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大阪社会保障推進協議会 『住民運動のための国保ハンドブック2012』(その1)

 簡単に言えば、大企業は「人間の使い捨て」をやり、その後始末を国保に求めています。……(中略)……。
 健康な人を採用し、不健康になればリストラするのですから、会社の健康保険組合は大変に黒字を出し、ホテル顔負けの保養所やボーリング場、ゴルフ場をつくったりしました。その後、健保間の不公平是正のための「老人保健拠出金」の賦課などで財政的に窮屈になりましたが、大企業健保組合の管理者は企業幹部と役人の天下り先であり、企業負担の軽減しか考えていないようです。
 例えば、大手ゼネコン各社は現業労働者の多くを経営者負担のない「建設国保」に加入させています。企業の健保組合に加入させれば、すくなくとも健康保険料の半額は経営者が負担しなければならないからです。(p.12)


大企業の「人間の使い捨て」は、健康保険の分野で語るよりより直接的に雇用の分野で語る方が自然であり、より説得力が出ると思われる。健保組合ではなく建設国保に加入させているというのもそういった事例も多いのだろうが、健康保険ベースで考えたというよりは雇用形態をより流動的なものにしておくことで人件費を節減しようという企業側の意図があり、その中の一環として建設国保加入となっている、と言うことのように思われる。このため、この箇所のように健康保険ばかりに焦点を当てながら語るやり方は、まったく的を外しているわけではないにせよ、事実の論理的な結びつきを十分な説得力を持たせることができていないように思われ残念である。指摘していることは基本的に間違っていないだけにもう少し説得力があるやり方で語って欲しい。



まず「戦前・戦中の日本に国立病院はありましたか?」という設問です。「あった」「なかった」で答えるのはちょっと難しいのですが、戦前・戦中に存在した国立の医療機関は国立大学付属病院とハンセン病療養所ぐらいでした。戦後生まれの国立病院・療養所のほとんどは元陸軍病院、元海軍病院、元日本医療団結核療養所、元傷痍軍人療養所など、戦争目的に集積された医療機関が、戦後改革のなかで、国民のための国立病院に生まれ変わりつつあったものです。
 しかし、1980年代に中曽根内閣の「戦後政治の総決算」路線のなかでつぶされつつあります。(p.15)


国立病院のほとんどが、もともとは戦争目的の医療機関であったというのは意外だったが、言われてみればなるほどと思わされる。国民全体の健康や衛生の向上よりも軍事に関する対応の方が戦前にあっては優先順位が高かったとしても不思議はないからである。戦後はより公共的な機関になろうとしていたのに、中曽根内閣以後の新自由主義的な改革によって公共性よりも私的な利益を追求せざるを得ない状況へと追い込まれているというところか。



 1983年に「老人医療費無料制度」にかわって「老人保健制度」が、1984年には「退職者医療制度」「高額療養費制度」が始まり、国庫支出金の負担が「給付費×50%」となりました。
 実は、これらの新しい制度は「国庫支出金」を減らし、医療保険同士、また国保同士の助け合いの財政運営に変えるという目的があったのです。(p.24)


なるほど。いろいろと名目は違うように見えても、本音では中央政府の財政責任を回避するという共通目的があったということか。

2008年に創設された後期高齢者医療制度や2018年から始まる国保の都道府県単位化などもこれと共通の目的をもつ動きの一環であると押さえておくことは重要である。



 高額療養費とは、病院などの窓口で支払う医療費を一定額以下にとどめる目的で支給する制度ですが、実は国保同士の助け合いの制度です。
 高額療養費には「高額医療費共同事業」と「保険財政共同安定化事業」があります。
 「高額医療費共同事業」は1件あたり80万円を超える保険給付費を国保50%、国庫負担25%、都道府県負担25%で拠出し、都道府県国保連合会にプールし給付します。
 「保険財政共同安定化事業」は1件あたり30万円以上80万円未満の保険給付費を都道府県ごとの国保から国保連合会に拠出させ給付する、いわば、国保同士で助け合う制度です。なお、2011年度の国保法改正で2012年度からは1円以上からとなりました。(p.25)


なるほど。言われてはじめて気づいた。高額療養費は確かに被保険者個人の立場から見れば、負担額を一定額以下にとどめる制度だが、そのための財政の仕組みに目を向けると「国保同士の助け合いの制度」という別の側面があることが分かるわけだ。



 「老人保健制度」が、75歳以上の高齢者と65~74歳の障害者を国保や健保に加入させたまま医療を保障するのに対し、「後期高齢者医療制度」は、高齢者を他の医療保険から完全に切り離します。これにより、「後期高齢者」の給付費増や人口増がそのまま高齢者の保険料にはね返るようになりました。この仕組みは介護保険の財政設計と同じで、「保険料か給付か」という選択が、高齢者にせまられることになりました。(p.25)


なるほど。確かに介護保険とほぼ同じような設計であり、今度は「高齢者同士の助け合いの制度」にしようという隠された(?)目的があることが指摘できるわけだ。ただ、高齢者を他の医療保険から完全に切り離すという表現は正確ではなく、行き過ぎていると思われる。というのは、他の医療保険は拠出金によって「後期高齢者」の医療費の一部を賄っているため、この割合を変化させることができれば、必ずしも後期高齢者自身に「保険料か給付か」という選択を突きつけるものになるとは限らないからである。

本書の指摘は、制度について政府が語らない隠された目的があることを見えるように指摘してくれている点で有益だが、論証の仕方には粗雑なところがあるのが残念でありまたもったいないと思う。


寺内順子 『基礎から学ぶ国保』

 総務省「平成26年度市町村税課税状況等の調」によると、26年3月31日現在、国保の市町村数は1742市町村で国保税が1505市町村(全体の86.4%)、国保料が237市町村(13.6%)です。(p.10)


法的には原則は保険料であり、それ以外に税を選択できるという作りになっているはずだが、制度の規定と実際の選択されている数の相違は興味深い。



また、納付回数もいろいろで3回から12回まであり、8回が最も多く684市町村(全体の39.3%)、次いで10回が438市町村(25.1%)となっています。(p.12)


納期が3回や4回というのは、恐らく市町村民税の納期と似たような時期に設定しているのだろうが、市町村民税より国保料(税)の方がかなり高額だろうということを考えると、そういう分割回数できちんと納付されるのかという疑問を感じたりする。8回とか10回というのは、恐らく市町村民税が確定する6月にほぼ同時に賦課(課税)して以後毎月分割にすると10回になり、市町村民税の更生が概ね終わって異動が少なくなった8月に賦課(課税)して以後毎月分割すると8回になるということか。確かにこの辺りが合理的という感じがする。

しかし、国保は納期までこんなにバラバラに運営されているのか、と驚く。給付の面は基本的な部分は法律や政令で決まっている部分が多いが、保険料は保険者にかなりの裁量があることがこの制度的な背景だろう。



 全国の市町村国保では、「国保料」としているところと「国保税」としているところがあります。概ね大都市は料で、それ以外は税としている市町村が多いようです。
 国保税の場合は、税率を条例で規定する必要がありますが、国保料の場合は算定方式のみを条例に規定し、具体的な率や額は告示でよいとされています。(p.29)


大都市とそれ以外で選択が分かれている理由は何なのか?興味を惹かれる。税(料)率を条例に規定する必要があるか、告示でよいかという相違ではここは説明されないように思う。時効が5年か2年かという違いも指摘されているが、大都市の方が人の出入りが多いので時効が短い方が事務的には楽になる(収納率も上がる?)という側面はあるかも知れない。



 「旧ただし書き」方式(注)による所得とは、地方税法でいう総所得金額(給与所得控除、公的年金等控除、事業所の経費等を控除した額)と山林所得金額および土地の譲渡等にかかる所得から基礎控除額(33万円)を控除(引いた)した金額のことです。
 この所得の場合、総所得から基礎控除を引いただけなので、低所得者、多数家族、障害者、病人がいる世帯の所得割額が高くなります。(p.32)


「本文方式」であれば住民税の税額に比例して所得割が算出されるため、扶養控除や障害者控除、医療費控除などが適用された後の税額に比例した所得割額となるが、厚労省がこちらのほうに統一しようとしている「旧ただし書き」方式では、所得に比例して所得割額が決まるので本文方式や住民税と比べて逆進的になっているという指摘。



 都道府県単位化にしても、たとえば京都府であれば、京都市次第でなんでも決まってしまう、ということです。保険料賦課の基礎となるのは保険給付ですから、都道府県単位化されれば京都市の保険給付で決まり、小規模自治体の状況は、まったく反映しなくなります。(p.89)


