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デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・バス 『経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策』(その2)

 これまで緊縮政策が失敗してきたのは、それがしっかりした論理やデータに基づいたものではないからである。緊縮政策は一種の経済イデオロギーであり、小さい政府と自由市場は常に国家の介入に勝るという思い込みに基づいている。だがそれは社会的に作り上げられた神話であり、それも、国の役割の縮小や福祉事業の民営化によって得をする立場にいる政治家に都合のいい神話である。(p.237-238)


ほぼ同意見である。緊縮政策や新自由主義やリバタリアニズムは、政治的な支配層にとって都合の良いイデオロギーであるということはよく理解しておく必要がある。それにより支配層は自らの責任が追及されることを防ぐことができる。政府が果たすべき役割が小さいということは、すなわち、社会に問題が生じても、それは政府が対応すべき問題ではなく、個人が自らの責任によって対応すべきだというように、責任を転化ないし矮小化することを正当化しようとする時に便利なイデオロギーである。そして、そのように責任を問われることが少なければ少ないほど、政治家は好き勝手なことを続けることができ、その結果、社会に問題をまき散らしたとしても権力の座から追われる可能性を低く抑えておくことができる



 民主的な選択は、裏づけのある政策とそうでない政策を見分けることから始まる特に国民の生死にかかわるようなリスクの高い政策選択においては、判断をイデオロギーや信念に委ねてはいけない。統計学者のW・E・デミングは、「神の言葉は信じよう。だがそれ以外の者は皆データを示すべきだ」と言ったが、政治家は事実や数字よりも、先入観や社会理論、イデオロギーに基づいて意見を述べることが多い。それでは民主主義はうまく機能しない。正しくかつわかりやすいデータや証拠が国民に示されていないなら、予算編成にしても経済政策にしても、国民は政治家に判断を委ねることができない。(p.239-240)


裏づけのある政策とそうでない政策を見分けることができれば、公平な選択をすることに繋がる。これを逆から言うと、不公平なことを意図的にしようとしている政治家は真実を嫌い、嘘やごまかしを多用する。トランプが「フェイクニュース」を連呼するのを見ると分かりやすいだろう。

安倍政権における森友問題、加計問題、自衛隊日報問題、沖縄に寄り添うという発言などなどを見ると、嘘とごまかしの連発である。例えば、憲法改正に関しても、安倍晋三は憲法を国の理想を語るものなどと呼び、的外れな言辞をまき散らしているが、これは憲法は広義の政府の権力を縛るためのものであるという理解を歪めたり忘却させたりするための発言であり、その結果として権力への縛りを解除することを狙っている。権力への縛りがなくなるとき、「支配者の支配者による支配者のための政治」が合法的に行えるようになる。



だがこれはもちろん、ほかに方法がないならばという話であって、労働力を活用して経済を押し上げたいなら、的確な刺激策を打たなければならない。その際には、本論で述べたように、保健医療と教育の分野の政府支出乗数が高いことが鍵になる。保健医療の分野では、一ドルの公共投資が経済を三ドル押し上げる。その逆に、防衛や銀行救済措置の乗数は一を下回るため、景気対策にはならない。(p.242)


興味深い。詳細を知りたい。



IMFはさらにこう書いていた。「アイスランド政府は社会保護制度を維持したまま財政再建を行うことを大前提とした。金融危機によって失業率が上がり、実質賃金が下がり、深刻な影響が出ると早くから予測していて、財政再建計画立案に当たっても社会的弱者を守ることに主眼を置いた。すなわち、累進性の高い所得税を導入し、付加価値税の税率を引き上げ、予算削減は効率化が見込める分野に絞ることによって、福祉予算を維持できるようにしたのである」。(p.286)


嘘とごまかしを多用するような政府にはこのような賢い判断をすることは期待できない。政


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デヴィッド・スタックラー&サンジェイ・バス 『経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策』(その1)

ロシアには古くから飲酒の習慣があり、特に18世紀の皇帝(ツァーリ)たちが民衆をおとなしくさせておくために飲酒を奨励してから、その度合いがいっそう高まったようだ。(p.64)


ローマ帝国では「パンとサーカス」などと言われていたが、ロシア帝国では酒が政治的に利用された面もあるということか。国全体としては弱くなる方向の振舞(人びとの生活の困窮化を促進し、かつ健康を損なわせることで社会保護の支出を増大させ、労働力も失う)であるが、権力者が自らの権力を守るために権力を利用するという腐敗した状況が表れている事例と言えよう。



 アイスランドの例は、非常事態であっても、つまり特別措置が必要になっても、民主主義を維持することがどれほど大切かを教えてくれる。厳しい措置が必要なときほど民主主義を堅持しなければならない。自分たちで決めたことならば、それが苦い薬であっても少しは楽にのみ込める。(p.136)


現代日本の人々もこのことを理解しておくことは重要である。憲法に緊急事態条項を設けようという動きがあるが、これは緊急時には民主主義を停止させよう、という動きであり、本書の歴史的事実を踏まえた指摘とは真逆のことをしようとしているということは理解する必要がある。

アイスランドの例とは、未曽有の金融危機にあって、IMFから厳しい緊縮政策を求められていたにもかかわらず、国民投票の結果、それを拒否したことであり、その結果、国民の死を含む健康被害を食い止めることができ、経済的な立ち直りも早まった、ということである。



英フィナンシャル・タイムズ紙が報じたように、アイスランドの人々は「銀行より国民を優先した」のである。その考え方はアイスセーブ返済問題のみならず、銀行の責任者の追及という形でも表れた。たとえば、グリトニル銀行の元CEOラルス・ウェルディングは違法ローンを提供した罪で起訴され、有罪になった。グリムソン大統領も、「アイスランド政府は国民を救済し、今回の金融崩壊の原因を作った銀行幹部を刑務所に送りました。つまり、アメリカや他のヨーロッパ諸国とは逆のことをしたのです」と述べている。欧米の大手銀行と同じように、アイスランドの主要銀行も「大きすぎて潰せない」と見なされていたが、アイスランド政府は潰れるに任せた。その決断が正しかったかどうかは、結果を見れば明らかである。多くのヨーロッパ諸国が苦しみつづけるなか、アイスランドは景気回復に成功したのだから。(p.138)


こんな政府を持つ国民が羨ましい。翻って今の日本の政府(特に安倍政権)はどうだろうか?



