アヴェスターにはこう書いている?
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「創 緊急増刊 朝日新聞バッシングとジャーナリズムの危機 2015年2月号」(その3)
「朝日新聞バッシング この半年間、何が起きたのか」より

 尖閣諸島や竹島をめぐる問題がたびたび報じられ、この何年か、日本に急速にナショナリズムが台頭したことは多くの人が感じていることだ。現在は社会的指弾を浴びている民族排外主義的なヘイトスピーチも突然起きたわけでなく、それにつながる動きは以前からあった。
 2013年後半からは「嫌韓憎中」と言われるある種の熱狂が日本社会を覆い始めた。『週刊文春』や『週刊新潮』など右派系週刊誌がそうした特集をやると確実に売れ行きが伸びると言われるようになった。中国の食品問題などといったテーマにも、それまでにない関心が集まるようになった。
 出版不況に苦しみ、次々と赤字転落していた総合週刊誌が、それに飛びつき、年末年始あたりから、『週刊ポスト』、そして『FLASH』というふうに次々と嫌韓憎中の特集を掲げるようになった。……(中略)……。
 ……(中略)……。重要なことは、その転換の背景に、出版不況で部数減に悩む週刊誌が、その路線で売れると聞いて次々と飛びついていくという、市場原理が働いていたことだ。(p.60-61)


ナショナリズムの高まりは排外主義の高まりを常に伴う。このことが「嫌韓憎中」特集の需要の増大という形をとり、出版不況という背景によって背に腹は代えられない出版者が良心や公共的使命よりも利益のためにそれらを供給する。こうして供給される排外主義的言説が、さらにナショナリズムの元となる怒りや近隣国への不信・不満を煽っていく、という悪循環である。

こうした事態にはまってしまった以上、打開する簡単な方法はないように思われるが、ドイツがナチへの支持や賛同を法的に禁じているというのを聞いたことがあるが、こうした考え方は有効と思われる。すなわち、国際的な平和という日本社会における共通善のために、外国との関係を良好に保つため、また、関係を徒に悪化させないために、感情論的な憎悪表現を公共のメディアでは規制するということが考えられる。(当然のことだが、事実に基づいた批判をすることが禁止されるわけではない。なぜなら、相手もその事実を否定したり相対化したりする事実を提示することで反論は反批判する道が開かれているからである。)



「朝日バッシングはなぜ起きたのか」より

 部数の減少より大きいのは広告らしいですね。広告主に右翼の攻撃がものすごいでしょう。いま「朝日新聞をつぶせ」という力がものすごく働いていることは間違いないようです。(p.83)


なるほど。広告主に対する右翼の攻撃か。これはメディア(新聞やテレビなど)を見てもすぐには分からないところであり、この件からメディアの危機の深刻さへの認識を新たにさせられた。



ここ数年、どの企業もコンプライアンスが大事だって言いだしている。新聞だってそうですよ。
 このコンプライアンスっていうのは、おとなしく法規や社内の内規に従え、それを破るようなことはするな、つまり危ない橋を渡るなと言っているわけですから、本来のジャーナリズムのありように照らして言うと、向いている方向が正反対です。こういう雰囲気がこれからは強くなってくる心配がある。(p.83-84)


なるほど!ジャーナリズムにとってはコンプライアンスの強調は他の業界よりも大きな悪影響をおよぼす恐れがあるということか。

また、コンプライアンスということが強調され始めたとき、こんなことを唱えていても不正が減るわけがないのに馬鹿じゃないのかと思ったものだが、そのときの違和感が何だったのか、この引用文を読んで非常にはっきりわかって気がする。すなわち、組織が個人を強く縛り、管理し、従わせるということを言っており、それを個人の側に刷り込んでいくことだということ。組織を個人に対してより優位にするものであり、個人の軽視だということ。



