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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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李乾朗 『台灣近代建築 起源與早期至發展 1860~1945』

 在1911年以前的臺灣近代建築為樣式建築之全盛時期,其中以郵局及縦貫鐵路之車站為最多。(p.44)


1911年以前の台湾近代建築は様式建築の全盛期だったが、その中でも郵便局と縦貫鉄道の駅が最も多かったということだが、郵便局と駅というのは、まさに通信と交通のインフラの整備が進んでいた時代だったことを反映していると思われる。その時期はまだモダニズムが流行する前の時期だった、ということだろう。



1911年台北市發生前所未有的大水災,街屋倒塌不計期數,尤以府前街(重慶南路)、石坊街(衡陽路)、及府直街(開封街)嚴重。日人當局遂利用這個機會從事街屋的全面改建。(p.92)


1911年台北市で多くの家屋が被害を受けた大水害の機会を利用して、日本当局は全面的に都市計画を策定していった。台北の成り立ちの歴史という点ではこれは一つの転換点だった思われる。



 至於本島人居住區迪化街一帶的街屋雖也在這時完成立面改建,但與城內的日本商店建築卻呈現不同的風格。看起來比較接近清末五口通商之後的樣式風格,有事略带一點拜占庭裝飾之意味。這是非常有趣而值得深入研究的分野。(p.92-93)


1911年の水害の頃、日本人の居住エリアはバロック的な都市計画によって建て直され、清末の頃の家屋が取り除かれることとなったのに対し、台湾人(当時の本島人)の居住エリアはどうだったのか、ということが述べられる箇所。台湾人の居住区だった迪化街の一帯などでは城内の日本焦点建築とは異なるスタイルのものが現れた。そのスタイルは清朝末期の五口通商後に現れたスタイル(日本で言う偽洋風建築のようなものの中国版というか台湾版のようなもの)に近く、ビザンティン的な装飾のような感じを帯びているようにも見える、というような意味合いか。台湾人居住エリアで偽洋風的なものが出てきたのは、清末の建築に関わった職人やその助手などで作業に従事していた人々(本書によると、その多くは大陸に帰ってしまったというが)が若干でも残っていて、そうした技術が再度使われたのかもしれない。



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片倉佳史 『台灣日治時代遺跡』

明石在擔任台灣總督的翌年秋天,就感染了流行性感冒,發燒熱度一度無法下降,身體狀況不佳,因此曾回家鄉福岡靜養,但後來併發腦溢血,於同年十月二十四日去世,享年五十六歳。(p.26)


明石は1918年に台湾総督になり、その翌年にインフルエンザにかかった。時期的に言ってスペイン風邪ということになるのだろう。本当にこの前後の年でインフルエンザで亡くなった人は多いと感じる。(明石の場合は直接の原因ではないのかもしれないが。)



 台北帝國大學於一九二二年(大正十一年)依據台灣教育令決定創校,據說當初在決定校名時,原本有意效法「北海道大學」、「九州大學」等,取個帶有區域性名的校名,但是日本當局考慮到若稱為「台灣帝國大學」,恐會被誤解成台灣是一個帝國,因此最後取名為「台北帝國大學」,並於一九二八年(昭和三年)三月十七日正式創校。(p42-43)

台北帝国大学の校名について、興味深いエピソード。私も「なぜ台湾帝国大学ではないのだろう?」と疑問に思っていた一人だが、この説明は腑に落ちた。当時の日本政府にしてみると、台湾が一つの帝国であるかのように誤解される恐れがあるということだが、究極的には、それが独立に繋がることを恐れたということであろう。

北海道はそうした恐れが持たれずに北海道帝国大学になったのに、台湾はそうではなかった、という点はさらに興味深いところ。植民地化してからの時間の経過が違うという点のほか、北海道のアイヌは人数がかなり少なかった(統治前から減っており、弱体化させられていた)のに対し、台湾は日本人はいわば少数民族として統治に乗り込んでいった形であることが大いに影響しているものと思われる。


