FC2ブログ
アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

品川裕香 『いじめない力、いじめられない力 60の“脱いじめ”トレーニング』

 いじめの取材をしていると、実に多くの人が「いじめるほうが悪いのはまちがいないけれど、いじめられる側にも原因はあるのでは?」ととらえていることを痛感します。(p.68)


仮に原因があったとしても、そのことをもっていじめられる側にも問題がある(悪い)とは言えないということをはっきりさせるべきである。このことについては、付け込まれる要因はいじめる側が見出したりつくり出したりして利用するものだから、とひとまず言っておこう。



 Bちゃんの言動からもわかるように、暴力を働く子はいろいろ言い訳しますが、根底にはその子自身が抱えるストレスがあり、そのストレスがうまく処理できていないケースが少なくないと私は考えています。これがまさに34ページの個人のリスク要因にある“生活上のストレス”。実際、いじめの取材をしていて、つくづく痛感するのは「課題を抱えていない子は他者に暴力など振るわない」ということなのです。とすると、いじめない、いじめられない力を涵養するためには、この「ストレス処理」が大事なキーワードになることもわかります。(p.73-74)


本書は主に子どものいじめに関する本ということになると思うが、ネトウヨなどの言動などもいじめと同じような構造を持っているように思われる。ネトウヨにはIT技術者や自営業、経営者などが多いという指摘とも、ここで述べられていることは地続きであるように思われる。(さらに言えば、私としては、ネトウヨになりやすい環境に置かれている親を持つ子どもも同様にストレスを抱えやすく、いじめる側に回りやすいのではないか、という仮説を持っている。)


スポンサーサイト



森田洋司 『いじめとは何か 教室の問題、社会の問題』

 「いじめ」「不登校」を、このように併記する傾向が生まれたのは、底流に、前期の「個人-社会」軸と「被害-加害」軸でいえば、「個人」と「被害」という極に近い視点で現象を捉え、対策を立ててきたからである。
 文部省のスクール・カウンセラー委託事業が90年代半ばに始まって以来、日本の学校現場ではすっかり定着している。日本のいじめ対応は、「個人のこころ」への焦点化をさらに進め、「心理主義」的な色彩を強く帯びたものとなった。(p.29)


この辺りの対応も、私が常々主張している、日本の社会においては社会科学の教育や普及が欠けていることが背景のひとつと思われる。



私が当時の文部省による、学校向けのいじめのリーフレットを説明していたとき、海外のシンポジストたちが一様に疑問を呈したのは、日本の転校措置の背後にある基本姿勢についてであった。
 リーフレットには、いじめられた児童生徒に対して、席替え、クラス替えや転校措置を柔軟に行うと記載されていた。被害者を守るという視点から考えれば、自然な発想と私たちには思えた。
 しかし、彼らは、一様に「いじめられた子どものほうが、なぜ転校しなければならないのか。転校すべきは、いじめた側ではないか」と疑問を投げかけてきた。ヨーロッパの発想に照らせば、共同生活のなかで被害が発生し、安全が損なわれたとき、学校が加害責任を明らかにし、加害者にその責任を果たすよう求めるのは当然であり、それこそが、共同体における正義を実現する妥当な方法である。(p.31-32)


ヨーロッパの発想とされている考え方に私も賛成である。加害行為を積極的に行った者を特定したら、基本的にはその者を転校させるべきだ。もちろん、その社会にいじめが発生するのは、その加害者だけが原因ではないだろう。個人の問題というよりは、その社会にいじめを発生させやすい状況が存在するであろう。しかし、客観的に見て積極的な加害行為が確認されたのであれば、そのような積極的な加害者こそ転校させる措置を取るべきだ。被害者が転校しなければならない状況に追い込まれるなどというのは、加害者を特定できるまでの間の一時的な措置等としてであれば理解はできるが、基本的に誤った対応である。



児童会・生徒会の活用は、「心づくり」から「社会づくり」へと対策をシフトさせるものである。つまり、個人の心の内面に歯止めを作るのではなく、社会や集団の力を増すことによって、集団のなかに歯止めを埋め込もうとする試みである。(p.61)


緊急的な対応とは別に、日常的にこうした取り組みは重要であると思われる。



しかし、現実のいじめを力関係から捉え直してみると、いじめが生み出される前提に脆弱性があるというのではなく、相互作用のなかで、相手の脆弱性が生み出され、そして優位に立つ側の力が乱用されると捉えたほうが、事実に即している。いじめとは相手に脆弱性を見出し、それを利用する、あるいは、脆弱性を作り出していく過程である。(p.76)


