アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

イブン・ハルドゥーン 『歴史序説 1』

 国家とか政府とかは、諸々の学問や技術という商品が運び込まれる世界の市場である。そこには誤った知識も姿を現わし、いろいろな物語や歴史的情報が持ち込まれる。この市場で売れるものであれば、どこでも売れるのが普通である。もしその国家が、専横や偏見、気弱さや卑劣さを避け、正しい道を辿り、決して横道に逸れないならば、その市場の商品はまさに純銀・純金のようなものである。しかし、利己心や遺恨に影響され、邪悪で不正直な売り手によって左右されると、その市場の商品はにせ金やまがいものとなる。明敏な批判者は、自分のまなこでもって判断し、自分で調査し、求められるべきものが何であるかを知らねばならない。(p.78)


政府の類が学問や技術という商品が運び込まれる市場であるというのは、興味深い捉え方。

アベノミクスが声高に叫ばれる昨今の状況について言えば、「リフレ派」の経済学という商品が運び込まれたということであろう。選挙前の人気取りのための大規模な財政出動とその場しのぎのための大規模な金融緩和という煙幕を撒いてはいるが、それでごまかしている間に社会を改善できるようなビジョンは提示できていないといのが実情であり、引用文の言葉を使えば、この商品は「にせ金やまがいもの」であるということを喝破しなければならない。

私の予想では、2018年前後1年程度の間には、この悪影響(例えば、金融面での何らかの危機、例えば金利の上昇や国債の価格などへの悪影響の本格化、また、悪性のインフレによる生活苦の「実感」が統計的事実として把握されるようになることなど)が大きな形で社会問題となるのではないかと考えている。ただ、その頃にはアベノミクスやその内容は忘れ去られており、悪影響の原因は別のものにすり替えられて議論される可能性もまた指摘しておきたい。




 良き支配とは、温厚さに由来する。もしも支配者が圧制的でつねに厳罰を科し、人々の欠点を暴露したりその罪を数えあげたりすることに熱心であれば、人民は支配者を恐れ、卑屈になり、支配者に対して偽りと策略と欺瞞によって身を守ろうとする。ついにはこれが人民の特性となり、彼らの良識と性格は堕落してしまう。(p.490-491)



現代日本の支配ないし統治の状況を見ると、確実に「悪しき支配」へと進んでいるといえよう。

後段の部分の記述は、冷戦時代の東側諸国の状況に当てはまると考えられるが、未来の日本もこうした方向に向かっているわけである。




支配者が少しでも明敏すぎると、人民の知らないことにも気が付き、また物事の結果を初めから予知することができるから、支配者は人民に能力以上の仕事を課すことがある。このことは人民の破滅を導くものである。マホメットは「汝らのなかでもっとも弱い者の足並みについて行け」と言われた。(p.491-492)


ある意味、ここでの「明敏すぎる」とは、十分に明敏ではない事を意味している。十分に明敏であれば、ムハンマドが指摘したような弱い者の足並みをも考えて支配や統治を行うことができるはずだからである。社会を統治する者はそれをシステム全体として捉え、それを良い方向へと作動させることを考えるべきであり、それができない者は統治の任に値しない

この引用文が批判している人の分かりやすい類型としては、新自由主義的な経済政策を支持する支配者を挙げることができる。現在の日本の社会全体としては需要不足であることが不況の原因であるのに、サプライサイドを強化することにしか関心を示さない類の経済政策を支持する人々はすべてこの例に当てはまる。彼らは社会を全体として見ていないのである。


スポンサーサイト
モンテスキュー 『ペルシア人の手紙』

 好んで、自分を教育するものは、決して、閑人ではありません。私は、何も大切な仕事を背負ってはいないが、しかし、断えず忙しくしています。じっくり物を観て、日を過ごす。晩には、その日に私の見たこと、聞いたことを、書き留めます。物みな心を惹き、物みな心を打つのです。まるで子供のようで、五官がまだかよわく、物の数に入らぬ物にも、ひどく感じます。(上p.125)


おおむね同意見である。本書にはしばしばこうした処世訓的なニュアンスの記述が出てくるが、割と的を射ているものが多いように思う。



 フランス人の十中八九まで、熱望しているのは才気(エスプリ)をもちたいということであって、才気をもちたいと思うものが夢中になっているのは、本を出すことなのだ。
 ところが、これほど間違った考えはない。それというのも、人間の馬鹿げた所作も、すべて一時の幻であるように、ちゃんと自然にうまくできているのに、本などというものは、それを永遠不滅のものにしてしまうからである。ひとりの阿保が一緒に暮らしているすべての連中を、くたびれさせただけで満足すべきであろうに、さらに進んで、これから生まれる人間どもまで悩まそうと考えるのだ。自分の阿保ぶりを絶対に忘れさせまいと努力する。忘れるということは、墓と同じように、有難く頂戴すべきものなのだ。然るに阿保は後世のものに自分が生きていたことと、自分が阿保だということを永久に覚えさせようと思っているのだ。(上p.173-174)