2009年に開館した新アクロポリス博物館もその一つである。旧博物館が手狭になったために計画されたものだが、かつてイギリスのエルギン卿が持ち去ったパルテノン神殿の彫刻――エルギン・マーブル――を大英博物館から取り戻すためでもあった。(p.145)


旧帝国主義勢力が旧植民地などから文化財を持ち去ったことについて、元の場所に返せという動きがある。それはそれで確かにそれなりにもっともな点がある主張ではある。ギリシャのエルギン・マーブルもそうしたものの一つだったが、それを収容するための博物館を建てるというのは、果たしてどうなのかという気がする。ギリシャは、好況の時にこうした形での財政的な浪費が多く、そのため、不況時に対応する余力が小さくなる選択をしていたのだからなおさらだ。



EU諸国は、リビアでは民主主義のためにカダフィ政権を崩壊させながら、民主主義発祥の地であるギリシャでは民主的な投票を阻止したわけである。(p.159)


興味深い対比。外交の場で登場する「民主主義」は基本的に胡散臭いと思った方がいい。



無保険者になるのは実に危険なことで、2009年のある調査によれば、無保険者は保険加入者に比べて早死にする率が40パーセントも高いことがわかっている。(p.176)


日本は国民皆保険ということになっているが、事実上の無保険者はかなりの数存在する。被保険者証番号を個人単位に割り振り、いわゆるマイナンバーと連動させることで保険の加入資格を一元的に管理できる仕組みを構築する方向で議論が進められているようだが、無保険者をなくするためには望ましい方向性だと言ってよいように思われる。(加入したくない人も強制的に加入させられることになるが、現行の制度でも制度上は強制加入であり、その実効性がより担保されるかどうかが今までとは違う。)

余談だが、「マイナンバー」と呼ばれるものについて一言述べておく。「私の番号」とこの番号には名付けられているわけだが、このことによって、番号はあたかも自分のものであるかのような錯覚に陥らされる。しかし、この番号は「私の収入、資産、健康等に関する情報を行政機関等が利用しやすくするために政府が私に割り振った番号」であるにすぎず、行政のため、特に税務署の業務遂行のために私に割り振られたものであると理解しておくことは重要であると思われる。



アメリカでは賢い予防医療などの「ヘルスケア」ではなく、ずっと高くつく「病気のケア」に金を注ぎ込んでいる。そしてその高くつくケアにおいて、医師たちは費用効率というものを考えず、医学的には必要がなくてもCTスキャンを多用したり、人口膝関節置換手術といった金のかかる手術に飛びついたりする。そのほうがもうかるからである。こうした状況から見えてくるのは、結局のところアメリカの医療制度は患者のためにあるのではなく、医療を提供する側――病院チェーン、製薬会社、健康保険会社――のためにあるということではないだろうか。(p.181)


公的保険などが不十分な、市場に任された医療というものは、当然、資金も知識も関連情報もより多く持っている供給側にとって有利な市場となる。医療に市場を導入・拡大することは、基本的に愚策である。



権丈善一 『ちょっと気になる医療と介護』(その2)

しかしながら、イノベーションを唱えたシュンペーターは、これが経済発展にとって重要であることを指摘しても、その起こし方については何も語っていないんですね。……(中略)……。
 進化論は生物学上の事実でしょうが、進化を人為的に操作することが難しいことと同じように、シュンペーターの言うイノベーションを原因とする経済の進化は、政府が先導するかしないかで起こる・起こらないが決まるようなものではありません。(p.255-256)


重要な指摘。サプライサイドを重視する立場の経済学者や政治家などがしばしばイノベーションを軽々しく口にするが、イノベーションという概念は、後に「イノベーション」だったと評価されるある出来事が起こった後に、その時点での事実に対する評価を伴いつつ、あの時起こったあの出来事はイノベーションだったと判断している「観察者」の視点により構成された概念に過ぎず、その出来事を起こしている「行為者」に起こっていることとは全く異なっている。この種の概念によっては、それが指し示そうとする行為が導かれることはないし、分かっているつもりになってはいるがそこで起こっていること自体は捉え損ねている。



・予防・健康増進活動で医療費はむしろ増加する
 ・各国でさまざまなモデル事業や膨大な実証研究が行われてきました。それにより、予防や健康増進活動による健康アウトカムの改善効果はそれなりに確認されていますが、医療費節減効果はほとんど確認されていません。逆に、厳密にランダム化比較試験に基づき、広く社会的次元で費用計算を行った研究では医療費を増加させるとの結果が得られています。
 ・アメリカの軍人を対象にした最近のシミュレーション研究により、長期的には(生涯医療費のレベルでは)、禁煙による健康状態の改善による医療費削減は余命延長による医療費増加により相殺されることが示されています。(p.265)


予防や健康増進活動を奨励しても「医療費削減」には繋がらない。やはりこういうことは本当に健康を増進することで一人一人が健康で文化的な生活を維持していくことができるようにするという目的に素直に沿って進めていくべきである。政府や自治体には医療費削減(適正化などと誤魔化しの入った表現がよく使われる…)に繋げようとしてやっているところがあるように思われるが、そうした考えは捨てるべきだろう。



