アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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楊海英 『モンゴルとイスラーム的中国』

 現代中国は、回民反乱、太平天国の乱などを反清闘争としてあつかう時は、清朝を悪者にしたてる。モンゴル高原の諸部族が清朝から独立していく経緯を書く時は、清朝を祖国に格上げする。その時どきの政治政策によって清朝評価もめまぐるしく変わる。このような状況から見れば、通史は国家政策を裏づける根拠で、国家政策を正統化するためにあるように見える。(p.43)


中国の場合、この傾向は相当顕著なのは確かであろう。清朝の場合はその評価が特にめまぐるしく変わっているのではないかと想像する。



 1997年、内蒙古博物館の文物が日本で展示されることになり、私は展示目録の一部を執筆することになっていた。私が言及した古代の遊牧民、匈奴や突厥などの項目はすべて中国側に改竄された。中国側は匈奴や突厥を「中国の古代北方民族匈奴と突厥」に改めたのである。周知の通り、匈奴や突厥の活動は北・中央アジアの域を超えている。現代中国の公的な歴史が、従来の漢族歴史家とちがって、匈奴や突厥と対抗していた漢族の王朝のみを中国の前身と見なさず、漢文化の域を超えて活動した匈奴や突厥をも「中国の北方民族」であったと解釈するねらいは、民族政策のためであろう。つまり、内モンゴルや新疆ウイグル自治区に居住するモンゴル系やテュルク系諸集団を現代中国にとどめるための政策である。その意味で、通史には時の政治政策が反映されているといえよう。ある一民族の通史で、たとえその民族がモンゴルのように中国という枠組みをはるかに超えて存在してきたにもかかわらず、あくまでも現在の民族政策に主眼がおかれている。(p.73)


言葉によって事実が(捏造的に)作られている事例である。

この手の捏造的ないしはプロクルステスの寝台的な概念規定に対しては、差し当たり、「中国の北方民族」であると性格づることを可能にしている「史料的な根拠」とその「概念の定義」を明示させることである。直接相手と議論できない状況の場合は、例えば、匈奴や突厥が北・中央アジアの域を超えた活動の根拠を示して、それを「中国の北方民族」という用語が喚起する観念とを読者に比較させることであろう。



 日中戦争中の1936年7月と9月、日本軍は「板垣征四郎構想」を打ち出し、アラシャン地域に二つの特務機関を設置し、モンゴル人だけでなく、回民をも対象とした工作を展開していた。場合によっては、ムスリム軍人たちをも抱き込んで「回教共和国」のような傀儡政権を創ろうとも工作していたらしい。日本軍の特務は寧夏の馬鴻逵とも交渉していたが、それが南京政府の蒋介石らに知られてしまう。当時、すでに中国西北部に逃れていた中国共産党も馬鴻逵は日本軍と結託している、と宣伝するようになった。
 ダリジャヤ王も馬鴻逵も、どちらも共産党や日本軍などさまざまな勢力と上手に付き合う必要があったため、とくに非難される筋合いもなかっただろう。ところが、当時、寧夏南部と陝西省北部に逃げ込んでいた中国共産党はこれぞチャンスといわんばかりに、馬鴻逵は日本軍と結託している、と騒ぎ立てた。まったく「抗日」していない中国共産党が他人の「通日」を批判することで、自らの政治的立場を強化しようとしていたのである。(p.81)


中国共産党にはこうした行為は枚挙に暇がないように思うが、中国国内ではそれほど知られていないのだろうなぁ。そのあたりについて、もっとフェアに情報を開示しなければなるまい。

恐らく、中国国内でいわゆる「反日」感情を和らげるにあたって、こうしたフェアな情報が流通することは極めて大きな役割を果たすように思われる。共産党や中国が絶対的に正当な立場であり、それを日本軍が攻撃したとすれば、怒りの対象は日本(軍)に向かうのみとなるが、共産党や中国側にもかなり問題があったことを冷静に認識すれば、過度に単純な善悪二元論からは抜け出やすいからである。まぁ、共産党が現在のような体制で統治を続ける限り、当面は無理だろうが。



 毛沢東らの逃亡は結果的に成功した。
 歴史上、北魏や契丹、それに唐やモンゴル、更には満州人など北方出身の遊牧民たちが中原に攻め込んで征服王朝を立てた歴史とは逆に、紅軍は南部中国で形成された。彼らが四川西部から陝西省北部まで冒険的に歩いたルートは、実は先に述べた遊牧民たちが古くから開拓した南進道である。つまり、その逆を遡上したわけである。モンゴル帝国の軍隊が四川・雲南をいち早く征服してから南西方面より南宋を攻撃する歴史の裏をかくかのように、日中戦争の終了を待って、とっくに疲弊しきっていた中原の中華民国軍に背後から不義の一撃を加えて戦果を勝ち取ったものである。
 ・・・(中略)・・・。
 紅軍の西北への移動は、ソ連の指示を受けての退却、ないしは逃亡だった。しかし、今日では、この不名誉な行為は「長征」という美談に創りあげられている。・・・(中略)・・・。真実が異なっていても、一旦、「歴史」として創造されると、大衆はいとも簡単に欺瞞に乗ってしまうものだ。(p.120-121)


中国国内に言論の自由さえあれば、国内にこうした批判的な意見も生まれようがあるだろうが、それができないところに中国の問題があると思われる。

ある意味、このあたりの話なども、他国の人々にとってはあまり関心がない話であるが故に、比較的容易に欺瞞が通用してしまうのではなかろうか。



 不思議なことに、漢人はどこへ行っても農耕にこだわるが、自然から学ぼうという姿勢はまったくない。農民の鍬で破壊されて貧弱になった土地を今度は別の立場の弱い人びと、例えば回民に引き渡す。自分たちはもっと豊かな土地を求めてゆき、そして破壊をくりかえす。漢人が捨てた、痩せた土地に住む回民が農耕だけでは生活できなくなり、負の仕事にも従事せざるをえなくなると、回民たちをまるで生まれつき犯罪者であるかのようにあつかう。そのような歴史の反復ではなかろうか。(p.155)


本書の著者は「漢人」への反感がかなり強いようで、漢人への批判が結構あるのだが、ここに描き出されているような現象というのは、意外と日常生活の中にも似たようなものがあるのではないだろうか?



