アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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杉作J太郎 『恋と股間』

「オレはひとりで生きていける」なんて粋がって言ってるヤツがいますが、じゃあそれ、おまえが六ヵ月とか一歳のときに聞きたかったわ、っていうことですよ。そんなセリフ、たまたまそいつが調子がいいから言ってるだけです。人が調子がいいときに立てたプランなんて長続きするわけがありませんっていうの。(p.18-19)


リバタリアニズムの思想などの大部分にこの批判は妥当するように思われる。



 男と女は、わかり合えなくていい。理解もしなくていい。共感も必要ない。
 でも、思いやろう。お互いに思いやろう。
わかんなくても思いやれるからすばらしいんじゃないですか。(p.40)


本書では男と女は別の生き物であるとする前提から出発している。多少の違和感はあるが、ある意味、それくらい大胆に割り切ったところから関係を構築していこうとする姿勢を取る方が良好な関係を築くことができるのかもしれない。そうした実践的なスタンスの一例としては本書は参考になるものがあった。

ただ、書かれた言葉に対して批判的に取り上げるとすれば、「思いやる」ことが適切な行為として成立するためには、相手に対するある程度の理解や共感は不可欠だとは思う。



 実際の場面ではね、もとから自分が持っていた「女性への理解」「男性への理解」というものが、好きな人の前ではいとも簡単にうちくだかれるのが恋愛ですよ。
 だから、「自分は異性への理解能力も共感能力も高い人間なのだ」と思い込んでいる人間ほど、恋愛の場面では足もとをすくわれます。
 自分はこの人のことが好きなんだな……と思ったらまず、自分が知らず知らず思い込んでいた「異性ってこんなもん」という「これまでの理解」は捨ててしまって、謙虚な気持ちで、相手に向き合いましょうよ。
 「自分は、この人にとってどうあればいいのかな?」という気持ちだけを羅針盤にして、「他者」という大海原を、ゆっくりと進んでいく
こと。(p.42-43)


ステレオタイプや過去の経験にとらわれることなく、個人としての相手にできるだけ直に向き合うという姿勢は重要である。本書を読んで思ったのは、一般的な人間関係においても重要な姿勢であり、この姿勢が的確にとれていればいるほど、相手の人との良好な関係を作りやすいのではないか、ということである。



 ふられるとわかっていても、それまで思う存分、気がすむまで相手を好きでいる。ふられるとわかっていても、ヘコたれずに、その人にふさわしい男になろうと努力する。一年後、やっぱりふられたとしても、これまでずっとその人に対して一生懸命であれたことで、きっとその男はひとかどの人物になれていますよ。(p.54)


本書の考え方のエッセンスが書かれている箇所の一つ。好きになった相手にふさわしい男になるよう努力することで自分の器を広げていくことが恋愛の意味であるとでもいうべき考え方。自分を高めていくためにすることだという考え方は、私にとっては非常にしっくりくる。

世の中に流布している恋愛に関する俗論には、この観点が欠けているものが多いように思われる。例えば、異性に好かれるため努力するということ自体はいろいろな雑誌などでも見られるかもしれないが、服装などの見栄えをよくしたり、センスの良い道具を持ったりすることで好感度を上げようとするような商売する側の人間の思惑が裏に隠された話も多く、そこには内面的ないし関係論的な成長の観点は欠如しがちであると思われる。



 童貞をいつ捨てるか。童貞は何歳で失うものなのか。
 これは、男にとっては大問題であります。
 ……(中略)……。
 しかし、きみたちは「早熟な恋の行方を描いたフランス映画」に出演している少年少女ではありません。主人公でもなければ、カメラが追っかけているわけでもない。
 映画でもあるまいに、おおっぴらにやってはいけないんです。
 なぜならば、プロ野球のチームでいえば、きみたちはまだ二軍選手なんですから!
 二軍時代からあんまりおおっぴらにやってると、まわりだっていい感じはしないでしょ?一生懸命ボールを追いかけることも知らないで、スポーツカーは乗り回すわ、セックスはしまくるわなんていった日には監督も気分が悪くて、もうこいつは一軍はないわと、見切りをつけられて当然です。
 だから、「童貞はいつ捨てるべきなんだろう?」という疑問への答えは、「自分はもう二軍じゃない。一軍選手になったんだ」というゆるがない確信をみずから持てるようになってから、となるでしょう。(p.72-74)


