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権丈善一 『ちょっと気になる社会保障 知識補給増補版』(その2)

 また、政府規模の国際比較で押さえておいてもらいたいことは、図表54のように、基礎的なインフラが整備された後は、政府の規模を大きくしていくのは社会保障になるということです。
 これは動かしがたい事実でして、結局、小さな政府なのか、大きな政府なのかは、「貢献度」に基づいて市場が分配した所得を「必要度」に応じて分配し直している度合いが小さいか、大きいか、家計における人々への必要の充足を個々の家計の責任に強く求めるかどうかできまっているわけです。そして日本は、社会保障が小さいだけではなく、少し信じられないかもしれませんが、社会保障以外の政府支出も小さな国であるわけです。
 こう言うと、「だって公務員が多くて、ムダ遣いしているという話が多いじゃないか」という話になります。そこで、国際比較ができる形にOECDがまとめたデータを見れば、日本の「労働力人口に占める公務員の割合」は、図表55の一番右、すなわち最も少ないことが分かります。このあたりのことを詳しく分析した本として、前田健太郎東大准教授が2014年に上梓された『市民を雇わない国家――日本が公務員の少ない国へと至った道』などがあります。(p.124-125)


ここに書かれている基本的な事実は、私としてはほぼ「何を今さら分かりきったことを…」といった内容だが、社会保障や財政に関する問題が政治利用されており、厖大な「印象操作」が行われているため、あまりまともにこうした問題を調べたことがない人にはこうしたことをきちんと伝えなければならない状況となっている。

なお、『市民を雇わない国家』は面白そうなので読んでみようと思う。



そして厚生年金の適用拡大は、基礎年金全体の給付水準の引上げにも寄与することが、2014年(平成26年)の財政検証で明らかにされました。その理由は、厚生年金の適用拡大が進むと、数が減った第1号被保険者1人当たりの国民年金積立金が増えるからです。(p.153)


なるほど。厚労省が適用拡大に向けて動こうとしている気配があるのはこうした理由があるからだったのか。政府の動きはいろいろと胡散臭いものが多いが、この動きは推進してよい方向と見ておく。



 民主主義社会においては、そうした合理的に無知であることを選択した有権者の耳目にまで情報を運ぶコストを負担できる者、すなわちキャンペーンコストを負担することができる者が多数決という決定のあり方を支配できる権力を持つことができます。そしてキャンペーンを通じて有権者の耳目まで情報を伝達するコストの負担は財力に強く依存します。資本主義社会の下で財力を持つ集団は経済界ですから、民主主義というのは、経済界が権力を持ちやすく、そこでなされる政策形成は経済界に有利な方向にバイアスを持つことになるという民主主義の特徴を、僕は「資本主義的民主主義」と呼んできました。(p.181-182)


様々な政府による規制を緩和したり、資本移動のグローバル化を進めると、こうした経済的に豊かなアクターたちはより一層有利な条件を獲得できる。すなわち、デモクラシーの方法に基づいて権力を自己の利益のために利用できる度合いが高まる。これにより中間層以下の人々の生活は苦しくなるが、政府はこうした人びとの役には立たない。こうして「現在の政治体制」への不満が高まることで、ポピュリズムないし極右ポピュリズム政党の台頭(ヨーロッパ、アメリカ、日本など)をもたらしている。



もし、余命幾ばくと宣言されていない人が、当面の生活費を工面する方法があるのならば、可能な限り遅く受けとりはじめることをお勧めします。70歳で受給しはじめる年金は、60歳で受給できる年金額の約2倍になり、それを亡くなるまで受け取ることができるわけです。(p.188)


年金受給開始年齢をどう考えるかという問題について参考になった。年金が保険であることについて理解しておく必要がある。



 年金受給権のある人には、そのいくぶんかは生活保護の補足性の原理から外すということである。現在の生活保護制度のもとでは、年金収入があればその分は保護費が減らされる。結局、未納者と同じ生活水準となり、過去において保険料を納付したり免除手続きをとったりしてきた意味がなくなってしまう。(p.221)


なるほど。興味深いアイディア。ただ、生活保護の最低生活費は(世帯の人数にもよるが)水準が高すぎるので、その水準を少し削った上で基礎年金満額受給者の生活費は現行の最低生活費を若干上回るといったような設計が良いのではないかと思う。


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権丈善一 『ちょっと気になる社会保障 知識補給増補版』(その1)

 でも残念ながら、日本にはフュックスやスティグリッツのような、社会保障を論じることができる一流の経済学者がいなかったように思えます。そのため、社会保障を論じる上で極めて重要である制度や歴史を知らないままに、経済学者が社会保障の世界に参入してきたために社会保障のまわりの議論が荒んでしまいました。それゆえに、きわめて容易に政治家たちが政争の具として社会保障を利用しやすい環境が生まれてしまったように思えます。この10年、日本の社会保障はこれ以上ないほどに政争の具とされてきました。その政争の過程では、現在の制度が国民に憎悪の対象として受け止められるように政治的に仕立て上げられていくわけですから、その時代に生きていたみなさんの意識の中には、社会保障へのいくつもの誤解、そうした誤解に基づく制度への憎しみが深く刻まれていったのではないでしょうか。(p.xii)


社会保障に限らず、税や官僚(公務員)、さらには行政全般に対して憎悪を生み出すような誤解と無理解が横行するようになっているのが日本の社会の特徴ではないかと私は考えている。著者が社会保障に対して指摘するように、より広く行政のあり方全般に対して議論が荒んでおり、政争の具にされやすい環境にあると思う。

こうした諸問題に対して正しい理解を広めるにはかなり長い道のりが必要であるように思われる。



 「扶養負担を表す指標――所得というパイを何人で生産しそこで生産されたパイを何人に分配するのかを表す指標――として最も適切なものは中高校生の教科書に図示されているような65歳以上の高齢者に対する65歳未満人口の比率ではなく、就業者1人当たりの人口であるということは「論理的、学問的にはすでに決着がついている」」と書いています。(p.2-3)


確かに。65歳以上であっても働いている人が多ければ、単に65歳という年齢で区切っても意味はない。



(前略)質問している記者は、207兆円の1割から2割、すなわち約20.7兆円から41.4兆円、1万円の束で207キロメートルから414キロメートルに関する質問をしていると思うのですけど、いつの間にか、50センチ、すなわち5,000万円の話になっているのが分かると思います。
 ……(中略)……。日本に蔓延している政府不信、官僚不信の源には、こうした「計数感覚」というのが関わっているわけでして、計数感覚というのは我々国民が、生活や社会保障を政治から守るために大切なセンスであるとも言えます。(p.33)


全く同感である。私が想起する所では、例えば何年か前に「事業仕分け」とか(霞が関)「埋蔵金」という言葉が流行ったことがあった。あのときに巷にあふれた議論は「計数感覚」が欠如した議論の典型であろう。あの時、私は例えば「埋蔵金などない」という議論をしていたが、誰もまともに取り合わなかったように思う。今から思い返して、何かものすごい「埋蔵金」が見つかったと言える人はいるだろうか?