 少数民族の強制移住は、中国における核開発と連動している。言い換えれば、核開発のために少数民族がその故郷から追い出されたのである。(p.177)



 故郷が核に汚染されているのではないか、と心配する人もいたが、その結果は意外と早く現れた。ヒツジやヤギに三本或いは四本もの角が出るようになった。歯が生えない者や歯が脆くなって抜けてしまうような家畜もいるという。遊牧民の老人たちはそのように異変した家畜を「神様の意志によって生まれた者」と理解し、大切な個体としてあつかっている。家畜だけでなく、人間の方にも障害を持つ子どもが増えているという証言を得た。原爆の汚染を神様の意思と理解し、それでも汚染されたところに住みつづけているのは、そこが故郷だからであろう。三〇数年間も帰ろうとして帰れなかった故郷である。
 地元政府も汚染の事実を把握している。中央政府から調査に来る人もいるという。しかし、汚染の具体的な状況にはまったく公表されていない。補償も対症医療もないのが事実である。三〇数年間も核実験に使われてきた場所に遊牧民たちが今も暮らしている。私にはどうしてもマイノリティだから放置されているように見える。政府の幹部どころか、多数者の漢人もそこに住もうとしない。国威発揚に場所を提供した少数民族は、その貢献に見合ったかたちで報われていないどころか、犠牲になりつづけているのではなかろうか。このような実態に、あからさまな差別を感じる。(p.182-183)


少数民族は、核実験のために強制移住させられ、核実験が終わったら、その場所(彼らの故郷)に帰ることを許されたが、そこでは当然放射能を浴びることになる。



漢族の人はよく回族が何を考えているか分からないという。隣り合って暮らしながらしばしば差別的な眼差しを向ける。漢族の方が回族のことを少しも理解しようとしないから、両者の間に壁ができてしまうのではないか、と私は思う。(p.295)


中国で、たまに思うのは、人々の思考の空間がやはり閉じすぎていて、他者に向けての関心が低いということである。国内でも少数民族に対して同様の対し方をしているようである。



社会主義制度が確立した当初、多数の少数民族を創ったのは、実は昔から確固たるアイデンティティを持つモンゴル人やチベット人、そしてウイグル人の地位を相対的に低下させるための陰謀であったことは明らかである。(p.368)


ここでは陰謀論になっているが、少なくとも結果論としては正しいように思われる。

確かに、多数の少数民族を認定することが、モンゴル、チベット、ウイグルを「国民(中華民族)」として取り込みながら、中央への影響力も低く抑える帰結になった面は確かにあるだろう。



 「中国はいつ崩壊するかわからない」
と日本の中国研究者たちはよくこのように発言する。日本の人類学者たちの中にも、その説に同調する者が多数いる。確かに、中国の長い歴史を振り返って見れば、分裂と統合のくりかえしである。そのような視点に立てば、いつ崩れてもおかしくはない。
 このような言説には大きな欠点がある。それは、今を生きる人びとの思いを無視している点である。少なくとも、今の中国を生きている人びと、漢人だろうが、保安人だろうが、回族だろうが、中国の瞬時の崩壊を多分、強くは望んでいないだろう。彼らも中国にはさまざまな問題があるのを百も承知している。書斎派の中国観察者たちとちがい、当事者たちは毎日のように腐敗と圧制のリアリティを体験している。それでも、彼らは現在、崩壊よりもまずは豊かになることを望んでいる。(p.379)


通俗的な中国崩壊論への批判として、中国の人々の思いという地点から批判している。確かに、現地の人びとがほとんど皆、崩壊を望まないとすれば、どの集団も崩壊を意図した行為はしないだろう。ただ、行為の意図とその行為の帰結とは別のことであり、必ずしも連動しない。その意味で、著者の批判は社会科学的に見て不十分である。ただ、中国崩壊論者たちが、中国の人々の考え・思いを考慮していないという点は妥当だろう。





テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

張承志 『紅衛兵の時代』

 学問の問題はひとまず落ち着いたが、多分その頃から青春が忍び足でやってきたのだろう。私はそれをはっきりと意識してはいなかったが、精神的な欲求が自分のなかで強まっているのを感じた。クラスにも、学校全体にも、このような欲求の高まりがあった。精華付中の生徒たちは、学業によって押さえつけられてはいなかった。とりわけ高校生の間には、政治的理想を追い求める一つの潮流が、ひたひたと押し寄せつつあったのである。(p.15)


これは60年代前半のことだが、中国でこの時代に理想主義が流行しつつあったことには複数の要因があるように思われるが、客観的および言葉の正しい意味で「批判的」な情報が少なかったことも、その一つではなかろうか。様々な出来事の帰結を第三者的に特定の利害から離れて冷静に記述する情報が少ない場合、行為の結果は顧慮されないことになる。これは行為の動機の重視に繋がり、信条倫理が主流となりやすくなるのではないか。

もちろん、信条倫理は(責任倫理と比べて)暴力を容認しやすいということは、ここに付け加えておこう。



 いま真面目という言葉を使ったが、中国語で「朴実」と書くこの言葉は、当時の私たちの判断の基準となっていた。つまり「朴実」か「不朴実」かで同級生を評価し、友人を選ぶ。これがだんだんと派閥感情を形成し、そのグループがのちに高校二年になっての紅衛兵グループに結びついていくことになる。(p.17)


理想主義が求めがちなものである「純粋さ」とは、常に「不純」なものの排除の上に成り立つものである。純粋であることは、本質的ないし絶対的に排除の論理と切っても切れないものなのである。ここでも真面目か不真面目かというやり方で、その排除の論理が表面化されている。

実際問題として、当時の中国社会に理想主義が蔓延していたのは、問題の所在は明示できないが何かがおかしいという感覚が人々の間で共有されており、どこかに「不純なもの」を見つけ出し、おかしな世の中にあっても自分は「正しい側にいる」ということを確認したい欲求が生じていたからではないだろうか。

だとすれば、90年代以降の日本の状況と文革前から文革までの時期の中国の状況とはかなり似たところがあると言えよう。



文化大革命が白熱化したのちに不幸な目に会った人々と対面すると、こういう才華あふれる文章は偉大であるからこそ罪深いと私は感じる。(p.72)


偉大であるという判断は信条倫理的になされ、罪深いという判断は責任倫理的になされている。しかし、全体的に真雨林理の色彩が濃厚である。



 私たち精華付中紅衛兵も、毛沢東主席が真面目に書いてくれたこの手紙に実用主義的に対応した。なぜなら、紅衛兵の前途はすでに中国特権階級の利益と離れ難くからみ合っていたからだ。全人類を解放し、自分に反対した人々と団結することは、事実上自分たちの利益を放棄することであった。
 われわれはすでに全国公認の左派組織であった。全国でまき起こっていた思潮は共産主義の赤色血統論であった。「血統論」とは、この世で血縁関係だけを認めようとする思想である。それはどこにでも存在しているが、古代封建の中国ではとくに目立っていた。こういう思想が社会主義時代の中国で、赤色の看板を掲げて大きく膨張してきた。出身家庭が文化大革命初期に突然、人間を判断する唯一の基準に変わったのだ。われわれは、血統論がもたらし、いながらにして手にすることができる、この自明の巨大な利益を放棄できるだろうか?ゼロの地点にもどって、犬っころ同然の普通の学生、生徒になることができるだろうか?
 精華付中紅衛兵はこのように鋭く自らに問いかけることができなかったのだ。(p.87-88)


