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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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ポール・レイバーン 『父親の科学 見直される男親の子育て』

多くの家庭において「両親ともにわが子と良好な関係を保っているが、それでも子供は混乱状態にさらされており、しかもその原因はコペアレンティングの関係ということもよくある……二人がお互いを憎み、わが子の愛情と忠誠を独り占めしようとすることがあり得る」。子供に関わるこのような慢性的な争いが、その子供自身に悪影響を及ぼすことは自明の理と言えよう。離婚した家庭の多くはこのパターンが当てはまるが、離婚していない家庭でも、五件に一件の割合でこの争いは起きているとマクヘイルは言う。(p.102)


この場合、離婚するのと離婚せずにいるのとどちらが子供にとって有益なのだろうか?子どもと両親との関係だけでなく、それぞれの親に付属している親族その他のネットワーク、それぞれの経済力や育児方針のあり方とその実態、さらには子どもの年齢や性別など、ケースバイケースすぎて一般化できないようにも思うが、大量のデータで傾向だけでも出ていれば、そこから先に議論を進める手掛かりが得られそうにも思うのだが。



遊び方は変わっても、遊びが子供時代を通じて、父と子の交流の核となっているのだ。
 ロス・バークは、子供たちとの父親の「遊び方」が、子供たちが健康的に成長するカギになると考えている。父親が遊びを支配しようとするばかりで、子供たちの出すシグナルに応えないと、息子が同級生と良好な関係を築くのがより難しくなる、と言う。父親と同じく遊ぶことを楽しんで、しかも父親が「非指示的な」女の子たちは、一番の人気者であるという。また、このような父親をもつ子供たちは、小学校に入学してもスムーズに順応していくと言う。父親がアクティビティーの提案をする、あるいは子の提案に対し興味をもってくれると、子供は粗暴なところがなく優秀で、友人に好かれる。こうした父親は子供たちと活発に遊んでも、権威主義ではない、父親と子供がギブアンドテイクの関係にあるのだ。(p.176-177)


遊びが父と子の交流の核というのは、本書の主張のうち最も重要なポイントの一つだと思う。

それに続く叙述から推すと、子供にとって父親との遊びがどのような関係のもとで行われるかというのは、その子供と他の子供たちとの遊び方のロールモデルを提供しているのではないか。子供は父親が自分に対して示した態度を他の友達にもとろうとすると仮定すれば、それが友達との関係性の良しあしにに自然と繋がっていくことは容易に了解される。



父親という存在は、子供が幸福で健康な大人になれるよう手助けをするためにある。子供たちがこの世界でのびのびと暮らし、やがて成長して彼ら自身が母親や父親になる準備ができるようにすることが、父親の役割なのだ。(p.263)


こうした根本的な考えはなかなか日常的に意識することが難しい面があるが、かなり重要なことなのではないかと思う。子供が父親や母親になろうと思うかどうかは別として、社会や家庭の中で一人前に生きて行くことができるようにすることは親の務めであろう。(親自身が子供に必要とされることで快適に感じており、子供を自分に依存させようとする、という事例を知っているが、それはこうした目標とかけ離れた行為であることが、原理原則を踏まえていると明瞭になる。)


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ポール・タフ 『私たちは子どもに何ができるのか 非認知能力を育み、格差に挑む』

「非認知能力は教えることのできるスキルである」と考えるよりも、「非認知能力は子供をとりまく環境の産物である」と考えたほうがより正確であり、有益でもある。……(中略)……。
 ……(中略)……。子供たちのやり抜く力やレジリエンスや自制心を高めたいと思うなら、最初に働きかけるべき場所は、子供自身ではない。環境なのである。(p.27)


私自身の考え方と近いが、環境の作用ということについて考えることさえない愚かな親というものがこの世にはいて、子どもにだけ焦点を当てて対応している事例というものがある。私の知るある事例では、そのような対応をしているのは、その親自身のための(満足感や空虚さを埋めたいといった類の)動機によって動いている事例があり、目には見えないし、子ども自身もそのことに気づきようがない状況の中、極めて有害な影響を及ぼしている。