中高生を読者として想定している本シリーズならではの問いと答えである。私見もほぼ同様に考える。

ただ、一軍選手になったという揺るがない確信を持つといっても、客観的にその基盤となるものがなければならない。単なる思い込みだけの主観的な確信であってはならない。その意味では、自らの稼ぎなどで生活できることは重要なメルクマールであると考える。

(早期に経験してしまうというのは、早く大人になったかのような錯覚をもたらすかもしれないが、単に衝動的に行動する傾向が強く、自制する力に欠けているということを示していることが多く、むしろ精神的に幼い傾向があるからしてしまうものと思われる。近代初期までの時代では10代にはすでに稼働していることがほとんどだったから、思春期の問題は現在よりも生じにくかったかもしれないが、現代は教育にかかる時間が長いため、この部分に関しては問題として軽軽されることが多いと思われる。)



 どうして「恋愛」が生きている人間に必要なのかという話はこれまでにもしてきましたが、繰り返しますと、恋愛をすると、相手から自分を認めてもらおうとするために、人間は「自分」というもののいまの枠を無理やりにでも広げようとするからなんですよ。たとえ、不幸にもその恋愛が成就しなかったとしても、何かのスキル、何かのレベル、何かの関心をいまよりもアップさせたり広げたりしようとした、そういう痕跡が自分の中に残るんです。その痕跡、つまり、自分の身と心にきざんだ努力は絶対に、あとあと自分のためにもなるんです。
 なのに、何の無理も努力もしないで、「どうして、ありのままのオレじゃダメなんだろう?」という疑問なり不満なりを募らせてしまう場合もあるようですが、そんなに「ありのまま」が認められたいっていうのはね、それは「自分は赤ちゃんなんです」って言ってんのと同じだよ。成長しようという意志も行動もなくって、じゃあもう、一生バブバブ言ってろってことですよ。
 「自分はありのままで生きていくしかない」っていうのはね、さんざん努力も葛藤もしたけれどもうまくいかなくて、自分ではどうしようもなくなった人間がぎりぎりのところから再び生き直すために、それこそ捨て身の努力で獲得する思想なんです。なのに、何の苦労も努力も試そうとしない人間が、いま自分がいるところから一歩も動かないで、楽して何かを手に入れようなんてね、世間をなめちゃあいけません。(p.121-122)


本書の考え方が端的に要約されている箇所。



 だんだん何の話をしているのかわからなくなりましたが、要は、その内容はともあれ、女性があれこれ注文や要求を出すことそのものにイラッとするのは、男として見当違いだ、ということです。人から「ダメ出し」をされることって、本当はありがたいことなんだって、若い人もいまから知っておいたほうがいいですよ。(p.124)


教育する側としては誉めて伸ばすという考え方を強調した方が良いが、教育を受ける側に対してはダメ出しのありがたさという考えを強調した方が良いと思われる。本書の想定する読者は中高生の男子なので、このコメントは適切であると思われる。



そんな、彼女を監視するようなさもしいマネをするよりも、いい関係を維持させるようにがんばったほうがよほど、彼女も浮気しません。
 行為の動機がさもしいと、どれだけその行為を一生懸命にやったからって、「さもしさ」が減るわけではない
んです。「それだけおまえのことが心配で好きだから」なんて言ったって、それでおまえのさもしさが正当化されると思うなよ、ってことですよ。
 携帯はね、どれだけ気になっていても絶対に、見ないほうがいいです。「この男は小さい」と付き合っている彼女にまで思われてしまったら、本当に終わりですから。(p.160)