紅衛兵だった著者の反省ないし自己批判が含まれている。しかし、そのような反省・自己批判がある程度異常の規模のグループで成立することはまずありえない。彼らはすでに強力な権力が発生してしまった磁場に取り込まれていたのである。



 60年代の中国は、すでに大爆発の潜在的条件を備えていた。多くの中国人が望んでいたのは一つのことだった。つまり、雲の上で威張り返っている官僚の頭を下げさせ、不公平極まる特権をぶちこわし、皇帝を馬から引きずり下ろすことだった。(p.187)


このあたりこそ、90年代以降の日本と中国の文革時代の最大の類似点かもしれない。



 熱情を持って生活する人には、必ず収穫がある。このことを私は学びとった。(p.195)


良い言葉である。『職業としての学問』でマックス・ウェーバーが述べた、あるフレーズを髣髴とさせる。


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星野博美 『愚か者、中国をゆく』(その2)

 日常を引きずったまま、まるで日常から旅空間へワープしたように、何の苦労も懸念もなく旅先に到達できれば――たとえばツアーに参加するとか、専属の通訳やガイドがつくとかして、何の心配もなくたびを続けられる状態であれば――、感動できやすい。なぜならそういう状況では、自分が属する日常と旅先の風景や異文化との差異がより際立つからだ。少々意地悪な言い方をすれば、そういう状況下では、さして感動するようなことではないことに、たやすく感動できるともいえる。
 ……(中略)……
 一生懸命がんばって現地の価値観に慣れようとすると、日常と異文化との差異が狭まる。そしてそのことが、無邪気な感動を妨げてしまう。
 観光して感動するというのは、実はとっても難しいことだったのだ。
 つまり、こういうこと?真面目にがんばって旅をすればするほど、この先ますます感動できなくなるということか?(p.206-207)


そうだろうか?現地の価値観に慣れようとすると、感動が妨げられるだろうか?私の意見は異なる。「現地の価値観」を体得すればするほど、感動は増すのではないか?(ここで言う「現地の価値観」とは、歴史的知識等も含めた、かなり広い意味で用いることにする。)

例えば、ゴシックの教会堂を見るとして、「現地の価値観」を体得すれば、その建築の歴史的意味や細部の装飾の意味なども見れば分かるということになる。何も分からずに見に行く旅行者が特にパックツアーなどの参加者には結構多いと思うが、彼らは例えばパリのノートルダムを見るとき何分見るだろうか?15〜30分の間だろう。そして、大抵は「へぇ〜大きいなぁ」で終わる。私なら2時間はかけるし、それがゴシック建築の中でどのような位置付けになるだろうかと考えならが細部まで見る。(もっとも、あの聖堂は観光客でごった返しているので落ち着いて見られないが…。)

現地の人たちだって、無関心な人も多いだろうが、全く遠く離れた地域よりは見方や歴史的意味やどこから見ると美しいかといった知識などを持っていることが多いはずであり、それを自然なこととして体得しているはずである。外部からの旅行者(十何年も定住しているような人でない限り)は、その価値観にどこまで肉薄しようとも、外部の視点を容易に導入できる立場であるが故に、その価値観と同化し、血肉化すればするほど感動しやすいはずである。

いわゆる発展途上国と呼ばれるような国々については、確かに現地の貧しさなどが、旅行者にある種の感動を引き起こすこともあるが、それとて現地の人の価値観と同化し、それを普通のこととして受け取ったとしても、外部の世界を知っている人間である限りは、別の視点を導入してそれを相対化することができる。そうした視点の自由度があるかどうかが、感動できるかどうかを決める重要な要因の一つではなかろうか?この箇所で提示されている見方は、そうするだけの余力がない場合のものでしかないように思われる。



 旅というのは、どこまで足を延ばしたとしても、目的地には何もないのかもしれない。心の底から魂を揺さぶられるような感動や、自分の将来に何らかの啓示を与えてくれるような衝撃的な出来事などを旅に求めたら、一生旅から戻って来られなくなるかもしれない。そんなものは、旅先にごろごろ転がっているようなものじゃないんだ。(p.216)


旅先というのは、旅先の住人にとっては「タダの自分が住んでいるところ」でしかないのだから、そりゃそうだろう。

過度な感動や冒険を求めるロマン主義的な旅行は不満に終わることが多いのではないだろうか。



 こんなにすいているというのに、なぜ切符は依然として手に入らないのか?(p.226)


こうした不条理ないし非合理性は、本書のテーマの一つであるように思われる。



 自由旅行と帝国主義は紙一重。バックパッカーはさしずめ、平和的な帝国主義者なのである。(p.260)


なかなか興味深い箇所。バックパッカーのような自由旅行ができるということは、帝国主義側のような豊かな地域の人でなければならないし、帝国主義は(特に支配する側について)ヒト・モノ・カネの自由な移動を推奨する傾向があるから、帝国主義的な政策の結果として自由旅行者が登場できるという側面もある。また、帝国主義者と一部のバックパッカーが共有しているであろうオリエンタリズムなど、いろいろと共通点を見つけることは容易であり、本書の指摘はなるほどと思わせるものがある。

しかし、バックパッカーは帝国主義者そのものではなく、帝国主義的な政策によって世界が改造されることによって出現できるようになった種類の人々だというだけである。バックパッカーが存在することによって、(帰国後に自らの経験を人々に語ることによって)オリエンタリズムを強化する可能性は否定できないものの、それ以外の点では特に帝国主義を推し進めるものとは言えないように思われる。(実際、相対的に豊かな地域の住人が相対的に貧しい地域に出向いて外貨を落としていくのだから、世界的な所得再分配すら行っているのである。)

引用された言葉は、レトリックとしてはよくできているが、現象の表層だけを的確に表現する言葉にはある種の危険が付きまとうということは一言言っておきたい。



 すいているバスに乗ってはならない、という教訓もこの時教えられた。日本で常に、できるだけ好いている交通機関を選択していた私にはまったく世界の逆転だった。
 中国ではできだけ混んでいるバスに乗るべきである。なぜなら、おおかた客で埋まったバスはじきに出発するからだ。一方、すいているバスは混みあうまではけっして発車しないから、埋まるまでいつまででも待たされる。もしもそのバスがいつまでたっても埋まらないとしたら、自分だけが知らず、付近の住民たちには知れ渡っている重大な欠陥が隠されている可能性もある。(p.301)


