アヴェスターにはこう書いている?
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北海道 『北海道の古建築と街並み』

 「えぞ地」が「北海道」と改称された明治初年、本道の町まちは、石置き屋根一色であった。……(中略)……。
 石置き屋根は、江戸末期には、東北・北陸の日本海沿岸地帯に、とくに広く存在した。本道の石置き屋根の母型は、これらの地方の民家にある。本道と同地方との交流の歴史関係から見て不思議のない話だが、明治改元前後の本道の住民の多くは、こうした家屋形式しか知らなかった。大工の大半もまた、これ以外の家屋形態を造る技術をもってなかった。つまり、当時の北海道が、裏日本の経済、生活文化、建築技術の支配圏下にあったことから生ずる、当然の姿であった。(p.29)


確かに明治初期の北海道の民家には石置き屋根が多い。これも東北や北陸に由来するものだったと分かったのは収穫。ここにも当時の一般の移民は東北や北陸から来た者が多かったことが反映している。



 函館・札幌両都市の建築洋風化方向は、対照的である。函館のそれは商館を主体とする民間主導型とすれば、札幌は開拓使関係施設に限定された官庁主導型である。函館が在野建築家による設計であるのに対して、札幌は官僚建築家の設計である。函館の作品のスタイルは、和洋折衷を基調とし、他地域の擬洋風建築と共通感覚のものが多い。これに対して札幌のそれは、米国木造建築様式を祖型とするものにほぼ統一され、同時期の道外他都市に例をみない、高い純度をもつ。また、函館では防火建築への強い志向がみられ、レンガ造、石造、土蔵造でカワラ葺きの建物が相当数出現する。これに反し札幌では、木造マサ葺きの構造形態から脱却できず、防火に対する配慮が希薄であった、という対照も見逃せない。(p.30)


この比較対象は興味深い。いずれも両都市の歴史的特質から説明できるように思われる。函館は幕末の開港地として他地域に先駆けて洋風化の条件を持っていた地域であるだけでなく、それ以前からある程度の人口があった。これに対し、札幌は開拓使が置かれてから開かれたのに近く、明治初年の人口はごく限られたものだった。それぞれの地域の民と官との力関係を見れば、民の力が大きい上に行政の中心でもない函館と民の力が小さい上に行政の中心とされた札幌という対比が見出せるが、そのことが建築にも素直に反映している。また、防火への志向の違いも、函館は地形的な要因(風の強さなど)もあるが都市内部の家屋の密度が高かったのに対して、札幌は明治期には密度が低かったということが反映していると考えられる。

もしかすると、北海道の沿岸都市と内陸都市に同じような対比がみられるかもしれない。この視点から比較してみると面白そうである。今後の研究課題のひとつとしたい。



 本道が板ガラス使用の先進地であった、という意外な事実がある。寒冷な気象条件を克服する好適な建築材料として、明治20年代から、紙障子や板戸を駆逐して、民間建築にも積極的に使用され、その外観を大きく変えてゆく。ストーブの導入に伴う煙突の付設も、本道以外の民家では見ることのできない外形要素である。板ガラスの使用と並び、道内建築にユニークな印象を与えてゆく。
 こうして北海道の建築風景は、道外のそれとはまったく別個の風趣をもつものに、変貌する。(p.30)


板ガラス使用の先進地というのは気付かなかった。確かに明治39年竣工の旧日本郵船小樽支店ともなると二重ガラスが採用されるなど、防寒対策がかなり進んでいたことが見て取れるが、それは20年代からの蓄積の上に出て来たものと言えるのかもしれない。

道外の建築風景とは異なるものとなったという指摘は、先に引用した石置き屋根の家屋が東北や北陸の影響下にあったのに対して、そうした影響から脱して独自のスタイルを形成したということを意味する。これは明治30年前後のことと見てよいだろう。



 明治30年代後半期はまた、北海道経済の中央従属化が顕著となった変革期でもある。同時にそれは、“北海道建築”が中央建築体制の一環に組み込まれたことも意味する。建築における中央との同質化傾向が、この時期以後助長されてゆく。中央の金融・産業資本の本道進出に伴って、中央の建築家の作品が道内に出現する。その結果、第1期、第2期の都市景観が、どちらかといえば対照的に、この時期以後のそれは、すこぶる多彩となってゆく。(p.30)


確かに先ほど言及した旧日本郵船小樽支店も佐立七次郎により設計されたものであったし、明治45年竣工の日銀旧小樽支店も辰野金吾や長野宇平治などが設計している。こう見て来ると確かに中央の建築家が進出してきたというのは、面白い見方である。

ただ、明治初期の北海道で活躍した建築家としては、豊平館を設計した安達喜幸などが想起されるが、彼は江戸出身であり、工部省から開拓使に配属された。安達は開拓使に所属していたことから、あまり道外から来たイメージでは語られないが、もともとは道外から来た人でもある。その意味では函館と札幌の対比が先ほどなされていたが、札幌の系譜は基本的に道外からの技術がもともと基本となっていたという見方もできるのではないか

とはいえ、(明治初期からの)政府によるものか(明治30年代後半からの)資本の進出に伴うものかという違いは残るかもしれない。



 函館、小樽のこうした都市景観は、道内としてはむしろ例外ともいうべきものである。他都市のそれは、札幌を含めて、木造建築の世界である。(p.31)


函館と小樽は大正期からは鉄筋コンクリート造などの不燃造建築が多く建てられたが、他の都市は木造建築が主体のままだったという指摘。



 当時は、鉄筋コンクリート造の黎明期で、多様な構造が存在した。そのため、銀座街には、こんにち存在しない構法の建築が多数建てられ、その一部が現存する。つまり銀座街は、“鉄筋コンクリート造歴史館”の感があり、貴重だ。(p.226)


函館における大正10年の大火後のこと。本書は1979年のものであるが、ここで指摘された「鉄筋コンクリート造歴史館」という状況は現在にも当てはまるのかどうか気になるところである。


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越野武+北大建築史研究室 『北の建物散歩』(その2)

 卯建は、江戸中期ごろ、いったん見られなくなり、江戸末期から再び登場し、明治から大正、昭和初期にかけて全国で見られるようになった。北海道でも、小樽や函館などで見られたが、中でも小樽市内の川又商店の袖卯建は逸品といえる。朝日、鶴、松、亀など日本的題材を浮き彫りにした華やいだその卯建には、防火上の機能を越えて、店主の普請への気負いが伝わってくる。
 この建物(明治38年建設)は、色内一帯を焼き尽くした明治37年(1904年)大火の復興建築第一号という。「大火ごときに負けるものか」という小樽商人の底力を、こんな形で表現したのかもしれない。(p.129)


うだつが一時期見られなくなったのは何故なのか?これは少し気になる。川又商店のうだつは、確かに立派なものだが、あまり細かいデザインまでしっかりと見たことはなかったので、次回訪れる際には少し注意してみてみたい。



 といっても木骨石造はれっきとした舶来の建築手法である。江戸前土蔵造り風が大勢だったとはいえ、中にはいくつかモダンな洋風の店を建てる者もいた。
 堺町筋の岩永時計店はその代表格だ。明治29年(1896年)の落成。もうひとつ、入船通りに明治32年に建てられた佐々木銃砲店も、バルコニーやドーマー窓を付けた洋風の建築だったが、今ではあまり面影がない。
 時計と鉄砲というのは妙な組み合わせだが、明治にあってはどちらも文明開化の花形商品だった。
 そこへいくと回船問屋とか呉服太物商といった商売は、店構えも伝統的な風情を固守する傾向がある。やはり店の建築スタイルも、扱う商品を表わすのである。(p.140)