慰安婦報道もさることながら、それよりも安倍政権の女性閣僚がネオナチや極右とのつながりを外国の新聞に報道されることのほうがよっぽど日本の名誉を傷つけてますよ。
青木 まったく同感です。僕は別に朝日信奉者じゃないし、朝日をそれほど信頼してるわけじゃありませんが、戦後リベラリズムの砦みたいにみなされるところがあって、その朝日が総バッシングにさらされてフラフラになっている。これはまさに戦後の終わりで、戦前の始まりなのではないかというくらいの強い危機感を覚えます。(p.84-85)


安倍政権の閣僚らがネオナチや極右との繋がりがあることは、知っている人なら周知のことだが、それが報道には出てくることがないのがまず異常である。その異常事態を外国の新聞が取り上げても、日本ではそれほど大きな問題と見なされないこともメディアが政権に支配されていることが功を奏しており、極めて危険な状態である。まさに現在は「戦後」ではなく次なる戦争の戦前の時代になっているという時代認識を持つことが必要であると思う。そのような認識に立ちながら、どうやって脱け出していくかという処方箋を出さなければならないからである。



「慰安婦問題をなかったことにしてはいけない」より

 だから吉田証言の問題を持ち出して、慰安婦問題それ自体をなかったかのように言う言説は、彼女たちに対する冒涜であり、彼女たちに対するセカンド・レイプだと思います。
 「国会に朝日を呼べ」という声がありますが、国会に呼ぶべきは彼女たち当事者ではないでしょうか。彼女たちは、何とか日本の国会で証言したいと、それを望んでいらっしゃいました。(p.91)


元「慰安婦」を国会で証言させるというのは、傾聴に値する見解と思う。



「朝日バッシング騒動がもたらす委縮への懸念」より

 戦後の言論界の流れを見た時に、もちろんいろいろな言論の自由が尊重されなければならない。一色に染まるような方向が加速されると、多様な言論が保証されなくなります。僕は今、日本のこの状況に似ていると思うのは、中国や北朝鮮もそうですが、一番はロシアなんです。ロシアのメディアのありようにすごく近づいて行っている。そうなってしまっていいのだろうかと思います。(p.96)


なるほど。私は日本の社会やメディアがどんどん中国に近づいて行っていると感じていたが、言われてみればロシアの方が近いのかもしれない。ただ、ロシアのメディア状況についてはそれほど詳しくわからないので、機会があれば少し調べてみたいところではある。



「朝日新聞バッシングとジャーナリズムの危機」より

 最初は東アジアの国々に対してそれらの国が日本にとって悪い影響があるということで何かを見つけては叩くという論調が見受けられて、まあそれは今も見られてさらにひどくなっていますが、しかし2年ほど前から外の国に敵を見つけて叩くだけでは済まなくなってしまったという気がします。今度は国内に敵を見つけてそれを激しく非難する、ののしるという流れに加速度がついている。(p.118)


確かに、バッシングの対象がより近く、より具体的になっている傾向はあるかも知れない。



今日は直接の課題ではありませんが、大阪の橋下市長のTwitterでの文化人らへの攻撃は、ある意味、あれもヘイトスピーチのようなものですね。自分に反対するような特定の言論人の名前をあげて「バカ」とか「アホ」とか口汚くののしるといったことを公的立場の人間が行い、それが支持されるというか、喝采を浴びる。あのころから日常の中ではとてもこれまでは使うことが許されなかったような言葉を平気で相手に浴びせかけていいのだ、というおかしな空気が出来上がったように感じます。(p.118-119)


橋下市長がヘイトスピーチをしている在特会の幹部と議論をするというのが、少し前にあったが、非常に違和感を感じていた。ここで述べられているように、橋下市長自身の言動がヘイトスピーチを行っている連中とほとんど同じだからである。

また、公的立場の人間がヘイトスピーチ的な発言をして、それが許容されることで、世の中にそうしたものが容認されたという空気が広がる、というのは、指摘の通りと思われる。このことは、ダン・アリエリーの不正の感染に関する研究の結果とも符合する。


