の危機に陥るような契約を締結させられたという歴史は銘記されるべきものと思う。


昭和20年(1945年) ……(中略)……。
10月、進駐米軍が校地・校舎を接収して衛戍病院として使用することとなり、それに先立つ調査で女子医専と聞いていた学校が実はミッションスクールで、宣教師館の沿革を知ることとなり、接収期間を通じてこの建物を使用することはなかった。この接収により北星高等女学校は大通、山鼻、幌北の各国民学校に分散して移転、女子医専は付属病院に移転した。女子医専はやがてその病院の敷地とその隣接地に校舎を建て、昭和25年(1950年)4月に「札幌医科大学」となった。(p.227)


敗戦後、進駐軍が入ってくることは、北星高等女学校側にとってはある種の解放となったと思われる。

また、札幌医科大学の前身が女子医専であったとは本書を読むまで知らなかった。女子医専は道立に相当するはずだが、札医は市立であるあたりなど、いろいろと気になる。



昭和20年(1945年) ……(中略)……。
10月、郵船小樽支店も接収され、事務所は南浜町に移転した。
 この頃、1階営業室西側に3本の補強鉄柱が設けられた。(p.300)


旧日本郵船小樽支店に関する記述だが、こんな敗戦直後に補強工事をしていることに驚いた。



明治9年(1876年) ……(中略)……。
8月、改正国立銀行条例公布。
▷明治5年の条例に基づいて設立された国立銀行はこの時までに4行のみで、当初の構想通りにはゆかず営業不振が続いていた。大蔵省はその振興策を検討し、銀行券抵当公債の範囲の拡大、銀行券兌換制度の改革を主眼として条例改正案を太政官に稟議し裁可を得たもので、これにより国立銀行の設立が容易になり、正貨準備なしに資本金の8割まで銀行券の発行が可能となったが、不換紙幣引揚げ等の問題は残された。これ以降国立銀行は急速に増加し、明治12年11月の第百五十三国立銀行まで設立されたが、それ以降の国立銀行設立は認められなくなり、私立銀行等が設立される。(p.307-308)


急速に普及するにあたって重要だった条件は何だったのだろう。



明治45年/大正元年(1912年) ……(中略)……。
入船通りは、この頃は入船川が流れ、両岸は柳並木となっていたが、昭和の初期頃に川は暗渠化され、柳も取り払われたと伝えられている。(p.350)


このように川が暗渠化されたところというのは結構あると思われる。


下村仁 『西洋館の履歴書~北海道~』(その1)

函館では明治14年頃から、清国との貿易が行き詰まるなど景気は低迷した。(p.44)



これは裏を返せば、函館も清との貿易が、それなりの重みをもっていたということでもある。



明治37年(1904年)2月、日露戦争が勃発し、北海道も一挙に緊張状態に陥る。特に函館では要塞地帯法により、ロシアと直接・間接関係ある者、ハリストス正教会の伝道者らが翌38年10月の解除まで退去させられた。(p.46)



日露戦争についてのこうした側面は、あまり語られることがない。



 時計台(演武場)付近に札幌農学校があった頃、これらの施設は、クラーク教頭らにより計画され、演武場よりも1年早く現在の北海道大学北8条キャンパスの本部北側(北10~11条西5丁目付近)に建てられ、その後、一部が現在の場所に移築され、あるいは新築されて今に残されているものである。(p.139)


現在北18条にある第二農場関連施設についての記述。この場所はモデルバーンの構造などとも関係があるというのは興味深かった。その点は次の引用文で説明される。



※このあたりは現地に立てばわかるが、構内を流れるかつてのサクシュコトニ川を底辺とする少し起伏のある地形で、「模範家畜房」が建てられた場所は本部建物の基礎高さより1階分ほど低い場所で、「乾草」を満載した荷馬車が直接2階の中央通路に入って荷を下ろすことが出来るように土手でスロープを、反対側には木橋で退出路を設け、複数の馬車が交差せずに通り抜ける一方通行構造となっていた。こうして2階に貯蔵された乾草は、床の「落し口」から1階の牛馬舎に落として給餌され、半地下は排泄物を溜めて蓄えて翌年の肥料用に、また根菜貯蔵庫、豚舎ともなっていた。(p.140)