 東大理科Ⅰ類(理Ⅰ)を筆頭に、工学部の人気が“凋落”と呼べるほど落ちているようです。理Ⅰに行くより地方の医学部に行くという時代になってきて、医学部は「一人勝ち」です(134~135頁参照)。この傾向は、経済を長期的に考えた場合、非常にまずい
 現在の日本経済で最も大きなウェイトを占めているのは第3次産業ですが、そこで生活する人たちの生活水準は、「交易条件」の高さに依存します。交易条件とは「輸出物価指数÷輸入物価指数」で求められる指標です(図表8 25頁)。第2次産業の奮闘で日本のブランド価値が高まってこそ良くなる交易条件は、残念ながら年々悪化しています。原油をはじめした輸入価格の上昇に比べて、日本の製品を高値で売れなくなっているということです。
 工学分野や理学分野での人材確保は重要な課題であるはずなのに、人々は医学部ばかり目指している。優秀な人材を医学部だけに集め続けると、早晩、経済が足元からぐらつきます。(p.290)


興味深い指摘。では、工学部や理学部の人気を回復させるためにはどうすればよいか?これが難しい。



もし、もしですよ、赤字国債をバンバンと出して、そのお金で社会保障の給付をどんどん行ったら所得格差はどうなると思いますか?(第15章における給付先行型福祉国家参照)
 たぶん、格差は縮まって、不平等指数(完全平等を0として完全不平等を1とする指標)のひとつであであるジニ係数は小さくなり、そのことはおそらく、ジニ係数の改善の改善と評価されることになるのではないでしょうか。といことは、今の再分配所得のジニ係数は、けっこう赤字国債でかさ上げされた結果の良い値を示していることになります。(p.298)


なるほど。



 政治家が官僚人事に深く入り込みすぎると何が起こるか。官僚は自分の大臣と官邸のどちらに仕えるか曖昧になる。能力もないくせに時の官邸に色目を使い、政治的にうまく立ち回って出世しようとする奴が出てくる。ゴマすりが横行し出せば、終わりだよ。大事でも日の当たらない仕事は誰もやらなくなるぜ。……官邸主導で良かれと思って作った人事局が訳の分からない政権に悪用され、雇い主である国民から見てとんでもない霞が関瓦解を招きゃしないか。一つの内閣は一時の存在だけど、日本国政府は永久に続くっていう自覚を政治家は持たなきゃダメさ。


この点はまさに森友学園問題や加計学園問題でまさに目撃中である。



権丈善一 『ちょっと気になる医療と介護』(その1)

 多くの人たちが気合を入れて取り込もうとしている、このデータヘルス計画って、「日本再興戦略」という、いわゆる「成長戦略」の一環として政策展開されている話なんですね……って、「成長戦略」って、なんだか聞こえの良さそうな言葉だけど、その実態は?ということはこの本の中で、いろいろと触れていきます。
 ……(中略)……。
 まぁ、データヘルス計画によって公的医療保険の保険者である健保組合や協会けんぽ、それに国民健康保険から、ICT産業にお金が流れることは確かです。でも、データヘルス計画をしっかりやったからといって、国民が健康になったり、QOLが高まるかどうかはなんの保証もありません。この国では、かつて、「コンクリートから人へ」というスローガンが声高に言われていましたけど、成長戦略としてのデータヘルス計画というのも、そうした流れに沿っていると考えれば理解できます――つまりは、コンクリートから人へ、もっと言えば補助金はブルーカラーからホワイトカラーへ……う~ん、この冗談、分かるかな。(p.ⅵ-ⅶ)


データヘルス計画については、いままでは漠然と医療費の削減による社会保険財政の支出削減のために策定されたものだと思っていたが、「成長戦略」の一環だと知り、いろいろなことに納得した。こんなことをしてもIT業者に金が流れるだけで医療費の削減や健康寿命などにはほとんど意味がないのではないかと疑問に思ってきたが、その違和感は大元の政策の出所にあったようだ。



 いまのように「世界の技術最前線に躍り出た」日本で、かつてのような経済成長は起こせるという観点から、国民が将来を選択するのと、そうではないという観点から選択するのでは、おのずと選ばれる社会経済政策に違いが生まれてきます。そうした選択に影響を与える根源的な世界観については、その切り替えが強く求められているんですけどね。この意識の切り替えは、人口が減少している国の経済成長の目標は1人当たりGDPを用いること、日本の1人当たりGDPの伸び率は欧米と比べても見劣りせず、しかも雇用面も良好――したがって、日本の経済は別に大病を患っているわけではないという、意識の切り替えです。(p.35)


全く同意見である。こうした当たり前のことが一般に理解されていないこと自体が解決すべき問題であろう。



1990年には偏差値が最も低いと45くらいで私立の医学部に行けたようです。最も高いところはずっと慶應大学ですね。ところが90年代に最も低いところの偏差値がどんどん上がっていって、偏差値の散らばりを示す変動係数は、どんどん小さくなっていきました。(p.132-133)


この現象は都心の進学校の卒業生が地方の医学部に進学するようになったためだと本書は指摘する。90年代にエリート層がバッシングを受ける中で進路選択に変更が生じるようになったとされている。

『消えゆく限界大学』では、推薦やAOや内部進学のような入試の多様化が偏差値を高める方向に作用していることが示されていたが、医学部の場合はどうなのだろうか?