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「創 緊急増刊 朝日新聞バッシングとジャーナリズムの危機 2015年2月号」(その2)
「北星学園と植村隆さんへの脅迫事件の一部始終」より

権力と渡り合う力と意思を持っている日本のメディアは朝日新聞だ。中小マスコミは防波堤があるから戦いやすい、と。(p.40)


若干過大評価とも思うが、基本的な構図としては正しいところをついていると思う。リベラルの象徴として朝日新聞が保守派からは批判や非難の対象となり、中小のリベラルメディアは、直接の攻撃を軽減されることでより本音に近い発言がしやすいというのは確かだろう。



右翼テロへの恐怖はマスコミの一部に浸透している。北星問題を報道する最大の壁と言ってよい。(p.40)


恐らく、北星問題だけでなく、慰安婦問題の報道全般にこのことは言えるように思われる。言論を暴力によって封じることができると右翼に認識させることは極めて危険である。



「真理を究めようとしたら、権力と衝突することがある。だから学問の自由は大切だ。神戸松蔭、帝塚山、北星への脅しが成功したら、気にいらない学者は、どんどん辞めさせられる」(p.41)


山口二郎の発言。同意見である。こうしてマスコミや学者や市民が右翼の恐怖によって沈黙していると、一つ一つ、各個撃破されていき、回りまわって自分が攻撃された時にも誰も助けてくれない、ということになる。これが恐れるべき事態である。したがって、一つのところが攻撃されている時には、それ以外の人々が連帯・連携して手を差し伸べ、問題を提起していかなければならない。



 同じく戦後、教育刷新委員会の内部メンバーとして教育基本法の制定に関わった河井道は、スミス女学校の卒業生だ。第1次安倍晋三政権が教育基本法を変えたとき、北星女子中高の生徒らは政府に「先輩の作った基本法を変えないで」と要望書を送った。すると「偏向教育をしている」などと学校にメールが殺到し、教師に対するネット攻撃も起きた。今回と同じ試練を、学園はくぐり抜けてきた。(p.43)


スミス女学校とは現在の北星学園の元となった学校である。河井道という人については知らなかったが、この件を読んで矢内原忠雄を想起した。

第一次安倍政権は教育基本法を強行採決で変えてしまった。まともな説明もなく、国家主義的な傾斜を強める内容に強制的に変えられたということを知っていれば、人権の重要性や国家主義の危険性を学び、それを感得している者であれば、誰もが抵抗を感じるのが当然であり、この学園の生徒たちの行動は立派なものだと評価すべきものである。

これに対して「偏向教育」というレッテルを用いて、暴力的な言動に出る者は自らの卑劣さを恥じるべきである。安倍晋三が強行採決という手段をとった(とらざるを得なかった)のも、生徒に不当な非難を投げかけた恥知らずたちが「偏向教育」と非難を投げかけた(投げかけざるを得なかった)のも、いずれも、自らの主張を正当に主張することができない、ということに原因がある。このような主張は言論とは言えず、本来、公共空間に現れてはならないものである。