ルーマン的な感じ?この捉え方は妥当であると思われる。



固定化が起きるのは、力のバランスが一方に傾いたままの状態が続き、そこに力が乱用され続けているからである。周りの子どもたちや教師による歯止めは、固定化し一方に偏った力のバランスに均衡を取り戻す働きをもっている。(p.77)


この考え方は、よほどひどい状況にまで進んでいない場合には、それなりの効果を持つ対応に繋がると思われる。



すなわち、いじめとは、相手に対して優位な資源を動員して、そこに生じる優勢な力を乱用することと考えられる。
 このように考えると、いじめに対応する場合にも、一歩踏み込み、子どもたちの日常生活の力関係に着目し、背後に潜むパワー資源を探し出し、そこに働きかけていくことがポイントとして浮かび上がってくる。(p.78)


この観点は解決策を見出すのに役立つと思われる。



 いじめにおいて、相手を弱い立場に立たせ、「逃れられないようにして」おく最も効果の高い方法は、集団や関係性のなかに囲い込むことである。完全に集団から外れてしまった子どもに、仲間外しは効果がない。まだつながっていたいと思っていたり、外れる不安感に襲われているときに、攻撃力は高まる。
 学校や学級のような「組織」を逃れることは容易でないが、友人関係は逃れようとすれば逃れられると考えがちである。事実、深刻ないじめに遭っている子どもに、教師やカウンセラーが、いじめる子どもたちとの関係を絶って、別のグループの子どもたちと付き合うよう勧めることがある。しかし、それでも依然として関係を切ろうとしない場合が少なくない。たとえいじめがあろうとも、親密な友達関係は、彼らの居場所であり、それなりに充足感を与えてくれるからである。(p.91-92)


最後の一文はなるほどと思わされた。すでに「居場所」になってしまっている友人関係を切るというのは、意外と難しい場合があるということは理解しておくべき。この場合、別の居場所を作っていくことで切り離しは容易になるであろう。



 いじめが発生することは不可避だとしても、それを抑止する社会と抑止しない社会とがあり、現実にいじめを止められる社会と止められない社会とに分かれる。その分岐点は、いじめ問題を個人化して捉え、対応も個人化するか、集団や社会の全員が関わる問題として公共化して捉え、構成員の役割であり責務として問題の解決に臨むかにある。その違いを作り出すことこそが、まさに教育に課せられた使命といえる。(p.142)


このような方向に社会を進めていきたいものだ。



たとえば、子どもたちが通学路の美化活動に関わる。私たちは、これをボランティアと見なしがちである。だが、これらは厳密にいえば、ソーシャル・サービスと呼ぶべき活動である。(p.192)


なるほど。社会や集団から割り当てられた社会的役割という土台の上に、ソーシャル・サービスがあり、その上にボランティア活動があるという捉え方。参考になる。



 国際比較調査を見ても、日本の子どもたちは、家庭のなかで特定の役割を負うことが圧倒的に少ない。家事を手伝うことも少なく、手伝えばお駄賃を要求する子どももいる。また、勉強することが、あたかも子どもの家庭での役割のように考えている親も多い。しかし、勉強は家族集団を営むための仕事ではない
 こうした日本の子育て風土のなかで、子どもたちは、家族といえども社会集団の一つであり、子どもといえども集団の一員としてしなければならない仕事があるのだ、という認識を育むことがおろそかになっている。(p.193)


確かにその通りかもしれない。現在の日本では共稼ぎの家庭が多くなっていると思われるが、このことはより一層この傾向に拍車をかけるのではないかと思う。親が働いていれば、子どもは自分で家の仕事をしなければならなくなるのではないか、と思うかもしれないが、親が家で家族の仕事をする時間が限られると、子どもにやらせるということはより難しくなる。なぜならば、子どもにやらせた仕事は多くの場合、後始末が生じることになり、より一層の手間暇がかかるからである。どのようにすれば子供に家族や社会の一員としての役割を担わせることができるのか、よく考えて実践していく必要があると思われる。


阿部泰尚 『保護者のための いじめ解決の教科書』(その2)

いじめという言葉で片付けられている行為の多くは、大人であれば立派な犯罪になる。
 暴力をふるえば暴行、ケガをさせられれば傷害だし、SNSでの誹謗中傷は名誉棄損だ。人の持ち物を隠したら窃盗、壊したら器物損壊。仲間外れは、罪状はつかないかもしれないが人権侵害といえる。これらの被害に遭ったら、本来、警察に相談するのは当然のことなのだ。(p.129)