介護保険の受益者は、要介護の虚弱老人であることはもちろんですが、それ以上と言っていいくらいに家族です。(p.36)


非常に納得させられたフレーズ。



 消費税はたしかに、財源調達側面だけをみれば逆進的です。でも、消費税という化け物のような財源調達力を持つ税で社会保障の財源を賄えば、ネットで見ると累進税になるんですね。(p.200)


私は消費税の増税に対してはあまり積極的な評価をしていないが、消費税によって調達した財源をベーシックインカムのような配り方をする場合にはここで述べられているような結果になることは分かる。確かに税を語る場合、財源調達面(歳入の側面)だけを見るのは不十分であるという批判は正しい。しかし、使い道がベーシックインカムのように一様に配分されるという想定は楽観的過ぎるように思われる。なぜか?もし消費税を社会保障のための目的税にしたとしても、例えば社会保障に対する歳出の総額を変えずに、消費税によって浮かせた一般財源を社会保障以外の領域に支出するという選択を政府がした場合には、逆進性が解消される保証はないからである。



ここで押さえておいてもらいたいことは、歳出の中で最も優先順位が高く、その額を節約できないのは国債費だということです。
 ……(中略)……。
 でも先に説明をしたように、借金のストックが増えて大きくなった国債費は社会保障と歳出項目において競合します。そして、社会保障費よりも国債費の方が歳出の優先順位は高い――だから、国債費を賄うために社会保障は減らされてしまい、国民負担相応の福祉を享受できなくなってしまうわけです。(p206-212)


国債費が多いか少ないかによって社会保障などの圧迫のされ方が違う。その原因は歳出の優先順位にある。なるほど。

なお、現在の日本はすでにこうした状態に陥っていると見るべきだろう。


権丈善一 『ちょっと気になる社会保障 知識補給増補版』(その2)

 また、政府規模の国際比較で押さえておいてもらいたいことは、図表54のように、基礎的なインフラが整備された後は、政府の規模を大きくしていくのは社会保障になるということです。
 これは動かしがたい事実でして、結局、小さな政府なのか、大きな政府なのかは、「貢献度」に基づいて市場が分配した所得を「必要度」に応じて分配し直している度合いが小さいか、大きいか、家計における人々への必要の充足を個々の家計の責任に強く求めるかどうかできまっているわけです。そして日本は、社会保障が小さいだけではなく、少し信じられないかもしれませんが、社会保障以外の政府支出も小さな国であるわけです。
 こう言うと、「だって公務員が多くて、ムダ遣いしているという話が多いじゃないか」という話になります。そこで、国際比較ができる形にOECDがまとめたデータを見れば、日本の「労働力人口に占める公務員の割合」は、図表55の一番右、すなわち最も少ないことが分かります。このあたりのことを詳しく分析した本として、前田健太郎東大准教授が2014年に上梓された『市民を雇わない国家――日本が公務員の少ない国へと至った道』などがあります。(p.124-125)


ここに書かれている基本的な事実は、私としてはほぼ「何を今さら分かりきったことを…」といった内容だが、社会保障や財政に関する問題が政治利用されており、厖大な「印象操作」が行われているため、あまりまともにこうした問題を調べたことがない人にはこうしたことをきちんと伝えなければならない状況となっている。

なお、『市民を雇わない国家』は面白そうなので読んでみようと思う。



そして厚生年金の適用拡大は、基礎年金全体の給付水準の引上げにも寄与することが、2014年(平成26年)の財政検証で明らかにされました。その理由は、厚生年金の適用拡大が進むと、数が減った第1号被保険者1人当たりの国民年金積立金が増えるからです。(p.153)


なるほど。厚労省が適用拡大に向けて動こうとしている気配があるのはこうした理由があるからだったのか。政府の動きはいろいろと胡散臭いものが多いが、この動きは推進してよい方向と見ておく。



 民主主義社会においては、そうした合理的に無知であることを選択した有権者の耳目にまで情報を運ぶコストを負担できる者、すなわちキャンペーンコストを負担することができる者が多数決という決定のあり方を支配できる権力を持つことができます。そしてキャンペーンを通じて有権者の耳目まで情報を伝達するコストの負担は財力に強く依存します。資本主義社会の下で財力を持つ集団は経済界ですから、民主主義というのは、経済界が権力を持ちやすく、そこでなされる政策形成は経済界に有利な方向にバイアスを持つことになるという民主主義の特徴を、僕は「資本主義的民主主義」と呼んできました。(p.181-182)


様々な政府による規制を緩和したり、資本移動のグローバル化を進めると、こうした経済的に豊かなアクターたちはより一層有利な条件を獲得できる。すなわち、デモクラシーの方法に基づいて権力を自己の利益のために利用できる度合いが高まる。これにより中間層以下の人々の生活は苦しくなるが、政府はこうした人びとの役には立たない。こうして「現在の政治体制」への不満が高まることで、ポピュリズムないし極右ポピュリズム政党の台頭(ヨーロッパ、アメリカ、日本など)をもたらしている。



もし、余命幾ばくと宣言されていない人が、当面の生活費を工面する方法があるのならば、可能な限り遅く受けとりはじめることをお勧めします。70歳で受給しはじめる年金は、60歳で受給できる年金額の約2倍になり、それを亡くなるまで受け取ることができるわけです。(p.188)


年金受給開始年齢をどう考えるかという問題について参考になった。年金が保険であることについて理解しておく必要がある。



 年金受給権のある人には、そのいくぶんかは生活保護の補足性の原理から外すということである。現在の生活保護制度のもとでは、年金収入があればその分は保護費が減らされる。結局、未納者と同じ生活水準となり、過去において保険料を納付したり免除手続きをとったりしてきた意味がなくなってしまう。(p.221)


なるほど。興味深いアイディア。ただ、生活保護の最低生活費は(世帯の人数にもよるが)水準が高すぎるので、その水準を少し削った上で基礎年金満額受給者の生活費は現行の最低生活費を若干上回るといったような設計が良いのではないかと思う。


権丈善一 『ちょっと気になる社会保障 知識補給増補版』(その1)

