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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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大塚玲子 『PTAをけっこうラクにたのしくする本』

ずいぶんまえですが、校長先生が地域のおじいちゃん・おばあちゃんたちに、「お散歩の時間帯を、早朝じゃなくて、子どもたちの登下校のときにずらしてもらえませんか?」って頼んでくださったそうなんです。それでお散歩の時間を変えてくれた人たちが、「子どもたちの見守りをしないと危ない」って気づいて、見守りをしてくれるようになりました。(p.148)


地域で子どもたちの安全の見守りをするというのは、こういうことを言うのか、なるほど。



 PTAで通学路の安全を確認し、問題があれば行政(警察)に改善要望を出すこともできます。予算がかからない内容であれば、わりあいすぐ対応してもらえるようです。(p.149)


なるほど。これも良いアイディア。予算がかからなければ対応が早いというのもその通りだろう。危険性を指摘されているのに放置している間に事故が起こったら行政(警察)としては責任を問われることにもなるのだから。


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荻上チキ 『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』

社交性が高く、周りの仲間を味方につけるスキルのある者が、特定のターゲットを選んで攻撃を促す傾向がある、ということです。(p.53)


なるほど。確かに、周りの人間を味方につけるスキルというのは、自分自身が見聞してきた事例を考えても、いじめの加害者にとっては重要な能力であるように思われる。ただ、特別に高いスキルは必要とされないように思われ、それも重要なポイントなのではないかとも思う。その辺のことを示すデータはないのだろうか?



 このように、時間をかけていじめは育っていく。そのことを踏まえるからこそ、いじめ対策においては、早期発見・早期対応が重要になるわけです。アンケートにおいて「ほとんどいじめがなかった」と答えるクラスでは、先生が生徒と良好な関係を構築しており、それゆえ、いじめに早期対応できている傾向にあります。だからこそ、残酷ないじめの発生率が低く抑えられているのです。
 大きないじめ自殺事件が取り上げられた後に、そのいじめについて様々な調査が行われると、自殺に至るほどの大きないじめに発展する前の段階からいじめが存在していたことが明らかになることがほとんどです。報じられるような大きないじめの背景には、そこまで育ってきた様々ないじめの蓄積があり、それに対処できなかった経緯がある。(p.54-55)


いじめという現象は時間をかけて育っていく。だからこそ、早期発見・早期対応が重要となる。そのためにはもともとの教師と生徒たちとの関係性が良好であることが重要な意味を持つ。論理的に理路整然としかも簡潔に説明しているので、明確な理解が得られる。

今この個所を見直して思うのは、いじめという現象もオートポイエーシスである程度説明できるのではないかということである。



 いじめを理解するためには、「善」「悪」の区別のほかに「アウト」「セーフ」の区別があることを知っておく必要があります。
 いじめは「悪い」ものだけれども、ここまでは「セーフ」。
 いじめは「悪い」ものだけれども、今は「セーフ」。
 と、程度や他人の目線から、どこまでならやっても怒られないかを判断しているのです。(p.128)


善悪のほかに「アウト/セーフ」の区別があるという指摘は、非常に参考になった。善悪で判断すれば悪になることでも、アウトでないことは調子に乗ってやろうとする馬鹿者がいる。


音真司 『Fランク化する大学』

大学に簡単に入ることのできる時代だからこそ、入る大学を簡単に決めてほしくない。(p.7)


最初このフレーズに接した時は意外に感じたが、大量の質の低い大学があるという前提に立つと、この言葉の意味は理解しやすい。



「Fランク化」する大学をこれ以上増やさないためには、市場の原理にかけて、増えすぎた大学の中でも、質の低い大学や、小手先の手段を使った受験生集めに走る大学を淘汰するしかない。(p.8)


本書の現状認識には多くの点で共感できるところもあるが、この考え方には賛同できない。大学を純粋な市場原理によって淘汰できるとは思えないからである。ハーシュマンの用語を使って言えば、本書のここでの主張はExitの戦略でしかなく、大学を改善する指向は全くないといってよい。しかも、市場原理が機能するためには完全情報が前提となるが、大学選びという市場は極めて不透明性が高く、完全情報とは程遠い。こうした点をはじめとして、教科書通りに市場原理が機能する前提がない。