 もっとも、北欧のように租税への依存が強くても社会保障の給付が安定しているところがあるではないかという意見もあります。彼の国とわが国の違いを言うとすれば、北欧などは、財政支出の中でも生産関連社会資本より生活関連社会資本を日本よりも重視する特徴があるわけですが、それは日本よりも労使関係における労働側の力が強いことが原因であったりもするわけです。(p.55)


この指摘の意味は最初よく分からなかったが、こういうことだろうか?生産関連社会資本より生活関連社会資本を政府が重視することと、労使関係との関係は、労働側と使用者側の直接の交渉力の問題というよりも、労働側と使用者側それぞれの政府に対する影響力の強さがどの程度あるかが、生産関連と生活関連の社会資本への財政支出がどちらの側に重点的になるかということに影響する。すなわち、日本のように使用者や資本家(投資家)が政府に行使できる影響力が強ければ、企業が生産を行うための生産関連社会資本が整備されやすい。これに対し、労働者の政府に対する影響力が強ければ、個々人の生活をより直接サポートする方向で財政支出するように働きかけるから生活関連社会資本の側により多くの支出がなされる。この点に対する説明をもう少し詳しく知りたい。



 なお、小さな政府とは奢侈品が豊富にある社会であり、政府が大きくなるにつれて奢侈品が減り生活必需品が増えていく――日本は、今でさえ「小さすぎる政府」であるため、「ある程度大きな政府」にした方が、確実に住み心地のよい社会になる。(p.89)


政府の財政規模と奢侈品・必需品の多寡という問題はあまり考えたことがなかったが、言われてみるとそうだ。例えば福祉や教育のサービスなどに財政が使われる方が、このための費用を税で徴収せずに自由に使途が決められる場合、確実にこれ以外の奢侈品に使われる分の金が発生するだろう。

日本が小さすぎる政府だというのも私も10年以上前から言い続けており、もっと財政規模を大きくした方が生活はよくなると考える点は権丈氏と同意見である。


竹崎孜 『スウェーデンの税金は本当に高いのか』(その2)

 しかも国内ではとかく、日本社会の高齢者増加が世界のどの国も経験したことのなかった非常事態として、不可抗力だったかのごとく強調されてきた。ところが、スウェーデンでは、1890年に世界に先駆けて高齢化社会となり、1975年には遂に高齢社会へ突入したが、国民の生活安定を図る政治をいち早く展開していたので、高齢社会をものともしなかった。
 日本は、視線が経済成長へ向いても、国民生活からは目をそむけ、あげくには長寿化に付随する数々の社会変化を無視したため、社会問題を山積させてしまったのである。(p.52)


最後の一文の指摘は、日本の政治と社会の関係を的確に指摘していると思う。



 国民へ還元される予算のうち、なかでも生活にもっとも密着するものが社会保障関係である。旧総理府がかつて公表した古い資料によれば、税・社会保険料に対する社会保障還元率の比較表では、第1位がスウェーデンの75.6%、引き続いて英国やドイツがおよそ59%、そして米国が53.2%となっているのに比べて、日本は41.6%の最下位にとどまっていた。(p.53)


予算を生活を直接支えるために使わないのが日本の特徴であり、このため各家計では本書の言う「固定家計費」が多額に必要となり、これが階層が固定化され、貧困層の厚みが減らないことにつながるなど、様々な社会問題へと繋がっていく。

税収がもっと必要であるとしても、税収の配分(産業から生活へ)も見直しが必要である。なお、税収を得る方法は、もちろん累進課税を強化するような方向性以外には適切なものはないということは付け加えておく。



高校や大学への進学のためには学校の勉強だけで充分とされ、成績表すら小学6年までは競争心をあおるとして廃止となった。(p.66)


成績表の廃止というアイディアはいろいろと考えさせるものだ。確かに、数字や三重丸などの他人と比較できるような評価を科目ごとにつけることは、このくらいの年齢の子どもには必要ないかもしれない。ただ、日ごろの取り組みの様子や達成の度合いに対して、一律で比較できる記号によってではなく、教師側からの言葉によるフィードバックという形をとることなどは考えられるように思う。そうしたやり方は教師側の負担増となり、そちらの面も含めて総合的に考えていく必要がある。



ただし、働きながら将来の進路を探り、やがて大学などでの勉学を再開するのが通例となっており、高校から大学への直行ではなくても不利でないばかりか、むしろ、熟考ののちに将来像を描くほうがかえって有利とされる。(p.66)


この仕組みは良いと思う。現在の日本の学校制度では、学校を卒業して就職するにしても、高校や大学を出た後の職業について具体的なイメージを持つことが難しい。生徒や学生はそうした中で就職先の選択を迫られる状況である。スウェーデンのように高校を出たらいったん就職した上で、自身の適性や仕事の具体的な内容などを理解した上で大学で学び直すというシステムには合理性がある。ただし、大学がそうした知識を授けたり、そのために必要な議論をする場として機能すれば、という条件が加わるので、日本の大学にこうしたことが期待できるのかは、やや心もとない気はするが。



「税金は、あらゆる社会で国民的目的の共同費用として集められるが、国民が税金をいくら払うのかは、社会が引き受けた健康、介護、教育、住宅などに関する責任範囲で決まる」(p.95)