彼女の携帯を見るという行為に対する批判だが、ストーカーなどにも当てはまる。



 彼女とのあいだで、昔に起こったアレコレ。その中で特に「腹を立てたこと」については、女の人はなかなか忘れてくれないものであります。(p.189)


もしこの論が正しければ、彼女を立腹させるといつまでも責められるということになる。



 男から見たときによく、「あの女はワガママだ」という女の人がいるでしょ。何かすごくこう、男を振り回すタイプの人で、付き合っている当事者よりも、そのまわりの人間からえらい不評を買ったりしているわけですが、そういう女性はね、瞬間瞬間で生きている男性を自分に長くつなぎとめておく策に長けた、「愛に満ちた人」なのかもしれないですよ?
 愛に満ちたといってもまあ、近くで見ていると「厳しいなー」と思ってしまうんで、あくまで「遠くから見れば」ということですが。
 ほうっておくと「点」で終わってしまう男を、あえて「ワガママ」という攻め方をすることによってあきさせない。そのつどそのつどをつなげさせていくことで、結果的に、ながーく、相手をつなぎとめておこうとするのが女性である……。(p.193-194)


女がワガママに振る舞うことで男に様々な対応を迫る。それが男の成長の契機となることがある。このように捉えると、ある意味ではワガママにも効用があると見ることもできるわけだ。まぁ、これを全面的に受け入れると女性側の成長という側面が抜け落ちるので、両方から努力しなければならないだろう。



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村上春樹 『1Q84 BOOK3 <10月-12月>』

「僕らがどれくらい孤独だったかを知るには、それぞれこれくらいの時間が必要だったんだ」(p.600)


この天吾の台詞は、この小説の主題の一つと思われる孤独と時間性の問題を集約的に表現しているように思われる。(時間性に関しては、これとは別の角度からも見る必要があると思われるが。)

私は基本的に小説などの文学作品は殆んど読まないこともあり、村上春樹の作品も初めて読んだのだが、彼の作品に描かれている孤独感は、最近20-30年の間、世界中の多くの人に共感を得られる類のものであるように思われ、それが彼の作品が売れる一つの要因になっているように思われた。

今は細かい分析をする暇はないので、とりあえず、それは後日機会を見て行なうことにしたい。


奥野寛之 『読書は1冊のノートにまとめなさい』

 それに加えて、「探書リスト」をつけていると、次第に自分の本当のニーズがわかるようになります。(p.51、本文ゴシック体の部分は下線を付した。以下同様)


数ある読書論のうちで本書に特徴的な点の一つは、本を選ぶ段階からコミットしていること。読まなくてよい本を選ばないようにし、自分が本当に読みたい本を目的意識を持って主体的に選ぶということが本書の方法論では重視されている。

こうした考え方は参考になったところである。

ちなみに、余談に近いが、本書が推奨する「ねぎま式読書ノート」のとり方は、まさにこのブログで私がやっているのと同じことであり、ちょっと面白かった。引用文とそれに対するコメントを羅列していく形で自分がした読書を記録していく。ただ、アナログなノートへの手書きとウェブ上へのアップでは微妙に違う点がある。

手で書くことによって記憶に定着しやすくなるというのはその通りかもしれない。キーボードでの入力は手書きと比べると記憶に残らないだろう。ただ、検索や他者の反応が得られる(ことがある)という点ではブログの方が優れている。本書の読書法から私もある程度の部分を取り入れてみようと思っているが、読書ノートをどうするかは微妙な位置づけだ。ノートに書きながらブログも続けるとなると、労力が2倍になってしまうからだ。テーマやないように応じて使い分けると「ポケット一つ原則」に違反してしまう。

