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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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金田章裕 『30の都市からよむ日本史』

 一方で江戸には、世界の大都市と比べて先進的だった面もありました。それは上下水道です。江戸東部の湿地帯や埋め立てで拡張した区域では、地下水を得ることができません。そこで幕府は、神田上水や玉川上水など「江戸六上水」を拡充させ、市民の生活用水としました。
 ……(中略)……。糞尿は肥料としてリサイクルされたため、下水として放流されることはありません。当時の江戸は非常に清潔で、かつエコロジカルな都市だったのです。(p.78)


ロンドンやパリが汚物で満ちた都市だったことと対比しながら、どちらかというと「日本スゴイ」的な文脈も加味されながら語られることがある。(本書ではそれほどこのテイストはないと思われるが。)

確かに当時の江戸はこれらの点で称賛されるべき内容を持っていたと言ってよいと思われる。ただ、それが「日本スゴイ」の根拠になるかどうかは別問題だろう。このエコロジカルな都市がどのように近代の東京に受け継がれているのかどうかを考えなければならないし、「19世紀にはすごかった」ということと「21世紀に現にすごい」ということとは全く別のことであり、さらに、東京が仮にすごいとしても、「日本」がすごいかどうかは別問題だからでもある。



俗にいう「大江戸八百八町」という言葉は、4代将軍・家綱の時代に、ひとつの町(家屋数20~30程度の町組)につきひとりだけ営業が許された髪結い職人が808人いたことに由来します。(p.79)


これもどこかで聞いたことがあるようなネタだが、とりあえず、なぜ4代将軍の時代が基準になったのだろう?という疑問と共に書き記しておくことにする。



 震災後、帝都復興院と東京市は、地主層に土地の1割を無償で供出させ、新たな都市計画を実行に移しました。このときに建造されたのが、従来よりも広い幅員をもつ昭和通りや大正通り、永代通りなどの幹線道路です。また都内の各所には延焼を防ぐための緑地帯も設けられました。(p.80-81)


関東大震災後、建築に関してはレンガ造などの建築は姿を消し、コンクリート造などが普及していくが、ここで述べられているような都市の構成も他の都市に波及したのだろうか?波及したとすると、どの程度普及したのだろうか?興味がある。



 日本が大陸に進出した昭和初期には、満州への玄関口として定期航路が開かれ、多くの人員、物資が新潟を起点に往来しました。(p.129)


新潟と満洲の関係か。考えたことがなかったが、言われてみれば関係が深くても何ら不思議はない。もう少し具体的に知りたいテーマではある。



 それまで那覇の港は、大陸から仕入れた陶磁器や絹織物などを朝鮮半島や東南アジアに転売する一方、東南アジア産の香木や宝飾品を大陸に転売したり、日本の刀を東南アジアに転売して大きな利益を上げていました。しかし、交易の利益が薩摩藩に吸い上げられてしまい、幕府の方針で清以外との交易も禁じられたため、那覇は一時的に活気を失います。
 ところが、18世紀に入ると、近畿地方の廻船問屋が海運のネットワークを拡大して日本の北と南を結びつけ、蝦夷地(北海道)で獲れた昆布などの海産物を、那覇経由で清に輸出するようになりました。沖縄料理には炒め煮のイリチーなど、本来ならば南西諸島にはない昆布を使ったものが多いのはこのためです。(p.298)


沖縄(那覇)をめぐる明治以前の流通について、コンパクトに説明している。


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『日本を解剖する! 北海道図鑑』
北海道庁旧本庁舎

焼き過ぎれんが
 壁の下の部分のレンガが黒っぽいのは、強度を上げるため、通常より強く火入れをした「焼き過ぎれんが」を使用しているから(p.74)


「焼き過ぎれんが」を使っている建築は他にはどんなものがあるのだろう?



