アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

佐々木静子 『先生! 中国語文法のここがわかりません!』

 簡単会話編第四章でも出てきた「ちょっと」ですが、実は“一会儿”が時間詞で“一下(儿)”は動量詞、そして“一点儿”は数量詞ということになります。(p.156)


ちょっとした疑問が解消された箇所の1つ。

引用文とは関係がないが、漢字の原義に立ち返って言葉の意味を理解・感得するという本書の基本的な発想はかなり参考になった。特に最初の「簡単会話編」にその特徴が色濃く出ており、本書の特徴と言えるだろう。

文法書は読むだけでは言語習得はできないが、そのための方向性や方法を示したり、個別の事項のヒントを与えるという役割はあると思う。


スポンサーサイト

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

白井恭弘 『外国語学習の科学――第二言語習得論とは何か』(その2)

 インプット(聞くこと・読むこと)を理解するには背景知識が重要になります。ただでさえ、外国語を理解することは難しいのですから、日本語でもわからないような教材を使ってもむだです。ですから、自分で学習教材を選ぶ時には、自分の興味があってよく知っている内容を、読んだり聞いたりするといいでしょう。(p.164)


こうした点からもサブカルチャーやポップカルチャーに関心がある人は教材を探しやすくてよいのだろう。私が中国語を学ぶ場合、なかなか適した教材がないのが問題である。社会科学や歴史学などに関心があっても、中国はこれらがあまり良好な状態ではない。マックス・ウェーバーなど私が比較的熟知している学者の古典的なテクストの翻訳書は結構入手しているのだが、これを読んでどれくらい勉強になるのか、ちょっと試してみたいところではある。

ただ、英語なら時事的なニュースでも関心が持てるものが探せるので学習しやすそうだ。



 リスニングは、聞いても20パーセントしかわからないような教材を聞くより、80パーセント以上わかる教材を何度も聞いたほうが効果があります。インプットを理解することが言語習得のカギですから、わからないものを聞いても効果は低いのです。(p.165)


繰り返し聞くというのも一つのポイントと思われる。これがなかなかできていない、というか、適切なレベルの音声教材が少ないのが現状である。最近はネイティブの友人が送ってくれた童話の朗読の音声ファイルを使っているが、こうしたものはなかなか得がたいので、今後どうしていくかが課題だろう。



 第二言語のデータベースを増やし、自然な表現を身につけるために、特に母語と第二言語の距離が遠い場合は、よく使う表現や、例文、ダイアローグなどを暗記することが効果的でしょう。単文を暗記しても良いですが、それだと一文以上の情報を司る談話能力や、社会的に適切な表現を使うための社会言語額的能力が身につかないので、ダイアローグの暗記のほうが効率がよいと思います。(p.167-168)


語学の力が超低レベルの場合は単文暗記をある程度やるのもそれなりに効果があるのではないか。長すぎるものは覚えにくそうなので。大学で使っているテキストをもっているのだが、それはダイアローグの暗記には使えそうだ。



 アウトプット(話すこと・書くこと)は、毎日少しでもやるべきです。……(中略)……。
 日記をつけたり、ひとりごとをテープに録音したり、外国語学習の仲間と電話で話す、学校や、英会話喫茶などに通う、インターネットでチャットをする、など。また、インプット教材を聞いたり読んだりしたあとに、その内容について何か外国語でコメントをするのも効果的でしょう。そうすると、インプットのときの処理レベルが高まるはずです。(p.168)


以前、中国語の先生からは音読をすると良いと薦められ、できるだけ毎日行うよう心がけており、それなりに効果的な学習法だと思っている。音読はインプットとアウトプットの両方をやっている形にはなるからなのだろう、と今は考えている。ただ、アウトプットは発音などの自動化のためのアウトプットが主体であって、自分で文章や考えを構成するものではないから、その点が弱いかも知れない。文法などにもう少し意識しながら音読することのほか、何かアウトプットをする習慣をつけた方がいいのだろう。