読書ノートには本書の推奨する方式で作成し、ある程度の良質な本については、ブログで書評を書くという方法もあるかもしれない。そうなればこのブログの位置付けは少し変わることになるだろう。今のところこのブログは、私の単なる個人的なメモにすぎず、読者については全くというほど意識していないが、もう少し読者向けの記事を書く訓練の場として活用することもありうる。

まぁ、まずは読書法の再構築をして――これはライフスタイルがここ1年ほどで結構変わったことを受けた措置である――その中でこのブログの使い方も再考していこうと思う。



 その場の思考は沸騰したお湯の泡みたいなもので、再現性がありません。でも走り書き程度でも、一応メモしておけば、何もメモしないのとは大違いなのですね。メモがあれば、どんな小さいことでもそこから思考を広げて展開することができるのです。(p.67)


だから、常にメモできる環境を作ることが重要・必要ということ。



 書評を見て本が欲しくなったら、「探書リスト」にタイトルを書いておくと同時に、ノートに書評も切り抜いて貼り付けておきます。
 ・・・(中略)・・・。こうすれば、自分の考えと比較することによって、本の内容を多角的に見ることができるのです。
 それに、購入前に読んだ書評をもう一度読むことで、「この人のすすめる本はこれからもチェックしておこう」と決めたり、「この書評家はぜんぜん自分と合わない」とわかったりする。これは意外と大きな収穫です。今後の本選びにも活かすことができるでしょう。(p.69)


私の場合は、書評を読んで本を読んでみたくなる、ということはまずないのだが、書評でなくともきっかけになったものを読書ノートに関連付けるという発想は、確かに参考にはなりそうだ。



 つまり、情報がいくらあっても、それが組み合わされなければ、アイデアは発生しない。アイデアは情報と情報をつなぐ補助線をどれだけ引けるかにかかっているのです。
 その組み合わせる情報自体は、誰でもアクセスできるような普通のものです。というより「既存のもの」でないと、誰も理解できない(p.151)


確かに、組み合わせる元となるものが「既存のもの」、より正確には多くの人に知られているもの、常識になっているようなものの組み合わせでなければ、組み合わせた後の考えは理解されないものだ。

専門性が高い知見が、その基礎となる専門知識にアクセスできない人には理解できないのはこのためである。



 できるだけ旅行先の書店にも足を運び、実際に観光地を目にした感動が冷めないうちに、その土地に関連した本を購入する。そうすると、夢中になって読むことができます。(p.169-170)


これは国内旅行が想定されているように思われる。海外にばかり行っていたので、こうした手法はたまにしか採用しなかったが、海外の場合は、帰国後すぐに購入するという手である程度代用できるかもしれない。

(外国で購入しても語学に堪能でないとなかなか読まない。例えば、私はドイツに行ったときWeberやJaspersの論文などを結構買ったが、それ自体を読了したことはない。あくまで邦訳を読む時に「この訳語の原語は何だろう?」といった疑問が生じた場合の参考資料として使っている程度である…。)

いずれにしても、体験による感動が冷めないうちに、それと関連性の高い本を買って読めば、面白く読めるというのは正しいアドバイスであるように思われ、参考になる。

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ポール・R・シーリィ 『あなたもいままでの10倍速く本が読める 常識を覆す速読術「フォトリーディング」』

 能動的で、目的意識を持ち、探究心にあふれ、集中している――それが最高のリーディングです。(p.44)

 あまりに多くの人たちが、行く先の定まらないまま旅に出てしまいます。どこへ行きたいのかわからないまま、「本を読む」という旅を始めてしまうのです。
 読んでいるものから何も得るものがないとき、私は自分にこう質問します。
 「目的は何だ?」
 そんなときはいつも決まって、答が出てきません。目的がないと、本を読むことは、受身の活動になります。目的なしにテレビを眺めているのと同じで、多くの場合、時間の無駄となってしまうのです。
 目的を持つことは、結果的に、時間をうまく使うことになります。(p.65)