八角塔
 アメリカで独立と進取のシンボルとして、ドームを乗せる建築が流行。これが「『アメリカ風』ネオ・バロック様式」といわれるゆえん。(p.75)


アメリカ風ネオバロックのうち「アメリカ風」の部分は、主に中央のドームということか。



小樽×ガラス

浅原硝子製造所がニシン漁の隆盛を背景に明治43年(1910)に考案したガラス製の漁業用浮き玉は、最盛期の製造量が1000t以上。北洋漁業の縮小や、プラスチック製浮き玉の普及によりその数は減少していったが、豊漁時代の小樽を支えたのはガラス製の浮き玉だった。時は流れ昭和後期、浅原硝子製造所の小売部門を継承した北一硝子が、生活必需品だったガラス製の石油ランプを市内中心部で販売したところ、観光客を中心に大流行。小樽をガラスのまちへと導くきっかけとなった。


明治期のニシン漁という大きな産業に付随して「ガラス玉」が開発された。昭和後期に運河論争により世論の関心が高まり小樽が観光地へと変化していく中で、土産物として観光地としての魅力を高めるのに貢献した「石油ランプ」。この辺りの関連はなかなか興味深い。


『現代思想2018年10月臨時増刊号 総特集マルクス・ガブリエル 新しい実在論』
宮﨑裕助、大河内泰樹、斎藤幸平 「討議 多元化する世界の狭間で マルクス・ガブリエルの哲学を検証する」より

斎藤 (前略)
 フェラーリスやポール・ボゴシアンといったガブリエルが新実在論の賛同者として挙げている人々は、ポストモダンは最初の動機はよかった、という話をします。ジェンダー的規範にせよ、植民地支配にせよ、近代ヨーロッパ的な理性中心主義の普遍主義が、実は知の権力性によって構築されており、抑圧や排除を含んでいる、だから、そこから解放されなくてはならない、というもともとの動機はよかったわけです。けれど、自然的なものは変えられないが、社会的に構築されたものであれば変革することができる、あらゆるものを脱構築することによって社会は変革できる、という戦略が行き過ぎてしまうと、すべてが構築されたものになって、真理や普遍性の地位は脅かされ、相対主義、ポスト・トゥルースが蔓延してしまう。……(中略)……。そうした状況を一度リセットして、事実や普遍性に根づいた理論を再構築しようとする新実在論の試みは、排外主義的なポピュリズムが台頭するなかで有効な軸を打ち出せない左派にとっても、一考の価値があるのではないでしょうか。


同意見である。



宮﨑 (前略)
 ただ、いろいろ見ていて気づいたのは、「Sinn」という言葉についてです。これは基本的にはフレーゲの文脈原理の議論から来ているようですが、でもSinnには感覚やセンスの意味がありますよね。……(中略)……センスの意味を単に意味ではなく感覚、つまり人間に限らない動物なども含めて、自律した近くの契機にまで拡大して考えるのであれば、一応この議論をクリアできる方向で理解できるのかなとは思いました。(p.109-110)


SinnfeldのSinnについて、「意味」と「感覚」の二つの意味があり、「感覚」の意味で用いる場合もあるとすることで、社会構築主義的な構図に陥らない形で議論を展開できるという見解だが、これも同意見である。ただ、ガブリエル自身は、この使い分けのようなものを十分踏み込んで論じているわけではないらしい。個人的にはオートポイエーシスとガブリエルの理論を比較するにあたって、この区別は重要であろう。この点は、私が今後ガブリエルの本を読む際にチェックしたいと思っているところである。



マウリツィオ・フェラーリス 「新しい実在論 ショート・イントロダクション(1)」より

いま問題となっている「新しい実在論者」は、いずれも大陸哲学のなかから出てきた。反実在論の重みは、分析哲学よりも大陸哲学でのほうが、ずっと大きかったからである。……(中略)……。
 しかし、分析哲学者にとって問題が認識論的なものだったとすれば(「概念図式と言語は、わたしたちの世界観にどこまで介入しているのだろうか」)、大陸哲学者にとって問題は政治的なものだった。ポストモダニズムが陥っている誤謬について、わたしは「知=権力の誤謬」という呼称を提案したことがある。この誤謬にしたがってポストモダニズムが育んだ観念は、現実は実際のところ支配を目的とした権力によって構築されているのであり、知は解放の手段ではなく権力の道具であるというものだった。(p.178)