なかなか辛辣な警句。

ただ、たとえある本を書いた者が「阿保」であり、それが後世まで笑い種になるとしても、それが批判の対象としてであっても有用なものなのであれば、無意味とは言えないし、例えば、学問の世界などでは書かれてきたもののほとんどは、ある意味では間違っているにも関わらず、それらが間違っているという理由で書かれなかったとすれば、学問の展開もなかったということになってしまう。その意味で、この警句は全面的に支持されるべきものではない。

むしろ、人が気付きにくい一面に光を当てており、「才気」を持ちたいと思っている人たちに対しての一種の自戒の念を持たせるための警告を発しているものと言えるのではないか。



 正しい戦争には二つの種類がある。ひとつは攻撃を加えて来た敵を防ぎ押し返す時、もうひとつは攻撃されている同盟国を援ける戦である。(下p.61)


個別的な自衛のための戦争と集団的な自衛のための戦争は正当な戦争であるとモンテスキューは言っているようだ。(手紙はユスベクが出したものとされているが。)

こうした問題については、今世紀に入ってから何度か突きつけられたが、18世紀にも既にこうした問題意識を持つ人はいたということか。



 ユスベク君、虚栄心なるものは生きて行くのに必要な範囲よりも大きいと不幸を招くね。そういう人間は、ひとに誉められようと焦るので、ひとに嫌われる。何とかしてひとを見下そうとする。しかもひとと肩をならべることすらできない。
 謙虚なひとびとよ、私はあなたがたを抱擁しよう。あなた方こそ人生の和やかさや楽しみをかもし出すものだ。(下p.199)


妥当な処世訓。



 十八世紀の初頭からフランスの読書界はアジア本が流行児となっていた。ベルニエ、シァルダン、タヴェルニエなどのペルシアその他、東邦各地の旅行記、ギァランの「千一夜物語」が喜ばれ、殊にデュ・フレスネイのシァム人物語が大いにもてはやされていたが、若いモンテスキューは特にフレスネイの作品に倣って、ペルシアの二紳士の手紙に託して奔放な社会・政治・経済批判を試みたのである。(下p.223-224)



訳者解説より。

美術などの世界でもシノワズリが流行したのは17世紀半ばから18世紀半ばであるから、読書界の動向とも一致していることがわかる。



ランソンの云うように、宗教の本質を知らぬモンテスキューは随所に錯誤を冒し、キリスト教並びにイスラム教に対する無智を暴露しているが、それゆえにまた本書を歓迎した十八世紀初頭のフランス社会思想の在り方を明かに示す資料となっている。(下p.224-225)



なるほど。



牧田善二 『糖尿病専門医にまかせなさい』

 事実は、糖尿病は決して治らない
 ……(中略)……。
 卵を減らしてコレステロール値を下げれば、高コレステロール血症という病気は消える。しかし、繰り返し述べるように、糖尿病は血糖値が正常化しても治ったことには決してならず、病名は消えない。どうしてなのか。
 答は、12年のツケは回復不可能だ、ということだ。
 糖尿病はひと口でいうと、長年の不摂生のツケが溜まってなる病気だ。(p.25)


すい臓に負荷がかかりすぎて回復不可能なところまで弱ってしまったというのが、糖尿病(2型)という状態らしい。



仕事がら絶えず気の抜けない戦闘体制(交感神経優位)の生活が続いていたことも、田口さんの自律神経機能低下をもたらしたわけだ。



 ストレスと糖尿病の関係について、一つ付け加えておこう。
 ストレスは血糖値を上げる。その理由は、ストレスが強まると、血糖値を上昇させるアドレナリンやコルチゾールというホルモンが分泌されるからである。ある人が会社で上司と言い争ったら、血糖値がその前より約40上がった、という話を聞いたことがある。糖尿病にとってストレスは大敵なのである。(p.74-75)


