アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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笹山尚人 『それ、パワハラです 何がアウトで、何がセーフか』

 I社事件からわかるのは、「仕事の上で必要だった」という理由ですべてが許されるわけではないということだ。一見、正当性があるように見える「業務指導による注意」も、度が過ぎれば「言葉の暴力」に変わり、被害者を追い詰めることになる。(p.24)


言葉の暴力によるパワハラは、仕事上の指導などの言動を装って、あるいはそれとある程度一体となって実行されることが多いということは押さえておく価値があると思う。

なお、本書では法的な側面からパワハラの行為が違法とされる場合の基準として「人格権侵害」と「安全配慮義務違反」(そこから発展して出てくる「就業環境調整保持義務違反」)が挙げられている。「業務指導による注意」が人格権を侵害するとき、それは「言葉の暴力」として違法行為と認定される。さらに、そうした言葉の暴力であったり、長時間労働であったり、という状態が長期間続いているのに、それを職場として改善しない場合、「就業環境調整保持義務違反」となりうる。そんなところなのだろう。

私としてはこうした基準を明示して説明されれば、実際の現象に適用する際にそれほど困ることはないように感じるが、本書に対するレビューでは「何がアウトで、何がセーフか」の基準は明確にされていないという意見が散見されるのが気になる。そういう人は、具体的にこの言葉を使った場合はアウトとか、この行為をしたらアウトという事例を要求しているのだろうが、そのような形での提示は仕事上の文脈や加害者と被害者の関係性などによっても異なってくるから、そうして提示の仕方などそもそも無理と考えるべきだろうし、仮にそうした示し方ができる場合でも、5年10年と時間が経過するとその判断基準は徐々にずれてくるから、すぐに書かれた内容が古びてしまうことになる。そうした点からも、個別の事例で線引きをして見せるのではなく、原理原則を理解できるように提示することが重要だと思われる。


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トーマス・W・フェラン 『魔法の1・2・3方式 「言い聞かせる」をやめればしつけはうまくいく!』

 怒鳴りつけたり、子どもを叩いたりする親の大半は、実は自分がかんしゃくを起こしているのです。そのわけは、次の3つです。

 自分でもどうすればよいのかわからない。
 ・冷静さを失っている。
 ・うまく怒りをコントロールできない。(p.29-30)


この箇所から、対処をしたいけれども対処法がわからないときは、イライラするというのは確かにあると気付かされた。



幼い子どもは自分を劣っていると感じています――大人よりも小さく、できないことも多い。……(中略)……。そのため、子どもは不満になり、力が欲しい、世の中に何か影響力を与えたいと思っているのです。
 ……(中略)……。
 小さな子どもが、湖へ向かって、石を投げるのを見たことがありますか。子どもは、そんなことを何時間でもやっていられます。その理由の一つは、そのときできる大きな波紋が、自分の影響力の証拠だから。この変化を引き起こしたのは、他でもない自分なのだということを実感できるからです。
 「家庭の中の出来事とそれがいったいどんな関係があるのか」と思われるかもしれません。答えは簡単です。小さな子どもが大人を怒らせることができれば、それがその子にとっての波紋です。ですから親が怒りを爆発させれば、図らずも子どもに優越感を感じさせる結果になるのです。
 ……(中略)……。
 ぜひ覚えておいてください――お子さんがあなたが嫌だと思っていることをするたびに本気で怒ったら、間違いなくお子さんはそれを繰り返すでしょう。
 しつけに必要なのは、一貫性を持ち、意志を貫き、冷静でいることです。どうか「言い聞かせない、感情的にならない」の原則に従ってください。(p.34-36)


優越性の要求をおかしな形で満たすことになってしまうということが、親の側が感情的になることは望ましくないことの一つの理由。なるほど。

「言い聞かせない、感情的にならない」という原則に従いながら、しつけにおける賞罰を、罰はルール化、賞は手段を類型化して一貫して適用するところが、本書が提唱する方式の基本的図式である。



でも、多くの場合、謝るというのは偽善の練習であるということもお忘れなく。謝るように子どもに強制するのは、子どもを罰するという要素が大きく、必ずしも後悔や思いやりの気持ちを引き起こさせるわけではないのです。(p.77)


実感としてよく分かる。



 どちらのケースについても、子どもが駄々をこねたりかんしゃくを起こしたりする場合に、必ず守りたい基本のルールがあります。それは、子どもと口をきかないこと。(p.94)


こうした場合に子どもと話をすると、「言い聞かせる」ことになり、また、親の側が「感情的になる」ことになるためであろう。この基本ルールは2つ前の引用文に関連して語られた原則(これは本書で何度も何度も出てくる)を別の言い方で言い直したものと言える。