この認識は重要。また、大人の社会で問題視される各種のハラスメントと、加害者や被害者が置かれた環境が異なるだけで本質はほぼ同じとも言ってよいだろう。

ある程度はっきりした被害があり、証拠もある程度あるような状況であれば、警察への相談という選択肢は排除すべきものではない。



 犯罪に相当するいじめを行った子供が、その行為にふさわしい罰を受けることなく生きていくとしたら、加害生徒は犯罪の成功体験を持ったまま成長することになる。そのような子供たちに対して、強制力を持った警察という組織が出てくることで、「同じことを二度としてはならない」と教えることは本人たちのためにもなるのだ。(p.134)


加害者側を罰するという視点は、純粋に教育の観点からは出てきにくいが、ここで述べられている論理はもっと語られてよいものではないか、という気がする。ただ、実証的に見て、警察が出てくることの効果が、この論理のとおりかどうかという点は気になるが。



 大人が意識しなくても子供たちに伝えている価値観、「……でなければならない」の元を辿ると、テレビなどでも盛んに使われる「勝ち組」と「負け組」という言葉に行き着くと私は考えている。なにが勝ちでなにが負けなのか、その基準は、本来曖昧だと思うのだが、大人の世界では、「勝ち組」「負け組」は、お金持ちかそうでないかで語られ、その価値観が子供に伝染する。
 子供が、お金持ちは「勝ち組」で、そうでなければ「負け組」と思い込んでいるとき、そのことを(時には無意識のうちに)教えているのは、自分は勝ち組だと思っている親だ。
 親が、子供のクラスメイトの親を名指しして「〇〇さんは勝ち組だ」とか「〇〇さんは負け組だ」と口に出して言うことはないだろう。しかし、「……でなければならない」という思い込みが強く、自分が勝ち組だと思っている親は、知らず知らずのうちに、大人同士の会話の中で、「あの人」は社会のどのあたりの層に属するかを判断する方法を子供に伝えている
 ……(中略)……。
 その結果、子供の世界では、「勝ち組」は「負け組」を見下してもいいんだという空気が生まれやすい。そうして、子供は自分とは違う層に属していると判断したクラスメイトをいじめる。(p.162-163)


この議論を読んで、『ネット右翼とは何か』において、自営業、経営者、IT関係の専門職にはネット右翼(的なもの)が多いことが指摘されていることが想起された。

特に自営業や経営者については、自分を「勝ち組」と認識している人や「『勝ち組』でなければならない」と思っていたり、あるいは「『勝ち組』でありたい」という願望が強い人が、比較的多いのではないか。また、いずれの職種もプレッシャーが比較的強く、心理的に追い詰められた状況になりやすいように思われるが、そのような状況にある人は「……でなければならない」という思考になりやすいと推察される。

以上で言いたいことは、「ネトウヨの親」と「いじめる子供」とは親和性があるのではないか?ということである。

どちらも排外的であり、差別的であり、攻撃的であり、その上、自分が悪いことをしていることを特定されないように逃げながら他人を攻撃することを楽しむ。



 よく小学校の掲示板などで見かける、「みんな仲良く」というスローガンもいじめを助長しかねない。「みんな仲良く」は子供たちにとって絵空事すぎて、まったく心に響かないのだ。おまけに、「みんな仲良く」は「みんな同じ」という意味にとられやすく、結果的に、みんなと同じではない子供の排除を助長する。(p.167)


確かに。絵空事すぎて心に響かないという点にまず共感する。私自身が子供だった頃にもそのように感じていたように思う。

しかし、それでいて一定程度の規範性を持っていることは感じられる言葉でもある。この言葉が「みんな同じ」を是とする価値観と繋がりやすいという指摘も妥当であると思う。


阿部泰尚 『保護者のための いじめ解決の教科書』(その1)

 文部科学省のガイドライン(平成25年「いじめの防止等のための基本的な方針<平成29年3月改定版>」でも、いじめ行為が少なくとも3カ月止んでおり、かつ被害児童生徒が心身の苦痛を感じていない場合にいじめの収束と判断するとしている。(p.35)