なるほど。扱う商品が店の建築スタイルにも表れることがあるというのは面白い視点。岩永時計店は、鯱などもついており、むしろ和風のテイストも結構あるように思われ、今の感覚からするとあまり洋風と言う感じはしないが、二階中央のアーチ形の窓などは確かに洋風である。



色内通りと運河の間は、おおむね明治22年に埋め立てられており、その直後から荷揚げ営業用の大倉庫がいくつも建てられていった。(p.181)


小樽倉庫(現在の運河プラザ、小樽市総合博物館運河館の建物)や大家倉庫などはまさにこの頃に建てられている。



 ところで昔の北海道の町村には、一級と二級の区分けがあった。二級町村というのは町村長も官選だし、議会の権限、地位もいたって低いものだった。一級町村になって、曲がりなりにも住民の選挙が行われ、一人前の自治体になるのである。
 このことは町村役場の建築にも強く反映する。一級に格上げされるのと同時に、立派な庁舎を建てるケースが多い。(p.243)


一級と二級の町村ということはしばしば北海道の歴史に関する解説に出てくるが、その具体的な制度の内容はあまり説明されることはない。その意味ではもう少し詳しく知りたい問題ではある。

一級町村になると庁舎も立派になるというのは面白い。なお、以上の指摘は旧妹背牛村役場庁舎についての解説だが、他の事例も列挙してもらえて、それの実物を幾つかでも見ることができるとより実感できるのだが。あまりその時代のものは残っていないか(しいて言えば古写真で確認できるくらいではないか)。


越野武+北大建築史研究室 『北の建物散歩』(その1)

ドームは本庁舎のもとの設計にはなかったのだが、初代道庁長官(開拓使では判官だった)岩村通俊の横ヤリで付けくわえられたらしい、と想像されている。
 これがまったく無茶な設計変更だったことは、構造を見ると一目瞭然だ。ドームといっても、その下部は径7㍍余、高さ12㍍ほどの重いれんが壁(ドラムという)が建ちあげられている。なんとこの壁を支えるべき下部構造が存在しないのである。……(中略)……。そんなことでまともな構造になるはずもなく、果たして数年後にはガタガタになって撤去されてしまった。
 ……(中略)……。
 今のドームの構造はどうなっているか?実は目立たないように鉄筋コンクリートの構造で脚部を支え、その上に軽い鉄骨のフレームを組んで、薄いれんが壁を張りつけているのだが、こんなタネ明かしは興ざめですね。(p.44-45)


北海道庁旧本庁舎について。ドームは最初は設計に入っていなかったというのは本当だろうか。ただ、最初のドームは維持できなかったというのは有名な話ではあり、この原因は支えるための構造が欠けていたからだというのはそうなのだろう。



住宅の建て主、小熊捍も太秦康光も北海道帝国大学理学部の教授であった。田上のような初期のフリー・アーキテクトの手になるモダン住宅が、こうした知識人パトロンによって支えられた事情がよく分かろう。(p.50)


小熊邸(移築して現存)は昭和2年、太秦邸(現存しない)は昭和5年の建築。同じ頃に小樽に建てられた坂牛邸(現存)や坂邸(焼失)などのオーナーを見ると、坂牛は小樽新聞社の重役だった人であり、坂は炭鉱会社の経営者だったということからなどからすると、知識人パトロンと本書では言われているが、大学教授のような知識人だけに限られない、当時の地域エリート層がフリーアーキテクトのパトロンだったという位の言い方の方が妥当であるように思える。

大正から昭和初期という日本にとっては経済がかなり順調だった(ように見えた)時代であり、中産層的なサラリーマンなども増えていき、生活も次第に洋風化が進んでいくなど、中間層も次第に台頭しつつあったが、それだけではなく富裕層への富の強い集中が世界的に見られた時代でもある。資産によって生きる超富裕層というより、高額の給与や報酬により生活する人々の個人邸宅を田上は建てたということだろうか?当時のフリーアーキテクトのパトロンは誰だったかという問題は調べてみる価値がありそうな問題である。



 北大構内に、ローマ時代の大浴場で使われた窓と同じ形のものが見られる。えっと思われるだろうが、北大付属図書館横に建つ古河記念講堂(明治42年建築)のしかも正面意匠に堂々と使われている。中央二階の上げ下げ二連窓の上にみられる、半円形の中に二本の縦がまちをみせた窓の部分で、建築学的にはテルマエ窓という。(p.60)


古河講堂の設計に当たり、建築家は直接はどのあたりからテルマエ窓を使うというアイディアを持ってきたのだろう?当時のヨーロッパでよく使われていたのだろうか?この建築はマンサード屋根などフランス風というイメージがあるが、当時のフランスでそれなりにポピュラーだったのだろうか?



 こうした楽しさは内部でも発揮され、玄関で最初に目につくアールヌーボー風の円形欄間のサッシは、よく見ると林学の「林」という字だ。教室の両開き扉の桟は「林」だし、片開きの桟が「木」なのもご愛嬌だ。
 設計は文部省建築課札幌出張所技師というお固い職名の新山平四郎。氏は明治2年(1869年)茨城県生れ。29年に文部省入りし、36年同省札幌出張所に赴任、中條精一郎技師のもとで札幌農学校の移転新築工事にたずさわった。40年に札幌出張所所長となり、東北帝大農科大学(現北大)新築工事を42年まで担当。在任中、小樽高商(現小樽商大)本館(明治45年竣工)も手がけた。(p.62)


古河講堂についての記述の続き。林学教室として建てられたので「林」や「木」をデザインに織り込むとは面白い。

設計者の経歴も興味深い。古河講堂と小樽高商の建築が同じ設計者というのもあまり考えたことがなかった。



 小樽新聞社は、北海道のジャーナリズム史に大きな位置を占めるが、社屋も小樽における木骨石造建築の発達という視点から、大変注目すべき建築だ。倉庫や商店にひろまったこの構造が、この時期、つまり鉄筋コンクリート構造が普及する直前に、中規模のオフィスビルに適用されたのである。ただ残念なことに、移築に際して内部の木骨軸組が鉄筋コンクリートに変えられている。明治42年(1909年)の建築。(p.114-115)


 小樽新聞社の社屋は現在、北海道開拓の村に移築されている。ここを訪れた時、私もこの建物を見たことがあるが、木骨石造がいかにも小樽らしいと思う反面、変な違和感を感じたことを思い出す。本書の指摘を踏まえてその違和感の原因を言うとすれば、中規模オフィスビルに適用されていることに由来するものだった。三階建ての縦に大きな建物であることに違和感を覚えたのである。木骨石造でも大家倉庫や右近倉庫、小樽倉庫などそれなりに大きな建物は古くからあった。しかし、これらの建物の大きさの多くは大きな平面を持っているという大きさであった(大家や右近などは更に天井も高いが、全体として見れば横方向に大きい)。それに対して、小樽新聞社のように平面の面積はそれほどでもないのに三階建てという高さがある木骨石造というのはほとんど見かけない。このことが違和感を感じさせていたのである。

大正中期になると鉄筋コンクリートが普及してくるので僅か10~15年程度の期間限定の作例と言う意味では貴重な作品である。


Bruno Klein、Achim Bednorz、Rolf Toman 『GOTHIC 神秘・莊嚴 歌德藝術 1140-1500年 中世紀的視覺藝術』

然而我們可以推測,柯爾――能夠向受的藝術家充分傳達自身多元的「邊緣經驗」(borderline experience):那些介於中產階級與宮廷貴族,東方與西方,宗教與世俗之間的歷練。(p.218)