片倉佳史 『台北・歴史建築探訪 日本が遺した建築遺産を歩く』
国立台湾博物館土銀展示館(旧日本勧業銀行台北支店)

この建物は1989年、老朽化を理由に、一度は建て替えが決まったが、熱心な保存運動が起こり、取り壊しを免れた。(p.46)


同様の保存運動がかなりの数の建築を守ってきたことが、本書の叙述だけからでも分かる。



撫臺街洋樓

 この建物が建てられる前年、台北は未曽有の暴風雨に見舞われ、家並みの大半が崩壊するという惨事となった。これを機に大がかりな都市計画が練られ、町並みは一新されたが、この建物もその際に立てられた1棟である。(p.56)


この建物は1910年(明治43年)竣工。これより古い建物は残るのが難しい状況。ある意味、台北に残っている建築のスタイルが割と共通している感じがするのも、こうした事情が反映している面もあるのかもしれない。



台湾師範教育館(旧尾辻國吉邸宅)

 三線道路は旧台北城の城壁跡地を用いたもので、約40メートルという道幅を誇った道路である。後藤は「パリのシャンゼリゼ通りのように」と指示したと伝えられ、実用性のみならず、都市景観を意識した道路となった。(p.99)


三線道路のエピソードとしてメモしておく。



野草居食屋(旧石井稔邸)

 こういった家屋は戦後、国民党政府によって外省人官吏などに分配されたが、老朽化が進んだため、所有権が台北市などに移されたケースが少なくない。そのため、こういった「再生空間」は業者が台北市から委託される形で運営していることが多い。(p.115)


最初のコメントで述べたような保存運動という市民側の熱量と、台北市に所有が移ったこと(台北市がそれを受け入れたことを含む)とが、00年代以降のリノベーションの増加という動きにつながっていることが、本書から読み取れたように思う。

市が所有し、運営を民間に委託するというやり方は、日本でやると多くが経営的に失敗しているように思うが、台北の場合はどうなのだろうか?この辺りは非常に気になる点である。



華山1914文化創意産業園区(旧台湾総督府専売局台北第一工場)

総督府が遺した文献によれば、1910年代に入り、台湾における酒類の消費量は急増したという。これを受け、1914(大正3)年に最初の酒造工場が設けられた。(p.178)


経済力がそれだけ向上してきたということだろうが、これは日本本土と概ね同じような経済的な動きであるように思われる。本書でこれの前に紹介されている高砂ビールが1919年に創立されたのも、こうした背景の下でのことだっただろう。



二條通・緑島小夜曲

日本統治時代初期、日本人は主に台北城内側の「城内」地区を居住地としていたが、1920年代後半から都市の規模が成長し、市街地が拡大していった。(p.215)


この都市の拡大は、一つ前のコメントで指摘した経済力の向上、市民の生活文化水準の向上と繋がった現象であろう。



士林公有市場(旧公設士林庄市場)

 士林夜市は慈誠宮という廟と深い結びつきを持つ。つまり、廟を訪れる参拝客を相手に出店が並び、それが公設市場と結びついて生まれたのが士林夜市なのである。(p.279)


古い市場と宗教施設との関係は世界中で見られるものであり、士林夜市もそうだったのか、という感じ。台湾の他の夜市はどのような由来なのだろう。同様のパターンは多いのだろうか?また、これとは違うパターンは見られるのだろうか?


辛永勝、楊朝景 『再訪 老屋顔 台湾名建築めぐり』

レンガと鉄格子の両方の機能を備え、鉄のように錆びてしまうこともないので、海風の強い沿海地域でよく見られる建材です。(p.172)


装飾ブロックについての説明。本書や前著『台湾レトロ建築案内』などでは、こうした建材などに着目するのが特徴的な見方だと思う。ざっくりと見ただけではあまり気づかないような細かいポイントについて掘り下げらてもらえるので参考になる。