 うそに対する対応の仕方ですが、ぜひ覚えておいていただきたいのは、うそをあまりに重大視しないことです。もちろんよいことではないのですが、かといって、ものすごく恐ろしい行為でもないのです。うそをつかれて憤慨し、この世の終わりかのような反応を示す親御さんもいますが、そうすると次のような結果を招きかねません。

 ・子どもが自分を最低の人間だと思うようになる。
 ・もっとうそをつくようになる。(p.151)


私自身としては嘘をつくということは、嘘をつく相手を侮辱することでもあると考えている。その意味で嘘を言われた場合、相当の怒りを感じるのだが、育児という局面ではあまりこれを重大視しない方がよいらしいと理解した。



たとえば夕飯を食べ終えたあと、宿題をやったのかどうか、子どもに聞いたとします。宿題はないよと6回も言ったあと、ようやく算数の宿題があることを白状したとしましょう。……(中略)……。
 さて、ここでよく考えてください。気がついていないかもしれませんが、こうすることであなたはお子さんに、うそをつく練習を6回もさせていたことになるのですよ。(p.153)


確かに。育児や教育という局面では、こうした「練習」をさせないに越したことはない。



 私たちはこう考えています――5、6歳くらいまでの子どもであれば、多少大げさにほめてもかまわない。このくらいの年齢の子は基本的にどんな励ましも喜んで受け入れます。自分がうまくやったのかどうか、自分で判断できない場合が多いからです。
 けれども1~2年生くらいになったら、注意が必要です。このくらいの年齢になると、うまくできるということがどういうことかがわかり、ほめことばが本心からかどうか判別できるようになるからです。(p.163)


なるほど。



 一番いいのは事実を淡々と述べることです。
 「ジョン、宿題を始める時間になったよ」
 「メアリー、寝る時間よ」といった具合に。この口調には「やりたくないかもしれないけど、やらなければならないよ」という感情が込められています。(p.165)


子どもに「させたいこと」をさせるときの方法として「要求する」場合の注意点の一つ。命令には反発を引き起こしやすいという要素もあり、その意味からも、こうした事実を述べるやり方は適切であると思われる。活用したい。



 まず、絶対にやってはいけないことがあります。それは、ふと思いついたときに、宿題をやったかどうか子どもに問いただすこと。これは唐突な要求の一つで、子どもは抵抗します。宿題を習慣にして、できるだけ同じ時間、同じ場所でさせることが大事なのです。
 一番いいのは、子どもが帰宅したらおやつを食べさせ、30分から45分ほどゆっくりさせたあと、宿題をさせるという手順です。多くの子どもにとって、宿題は体力が残っている日中にすませてしまったほうがよいようです。宿題が終わったら、あとは自由時間です。
 テレビをつけっぱなしで宿題をさせないように。テレビは、常に人の注意を引きつけようとしているからです。意外に思われるかもしれませんが、CDやiPodなどで音楽を聴きながらするのは問題ありません。子どもやティーンエイジャーにとって、音楽を流しておくことは外の生活音を遮断するための手段だからです。(p.207-208)


宿題をさせることについては、本書と概ね同意見である。遅くない時刻に時刻と場所を決めてする習慣をつけるというやり方は極めて妥当と思う。唐突に宿題をやったか確認してやらせるのがうまくいかないというのも参考にすべき。

なお、テレビに関しては全く同意見だが、音楽に関しては子どもの個性にもよる面があるようにも思う。



 結婚には働くことと遊ぶことの両方の要素があります。うまくやっていけるのは、そのバランスをとることができるカップルです。しかし、仕事というものはあまりに自然に、そしてあまりに支配的に私たちの生活に入り込んでくるため、遊びと仕事のバランスをとるためには、一緒に楽しむ時間を確保し続けることが重要になります。
 子どもとの関係も同じです。子どもを好きになるためには、子どもと一緒に頻繁に楽しむ必要があるのです。(p.242)


前段の結婚に関する理解は参考になる。結婚の場合の仕事は、職業的な仕事のほか家事のことも含まれると思うが、思うに家事を協力してできない場合、夫婦の関係は基本的によくないものとなると私も考えているが、それを的確に表現してくれていると思われた。



そう、「1・2・3方式」は、なによりも親が、この方式に対する親の理解と覚悟が試される方法なのです。けれども同時に、正しく行えば、親の怒りをコントロールする方法でもあります。(p.293)


この点は本書を読んで感じた私の見方とぴったり一致すると思われた。

本書の考え方から言うと、次のようになるだろうか。

子どもは「小さな大人」ではないため言い聞かせようとしても素直に納得したりはしない。このため親が怒りを感じることになり、これが暴力などに繋がる。その上、親が怒っても子どもをしつけることはできない。「言い聞かせない、感情的にならない」という原則に則り、賞罰の方法をルール化して揺らがずに一貫性を持って実行することによって子どもはすべきこととすべきでないことを適切に学ぶことができる。この一貫した実行をするには、その方法に対する理解と覚悟が必要となる。