フランスのブールジュにあるジャック・クールの邸宅についての解説より。

ジャック・クールの邸宅には小康家庭から身を起こしてフランス王の財務大臣にまでなったという経歴が反映した、様々な階層の者の彫刻などが共存していることが指摘されている。彼自身のborderline experienceを芸術家に十分に伝えていたからこそ、そうした中産階級から宮廷貴族まで、東方から西方まで、宗教から世俗までに渡るものを共存させ得たのではないか、という主旨のことが書かれている。



然而在中世紀時期,狩獵活動是上流社會男性交際應酬,並展現不凡身手的社交場合。此外,當時人們把狩獵也當作戰爭的準備替代活動:(以下略)(p.249)


中世においては、狩猟は上流社会の男性の社交の場であるほか、当時の人々にとっては狩猟を戦争準備の代替活動でもあったようだ。このような指摘を受けると、戦国時代や江戸時代の日本などでも、もしかすると同じような意味があったのではないか?という気がしてくる。実際にどうなのか、少し気になるところである。


札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭』(その2)

とくに明治20年以降、中島公園が本格的に整備されていくにつれ、偕楽園の公園の機能は薄れていった。札幌の市街地は南にむかって伸びていき、幌内鉄道(現在の函館本線)が開通して、北側の広がりを遮断してしまってから、しだいに偕楽園一帯は、まわりの発展からとり残されていった。そうしたなかで、清華亭のみが、この地にとどまり、生きつづけるのである。(p.193)


偕楽園が公園としてはすぐに廃れたのに中島公園は長くその機能を保っている理由はどういったところにあるのだろうか?大通の北が官庁や文教、南が商業地区となり、豊平川も南側にあるということが市街の南への伸展を促した面はありそうに思う。また、幌内鉄道が小樽(手宮)から札幌まで開通したのは明治13年、幌内まで全通したのは明治15年であったが、鉄道が市街の中心と偕楽園一帯を分断したという指摘も大きな要因であるように思われる。現在でも札幌駅の北と南では雰囲気がかなり異なることからもそれは感じられる。

しかし、ある意味では、こうした分断により都市開発からとり残されることで清華亭だけでも残ることになったというのも一面の真実かもしれない。もし、こうした分断がなく、現在の札幌駅北部も南と同じように都市開発がされていれば、清華亭すら失われていたかもしれない。都市がどのように変わっていくのか、変わっていくべきかということは難しい問題だと感じる。



 昭和の時代を迎え、世相はしだいに戦時色を強め、国策は国体を重んじ、国威の発揚をめざした種々の政策をうちだしていったが、その一環として、史跡名勝の保存、伝承が叫ばれて、かつての明治天皇行幸の聖跡は、再びクローズアップされることになった。
 その気運は、一部心ある人びとの保存運動と結びつき、建造物としてもすぐれた資質を誇る北海道開拓の歴史をとどめようという動きが起こった。こうして清華亭に保存の手がさしのべられたのは、昭和初めのことであり、このとき、保存運動の中心となった人が河野常吉であった。(p.196-197)


戦前の国家主義的政策やナショナリズムの高揚と結びつく形で、昭和初期に歴史的建造物の保存の運動が起こったというのは興味深い。ある意味では国家主義の流れを汲んでいる面もありつつ、同時にそれとは同床異夢的な発想もあり、といったところだったものと想像するが、もう少し掘り下げて調べてみると面白いかもしれない。

また、北海道と台湾の比較という私の視点からすると、最近の台湾における懐日趣味が、台湾における台湾人意識の高揚と結びついているといった現象と昭和初期の北海道で見られた(他の地域はどうだったのか?)現象との共通点と相違点を調べてみたいと思う。



 清華亭は、開拓使洋風建築の中では、豊平館(1880年)、札幌農学校演武場時計塔(1881年)や植物園博物館(1882年)などと共に、後期に属するものだが、初期の洋風色濃い建築意匠とは、相当異なるものとなっている。
 もちろん、洋室棟22.29坪、和室棟14.93坪にみられるように、あくまでも洋室部が主体であるし、和室棟の大棟先端には洋風棟飾りを飾るなど、外観を洋風で統一しようとする意図は明白である。
 しかし、縁側をまわす和室を、このようにかなり重い比重で採用したものは、これ以前の開拓使洋風建築にはなかったことである。
 和様二室を接合した構成例としては、最も早いものの一つといえる。
 同時に、和室軒先出隅の反り上げや、洋室内部に床の間様の棚をしつらえたり、天井メダイオン(円形模様)の桔梗の浮彫などの細部で明らかなように、洋風を主としながらも、和風への回帰が明瞭に表れているのである。
 公式的性格を持つ豊平館に対して、庭園内の清華亭は、休憩所として、もっとくつろいだ東屋風なものとして、設計者もホッと一息つきながら、のびやかに腕をふるうことができたのかもしれない。
 とはいえ、天皇の御休憩所である。そこには格式化・様式化への志向も顕著にみられる。平面形に凹凸をつけて建物外形に変化をつけたり、外部出隅の柱を太くして重々しさを表現したり、ベイウィンドウの採用などは、その志向の表れともいえるかもしれない。
 とくにベイウィンドウ採用は、北海道の初期洋風建築では、開拓使本庁分局(1873年)と共に珍しく早い例であった。
 また、このベイウィンドウ部軒下回りを、入念な細工の持送りで飾ったり、外壁を三層構成にするなど、在来の飾り気のない、さっぱりとした意匠に対して、非常に賑やかになっていることも注目される。(p.2.09-211)


清華亭の意匠についてのコンパクトな解説だが、私があまり今まで気づかなかった点がいろいろと指摘されており興味深かった。

上記解説文については、まず、「開拓使洋風建築」というカテゴリーを用いていることも新鮮に感じた。特にこれを前期や後期と分けているのには少し驚いた。というのは、開拓使が置かれてから廃止するまでの期間は、明治2年(1869年)から明治15年(1872年)しかなく、12-13年の中で前期や後期と分ける発想を私はしたことがなかったからである。しかし、考えてみると、洋風の技術やデザインが次第に流入してきた時期であるから、多くのことを当時の建築家(大工など)は学んでいたということを考えると、期間が短くても変化を捉えることができる面もあるかも知れない。

昭和初期頃までの豪邸は、多くが和洋折衷というか和様接合の構成であるが、和様接合の構成例として清華亭は最も早いものの一つであるという指摘もなるほどと思わされた。北海道以外の地域ではこうした構成がどのように展開していたのか、といったことも含めてもっといろいろなものを見ていきたい。

清華亭のベイウィンドウについて、格式化・様式化への志向を示すという理解は、実物を見た時には気付かなかった点であり勉強になった。ベイウィンドウという様式化されたデザインを採用することで、格式の高さが演出される面がある。ベイウィンドウのな清華亭を想像すると、外観も現在のものより平板なものとなることが容易に想像できる。