都道府県単位化した際の保険料は、確かに給付が基礎になって決められるが、各市町村の保険料は都道府県から課されれる「納付金」の金額によって決まるはずであり、納付金の算定の方法は都道府県で決めることになっていたように思う。そうだとすれば、各市町村の給付額をベースにして納付金が算定されるような仕組みであれば、本書のような形にはならないのではないか。

もちろん、都道府県単位化は、給付抑制というか中央政府が財政責任を放棄する方向で医療費の負担を決めていくことをベースにして考えられているものだと考えるべきだろうから、これによって何かが良くなるとはほとんど考えにくいため批判しなければならないのは確かだが、本書のこの批判は少し的外れであるように思われる。



 無料低額診療事業は、経済的理由により適切な医療を受けることができない方に対して、社会福祉法にもとづいて、無料または低額で診療をおこなう事業です。
 この事業の認可を受けるには、「生活保護を受けている者及び無料又は診療費の10%以上の減免を受けた者の延べ数が、患者の総延数の10%以上」であることが条件で、事業認可されると、事業所は固定資産税の免除など税の優遇措置を受けることができます。全国の民医連や医療生協の事業所での実施が広がっており、「朝日新聞」では、2012年度は、全国558医療機関で実施、と報じられています。
 この無料低額診療制度は、あくまで医療機関の独自施策ですので、市区町村の一部負担金減免制度の不備を肩代わりするのは本末転倒です。さらに、この無料低額診療事業は薬代を減免することができません。(p.151-152)


確かに、国保の一部負担金減免制度は保険者の裁量に委ねられており、あまり積極的に行われていないのは恐らく確かだと思われる。そこで無料低額診療事業がその代替的な措置として選択される場合があるのだろうが、医療費が支払えないほど困窮しているが生活保護には至らない(あるいは受けたくない)という場合は、医療保険という「社会保険」の範囲でカバーするよりも社会福祉法に基づく「社会福祉」の制度によって支えられる方が妥当ではないか、とも言えるように思う。

国保を改善しようとする運動は結構だが、何でも国保に担わせればいいというものでもない。日本の社会保障は過度に保険に偏っているのだから、むしろ福祉制度の充実の方が望ましいのではないかと思う。上の例で言えば、国保の一部負担金減免を拡充するよりも無料低額診療制度を薬(薬局)にも適用できるようにするとか、そちらの方が適切な方向なのではないか。


神田敏史、長友薫輝 『市町村から国保は消えない 都道府県単位化とは何か』

 医療費を抑制する手法の1つとして、各都道府県は医療費適正化競争に巻き込まれていくことになります。医療費の実績に応じて、ある県では5年前と比べて医療費が増えている、他県よりも著しく伸びているから診療報酬をその県だけ下げる、ということが検討されています。(p.14)


国保の都道府県単位化についての議論だけを見ていると、今一つ全体の動きが見えてこなかったのだが、中央政府の意向としては都道府県に医療費適正化(抑制)のために様々な役割を負わせる方向で様々なことを決めてきており、国保でも都道府県に財政責任を割りあてる法改正を行ったのは、そうした流れのなかに位置づけなければならない、ということか。なるほど。



 データなどで受診行動を把握し、いわゆるデータヘルス事業を各自治体で積極的に展開する可能性があります。過剰な医療費抑制策の徹底が図られないよう、あくまでも社会保障として国保が医療保障の機能を発揮できるようにしなければなりません。(p.15)


データヘルス事業も医療費抑制のための手法として推進されているという認識には納得させられる。しかし、自治体にはそうしたデータを読み解くだけの専門知識がないと思われる。医療の専門家としての知見とデータを分析する専門家としての知見が必要だが、特に前者が不足していると思われるからである。



 国保に限らず社会保険は、保険料負担が困難な人も加入者になるということが大前提です。保険料負担ができなくても、保険給付サービスを受けることができます。
 だからこそ、保険料負担については、負担能力に応じたいわゆる「応能負担」の原則を徹底しなければ、負担能力の低い人が社会保険から排除されてしまいます。(p.19)


確かに、日本の社会保障は社会保険に大きく偏っているが、その社会保険でも応益負担的な考え方がかなり強いため、逆進的な構造が指摘されることがよくある。国保料については低所得者に対してはある程度の軽減措置があるため、高所得者の負担をもっと重くすることで医療費総額を確保しやすくすることは必要だろう。ただ、現行制度であまり累進的にし過ぎると、転出等で何人かの金持ちが出ていったことで保険料収入に大きな穴が開くなどということになるため、ある程度のバランスは必要になる。もっとも、市町村単位ではなく全国単位で運営すればこのような問題もほとんどなくなるが。(外国に逃げる人は言語や習慣などの問題もあるためあまり多くない。)



 また、この所得データは住民税データをもとにしますが、市町村によって申告不要とする「非課税者」扱いの範囲が異なっています。保険料(税)軽減所得判定や窓口負担限度額認定判定では「未申告者」がいる場合は対象外(低所得者扱いされない)となりますが、「非課税者」は「未申告者」としない取扱いをしている市町村も多く、取扱いが異なっている実態があります。(p.44)


国保は市町村ごとに運用等の判断の余地が大きいが、この箇所からは「未申告者」を「非課税者」扱いとしている市町村もあるとっも読め、そのような判断をしている市町村があるのだとすれば逆に驚きを感じる。未申告者が非課税扱いにならないのは、所得や担税力があるかどうか不明であるから、その段階では低所得者扱いをしないという考え方であると思われる。運用に裁量の余地があるのは悪いことではないが、未申告者を自動的に非課税者扱いするような扱いは不当であると思う。



 (2)の①であげる「国保運営方針」は、現在の「広域化等支援方針」の延長上にあるものと考えられています。
 つまり、都道府県に国保運営の責任を持たせ「保険料率算定方式」や市町村ごとの「標準保険料率」「標準保険料率算定に用いる目標収納率」を明記し、プログラム法にはない従来の考え方に基づく都道府県単位化=都道府県保険者論をつくり出そうとするものです。(p.51)


国保運営方針の策定に関する議論などからは、都道府県保険者論を市町村側がそれほどはっきりと意識せずに「イメージさせられている」ことが伺えるため、本書のこの指摘にはなるほどと思わされるところがある。



 市町村側は完全移行型での都道府県単位化へ強い志向を持っていたために、結果としては市町村議会での保険料(税)率の議論と決定権をはく奪されることになります。(p.51)


保険料率の決定権が市町村長、市町村議会、市町村国保運営協議会などによって行われてきていたが、都道府県単位化後の仕組みではこれらのアクターが関与する前に医療費総額と連動する形で予め標準保険料率が示されることになるため、自治権が弱まるという指摘。その背景には市町村が完全移行型の都道府県化の志向を持っていることがあるという。ある意味では国保による財政負担を手放したいと思って都道府県などに依存する考えがあったことが、自立や自律を阻害する要因へと具現化しつつあるとも言える。



 つまり、「標準保険料率」は、今回の都道府県単位化の目的である「地域医療提供体制の見直し」=「医療費抑制」を「被保険者に強要する手段」として設けられたと考える必要があります。(p.55)


論理的にはこのような関係性にあると思われるが、被保険者の立場から見れば、標準保険料率を直接見ることはないと思われ、総医療費がその標準保険料率と結びついていることも十分な理解はしないと思われる。むしろ、保険者である市町村がこの認識を強く持ち、医療費抑制に走る可能性が高いだろう。



 なお、今回決定された公費による財政支援の3,400億円は定率の負担ではありません。自治体の国保の財政状況は当然のことながら変動します。今後、国保の財政的な構造的問題の解決には、定額ではなく定率の負担による充実も求めていく必要があります。(p.87)


3,400億円の財政支援という形で中央政府は知事会を説得したわけだが、国保の人口構成などから考えると、(団塊世代が70代になっていく)これから数年間は総医療費は膨れ上がっていくことが予想される。そこに定額の国庫負担しかないとなると、市町村側にその負担が押し付けられ、一般会計からの繰り入れか保険料の引き上げかという選択を迫られることになるだろう。その意味では最低でも定率の国庫負担というのは必要であるように思われる。(定率であっても市町村の困難が増えること自体は変わらないが。)


川渕孝一 『国民皆保険はまだ救える 崩れ去る「公助」「共助」から「自衛」の時代へ』

 一彦氏の例を持ち出すまでもなく、最近、日本の病院は“お金儲け”に執着しすぎではないだろうか。それもそのはず。総務省が地方自治体に公立病院の再編計画の策定を求めているからだ。
 それにしても、総務省が2007年12月21日に公表した公立病院改革ガイドラインには全く哲学がない。同ガイドラインでは、公立病院を持つ自治体は08年度中に①経営効率化、②再編・ネットワーク化、③経営形態の見直し――この三つから改革プランを策定することになった。(p.57)


