アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

小川洋 『消えゆく限界大学 私立大学定員割れの構造』

 これだけ大規模な入試を行なって、各大学とも最終的に定員の数パーセント程度の誤差に収めている。なぜそのようなことが可能なのか。その最大の理由は入試方法の多様化である。ほとんどの私大がこの20年ほど、辞退率という不安定要素をもつ一般入試の比率を大きく下げてきた。さらに一般入試においては、予想外に多くの入学手続き者が出て大幅な定員超過とならないよう、正規の合格者数を絞ったうえで必要に応じて追加合格を出して入学者数を微調整している大学も多い。
 大学の学生募集方法は、ひと昔前に比べるとすっかり様相が変わっている。推薦入試、AO(アドミッション・オフィス)入試、付属・系列校からの内部進学など、一般入試以外の学生募集の比率が大幅に増えてきた。推薦入学については、短大では古くから実施され、国公立大学でも70年代後半に取り入れられるが、私大では早期の学生確保手段として広がっていった。12年度入試では、全入学者のうち、国立で12.4パーセント、公立で24.0パーセント、私立では40.3パーセントが推薦入試によるものとなっている。(p.21-22)


かつては当たり前のように行われてきた水増し入学が、文科省による補助金減額や個別的指導によって是正されるようになったことへの大学側、特に私立大学の対応が入試の多様化を推進する要因の一つとなったことが本書から理解できた。

また、個人的には私大の4割が推薦入学という割合の大きさ(さらに内部進学やAO入試などもある)には驚いた。一昔前であれば進学するための学校ではないと思われていたような高校でも、昨今では卒業者の進路を見るとしばしば私立大学の名前が載っていて違和感を感じたことがあるが、そういった事態についても理解できるようになった。

さらに、団塊ジュニア世代が入学した25年くらい前の大学入試の偏差値と少子化が著しく進行した現在の偏差値が多くの大学でそれほど変わっていないことにも違和感を感じていたが、一般入試の定員を減らすことで偏差値が高く保たれるという構図もあることが分かった。最近の入試事情に関する多くの謎が本書のおかげで解けた。



一般入試の定員を絞れば絞るほど入試倍率は上がり、受験情報企業の出す「偏差値」が上昇し、大学の評価を高める結果になる。それが大学のねらいのひとつであるとさえ言われている。(p.27-28)


すぐ上でコメントした内容だが、慶應なども学部によっては半分以上が一般入試の前に埋まっているということが指摘されている。このような事情からは、その大学の「偏差値」がかつてと変わっていなくても、実際に入学している学生の学力レベルを平均するとやはり以前よりは下がっていることが予想される。



大学進学率を予想以上に長期にわたって大きく押し上げた大きな原因は、進学志向の全般的な高まりと高卒就職環境の壊滅的な悪化であった。(p.64)


90年代後半から00年代前半頃まで、文部省が予想していた以上に進学率が上がった要因。



アルバイト賃金も上昇したバブル経済のさなか、リクルート社が肯定的な意味をもたせるつもりで作ったという「フリーター」の用語は一転、不安定、非正規雇用を象徴的するものになったのである。(p.65)


使用者側が安上がりの労働力を使いやすくなるように意図されており、労働者側のことにはほとんど配慮していなかったのだから、「フリーター」の語が否定的な意味で用いられるようになるのは当然の成り行きであったと言うべきだろう。



 大学にとっては18歳人口の急減による進学者の減少を覚悟していたところに、皮肉にも受験競争の鎮静化とバブル崩壊とが、高校生たちを大学進学へとプッシュすることになり、受験生の波は予想以上に長期化した。(p.66)


バブル崩壊とここで言われている要因は2つ前の引用文で述べられているが、受験競争が鎮静化して大学が入りやすくなったためにかつてであれば進学をあきらめていた層も進学への希望を持つことができた。このことと就職難は相乗効果があっただろう。



生徒数は20年間に1.8倍あまりに増えた。……(中略)……。その際、専門高校(職業高校)は開設されても例外にとどまり、大部分は普通科高校が増設された。その結果、首都圏では、職業系の専門高校の定員が微減する一方で、普通科の生徒数は、70年の約17万2000人から90年の37万8000人へと、2.2倍にも増えたのである。他の大都市圏でもほぼ同様の傾向が生じている。
 この時期に新設された高校の多くはその後、ピラミッド型秩序の中下位に定着し、一部は、義務教育内容の習熟度がもっとも低い生徒たちを受け入れる、底辺校とか教育困難校と呼ばれる高校になっている。朝比奈なを『見捨てられた高校生たち』はこれらの高校の実情を余すことなく描いているが、多くの弱小私大はこれらの高校にも推薦枠を提供していることを認識するべきである。
 大学進学にはほとんど無縁の底辺校とトップの進学校、準進学校との間にある、進学希望者と就職希望者が混在する、性格の曖昧な普通高校は、教育関係者の間では「多様化校」と呼ばれる。この多様化校こそが、大学進学率の変動が発生する現場なのである。(p.164-165)


第二次ベビーブーム世代が高校進学する頃、生徒数が急増したのに対応して高校も定員が増やされたが職業高校ではなく普通科が増やされたため、それらの高校は「多様化校」や「底辺校」となった。この多様化校が就職難と進学の容易化によって(文部省の)想定以上に進学していった生徒たちを擁する現場だったことが指摘されている。


スポンサーサイト
ジェームズ・J・ヘックマン 『幼児教育の経済学』

子供の不利益を決定する主要な要因は、たんなる経済状況や両親の有無よりも成育環境の質であることを示す証拠はたくさんある。たとえば、ベティ・ハートとトッド・リスレーは1995年に42の家族を対象にした研究で、専門職の家庭で育つ子供は平均して一時間に2153語の言葉を耳にするが、労働者の家庭では1251語、生活保護受給世帯では616語だとした。これに対応して、三歳児の語彙は専門職の家庭では1100語、労働者の家庭では750語、生活保護受給世帯では500語だった。(p.27-28)


耳にする言葉の数と語彙の数は確かに因果関係がありそうである。さらには「耳にする言葉の質」(コミュニケーションの質)も子どもの知的および情緒的な成長とって重要だろうと思われる。



幼少期に認知力や社会性や情動の各方面の能力を幅広く身につけることは、その後の学習をより効率的にし、それによって学習することがより簡単になり、継続しやすくなる。(p.34)


本書におけるヘックマンが幼少期の教育が重要だと主張する際のポイントの一つが、このような累積的な効果にある。



チャールズ・マレー 「幼少期の教育的介入に否定的な報告もある」より

やる気に満ちた人々による、小規模の実験的努力は成果を示す。だが、それを綿密な設計によって大規模に再現しようとすると、有望に思えた効果が弱くなり、そのうちにすっかり消滅してしまうことが多い。(p.62)


ヘックマンの採用している証拠が少ないサンプルによるものであるが、大規模なプロジェクトでの効果はそれほどではない。小規模な集団で行った手法も、全国的な教育行政などの施策として実施される場合には変質しうる。



以下、大竹文雄による解説より

逆に言えば、非認知能力が大きく発達する就学前の時期に、その発達を促す教育をすることが重要で、その発達がその後の教育の効率性を高め、社会的な成功につながるのである。(p.119)


p.34からの引用文等でのヘックマンの主張に対応する解説。ここでは、教育は通常、「社会的な成功」とは何かという、その社会が価値あると認めるものへと方向づけようとして行われるものである、という点は押さえておきたい。



現実には自治体によっては、高齢化が進行する中で、教育予算を削減して福祉関連に割り当てるところも出てきている。実際、Ohtake and Sano(2010)によれば、地方分権と税源移譲の進んだ1990年代後半以降、自治体の高齢化率と教育予算の減少が連動するようになってきた。(p.122-123)