 でも残念ながら、日本にはフュックスやスティグリッツのような、社会保障を論じることができる一流の経済学者がいなかったように思えます。そのため、社会保障を論じる上で極めて重要である制度や歴史を知らないままに、経済学者が社会保障の世界に参入してきたために社会保障のまわりの議論が荒んでしまいました。それゆえに、きわめて容易に政治家たちが政争の具として社会保障を利用しやすい環境が生まれてしまったように思えます。この10年、日本の社会保障はこれ以上ないほどに政争の具とされてきました。その政争の過程では、現在の制度が国民に憎悪の対象として受け止められるように政治的に仕立て上げられていくわけですから、その時代に生きていたみなさんの意識の中には、社会保障へのいくつもの誤解、そうした誤解に基づく制度への憎しみが深く刻まれていったのではないでしょうか。(p.xii)


社会保障に限らず、税や官僚(公務員)、さらには行政全般に対して憎悪を生み出すような誤解と無理解が横行するようになっているのが日本の社会の特徴ではないかと私は考えている。著者が社会保障に対して指摘するように、より広く行政のあり方全般に対して議論が荒んでおり、政争の具にされやすい環境にあると思う。

こうした諸問題に対して正しい理解を広めるにはかなり長い道のりが必要であるように思われる。



 「扶養負担を表す指標――所得というパイを何人で生産しそこで生産されたパイを何人に分配するのかを表す指標――として最も適切なものは中高校生の教科書に図示されているような65歳以上の高齢者に対する65歳未満人口の比率ではなく、就業者1人当たりの人口であるということは「論理的、学問的にはすでに決着がついている」」と書いています。(p.2-3)


確かに。65歳以上であっても働いている人が多ければ、単に65歳という年齢で区切っても意味はない。



(前略)質問している記者は、207兆円の1割から2割、すなわち約20.7兆円から41.4兆円、1万円の束で207キロメートルから414キロメートルに関する質問をしていると思うのですけど、いつの間にか、50センチ、すなわち5,000万円の話になっているのが分かると思います。
 ……(中略)……。日本に蔓延している政府不信、官僚不信の源には、こうした「計数感覚」というのが関わっているわけでして、計数感覚というのは我々国民が、生活や社会保障を政治から守るために大切なセンスであるとも言えます。(p.33)


全く同感である。私が想起する所では、例えば何年か前に「事業仕分け」とか(霞が関)「埋蔵金」という言葉が流行ったことがあった。あのときに巷にあふれた議論は「計数感覚」が欠如した議論の典型であろう。あの時、私は例えば「埋蔵金などない」という議論をしていたが、誰もまともに取り合わなかったように思う。今から思い返して、何かものすごい「埋蔵金」が見つかったと言える人はいるだろうか?



 もっとも、北欧のように租税への依存が強くても社会保障の給付が安定しているところがあるではないかという意見もあります。彼の国とわが国の違いを言うとすれば、北欧などは、財政支出の中でも生産関連社会資本より生活関連社会資本を日本よりも重視する特徴があるわけですが、それは日本よりも労使関係における労働側の力が強いことが原因であったりもするわけです。(p.55)


この指摘の意味は最初よく分からなかったが、こういうことだろうか?生産関連社会資本より生活関連社会資本を政府が重視することと、労使関係との関係は、労働側と使用者側の直接の交渉力の問題というよりも、労働側と使用者側それぞれの政府に対する影響力の強さがどの程度あるかが、生産関連と生活関連の社会資本への財政支出がどちらの側に重点的になるかということに影響する。すなわち、日本のように使用者や資本家(投資家)が政府に行使できる影響力が強ければ、企業が生産を行うための生産関連社会資本が整備されやすい。これに対し、労働者の政府に対する影響力が強ければ、個々人の生活をより直接サポートする方向で財政支出するように働きかけるから生活関連社会資本の側により多くの支出がなされる。この点に対する説明をもう少し詳しく知りたい。



 なお、小さな政府とは奢侈品が豊富にある社会であり、政府が大きくなるにつれて奢侈品が減り生活必需品が増えていく――日本は、今でさえ「小さすぎる政府」であるため、「ある程度大きな政府」にした方が、確実に住み心地のよい社会になる。(p.89)


政府の財政規模と奢侈品・必需品の多寡という問題はあまり考えたことがなかったが、言われてみるとそうだ。例えば福祉や教育のサービスなどに財政が使われる方が、このための費用を税で徴収せずに自由に使途が決められる場合、確実にこれ以外の奢侈品に使われる分の金が発生するだろう。

日本が小さすぎる政府だというのも私も10年以上前から言い続けており、もっと財政規模を大きくした方が生活はよくなると考える点は権丈氏と同意見である。


竹崎孜 『スウェーデンの税金は本当に高いのか』(その2)

 しかも国内ではとかく、日本社会の高齢者増加が世界のどの国も経験したことのなかった非常事態として、不可抗力だったかのごとく強調されてきた。ところが、スウェーデンでは、1890年に世界に先駆けて高齢化社会となり、1975年には遂に高齢社会へ突入したが、国民の生活安定を図る政治をいち早く展開していたので、高齢社会をものともしなかった。
 日本は、視線が経済成長へ向いても、国民生活からは目をそむけ、あげくには長寿化に付随する数々の社会変化を無視したため、社会問題を山積させてしまったのである。(p.52)


最後の一文の指摘は、日本の政治と社会の関係を的確に指摘していると思う。



 国民へ還元される予算のうち、なかでも生活にもっとも密着するものが社会保障関係である。旧総理府がかつて公表した古い資料によれば、税・社会保険料に対する社会保障還元率の比較表では、第1位がスウェーデンの75.6%、引き続いて英国やドイツがおよそ59%、そして米国が53.2%となっているのに比べて、日本は41.6%の最下位にとどまっていた。(p.53)