なるほど。私の住む地域でもここ数年、公立病院の統合などが市政の重要な課題となっていたが、市が独自にやり出したというよりは中央政府からの指示があって始まったことだったのかもしれない。必要性があるのは確かだが、ある意味では十分な合理性がないのに唐突に出て来た感があり、議論になったのはこうした背景があったからかもしれない。



通常「Disease Management(疾病予防)」というと、諸外国では二次予防(早期発見・早期治療)や三次予防(医学的介入による機能低下の防止)が中心テーマとなるが、わが国の疾病予防は生活習慣に関する行動変容という一次予防が対象となる。まさに世界でも稀有な“壮大な実験”がスタートしたわけだ。
 しかし、導入当初の混乱もあって、どの保険者も予想外に低い受診率に甘んじている。はたして国が考えたような医療費適正化効果が期待できるのだろうか。三年後には、その成否によって各保険者の後期高齢者への支援金の加減算が決定されるだけに事は重大だ。
 くしくも、海を越えた米国でも同種の社会実験が行われている。米国連邦議会で制定されたMedicare Coordinated Care Demonstration(MCCD)である。……(中略)……。
 肝心の研究結果だが、直近の25カ月間についてメディケアの医療費を総じてみると、どのプログラムも月ごとの医療費削減効果はなかったという。(p.103-104)


特定健診もアメリカの猿真似だったのか。しかも期待していた効果も得られないようなものだとは…。こういうアメリカの猿真似政策はいい加減にしてほしいものだ。



 日本の未成年者の喫煙率が高いのは、諸外国に比べてわが国の広告規制が極めて緩やかなことも関係している。実際、タバコの広告収入が広告代理店やマスコミの重要な収入源となっている。先行研究によれば、102カ国の高所得国では、タバコ広告の禁止により消費が減少することが明らかにされた。(p.171-172)


タバコの広告は禁止してほしい。



 そこで、「セカンドベスト」の介入としてタバコへの課税が有効とされる。特に大幅なタバコ増税は子どもの喫煙開始を妨げる非常に有効な手段であることが明らかになっている。(p.177)


タバコ増税は望ましい。



 すなわち、タバコ増税は、一部の消費者には「値上げ→コスト高→健康のために減煙」という抑制効果を生むが、多くの消費者には値上げに関係なく、「値上げ→政府の税収増」という現象が起こるのである。であれば、「財務省への気がね」は無用である。(p.179)


やはりタバコ増税は望ましい。



 トヨタ方式の生みの親、故・大野耐一氏によれば「『なぜ』と五回繰り返せ。そうれば原因ではなく真因が見えてくる」という。同氏によれば、「カイゼン」の基本的な考え方は次の四つだ。
①自分の工程で不良品を出すな。後工程が迷惑する。
問題があるかないかは、正常な(標準)状態がきちんと決まっていなくては見えてこない。だからカイゼンするためには標準化、つまり基準を作ることが不可欠。
③まず自分の手で標準作業書を書いてみよ。カイゼンをするためには、まず標準を決める。改善レベルが進むと標準のレベルを上げる。すると問題点が再び出てくる。
④カイゼンは少しずつ前進し継続される。(p.220)


有名な「カイゼン」だが、標準化の重要性というのはなるほどと思わされる。



 幸い、高齢者数の急激な伸びはあと5年で終わる。確かに高齢化率は今後も上がり続けるが、1947~49年生まれのいわゆる団塊の世代が65歳を超える2015年以降、高齢者数の伸びが緩やかになり、20年頃には頭打ちになる。つまり、2012~14年にかけての3年間が高齢化の最も急速に進む時期であり、その時期を過ぎると高齢者数の伸びが止まるのだ。さらに団塊の世代全員が75歳を超える25年以降、後期高齢者数の急激な伸びも止まり、30年以降は減少に転じる。だとすればそこまでが日本にとっての正念場だ。壊れやすい地球のような国民皆保険制度を、何とか救いたいものである。(p.276)


本書は2011年に出版されたので、現在は高齢者数の伸びが緩やかになる局面に入っている頃ということになる。2030年以降は社会の構成が問題なくなるかのように書かれているが、団塊の世代の多くが亡くなるであろう2035年頃には団塊ジュニア世代が60代になってくる。それより下の世代の数の少なさを考えると、2055年くらいまではそれほど楽な時代とは言えないかもしれない。

人口構成は社会の変動を考える上で非常に重要なので、きちんとデータを見ながら考えてみたい。


真野俊樹 『「命の値段」はいくらなのか?――“国民皆保険”崩壊で変わる医療』

 たとえば、「分子」が数式で説明できる動きをするがごとく、人間にも数式で説明できる動きをしてほしい、これが合理的経済学のものの見方である。数式で説明できる合理的な行動をする人間を仮定することで、政策が考えやすくなるのである。(p.29)


上記の説明のうち、合理的経済学が人間を数式の通りに動いて「欲しい」と要求している点は重要である。合理的経済学はいくつかの仮定を置いて数式を立てていくが、多くの場合、どこかの段階でこの数式が「正しい(あるべき)」社会の動き方であるかのように扱われはじめる。この経済学における数式の規範的性格に対しては語る側の人間も聞く側の人間も注意深くなければならない



 もう一度確認してみると、行動経済学は医療や健康問題に対する、我々の必ずしも合理的ではない行動を分析するのに適している。しかし一方では、行動経済学の手法では、なかなか政策に適用できない。ここが、政策を考える場合にはジレンマになる。(p.98)


本書の基本的な立場の重要な部分。政策というものを大風呂敷的に広げるものと考えれば、合理的経済学のような規範性は必要と感じるかもしれないが、細部から組み立てていくものと考えれば行動経済学の知見は十分に活かしうると思う。



 大阪大学の池田新介教授によれば、時間選好率が高い人(最初に楽しいことをしてしまう人)ほど子供のころに夏休みの宿題を後回しにしていたり、負債を保有していたり、喫煙者、肥満者が多いという。また時間選好率が高いと借金が多いといことになる。(p.107)


マシュマロテストの結果と通じている。ちなみに、私個人は時間選好率は高くないようだ。



マズローの5段階のピラミッドはよく知られている(図)。この最上位に自己実現要求があるのであるが、最近の研究(野中郁次郎、紺野登『知識創造経営のプリンシプル――賢慮資本主義の実践論』)では自己実現のさらに上位に、論理的で利他的な「コミュニティ(共同体)発展欲求」をマズローが考えていたとも言われるようになった。(p.144)


なるほど。単なる自己実現より共同体の発展の方が高次の目的だと考えることができるという発想が、この説(上記最近の研究)の背景にあるように思われる。

ただ、マズローの欲求段階説は実証されていないアイディアにすぎない点は認識しておく必要がある。仮にマズローがコミュニティ発展欲求という発想を持っていたとしても、そもそもそれ以前の段階が段階的に満たされて発現していくというプロセス自体が実証されていないのである。


芝田英昭 『国保はどこへ向かうのか 再生の道をさぐる』

 さらに厳しのは、納付期限から一年が過ぎると保険証を返還しなければならないことである。その代わりに「被保険者資格証明書」が交付されるが、これは単に国保の被保険者であることを証明する書類であり、保険証のように受診券の役割は果たさない。従って、国保が保障する「療養の給付」は受けられず、正規の保険証や短期保険証で医療機関を受診した際は一から三割の窓口負担ですんだのが、資格証明書の場合はいったん全額(10割)を自己負担しなければならなくなる。
 これについて国保法第36条は、「市町村及び組合は、被保険者の疾病及び負傷に関しては、次の各号に掲げる療養の給付を行うただし、当該被保険者の属する世帯の世帯主又は組合員が当該被保険者に係る被保険者資格証明書の交付を受けている間は、この限りでない。」(傍線筆者)として、「1、診察 2、薬剤又は治療材料の支給 3、処置、手術その他の治療 4、居宅における療養上の管理及びその療養に伴う世話その他の看護 5、病院又は診療所への入院及びその療養に伴う世話その他の看護」といった医療の「現物給付」の対象から国保資格証明書世帯を除外している。そして、国保法第54条の3にある「特別療養費」という規定により、国保資格証明書世帯は窓口ではいったん医療費の全額を負担するが、その後、保険者(市町村)に申請して7割分を国保特別会計から還付される仕組みになっている。しかし、国保資格証明書世帯は、それまでの保険料の滞納・未納分の額が還付額から差し引かれるため、現実には窓口で支払った費用が返戻されることはない。(p.24-25)