今、書いていて思いついたのだが、レトロ建築について誰が設計したのか、誰(どのような組織)が設計の主体だったのかということばかりに着目すると、日本統治時代では、日本人にばかり注目が集まってしまうが、こうした細部、例えば建材に着目することは、当時の台湾の人々(職人)などの活動に目を向けることにつながる

ある意味、日本人による台湾の歴史に関する叙述は、どうしても、「日本人が」活躍した、貢献したというような、日本のナショナリズム感情の観点から見て都合がよいものばかりを見ようとする傾向が強くなる。台湾の人々が見る日本時代と、日本の人々が見る日本統治時代とは、同じ時代を見ていながら、必ずしも同じものを見ているわけではない、ということには自覚的である方がよい。そして、私としては台湾人側の見方をもっと内面化し、自然とその見方もできるようになっておきたいと思う。



鉄窓花の衰退の一つに手入れのしにくさがあると言います。当時の面格子の材料には、加工のしやすい鉄が用いられていましたが、錆びやすいため、定期的な手入れがとても面倒でした。そして30年ほど前に登場したステンレスやアルミ製の面格子は、鉄製のような複雑なパターンはありませんが、製作にも設置にも時間がかからず、しかも錆びにくい特性から、たちまち市場を席捲。鉄窓花はメンテナンスと費用面から需要が少なくなっていき、とうとう姿を消してしまいました。(p.189)


本書と前著では、鉄窓花という窓の外につけられる鉄製の面格子のデザインへの着目が特徴的な見方となっており、新たな着目点に気づかされたのだが、ステンレスの限られたパターンのものによって置き換えられたため姿を消したというのは、納得。市場の力によって淘汰された形なのだが、メンテナンスが難しくても職人や施主などの意向を反映した個性あるデザインが消えて行くのは寂しい感じがする。


磯達雄、宮沢洋 『プレモダン建築巡礼』
旧札幌農学校演武場(現・札幌市時計台)

とはいえ、1階の展示がごちゃごちゃしていて、空間の魅力を減じていることは否めない。

いっそ、地下に展示空間をつくって(パリのルーブル美術館みたいに…)、地上部はもっとすっきりと空間の良さを見せたらどうでしょう。(p.41)


なるほど。面白そうなアイディア。ただ、地下に部屋をつくれるだけの空間があるかどうかは気になる。札幌市中心部は地下や地下鉄などもあるので。



手宮機関車庫3号

機関車庫1号は、レンガ造ではあるものの、屋根の形は片流れに変更された。これは、雪を転車台側に落とさないためだ。そりゃそうだ。でも、平井だってそんなことくらい分かっていたはず。それでも“いかにも西洋っぽい”アーチがどうしても実現したかったのだろう。(p.47)


確かに平井が設計した機関車庫3号は転車台側にも雪が落ちるようになっている。実際にどの程度落ちるのか見てみたいが、冬季は屋外展示が公開されていないのが問題。



 結核は都市化による人口密度の上昇や、工場労働の増加といった社会環境の変化とともに広まった病であり、日本で死亡率が最も高かったのが1918年である。(p.127)


この時代に芸術家や文学者など著名な人々が若くして結核で死んでいるとの指摘があり、上記のように述べられるのだが、確かに言われてみれば、という感じがする。感染症は意外といろいろな時代に影響を与えているようだ。


中島智章 『図説 キリスト教会建築の歴史』

柱頭に注目するとコリント式といえなくもないが、六世紀には古代ギリシアの神殿の円柱に由来するドリス式、イオニア式、コリント式といった建築様式の伝統は薄れてきていたようで、かなりデフォルメされ、全体と細部の比例関係も古典のものとはかけ離れている。(p.18-19)


ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ教会堂についてのコメント。イタリアでも6世紀にはすでにこのようないわゆる古典古代の伝統が薄れていたというのは、当時の文化のあり様を理解する上で重要な認識根拠であると思われる。西ローマ帝国が崩壊した後の地域ではローマの伝統は細っていった。東ローマ帝国の版図や中東の辺りに、そうした伝統は継承されていく。これが11世紀頃から西へと再度もたらされることになる。