「「慰安婦」否定と朝日叩きに暗躍する“記憶の暗殺者たち”」より

日中戦争で慰安所が中国各地に作られるようになったのは、南京大虐殺(1937年)からだった。あまりに頻発した日本兵の強かん事件に困った軍上層部が、強かん防止と性病予防のため、各地の部隊に慰安所設置を指示したのである。中国人の反日感情の高まりと国際的な批判を恐れたからだった。慰安所に送り込まれたのは、日本の植民地・朝鮮や日本本土、そして中国の女性たちだった。
 太平洋戦争で戦域がアジア全域に広がり女性の数が足らなくなると、フィリピンやインドネシア、台湾、中国、マレーシア、東ティモールなどには夥しい数の「レイプセンター」(強かん所)が作られた。「強制連行の証拠はなかった」という言い草など全く通用しない、暴力的な拉致・監禁の現場である。日本政府や安倍首相は、「慰安婦」=朝鮮半島の女性たちに限定しているが、これはかなり意図的なものである。植民地・朝鮮には公娼制度が導入され、民間業者が多数いたので、女性たちを集めるために武力を使った強制連行などは不要だった。業者が甘言や誘拐、人身売買などで女性たちを徴集できたのである。
 しかし占領地では、まさにウサギ狩りのような強制連行が行われた。父親の首をはねてから娘を連行する、市場で集めた女性たちをトラックに無理やり乗せて、接収した家に何カ月、何年にもわたって閉じ込めて「慰安婦」をさせた。しかし、このようなケースにはそもそも「強制連行の証拠」などはありえない。「強制連行の証拠はなかった」から「強制連行はなかった」と主張するのは、苦し紛れの問題のすり替えである。
 こうした慰安所や強かん所について、兵士たちのほとんどは知っていたが、国民には知らされなかった。戦時中のメディアは厳しい検閲を受けていた。(p.45-46)


「朝鮮半島では強制連行を行ったという文書での証拠が見つかっていない」ということは「強制連行はなかった」ことを証拠立てるものではないことは明らかである。意図的に朝鮮半島に地域を区切り、証拠を文書資料、それも政府や軍の内外で使用された文書に限定することによって、その範囲でのその種類の証拠が発見されていない(それも廃棄処分された資料が大量にあることが知られているのに)というだけのことであり、そこから「強制連行はなかった」と主張することはできない。

もっとも、この「強制連行」や「強制」があったかどうかという論点だけを選んで、あたかも問題がなかったかのように語るということ自体、議論として正当性を欠く。同じような証言が複数の地域で複数の被害者から出ている、それも加害者側の手記などとも照応する内容のものである、ということまで否定して初めてそのような主張をする可能性が開かれる。(歴史学では文書と証言は同じレベルの資料である。発言を書き留めれば文書になるからである。文書だから信用でき、証言だから信用できない、ということは言えない。)これを更に強い根拠に基づいて否定できないのならば、そのような加害行為があったということであり、それが人権を蹂躙するものであった、と認識できなければならない。そして、戦争や情報統制というものがそれを助長する環境であった、という認識を持つことが必要である。

自分の好みではない事実を受け入れることができないことは弱さ(能力の欠如)である。(このことは上で「できる」ことが必要である――できなければならない――と述べたことと対応する。)自分が好まない事実であっても、事実は事実として真摯に受け止めるということが、この問題について発言するための最低限の水準である。それ以下の水準の者はこの問題について発言することは許されない。まずは自らの問題を解決してから社会に現れることが許される。(ある意味、これは3歳児に選挙権が与えられるべきでないのと同じである。)

なぜならば、これは公の場で説明することができるための最低限度の水準だからである。すなわち、これができて初めて自分自身と他人に対して自らの趣味判断や価値判断を明示しつつ、事実関係及びそれに対する評価を説明することが可能となるからであり、これができることによって異なる意見の者と有効な相互批判が可能となるからである。



 内務省はポツダム宣言受諾の直後、進駐してくる米軍兵士用の慰安所(RAA)の設置を決めて各県に行政通達を出し、女性を募集させて設置したが、これも秘密裏に行われた。(p.46)



この件に関しては、広岡敬一の『戦後性風俗大系 わが女神たち』により詳しく記載がある。



 「慰安婦」問題で日本に国際的な批判が高まった原因は、政府や右派メディアが言うように、朝日新聞の「慰安婦」報道にあるわけではなく、明らかに安倍政権や政治家たちのこうした「慰安婦」否定の姿勢や発言にある。(p.50)