たまにネイティブの友人とチャットをしているのだが、これはかなり効果がある。頭の中でリハーサルをする癖はだいぶついてきているのがわかる。外国語で毎日コメントをするというのもなかなかよさげだ。毎日、何を勉強したかブログやツイッターなどでつぶやいてみるのもやってみる価値があるかもしれない。



しかし、外国語の単語を覚えるのはとても大変です。じつはこれが大変なのは、母語と外国語のつながりに、ほとんど意味がないからです。……(中略)……。ですから、単語を覚えるときは、なんとか自分の持っている知識構造と関連づけて、有意味学習をする必要があります。……(中略)……。日本語教育で、初級の学生にひらがな、かたかなを教えるのに、絵を使って覚えさせる教材がありますが、これも、使わない場合に比べてずっと早く覚えられることが実験でわかっています。
 単語を、文脈の中で覚えるようにするのも、そのひとつです。(p.170-171)


単語をイメージを介して覚えるというのは確かに効果があると思う。これの効用は単に覚えやすいというだけではなく、外国語の単語が直接イメージに変換されるようにすることで、母語を介さずに「直接的な理解」する習慣が形成されるところにあるように思われる。

また、文脈の中で覚えるというのは、単文やダイアローグの暗記によって行うとよいのではなかろうか。中国語の場合、日本語と語彙がかなり重複しているものが多いので、割と有意味学習がしやすいので覚えやすい。ただ、声調は無意味学習になるので覚えにくい。これを有意味学習にする方法はあるのだろうか?あれば是非やってみたいところである。今のところ音読によって体に浸み込ませるしかない、というのが私見である。つまり、単文やダイアローグ暗記の際に音読しながら覚えるしかないのではないか。



 音声に関しては、難しい発音の仕方(とくに日本語にないlとr、bとvの区別など)は、確認しておき、意識すればできるようにしておきます。練習としては、意味、構文をすでに理解しているテキストのテープを使って、発音、リズム、イントネーションなどできるだけ正確にまねて何度もリピート、もしくはシャドウイングをするといいでしょう(シャドウイングとは、外国語の音を聞きながら、少し遅れて同じように言う練習のこと)。音読も効果があるでしょう。(p.173-174)


まずユニットである音節は「意識すればできる」状態にしてから、既知の文章を真似しながら声に出して繰り返し読む。これは実践しているかも知れない。かなり効果がある方法である。一つ前の引用文に対してつけたコメントの考え方でよいということだと解釈している。



 また、完璧な発音を目指しても、大人の学習者の場合、完璧な発音を身につけるのはほぼ無理だ、ということも意識しておくべきです。ただ、日本人英語でいい、通じればいい、といって最初から目標を下げておくと、それさえ達成できないでしょう。ですから、目標は高く努力し、なるべくターゲットに近づける、そしてそれができなくても、がっかりせずになるべく模倣する、という現実的なアプローチが大事です。(p.175)


正論なのだが、完璧にはできないとわかりながらそれに近づくことを目指し続けるというのは、相当のモチベーションを必要とするように思う。



 それから、発音については、個々の母音や子音に注意が行きがちですが、実際母語話者にとってわかりやすく、不快に感じない発音という観点からいくと、イントネーションとかリズムの方が個々の音の発音よりも重要だという研究結果が大勢を占めています。(p.175-176)


これは銘記しておきたい。これは「お手本」に忠実に、繰り返し声に出して読んだり、実際に会話する中で身に着けていくしかないように思う。



 文法は、基本的なもの(たとえば英語なら中学から高校一年程度のもの)について、文をつくれるレベル、つまりアウトプットできる程度までマスターしておくとよいでしょう。さらに、インプット理解のために、もう少し高度な文法も余裕があれば。
 ただし、説明を読んでも理解できないような難しい文法は無視してもかまいません。(p.176)


中国語の場合、どの程度の文法なのだろう?



