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豊下楢彦 『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交――』

 このダレスの議論には、これ以降の交渉において米側が展開することになる基本的な“論理”がうちだされている。つまり、占領期と同様の基地機能を維持することは米戦略にとって「根本的な問題」であるにもかかわらず、それをあくまでも「援助」として日本側に“借り”を負わせるかたちにしたうえで、その“代償”としていかなる「貢献」を日本は果たすのか、具体的には再軍備をおこなうのか否かを追及していく、ということなのである。
 ここでは、本書の冒頭でふれた西村の議論のように、日本が基地を提供しアメリカが日本を防衛することで「共同防衛の関係」に立つということ、基地提供の見返りにアメリカが日本を防衛することによって双方の“貸し借り”の関係が成り立つという論理が、日本の再軍備による「貢献」如何という問題に、見事に“すり替え”られているのである。(p.50)


これは1951年のことである。このときのアメリカ側の論理が、現在の「改憲派」や自民党の代議士の大部分が使用する論理とほぼ重なるものであることは注目に値する。

例えば、これは、現在言われる「国際貢献」が「アメリカへの軍事的な貢献」を意味することの淵源でもあるだろう。



 ダレスは、対日講和条約草案をはじめて公表した三月三一日のロサンゼルスの演説で、「もし日本が希望するならば、〔米軍駐留を〕同情的に考慮するだろうと公開の席上でのべた」と、ふたたび二月二日演説をとりあげたうえで、「安保保障にたいし頼むに足る貢献をなす能力を有する国は「無賃乗車」してはならない」と強調した。ここに、今日にいたるまで日米関係を“規定”してきた「安保タダ乗り論」の“起原”をみることができるのである。(p.75、本文の傍点部→引用文では下線)


恐らく「思いやり予算」もこの発想の延長上に位置づけられるであろう。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

天児慧 『中国・アジア・日本――大国化する「巨龍」は脅威か』

 そもそも近代における日中関係史において「日本=侵略=悪、中国=抵抗=正義」という図式があり、その枠組みから外れた独自の解釈に対してしばしば「反動」といったレッテルを貼る見方はおかしい。日本では少なくとも1910年の韓国併合以降、第二次世界大戦終結までのアジアへの関わりを、結果的には「侵略」として認識することが通説的になってきているが、明治維新以降の日本の近代史までも「侵略」的な面に重点をおいて解釈することには納得いかない。日本の近代史は他方で、アジアの近代化、アジアの革命運動を触発したことも事実である。挫折はしたが清朝末の康有為らの改革に対して伊藤博文ら明治維新新政府要人たちは懸命にそのノウハウを提供している。さらに「韓国併合」や「中国侵略」のお先棒を担いだとして厳しく非難されるようになった「アジア主義者」のなかには、宮崎滔天のような孫文革命に命をささげた人たちが少なくない。日中戦争が本格化するなかでも、石橋湛山(戦後の首相の一人)のようなリベラルな人が声高に「満州放棄論」を展開しているのである。(p.39-40)


中国や韓国が日本の教科書問題を批判するスタンスは、「日本=侵略=悪、中国=抵抗=正義」という図式に一面的に拘泥している。この批判は妥当である。

もちろん、そうだからといって、日本の教科書の「自慰史観」の妥当性が維持されるわけではないが。かなり高く評価しても、中韓の批判と同位対立でしかない。事実認識の問題としては中韓の批判には一理あるから、そもそも事実認識の問題としておかしい自慰史観よりは、中韓の立場の方が学問的に見ればマシだとさえ言える。

後半の天児氏の見解はそれなりに興味深い。ただ、若干弱い。康有為の改革に手を貸しても、それが成功したかどうかが問題であり、結果が残るのと残らないのとでは評価が大きく変わるからである。それは石橋湛山の「満州放棄論」も同様である。主張を展開することと、それを実現することとは異なり、かつての日本政府が石橋湛山の論を実行したなら、かなり大きく評価されるべきだが、そうした主張があったというだけではやや弱い。また、宮崎滔天が孫文の革命に参加したのは当時の日本政府の要請だったのか、という点も重要だ。政府の政治的な行為のレベルで革命を支援したのか、そうでなく単に国籍が日本である人が協力したのか、ということでは雲泥の差がある。(私はそれらがどうだったのか十分には知らない。)

つまり、「侵略」をしたとされる場合、その責任は日本政府に帰属され、政治的には日本国籍保有者が最終的に政府に責任を果たさせる政治的な義務を負う。それに対して、日本政府自体が、アジアの革命を支援してきたのか、そうでないのか、ということは、日本政府の功罪を勘案する際の判断材料となるだろう、ということだ。



 対中経済支援はODA以外のものを含めると、内訳は以下のように膨大なものになる。79年~2005年で円借款供与=約3兆円、79年~95年のエネルギー借款(三回)=1兆7000億円、79年~05年の無償資金供与=約1500億円、二回の「黒字還流借款」=2800億円、旧日本輸出入銀行の低利・長期返済の中国向け融資約3兆円で、総計約8兆1300億円、すなわち人民元高の現時点での単純元換算でも約5685億元にまで達する。(p.43)


かなりの協力であることは確かだが、日本政府の毎年の一般会計予算の10%の規模でしかない。そう考えると意外と少ない気もする。もちろん、古い時代と今では物価が違うから、もっと大きいわけだが。

しかし、多いか少ないかは別として、やはり中国政府には中国国内でこうした活動について、きちんと報告してほしいものだとは思う。

【追記 2008.2.17】

ODAなどに関しては、次のことを付け加えておきたい。

例えば、橋・空港などがODAなどによって作られたかどうか、ということは、日本国内を見ても知らない。実際、日本にも世界銀行からの融資を受けて作られたものがあるが、そのことを私たちは普通、知らないだろう。その意味では、しばしば、日本の反中右派は「中国政府は日本からのODAを宣伝しない」と騒ぐことがあるが、それは行きすぎていると言える。

ただ、外国に対するイメージというものは、かなりの程度、政府とメディアの報じ方によって影響されるものなので、ナショナリズムが暴発しにくくするためにも、中国政府は日本政府からの援助を、国内でもう少し強調した方が良い、というのが私の考えである。



 感情論からいえば、こうした傾向こそが自然であることがわかる。すなわち対日感情の基本的な枠組みは<感情悪化一辺倒>ではなく<感情の多様化>である。そしてステレオタイプ化されていた<対日イメージの流動化>である。この点では過去の日本(人)イメージと現在の日本(人)イメージの断絶の問題にぶつからざるをえない。つまり「日本の過去」の批判〔誤解もある〕をベースにして現在を非難するというネジレに気づき始めたともいえるのである。(p.66-67)