ここは駅の裏手にあって労働者や低所得者が残されたこの空地に押し寄せた。北九条小学校や全市一の児童数をもち、かつ東小学校と共に“貧乏学校”などといわれた。「貧乏人の子沢山」の意だろう。
 その子たちの遊び場は、偕楽園付近と北大構内などであった。……(中略)……。
 大正7年には開道50年の喜びを迎え、大博覧会が催された。この機会に多くの人は札幌見物に集まり、やがてはここに住みたいと思い、あるいは将来を見越して土地買いを試みる人などが続出した。この期に土地は細分化され、あるいは河川敷のようなところにも人家、自給畑が開かれた。ことに資産家の山本、伊坂などが狭い道路沿いに偕楽園廉売市場を設けて小売商人に賃貸した。これがいよいよこの地区に人家を密集させる誘因となった。
 遊び場は人家に占領され、数年前のローンは姿を消した。子供たちは清華亭のスロープを駆け上り駆け下りた。やがて赤土が露出し、その下に東西の街路が設定され、大正14年には市街割りが施された。清華亭は数百坪の一角に押し込められ、北7条西7丁目という地番を以て示され、偕楽園という旧名も人々から遠いものとなった。(p.220-222)


大正時代の清華亭の付近の状況を伝えている。低所得世帯の子供たちの遊び場だったものが、投資家や資産家たちの思惑によって遊び場すら奪われていったという見方が示されている。当時住んでいた人の目線で、清華亭も現在のような狭い地域に閉じ込められるに至ったという経過を伝えいる点でこの周辺の記事は貴重な記録と思う。

こうした荒廃の後、昭和初期に国家主義と結びついた運動により保存が進められていくという流れも押さえておきたい。



 また伊藤亀太郎邸内の湧水などから流れてきたサクシュ琴似川は、線路の下、煉瓦のめがね橋の下(北6西8)を流、それが偕楽園、清華亭のあたりを経て、北大に入っていた。偕楽園には大小の池があり、遊園地のような風情も残っていた。めがね橋付近では毎日婦人の洗濯姿も見られ、その水は清く冷たくて、長くは入っていられなかった。北九条小学校の生徒時代(大正2年~8年)は、それでもよくトンギョやザリガニを取って遊んだ。五年生の頃、この川で大きくて長い八ツ目うなぎを手づかみで捕えたことを今なお覚えている。
 この川や池の水も28年前、即ち昭和27年にステーションデパートが開設され、その地下工事等のため、急にストップされてしまった。その後川や池の跡地は埋められ民間に利用されている。(p.230-231)


札幌駅の開発がサクシュコトニ川を枯れさせてしまい、今では川や池の跡地も埋められているということが分かる。こうした変化に対して当時の人々はどのように反応していたのだろうか?政府や札幌市などに対して働きかけたりはしなかったのだろうか?



 堅実で奇を求めぬ性格は、開拓使の洋風建築に一貫している。模範家畜房で伝えられたように、目に見えない構造や、新しい技術に対しても、安達をはじめとする開拓使の建築家たちは精魂を込めてとりくんだ豊平館が生みだされるまでには、こうした洋風建築修得の数年にわたる努力が積みかさねられていたのである。(p.248)


開拓使の建築」という見方には、組織に蓄積された知見というものを捉えられるという面もありそうだ。



札幌市教育委員会 編 『さっぽろ文庫15 豊平館・清華亭』(その1)

 この明治23年は、国会が開設された年である。国会が開かれると同時に、藩閥政府の批判の声が次第に高まり、薩摩藩閥を主とした永山行政は大きく揺らぐこととなった。明治24年5月、松方内閣は三代目長官に渡辺千秋を任命した。渡辺は薩閥一掃を図り、とくに薩派の本拠ともいわれた北海道炭鉱鉄道会社の革新を進め刷新の実を挙げた。(p.19)


北海道長官が永山武四郎から渡辺千秋に替わった背景には、国会の開設と、それに伴う藩閥政治への批判があったという指摘はなるほどと思わされた。北炭も明治期の北海道の歴史を考えるにあたっては要となるものの一つであり、ここで指摘されているような政治的背景を理解しておくことは重要と思われる。



6年満州事変勃発、7年満州国独立。この年三越札幌支店開業、8年には国際連盟脱退の詔書が渙発され、7月には非常時国民運動協議会が開かれるなど一気に緊迫の度を加えて行く。このあわただしい状況のなかで、この年11月明治天皇行幸ゆかりの施設は聖蹟と指定され、札幌市では豊平館、清華亭が史蹟として、史跡名勝天然記念物法により文部大臣指定とされた。(p.25-26)


1930年代の戦時体制への移行と国家主義の高揚を目論む動きと聖蹟指定とは連動していると押さえるのがよいだろう。こうした政策は、全体としては否定的に評価されるべきだが、「聖蹟」に指定されたことによって戦時も保存されたため、歴史的遺産として保存されることにも繋がっていったという一面もあると私は理解している。



 昭和22年2月、新学制として採用された6・3制。24年6月公布の教育刷新審議会、社会教育法などによる戦後社会教育の推進は、豊平館の公民館機能を高めさせた。豊平館は整備され23年2月に札幌市公民館として再出発し、24年9月には札幌市民会館と改称、社会教育機能はさらに活発に動き出すこととなった。
 25年には国からその敷地4,922坪が払い下げられた。そして、その機能を十分に生かすための近代設備を整えた新しい札幌市民会館建設のためと、明治時代の洋式木造建築物としての代表作でもある豊平館の保存のために、豊平館を中島公園に移設、そのあと地に市民会館建設を決定し、昭和32年2月19日、豊平館の解体式が行われた。(p.27-28)


2008年に建て替えられた札幌市民ホール(現在はわくわくホリデーホール)の場所にあった市民会館は昭和33年(1958年)にできたものだった。この時、この地にあった豊平館が中島公園に移築された。

その歴史的背景として、公民館機能に対する社会の需要があり、それを民主的な社会教育が後押ししていたことも挙げられる、と私は理解した。

ちなみに現在の日本の右派ないし保守派が教育を改革すべきと発言することがしばしばあるが、その際に6・3制(6・3・3制)をやめて柔軟な体制にすべきだ、などと言われることがある。しかし、その理由を訊ねても説得力のある回答は見受けられない。その理由は、彼等の目的は戦後まもなく決められた制度を自身の手で壊して書き換えていくこと自体にあるからであろう。そして、それは「押し付け憲法論」のような悪質なイデオロギーを根拠として「自主憲法制定」を目指す考え方と全く同じ発想であるということは指摘していてよいだろう。

なぜ右派・保守派とされる人々は、教育や憲法に対してこうした同じ反応を示しているのだろうか?彼らは民主的なものや個人の権利・人権というものに対して嫌悪感を抱いており、それは突き詰めると権力者を縛るからである、と見れば、彼等の打ち出す政策を整合的に理解することができる。(例えば、自民党の憲法草案を見れば、現在の憲法よりも個人の人権を制限し、政府の権限が大幅に増えるようになっていることは容易に見て取れる。)



 この敷地は、最初、西南戦争で没した屯田兵の招魂碑を設置する地所として、決定していた。が、洋造旅館の計画に当り、「庁下の中央に位置し、滞在客の開拓使庁や市街への往復に便よく、かつ、胆振川の河流を敷地内に導けば、庭前に泉池を設けることができ、旅館建築に必適の場所」であるため、明治11年10月1日、屯田事務局が工業局へ譲ったものである。なお、招魂碑は、清華亭構内の西南隅に建立された。(p.62)


豊平館が建てられた現在の北1条西1丁目の土地についての記述。確かに市街の中心と創成川の両方に近い。



 豊平館が中島公園に移築されたのは昭和32年で、それによってその由緒深い歴史的な生命は失われ、単なる文化財としての建築上の価値だけしか残らなくなった
 もし創建された昔の姿のままで、北一西一の地に、原始林を背景として今日まで残存していたならば、時計台とともに、札幌開発の象徴として高く評価され、市民からは貴重な存在として崇められたり、親しまれたりして、大きな意義と価値とをもたらしていたに違いない。(p.165)