3カ月以上いじめ行為が止まっていることを確認するためには、だいたい一つの学期くらいの期間は様子を見続けなければならないということになる。



 通常、加害生徒の態度には大きな違いがある。このときもそうだったが、いちばん積極的にいじめていたリーダー格の生徒が、淡々としていて無表情であることが多い。リーダー格の子が泣きながら謝るケースもないことはないが、頻度でいえば、リーダー格の子が、いちばん感情がこもらない話し方をする
「謝罪の会」では基本的に加害者側の親の発言は求められない。加害生徒らが謝罪の言葉を言い終わると、今度は、被害者側のお母さんが発言した。
「謝罪は謝罪で聞きましたが、まだ本人(被害生徒)は若いですし、これで、いじめが行為として終わることを期待します。でも、この子の中ではまだ終わっていません
 この台詞は、実は、お母さんと私で事前に打ち合わせしたものだった。
「謝罪の会」は開かれたけれども、これですべてが終わったわけではないということを、しっかりと加害生徒側と学校に印象づけたかったのだ。……(中略)……。
 このときも、先生からお母さんに対し握手してはどうかと提案があったが、私は事前に、握手を求められたら断るようにとお母さんに伝えていた。被害を受けた子の心は癒えていないのだから、「謝罪の会」を学校にとって都合がいい「和解の会」にしてしまってはいけない。(p.38-39)


加害者のリーダー格の子は謝罪の際にもいちばん感情がこもらない言い方をするというのは興味深い。積極的に加害行為をしていたということは、より強く明確な悪意を持っていることが反映しているのかも知れない。または、一般的に被害を受けた人に対する感受性(共感能力)が弱い人間であるために、謝罪にも感情がこもらないのかもしれない(それゆえ共感能力が高い子どもよりも容易に他人に対して悪意を抱きやすいため、前者の理由に繋がっているのかも知れない)。あるいは、リーダー格の人間は加害者コミュニティの中での序列が高いため、コミュニティ内での序列が低い者がいるところでは、序列の低い者には弱いところを見せられないという力学が生じているのかもしれない。こうした事態に関する研究というものはどこかにあるのだろうか?

また、「謝罪の会」を学校にとって都合のいい「和解の会」にしてはならない、という指摘は被害者の視点から見て非常に重要であると思われる。



たとえば、わが子は3カ月前と今ではどう違うだろうか。半年前と比べるとどうだろう。子供は日々成長するものだが、その変化をあなたは正確にとらえることができているだろうか。子供のことをきちんと見ていない親が多すぎるというのが、ユース・ガーディアンでの事例から受ける私の印象だ。(p.90-91)


確かに、子どもの状態を日時を含めて詳細に変化をとらえられるほど、よく見ている親というのは少ないだろう。子供の年齢などによっても違いがあると思うが、子どもの世話をする必要がある比較的小さな子供について言えば、観察することよりも日々の必要を満たすために大きな労力を使ってしまうという要因があり得る。また、数カ月前の状態を覚えておくことが、今の子どもの必要にこたえるためにはそれほど頻繁には役立たないため、過ぎ去ったことについてはあまり記憶するインセンティブがないといったこともある。世話をせずに観察と記録に専念できるような人であれば、3カ月前と現在の変化を捉えることもできるかも知れないが、日常の世話をするという大仕事がある以上、なかなかそこまで理想的なことをできる人は多くないだろう。

とは言え、理想的な状態は容易ではないといしても、子どものことをきちんと見て状況や傾向を把握するということは重要だと思う。特にいじめにあっている疑いがあるのであればなおさらである。



 学校に行けなくなった子というのは、心を壺にたとえるなら、もうストレスでその壺が満杯になってあふれ出している状態になっている。ひとりで家に置いておくと、自傷行為が始まる危険性もある。自傷行為は馴れない子が行うと致命傷になることもあるので、子供が自宅にいる間は、どちらかの親が一緒にいてやることが望ましい。
 もちろん本人が、体調が悪いから学校に行かないという場合は、仮病の疑いがあったとしても、親は全面的に信じたふりをして病院に連れて行って検査をさせたほうがいい。本当に病気だという場合もありえる。検査の結果、なにも異常がなくても子供を咎めてはいけない
 学校を休むことで、子供は心のストレスを少しだけ減らすことができる。しかし今度は、本来は行くべき学校に行っていないという理由で、本人が無言のプレッシャーを感じるようになる。2、3日経てば、「嫌がらせをしてくる奴がいる」とか、「先生と折り合いが悪い」とか、行かない理由を語り出すかもしれない。(p.97)


不登校に対する親の基本的なスタンスがコンパクトにまとめられており参考になる。



「学校に行ったらいじめられるから、行きたくない。それはよろしい。分かったよ、行かないことはいい。が、勉強はしよう。学校にいなかければ成績が下がる。もちろん人間、学校の成績がすべてではないといっても、成績が下がれば、将来きみが困ることになる。いじめられて成績まで下げられてしまったのでは、たまったものではないではないか。そうだろう?」(p.98)