近年の中国における、日本に対するアンビヴァレントな感情をうまく整理している。

過去の悪いイメージと現在の良いイメージをどのように結びつけたらよいのか、中国側の多くの人びとの間には戸惑いのようなものがあるように思う。

中国ではナショナル・アイデンティティが妙に強く植えつけられているから、「中華民族」とか「中国人」という想像上の共同体と個体としての自己とが混同ないし一体化した理解がなされる傾向があると感じるのだが、それが上記のディレンマを助長していると思う。



 最近の目立った動向としては、海空軍力の強化が指摘できる。米国情報によるならば、たとえばキロ級新式潜水艦八艘をロシアから購入、国内でも新型「元」級を含む十四艘を建設中、さらに移動式弾道ミサイル唐風31号が他と潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)「巨波(JL)」二型を装備中といわれ、潜水艦攻撃能力は大幅にアップしている。(p.73)


台湾、南沙諸島、尖閣諸島といった海に中国の対外的な問題が多いことが、このような空海軍を強化する要因だろう。内陸のチベットや新疆はあまり武力的には大きくないだろうしハイテクでもないし。



 要するところ、「国連安保理常任理事国入り」それ自体は、国連加盟国のあいだのきわめてシビアな政治の問題であって、拠出金が多いとか、国際貢献がどの程度だといった問題とはまったく別種のものであり、米国さえもリアルに政治的にこの問題を考えていたことを日本はしっかりと認識しておくべきであった。言い換えるならば、もっとシビアでリアルな政治駆け引きをしない限り、この問題は突破できないということなのである。(p.170-171)


日本の外交には戦略がないことに最大の問題があるが、戦術的にも全くダメだ。ここ数年の常任理事国化の動きは、ネットなどで知りうる限りの情報では、明らかにうまくいかないということが素人でもわかる状態だった。

外務省がもっとしっかりすべきなんだがなぁ。政治家は確かに選挙された代表としてある程度のビジョンを持ち、それを示すべきだが、所詮は個人である。組織の力の方が本来は大きいはずであり、恒常性を持ちうる。組織としては、地域別にセクションを分けるよりも、課題や問題ごとに適切に分担するような、柔軟性が必要なのかもしれない。



ASEANは日本がもっと大きな役割を果たすことを、中国のプレゼンスが大きくなっている今こそ望んでいるのである。「東アジア共同体論議」についても、ASEANは中国のプレゼンスの増大に対してある種の不安を抱いている。このような局面において、日本が明確にイニシアティブをとることを望む声はASEANのなかに少なくない。
 しかし日中首脳の対談がなされないなかで、中国とASEANとの関係が深まり、また中国と韓国との関係が深まる。そこに日本のプレゼンスが示されない。対照的に、六カ国協議を見てもわかるとおり、中国のプレゼンスはますます大きくなっている。こうした状況が続けば、いずれASEAN諸国の日本への失望が表出するだろう。(p.173)


ASEANとの関係というのは、日本国内ではほとんど議論されることがない。そうしたことが議論されないことが本当はおかしいのではないか。そして、議論されないから、そうした諸国が何を望んでいるのかが見えない。上記の引用文ではASEAN諸国が日本のプレゼンスを求めているとされているが、日本の中にいるとそうしたことはまず見えない。そういう盲目の状態を続けるのは非常にまずい事だといわなければならない。



 アジアにおいて日本が重要なプレゼンスを継続するということは、実は米国の対日重視を継続させる鍵でもある。そういう捉え方が必要である。アジアに対して日本が重要な影響力を持っていれば、米国は日本に対して、いろいろな形で頼りにし、アジアで米国の意思をある程度日本を通して実現できる、そういった対日重視というものの維持が可能となるだろう。
 しかし、日中の対話がなされず、日本のアジアにおけるプレゼンスが低下していけば、もうこれは日本を頼っても仕方がないと考える。すると当然、アジアでもっとも影響力が強い中国と直接交渉するしかないという議論になっていく。(p.173-174)


同意見であり、日記編のブログに概ね同じ趣旨のことを書いたことがあると思う。複雑ネットワーク研究の知見から言っても、この分析は妥当である。アメリカから直接アクセスできないノードに対して日本を通してアクセスできるならば、アメリカにとって日本は重要なパートナーということになるが、そうしたものがないならば重要性は低くなる。

実際、既に日本は見限られる方向にあり、中国がアメリカの最大のパートナーとなる方向に次第に動きつつあると私は見ている。アメリカにとって中国と日本の「重み」に決定的な差がついたとき、日本の本格的な転落が始まり、中国は東アジアでの覇権をアメリカから部分的に受け継ぐだろう。かつてイギリスからアメリカに覇権が移ったように。(もっとも、次に来る秩序は一極的な覇権は成立せず、幾つかの「地域大国」が並立する多極的な秩序になるだろうから、イギリスからアメリカへの移行とは同じではないけれども。)

それを防ぐためには、アメリカに追従するのではなく、アメリカ以外の国々との関係を構築することが鍵になるのである。

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田岡俊次 『2時間でわかる 図解 日本を囲む軍事力の構図 北朝鮮、中国、その脅威の実態。アメリカの軍事覇権の将来は?』(その5)

 在日米陸軍のうち、戦闘部隊は沖縄の特殊部隊一個大隊約300人だけで、他のほとんどは情報や補給要員だ。「グリーン・ベレー」として知られる特殊部隊は沖縄を守るためにいるのではなく、有事の際に敵前線の背後に落下傘などで潜入して情報収集や破壊活動を行うのが任務で、待機・訓練場所として沖縄を使っている。また第三章で述べたように、アメリカの情報機関NSAは青森の三沢基地や沖縄の楚辺・トリイなどに受信局をもち、2000人以上の米軍人が勤務している。この勤務者を含め在日米陸軍の情報要員は約500人とみられる。
 沖縄の海兵隊は「第三海兵遠征軍」の名が示す通り、防御兵力ではなく、上陸作戦を行なう部隊で、米海軍第七艦隊(横須賀と佐世保が主要基地)の担当区域である西太平洋・インド洋全域に出動するために、沖縄を待機・訓練場所としている。米議会では80年代、「日本がアメリカの保護にタダ乗りしている」との批判が強く、81年9月21日の米上院歳出委員会でも、「沖縄に海兵隊を置いて守る必要があるのか」との質問も出たが、カールーチ国防次官が「沖縄の海兵隊は日本防衛のために配備しているのではありません」として、西太平洋・インド洋全域へ派遣するために沖縄に待機させていることを説明している。これは正確な答弁だ。(p.245-246)


在日米軍は日本の防衛のためにいるのではない。このことはよく知っておく必要がある。非常に誤解が多い点である。親米保守の立場から、ネオコン的な政策の正当性を訴えるときに、この誤解が利用されることが多いが(例えば、アメリカに守ってもらっているから逆らえないとか、アメリカに守ってもらうだけでは片務的だから改憲が必要だとか)、彼らの主張には根拠がないのである。