これはスウェーデンの繁華街にある広報センターで配布されている資料の序文であるという。

こうした説明は日本ではなかなか受けることができない。学校でもメディアでもこうした基本的な考え方は明確に説明されることがない。まずはこうした知識環境から変わる必要があるように思う。



 課税が経営へおよぼす悪影響はなるほど一部企業にはあてはまるであろうが、税金を支払えない企業であれば、おそらく生産性は低い、賃金は安い、労働時間は長い、あげくに雇用は不安定など、労働者の職と生活の安定をおびやかしており、それだけでも社会の利益に反するという。よって、自由競争に耐えられない企業は、将来の発展性も期待できないから淘汰が望ましい、と容赦しない。
 ……(中略)……。
 社会保障税が制度化された根拠のひとつは、企業の人材育成や教育にかかる費用のすべては公費、すなわち税金が投じられており、したがって、社会が育成した人材のコストを支払う責任が企業にはあるとされる。さらには、企業活動が可能であるのも、社会のインフラストラクチャーが利用できるからであって、この視点からも社会コストは企業経費に含められるべき、つまり費用の分担をすべきと解釈される。(p.123-124)


スウェーデンで社会保障税が全額企業負担の税とされる理由。非常に筋の通った考え方になっていると同時に、日本の考え方がいかに企業に甘いのかということも感じさせられる。

税金が払えない企業は被用者の労働環境も悪いだろうというのは使える論理だと思う。さらに言えば、税金を払いたくない企業であれば、同じように被用者からも搾り取ろうとするだろうから労働環境も悪いだろう、とも言うべきであり、こうして内部留保や経営側の超高額報酬も可能となっていると捉えるべきだろう。

倒産した後に次の企業が現れるかどうか、失業者のうち教育やスキルが十分高くない者が再就職できるかどうか、といった問題が日本での議論からは出て来るだろう。スウェーデンでこうしたことが日本ほど問題とされないように見えるのは、それ以前の教育制度や再就職までの社会保障・職業訓練などが充実しているからであるように思われる。本書を通して見えてくる日本社会の問題点からは、生活を保障する体制がないことがどのような制度改革にもつきまとう障害となっていることがわかる。


竹崎孜 『スウェーデンの税金は本当に高いのか』(その1)

 国民全体の税金負担は、国の税収全体に占める税金と社会保険料の合計によって計算できるとされるが、他方、個人負担のほうは、家計との比較や関係から割り出すほかはないであろう。……(中略)……。
 ……(中略)……。税負担とはこのように、家計や所得との三者関係から成り立つ
 ……(中略)……。
 今日では、家計構造についての信頼できる資料がなかなか見当たらないなか、それでもなお家計概要の推測はできよう。その際に重要なことは、税金と社会保険の負担率を明らかにすることのほかに、これまで見落とされがちであった学校や予備校・学習塾にかかる費用、多数ある民間保険の料金、貯蓄など、月々の家計出費の中でこうした絶対的に避けられない支出を見据えることである。それらをここでは「固定家計費」と命名しておこう。
 ……(中略)……。さらには、民間保険費用が家計に食い込むのは、税金と社会保険料などを払いながらも、公的保障だけでは不安で、さらに補強するのが目的であるだけに、こうした出費を省いてしまえば、生活不安が増幅してしまうからである。
 ……(中略)……。
 世界には、貯蓄に励む理由が見つからないという国民もいる。……(中略)……。
 それが日本人ならば「生活が不安だから貯蓄しておく」、あるいは「生活に困らないために貯蓄する」と、不安に追い立てられる様子を物語る。最後の言葉が象徴するように、日本での貯蓄とは、失業や傷病時の生活費、医療費、教育費、それに老後生活費を準備するものとなっている
 いずれにしても、税金による国民生活の支援や社会的セーフティネットの不備を露呈しているのと同時に、社会保障や社会保険制度の水準の低さを裏づけており、税金を支払いながらも、固定家計費の追加がどうしても不可欠で、こうした出費である貯蓄は、税金と社会保険料と並ぶ費用として合算されるべき家計支出であることを忘れてはならない。
 それも日本の家計を分析すると、税金や社会保険料に加えた固定家計費用の大きさが特別に目立つ。日本では、税金が安いと言い伝えられてきたのにもかかわらず、社会的・公的保障水準の低さがそのまま生活不安の拡大へつながっており、それぞれの家計は自力を頼みとする防衛策のためになんとか捻出しようとするのが固定家計費であって、それが生活をさらに圧迫している。(p.24-27)


本書のタイトルになっている問いに対して答えるにあたってのキー概念である「固定家計費」の考え方を説明した箇所より一部抜粋した。ここで示された考え方は日本における公的負担と公的支出のあり方を考える際に非常に参考になるものである。

固定家計費の代表的なものは教育関係費、民間保険料、貯蓄であるが、こうした固定家計費の日本の家計では支出が大きい。税や社会保険料が安くても、これらが高いので家計は苦しい。これらが必要となるのは税負担が少ないことと、負担した税が個々の家計を支えるための支出をあまりしていないためである。こうした循環が成り立っているのが日本の税と家計の姿である。

つまり、税等の負担が少なく、個々の家計に還元されない→固定家計費が必要→税負担が少ないが家計の痛税感は高い→増税を忌避し、納税を嫌い、自分以外の家計への還元を非難するような世論が形成、といった悪循環が日本では成立している。

税負担が少ないことは私には自明のことであり、この点には何の目新しさもなかったが、税の配分先として家計に戻ってくるものが少ないという点を改善しなければならないということが本書から得た収穫であった。もっとも、累進性を高めることによる増税が必要である、という私の年来の主張自体は変わらないが、増税をしても家計に戻ってこないのであれば(産業などに支出しても比較的高めの所得者を潤すだけであれば)この構図は変わらないので、まずは家計の生活を支える歳出の割合を増やす必要がある。

また、しばしば消費税の増税の議論などと絡めてマスメディアなどでは、日本は税負担が外国より少ないので、まだ増税の余地があると言われているが、固定家計費の高さを考慮に入れると、そのような言説で言われるほど増税の余地は大きくないということは理解しておかなければならないだろう。