 何かを読むときは、その都度、必ず目的を明確にしましょう。この習慣は集中力を高めます。目的をはっきりさせると、脳は効率よく働きはじめます。(p.66)

学習とは、積極的な活動です。そして活動こそが才能の原動力になります。受け身になったとき、私たちの才能は輝きをなくしてしまうのです。
 テレビは、私たちを受け身にします。テレビは私たちを、ひたすら待機させます。(p.233)

 優れた読み手は、目的意識を持ち、常に著者に質問を投げかけます。そして読書の間、絶えず高い集中力を維持します。(p.233)



くどいほど同じ内容を引用したが、上で主張されているようなことは、フォトリーディングのような速読であろうと精読であろうと、どちらの読み方をするにしても大切なことである。

確かに、あてもなく読んだり、旅に出たりして、そこで「意外な出来事」が起こるということは確かにあり、目的の明確化がすべてではないとは思うが、私のように多読を続けていると忘れがちなことなので、自戒の意味もこめて記録しておきたい。

目的を明確にすることによって、集中した状態で、能動的に学習することができる。能動的だから質問が絶えず出てくる。上記の諸要素は全て繋がっている。こうありたいものだ。




さて、「学習とは、積極的な活動です。そして活動こそが才能の原動力になります。受け身になったとき、私たちの才能は輝きをなくしてしまうのです」と著者は言うが、このことは政治の場で教育が語られるときに、いつも置き去りにされる点である。

例えば、先日の東国原知事の「徴兵制」発言も――反発を受けて撤回したにせよ――集団的な行動を強制することで、上からの命令に従順に従うタイプの「学習」をさせ、それによって「道徳観」なるものが改善されるという筋道になっていた。

教育再生会議でも、基本的に「徳育」という名で道徳教育をしようとしているらしいが、そこでは、「教育」とはナショナル・アイデンティティを強化するための「規範」を押し付ける(刷り込む)ことである、と考えられているフシがある。

こうした「上から(強制的に)与える」類の「教育」は、学習者の「積極的な活動」ではありえない。これならむしろ、「ゆとり教育」の方が、上記のような国家主義者・新保守主義者たちの道徳強制的「教育」論よりはまだマシであろう。

しかし、ゆとり教育に欠けているのは次の点である。

すなわち、ゆとり教育では、上から教えることを詰め込んでいくとによって、生徒たちが受け身になる危険を回避するために詰め込む量や時間を減らす。確かにそのことによって、生徒たちを解放することにはなったかも知れない。しかし、単に重圧から解き放つだけの解放libertyでは、まだ積極的・能動的な意欲を喚起することはできない、という点である。

解放すなわちlibertyとは「~からの自由」であって、能動的・積極的な「~への自由」すなわちfreedomではない。積極的・能動的な「~への自由」には、常に目指すべき方向性が明確になっていることが必要であり、端的に言えば、目的が明確であることが望ましいわけである。だから、子どもに本当に良い教育を受けさせたいと思うならば、子ども達に無理のない形で、自ら目的を設定するように促すような環境を整える必要がある。

学ぼうとする意欲や目的。それは人間同士の関係から生まれる。教師と生徒との関係が学習の場では大きな人間関係であり、もちろん子ども達同士の関係も重要であり、また、親子の関係も捨ててはおけない。それに対して、生徒が一人で自発的に明確な目標を設定して学習することは、ごく例外的な事例や限定的な問題を除けばないだろう。(このような現象が、何もせずに広範に見られるなら、学校など不要である…。)だから、こうした人間同士の関係性を深める学習機会を積極的に設けることが必要であり、また、それを阻害する環境を取り除くことが必要である。

このような観点から見ると、教師と子どもの人間関係を強化するために、教師1人あたりが受け持つ生徒数を減らすこと(つまり、教師の数を増やして1クラスあたりの生徒数を減らすこと)は望ましい方向だと言える。