そのとおりである。安倍政権や右派メディア自身がそのことに気づいて言動を訂正していかない限り、日本の国際関係での地位や名誉の低下は免れない。


「創 緊急増刊 朝日新聞バッシングとジャーナリズムの危機 2015年2月号」(その1)
「朝日新聞バッシングと安倍政権の思惑」より

 こうして既成事実を積み上げ、もう世の中こう変わったんだから今の憲法では対応できない、憲法を変えようとやってくると思う。そういう流れのなかで、朝日新聞をやっつけなければならないという空気が強く出てきたのではないでしょうか。
 これに対して、朝日新聞は、それを跳ね返すのでなく、弱みを衝かれたらかなわないので、そのところは先回りして訂正しておこうと、慰安婦報道をめぐって8月5・6日にあのような特集記事を出した。ところが池上問題でお粗末な対応をし、挙句が取り消すような記事ではないのに、吉田調書報道の記事取り消しをした。続報で十分対応出来たのに、上層部が続報をつぶし、対応を誤った。その前に産経・読売に吉田調書の記事が出ますが、その背後には原発再稼働を早くやりたい安倍首相の意を体した官邸の影がちらついていました。(p.7)


2014年後半の朝日新聞へのバッシングは、極めて政治闘争の色彩が強いものであるということはよく認識する必要がある。

朝日の慰安婦報道の訂正記事(8/5-6)は、戦後70年を前にした政治的な圧力への自衛策という面があったようだが、組織防衛的な側面が裏目に出た(このことが対応を誤る大きな要因となった)ものと思われる。

新聞の世界を見ると、産経は安倍晋三の極右イデオロギーを代弁するような立ち位置で、右側に政府を引っ張ろうとする安倍晋三応援団であり、最大部数を誇る読売も政府の広報紙と化している。日経は投資家や資本家、大企業を利する限りで安倍政権を支持し、イデオロギー面とは若干の距離を置きながらも批判は弱い。読売に次ぐ読者数を誇る朝日新聞は、安倍政権に対しては及び腰ながらも批判的な姿勢をちらつかせており、より規模の小さな毎日新聞や東京新聞はもう少し安倍政権に対して批判的。ただ、これらは紙数が多くなく、ある意味、産経も数は少ないが極端な主張をすることによって言論を右に引っ張る力に均衡させるだけの迫力に欠ける。地方紙は概ね安倍政権に批判的だが、地方都市や町村に比べて大都市圏の持つ政治的影響力が大きくなっていることもあり、批判の大きなうねりを起こすことができずにいる。

こうした中で朝日新聞による批判を封じてしまうことによって、残りの小勢力は容易に各個撃破できるようになる。そうなると、日本の新聞はすべて政府の広報紙的な存在になってしまい、少なくとも新聞における言論は政府に都合の良いもののみとなってしまう。この意味で朝日新聞が占める言論の世界における位置は極めて重要であり、今般の朝日新聞バッシングは日本の政治において極めて危機的な事態である。こうした中での対応の誤りは非常に痛いところである。



法的には社の恣意に委ねられる編集権の占有は否定されている。しかし日本では、編集権は経営権に属するという考え方がいまだに亡霊のように残っている。ヨーロッパやアメリカでは、編集の内部的自由という考え方が、実践的にも確立されているけれど、日本はそうなっていない。(p.12)


この問題は、NHKの問題を考えた際にも現れていた。ETV2001における番組改変事件が想起される。



 個人の不始末みたいな形で処理して、自分たちの取材の原理を捨てちゃうんだ。そういうことをやっているから、2005年のNHKの番組改編を暴いた報道も、本来なら2001年当時の安倍や中川といった政治家の介入を暴いたにも関わらず、見かけ上はNHKと朝日のケンカみたいになっちゃった。安倍はあの時「自分は何も言っていません。ただ公正中立にね、と言っただけです」と弁明したのですが、放送総局長にそう言うこと自体、大きな圧力でしょう。今回の総選挙の前にも、放送局に対して「中立公正に報道しろ」と通達を出したわけですが、同じ構図ですよ。(p.13)