この指摘は正しいと思う。



 いまあなたが使っているトイレットペーパーとは、トイレで使う紙というより、水に溶ける紙、科学技術の粋を極めた紙である。世界じゅうのどこを旅行しても痛感するのは、日本のトイレの清潔さと、それに輪をかけたトイレットペーパーの質のよさだ。水洗トイレは、水に溶ける紙があってこそ、詰まらせずに快適に使用することができる。日本では、水洗トイレとトイレットペーパーが同時に切磋琢磨して進化してきたことを、ここで認識してもらいたい。(p.309)


日本のトイレ事情のすばらしさは私も世界を旅して痛感するところであり、トイレットペーパーの質の高さは確かに世界一じゃないかと思うくらい優れていると思う。柔らかくて水に溶けるという点が特に優れたところである。便座についてもウォシュレットや温かい便座など快適に使用するための機能がかなり普通に標準装備されており、こうしたところは他国ではあまり見かけない。

なぜこのようになったのか、その理由については謎だが、今後、旅を続けながら考えてみたいと思う。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

星野博美 『愚か者、中国をゆく』(その1)

何かを嫌いな理由は確固としているが、何かを好きな理由というのはいつでも漠然としている。(p.5)


なるほどねぇ。言われてみればそうかもしれない。

このあたりは、いわゆる「愛国者」たちの「愛国的」な観念がいつも曖昧模糊としていることとも深くかかわってくるだろう。

まぁ、それはさておき、何かを嫌いなのも本当は同じくらい漠然としていると思うが、それに対して行われる理由付け(合理化)の段階ではっきりと固定した理由になりやすいように思う。この合理化された理由は、場合によっては、かなりこじつけと思えることもあるが、それでも人はその理由を変えようとはあまりしない。好きなものに対しては結構理由付けは変わる。

嫌いなものはそれを避けることさえできればいいから、一つの理由があれば足りることが多いが、好きなものはそれを追い求めていくことになるから、対象自体が変化し、対象と主体の間の関係も時とともに変化していく以上、理由付けも変化せざるを得ないのであろう。

もちろん、合理化しきれない感覚が、これらの根底にはあるのだが。



 なぜバックパッカーは、何日も並んで安い座席をとり、ホテルはあまたあるのにドーミトリーのある安宿を目指し、なるべく速度の遅い乗り物に乗り、ホテルやレストランではなく路上の屋台で食事をしたがるのだろう?
 ・・・(中略)・・・。
 それは、旅という非日常の中では、金がないことで冒険が買えるからだと私は思う。金をかけなければかけないほど、旅は刺激に満ちたものになる。何でも金、金、金の世知辛い世の中で、旅先では冒険が安価で、時にタダで買えるのである。もともと何がしかの冒険がしたいと潜在的に思っている旅行者にとって、これほどお得な話はない。欲しいものが高価ならどこかで諦めるかもしれないが、安価になればなるほど刺激が増すため、歯止めも利かなくなる。それがバックパッカーのはまる旅の魔力だと、かつてそこにはまりかけた私は思っている。
 世の中には、自分を現実より大きく見せるための一つの方法としてブランド品を身につける人がいる。バックパッカーは往々にして、パリやミラノでブランド品を買いあさる旅行者を毛嫌いし、自分はそんな価値観とは無縁であると主張したがるが、バックパッカーの心理は実は、ブランド品を求める人のそれとよく似ている。
 旅という非日常の中では、日常の中で通用する「高くて有名なブランド品を身につける」感覚が、「金では買えない貴重な体験をする」に替わる価値となるからだ。
 ブランド品は、誰も銘柄を聞いたことのない本当に高くて良い物を身につけたのでは意味がなく、相当数の人――それもあまり数が多くなればまた価値が下がってしまう――が「あれは高くて有名な物だ」と評価してくれなければ身にまとう意味がない。そこで意識されているのは、あるまとまった数の他者の視線である。
 旅行者の冒険欲も、ブランド品を求める欲望と似たような心理構造を持っている。誰も知らない場所で誰の目にも触れず、誰もしたことがないような冒険を一人黙々とする旅行者は少ない。旅というのは人様に聞かせてなんぼのもの。誰かに聞かせる機会がなければ、誰も無茶な旅行などしない。旅行者もまた、常に他者からの評価を意識して旅を続けている。そしてその他者とは、現地の住民ではなく、同じように旅をしている旅行者が適任者となる。だから外国人――自分と同じ出身国の人間がパラパラいるとなお都合がいい――がたむろするところに出入りし、自分がどんな無茶をしてここにいるのかを他者から認めてもらう。それこそが旅における「ブランド」なのである。(p.56-58)


かなり的確にバックパッカーの心理の一面を捉えているように思う。


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谷崎光 『北京大学てなもんや留学記』(その3)

 あてにならない中国の記事や資料を基に理論を組み立てても、と思うが、理系ならともかく、政治経済で独自のことをするのは今なお(!)危険なのだと、後で気がついた。すでに定評あるものをなぞり、少量のオリジナリティを加えるしかない。
 既存の資料を駆使しつつ、実際の調査も丹念にやり、そこから矛盾や疑問をスカッと見渡せる、あー、なるほど、と人をうならせるような真実性のある理論を打ち立てる人は、中国を追い出されてしまうのかもしれない。経済学者の何清漣さんのように……。現在と関係ない考古学や古典文学でもないかぎり、法律も経済も真実を追求しようとすれば、最後は共産党の矛盾を突いてしまわざるを得ないし……。
 かくて大半の先生たちはあたりさわりのないテーマを選び、ポイントの周辺をごにゃごにゃやるということになる。
 この国で何かを研究したり発表しようとしたりしたら、いつも本当のことを隠すという表裏二重性を保持しておかないとダメなんだなー、とつくづく思う。(p.129)


言論に自由がないというのは大変なことだと改めて思う次第。



 中国文系の最高学府だし、ディベート研究、学者としての発表訓練、調査、分析手法の研究、フィールドワーク、ワークショップなどもやってるのではないか?と思っていた私もだんだんに、中国の学者が生き残るために一番に学ばねばならぬのは、研究そのものでなく政府の顔色を見るという別の処世術であることに気がつく。
 自分に危険が及ぶかもしれない議事録は作らないだろう。それでなくてもはねっかえり学生の多いこの大学で。
 中国の教育がいまだに大量の暗記、大量の本(内容は古い)の購読で、作文ですら型が決まっててはめ込むことを強要されるのは、これと無縁ではないと思う。(p.150)