日本は教育関連予算が少なすぎることが大きな問題である。このため家計からの教育支出が多額に必要となってしまい、貧困家庭とそれ以外の家庭で教育機会の格差が拡がり、それが社会的な格差を再生産する方向に働いている。いわゆる新自由主義的な政策が進められることで削られた予算の一つが、もともと少ない教育予算であったことは銘記すべきだろう。

とは言え、安倍政権のような復古主義的反動主義に発する国粋主義的な方向で教育を進めようとすることは社会全体にとって正常な判断が出来なくなる傾向を助長するという政治的にはより恐ろしい帰結をもたらしうるものであり、本書で述べられているのとは別次元の危険な方向に向かっていることも大きな問題である。


文部科学省 『幼稚園教育要領解説』

これにより、幼稚園は法令上、
○幼稚園の教育活動その他の幼稚園の運営の状況について自己評価を行い、その結果を公表すること
○保護者などの幼稚園の関係者による評価(「学校関係者評価」)を行うとともにその結果を公表するよう努めること
○自己評価の結果・学校関係者評価の結果を設置者に報告すること
が必要である。(p.60)


あまり実効性のなさそうな評価制度である。ただ、こうした制度があるということ自体、本書を読むまで知らなかった。



 物を大切にするという気持ちの根底には、それが大切だと思える経験が重要である。したがって、最初から皆の物ということだけを強調するのではなく、初めは遊具や用具を使って十分に遊び、楽しかったという経験を積み重ねることによって、その物へのこだわりや愛情を育てることが必要である。(p.106)


この要領解説も基本的には「お役所の文書」なのだが、その中にあっても、それなりに教育の専門家や教育を仕事としている人からの視点で、なるほどねと思わせるようなことがたまに書いてある。



 幼児期においては、幼稚園や地域の行事などに参加したりする中で、日本の国旗に接し、自然に親しみをもつようにし、将来の国民としての情操や意識の芽生えを培うことが大切である。幼稚園においては、国旗が掲揚されている運動会に参加したり、自分で国旗を作ったりして、日常生活の中で国旗に接するいろいろな機会をもたせることにより、自然に日本の国旗に親しみを感じるようにさせることが大切である。(p.132)


この部分だけが、他より突出して国粋主義的な臭いを醸し出しており読んでいて気持ち悪い。本当にこんなことをしている幼稚園には少なくとも自分の子どもは行かせたくないと思うのが大多数の親の感覚ではないか。この箇所は教育基本法が国粋主義的復古主義者たち(第一次安倍政権)によって改悪されてしまったことに対応する内容だろうが、このように突出させた項目として記述していることは、そうした制約の中にあっての文部科学省の良心的な配慮なのかも知れないとも思える。

善き市民・国民なるものが育つとすれば、それはこのようなイデオロギッシュな洗脳によるのではなく、他人への思いやりなどの感覚を身に付けた上で、自らの権利をよく知り、それを守ることの大切さを知り、その上で他の人にも同等の権利があることを知り、それらの権利をいかにして調整していくのかという難問を自らの問題として捉えるような権利に対する意識の形成があってこそ育つのではなかろうか。

少なくとも、こうした感覚がないようであれば、善き市民・国民とは言えないと私は考える。例えば、自分の権利を放棄し、他人の権利も蔑ろにする人間は、人間的にであれ政治的にであれ、立派な人間だと言えるのだろうか?また、自国の国旗が蔑ろにされるときには怒りを覚えるにも関わらず、具体的な人間(国籍を問わない)が蔑ろにされていることに対しては怒りを覚えないようでは人間として失格はないか?明らかに引用した文の考え方は的を外している



さらに、学校教育法施行規則第24条第2項において、幼稚園の園長は、幼児の指導要録の抄本又は写しを作成し、これを小学校の校長に送付しなければならないこととなっている。(p.231)


小学校から中学校、中学校から高校へはこれに類するものが送られるのだろうとは子どもの頃から思っていたが、幼稚園から小学校にも法令で規定されているとは知らなかった。まぁ、学校を運営する側の立場に立てば、こうした引き継ぎが行われることは必要であり、当然と言えば当然だが。



新谷恭明、折田悦郎 編 『大学とはなにか 九州大学に学ぶ人々へ』(その2)

 帝国大学を頂点とする日本の高等教育システムには、近代国家の建設・発展にとって有用な指導的人材を育成すること以外には、これといった有力な理念が存在しなかった。キリスト教的な「人間救済」の理念や、19世紀的な「自由な精神による真理の探究」の理念などは、当時の日本人には疎遠なものであった。また欧米とは異なり、「国家があってこその大学」という観念が支配的であった。
 そうした背景のもとで、近代国家の建設・発展にとって有用な学問として、科学技術系の学問が重視され、高い威信をもった。理学・工学・医学などである。それらはもっぱら実用学として理解されていた。東京・京都以降に作られた後発の帝国大学がみな、科学技術系の高等教育機関として設立されたのも、そうした学問が国家的に重視されたことが背景にある。(p.33)


「国家があってこその大学」という観念は、もともと大学というものが教師や学生の自発的な組合であったこととは全く異なるものとして輸入されたことを意味する。政府が大学を設置することになると、当然に政府にとって重要な学問を教える場とされていくことになり、戦前の日本の場合は科学技術系の高等教育機関が設立されていくことになったわけだ。ただ、東京帝大の場合は法学も重視されていたように思われる。

いずれにせよ、「自治から遠い大学」ということは言えそうである。



 さて、高度経済成長期になると、若者が大学に殺到するようになり、日本の大学教育はエリート段階からマス段階へと移行した。しかし激増する学生を収容する上で中心的役割を担ったのは私立大学であった。旧制大学時代においては国公立大学が私立大学よりも学生数において優位にあった。新制大学時代になると学生のなかで私立大学在籍者が多数派を占めるようになるが、それでも高度成長期が始まったばかりの1955年には、国公立と私立の学生数の比率は約2対3であった。それが高度成長期が終わる1970年には約1対3となり、私立大学の圧倒的な量的優位が確立した。そしてその後もこの約1対3という比率は変わっていない。
 そうした私立大学優位の構造がもたらされた基本的原因は、大学進学希望者の急増に見合うような大学定員拡大政策を政府が実行せず、無策のまま状況を放置したことである。(p.34-35)


日本の教育予算は少なすぎる。そのことが家計が大きな教育支出をしなければならないことの要因となっており、経済格差が教育格差に直結し、それが世代を超えた経済格差の固定化へと繋がっていくという構造の一因となっている。



 第三に、大学の教育内容が空洞化しているにもかかわらず、それを卒業することは比較的簡単である。学生が必死に勉強しなくても容易に単位を取得でいるような仕組みになっているからである。日本の学生は多くの場合、授業に何度も欠席しても、通り一遍の期末試験を受けるだけで単位を取得できる。それに対してアメリカでは大量の宿題が課せられ、単位認定も厳しい。週45時間労働の原則を大学生にも当てはめるというのがアメリカの基本的考え方である。その結果、アメリカの四年制大学では、四年間で卒業できる者の比率は約60%である。それに対して日本の学生の「サバイバル・レート」は約90%に達する。このように成績評価制度がいい加減であるため、日本の大学の卒業証書は、その知的能力の品質保証書としては社会的に通用しない。「優」「良」「可」の成績評価もあまり当てにならない。そこで企業は、入学試験で発揮した能力を信用して、有名大学卒業者を優遇する傾向がある。(p.37)


大学の成績評価制度がいい加減すぎるというのは、私自身が大学に入学したその日(大学の授業科目について評価の甘辛をまとめた表が先輩たちにより流布していた)から実感したことであり、大学に入った後もあまり大学の公式カリキュラムでの勉強には意味や価値を見いだせないことに繋がっていたように思う。(頑張って身に着けたものがあっても正当に評価されるという見通しがないのであれば、最低限の労力で単位を取得するというゲームをする方が合理的だという判断に流れることになる。)

大学の卒業証書が知的能力の品質保証書として通用しないため、企業は有名大学卒業者を優遇することになるというのは、なるほどと思わされた。



このうち講座制は、講座担当者に対して職務給(本俸の4~5割)の上乗せを保障する一方で、教授の専攻責任(専門分野)を明確にしようとするものであった。同時に明文化された教授会とこの講座制は帝国大学の自治の根幹をなす制度となり、後年惹起する大学自治問題(例えば、東京帝国大学での戸水事件、京都帝国大学での沢柳事件、滝川事件等。なお、これらの自治問題については第七章の荻野喜弘「日本における大学の自治」を参照)でも、大きな役割を果たすことになる。(p.52)


講座制は講座担当者の給与にまで関係していたとは驚いた。現在はどうなのか?