 集中式教会堂とは平面中央に円形あるいは多角形のドームをいただき、その他の要素がそれを中心にして配置された求心性の高い平面を持つ教会堂のことである。殉教者記念聖堂など、死と関係の深い聖堂に多く用いられた形式であり、初期キリスト教時代にはエルサレムの聖墳墓教会やミラノのサン・ロレンツォ・マッジョーレ教会堂のような例がある。(p.21)


集中式が死と関係の深い教会堂で用いられたという点はなるほどと思わされたところ。中東や中央アジアのの墓建築なども似たようなプランで建てられているものが多いように思うが、関係があるのかも知れない。



 これらの様式にはドリス式、イオニア式、コリント式の三種類がある。これらの本質的な違いは比例の違いであり、端的に述べるとドリス式は太い柱、イオニア式は中くらいの太さの柱、コリント式は細い柱ということである。(p.22)


私は(本書でも上記箇所の直後で説明されるように)ほぼ専ら柱頭の装飾形式でこれらを区別していたが、比例の違い(柱の太さ)が本質か。



辛永勝、楊朝景 『老屋顔 台湾レトロ建築案内』

「小口タイル」と「丁掛タイル(ちょうかけタイル)」はいずれも日本統治時代に非常によく使われたタイル。当時の日本人は関東大震災を経験した後、耐震性の高い鉄筋コンクリートの建物を多く建てるようになりましたが、その際、打ちっ放しのコンクリートは美しくないとされ、タイルで装飾するようになりました。最初は赤レンガを模したデザインでしたが、その後さまざまなバリエーションが生まれました。「小口タイル」と「丁掛タイル」の違いは赤レンガのサイズに応じたものです。(p.36)


レンガ造から耐震のため鉄筋コンクリートに変わっても、外観は従来のイメージを踏襲した赤レンガを模したデザインが使われていたという点、そして、そのデザインからの展開としての赤レンガのサイズに応じたタイルの使用という歴史的な筋道が興味深い



台湾各地の伝統的な建築物では、マジョリカタイルが使われていることが多く、特に海沿いの地域で多用されています。かつては日本からの輸入に頼っていたため、港に近い地域で使われることが多かったのです。(p.37)


正しくは輸入ではなく移入だろうが、いずれにせよこうした流通関係の事情が建築素材の地域性にも影響するというのは興味深い。



青田街を含む温州街、永康街、和平東路一段の一帯は日本統治時代には「昭和町」と呼ばれ、昭和初期に開発されたエリア。現地で教鞭を取る教授や教師たちの住宅建設が急務となり、高級住宅地として開発が進みました。(p.43)


永康街などはおしゃれな店などが並ぶ地域としてガイドブックなどにも載っているが、その前史ないし背景としては、こうした高級住宅地としての開発があったのだろう。



「青田七六」は日本式家屋と洋風建築が融合した和洋折衷スタイルで、高温多湿な台湾の風土に合わせて様々な工夫が施されています。直射日光が室内に入りにくいよう縁側は広く、「広縁(ひろえん)」と呼ばれています。大きく飛び出した軒も日光を遮る効果があり、いずれも本来の日本家屋には見られない特徴です。(p.44)


こうした工夫は類型的なものとして他の建築にも同類のものがあるのだろうか、それとも個々の建築で試されているのだろうか?なお、本書では例えば52頁には、縁の下を設けることで建物を腐食しにくくするといった工夫についての記載がある。



当初はアトリエにする予定でしたが、より多くの人たちにこの土地の雰囲気を味わってほしいと考え、茶館にするアイデアが浮かび、「九份茶房」をオープンさせました。(p.61)


ここ数年の台湾のリノベーションブームで飲食店が多いのは、こうすることで多くの人が来て、そこでお金を使ってくれることで建物を使い続けることができるという事情があるからだろう。建築の構造や意匠や内装・外観がどのように保存されるのかが重要だと思うが、飲食店としての利用の場合、これがどの程度保存されるのか。他の方法の場合と比較してどのような特徴があるのか。こうした点に今は興味がある。



台中では日本統治時代の「市区改正」と呼ばれる政策により、碁盤目状の道路が作られました。(p.81)


地図を見る限り、」結構いくつもの格子状の街区が接続しているという印象である。いくつかの小さな町が合わさって一つの街になっていくというプロセスがあったということか?