これがどれくらい全体的な状況を反映しているのかはわからないが、こうした傾向はありそうなことである。



中国の各世代を見ていると、文革の爪あとなど、子供から青春時代の環境がいかにその人の一生に影響を与えるか、くっきりわかる。
 今の七十歳以上の青春時代は、戦争や苦しい時期もありとても貧しくはあったけれど、中国が建国の意気にあふれ、まだ理想を追うことができた一番いい時代だったそう。
 実際にこの世代の庶民は極端な拝金主義ではないし、思いやりもあり、別に日本の同世代とそう変わらない。日本が一番迷惑をかけたはずのこの世代から、一番戦争の非難をされない、とは長期滞在の日本人がよく言う言葉。
 文革後に生まれた三十代前半から二十代の若者も、反日洗脳や甘やかしを除けば清潔なところはずいぶんあり、正当な方法でしっかり働き、お金を儲けようとする若者も多い。親の苦労を見ているからガッツもある。
 が、二十歳になるまでの大半の時期を、最初は飢餓、次は文革の裏切り合い、殺し合いを見て育った四十すぎから六十歳くらいまでは、もう何でもあり。(p.191-192)


興味深い世代論。

70代以上の世代が戦争の非難をしないのは、必ずしも一方的なものではないということ――日本軍に従軍した兵士もある種の被害者であり、さらにいえば、戦争に動員されるということが各人の意思とは無関係に強制的な要素を持っていて、個人の力ではどうにもできないものであることなど――を身をもって知っているからだろうし、共産党が自己の権力を正当化するために「仮想敵としての日本」を強調する以前に教育課程を修了したからではなかろうか。



 払う税金も含めて考えると、日本は先進国の中でも医療費はそう高くない。海外に行き、初めてその有り難味がわかる。(p.206)


まぁ、そういうことだ。高くないから赤字になるのである。そこのところをすべての有権者が理解すべきである。



 中国は駆け引きで外に対しては軟化した様子を見せたり、その情報を日本の新聞社に流させたりするが、国外に向かって言っていることと、国内向け報道は基本的にまったく別である。(p.226-227)


どこの国の政府もやっていることであろう。ただ、確かに中国はこれが普通よりも露骨でもおかしくない。あれだけ言論が規制されているのだから。



 一般に今の日本のメディアは(私も含めて)、共産党が反日を仕掛けている、というが、中国人がよく言うのは、
 「国民が怒るから、政府は真実を言わないんだ。国民が喜ぶからメディアは反日を載せるんだ」
 外国人に向かって独裁政府をかばっているのか、本当に元来強い反日の気持ちがあるのか、はたまたそこまで洗脳されているのか……、答えはたぶん全部である。(p.228-229)


悪循環というやつですな。断ち切るのが難しいのだが、やはり共産党とメディアが流す情報を変えることが改善のために必要なことだろう。



 そのときにつくづく思った。
 国家や政治に個人の気持ちが振り回されるなんて、本当に心底うんざりだと。(p.262)


言論の自由が十分でないということは、こういうことである。言論が自由であってもナショナリズムに縛られているということはこれと同じ傾向を示すことになる。私がナショナリズムに与しないのは、こうした感覚を強く持っているからであると思う。


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谷崎光 『北京大学てなもんや留学記』(その2)

 そもそも私は学校を卒業後、中国商社に勤めていて、しばらくの間、週に二、三回習いに行っていた(もっとも残業でしばしば一回になる)。
 が、それが本格的な習得にはあまり役に立たないことは、本当に『できる』人ならみな知っていると思う。こういう教室はきっかけや自分で勉強するペースメーカーとして有効なのである。(p.90)


なるほど。

言語習得は通常の知識習得のような学習というよりも、スポーツなどの(身体感覚を伴う)技術習得に近いようだ、というのが私の現時点での考えなのだが、それとも合致する内容であるように思われる。

というのは、教室で教わる言語というのは、やはり文法知識や単語などについては知識の形にしかならないし、発音についても、重要なヒントを与えてくれることはあるにせよ、話せるようになるためには自らの感覚によって習得するしかないから、教室での学習そのものは、「本格的な習得にはあまり役に立たない」のである。ただ、継続的に学習する際の環境を整える点では学習者を個人として孤立させず、社会的なネットワークに組み込むことになる点では確かに有効だろう。



 いわゆる丸暗記の旅行会話の延長に、「話せる」はないと思う。(p.91)


フレーズを覚えるだけの学習では、所詮、知識を覚えるだけだからである。



 語学は勉強ながらトレーニングの要素が強くて、机上の知識でテニスができないのと同じで、若いほどうまくなる。が、いくつからでもできるようになるというのもテニスに似ている。(p.91)


私が上で書いたことと同じ意見のようである。もちろん、私はこの本を読んだ後で上の文を書いたのだが、このフレーズはブログに抜書きする予定ではなかったから覚えていなかった。

私が上の考えに到達したのは、河本英夫の「オートポイエーシス」の着想を言語習得に適用したからである。私自身は外国語がてんでダメだから、自分の語学学習の経験から語るわけにはいかないのだ…。ただ、それがこうしてきちんと話せる人の感覚と合致すると我ながら「おおっ!」とか思うわけだ。



たとえば今、中国語力ゼロのふつうの人が、一日十五分の勉強を十年積み重ねても、片言ぐらいはできても、まず『話せる』ようにはならない。ガーン。(p.92)


語学のトレーニングも大変なものである…。



単語暗記も、実はあれは慣れで、やればやるほど早くなる
 中国語は最初が一番大変で、ひとつの字に漢字、四声込みの発音、意味、さらに発音の仕方等を覚えないとダメで四苦八苦するが、逆に千字ぐらい読み方をおぼえちゃうと組み合わせることができ、しかも日本語と共通の言葉が多いので、日本人は突如として上達する。(p.93)


ふむふむ。なるほど。1,000字くらいならナントカなりそうな気がする。っていうか、1字覚えるのも声調込みだとちょっと大変だが、発音だけでももう少しマスターできればいけるかも知れない。歴史学とか社会学とか政治学とか財政学とかの勉強を一時的に(2〜3年くらい?)中断すれば中国語は少し話せそうな気がする。問題は、そんなに知的禁欲ができるかということだ…。



先へ先へと進むより、拍子抜けするほど簡単なものを、よく理解して、くりかえして徹底的に頭と口に叩き込むのが話せる早道なのである。特に初期。ベストはそれを人間相手にやる。ママが子供に無意識にやっているのがこれ。ただし子供はこれで脳みそに自動的に文法が形成されるが、大人は違うので誤解なきよう。(p.94)