 デシとライアンは教育に関する著述を、人間は生まれながらの学習者で、子供たちは生まれつき創造力と好奇心を持っており、「学習と発達を促進する行動を取るよう、内発的動機づけがなされている」という前提から出発した。しかしながら、このアイデアは「退屈さ」によって複雑になる何かを学ぼうと思ったら、それが絵を描くことであれ、プログラミングであれ、八年生の代数であれ、たくさんの反復練習を要する。反復練習はえてしてかなり退屈なものだ。デシとライアンは、教師が生徒に日々求めるタスクの大部分は、それ自体が楽しかったり満足できるものだったりするわけではない、と認めている。掛け算の九九を暗記することに強い内発的動機を持っている子供は稀なのだ。
 この瞬間、つまり内なる満足のためでなく、何かべつの結果のために行動しなければならなくなった瞬間に、「外発的動機づけ」が重要になる。デシとライアンによれば、こうした外発的動機づけを自分のうちに取りこむようにうまく仕向けられた子供は、モチベーションを徐々に強化していけるという。ここで心理学者は、人が求める三つの項目に立ち戻る。「自律性」「有能感」「関係性」である。この三つを促進する環境を教師がつくりだせれば、生徒のモチベーションはぐっと上がるというわけだ。
 では、どうやったらそういう環境をつくりだせるのか?デシとライアンの説明によれば、生徒たちが教室で「自律性」を実感するのは、教師が「生徒に自分で選んで、自分の意志でやっているのだという実感を最大限に持たせ」、管理、強制されていると感じさせないときである。また、生徒が「有能感」を持つのは、やり遂げることはできるが簡単すぎるわけではないタスク――生徒たちの現在の能力をほんの少し超える課題――を教師が与えるときである。さらに、生徒が「関係性」を感じるのは、教師に好感を持たれ、価値を認められ、尊重されていると感じるときである。(p.90-91)


反復練習のような場面では外発的動機づけが重要であり、これを自分のうちに取りこむことが重要というのは、自分自身の実感としてもよくわかる。私自身、中高生くらい頃の経験として、自分が何の苦もなく行っている反復練習を苦痛に感じる人というのが周囲に多くいるのをみて、なぜ彼らはこんなことが続けられないのだろう?とよく思った経験がある。そして、それをさせることがいかに難しいか、ということも実感がある。その意味で、ここで述べられている3つのポイントに着目するのは有益だと思われる。



ファリントンによれば、生徒たちが自分のポテンシャルについてのメッセージに――肯定的なものであれ、否定的なものであれ――最も敏感になるのは、失敗の瞬間であるという。(p.105)


こうしたタイミングにどのような声掛け(言葉以外も含めたメッセージ伝達)ができるか、ということは常々考えておく必要があるように思う。



中澤渉 『日本の公教育 学力・コスト・民主主義』(その2)

 また1980年に制定されたバイドール法により、連邦政府の資金によって研究開発された発明や成果の特許権を、大学や研究者が取得できるようになった。こうして知的財産が広く活用できるようになり、産学連携や中小企業の研究開発への参加が促された。そして大学の得た特許は、大学に設置された技術移転オフィス(Technology Transfer Office :TTO)を通じて商業ベースに乗せられ、ライセンス料が大学に入るようになる。大学は、市民のための組織というよりは、利益追求の企業組織や団体と足並みを揃えていく。(p.58-59)


産学連携というと「象牙の塔」から外に「開かれた」ような何となく良いイメージがあるようにも思えるが、開かれている方向が市民ではなく個別の利益追求組織という方向であれば、公共的な役割(利益)とは対立する方向に進む可能性があるという点に留意する必要がある。



しかし高等中学校は、帝国大学の分科大学への進学後のカリキュラムを考慮して、第一部(法科・文科)、第二部(工科・理科・農科)、第三部(医科)の三部制がとられていた。これが現在の日本の文系・理系という枠組みを形成する一つの起源と考えられる。
 また私立の法律学校や宗教系の専門学校が次々に設立されたが、私学経営では資金不足が常に問題となった。これらは実学志向の職業人養成を目的とし、授業はマスプロ講義が可能な文系に偏っていた。文系であれば、講義室を用意して多くの学生を通わせれば、その分多くの授業料を獲得できたからである。日本の歴史ある有力私立大学が、どちらかといえば文系主体なのも、こうした歴史的背景に基づく。(p.60)


後者に関しては、教育に公費を投入してこなかったという点も背景として重要ではないか。



戦後の日本の大学における教養教育は、学部別組織となっている日本の大学に、アメリカ型のリベラル・アーツ教育を持ち込もうとしたものだ。ただアメリカと日本の大学は、大学組織の成り立ちが全く異なる。一部は旧制高等学校の流れを汲んでいるが、初めから学部や学科の分かれている日本では、専門が決まっているのに、専門教育と関係ないことをやらされる位置づけになってしまう。初めから、学生が興味やインセンティブを抱きにくい構造になっているのが日本の教養教育なのだ。(p.61-62)


初めから学部や学科が決まっていない大学(東大や北大など)もあるが、その場合でも理系と文系だけは先に決まっているので、結局は同じような問題が起こってしまう。



ところが、日本では大学がエリート教育機関という前提に立ち、成績が悪くてやる気もないような学生が大学に行く必要はない、という発言をしばしば耳にする。しかしすでに高卒者の半分が進学するようになった大学を、エリート教育機関と見なす理由はない。大学のイメージ、役割、社会的機能はこれまでも変化し続けてきたからだ。(p.69)