私の生活を省みると、持続的な臨戦態勢である。こうしたライフスタイルの持続は万病の元かもしれない。差し当たり、今の仕事は早めに変えた方がよさそうだ。



以下は中野さんのシナモンに関するアドバイスだ。

①一般に多く出回っているのはベトナム製。匂いがきつく水にも溶けないので、あまり良くない。
②血糖値を下げるため大量に服用するなら「ギャバン」というブランドのものがベスト。匂いもソフトでコーヒーに入れても溶ける。
③シナモン製品として最も優れているのはセイロン製だが、残念ながらスティックタイプだけで粉末タイプがない。(p.173)


シナモンに血糖値を下げる働きがあるという。

ただ、シナモンもカシアとセイロンという種類があるらしく、カシアの方は大量服用すると肝臓に障害をもたらす物質クマリンが多く含まれているらしいので、大量服用は健康を害する恐れがあるとウェブ上で検索したら出てきた。



布川日佐史 『生活保護の論点 最低基準・稼働能力・自立支援プログラム』(その1)

 1984年の同方式(引用者注;消費水準均衡方式)導入以来、一般勤労世帯の1人当たり消費支出額と、生活保護世帯の1人あたり消費額を比べると、後者は60%台後半で推移してきた(図表1-6)。それが70%に近づき、2001年度(平成13年度)に70%をこえた。(p.16)


一般勤労世帯の消費水準が下がっているため生活保護のレベルに近づいている。確かにこれをだけをもって保護の基準を下げるならば、貧困へのスパイラルがはじまる可能性は否定できない。しかし、納税者が増税に反対している間は基準の引き下げもやむを得ないのではないかというのが私の考えである。

私自身は増税論者なので、増税した上で生活保護の基準は維持し、それ以前の段階の社会保障、特に労働に関するものと年金に関するものを拡充すべきであると考えるが、増税が悪いことであるかのように語られる中では生活保護の基準の切り下げを行わざるをえないだろう。なぜならば、生活レベルが下がっているのだから生活保護の対象者は増えるが、予算は増えないから一世帯当りの給付は下がらざるを得ないからである。増税に反対するということは、こういうことを意味すると考える。(生活保護以外のものを削れという論はありうるが、公共事業削減は単純労働、肉体労働の減少であり、生活保護受給者の増加に直結するなど、何を削っても、ほとんどの場合、最終的には生活保護の増大に結びつくのである。)



 まず確認すべきは、加算はプラスアルファの「おまけ」ではないということである。加算は、何らかの問題を抱え、特別需要を持った人が生きていく上で必要な給付である。生活扶助本体(1類費、2類費)を「家」にたとえるなら、バリアフリーのための補助具や改築が加算というイメージである。(p.35)


「加算」という言葉からはどうしてもプラスアルファというイメージになってしまうが、「通常より深い穴の穴埋め」のようなものということだろう。家のたとえはなかなか的確でわかりやすかったのでメモしておきたかったので引用。



稼働能力を活用していなくても保護の要件を満たすというここでの方針と、稼働能力を活用していることを保護の要件とするという原則とは、矛盾する。
 この矛盾の上に、本人が稼働能力の活用にあらゆる努力をしている限りにおいて、という但し書きがおかれている。そうなると、稼働能力を活用していることを要件とはしないが、その代わりに、能力活用のためのあらゆる努力をしていることを要件とするということになる。あらゆる努力とは、どんな基準で「あらゆる」と判断するのか。そもそも、努力をしていることがどうして保護実施を決める新たな要件となるのか、根拠は示されていない。
 具体的な指針として、実際に就労していなくても「誠実に求職活動をしていれば稼働能力を活用していると判断する」という通知も出されている。この通知では、求職活動そのものが稼働能力の活用であると解釈されているように見える。求職活動が保護開始要件であるという誤解も生じてきた。「誠実に」という基準も曖昧でしかない。保護開始前1か月の間、2日に1回職安に通ったかどうかを保護開始要件とするような福祉事務所も出てきた。ケースワーカーに言われたとおりの求職活動ではダメで、自主的にあらゆる努力をしないといけないと主張する福祉事務所もある。(p.80)


このあたりについて著者の法解釈は誤っているというのが私の理解である。なぜならば、生活保護法第4条は「稼働能力」の活用を保護の要件としているのではなく「能力」の活用を要件として明確に謳っているからである。著者は「能力」を「稼働能力」に矮小化して解釈することで上記の「矛盾」を自らでっち上げてしまっている。

稼働能力がある者が求職活動を行うことは「稼働能力」自体を活用しているわけではないが、それに向けた「能力」を活用していることにはなるだろう。

ただ、「あらゆる」努力をしているという判断基準や「誠実に」活動しているという場合の判断基準は客観的に一律に示すことは難しく、このあたりは厚生労働省の通知の難点であると考える。私自身もこの問題について最近考えていたところであった。