不登校の子に対する適切な助言。




小野寺敦子 『小学生のことがまるごとわかるキーワード55』

きょうだいへの養育態度の差は、夫婦関係と関連しているという研究報告もあります。夫婦間で対立や葛藤がある場合、子どもに対する養育態度が夫婦で異なり子どもを混乱させてしまうと考えられ、それがきょうだい間の葛藤を高めるというのです。逆に夫婦間に葛藤がなく相互に尊敬しあう夫婦の場合は、子どもに対する養育態度に一貫性があり安定した親子関係になると考えられます。(p.37)


夫婦間の葛藤が大きい場合、離婚という帰結に至ることが考えられるが、離婚して父または母が一人で育てる場合と葛藤を抱えたまま夫婦で育てる場合で、どちらが否定的な影響が大きいか(どのような影響の違いがあるか)ということには非常に興味がある。



 子どものうつ病を誘発しやすい体験や環境として、①喪失体験(身近な人の死、ペットの死、親友の引っ越し)、②孤独の体験、③不安感の蓄積(教師や親から否定的評価を繰り返し受ける、失敗体験、怒りの抑圧)、④我慢することの多い養育環境、⑤不安定な養育環境(家族に気分障害の人がいる、虐待、親の病気、単身赴任、引っ越しの繰り返しなど環境の変化)があげられます。これ以外に菅原ら(2002)は、夫婦関係が家族機能を通して小学生の抑うつに影響を与えていると指摘しています。また、研究の結果、抑うつ傾向が高い子どもの母親は夫に対して愛情得点が低い傾向が認められています。その一方で、夫婦間で配偶者への愛情得点が高いほど、家庭の雰囲気と家族の凝集性評価が高い傾向が認められました。……(中略)……。その結果、3者均等近接型、3者均等中距離型というバランスがよくとれた関係性では子どもの抑うつ傾向が低く、父子接近型、母子接近型、夫婦接近型では抑うつ傾向が高いことが明らかになりました。こうした結果から子どもが自分の父母は仲が良いと認識している場合、子どもの抑うつ傾向は低いことがわかります。子どもの抑うつ症状には、家庭の雰囲気が悪かったり父母の喧嘩が絶えず不仲であったりすることが関連しているといえましょう。(p.43)


子どもの心と父母同士の人間関係、父母と子の人間関係のあり方は関係が深い。



就学前の子どもは「すごいね。上手」といった賞賛の「褒め」を好みますが、小学1年生の子どもは「ありがとう」といった愛情や感情のこもった「褒め」を好むことを明らかにしています。つまり何気なく私たちが行っている「褒め方」にもいろいろな種類があり、年齢に合わせた褒め方が効果的だとわかります。
 そしてさらに効果的なのが「具体的な褒め」です。……(中略)……。先生そして親が自分のことに関心をもってみてくれていることが伝わることで、子どもに安心感とやる気をもたせることができるのです。(p.47)


これ自体は目新しい指摘ではないが、わかっていても適時的確に行うことは簡単ではないことの一つ。



これらの不安は男子よりも女子の方が、また教師のサポート量が多い子どもの方が強くなっていました。これは教師からのサポートが多ければよいわけでは決してないことを示しています。(p.51)


勉強をするときに、親などに見られることが子どもにとって不安を増大させることがあるということを理解するのは実践上重要と思う。



大塚玲子 『PTAをけっこうラクにたのしくする本』

ずいぶんまえですが、校長先生が地域のおじいちゃん・おばあちゃんたちに、「お散歩の時間帯を、早朝じゃなくて、子どもたちの登下校のときにずらしてもらえませんか?」って頼んでくださったそうなんです。それでお散歩の時間を変えてくれた人たちが、「子どもたちの見守りをしないと危ない」って気づいて、見守りをしてくれるようになりました。(p.148)


地域で子どもたちの安全の見守りをするというのは、こういうことを言うのか、なるほど。



 PTAで通学路の安全を確認し、問題があれば行政(警察)に改善要望を出すこともできます。予算がかからない内容であれば、わりあいすぐ対応してもらえるようです。(p.149)


なるほど。これも良いアイディア。予算がかからなければ対応が早いというのもその通りだろう。危険性を指摘されているのに放置している間に事故が起こったら行政(警察)としては責任を問われることにもなるのだから。


荻上チキ 『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』

社交性が高く、周りの仲間を味方につけるスキルのある者が、特定のターゲットを選んで攻撃を促す傾向がある、ということです。(p.53)


なるほど。確かに、周りの人間を味方につけるスキルというのは、自分自身が見聞してきた事例を考えても、いじめの加害者にとっては重要な能力であるように思われる。ただ、特別に高いスキルは必要とされないように思われ、それも重要なポイントなのではないかとも思う。その辺のことを示すデータはないのだろうか?