関根眞一 『となりのクレーマー 「苦情を言う人」との交渉術』

「Bさん、私は持てる限りの情報と最善の方法で対応させていただけるよう、説明させていただいたつもりです。それがダメとなると、社に戻ってもそれ以上の対応はなかなかできないと思います。何かよい方法はございますか」(p.46)


こういった対応は仕事でもつかえるかもしれないと一瞬思ったが、対応する人が変わると結果が変わると思わせてしまう点が欠点だと思われる。本書の事例は百貨店で金銭目当てなどのクレームに対して対応する場合だから、こういった駆け引きもあり得るかも知れないが、業種などが違うと必ずしもこうしたやり方はできない。



 この「言った、言わない」の問題になると、Bさんと販売員の一対一の問答であって、証明が立ちません。こうなると、顧客優位とみるのが百貨店の基本です。(p.49)


「言った、言わない」という水掛け論になる苦情は、どのような業種でも必ず生じうるものだと思うが、百貨店が顧客優位とするのは、個別の対応における公正さや利益よりも、もう少し中長期的な利益の観点に主導された結果であるように思われる。



「関根さん、俺たち輩から見たら、百貨店に働く関根さんたちは超エリートの人間に見えるんだよ。だから癇に触る言葉には、異常な反応を示したくなる。分かってくれよな」(p.73)


こういう心理からクレームが生じることは確かにしばしばあるように思われる。



 金銭での解決は、その場しのぎで早く終わらせたい、というこちらの弱い姿勢から出てくるものです。できるかぎりこれをしないのは、私たちの基本方針です。(p.97)


この辺りは非常に共感できたところ。金銭に限らず、理を曲げて相手の要求に屈してしまうという安易な解決策を採るのは、弱い姿勢から出るものであり、好ましくない。



 さらに、何度も電話をガチャンと切るのは、「私は怒っているのですよ!」と伝えている恐喝の一種です。(p.106)


確かに。本書ではこうした場合にも迅速に対応しているようだが、私の考えは違う(仕事で求められることが違うためどう対応すべきかもおのずと異なる)。自分が要求を伝えた後、こちらがそれに対する反応を言う前に相手方が一方的に電話を切った場合には対応する必要はないと考える。その要求に対してこちらが「対応できません」と答えているかもしれないのに相手方が勝手にコミュニケーションを切ったからであり、相手方の要求がかなえられない責任は、相手方自身の行動によって相手方に帰せられるからである。



 現場で起きたクレームや苦情は、なるべく現場で解決する、という心構えで臨みましょう。決して最初から上司を頼りにしないことです。
 「私の責任で対応させていただきます」という気持ちを強く持って臨むことで、自ずと慎重になり、敬語や謙譲語も使い分けられるようになります。
 相手はそこに誠意を感じてくれます。(p.180)


現場で解決するという心構えで臨むことで、自ずと慎重になり、相手方の言うことをまずはしっかり聞くというスタンスが生じる。これが第一歩ではないかと思われる。敬語や謙譲語の使い分けなどは、その次かさらにその次くらいのステップの話かと思われる。


森脇孝 『デジカメ&ビデオカメラで動画を上手く撮る本』

 いずれにしても、パンし終わったほうがストーリーの主題(メイン)となるのが特徴です。(p.23)


パンというのは、カメラを横や縦に振りながら撮影するカメラワークのこと。今まで静止画ばかり撮ってきた私にとっては、あまり馴染のない方法であり用語だったが、ビデオカメラの場合、写真よりも動きの要素が加わる分だけ多くのことを意識しながら撮影することが必要になるように思われるので、撮影の基本単位に名前を与えておくことには、自身の中で動作を分節化し、その分節化された動作を意識し、定着させる効果があるように思われる。

本書のような指南書を読むことの効用はこうした点にある。


平井信義 『続「心の基地」はおかあさん やる気と思いやりを育てる親子実例集』

 「いい子」などという評価はまったくしないのが、私の子育ての方針です。
 「よい子ね」などと言えば、入れ歯を探す行為を「よい子」のすることと思ってしまう恐れがあるからです。この場合、私の困っている状態を思いやってくれること(共感)が、人格形成にとって何よりも大切なのです。
 私は、子どもたちのしてくれたことに対して、「うれしい」とか「助かった」とか、こちらの気持ちを表現することにしています。子どもたちが「よい子」にこだわることのないように――との思いを込めて……。つまり、私はほめるようなことをしないのです。(p.48)


第三者の位置から評価を下すようなことは言わず、子どもと直接向き合って自身の思いを表現するというのは、確かによい方針。子育てに限らず、仕事での部下や後輩の育成などにも使える考え方であると思われる。