 なお帝国大学の特権的地位は、法科以外の分科大学にも見られ、例えば文科大学、理科大学出身者は、中等学校(旧制中学・高等女学校)や高等学校・専門学校(旧制)教員の供給源として大きな力を持った。(p.53)


帝国大学(東京)の国家主義的な傾向を考慮すると、こうした教員の供給源となったことは、戦前の教育に国家主義的な傾向を与える要因の一つとなっていた可能性がなかったのかという疑いを私は持ってしまう。



 なお、帝国大学は内地・植民地に広大な演習林を所有していた。これらも帝国大学特別会計法の基礎になったといわれている。(p.63)


北大の歴史を見ていると演習林はあまり登場せず、農場が重視されることが多いが、確かに演習林も重要かも知れない。



アジア進出を睨んだ国家目的は農学部設置以前の1912、1913年に大学直属の演習林が樺太・朝鮮・台湾に設置されていたことによく示されている。こうした国家目的と地域社会との要請とが結び付いた農科大学は1917年に福岡県のおよそ135万円の設立寄付金によって実現することになった。(p.159)


九州帝国大学の農科大学の設立の経緯だが、いくつか興味深い点がある。例えば、アジア進出という政府の意向が関係していること(札幌農学校の設置もロシアの南下に対抗するための北海道の防備の必要性が政府にあったことと重なる)、国立の大学であるのに国費ではなく福岡県の寄付金によって設立されているという財政面での中央政府の渋さ(東北帝大や九州帝大が設立されるときも古河財閥などの寄付が必要だったことが想起される)など、国策で設置する割には政府が金を出し渋るのは一体どういうことなのか?



 九州帝国大学は医科大学設置の時に九州・東北二大学設置が政治問題化したように、帝国大学であると同時に生まれながらにして地方大学であった。そして九州大学はこうした地域の期待によく応えてきた。戦前だけでなく戦後においても地域社会のために九州大学の果たした役割は大きい。
 学生の出身地を見ると、設立当初(1911年)の入学者こそ九州地方は31%であるが、昭和戦前期は九州地方が50%強(うち福岡県がおよそ半数)を占めるようになった。戦後新制大学になるとこの割合は著しく増加する。1951年では福岡県だけで58%を占め、その他九州が34%を占める。この傾向はその後若干低下するが、1998年でも福岡県39%、その他九州が37%を占めている。この割合は九州帝国大学と新制九州大学が地域社会の教育に果たしている役割を示している。(p.160)


九大の九州出身者の割合の多さに驚く。北大の場合、北海道出身者は半分弱程であり、関東や近畿出身の学生が25%くらいはいる。東北大では東北出身者は4割程度で、関東(3割)と中部(15%)の学生が多いようだ。学生の出身地は卒業後の学生の居住地(勤務地)にも影響がありそうなので、そのあたりとも絡めて調べてみると面白いかもしれない。



 ちなみに、外国と比較してみると、実は、大学入学者の選抜方法が日本ほど多様化したところはない。ヨーロッパ諸国は基本的に中等学校(高校)の卒業資格試験の成績で入学の可否が決まるし、多様化しているといわれるアメリカでも、基本的にはハイスクールの成績か、それに共通テストの成績を加えた学力評価だけで入学者を決定している。
 では、多様化にはメリットがあったか?天野氏は、答えはNOだという。第一に、それが過熱化した受験競争を冷却する上で大きく寄与し始めたという兆候はほとんど見られない。逆に、多様化でチャンスに恵まれた大都市部の、経済的にも恵まれた階層の人々の競争の過熱化に拍車をかけた面すらある。第二に、多様化は、入学者の学力偏差値による大学間の威信の序列を突きくずすことにも成功していない。それは、推薦入学がほとんどの大学で一般入試の補完的役割しか与えられていないことに象徴的に現れている。
 他方、多様化は深刻なマイナス効果も生んでいる。……(中略)……。最後に、⑤入試方法の多様化の結果、初等・中等教育の質が低下し、ひいては大学生の学力が低下する危険性が、もっとも懸念されるマイナス効果である。……(中略)……。その事情が一変し、早くから受験に関係ない科目を「棄てる」という履修態度が一般化しつつあるといわれる。多様化の名の下に、全教科を満遍なく学習することを求めないで本当にいいのだろうかというわけである。(p.195-196)


受験の多様化は百害あって一利なしというのは自論と一致している。



なお、入試制度の歴史に関心のある読者にはぜひ「竹内洋『立志・苦学・出世――受験生の社会史――』」を読んでみてほしい。本書には単なる制度の歴史の叙述を超えて、「受験」という制度が日本の近代において持った社会的意義や受験生という一種の社会階層の精神・気質の時代ごとの変化が見事に描かれており、大学入試制度の歴史を考える上でとても有益である。(p.197)


読んでみることにしたい。


新谷恭明、折田悦郎 編 『大学とはなにか 九州大学に学ぶ人々へ』(その1)

 そうしたテキストは、講義形式(講読と呼ばれた)と、演習形式(討論と呼ばれた)によって、口述で教えられた。安価な紙も活版印刷術もなかった当時のヨーロッパにおいて、口述以外の教育方法は現実的にあり得なかった。(p.19)


中世のヨーロッパの大学における教育の状況。ヨーロッパに限らず、口述や書物の暗誦などが学習内容をなしていた時代や地域は多いが、紙や印刷術がないという前提の下では、こうした方法以外には有力な選択肢はないため、こうしたところに落ち着くわけだ。なるほど。



 そうした近代科学の建設者たちの活動は、本質的に大学の外部で行われた。大学教授もメンバーとして関与したが、彼らも研究に関しては、私費を投じて自力で行い、アカデミーや私的サークルで成果を発表する点において、在野のアマチュアと全く変わらなかった。このように大学は近代的学問の研究や発表が行われる場ではなかった。大学は研究後継者養成機関としての役割も果たさなかった。大学のカリキュラムは、旧態依然としたスコラ的な伝統を守り続けたのである。大学が近代的学問を自らのなかに取り込み、その研究・教育の中心地となるのは十九世紀のことである。(p.22)


19世紀における大学の変化その社会的な背景、さらに、そうした変化を語る前提知識としての18世紀以前の大学における研究や教育について詳しく知りたい。



また大学設置者(領邦諸国家のちに帝国)は、特別の予算を与えるための制度的枠組みとして、「ゼミナール」(人文学・社会科学系)、「インスティトゥート」(自然科学系)、「クリニック」(医学系)を設置した。(p.23)