本書はこのために大学で起きていることやその原因を知り、大学を見る目を養うことによって質の低い大学を市場から淘汰すべきと考えているようだが、こうした事実を知ることは、これから大学を選ぼうとする人にとって、いわばミクロレベルでの選択には役立つが、マクロな社会全体に対しては成立しない。ここで求められていることを実行するには極めて強い個人を想定しなければ成立しえないため、大部分の人がそれを実行できると想定することは現実的ではない。

むしろ、個人レベルでより適切な対応策は大学を良いものとするためのVoiceを上げていくことである。大学の質の低下を食い止めるということを本当に考えるのであれば、制度を考えに入れなければならないだろう。



 少々、話がそれるが、読者の方々は「学生生活の様子」といったタイトルの報告書をご存じだろうか。
 近年多くの大学で、学生の学校での様子を保護者に報告するようになっている。(p.50)


幼稚園や小学校のようだな。



「ほとんどの学生が現役で大学に入るということは良いことだ」と言いたいのではない。
むしろ、その逆である。受験生の多くが第1志望以外の大学へ進学するということだからだ。……(中略)……。 ……(中略)……。
 不本意な大学に入学すると、多くの学生は、理想と現実とのギャップに苦しめられることになる。(p.63)


このことが大学生活の満足度を下げる方向に作用する。この点は本書のおかげで気づくことができた。

不本意な大学に入学すると苦しめられるというのは、私自身の経験から見ても納得できる。


ウォルター・ミシェル 『マシュマロ・テスト 成功する子・しない子』

赤ん坊がどれだけ愛情をこめて優しく育てられたか、あるいは、どれだけ残酷で冷淡な仕打ちを受け、放置されたり虐待されたりしたかは、子どもの脳に刻みつけられ、子どもの将来を左右する。赤ん坊のストレスレベルが慢性的に高い状態にならないようにし、安心で安全を感じられるように緊密で温かい愛着の形成を促すことが決定的に重要だ。(p.72)


ストレスレベルが慢性的に高くならないということは、赤ん坊の時に限らず重要であると思われる。



人生の最初の六年間における子どもの経験は、衝動を調整し、克己心を発揮し、情動の表現をコントロールし、共感や気配り、良心を発達させる能力のおおもとになる。(p.75)


しばしば3歳児までの育て方が大事だと言われ、それに対して「3歳児神話」などとして批判するような言説もある。幼少期の育て方が人生に及ぼす影響を絶対化するようであれば行き過ぎということにはなるだろうが、本書のここでも指摘されているようにやはり幼少期にどのような経験をするかということが重要なものであることは否定することは難しいのではないかと思う。



すなわち、幼児を過剰にコントロールする親は、子どもが自制のスキルを発達させるのを妨げる危険を冒しているのであり、一方、問題解決を試みる際の自主性を支え、奨励する親は、子どもが保育園から帰ってきて、どうやってマシュマロを二個手に入れたかを嬉々として聞かせてくれる可能性を、おそらく最大化しているのだろう。(p.78)


過剰にコントロールすることと問題解決の自主性を支えること。言葉で書くと反対のことのように見えるかもしれないが、実際には、過干渉にならないようにしながら、望ましい方向へと方向づけていくというのが子育ての難しさの一つではないかと思う。



誠実さや正直さ、攻撃性、社交性といった特性はそれぞれ、一貫した表れ方をする。だがそれは、特定の種類の状況下にだけ当てはまる一貫性だ。……(中略)……。したがって私たちは、人が将来しそうなことを理解したり予想したりしたければ、その人がどういう状況で誠実だったり、愛想が良かったりするか、あるいはそうではないかを見てみる必要がある。(p.122-123)


この辺りは、説得力があるというか、漠然と認識していたことをより明確にしてくれたように思う。テレビのワイドショーなどで事件などを取り上げるとき、犯人の人柄などについて近隣の住人にインタビューをして、「あんな真面目な人がどうしてこんなことを…」などというようなありきたりのコメントを垂れ流すような場面がある。私はこのようなものを見せられるとき、いつもここで本書が書いているようなことを感じていた。ストレスを特に感じたりしないような場面で関わりの深くない人に見せる言動とそれとはまったく違う場面での言動とが同じだと言える根拠なんてないだろう、と。また、仕事の場面では課題に対して非常に真面目に取り組むのに、仕事以外の交友関係や異性関係や寝食などの生活態度などとなると非常にだらしない行動を示す人というのもいる。人を評価する際は、一つの場面だけを見て判断してはいけない。