強制すれば、形ばかりの「おはよう」を言うようになりますが、それは本心からではないから、本当の「思いやり」が育ってはいないのです。カッコよくやっていて、それがほめられるから、ほめてもらいたいためにしているに過ぎません。いわゆる道徳教育が危険なのは、外側の行動によってほめられるために、内心は育っていかないことにあります。(p.56-57)


内心を育てるには、一つ前の引用文のように「Iメッセージ」で自分の思いを伝えることや自身の「背中を見せる」ことによる感化が必要なのだろう。



 子どもは、散らかすことの専門家です。お母さんに言われなくては片づけをしないし、言われてもなかなかしません。なぜでしょうか。
 それは、片づけは創造性を発揮できるような仕事ではないからで、したがって子どもにとってはつまらない仕事だからです。……(中略)……。子どもは、思春期に入れば、自分の部屋をいろいろと飾ろうとする気持ちが強くなるから、散らかすことも少なくなり、進んで片づけるようになりますから、それを待つことです。
 お母さんのなかにも、片づけが好きでない人が少なくないはずです。では、なぜ片づけをしているのでしょうか。
 ……(中略)……。
 第三には、片づいていれば、気持ちがよいということがあります。これは、子どもにも伝わります。ですから、「片づけなさい!」とどなったり、さらに「自分で散らかしたんだから、全部自分でやりなさい!」などと意地の悪いことを言わないようにしましょう。そして、「お部屋をきれいにしましょう」と声をかけ、お母さんが主役で子どもに手伝ってもらうといいのです。そして、終わったときに、「きれいになって、気持ちがいいね」と喜び合いましょう。そうしているうちに、思春期になれば、進んで自分で片づけ出すのですから……。(p.58-60)


子どもにとって片づけが創造性を発揮できないつまらない仕事であり、だから片づけをしたがらないというのは、なるほどと思わされたところ。そして、ここで示されているようなやり方をきちんと続けていれば、思春期になってある程度自分で片づけるようになる可能性はあると思う。ただ、誰もが思春期になれば片づけるようになるのか、というとそうではないだろう。その点で少し楽観的過ぎる書きぶりが気になったのだが、この点に関するポイントは、親が「片付けなさい」などとイライラしながら命令するようなことを避け、もっと寛大な姿勢でサポートするのが望ましいというところにあるのだろう。

また、片づけは創造性が必要ない仕事だというのも、ほとんどの子どもにとってはそうだと言えそうだが、ものごとの整理は創造性を必要とする技術であって、片づけ一つにしても、効率的に必要なものを取り出せるようなしまい方や片づけ自体に欠ける労力を少なくような収納のあり方を考えるなど、かなり創造性を必要とする分野であるということは強調しておきたい。ただ、子どもにとっては一般にそうした必要性も低いため、関心を引かないというに過ぎない。



 子どもを甘やかすな――と言われますが、それは物質的・金銭的な要求に対してはきちっと制限をしなければならないことを言っているのであり、からだでの甘えは十分に受け入れること、つまり甘やかしてよいのです。それによって、お母さんと子どもとの間の情緒的な結びつきができるからです。(p.68)


分かりやすい整理。



 子どもにとっては、何よりも大切なのは、家庭において「笑い」の多い生活を楽しむことです。それが子どもの情緒を安定させるからです。(p.96)


なるほど。「笑い」の多い生活を楽しむことは、いわば情緒の基層にポジティブなエネルギーを与えることになるわけだ。



 年寄りになると、おもちゃやお金で孫を釣ろうとする人がいます。子どもは、もらったときはニコニコして親しみを示しますが、それはその場かぎりのもので、年寄りと孫の間の情緒的な結びつきはできていません。へたをすると、子どもの物欲・金銭欲ばかりを増大させることになります。(p.105)


金銭的な動機づけと(他者への共感などに基づく)社会的な動機づけは同居できないという指摘があるが、この問題もこれに通じる問題系であるように思われる。



早期教育に対するさまざまな企ての多くが、危険なものです。とくにそれが幼児教育産業に結びついているときに、危険は非常に大きくなります。その理由は、大人の頭が考えたプログラムを子どもに押しつけ、子どもの自発性の発達に、圧力を加えてしまうからです。
 また、早期教育を受けた子どもが、思春期以後にどのような青年になっているかという追跡調査も行われていません。(p.112)


確かに、何らかのプログラムに沿って子どもたちに何かをやらせるようなものはあまり意味はなさそうだ。



どんな立派なレールの上を走らせようとも、子どもの自発性を育てていないかぎり、子どもはどこかで挫折してしまい、その立ち直りには長い期間を要することになります。
 子どもに「自由」を与え、自発性を発達させながら、のびのびと育てていれば、子どもはいつか自分の「個性」を発見し、それを伸ばそうとし始めます。(p.114)