なるほど。



そのような無節操な態度は、大量破壊兵器にかんする偽の証拠に基づいて戦争を始めるところまで来てしまった。「事実は存在せず、解釈だけが存在する」というニーチェの原理がじっさい何を結果したのかを、わたしたちはメディアに――いくつかの政治綱領にも――目の当たりにさせられてきた。……(中略)……。かくしてニーチェのモットーの本当の意味は、むしろ「最強者の理屈がいつでも最良のものである」ということであるのが明らかになった。(p.178-179)


相対主義は強者にとってこそ都合がよいものだということを喝破している。



景山洋平 「精神と現存在の差異 ガブリエルとハイデガーにおける様相・歴史・自由」より。

ポイントは、ハイデガーにおいて、生の意味がそれとの関係で成り立つ事実性が、同時に、生の意味の消失に我々を直面させることである。つまり、「自由・福祉・健康・正義を『課題』としよう」とガブリエルのように断言できる自信はハイデガーの現存在にはなく、生の意味をめぐる絶えざる試行錯誤しかない。(p.262)


私見ではハイデガーの哲学のこうした不安定性こそ、ナチスへと繋がっていくものであると考える。ナチスに限らずポピュリズム的な扇動に動員される人々の心理には、こうした不安定性と結びついた不安や恐れがある。ポピュリズムの扇動はこうしたものと親和的である。



奥井隆 『昆布と日本人』

 江戸時代までは1艘の船は1年一航海が原則でしたが、明治時代に入り、年に3~4回の航海ができるようになりました。それは松前藩の入港制限が撤廃されたことによります。こうして北前船の船主たちは莫大な財をなしていきます。戦国船は19世紀から明治の終わりごろまで活躍します。(p.35)


なるほど。江戸末期から明治にかけて北前船の船主が物凄い勢いで富を蓄積していったのは、このような制度的というか政治的な条件もあったということか。



 つまり、昆布で得た莫大な利益が、倒幕資金となったのです。潤沢な資金が、薩摩藩を中心とした官軍(反幕府側)の軍事費となり、近代的な軍備を整えた新勢力が幕府を倒し、明治維新を迎えることになります。いってみれば、昆布が日本の近代化に貢献したといっても過言ではないと私は考えます。(p.41)


昆布ロードでの貿易において清と密貿易を行うことで、薩摩藩は藩の財政を立て直すことができただけでなく、軍備力増強のための資金にもなり、それが幕府を倒すことに繋がったというのはそうなのだろう。

ただ、明治維新をしなければ近代化しなかったかのような言説はやや割り引く必要がある。例えば、西洋式の城郭である五稜郭を建設したのは明治政府ではなく幕府であったし、幕府も西洋から軍艦を購入するなどのことはしていた。明治時代に西洋化が進んだからといって、後に明治政府を設立する薩長と対立していた幕府が旧守派や日本の伝統に固執していたに違いないと考えるのは恐らく誤りだろう。どちらも西洋化しようとしながら争っていたという見方をすることも可能である。実際、幕府はフランスとも通じていた。英仏の帝国主義の争いにおいて弱い側をバックにつけてしまったことが幕府の敗因かも知れない。



 右近家は江戸中期から明治中期にかけて大坂と蝦夷地を結んで隆盛を極めた北前船主です。幕末には日本海五大船主の一人に数えられ、最盛期には19艘の廻船を所有し、日清、日露の戦役には数隻を軍用に提供しています。
 ……(中略)……。
 右近家の歴史を振り返ってみます。北前船のオーナーとしてゆるぎない地位を築いたのは幕末期。(p.42)


右近家が幕末期にゆるぎない地位を築いたのは、松前藩が入港規制を緩めたことを(他の船主たちよりも)有効に活用したということなのではないか?