 今回の日本型不況は、ヨーロッパ各地を1970~80年代に襲った不況に酷似しており、当時の各国が抱えこんだ悩みや苦しみを真摯に受け止め、先見の明をもって研究と分析を行っていたならば、諸国での教訓が生きて日本は不況をこれほど長く体験することはなかったと想像できる。(p.43)


私は著者が言うほど、1990年代以降の日本の「不況」と70年代頃のヨーロッパの不況とが似ているとは思わない。日本ではデフレだが、当時のヨーロッパはスタグフレーションでありインフレの状態であったことなどを見てもそう言える。ただ、経済成長が鈍い中でどのような社会を構築することで対処するかという問題を考える場合、当時のヨーロッパ諸国がとった対応をよく知っておくことは有益ではないかという気がしており、そうした志向という点では著者に共感できるところがある。

また、日本の「不況」と言われるものの構造的な要因の一つは90年代後半から始まった生産年齢人口の減少であり、今後は総人口も減少していくことである。この点も当時のヨーロッパとは状況としては異なっているが、人口の増加率が下がらないようにする対策と言う意味では学ぶべきものがあると思う。本書の上記の指摘は、事実認識としては疑問だが、それが志向するものとしては大きく間違っていないという点が逆に興味深い。


寺内順子 『検証!国保都道府県単位化問題 統一国保は市町村自治の否定』

 保険者が都道府県と市町村になったのですが、実質的には国保の様々な実務(賦課、徴収、給付や健診等)は市町村が行います。しかし、市町村のみの単独運営であったこれまでの国保との最大の違いは都道府県が国保財政をにぎるということで、これにより都道府県が大きな権限をもつこととなります。
 ……(中略)……。つまり、財政を握ることによって医療費適正化、医療費の削減をやろうとしているのです。(p.14-15)


国(中央政府)がこの制度改正(国保の都道府県単位化)でやろうとしていることは、医療費削減による財政支出の削減にあるというのは、核心的なポイントを突いていると思われる。なお、もう一つ加えると、中央政府は財政責任を放棄し、都道府県に財政責任を転嫁することにより、医療費削減による歳出削減が思うように進まない場合でも中央政府の財政が悪化しないようにするということに、この制度改正の狙いはあると考えるべきだろう。



 ただし、このガイドライン及び都道府県国保運営方針そのものも、その扱いは、あくまでも「技術的助言」であるということが冒頭明記されています。
 技術的助言とは、地方自治法第245条の4第1項等の規定に基づき、地方公共団体の事務に関し、地方公共団体に対する助言として客観的に妥当性のある行為を行い、又は措置を実施するように促したり、又はそれを実施するために必要な事項を示すものです(「総務省における今後の通知・通達の取り扱い」平成26年7月12日付)。
 ですから、ここに書かれている内容は「法的拘束力」を持つものではなく、地方公共団体の自主性と自立性に配慮されたものでなければならないのです。(p.21-22)


都道府県化(都道府県が保険者となり、市町村はそこから受託して窓口のみを置く形態)ではなく、都道府県単位化となったことによるある種の齟齬を解消する際に「運営方針」が活用されることが予想される。例えば、市町村ごとの判断で行っている給付や減免などの判断基準について都道府県内で統一すべきだと都道府県や域内の市町村が考えた場合、運営方針にその統一基準を明記したりして対応することになるだろう。

ここで「法的拘束力」がないという認識が重要になる。国保運営方針は基本的には(域内の全市町村が同意しないかぎり)あるひとつの判断基準で都道府県内の取り扱いを統一するように指示することはできない代物であり、内容自体も市町村の自主性・自立性への配慮が必要である。こうすることにより、仮に運営方針にある基準が示されたとしても、あくまでも「技術的助言」に過ぎず、個々の市町村では実状にそぐわないと判断される場合には、市町村は当該基準とは異なる判断を下すことができるということが明確となる。

しかし、本書のこの箇所で指摘されていないのは、保険料算定や調整交付金のような仕組みによる財政面からの都道府県から市町村への統制が可能であり、この拘束力は上記の運営方針以上に強いものになる可能性が高いという点である。市町村は財政を握られている以上、運営方針と異なる基準で運営しようとしても、財政上の措置を運営方針と紐付けされてしまえば、実質的には運営方針に従わざるを得なくなる。新制度の運用開始後は、こうしたことがどの程度行われるかに注視が必要であるように思われる。



 地域の実態とかけはなれた標準化、統一化は被保険者にとってはデメリットでしかありません。(p.64)


重要な指摘。中央政府のナショナル・ミニマム放棄と結びついた医療費削減のための制度となっている以上、都道府県が標準化や統一化をする内容の(すべてではないにせよ)多くは医療費を削減する方向に向かうことが予想されるからである。

望ましい改革の方向は、現在進められているようなものではなく、中央政府が保険者となって財政を保障するような方向性であり、保険としての側面の強調ではなく、社会保障としての側面を強調していくことである。なお、その分の財源は累進的な課税によって賄うべきだと考えている。


大阪社会保障推進協議会 『住民運動のための国保ハンドブック2012』(その2)
 2012年1月24日の「国民健康保険制度の基盤強化に関する国と地方の協議」での「国保の構造的な問題点」(32頁)のひとつに「財政運営が不安定になるリスクの高い小規模保険者」と書かれています。しかし、実際には小規模自治体で国保会計の赤字のところはなく、赤字なのは、大規模自治体、そして大都市自治体だけです。(p.39)
興味深い指摘。中央政府が国保の都道府県単位化をしようとするときに言われている理由が事実と異なっていると認識しておくことは重要。


