アヴェスターにはこう書いている?
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水谷周 『イスラーム建築の心――マスジド』

 90年代に入って建立されたマスジドはほぼ10カ所だが、2000年以降のそれは35カ所ほどに上る。90年以前はほぼ10カ所であったので、これで約五倍増という計算になる。2000年以降の特徴としては、それまでは関東中心であったのが、中部地方に多数できて、さらには北海道(札幌写真3、小樽)、九州(別府、福岡)、四国(徳島、新居浜写真8)と全国に広がったことである。(p.35)


日本では2000年以降にモスク(マスジド)が多数建てられるようになったことがわかる。何故なのか?興味がある。



 それよりもここで指摘したいのは、モスクという名称にこだわっているという点である。これがイスラームに対する侮蔑後の起源を持つと考えられることは、序章で述べた。そうでなくても、モスクは欧米語である。したがって○○モスクと称することは、例えば法隆寺という代わりに、法隆テンプルといっているようなものだということになる。(p.37)


著者はイスラームの礼拝所を「モスク」と呼ぶべきではなく、「マスジド」(あるいは「礼拝所」)とするべきだと考えているというのは、本書を貫くスタンスである。

モスクという言葉が仮に最初は侮蔑後だった言葉であったとしても、大事なのは、今現在の人々が、この語に侮蔑的な意味合いを感じるかということの方が遥かに重要であるように思われる。かつて侮蔑後だったもののニュアンスが反転している語というものも世の中には多く存在する。また、ムスリムたちも特に問題を感じずに「モスク」という言葉を使っているところなどからも、この語がかつて侮蔑語として使われていた語に起源をもつとしても、そのことを以て使うべきではないとするのは過剰反応であるように思われる。



内装では、鍾乳石のように垂れ下がる多数の曲面がドームの内面一杯を飾る、ムカルナスという構造になっている。その人間業とも思えないような飛びぬけた美しさで有名だが、この技術は元々イランを原産地としているので、13世紀モンゴルの襲撃によって逃げてきたイラン人たちが作ったのではないかと考えられる。(p.100)


一見すると、この記述には奇妙な所がある。ムラービト朝(11~12世紀)の建築について説明するに当たり、13世紀のモンゴルによる支配によって説明しているからである。ムラービト朝期に最初に建てられたモスク(マスジド)が、その後、再建や増築されたということなのだろう。

いずれにせよ、モンゴルの支配とイラン人などの移動による建築技術や建築意匠の伝播というのは興味深い問題である。



 そして各地で見られる光沢のあるタイル装飾こそは、イラン趣味の最たるものだと言えるだろう。それは肥大化してきた正門やドームなどを飾るのに必要であったと同時に、逆にタイル装飾を見せるためにそれらが巨大化してきたとさえ思える。各地の仕事ぶりや仕上がりを比較すると、あまりに似ていることが指摘され、同じタイル職人のチームが各地を回って作業にあたったのではないかと推察されている。(p.125)


イル・ハーン国に創建されたモスク(マスジド)についての記述だが、正門やドームの巨大化とタイル装飾との相関関係についての指摘は興味深い。この相関関係について検証することは難しいだろうが、いずれにせよ、両者が相俟ってイランの様式の建築の美を形作っていることは間違いない。



少し皮肉のように聞こえるが、この時期のマスジド建築にはセルジューク朝時代に比べてそれほど構造的に新規なものはなく、むしろ従来のものを踏襲したにすぎず、それを装飾芸術がカバーしているという風に評する人もいるくらいである。
 第五代君主アッバース一世(1588-1629年統治)の命により1612-1630年に建設されたマスジド・アルイマーム(在イスファハーン)写真38は、この時期の代表的なものである。シャー広場に臨む形で建造されたが、そのシャー広場そのものが、北京の天安門広場か、パリのコンコルド広場のように、国家の威容を示すために造られたものであった。(p.126)


サファヴィー朝の建築についての記述より。イランのイスラーム建築の最盛期とされるサファヴィー朝建築に対し、本書はあまり高く評価したがらない傾向がある。初期の素朴というか簡素なモスクを著者が好んでいることがこの点に反映している。著者にとっては信仰者として祈りやすい、祈りに集中できる、そういった建築が好ましいと評価しているためであり、イランの様式などはやや華美だと感じているように見受けられる。

とは言え、この時期の建築には構造上の新しさはないという指摘は興味深い。また、シャー広場(イマーム広場)が国家の威容を示すために造られたというのは妥当な指摘である。


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西澤泰彦 『植民地建築紀行 満州・朝鮮・台湾を歩く』

 現在、この地の残っている校舎は、1928年に竣工した医学部本館、1931年に竣工した大学本部(図21)である。前者は、ソウル大学校医科大学として使われ、後者は韓国文化芸術振興院に転用されている。いずれも鉄筋コンクリート造三階建で、外壁に茶褐色のタイルが貼られ、最上階の窓をアーチ窓とし、車寄せを突き出した外観は、両者に共通だが、医学部本館が文字通り地上三階建であるのに対して、大学本部は、一階を半地下化しているため、車寄せと玄関は二階に設けられている。そのような違いはあるにせよ、この時期に震災復興を進めていた東京帝国大学の一部の校舎、新設された九州帝国大学や北海道帝国大学の建物にも見られる形態である。(p.104-105)


旧京城帝国大学の校舎についてのコメントだが、図21の写真を見た瞬間、北大の旧理学部(現在の北大総合博物館)の建物(1929年竣工)とそっくりであるのに驚いた。



同じ時期に設立された帝国大学でありながら、京城帝国大学の場合は、キャンパス計画そのものが重視されなかったのに対し、台北帝国大学では、キャンパスの中央に骨格となるグリーンベルトを通すという手法を用い、秩序を重視したキャンパス計画がおこなわれたといえる。この手法は、後に最後の帝国大学として1939年に開学した名古屋帝国大学のキャンパス計画に踏襲される(木方十根、2010年)。(p.107)


台北帝大のキャンパスが秩序を重視した計画に則っていることは、台湾大学のキャンパスを訪れた際に感じたが、名大のキャンパスにも手法が踏襲されているとは知らなかった。名古屋大学は行ったことがないので、今度この観点から見てみたい。