同意見である。

どう考えても、安倍や中川がNHKの報道に介入したことは明白であるが、それを問題化できなかった。朝日新聞の判断の誤りとNHKの(NHKだけに限ったことではないが)組織防衛を志向する事実隠蔽とが重なって、安倍や中川の罪を問うことができなかったことは極めて痛い。念のため言うと、中川とは中川昭一(故人)であり、路チュー事件を最近起こした中川郁子(ゆうこ)の夫である。

「公正中立に」と報道機関に対して言うことは問題がないと安倍や自民党は主張しているが、どのような考え方をする人間・組織が発言したのか、また、どのような力関係の中でそれを言ったのか、ということまで考慮に入れれば、自分に都合の悪いことをさせないよう圧力をかけたことは明白である。安倍は2001年の番組改変事件の際に、「公正中立に」と言う前に極右の自慰史観に基づく自説をNHK幹部に説いてから、何を言いたいか勘繰れ、という命令をこめながら表面的な言葉としては「公正中立に」と発話したに過ぎないのではないか。

極右的な考え方をする人であるということは、それ自体、バランス感覚に乏しいということを他人に伝えていることになり、寛容さも持ち合わせていないということをも伝えることになる。そうした人間が「中立公正」ということを発言する場合、自分の極端な意見を採用すること(否定しないこと)が「中立公正」であると考えていると聞き手には伝わることになる。様々な意見を見渡したうえで、それぞれに対して、正しい部分と誤った部分を切り分けながら、それらのどれにも強く肩入れすることがない、といったような普通の意味での中立公正とは全く違った意味のことを、安倍は権力を背景として語ったのだから。



 2015年は、「戦後70年」ですね。安倍首相はこの年を戦後の総決算というか、戦後は無くなった、という年にしたいはずです。これにどう対応するか、新聞は大事な局面を迎えることになります。(p.15)


妥当。私は現在は、「戦後ではなく、来るべき戦争に対する戦前」になってしまったと捉えている。



 また、林香里委員の、日本の「慰安婦」問題に関する議論からは「女性の人権と性」という問題意識が欠落している、とする意見は重要な指摘だと思いました。(p.16)


全くその通り。日本の右派は、人権に対する感受性が全くというほどないことは、極めて問題であり、彼らの言論が国内で幅を利かせている。従って、日本国内の議論の水準や論点が、国際的な議論の水準や論点と全くずれてしまっていることは、日本を国際社会で孤立化させる方向へと作用している。こうした国際的な孤立化の方向に向かいつつある点でも、第二次大戦前と類似している。


松田浩 『NHK 新版――危機に立つ公共放送』

しかし、同時に、ヨーロッパの公共放送が競って独立行政制度や経営委員・会長選出への公募制導入など政府からの独立性を高め、権力監視機能を強化している流れのなかで、それに逆行する日本の姿が、彼らの目に危機的なものに映ったことは疑いなかった。(p.6)


これはBBCが2014年3月20日に「日本の公共放送は脅威にさらされているのか」と題して「安倍政権によるNHK支配」にスポットを当てた特集が組まれたことについてのコメント。

グローバル化にともなって各国が右派が勢力を伸ばしつつある中でヨーロッパの公共放送が権力監視機能を強化しているというのは意外に感じた。そうした勢力への危機感を持っている勢力が民主的なメディアを確保しようと対抗手段を講じているということだろうか?ヨーロッパの状況が気になってきた。



 「放送活動全体を通しての公平」という過去の政府見解を超えて、個々の番組ごとに機械的公平(両論併記)を求めれば、権力監視など、およそ不可能になる。(p.7)


籾井勝人NHK会長が2014』年4月30日の理事会で「個々の番組でも公平を期するよう」指示したことが報じられた。上記は、籾井の発言に対する批判。

著者の批判はもっともである。これに加えて、安倍晋三の周辺の人々が言う「公平」が、「彼らにとって都合のよい(彼らの世界観・歴史観に合致する)見解」を基準にして話している、それも強力な権力を持っている立場の人間としてそれを語っている、ということが根本的な問題であると思う。