資格証明書についての説明。10割負担でも申請すれば7割分が戻ってくるとは言われるが、そもそも資格証明書の交付は一年以上の滞納が前提となっているため、7割分の給付のかなりの部分は保険料の滞納分の支払いに充当されてしまうということか。なるほど。使う側にとって資格証明書があまり意味のないものであると言われる理由がよくわかる。



この一部負担金に関しても、国保法は「特別の理由」がある人に対する減免・徴収猶予規定(第44条)を設けているが、埼玉県下44自治体のうち、条例等で一部負担金の減免・徴収猶予となる「特別の理由」を規定しているのは25自治体(表1-13)。また、国保パンフレット等を通じて適宜広報をしているのは僅か14自治体のみであった。
 実際に一部負担金の減免・徴収猶予を認めたのは、埼玉県下では2008年度において9自治体のみであった。一部負担金の減免・徴収猶予を認めないことは、結果的には医療機関における「未収金問題」に発展してきている。(p.60)


国保という制度について思うのは、法体系が分かりにくいというか、中央政府が一律に基準を設けず、自治体単位で保険者となって各自治体がそれぞれ条例を作成して事務を執行しているために、法に規定があっても、条例で空文化されてしまったり、条例で定めることを予想しているせいか、法律自体の規定が不完全だったりしている、ということだ。一部負担金の減免に関する各自治体の扱いの差は、その典型例の一つと思われる。

なお、国保に対する批判としては、保険料が高いということが挙げられるが、こうした減免制度を拡充することは、その高い保険料をさらに高くする可能性があるという点は指摘しておきたい。この減免による国保会計からの支出については、保険原理と社会原理(『長友先生、国保って何ですか』を参照)という原理で言えば、社会原理に基づいて行われるべきものだから、原則として保険料ではなく、中央政府の税によって補填されるべきものだろう。実際の制度上はどのような負担になっているのだろうか?(条例や要綱などのレベルで定められるようだが。)



 一部負担金の減免・徴収猶予に係わる「特別の理由」は、25自治体はほぼ同じ内容であった。……(中略)……。
 これに見るように、全て「生活の困窮」要因が、自然災害や失業等を理由としたものでなければならず、それ以外の「低所得」については、一部負担金の減免・徴収猶予の事由としては最初から想定されていない。しかし、理由は何であれ「低所得」であるがゆえに、一部負担金の支払いが困難となるのは当然である。
 ……(中略)……。全国の保険者も当然一部負担金の減免・徴収猶予を条例などで規定しているが、その事由に理由を問わない「低所得」を規定している自治体は僅かである。厚労省の2006年度調査では、保険者1804自治体のうち、一部負担金の減免・徴収猶予規定を有する自治体は1003自治体(55.6%)、また理由を問わない「低所得」をその事由としているのは155自治体(8.6%)、そのうち具体的な低所得の判定基準を定めているのは僅か111自治体で、保険者総数の6.2%のみであった(前掲、「医療機関の未収金問題に関する検討会報告書」11ページ)。(p.62-63)


条例で定める条件が同じになっているということは、恐らく県か厚労省が見本を提示していると見るべきだろう。それにしても、法律(国保法)で規定があるのに条例で十分な規定を設けていない自治体が多いことに驚く。

単なる低所得というだけでは一部負担金の減免は受けられず、災害や失業などによる所得の減少でなければならないという制度には、多少の矛盾があると思われる。生活保護基準より若干上回るが、医療費が普通より多くかかるという世帯は減免を受けられず、それよりも所得が多い世帯が一時的に所得減少した場合は受けられるということになるからである。ただ、そもそも低所得である世帯が減免を受けられるとすれば、この減免制度自体が恒久的な減免を想定しなければならないが、基本的にはそうなっていない(恐らく多くの自治体で減免の期間は一時的なものとして限定されていると思われる)。



 北海道芦別市では、国保税(芦別市は地方税として徴収している)等の滞納者に対して全国でも類を見ない制裁措置を科している。「芦別市市税等の特定の滞納者に対する特別措置に関する条例」(2009年3月23日改正)では、「第四条、前条に規定する手続き(催告等・引用者注)を行っても、なお、市税等が滞納となっている場合において、市長は、当該滞納となっている市税等の徴収の促進に必要があると認めるときは、市税等を滞納している者を特定の滞納者と認め、当該特定の滞納者に対して、他の法令、条例又は規則の定めに基づき行うものを除くほか、別表に掲げる許認可、補助金の交付、福祉サービスの提供等(以下「行政サービス」という。)の取消し、停止、申請の拒否等の措置を行うものとする」として、行政サービスの制限(表1-17)がなされる。
 しかし、これらの行政サービス制限には、「給食サービス」、「入浴サービス」、「介護手当支給」、「老人福祉共同住宅の入居」、「慢性じん炎血液透析」、「遺児年金」、「市営住宅の入居」等が含まれ、明らかに「生存権の侵害」であり看過できないし、即刻中止すべきである。
 また、同市同条例第四条第2項で「市長は、必要があると認めるときは、前項の行政サービスの停止等の措置とあわせて特定の滞納者の氏名、住所、生年月日及び滞納額を公表することができる」(傍線筆者)としている。さらに、氏名等の公表は、同市同条例第21条において「特定の滞納者の氏名等の公表は、芦別市広報誌発行規則第二条に規定する広報あしべつに掲載することにより行うものとする」(傍線筆者)としていることからも、明らかに「個人情報保護法違反」であり、このような規定が条例化されていることに驚かされる。(p.68-70)


確かにすごい条例だ。ここまで徹底していると「効果」がどのような形で出ているのか気になる。特定滞納者が年間何人くらい指定されており、行政サービスはどの程度停止されているのか?そうした制裁によって滞納の解消につながる効果が出ているのか?

氏名などのほか滞納額も広報に掲載されるというのは、北海道の小さな町であれば、町中に知れ渡ることになるわけで、当局側としては納付交渉の際に、ある程度の牽制手段として使うことが出来そうである。そうした脅しで交渉がうまくいくのかは気になるところではある。

このような人権への配慮を欠く条例が制定されていることには驚かされるが、この条例の発想は新自由主義的な発想からも出て来ることがありうるが(かつての私なら専らこちらの考え方からこの条例の意味を捉えていただろう)、同時に共同体の連帯を重視する発想からも出てくることがありうるという点に気づいた。すなわち、税を料金として捉え、税の支払いと行政サービスの享受をワンセットとして捉える私経済的な発想の中に税と行政サービスを組み込む考え方と、共同体の連帯を脅かす存在として特定滞納者を位置づけ、共同体の構成員としての責務を果たさないことに対して否定的なフィードバックを返していくという考え方である。



 国保は制度上、被用者保険を離脱した時点で加入しなければならない。保険料は以前の所得などから算出されるが、離脱から加入までにブランクがあるとその分の保険料が「滞納」とみなされ、清算しない限り正規の保険証がもらえない。(p.80)


加入手続きをすぐに行わない場合でも、被用者保険等を離脱した時点まで遡って保険料がかかるのは国保の制度上決まっていると思うが、正規の保険証がもらえないかどうかは自治体によって運用が異なるのではないだろうか。厳密に考えると、ここで書かれている考え方の方が一貫性はあるが、自治体によってはそうした運用はしておらず、手続きを怠っていた者であっても一旦は正規の保険証が交付される。



 そうした無保険者が全国にどのくらいいるのだろうか。厚生労働省の見解はこうだ。
 「ホームレスの方とか、無保険者は発生しているのでしょうが、普通に生計を維持している人は保険に入っているというのが前提です。無保険の方は少ないのではないでしょうか。保険局としては積極的に数は集めていません、把握できるなら市町村ですね」
 しかし、高知市は「国保加入者の数字しか分からない」、高知県も「市町村すべてのデータを集めたら分かるかもしれないが、現実には不可能」という返答。被用者保険を扱う社会保険事務局も「うちは政府管掌保険の加入者についてしか分からない」。つまり、保険の枠組みから抜け落ちた人の数を、どの機関も把握していないのだ。(p.82)


貧困の実態把握という点から見て、重要な問題提起を含んでいると思う。

住民基本台帳の情報を持っている市町村と協会けんぽ、健保組合(さらには共済組合や国保組合)が情報共有できれば(より正確には市町村に被用者保険等の保険者が離脱・加入の状況を逐次報告するようにすれば)概ね実態を把握できるだろう。そして、このデータは被用者保険が外れた人を市町村が把握できるということをも意味する。このようなデータが把握できれば、国保の加入手続きも自動的に行うことができ(これは事実上の強制加入でもあるが)、無保険者の存在という問題はかなりの程度解消されると思われる。