 授業の中心となる活動は、その日に導入された文法項目を使った学生どうしのインタビューです。会話内容は、自分のことや、クラスメートのことで、友人、出身、趣味、家族、授業、先生、自分のアパート、冬休みの予定、などについて、お互いにインタビューし、インタビューで得た情報をノートにメモしておいて、宿題でクラスメートや自分のことについて書く、というものです。
 各課ごとに、よく使われる構文・表現が多数はいったダイアローグがあり、それを暗記して、言語のデータベースを増やします。評価も重要なポイントで、学期末試験の一部として実際に15分の会話をさせ、それが成績の10パーセントを占めています。学習者は学期末には15分話せないといけないことがわかっているので、リハーサルをするようになるでしょう。(p.181)


かなり効果がありそうな授業である。インプットを与えて、それを実際に使ってインタビューし、その内容について書くことによってもアウトプットしなければならず、また試験でもアウトプットの必要性が意識されるようになっているため、「インプット理解とアウトプットの必要性」の両方を充足する授業が行えるわけだ。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

白井恭弘 『外国語学習の科学――第二言語習得論とは何か』(その1)

外国語の知識があまりないうちから、積極的に話すと、変な外国語が身についてしまう可能性があるのです。(p.16)


自分の話としてちょっと危険性がある問題だと思われたので自戒のためメモしておく。



つまり、大人の学習者がネイティブのように話せるようになるには、ルールを覚えてそれを適用するよりも、膨大な数のフレーズを覚えて使いこなすことがより重要なようなのです。(p.61)


試してみたい。



人間に興味があれば、言語に興味があっても不思議ではありません。(p.65)


女性の方が男性よりも語学に向いていると言われるそうだが、心理学の実験で女性の方が生まれつき人間への関心が強い傾向があることが示されているという。そのため女性の方が男性よりも言語への関心も強く、語学もうまくいくことが多いようだ。確かに、私の知人・友人を見まわしても、明らかに男性より女性の方が語学に堪能な人が多いことに気付かされ、なるほどと納得させられる。



 日本人が英語ができない、もうひとつの大きな理由には、動機づけの弱さがあります。つまり、日本にいれば、英語が使えなくても実際問題としては困らないのです。(p.73)


同感である。本書ではフィリピンやインドやシンガポールなどでは状況が異なっていることが例示されているが、明らかに日本とこれらの地域では状況が異なっている。

なお、日本人が英語ができない理由は複数あるが、そのひとつは日本語と英語の言語間の距離が離れていることである。ヨーロッパの言語などと比べて日本語は英語と構造が相当異なっているため習得が難しいということ。中国語を少し勉強してみて、いかに英語が日本語と相性が悪いかということを私も実感として感じているが、その実感と一致する。



つまり、学習対象言語を話す人や文化に好意をもっている学習者が外国語学習に成功する、ということです。(p.75)


「統合的動機づけ」というそうだが、これも頷ける。実際、やたらと外国語がうまい人はこういう傾向があることが見て取れる。そう考えると、私の中国語学習はあまり成功しないかもしれない…。ただ、中国語話者の友人が割と多いことは、私にとっては統合的動機づけに一役買っているかもしれない。



 ところが、三単現の-sだろうが過去形の-edだろうが、とにかく教えさえすればすぐに使えるようになると教師や学習者が思っていたら、非現実的な期待をしてしまうわけです。「自分は情けない」なんて自己嫌悪に陥って英語が嫌いになってしまう中学生もいるでしょう。だから、このような研究は重要なのです。(p.128)


文法項目は習得できる筋道が概ね決まっているのだという。だから、説明を聞いて頭で理解していても、それを使いこなすのは習得する順序が来てからでなければ難しいということ。教師から教わってもそれが必ずしも実際に使えるわけではない、ということを知っているかそうでないかによって、教える側も教わる側も心の持ち方が変わってくる。なるほどと思わされる。



 よって、現状では使える英語力を身につけるという目標を達成するには、インプットの量が不足しています。日本語に訳してからその日本語を読んで意味をとる、というのは、自然な言語習得に必要な「インプットを理解する」という機会を学習者から奪っていることになるのです。(p.134)


本書によると、言語習得に必要な条件は、インプットを理解することとアウトプットの必要性があることだという。私が思っていたよりもアウトプットについては重要性が低いというのが少し驚いたが、アウトプットの必要性があるという状況の重要性は、過去の英語学習と最近の中国語学習を比べて納得できる。この必要性があると明らかにその言語で考える機会が多くなって、さまざまな疑問がわいてきたりする。