 イギリスBBCの元会長、グレッグ・ダイク(Greg Dyke 2000~04年BBC会長)のインタビュー記事が、『毎日新聞』朝刊のオピニオン欄(2014年4月9日付)に大きく載った。
 「公共放送の役割」と題するこのインタビューのなかで、ダイク元会長は「政府との関係において、公共放送はどうあるべきか」という質問に、こう答えていた。
 「公共放送にとって重要なのは政治家を監視することだ。党派に関係なく公正、公平に全ての政治家を監視すべきだが、特に権力の大きい政府の監視はより大切だ。そのために公共放送は政府から独立していなければならない」。
 彼はまた公共放送と国益との関係を問われて、明快に指摘している。
 「政府と公共放送では目的が違う。政治家や政府の目的は権力の維持だ。権力を握った政治家は、自分たちが権力に居座ることが国益に合致すると考える。……それを踏まえたうえで公共放送は、政治家の言うことが真の国益なのかをチェックすべきだ。民主主義社会において公共放送の役割は、権力への協力ではなく監視だ」と。(p.12)


当然のことだが、現在権力を持っている側にいる安倍政権とその周辺の連中には、このような常識を持ち合わせている者は恐らくいないだろう。むしろ、こうした監視をできないように、公共放送を政府の広報機関にしようという志向が非常に明確に見えている。非常に危機的な状況にあると言わざるを得ない。



 安倍政権が周到なメディア戦略のもと、安倍首相を取り巻く財界人グループ「四季の会」と図って政権の代理人ともいうべき人物をNHKのトップに据え、NHKを変えようとしている、その“権力のメディア支配”にこそ、ことの本質がある。“籾井会長発言”は、その結果にすぎない。(p.13)


妥当。それにしても安倍晋三と財界人グループの結びつきというのは、非常にたちが悪い。



いまや独立規制機関をもたず、通信・放送行政の権限を直接、政府がにぎっている国は、主要先進国では日本とロシアぐらいなのである。
 身近なところでいえば、韓国でも2000年以来、独立行政組織・韓国放送委員会(Korean Broadcasting Commission=KBC)が発足している。06年には、台湾でも独立規制機関として国家通信放送委員会(National Communications Commission=NCC)が発足している。(p.15)


情けない。しかし、これは逆に言えば、お手本はいくらでもある、ということでもある。様々な事例をしっかり調べてよい制度を導入しようと思えばできる環境でもあるとも言える。安倍政権によって民主的な判断を可能にするための制度が次々と破壊されているが、できるだけダメージが小さいうちにこうした制度を整えられるように野党には準備しておいてもらいたいものだ。

ところで、ここでは中国は「新興国」という位置づけなのだろうか?私は安倍政権の下で進みつつある社会の変化が「日本の中国化」であるとも見ており、日本の社会は中華人民共和国のような社会になりつつあると見ている。中国のマスメディアは報道機関ではなく共産党の広報機関であり、まさにここ数年のNHKが進みつつある道を先取りしている。



 「政治的な意見の対立が国民の間にある場合、その対立を激化させない、というのが、NHKの基本的なモットーだということです」
 この前田発言には、NHK的「公共放送」観が象徴されている。政治的問題をめぐって国論が二つに割れているとき、その対立をあおるような報道を控えることで救われるのは、どちらなのか?救われるのは「政府の利益」であり、損なわれるのは市民の「知る権利」ではないのか。政府・与党に都合のよい情報だけを流しながら、国民的合意を図ろうとするならば、それは戦前流「一億一心」の現代版にならざるをえない。
 本来、ジャーナリズムは、政治的意見の対立がある場合、それを人々の前に明らかにして、メディアという公共の広場のなかで自由に意見をたたかわさせ、人々が問題点を発見したり、批判的な見方を身につけ、より高い次元で物事の認識に到達できるように手助けすることが使命なのである。
 「対立を激化させない」ために対立そのものを覆い隠してしまえば、人々は現実の矛盾を直視することができない。その矛盾をどう克服すべきか、政治の主権者として主体的に考える力をつけることができず、いつも権力側が作り出す既成事実に流されていくことになりかねない。
 本来、これら「不偏不党」「公平」「中立」とは対立する意見が公正に議論をたたかわせるための「言論の自由市場」のルールを指す言葉なのだ。対立する多様な意見を討論の土俵に上げないでおいて議論させれば、それは疑似討論であって、世論操作にほかならない。(p.94-95)