本書で述べられていることは、これよりさらに一歩先にまで及んでいるのがすごいところだ。ある人がどの場面でどのような行動をするのかという傾向が分かれば、その人の行動を予想して、善い方向へと誘導することができる。



その出来事が終わってから、しばらく待ってじっくり考えさえすれば、すべてうまくいく。心理的な免疫系が一生懸命働いてくれるので、私たちは過去を振り返り、その旅行は行くだけのことはあった、その催しは出席の仕甲斐があった、論文は書く価値があった、家族での外出も全体とすれば絆を強める良い経験だったと思える。(p.162)


大野哲也は『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』において、バックパッカーたちが自身の旅を振り返り、自己成長の物語を形作っていくことについて指摘しているが、バックパッカーたちがしていることは、まさにこの引用文で述べらえていることであるのが興味深い。



 全体として、対人関係でのネガティブな体験について考えるときに自発的に自分と距離を置いた人はそうしなかった人と比べて、軋轢を解消するために建設的な問題解決の戦略を使う傾向が強かった。いちばん興味深かったのは、次の点だ。あまり自分と距離を置けない人々も、パートナーが彼らに対してネガティブにも敵対的にもならないかぎり、仲たがいしたときにより望ましいかたちで対処できたが、パートナーが現に敵対的になると、存分にやり返し、敵意を激しくエスカレートさせた。あまり自分と距離を置けない人ととてもネガティブなパートナーという組み合わせは、二人の関係の将来を害しかねないような、敵意をエスカレートさせる定式となったのだ。(p.184-185)


こうした距離をとる能力は、私の場合、ウェーバーのWertfreiheitを自分なりに実践していくことによって、それ以前より伸ばすことができたと感じている。


ポール・タフ 『成功する子 失敗する子 何が「その後の人生」を決めるのか』(その3)

まず、深刻な心的外傷と慢性的なストレスから可能なかぎり子供を守ること。次に、これがさらに重要だが、少なくともひとりの親と――理想的にはふたりの親と――安定した、愛情深い関係を築くこと。これが成功の秘訣のすべてではないが、大きな、とても大きな一部である。(p.269)


このことを脳科学や様々な研究を踏まえて語っているのが本書の内容だと言っても過言ではない。



実際、多くの時間を使って、高LGの母ラットは人間でいったらどういうものだろうと考えこんだ。ヘリコプターペアレンツとはちがう。心配そうにそばをうろうろしたりはしない。絶えずなめたり毛づくろいをするわけではない。母ラットがそうするのはある特別な状況――子ラットがストレスを受けたときだ。まるで大事なスキルを教えこもうとしているかのようだった。刺激を受けたストレス対応システムをうまく管理して休止状態に戻す方法だ。人間の幼児でこのスキルにあたるのは、癇癪を起したあとやひどく怯えたあとに落ちつきを取り戻すことだとわたしは思い、それをエリントンに覚えさせようと集中した。……(中略)……。しかしもし人間で高LGに相当する行為があるとすれば、慰めたり、ハグをしたり、話しかけたりして安心させることのはずだ。……(中略)……。
 しかしエリントンが大きくなるにつれ、大多数の親たち同様わたしも気づいたのだが、愛情やハグ以上のものが必要になった。規律、規則、限度などだ。はっきりノーという人間が要る。そして何よりも必要だったのが子供に見あった大きさの逆境、転んでもひとりで――助けなしで――起きあがる機会だった。ポーラとわたしにとってはこちらのほうがむずかしかった。(p.269-270)