例えば、過干渉されて育った子どもは基本的に親がレールを敷いてしまうことになり、こうした挫折を経験することになるように思われる。子どもにとってはこの挫折からの立ち直りこそ、自発性獲得のための闘いということになる。




相馬範子 『生活リズムでいきいき脳を育てる 子育ての科学98のポイント』

 子どもが空腹を訴えたら、「もうすぐご飯だから我慢しようね。急いで支度をするから手伝って」と、空腹感を体験させましょう。3度の食事をおいしく食べるために空腹が必要です。カロリーの過剰摂取や食事前の合間食い、おやつの食べすぎは、偏食の大きな原因となります。(p.23)


私が知っている偏食をする子供は、確かに、空腹時にはジュースやお菓子で常に空腹感を満たし、食事の定刻には空腹ではないとして食事をせず、夜遅くなってから夕食を食べる、といった生活をしているようである。空腹感を体験させることが重要だというあまりにも当たり前の指摘が、そうした事例を見ていると、妙に「そうだよね」と共感できてしまう。



 もし、子どもが偏食傾向あるなら、まずは、しっかり寝ているか、お腹がすくような活動をしているかチェックしてみましょう。そのうえで、子どもが敬遠する食材の調理を工夫してみましょう。「食べ物の好みはあってもいいけれども、何でも2口は食べる。偏食はさせない」という、基本的な姿勢を守っていきます。(p.23)


これも当然のことなのだが、最後の基本的な姿勢のところで「2口は食べる」というのは、1口では少なく、3口では苦痛が大きいということで継続できるバランスをとっている感があり興味深い。



家庭の中から食の共有がなくなると、子どもに食文化が伝達されません。箸の使い方や食べ物を粗末にしないこころ、食事の楽しさや大切さなど、家族の食卓で学ぶことはたくさんあります。
 子ども時代に食卓を囲む習慣のない環境で育った大人は、つぎの世代に伝える食文化がなく、食事は、空腹を満たすだけの行為になってしまいます。(p.25-26)


確かに。本書は「科学」を謳っているのだが、妙に保守的な「旧き良き伝統的な」家族観のようなものに基づいていると感じられるところが気になるのだが、それでも、食事を家族が共に食べるか、孤食となっているかで相違が出そうなことは容易に想像がつく。というのは、前述の偏食をする子どもに当てはまっているように思われるからである。その子どもにとっては、食事は「空腹を満たすだけの行為」になっており、食事中のマナーもまともに身についていないからである(左手を床や椅子につけて、体を支えながら、犬食いのようにものを食べたりする)。

なお、「旧き良き伝統的なもの」が、本当に伝統的に続いてきたものであることはほとんどないと言っておこう。



親しい大人がいないという不安感は、警戒心やより大きな不安感を生むかもしれません。親しい大人がすぐそばで見守っていてくれているという安心感は、子どもに外界に対する興味を広げさせます。新奇なものやできごとに対して、それを「なんだろう?」「どうしたのだろう?」と好奇心や興味をもち、見たり聞いたり触ったりするという探索行動をとるのか否かによって、子どもの具体的経験に差がでてきます。不安感や警戒心の方が強ければ、子どもはその事態から逃げようとします。(p.116)


1~3歳までの子育てについての記述。確かに安心感がベースになって探索行動に繋がり、それが具体的経験の差になっていく、というのは論理的には納得できる。こうしたことが成り立っていることが実証的に示されているのかどうかに興味がある。


明橋大二 『忙しいパパのための 子育てハッピーアドバイス』

父親の立場に立てば、子どもが生まれるまで、父親は、育児について、ほとんど教育を受ける機会がない、という現実があります。(p.3)


なるほど。確かに言われてみればその通りではある。ただ、自分自身を形成(Bildung)していく上での自己教育の過程を援用すれば、ある程度の対応は自ずとできる、というのが私見である。

とはいえ、こうした反省と作動との相互媒介的な作用を意識的に行っている人は少なく、それまでに受けている教育水準も相対的に高い(低くない)ことと相関があるため、全ての人にこれを求めることは出来ない。社会としては、何らかの対策があった方がよさそうな問題ではある。



 しつけも大事、勉強も大事、しかし、いちばん大切なものは、自己評価(自己肯定感、自尊感情)といわれるものを、育むことです。
 ……(中略)……。
 この気持ちがしっかり育まれていないと、しつけやルールがうまく身につかなかったり、勉強に集中できなかったり、あるいは、外見的には、ちゃんとやっているようでも、本人はとても強い不安や緊張の中で過ごしていて、それが、大きくなるにつれて、心身症や非行という形で出てくることがあります。
 この自己評価ですが、実は、お父さんの育児行動によって差が出てくる、という調査結果があります。(p.23)


自己肯定感を育むことが重要であるということは当然のことだが、父親の育児行為によって差が出るという点は興味深い。母親だけでなく、複数の人間からの強い持続的な承認があることが重要なのではなかろうか?