1966年に起きたNHKによる世論調査の項目(政府に都合の悪い調査結果)をカットするという事件に関して、当時の前田会長の発言に対する批判。

メディアが対立を覆い隠してしまうと、問題が見えにくくなり、その結果として世論を背景にした市民運動やデモなどは力を発揮しにくくなるのに対し、政府にとっては様々なことを執行する権限を与えられているがゆえに、市民運動などからの抵抗を受けずに既成事実を積み重ねることができるという市民側と政府側との力関係についての指摘は重要。



同年には、国際電気通信連合の無線通信部門で、日本が提案したスーパーハイビジョンが超高精細度テレビの国際規格として認められているので、政府のIT戦略や日本の家電業界にとっても将来、国際競争舞台での目玉商品として、“希望の星”なのだ。NHKでは、2020年に東京で予定されているオリンピックで、このスーパーハイビジョンの実用化(本放送)をめざしている。
 問題は、地上デジタル化につづいて、NHKがこのスーパーハイビジョンの開発・実用化に牽引車として先導的役割を果たすことが、視聴者にとって、どれだけ意味があるのか、である。というのは、もしスーパーハイビジョンが実用化されれば、NHKを含めて放送事業者が膨大な設備投資を強いられるだけでなく、視聴者は再び高価な受像機への買い換えを迫られるからである。(p.178-179)


これが実用化されるとしても、現在の放送の方式がいつなくなるか?ということが、この事業の意味を変えるように思われる。既存の放送方式は維持されるが別途新しい方式ができる、というだけなら、テレビの買い換えもそれほど急には進まないだろうから、その点での視聴者の負担はそれほど問題にはならない。ただ、NHKの受信料が不必要に高くなるとすれば、確かに問題ではある。



 籾井会長のもとで、報道・ニュース面には、早くも懸念すべき変化が現れている。ここでは、一つだけ事例を挙げておこう。2014年7月1日に政府が閣議決定した集団的自衛権行使をめぐるNHKの報道である。集団的自衛権については、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)の報告が出た5月15日から7月1日の閣議決定まで、NHKの「ニュースウォッチ9」が、頻繁にニュースに取り上げた。
 この集団的自衛権の行使に関しては、憲法論上も、また日本の安全保障上も、賛否対立する意見が存在する。国民世論も山西、反対相拮抗していた。にもかかわらず、「ニュースウォッチ9」では、問題点や反対する側の議論は、ほとんど伝えられていない。基本的なスタンスは、自公両党間で意見の食い違いがどう調整されるかの経過報告に終始していた。……(中略)……。
 戸崎は、集団的自衛権を扱った放送時間の総量が約167分、そのうち与党協議、首相や政府関係の動きは合計約114分(約70%)だったのに対し、反対の論者のコメントはわずか33秒、また官邸前抗議デモの映像は総計44秒に過ぎなかったとして、「114分対77秒 これが公平か」(『しんぶん赤旗』2014年7月31日付)と同番組の「異様な偏り」を痛烈に批判している。ここには、「政治的公平」や意見の対立している問題についての多角度な論点解明を求めた放送法第四条(番組編集準則)からの明白な逸脱がある。(p.197-199)


NHKの報道が政府よりなのはよく感じていたが、ここまでのデータが出るほどとは。日本のメディアの状況は危機的というしかない。