 このように、時間をかけていじめは育っていく。そのことを踏まえるからこそ、いじめ対策においては、早期発見・早期対応が重要になるわけです。アンケートにおいて「ほとんどいじめがなかった」と答えるクラスでは、先生が生徒と良好な関係を構築しており、それゆえ、いじめに早期対応できている傾向にあります。だからこそ、残酷ないじめの発生率が低く抑えられているのです。
 大きないじめ自殺事件が取り上げられた後に、そのいじめについて様々な調査が行われると、自殺に至るほどの大きないじめに発展する前の段階からいじめが存在していたことが明らかになることがほとんどです。報じられるような大きないじめの背景には、そこまで育ってきた様々ないじめの蓄積があり、それに対処できなかった経緯がある。(p.54-55)


いじめという現象は時間をかけて育っていく。だからこそ、早期発見・早期対応が重要となる。そのためにはもともとの教師と生徒たちとの関係性が良好であることが重要な意味を持つ。論理的に理路整然としかも簡潔に説明しているので、明確な理解が得られる。

今この個所を見直して思うのは、いじめという現象もオートポイエーシスである程度説明できるのではないかということである。



 いじめを理解するためには、「善」「悪」の区別のほかに「アウト」「セーフ」の区別があることを知っておく必要があります。
 いじめは「悪い」ものだけれども、ここまでは「セーフ」。
 いじめは「悪い」ものだけれども、今は「セーフ」。
 と、程度や他人の目線から、どこまでならやっても怒られないかを判断しているのです。(p.128)


善悪のほかに「アウト/セーフ」の区別があるという指摘は、非常に参考になった。善悪で判断すれば悪になることでも、アウトでないことは調子に乗ってやろうとする馬鹿者がいる。


音真司 『Fランク化する大学』

大学に簡単に入ることのできる時代だからこそ、入る大学を簡単に決めてほしくない。(p.7)


最初このフレーズに接した時は意外に感じたが、大量の質の低い大学があるという前提に立つと、この言葉の意味は理解しやすい。



「Fランク化」する大学をこれ以上増やさないためには、市場の原理にかけて、増えすぎた大学の中でも、質の低い大学や、小手先の手段を使った受験生集めに走る大学を淘汰するしかない。(p.8)


本書の現状認識には多くの点で共感できるところもあるが、この考え方には賛同できない。大学を純粋な市場原理によって淘汰できるとは思えないからである。ハーシュマンの用語を使って言えば、本書のここでの主張はExitの戦略でしかなく、大学を改善する指向は全くないといってよい。しかも、市場原理が機能するためには完全情報が前提となるが、大学選びという市場は極めて不透明性が高く、完全情報とは程遠い。こうした点をはじめとして、教科書通りに市場原理が機能する前提がない。

本書はこのために大学で起きていることやその原因を知り、大学を見る目を養うことによって質の低い大学を市場から淘汰すべきと考えているようだが、こうした事実を知ることは、これから大学を選ぼうとする人にとって、いわばミクロレベルでの選択には役立つが、マクロな社会全体に対しては成立しない。ここで求められていることを実行するには極めて強い個人を想定しなければ成立しえないため、大部分の人がそれを実行できると想定することは現実的ではない。

むしろ、個人レベルでより適切な対応策は大学を良いものとするためのVoiceを上げていくことである。大学の質の低下を食い止めるということを本当に考えるのであれば、制度を考えに入れなければならないだろう。



 少々、話がそれるが、読者の方々は「学生生活の様子」といったタイトルの報告書をご存じだろうか。
 近年多くの大学で、学生の学校での様子を保護者に報告するようになっている。(p.50)


幼稚園や小学校のようだな。



「ほとんどの学生が現役で大学に入るということは良いことだ」と言いたいのではない。
むしろ、その逆である。受験生の多くが第1志望以外の大学へ進学するということだからだ。……(中略)……。 ……(中略)……。
 不本意な大学に入学すると、多くの学生は、理想と現実とのギャップに苦しめられることになる。(p.63)


このことが大学生活の満足度を下げる方向に作用する。この点は本書のおかげで気づくことができた。

不本意な大学に入学すると苦しめられるというのは、私自身の経験から見ても納得できる。


ウォルター・ミシェル 『マシュマロ・テスト 成功する子・しない子』

赤ん坊がどれだけ愛情をこめて優しく育てられたか、あるいは、どれだけ残酷で冷淡な仕打ちを受け、放置されたり虐待されたりしたかは、子どもの脳に刻みつけられ、子どもの将来を左右する。赤ん坊のストレスレベルが慢性的に高い状態にならないようにし、安心で安全を感じられるように緊密で温かい愛着の形成を促すことが決定的に重要だ。(p.72)