確かにその通りだと思う。本書でも上記のすぐ後で指摘されているように、エリート教育機関としての大学が一部に存在する一方、そうではない「大学」もあるということになるだろうが、どちらも同じカテゴリーに入れて論じられることで議論が誤った方向に進んでしまう場面も考えられる。個人的には、エリート教育機関とは言えないような「大学」の役割とは何なのかということは気になるところではある。

私としては、大学を卒業した(学士の称号を得た)ということは、何か未知の問題について、自ら問いを立てることができ、その問いの正しさを吟味することができ、かつ、その問いに対する仮説を検証することができる能力の基礎が身についたということではないかと思っているのだが、エリート教育機関とは言えない「大学」を卒業した時にどのような能力がどのように高められているのかを是非知りたいと思う。



しかし国際比較データをみれば、個人の成人力はトップでありながら、経済指標はおおむね先進国平均を下回っている。これでまだ「学校教育に問題がある」といい続けるとしたら、その姿勢は理解に苦しむものがある。
 むしろ、個人の力を活用できていない経済界や労働市場のあり方に問題があると考えるのが自然ではないか。(p.221)


よく「教育を改革する必要がある」という(多くは胡散臭い)議論がなされるが、本書が依拠する国際比較データで見る限り、日本の場合、教育のパフォーマンスは比較的高く、むしろ経済のパフォーマンスの方が低いのであって、改革する必要があるのは経済・労働の方であるという切り返しには、それなりの説得力がある。

ただ、多くは働いている「大人」の側から、自分たちは変わらずに他人を変えることで事態を改善したいという安易な欲求があるため、このような切り返しは「教育改革推進派」の議論と比べて浸透しにくい構造がある。このハンディをどのように乗り越えるかが問題だろう。



ダウニーらは、夏休み(長期休暇)を挟んで、児童を追跡調査した結果、通常学期ではなく、長期休暇になると、子どもの学力格差が拡大したと報告している。(p.242)


学校には学力を「下」の方を持ち上げて平準化する効果がある。現在の新型コロナ対応のための臨時休校が続くことは、この効果が得られないこととなり、学力格差が広がる要因となると思われる。


中澤渉 『日本の公教育 学力・コスト・民主主義』(その1)

 早川によれば、利害の調整役を担うのが、代議制民主主義における代表者だという。代表者は、推進する政策が、特定集団への利益誘導ではなくて、社会全体に資することを説明しなければならない。有権者も説明を聞いて、説得力があるかどうかを判断する必要がある。以上のような、代表者と有権者の相互作用により、民主主義社会は成熟してゆく。(p.8)


日本の、特に安倍政権では、この相互作用が絶望的なまでに機能しないようにさせられている。その目的は権力者側が社会全体に資することではなく、特定集団(権力者に近い、あるいは気に入る、権力者から見て役に立つ人)への利益誘導(利益供与)を行っていることを白日の下にはさらさないようにすることにあると見るのが妥当であり自然である。もしそうではないというのであれば、政権側がこうした見方に対して文書記録等に基づいて成りたちえないことを説明する義務を負っている。その義務を果たせないのであれば、単なる疑義があるだけではなく、有権者側は一貫した疑惑については事実であると想定して行為するのが正しい。



 そして方法的能力とは、基本的な政治的リテラシー、簡単にいえば政治の知識である。この点に関する教育上のアプローチは、日本とドイツとでは若干異なる。日本では、社会について基礎的な知識を習得させることに努めるが、その知識をどう活用するかは曖昧で、個人の自由に任せている。その結果、政治・公民教育では、習得した知識の有無を問うか、せいぜいその知識をちりばめた個人的印象や感想を述べることに終始してしまう。
 一方ドイツにおける政治・公民教育では、具体的な事例に対し、相互に対立する社会科学的な解釈の枠組みを適用して理解させようとする。そうして、一定の体系化された社会認識に裏づけられた政治的姿勢を、生徒に自覚的に獲得させるのだ。(p.12)


私は日本の社会科(社会科学)教育は極めて問題があると考えているが、その問題点と向かうべき方向性(ドイツのような方法が望ましい)を見事に表してくれている箇所と思えた。ここで述べられているドイツの教育方法は、私にはマックス・ヴェーバーの方法論と共通点が多いように見える。つまり、「相互に対立する解釈の枠組み」すなわち理念型を用いて理解し、「一定の体系化された社会認識に裏づけられた政治的姿勢」を「自覚的に獲得させる」というのは、価値自由の理念と通じている。