 これだけ異常に手厚い待遇を受けながら、アメリカ人の間には、「アメリカは日本を守る義務があるのに、日本はアメリカが攻撃されても助ける義務がない。日米安保条約は片務的でけしからん」という声が出る。日本人の中にもオウム返しに「片務性」を言う親米派が少なくない。
 しかし、これは基本的に間違った非難だ。第一に在日米軍は、在韓米軍や冷戦時代の在独米軍が、駐留する国を守ってきたのと違い、日本を守る部隊を置いていない。日本の基地は他国への出撃拠点、補給基地なのだ。第二に、基地の提供に関しては日本が片務的に義務を負っている。第三に、他国にほとんど例のない巨額の補助金を交付している。もしもアメリカが攻撃された場合、日本がアメリカを助ける義務を負い、それで双務的、と言うならば、基地の提供も双務的にしなければなるまい。ハワイのパールハーバーやカリフォルニアのサン・ディエゴの海軍基地を海上自衛隊の管理下に置き、その維持費をアメリカが支出することにしなければ、外交の原則である「相互主義」にならない。もちろんアメリカはそんなことを望まない。(p.256-257)


基地の提供に関しても、筆者の言うことは正論である。



 通常戦力の分野では、日本が米軍に防衛を依存しているところはほとんどないとはいえ、核抑止に関しては、少なくとも名目上はアメリカに全面的に依存している。・・・(中略)・・・。特に北朝鮮のように、アメリカに届く核ミサイルをもたない相手に対しては、アメリカはほぼ確実に報復するだろう。核を使わなくても、航空攻撃など通常戦力でも相手は壊滅する。核対策に関しては、「日本は核武装しない」、その代わり「どこかの国が核を日本に使えば、アメリカは報復する」という、まず対等な取引関係が存在すると言えるだろう。(p.257)



この点も誤解されがちだ。日本側からしか見ない場合、「日本が核武装しない」ことがアメリカにとってメリットがあるという発想にならないからだ。アメリカ側から見れば、日本のような「隣国」が核武装することは非常に都合が悪いことなのだ。そこを理解することが必要である。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

田岡俊次 『2時間でわかる 図解 日本を囲む軍事力の構図 北朝鮮、中国、その脅威の実態。アメリカの軍事覇権の将来は?』(その4)

 日本も現在の防衛力整備計画(2001~05年)で、「ヘリコプター搭載護衛艦」という名目で軽空母(基準排水量1万3500トン)の建造計画を進めている。満載の場合1万8000トン程度となるはずで、イギリスのインビンシブル級の軽空母に近く、第二次大戦中の空母「蒼龍」と同等だ。垂直離着陸戦闘機・攻撃機とヘリ計20機近くは搭載可能だろう。日本は54隻、世界第二の水上艦部隊をもっているが、空母をもたず、米海軍の有能な助手でしかない。そこで海上自衛隊には、自立の象徴として軽空母をもちたいという願いがある。だが、軽空母をどこでどう使うか、説明がつきにくいため、「ヘリ四機搭載」などと言っている。本当にそうなら、ひどく効率の悪い艦ということになる。(p.190-191)


自立の象徴というが、そうやって増強した軍備は結局、米軍の援助のために使われるのだから、自立にはならないだろう。政治家や官僚がアメリカから自立しない限り、自立は不可能である。逆に、日本が軍備を増強すればするほど、アメリカにとって使い勝手の良い道具になっていくのであり、ますますアメリカへの従属が強まる。このことに気付くべきだろう。



 NSAの情報収集活動の対象は、もともとソ連と共産圏だったが、冷戦後の90年4月、当時のウェブスターCIA長官は「日本やヨーロッパ諸国など経済上の競争相手に対する情報戦略を扱う企画調整局を設けた」と述べ、情報機関がアメリカ経済に貢献することをアピールした。92年4月には、当時のゲーツCIA長官が「業務の約四割、予算の三分の二を経済分野にあてる」と演説した。その後、NSAとイギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド五ヶ国による盗聴網「エシュロン」が、ドイツ・フランスなど非英語圏の通信を盗聴し、経済競争に利用している疑いが強まり、EU(ヨーロッパ連合)が調査に乗り出した。2000年にEUは、その疑いを証明する専門家グループの報告書を受理している。
 日本の通信も、特に国際電話はほとんど盗聴されていると考えなければならない。エシュロンは、同時に六百万回線を傍受できると言われているのだ。(p.206-207)



アメリカは自国の覇権を維持するために、なりふり構わぬようになっている。本書の立場は、アメリカの派遣は強固であるという立場だが、私はアメリカの覇権は既に衰退過程に入っており、こうしたなりふり構わぬ動きは、そのことの兆候であると考える。




 青森県の米空軍三沢基地は、イギリスのメン・ウィズ・ヒル基地、ドイツのバド・アイブリング基地などとならぶエシュロンの拠点の一つだ。基地内の「セキュリティー・ヒル」という一角には、衛星追尾用のアンテナを収めた直径15~30メートルの球形のドーム、通称「ゴルフボール」(209ページ)が白いキノコのように17基も並んでいる。冷戦終了後にかえって増えていることは、経済情報活動の活発化を示しているようだ。三沢にはNSA、米陸海空軍・海兵隊の通信情報要員が計1500~1600人いて、沖縄も含めると、日本にいる米軍の通信情報関係者は2000人以上と考えられる。
 95年6月、当時の橋本龍太郎通産相がジュネーブでミッキー・カンター米通商代表と自動車問題で交渉した際、CIAが橋本氏と通産省や自動車会社との電話を盗聴し、アメリカ側が交渉に成功した(実際は日本がアメリカの要求を拒否)とロサンゼルス・タイムズが報道したことがある。次いでニューヨーク・タイムズは「盗聴したのはNSAで、CIAはそれを要約して届けただけ」という趣旨の記事を載せた。手柄争いでそれぞれがリークしているようだ。
 日本政府はアメリカに事実の確認を照会したが、回答を拒否された。否定しないのはスパイ行為を認めたも同然で、日本は少なくとも通信情報部隊要員2000人分の「思いやり予算」を削減する姿勢を示すべきだったろう。日本政府は在日米軍経費の70%以上を負担し、それには傍受施設の光熱費や日本人基地従業員の給与も全額含まれている。(p.208)


日本政府は、自国の経済情報を盗聴している組織を養っている(支援している)わけだ。全く馬鹿げている。




 また、「テロは絶対悪だ」とアメリカ人が言うと、多くの日本人もついそのように考えるが、アメリカも自国に有利なテロ集団を「自由の戦士」(フリーダム・ファイターズ)と呼んで半ば公然と支援していることは、日本でもさほど注目を集めない。
 たとえばアメリカはフセイン政権を倒すため、イラク領内のクルド人の反乱やフセイン政権権力者の暗殺などの活動を支援してきた。「イラク解放法」という法律をつくり、予算もつけているから公然たるテロ支援だ。ところがトルコ領内にも同じクルド人が1200万人ほどいて、一部は独立を求める武力闘争をしていた。その指導者、トルコのクルド労働党党首オジャランは98年2月にケニアのナイロビで逮捕されトルコに送還されたが、その逮捕にアメリカ、イスラエルの情報機関が協力したと言われている。アメリカは同盟国のトルコで活動するクルド人は「テロリスト」、イラクで活動するクルド人は「自由の戦士」と呼ぶ。国境付近のクルド人戦士はどちらなのだろう。
 アメリカのテロリストの定義は実に単純明快で、アメリカの敵となるのが「テロリスト」、そうでないのは「レジスタンス」や「自由の戦士」だ。客観的にみれば、ソ連なき後、アメリカは世界一の「テロリスト」あるいは「自由の戦士」支援国だろうが、他国の政府がアメリカの自己中心的な定義を素直に受け入れているのは驚くべきことだ。これもアメリカのメディアのイメージ形成力の強さを示している。(p.217-218)