2階に入口があるのは、このような地形と連動したものだった。



昭和19年(1944年) 戦時中の食糧事情の悪化により、大学構内が耕地化され、図書館前から「農業経済及び農政学教室」(現存せず)にかけての前庭はジャガイモやカボチャ、大根、白菜などの畑となった。(p.164)


大通公園などが畑にされたということはよく聞くが、北大キャンパスも同じような状況だったようだ。



9月、「東北帝国大学農科大学」が開学した。この時点では仙台に設置の決まった本家の東北帝国大学はまだ敷地もなければ校舎もなく、教官も職員もいない状態で、明治44年(1911年)1月の「東北帝国大学理科大学」設置まで待たなければならなかった。(p.170)


東北帝国大学が札幌農学校をベースに設置されたものであることがよく分かる。


水谷周 『イスラーム建築の心――マスジド』

 90年代に入って建立されたマスジドはほぼ10カ所だが、2000年以降のそれは35カ所ほどに上る。90年以前はほぼ10カ所であったので、これで約五倍増という計算になる。2000年以降の特徴としては、それまでは関東中心であったのが、中部地方に多数できて、さらには北海道(札幌写真3、小樽)、九州(別府、福岡)、四国(徳島、新居浜写真8)と全国に広がったことである。(p.35)


日本では2000年以降にモスク(マスジド)が多数建てられるようになったことがわかる。何故なのか?興味がある。



 それよりもここで指摘したいのは、モスクという名称にこだわっているという点である。これがイスラームに対する侮蔑後の起源を持つと考えられることは、序章で述べた。そうでなくても、モスクは欧米語である。したがって○○モスクと称することは、例えば法隆寺という代わりに、法隆テンプルといっているようなものだということになる。(p.37)


著者はイスラームの礼拝所を「モスク」と呼ぶべきではなく、「マスジド」(あるいは「礼拝所」)とするべきだと考えているというのは、本書を貫くスタンスである。

モスクという言葉が仮に最初は侮蔑後だった言葉であったとしても、大事なのは、今現在の人々が、この語に侮蔑的な意味合いを感じるかということの方が遥かに重要であるように思われる。かつて侮蔑後だったもののニュアンスが反転している語というものも世の中には多く存在する。また、ムスリムたちも特に問題を感じずに「モスク」という言葉を使っているところなどからも、この語がかつて侮蔑語として使われていた語に起源をもつとしても、そのことを以て使うべきではないとするのは過剰反応であるように思われる。



内装では、鍾乳石のように垂れ下がる多数の曲面がドームの内面一杯を飾る、ムカルナスという構造になっている。その人間業とも思えないような飛びぬけた美しさで有名だが、この技術は元々イランを原産地としているので、13世紀モンゴルの襲撃によって逃げてきたイラン人たちが作ったのではないかと考えられる。(p.100)


一見すると、この記述には奇妙な所がある。ムラービト朝(11~12世紀)の建築について説明するに当たり、13世紀のモンゴルによる支配によって説明しているからである。ムラービト朝期に最初に建てられたモスク(マスジド)が、その後、再建や増築されたということなのだろう。

いずれにせよ、モンゴルの支配とイラン人などの移動による建築技術や建築意匠の伝播というのは興味深い問題である。



 そして各地で見られる光沢のあるタイル装飾こそは、イラン趣味の最たるものだと言えるだろう。それは肥大化してきた正門やドームなどを飾るのに必要であったと同時に、逆にタイル装飾を見せるためにそれらが巨大化してきたとさえ思える。各地の仕事ぶりや仕上がりを比較すると、あまりに似ていることが指摘され、同じタイル職人のチームが各地を回って作業にあたったのではないかと推察されている。(p.125)


イル・ハーン国に創建されたモスク(マスジド)についての記述だが、正門やドームの巨大化とタイル装飾との相関関係についての指摘は興味深い。この相関関係について検証することは難しいだろうが、いずれにせよ、両者が相俟ってイランの様式の建築の美を形作っていることは間違いない。