 そうした社会の変化のなかで、右近家は、近代的な経営へ向かうことになります。海運業を続ける一方で、最も関係の深い海上保険業への進出を図り、1896年に、石川県の船主・廣海家らとともに、現在の日本興亜損害保険株式会社の礎となった「日本海上保険会社」を設立しました。これはかつての北前船の難破や破損事故から、「保険」を切望した経験があったからこそ、保険会社を立ち上げたのではないかと思われます。(p.44)


北前船の経験にから他の北前舩主らと海上保険へとつながるあたりは、イギリスで船主たちが出入りしていたロイズ・コーヒーハウスで、ロイズ海上保険が誕生したことと似ている。

北前船の船主たちは手に入れた資本をもとにして、様々な業種に手を伸ばし、近代的な経営へと業種を転換していったのだろう。有力な船主たちを個別に調べていくといろいろと面白いことが見えてくるかも知れない。



 実際に、今に伝えられている「江戸料理」のだしは鰹節からのものであり、昆布はほとんど使わないといっていいぐらいです。昆布を使うとしても、日高昆布が主流です。私が東京で初めて商売をするようになった30年前は、築地市場でも昆布は日高しかありませんでした。
 その理由は昆布の流通の歴史に答えが見つかります。北前舩で蝦夷地から上方へ運ばれ、まず上質の昆布から売れていき、量が多かった日高昆布を上方から江戸に送ったのです。言い方は悪いですが、上方で売れ残ったものが江戸で消費されたということになります。(p.71)


なるほど。面白い。流通は地域の食文化にも大きな影響を与える。



 富山は1世帯で昆布を消費する金額と数量は日本一だといわれています。その背景にはやはり北前舩の寄港地だったことがあげられます。なかでも、羅臼昆布は、富山で最も多く消費される昆布です。北海道開拓時代、富山から多くの入植者が知床半島に移住し、親戚縁者にその羅臼昆布を送ってきたつながりが今も残っているからです。(p.117)


開拓のための移住と昆布の消費に関係があるとは、考えたこともなかった。



 琉球は定期的に中国へ貢物を送り、それに対して皇帝からの使節団により恩賜が与えられるという関係でした。その中国からの使節団をもてなすのが豚肉料理でした。使節団は400人、半年も滞在するのが慣例で、大量の食材が必要とされました。豚の飼育が奨励されたのをきっかけに豚肉料理が定着し、昆布と組み合わせたと考えられます。
 中国は、貿易の品に昆布を望み、琉球はその昆布を薩摩藩から手に入れ、薩摩藩は昆布の対価に中国から到来した薬種を求める……そのつながりが昆布と豚肉を結びつけたといっていいでしょう。(p.118)


これも興味深い。


丸山俊一 『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』

 だからたとえば、もし友人や家族などの身近な環境で、深く皮肉で虚無的で、反民主主義の会話を見かけたら、戦え。「ノー」と言え。(p.77)


ガブリエルは権力と柔らかく向き合うべきだという。権力に対して直接、激しく対立するのではなく、ファイアウォールを毎日見直してアップデートすべきだという。ファイアウォールをアップデートするということは、上記引用文のような対応をしていくことと繋がっている。確かに、反民主主義的な言説を垂れ流してもどこからも反論が来ない社会は、権力者が反民主主義的な言動をしても、それに対して批判し、是正させる力も弱い社会であろう。現在の日本のように。



もし、インターネットをリアルな社会的な活動範囲にまで積極的に広げてしまったら、社会的現実を破壊することになるだろう。僕らは、こうして民主主義を壊してしまっているんだ。インターネットは決して民主的なメディアではない。(p.80)


ネットを使った社会活動のすべてが民主主義を破壊するとは限らないが、インターネットには民主主義や言論の自由、表現の自由などを蝕んでいく傾向があることは事実だろう。例えば、言論の自由などの言葉の意味を履き違えながらヘイトスピーチをまき散らすという行為が行われ、無知な輩がそのような粗末な言説に影響され、拡大していき、次第にそれが市民権を得たかのように大きくなっていき、それが批判されると言論の自由を盾にとって自らの主張を正当化しようとする場合など。