 和歌山県上富田町ではここ数年、特定健診の受診率が伸びている。必須項目に加えて町では、町医師会の意見や住民の要望を踏まえ、尿酸値や腎機能を調べる検査も受けられるようにしている(いずれも無料)。その結果、健診が始まった2008年度と2009年度の受診率は、それぞれ22.1%、23.9%と低調だったが、集団健診の回数を増やしたり、医療機関へ直接行けば受診できるようにしたりした。電話や自宅への訪問でも受診を促した。11年度からは、普段から通院している場所でも受けられるように、対応する医療機関を田辺市や白浜町にも広げた結果、受診率は10年度に38.8%、11年度は40.1%になり、県内の市町村別でもトップクラスに急激に改善した。(p.80)
今後の国保の都道府県単位化が行われる際の保険者に対する評価指標の一つとして特定健診の受診率などが使われそうな情勢だというが、工夫次第でかなり受診率が伸びることがあるというのは興味深い。医療機関に直接行けば受診できるようにしたというのは、受診券などを予め配布せずに済ませるということだろうか?重複受診の排除などはどのようにしてコントロールしているのか気になるところではある。医療機関からその都度保険者に受診者を連絡するとか?集団健診とはどのようなものなのかも気になる。


 国保は公的な医療保障制度であり、病気や怪我のときに使えなければ制度の意味はありません。保険料を払っていようがいまいが、加入していようがいまいが、病気や怪我の人が目の前にいるときには、自治体は保険証を発行しなければならないのです。(p.90)
基本的人権のようなものを考えれば確かに本書の言うことは理に適っているのだが、制度としては「措置」ではなく「保険」制度になっている問題と、まっとうに保険料を払ってきた人と意図的に保険料を払っていない人がいたとして、これらの人が同じ扱いを受けられるとしたら、そこでの公平性はどうなるのか?という問題は残る。本書のような主張を思う存分行うためには、保険ではなく措置にするよう求めるべきだというのが私の見解である。保険である以上は、保険料を払わない場合は多少の不都合があるのもやむを得ないと認める合意が成立しているということではないのか。(なお、払えない場合は減免制度がある。)

7割の保険給付がなかったとしても、10割負担で医療費を払えば医療を受けられるのだから医療へのアクセスが完全に断たれたわけではないということも考慮すべきではないか。むろん、このような考え方は酷だという意見はあり得るだろう。ただ、保険料の支払いを回避し続けてきたような人が、都合が悪くなった時(医療が必要になった時)だけメリットを享受できるような制度が公正だとは私には思えない。一時的な医療の給付を行うのだとすれば、例えば、それ以後の保険料を一般的な保険料よりも重課し続けるなどのペナルティが必要ではないか。(もちろん、加算分は減免制度でも原則として減免されるべきではない。)

保険であることからこうした結論が導かれるのであり、私がより理想的だと考えるのは医療給付を税で賄うやり方であり、もちろん、そのために必要なだけの税を集めるべきだ(さらに言えば、政府全体として予算の全額を税で賄うべきであり、一般会計で言えば税収は50兆円前後ではなく90兆円以上必要だ)と考える。


 条例減免制度は市町村国保であるからこそできるもので、広域化されれば必ず今あるものがなくなります。(p.104)
確かに。都道府県単位化によりこうしたデメリットが生じることは十分にあり得る。





大阪社会保障推進協議会 『住民運動のための国保ハンドブック2012』(その1)

 簡単に言えば、大企業は「人間の使い捨て」をやり、その後始末を国保に求めています。……(中略)……。
 健康な人を採用し、不健康になればリストラするのですから、会社の健康保険組合は大変に黒字を出し、ホテル顔負けの保養所やボーリング場、ゴルフ場をつくったりしました。その後、健保間の不公平是正のための「老人保健拠出金」の賦課などで財政的に窮屈になりましたが、大企業健保組合の管理者は企業幹部と役人の天下り先であり、企業負担の軽減しか考えていないようです。
 例えば、大手ゼネコン各社は現業労働者の多くを経営者負担のない「建設国保」に加入させています。企業の健保組合に加入させれば、すくなくとも健康保険料の半額は経営者が負担しなければならないからです。(p.12)


大企業の「人間の使い捨て」は、健康保険の分野で語るよりより直接的に雇用の分野で語る方が自然であり、より説得力が出ると思われる。健保組合ではなく建設国保に加入させているというのもそういった事例も多いのだろうが、健康保険ベースで考えたというよりは雇用形態をより流動的なものにしておくことで人件費を節減しようという企業側の意図があり、その中の一環として建設国保加入となっている、と言うことのように思われる。このため、この箇所のように健康保険ばかりに焦点を当てながら語るやり方は、まったく的を外しているわけではないにせよ、事実の論理的な結びつきを十分な説得力を持たせることができていないように思われ残念である。指摘していることは基本的に間違っていないだけにもう少し説得力があるやり方で語って欲しい。



まず「戦前・戦中の日本に国立病院はありましたか?」という設問です。「あった」「なかった」で答えるのはちょっと難しいのですが、戦前・戦中に存在した国立の医療機関は国立大学付属病院とハンセン病療養所ぐらいでした。戦後生まれの国立病院・療養所のほとんどは元陸軍病院、元海軍病院、元日本医療団結核療養所、元傷痍軍人療養所など、戦争目的に集積された医療機関が、戦後改革のなかで、国民のための国立病院に生まれ変わりつつあったものです。
 しかし、1980年代に中曽根内閣の「戦後政治の総決算」路線のなかでつぶされつつあります。(p.15)


国立病院のほとんどが、もともとは戦争目的の医療機関であったというのは意外だったが、言われてみればなるほどと思わされる。国民全体の健康や衛生の向上よりも軍事に関する対応の方が戦前にあっては優先順位が高かったとしても不思議はないからである。戦後はより公共的な機関になろうとしていたのに、中曽根内閣以後の新自由主義的な改革によって公共性よりも私的な利益を追求せざるを得ない状況へと追い込まれているというところか。



 1983年に「老人医療費無料制度」にかわって「老人保健制度」が、1984年には「退職者医療制度」「高額療養費制度」が始まり、国庫支出金の負担が「給付費×50%」となりました。
 実は、これらの新しい制度は「国庫支出金」を減らし、医療保険同士、また国保同士の助け合いの財政運営に変えるという目的があったのです。(p.24)