少し皮肉のように聞こえるが、この時期のマスジド建築にはセルジューク朝時代に比べてそれほど構造的に新規なものはなく、むしろ従来のものを踏襲したにすぎず、それを装飾芸術がカバーしているという風に評する人もいるくらいである。
 第五代君主アッバース一世(1588-1629年統治)の命により1612-1630年に建設されたマスジド・アルイマーム(在イスファハーン)写真38は、この時期の代表的なものである。シャー広場に臨む形で建造されたが、そのシャー広場そのものが、北京の天安門広場か、パリのコンコルド広場のように、国家の威容を示すために造られたものであった。(p.126)


サファヴィー朝の建築についての記述より。イランのイスラーム建築の最盛期とされるサファヴィー朝建築に対し、本書はあまり高く評価したがらない傾向がある。初期の素朴というか簡素なモスクを著者が好んでいることがこの点に反映している。著者にとっては信仰者として祈りやすい、祈りに集中できる、そういった建築が好ましいと評価しているためであり、イランの様式などはやや華美だと感じているように見受けられる。

とは言え、この時期の建築には構造上の新しさはないという指摘は興味深い。また、シャー広場(イマーム広場)が国家の威容を示すために造られたというのは妥当な指摘である。


西澤泰彦 『植民地建築紀行 満州・朝鮮・台湾を歩く』

 現在、この地の残っている校舎は、1928年に竣工した医学部本館、1931年に竣工した大学本部(図21)である。前者は、ソウル大学校医科大学として使われ、後者は韓国文化芸術振興院に転用されている。いずれも鉄筋コンクリート造三階建で、外壁に茶褐色のタイルが貼られ、最上階の窓をアーチ窓とし、車寄せを突き出した外観は、両者に共通だが、医学部本館が文字通り地上三階建であるのに対して、大学本部は、一階を半地下化しているため、車寄せと玄関は二階に設けられている。そのような違いはあるにせよ、この時期に震災復興を進めていた東京帝国大学の一部の校舎、新設された九州帝国大学や北海道帝国大学の建物にも見られる形態である。(p.104-105)


旧京城帝国大学の校舎についてのコメントだが、図21の写真を見た瞬間、北大の旧理学部(現在の北大総合博物館)の建物(1929年竣工)とそっくりであるのに驚いた。



同じ時期に設立された帝国大学でありながら、京城帝国大学の場合は、キャンパス計画そのものが重視されなかったのに対し、台北帝国大学では、キャンパスの中央に骨格となるグリーンベルトを通すという手法を用い、秩序を重視したキャンパス計画がおこなわれたといえる。この手法は、後に最後の帝国大学として1939年に開学した名古屋帝国大学のキャンパス計画に踏襲される(木方十根、2010年)。(p.107)


台北帝大のキャンパスが秩序を重視した計画に則っていることは、台湾大学のキャンパスを訪れた際に感じたが、名大のキャンパスにも手法が踏襲されているとは知らなかった。名古屋大学は行ったことがないので、今度この観点から見てみたい。



そして、戦後、キャンパスが東側に拡張されたとき、このグリーンベルトはそのまま延長され、その正面には最終的に新たな図書館が新築された。
 結局、二つの帝国大学は、いずれも植民地支配の産物であり、植民地支配が終わった時点では、遺物として残ったが、それから半世紀を経て、遺産としての扱いをうけるようになった。そして、台湾大学では、植民地建築であるはずの建物が現役の校舎として、日本の国立大学には見られないほどきれいに、かつ丁寧に使われている光景が展開している。建物を大切に使うという基本的なことがいかに重要なことかを認識させられた。(p.109)


旧台北帝国大学(現・台湾大学)のキャンパスについての記述。グリーンベルトの正面にある大きな図書館は現在では台大のキャンパスの印象的な部分となっているが、あのあたりは戦後に拡張された部分だったことを初めて知った。「外地」にあった旧帝大の情報はやはり少なすぎる。