このあたりの考え方は、ダニエル・J・シーゲルとティナ・ペイン・ブライソンの『子どもの脳を伸ばす「しつけ」』の考え方と同じと言ってよいだろう。



 ではなぜ、貧困がかかわる学業不振の根本的な原因を探すときに、まちがった犯人に焦点を合わせ、科学が教えてくれる最大のダメージを無視してしまうのか?理由は三つあるように思われる。……(中略)……。
 第三に、新しい逆境の科学は複雑に絡みあったもので、そのなかには根深い政治信念に反する難題が――左右どちらの派閥にとっても――含まれるからだ。リベラルにとっては、保守派がある大事な一点において正しいことが科学的に示されてしまった。性格が重要である、という点だ。貧困に対抗する手段として、不利な状況にある若者にわたしたちがさしだせる最も価値あるツールは「性格の強み」をおいてほかにない。キーサ・ジョーンズやケウォーナ・ラーマがやジェームズ・ブラックが見事なほど多く持っていたもの、つまり誠実さ、やり抜く力、レジリエンス、粘り強さ、オプティミズムである。
 貧困にかんする保守派の議論が一歩及ばないのは、「性格が重要である……以上」で止まってしまうところだ。貧しい人々が成長して気質をよい方向に伸ばすために社会にできることはあまりない。彼ら自身の力でそうなってもらうしかない。いって聞かせることはできるし、罰則を設けることもできるが、我々の責任はそこまでだ、というわけである。
 しかし実際のところ、科学によって示されるのはまったく異なった現実だ。若い人々の成功にとってきわめて重要な役割を果たす性格の強みは、生まれながらのものではない。幸運や良質な遺伝子の結果として魔法のように現われるものではないのだ。また、単純な選択の結果でもない。脳内の化学反応に根差し、子供が育つ環境によってかたちづくられるため、ある程度は計測、予測が可能である。つまり、社会全体としてのわたしたちにも多大な影響力がある。……(中略)……。しかし、我々にできることは何もないとは、もういえない。(p.286-288)


本書で述べられたような処方箋は、政治的信念の左右の両派にとって都合が悪い点があるという指摘は興味深い。

確かに、多くのリベラルにとっては性格が重要だという結論は扱いにくい。ただ、この点を除けば、本書で示された考え方はリベラルの考え方の枠組みとほとんど合致するのではないか。むしろ、保守では性格が重要だという一点においては本書が示す科学的な考え方と共通するとしても、それ以外の点(特にそのような発言をする動機や目的)は相容れないため、むしろ、保守派にとっての方が受け容れにくいのではないか。(例えば、社会が何らかの方策を講じて支援をしていくべきという方向性の点でリベラルの考え方とは完全に合致するが、現代の自称「保守」派はこれに否定的であろう。また、「性格の強み」が大事だと言ったとしても、この「性格の強み」自体が社会の側からの働きかけによって形成される面があるならば、社会からの働きかけによって社会をよりよくしていくというリベラルの枠組みの範囲内で完全に処理可能であると思われる。)


ポール・タフ 『成功する子 失敗する子 何が「その後の人生」を決めるのか』(その2)

 ハーバード大学の経済学者であるクローディア・ゴールディンとローレンス・カッツが2008年に出版した大著『教育とテクノロジーの競争関係』(未邦訳/The Race Between Education and Technology)で詳述されるところによれば、20世紀アメリカの高等教育の歴史は事実上、民主化の歴史と重なるという。1900年生まれのアメリカ人男性のうち大学を卒業した者はたったの5パーセントで、その5パーセントはすべてにおいてエリートだった。裕福な白人で、連帯感が強かった。しかし1925年から1945年のあいだに大卒のアメリカ人男性の割合は5パーセントから10パーセント、つまり倍になり、1945年から1965年のあいだにはそれがさらに倍になった。これは戦争帰りのアメリカ兵が大学に行くのを助けた新法、復員兵援護法によるところが大きい。ちなみに女性については、大卒者の割合の増加は1960年代のはじめまではささやかなものだったが、その後は男性の増加率をはるかに超えた。結果として、アメリカのキャンパスはエリートだけの場所ではなくなり、多様性が増した。工場労働者の子供が工場所有者の子供と同じ空間で学ぶこともありえた。そうした時代には「教育にかんする上向きの流れがそのまま社会全体の特徴となっていた」と、ゴールディンとカッツは書いた。「各世代がそれぞれに、まえの世代の教育レベルを大きく超えた」。しかしいまやその前進は止まってしまった――少なくとも立ち往生している。そして高等教育システムは社会の流れをつくる道具であることをやめ、平等の機会を増やすことをやめてしまった。20世紀の大半はその役割を果たしてきたというのに。(p.226-227)