なるほど。私が通っている教室で他のメンバーに対して思うのは、先へ先へと進もうとしすぎることであり、また、「学習」に偏りすぎた発想である。まぁ、教室は所詮ペースメーカーなのだから、それでいいや、と割り切ることにする。自分のトレーニングを地道にやれば話せるようになるのだろう。

最近はチャットを利用してネイティブスピーカーの友人と会話(での練習?)を始めたところだったりする。これだけ環境がそろったということはやはり今は語学をがっちりやれという天の思し召しなのか???と思ったりする今日この頃である(苦笑)。



 私がよくやっていたのは日常、電子辞書を持ち歩き、言えなかったことなどすぐ引き、夜にその日の履歴を暗記。相手が友達だったらわからない時は書いてもらう。
 単語も、「反日対策」「ご飯」「引越し」などの同一テーマで括ると覚えやすい。(p.109)


電子辞書というものを使ってみて、思ったのは思った以上にいろんな機能があって、いろいろなことに使えそうだ、ということ。この履歴の使い方は非常に参考になる。やってみよう。



 つまり木にたとえると、発音は根、文法が幹、単語が葉っぱで、子供は根と幹が自然に成長するが、成人は固まってしまっているので(日本語の「木」がすでにある)、人為的に叩きこまないと、葉っぱだけ増やしてもいつまでたっても話せない。
 幼稚園児は話すスピードは遅いし、使える単語はわずかだが、基本の語順(文法)はすでにほぼ正確……。(p.114)


この箇所は本書を読んでいて私のツボにはまったところである。腑に落ちた。やっぱり根である発音をやるのが一番大事だと思い知る。文法ももう少しやらねば、とも思うが。

あと、私が知る日本在住の外国人で、日本人のコミュニティに参加していない人がいるのだが、彼はしばしば、自分は日本語の単語は沢山知っているが、それをどうやって並べたらいいのかが分からないので話せない、と言っていた。日本人のコミュニティに参加せずにいるから、日本語を学習していないためだろう、ということに思い至った。




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谷崎光 『北京大学てなもんや留学記』(その1)

コミュニケーションギャップって東西差より、その国の体制の差の方が大きいと思う。(p.35)


国の体制というより、情報の流通のあり方と情報・言論の自由度の違いが決定的だろう。それを決定する大きな要因のひとつが政治的な体制なわけである。



 どこの国でも多少の二枚舌はあろうが、これが生活全部、教育全部に沁みこんでいるのが中国。各大学にも、もちろん党の監視機関はある。
 自国礼賛を暗黙に強要する教師に囲まれ、評価してもらおうと遠慮しているうちにどこか中国に対する客観性を失っていくか、もしくはいろんな攻撃や葛藤に耐えかね、中国人の前では相手に「好听(聞こえのいい話)」しかしなくなる人もいる。
 特に日本人は、日本をけなせばけなすほど中国人にウケる。(p.38)


中国に限ったことではないが、中国の場合、こうした状況が内部に残っていながら、急速に国際的な地位を向上させているところが、周囲に脅威を感じさせるところであるように思われる。とりわけ日本の右翼(右翼的な考えの人々)が不安を感じているのはこの辺だろう。まぁ、彼らのメンタリティも民主的なものとは程遠いから、実は似たもの同士なのだが…。

ただ、教育・言論の状況に関して言えば、いわゆる「講壇禁欲」が守られていないどころか、政府(党)により積極的に「講壇禁欲」が禁止され、政府(党)に都合のよい方向に言論が方向づけられているということである。いわゆる理系的な学問ならば、これでも大した影響はないかもしれないが、人文・社会系の学問はこれでは国際的に通用するようなものは出てこないだろう。

逆説的に、政治的に特定の立場に偏りすぎているが故に、他のより自由な立場からは見えないようなものを見せる言説が登場することはありうるが、その立場自体は可変性が低いので、この手の発話者が持続的な影響を与えることは困難であり、短期的なインパクトを与える以上のことはできないだろう。



「ちがうよ。先生はその作品の価値も、君が取り上げた意味も全部わかっていると思うよ。でも政府が発禁と決めた本は、北京大学の教師としては教室では非難しなくてはいけない
「そんなもん?イマドキ?文革時代じゃあるまいし」(p.46)


「真理」に仕える教師ならば、政府が発禁と決めても自らの所信に基づいて評価・発言すべきなのだが、それができないのならば、学者などやっていてもしょうがないように思う。中国の教師達がこの本で言われるほどの状況に置かれているのかどうかは検証のしようがないが、こうした傾向があることにはあるのだろう。



 日本人からすると思いがけないことがこの建前に含まれていたりして、一度、
「一般の中国人の、中国メディアに対する信頼度はどのくらい?」
 と聞いたら、ふだんいっしょに共産党批判しているような子までが、新聞は読まないとか、君はどうしてそんな話題が好きなんだとか、何人もが言を左右にしてなかなか答えてくれなかった。(p.46)


興味深い質問である。メディアの自由堂が低い中東諸国と比べてロシアと中国は批判的である度合いが低いというのが私の感触である。

すなわち、中国やロシアと比べて、少なくとも同じくらいメディアの自由度は低いと思うのだが、中東の人々はそのことを明確に自覚していて、政府などに隠れて衛星放送の番組をみんなで見まくっているし、外国人と話をすれば、外国の話や外国人による物事に対する評価を聞きたがるが、ロシアや中国の人々はそこまで不信を抱いておらず、外国人から第三者としての意見を聞くというよりは、自分たちの意見が正しいと考える傾向が強いというのが私の観察した限りでの所見である。

だから、筆者が発した質問に対する中国の人々の「自己認識」には興味があるのだが、なかなか答えてくれないのか…。今度試してみようか。



 歴史問題は難しいし、各国人刷り込まれてきた情報も違う。
 が、公共の場でまともな議論ができないのは中国人学生だけである。韓国人も対日となるとヒートアップはするものの、まだ会話は成り立つ。が、中国人学生はただただ主張をくりかえし、そしてプライベートになるとまたころっと変わる。中国のこの世代は生まれてこのかた、一つの見方のみの情報を受けつづけてきたせいだと思う。(p.49)


私自身も中国の人に歴史問題を「吹っかけられて」似たような経験をしたことがある。

ここで述べられているような歴史問題に対する「中国人学生」の態度は、要するに、「知識」ではなく「信仰」を持っている場合に起こることである。教わった事柄を疑ったり、さらに別の角度から批判的に検討するということが許されないが故に、教わったことが客観的な知識となることができず、主観的な信仰箇条になってしまったのであろう。

ただ、私としてはこれが信仰箇条になるか知識になるかの程度に関しては中国の人の間でも個人差が結構あると思っている。ただ、全体的な傾向として、日本に関わる歴史問題に関しては、学校で教わった事柄が「信仰箇条」になっている度合いは他国と比較して著しく高いのは間違いないと思う。