豊平館の移築に対する一つの評価。本書は複数の著者によりかかれているので別の評価をする者もいるが、こうした評価にも一理ある。

歴史的建築は、その土地にあってこそ価値が高まるというのは一般的に言っても全くその通りであり、豊平館については札幌の開拓初期の象徴となっただろうことも同意見である。とはいえ、中島公園に移築したからこそ現在でも建築だけは保存されたという一面もあったように思われる。昭和33年と言えば札幌が急速に大きくなり始めた時期であり、日本全体としても60年代の高度成長期に入る頃であり、その頃の考え方に照らせば、比較的大きな敷地と共にある木造2階建ての建物はある意味では邪魔者扱いされる危険が高かった。(時計台は市内中心部に残っているが、これも曳家で移動している。)そうしたリスクを避けられたという意味では移築にも一理あったのではないか。

また、引用文には、「原始林を背景として」とあるが、そうした環境を含めた保存は札幌の中心にあることに照らすと現実的ではないように思われる。だからこそ時計台なども、その歴史的な意義を認識できない場合、観光地としてガッカリする人がいるところとして紹介されてしまうのだと思われる。確かに時計台と豊平館が近接して残っていれば、そうしたガッカリを減らすことができるような相乗効果は多少期待できるかもしれないが、戦後の札幌の急速な都市化の進展を考えると、そこまで理想的な展開を期待できないと感じる。

豊平館はつい最近、保存修理工事を完了し再公開されたので、訪れた上で改めてこうした移築に関する問題について考えてみたい。


深見奈緒子 『イスラーム建築の世界史』(その3)

 王の広場(図5-6)の南辺を占める王のモスクは、ティムール朝のビービー・ハーヌム・モスク(図4-5)を継承しながら、いくつかの改良を見せる。まず、入口から前室に入ると、突然軸線が135度振れる(図5-7)。キブラ方向と広場の方向の調整の工夫が、ダイナミックな空間演出と化す。加えて、聳える対のミナレットが、入口前と主礼拝室前に置かれ、設置面の角度がずれているため空間に躍動感を与える。主礼拝室は二重殻ドームを冠し、外殻ドームは風船のように空へ浮かび上がり、内殻ドームはびっしりとアラベスク文様で埋め尽くされる(図5-8)。外殻ドームのボリュームはティムール朝建築にはみられない膨らみだ。モスクの中庭からその奥両隅に挿入されたマドラサの中庭への連続性が、中庭空間をより広く感じさせる。
 すなわち、人間が歩みを進めることによる視点の変化に対応する建築となっている。(p.178-179)


この王のモスクはペルシア様式の集大成とも言える建築だが、イスラーム建築全体としても最高傑作の一つと言って間違いないと思う。このダイナミズムは確かに実際に行って体感した感覚と一致する。



 1750年を超えると、イスラーム建築が西洋建築をもっぱら取り入れると従来は説かれてきた。しかし、タイルや後述するドームという個別要素を見ると、ヨーロッパとイスラームの影響関係が17世紀に活性化し、イスラーム建築での蓄積を基礎にしヨーロッパの発展が顕著となっていったようにみえる。(p.199)


なるほど。建築史では未だにヨーロッパ(西洋)中心主義的な歴史観がまかり通っている感がある(少なくとも一般向けの書籍等では)ことを考えると、こうした指摘は重要である。



 さらに地中海世界の西、ヨーロッパではドームが中心的課題となり、新たな形を生んだ。ミケランジェロのサンピエトロ寺院のドームをはじめ、ルネサンス建築はドームに大きく傾倒した。ルネサンスは古典への回帰を目指したものではあるが、ギリシア建築に大ドームはない。ローマ建築でも円形平面に大ドームを載せたパンテオンは現存したが、浴場などのドームはすでに崩壊していた。ルネサンスのドームの直接の手本となったのは、オスマン朝のドームをはじめとするイスラーム建築において展開したドームだったのだろう。この時代、地中海世界を越えて、ペルシア世界からも二重殻ドームという技法を学び、続くバロック時代には楕円ドームなど世界に類のない新種を生む(図5-61)。この推進力を見れば、建築においても、西洋とイスラームの、活力における優位が交代する予兆を読み取れよう。(p.201-202)


なるほど。非常に興味深い仮説である。確かにいわゆる古典古代(ギリシア・ローマ)の遺構にはドームが(ほとんど)ない。オスマン朝などの影響を受けていることは十分考えられる。資料として何か根拠となるものはあるのだろうか?



 従来の囲郭都市ではなく、近代的な庭園都市の道を選び、しかも歴史的蓄積のある旧市街を共存させ、市民は両者を受容するという状況が創出されたのだ。イスファハーンは、バロック都市、近代のガーデン・シティー、現代の旧市街の保存を先取りする存在であったといえよう。(p.211)


確かに、イスファハーンの都市計画は独特なものがあり、それ以前のイスラームの都市とは構成が異なるとは思っていたが、言われてみれば、ここで言われているようなものとなっているように思われる。



 手法を意味するマニエリスム、歪んだ真珠を意味するバロック、庭園の岩組みに由来するロココとは、19世紀に生まれた呼称で、それぞれ、正統的な古典主義からの変容・離脱を意味する。変容の様態として、ドームに多様な幾何学性がみられること、さらに劇的な広場の演出や幾何学庭園への傾倒などが語られる。実は、これらは本章で詳述したイスラームの建築で培われた技法や様式と同様な傾向を示している。シナン設計の一連の大ドームモスク、庭園都市イスファハーンの王の広場とチャハール・バーグ大通り、ムガル朝皇帝たちの墓建築などを考えると、イスラーム建築からの影響によってこれらの変容が引き起こされたと考えてもよいのではないだろうか。(p.218-219)


なるほど。マニエリスム、バロック、ロココのいずれも同じ方向性で正統的古典主義からの変容・離脱を示しているというのは、確かにその通り。3大帝国のイスラーム建築と共通の傾向というのもなるほどと思わされる。ただ、影響関係については、何か根拠を提示してもらえるとよいのだが。



 19世紀になると、フランスやドイツによる古代ペルシアの遺跡の考古学研究が進み、20世紀パフラヴィ―朝の時代になると、サーサーン朝のイーワーンをモチーフとしたテヘラーンの国立博物館や(図6-20)、キュロス大王の墓をモチーフとしたフェルドーシー廟などが建設され、考古学の成果がナショナル・アイデンティティー構築に用いられた。(p.246)


テヘランの国立博物館とフェルドゥシー廟のいずれも行ったことがあるが、なるほどと思わされる。

特に国立博物館の巨大なイーワーンの圧倒的な迫力は、「国家」の威容を示そうとする意図が非常によく表現されていたと思う。フェルドゥシーもナショナル・アイデンティティーと結びつけられていえるとは聞いていたが、その廟がキュロス王の墓をモチーフとしていたとは知らなかった。また行ってみたいものだ。



 カイロのリファーイー・モスクは、先に述べたエジプト総督イスマーイール・パシャの母の発願によって、14世紀のマムルーク朝のスルタン・ハサン・モスクに向かい合う形で建設が始まる(図6-25)。総督の死による工事中断の後、スルタン・ハサン・モスクに比肩するマムルーク様式で完成されるが、それを成し遂げたのはハンガリー人建築家であった。彼は西洋で紹介されたマムルーク朝様式の研究に基づいて細部にまでこの様式を貫徹させた。20世紀のエジプトにおけるモスク建築にマムルーク様式が選ばれたのである。(p.249)