詳細な事情は不明であるが、台湾からの留学生で壁塗り技術などを研究している葉俊麟さんによれば、台湾では、伝統的に壁塗りの技術が発達し、特に、植民地時代には、洗い出し仕上げの技術が飛躍的に向上していたという。これは、相対的に良質な建築用石材が少なかったことが背景にあるが、それだけでなく、台湾は東アジア地域の中で最も早く鉄筋コンクリート造が普及し、その仕上げとして人造石洗い出し仕上げの需要が高かったことも、洗い出し仕上げの技術が向上した原因であろう。ちなみに、私は2010年9月、葉さんや写真家の増田彰久さんと一緒に台北市内の近代建築を見て廻った経験があるが、葉さんに指摘されて初めて洗い出し仕上げが施されているのに気づいた場面が何度かあった。なぜかといえば、日本国内の近代建築では常識的に石が使われていると思われるところでも、台湾の近代建築では洗い出し仕上げにしているところが多いからである。(p.164-165)


台湾では鉄筋コンクリート造が早期に普及したのはよく知られているが、壁塗り技術(洗い出し仕上げ)というのはあまり気にしたことがない観点だった。今度行く時には少し注意してみてみたい。



しかも、国策会社であった東清鉄道が積極的にアール・ヌーヴォー建築を建設していったことやそれを記録した写真集の装丁がアール・ヌーヴォー様式であったことは、東清鉄道がアール・ヌーヴォー建築、アール・ヌーヴォー様式に大きな意味を見出していたことに他ならない。それは、単に流行の様式を用いただけでなく、当時の最先端であったアール・ヌーヴォー建築を建てることが、帝政ロシアの支配力を誇示する結果につながるという判断があったと推察されよう。したがって、ハルビンに建てられたアール・ヌーヴォー建築は、帝政ロシアにとってウラジオストクや旅順に配備された艦船と同じ意味を持っていたといえよう。(p.242)


ハルビンにアール・ヌーヴォー建築が多い理由。



 そうした中国商人達の目に映ったのは、ハルビン市街地に次々と建てられていく西洋建築であった。とすれば、自分達もそのような西洋建築を建てたいというのは自然な願望である。そこで、彼らは中国人の職人達に同じような建物を建設させたのであるが、建築というのは、大雑把な外観だけでなく構造や詳細な意匠を理解しなければ同様のものを建てることは難しい。傳家甸の建物を建てた中国の職人達は、ロシア人達が建てた西洋建築の外観だけを模倣した。ところが西洋建築を根本から理解していたわけではないから、目に見えるかたちだけを職人たちが自分なりに理解していった。当然、「誤解」も生じ、その結果、西洋建築とは似て非なる建築が出現した。たとえば、アカンサスの葉に飾られるコリント式の柱頭にアカンサスの葉ならず白菜のような野菜を乗せてしまうのはその典型である。円柱の柱礎に中国建築の柱礎を使ってしまうのも同様だ。
 このような現象は、ハルビンの傳家甸だけではなく、瀋陽、北京、天津、上海、武漢、アモイ、広州、など、中国のあちこちに見られる。これらに共通していることは、外国による支配地と隣接する中国人主体の市街地に成立したことである。(p.250-251)


中華バロック建築は西洋諸国の支配地に隣接する地域で成立していった。なるほど。興味深い。これらの地域で成立した中華バロックは他の地域にもさらに伝播したのだろうか。台湾のいくつかの「老街」に見られる中華バロック風の建築はどのような経緯で建てられていったのか?台湾に関心を持つ者としてはこのあたりが気になるところである。



  ところで、中華バロックの成立と似た現象は、明治維新の日本にも見られた。各地に建てられた擬洋風建築がそれである。ただ一つだけ異なる点は、建てられた時期であり、それに起因する意匠の差である。言い換えれば、手本とした西洋建築の違いであった。中華バロックの成立が20世紀になってからであるのに対して、日本の擬洋風建築は、19世紀後半から建てられていく。そのため、手本となった西洋建築にも時代の差があり、一方で装飾過多な中華バロックが成立し、一方で簡素な擬洋風建築が成立した。(p.251)


興味深い。中華バロックと擬洋風建築は兄弟のようなものとも言える。では、日本や中国以外ではどうだったのか?