 日本では、革新系の日本教職員組合(日教組)が戦後しばらく強い影響力を維持し、権力や保守勢力が戦前の復古主義的な教育を企てているのではないかと疑いをもっていた。それに対し、政権や保守勢力は警戒感を抱き、激しい対立関係にあった。結局現場は、政治的な争点を持ち込まないことで中立性を担保しようとし、現実から遊離した無味乾燥な知識ばかりが提供されるようになった。(p.13)


日本の社会科学、特に政治に関する知識や教育が貧弱であることの歴史的・政治的背景。



 日本人は教育熱心だと言われることがある。しかしそれは、自分の子に対しての話だ。親(保護者)は無理をしてでも教育費を払う。つまり親は、そのようにして子どもに教育を受けさせるのが当然の務めだ、という暗黙の了解がある。そこには、教育を通して社会全体に還元する、という視点がない。だから教育費負担に喘ぐ、子どもをもつ家庭を除けば、教育費に対する世論、要求はなかなか高まらない。矢野眞和らはこうした日本人の公教育費に対する無理解を指し、「教育劣位社会」とよんだ。(p.28-29)


日本の社会には、教育によって社会に還元するという発想がなく、公教育費に対して理解がないという指摘は、日本の教育のあり方を考えるに当たって極めて重要な指摘。


品川裕香 『いじめない力、いじめられない力 60の“脱いじめ”トレーニング』

 いじめの取材をしていると、実に多くの人が「いじめるほうが悪いのはまちがいないけれど、いじめられる側にも原因はあるのでは?」ととらえていることを痛感します。(p.68)


仮に原因があったとしても、そのことをもっていじめられる側にも問題がある(悪い)とは言えないということをはっきりさせるべきである。このことについては、付け込まれる要因はいじめる側が見出したりつくり出したりして利用するものだから、とひとまず言っておこう。



 Bちゃんの言動からもわかるように、暴力を働く子はいろいろ言い訳しますが、根底にはその子自身が抱えるストレスがあり、そのストレスがうまく処理できていないケースが少なくないと私は考えています。これがまさに34ページの個人のリスク要因にある“生活上のストレス”。実際、いじめの取材をしていて、つくづく痛感するのは「課題を抱えていない子は他者に暴力など振るわない」ということなのです。とすると、いじめない、いじめられない力を涵養するためには、この「ストレス処理」が大事なキーワードになることもわかります。(p.73-74)


本書は主に子どものいじめに関する本ということになると思うが、ネトウヨなどの言動などもいじめと同じような構造を持っているように思われる。ネトウヨにはIT技術者や自営業、経営者などが多いという指摘とも、ここで述べられていることは地続きであるように思われる。(さらに言えば、私としては、ネトウヨになりやすい環境に置かれている親を持つ子どもも同様にストレスを抱えやすく、いじめる側に回りやすいのではないか、という仮説を持っている。)


森田洋司 『いじめとは何か 教室の問題、社会の問題』

 「いじめ」「不登校」を、このように併記する傾向が生まれたのは、底流に、前期の「個人-社会」軸と「被害-加害」軸でいえば、「個人」と「被害」という極に近い視点で現象を捉え、対策を立ててきたからである。
 文部省のスクール・カウンセラー委託事業が90年代半ばに始まって以来、日本の学校現場ではすっかり定着している。日本のいじめ対応は、「個人のこころ」への焦点化をさらに進め、「心理主義」的な色彩を強く帯びたものとなった。(p.29)


この辺りの対応も、私が常々主張している、日本の社会においては社会科学の教育や普及が欠けていることが背景のひとつと思われる。



私が当時の文部省による、学校向けのいじめのリーフレットを説明していたとき、海外のシンポジストたちが一様に疑問を呈したのは、日本の転校措置の背後にある基本姿勢についてであった。
 リーフレットには、いじめられた児童生徒に対して、席替え、クラス替えや転校措置を柔軟に行うと記載されていた。被害者を守るという視点から考えれば、自然な発想と私たちには思えた。
 しかし、彼らは、一様に「いじめられた子どものほうが、なぜ転校しなければならないのか。転校すべきは、いじめた側ではないか」と疑問を投げかけてきた。ヨーロッパの発想に照らせば、共同生活のなかで被害が発生し、安全が損なわれたとき、学校が加害責任を明らかにし、加害者にその責任を果たすよう求めるのは当然であり、それこそが、共同体における正義を実現する妥当な方法である。(p.31-32)


ヨーロッパの発想とされている考え方に私も賛成である。加害行為を積極的に行った者を特定したら、基本的にはその者を転校させるべきだ。もちろん、その社会にいじめが発生するのは、その加害者だけが原因ではないだろう。個人の問題というよりは、その社会にいじめを発生させやすい状況が存在するであろう。しかし、客観的に見て積極的な加害行為が確認されたのであれば、そのような積極的な加害者こそ転校させる措置を取るべきだ。被害者が転校しなければならない状況に追い込まれるなどというのは、加害者を特定できるまでの間の一時的な措置等としてであれば理解はできるが、基本的に誤った対応である。