また、生徒同士にコミュニケーションを促す授業の形式、例えば、グループで学習し、その中で教えあったり、グループに特定の課題を与え、それを自分たちで調べてまとめたことを発表させたりする、というような授業のやり方の導入など、自由な授業形式を教師が選択できることも望ましいだろう。現場や教育学関係の場には、こうした事例は多くある。学校内部の指揮系統のヒエラルヒーを強化するのではなく、学校内での教師同士の情報共有のための時間的労力的なゆとりや、(成果主義ではなく)平等で安定的な待遇などといったことも、十分とはいえなくても望ましい方向だと言える。

さらに、親と子の関係もかなり重要であることも教育に関係する学問の研究ですでに明らかになっている。例えば、親に経済力がなく、子どもを高校に行かせられるかどうかということすら怪しい状態では、親自身が子どもの教育の成果に対する期待が低くなりがちである。親から期待されなければ、子どもも期待に応えようという意欲も湧かない。(一般論としては、過剰な期待も困りものだが、貧困世帯では期待の低さの方が問題であろう。)こういった具合でマイナス方向のスパイラルに陥ったり、また、親自身の教育水準が低いと、親の価値観の問題として勉強に対する価値付けが低くなる傾向が見られ、その低い評価が子どもの勉強への意味づけを阻害したりする。このあたりの話は、この研究なんかが詳しい

親と子の関係に学校や教師が直に介入するのは問題があるとしても、多少なりとも親を啓蒙するような活動を、学校の人的資源を用いて行うことも考えるに値するのではないか。そして、こうした課外活動的な事をするには、現状では、親だけでなく教師にとって時間が足りなすぎる。忙しすぎるのだ。それを(教師や学校に配置されるカウンセラーの人員増などで)軽減することが必要になる。

もちろん、より具体的な提言が必要だが、必要条件として、教育の現場に関わる人間の数をある程度増やし、彼らの共同的かつ協同的な関係性を確保できるような労働環境を、望ましい条件として描くことができる。もちろん、もっと積極的な要素も必要になるのだが。

と、まぁ、本の内容を少し離れて長々と書いてきたのだが、ここで私が言いたいことは次のことである。

「徴兵制」や「道徳教育」は強制的・強権的な思想に基づく。
「ゆとり教育」はliberty(~からの自由)の思想に基づく。
必要なのはfreedom(~への自由)の思想に基づく教育である。


こんなところだ。

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フェルナン・ブローデル 『物質文明・経済・資本主義 15-18世紀』(その7)
『第三巻 世界時間』 邦訳第一分冊の続き

 しかし、こうして長いあいだ躍起になって戦闘を重ねることができたのは――そのたびごとに負傷も痛手もおのずと治ったかのようで、じつのところ致命的な結果にはいたらなかった――繁栄が続いて実業が上げ潮に向かっていたからではあるまいか。ところがキオッジャの戦争が区切りとなったのは、おりしも1380年代に、長期にわたって躍進を続けてきた成長が閉塞し、それがこんどは決定的終止符となったからではなかろうか。(p.145)



上昇気流に乗っているときの戦争と下降局面に乗っているときの戦争は、その国にとっての意味が決定的に異なってくるという見本。下降局面の日本が戦争に巻き込まれることはこうした「決定的終止符」を打たれることになるだろう。

それは一つには財政破綻という形で表れると思われる。既にかなりの国債が発行されているが、それを十分に減らすことなく戦争に巻き込まれれば、平時よりも遥かに大量の国債を発行しなければならなくなり、財政が耐え切れなくなる(国債の買い手が見つからなくなる)という形である。