 同時に調査された、う蝕有病者率の「較差」に関連する要因の分析によると、所得と学歴に高い関連が見られたとのことだった(図3-2)。これは、所得や学歴が高い地域においてはむし歯が少ない傾向にあり、逆に所得が低く学歴も低い地域ではむし歯が多いということである。一方で、歯科関連指標でむし歯と関連していたのは「フッ化物塗布」のみで、その寄与率は1%に満たなかった。それ以外の「歯科医院の数」「歯科保健指導受診回数」などは寄与していないという結果となった。つまり、地域の社会経済状態がむし歯をつくりやすいかどうかに大きく影響されるということで、これはWHOのいう「the Solid fact(社会的決定要因)」そのものであり、個々人の努力では解決できない要因がそこにあることが示された。
 これらのことからすると、子どもの深刻なむし歯について、一家庭の、あるいは一個人の問題としてとらえてしまうのは、あまりにも狭い見方ではないだろうか。(p.128-129)


興味深い。歯科は医科よりも経済的および時間的に余裕がないと受診できないし、むし歯がすぐに生命の危険に直結するわけでもないため、そうした余裕がないと受診する動機も生まれにくい。だからこそ、社会的な要因の影響をより明確に反映する、ということか。



 確かに、消費税を社会保障目的税(あるいは福祉目的税)に転換を求める声は、財界を中心として絶え間なく浮上しているが、これには、社会保障の枠組みを変える重大な問題が潜んでいることを理解すべきである。
 第一に、高齢社会の下で社会保障給付の増大は避けられないが、それを理由に安易に税率が上げられる可能性がある。また、第二に、国民の税率アップへの拒否反応を利用して税収の中だけに社会保障を抑え、サービスの量的・質的水準を低下させる可能性がある。第三に、消費税は、実質的には企業負担のまったく無い税であることから(中小零細企業は、転嫁できないので負担している)、社会保障目的税にすることで、社会保障における企業負担の軽減につながる。……(中略)……。
 確かに、消費税率だけを見ると欧米諸国よりかなり低率のように感じられるが、国の税収に占める消費税収の割合を見ると、すでに欧米並になっている。ちなみに2002年度で、国の税収に占める消費税収の割合は、日本21.8%(税率5%)、イギリス22.3%(同17.5%)、イタリア22.3%(同20.0%)、スウェーデン22.1%(同.25%)、である。(p.186-187)


消費税を社会保障目的税とすべきだという意見に対する批判。税率が上がる可能性と税収の範囲内にサービスが抑制される可能性は、一見すると正反対の動きだが、これらは両立可能である。すなわち、多額の社会保障費を要するので、それに必要な税収を確保するという名目で税率が上げられ、多額の社会保障費を要するという理由で給付に様々な制限をかけていくという動きも同時並行して進めることができるからである。そして、実際にこの動きはどちらも進んでいる。2014年の消費税率の引き上げ(5%→8%)と、介護保険の給付引き下げなどを含む「地域医療・介護推進法」がつい先日(6月18日)成立したことを見てもそれはわかるだろう。

社会保障における企業負担の軽減につながるというのは、「社会原理」が薄くなるという指摘なのだろう。ただ、考えようによっては、企業に社会保障負担を求めるより、法人税の課税を強化することで課税し、個人所得課税も強化して租税で社会保障を賄う方がよいという考え方もありうるかも知れない。ただ、制度というのはあまり急激かつ抜本的に変えてしまうとうまく機能しないことが多いことから考えると(後藤新平の「生物学の原理」を想起している)、企業に負担を求めることをあまり急に変えることは適切ではないようにも思う。このあたりは現在の私にとっては迷いがあるところである。


山岡淳一郎 『国民皆保険が危ない』(その2)

国民の側からすれば、医療保険が整備され、そのメリットを実感できるようになれば政府への信認が高まる。政府は、社会保険を介して国民を管理、統制できる。この統制機能は、ファシズム体制下では「人的資源」の動員に利用された。この点も皆保険への歩みにおいて忘れてはならないポイントだ。(p.143)


医療保険を含む社会保険の三つの機能的特性(相互扶助、制度資本、国民統制)についての説明より。忘れられがちな側面だが、広い視野から医療保険を見るには重要な視点。



 明治維新後、国のかたちが「脱亜入欧」で近代化されるのに合わせて、医療にも欧化政策が採り入れられた。明治政府は、東京帝国大学を西洋医学の導入口としてヒト、モノ、カネを集中した。東大だけがドイツ人教授による授業を認められ、その卒業生が他大学に赴任して西洋式の医師教育が広まった。(p.144)


ここでは「他大学」と書かれているが、明治の中期くらいまでで言えば、「大学」は東京以外には京都(明治30年)くらいしかなかった。明治末期に東北と九州に帝国大学が設置され、大正7年に北海道、続いて京城、台北、大阪が大正後期から昭和一桁、昭和14年に名古屋に帝国大学が設置されるという流れである。この辺を考えると、ここで「他大学」と書かれているのは、「現在の大学の前身となる(医)学校」ということかもしれない。



 相互扶助の観点から農村では「医療利用組合」が、静かに普及していった。
 ……(中略)……。
 東京医療利用組合の組合長には、農学者で世界的に知名度の高い新渡戸稲造が就任している。新渡戸は、「中野病院(現中野総合病院)」の設立式典で、
「疾病に対する治療は人間の最も尊貴なる生命の保護として、貧富、高下、都鄙の別なく享受されなければならぬことであることは言うまでもありません」
 と、挨拶をした。ここに及んで農林省は医療組合の状況調査を始めた。……(中略)……。
 農林省は、医療組合は農山漁村の医療に必須の施設だという考えに至り、設立を促進する。37年末には単独の組合で医療事業を経営するところが102、連合会経営が30、連合会所属組合は1359に達した。これらの組合組織で経営する病院は87件、診療所175件で、働く医師の数は500人を超えた。国の統制色が強まったとはいえ、医療組合は農村医療の支柱へと育った。(p.160-162)


新渡戸の関与はいかにも彼のヒューマニズム的でリベラルな考え方と合致しており興味深い。

また、ここでは引用を省略したが医師会が医療利用組合に自らの患者を奪われると考えて反対していたという点も興味を惹かれる。



 戦時統制下、医療保険の加入者はどんどん増えた。国保の保険者である組合は、全町村の98%、六大都市を除く市部の63%で設立されている。国保加入者は4000万人を超え、国民の医療保険加入率は七割に達した。国民の健康を守る保険制度が人間を殺し合う戦争のバックアップとして拡張されたことは、歴史のアイロニーとして私たちは深く、記憶にとどめておかねばならないだろう。(p.167)


政府による統制という側面の最も端的な事例。もっとも、こうしたある種の「悪用」と捉えることもできるような役割を果たしたからと言って、公的医療保険制度の意義を否定するべきものではない、ということは言うまでもない。健康で強い兵士をつくる社会的基盤として整備されたものは、健康で優秀なビジネスマンの基盤にもなりうるし、健康で文化的な生活を送る市民の基盤にもなりうるのである。



 そもそも医療は、互いに支え合って社会を維持する制度資本なのか、経済成長を託す産業なのか、という基本的な議論もないまま省庁縦割りの縄張りごとに目先の利を追う施策が積み上げられている。
 明治以降、西欧モデルを追って近代化されてきた歴史をふり返っても明らかなように、医療は、第一義的には相互扶助による制度資本として整備されねばならない。社会の底に「だいじょうぶ」と感じられる網が張られてこそ、人びとは多様な挑戦をし、ダイナミックな経済活動が展開される。医療を単なる成長産業ととらえて短期的利益を負うのは、愚策だろう。
 それは医療の荒廃が進むアメリカを見れば明らかだ。……(中略)……。
 米国の厖大な医療費は、どこへ流れ込んでいるのか。
 民間保険会社やビッグ・ファーマと呼ばれる製薬会社、病院、医療関係者の懐へ
、である。ひと握りの金持ちは高い保険料を払って、世界最高峰の医療技術の恩恵を受けられるが、中流以下の大衆は思うように医療機関にかかれず、恐るべき格差が生じている。すべてがお金次第だ。(p.176-177)


医療を単なる成長産業と捉えて短期的な利益を追うのではなく、制度資本として整備されるべきという観点は非常に重要で、医療に関する政策などを見る時の基本的な視点として常に保持すべきだろう。