児童会・生徒会の活用は、「心づくり」から「社会づくり」へと対策をシフトさせるものである。つまり、個人の心の内面に歯止めを作るのではなく、社会や集団の力を増すことによって、集団のなかに歯止めを埋め込もうとする試みである。(p.61)


緊急的な対応とは別に、日常的にこうした取り組みは重要であると思われる。



しかし、現実のいじめを力関係から捉え直してみると、いじめが生み出される前提に脆弱性があるというのではなく、相互作用のなかで、相手の脆弱性が生み出され、そして優位に立つ側の力が乱用されると捉えたほうが、事実に即している。いじめとは相手に脆弱性を見出し、それを利用する、あるいは、脆弱性を作り出していく過程である。(p.76)


ルーマン的な感じ?この捉え方は妥当であると思われる。



固定化が起きるのは、力のバランスが一方に傾いたままの状態が続き、そこに力が乱用され続けているからである。周りの子どもたちや教師による歯止めは、固定化し一方に偏った力のバランスに均衡を取り戻す働きをもっている。(p.77)


この考え方は、よほどひどい状況にまで進んでいない場合には、それなりの効果を持つ対応に繋がると思われる。



すなわち、いじめとは、相手に対して優位な資源を動員して、そこに生じる優勢な力を乱用することと考えられる。
 このように考えると、いじめに対応する場合にも、一歩踏み込み、子どもたちの日常生活の力関係に着目し、背後に潜むパワー資源を探し出し、そこに働きかけていくことがポイントとして浮かび上がってくる。(p.78)


この観点は解決策を見出すのに役立つと思われる。



 いじめにおいて、相手を弱い立場に立たせ、「逃れられないようにして」おく最も効果の高い方法は、集団や関係性のなかに囲い込むことである。完全に集団から外れてしまった子どもに、仲間外しは効果がない。まだつながっていたいと思っていたり、外れる不安感に襲われているときに、攻撃力は高まる。
 学校や学級のような「組織」を逃れることは容易でないが、友人関係は逃れようとすれば逃れられると考えがちである。事実、深刻ないじめに遭っている子どもに、教師やカウンセラーが、いじめる子どもたちとの関係を絶って、別のグループの子どもたちと付き合うよう勧めることがある。しかし、それでも依然として関係を切ろうとしない場合が少なくない。たとえいじめがあろうとも、親密な友達関係は、彼らの居場所であり、それなりに充足感を与えてくれるからである。(p.91-92)


最後の一文はなるほどと思わされた。すでに「居場所」になってしまっている友人関係を切るというのは、意外と難しい場合があるということは理解しておくべき。この場合、別の居場所を作っていくことで切り離しは容易になるであろう。



 いじめが発生することは不可避だとしても、それを抑止する社会と抑止しない社会とがあり、現実にいじめを止められる社会と止められない社会とに分かれる。その分岐点は、いじめ問題を個人化して捉え、対応も個人化するか、集団や社会の全員が関わる問題として公共化して捉え、構成員の役割であり責務として問題の解決に臨むかにある。その違いを作り出すことこそが、まさに教育に課せられた使命といえる。(p.142)


このような方向に社会を進めていきたいものだ。



たとえば、子どもたちが通学路の美化活動に関わる。私たちは、これをボランティアと見なしがちである。だが、これらは厳密にいえば、ソーシャル・サービスと呼ぶべき活動である。(p.192)


なるほど。社会や集団から割り当てられた社会的役割という土台の上に、ソーシャル・サービスがあり、その上にボランティア活動があるという捉え方。参考になる。



 国際比較調査を見ても、日本の子どもたちは、家庭のなかで特定の役割を負うことが圧倒的に少ない。家事を手伝うことも少なく、手伝えばお駄賃を要求する子どももいる。また、勉強することが、あたかも子どもの家庭での役割のように考えている親も多い。しかし、勉強は家族集団を営むための仕事ではない
 こうした日本の子育て風土のなかで、子どもたちは、家族といえども社会集団の一つであり、子どもといえども集団の一員としてしなければならない仕事があるのだ、という認識を育むことがおろそかになっている。(p.193)


確かにその通りかもしれない。現在の日本では共稼ぎの家庭が多くなっていると思われるが、このことはより一層この傾向に拍車をかけるのではないかと思う。親が働いていれば、子どもは自分で家の仕事をしなければならなくなるのではないか、と思うかもしれないが、親が家で家族の仕事をする時間が限られると、子どもにやらせるということはより難しくなる。なぜならば、子どもにやらせた仕事は多くの場合、後始末が生じることになり、より一層の手間暇がかかるからである。どのようにすれば子供に家族や社会の一員としての役割を担わせることができるのか、よく考えて実践していく必要があると思われる。