メディアの力もそうだろうが、アメリカの政府が世界中の各国の政府にかける各種の(顕在的および潜在的な)圧力がその背景にあるのだろう。

ただ、私としては、親米的な連中には、このことについてどう考えるのか、問い詰めたいとは思っている。

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田岡俊次 『2時間でわかる 図解 日本を囲む軍事力の構図 北朝鮮、中国、その脅威の実態。アメリカの軍事覇権の将来は?』(その3)

 また、日本の海上保安庁は1000トン以上の大型巡視船だけで42隻をもち、アメリカの沿岸警備隊の44隻に次ぐ世界第二の水上警備部隊だ。ヨーロッパ諸国では、海上保安庁と似た性格をもつ陸上の国境警備隊は準軍隊とみなして、国防費に含めて比較するのが一般的だが、日本ではその予算は国土交通省の予算に含まれる。このような巨大な水上警備部隊をもつのはアメリカと日本だけで、海上保安庁は、大西洋・太平洋の両岸を守るアメリカの沿岸警備隊に比べて密度は高い。イギリス海軍は32隻の駆逐艦・フリゲートだけで日本の海上保安庁の機能もはたしている。(p.128)


隠された軍事力(防衛力)ないし軍事費が日本にはあるわけだ。




 中国の中央政府の歳入はGDPの7.2%(税収6.8%、税収外0.4%。1999年)で、他国に比べてきわめて低い。日本政府の歳入のGDP比は20.4%、アメリカは21.2%、ヨーロッパ諸国は30~40%台になる(131ページ)。GDPに占める政府の歳入の率は、その国がどれほど社会主義に近いかを示すものと言えるだろうが、中国は主要国の中でもっとも社会主義化していないという奇妙な形になっている。(p.129)


これは地方政府と社会保障基金まで含めて比較するのが妥当なのだが、中国はこうした基準で見た場合、「社会主義的」でないのは、確かだと思われる。

ここ数年の携帯電話産業などの様子を見ても、中国と日本を比べると面白いことが観察できる。日本の携帯電話産業は世界最先端の技術を持つが、計画経済的に生産されているのに対して、それより遅れた中国の携帯電話産業は極めて市場経済的であり競争的な環境にあることがわかっている。ステレオタイプ的に「社会主義」とか「資本主義」とか「市場経済」といった言葉を特定の「国」に対して当てはめることの愚かさをよく示す事例である。こうした用語を用いる場合には、その概念をある程度彫琢した上で、事実を比較しながら観察し、その概念がどの程度当てはまるか、説明する力があるかを示した後で使うべきなのである。

なお、恐らくこの産業の比較については、近日中にこのブログに関連記事をアップすることになるだろう。




 ところが、79年2月にイランでホメイニ師が指導するイスラム革命が起き、隣国のアフガニスタンにも波及した。社会主義政権に反感をもつイスラム・ゲリラが29州のうち21州を支配し、首都カブールを包囲するような状況になった。放っておけばアフガニスタンがイランに続くイスラム共和国となる恐れがあり、隣接する自国領内のウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンへの波及を阻止するため、ソ連はアフガニスタンに介入した。
 結局、88年5月にソ連軍はアフガニスタン撤退を開始し、70年代からソ連の経済停滞が表面化して西側諸国に差をつけられ、国民の自由が制約されていても、第二次世界大戦の戦勝の威光によって国民の信用をつないでいたソ連共産党政権は瓦解した。
 東欧の解放やソ連の自由化は、ペレストロイカを進めたゴルバチョフ元ソ連大統領の功績として、彼の人気はアメリカでは高いが、むしろ第一の功績者は、ソ連の軍事的威信を失墜させたアフガニスタンのイスラム・ゲリラや、その蜂起をもたらしたイラン・イスラム革命の指導者ホメイニ師と言えるだろう。ゴルバチョフは就任直後にはアフガニスタンで大攻勢に出て、問題を軍事力で解決しようとしたが、それが失敗に終わったため撤退を決め、その後東欧、国内でもずるずると妥協を重ねざるをえなかったのだ。(p.170)


アメリカや日本などでのゴルバチョフ人気は、事実認識という次元よりはイデオロギー的なものであろう。自分達が依拠するイデオロギーから見て共感しやすかったため、好意的に評価した。旧ソ連などで人気がないのは、より生活に密着したところで「被害」を受けたからだ。

また、イラン・イスラーム革命は、極めて大きな事件であった。イランを知らずして世界の動向を把握することはできないと私は考えるが、そのことを示す事例の一つだといえる。実際、この後もイラン・イラク戦争、湾岸戦争、パレスチナ問題、イラク戦争など、どれをとってもイランと無関係では済まないのだ。もちろん、アメリカ合衆国もだが。

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田岡俊次 『2時間でわかる 図解 日本を囲む軍事力の構図 北朝鮮、中国、その脅威の実態。アメリカの軍事覇権の将来は?』(その2)

 日本としては、第一の当事者は韓国であることを念頭に置いて、北朝鮮に対応していくべきだろう。韓国が、北朝鮮の崩壊が自国の経済的破局につながることを警戒し、北朝鮮に経済援助をして体制は温存する代わりに、核開発をやめさせようとするのが合理的である以上、日本は、時に手法や順序で意見が違っても、基本路線では同一歩調をとるしか方法はないだろう。北朝鮮に残る拉致被害者とその家族の問題も、その過程の中で解決へ向かうはずで、ただただ北朝鮮を非難、排斥し対立を深めても、拉致問題が解決するとは考えにくい。(p.112)


概ね同意見である。日本では、報道のされ方などの問題もあるが、他国の視点に立った考察や、国を超えた枠組みから考察をするという習慣が全くというほど確立していない。極めて一面的で感情的かつ目的非合理な意見がしばしば見られる。

国単位でものを考える際にも、実際には「国のイメージ」を相手にしていながら、そのイメージを「国である」と実体化した上(「中国は●●な国(一党独裁国家、共産主義、人権抑圧国家等々)だ」とか「北朝鮮は●●な国だ」という本質主義的で「根本的属性認識錯誤」に基づく見解)で、かつ、それに無自覚な状態で言論を撒き散らす(だから自分の意見を信じ込んでおり、手に負えない)ということが往々にして見られる。