19世紀のドイツにおける変化。大学が政府的なものをパトロンとするようになり、予算を受けるための制度的な枠組みとして、ここで語られているような制度が整備されてきたという側面もあるということか。研究や教育のための必要性からこうした制度が確立したのか、予算のための機関として確立したのか、こうしたあたりの歴史的経緯を知りたい。



 これに対してアメリカでは、実用学はほとんど抵抗なしに大学に入り込むことができた。実用学の大学における普及に大きな役割を果たしたのが、1862年に制定されたモリル法である。それは連邦政府が大学に土地を贈与することを定めた法律で、これに基づいて多くの州立大学が設立された(それらを土地付与大学と言う)。それらの多くは農学や工学のような実用学中心の大学として発足した。(p.24)


アメリカではヨーロッパと異なり実用学が抵抗なしに受け入れられたということはしばしば語られるが、ここで述べられているアメリカの州立大学の成立過程とその「実用学中心の大学」という性格は興味深いものがある。


島善高 『早稲田大学小史』(その2)

 この当時、各道府県には一校以上の公立中学校を置くことが義務付けられていたため、中学校の数は次第に増加して、明治33年には全国に217校が存在し、卒業生の数は7,747名を数えた。
 これに対して官立の高等諸校は、全国五つの高等学校を始めとして、高等師範、高等商業、医学専門、外国語学校、美術学校、士官学校、海軍兵学校などがあったけれども、すべて併せて五千余名しか受け入れ能力がなかった。従って、官立学校に合格できない、いわゆる浪人が多数出現することとなって、受験生のみならず、文部省としても私立学校に期待せざるを得なくなった。(p.59)


明治期から続く「私立頼み」の高等教育政策が、現在の公的な教育支出が少なく、それに反比例して家計による教育支出を要求する社会へと繋がっている。



 早稲田大学は明治35(1902)年以来「大学」と称するようになり、商科や理工科を設置して綜合大学の実を備えるようになったけれども、法令上は飽くまでも専門学校に過ぎず、正式の大学は帝国大学のみであった。明治政府がモデルとしたドイツには私立大学が一つも存在せず、国家の重責に任じる者は官立大学でこれを養成しなければならないという考えが一般的であったからである。
 しかし第一次世界大戦でドイツ・オーストリアが敗退し、勝利を占めた連合国のイギリスには官立大学が一つもなく、またアメリカでも第一流の大学はむしろ私立大学であるという現実を知るに及んで、官立大学偏重の考えが次第に修正されるようになってきた。
 そこで帝国大学以外の私立大学はさまざまな働きかけをし、また政府内部でも大学制度改革の機運が高まって、大正7(1918)年12月になってようやく、帝国大学、公立大学、私立大学を一律に規律する「大学令」(全21ヶ条)が公布されるに至った。(p.94-95)


戦争でドイツが負けたことと大学に関する考え方が戦勝国である英米にシフトしたとする説明は興味深い。ただ、高等教育の必要性が高まっていたことも重要な要因ではないかと推測されるなど、上記以外の要因がいろいろとあると思われるので、そうしたところをよりトータルに知りたいと思う。



 配属将校の指導下に行なう軍事教練が学苑で始まったのは、大正14(1925)年からであった。軍事教練導入に際して、学生たちは全早稲田軍事教練反対同盟を組織して反対運動を行なったが、学生の検挙や家宅捜索などの弾圧があり、また軍事教練を受けた学生に対する在営期間短縮の好餌もあって、次第に反対する学生も少なくなり、軍事教練は定着していった。
 当初、配属将校は学苑の教育に介入することはなかったけれども、昭和9年、平野助九郎大佐が御真影の奉載及び四方拝(1月1日)・紀元節(2月11日)・天長節(4月29日)・明治節(11月3日)の四大節拝賀式の挙行を迫り、学苑はこれを受け入れた。また昭和14年からは、従来、希望者のみに実施されていた大学部軍事教練が学生全員の必修科目になった
 「昭和16年度学部・学年別教練出席者比率」によれば、各学部の学生は、在営期間が短縮され、また幹部候補生試験に有利であるというので、七割から九割がこれに参加しているのに対して、文学部学生の出席率は悪く、出席率は六割から七割ほどであった。文学部には自由奔放で勇気のある学生が多かった証拠であろうか。(p.126)



軍事教練に関しては、『小樽の反逆 小樽高商軍事教練事件』という本を通して私は知ったのだが、この本でも早稲田での反対運動についての言及があるなど、早稲田での反対運動は大きな意味を持つものであったようだ。

この軍事教練は、第一次大戦後の軍備の縮小により余った将校を学校に天下りさせるためのものであったようだが、満州事変以後には配属将校の教育への介入や軍事教練の必修化など、軍国主義化の流れに沿った動きをしていったことがわかる。

文学部の軍事教練への出席率が低いという指摘は興味深い。これについては、人文・社会科学を学ぶことが批判的思考の育成に繋がっていたのではないかと推察する。



 かくて学苑の学生・生徒はそのほとんどが勤労動員に駆り出されるようになった。さらに同年10月2日には「在学徴集延期臨時特例」が公布され、在学中の徴集延期特典も停止された。ただし工・理・医の各学部、高等学校・大学予科の理科、各医科大学、各工業大学の予科、医学・薬学・農学などの専門学校の学生・生徒は、召集を延期され大学に留まることが出来た。
 また選定された大学院特別研究生に対しても、徴集その他の動員を免除し、月額90円以上の学費を支給して、国策遂行に直接結びつく研究に従事させることになった。その対象となる大学は、七帝国大学、東京商科・東京工業・東京文理科の三官立大学、それに早稲田・慶應の私立大学の合計12大学に限定されていた。(p.134)


昭和17年に戦況が悪化し始めた後の、昭和18年の状況。

理系の専門的な知識や技術を習得する学生には、研究を通して国策(戦争)に加担させ、そうでない者には勤労動員という形で国策(戦争)に加担させていたことがよく分かる。

大学院特別研究生に国策遂行に直接結びつく研究に従事させる対象となった12大学について、政府による各大学の研究水準に対する評価が反映されているとすれば興味深い。ただ、七帝国大学とあるが、昭和18年当時には帝国大学は9校あったことが気になる。9大学に適用されていたが当時の外地にあった2校(京城、台北)は現在は日本国内にないということで本書が(または依拠した資料が)除外しているのか、それとも昭和18年当時の段階で外地の2大学には別のルールを課していたのかが気になる。



 昭和18年10月に閣議決定された「教育ニ関スル戦時非常措置方策」及びそれに基づく措置は、私立大学にとって死活問題であった。すなわち高等教育を徹底して理工系中心に再編成し、商科大学は産業経営を主眼とする大学として刷新し、文科系大学は入学定員を三分の一程度に、文科系専門部は入学定員を二分の一程度に縮小し、文系大学・専門部で理科系専門学校へ転換可能のものはその実現を図るというものであったからである。
 これを受けて昭和19年9月、東京商科大学が東京産業大学に、神戸商業大学が神戸経済大学に大学の名称を変更した。戦時下に営利を目的とする商業を研究するのは適当でないという意見があったからである。(p.137)


少し前にも文系学部を廃止の方向へと持って行くといった発言が政府の側からあったが、現代の時代の空気は当時と通じるものがあるのではないか。



 昭和17(1942)年に学徒錬成部に吸収されていた体育会は、昭和20年4月に学徒錬成部が廃止となったため、同年11月、新たな体育会規程によって復活した。……(中略)……。
 ところが終戦直後の戸塚球場は甘藷畑と化しており、……(中略)……、いずれも直ちに使用しうる状態ではなかった。(p.158)