なるほど。いろいろと名目は違うように見えても、本音では中央政府の財政責任を回避するという共通目的があったということか。

2008年に創設された後期高齢者医療制度や2018年から始まる国保の都道府県単位化などもこれと共通の目的をもつ動きの一環であると押さえておくことは重要である。



 高額療養費とは、病院などの窓口で支払う医療費を一定額以下にとどめる目的で支給する制度ですが、実は国保同士の助け合いの制度です。
 高額療養費には「高額医療費共同事業」と「保険財政共同安定化事業」があります。
 「高額医療費共同事業」は1件あたり80万円を超える保険給付費を国保50%、国庫負担25%、都道府県負担25%で拠出し、都道府県国保連合会にプールし給付します。
 「保険財政共同安定化事業」は1件あたり30万円以上80万円未満の保険給付費を都道府県ごとの国保から国保連合会に拠出させ給付する、いわば、国保同士で助け合う制度です。なお、2011年度の国保法改正で2012年度からは1円以上からとなりました。(p.25)


なるほど。言われてはじめて気づいた。高額療養費は確かに被保険者個人の立場から見れば、負担額を一定額以下にとどめる制度だが、そのための財政の仕組みに目を向けると「国保同士の助け合いの制度」という別の側面があることが分かるわけだ。



 「老人保健制度」が、75歳以上の高齢者と65~74歳の障害者を国保や健保に加入させたまま医療を保障するのに対し、「後期高齢者医療制度」は、高齢者を他の医療保険から完全に切り離します。これにより、「後期高齢者」の給付費増や人口増がそのまま高齢者の保険料にはね返るようになりました。この仕組みは介護保険の財政設計と同じで、「保険料か給付か」という選択が、高齢者にせまられることになりました。(p.25)


なるほど。確かに介護保険とほぼ同じような設計であり、今度は「高齢者同士の助け合いの制度」にしようという隠された(?)目的があることが指摘できるわけだ。ただ、高齢者を他の医療保険から完全に切り離すという表現は正確ではなく、行き過ぎていると思われる。というのは、他の医療保険は拠出金によって「後期高齢者」の医療費の一部を賄っているため、この割合を変化させることができれば、必ずしも後期高齢者自身に「保険料か給付か」という選択を突きつけるものになるとは限らないからである。

本書の指摘は、制度について政府が語らない隠された目的があることを見えるように指摘してくれている点で有益だが、論証の仕方には粗雑なところがあるのが残念でありまたもったいないと思う。


寺内順子 『基礎から学ぶ国保』

 総務省「平成26年度市町村税課税状況等の調」によると、26年3月31日現在、国保の市町村数は1742市町村で国保税が1505市町村(全体の86.4%)、国保料が237市町村(13.6%)です。(p.10)


法的には原則は保険料であり、それ以外に税を選択できるという作りになっているはずだが、制度の規定と実際の選択されている数の相違は興味深い。



また、納付回数もいろいろで3回から12回まであり、8回が最も多く684市町村(全体の39.3%)、次いで10回が438市町村(25.1%)となっています。(p.12)


納期が3回や4回というのは、恐らく市町村民税の納期と似たような時期に設定しているのだろうが、市町村民税より国保料(税)の方がかなり高額だろうということを考えると、そういう分割回数できちんと納付されるのかという疑問を感じたりする。8回とか10回というのは、恐らく市町村民税が確定する6月にほぼ同時に賦課(課税)して以後毎月分割にすると10回になり、市町村民税の更生が概ね終わって異動が少なくなった8月に賦課(課税)して以後毎月分割すると8回になるということか。確かにこの辺りが合理的という感じがする。

しかし、国保は納期までこんなにバラバラに運営されているのか、と驚く。給付の面は基本的な部分は法律や政令で決まっている部分が多いが、保険料は保険者にかなりの裁量があることがこの制度的な背景だろう。



 全国の市町村国保では、「国保料」としているところと「国保税」としているところがあります。概ね大都市は料で、それ以外は税としている市町村が多いようです。
 国保税の場合は、税率を条例で規定する必要がありますが、国保料の場合は算定方式のみを条例に規定し、具体的な率や額は告示でよいとされています。(p.29)


大都市とそれ以外で選択が分かれている理由は何なのか?興味を惹かれる。税(料)率を条例に規定する必要があるか、告示でよいかという相違ではここは説明されないように思う。時効が5年か2年かという違いも指摘されているが、大都市の方が人の出入りが多いので時効が短い方が事務的には楽になる(収納率も上がる?)という側面はあるかも知れない。



 「旧ただし書き」方式(注)による所得とは、地方税法でいう総所得金額(給与所得控除、公的年金等控除、事業所の経費等を控除した額)と山林所得金額および土地の譲渡等にかかる所得から基礎控除額(33万円)を控除(引いた)した金額のことです。
 この所得の場合、総所得から基礎控除を引いただけなので、低所得者、多数家族、障害者、病人がいる世帯の所得割額が高くなります。(p.32)


「本文方式」であれば住民税の税額に比例して所得割が算出されるため、扶養控除や障害者控除、医療費控除などが適用された後の税額に比例した所得割額となるが、厚労省がこちらのほうに統一しようとしている「旧ただし書き」方式では、所得に比例して所得割額が決まるので本文方式や住民税と比べて逆進的になっているという指摘。



 都道府県単位化にしても、たとえば京都府であれば、京都市次第でなんでも決まってしまう、ということです。保険料賦課の基礎となるのは保険給付ですから、都道府県単位化されれば京都市の保険給付で決まり、小規模自治体の状況は、まったく反映しなくなります。(p.89)


都道府県単位化した際の保険料は、確かに給付が基礎になって決められるが、各市町村の保険料は都道府県から課されれる「納付金」の金額によって決まるはずであり、納付金の算定の方法は都道府県で決めることになっていたように思う。そうだとすれば、各市町村の給付額をベースにして納付金が算定されるような仕組みであれば、本書のような形にはならないのではないか。

もちろん、都道府県単位化は、給付抑制というか中央政府が財政責任を放棄する方向で医療費の負担を決めていくことをベースにして考えられているものだと考えるべきだろうから、これによって何かが良くなるとはほとんど考えにくいため批判しなければならないのは確かだが、本書のこの批判は少し的外れであるように思われる。