高等教育をより多くの人が受けるようになったことと民主化の歴史とが重なるというのは興味深い。



しかしここ何年かで、大学の入学にはそう大きな問題はないことがわかってきた。限定や不平等の問題があるのは卒業のほうだった。経済協力開発機構(OECD)の加盟34カ国のなかで、大学への入学率ではアメリカはまだ八位というりっぱな順位を保っている。だが卒業率――新入生が卒業まで到達する割合――となると下から二番め、うしろにいるのはイタリアだけである。そう遠くない昔、アメリカは大学の卒業生を生みだすことにかけては世界をリードしていた。それがいまでは大学の中退者を生みだすことで世界をリードしている。
 よくわからないのは、この現象が大学教育の価値の急上昇と同時に起こっている点である。学士号を持ったアメリカ人は、高校の卒業証書しか持たないアメリカ人と比べて83パーセント増しの収入を期待できる。これは――経済学者にいわせると「学歴間経済格差」という用語になるが――先進国のあいだでは最も高い数値で、40パーセントしか差のなかった1980年以来急激に増えた。(p.227)


入学できたとしても「やり抜く力」がない学生ほど中退しやすいことはたしかダックワースの本(『やり抜く力』)でも述べられていたように思う。日本のように入学すればたいていの人は卒業できてしまうシステムではなく、ある程度の基準をクリアしなければ卒業できない欧米の大学ではなおさら影響は大きいだろう。社会的・経済的に不利な条件で育ってきた人であるほど、卒業できる可能性は低い(そのために必要なスキルが養われていない可能性が高い)。不平等を放置することによって不平等はさらに拡大していく。

なお、後段で大学教育の(経済的)価値の急上昇について述べられているが、これは大学の教育時代の価値というより、有利な立場にある者ほど大きな報酬が得られる社会になったことの反映である。このような報酬の配分は、改められるべきものである。



2006年の論文で、ロデリックは大学での成功に決定的な意味を持つ要素は「非認知的スキル」であり、そこには「学習能力、学習習慣、時間管理、助力を求める行動、社交及び学業における問題解決能力」が含まれるとした。「非認知的」とい用語をジェームズ・ヘックマンの研究から借りながらロデリックが書いたところによれば、昨今アメリカでますます広がる高校と大学のあいだの溝を埋めるのがこうしたスキルだという。現在の高校のシステムができたときの第一の目的は、大学に行かせるためでなく仕事に就かせるために生徒を訓練することだった。当時そこでは「批判的思考や問題解決能力はあまり高く評価されなかった」(これはボウルズやギンタスのような、性悪説を採るマルクス主義経済学者が書いたのとおなじ時代の話である)。だから従来のアメリカの高校は、生徒がものを深く考える方法を学んだり、内なるモチベーションを高めたり、困難に直面したときに粘ることを教えたりするようにはできていない――だが、まさにこれが大学に残るために必要なスキルなのだ。(p.242)


「高校と大学の溝」というのは、私が興味を持っている点の一つである。それを埋めるのが非認知的スキルだというのは納得できる。

現代の日本の高校や大学の問題を考える場合、この溝はどのようになってきているのだろうか?大学が高校化してきていはしないだろうか?このような疑問を持っている。なかなか明確に測定しにくい問題でもあり、この問いに明確に応えてくれる書物や論文に出会うことはできていないが、進学率が50%を超えるほどになったことを考えれば、この全体に真に大学レベルと言いうるだけの高等教育(自分で研究をすることができるレベルまで育てる)を施すことは事実上困難ではないかと思われ、これらが出来ない大学では自ずと高校的な授業をする誘因が働くのではないか。



ポール・タフ 『成功する子 失敗する子 何が「その後の人生」を決めるのか』(その1)

データを目のまえにすべて並べ、それぞれの子供についてサイモンのスコア、過去の貧困度合、アロスタティック負荷の三つを見てみると、三つの数値には相関があった。困窮した暮らしが長いほどアロスタティック負荷は大きく、サイモンのスコアは低い。しかしここで驚くべき発見があった。ふたりが統計学の手法を使ってアロスタティック負荷の影響を除外すると、貧困の影響も完全に消えてしまった。実行機能の能力を阻害しているのは貧困そのものではなく、貧困にともなうストレスだったのである。(p.54)