また、学習法についてもインプットをもっと増やすにはどうしたらいいか、ということを現在考えているところである。



 インプットを理解することがなぜ言語習得につながるのでしょう。ニューメキシコ大学のジョン・オラーによれば、その言語の「予測文法」が身につくからだ、ということになります。(p.136)


本書は、このように学習法の根拠となる事実や仮説などをきちんと示してくれるのが非常に良いところである。本書にはこれに類する記述に満ちている。

予測文法が身についているかどうかは、早い(自然な)スピードの発話を聞き取れるかどうかということとも関わっているように思われる。



 テキサス工科大学のビル・バンパタンは、文法習得を引きおこすのはアウトプットではなくインプットであるという立場から、大事なのは理解の過程で、文法項目を実際に処理させることである、と主張しています。……(中略)……。よって、教師がインプットする文をコントロールして、ちゃんと文法を処理しないと理解できないような材料を与えてやることが必要なのです。(p.143)


確かに、私は中国語の文法をあまりやっていないので、文法を処理できていないと感じる。単語だけで意味が理解できるような文は聞いて理解することができるが、文法の処理ができていないため比較的簡単な文でも理解が曖昧なことが多い。インプットによる文法習得が必要であると実感する。その際、このエントリーの2つ目の引用文にあるようにフレーズを覚えたりするのが良いのかもしれない。



 ただ、注意すべきことは、多くの実験研究が行われているにもかかわらず、アウトプットそのものが言語能力の向上につながった、という結果はあまり出ていないことです。「話せるようになるには、話す練習をすればいい」という考え方は、一見理にかなっているようですが、研究結果を見ると必ずしもそうではありません。(p.149)


確かに、アウトプットすることでは新しい変化が起きるわけではないから、学習効果はあまりなさそうだ。既に知っていることを話していても新しい知識が習得できないというのと似たようなものだろう。ただ、アウトプットによって、「自動化」の効果はあるようだが。




テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

山口仲美 『日本語の歴史』

現在のように、一音に対して一つのひらがなに決まったのは、カタカナと同じく明治33年(1900年)の「小学校令」によってなのです。(p.74)


意外と新しいことであることに驚く。



カタカナは、文字というものは一点一画を重ねてできるものだととらえているから、万葉仮名の部分を取る。それに対して、ひらがなは、文字というものを連続体ととらえているから、全体を書き崩すけれど、部分をとったりはしない。同じ文字に対して、異なる側面からとらえたために、カタカナとひらがなという二種類の文字の系統ができあがったのです。(p.74)


分析的なカタカナと全体論的なひらがなという対比とでも言おうか?なかなか面白い。



 第二に、文言一致の文章がなかなかうまく行かないことです。日本語では、話すように書くという場合には、必ず人間関係のあり方が表現に直接にかかわってきてしまうのです。(p.186)


このあたりは日本語の大きな特徴のように思う。外国人にとって日本語、特に敬語が難しいとされる要因はここにあるだろう。



繰り返しますが、日本語は決して非論理的ではありません。論理的に話を進める訓練がなされていないだけです。(p.219)


納得。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

谷崎光 『北京大学てなもんや留学記』(その2)

 そもそも私は学校を卒業後、中国商社に勤めていて、しばらくの間、週に二、三回習いに行っていた(もっとも残業でしばしば一回になる)。
 が、それが本格的な習得にはあまり役に立たないことは、本当に『できる』人ならみな知っていると思う。こういう教室はきっかけや自分で勉強するペースメーカーとして有効なのである。(p.90)


なるほど。

言語習得は通常の知識習得のような学習というよりも、スポーツなどの(身体感覚を伴う)技術習得に近いようだ、というのが私の現時点での考えなのだが、それとも合致する内容であるように思われる。