そして、戦後、キャンパスが東側に拡張されたとき、このグリーンベルトはそのまま延長され、その正面には最終的に新たな図書館が新築された。
 結局、二つの帝国大学は、いずれも植民地支配の産物であり、植民地支配が終わった時点では、遺物として残ったが、それから半世紀を経て、遺産としての扱いをうけるようになった。そして、台湾大学では、植民地建築であるはずの建物が現役の校舎として、日本の国立大学には見られないほどきれいに、かつ丁寧に使われている光景が展開している。建物を大切に使うという基本的なことがいかに重要なことかを認識させられた。(p.109)


旧台北帝国大学(現・台湾大学)のキャンパスについての記述。グリーンベルトの正面にある大きな図書館は現在では台大のキャンパスの印象的な部分となっているが、あのあたりは戦後に拡張された部分だったことを初めて知った。「外地」にあった旧帝大の情報はやはり少なすぎる。



詳細な事情は不明であるが、台湾からの留学生で壁塗り技術などを研究している葉俊麟さんによれば、台湾では、伝統的に壁塗りの技術が発達し、特に、植民地時代には、洗い出し仕上げの技術が飛躍的に向上していたという。これは、相対的に良質な建築用石材が少なかったことが背景にあるが、それだけでなく、台湾は東アジア地域の中で最も早く鉄筋コンクリート造が普及し、その仕上げとして人造石洗い出し仕上げの需要が高かったことも、洗い出し仕上げの技術が向上した原因であろう。ちなみに、私は2010年9月、葉さんや写真家の増田彰久さんと一緒に台北市内の近代建築を見て廻った経験があるが、葉さんに指摘されて初めて洗い出し仕上げが施されているのに気づいた場面が何度かあった。なぜかといえば、日本国内の近代建築では常識的に石が使われていると思われるところでも、台湾の近代建築では洗い出し仕上げにしているところが多いからである。(p.164-165)


台湾では鉄筋コンクリート造が早期に普及したのはよく知られているが、壁塗り技術(洗い出し仕上げ)というのはあまり気にしたことがない観点だった。今度行く時には少し注意してみてみたい。



しかも、国策会社であった東清鉄道が積極的にアール・ヌーヴォー建築を建設していったことやそれを記録した写真集の装丁がアール・ヌーヴォー様式であったことは、東清鉄道がアール・ヌーヴォー建築、アール・ヌーヴォー様式に大きな意味を見出していたことに他ならない。それは、単に流行の様式を用いただけでなく、当時の最先端であったアール・ヌーヴォー建築を建てることが、帝政ロシアの支配力を誇示する結果につながるという判断があったと推察されよう。したがって、ハルビンに建てられたアール・ヌーヴォー建築は、帝政ロシアにとってウラジオストクや旅順に配備された艦船と同じ意味を持っていたといえよう。(p.242)


ハルビンにアール・ヌーヴォー建築が多い理由。



 そうした中国商人達の目に映ったのは、ハルビン市街地に次々と建てられていく西洋建築であった。とすれば、自分達もそのような西洋建築を建てたいというのは自然な願望である。そこで、彼らは中国人の職人達に同じような建物を建設させたのであるが、建築というのは、大雑把な外観だけでなく構造や詳細な意匠を理解しなければ同様のものを建てることは難しい。傳家甸の建物を建てた中国の職人達は、ロシア人達が建てた西洋建築の外観だけを模倣した。ところが西洋建築を根本から理解していたわけではないから、目に見えるかたちだけを職人たちが自分なりに理解していった。当然、「誤解」も生じ、その結果、西洋建築とは似て非なる建築が出現した。たとえば、アカンサスの葉に飾られるコリント式の柱頭にアカンサスの葉ならず白菜のような野菜を乗せてしまうのはその典型である。円柱の柱礎に中国建築の柱礎を使ってしまうのも同様だ。
 このような現象は、ハルビンの傳家甸だけではなく、瀋陽、北京、天津、上海、武漢、アモイ、広州、など、中国のあちこちに見られる。これらに共通していることは、外国による支配地と隣接する中国人主体の市街地に成立したことである。(p.250-251)


中華バロック建築は西洋諸国の支配地に隣接する地域で成立していった。なるほど。興味深い。これらの地域で成立した中華バロックは他の地域にもさらに伝播したのだろうか。台湾のいくつかの「老街」に見られる中華バロック風の建築はどのような経緯で建てられていったのか?台湾に関心を持つ者としてはこのあたりが気になるところである。



  ところで、中華バロックの成立と似た現象は、明治維新の日本にも見られた。各地に建てられた擬洋風建築がそれである。ただ一つだけ異なる点は、建てられた時期であり、それに起因する意匠の差である。言い換えれば、手本とした西洋建築の違いであった。中華バロックの成立が20世紀になってからであるのに対して、日本の擬洋風建築は、19世紀後半から建てられていく。そのため、手本となった西洋建築にも時代の差があり、一方で装飾過多な中華バロックが成立し、一方で簡素な擬洋風建築が成立した。(p.251)


興味深い。中華バロックと擬洋風建築は兄弟のようなものとも言える。では、日本や中国以外ではどうだったのか?


越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その3)

 明治初期の初等学校の建設が、しばしば地方における洋風建築伝播のさきがけとなったことが知られている。北海道でも同様であったように思われる。
 ……(中略)……。日本海沿岸の有力都邑では、明治11年以降ようやく本格的な洋風小学校が建てられるようになったのである。
 ……(中略)……。
 これらの小学校建築は、基本的には開拓使の――後志の五小学校は札幌本庁の、江差は函館支庁の――設計と考えられる。ただし『開拓使事業報告 第二編 家屋表』にはいっさい記載されておらず、通常の開拓使営繕事業とはされていない。いずれも「公立」学校であって、建設および学校経常費は住民の寄付によった。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 量徳以下、後志地方の小学校の、特にポーチまわりのデザインは、札幌本庁の洋風建築の特質からはやや異質に思われる。学校建設の資金が住民の直接負担であったこと、つまり建築主体の過半が地元にあったことが、建築の意匠に反映したということも考えられよう。ただし小樽量徳、江差柏樹の両学校は、開拓使が地方都市に洋風の小学校を普及させるためのモデルとしてもくろまれたはずで、明治11年11月26日の竣工開業式に黒田開拓長官、調所大書記官以下が臨場したのはそのことを示している。翌12年以降の余市、岩内、古平、美国は、開拓使直接の設計というよりは、小樽をモデルとして建てられていったのではないかと思われるのである。(p.318-321)