正直に言って、一般庶民がこの人間が陥りやすい錯誤を回避することはかなり困難だと思う。情報を流す側も政治的な問題に関しては、政治家という「国家主義」の発想からは立場上逃れられない人々と結びついた状態で流されるがゆえに、元のソースが「国家主義」の刻印を持つこととなり、それを脱構築なり再構築なりして報道することは困難だろう。そうした作業が介入することで理論化傾向が上がるので、新聞やニュースには適さないからであり、また、日々の仕事に追われるジャーナリストが毎回そうした知的作業を介在させることも限界があるからである。時間性からいって複層的なメディアが展開する(中長期的な視点からの時事評論も併在する)ことで、この難点は多少なりとも回避できるが、それでも時間性が長期になるほど知的に高い階層にしか届かないだろう。しかし、高い階層から情報が流れることが多い以上、無意味ではない。

つまり、ジャーナリスティックではなく、速報性をそれほど重視しないタイプの報道で、国家主義の刻印を超えるようなものが出てくる必要がある。しかし、テレビなどは財界(スポンサー)の意向が反映されることになるので、そうしたことも容易ではなかろう。簡単な解決策がない中でどうすべきかが問題となるが、やはりまずは学問的な世界でこうした誤った常識を覆し、知的世界から情報を発信していくことが望まれる。(すでにかなりやっていると思うが、文学系の「比較的いい加減な世界」から右派の論客が出ているので、歴史学や社会学などのもう少し事実との関係性の高い学問分野から、そうした分野への批判もあってよいのではないか。もう一つは経済学や財政学だが、それについては今回はふれない。)

もう一つは、他の国ぐにに行き、情報統制と民衆の係わり合いを見てきた経験から言えることは、その国に住む人が自国のメディアで報道されている内容にどのような偏向があるかについて、知識を持っており、それに対する自覚の程度が高ければ高いほど、メディアを批判的に読み解き、また、より幅広くより精度の高い情報や知識を求める傾向があるように思われる。その意味で、日本の場合にも、大して報道の自由度が高くないことやその理由についてよく知られる必要があると思われる。




 1980年代のアメリカは、対ソ連戦略上の「チャイナカード」と称して、中国の軍事力の近代化に協力した。(p.118)


中国の軍事力増強に対して批判・懸念する人々は、こうしたところからも批判すべきだろう。日本に跋扈するそうした言説が表面的で場当たり的なのには辟易する。




 日本人は冷たい国際政治の感覚に弱く、好き嫌いやイデオロギーで考え、外国を好きになったり信用したりしがちだ。(p.121)



その通りである。ただ、外国の人々も庶民は大抵そうである。国際政治の感覚が鋭いエリート層がどれだけいるかが重要なのではなかろうか。国際政治なんて、普段の生活では直接感得されないことなのだから、一般庶民にそこまで求めることは難しいだろう。

ブログのような庶民の言論の場でイデオロギー色が強いことも、こうした傾向の反映だと思われる。これは右派だけでなく左派にも言えるが、現在の社会における事実との整合性を考える限り、左派系のイデオロギーの方が事実に近く、解決の方策にも適合的であるとは言える。ただ、その場合でも、できる限りイデオロギー的であることを自覚することは重要であり、それを促していく必要はあるだろう。



 かつての日本では日英同盟(1902~21年)が絶対視された。当時の外務省は、「日英同盟は日本外交の“骨髄”である」と言っていた。いまは「日米同盟は日本外交の“根幹”である」と言う。動物が植物に替わっただけだ。
 結局、日英同盟はイギリスから打ち切られた。ロシア革命(1917年)と第一次世界大戦(1914~18年)によって、当面ロシアとドイツの脅威が消えると、同盟の必要はなくなり、アメリカは日露戦争後、日本に対する警戒意識を高めつつあったので、イギリスが日本とアメリカのどちらをとるかを迫られれば、日英同盟を更新しないのは当然だった。
 日本は次にドイツを信用して裏切られた。日独防共協定(1936年締結)を強化し、日独伊の三国同盟にするドイツの提案に日本が乗ろうとしたとき、ヒトラーが突然ソ連のスターリンと独ソ不可侵条約を結び(1939年)、日本の時の首相・平沼騏一郎(現、平沼赳夫経済産業大臣の義父)は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」と言って政権を投げ出してしまった。思想検事出身の平沼には、ナチスと共産主義者がイデオロギーの違いをこえて手を結ぶことは理解できなかったのだろう。だが、現実の国際政治は“利害の打算”で動くのであり、その観点から見ればポーランドの分割などでドイツとソ連の利害が一致し、不可侵条約を結んだことは少しも複雑怪奇ではなく、むしろわかりやすいことだった。(p.121-122)



日米同盟至上主義者や中国を共産主義・一党独裁などとして非難・排斥する人々は、こうした歴史的事実を重く見るべきだろう。日米同盟が米中関係を深めるのに邪魔だと思えば、将来的に破棄されることもありうる。中国と敵対関係を続けることは、将来的にはアメリカとの関係にも楔を入れる可能性がある。

両者から適度な距離を保ちながら、多国間関係の枠組みを構築することが基本的な路線とすべきだろう。

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田岡俊次 『2時間でわかる 図解 日本を囲む軍事力の構図 北朝鮮、中国、その脅威の実態。アメリカの軍事覇権の将来は?』(その1)
2003年に出た本なので、個別の情報はやや古いが、著者の考え方には共感できるものが多い。

 「北朝鮮が核弾頭をまだ保有していないとしても、通常弾頭を搭載した中距離弾道ミサイル『ノドン』が、日本の原子力発電所に落下したら大惨事になるのではないか」という声がある。しかし、その確率はきわめて低い。
 原子力発電所の中核部分、原子炉の格納容器の半径は約20メートル、ノドンの半数秘中界は半径約二キロで、その100倍。面積は半径の二乗に比例するから、原発中心部の面積はノドンの半数必中界の1万分の1になる。しかも、半数必中界とは、発射したミサイルの半分がその半径の円内に入るということだから、二万発のノドンを発射して一発が中心部に当たる確率になる。まさに“万が一”の確率だ。(p.60)



私もここで批判されているような意見を持ったことがあるし、今でもそうした懸念は消えていない。その理由を簡単に述べる。第一に、ミサイルの命中精度は上がりうるのではないかと思うこと。第二に、中心部以外でもミサイルが当たれば、原子炉が異常動作を起こす可能性はあり、原子炉の壁は衝撃や振動にも耐えるが、原子炉の機械自体は振動や衝撃に強くすることができないと聞いていること。