 もちろん、僕もインターネットを使う。フェイスブックやツイッターもやっている。しかし、僕はそれらを、「告知」の道具としてのみ使っているんだ。(p.82)


インターネットは双方向のコミュニケーションではなく、一方的に知らせる告知として使うというガブリエルの使い方は、個人としての使い方としては妥当なものの一つである。私もフェイスブックやライン、それどころかメールなどはコミュニケーションのツールというより、告知(通知)するためのツールだと考えている。ネットのメディアで議論をすることは全く現実的ではない。



トランプは、ポストモダン理論を政治へ完璧に組み入れた例だ。ここに、僕らの新しい哲学的な敵が存在する。……(中略)……。彼はポストモダン的天才で、ポストモダニズムの洞察を経済的な言動力にしている。
 ポストモダニズムの基礎的な概念は、覚えているだろうか、これらすべてを突き動かしていたのは、僕らは現実を見ることができない、社会的現実などない、そして映像の外の現実もなく、ただ一つの鏡がもう一つの鏡の横にあるという概念だった。
 だが、もう明らかに、鏡を投げ捨て、新しい段階を始める時だろう。(p.143)


私がガブリエルの思想に興味を持ったのは、彼のこの種の洞察に共感したからである。現代のポストトゥルースと呼ばれる事態は、まさに権力者たちがポストモダニズムを利用しながら統治を行っている事態を反映している。その典型的な実例がドナルド・トランプであり、安倍晋三である。カリスマの有無という問題ではなく、ポストモダニズム的な観点から、マスメディアの批判を封じ込め、野党の批判をはぐらかし続けながら、事実を自らの都合の良いように社会構成主義的に作り直して発信していけば、民衆を容易に騙すことができることを彼らは理解している。彼ら自身には大した能力がなかったとしても、社会の側が権力者の権力を縛ることへの関心を失った(意味を理解しなくなった)結果、大した能力がない者でも、大きな権力を思いきり使えるような制度になっていることも、その背景にある。



そして、もし道徳観がただの好みの問題であるならば、……(中略)……、「正義などなく、あるのは征服だけである」と結論せざるを得なくなる。……(中略)……。だから、社会的現実においては――真実がなければ――純粋な闘いが生じる。それがドナルド・トランプの世界観だ。結局のところ、正義などなく、あるのは征服だけだ。それが彼のビジネスモデルだ。(p.149)


この問題意識に共感する。哲学的にはガブリエルは、この問題意識に対して新しい実在論によって、意味の場の実在論によって答えを出していくことになるのだろうが、この解決策がどの程度妥当であり、どの点で批判すべきかということは、今後、彼の本を実際に読んでみて考えてみたいと思う。



 道徳的事実は、他人の立場になって考えてみた時にわかる類のものだ。……(中略)……。だから、あなたは相手の立場から道徳的事実の意味を理解するんだ。……(中略)……。
 そして理性的な人であれば、テーブルにすべての事実を議題に挙げれば、あなたに異を唱えはしない。あなたが完全に状況を説明すれば、何をすべきかをも知ることができる。これこそが、この知識がとても重要な理由だ。知識と科学は道徳観を形成する上で絶対的に重要だ。もし僕らが知識と科学を攻撃すれば、それにしたがって僕らは人間が道徳的になることを不可能に、またはより難しくするだろう。
 だから、現代の権威主義的人物が科学を攻撃することは、偶然ではないんだ。トランプのような気候変動を否定する人々は、実際の知識を疑うために科学的専門家を攻撃する。これを次の構造にまとめることができる。