その後、台湾各地で文化遺産の保護運動が進んだことを背景に、2009年に地元の書店を経営する余国信さんが「洪雅文化協会」を結成し、建物の保存と再生を手がけることになりました。修繕費用を工面するための「バカな株券」と名付けた証券を発行し、志願者に買ってもらいました。(p.111)


政府による保存では民間の小規模建築にまでは(少なくともすぐには)手が回らないことが多いだろう。そういう意味では、公的な支援が始まる前の段階(?)として地域での自発的なクラウドファンディングというのも確かに「あり」だろう。


由水常雄 『ガラス工芸――歴史と技法――』

 たとえば、無色透明の窓ガラスやショー・ウィンドウのガラスを透してみる世界は、自分の立っている世界とは隔絶した別の世界であるような幻視性がある。そしてそのことが、われわれの空想を大いにかきたてる。科学的にこれを説明すると、無色透明のガラスは、光を最大限で92パーセント透過して、8パーセントを、反射その他の理由で拡散する。だから無色透明のガラスを透して見たものでも、約8パーセントほど見にくくなっていることになる。その見にくくなって不明の部分は、人間の頭脳が想像によって補正して見ているのである。そして、この想像による補正作用が、幻想性を生み出すのである。(p.5)


この説明が妥当なのかどうか、やや疑問は感じるが面白い説明だとは思う。ガラスに対してわれわれが持っている幻想的なイメージを何となくそれっぽく説明しているように思うからである。

ちなみに、疑問に思うというのは、科学的に説明するには単に物理学的な説明だけでなく、脳科学や心理学の知見を活用することが必要であると思われるからである。



イスラーム教の諸領主はもちろんのこと、ヨーロッパの諸君主たちからも、それは垂涎の的となっていた。今日、ヨーロッパの寺院や古い宝物のコレクションのなかに、イスラーム・グラスが金銀の荘厳具をつけた姿で、大切に保存されているのをみることができるが、それらは当時イスラーム商人によって、ヨーロッパにもたらされたほんの数少ない遺存例にすぎない。(p.24)


イスラーム・グラスに関する説明。ガラスに限らず、様々な文化についてここで語られていることは当てはまる。



また、13世紀頃より、十字軍の活動を契機にして興隆してきたヴェネチア共和国によって、イスラーム・グラスの技法が積極的に導入されて、ヴェネチアにおいて、西側世界では独占的に製作が行われるようになり、新たな発展段階に突入するのである。
 このローマン・グラスから、ヴェネチアン・グラスまでの空白の時代を、イスラーム・グラスは着実に受け継ぐとともに、それをさらに飛躍発展させて、西側へと受け渡していったのである。西側だけではない。東方へも技術を伝えて、中国人にガラスの製法や技法を教え、それがやがて、清朝のいわゆる乾隆ガラスとなって開花する種子となるのである。
 イスラーム・グラスは、このように、工芸史上、もっとも重要な貢献を果たし、技術的にも、エナメル・鍍金・レリーフ・カット・モザイクなど、新しい分野の開拓を行いつつ大発展を遂げた。いわば今日われわれが使っている大部分の技法を開発していたのであるが、わが国をはじめ諸外国でも、あまりその重要な意義が認識されていない。(p.25)


この叙述もガラスに限らずイスラーム文化全般において大体同じようなことが言える。



この島全体が、国家財政を潤すために働かされる永世強制収容所であり、奴隷島であったといってもいい。華やかなヴェネチアン・グラスの背景には、こうした過酷な犠牲を強制されていた人々がいたのである。(p.42)