リファーイー・モスクとスルタン・ハサン・モスク(マドラサ複合体)が相並んで聳え立つ様は、イスラーム都市の中では稀な高層都市カイロの様相を象徴するかのようであるが、これをハンガリー人建築家が建てたとは知らなかった。ハンガリー人の手によるマムルーク朝様式の選択には、この時代のナショナル・アイデンティティの高まりとそれがイスラーム世界より先に高まりつつあったヨーロッパとの関係が表れているように思われ興味深い。



深見奈緒子 『イスラーム建築の世界史』(その2)

 マムルーク朝のエジプトの場合は、15世紀に土着の地方色が盛り返してきたのに対し、オスマン朝の場合は、ビザンティン建築からの影響、とりわけコンスタンティノープル攻略後に名建築ハギア・ソフィアをモスクに改修した経験によって、15世紀以降ペルシア様式から次第に脱却していく。(p.141)


15世紀頃のペルシア、エジプト、アナトリアにおけるイスラーム建築の様式の変化をペルシア様式を基準として図式化すると、ペルシアではペルシア様式が深化して完成へと向かい、エジプトではペルシア様式から土着的伝統へと回帰し、アナトリアではビザンティン建築の伝統を選択することでペルシア様式から脱却する、と図式化できる。

このあたりの整理は、私自身、エジプト(カイロ)、ペルシアから中央アジア(特にイスファハーン、シーラーズ、サマルカンド、ブハラなど)、そしてイスタンブールで、イスラーム建築に注目して旅をしたことがあるため、非常に説得力を感じ、実際に見聞したものが統一的に把握され直すという経験をひき起こしてくれた。



 インド全体として留意せねばならないのは、各地における墓建築の発展である。基本となるのは第二章のサーマーン廟(図2-25)のようなキャノピー墓ではあるが、インド特有の形態が生まれてくる。数本の柱の上にドームを載せる形態、あるいは墓室を周廊で取り囲む周廊墓である(図4-33)。12柱式プランや一回り大きい28柱プランにドームを載せた墓の周囲に多重の周廊を設けるようになる。特にデリーでは、岩のドーム以降類例の少ない八角形周廊墓が、14世紀末から次の時代のムガル朝に至るまで引き継がれた(図4-34)。ヒンドゥー教における祠堂の周囲を回る儀式、あるいは開放的な列柱建築である前殿(マンダパ)がこうした墓建築に影響を与えているのかもしれない。(p.148)


確かにデリーでこうした墓建築を多数みた(特にデリー南部は墓建築の宝庫であった)。



 なぜ、これほど各地でムカルナスが好まれたのだろう。一説に、イスラームの原子論的宇宙論、すなわち宇宙は微細な原子から成り立つという説を、建築的に表現したものであるとする。ムカルナスの醸し出す陶酔的雰囲気は、ファナー(神との合一)に至る空間演出として神秘主義の興隆とも深く関係したといわれる。
 また、この時代を特色付ける地方文化の再生・再興の流れにも関係があるかもしれない。地方色を前面に打ち出そうという意識の一方で、当該建築がイスラーム建築であるとの表象を何らかの形で残す必要性があり、その道具の一つがムカルナスであった可能性が考えられる。多くのミフラーブがムカルナスで飾られていることからも、これがイスラーム装飾において必ず使われるコーランの聖句を刻んだアラビア文字の碑銘、あるいは高度な幾何学文様や抽象的なアラベスク文様(様式化された植物文様)と比肩する重要な要素であったことが推察される。ムカルナスのもつ幾何学性、アーチ小曲面の使用、幻惑的な空間効果などが入り混じった特殊な造形が、イスラーム建築の共通言語としての効力を発揮したのではないだろうか。(p.153)


確かに「イスラーム建築」と言えばムカルナスが最初に思いつく要素の一つであるし、初めて見た時のインパクトの強さは強烈だった(恐らくそう感じる人は多いだろう)。

地方ごとに独自の特色を発揮していき、共通の様式がなくなっていく方向へ向かっているからこそ、むしろ、イスラーム建築というアイデンティティ――このような意識が当時の建築家や施主にあったかどうかにはやや私は懐疑的だが――を示す必要が高まり、そのための有力な要素の一つがムカルナスだった、というわけだ。なるほど。そうかもしれない。説得力を感じる。

「イスラーム建築の共通言語」という用語も興味深い。他にどんな要素があるだろうか?と、考えると面白い。



 ティムール朝期の代表的ドームとして、ドラムに内側ドームを入れ込み、その上に支持板を介して外側ドームを構築する極端な二重殻ドームを挙げることができる。しかし、それへの変容は、現存実例から見ると、14世紀後半のわずかな期間に集中する。それ以前の二重殻ドームは、スルターニーヤのオルジェイトゥ廟(図4-8)の例に見るように、重量軽減の目的をもっていた。内側ドームと外側ドームの極端な乖離は、14世紀半ばのイスファハーンのスルタン・バフト・アガー廟(図4-41)、コニヤ・ウルゲンチのトゥラベク・ハーヌム廟(図4-42)が現存最古であり、サマルカンドのシャーヒ・ズィンダにある1385年のシーリーン・ビカー・アガー廟が中間的な存在で、1390年代のトルキスタンのアフマド・ヤザヴィー廟(図4-9)やサマルカンドのグーリ・アミール廟(図4-43)では鶴首形ともいえるような二重殻ドームが完成する。しかしカイロには、すでに1360年代にティムール朝の二重殻ドームのほぼ完成形を見せる例がある(図4-44)。ただしカイロでは後続例がなく、高いドームの内側が井戸底のような単殻ドームとなる。
 これら一連の事象は二重殻ドーム技法史を表し、その後の事例からもペルシアに二重殻ドーム技法の中心があると考えられる。それでは、ティムール朝の二重殻ドームの起源はどこにあろうのだろう。そして、前述のいくつかの事例はどう結びつくのだろう。
 ペルシアの北、カザフスタンからウクライナ一帯は、14世紀にはジョチ・ウルスの領土であったが、今ではその遺構は残らない。一方、カイロのマムルークたちは、中央アジアやカフカス出身のトルコ系の人々であった。
 木造のロシア正教会の教会堂には、風変わりな玉葱形ドームが多い(図4-45)。玉葱形ドームの最初の例は明らかではないが、すでに10世紀からギリシア十次式教会堂の中央屋根には、高いドラムの上にドームが載り(図2-53)ロシア正教会としては12世紀の例が残る。小型ながらバリエーションの多いロシア正教の木造ドームが、ジョチ・ウルスの建築に影響を与え、木造と組積造の両方で二重殻ドームの技法が試されていたと考えられないだろうか。とすれば、14世紀後半に、ペルシアとカイロに極端な二重殻ドームが同時の存在するという事象は、すでにジョチ・ウルスで試された形態がもたらされたからと考えられる。(p.157-159)