終戦直後の大学の敷地が畑になっていたというのは、北大も同じであった。また、札幌の大通公園も同様である。



 学苑では創立125周年に向けて、アジア太平洋地域における新たな教育研究拠点作りを進めているけれども、まさにシンガポールはこのような拠点として理想的な環境であり、今後、アジア地域研究の拠点として、また遠隔教育の拠点として展開することが期待されている。(p.214)


こうした動きを率先して行っていくあたりも私立大学らしいと思う。教育や研究を目的として掲げはするが、いかに学生を集めるかという視点からもこれらの取り組みは説明が可能である点に留意したい。



 早稲田大学は、平成9(1997)年度から同志社大学との間で学生の相互交流をスタートさせた。早稲田大学と同志社大学とは古くから教員招聘などで親しい交流が続いていたけれども、学習機会の多様化、カリキュラム改革の一環として、全学部学生を対象として相互に交流させることとしたのである。
 ……(中略)……。
 このようにして私立大学同士が互いに協定を結び、足りない部分を他の大学で補うことが出来るようになり、学生もまた学部・大学の垣根を越え、講義や教員を主体的に選ぶことができるようになって、教育のオープン化が進んできた。(p.215-217)


限られた資源しかない私立大学が相互補完し合うという関係はなかなか興味深い。これも経営面から見て合理性がある点に留意しておきたい。

また、こうした交流が早稲田の場合、同志社との間での締結を嚆矢とする点も興味深い。歴史的経緯もこうしたところに反映しているのであろう。


島善高 『早稲田大学小史』(その1)

下野をした大隈が立憲改進党を結成し、そうした直ちに学校を作るのであるから、政府はその学校は立憲改進党の党員養成所ではないかと警戒していた。それにもかかわらず、東京専門学校は大胆不敵にも政治を前面に出したのであった。
 第二の特徴は邦語講義を打ち出したことである。当時、学界を代表する東京大学では日本人の教授も英語で講義をし、しかもドイツ語も課していた。大隈はこのような欧米心酔を遺憾とし、学問の自主性を確立するためにも日本語による講義が必要であると考えていた。(p.30)


現在でも早稲田は文学や政治に強いというイメージがあるが、創立当初から政治を前面に出していたというのは興味深い。本書を通読しても、ここにはそれなりの連続性があるように見える。

邦語講義を打ち出したことを誇っているのが興味深かった。今までは官立大学に関する本を読むことが多かったので、明治前半には外国語での講義はやむを得ないものであると考えていたし、大学によっては英語で抗議を受けて(苦労しながらも)十分理解できるほど学生の語学水準が高かったことを誇るような叙述もあったのに対し、私学に目を転じるとそれとは別の風景が見える。

ただ、明治初期について言えば、ある程度まともな水準の学問を学ぶにはやはり外国人教師から外国語で学ぶしかなかったのではないかと考える。私学は、それよりも低い水準の学問を教えていたり、広く学生を募らなければ経営が立ち行かないという事情があった、という現実から邦語講義というものは自然と出て来るのではないか。これに対し、大隈は学問の自主性を確立するという名目を掲げているが、当時の学生の質と数を考えると邦語しか選択肢はなかったのではないかと私は疑義を持っている。(他の私学がどうだったかを見ることでこの問題はある程度の解答が得られると考えており、この点はそうしたものを読むことで判明してくると思う。)



 式典の中で山田は、東京専門学校の教育方針として掲げた日本語による講義が成果を挙げていると自負したけれども、これは決して自己満足の弁ではなかった。それというのも、明治16年に、文部卿福岡孝弟の名で、東京大学でも外国語を主とする講義方針を止め、日本語を主として講義をする方針をとったからである。
 このことを聞き知った小野梓は、明治16年5月15日の日記に「余聞く、東京大学の我が専門学校を模倣し、邦語を以て授くるの専門の科を設くるの議を決すと。案(つくえ)を拍して曰く、是れ賀すべきなり。我が校の贏(か)ちなり」(原寛文)と記して喜んだ。(p.41)


日本語による講義が成果を挙げたのはそうなのだろう。ただ、この根拠として東京大学が日本語の講義を主とする方針をとったことを持ち出してくるのはどうかと思う。東京大学がこの方針を決定した理由などを見ていないので確かなことは言えないが、基本的にこれはお雇い外国人教師に支払う莫大な報酬という重荷があり、彼らから教えを受けて学問を習得した弟子たちをさらに留学させて最先端の成果を身につけさせるところまで育成し、教師としての役目を果たせる日本人が出てきたら順次お雇い外国人を置き換えて行く必要があったという事情があるからである。つまり、こうしたことを考慮するだけでも、東京専門学校が非常に成果を挙げているから東京大学もそれに倣ったというわけではないのではないか、と言える。

このことの説明のために、日記を持ち出しているのもいただけない。日記は公開を前提していないので他者からの批判を前提していないため好き勝手なことを書ける媒体であり、その記事の内容を根拠として、東京専門学校は素晴らしい(成功していた)と言おうとすること自体、本書の叙述の客観的妥当性に疑義を抱かせるものである。早稲田はかなり早い時期から私学の雄であり続けたのだから、学校として優れていたことを示すために、こうした無理な理由づけは必要ないように思われる。



 開講時の文学科には坪内以外に、高田早苗、畠山健、饗庭篁村、森槐南、下山寛一郎、落合直文、三島中洲、森田思軒、三宅雄二郎、信夫恕軒、関根正直らの錚々たる講師陣がおり、明治24年11月からは大西祝(操山)が加わり、哲学を担当するようになった。大西は同志社英学校で学んだ秀才で、新島襄がひそかに後継者と目していたほどの人物である。大西以来、同志社からは浮田和民、安部磯雄、岸本能武太らが次々と迎えられ、わが学苑と同志社との密接な関係が形成されることとなった。(p.46)


同志社と早稲田との密接な関係がどのようなものであったのか、興味を惹かれる。この叙述からも、私学関係について個別に調べるにあたっては同志社は外せないという認識を深めた。



 ところで明治21年5月には、私立法律学校が帝国大学総長の監督を脱したのを機会に、明治法律学校、英吉利法律学校、東京専門学校、専修学校、東京法学校(後に和仏法律学校と改称)の五校が集まって「聯合討論会」を結成し、民事刑事の問題について意見を戦わせた。しかしこの五大法律学校討論会も明治24年になると中絶してしまった。それは、この頃に明治政府の法典編纂が一段落し、いかなる法理を日本に導入するかという議論は終わって、今度はいかに成文法典を解釈するかということになったから、次第に法律学は魅力がなくなり、私立法律学校の入学者も激減したからであった。(p.52)


法典編纂が一段落したことで成文法典の解釈が主要問題となり法学に魅力がなくなったというのは恐らくそうなのだろう。ただ、そのことと私立法律学校への入学者が激減したことを直接結びつけている点には問題があると思われる。



 東京専門学校では、明治19(1886)年5月、各学科の講義録を発行し、これを頒布して校外生を募集することにした。様々の理由で高等教育を受けることの出来ない人々に勉学の機会を与えることも、学苑の使命であると考えたからである。
 ……(中略)……。
 東京専門学校出版部が発行する講義録は予想外の評判を得、大学経営に資するところもまた大であった。(p.53-54)


講義録の発行は教育上の使命であるというのは確かにその通りとしても、大学経営に資することについても想定はしていたと見るのが妥当ではないか。



 此学校は決して一人のものではない。国のものである。社会のものである。所が、それならば何ぜ文部省がしないかといふに、茲に文部大臣も御出だが、文部省でさう何から何まで出来るものではない。それで時々国家も病気してどうかすると一方向に走る。それで何でも私立で権力の下に支配されずして、さうして独立して意の向ふ所に赴くが必要。元来、私立学校から大政治家、大国法家又は大宗教家も起る。そこで此私立は矢張り必要である。決して是は大隈のものではない。(p.54-55)