有名なムラノ島についての叙述。この側面はマスメディアなどではあまり語られない側面であり、押さえておきたい。



そして、ちょうどヨーロッパ社会におけるイギリスの政治・経済的な優位性が確立して、こうしたガラス工芸の水準の高さをしっかりと支えていたこともあって、いわゆるイギリスのこうしたテーブル・グラスは、ヨーロッパ社交界の必需品となり、ガラス食器の形式をほとんど決定づけていくのである。
 今日われわれが使っているガラス類や、ガラス食器の原型は、ほぼ18世紀に、イギリスのガラス界が作りあげた原型をもとにしているといっていい。(p.63)


この点は、英語が現在の国際的な共通語となっていることと同じメカニズムが働いている。グラスの形にまでこうした経路依存性があるというのは興味深い。



19世紀に入ると、彫りの深いカットを施したテーブル・グラスが、イギリスのガラス工芸の主流となる。わが国の薩摩切子や江戸切子は、この時代のイギリスのガラス工芸から影響を受けたものである。(p.64)


交流を始めた当時の流行が入ってきて、その流行が本国で廃れた後も、影響を受け側の方ではある種の伝統として残り続けるというのもガラスに限らず様々な文化形象で見られる現象であり興味深い。



 中国においては、戦国時代のこうしたトンボ玉が作られた以前の段階には、特殊なトンボ玉への発展を示すようなガラス玉類の出土はなく、ガラスの出現は(微少な一、二の例を除いて)、この時が最初なのである。そしてその最初のガラスの形式が、こうした西アジア出土のトンボ玉と酷似しているトンボ玉なのである。しかも中国の戦国時代は、急速に西方文物を吸収した時代であり、殷代より伝統のあった青銅器の形にまでも、新しい西方的意匠が積極的に採り入れられていたのである。いわば戦国時代は、外国文化を積極的に吸収して、中国古代文化に活を入れて、大いなる飛躍をみせた時期であったといってもいい。これまで言われていたように、漢文化は中国古代文化の一つの頂点であったのではなくて、むしろ戦国の文化的高まりが、漢民族的に修正され、様式化された、いわばマンネリ化された文化であったとみるべきであろう。そのような文化摂取の時代に出現したこうしたトンボ玉は、素材の製作技術はもちろんのこと、その形式も技法も、外来のものであったと考えるべきである。(p.77)


トンボ玉の由来についての考察であるが、中国の古代文明論にまで議論が展開しているのが興味深い。また、漢代の文化に対する見直しを迫っている点も傾聴に値する。



 ガラス器類は、吹いて作ると、わずか数分間で瓶や鉢や壺や皿ができる。そして冷えて常温になるまでには、十数秒もたてば十分であろう。それは完成品と何ら変るところはない。しかしそのままでは、それこそ程大昌の記述しているように「手を隨れるによって破裂する」のである。つまりそのままでは、ガラス器としてはまったく使いものにならないのである。これが舎利容器のような薄くて、高さがせいぜい4、5センチのものならば、あるいはそのままでも使用に耐えるものもできるが、それ以上のものや、それ以下のものでも厚手のガラスは、すべてそのまま使うと、いつかは破裂してしまうのである。つまり、ガラスは急速に冷却するので、表面と内部との間に激しい温度差が生じて、それがガラスの中に歪みとなって残っている。したがって、ほんのちょっとしたショックによっても、このバランスがくずれて破裂を起こすのである。こうした歪みを残したままのガラス器は、まったく使用に耐えない。使えるようにするためには、この歪みを取り去ってやる必要がある。その作業が徐冷(なまし)である。作ったガラス器類を、一定温度に引きあげて、それの表面と内部の温度差ができないように静かにゆっくりと冷ましてやるのである。ガラスが作られはじめた大昔から、ガラスの窯には、必ずガラスを熔かす窯とこの徐冷窯がついているのは、このためなのだ。おそらく中国におけるガラス窯は、この重要な徐冷窯の部分が欠如していたのではないだろうか。そしてその流れを汲んだ朝鮮や日本の古代ガラス窯についても、それと同じことが言えるのである。(p.87-88)