いろいろと興味深い一節。

公立学校の建設や運営の経費が住民の寄付によるというのは現在の常識とは全く異なっており驚くところである。

小樽量徳小学校と岩内の小学校の写真を見たとき、あまりの類似に驚いたことがある。この件を読んで、その理由がよく理解できた。



桧山郡役所遺構は明治20年の創建であるが、この庁舎も、岩内などと同様警察署を併設していた。明治19年12月の北海道庁官制改正により、植民地での便宜的制度として、郡区長は警察署長を兼務することとされたのに従ったものである。(p.322)


確かにこの遺構には警察署としても使われていたという解説があった記憶があるが、そのことの背景がよく分かった。



これらから推して、日本海沿岸部の漁家建築に見られる「軒コーニス」は、開拓使期の函館の洋風建築をルーツとし、海路をつたって伝播していったと考えてよいであろう。(p.329)


北海道の日本海沿岸部の漁家建築は幾つか見たことがあるが、あまりコーニスなどに注目したことはなかった。この観点から見直してみたい。



泊村田中家住宅(明治30年。現小樽市。図16-7)がこれと類似の事例である。田中家は全体としては切妻の雄大な大屋根をかけた伝統的様式の民家であるが、正面左手、和風の真壁のなかに三箇所だけ縦長のガラス窓があけられている。(p.330)


田中家住宅は現在小樽市に移築されており、「鰊御殿」として知られる建物であり、私も何度も訪れたことがあるが、この点は全く気付かなかった。しかし、本書の写真を見ると確かに縦長の窓が三つ並んでいる。



越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その2)

 軒飾りは持送りを並べる形式である。……(中略)……。このような持送り形式は、やはり開拓使建築の後半期にめだつもので、札幌農学校演武場と同じ系統のデザインである。(p.200)


豊平館についての記述だが、豊平館の軒飾りと札幌農学校演武場(現・さっぽろ時計台)のそれが同系統のデザインだとは気付かなかった。



 西側一、二階の広間および前室には、計六個の暖炉が設けられていた。昭和33年移築時に大半が撤去され、二階広間前室に一個のみが――六個の部材を寄せ集めてつくっていた――遺存していたが、昭和61年修理で、形だけではあるが旧状に復原された。マントルピースの装飾、仕上げは磨き漆喰で、鼠漆喰上塗り表面に黒漆喰を斑にぼかし磨いて、大理石模様をつくりだしている。天板mantel shelfのみ白大理石(寒水石)を使用している。(p.204-205)


これも豊平館についての記述だが、私も今年2017年に豊平館を初めて訪れたのだが、この暖炉は非常に印象に残っている。一見、大理石風の暖炉なのだが、質感が何か違うと感じさせたので、よく見ると漆喰を磨いてつるつるにしたものを大理石風に見せていたことを見て驚き、印象に残った。本物の大理石で作ったものの方が確かに高級感はあると思うが、工夫を凝らして作られたものには、見るものを感動させる力があると感じた。



 一般商店の階数は『盛業図録』で49棟中37棟、『明細図』では100棟中80棟が二階建てであった。函館が九割強、札幌が五~六割強であったから、その中間程度の市街密度であったことになる。(p.303)


明治20年代前半の小樽の市街地についての記述。二階建ての建物の割合によって市街地の密度を推定するというのは、興味深い見方である。



 港、入船町はその後も商業街のひとつとして継承されていくが、小樽全体の都市中心としての地位は過渡的なものであった。明治13年、手宮に石炭積出桟橋と幌内鉄道が完成し、これによって都市活動の中心は北寄りへ強力に引きよせられていくことになったからである。
 明治22年、堺町立岩から手宮鉄道事務所まで、つまり色内町地先海岸の埋立てが竣工、北浜、南浜町が成立し、船入澗が新設された。25年には早くも両浜町の地価が港町を抜いて第一位になっている。
 『盛業図録』『明細図』はちょうどこの時期、港、入船町の市街成立から色内、両浜町の形成へと転換する過渡期をあらわしている。……(中略)……。
 小樽の木骨石造店舗は、函館の洋風防火造商家がその立地や商種を反映していたほどに、くっきりとした傾向を示すわけではないが、それでも信香、山上町などの旧市街には少なく、入船、港、色内などの新市街に多く建てられたことは読みとることができる。また、初期の石造店舗は、米穀、海産物、回漕業など、小樽経済の基幹をなしたであろう豪商に多い、ということはできよう。(p.307-308)


小樽の中心地は、信香、山上町などのあたりから(明治10年代頃?)港町、入船町へと移り、さらに(明治20年代以降)色内、北浜・南浜町へと海岸に近い地域を順次北上していく。さらに函館本線と手宮線が繋がる頃であろうか、山の方へも市街地が拡大して稲穂町のあたりも開けてくるというような流れで展開したと考えられる。

時期の区分などは(上には曖昧な記憶で書いた部分もあるため)もう少し検証しなければいけないが、基本的な流れはこのように理解してよいだろう。小樽の港は、北側の方が波も高くなりにくく、港としての適性が高かったという地理的な要因が背景として効いているように思われる。



 前節で見たように、木骨石造の小規模な事務所建築は明治20年代中頃にはあったと思われるが、小樽新聞社のような中層の規模、形式を整えたものが建てられるようになったのには、明治39年の日本郵船小樽支店(佐立七次郎)や明治40年の小樽郵便局など、本格的様式をそなえた事務所建築の出現が刺激となったであろうと考えられる。(p.313-314)


中層の木骨石造の事務所建築が建てられたというのは、小樽の特徴の一つのようである。明治40年代頃に建てられたものがよく知られており、大正半ばに鉄筋コンクリートが普及するまでの僅か10年余りの期間のことであったため、現存する事例は少ない。