越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その3)

 明治初期の初等学校の建設が、しばしば地方における洋風建築伝播のさきがけとなったことが知られている。北海道でも同様であったように思われる。
 ……(中略)……。日本海沿岸の有力都邑では、明治11年以降ようやく本格的な洋風小学校が建てられるようになったのである。
 ……(中略)……。
 これらの小学校建築は、基本的には開拓使の――後志の五小学校は札幌本庁の、江差は函館支庁の――設計と考えられる。ただし『開拓使事業報告 第二編 家屋表』にはいっさい記載されておらず、通常の開拓使営繕事業とはされていない。いずれも「公立」学校であって、建設および学校経常費は住民の寄付によった。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 量徳以下、後志地方の小学校の、特にポーチまわりのデザインは、札幌本庁の洋風建築の特質からはやや異質に思われる。学校建設の資金が住民の直接負担であったこと、つまり建築主体の過半が地元にあったことが、建築の意匠に反映したということも考えられよう。ただし小樽量徳、江差柏樹の両学校は、開拓使が地方都市に洋風の小学校を普及させるためのモデルとしてもくろまれたはずで、明治11年11月26日の竣工開業式に黒田開拓長官、調所大書記官以下が臨場したのはそのことを示している。翌12年以降の余市、岩内、古平、美国は、開拓使直接の設計というよりは、小樽をモデルとして建てられていったのではないかと思われるのである。(p.318-321)


いろいろと興味深い一節。

公立学校の建設や運営の経費が住民の寄付によるというのは現在の常識とは全く異なっており驚くところである。

小樽量徳小学校と岩内の小学校の写真を見たとき、あまりの類似に驚いたことがある。この件を読んで、その理由がよく理解できた。



桧山郡役所遺構は明治20年の創建であるが、この庁舎も、岩内などと同様警察署を併設していた。明治19年12月の北海道庁官制改正により、植民地での便宜的制度として、郡区長は警察署長を兼務することとされたのに従ったものである。(p.322)


確かにこの遺構には警察署としても使われていたという解説があった記憶があるが、そのことの背景がよく分かった。



これらから推して、日本海沿岸部の漁家建築に見られる「軒コーニス」は、開拓使期の函館の洋風建築をルーツとし、海路をつたって伝播していったと考えてよいであろう。(p.329)


北海道の日本海沿岸部の漁家建築は幾つか見たことがあるが、あまりコーニスなどに注目したことはなかった。この観点から見直してみたい。



泊村田中家住宅(明治30年。現小樽市。図16-7)がこれと類似の事例である。田中家は全体としては切妻の雄大な大屋根をかけた伝統的様式の民家であるが、正面左手、和風の真壁のなかに三箇所だけ縦長のガラス窓があけられている。(p.330)


田中家住宅は現在小樽市に移築されており、「鰊御殿」として知られる建物であり、私も何度も訪れたことがあるが、この点は全く気付かなかった。しかし、本書の写真を見ると確かに縦長の窓が三つ並んでいる。



越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その2)

 軒飾りは持送りを並べる形式である。……(中略)……。このような持送り形式は、やはり開拓使建築の後半期にめだつもので、札幌農学校演武場と同じ系統のデザインである。(p.200)


豊平館についての記述だが、豊平館の軒飾りと札幌農学校演武場(現・さっぽろ時計台)のそれが同系統のデザインだとは気付かなかった。



 西側一、二階の広間および前室には、計六個の暖炉が設けられていた。昭和33年移築時に大半が撤去され、二階広間前室に一個のみが――六個の部材を寄せ集めてつくっていた――遺存していたが、昭和61年修理で、形だけではあるが旧状に復原された。マントルピースの装飾、仕上げは磨き漆喰で、鼠漆喰上塗り表面に黒漆喰を斑にぼかし磨いて、大理石模様をつくりだしている。天板mantel shelfのみ白大理石(寒水石)を使用している。(p.204-205)


これも豊平館についての記述だが、私も今年2017年に豊平館を初めて訪れたのだが、この暖炉は非常に印象に残っている。一見、大理石風の暖炉なのだが、質感が何か違うと感じさせたので、よく見ると漆喰を磨いてつるつるにしたものを大理石風に見せていたことを見て驚き、印象に残った。本物の大理石で作ったものの方が確かに高級感はあると思うが、工夫を凝らして作られたものには、見るものを感動させる力があると感じた。