 改める、と言っているのに、「どうせするはずがない」と否定されると、改めようと思った気持ちもしぼんでしまいます。
 いったんは信用して、「じゃあ、お願いね」と言われるほうが、やる気が出ます。

 ……(中略)……。
 言われても改めないことが続くと信用を失うのは、職場も家庭も同じです。(p.97)


確かに。ただ、「改める」と言いながらも、結局は改まらないことが続き、いったん信用を失ってしまった後に、また「改める」と口先で言われれた場合、「じゃあ、お願いね」と言えるだろうか?また、言うべきだろうか?

このようになった場合、「じゃあ、お願いね」と言って様子を見れば、改まらないことが続くだけとなり、また、「改める」と言ったことに対して否定すれば、ますます発言者側にやる気がなくなる、という悪循環に入りやすいと思われる。このような状態になった場合、どうすればいいのだろうか?本人の自覚を促すこと(改めないことがいかに問題かということを自覚させること)が、改善のためのポイントではないかと思うのだが、自己認識の力がない人にはこうした認知を変えるというやり方はあまりうまくいかないことがあるようにも思う。個人をシステムとして作動させるのではなく、共同体を単位としてシステムを作動させる(例えば、一緒に行動してやる気を補助しながら行わせるなど)という手はあるかも知れない。いずれにしても、一度信用を失った後は、そして、改まらないことが習慣となってしまった後は、修復はかなり困難な仕事になることは間違いない。

子育てにおいては、物事をやるには時期がある。このことを踏まえて、しつけなり勉強に対する態度なりといったものを身につけるべき時期に身につけられるように導いていくことが重要であると思う。



 確かに、叱りすぎは、子どもの自己評価をよけいに下げるので、よくないです。しかし、まったく叱らないのがよいか、というと、そうは思いません。子どもが自分を傷つける可能性のあること、他人を傷つける可能性のあることは、きちっと叱るべきです(傷つける、とは、身体的、心理的、社会的、すべてを含みます)。
 そういうときに、叱らないのも、また子どもの自己評価を下げます。
 ……(中略)……。
 こういうときに真剣に叱ることは、「おまえは大切な存在なんだよ」と伝えることになります(p.117-119)


この部分は本書で最も参考になったところ。自分を含めた誰かを「身体的、心理的、社会的」に「傷つける可能性」がある場合に叱ることは、その子に「大切な存在である」ということを伝えることとなり、自己評価に繋がる、ということ。



 体罰でなくてもしつけは可能です。
 ……(中略)……「タイムアウト*」など、体罰に頼らないペナルティの方法が、いろいろと開発されてきています。

*警告しても許しがたい行動を続けたとき、決まった時間(一般には年齢と同じ時間。3歳なら3分)だけ、決まった場所にいさせること(p.131)


体罰に頼らないペナルティの方法を多様に持っているという知恵ないし知識は重要。この点でも親の教育・教養の程度が育児のあり方を左右すると思われる。



 父親が、不在がちだと、母親は孤独を感じ、不安になります。
 それが、育児不安という形をとることもありますが、もう一つ、母親の、子どもへの依存という形をとることもあります。
 子どもが、母親の寂しさや不安を埋める手段になるのです。特に、男の子の場合は、異性ということもあって、その結びつきは、さらに強いものになります
 ……(中略)……。
 そうすると、子どもは、何よりも親を傷つけたくないですから、母親から精神的に離れる(自立する)ことができなくなります。
 ……(中略)……。
 そのような、いわば、母親の依存から、子どもが脱出できるためのいちばんの方法は、父親が、母親の不安や寂しさを、しっかり受け止めることです。そうして、母親が安心すれば、子どもも安心して、本来あるべき、母親への反抗や攻撃を出せるようになります。また、父親が子どもに直接関わることで、母親以外の世界や価値観も知ることになります。そうして、母親から精神的に自立していくことができるのです。(p.133-137)


父親が客観的に不在である場合だけでなく、父親と母親の精神的な結びつき、信頼関係があるかどうか、ということ自体がこの問題にかかわるように思われる。父親と母親の信頼関係が十分でなく、母親が主観的に孤独である(lonely)と感じていれば、たとえ客観的には一人でいる(alone)のではなくても、同じような不安から子どもへの依存へと走る可能性が高まると思われる。