サイモンのスコアとは、サイモンというゲームのスコアであり、ワーキングメモリがどの程度あるかということ。アロスタティック負荷とはストレス対応システムが酷使されたことによる身体への影響であり、これによりどのくらい激しくストレスの下で生活していたかが分かると考えられているようだ。

貧困はストレスを生じさせる要因となり、強いストレスにさらされ続けることが実行機能の能力を低下させるという因果関係となっている。



母親の反応の感度が高ければ、環境上の要因が子供に与える衝撃はほぼ消えてなくなるようだった。いいかえれば、質の高い育児は逆境による子供のストレス対応システムへのダメージをやわらげる、強力な緩衝材として働くのである。母ラットの毛づくろいが子ラットを守ったのとおなじように。(p.69)


親が子どもの感情に関心を持ち、共感などの反応を示すような、感情や愛情の交流のある子育てをすることは、ストレスの衝撃から子どもを守る方法。

これは職場などにおけるメンタルヘルスなどにも当てはまるのではないか。理解してくれる人がいる環境とそうでない環境とでは同じストレスがかかっていても受け手にとってのダメージのレベルは大きく異なる。



子供のころの自制心が弱いほど、32歳の時点で喫煙率が高く、健康に問題を抱えている割合が高く、信用度が低く、法律上の問題を抱えている確率が高かった。影響が甚大なケースもいくつかあった。子供のころの自制心のスコアが最も低かった人々は、最も高かった人々に比べて三倍の確立で犯罪にかかわっていた。アルコールやドラッグの依存症である確率も三倍。ひとりで子供を育てている確率は二倍だった。(p.124)


私自身の周囲(職場)を見ると、条件が緩い時期(団塊世代の一斉退職の際に一挙に多くの人を採用したり、バブル期で見境なく採用をしていた時期など)に就職した人と就職氷河期に就職した人とで、違いがあるように感じている。例えば、条件が緩い時期に採用となった人の方が喫煙者の割合が多いように見受けられるし、健康状態も悪いようだ。



ケスラーによれば、ルールをつくると前頭前皮質を味方につけることができる。つまり、本能に突き動かされて反射的に働く脳の部位に対抗できる。ルールは意志力と同じものではない、とケスラーは指摘する。ルールはメタ認知を利用した意志力の代用品である。(p.151)


なるほど。



ダニエル・J・シーゲル、ティナ・ペイン・ブライソン 『子どもの脳を伸ばす「しつけ」 怒る前に何をするか――「考える子」が育つ親の行動パターン』(その2)

 親として、一貫性は持ちたいが、頑固にはなりたくない。
 ……(中略)……。
 けれども頑固さは、心強さや信頼性とは関係ない融通がきかないということだ。そのせいで親は必要なときに歩み寄ったり、ふるまいの裏側にある背景や意図を見たり、例外にしてもいいときを見分けたりできなくなる。
 親が子どもに対して頑固になってしまう大きな理由の1つは、恐れにもとづく子育てをしているからだ。1度の食事で炭酸飲料を飲むのを許してしまえば、坂を転げ落ちるように、子どもが一生、朝食にも昼食にも夕食にもマウンテンデューを飲むようになるだろうと心配する。だから一歩も譲らず、炭酸飲料を禁止する。(p.227-228)


この一貫性を持つべきだが頑固になってはいけないという考え方は非常に参考になった。確かに、例外を認めることを拒む融通の利かない育て方をしているとき、その背景には坂を転げ落ちるように落ちて行くことへの恐れがあるように思う。実際に、子供の側も例外を認めることによって、「あのときは例外を認めてくれたのに」という要求が強まるということもあり得るし、その場合、親の側もその都度適切に説明できるかどうか試される。

興味深いのは、子育てだけでなく、行政などが何かの制度を杓子定規に硬直的に運用している場合など、あるルールを頑なに例外を認めようとしない姿勢をとる場合、ルールを運用する側の人が同じような恐れを抱いていると考えられる点である。