もう一つ、私が原発と防衛との関係で懸念するのは、ミサイル以上にテロの標的にされた場合の懸念である。アメリカの911テロは自作自演だったという説もあるが、仮にそうでないとした場合、同じような攻撃は原発に対しても不可能ではなかろう。原発に勤務している人間にそれを言ってみたら、コンクリートの壁はそれにも耐えるようにできているということだった。しかし、度重なる原発の事故を見ると、それもどこまで信じられるのか?という思いが強い。また、ここでは書かないが、もっとソフトなやり方(攻撃法)もありうると思うので、いずれにしても攻撃対象とされた場合、大きな被害を引き起こしかねない施設であると考えている。

もっとも、原発の場合は戦争より地震の方が危ないとも思っているが。




 日本のTMD(83ページ)にはいくつかの問題点がある。まず第一はコストだ。四隻のイージス艦をSM3搭載用に改造し、航空自衛隊がもっている対空ミサイル「パトリオットPAC2」を、ミサイル迎撃能力を備えた「PAC3」に援装する場合、1兆3000億円かかり、イージス艦を八隻に増やすことになると2兆3000億円かかるとされる。日本の自衛隊の装備費は陸海空合わせて年間9000億円程度なので、他の艦艇も航空機も一切購入せず、すべてをTMDに注ぎ込んで二、三年分という話になる。防衛庁の高官が、「私の家の風呂に象が入ってくるような話」と言ったことがある。五ヵ年計画だとしても、装備費の三分の一から半分をTMDに投じなければならないとなると、日本の防衛力は強化どころか大打撃を蒙ることになるだろう。TMD分の防衛費を増やせば別だが、それも財政危機の中でできそうにない。(p.82)



ミサイル防衛は金食い虫であり、ほとんど役に立たないMDに金をつぎ込むことは、純粋に財政の面から見ても、また、防衛力の面から見ても、マイナスであるように思われる。得をするのは、日本政府にミサイルを売りつけることができる日米の軍需産業(と、そこから接待してもらう防衛官僚、防衛族議員)くらいのものだろう。

そもそも、攻撃用のミサイルを改良する方が簡単なので、どんなにミサイル防衛を頑張ってみても、防ぎきれるものではないのだから、コストパフォーマンスが異常に悪いやり方である。こんな不合理なことをやっているということは、必ず何か「裏」があるということだ。




 NPTが生まれたのは冷戦たけなわの時期で、ベトナムでアメリカが苦戦し、ソ連が北ベトナムに莫大な軍事援助を行っているさなかにも、米英とソ連が核拡散防止では協力したのは、発電用原子炉は輸出したいが、他の国ぐにが核兵器をもつのは困るという双方の思惑、特に経済復興の著しい日本と西ドイツの核武装を阻止したいという狙いがあったためだった。
 NPTの順守を査察するためのIAEA(国際原子力機関)には約200人の査察官がいるが、そのうち約100人は対日査察員だ。東京・九段の事務所には約10人の査察官が常駐し、その他は必要に応じてウィーンの本部から派遣されてくる。現在ではIAEAの業務の二割以上が日本監視だ。ドイツはヨーロッパの原子力機関「ユートラム」に加盟し、その査察を受けているため、IAEAはドイツについては査察の一部だけを担当している。
 インド、パキスタン、イスラエルも核兵器を保有しているが、はじめからNPTに加わらなかった。日本が北朝鮮に続いてNPT脱退を宣言すれば、NPT体制は根底から覆る。旧ソ連の経済力は実際にはアメリカの四分の一程度、フランス並みでしかなく、技術水準もほとんどの分野でアメリカよりも低かったが、日本のGDPはアメリカの約半分であり、独・仏・英を合計した額に近い。全般的技術水準も旧ソ連より相当高いので、日本が核武装に踏み切れば、アメリカにとって旧ソ連と同様か、それ以上の軍事的ライバルの登場とみなされるだろう。
 93、94年頃、北朝鮮の核開発疑惑が出て、米国議会では北朝鮮の核施設に対する航空攻撃が論じられた。一部の政府高官を含む強硬論者は、「北朝鮮の核武装を放置すると、それを口実に日本が核武装する」と危険を訴えた。北朝鮮のような崩壊に瀕した最貧国の脅威を述べたててもアメリカ人の関心は低いが、「日本が核武装」といえば、「それは大変。北朝鮮を早めに叩くほうがましか」と思う効果を狙ったのだろう。(p.88-89)



NPTが日本や西ドイツを封じ込めるための手段だったことは銘記されるべき。

それ以上に、アメリカ(政府も一般の人々)も基本的には日本の核武装に対しては否定的であり、実際の政策から見ても、アメリカ政府に逆らいうるような手段を持つことに対して容認的な態度をとるとは考えにくい。アメリカ政府の中には、日本の軍事力を活用しようという意図はあり、その意味で日本の軍拡を支持する勢力もそれなりにいると思われるが、核武装まですることには否定的な者が多いはずである。

ついでに言っておくと、イスラエルは核を持ってもアメリカに攻撃するのは難しいが、日本の場合は隣国だというのもある。




 「憲法や法律の制約があるから、相手のミサイルへの先制攻撃もできない」と、タカ派の政治家や一部の新聞は言い、「トマホーク」の導入を求める声もあるが、実は法律や攻撃手段以前に、発射前に弾道ミサイルを発見することが技術的に不可能に近いのだ。このため防衛官僚たちはタカ派議員たちを「彼らはタカ派というよりバカ派ですな」と笑うが、正確な答弁を大臣にさせずに、適当に調子を合わして陰で嘲笑するのは責任感に欠ける。しっかり説明すれば、彼らにも国民にもわからないはずがないのだ。(p.91)



日本では軍事や防衛の議論は、何でも法律論になってしまう傾向がある。法律のレベルでの「できる・できない」の議論と技術的なレベルでの「できる・できない」の議論が混同され、整理がつかなくなると、上記引用文のようなタカ派の主張がでてくる。

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毛里和子 『日中関係 戦後から新時代へ』(その2)

 1971~72年の米中交渉では、周恩来もキッシンジャーもニクソンもきわめて率直だ。とくに米中のリーダーが語る赤裸々な対日戦略や日本像が興味深い。
 周はキッシンジャーに対日警戒が必要だと切々と訴える。・・・(中略)・・・
 これに対しキッシンジャーは、米軍の存在が日本の軍事力強化への抑止弁になり、日米安保条約はまさにそのためにあるとくり返す。いわゆる「瓶のふた」論である。彼は、在日米軍の撤退を求める周にこう答える。「私が大学で教えていた理論からすれば、我々が日本から撤退して日本に再武装を許し、太平洋の向う側で日本と中国に互いの力のバランスの崩し合いをさせる、というのは筋の通ったことかも知れません。でもこれは我々の政策ではありません。日本が大々的に再軍備をすればやすやすと1930年代の政策をくり返すでしょう」(七月九日)。
 翌年二月ニクソンも・・・(中略)・・・「[しかし]保障はできませんが、われわれは日本に対してきわめて強力な影響力を行使できるし、われわれの政策で、日本に、朝鮮や台湾に対する冒険をさせないようにできると確信しています」と述べた(1972年2月22、23日。W.バー編・2003)。