 ポストモダンの独裁者――僕らの時代の多くの残念な反民主主義者、ポストモダンの悪しき利用を目論む反啓蒙活動家――には、次の計画がある。
 彼らはあなたを、あなたが知っていることを、本当は知らないと信じさせたいんだ。それは新しいレベルの厄介な計画だ。
 あなたは実際に何かを知っているが、政治の仕組みがあなたに、「現実を知らない」ということを信じさせる。……(中略)……。
 だが実際には、あなたはシリアで何が起こっているかを完璧に知ることができる。だが彼はあなたに教えはしないんだ。
 要するに、あなたが、あなた自身の知る能力を疑うということ。そしてもしあなたが知る能力を自ら攻撃するようになれば、それに従ってあなたはあなた自身の道徳観を攻撃するようになるだろう。なぜなら道徳観は、僕らの知る能力の実践だからだ。だから、もしあなたが現実を知ることは不可能か、または難しいと考えるなら、それに従ってあなたは直ちに、道徳観を理解することも難しいと考えるようになるだろう。
 そしてこれは道徳的間違いを犯す可能性を高める。(p.153-155)


以上のことから、事実を知ることができるということを主張する哲学が公的領域で必要とされているとガブリエルは言う。思想という観点から見れば、この主張は概ね妥当であると思われる。



 ドイツでは、クレジットカードすら、まだあまり受け入れられていないんです。(p.191)


本当か?もし本当なら、昨今の日本の雰囲気、すなわち、「先進国ならキャッシュレスが当たり前、日本は遅れているのでキャッシュレス決済を導入すべきだ」といった風潮は事実に反する認識から出発した議論ということになるのではないか?


早川タダノリ 編著 『まぼろしの「日本的家族」』
早川タダノリ 「「日本的家族」のまぼろし」より

 服部があるべき姿として、あるいは復元すべきものとして掲げている「昔、朝と晩の二回は一家団欒で食卓を囲んだ」という家庭モデルもまた出自があやしい。その「昔」とはいつのことだったのかさっぱりわからない。というのも、日本に「食卓」が登場したのはそんなに昔のことではないからだ。
 文化人類学者の石毛直道らの研究によれば、明治後期から「卓袱台(ちゃぶだい)」が普及するまでの長きにわたって、家庭で使われていたのはもっぱら箱膳だった(使用しなかった階層や地域もある)。箱膳とは、普段は一人分の食器を入れておく箱で、食事の際に蓋をひっくりかえせば銘々膳になる道具のことだ。
 この箱膳が卓袱台に取って代わられたのが大正末期だった。卓袱台の利点は脚がたためることで、食事が終わったら台を片付けてそこに布団を敷くことができた。つまり食事する部屋を寝室にチェンジすることができ、都市部に集中し始めていた労働者の狭小な家屋にマッチする道具だったのだ。(p.22-23)


右派(多くは「保守」を名乗る反動主義者たち)の言説で、回帰すべきとされる家庭モデルには歴史的な根拠がない。本書が「日本的家族」を様々な仕方で取り上げるのも、そのためであろう。

ちゃぶ台が労働者の登場と軌を一にするものだったという点は、なるほどと思わされ、非常に興味深い。都市部のものというイメージがあまりなかったので意外性がある。



 前掲の石毛らの調査によれば、テーブルとイスを使って食事をするスタイルになって、食事中の家族の会話も不作法ではなくなった。ここでようやくアニメ『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ、フジテレビ、1990年―。『サザエさん』〔長谷川町子、フジテレビ、1969年―〕の場合は卓袱台を利用している)に見られるような、現代に生きる私たちが容易にイメージできる「一家団欒」像が現出するにいたるのである。
 しかし、1960年代半ばに誕生した食卓の「団欒」は、80年代初めに崩壊し始める。平均給与水準の低下と女性のパート労働の増大などを社会的条件として共働き家庭が激増し、「お母さんがいつも食事を用意して家族そろって食べる」というジェンダーバイアスにあふれた家族モデルは、維持することが困難な幻想となっていくのである。(p.24-25)


右派(自称「保守」の反動主義者たち)の多くの言説で回帰すべき理想とされる「日本的家族」は60年代から80年代頃の20-30年ほどしか一般化したことがない特殊な家族モデルであるに過ぎない。