明治30年、創立15周年祝典での大隈重信の演説より。官立では政治や行政からの独立が危ぶまれ、政府も時に一方向に走るため私学が必要という主張にはそれなりの説得力がある。


長谷川由夫 『あなたと子供が出会う本 こう“ほめる”と子供が伸びた』

 親の完全主義とは、無限大の要求である。親が無限大の要求をもって子に対するとき、結果は常に不満しかない。もし「あるがまま」を認め、要求度がゼロならば満足ばかり残る。(p.38)


完全主義とは要求であるというのは、確かにその通りであり、親が完全主義者である場合、子にもそれを押しつける傾向になるのはよく分かる。子どもの場合は通常の人間関係より一層要求が大きくなり、かつ、それに親の側が気づかないということになりやすいように思われる。その意味で、一般の人間関係においてもここで指摘されていることは成り立つが、子育てにおいてはより重要な指摘だと思われる。



 私たちの会話は、ともすれば「半聞き」が多い。そうでなく「本聴き」をする。子供を責める代わりに自分の成長をめざすトレーニングである。聴き手の親は、子の立場を容認する思いやりが身についてくる。それは子どもに反映する。「聴く」ことは友好のしるしである。(p.45)


「聴く」というと、私が常に想起するのはヤスパースのVernunft(理性)の概念である。(この語はvernehmen(聞く)から来ている。)

この引用箇所では、「本聴き」を自分の成長を目指すトレーニングとしている点が興味深い。確かに、人の話をきちんと「聴く」のは労力というか自己を律することが求められる。また、単に受動的なものではなく、話し手の立場をよく理解し、その背景などにも想像を巡らせることを求められる。その様に考えて来ると、こうしたトレーニングを積みながら子どもに接して行けば、関係性もよくなるだろうし、子どもにも良い模範を示すことにもなる。やってみる価値のあるトレーニングではないかと思う。



 一日五回以上、子供をほめ、ほめた自分の言葉だけ書く
 ……(中略)……。
 ほめる回数を一日五回以上としたのには、意味がある。一回や二回では親のものさしや枠でほめやすいが、五回以上ともなれば、探してほめ、あるがままの子供をほめることになるからだ。
 ……(中略)……。
 子どもから話しかけた言葉を注意して聴き、その語尾だけ、一日十五回以上、書く
 ……(中略)……。
 第三の技術は、単純な「書く」ことである。……(中略)……。
 ……(中略)……。書いているうちに、ほめる事の大切さもわかり、習慣にもなる。……(中略)……。
 とかく、愛さえあれば、と考えやすいが、教育と同様に子育てにも芸と術がいる。教育学に通じていても、実習して芸と術を身につけなければ子供は動かせないように、愛があっても、表現を正しく高めなければ愛は生かされない。(p.76-79)


本書が推奨する方法(ほめる、聴く、書く)の具体的な説明の一部だが、なかなか理に適っており、かつ、実行可能な範囲内に収められているように思われ、試してみる価値はあるように思う。



だっこは身体でほめることになります。(p.139)


なるほど。



 “やりたい放題”は、叱らず、『ダメ』を使わずに、『これ面白いよ』という風に、方向・方法づけるんです。ほめれば変わります。(p.156)


基本的に正しいやり方と思う。



 長いものに巻かれろは、同時に下に向かって差別となる。権力のあるもの・強いものに絶対服従し、代わりに弱いもの・力の劣ったものを徹底して責める。
 人の顔色をうかがう人間、目立たないように逆らわぬように常に勢力の強大なものに従って自分を守ろうとする事大主義(大に事(つか)える主義)が、この子たちの生活信条になっているから問題なのである。(p.173)


ここで述べられている事大主義は、ここ数年から10年ほどの間に勢力を伸ばしてきた「保守」と名乗る政治勢力を支持する人々のメンタリティそのものではないか。(安倍晋三や稲田朋美や山谷えり子のような「保守」のことを指しているが、本来は彼らの立場は「保守」ではなく「反動的復古主義」とでも呼ぶべきものである。)



少年の嘘は、裸の自分と向き合わないための緊急避難であり、処罰を恐れた自己防衛なのだ。(p.186)


子供の嘘は大人よりは多少大目に見た方が良い場合もあるのかもしれない。



 それにしても戦争の傷跡は長く残る。一家族の上に三代にわたって影響している。幸せな結婚が、戦争のため重婚となり、当事者、その子、孫までひびくとは。
 誰が悪いのでもない。同時代の誰もが、そういう目にあったかもしれないのだ。(p.198-199)


本書は1986年に最初の版が出ているが、当時はまだ現在よりはかなり戦争の傷跡が身近なところに見える機会があったことが感じられる。

以上は、ある夫婦の夫が戦争に行き、戦後もしばらく音信不通のまま戻らなかったため、死亡したものと思い、妻は周囲の勧めで別の男と再婚し、子どもができた。そのとき死んだはずの夫が帰ってきたことで、家族に様々な不和が生じることとなり、孫の代まで影響が及んでいたという相談事例について語っている際の発言である。



中室牧子 『「学力」の経済学』

 次いで、2002年に「教育科学改革法(Education Science Reform Act)」が制定されたことによって、自治体や教育委員会が国の予算をつけてもらうためには、自分たちの行っている教育政策にどれくらいの効果があるのかという科学的根拠を示さなければならなくなりました。このため米国では、自治体や教育委員会が、自ら積極的に教育政策の効果を科学的に検証し、そこから得られた知見が、自治体や国など全体の政策に反映されるようになっています。これを「科学的根拠に基づく教育政策」または「エビデンスベーストポリシー」といいます。(p.18-19)


実証主義及び功利主義の方向に傾くことになり、検証しやすく数値化しやすいことだけを助長するという偏りを持ったやり方ではあるが、現在までの日本の教育のようにほとんど何の根拠もないまま政策を決めているような現状と比較すると遥かに優れたやり方であり、見習うべきところであろう。



 「テストでよい点を取ればご褒美をあげます」
 「本を1冊読んだらご褒美をあげます」

 右のうち、子どもの学力を上げる効果を持つのはどちらでしょうか。
 ……(中略)……。学力テストの結果がよくなったのは、インプットにご褒美を与えられた子どもたちだったのです。

 とくに、数あるインプットの中でも、本を読むことにご褒美を与えられた子どもたちの学力の上昇は顕著でした。一方で、アウトプットにご褒美を与えられた子どもたちの学力は、意外にも、まったく改善しませんでした。……(中略)……。

 「インプット」にご褒美が与えられた場合、子どもにとって、何をすべきかは明確です。本を読み、宿題を終えればよいわけです。一方、「アウトプット」にご褒美が与えられた場合、何をすべきか、具体的な方法は示されていません。
 ご褒美は欲しいし、やる気もある。しかし、どうすれば学力を上げられるのかが、彼ら自身にわからないのです。
 ここから得られる極めて重要な教訓は、ご褒美は、「テストの点数」などのアウトプットではなく、「本を読む」「宿題をする」などのインプットに対して与えるべきということです。(p.32-36)


私自身の見解としては、勉強をさせるための手段として、あまり「ご褒美」に頼るべきではないと考えているが、この引用文で述べられている内容は、ご褒美を与える場合にはどのように与えるべきかということについて非常に重要な示唆を与えてくれる内容である。



 子どもをほめるときには、「あなたはやればできるのよ」ではなく、「今日は1時間も勉強できたんだね」「今月は遅刻や欠席が一度もなかったね」と具体的に子どもが達成した内容を挙げることが重要です。(p.51)