阿部泰尚 『保護者のための いじめ解決の教科書』(その2)

いじめという言葉で片付けられている行為の多くは、大人であれば立派な犯罪になる。
 暴力をふるえば暴行、ケガをさせられれば傷害だし、SNSでの誹謗中傷は名誉棄損だ。人の持ち物を隠したら窃盗、壊したら器物損壊。仲間外れは、罪状はつかないかもしれないが人権侵害といえる。これらの被害に遭ったら、本来、警察に相談するのは当然のことなのだ。(p.129)


この認識は重要。また、大人の社会で問題視される各種のハラスメントと、加害者や被害者が置かれた環境が異なるだけで本質はほぼ同じとも言ってよいだろう。

ある程度はっきりした被害があり、証拠もある程度あるような状況であれば、警察への相談という選択肢は排除すべきものではない。



 犯罪に相当するいじめを行った子供が、その行為にふさわしい罰を受けることなく生きていくとしたら、加害生徒は犯罪の成功体験を持ったまま成長することになる。そのような子供たちに対して、強制力を持った警察という組織が出てくることで、「同じことを二度としてはならない」と教えることは本人たちのためにもなるのだ。(p.134)


加害者側を罰するという視点は、純粋に教育の観点からは出てきにくいが、ここで述べられている論理はもっと語られてよいものではないか、という気がする。ただ、実証的に見て、警察が出てくることの効果が、この論理のとおりかどうかという点は気になるが。



 大人が意識しなくても子供たちに伝えている価値観、「……でなければならない」の元を辿ると、テレビなどでも盛んに使われる「勝ち組」と「負け組」という言葉に行き着くと私は考えている。なにが勝ちでなにが負けなのか、その基準は、本来曖昧だと思うのだが、大人の世界では、「勝ち組」「負け組」は、お金持ちかそうでないかで語られ、その価値観が子供に伝染する。
 子供が、お金持ちは「勝ち組」で、そうでなければ「負け組」と思い込んでいるとき、そのことを(時には無意識のうちに)教えているのは、自分は勝ち組だと思っている親だ。
 親が、子供のクラスメイトの親を名指しして「〇〇さんは勝ち組だ」とか「〇〇さんは負け組だ」と口に出して言うことはないだろう。しかし、「……でなければならない」という思い込みが強く、自分が勝ち組だと思っている親は、知らず知らずのうちに、大人同士の会話の中で、「あの人」は社会のどのあたりの層に属するかを判断する方法を子供に伝えている
 ……(中略)……。
 その結果、子供の世界では、「勝ち組」は「負け組」を見下してもいいんだという空気が生まれやすい。そうして、子供は自分とは違う層に属していると判断したクラスメイトをいじめる。(p.162-163)


この議論を読んで、『ネット右翼とは何か』において、自営業、経営者、IT関係の専門職にはネット右翼(的なもの)が多いことが指摘されていることが想起された。

特に自営業や経営者については、自分を「勝ち組」と認識している人や「『勝ち組』でなければならない」と思っていたり、あるいは「『勝ち組』でありたい」という願望が強い人が、比較的多いのではないか。また、いずれの職種もプレッシャーが比較的強く、心理的に追い詰められた状況になりやすいように思われるが、そのような状況にある人は「……でなければならない」という思考になりやすいと推察される。

以上で言いたいことは、「ネトウヨの親」と「いじめる子供」とは親和性があるのではないか?ということである。

どちらも排外的であり、差別的であり、攻撃的であり、その上、自分が悪いことをしていることを特定されないように逃げながら他人を攻撃することを楽しむ。



 よく小学校の掲示板などで見かける、「みんな仲良く」というスローガンもいじめを助長しかねない。「みんな仲良く」は子供たちにとって絵空事すぎて、まったく心に響かないのだ。おまけに、「みんな仲良く」は「みんな同じ」という意味にとられやすく、結果的に、みんなと同じではない子供の排除を助長する。(p.167)


確かに。絵空事すぎて心に響かないという点にまず共感する。私自身が子供だった頃にもそのように感じていたように思う。

しかし、それでいて一定程度の規範性を持っていることは感じられる言葉でもある。この言葉が「みんな同じ」を是とする価値観と繋がりやすいという指摘も妥当であると思う。


阿部泰尚 『保護者のための いじめ解決の教科書』(その1)

 文部科学省のガイドライン(平成25年「いじめの防止等のための基本的な方針<平成29年3月改定版>」でも、いじめ行為が少なくとも3カ月止んでおり、かつ被害児童生徒が心身の苦痛を感じていない場合にいじめの収束と判断するとしている。(p.35)