 マネジドケアの商売の仕方そのものについても、とくに集団訴訟といかたちで問題にされています。たとえば、虫垂炎の患者が起こした訴訟をみてみましょう。
 患者は、腹痛・発熱で医師を受診しました。医師から、80キロ離れた施設での八日後の超音波検査を指示されました。これがマネジドケアの手口で、遠い施設を指示したら患者は行かないかもしれない、八日待ったら治って検査を受けないかもしれないということで、こういったかたちの指示を出すわけです。
 患者は正直にこの指示を守って家で寝ている間に病状が重くなりまして、救急外来に行ったときは命が危ない状況で、緊急手術になったわけですが、後で、かんかんに怒りました。というのも、この指示を出した医師は、コストを減らしたらボーナスが出るという契約を保険会社と結んでいたからです。こういったことは国民に良質の医療を提供するという法の精神に反すると言って、最高裁まで訴訟を戦ったのですが、負けました。(講演「マネジドケアの失敗から何を学ぶか」)(p.178)


アメリカの民間医療保険はマネジドケアという方法で運営されており、以上の引用文はその問題点を李啓充氏が指摘したもの。

公共の利益よりも私的な利益が優先される状況は、医療のような生命や健康に直接かかわるような分野では抑制・規制されてしかるべきだろう。



 だが厚労省の本意は、市町村で差がある保険料の均一化を理由に、保険料を一気に引き上げて、公的医療費を抑えることにあるようだ。全国の市町村は、国保の保険料を抑えるために一般財源から国庫に繰り入れている。その額は全国で3700億円に達する。繰り入れがストップしたら保険料が大幅に上がるのは明らかだが、厚労省はすでに都道府県知事宛てに通知を出して、繰り入れを止めにかかっている。10年5月の通知で、国保広域化に向けて、保険料の均一化のため「保険料の引き上げ、収納率の向上、医療費適正化」などを行い、一般財源の繰り入れを「できる限り早期に解消する」よう求めた。
 ……(中略)……。
 ちなみに大阪府で繰り入れを全廃すると、国保加入一世帯当たり、保険料は年2万円アップするという。(p.203-205)


市町村国保を都道府県へと広域化する議論の背後で、厚労省が見えにくいところで暗躍しているといったところか。

逆に言うと、中央政府が財政責任を放棄してきている流れの中で、市町村が保険料を上げないために相応の努力をしているという点は評価してよい、とも言える。



国は条件の悪い、リスクの高い加入者を国保に押しつけた。国保を皆保険の「最後の砦」にした以上、国庫の補てんや財政調整は必要条件だった。
 皆保険が達成された当時、国保財政全体に占める国庫支出金の割合は50%を超え、70年代には60%ちかくを占めた。ところが、80年代の中曽根政権のころから国庫支出金は急激に減り始め、現在では25%程度まで下がっている。自治体が国保を維持するには繰り入れに頼るほかない。このまま国保の広域化が行われれば、大多数の加入者の保険料が上がるだろう。
 実際に、2011年度の国保料の改定で全国の自治体は、一斉に国保料を引き上げた。市民への通知では、計算方式の変更などを理由にしているが、前年の厚労省から都道府県知事への通知に沿っているからだろう。
 ……(中略)……。
 国保の広域化・統合化をめざすなら、国庫あるいは都道府県からの補てんの筋道を示さねばなるまい。非正規雇用者については、彼らを雇って利益をあげている雇用主にも責任はある。「週30時間以上の勤務」という被用者保険の加入条件を緩和し、非正規労働者も被用者保険でカバーするのが本筋ではないだろうか。
 ……(中略)……。広域化で統合を図るなら、国保と被用者保険の垣根を取り払い、一体化しなくては意味がない。だが、組合健保や共済組合は国保との合併に反発する。そうした利害の対立を、同じ土俵で議論するための言葉と思想を、この国は失ってしまった。(p.205-207)


国保を皆保険の最後の砦としている以上、国庫による補てんや財政調整は必要条件であるというのはその通り。しかし、実際は中央政府はこの30年余りの期間、財政責任を放棄しつつあり、国保広域化の議論でもそれをさらに進めようとしている。この流れに歯止めをかけるためにも公共的な議論が必要だが、そのための「言葉と思想」が失われている

これにどう対処していくべきか。難問である。

また、非正規労働者が増えているという現状を踏まえると、それに合わせて被用者保険の加入条件の緩和をすべきだという主張には傾聴に値するものがある。(被用者保険の負担のあり方自体もいろいろと検討を要するが。)



ヨーロッパ諸国の改革に共通するのは、硬直化した制度を活性化するために市場や競争の刺激を取り入れながらも、根幹の「社会連帯」はブラさない点だ。利害が対立する者どうしも、社会連帯の基盤は共有している。だから、コミュニケーションが成り立ち、実践へと転じられる
 かたや日本は、利害対立を受けとめるための「公共の思想」が見失われて久しい。けれども、完全に喪失したわけではない。東日本大震災の被災地で、さまざまな支え合いが始まっている。ふり返れば「国民皆保険」が、公共の思想を具現化したものだった。綻びは確かに生じている。だからこそ、今一度、国民皆保険の「相互扶助」「制度資本」としての意味をとらえ直し、次の半世紀へ向かって私たちは歩み出さねばならないだろう。(p.212)


「公共の思想」の例としてヨーロッパ、とくにフランスでの「社会連帯」という思想が紹介されている。日本の場合、「国民皆保険」という公共の思想を具現化した制度資本がある点も指摘されている。ヨーロッパの社会連帯の思想をそのまま日本に持ち込んで一般化させることは困難だろうが、現在ある制度を見直して活用していくという方策は可能性があり、その点で国保に注目すべき理由があるように思われる。



山岡淳一郎 『国民皆保険が危ない』(その1)

 医療ツーリズムの他にも「医療の国際化」を進めようとする圧力は高まっている。「TPP(Trans-Pacific Partnership環太平洋経済連携協定)」への参加は、その典型だ。農業だけでなく医療分野でも「自由化」を急速に推し進め、国民皆保険体制を崩す危険がある。TPPのような自由貿易協定は、一度結べば後戻りがきかない。(p.23)


「自由化」してしまうと後戻りができないという認識は重要。慎重な議論が求められる所以。



 では、なぜ、自治体は一般会計繰入金を国保に投入しなければならないのか。もともと国保には事業者の保険料負担がなく、国の税金による補てん(国庫支出)が財政上の支えだった。1970~80年代初頭までは国庫支出が国保収入の60%ちかくを占めていた。それが80年代前半の中曽根政権下の「小さな政府」路線への転換で、一気に下降線をたどっていく。08年度には25%を切った。そのために加入者の保険料負担はうなぎのぼりで上がり、自治体の負担も増した(図「国庫支出金の変化と保険料負担」)。
 市町村国保の財政の悪化は、国庫支出の減額が直接的な引き金になったといえるだろう。(p.90)


この点はどの国保解説書でも指摘される点である。中央政府が財政責任を放棄したため、自治体の一般会計の負担(繰入金)と被保険者の保険料負担とが重くなっている。



大阪市は国保事業会計の累積赤字が364億円(08年度)に膨らむ前に毎年、繰入額をほんの少しずつ増やしておけばこうはならなかった。国保事業は、全国一律ではなく、自治体の裁量、地方の行政と議会の方針で決まる部分が大きいのです(p.92)


自治体の裁量が影響を及ぼすことは間違いないが、国庫支出金の削減によって全国の国保事業が苦しくなり保険料負担も全体として上がってきたということを踏まえると、あまりこれを過大評価しすぎることも問題である。中央政府の統制の方がベースにあり、自治体の裁量によってそのショックを多少緩和できることもあれば、かじ取りに失敗するとそのダメージをより深くしてしまうことがあるという程度、というのが妥当なところではなかろうか。



 詳しくは第五章の「医療の『公平さ』と『先進性』をどう両立するか」で論じるが、自治体レベルで財政的に苦しい国保を都道府県単位に広域化したところで、必ずしも財政は安定しない。小さな自治体で国保を運営するから赤字で、広域化して大きくすれば黒字になる、というわけではない。
 たとえば、大阪市は人口266万人、日本で二番目に大きな政令都市だ。実態は広域国保といえるのだが、これまで述べてきたように国保財政は危機に瀕し、一般会計繰入金を172億円も使っていながら、364億円の累積赤字を抱えている。
 かたや同じ大阪府でも、貝塚市、茨木市、羽曳野市、島本町などは黒字を保っている。規模の大小と制度の安定性は必ずしも一致しない。
 それに広域化で、これまで自治体が続けてきた一般会計繰入金はどうなるのか、厚労省は何の指針も示していない。(p.93)