というのは、教室で教わる言語というのは、やはり文法知識や単語などについては知識の形にしかならないし、発音についても、重要なヒントを与えてくれることはあるにせよ、話せるようになるためには自らの感覚によって習得するしかないから、教室での学習そのものは、「本格的な習得にはあまり役に立たない」のである。ただ、継続的に学習する際の環境を整える点では学習者を個人として孤立させず、社会的なネットワークに組み込むことになる点では確かに有効だろう。



 いわゆる丸暗記の旅行会話の延長に、「話せる」はないと思う。(p.91)


フレーズを覚えるだけの学習では、所詮、知識を覚えるだけだからである。



 語学は勉強ながらトレーニングの要素が強くて、机上の知識でテニスができないのと同じで、若いほどうまくなる。が、いくつからでもできるようになるというのもテニスに似ている。(p.91)


私が上で書いたことと同じ意見のようである。もちろん、私はこの本を読んだ後で上の文を書いたのだが、このフレーズはブログに抜書きする予定ではなかったから覚えていなかった。

私が上の考えに到達したのは、河本英夫の「オートポイエーシス」の着想を言語習得に適用したからである。私自身は外国語がてんでダメだから、自分の語学学習の経験から語るわけにはいかないのだ…。ただ、それがこうしてきちんと話せる人の感覚と合致すると我ながら「おおっ!」とか思うわけだ。



たとえば今、中国語力ゼロのふつうの人が、一日十五分の勉強を十年積み重ねても、片言ぐらいはできても、まず『話せる』ようにはならない。ガーン。(p.92)


語学のトレーニングも大変なものである…。



単語暗記も、実はあれは慣れで、やればやるほど早くなる
 中国語は最初が一番大変で、ひとつの字に漢字、四声込みの発音、意味、さらに発音の仕方等を覚えないとダメで四苦八苦するが、逆に千字ぐらい読み方をおぼえちゃうと組み合わせることができ、しかも日本語と共通の言葉が多いので、日本人は突如として上達する。(p.93)


ふむふむ。なるほど。1,000字くらいならナントカなりそうな気がする。っていうか、1字覚えるのも声調込みだとちょっと大変だが、発音だけでももう少しマスターできればいけるかも知れない。歴史学とか社会学とか政治学とか財政学とかの勉強を一時的に(2~3年くらい?)中断すれば中国語は少し話せそうな気がする。問題は、そんなに知的禁欲ができるかということだ…。



先へ先へと進むより、拍子抜けするほど簡単なものを、よく理解して、くりかえして徹底的に頭と口に叩き込むのが話せる早道なのである。特に初期。ベストはそれを人間相手にやる。ママが子供に無意識にやっているのがこれ。ただし子供はこれで脳みそに自動的に文法が形成されるが、大人は違うので誤解なきよう。(p.94)


なるほど。私が通っている教室で他のメンバーに対して思うのは、先へ先へと進もうとしすぎることであり、また、「学習」に偏りすぎた発想である。まぁ、教室は所詮ペースメーカーなのだから、それでいいや、と割り切ることにする。自分のトレーニングを地道にやれば話せるようになるのだろう。

最近はチャットを利用してネイティブスピーカーの友人と会話(での練習?)を始めたところだったりする。これだけ環境がそろったということはやはり今は語学をがっちりやれという天の思し召しなのか???と思ったりする今日この頃である(苦笑)。



 私がよくやっていたのは日常、電子辞書を持ち歩き、言えなかったことなどすぐ引き、夜にその日の履歴を暗記。相手が友達だったらわからない時は書いてもらう。
 単語も、「反日対策」「ご飯」「引越し」などの同一テーマで括ると覚えやすい。(p.109)


電子辞書というものを使ってみて、思ったのは思った以上にいろんな機能があって、いろいろなことに使えそうだ、ということ。この履歴の使い方は非常に参考になる。やってみよう。



 つまり木にたとえると、発音は根、文法が幹、単語が葉っぱで、子供は根と幹が自然に成長するが、成人は固まってしまっているので(日本語の「木」がすでにある)、人為的に叩きこまないと、葉っぱだけ増やしてもいつまでたっても話せない。
 幼稚園児は話すスピードは遅いし、使える単語はわずかだが、基本の語順(文法)はすでにほぼ正確……。(p.114)