3カ月以上いじめ行為が止まっていることを確認するためには、だいたい一つの学期くらいの期間は様子を見続けなければならないということになる。



 通常、加害生徒の態度には大きな違いがある。このときもそうだったが、いちばん積極的にいじめていたリーダー格の生徒が、淡々としていて無表情であることが多い。リーダー格の子が泣きながら謝るケースもないことはないが、頻度でいえば、リーダー格の子が、いちばん感情がこもらない話し方をする
「謝罪の会」では基本的に加害者側の親の発言は求められない。加害生徒らが謝罪の言葉を言い終わると、今度は、被害者側のお母さんが発言した。
「謝罪は謝罪で聞きましたが、まだ本人(被害生徒)は若いですし、これで、いじめが行為として終わることを期待します。でも、この子の中ではまだ終わっていません
 この台詞は、実は、お母さんと私で事前に打ち合わせしたものだった。
「謝罪の会」は開かれたけれども、これですべてが終わったわけではないということを、しっかりと加害生徒側と学校に印象づけたかったのだ。……(中略)……。
 このときも、先生からお母さんに対し握手してはどうかと提案があったが、私は事前に、握手を求められたら断るようにとお母さんに伝えていた。被害を受けた子の心は癒えていないのだから、「謝罪の会」を学校にとって都合がいい「和解の会」にしてしまってはいけない。(p.38-39)


加害者のリーダー格の子は謝罪の際にもいちばん感情がこもらない言い方をするというのは興味深い。積極的に加害行為をしていたということは、より強く明確な悪意を持っていることが反映しているのかも知れない。または、一般的に被害を受けた人に対する感受性(共感能力)が弱い人間であるために、謝罪にも感情がこもらないのかもしれない(それゆえ共感能力が高い子どもよりも容易に他人に対して悪意を抱きやすいため、前者の理由に繋がっているのかも知れない)。あるいは、リーダー格の人間は加害者コミュニティの中での序列が高いため、コミュニティ内での序列が低い者がいるところでは、序列の低い者には弱いところを見せられないという力学が生じているのかもしれない。こうした事態に関する研究というものはどこかにあるのだろうか?

また、「謝罪の会」を学校にとって都合のいい「和解の会」にしてはならない、という指摘は被害者の視点から見て非常に重要であると思われる。



たとえば、わが子は3カ月前と今ではどう違うだろうか。半年前と比べるとどうだろう。子供は日々成長するものだが、その変化をあなたは正確にとらえることができているだろうか。子供のことをきちんと見ていない親が多すぎるというのが、ユース・ガーディアンでの事例から受ける私の印象だ。(p.90-91)


確かに、子どもの状態を日時を含めて詳細に変化をとらえられるほど、よく見ている親というのは少ないだろう。子供の年齢などによっても違いがあると思うが、子どもの世話をする必要がある比較的小さな子供について言えば、観察することよりも日々の必要を満たすために大きな労力を使ってしまうという要因があり得る。また、数カ月前の状態を覚えておくことが、今の子どもの必要にこたえるためにはそれほど頻繁には役立たないため、過ぎ去ったことについてはあまり記憶するインセンティブがないといったこともある。世話をせずに観察と記録に専念できるような人であれば、3カ月前と現在の変化を捉えることもできるかも知れないが、日常の世話をするという大仕事がある以上、なかなかそこまで理想的なことをできる人は多くないだろう。

とは言え、理想的な状態は容易ではないといしても、子どものことをきちんと見て状況や傾向を把握するということは重要だと思う。特にいじめにあっている疑いがあるのであればなおさらである。



 学校に行けなくなった子というのは、心を壺にたとえるなら、もうストレスでその壺が満杯になってあふれ出している状態になっている。ひとりで家に置いておくと、自傷行為が始まる危険性もある。自傷行為は馴れない子が行うと致命傷になることもあるので、子供が自宅にいる間は、どちらかの親が一緒にいてやることが望ましい。
 もちろん本人が、体調が悪いから学校に行かないという場合は、仮病の疑いがあったとしても、親は全面的に信じたふりをして病院に連れて行って検査をさせたほうがいい。本当に病気だという場合もありえる。検査の結果、なにも異常がなくても子供を咎めてはいけない
 学校を休むことで、子供は心のストレスを少しだけ減らすことができる。しかし今度は、本来は行くべき学校に行っていないという理由で、本人が無言のプレッシャーを感じるようになる。2、3日経てば、「嫌がらせをしてくる奴がいる」とか、「先生と折り合いが悪い」とか、行かない理由を語り出すかもしれない。(p.97)


