アヴェスターにはこう書いている?
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文:小林慶二 写真:福井理文 『観光コースでない「満州」 瀋陽・長春・ハルビン・大連・旅順』
瀋陽

 1920年代半ばには故宮の北側、奉天城内の繁華街・四平街に、商人たちによって三〜四階建ての高層建築が次々に建設された。だが、ほとんどの高層建築は、外観は洋風だが、内装や装飾など細かい箇所には欧米では見られない中国独自の工夫が凝らされていた。当時の中国の建築家は、本格的な洋式建築を学んでいなかったためである。こうした漢洋折衷の建物は“中国バロック建築”と呼ばれ、ハルビンなど中国各地に存在する。四平街に1925年竣工した吉順絲房は“中国バロック建築”の代表的な建物で、現在は瀋陽市第二百貨店として健在である。(p.27)


なかなか興味深い。どのように違うのかもう少し細かく知りたいところだが、文字で理解するより、まずは実物を多少とも見てからの方が分かりやすいかもしれない。



 加害者である日本が、“自虐史観”に陥ると主張して教えず、被害者である国々もそれを無視すれば、犠牲者たちは歴史から完全に抹殺されてしまうだろう。加害者側、つまり日本が隠そうとすればするほど、被害者側が教育に力を入れるのは当然とも言える。(p.129)


歴史問題についての発言だが、概ね妥当な意見ではあるが、著者の考え方は、「被害者側」の主体性をあまり重んじない発想でもある。というのは、被害者側というのは、その被害の経験に発して自ら主体的にその被害を残そうとすることがあるからである。

例えば、ヒロシマやナガサキの原爆の被害については、アメリカはそれを隠そうとしていないが、そんなこととは関係なく、悲惨さを語り継ごうとする人々が出ている。そうした動きは、アメリカ側に原爆投下は「やらなければもっと多くの犠牲者が出ていたはずだから『しょうがない』」といった議論への反動によって強まっているわけではない。

もちろん、何が残され何が残されないかということを決定づける要因はこうした自生的なものだけでなく、政府の方針により教育プログラムにどのように組み込まれるかということや、何が報道される(ことが許される)か、ということも大いに影響している。その意味から言えば、著者の見解はやや精神論というか、心理的な印象がそのまま社会現象として反映するかのような論理になっており、推論自体は誤っている。ただ、著者の発言の主旨は、日本では過去の加害の事実をも教育の中で教えていくべきだということにあるから発言自体は妥当なのである。



 さらに敗戦直前のソ連軍の参戦で、開拓民たちは予想もしなかった悲劇に襲われた。男子は壮年に至るまでほとんどが徴兵され、女、子ども、老人を中心にした開拓団員の家族たちは、凶暴なソ連軍に蹂躙され、開拓団に憎しみを抱いてきた中国農民に略奪された。彼らを守るはずの関東軍は、戦略と称して大半が朝鮮国境付近に撤退し、その事実すら開拓民に知らせなかった。この悲劇はすでに多くの人たちによって明らかにされているので、ここでは詳しく触れないが、当時、中国に在住していた日本人の14%にすぎなかった開拓民の死者数が全体の50%以上を占め、中国残留孤児の両親の68%が開拓団員であったことを、指摘しておこう。(p.183-184)


開拓民の悲劇も日本ではあまり語られていないように思われる。もっと知られるべき事実だろう。

ただ、ここでは「軍隊は人々を守らない」という一般的な経験則の事例として書き記しておくことにした。

軍隊はまず何を措いても軍隊自身を守るのであり、そのために一般住民などが犠牲になることがあるということはよく知っておく必要があるだろう。



現在、日本の置かれている国際環境は、私には満州国建国前夜とよく似ているように思える。唯一の違いは大国・米国の庇護下にあることだろう。だが私は、友人である韓国の碩学、李御寧・元梨花女子大教授がかつて語った言葉が忘れられない。

 日本は隣国の韓国や中国と仲良くできなければ、世界で孤立しますよ。今日本がどこかの国から批判された場合、本気で日本を庇おうとする国があると思いますか。どこもありません。せいぜいアメリカがリップ・サービスをするぐらいでしょうが、そのアメリカは自国の利害に反すれば、手を差し伸べないでしょう。


 日本の置かれている立場は、一般国民が考えている以上に深刻だと思う。こうした時こそ過去の過ちから学び、その教訓を生かして軌道修正すべきではないだろうか。かつて満州で起こったことは、そのための最適の教材と言えるだろう。(p.254)