能力を褒めるとやる気を蝕むという。具体的に達成した事柄やそのための具体的な努力の内容を褒めることで取り組みの動機を強められる。これは子どもに限らず、仕事で同僚や部下を褒める場合にも同様のことが言えそうである。

ここで書かれていることを含め、本書の具体的な指南の大部分は、私としては当たり前のことであると思われる内容が多かったが、それらがデータによって支持されているため、元々の見解をより確信を強めてくれるという点で有益だった。



 「勉強するように言う」のは親としても簡単なのですが、この声かけの効果は低く、ときには逆効果になります。エネルギーの無駄遣いなので、やめたほうがよいでしょう。
 逆に、「勉強を見ている」または「勉強する時間を決めて守らせている」という、親が自分の時間を何らかの形で犠牲にせざるを得ないような手間暇のかかるかかわりというのは、かなり効果が高いことも明らかになりました。

② 男の子なら父親が、女の子なら母親がかかわるとよい

 家庭での学習へのかかわり方は母親に比べて低い父親ですが、世の中のお父さんたちは決して自分の役割を侮ってはいけません。なぜなら、子どもと同性の親のかかわりの効果は高く、とくに男の子にとって父親が果たす役割は重要だからです。
 最近の研究でも、とくに苦手教科の克服には、同性同士の教師と生徒の組み合せのほうが有効であるなど、類似の知見が得られているものがあります。

 ……(中略)……。実は、私たちの研究では、祖父母や兄姉、あるいは親戚などの「その他の同居者」が、子どもの横について勉強を見たり、勉強する時間を決めて守らせていても、親とあまり変わらない効果が見込めることがわかっているのです。(p.60-61)


本書の指南内容には当たり前の知見が多いと述べたが、子どもの勉強時間を増やすために「勉強するように言う」のが殆ど効果がなく逆効果の場合があるというのも、それにあたる。勉強するのと見ていたり、時間を決めたりするのが効果的だというのも、予想通りといったところだが、同性の親(保護者等)がする方が効果が高いというのは意外性があり興味深かった。



日本政策金融公庫の調査では、子どもがいる家庭は、なんと年収の約40%をも教育費に使っているそうです。(p.73)


子どもが大学に通学している間はこのくらいの割合になってもおかしくないが、それ以外の時期にここまでの割合になるのだろうか?(年収600万円の家庭だとすると240万円、月平均20万円の教育費を使っているか?また、年収300万円の家庭で月10万円も教育費をかけているだろうか?無理ではないか?)にわかに信じがたい。



学力など、「アウトプットを生み出すために必要とされるインプット」はすべて「資源」と呼ばれます(33ページの教育生産関数を参照)。具体的には、親の収入が少なかったり、仕事が忙しくてあまり子どもにかまってやれないやれないというようなことも「家庭の資源」の不足とみなします。

 そうした貧困家庭の資源の不足を補うために、ペリー幼稚園プログラムでは、週に1度1.5時間ほどの家庭訪問を行い、先生たちが普段どのように子どもと遊び、話しかけるかを実際にやってみせるなど、親に学びの機会を提供したのです。(p.79)


これは見るからに効果がありそうなやり方だが、本書によるとデータでも持続的に効果が認められているという。



 就学前教育への支出は、雇用や、生活保護の受給、逮捕率などにも影響を及ぼすことから、単に教育を受けた本人のみならず、社会全体にとってもよい影響をもたらすのです。
 ……(中略)……。

 社会収益率が7~10%にも上るということは、4歳の時に投資した100円が、65歳の時に6000円から3万円ほどになって社会に還元されているということです。(p.82)


データで見ても就学前教育は社会全体にとっても良い影響があるということは、今まであまり考えたことがなかったが、指摘されてみるとその通りと思える。



 また、心理学の分野でも、「細かく計画を立て、記録し、達成度を自分で管理する」ことが自制心を鍛えるのに有効であると多数の研究で報告されています。(p.93)


計画やその実行状況を記録することで、目的や目標が明確化され、自覚しやすくなること、さらに、目的と現状とのギャップ(差)がどの程度なのか、何をすべきなのかということが明確になる。このような「明確さ」は「自制心」を支持する重要な要素なのではなかろうか。



私が行動遺伝学の専門家である九州大学の山形准教授らとともに行った研究では、中学3年生時点の子どもの学力の35%は遺伝によって説明できることが、明らかになっています(図29)。

 これ以外にも、生まれ月、生まれ順、生まれたときの体重など、どう考えても子ども自身にはどうしようもないようなことが、子どもの学力や最終学歴に因果効果を持っていることを示すエビデンスもあります。(p.118-119)


学力と遺伝の関係は思っていた以上に深いようである。また、生まれ月や生まれ順は同じ学年でも小さい頃の1年近い違いは発達の状況の違いなどを通して成績や学歴に影響しているのだろうが、このあたりの研究についても読んでみたいものだ。



家庭の資源に格差がある中で、すべての子どもに同じ教育を行えば格差が拡大していくだけですが、その矛盾は見過ごされがちです。
 ……(中略)……。

 どうして、ゆとり教育が実施された時期に子供の学力格差が拡大したのでしょうか。きっかけは、週休2日制でした。
 一橋大学の川口教授の研究によれば、ゆとり教育の一環として学校週休2日制が導入された2002年の前後で比べると、子どもたちの学習時間に顕著な格差が生じていたのです。
 学歴の高い親に育てられた子どもは、土曜日の学習時間の減少を平日の学習時間の増加で埋め合わせたのですが、学歴の低い親はそのような行動を取らず、結果として土曜日が休みになったことで、学習時間の格差が生じた形となりました。
 九州大学の武内准教授らの研究でも、学校週休2日制が始まった後に、とくに高所得者層が子どもの学習費(とりわけ塾などへの支出)を増加させたことが明らかになっています。このように、ある世代の子ども全員を対象にして「平等」に行われた政策は、親の学歴や所得による教育格差を拡大させてしまうことがあるのです。(p.127-129)


学歴の高い親のどのような行動(ないし価値観)がどのような形を通して子どもの学習時間の変化に繋がったのか?このあたりのメカニズムはいつも気になるところである。


潮木守一 『アメリカの大学』

しかし当時のドイツの大学はアメリカのどこかのカレッジを卒業してさえいれば、それだけで自由に入学を認めてくれた。この自由に入学を認めてくれるシステムは、アメリカ人学生にとっては、大変魅力的であった。(p.19)


19世紀のアメリカにおいてドイツの大学への留学が多かった理由がいくつか説明されているが、恐らく最も重要なポイントの一つはこれだと思われる。

本書によれば19世紀のアメリカのカレッジの教育程度はそれほど高くなかったようだが、それでも卒業していればドイツでは自由に入学できるようにしていたのは何故なのだろう?