小樽市内で現存する建物で、こうしたものの事例として紹介できるものは、第百十三銀行がそれにあたるということが、本書を読んで理解できた。



なお浜益村濃昼の漁家木村家番屋の倉庫が木骨煉瓦造で、煉瓦は半枚積みであった。創建は明治30年前と推定されている。木村家の本拠は小樽にあって、この建物も小樽の系譜につながるものと考えてよいであろう。(p.316)


浜益村は現在は石狩市の浜益区になっているが、木村家番屋はまだ現存しているようだ。公開はしていなさそうだが、機会があれば見てみたいものである。この地区の近くには同じ頃に建てられた白鳥家の番屋もあり(現在、はまます郷土資料館として活用)、白鳥家も小樽にいたことが想起される。鰊漁の漁場として連続性があるからであろうか。



 このような木骨モルタルないしコンクリート造は、大正以降施行された鉄網モルタル造の応用であり、小樽特有の構造手法ではないが、小樽ではちょうど木骨石造が衰退するのと期を一にしてあらわれるように思われ、明治期の木骨石造の代替構造という性格が指摘されるであろう。(p.317)


この類の建築はあまり残っていないかもしれない。


越野武 『北海道における初期洋風建築の研究』(その1)

 これら二つの大工事は、幕府および諸雄藩による幕末期の洋風軍事、産業建築の一環を占めるものであり、開港場の居留外国人の建築とは別の、もうひとつの洋風建築導入の系譜を示す事例として位置づけることができる。最初期の洋風建築は、次節以下で述べるように、居留外国人の必要に応じて実現していくのであるが、それは必ずしも一方的なものではなく、日本人の側にも主体的に洋風建築を受入れる契機が存在したのである。
 ただ、函館の場合、建築というよりは土木建設の傾きが強く、その後の洋風建築への影響という点では、過大に評価することはできない。むしろ、これらの大工事を機に函館に集まり、建設をになった請負人や工匠、建設労働者が、その後の函館、さらに北海道の建設活動の基盤を形成したことの方が重要であった。(p.25-26)


二つの大工事とは、弁天岬砲台と五稜郭の建設のこと。設計した建築家というより、多くの人が実際の作業をする経験を積んだことが影響を及ぼすという見方は興味深い。



 函館支庁営繕係は、明治7~9年の中間縮小期をはさんで、前後期に分けられ、それぞれスタッフ構成も一変している。前期では在籍期間の短い者が多く、設計能力をそなえた主体的組織としてはまだ確立していなかったように思われる。確証は得られなかったが、官外の大工棟梁らによる設計関与といったこともあったであろう。それが右に指摘したような、和風要素を混淆させた前期の素朴な洋風建築にあらわれたのではないかと考えられるのである。
 これに対し、明治10年後半以降の支庁営繕組織は、本庁からのテコ入れによって、いちじるしく整備された。それは明治11、12年大火後さらに強化され、復興事業に取りくんでいったのである。あきらかに設計能力をそなえた数名の技術官を擁するようになっており、在任期間の長い、安定した組織に変わっている。また、本支庁間の連携はより密接になっており、建築の設計内容についても札幌本庁からの指示がおこなわれている。「会堂」や公立富岡・弥生学校、博物館第二館で、屋根を札幌器械製柾葺き(またはこれに倣って)としたのは、その一例である。にもかかわらず、全体として札幌とは違った建築の性格を保持したのは、洋風建築に習熟した多くの大工、工匠の存在を前提にできたからであろう。一口にいえば開港場以来の伝統である。(p.68-69)


建築行政に関する組織に着目するのは興味深いアプローチ。

函館支庁の営繕係が変化したことで函館の洋風建築が変化した(素朴な和風要素混在からより本格的な洋風建築へと変化しつつも、開港場以来の伝統を受け継ぐ職人たちによって、装飾の要素が少ない札幌の官製洋風建築とも異なる装飾的な要素を持つ建築が特徴となったという。組織の変化と建築のスタイルの連続性というのは参考になった。



 開拓使の建築へのアメリカの影響では、もうひとつ、明治10年以降札幌農学校のアメリカ人教師によってもたらされたバルーン・フレーム構造がよく知られている。
 バルーン・フレームballoon frameは、別名Chicago constructionが示すように、1830年代のシカゴで発明され、中西部フロンティアにひろがって、19世紀後半には「全米住宅建設の60ないし80%」を占めるにいたった。(p.136)


バルーン・フレームについてはもう少し詳しく知りたい。



半円ポーチのコリント・オーダー吹寄せ円柱に代表されるヨーロッパ様式建築の咀嚼、室内天井の漆喰メダイオンに代表される日本建築意匠の引用、そしてアメリカ風木造建築の技術及び表現という、いわば10年間にわたる開拓使の建築実践の蓄積が集約統合されたのが豊平館であるということができよう。(p.137)


豊平館に欧風、和風、アメリカ風の要素の統合が見られるという指摘はなるほどと思わされた。



つまり、開拓使前期の洋風小屋組構造はまだ未消化の点を残した過渡的な段階にあって、簾舞小休所はその最初期の姿を伝えるものと考えられる。(p.147)


キングポストトラスなどのトラス構造が明治期の北海道の建築ではよく見られるが、初期の頃は和風の手法が残ったものだったという。簾舞小休所(通行屋)はまだ行ったことがないので、是非機会を設けて訪ねてみたい。


北海道 『北海道の古建築と街並み』

 「えぞ地」が「北海道」と改称された明治初年、本道の町まちは、石置き屋根一色であった。……(中略)……。
 石置き屋根は、江戸末期には、東北・北陸の日本海沿岸地帯に、とくに広く存在した。本道の石置き屋根の母型は、これらの地方の民家にある。本道と同地方との交流の歴史関係から見て不思議のない話だが、明治改元前後の本道の住民の多くは、こうした家屋形式しか知らなかった。大工の大半もまた、これ以外の家屋形態を造る技術をもってなかった。つまり、当時の北海道が、裏日本の経済、生活文化、建築技術の支配圏下にあったことから生ずる、当然の姿であった。(p.29)