ガラス細工を作った後、ゆっくりと温度を下げるため作品ができるまで1日とか2日くらい待たされることになるが、その理由が初めて分かった。


『似鳥美術館』
宗本順三 「旧北海道拓殖銀行小樽支店の建築について 小樽のモダニズム銀行建築の華」より

同年竣工の小樽支店は、東南部の角に4本の列柱を設けて、象徴的で魅力的なデザインである。(写真-1,2)このような角のデザインは、神戸税関(昭和2年竣工)や旧警視庁庁舎(昭和6年竣工)に見られる敷地のコーナーに曲線と円柱形状を巧みに持ち込んで、形状の建物の顔である躍動的で象徴的なエントランスを設けた矢橋賢吉の設計手法の初期モデルであったと言える。この支店は、後の上記の作品と較べると、スケールが小さくまた表現としても控えめなデザインであったが、確実な造形力を持って設計されたことが分かる。それまでの銀行建築は、小樽の他の銀行建築を見れば分かるように、多くは鉄筋コンクリート造建築であっても、やや閉鎖で中央に入口を設ける左右対称のクラシックデザインのファサードに終始していた。この建築では、コーナーポーチにドーリア式の列柱を用いた導入部、それに続く銀行営業室にコリント式の列柱を用いた流動的な動線計画は、当時の銀行建築になっては秀逸の建築である。(写真-3)(p.112)


なるほど。確かに入口がコーナーにあるというのは、この建築に特徴的なところだと言えそうである。この建築は何度も目にしていたが、あまりこの点を気にしたことがなかった。この点に着目するだけでも、この建築に対する見方が変わるかもしれない。


志田政人 『小樽芸術村 ステンドグラス美術館(旧高橋倉庫)ガイドブック』

 当館に展示されている作品の中にも、戦地に赴く兵士の無事を祈るものや、大戦の戦勝記念として作られた作品があります。(p.4)


この美術館の作品をサラッと見ると、どうしても戦勝記念のタイプが目立ってしまうように思われる。実際に、このように解釈できる作品は多いと思うし、龍を退治する聖ゲオルギウスなどは非常にわかりやすいモチーフであり、こうした意味も汲み取りやすい。これに対し、戦地に赴く兵士の無事を祈る作品が、そうした意味を持つということは、一目で見ただけではなかなかわかりにくい。

この美術館では、説明文やオーディオガイドなどもなかなか充実しているので、しっかりこれらを読みながら見て回ると、見て取ることができるようにはなっているため、それぞれの作品にいろいろな思いが込められているということが理解できるようになっている。しかし、あれだけの作品と図像の情報量もかなりのものがあるため、あまりステンドグラスやキリスト教に関係する物語などになじみがない場合、そこまでしっかり理解するのはやや難しいかも知れない、という気もする。

その意味では、事後的にではあってもこうしたガイドブックで解説してあるのは良いと思われた。



指昭博 特別寄稿「ヴィクトリア時代の教会とステンドグラス」より

 ただ、イギリスの国教会はプロテスタントですから、描かれる主題は自ずと中世カトリック教会とは違いました。聖人崇敬につながるような主題は避けられ、聖書の物語に取材した作品が多く、聖人が描かれる場合も、国教会にゆかりの深い聖職者や、イングランドの守護聖人である聖ジョージやスコットランドの守護聖人である聖アンドリュースなど、国を意識したものが多いのです。(p.5)


なるほど。確かにこの美術館に所蔵されている作品でも、随所にイングランドやスコットランドなど、イギリスを構成する土地の守護聖人が登場していた。こうしたガラス工芸の隆盛のきっかけとなったゴシックリバイバルという運動自体が、ネイションとしてのアイデンティティを探そうとするナショナリズムの一環でもあったことを考えると、こうしたガラス工芸作品も当時のものの考え方がかなり反映していると見ることはできそうである。