 無料低額診療事業は、経済的理由により適切な医療を受けることができない方に対して、社会福祉法にもとづいて、無料または低額で診療をおこなう事業です。
 この事業の認可を受けるには、「生活保護を受けている者及び無料又は診療費の10%以上の減免を受けた者の延べ数が、患者の総延数の10%以上」であることが条件で、事業認可されると、事業所は固定資産税の免除など税の優遇措置を受けることができます。全国の民医連や医療生協の事業所での実施が広がっており、「朝日新聞」では、2012年度は、全国558医療機関で実施、と報じられています。
 この無料低額診療制度は、あくまで医療機関の独自施策ですので、市区町村の一部負担金減免制度の不備を肩代わりするのは本末転倒です。さらに、この無料低額診療事業は薬代を減免することができません。(p.151-152)


確かに、国保の一部負担金減免制度は保険者の裁量に委ねられており、あまり積極的に行われていないのは恐らく確かだと思われる。そこで無料低額診療事業がその代替的な措置として選択される場合があるのだろうが、医療費が支払えないほど困窮しているが生活保護には至らない(あるいは受けたくない)という場合は、医療保険という「社会保険」の範囲でカバーするよりも社会福祉法に基づく「社会福祉」の制度によって支えられる方が妥当ではないか、とも言えるように思う。

国保を改善しようとする運動は結構だが、何でも国保に担わせればいいというものでもない。日本の社会保障は過度に保険に偏っているのだから、むしろ福祉制度の充実の方が望ましいのではないかと思う。上の例で言えば、国保の一部負担金減免を拡充するよりも無料低額診療制度を薬(薬局)にも適用できるようにするとか、そちらの方が適切な方向なのではないか。


神田敏史、長友薫輝 『市町村から国保は消えない 都道府県単位化とは何か』

 医療費を抑制する手法の1つとして、各都道府県は医療費適正化競争に巻き込まれていくことになります。医療費の実績に応じて、ある県では5年前と比べて医療費が増えている、他県よりも著しく伸びているから診療報酬をその県だけ下げる、ということが検討されています。(p.14)


国保の都道府県単位化についての議論だけを見ていると、今一つ全体の動きが見えてこなかったのだが、中央政府の意向としては都道府県に医療費適正化(抑制)のために様々な役割を負わせる方向で様々なことを決めてきており、国保でも都道府県に財政責任を割りあてる法改正を行ったのは、そうした流れのなかに位置づけなければならない、ということか。なるほど。



 データなどで受診行動を把握し、いわゆるデータヘルス事業を各自治体で積極的に展開する可能性があります。過剰な医療費抑制策の徹底が図られないよう、あくまでも社会保障として国保が医療保障の機能を発揮できるようにしなければなりません。(p.15)


データヘルス事業も医療費抑制のための手法として推進されているという認識には納得させられる。しかし、自治体にはそうしたデータを読み解くだけの専門知識がないと思われる。医療の専門家としての知見とデータを分析する専門家としての知見が必要だが、特に前者が不足していると思われるからである。



 国保に限らず社会保険は、保険料負担が困難な人も加入者になるということが大前提です。保険料負担ができなくても、保険給付サービスを受けることができます。
 だからこそ、保険料負担については、負担能力に応じたいわゆる「応能負担」の原則を徹底しなければ、負担能力の低い人が社会保険から排除されてしまいます。(p.19)


確かに、日本の社会保障は社会保険に大きく偏っているが、その社会保険でも応益負担的な考え方がかなり強いため、逆進的な構造が指摘されることがよくある。国保料については低所得者に対してはある程度の軽減措置があるため、高所得者の負担をもっと重くすることで医療費総額を確保しやすくすることは必要だろう。ただ、現行制度であまり累進的にし過ぎると、転出等で何人かの金持ちが出ていったことで保険料収入に大きな穴が開くなどということになるため、ある程度のバランスは必要になる。もっとも、市町村単位ではなく全国単位で運営すればこのような問題もほとんどなくなるが。(外国に逃げる人は言語や習慣などの問題もあるためあまり多くない。)



 また、この所得データは住民税データをもとにしますが、市町村によって申告不要とする「非課税者」扱いの範囲が異なっています。保険料(税)軽減所得判定や窓口負担限度額認定判定では「未申告者」がいる場合は対象外(低所得者扱いされない)となりますが、「非課税者」は「未申告者」としない取扱いをしている市町村も多く、取扱いが異なっている実態があります。(p.44)


国保は市町村ごとに運用等の判断の余地が大きいが、この箇所からは「未申告者」を「非課税者」扱いとしている市町村もあるとっも読め、そのような判断をしている市町村があるのだとすれば逆に驚きを感じる。未申告者が非課税扱いにならないのは、所得や担税力があるかどうか不明であるから、その段階では低所得者扱いをしないという考え方であると思われる。運用に裁量の余地があるのは悪いことではないが、未申告者を自動的に非課税者扱いするような扱いは不当であると思う。



 (2)の①であげる「国保運営方針」は、現在の「広域化等支援方針」の延長上にあるものと考えられています。
 つまり、都道府県に国保運営の責任を持たせ「保険料率算定方式」や市町村ごとの「標準保険料率」「標準保険料率算定に用いる目標収納率」を明記し、プログラム法にはない従来の考え方に基づく都道府県単位化=都道府県保険者論をつくり出そうとするものです。(p.51)


国保運営方針の策定に関する議論などからは、都道府県保険者論を市町村側がそれほどはっきりと意識せずに「イメージさせられている」ことが伺えるため、本書のこの指摘にはなるほどと思わされるところがある。



 市町村側は完全移行型での都道府県単位化へ強い志向を持っていたために、結果としては市町村議会での保険料(税)率の議論と決定権をはく奪されることになります。(p.51)


保険料率の決定権が市町村長、市町村議会、市町村国保運営協議会などによって行われてきていたが、都道府県単位化後の仕組みではこれらのアクターが関与する前に医療費総額と連動する形で予め標準保険料率が示されることになるため、自治権が弱まるという指摘。その背景には市町村が完全移行型の都道府県化の志向を持っていることがあるという。ある意味では国保による財政負担を手放したいと思って都道府県などに依存する考えがあったことが、自立や自律を阻害する要因へと具現化しつつあるとも言える。



 つまり、「標準保険料率」は、今回の都道府県単位化の目的である「地域医療提供体制の見直し」=「医療費抑制」を「被保険者に強要する手段」として設けられたと考える必要があります。(p.55)