本書には数々の興味深い仮説が提示されているが、その中でも私にとって最も興味深かったものの一つがこれであった。

特にマムルークたちの出身地を考慮に入れることで、エジプト(カイロ)と中央アジアが結びつくというあたりは、仮説ではあるにせよ、なるほどと思わされた。

なお、この仮説に興味を惹かれた理由としては、ロシアのドームとイスラームのドームの関係について、以前、疑問に思ったことがあったことも理由のひとつだろう。玉葱形のドームはロシアの他、インドにもあるが、これらはどういう関係にあるのか?この問いについても、本書にはヒントがある。ロシアは玉葱形ドームの古い歴史があり、インドにはドームを扱う文化が比較的最近までなかった、ということである。伝播があるとすればロシアからインドであり、その逆ではなさそうだ、ということになる。



 キリスト教建築との関連による技法の進化は、アーチ・ネットにも現れる。アーチ・ネット自体は、144頁で述べたようにマグリブの起源ながら、13世紀後半のターザのモスク以降、西方世界からは姿を消す。一方、12世紀前半にペルシアに導入された時、アーチ・ネットは天井に多く使われていたが、次第に、移行部に使う、二重にする、井桁状にする(図4-47)、などさまざまな事例を発展させ、ティムール朝期には、移行部の技法の主流としての位置を占める。その影響は、ティムール朝の領域を超え、オスマン朝のチニリ・キョシュク(図4-46)や先述したインドのバフマン朝(図4-13)へも波及する。
 こうした中で、先述したティムール朝の室内と外観が極端な乖離を見せる二重殻ドームが成立すると、次第に天井が低くなる。その一方で、井筒状のアーチ・ネットを用いることによって、室内が広くなる(図4-47)。この井桁状のアーチ・ネットは、14世紀のアルメニア教会の前室(ガヴィット)に使われている。アルメニア建築は、アナトリアのイスラーム建築からムカルナスを取り入れる半面(図3-44)、井桁状のアーチ・ネットを中央アジアのティムール朝建築に与えたのであろう。このように、今までは建築史を宗教別に考えることで相互関係に十分な考察が加えられてこなかった技法もあり、宗教を超えた観点に立つことによって、さまざまな交流が浮き彫りになる。(p.159-160)


こちらも大変興味深い。アーチ・ネットひとつとっても、使用される場所や技法が様々に変化していくことや、二重殻ドームの成立と井桁状アーチ・ネットを移行部で使用することとの相関も非常に面白い。



 ルネサンス時代のイタリアが求めたのは、ロマネスク、ゴシックという段階的な発展からの方向転換だったのではないだろうか。そのアイディアの源泉として古代回帰が試みられたと考えると、イスラーム建築がモンゴル帝国崩壊後、それぞれの地でペルシア風からの脱却のために地方回帰の道筋をとったことと、類似性が浮かびあがる。それぞれの地の建築において、自己アイデンティティーを主張し、それまでの流れとは一線を画する風潮が導かれたのではないだろうか。(p.165)


イタリアにおけるルネサンスの動きと、モンゴル帝国後の各地域との動きの共通性についての指摘。13世紀世界システムが瓦解したことによって、各地域がそれぞれの伝統を発見・再創造していったという流れ自体は概ねそのとおりであるように思われる。ただ、イタリアの人々がゴシックをどの程度意識した上でルネッサンス様式を採用したか、という段になると、著者が言うほどの影響があったかどうかは疑問に思う。



 日本建築史で、屋根と天井が大きく乖離し、いわゆる本堂建築を高く覆う甍のような高い屋根が鎌倉時代に構築される。禅宗様式では深い軒を支える斗栱が構造体ではなくなり、細かく密になっていく。イスラーム建築史では、モンゴル帝国以後ムカルナスが躯体から乖離することによって装飾性を増し、14世紀後半には極端な二重殻ドームが成立する。イギリスやドイツの後期ゴシックでは、本来構造を担ったリブが細密化し複雑な意匠を見せる。従来、構造と装飾は一体であったのに、この時代、構造から生み出された造形が構造から切り離され、装飾へと純化していく。なぜ、遠く離れたところでこうした共時的事象が生じたのだろう。(p.165)


本書では構造美の時代から装飾美の時代へと転換があったとする。なかなか興味深い見方ではある。ただ、装飾美の時代とされる時代に構造美が軽んじられたり脇役となったとまで言えるような変化があったかどうか、検証してみたいのだが、現時点での私の力量と時間的余裕からしてすぐにはできそうにない。もし、構造美の追求が続いているのであれば、装飾美へと転換したのではなく、それは付け加わったものということになり、意味が変わってくるように思われる。



 モンゴル帝国が瓦解し、15世紀になると、イスラーム建築においてはペルシア風の流行から脱し、地方文化へ回帰する現象が見えてくることを述べた。各地の建築文化が地方様式を加味した定形化の時代に入り、効率性を担保する量産化、複合建築による壮大性などが主眼となっていく。こうした現象はイスラーム建築に限らず、中国の明時代の宮殿や寺院建築、インドのヒンドゥー建築、西洋のキリスト教会堂にも共通するように思われる。比較建築史的研究が期待される時代であろう。(p.166-167)


確かに、明の故宮や仏教寺院は複合建築による壮大性があるように思われるし、建物の配置などにパターンがあり、これは定形化と見ることもできそうである。インドと西洋の事例については、あまりすぐに浮かばない。ルネサンス建築の合理性は、効率性に繋がりそうにも思われるが、どうなのだろう?

各地の地方回帰は、定型化や効率化・量産化、複合による壮大化といった現象も伴うという指摘は、なるほどと思わされるだけの合理性がある。ただ、これだけ世界中の建築で時代も15世紀ころと限ってしまうと、私の関心が比較的薄い時代であることもあり、なかなか具体的なものが次々とは出てこない。もっと勉強したい。



深見奈緒子 『イスラーム建築の世界史』(その1)

 ユダヤ教の建築は、その後の歩みを見ても、定形をもたず、さまざまな建築文化に依拠していく。ただし、聖櫃を納める場所と説教壇はどのシナゴーグにも設置される。イスラーム建築がモスクの奥壁に仏像や神像のようなものを置かず、メッカの方角を指し示すミフラーブ(壁龕)と、宗教指導者が説教を行うミンバル(説教壇)を置くことは、シナゴーグに学んだ可能性が高い。また、シナゴーグとモスクが、信徒たちの集会所である点も共通する。(p.4-5)


モスクがシナゴーグから深く影響を受けている可能性というのは、確かに、ムハンマドが生きていた頃のメッカやメディナなどの状況からしても大いにありうることと思われる。



(引用者注:ムハンマド)が生きているころは、大きな石を置き、壁に槍を立てかけて礼拝の方角を示していた。礼拝の方角のことをキブラ(向かう方向)と呼び、7世紀にはキブラ側の壁(キブラ壁)に木の絵を描くこともあった。8世紀にはモスクにおいて礼拝の方角を示すミフラーブ(図2-40)が確立する。ミフラーブはアーチ形で、キリスト教会堂のアプスや、シナゴーグのニッチが手本になった(図1-3、5)。
 ムハンマドは三段の踏み台に腰かけて信者たちに説教を行った。これが起源となり、8世紀ころまでにミンバルが確立する。その過程には、シナゴーグの説教壇や教会堂の聖職者席などからの影響が考えられる。……(中略)……。またミナレットの成立にも、灯台やキリスト教会堂の鐘楼が大きく影響した。(p.19-20)


確かに、私も教会堂の聖職者席とミンバルの類似性や影響関係について思いついたことはあるし、鐘楼とミナレットの類似などにも何度も思い至ったことがある。

本書は上に引用した類の仮説が多数提示されている。しかし、残念なのはそれを検証まではしてくれていないことである。この場合、検証ができるのは専門家だけであり、素人と専門家の最大の違いはここにあると言ってもよいのだが、残念ながら一般向けの本ということもあり、この点に関する掘り下げには物足りなさを感じる。