堀内京子 「税制と教育をつなぐもの」より

取材し、記事を書いたのが2015年から16年。加計問題が報じられたとき、まるで似たような構図が同じ時期に起きていたことに震撼した。筋書きは内閣府で、需要の算出根拠が不透明、担当官庁(三世代同居は国交省、加計は文部科学省)が難色を示していたのに、安倍首相の肝いりで(三世代は「首相指示」、加計問題は「総理のご意向」)で一気に実現に向かった、という点だ。(p.136-137)


三世代同居住宅へのリフォームで税額控除が受けられる制度の決定過程と加計学園に獣医学部の新設が認められたことの決定過程に明らかに客観性のない恣意的な権力行使(有権者の負託を受けていない正当性がない権力行使)があった。自衛隊の日報問題、森友問題、加計問題といった一連の事件と同じ構図は別のところにもまだまだあり、安倍政権ではこのような恣意的な権力行使が日常的に行われていると見るべきだろう。少なくとも安倍政権が、疑惑を否定し得たことは一度もない


中川裕 『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』

北海道で現在私たちが知っているようなアイヌ文化が成立するのは13世紀頃と言われており、本州で言うと、ちょうど平安時代から鎌倉時代に移った頃のことです。これはおそらく偶然ではありません。源頼朝が東北地方にいた奥州藤原氏を倒して鎌倉幕府を樹立しますが、それは当時の中央政権が東北地方の端まで勢力を及ぼしたことを意味しており、蝦夷と和人(日本のマジョリティ:いわゆる「日本人」)の関係が大きく変わる要因になったことは十分に考えられます。
 13世紀以前に北海道にあったのは、擦文文化とオホーツク文化と呼ばれるもので、それぞれ擦文式土器とオホーツク式土器を使っていました。オホーツク文化はやがて擦文文化に吸収されて、それが現在知られるようなアイヌ文化のもとになったというのがこれまでの定説ですが、アイヌ文化になったところで何が変化したかというと、なんとそれまで作っていた土器の使用を一切やめてしまったのです。これはすごい変化です。……(中略)……。その理由は、鉄製品が豊富に手に入るようになったからだと考えられています。
 ……(中略)……。このように豊富な鉄製品がどこからもたらされたかというと、やはり本州からというのが自然な流れでしょう。(p.55-56)


歴史の変遷は興味深い。さらに言えば、平安から鎌倉への支配層の変化は、大陸の動向(宋から元が支配する)とも関連しているのではなかったか。

土器を使わなくなったというのも興味深い。本書の説明では本州から来た鉄を使ったから、ということだが、もしそういう理由が成り立つのであれば、本州でも鉄で食器などを作ってもおかしくないのではないか?という疑問は生じる。このように、本書の説明には概ね納得はするが、多少の疑問はある。



アイヌの世界観も、カムイとの物々交換――つまり交易という考えを前提にしたもので、これは和人や近隣の諸民族との交易が盛んになってきてから、完成されていった考え方だろうと思います。(p.58)


なるほど。



 樺太アイヌの文化には北方の狩猟民との交流の結果として、彼らとの共通点がいろいろ見られます。網走などで、アイヌのお土産ということで、人の形をしたニポポ人形というものが売られていますが、これはニーポーポという樺太アイヌの玩具兼子どもの守り神で、北海道では一般的にはこのような人型の人形を作ることはありません。(p.59)


ニポポというとアイヌというイメージだったが、そういうものだったとは。



東北地方でも18世紀半ばまで、アイヌ語は生きていたことになります。(p.63)


この辺も興味深い。



 江戸時代に入るまでは、北海道のアイヌと和人は交易相手としてほぼ対等だったと思われます。それが変わってきたのは、1604年に松前藩が徳川家康から黒印状を受けて、正式に松前藩が確立してからです。当時北海道では米はとれませんでしたので、松前藩は俸禄の代わりにアイヌとの交易権を藩士の給与として分け与えました。これを商場知行制と言います。つまり藩士何某がアイヌ何某と独占的に交易する権利を与えたのですが、これはアイヌ側からしたらそれまでの自由貿易ができなくなったわけで、松前藩士の言い値で取引しなければならない土壌ができあがってしまいました。そこへもってきて、特にキリシタン禁教令によって逃れてきた本州からの移民が、アイヌの居住地へどっと入ってくるという状況が生まれました。そのおもな理由が砂金掘りです。「ゴールデンカムイ」という物語の背景は、その300年前から準備されていたのです。
 そのようにして和人への不満が募っていった中で、1669年にシャクシャイン戦争という、歴史上最大のアイヌ対和人の戦争が起こります。(p.63-64)