ストレスレベルが慢性的に高くならないということは、赤ん坊の時に限らず重要であると思われる。



人生の最初の六年間における子どもの経験は、衝動を調整し、克己心を発揮し、情動の表現をコントロールし、共感や気配り、良心を発達させる能力のおおもとになる。(p.75)


しばしば3歳児までの育て方が大事だと言われ、それに対して「3歳児神話」などとして批判するような言説もある。幼少期の育て方が人生に及ぼす影響を絶対化するようであれば行き過ぎということにはなるだろうが、本書のここでも指摘されているようにやはり幼少期にどのような経験をするかということが重要なものであることは否定することは難しいのではないかと思う。



すなわち、幼児を過剰にコントロールする親は、子どもが自制のスキルを発達させるのを妨げる危険を冒しているのであり、一方、問題解決を試みる際の自主性を支え、奨励する親は、子どもが保育園から帰ってきて、どうやってマシュマロを二個手に入れたかを嬉々として聞かせてくれる可能性を、おそらく最大化しているのだろう。(p.78)


過剰にコントロールすることと問題解決の自主性を支えること。言葉で書くと反対のことのように見えるかもしれないが、実際には、過干渉にならないようにしながら、望ましい方向へと方向づけていくというのが子育ての難しさの一つではないかと思う。



誠実さや正直さ、攻撃性、社交性といった特性はそれぞれ、一貫した表れ方をする。だがそれは、特定の種類の状況下にだけ当てはまる一貫性だ。……(中略)……。したがって私たちは、人が将来しそうなことを理解したり予想したりしたければ、その人がどういう状況で誠実だったり、愛想が良かったりするか、あるいはそうではないかを見てみる必要がある。(p.122-123)


この辺りは、説得力があるというか、漠然と認識していたことをより明確にしてくれたように思う。テレビのワイドショーなどで事件などを取り上げるとき、犯人の人柄などについて近隣の住人にインタビューをして、「あんな真面目な人がどうしてこんなことを…」などというようなありきたりのコメントを垂れ流すような場面がある。私はこのようなものを見せられるとき、いつもここで本書が書いているようなことを感じていた。ストレスを特に感じたりしないような場面で関わりの深くない人に見せる言動とそれとはまったく違う場面での言動とが同じだと言える根拠なんてないだろう、と。また、仕事の場面では課題に対して非常に真面目に取り組むのに、仕事以外の交友関係や異性関係や寝食などの生活態度などとなると非常にだらしない行動を示す人というのもいる。人を評価する際は、一つの場面だけを見て判断してはいけない。

本書で述べられていることは、これよりさらに一歩先にまで及んでいるのがすごいところだ。ある人がどの場面でどのような行動をするのかという傾向が分かれば、その人の行動を予想して、善い方向へと誘導することができる。



その出来事が終わってから、しばらく待ってじっくり考えさえすれば、すべてうまくいく。心理的な免疫系が一生懸命働いてくれるので、私たちは過去を振り返り、その旅行は行くだけのことはあった、その催しは出席の仕甲斐があった、論文は書く価値があった、家族での外出も全体とすれば絆を強める良い経験だったと思える。(p.162)


大野哲也は『旅を生きる人びと バックパッカーの人類学』において、バックパッカーたちが自身の旅を振り返り、自己成長の物語を形作っていくことについて指摘しているが、バックパッカーたちがしていることは、まさにこの引用文で述べらえていることであるのが興味深い。



 全体として、対人関係でのネガティブな体験について考えるときに自発的に自分と距離を置いた人はそうしなかった人と比べて、軋轢を解消するために建設的な問題解決の戦略を使う傾向が強かった。いちばん興味深かったのは、次の点だ。あまり自分と距離を置けない人々も、パートナーが彼らに対してネガティブにも敵対的にもならないかぎり、仲たがいしたときにより望ましいかたちで対処できたが、パートナーが現に敵対的になると、存分にやり返し、敵意を激しくエスカレートさせた。あまり自分と距離を置けない人ととてもネガティブなパートナーという組み合わせは、二人の関係の将来を害しかねないような、敵意をエスカレートさせる定式となったのだ。(p.184-185)


こうした距離をとる能力は、私の場合、ウェーバーのWertfreiheitを自分なりに実践していくことによって、それ以前より伸ばすことができたと感じている。


ポール・タフ 『成功する子 失敗する子 何が「その後の人生」を決めるのか』(その3)