アメリカにとっての日米同盟(日米安保条約)の意味は興味深い。日本の軍事力増強をさせないために米軍を置いておくという意図が当時からあったということ。90年代以降、米軍再編に伴う米軍の相対的な撤退とともに日本に再軍備の要求を出していることと対応している。

また、アメリカが日本をコントロールできると考えており、実際にそれを行ってきたことにも注目してよい。アメリカが日本にとってどのようなパートナーなのか、よく考える必要がある。アメリカの都合で日本を利用しようとする意図は常にアメリカには存在する。日本政府に、それに対抗する戦略があるかどうかが問題であり、それをもたなければならない。




 他方中国にとっても、日本がOECDの開発援助委員会(DAC)諸国中最大の援助国であり続けている。・・・(中略)・・・
 日本の圧倒的シェア(42%)は、80~90年代半ばまでの中国近代化建設で果たした日本の役割が決して小さくなかったことを如実に示している。ちなみに同時期の米国政府の対中借款は、1件、2300万ドル、全体に占めるシェアは0.1%にすぎず、順位にして20位である。(p.114-116)



この点は重要であり、日本側がもっと主張してよいことかもしれない。79年から95年6月までの累計についての日本のシェアは41.91%であり、他国を圧倒している。ドイツ、9.86%。フランス、8.42%、スペイン、7.89%。イタリア、6.98%と続くからだ。これら4カ国を合わせた以上の割合を日本一国で占めている。




 内外ダブル・スタンダードが崩れてくるのは、新ナショナリズムが公然と主張され始めてからである。
 とくに戦後半世紀たった90年代半ばが転機となった。衆議院で「戦後50周年決議」の動きが始まると、自民党保守派議員の間で「歴史の見直し」の動きが活発になる。(p.170)



内外ダブル・スタンダードとは、国外に向けては反省とお詫びを表明しつつ、国内に向けてはA級戦犯も戦争の犠牲者だった、とか、太平洋戦争は侵略戦争ではなかった、といった主張がなされていた状況を指している。

自民党保守派が歴史修正に動き出した時期は大変興味深い。この時期の直前まで、自民党は下野しており、党内の極右勢力が政権与党としての責任を無視してやりたい放題、言いたい放題を言える状況になっていたと推察する。その上、政権にようやく復帰したと思ったら党内のリベラル派が村山談話などを出して、反省の論理を従来よりも強く主張したから、それへの反発が高まり、歴史修正主義が党内でも保守的な傾向の人々には支持されやすかった(反対されにくかった)という状況が想像される。

そして、再び政権を取った自民党は、メディアを通して世論操作も行えるようになり、それが続けられた結果、(さらにインターネットの普及という要因などもあるが)近年の過激で虚妄に満ちたナショナリズム言説が大量生産されるようになったのではなかろうか。

唯一の原因とは言わないが、現在の日本のナショナリズムが政界で特に顕著になっていることの理由は、こうした点に求めることができそうである。

(2015.1.18一部訂正)




台湾問題問いアキレス腱を抱える中国からすれば、米国との同盟関係を強めている日本が拒否権をもつ常任理事国となり、国際社会で中国と並ぶというシナリオは避けたいからである。(p.199)



日本の常任理事国化に中国が反対する理由の一つ。




龐によれば、戦前は脱亜入欧、戦後は脱亜入米で、日本はアジア・アイデンティティを喪失した。「多数の日本人は自分たちはアジアに住んでいるとは考えているが、自分が“アジア人”だと考えているとは限らない」(龐中英・2005、同2004)。



アジア・アイデンティティというもの自体、オリエンタリズムの所産であるから、それを「喪失した」とは私は考えない。もともとそんなものはなかったからだ。

しかし、その後の龐中英(ほうちゅうえい)の言葉は、確かに私自身にも思い当たる節があり、ギクリとさせられた。

もちろん、アジア人というカテゴリーもオリエンタリズムであり、そうした観念を抱くことがないこと自体にはそれほど問題はないと思っている。しかし、もし中国やその他の「東アジアや東南アジアの諸国」の人々の多くが「アジア人」という意識を形成しているとした場合、そこに日本の人々が加わっているという意識がないとすれば、それは問題でありうる。

また、それ以上に懸念すべきは、上記のような「アジア人」意識は実際には形成されていないとしても、日本の人々が「彼ら」としての「アジア人」に対して「われわれ」としての「日本人=欧米世界の一員?」という意識――ちなみに、これは冷戦時代の思考(「日本=西側=欧米の一員」という発想)でもある――からオリエンタリズム的な見下した姿勢を周辺諸国に対して持っているとしたら、どうだろうか?いや、実際にそうした見方が広く見られるのではないか?

現実の社会が各国の「追い上げ」によって、もはやそれを許さない状況になりつつあるところに、多くの素朴な(すなわち批判的でない)人間が、過激なナショナリズム言説に賛成し、国際社会では通用しない「内側の論理」を対外的にまで主張してしまっている要因があるのではなかろうか。

龐中英の言葉は、私から見ればオリエンタリズムの枠内にあり、その意味で私の思考の枠組みとは異なっており、彼の言葉には首肯できないところがあるが、その内実においては、日本の言論状況を鋭く指摘する良い言葉だと思う。




 だが一番大きな問題は、将来において中国がアジアの中の一員としてアジアとともに歩む、という保証があるわけではない点である。すでに述べたように、経済の急成長で大国化してきた中国では、超大国化をめざすラディカルな民族主義が大衆レベルで歓迎されている。経済力はグローバルだし、核を含む軍事力は着々と整備されている。これまで東アジアの国々を自らの“周辺”としてしか見てこなかった中国が、「周辺を地域に上昇させ、中国を地域の中に融合せしめ、地域と中国を融合させ、自分と周辺を区別しない伝統的な中華思想から脱し、[二国間の]“善隣友好”から“地域融合”政策に発展させる」(龐中英・2004)ことができるだろうか。(p.214)



日本の多くの人々がこの点を懸念していることだろう。確かに尤もである。私もこうした懸念がないわけではない。しかし、それが現実のものになるのは20年程度は先のことだろう。アメリカがヘゲモニーを持つようになったのも、19世紀の半ばから急速に経済発展した延長上で、20世紀前半の「三十年戦争」(1914年からの第一次世界大戦から1945年までの第二次世界大戦)を経た後のことである。それと同じように、ヘゲモニーを握るまでには長い年月がかかる。

中国がヘゲモニー国家となるかどうかさえ今では未定だが、アメリカが中国との関係を重要視するメッセージを発したことは、歴史におけるヘゲモニー移転の図式と一致している。しかし、中国は一人っ子政策の影響で30年後には人口構成が今の日本のような高齢化を急速に迎えることになる。移民を受け入れなければ、経済発展には限界がある。しかし、政治の改革の速度は遅く、ヘゲモニー国家に伴う自由主義は当面実現しそうもない。