規模が大きくなると財政が安定するかのような錯覚を抱きがちだが、それは誤りである。



 究極の貿易自由化ともいえるTPPは、第一次産業だけにダメージを与えるのではない。太平洋を超えて、医療分野にもどっとヒト、モノ、カネが流れ込む、あるいは流出するようになれば医療の土台である皆保険はどうなるか。自由化は、どんな変化を生じさせるのか。
 おそらく、私たちが守ってきた皆保険には「私益」の亀裂が走り、膨張する医療市場の圧力に耐えかねて土台はこなごなに砕け散ってしまうだろう。公的な土台が壊れれば健康保険が適用されない「自由診療」が増える。
 自由診療の値段は、医療提供側の思うままに決められる。一般に商品やサービスの値段は「需要と供給」で決まるといわれている。ただ医療の場合、供給側は専門性にすぐれ、たくさんの情報を持っているのに対して消費者側の情報は限られている。
 これを「情報の非対称性」という。そうした状態では対等の立場でのサービスの選択や意思決定は困難だ。
 たとえば「神の手」と呼ばれるドクターにかかって「自由診療での手術代は一億円」と言われたら、医療知識のない患者が反論できるだろうか。言い値で治療方法や医薬品の値段は決まり、お金の切れ目が命の切れ目。所得による医療格差はとめどもなく開き、殺伐たる光景が展開されるだろう。患者は医学的効果が不確かな自由診療に多額の費用を払うことになりかねない。

自由化の影響は「わからない」!?

 TPPへの参加は、そのような自由化への扉を押し開く行為なのだ。
 TPPに加われば、まず「混合診療の拡大」という形で自由診療枠が増大すると予想される。そして「米国系企業の権益増強」「病院の株式会社化」、さらには「医師、看護師や患者の国際移動」といった現象を通して、医療格差が拡がっていくと考えられる。(p.107-108)


自由診療では医療の供給側が言い値で値段を決められる。ここにポイントがあることを理解できたのは本書からの収穫だった。これによって医療機関側が利益追求に走ることができるようになり、アメリカの企業が参入する余地ができることになる。現状ではアメリカの企業が日本で医療機関を開設しようとしても、価格が管理されているため儲けは期待できない。自由診療が増えることによって、日本の医療が市場化することができるようになる。

また、TPPに参加し、締結した後の本書の想定シナリオは論理的な理念型としてそれなりの説得力を持っている。



 この混合診療が部分的とはいえ拡げられれば、必然的に自由診療が増える。値つけが自由な診療が増加すれば、医療機関の利益は上がる。これが呼び水となって「米国系企業の権益増強」「病院の株式会社化」「医療従事者や患者の国際移動」などにも拍車がかかる。混合診療の拡大は、医療の自由市場膨張への突破口のような意味合いを持っているのだ。(p.111)


上でも述べたが、「自由診療が増える」→「医療機関の利益を追求できる」→「医療が市場化する」という関係性が明確に理解できたことが本書からの収穫だった。

そして、混合診療の拡大という現在少しずつ進められている方向性は、自由診療の拡大への道を開くものであり、この図式の道へと進む入口だということ。



 強調しておきたいのは、先進国のほとんどが豪州のように薬価をコントロールする規制を持っている点だ。日本は診療報酬点数で薬価を決めている。英国は薬による利益の上限を、フランスは総薬剤費に上限を設けて薬価を管理している。
 ところが、米国は先進国で唯一薬価規制が敷かれていない。(p.122)


このあたりの事実を踏まえると、アメリカが加わっているTPPでは、薬価も自由化が求められる圧力がかかることが容易に予想できる。





長友薫輝、正木満之、神田敏史 『長友先生、国保って何ですか』(その2)

泉市当局が、市議会に限度額の引き上げを提案してきました。私は議員としての判断を迫られることになりました。議案を見た当初、「保険料負担の上限を引き上げることは、高額所得者により多く負担してもらうのだから、その分、低所得者にとっては負担が減るのではないか…」と私は思っていました。
 しかし、その見方は間違っていました。限度額が上がるということは、低所得者の保険料も上がるのです。
 他の被用者保険の保険料は、月収を基礎にした「標準報酬月額」をもとに保険料が決まります。しかし、国保の保険料は、「応益割」と「応能割」によって計算されます。応益割とは、それぞれの加入者に一定額の負担が課せられます。応能割とは、所得や資産などそれぞれの加入者の負担能力に応じた負担が課せられます。国保料は、応益割と応能割の比率が50:50に設定されています。そのため、限度額を1万円引き上げると考えると、応益割で5000円分、応能割で5000円分引き上げることになります。要するに限度額を引き上げると、その負担は加入者全員に及ぶのです。(p.72-73)


なるほど。私も賦課限度額が上がるということは、低所得者の負担は減ると単純に考えていたが、そこまで単純にはいかないということに気づかされた。

ただ、私は本書のこの主張には全面的に賛同は出来ない。なぜならば、保険料として賦課すべき総額は医療費として必要となる金額によって決まるはずであり、賦課限度額を上げるということは、同じ所得・資産に対して掛ける所得割や資産割の料率が下がる効果もあるはずであり、同じく、均等割や平等割の料率も下がる効果があるはずだからである。



ただ、行政の予算・決算のデータは、その年だけを見ても「数字データが持っている意味」は発見できません。10年分、20年分の数字データを並べてみて、グラフや表をつくってこそ数値がもっている意味が見えてくるものです。(p.79-80)


行政の予算・決算に限らず、数字のデータの意味を見いだそうとする場合一般に言えるように思われる。



 高度成長期に、医療給付費の増大にともない保険料負担が増え続けるなか、多くの自治体では応能負担(所得割)の割合を増やすことで低所得層の負担を抑えてきました。しかし、歴代政権の「圧力」により、応能負担を減らし、応益負担を増やしてきました。こうして低所得者の負担が増える仕組みに変化してきました。(p.97)


これは新自由主義的な発想をする者が好む方向へのシフトである。そして、これは日本の社会保障は再分配機能が弱いが、そうした傾向とも合致するものである。



 最初の結論を言います。過酷な保険料の主な原因は、100頁の【図表-12】からはっきりわかります。国からの国庫支出金が削減されるごとに、保険料は高額になってきたのです。主な原因は、国庫支出金の削減でした。
 では、どうすれば高すぎる保険料水準が改善できるのでしょうか。この問題を考えるとき、いつも感じていることがあります。それは、「敵は本能寺にあり」であるということです。敵というと物騒ですが、「たたかう相手を間違えてはいけない」と考えています。私は、主に仙台市で国保運動に取り組んでいます。運動の中では、国保加入者の方々と語り合う機会も多くあります。しかし、市町村への怒りをむき出しにされる方が意外に多いのです。
 確かに、国保を運営する市町村の責任は重たいと思います。……(中略)……。しかし、国保についての学習と話し合いを通じて、たたかう相手は「国」であることを明確にすることが重要と考えています。少し時代がかっていて恐縮ですが、「敵は本能寺にあり!」なのです。
 国民健康保険法の主旨を実現するには、まず第一に国の責務です。……(中略)……。国の権限や圧力が大きいうえに、国保制度も自治体の裁量が少ないのです。(p.102-103)


妥当な指摘。中央政府によるナショナルミニマム保障の義務を実現させる方向に進めることがあらゆる社会保障制度の改革にとって重要な意味をもつ。



厚生労働省が公表した資料では、保険料額を都道府県平均とした場合、現行よりも保険料が引き上がる市町村は多いようです。(p.118)


国保の広域化(都道府県を運営主体とする)の問題に関して、今まで疑問に思ってきたことがある。それは保険料が全体としては高くなるとされる指摘があることである。この理由は漠然と新聞等で見ているだけではわからなかったが、何冊か国保関係の本を読んでいるうちに見えてきたのは、現行での市町村が運営していると、市町村の一般会計から国保に税金が補てんされており、それによって料金が抑えられている部分があるが、広域化後はそうした補てんをしないようになりそうだから料金は上がる、ということのようである。

国庫負担金が減ることで保険料が高くなってきた歴史があり、それを多少なりとも緩和する方法として市町村レベルで財政的補てんを行ってきたが、その補てんすらなくなるということが、現在進められようとしている政策であるらしい。



 健康保険法では、株式会社や有限会社などの法人事業所個人事業所でも5人以上常時従事する事業所の事業主は、週30時間以上(常勤職員の4分の3以上の勤務時間)働く労働者を、「職域」の公的医療保険である協会健保や健保組合に加入させなくてはいけないとされています。こうした事業所を「強制適用事業所」と呼んでいます。
 強制適用事業所以外の事業所でも任意適用事業所として事業主と雇用される労働者が合意した場合は適用事業所となり、協会けんぽ等に加入することができます。(p.131)