予算を生活を直接支えるために使わないのが日本の特徴であり、このため各家計では本書の言う「固定家計費」が多額に必要となり、これが階層が固定化され、貧困層の厚みが減らないことにつながるなど、様々な社会問題へと繋がっていく。

税収がもっと必要であるとしても、税収の配分(産業から生活へ)も見直しが必要である。なお、税収を得る方法は、もちろん累進課税を強化するような方向性以外には適切なものはないということは付け加えておく。



高校や大学への進学のためには学校の勉強だけで充分とされ、成績表すら小学6年までは競争心をあおるとして廃止となった。(p.66)


成績表の廃止というアイディアはいろいろと考えさせるものだ。確かに、数字や三重丸などの他人と比較できるような評価を科目ごとにつけることは、このくらいの年齢の子どもには必要ないかもしれない。ただ、日ごろの取り組みの様子や達成の度合いに対して、一律で比較できる記号によってではなく、教師側からの言葉によるフィードバックという形をとることなどは考えられるように思う。そうしたやり方は教師側の負担増となり、そちらの面も含めて総合的に考えていく必要がある。



ただし、働きながら将来の進路を探り、やがて大学などでの勉学を再開するのが通例となっており、高校から大学への直行ではなくても不利でないばかりか、むしろ、熟考ののちに将来像を描くほうがかえって有利とされる。(p.66)


この仕組みは良いと思う。現在の日本の学校制度では、学校を卒業して就職するにしても、高校や大学を出た後の職業について具体的なイメージを持つことが難しい。生徒や学生はそうした中で就職先の選択を迫られる状況である。スウェーデンのように高校を出たらいったん就職した上で、自身の適性や仕事の具体的な内容などを理解した上で大学で学び直すというシステムには合理性がある。ただし、大学がそうした知識を授けたり、そのために必要な議論をする場として機能すれば、という条件が加わるので、日本の大学にこうしたことが期待できるのかは、やや心もとない気はするが。



「税金は、あらゆる社会で国民的目的の共同費用として集められるが、国民が税金をいくら払うのかは、社会が引き受けた健康、介護、教育、住宅などに関する責任範囲で決まる」(p.95)


これはスウェーデンの繁華街にある広報センターで配布されている資料の序文であるという。

こうした説明は日本ではなかなか受けることができない。学校でもメディアでもこうした基本的な考え方は明確に説明されることがない。まずはこうした知識環境から変わる必要があるように思う。



 課税が経営へおよぼす悪影響はなるほど一部企業にはあてはまるであろうが、税金を支払えない企業であれば、おそらく生産性は低い、賃金は安い、労働時間は長い、あげくに雇用は不安定など、労働者の職と生活の安定をおびやかしており、それだけでも社会の利益に反するという。よって、自由競争に耐えられない企業は、将来の発展性も期待できないから淘汰が望ましい、と容赦しない。
 ……(中略)……。
 社会保障税が制度化された根拠のひとつは、企業の人材育成や教育にかかる費用のすべては公費、すなわち税金が投じられており、したがって、社会が育成した人材のコストを支払う責任が企業にはあるとされる。さらには、企業活動が可能であるのも、社会のインフラストラクチャーが利用できるからであって、この視点からも社会コストは企業経費に含められるべき、つまり費用の分担をすべきと解釈される。(p.123-124)


スウェーデンで社会保障税が全額企業負担の税とされる理由。非常に筋の通った考え方になっていると同時に、日本の考え方がいかに企業に甘いのかということも感じさせられる。

税金が払えない企業は被用者の労働環境も悪いだろうというのは使える論理だと思う。さらに言えば、税金を払いたくない企業であれば、同じように被用者からも搾り取ろうとするだろうから労働環境も悪いだろう、とも言うべきであり、こうして内部留保や経営側の超高額報酬も可能となっていると捉えるべきだろう。

倒産した後に次の企業が現れるかどうか、失業者のうち教育やスキルが十分高くない者が再就職できるかどうか、といった問題が日本での議論からは出て来るだろう。スウェーデンでこうしたことが日本ほど問題とされないように見えるのは、それ以前の教育制度や再就職までの社会保障・職業訓練などが充実しているからであるように思われる。本書を通して見えてくる日本社会の問題点からは、生活を保障する体制がないことがどのような制度改革にもつきまとう障害となっていることがわかる。


竹崎孜 『スウェーデンの税金は本当に高いのか』(その1)

 国民全体の税金負担は、国の税収全体に占める税金と社会保険料の合計によって計算できるとされるが、他方、個人負担のほうは、家計との比較や関係から割り出すほかはないであろう。……(中略)……。
 ……(中略)……。税負担とはこのように、家計や所得との三者関係から成り立つ
 ……(中略)……。
 今日では、家計構造についての信頼できる資料がなかなか見当たらないなか、それでもなお家計概要の推測はできよう。その際に重要なことは、税金と社会保険の負担率を明らかにすることのほかに、これまで見落とされがちであった学校や予備校・学習塾にかかる費用、多数ある民間保険の料金、貯蓄など、月々の家計出費の中でこうした絶対的に避けられない支出を見据えることである。それらをここでは「固定家計費」と命名しておこう。
 ……(中略)……。さらには、民間保険費用が家計に食い込むのは、税金と社会保険料などを払いながらも、公的保障だけでは不安で、さらに補強するのが目的であるだけに、こうした出費を省いてしまえば、生活不安が増幅してしまうからである。
 ……(中略)……。
 世界には、貯蓄に励む理由が見つからないという国民もいる。……(中略)……。
 それが日本人ならば「生活が不安だから貯蓄しておく」、あるいは「生活に困らないために貯蓄する」と、不安に追い立てられる様子を物語る。最後の言葉が象徴するように、日本での貯蓄とは、失業や傷病時の生活費、医療費、教育費、それに老後生活費を準備するものとなっている
 いずれにしても、税金による国民生活の支援や社会的セーフティネットの不備を露呈しているのと同時に、社会保障や社会保険制度の水準の低さを裏づけており、税金を支払いながらも、固定家計費の追加がどうしても不可欠で、こうした出費である貯蓄は、税金と社会保険料と並ぶ費用として合算されるべき家計支出であることを忘れてはならない。
 それも日本の家計を分析すると、税金や社会保険料に加えた固定家計費用の大きさが特別に目立つ。日本では、税金が安いと言い伝えられてきたのにもかかわらず、社会的・公的保障水準の低さがそのまま生活不安の拡大へつながっており、それぞれの家計は自力を頼みとする防衛策のためになんとか捻出しようとするのが固定家計費であって、それが生活をさらに圧迫している。(p.24-27)