 一般商店の階数は『盛業図録』で49棟中37棟、『明細図』では100棟中80棟が二階建てであった。函館が九割強、札幌が五~六割強であったから、その中間程度の市街密度であったことになる。(p.303)


明治20年代前半の小樽の市街地についての記述。二階建ての建物の割合によって市街地の密度を推定するというのは、興味深い見方である。



 港、入船町はその後も商業街のひとつとして継承されていくが、小樽全体の都市中心としての地位は過渡的なものであった。明治13年、手宮に石炭積出桟橋と幌内鉄道が完成し、これによって都市活動の中心は北寄りへ強力に引きよせられていくことになったからである。
 明治22年、堺町立岩から手宮鉄道事務所まで、つまり色内町地先海岸の埋立てが竣工、北浜、南浜町が成立し、船入澗が新設された。25年には早くも両浜町の地価が港町を抜いて第一位になっている。
 『盛業図録』『明細図』はちょうどこの時期、港、入船町の市街成立から色内、両浜町の形成へと転換する過渡期をあらわしている。……(中略)……。
 小樽の木骨石造店舗は、函館の洋風防火造商家がその立地や商種を反映していたほどに、くっきりとした傾向を示すわけではないが、それでも信香、山上町などの旧市街には少なく、入船、港、色内などの新市街に多く建てられたことは読みとることができる。また、初期の石造店舗は、米穀、海産物、回漕業など、小樽経済の基幹をなしたであろう豪商に多い、ということはできよう。(p.307-308)


小樽の中心地は、信香、山上町などのあたりから(明治10年代頃?)港町、入船町へと移り、さらに(明治20年代以降)色内、北浜・南浜町へと海岸に近い地域を順次北上していく。さらに函館本線と手宮線が繋がる頃であろうか、山の方へも市街地が拡大して稲穂町のあたりも開けてくるというような流れで展開したと考えられる。

時期の区分などは(上には曖昧な記憶で書いた部分もあるため)もう少し検証しなければいけないが、基本的な流れはこのように理解してよいだろう。小樽の港は、北側の方が波も高くなりにくく、港としての適性が高かったという地理的な要因が背景として効いているように思われる。



 前節で見たように、木骨石造の小規模な事務所建築は明治20年代中頃にはあったと思われるが、小樽新聞社のような中層の規模、形式を整えたものが建てられるようになったのには、明治39年の日本郵船小樽支店(佐立七次郎)や明治40年の小樽郵便局など、本格的様式をそなえた事務所建築の出現が刺激となったであろうと考えられる。(p.313-314)


中層の木骨石造の事務所建築が建てられたというのは、小樽の特徴の一つのようである。明治40年代頃に建てられたものがよく知られており、大正半ばに鉄筋コンクリートが普及するまでの僅か10年余りの期間のことであったため、現存する事例は少ない。

小樽市内で現存する建物で、こうしたものの事例として紹介できるものは、第百十三銀行がそれにあたるということが、本書を読んで理解できた。



なお浜益村濃昼の漁家木村家番屋の倉庫が木骨煉瓦造で、煉瓦は半枚積みであった。創建は明治30年前と推定されている。木村家の本拠は小樽にあって、この建物も小樽の系譜につながるものと考えてよいであろう。(p.316)


浜益村は現在は石狩市の浜益区になっているが、木村家番屋はまだ現存しているようだ。公開はしていなさそうだが、機会があれば見てみたいものである。この地区の近くには同じ頃に建てられた白鳥家の番屋もあり(現在、はまます郷土資料館として活用)、白鳥家も小樽にいたことが想起される。鰊漁の漁場として連続性があるからであろうか。



 このような木骨モルタルないしコンクリート造は、大正以降施行された鉄網モルタル造の応用であり、小樽特有の構造手法ではないが、小樽ではちょうど木骨石造が衰退するのと期を一にしてあらわれるように思われ、明治期の木骨石造の代替構造という性格が指摘されるであろう。(p.317)


この類の建築はあまり残っていないかもしれない。