 19世紀のアメリカのカレッジは、まずなんといっても「子どもの学校」であった。ちょっと富裕な家庭では少年が15-16歳になると、カレッジにかよわせた。カレッジの学生の多くは10代の子どもであった。この点がドイツの大学とは決定的に違っていた。ドイツは早くも19世紀の初頭に、ギムナジウムを制度的に確立させ、「子どもの教育」はギムナジウムにまかせ、大学は「大人の学校」として成立した。これに対して、アメリカのカレッジは、子どもを一人前のジェントルマンにしあげる学校として出発した。この点にドイツの大学とは基本的な性格の違いがあった。(p.24)


興味深い対比。未成熟な子供を一人前のジェントルマンに仕上げるということは、知的な教育だけではなく道徳的な教育を行うという意味合いがある。

本書を私が先日読むことにした問題関心の一つは、札幌農学校に関する理解を深めるという意味合いがあった。この観点から言うと、1876年にクラークが札幌にやって来て、校則については「Be gentleman」だけでよいとした逸話があるが、当時のアメリカのカレッジの性格を踏まえるとこの言葉が出てきた背景が理解できるように思われる。クラークは、当時の札幌農学校の学生たちに対して、あなた達は既にgentlemanであるから、そのとおり振る舞えという意味で言っていたと思われるため、本書で述べられているような「子どもの学校」のような扱いはしていない点は本書の描くアメリカのカレッジとは異なっていると言える。しかし、クラークも道徳教育を重視した点ではアメリカのカレッジの伝統と軌を一にしていることが分かるし、その理想ないしモデルがgentlemanであるということもアメリカのカレッジの伝統と一致している。ある意味、当時のアメリカのカレッジにおける伝統的な考え方がクラークの教育理念にも色濃く反映しているらしいということが見えてくる。

ちなみに、発足当初の札幌農学校の教育課程がリベラルアーツを重視したという点も、マサチューセツ農科大学をモデルにしたと札幌農学校関係の文書ではしばしば指摘されるが、本書からはもっと広い文脈の中で位置づけることが出来る。すなわち、当時のアメリカのカレッジ一般に見られた傾向であったことが本書から理解できる。(ちょうどその頃にアメリカのカレッジも徐々に変わり始めていた時期であることも本書から分かるが。)



 まずエリオットが直面した問題は、どうやったら学生の学習モティベーションを高めることができるか、という問題である。この問題はすでに見た通り、ティクナー改革のきっかけでもあった。いつの時代においても、いかなる社会においても、大学はつねにこの問題につき当たる。この問題から解放された大学はほとんど実在したことがない。(p.122)


同感である。

なお、モチベーションが上がらない要因はいろいろと考えられるが、少なくとも現代においては、学ぶことの目標が明確にしにくいこと、自由度が高すぎることが背景の一つとなっていると思われる。それとの対比では、受験勉強は頑張りやすい勉強である。



すでにいくつかの研究によって明らかにされている通り、19世紀初頭までのハーバードの卒業生は、多くが牧師となって行った。つまり彼らの職業目標は聖職者という比較的単一な目標に向けられていた。ところが、こうした状況は19世紀中葉にはすでに崩れていた。学生の多くはもはや牧師を目指してカレッジに集まってくるのではなく、彼らの職業目標はもっと別なものに広がり、それだけ多様化していた。(p.123)


19世紀半ば以降のアメリカの大学が改革を必要とした大きな要因。この更に背景には社会の階層や産業の構造など様々なことが横たわっていると見るべきだろう。



大学はもともと、人生のなかで最もエネルギーの高まった青年たちの集団であって、その彼らがすすんで勉強にエネルギーを集中させるような状態は、ごく稀にしかおきない。大学はもともと、「遊び文化」と「勉強文化」の微妙な拮抗の上に成り立った集団で、ともすれば、「遊び文化」が優位を占めることの方がはるかに多かった。知的好奇心に燃え、勉強に没頭することを好む青年は、いつの時代でも、どんな社会でも、ごく少数の例外者でしかなかった。(p.124-125)


本書の叙述の中で、目が開かれた箇所の一つ。

「遊び文化」と「勉強文化」の微妙な拮抗、それも「遊び文化」が基本的に優位にあるのが常態であるという認識に立つことで、大学生という立場について非常に的確な理解を得やすくなるように思われた。多くの大学生はそれほど勉強はしないが全くしないという者は少ないし、大学の正規のカリキュラムに沿った勉強にはそれほど力を入れない場合であっても、その他の活動によってそれなりの人生経験を積んだり、人間関係を広げたりといったことは行っている人は少なくない。これが「遊び文化」が優位な中で「勉強文化」の中にもいるという状態であろう。

個人的には大学時代を過ごす人にとって、「勉強文化」はある程度の勢力がある方がよいとは思うが、「遊び文化」の質がどのようなものであるのかが人生にとって非常に重要な意味を持つのではないかと思う。



 もともと彼は近代語の教授として採用されたものの、就任当時、彼はドイツ語も、スペイン語も知らなかった。理事会はたとえそれらを知らなくても、数ヵ月もヨーロッパに行ってくればマスターするものだと思い込んでいた。1855年頃のハーバードの教授の採用のしかたとは、この程度のもので、教師の専門研究者としての資質など、たいして重視していなかった。こうした形でハーバードの教授となったローエルにとっては、1880年頃から始まった研究中心主義、業績主義について行けるわけがなかった。(p.250)


杜撰さに驚く。研究機関としての側面をほとんど持っていなかった当時のカレッジの実状を物語っている。



 このスロッソンの記述が物語るように、19世紀から20世紀への変わり目の頃、ウィスコンシンの教授たちは、大学外のさまざまな行政活動、立法活動にブレーンとして参画し始めた。とくに1892年、エリーがウィスコンシンに来てからは、彼はその「経済・政治・歴史学部」を「公共政策のためのウェスト・ポイント(士官学校)」にしあげようとした。彼はここを拠点として、アメリカ社会に現に存在する諸々の政治上・経済上・社会上の諸問題を研究上のテーマとしてとりあげ、大学をもって、これら諸問題解決のためのコンサルタント機関にしあげようとした。つまり彼は次第に登場し始めた社会科学を、社会改良のための応用科学として完成しようとしたのである。(p.288-289)


現代も大学教授の一部はこのタイプの活動を積極的に行っている。アメリカでは20世紀になる頃にこうした動きが強まってきたらしい。アメリカ以外の動向も気になる。例えば、日本では北海道開拓の際に札幌農学校が設けられ、台湾や韓国を植民地化した後にはこれらの地域にも帝国大学が設置されているが、これらには植民地経営に資する研究と教育を行ない、ブレーンとして仕事をさせたり養成していくという思惑があったと言えそうである。



 ひるがえって考えて見るならば、大学教師ははじめ文字通り、教える人として、この世に誕生した。しかし、研究という役割がつけ加わることによって、大学教師は教育と研究の二股をかける二重人格として変身した。そしてさらに、学内行政という役割が加わることによって、今度は三重人格となり、さらにはまた、学外活動という役割が加わることによって、四重人格として変身することとなった。機能分化・分業化を常とする現代にあって、大学教授だけは、この時代の流れとは逆行して、機能増殖、機能拡大という世にも稀な宿命を担うこととなった。
 しかしこれらの四つの役割を一身に担うことは、多かれ少なかれ、時代遅れのアクロバットを演じるようなものであった。……(中略)……。
 かくしてここに、「教育型教師」「研究型教師」「運営型教師」「学外活動型教師」といった諸類型が出現し、それに対応するサブカルチュアが大学教師の間で分化することとなった。(p.291-292)


大学教師の役割の重層化が、ここに述べられている順で歴史的に展開してきた面があることを本書は示している。これは興味深い指摘であり、大学教師の役割についてのなかなかうまい整理であるように思われる。

思うに、私が学生だった頃の私の講座の教授は「運営型」に近い人だったように思う。当時の助教授(准教授)や助手は間違いなく「研究型」であった。当時、教授と助教授や助手とを比べて、多くの人が明らかに研究者としての能力や資質において助教授や助手が優れていると感じ、「何故、彼が教授なんだ」と思っていた人も多かったように思うが、こうした整理をしてみると、教授が「運営型」であり、その中でも興味深い研究を行っている研究者に対する感度や受容度が高かったことが、優れた研究者を自らの下に置くことが出来た理由だとも考えられ、そうだとすれば、単に研究する力だけがあればよいというものではなく、研究室全体として見た場合には、各種の運営手腕というものが問われる場面がある(むしろ研究費の調達などに手腕が必要なことが多いだろう)ということを認識することは重要であることが容易に浮かび上がってくる。