 同じように、子どもが親の期待に沿わないふるまいをしたとき、いちばんいい方法は、期待に沿うふるまいを練習させることだ。
 子どもに対応をくふうさせるのも、スキルを養ういい方法になる。「ごめんなさい」と言わせるだけでは、カッとして投げつけて折れた妖精の杖は直らない。お詫びの手紙を書かせて、お小遣いで新しい杖を買わせるほうが、子どもはしっかり学んで、賢い判断や共感を養えるかもしれない。(p.232)


なるほど。このやり方をするには、常に、「どのようにすれば練習させられるのか」を考えることが必要だ。



 「感情を受け入れる」とは、切り替えのあいだ、親は子どもに、自分の気持ちがよくも悪くもなければ、適切でも不適切でもないとわからせる必要があるという意味だ。感情は、単純にそこにある。怒っても、悲しんでも、何かを壊したくなるほどイライラしてもかまわない。けれど、何かを壊したい気持ちになるのはよくても、実際にやっていいということにはならない。問題は、自分のふるまいがいいか悪いかを決める感情の声を聞いて、何をするかだ。(p.261)


感情自体は、それが悪い行為につながりやすいものや良い行為につながりやすいものなどがあるにしても、それ自体で良いものでも悪いものでもなく、単純にそこにあるものだと理解すべきだという考え方は、感情に対して適切に対処しようとする人にとって参考になるように思う。自分自身と距離をとること、距離をとることへの習熟(能力)は、客観的になるために必要なスキルだが、このような見方で自身の感情の状態を捉えるように訓練することは、「距離の感覚」を養う上でも役立つのではないか。



 けれどそれと同時に、子どもには、自分のなかで何が起こっているのか、その経験にどんな影響を受けているのかを観察できるようになってほしい。脳の研究によると、人は実際に、2つの別々の回路を持っている――経験の回路と、観察の回路だ。それぞれが重要な役割を持っていて、2つを統合すれば両方を育て、結びつけていける。子どもには、気持ちを感じて感覚を受け取るだけでなく、体がどう感じているかに気づき、自分の感情を目撃できるようになってもらいたい。自分の感情に注意を払えるようになってもらいたい。自分を調べて、心の内側に気づいてから問題を解決してほしい。
 この男の子はそうした。
 経験を心で感じながら、それを観察した。そうやって、起こっていることを自分のものにした。経験しながら観察できる目を持った。(p.296)


経験の回路、観察の回路、それらの統合というこの論点は、私には河本英夫のオートポイエーシスの議論を想起させた。


ダニエル・J・シーゲル、ティナ・ペイン・ブライソン 『子どもの脳を伸ばす「しつけ」 怒る前に何をするか――「考える子」が育つ親の行動パターン』(その1)

親子のきずなが固ければ、子どもは安心してその関係を試せる。つまり、子どもの悪さはたいてい、あなたに対する信頼と安心のしるしなのだ。多くの親は、子どもが“猫をかぶって”家のなかより学校にいるときやほかの大人と過ごすときのほうがずっと行儀がいいことに気づいている。理由はわかるだろう。かんしゃくはたいてい、ただの反抗ではなく、安心と信頼のしるしといえる。(p.51)


なるほど。



 お尻たたきのさらにもう1つの問題は、親が体に痛みを加える以外に、効果的な方法を持たないことを、子どもに教えてしまうことだ。(p.68)


確かに。



 たいてい、子どもは自分がしたことをかくすのがうまくなるだけだろう。危険なのは、子どもが体罰(と社会的拒絶)の痛みを避けるためなら、なんでもすることだ。つまり多くの場合、うそやかくしごとが増える――進んでできごとを伝えたり、学びを受け入れたりはせずに。(p.68)


体罰を加えることの帰結。低所得世帯や親の教育水準が低い家庭で育った子などに嘘や隠し事をすることが多いというのが私の経験から得た実感なのだが、これらは相関しているのではないか。



 子育てをするとき、特にしつけをするときには、子どもの視点と、発達段階と、本当にできることを理解する努力をしなければならない。それが、子どものふるまいの裏側にあるものを見る方法だ。
 外面の行動にとっさに反応するのではなく、その陰に隠れた心に波長を合わせる。また、子どもができることはいつも同じではないと覚えておく必要がある。疲れていたり空腹や憂うつを感じていたりするとできなくなることもあるのだ。この脳の第1の事実、つまり脳が変わっていき、まだ発達途中であることがわかれば、もっと理解と思いやりを持って子どもの話を聞き、なぜ子どもが混乱して自分を抑えられなくなっているのかをしっかりつかめるようになる。(p.93-94)