河添邦俊、河添幸江 『イラストでみる 乳幼児の一日の生活のしかた 生活リズムの確立』

 人間の子どもは、おとなになるためにおとなに向かっておとなの真似をしながら育っていきます。そのおとなの真似をすることを「習う」とか、「学ぶ」とか、「遊ぶ」といいます。……(中略)……。「継続は力」ともいわれていますが、おとなと生活を共にしながら、おとなの真似を毎日積み重ねていくことが、子どもの習慣形成の基本となるものなのです。(p.12)


大人自身の生活習慣が規則的で自然の理にかなったものであることが、子どもの生活習慣の確立にとっても重要。



子どもは、一緒に食べることで、正しい食事のマナーも、おとなの食事する姿から学び、身につけていくこともできるはずなのです。(p.57)


おとなと一緒に行動して、それを手本としてマナーを身につけていく、というのは、食事に限らず重要なのではないか。



人びとは、常に仲間と共に、“労働”(「労」は火で加工するという意味と、いま一つは残り火でかたづけをするという意味とがあったようです。「働」とは重荷を負い腕に力を込めている様子です)<=耕作し、収穫し、調理し、食べ、かたづけ、残った物を保存>してきました。この一貫した仕事のことを、「ままごと(まま=飯は、食の意味で、ごとは仕事の意味です。ままごと=飯事は、食に関する仕事のことです)」と呼んできたわけなのです。そこに食事にも、計画性と働くリズムを持ったのが、人間の進歩と賢さの中心的内容であったといえるでしょう。(p.69)


「ままごと」は「食に関する仕事」か。なるほど。私は、小さな頃、「ママ(母親)の真似事」のことかと思っていた(笑)。しかし、これでは性別の役割分担という点からも問題のある言葉になってしまうな。



 偏食は、多くの場合は父か母の偏食に似る上に、さらに育て方の甘さから輪をかけてくることがよくあります。食事には、マナーが必要なものです。それは仲間と共にすることが大切だからです。マナーの悪い食事は、一人でたのしくない食事をしている状態が多いことから来ている場合もあります。あるいは、家族との食事でマナーの悪いのは、家族がそろって悪かったり、放任や過保護的家族であったり、わがままを許し過ぎている状態が多いからのものです。そうした子どもは、偏食やむら食いも多くなりがちです。(p.71)


偏食とわがままを許し過ぎる育て方とは、確かに相関関係がありそうである。

一人で楽しくない食事をしている場合というのは、その食事の場には社会が存在していない。過度に放任的な育て方は、養育者が子に対してかかわりを持たないということでもあるから、そこにも社会的な接触は希薄である。過保護な家族関係では、子どもの自我が直接拡大したものが家族関係ということになるから、そこにも「他者」は存在せず、社会は存在しないと同然である。「仲間と共にする」食事は、社会的な行為であり、社会が存在しない場では育成できない。



 1歳半頃から2歳に向かう頃、1日1回の昼寝になって行きます。その際、午後の昼寝をなくして、午前中1回の昼寝に統一していく方が育ちのためにより良いように思われます。(p.110)


夜は早めに就寝し、しっかりまとめて寝ることができるからである。この点は、個人的には本書で最も参考になった点の一つ。



テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

中川信子 監修、NHK出版 編 『NHKすくすく子育て 育児ビギナーズブック⑤ ことばの育み方』

生活リズムは1日で整うものではありませんが、乱れているなと思ったら、少しずつでいいので調整していきましょう。宵っぱりの子を早く寝かせるのは、非常に難易度が高いワザですから、まずは朝、1時間早く起こすことから始めてみてはどうでしょう。(p.12)


赤ちゃん以外にも使えそうな方法と思われる。



 赤ちゃんは、テレビやDVDを見るとき、食い入るように一心に画面に見入っていますが、プログラムの内容に感心して集中しているわけではありません。赤ちゃんの頭ではとうてい処理できないような大量の刺激を前にして、一種のフリーズ状態にあるのです。音だけでなく、画面のチラチラする光も赤ちゃんの脳を過剰に刺激し、疲れさせてしまいます。こうした過剰な刺激を長時間与えないためにも、テレビやDVDを30分見せたら30分以上休むようにしたいですね。
 見せる時間帯にも気をつけたいところです。眠る直前にテレビやDVDを見せると、フリーズ状態がしばらく続き、寝つくまで時間がかかるので注意しましょう。(p.18)


フリーズ状態というのは適切な比喩で、なるほどと思わされた。テレビなどを見せない方が良いということの理由も(これですべてが尽くされるわけではないにせよ)感覚的に分かる譬えだと思う。

寝る前に過剰な刺激を与えないというのは、テレビだけでなく、遊びなどでも同じことであると考える。夜は入浴後はまったりと遊ばせて、自然に眠りやすい方向へ誘導するのが良いのではないか。