そうしたこともあって、日本や他国を大きく凌駕したそのとき、中国のヘゲモニーは崩れる方向に向かうと私は見ている。その意味で、覇権の拡大だけに注目してもダメで、いかに経済発展の突出ぶりを適度に抑えながら、敵対関係にならないようにするかが重要だと考える。この辺についてのもう少し細かい点は別の機会に別の箇所で述べようと思っている。

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毛里和子 『日中関係 戦後から新時代へ』(その1)

 これらの諸国(引用者注;東南アジア諸国)への賠償はほとんどの場合、日本政府が賠償額に相当する生産物ないしサービスを日本の企業から調達し、それを相手国に提供する形をとった。つまり賠償には、戦後で与えた被害への償いというより、これを通じて日本の経済復興を実現し、他方で相手国の経済発展に間接的に寄与しようという狙いがあった。賠償する相手の東南アジア諸国は、日本にとってあくまで「市場」だったのである。その際、相手国の独裁政権と賠償にあたった日本企業との癒着が生まれた点も問題として指摘しておかなければならない。(p.12)



戦後責任の観点からも、戦後の日本の経済復興という観点からも、これは基本となる認識である。その際、東南アジアに市場が向かった要因として次の指摘は興味深い。

 きびしい冷戦の中、西側はソ連・中国などに戦略物資の禁輸措置をとった。1949年にはココムが成立、翌年12月には米国政府は「対中国戦略物資禁輸措置」を決め、日本はそれに同調した。・・・(中略)・・・
 日本の対中輸出制限は、カナダに次いできびしかった。中国大陸との経済関係を求める声は日本国内では強かったが、政府がそれを抑えたのは、工業力をもつ日本が中国などに近づくことを阻み、西側の同盟国として日本を確保しておきたい米国の戦略があったからである。米国も日本政府も、50年代から経済の主な進出先を大陸ではなく東南アジアに向けるようになる。(p.36)



こうして反共の防波堤として位置づけられることによって、日本の経済力は急速に発展していったのである。冷戦崩壊後の日本の経済の低迷は、この防波堤がなくなったことにより、日本の地政学的な重要性が低下したために起きた現象としての側面が強い。

85年のプラザ合意までは恒常的に円は安い水準に固定されていたために、日本の生産物は輸出に有利になっていた。これは今で言えば、人件費が安い中国の製品が有利な地位にあり、他国から工業生産を奪う形で「世界の工場」となっていることに相当する。円が高くなり、製造業などで「高度な技術を要する製品」以外のものは安い労働力によって作られる方がいいのだから、日本の立場(製造業の優位による高い経済的地位)がなくなっていくわけである。

この事態に一国レベルで対処するいかなる方策も、決定的にこの流れを転換させることはできないであろう。その意味で、日本が90年代以降経済的に低迷するのは半ば必然的であった。ただ、問題は、そこで政策を誤ったことである。アメリカの要望を次々と受け入れ、利用されるだけ利用されて捨てられようとしているのが、昨今の流れである。

財政赤字でさえ、アメリカが貿易摩擦を解消するために430兆円の公共投資をせよと日本政府に言ってきたことにまともに応えてしまった(しかも、その後、さらに200兆円ほど追加する約束までした!)ために、内容が熟慮されない公共投資が連発されたことの帰結ともいえる(★注)。それによって「公共事業」というもの自体への不信感が高まってしまい、日本政府は、政策のオプションを一つ失った状態が続いている。

ヒラリー・クリントンが先日、「米中関係は今世紀で最も重要な二国間関係」という趣旨の発言をしたが、この発言は日本の没落・切捨てと中国の台頭・優遇を如実に示していると思われる。

(★注)91年から2000年の投資規模430兆円を約束し、その後95年から2004年で630兆円に増額するよう改訂された。





 だが、対米協調か対米自立か、日米安保による安全保障か非武装中立かというような、日本の行き方や外交をめぐって国論が二分状況にあったことは、必ずしもすべてマイナスだったわけではなく、むしろ経済関係の一定の進展に見られるように、中国とのある種のきずなをつくりだし、この間の二国間関係を一種独特のものにした。(p.47-48)



この箇所は、多元的で重層的に外交を行っていたことの事例であり、今後の外交を考える上で示唆的なものを含んでいると思われる。

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豊下楢彦 『集団的自衛権とは何か』(その4)

 さて、マッカーサーは、占領を円滑に遂行するうえで昭和天皇の「権威」を利用するために、天皇制の維持に執念を燃やした訳であった。しかし、天皇制を残すことについて国際社会の了解を取りつけるためには、日本の非武装が不可欠の前提となった。この意味で、憲法九条と一条は“ワンセット”として位置づけられたのである。しかし実は軍事的なレベルで見ると、マッカーサーにあっては日本の非武装は沖縄の米軍支配と表裏の関係にあった。例えば、憲法施行から一ヵ月後の1947年6月、マッカーサーは外国人記者に対し、「沖縄諸島は、我々の天然の国境である」「沖縄に米国の空軍を置くことは日本にとって重大な意義があり、明らかに日本の安全に対する保障となろう」と述べた。さらに翌年二月、来日したワシントンの要人達に対し、沖縄を要塞化すれば「日本の本土に軍隊を維持することなく、外部の侵略に対し日本の安全性を確保することができる」と主張して、彼らの日本再軍備論を批判したのである(古関彰一『「平和国家」日本の再検討』)。

 その後、日本は再軍備の道を歩むことになったが、マッカーサー発言に鮮明に示されているように、実は憲法九条は沖縄の犠牲のうえに成り立ってきたのである。同じく、安保体制が、在日米軍基地の75%近くを、狭い沖縄に押し付けて維持されてきたことも周知のところである。すでに見たように安倍首相は安保体制について、米軍は日本を守るために「血を流す」のに、日本は米国のために「血を流す」体制になっていないと「片務性」を強調するが、こうした認識は、沖縄の歴史と現実を捨象したうえに成り立っている、と断ぜざるを得ない。(p.225-226)

日本の非武装・憲法九条と沖縄との深い関係については、本書によって目を開かされた思いがする。


 さらに沖縄は、新たな安全保障の枠組みを形成していくための前提をなす、北東アジアの信頼醸成を促していく上で、最もふさわしい拠点となり得るであろう。歴史認識問題や教科書問題がたえず軋轢を生み出している状況において、沖縄が歩んできた独自の歴史は、それらの問題を克服していくうえで沖縄に重要な役割を与えるはずなのである。なぜなら、沖縄の歴史は、朝鮮半島や中国のそれと重なり合う体験を経ているからである。(p.230)

大変興味深い指摘だ。


 そもそも、あれこれの国を「仮想敵」と設定して軍拡競争で勝ち抜こうという発想それ自体が、「テロの時代」以前の発想なのである。(p.235)

一理ある。そして、「敵の敵は友」という考え方も、この発想の一類型に過ぎない。

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