かつてヴェネツィア商人は、イスラム諸国で活動したとき、≪fondouks≫(一街路または一連の建物)に閉じ込められて苦労しなければならなかった。ヴェネツィアはイスラムのその方法をこんどは自分のために取り入れた。ヴェネツィアは同じ手を使って、その商業中心地のリアルト橋の向かいに、ドイツ人商人を強制的に集めて分離する地点として≪ドイツ商館(フォンダコ・デイ・テデスキ)≫を創設した。ドイツ人商人はだれでも、そこに商品を下ろし、そのために用意した部屋のひとつに宿泊し、共和国政庁の役人のこうるさい監督のもとでそこで商品を売り、その売り上げをヴェネツィア商品の買い入れに使わなくてはならなかった。ドイツ人商人はこの窮屈な従属について絶えず苦情を申し立てていた。こうした仕掛けで、大規模な遠隔地通商から排除されていたからである。ヴェネツィアはこの遠隔地通商を、油断怠りなく自国の≪citadini, de intus et extra≫[城壁内外の市民]のためにとっておいた。ドイツ人がそこに割り込もうものなら、彼の商品は没収されることになっていた。(p.154-155)



イスラーム世界にはフンドゥクの遺跡が残っていたり、今でも使われていたりもするが、このようなシステムで運営されていたという話は聞いたことがなかった。(私の無知ゆえか?それとも近年の研究成果ではブローデルのような見方は否定されているのか?)

むしろ、私としては、フンドゥクは、通商の際の中継点であり、かつ、そこでも交換が行われる場所として肯定的に捉えていたところがある。しかし、このようなブローデルの言う意味での「資本主義」のシステムの一部としても機能していたらしいということを頭の片隅に入れておくのは意味がある。次にイスラーム世界について調べる際には、フンドゥクの果たした機能についても着目してみたい。




しかしながら、自分を大切にする世界=経済の中心はすべてそうだが、オランダ連邦は戦争を国内から遠ざけつづけていた。(p.257)



これと類似の指摘はウォーラーステインもしている。ヘゲモニー国家は武力の力なしで他の諸国を従わせることができ、戦争と言う形を取るときでも、決して自国の領土内では戦争しないですむようにする。20世紀のアメリカは世界各地で戦争をしてきたが、本土が直接攻撃されたことはないのはその例だ。

これこそ政治の力であり外交の力であろう。

その意味では、近年の日本における防衛力が必要だという議論は、日本の地位の相対的低下と連動している。現代は昔と違ってミサイルがある点が異なる。しかし、通常兵力では日本を侵略できるような国はアメリカ以外にはない。

中国も韓国もましてや北朝鮮も日本を通常兵器で侵略することはできない。まともに戦力を分析すればそうなるのだが、それにも関わらずバカ派が増えている現状は極めて不健全な言論状況である。

むしろ、日本に不足しているのは――軍事力・防衛力ではなく――上記のような政治の力であり外交の力なのである。




つまり、世界=経済の中心に位置する都市はすべて、システムの定期的な地震を真っ先に呼び起こし、そのあとで真っ先にそれから完全に回復する、という通則である。そう考えれば、あの1929年のウォール街の暗い木曜日も別の目で考察できよう。わたしの考えでは、あの木曜日は、じつはニューヨークの優位の発端の目印をなしているのである。(p.354)



前段の通則は、世界システム論などに慣れた思考からすると、比較的常識的な枠内の議論だが、後半の適用例はなかなか興味深い見方ではある。

いずれにせよ、一つの事件が起きた場合、複合状況(コンジョンクチュール)がその地域に有利かどうかによって、その意味やその後の進路は大いに違ってくるというのが基本にある。その意味で、今の日本は非常にコンジョンクチュールの状況は良くないと言える。

経済力は世界の中で相対的に高いためにある程度の防御力はあるだろうが、例えば、世界のどこかで株価の暴落が起こるようなことがあれば、痛手を被りやすい趨勢にあるのは確かだろう。郵政民営化によって丸裸にされた財政が多額の赤字を抱えているのは、既に爆弾を抱えているようなところがあるのだから。

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