本書のタイトルになっている問いに対して答えるにあたってのキー概念である「固定家計費」の考え方を説明した箇所より一部抜粋した。ここで示された考え方は日本における公的負担と公的支出のあり方を考える際に非常に参考になるものである。

固定家計費の代表的なものは教育関係費、民間保険料、貯蓄であるが、こうした固定家計費の日本の家計では支出が大きい。税や社会保険料が安くても、これらが高いので家計は苦しい。これらが必要となるのは税負担が少ないことと、負担した税が個々の家計を支えるための支出をあまりしていないためである。こうした循環が成り立っているのが日本の税と家計の姿である。

つまり、税等の負担が少なく、個々の家計に還元されない→固定家計費が必要→税負担が少ないが家計の痛税感は高い→増税を忌避し、納税を嫌い、自分以外の家計への還元を非難するような世論が形成、といった悪循環が日本では成立している。

税負担が少ないことは私には自明のことであり、この点には何の目新しさもなかったが、税の配分先として家計に戻ってくるものが少ないという点を改善しなければならないということが本書から得た収穫であった。もっとも、累進性を高めることによる増税が必要である、という私の年来の主張自体は変わらないが、増税をしても家計に戻ってこないのであれば(産業などに支出しても比較的高めの所得者を潤すだけであれば)この構図は変わらないので、まずは家計の生活を支える歳出の割合を増やす必要がある。

また、しばしば消費税の増税の議論などと絡めてマスメディアなどでは、日本は税負担が外国より少ないので、まだ増税の余地があると言われているが、固定家計費の高さを考慮に入れると、そのような言説で言われるほど増税の余地は大きくないということは理解しておかなければならないだろう。



 今回の日本型不況は、ヨーロッパ各地を1970~80年代に襲った不況に酷似しており、当時の各国が抱えこんだ悩みや苦しみを真摯に受け止め、先見の明をもって研究と分析を行っていたならば、諸国での教訓が生きて日本は不況をこれほど長く体験することはなかったと想像できる。(p.43)


私は著者が言うほど、1990年代以降の日本の「不況」と70年代頃のヨーロッパの不況とが似ているとは思わない。日本ではデフレだが、当時のヨーロッパはスタグフレーションでありインフレの状態であったことなどを見てもそう言える。ただ、経済成長が鈍い中でどのような社会を構築することで対処するかという問題を考える場合、当時のヨーロッパ諸国がとった対応をよく知っておくことは有益ではないかという気がしており、そうした志向という点では著者に共感できるところがある。

また、日本の「不況」と言われるものの構造的な要因の一つは90年代後半から始まった生産年齢人口の減少であり、今後は総人口も減少していくことである。この点も当時のヨーロッパとは状況としては異なっているが、人口の増加率が下がらないようにする対策と言う意味では学ぶべきものがあると思う。本書の上記の指摘は、事実認識としては疑問だが、それが志向するものとしては大きく間違っていないという点が逆に興味深い。


寺内順子 『検証!国保都道府県単位化問題 統一国保は市町村自治の否定』

 保険者が都道府県と市町村になったのですが、実質的には国保の様々な実務(賦課、徴収、給付や健診等)は市町村が行います。しかし、市町村のみの単独運営であったこれまでの国保との最大の違いは都道府県が国保財政をにぎるということで、これにより都道府県が大きな権限をもつこととなります。
 ……(中略)……。つまり、財政を握ることによって医療費適正化、医療費の削減をやろうとしているのです。(p.14-15)


国(中央政府)がこの制度改正(国保の都道府県単位化)でやろうとしていることは、医療費削減による財政支出の削減にあるというのは、核心的なポイントを突いていると思われる。なお、もう一つ加えると、中央政府は財政責任を放棄し、都道府県に財政責任を転嫁することにより、医療費削減による歳出削減が思うように進まない場合でも中央政府の財政が悪化しないようにするということに、この制度改正の狙いはあると考えるべきだろう。



 ただし、このガイドライン及び都道府県国保運営方針そのものも、その扱いは、あくまでも「技術的助言」であるということが冒頭明記されています。
 技術的助言とは、地方自治法第245条の4第1項等の規定に基づき、地方公共団体の事務に関し、地方公共団体に対する助言として客観的に妥当性のある行為を行い、又は措置を実施するように促したり、又はそれを実施するために必要な事項を示すものです(「総務省における今後の通知・通達の取り扱い」平成26年7月12日付)。
 ですから、ここに書かれている内容は「法的拘束力」を持つものではなく、地方公共団体の自主性と自立性に配慮されたものでなければならないのです。(p.21-22)


都道府県化(都道府県が保険者となり、市町村はそこから受託して窓口のみを置く形態)ではなく、都道府県単位化となったことによるある種の齟齬を解消する際に「運営方針」が活用されることが予想される。例えば、市町村ごとの判断で行っている給付や減免などの判断基準について都道府県内で統一すべきだと都道府県や域内の市町村が考えた場合、運営方針にその統一基準を明記したりして対応することになるだろう。