単なる制度の説明だが、分かりやすいのでメモしておく。



 厚生労働省が2009年行った調査でも全市町村の6割が減免制度を設けている(規則や要綱を作成している)としていますが、そのうち9割が実際には実施していないとしています。(p.144)


医療費の一部負担金の減免制度について。制度自体があまり知られていないことが要因の一つだと思われるが、一時的な要因で支払いができない場合を除いては生活保護の対象になることが多いということもありそうに思われる。


長友薫輝、正木満之、神田敏史 『長友先生、国保って何ですか』(その1)

 65歳以上75歳未満の割合では国保は3割を超えており、加入者1人当たりの医療費で比較すると、約2倍の費用を要していることがわかります。(p.24)


2011年度の国保と他の公的医療保険との比較。

65~74歳の割合は協会けんぽは4.7%、組合健保は2.5%と、国保が突出して高い。被用者保険の被保険者が退職すると(任意継続を経ることはあるが、最終的には)国保に加入することになるのだから、半ば必然的にこのようなことになるわけだ。

1人当たりの医療費が高いのも高齢者、特に70歳以上の加入者の割合が高いことが大きな要因だろう。このことが保険料が高くなる要因になっている。



 国保料は、「加入者が支払えるかどうか」という観点から設定されていません。国保は、必要な医療費を加入者に割り振る仕組みとなっています。加入者の負担能力や生活実態を把握し、負担できる保険料額が課せられるといった仕組みではありません。必要な医療費を加入者に負担させるという観点から国保料を算出するために保険料は高くなり、国保料を滞納せざるを得ない人々を生み出すという構造がつくられています。(p.29)


国保関係の本を何冊か読んでいるが、保険料が高いことに対する批判はどの論者も指摘しており、国保の問題点としての共通認識が成立している感すらある。料金の設定の仕方が、加入者本位ではないという指摘は正にその通りではある。

高い料金→滞納の増加→さらに高い料金→……という悪循環があるのは確かだろう。その大きな要因が国庫負担金削減だという点も国保研究関係者の共通了解のように見受けられる。



 国保は、結果的に負担能力が高くない人々が集まる仕組みとなっていて、当然のことながら国庫負担がそれなりに投入されなければ維持することができません。にもかかわらず、市町村国保に占める国庫支出金の割合は、公的医療費抑制策が展開される1980年代以降低下し、その分が加入者の保険料、あるいは自治体独自の負担(一般会計からの繰り入れ等)に転嫁されてきました。国の責任と財政負担を減らすことによって、加入者である住民と運営している自治体に転嫁されてきたという背景があります。(p.30)


この点は国保制度の問題点として、強調してもしすぎることはない。ただ、いくつかの国保に関する本を読んでいて思うのは、その国庫負担を復元するためにどれだけの財源が必要で、どれだけ増税しなければならないのかという点とセットで議論することが必要であるにもかかわらず、そこまで具体的に行われているものを見たことがないというところに不満がある。



 年々高くなる国保料をつくり出している主な原因は、国保の運営に対して国がお金(税金)を出さなくなったからです。
 1984年の国民健康保険法改正により国庫負担が削減されました。それ以降も事務費の国庫負担廃止などの削減を続けた結果、国保の総収入に占める国庫支出金の割合は1980年代の約50%から約25%(2008年度)になっています。
 国保において公的医療費抑制策が展開された結果です。国の負担を減らした分は、国保加入者と自治体に転嫁されるという構造が継続されてきました。(p.30-31)


国庫負担がどれほど減らされたかという割合はよく語られるが、これが金額としていくらなのか、という議論はあまりされない。ここに批判者側の不備があると私は見る。割合ではなく数量で示すべき



 国保は加入者の保険料だけで運営しているわけではありません。実は、ここに大きな意味があるのです。そもそも国保に国庫負担が投入されているのは、「国保が社会保障として運営されている」ことを意味しています。この点が民間の保険と大きく異なります。
 国保が社会保障であるというのは、社会保障の一環として国保という制度が整備されてきたということを意味しています。具体的には、自助や相互扶助では決して支えることのできない人々の医療保障を図り、受診する権利、健康になる権利、生きる権利を保障するために、公的医療保険の一つである国保が歴史的に整備されてきたというわけです。(p.32)


このあたりの理解は、国保関係の本を何冊か読んで行く中で理解が深まってきた部分。まだまだ入門レベルだが、今後、もう少し医療保険や医療政策に関しての理解を深めていきたい。



 国保をはじめ公的医療保険は、この社会原理と保険原理の2つの性格でなりたっています。国保の問題点のうちいくつかは、2つの性格のうち「保険原理」のみが強調されて、社会原理が薄められていることから生じています。(p.37)


社会原理は、自助や相互扶助では対応できない病気、老齢、失業などの問題に対して社会的対応が必要であるという考え方で、被用者保険の場合は事業者負担の義務、国保の場合は加入義務、いずれの場合でも公費負担などの形で具現化しているようである。被用者保険の事業者負担が原理的にはこうしたものであるという理解ができたのは収穫だった。

こうした社会原理の希薄化と保険原理の強調という傾向は、中央政府の国庫負担金の削減と結びついたものであることは確かだが、これとは全く逆に、国保への加入手続きを怠った者が、国保料を遡って賦課される事に対して文句を言う場合などを想定すると(国保研究者や国保問題に取り組むジャーナリストなどがこうした遡及賦課を批判することがあるが)、これも同じ論理に立つ、社会原理を否定するような立論である、という点は指摘しておきたい。



 自治体の国保窓口では、「助け合い」を強調し、加入者に過酷な負担を強いているところがあるようです。「国保は助け合いの制度なんだから保険料を納めなさい」という理屈です。しかし、国保は「助け合い」で運営されているわけではありません。言い換えれば、民間保険のような保険原理のみで運営されているものではありません。あくまでも社会保障であり、保険原理だけでなく、むしろ社会原理を理解して国保をとらえる必要があります。保険原理のみの不当な強調は問題です。
 ……(中略)……。
 現在の国保法では「助け合い」との文言はどこにも書かれておらず、いたずらに相互扶助を強調することは歴史に逆行するものだということになります。(p.37-41)


確かに、国保のパンフレットなどの説明では「助け合い」の制度であると書かれているようだ。これは税による公的負担も「助け合い」の範囲に入れて考える限りは必ずしも誤りとは言えないとも言える。悪く受け取れば、地方政府側はそうした計算の上で様々な誤読を前提してこうした記載をしているのかもしれない。

「相互扶助の精神」は旧国保法に記載があったが、現行の国保法にはそうした文言がなく、むしろ条文上は社会保障の側面が強調されているということは理解しておくべき点ではある。



所得割の計算方式には、旧ただし書き方式(所得比例方式)と住民税方式の2つがあります。なお、2013年度からは例外を除いて旧ただし書き方式とすることになりました。(p.47-48)


思うに、旧ただし書き方式の方が、低所得者の料金負担は重くなるように思われる。住民税で非課税基準に該当することで最低料金で済むような人でも、旧ただし書き方式のような単純に所得だけで算出する場合には、最低料金では済まない事例は容易に想定される。例えば、扶養親族が複数いるような世帯。



 国は1995年の国民健康保険法改正によって応益割の比重を高め、応能割と応益割の比率について7:3から5:5へと変更することを推進しました。このように応益割の比重が大きくなったことで加入者の保険料負担が過重になり、滞納者の増加につながっていると考えられます。(p.49)


なるほど。所得税や住民税の税率のフラット化、消費税の増税といった流れと同じ方向性の事態が国保料でも起こっていたわけだ。



 国保のみならず皆保険体制をめぐっては、参加交渉が進められているTPP(環太平洋経済連携協定)による影響が案じられています。……(中略)……。
 たとえば、混合診療の原則解禁、株式会社による病院経営、薬価の高騰などが起き、保険診療については、保険給付の範囲を縮小し、自由診療(全額自己負担の医療)を拡大する方向で検討されていくのではないかと危惧されています。
 ……(中略)……。海外投資家や多国籍企業から日本の医療制度が障壁であると提訴され、外圧によって皆保険がなし崩しとなってしまうのでは、とい危惧も現在では成り立ちます。(p.63-64)


TPPでは、農業や畜産業といった一般の人の生活とは少し離れた「一部の人たち」の問題に見えることばかりが報じられ、こうした点はほとんど議論されていない点は極めて危険であると言わざるを得ない。