この箇所は本書を読んでいて私のツボにはまったところである。腑に落ちた。やっぱり根である発音をやるのが一番大事だと思い知る。文法ももう少しやらねば、とも思うが。

あと、私が知る日本在住の外国人で、日本人のコミュニティに参加していない人がいるのだが、彼はしばしば、自分は日本語の単語は沢山知っているが、それをどうやって並べたらいいのかが分からないので話せない、と言っていた。日本人のコミュニティに参加せずにいるから、日本語を学習していないためだろう、ということに思い至った。




テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

佐々木瑞枝 『外国語としての日本語』

 忘れてならないのは、単に文型の指導をしただけでは、日本語を教えたことにはならないということだ。それを実際のコミュニケーションの場で使えるように指導すること、それも、外国人学習者が自発的に会話できるような場面を教室の中で作り出す必要がある。
 語学とは単に暗記と繰り返しで頭の中にたたきこむものではなく、もっと創造的なものだ。機械的な練習を繰り返していただけでは、イン・プットはできてもアウト・プットができず、勇気を持って日本人と会話ができる学習者は育たない。文法は大事だが、文法万能主義に陥らないこと、これは私も含めて語学を教える全ての教師が、常に念頭においておくべきことだと思う。(p.62-63)


このあたりは、先日台湾から日本に来た旅行者の方と話していたときに感じたことと合致する。私が台湾の方々とブロークン・チャイニーズで話をしていたのだが、それを傍で聞いていた第二外国語として中国語を勉強していた大学生はしばらくの間、会話に入ってくることができなかった。その人曰く、「話は聞いていて分かるけれども、話そうとすると中国語が出てこない」から入れなかったという。正しい文法を気にしすぎると、このようになりがちだ。

会話というものは、まずは話そうとする動機となるものがあるかどうかが重要で、伝えよう・わかろうとするモチベーションがそのコアになければ、なかなか伝わらない。(これは日本語を母語とする者同士の会話でも同じだ。)

外国語で細部を正確に伝えるためには(完全にその言語を体得するまでは)文法は確かに必要となるが、それは内容ではなく形式にすぎない。しかし、外国語学習の場ではどうしても形式の正しさが重視されがちになる。私も実際、中国語を少し勉強してみて、教室ではかえって中国語が出てきにくいという実感がある。現場で中国語話者と対峙しているときの「必死さ」(?)が教室では消えてしまい、変わりに正しい文法や正しい発音や正しいアクセントが「要求されてしまう」からである。

もちろん、こうした形式面も重要であることは間違いない。私の経験に照らしても、発音やアクセントをある程度正しくしただけで、かなり通じる率が高くなったのは確かである。

だから、語学では実践的な練習が重要で、実際の場面を(想像上でではなく、「現場で」)設定して練習してはどうかと思う今日この頃である。



 日本が台湾などで植民地政策をとった際、日本人は現地の人々に対して敬語で接することがあったのだろうか。私が台湾の日本語教育関係者に会ったとき、植民地時代に日本語を覚えたというある先生から、こういう話を聞かされた。
 「我々が耳から覚えた日本語は『こっちへ来い』『早く行け』『何の用だ』といった命令調のものでしたからね。日本語とはそういうものだと思いましたよ。それで同じことを日本人に言ったらひどくなぐられましてね。私には理由がさっぱりわからなかった。今なら、相手によって『こちらにおいでください』『こっちに来てください』『こっちに来て』など使い分けられますが……。『こっちに来い』はさすがに使えませんね」
 まさに赤面の至りだ。戦後はまだ終わっていない。こんな言葉の世界にも、日本が戦争で侵した傷痕が残っている。(p.175-176)


戦争や歴史問題を主題にしたものではない本であるからこそ、こうしたエピソードは重要であると思われる。

すべての「日本人」(なる者)がこのような振る舞いをしたわけではないだろう。しかし、力関係などから考えてこのような振る舞いが多かった(大部分であった)であろうことは想像に難くない。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