確かに明治初期の北海道の民家には石置き屋根が多い。これも東北や北陸に由来するものだったと分かったのは収穫。ここにも当時の一般の移民は東北や北陸から来た者が多かったことが反映している。



 函館・札幌両都市の建築洋風化方向は、対照的である。函館のそれは商館を主体とする民間主導型とすれば、札幌は開拓使関係施設に限定された官庁主導型である。函館が在野建築家による設計であるのに対して、札幌は官僚建築家の設計である。函館の作品のスタイルは、和洋折衷を基調とし、他地域の擬洋風建築と共通感覚のものが多い。これに対して札幌のそれは、米国木造建築様式を祖型とするものにほぼ統一され、同時期の道外他都市に例をみない、高い純度をもつ。また、函館では防火建築への強い志向がみられ、レンガ造、石造、土蔵造でカワラ葺きの建物が相当数出現する。これに反し札幌では、木造マサ葺きの構造形態から脱却できず、防火に対する配慮が希薄であった、という対照も見逃せない。(p.30)


この比較対象は興味深い。いずれも両都市の歴史的特質から説明できるように思われる。函館は幕末の開港地として他地域に先駆けて洋風化の条件を持っていた地域であるだけでなく、それ以前からある程度の人口があった。これに対し、札幌は開拓使が置かれてから開かれたのに近く、明治初年の人口はごく限られたものだった。それぞれの地域の民と官との力関係を見れば、民の力が大きい上に行政の中心でもない函館と民の力が小さい上に行政の中心とされた札幌という対比が見出せるが、そのことが建築にも素直に反映している。また、防火への志向の違いも、函館は地形的な要因(風の強さなど)もあるが都市内部の家屋の密度が高かったのに対して、札幌は明治期には密度が低かったということが反映していると考えられる。

もしかすると、北海道の沿岸都市と内陸都市に同じような対比がみられるかもしれない。この視点から比較してみると面白そうである。今後の研究課題のひとつとしたい。



 本道が板ガラス使用の先進地であった、という意外な事実がある。寒冷な気象条件を克服する好適な建築材料として、明治20年代から、紙障子や板戸を駆逐して、民間建築にも積極的に使用され、その外観を大きく変えてゆく。ストーブの導入に伴う煙突の付設も、本道以外の民家では見ることのできない外形要素である。板ガラスの使用と並び、道内建築にユニークな印象を与えてゆく。
 こうして北海道の建築風景は、道外のそれとはまったく別個の風趣をもつものに、変貌する。(p.30)


板ガラス使用の先進地というのは気付かなかった。確かに明治39年竣工の旧日本郵船小樽支店ともなると二重ガラスが採用されるなど、防寒対策がかなり進んでいたことが見て取れるが、それは20年代からの蓄積の上に出て来たものと言えるのかもしれない。

道外の建築風景とは異なるものとなったという指摘は、先に引用した石置き屋根の家屋が東北や北陸の影響下にあったのに対して、そうした影響から脱して独自のスタイルを形成したということを意味する。これは明治30年前後のことと見てよいだろう。



 明治30年代後半期はまた、北海道経済の中央従属化が顕著となった変革期でもある。同時にそれは、“北海道建築”が中央建築体制の一環に組み込まれたことも意味する。建築における中央との同質化傾向が、この時期以後助長されてゆく。中央の金融・産業資本の本道進出に伴って、中央の建築家の作品が道内に出現する。その結果、第1期、第2期の都市景観が、どちらかといえば対照的に、この時期以後のそれは、すこぶる多彩となってゆく。(p.30)


確かに先ほど言及した旧日本郵船小樽支店も佐立七次郎により設計されたものであったし、明治45年竣工の日銀旧小樽支店も辰野金吾や長野宇平治などが設計している。こう見て来ると確かに中央の建築家が進出してきたというのは、面白い見方である。

ただ、明治初期の北海道で活躍した建築家としては、豊平館を設計した安達喜幸などが想起されるが、彼は江戸出身であり、工部省から開拓使に配属された。安達は開拓使に所属していたことから、あまり道外から来たイメージでは語られないが、もともとは道外から来た人でもある。その意味では函館と札幌の対比が先ほどなされていたが、札幌の系譜は基本的に道外からの技術がもともと基本となっていたという見方もできるのではないか

とはいえ、(明治初期からの)政府によるものか(明治30年代後半からの)資本の進出に伴うものかという違いは残るかもしれない。



 函館、小樽のこうした都市景観は、道内としてはむしろ例外ともいうべきものである。他都市のそれは、札幌を含めて、木造建築の世界である。(p.31)


函館と小樽は大正期からは鉄筋コンクリート造などの不燃造建築が多く建てられたが、他の都市は木造建築が主体のままだったという指摘。



 当時は、鉄筋コンクリート造の黎明期で、多様な構造が存在した。そのため、銀座街には、こんにち存在しない構法の建築が多数建てられ、その一部が現存する。つまり銀座街は、“鉄筋コンクリート造歴史館”の感があり、貴重だ。(p.226)


函館における大正10年の大火後のこと。本書は1979年のものであるが、ここで指摘された「鉄筋コンクリート造歴史館」という状況は現在にも当てはまるのかどうか気になるところである。


越野武+北大建築史研究室 『北の建物散歩』(その2)

 卯建は、江戸中期ごろ、いったん見られなくなり、江戸末期から再び登場し、明治から大正、昭和初期にかけて全国で見られるようになった。北海道でも、小樽や函館などで見られたが、中でも小樽市内の川又商店の袖卯建は逸品といえる。朝日、鶴、松、亀など日本的題材を浮き彫りにした華やいだその卯建には、防火上の機能を越えて、店主の普請への気負いが伝わってくる。
 この建物(明治38年建設)は、色内一帯を焼き尽くした明治37年(1904年)大火の復興建築第一号という。「大火ごときに負けるものか」という小樽商人の底力を、こんな形で表現したのかもしれない。(p.129)


うだつが一時期見られなくなったのは何故なのか?これは少し気になる。川又商店のうだつは、確かに立派なものだが、あまり細かいデザインまでしっかりと見たことはなかったので、次回訪れる際には少し注意してみてみたい。