ここで「法的拘束力」がないという認識が重要になる。国保運営方針は基本的には(域内の全市町村が同意しないかぎり)あるひとつの判断基準で都道府県内の取り扱いを統一するように指示することはできない代物であり、内容自体も市町村の自主性・自立性への配慮が必要である。こうすることにより、仮に運営方針にある基準が示されたとしても、あくまでも「技術的助言」に過ぎず、個々の市町村では実状にそぐわないと判断される場合には、市町村は当該基準とは異なる判断を下すことができるということが明確となる。

しかし、本書のこの箇所で指摘されていないのは、保険料算定や調整交付金のような仕組みによる財政面からの都道府県から市町村への統制が可能であり、この拘束力は上記の運営方針以上に強いものになる可能性が高いという点である。市町村は財政を握られている以上、運営方針と異なる基準で運営しようとしても、財政上の措置を運営方針と紐付けされてしまえば、実質的には運営方針に従わざるを得なくなる。新制度の運用開始後は、こうしたことがどの程度行われるかに注視が必要であるように思われる。



 地域の実態とかけはなれた標準化、統一化は被保険者にとってはデメリットでしかありません。(p.64)


重要な指摘。中央政府のナショナル・ミニマム放棄と結びついた医療費削減のための制度となっている以上、都道府県が標準化や統一化をする内容の(すべてではないにせよ)多くは医療費を削減する方向に向かうことが予想されるからである。

望ましい改革の方向は、現在進められているようなものではなく、中央政府が保険者となって財政を保障するような方向性であり、保険としての側面の強調ではなく、社会保障としての側面を強調していくことである。なお、その分の財源は累進的な課税によって賄うべきだと考えている。


大阪社会保障推進協議会 『住民運動のための国保ハンドブック2012』(その2)
 2012年1月24日の「国民健康保険制度の基盤強化に関する国と地方の協議」での「国保の構造的な問題点」(32頁)のひとつに「財政運営が不安定になるリスクの高い小規模保険者」と書かれています。しかし、実際には小規模自治体で国保会計の赤字のところはなく、赤字なのは、大規模自治体、そして大都市自治体だけです。(p.39)
興味深い指摘。中央政府が国保の都道府県単位化をしようとするときに言われている理由が事実と異なっていると認識しておくことは重要。


 和歌山県上富田町ではここ数年、特定健診の受診率が伸びている。必須項目に加えて町では、町医師会の意見や住民の要望を踏まえ、尿酸値や腎機能を調べる検査も受けられるようにしている(いずれも無料)。その結果、健診が始まった2008年度と2009年度の受診率は、それぞれ22.1%、23.9%と低調だったが、集団健診の回数を増やしたり、医療機関へ直接行けば受診できるようにしたりした。電話や自宅への訪問でも受診を促した。11年度からは、普段から通院している場所でも受けられるように、対応する医療機関を田辺市や白浜町にも広げた結果、受診率は10年度に38.8%、11年度は40.1%になり、県内の市町村別でもトップクラスに急激に改善した。(p.80)
今後の国保の都道府県単位化が行われる際の保険者に対する評価指標の一つとして特定健診の受診率などが使われそうな情勢だというが、工夫次第でかなり受診率が伸びることがあるというのは興味深い。医療機関に直接行けば受診できるようにしたというのは、受診券などを予め配布せずに済ませるということだろうか?重複受診の排除などはどのようにしてコントロールしているのか気になるところではある。医療機関からその都度保険者に受診者を連絡するとか?集団健診とはどのようなものなのかも気になる。


 国保は公的な医療保障制度であり、病気や怪我のときに使えなければ制度の意味はありません。保険料を払っていようがいまいが、加入していようがいまいが、病気や怪我の人が目の前にいるときには、自治体は保険証を発行しなければならないのです。(p.90)
基本的人権のようなものを考えれば確かに本書の言うことは理に適っているのだが、制度としては「措置」ではなく「保険」制度になっている問題と、まっとうに保険料を払ってきた人と意図的に保険料を払っていない人がいたとして、これらの人が同じ扱いを受けられるとしたら、そこでの公平性はどうなるのか?という問題は残る。本書のような主張を思う存分行うためには、保険ではなく措置にするよう求めるべきだというのが私の見解である。保険である以上は、保険料を払わない場合は多少の不都合があるのもやむを得ないと認める合意が成立しているということではないのか。(なお、払えない場合は減免制度がある。)

7割の保険給付がなかったとしても、10割負担で医療費を払えば医療を受けられるのだから医療へのアクセスが完全に断たれたわけではないということも考慮すべきではないか。むろん、このような考え方は酷だという意見はあり得るだろう。ただ、保険料の支払いを回避し続けてきたような人が、都合が悪くなった時(医療が必要になった時)だけメリットを享受できるような制度が公正だとは私には思えない。一時的な医療の給付を行うのだとすれば、例えば、それ以後の保険料を一般的な保険料よりも重課し続けるなどのペナルティが必要ではないか。(もちろん、加算分は減免制度でも原則として減免されるべきではない。)

保険であることからこうした結論が導かれるのであり、私がより理想的だと考えるのは医療給付を税で賄うやり方であり、もちろん、そのために必要なだけの税を集めるべきだ(さらに言えば、政府全体として予算の全額を税で賄うべきであり、一般会計で言えば税収は50兆円前後ではなく90兆円以上必要だ)と考える。


 条例減免制度は市町村国保であるからこそできるもので、広域化されれば必ず今あるものがなくなります。(p.104)
確かに。都道府県単位化によりこうしたデメリットが生じることは十分にあり得る。