不登校に対する親の基本的なスタンスがコンパクトにまとめられており参考になる。



「学校に行ったらいじめられるから、行きたくない。それはよろしい。分かったよ、行かないことはいい。が、勉強はしよう。学校にいなかければ成績が下がる。もちろん人間、学校の成績がすべてではないといっても、成績が下がれば、将来きみが困ることになる。いじめられて成績まで下げられてしまったのでは、たまったものではないではないか。そうだろう?」(p.98)


不登校の子に対する適切な助言。




小野寺敦子 『小学生のことがまるごとわかるキーワード55』

きょうだいへの養育態度の差は、夫婦関係と関連しているという研究報告もあります。夫婦間で対立や葛藤がある場合、子どもに対する養育態度が夫婦で異なり子どもを混乱させてしまうと考えられ、それがきょうだい間の葛藤を高めるというのです。逆に夫婦間に葛藤がなく相互に尊敬しあう夫婦の場合は、子どもに対する養育態度に一貫性があり安定した親子関係になると考えられます。(p.37)


夫婦間の葛藤が大きい場合、離婚という帰結に至ることが考えられるが、離婚して父または母が一人で育てる場合と葛藤を抱えたまま夫婦で育てる場合で、どちらが否定的な影響が大きいか(どのような影響の違いがあるか)ということには非常に興味がある。



 子どものうつ病を誘発しやすい体験や環境として、①喪失体験(身近な人の死、ペットの死、親友の引っ越し)、②孤独の体験、③不安感の蓄積(教師や親から否定的評価を繰り返し受ける、失敗体験、怒りの抑圧)、④我慢することの多い養育環境、⑤不安定な養育環境(家族に気分障害の人がいる、虐待、親の病気、単身赴任、引っ越しの繰り返しなど環境の変化)があげられます。これ以外に菅原ら(2002)は、夫婦関係が家族機能を通して小学生の抑うつに影響を与えていると指摘しています。また、研究の結果、抑うつ傾向が高い子どもの母親は夫に対して愛情得点が低い傾向が認められています。その一方で、夫婦間で配偶者への愛情得点が高いほど、家庭の雰囲気と家族の凝集性評価が高い傾向が認められました。……(中略)……。その結果、3者均等近接型、3者均等中距離型というバランスがよくとれた関係性では子どもの抑うつ傾向が低く、父子接近型、母子接近型、夫婦接近型では抑うつ傾向が高いことが明らかになりました。こうした結果から子どもが自分の父母は仲が良いと認識している場合、子どもの抑うつ傾向は低いことがわかります。子どもの抑うつ症状には、家庭の雰囲気が悪かったり父母の喧嘩が絶えず不仲であったりすることが関連しているといえましょう。(p.43)


子どもの心と父母同士の人間関係、父母と子の人間関係のあり方は関係が深い。



就学前の子どもは「すごいね。上手」といった賞賛の「褒め」を好みますが、小学1年生の子どもは「ありがとう」といった愛情や感情のこもった「褒め」を好むことを明らかにしています。つまり何気なく私たちが行っている「褒め方」にもいろいろな種類があり、年齢に合わせた褒め方が効果的だとわかります。
 そしてさらに効果的なのが「具体的な褒め」です。……(中略)……。先生そして親が自分のことに関心をもってみてくれていることが伝わることで、子どもに安心感とやる気をもたせることができるのです。(p.47)


これ自体は目新しい指摘ではないが、わかっていても適時的確に行うことは簡単ではないことの一つ。



これらの不安は男子よりも女子の方が、また教師のサポート量が多い子どもの方が強くなっていました。これは教師からのサポートが多ければよいわけでは決してないことを示しています。(p.51)


勉強をするときに、親などに見られることが子どもにとって不安を増大させることがあるということを理解するのは実践上重要と思う。



大塚玲子 『PTAをけっこうラクにたのしくする本』

ずいぶんまえですが、校長先生が地域のおじいちゃん・おばあちゃんたちに、「お散歩の時間帯を、早朝じゃなくて、子どもたちの登下校のときにずらしてもらえませんか?」って頼んでくださったそうなんです。それでお散歩の時間を変えてくれた人たちが、「子どもたちの見守りをしないと危ない」って気づいて、見守りをしてくれるようになりました。(p.148)


地域で子どもたちの安全の見守りをするというのは、こういうことを言うのか、なるほど。



 PTAで通学路の安全を確認し、問題があれば行政(警察)に改善要望を出すこともできます。予算がかからない内容であれば、わりあいすぐ対応してもらえるようです。(p.149)


なるほど。これも良いアイディア。予算がかからなければ対応が早いというのもその通りだろう。危険性を指摘されているのに放置している間に事故が起こったら行政(警察)としては責任を問われることにもなるのだから。