「○○ちゃん、おっぱい飲もうねー」、「さあ、お風呂入ろうか」
「はい、おしまい」、「いっぱい飲んだねえ」、「きれいになったねえ」
 動作の始めと終わりにきちんと区切りをつけると、赤ちゃんが、「おっぱいを飲むということ」、「お風呂に入るということ」とはこういうことなんだと、行為の意味を徐々に理解していくための助けになります。
 これは、赤ちゃんにとって自立の力を身につけるうえでも大事なことです。(p.38)


養育者側の人間がだらしないと、その生活のだらしなさがそのまま赤ちゃんの生活のだらしなさにつながるわけだが、この方法で語りかける習慣をつけさせることで、養育者側の生活態度と赤ちゃんの発達の両方に資することができるかもしれない。



 第4章でもくわしくご紹介しますが、まねっこはコミュニケーションを深める楽しい遊びでもあります。ポイントは、赤ちゃんに大人のまねをさせるのではなく、大人が徹底して赤ちゃんのまねをすること。このテクニックを覚えておくと、ちょっとした時間が楽しい遊びの時間に変わります。ことばだけでなく、しぐさなども同様です。
 赤ちゃんのことばやしぐさをその場でまねできるということは、つまり、それだけ大人が赤ちゃんのことをしっかり見ている証拠です。赤ちゃんが「ぼく(わたし)のことを見てくれている。うれしい!」と感じることで、親子の信頼関係もしっかり築くことができます。(p.40)


真似をするということは、赤ちゃんをよく観察して把握し、その上で関心を持っているということを赤ちゃんに対して発信することでもあるわけだ。なるほど。関心を持ってもらっていることが実感されるから、自己肯定感にもつながるのだろう。




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シーナ・アイエンガー 『選択日記』

 選択をするとき、私たちの脳は近道をしようとします。これが、直感を使った選択です。直感が判断のよりどころにするのは記憶です。
 ところが記憶は一定の方向に偏っています。(p.20)


直感的な選択は近道をしようとしていることだというのは、なかなかうまい表現かもしれない。そして、直感的な判断をする際には、記憶の偏りが選択を偏らせるというのであれば、やはりその偏りについて知っておくべきだろう。感覚を刺激する鮮明な記憶や選択肢のうち最初と最後に接したもの、接する頻度などに依存することが本書では簡潔にまとめられている。



 「マシュマロテスト」が研究として優れているのは、被験者の子どもたちを、10年後、さらに成人後も、追跡調査している点です。
 テストでは三割の子どもが、15分我慢して、戻ってきた白衣の研究者にお菓子を二つもらうことになりましたが、10年後の追跡調査では、我慢できた子どもたちは、我慢できなかった子どもたちに比べて強い友情で結ばれ、困難な状況に適切に対処する力があり、行動上の問題も少なかったのです。大学進学適性試験(SAT)のスコアも平均で210点も、高いことがわかりました。
 さらに成人後の追跡調査でも、このグループは、喫煙率や違法薬物の経験率が低く、社会的経済的地位も高く、修学年数も長かったのです。(p.30)


マシュマロテストについてもっと詳しく知りたい。



 太りすぎはよくないこととはわかっていても、ついつい間食に手を出してしまう。試験があって勉強しなくてはならないのはわかっていても、ついついテレビを見てしまう。
 ……(中略)……。
 どのようにしたら、目先の誘惑に負けずに、長期的な利益を考えた行動をとることができるでしょうか。
 ……(中略)……。
 つまり、テレビのある家では勉強せず、図書館を使う。あるいは、家にはお菓子をおかないように家人に頼む。そうしたことによって、「選択」の余地をなくしてしまい、勉強することや、ダイエットを「習慣」にしてしまうのです。(p.38)


習慣というと、ジョン・ロックの教育論を想起してしまうが、それは措いても習慣づけは広い意味での教育の最重要課題の一つであると思う。特に年齢の小さい頃、それも小学校の前半くらいまでが重要なのではないかと感じる。



 子どもにやらせたくないことは、禁止しつつも、裁量の余地を若干残しておくことで、心理的反発を小さくし、それに惹かれる気持ちを抑えることができます。(p.40)


なるほど。子どもに限らず使えるテクニックだと思う。



 プロコンリストに限らず、理性で行う選択には、致命的欠陥があります。それは具体的なもの、定量化できるものに偏ったデータに頼っていることです。定量分析では扱いにくいもの、たとえば感情に関わる考慮事項は、ないがしろにされがちです。その結果、理性的な分析のはずが、偏ったデータをもとにした推論になってしまうのです。(p.42)


なるほど。直感だけで選択すると記憶の偏りによって誤り、理性だけで選択するとデータの偏りによって誤るわけだ。



人生を幸せだと思える人は、自分の欲しいものを手に入れた人ではない。手に入れたものを欲しいと思える人が幸せなのだよ」(p.54)


幸福感や満足感の高い人生というのは、確かにこういうものかもしれない。



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