 といっても木骨石造はれっきとした舶来の建築手法である。江戸前土蔵造り風が大勢だったとはいえ、中にはいくつかモダンな洋風の店を建てる者もいた。
 堺町筋の岩永時計店はその代表格だ。明治29年(1896年)の落成。もうひとつ、入船通りに明治32年に建てられた佐々木銃砲店も、バルコニーやドーマー窓を付けた洋風の建築だったが、今ではあまり面影がない。
 時計と鉄砲というのは妙な組み合わせだが、明治にあってはどちらも文明開化の花形商品だった。
 そこへいくと回船問屋とか呉服太物商といった商売は、店構えも伝統的な風情を固守する傾向がある。やはり店の建築スタイルも、扱う商品を表わすのである。(p.140)


なるほど。扱う商品が店の建築スタイルにも表れることがあるというのは面白い視点。岩永時計店は、鯱などもついており、むしろ和風のテイストも結構あるように思われ、今の感覚からするとあまり洋風と言う感じはしないが、二階中央のアーチ形の窓などは確かに洋風である。



色内通りと運河の間は、おおむね明治22年に埋め立てられており、その直後から荷揚げ営業用の大倉庫がいくつも建てられていった。(p.181)


小樽倉庫(現在の運河プラザ、小樽市総合博物館運河館の建物)や大家倉庫などはまさにこの頃に建てられている。



 ところで昔の北海道の町村には、一級と二級の区分けがあった。二級町村というのは町村長も官選だし、議会の権限、地位もいたって低いものだった。一級町村になって、曲がりなりにも住民の選挙が行われ、一人前の自治体になるのである。
 このことは町村役場の建築にも強く反映する。一級に格上げされるのと同時に、立派な庁舎を建てるケースが多い。(p.243)


一級と二級の町村ということはしばしば北海道の歴史に関する解説に出てくるが、その具体的な制度の内容はあまり説明されることはない。その意味ではもう少し詳しく知りたい問題ではある。

一級町村になると庁舎も立派になるというのは面白い。なお、以上の指摘は旧妹背牛村役場庁舎についての解説だが、他の事例も列挙してもらえて、それの実物を幾つかでも見ることができるとより実感できるのだが。あまりその時代のものは残っていないか(しいて言えば古写真で確認できるくらいではないか)。


越野武+北大建築史研究室 『北の建物散歩』(その1)

ドームは本庁舎のもとの設計にはなかったのだが、初代道庁長官(開拓使では判官だった)岩村通俊の横ヤリで付けくわえられたらしい、と想像されている。
 これがまったく無茶な設計変更だったことは、構造を見ると一目瞭然だ。ドームといっても、その下部は径7㍍余、高さ12㍍ほどの重いれんが壁(ドラムという)が建ちあげられている。なんとこの壁を支えるべき下部構造が存在しないのである。……(中略)……。そんなことでまともな構造になるはずもなく、果たして数年後にはガタガタになって撤去されてしまった。
 ……(中略)……。
 今のドームの構造はどうなっているか?実は目立たないように鉄筋コンクリートの構造で脚部を支え、その上に軽い鉄骨のフレームを組んで、薄いれんが壁を張りつけているのだが、こんなタネ明かしは興ざめですね。(p.44-45)


北海道庁旧本庁舎について。ドームは最初は設計に入っていなかったというのは本当だろうか。ただ、最初のドームは維持できなかったというのは有名な話ではあり、この原因は支えるための構造が欠けていたからだというのはそうなのだろう。



住宅の建て主、小熊捍も太秦康光も北海道帝国大学理学部の教授であった。田上のような初期のフリー・アーキテクトの手になるモダン住宅が、こうした知識人パトロンによって支えられた事情がよく分かろう。(p.50)


小熊邸(移築して現存)は昭和2年、太秦邸(現存しない)は昭和5年の建築。同じ頃に小樽に建てられた坂牛邸(現存)や坂邸(焼失)などのオーナーを見ると、坂牛は小樽新聞社の重役だった人であり、坂は炭鉱会社の経営者だったということからなどからすると、知識人パトロンと本書では言われているが、大学教授のような知識人だけに限られない、当時の地域エリート層がフリーアーキテクトのパトロンだったという位の言い方の方が妥当であるように思える。

大正から昭和初期という日本にとっては経済がかなり順調だった(ように見えた)時代であり、中産層的なサラリーマンなども増えていき、生活も次第に洋風化が進んでいくなど、中間層も次第に台頭しつつあったが、それだけではなく富裕層への富の強い集中が世界的に見られた時代でもある。資産によって生きる超富裕層というより、高額の給与や報酬により生活する人々の個人邸宅を田上は建てたということだろうか?当時のフリーアーキテクトのパトロンは誰だったかという問題は調べてみる価値がありそうな問題である。



 北大構内に、ローマ時代の大浴場で使われた窓と同じ形のものが見られる。えっと思われるだろうが、北大付属図書館横に建つ古河記念講堂(明治42年建築)のしかも正面意匠に堂々と使われている。中央二階の上げ下げ二連窓の上にみられる、半円形の中に二本の縦がまちをみせた窓の部分で、建築学的にはテルマエ窓という。(p.60)


古河講堂の設計に当たり、建築家は直接はどのあたりからテルマエ窓を使うというアイディアを持ってきたのだろう?当時のヨーロッパでよく使われていたのだろうか?この建築はマンサード屋根などフランス風というイメージがあるが、当時のフランスでそれなりにポピュラーだったのだろうか?