安定している時にはできることでも疲労、空腹、憂うつといったストレスがかかっている状態では制御できないこともある。これは、子どもの脳は発達途中であり、理性的な2階の脳の機能が弱いため、1階の脳が暴走しやすいときには止める力が足りない、といったイメージで理解できるだろう。このことを理解しておくだけでも少しは寛容になりやすいと思われる。



それどころか、子どもの発達中の脳は、はっきりした境界線を引いて、よいふるまいを理解させる必要があるもう1つの理由になる。内からふるまいを抑えて一貫して働く2階の脳を持っていないということは、外から抑えられる必要がある。
 では、その外からの抑制はどこからやってくるべきか、考えてみてほしい。親や保護者、その人たちが伝えるガイドラインと期待だ。子どもの2階の脳の発達を――それとともにさまざまなスキルの育成も――助けなければならない。そしてそのあいだずっと、親は外からの2階の脳として行動し、子どもと協力しながら、自分ではまだできない判断を助けてやる必要があるだろう。(p.94-95)


なるほど。親は子どもの2階の脳を補うため、境界線を引くことも必要。本書の主な内容(以上の記事では触れられていないが)は、そうした境界線を引く前の段階に特徴があるように思われる。


アンジェラ・ダックワース 『GRIT やり抜く力 人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける』

 最後に、強い興味を持ち続けるには、親、教師、コーチ、仲間など、周囲の励ましや応援が必要だ。(p.146)


モチベーションは本人一人だけで持ち続けられるものではなく、周囲の人々によっても支えられているという点は非常に重要と思われる。自分自身が続けてきたことを辞めてしまった時などを思い返しても、こうした周囲の励ましがなかった時だったという経験からもそう思える。



 同様に、ドウェックと共同研究者らによる研究においても、子どもがミスをしたときに、親が「ミスをするのは悪いことで、問題だ」というような態度を示した場合、子どもは「固定思考」になる確率が高いことがわかってきている。(p.245)


ミスに限らず、結果に重点を置くと同様の傾向になるのではないかと思う。



 Parenting(子育て、親業)という言葉はラテン語に由来し、「引き出す」という意味をもっている。(p.260)


educationという言葉に対しても同じようなことがよく言われる。



 子育て研究による大きな発見のひとつは、親が子どもにどんなメッセージを伝えようとしているかよりも、子どもがそのメッセージをどう受け取っているかのほうが重要だという点だ。(p.284)


研究しなくてもそりゃそうだろうと思う内容ではあるが、どう受け取るかまで考えた上でメッセージを発することが大事ということになる。これは、相当意識してやらなければ、なかなか難しい。



 温かくも厳しく子どもの自主性を尊重する親に育てられると、子どもは親を手本とするだけでなく、尊敬するようになる。そうすると、ただ親の言いつけを守るだけでなく、親の意図に納得して従うのだ。(p.287)


なるほど。大人を指導するような場合であっても当てはまるだろう。



学校の勉強は大変で、多くの子どもにとっては、本質的に面白いものではない。友だちにメールを打つのは楽しいが、やりがいはない。では、バレエはどうだろう?バレエは大変だけれど楽しいのだ。(p.302)


課外活動の重要性を本書は指摘しているが、このあたりのことは大変参考になった。



その結果、敵愾心の強い青年たちの多くは社会的地位の低い職業に就いており、生活費を稼ぐのにも苦労していた。そうした状況のせいで、さらに敵愾心が強くなり、ますます就職が難しくなっていた。(p.315)


社会的地位の低い職業に就くことは、それだけ社会から尊敬を受けにくい状況にあり、また、家計の経済力も一般に低いことを意味する。経済力がないということは、それだけ社会から物質的な恩恵を受けることが少ないことを意味する。精神的にも物質的にも、世界はこうした人びとを受け入れる度合いが少ない。そうした環境が彼らをさらに周囲の世界に対して不信と敵対の関係へと誘っていく、といったところか。