こうした相手と友好的に交わり、摩擦を少なくするためには、思うに、真正面から歴史を検討するというよりは、それに触れないで済ますことであるように思われる。中長期的な視点を持って歴史を検討する作業を裏で交流しながら進めつつ、表では歴史には触れないで交流する(マイナスの情報が刷り込まれている相手にプラスの情報を与えていく)という二重の方向性が必要であるように思われる。



 みんなからどんな話題を振られても、何も答えなかった北朝鮮からの留学生は工学部へ進学していった。こういうおそらく軍事がらみの留学生もちらほらいて、理工大学に軍事レーダーの勉強に行くパキスタンの留学生なんかもいた。(p.50)


なるほどと思わされる。


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『絵画と写真の交差――印象派誕生の軌跡』

 現代の優れた絵画と写真には、ともに静けさがある。
 絵画にとって芸術的なるものとして評価を高めた作品の特徴が指摘できると思う。それは静けさの系譜である。フェルメール、モランディ、ハンマースホイ。20世紀から現代になって評価を高めた画家の何人かの名を挙げると浮かび上がってくる特徴である。いっぽう写真においても、同様なことがいえるのが不思議である。現代の写真作家は写真にある静止性を逆手に取ったような表現にこだわっている。そこで示されるのは、瞬間性ではなく、永遠性である。そうした永遠性を思わせる表現を獲得したとき、写真は写真独自の芸術的な表現を我が物にしたといえるような気がする。(p.277)


なるほど。確かにそうかもしれない。

70年代以降、様々な分野で流動化が進んできたが故に、それに対して変わらないものが求められているのだろうか?


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包慕萍 『モンゴルにおける都市建築史研究 遊牧と定住の重層都市フフホト』(その3)

 異口同音に「迷路の町」と評される帰化城の街路は、いったいどのように形成されたのだろうか。1998年の地図と複数の古地図を重ね合わせ、同時に歴史文献によって街路の造られた期間を確認する作業を行った結果、1850年代までに形成された街区を確定することができた。すると、街路が三つの種類に分けられていたことがわかった。一つ目は、「街」と名づけられた道幅約六メートルの大きな街路である。おおむね商店街はこの道に形成された。二つ目は、「巷」と名づけられた、街区を大まかに区画する「街」とほぼ垂直方向に街区内部に通じる道路である。「巷」(Hang)は細い道を表す山西方言である。帰化城では、「巷」の道幅は約三メートルである。大きな街区はこの「巷」によってさらにいくつかに区分された。三つ目は、「巷」よりさらに狭いことを示して「小巷」「一人巷」と名づけられた、「巷」からさらに裏へと通じる路地である。道幅はさまざまだが、一般的には二メートル以下である。住宅地の通路や店舗の裏道をなすこうした路地は、住宅の入口や店の裏口まで通じており、すべて袋小路になっている。すなわち、公共的な交通路である商店街からその裏側にある住宅地に通じる道路によって街坊が形成され、街坊内の通路「巷」からさらに細かく区分された区画に袋小路が分岐しているのである。道路は幅によって三段階に分けられ、また街区の外側から内側に進むに従って公共性もしだいに希薄となり、私的な性格が色濃くなってくる。このような街路組織は帰化城だけにとどまらず、モンゴルのほとんどすべての売買城では、こういった「街」と「巷」で街路が組織されたのである。(p.178)


中東の都市と非常に似ていると思われるのが印象的。また、このあたりは陣内秀信の影響が感じられる分析手法である。



 中国の城壁都市については多くの研究がなされているが、北京を始め、その大多数が八旗城である。しかし従来の研究においては、住宅地の短冊型の敷地構成、住宅の平面配置、王府が都市内に均等に分布しているといった特徴が、いずれも八旗城の組織に基づいていて形成されたものであることはあまり認識されていなかった。本節では、清朝の八旗制度が城壁都市の構造に及ぼした影響を明確にすることができた。清朝は八旗制度を都市に適用することによって、明朝の城壁都市の構造を基本から変容させ、新たな都市計画に基づく都市構造を築き上げたといえよう。(p.210-211)


社会組織と都市の構造の関係の一例として興味深い。



 元来、綏遠城が建設されたのは清朝が西モンゴルを制圧するための軍事拠点としてであったが、1757年に西モンゴルが征服され、1759年に新疆が創設されて外敵がいなくなると、軍事上の必要性がなくなってしまった。それ以前は、八旗軍の兵士は五年ごとに全国の駐屯地に転勤し、家族を城に同居させることは許されていなかったが、1761年に家族の同居が許されるようになった。つまり、西モンゴルが征服されたことを契機に、綏遠城は軍事的な機能を弱め、「行政的」な都市に変貌しはじめたと考えられる。その結果、1760年代から綏遠城に商業地が増設されるようになったと推論できる。そして、綏遠城に商業地が設置された時期に該当する1762年には、帰化城で都市税関が整備されている。すなわち、1760年代に双方の都市で大きな変容が起こったのである。(p.213)


政治的な動向が都市に与えるインパクト。



 この戦後のフフホト都市計画の基本案であった1957年の草案を、日本統治期の1938年に立てられた戦前の都市計画案と比較してみるとどういうことになるだろうか。結論を述べるならば、1957年の計画は明らかに1938年の都市計画案をベースに立案されていることがわかる。特に、商業区、娯楽区、工業区の配置、幹線道路の位置、緑地帯の設置は完全に一致している。一方、中央ロータリー地区に計画されていた環状道路は放棄され、直交した街路だけが継承されている。また、日本統治期に建てられた日本総領事館は、1950年代以降フフホト市政府として用いられているものの、1940年代の計画ではロータリーが設けられた中央大広場だった都市計画上の中心は、駅の北側の交差点に築かれた方形の新華広場に移された。綏遠城の西城門の城壁沿いに緑地帯を設ける計画は継承されなかったが、西城門前の三角地帯だけは緑地として残され、城門から見て緑地を挟んだ向かい側には内モンゴル博物館が立てられて、戦後のフフホトの都市景観を代表する場所とされている。(p.262)


フフホトの都市計画に日本統治時代の影響が残っている。




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包慕萍 『モンゴルにおける都市建築史研究 遊牧と定住の重層都市フフホト』(その2)