 11世紀以降、イスラーム教の墓建築ではキャノピー墓と墓塔が各地へと広まり、モスクのミナレットも西アジアでは断面が円形になり、さらに高くなる。アジア各地に伝播した仏教建築においても塔建築が盛んになり、日本でも木造の塔が数多く建てられる。インドのヒンドゥー教でも本殿の上にたつ塔(シカラ)が強調される。ボロブドゥールやアンコール・ワットを加えると、9世紀ころから12世紀ころまで、このような塔文化が宗教を超えて、東アジアから西アジアまでアジア一帯を包んでいた。塔の思想の背景には、天を希求する思想があり、こうした思想が12世紀のフランスでゴシック建築を生みだす原動力となったのではないだろうか。イスラームの墓建築やミナレットもその一端を担う存在として位置付けられよう。(p.46-47)


なるほど。9~12世紀頃に、ユーラシア各地で高い塔が建てられたというのは興味深い。本書は天を希求するという思想的なものがこの背景にあるとするが、私は少し違った見方である。すなわち、このあたりの時代は「13世紀世界システム」のグローバルなリンケージが確立へ向かう途上の時代であり、各地のヒト・モノ・カネの結び付きが次第に強くなっていく時代であることから、都市化が進み、富裕層の富が増していく時代だったと理解する。そのようにして都市に集中しつつあった富と権威を誇示する手段として高い塔が好んで建てられた、ということではなかろうか。



 初期の仏教文化においては、釈尊の骨を納めたストゥーパが人々の崇敬を集め、饅頭形で内部空間をもたない建造物であった(図2-61)。2世紀ころにはストゥーパと共に仏像を崇拝するようになる。ストゥーパも小型化し、建造物の中に祀られるようになり、ストゥーパや仏像を祀るチャイティヤ(祠堂)が造られる。ストゥーパはやがて塔の形に姿を変え、日本の仏塔では屋根の頂部に付く伏鉢となる。
 仏教寺院においては、ストゥーパや仏像などの崇拝の対象を納める建築と同時に、出家した僧侶たちが暮らす建築が必要であった。前者のチャイティヤに対して後者をヴィハーラ(図2-62)と呼び、日本では僧坊という。中庭や石窟の広間の周りに小さな部屋が並ぶ。次章で新たなジャンルとして、マドラサについて述べるが、マドラサ建築の成立には仏教の僧院建築(ヴィハーラ)が影響を与えたとされる。
 一方、仏教を圧倒したヒンドゥー教の建造物(図2-63)は、日本の神社のように、御神体を奉納する本殿(ガルバグリハ)とその前殿(マンダパ)という構成をとる。古代ギリシアの神殿建築も同様で、神の宿る場所の作り方の共通する形の一つかもしれない。本殿の上にはシカラ(塔)が建ち、周りを巡る形式も現れる。また、本殿と前殿の間にいくつかの部屋が挿入されていく点も、日本の神社建築とよく似ている。最初は石窟や石彫だったヒンドゥー寺院は、石積寺院に収斂し、シカラに地方色が現れるようになる。(p.66-67)


ストゥーパが日本の仏塔になったというのはよく言われるが、五重塔のような塔自体というより、その屋根の上についている金属製のポールのような部分がそれである。

マドラサは中庭を持ち、周囲に部屋や大空間を置くチャハール・イーワーン形式の建築として普及していくが、単に中東の風土の問題というだけでなく、仏教の僧院建築の影響もあったというのは興味深い。

ヒンドゥー教寺院と日本の神社建築の構造の類似性については、私もインドでヒンドゥー教寺院の実物を見てきた後で気付いたが、南アジアから東南アジアにはある程度深く影響しているが、その外の世界からはやや隔離されたイメージを持たれるインドの建築が、実際にはいろいろな建築文化の地域と影響関係にあったり、共通の形式を持っていたりするというのは大変興味深い。



 ロマネスク建築とゴシック建築は、いくつかの道筋から、イスラーム建築と関係をもつと考えられる。10世紀にアンダルシアに発生したアーチ・ネット(口絵3、図2-14)は、ペルシアへと伝わった(図3-25)だけではなく、ロマネスク建築にも、アーチ・ネットに類するリブを用いてドームを構築する実例がある(図3-42)。特にイベリア半島のモサラベ教会堂や南フランスのロマネスク教会堂の交差部のドームなどに顕著である。また、この時代に西欧一帯で流行した四分ヴォールトや六分ヴォールトは(図3-41)、区画の対角線にアーチを交差して架けるので、アーチ・ネットの変種とみなすこともできよう。建設時に構造的なガイドラインとしてアーチ形のリブを用いることによって、見栄えも施行度も高くなるようアーチを交差させるという点が共通する。構造的な工夫から生まれたものが、意匠的な美しさに転化して発展を遂げるのである。アンダルシアからのアーチ・ネットの波が、西欧のロマネスク建築やゴシック建築を生む誘因の一つとなったのかもしれない。アーチを交差させる造形は、ロマネスク建築の回廊部分や西正面にも好んで用いられ、交差する半円アーチが、続くゴシック建築で支配的となる尖頭形アーチを生み出した。(p.106-107)


興味深い仮説ではある。ただ、この時代の建造物が、本書の指摘する通り構造美を特徴とするのだとすれば、必ずしも直接的な影響関係がなくても並行的に生じたと考えることもできるように思われる。そのあたりをどのように検証・反証していくのか興味が惹かれる。



森沢初 『ペルシア絨毯の世界』

壺=水=生命としての象徴性は、そこに植物を加えることで一層明白になる。(p.136)


ペルシア絨毯やイランのモスクのモザイク・タイルの装飾やモスクの壁の彫刻などに壺のデザインがしばしばみられる。一見するとスタティックなものではあるが、象徴的な意味としては生命力の源みたいなものとして捉えた方がよいということか。



「キリスト」という言葉自体が、ギリシア語で「油塗られし者」を意味することからもわかるように、油を塗ることは特別な意味を持っていた。それは勿論、中東から地中海沿岸地方にかけての乾燥した気候と無関係ではない。(p.137)


なるほど。確かに、日本のように湿度が高い地方では油を塗らないか、塗るとしてもあまり心地よいものでもないかもしれないが、乾燥地帯ではまったく違っているだろう。



 その一方で、古代・中世のペルシアには見かけなかった龍や麒麟などの聖獣が、16世紀以降ペルシア絨毯に加わった。これらは中国で生まれた伝説上の動物であるが、龍はそれに相当するものがイランにも存在しなかったわけではない。ペルシア神話の中で、英雄の多くは龍と闘い、これを打ち負かす。このペルシアの龍の祖先を訪ねて行けば、おそらくバビロニアのティアマトに辿り着くであろう。ティアマトは英雄マルドゥクに倒される。この物語が西に伝わって生じたのが聖ジョージと龍(ドラゴン)の伝説とされている。バビロニアから出発してヨーロッパに至るまで、龍は終始悪のシンボルであった。ペルシアでも同様で、龍はいつも正義の使者にやられてしまう(図12)。(p.147)


中国では龍は全く異なった位置づけとなり、西洋や中東のドラゴンとは全く別物と考えた方が良いだろう。マルドゥクとティアマトが聖ジョージとドラゴンの伝説に繋がるというのは、なるほど、という感じだった。そして、イランにも同じような物語があるということもあわせるとさらに興味深い。