 こうした楽しさは内部でも発揮され、玄関で最初に目につくアールヌーボー風の円形欄間のサッシは、よく見ると林学の「林」という字だ。教室の両開き扉の桟は「林」だし、片開きの桟が「木」なのもご愛嬌だ。
 設計は文部省建築課札幌出張所技師というお固い職名の新山平四郎。氏は明治2年(1869年)茨城県生れ。29年に文部省入りし、36年同省札幌出張所に赴任、中條精一郎技師のもとで札幌農学校の移転新築工事にたずさわった。40年に札幌出張所所長となり、東北帝大農科大学(現北大)新築工事を42年まで担当。在任中、小樽高商(現小樽商大)本館(明治45年竣工)も手がけた。(p.62)


古河講堂についての記述の続き。林学教室として建てられたので「林」や「木」をデザインに織り込むとは面白い。

設計者の経歴も興味深い。古河講堂と小樽高商の建築が同じ設計者というのもあまり考えたことがなかった。



 小樽新聞社は、北海道のジャーナリズム史に大きな位置を占めるが、社屋も小樽における木骨石造建築の発達という視点から、大変注目すべき建築だ。倉庫や商店にひろまったこの構造が、この時期、つまり鉄筋コンクリート構造が普及する直前に、中規模のオフィスビルに適用されたのである。ただ残念なことに、移築に際して内部の木骨軸組が鉄筋コンクリートに変えられている。明治42年(1909年)の建築。(p.114-115)


 小樽新聞社の社屋は現在、北海道開拓の村に移築されている。ここを訪れた時、私もこの建物を見たことがあるが、木骨石造がいかにも小樽らしいと思う反面、変な違和感を感じたことを思い出す。本書の指摘を踏まえてその違和感の原因を言うとすれば、中規模オフィスビルに適用されていることに由来するものだった。三階建ての縦に大きな建物であることに違和感を覚えたのである。木骨石造でも大家倉庫や右近倉庫、小樽倉庫などそれなりに大きな建物は古くからあった。しかし、これらの建物の大きさの多くは大きな平面を持っているという大きさであった(大家や右近などは更に天井も高いが、全体として見れば横方向に大きい)。それに対して、小樽新聞社のように平面の面積はそれほどでもないのに三階建てという高さがある木骨石造というのはほとんど見かけない。このことが違和感を感じさせていたのである。

大正中期になると鉄筋コンクリートが普及してくるので僅か10~15年程度の期間限定の作例と言う意味では貴重な作品である。


Bruno Klein、Achim Bednorz、Rolf Toman 『GOTHIC 神秘・莊嚴 歌德藝術 1140-1500年 中世紀的視覺藝術』

然而我們可以推測,柯爾――能夠向受的藝術家充分傳達自身多元的「邊緣經驗」(borderline experience):那些介於中產階級與宮廷貴族,東方與西方,宗教與世俗之間的歷練。(p.218)


フランスのブールジュにあるジャック・クールの邸宅についての解説より。

ジャック・クールの邸宅には小康家庭から身を起こしてフランス王の財務大臣にまでなったという経歴が反映した、様々な階層の者の彫刻などが共存していることが指摘されている。彼自身のborderline experienceを芸術家に十分に伝えていたからこそ、そうした中産階級から宮廷貴族まで、東方から西方まで、宗教から世俗までに渡るものを共存させ得たのではないか、という主旨のことが書かれている。



然而在中世紀時期,狩獵活動是上流社會男性交際應酬,並展現不凡身手的社交場合。此外,當時人們把狩獵也當作戰爭的準備替代活動:(以下略)(p.249)


中世においては、狩猟は上流社会の男性の社交の場であるほか、当時の人々にとっては狩猟を戦争準備の代替活動でもあったようだ。このような指摘を受けると、戦国時代や江戸時代の日本などでも、もしかすると同じような意味があったのではないか?という気がしてくる。実際にどうなのか、少し気になるところである。


札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭』(その2)

とくに明治20年以降、中島公園が本格的に整備されていくにつれ、偕楽園の公園の機能は薄れていった。札幌の市街地は南にむかって伸びていき、幌内鉄道(現在の函館本線)が開通して、北側の広がりを遮断してしまってから、しだいに偕楽園一帯は、まわりの発展からとり残されていった。そうしたなかで、清華亭のみが、この地にとどまり、生きつづけるのである。(p.193)


偕楽園が公園としてはすぐに廃れたのに中島公園は長くその機能を保っている理由はどういったところにあるのだろうか?大通の北が官庁や文教、南が商業地区となり、豊平川も南側にあるということが市街の南への伸展を促した面はありそうに思う。また、幌内鉄道が小樽(手宮)から札幌まで開通したのは明治13年、幌内まで全通したのは明治15年であったが、鉄道が市街の中心と偕楽園一帯を分断したという指摘も大きな要因であるように思われる。現在でも札幌駅の北と南では雰囲気がかなり異なることからもそれは感じられる。

しかし、ある意味では、こうした分断により都市開発からとり残されることで清華亭だけでも残ることになったというのも一面の真実かもしれない。もし、こうした分断がなく、現在の札幌駅北部も南と同じように都市開発がされていれば、清華亭すら失われていたかもしれない。都市がどのように変わっていくのか、変わっていくべきかということは難しい問題だと感じる。



 昭和の時代を迎え、世相はしだいに戦時色を強め、国策は国体を重んじ、国威の発揚をめざした種々の政策をうちだしていったが、その一環として、史跡名勝の保存、伝承が叫ばれて、かつての明治天皇行幸の聖跡は、再びクローズアップされることになった。
 その気運は、一部心ある人びとの保存運動と結びつき、建造物としてもすぐれた資質を誇る北海道開拓の歴史をとどめようという動きが起こった。こうして清華亭に保存の手がさしのべられたのは、昭和初めのことであり、このとき、保存運動の中心となった人が河野常吉であった。(p.196-197)


戦前の国家主義的政策やナショナリズムの高揚と結びつく形で、昭和初期に歴史的建造物の保存の運動が起こったというのは興味深い。ある意味では国家主義の流れを汲んでいる面もありつつ、同時にそれとは同床異夢的な発想もあり、といったところだったものと想像するが、もう少し掘り下げて調べてみると面白いかもしれない。

また、北海道と台湾の比較という私の視点からすると、最近の台湾における懐日趣味が、台湾における台湾人意識の高揚と結びついているといった現象と昭和初期の北海道で見られた(他の地域はどうだったのか?)現象との共通点と相違点を調べてみたいと思う。