 イヘ・ジョーが建設されてから五年後の1585年にアルタン・ハーンが逝去した際、長子ドゥーレン・センゲ・ホン・タイジはダライ・ラマを迎えるためにイヘ・ジョーの東方100歩ほどの地点に新寺を建築した。これが、現在のシレト・ジョー(席力図召)の古本堂と考えられている。さらに1621年にはシレト・ジョーの東方100歩余りの地点にバガ・ジョー(小召)が建築された。1636年に南モンゴルが清朝の支配下に入って以降、1755年に清朝がモンゴル全体を支配下に収めるまで、南モンゴルは清朝によるハルハ・モンゴル、西モンゴルへの侵攻の前線基地となった。そのため、清朝はチベット仏教を扶植することによって南モンゴルの懐柔を図り、モンゴルの仏教寺院に対して理藩院から僧侶たちの仕俸や経典、職人などが提供された。こうして、兵役、徭役の義務がなく、納税も免除される僧侶が、モンゴル社会における階層を形成していった。その上、一家族に三人の男子がいたならば、そのうち一人は必ずラマ僧にするという法まで制定された。このような政策の後押しもあって、モンゴルにおけるチベット仏教寺院の数は一気に増加した。フフホトでは七つの大寺院、八つの小寺院、24の下級寺院が建設され、1727年には最後の大規模建築として五塔寺が築かれた。すなわち、1580年代から1630年代にかけてはフフホト、ひいては内モンゴルにおいてチベット仏教寺院が建設される時期であり、その後1727年代までは清朝治下でチベット仏教が定着した時期ということができる。1727年以後、フフホトでは、いくつかのチベット仏教寺院が新設されたが、いずれも小寺院にすぎず、既存の寺院の修復、増築にもっぱら力が注がれた。
 これらのチベット仏教寺院により、フフホトはハーンの都市から宗教都市へと変身していった。(p.69)


フフホトにおけるチベット仏教寺院の建設に関する歴史の概要。イヘ・ジョー(大召)、シレト・ジョー(席力図召)、バガ・ジョー(小召)および五塔寺のいずれもが非常に密集したエリアに建設されていることも興味深いが、時期的にも前三者はかなり近い時期に建設されており、それが清朝のモンゴルへの拡張と密接にかかわっていたというのは興味深い。



 1720年代に起こったもう一つの歴史的事件は、1727年に清朝とロシアがキャフタ通商条約を締結したことである。これによって、モンゴルは中国とロシア、中央アジアとの貿易の中継地となった。モンゴルで中継貿易に携わる商人たちは主に山西出身の漢人か回民であり、18世紀から19世紀にかけて彼らが形成した都市はモンゴルにおいて「売買城」と呼ばれた。いわば北アジアで形成されたチャイナ・タウンといえよう。(p.89)


山西商人が有力な商人となったことの理由がようやく分かった気がする。私にとってあの内陸にある山西商人がどうして有力でありえたのか、ということは長らく謎だった。陸路での北方・西方との交易ルートが形成されたことが、あの地域の経済が活性化した重要な要因ということか。



 漢人商人の四合院式の住居の場合、対称的な平面配置を示すことになる。二つ以上の四合院が続く場合、出身地である山西のように中軸線に沿って縦列に並ぶのではなく、売買城では横に並ぶのが普通である。山西の住宅に見られるような中軸線に沿って北側に延びる構成は、二世代以上からなる家庭における儒教的な家庭秩序を反映したものである。しかし、売買城を訪れた当初、商人の大部分はまだ独身で、商売が成功してから、初めて出身地から嫁を娶って家庭を持つ場合が多く、二世代が同居することはあまりなかったのである。(p.106)


フフホトの売買城における四合院建築は、原型は山西から入ってきたものであるが、全く同じ形にはならなかった。平遙で私が見た四合院はことごとく中軸線に沿って連なりを魅せる構成だったのが印象的で、これでもかと同じパターンが続くのに少し飽きてしまったのを覚えている。現在のフフホトで四合院建築を見ることができるかどうかわからないが、近々訪問予定なのでチェックしてみたいところである。



儒教より神仙を信仰する道教寺院の方が多いというのは、アジア各地における華人商業移民社会に共通する宗教的な特徴である。(p.148-149)


儒教は官僚などの政治的支配階層のものであり、民間の社会では道教の方が盛んだったということのように思われる。なお、儒教と道教の寺院の関係は、中国国内にも当てはまるのではなかろうか。中国を訪問したり歴史学などの本を読む際などに、この点に留意しておきたいと思う。



 都市におけるモンゴル仏教寺院の門前に注目すると、さらに共通する空間的特徴が見出される。それは、イヘ・ジョー、シレト・ジョー、バガ・ジョー、ネマチ・ジョーの門前に、いずれも商店街に囲まれたほぼ三角形をした広場があったことである(図78)。1690年代の記録によると、寺院前の空地は現在のものよりも広かったという。その後、寺院前の空地を侵食するように、商店街かが徐々に寺院に向かって拡張されていき、現在では三角形の広場だけが残されているのであるが、それ以上は商店街が拡張されなかったのはなぜだろうか。それは、寺院の前の屋外空間で年中行事や祭が行われたからである。1696年に康熙帝がフフホトに11日間滞在した際には、バガ・ジョーの前でモンゴル相撲や射矢などが披露された。その様子を描いた絵図はないが、バガ・ジョー門前の牌楼軒下の木鼻にはモンゴル相撲の力士像が据えつけられている(図79)。この特徴的な装飾は、この広場で相撲大会が催された名残であろう。また、20世紀初めのイヘ・フレーの絵図には、モンゴル仏教寺院の前で行われた相撲祭が詳細に描かれている(口絵の図F)。モンゴル仏教寺院の行事以外に漢人の祭日にも、門前の広場に仮設舞台を設けて芝居が上演されることがあった。このようにモンゴル仏教寺院の門前広場は娯楽空間としても利用されていたことから、寺院が商店街や居住街区の中心だというにとどまらず、社会生活全体においても中心的な存在であったことが窺える。(p.174)


寺院の前に広場があり、祝祭などが行われるということは、比較的広範に見られる現象であるように思われる。

ヴェネツィアのサン・マルコ広場やヴァティカンのサン・ピエトロ寺院の前のサン・ピエトロ広場、あるいは、イスファハーンの「王のモスク(イマームのモスク)」の前にあるイマーム広場、サマルカンドのレギスタン広場などが私の場合には即座に想起される。また、モスクワの赤の広場も隣にはワシリー聖堂があるし、パリのノートルダム寺院の前も広場になっているし、ハイデルベルクの聖霊教会の前にも(これは市庁舎前でもあるが)広場がある。

くり返しになるが、以上のように、これらがどのくらい祝祭に用いられているか、どれくらい庶民に開かれていたかは別としても、大規模な宗教建築の前に広場があり、そこが祝祭などに使われるということ自体は比較的普遍的に見られる現象であるように思われるのである。

まぁ、カイロのような超高密都市や日本の京都などは、これとは異なっているとは言えそうだが。


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