論理的にはこのような関係性にあると思われるが、被保険者の立場から見れば、標準保険料率を直接見ることはないと思われ、総医療費がその標準保険料率と結びついていることも十分な理解はしないと思われる。むしろ、保険者である市町村がこの認識を強く持ち、医療費抑制に走る可能性が高いだろう。



 なお、今回決定された公費による財政支援の3,400億円は定率の負担ではありません。自治体の国保の財政状況は当然のことながら変動します。今後、国保の財政的な構造的問題の解決には、定額ではなく定率の負担による充実も求めていく必要があります。(p.87)


3,400億円の財政支援という形で中央政府は知事会を説得したわけだが、国保の人口構成などから考えると、(団塊世代が70代になっていく)これから数年間は総医療費は膨れ上がっていくことが予想される。そこに定額の国庫負担しかないとなると、市町村側にその負担が押し付けられ、一般会計からの繰り入れか保険料の引き上げかという選択を迫られることになるだろう。その意味では最低でも定率の国庫負担というのは必要であるように思われる。(定率であっても市町村の困難が増えること自体は変わらないが。)


川渕孝一 『国民皆保険はまだ救える 崩れ去る「公助」「共助」から「自衛」の時代へ』

 一彦氏の例を持ち出すまでもなく、最近、日本の病院は“お金儲け”に執着しすぎではないだろうか。それもそのはず。総務省が地方自治体に公立病院の再編計画の策定を求めているからだ。
 それにしても、総務省が2007年12月21日に公表した公立病院改革ガイドラインには全く哲学がない。同ガイドラインでは、公立病院を持つ自治体は08年度中に①経営効率化、②再編・ネットワーク化、③経営形態の見直し――この三つから改革プランを策定することになった。(p.57)


なるほど。私の住む地域でもここ数年、公立病院の統合などが市政の重要な課題となっていたが、市が独自にやり出したというよりは中央政府からの指示があって始まったことだったのかもしれない。必要性があるのは確かだが、ある意味では十分な合理性がないのに唐突に出て来た感があり、議論になったのはこうした背景があったからかもしれない。



通常「Disease Management(疾病予防)」というと、諸外国では二次予防(早期発見・早期治療)や三次予防(医学的介入による機能低下の防止)が中心テーマとなるが、わが国の疾病予防は生活習慣に関する行動変容という一次予防が対象となる。まさに世界でも稀有な“壮大な実験”がスタートしたわけだ。
 しかし、導入当初の混乱もあって、どの保険者も予想外に低い受診率に甘んじている。はたして国が考えたような医療費適正化効果が期待できるのだろうか。三年後には、その成否によって各保険者の後期高齢者への支援金の加減算が決定されるだけに事は重大だ。
 くしくも、海を越えた米国でも同種の社会実験が行われている。米国連邦議会で制定されたMedicare Coordinated Care Demonstration(MCCD)である。……(中略)……。
 肝心の研究結果だが、直近の25カ月間についてメディケアの医療費を総じてみると、どのプログラムも月ごとの医療費削減効果はなかったという。(p.103-104)


特定健診もアメリカの猿真似だったのか。しかも期待していた効果も得られないようなものだとは…。こういうアメリカの猿真似政策はいい加減にしてほしいものだ。



 日本の未成年者の喫煙率が高いのは、諸外国に比べてわが国の広告規制が極めて緩やかなことも関係している。実際、タバコの広告収入が広告代理店やマスコミの重要な収入源となっている。先行研究によれば、102カ国の高所得国では、タバコ広告の禁止により消費が減少することが明らかにされた。(p.171-172)


タバコの広告は禁止してほしい。



 そこで、「セカンドベスト」の介入としてタバコへの課税が有効とされる。特に大幅なタバコ増税は子どもの喫煙開始を妨げる非常に有効な手段であることが明らかになっている。(p.177)


タバコ増税は望ましい。



 すなわち、タバコ増税は、一部の消費者には「値上げ→コスト高→健康のために減煙」という抑制効果を生むが、多くの消費者には値上げに関係なく、「値上げ→政府の税収増」という現象が起こるのである。であれば、「財務省への気がね」は無用である。(p.179)


やはりタバコ増税は望ましい。



 トヨタ方式の生みの親、故・大野耐一氏によれば「『なぜ』と五回繰り返せ。そうれば原因ではなく真因が見えてくる」という。同氏によれば、「カイゼン」の基本的な考え方は次の四つだ。
①自分の工程で不良品を出すな。後工程が迷惑する。
問題があるかないかは、正常な(標準)状態がきちんと決まっていなくては見えてこない。だからカイゼンするためには標準化、つまり基準を作ることが不可欠。
③まず自分の手で標準作業書を書いてみよ。カイゼンをするためには、まず標準を決める。改善レベルが進むと標準のレベルを上げる。すると問題点が再び出てくる。
④カイゼンは少しずつ前進し継続される。(p.220)


有名な「カイゼン」だが、標準化の重要性というのはなるほどと思わされる。



 幸い、高齢者数の急激な伸びはあと5年で終わる。確かに高齢化率は今後も上がり続けるが、1947~49年生まれのいわゆる団塊の世代が65歳を超える2015年以降、高齢者数の伸びが緩やかになり、20年頃には頭打ちになる。つまり、2012~14年にかけての3年間が高齢化の最も急速に進む時期であり、その時期を過ぎると高齢者数の伸びが止まるのだ。さらに団塊の世代全員が75歳を超える25年以降、後期高齢者数の急激な伸びも止まり、30年以降は減少に転じる。だとすればそこまでが日本にとっての正念場だ。壊れやすい地球のような国民皆保険制度を、何とか救いたいものである。(p.276)


本書は2011年に出版されたので、現在は高齢者数の伸びが緩やかになる局面に入っている頃ということになる。2030年以降は社会の構成が問題なくなるかのように書かれているが、団塊の世代の多くが亡くなるであろう2035年頃には団塊ジュニア世代が60代になってくる。それより下の世代の数の少なさを考えると、2055年くらいまではそれほど楽な時代とは言えないかもしれない。

人口構成は社会の変動を考える上で非常に重要なので、きちんとデータを見ながら考えてみたい。