本書は2005年に出版されているから、小泉が首相だった頃であることもあり、かなり悲観的な現状認識になっているが、外れてはいない。

日本が批判された場合、庇おうとする国がないというのは確かだろう。例えば、慰安婦問題が世界中のかなり多くの国から批判されたことは記憶に新しい。

もっとも、国際政治の世界では他国のために必死に庇うというような、人情的な対応は元来期待できないものではあるが、それにしても日本政府には、共同して歩調を合わせて何かを実現していけるような仲間がほとんどないことは事実だろう。この点に関しては、中国やロシアがしばしば共同してアメリカの動きを阻止したりすることと比べると雲泥の差があるように思われる。


一海知義 『漢詩入門』

『詩経』の「2+2」という、よくいえば安定した、悪くいえば平板なリズムとくらべて、『楚辞』は抑揚と変化のあるリズムで朗誦されます。
 この二つのリズムは、それぞれの内容とも関係しています。主として北中国でうたわれてきた『詩経』の詩は、「桃夭」の詩がそうであるように、おおむねおだやかな内容の作品が多く、南中国の『楚辞』のほうは、さきの「離騒」の短い引用からもうかがえるように、なかなか激情的で変化に富んでいます。
 そして『詩経』の詩は、結婚や田植えやとり入れ、村祭りや年貢など、日常的、現実的なことを主なテーマとしているのに対して、『楚辞』のテーマは、きわめて空想的、非日常的です。さきの「離騒」も、この地上では自分の理想が実現しそうにないので、天国にのぼって理想をかなえてくれる人物をさがすという、空想的、幻想的な内容になっています。
 また『詩経』の詩はおおむね詠み人知らずだといいましたが、『楚辞』の方はだいたいが屈原その他、作者の明らかな作品が多い。ということは、『詩経』の方はそれがうたわれている地方の特色はあっても、『楚辞』の作品のように作者個人の個性があらわれるということはありません。
 ところで、このきわめて対照的な内容をもつ南北の詩の、これまた対照的な二つのリズムが、ドッキングする時が来ます。
 それまで無関係だった二つのリズムは、秦の始皇帝の天下統一(前三世紀)によって交流し、結婚するのです。そして新しい子供が生まれます。
(p.11-12)


政治の変化が文学・テクストの変化を導くことがある。その一例である。

なお、ここで言う「新しい子供」とは五言詩である。



 こうした詩の散文化は、唐代の次の宋代にいっそうはっきりして来ます。
 また、唐代の李白や杜甫はあまり散文が上手ではありませんでしたが、宋代の詩人たちの間には、散文の名手がたくさん現れました。宋の蘇軾(1036-1101、141頁参照)や王安石(1021-86)など。彼らのことを「唐宋八大家」といい、その文章を「唐宋八家文」といいます。
 その八人の中に、宋代の六人のほか、韓愈と柳宋元という中唐の詩人が二人ふくまれていることは、たいへん象徴的です。中唐以降、詩と散文、両方に才能を発揮した、両刀づかいの人がすでに現れており、宋代にはその数が増したということです。
 また、宋代を代表する文学は詞(メロディつきの詩)ですが、そこには散文である当時の口語(話し言葉)が多く使われています。これもまた散文化の象徴でしょう。
 宋の次の元の時代には、元曲と呼ばれる戯曲(芝居)がさかんに作られますが、それは歌(詩)とせりふ(散文)がまざった文学です。一つの文学の中に詩と散文が相半ばする、そういう文学が現われたのです。
 そして次の明代以後は、散文だけの文学、明の『三国志』や『水滸伝』、清の『紅楼夢』、そして現代の魯迅の小説などが、各時代を代表する文学になります。
 詩から散文へ、それは中国文学史の大きな流れでした。白楽天はその先鞭をつけた(先駆けとなった)人物の一人だといってよいでしょう。(p.127-128)


非常に分かりやすい図式を提示してくれている。これは一種の世俗化であると私には見えた。もう少し正確に言えば、ハイカルチャーからサブカルチャーに近い方向に進展したという感じがする。

しかし、実際には詩人や文筆家の大部分はかなり高い身分をもった人たちが多かったという印象を持ている。少なくとも唐詩で私が読んでいるものは大抵が官僚の作ったものだ。これに対して、商業が発展した宋代に散文化が進むというのは適合的であり、散文化はそうした経済活動の活性化とそれによって経済的に上昇してきた社会層があったという事実を反映しているのではないかと思われる。こうした上昇してきた新興の階層(商業に従事する階層?)から科挙の合格者が増え、それが文体に影響したのではないか?中国の文学史など私はほとんど知らないから、断定はとてもできないが、一般的に歴史に見られる文化の動向に照らして、中国も他の地域とほとんど同じような動きをしているように見える。

元の元曲というは、遊牧民の文化と混合したものであるように思われる(推測)。

詳しくない分野はどうしても見えないことが多いから推測で補わないといけないところが多い。まぁ、この分野はボチボチやっていこう。