 清華亭は、開拓使洋風建築の中では、豊平館(1880年)、札幌農学校演武場時計塔(1881年)や植物園博物館(1882年)などと共に、後期に属するものだが、初期の洋風色濃い建築意匠とは、相当異なるものとなっている。
 もちろん、洋室棟22.29坪、和室棟14.93坪にみられるように、あくまでも洋室部が主体であるし、和室棟の大棟先端には洋風棟飾りを飾るなど、外観を洋風で統一しようとする意図は明白である。
 しかし、縁側をまわす和室を、このようにかなり重い比重で採用したものは、これ以前の開拓使洋風建築にはなかったことである。
 和様二室を接合した構成例としては、最も早いものの一つといえる。
 同時に、和室軒先出隅の反り上げや、洋室内部に床の間様の棚をしつらえたり、天井メダイオン(円形模様)の桔梗の浮彫などの細部で明らかなように、洋風を主としながらも、和風への回帰が明瞭に表れているのである。
 公式的性格を持つ豊平館に対して、庭園内の清華亭は、休憩所として、もっとくつろいだ東屋風なものとして、設計者もホッと一息つきながら、のびやかに腕をふるうことができたのかもしれない。
 とはいえ、天皇の御休憩所である。そこには格式化・様式化への志向も顕著にみられる。平面形に凹凸をつけて建物外形に変化をつけたり、外部出隅の柱を太くして重々しさを表現したり、ベイウィンドウの採用などは、その志向の表れともいえるかもしれない。
 とくにベイウィンドウ採用は、北海道の初期洋風建築では、開拓使本庁分局(1873年)と共に珍しく早い例であった。
 また、このベイウィンドウ部軒下回りを、入念な細工の持送りで飾ったり、外壁を三層構成にするなど、在来の飾り気のない、さっぱりとした意匠に対して、非常に賑やかになっていることも注目される。(p.2.09-211)


清華亭の意匠についてのコンパクトな解説だが、私があまり今まで気づかなかった点がいろいろと指摘されており興味深かった。

上記解説文については、まず、「開拓使洋風建築」というカテゴリーを用いていることも新鮮に感じた。特にこれを前期や後期と分けているのには少し驚いた。というのは、開拓使が置かれてから廃止するまでの期間は、明治2年(1869年)から明治15年(1872年)しかなく、12-13年の中で前期や後期と分ける発想を私はしたことがなかったからである。しかし、考えてみると、洋風の技術やデザインが次第に流入してきた時期であるから、多くのことを当時の建築家(大工など)は学んでいたということを考えると、期間が短くても変化を捉えることができる面もあるかも知れない。

昭和初期頃までの豪邸は、多くが和洋折衷というか和様接合の構成であるが、和様接合の構成例として清華亭は最も早いものの一つであるという指摘もなるほどと思わされた。北海道以外の地域ではこうした構成がどのように展開していたのか、といったことも含めてもっといろいろなものを見ていきたい。

清華亭のベイウィンドウについて、格式化・様式化への志向を示すという理解は、実物を見た時には気付かなかった点であり勉強になった。ベイウィンドウという様式化されたデザインを採用することで、格式の高さが演出される面がある。ベイウィンドウのな清華亭を想像すると、外観も現在のものより平板なものとなることが容易に想像できる。



ここは駅の裏手にあって労働者や低所得者が残されたこの空地に押し寄せた。北九条小学校や全市一の児童数をもち、かつ東小学校と共に“貧乏学校”などといわれた。「貧乏人の子沢山」の意だろう。
 その子たちの遊び場は、偕楽園付近と北大構内などであった。……(中略)……。
 大正7年には開道50年の喜びを迎え、大博覧会が催された。この機会に多くの人は札幌見物に集まり、やがてはここに住みたいと思い、あるいは将来を見越して土地買いを試みる人などが続出した。この期に土地は細分化され、あるいは河川敷のようなところにも人家、自給畑が開かれた。ことに資産家の山本、伊坂などが狭い道路沿いに偕楽園廉売市場を設けて小売商人に賃貸した。これがいよいよこの地区に人家を密集させる誘因となった。
 遊び場は人家に占領され、数年前のローンは姿を消した。子供たちは清華亭のスロープを駆け上り駆け下りた。やがて赤土が露出し、その下に東西の街路が設定され、大正14年には市街割りが施された。清華亭は数百坪の一角に押し込められ、北7条西7丁目という地番を以て示され、偕楽園という旧名も人々から遠いものとなった。(p.220-222)


大正時代の清華亭の付近の状況を伝えている。低所得世帯の子供たちの遊び場だったものが、投資家や資産家たちの思惑によって遊び場すら奪われていったという見方が示されている。当時住んでいた人の目線で、清華亭も現在のような狭い地域に閉じ込められるに至ったという経過を伝えいる点でこの周辺の記事は貴重な記録と思う。

こうした荒廃の後、昭和初期に国家主義と結びついた運動により保存が進められていくという流れも押さえておきたい。



 また伊藤亀太郎邸内の湧水などから流れてきたサクシュ琴似川は、線路の下、煉瓦のめがね橋の下(北6西8)を流、それが偕楽園、清華亭のあたりを経て、北大に入っていた。偕楽園には大小の池があり、遊園地のような風情も残っていた。めがね橋付近では毎日婦人の洗濯姿も見られ、その水は清く冷たくて、長くは入っていられなかった。北九条小学校の生徒時代(大正2年~8年)は、それでもよくトンギョやザリガニを取って遊んだ。五年生の頃、この川で大きくて長い八ツ目うなぎを手づかみで捕えたことを今なお覚えている。
 この川や池の水も28年前、即ち昭和27年にステーションデパートが開設され、その地下工事等のため、急にストップされてしまった。その後川や池の跡地は埋められ民間に利用されている。(p.230-231)


札幌駅の開発がサクシュコトニ川を枯れさせてしまい、今では川や池の跡地も埋められているということが分かる。こうした変化に対して当時の人々はどのように反応していたのだろうか?政府や札幌市などに対して働きかけたりはしなかったのだろうか?



 堅実で奇を求めぬ性格は、開拓使の洋風建築に一貫している。模範家畜房で伝えられたように、目に見えない構造や、新しい技術に対しても、安達をはじめとする開拓使の建築家たちは精魂を込めてとりくんだ豊平館が生みだされるまでには、こうした洋風建築修得の数年にわたる努力が積みかさねられていたのである。(p.248)


開拓使の建築」という見方には、組織に蓄積された知見というものを捉えられるという面もありそうだ。