まず、深刻な心的外傷と慢性的なストレスから可能なかぎり子供を守ること。次に、これがさらに重要だが、少なくともひとりの親と――理想的にはふたりの親と――安定した、愛情深い関係を築くこと。これが成功の秘訣のすべてではないが、大きな、とても大きな一部である。(p.269)


このことを脳科学や様々な研究を踏まえて語っているのが本書の内容だと言っても過言ではない。



実際、多くの時間を使って、高LGの母ラットは人間でいったらどういうものだろうと考えこんだ。ヘリコプターペアレンツとはちがう。心配そうにそばをうろうろしたりはしない。絶えずなめたり毛づくろいをするわけではない。母ラットがそうするのはある特別な状況――子ラットがストレスを受けたときだ。まるで大事なスキルを教えこもうとしているかのようだった。刺激を受けたストレス対応システムをうまく管理して休止状態に戻す方法だ。人間の幼児でこのスキルにあたるのは、癇癪を起したあとやひどく怯えたあとに落ちつきを取り戻すことだとわたしは思い、それをエリントンに覚えさせようと集中した。……(中略)……。しかしもし人間で高LGに相当する行為があるとすれば、慰めたり、ハグをしたり、話しかけたりして安心させることのはずだ。……(中略)……。
 しかしエリントンが大きくなるにつれ、大多数の親たち同様わたしも気づいたのだが、愛情やハグ以上のものが必要になった。規律、規則、限度などだ。はっきりノーという人間が要る。そして何よりも必要だったのが子供に見あった大きさの逆境、転んでもひとりで――助けなしで――起きあがる機会だった。ポーラとわたしにとってはこちらのほうがむずかしかった。(p.269-270)


このあたりの考え方は、ダニエル・J・シーゲルとティナ・ペイン・ブライソンの『子どもの脳を伸ばす「しつけ」』の考え方と同じと言ってよいだろう。



 ではなぜ、貧困がかかわる学業不振の根本的な原因を探すときに、まちがった犯人に焦点を合わせ、科学が教えてくれる最大のダメージを無視してしまうのか?理由は三つあるように思われる。……(中略)……。
 第三に、新しい逆境の科学は複雑に絡みあったもので、そのなかには根深い政治信念に反する難題が――左右どちらの派閥にとっても――含まれるからだ。リベラルにとっては、保守派がある大事な一点において正しいことが科学的に示されてしまった。性格が重要である、という点だ。貧困に対抗する手段として、不利な状況にある若者にわたしたちがさしだせる最も価値あるツールは「性格の強み」をおいてほかにない。キーサ・ジョーンズやケウォーナ・ラーマがやジェームズ・ブラックが見事なほど多く持っていたもの、つまり誠実さ、やり抜く力、レジリエンス、粘り強さ、オプティミズムである。
 貧困にかんする保守派の議論が一歩及ばないのは、「性格が重要である……以上」で止まってしまうところだ。貧しい人々が成長して気質をよい方向に伸ばすために社会にできることはあまりない。彼ら自身の力でそうなってもらうしかない。いって聞かせることはできるし、罰則を設けることもできるが、我々の責任はそこまでだ、というわけである。
 しかし実際のところ、科学によって示されるのはまったく異なった現実だ。若い人々の成功にとってきわめて重要な役割を果たす性格の強みは、生まれながらのものではない。幸運や良質な遺伝子の結果として魔法のように現われるものではないのだ。また、単純な選択の結果でもない。脳内の化学反応に根差し、子供が育つ環境によってかたちづくられるため、ある程度は計測、予測が可能である。つまり、社会全体としてのわたしたちにも多大な影響力がある。……(中略)……。しかし、我々にできることは何もないとは、もういえない。(p.286-288)


本書で述べられたような処方箋は、政治的信念の左右の両派にとって都合が悪い点があるという指摘は興味深い。

確かに、多くのリベラルにとっては性格が重要だという結論は扱いにくい。ただ、この点を除けば、本書で示された考え方はリベラルの考え方の枠組みとほとんど合致するのではないか。むしろ、保守では性格が重要だという一点においては本書が示す科学的な考え方と共通するとしても、それ以外の点(特にそのような発言をする動機や目的)は相容れないため、むしろ、保守派にとっての方が受け容れにくいのではないか。(例えば、社会が何らかの方策を講じて支援をしていくべきという方向性の点でリベラルの考え方とは完全に合致するが、現代の自称「保守」派はこれに否定的であろう。また、「性格の強み」が大事だと言ったとしても、この「性格の強み」自体が社会の側からの働きかけによって形成される面があるならば、社会からの働きかけによって社会をよりよくしていくというリベラルの枠組みの範囲内で完全に処理可能であると思われる。)