商場知行制がアイヌ側にとって意味した内容はよく押さえておくべきと思われる。



結果的にシャクシャインは和議といつわった酒宴の席でだまし討ちにあって殺され、アイヌ側の敗北となりました。
 これを機に松前藩はアイヌへの政治的・経済的支配を強め、享保・元文期(1716~41年)には場所請負制という体制が確立しました。それまでは藩士が直接アイヌと取引をしていたのですが、それをやめて、商人に運上金を納めさせ、その代わりに各「場所」(アイヌとの交易地域)の経営を商人に請け負わせるという制度です。利益を上げるために、商人たちは交易などというまどろっこしい方法はとりませんでした。アイヌの成人男女を漁場労働にかり出して、ニシン漁やイワシ漁などに従事させたのです。(p.66)


場所請負人について、北海道では各地域でかつて力を持っていた商人として比較的好意的に紹介されることが多いように思うが、彼らには陰の面もあったということを十分理解しておく必要がある。



私が感心しているのは、作者の野田先生が小樽の街を「治安が悪いけれど、金の匂いがする街」というイメージでお描きになっていることです。
 これは、歴史的には非常に正確な描写なのです。……(中略)……。
 ……(中略)……。他の地域では、たとえば「農地を開くために北海道に来ました」というように、特定の目的のもとで人々が入植したのですが、小樽だけは「小樽に行けば何とかなる」という思いでやって来た人が多い、非常に特殊な環境だったのです。(p.104-105)


この引用文は、小樽市総合博物館館長の石川直章氏によるコラム「小樽から見た「ゴールデンカムイ」」からのものである。

北海道に人を住まわせ、産業を起こさせ、ロシアの南下に対して備えようという当時の政策を実行するに当たり、最も重要な拠点の一つが小樽だったことが、こうした特殊な環境となった理由の一つだろう。国の政策が変わることで、こうした条件が一気になくなってしまったのが戦後の小樽であり、その変化が激しかったことが、古い町並みが残ることになった要因の一つだろう。

大塚玲子 『PTAをけっこうラクにたのしくする本』

ずいぶんまえですが、校長先生が地域のおじいちゃん・おばあちゃんたちに、「お散歩の時間帯を、早朝じゃなくて、子どもたちの登下校のときにずらしてもらえませんか?」って頼んでくださったそうなんです。それでお散歩の時間を変えてくれた人たちが、「子どもたちの見守りをしないと危ない」って気づいて、見守りをしてくれるようになりました。(p.148)


地域で子どもたちの安全の見守りをするというのは、こういうことを言うのか、なるほど。



 PTAで通学路の安全を確認し、問題があれば行政(警察)に改善要望を出すこともできます。予算がかからない内容であれば、わりあいすぐ対応してもらえるようです。(p.149)


なるほど。これも良いアイディア。予算がかからなければ対応が早いというのもその通りだろう。危険性を指摘されているのに放置している間に事故が起こったら行政(警察)としては責任を問われることにもなるのだから。


橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その3)

 1970年、城島高原の「猪の瀬戸」にゴルフ場建設計画が持ち上がった。これに対し、湿原の植物を守るために、旅館経営者たちが中心となって「由布院の自然を守る会」が結成され、建設を阻止した。「守る会」は、翌年には「明日の由布院を考える会」となり、その後「牛一頭牧場運動」「牛喰い絶叫大会」「辻馬車」「ゆふいん音楽祭」「湯布院映画祭」などの全国的に知られるイヴェントが創出された[吉田 2006: 130-131]。
 今日の湯布院発展の基礎を築いた伝説の三人のひとり、中谷健太郎氏の話によると、1970年に中谷、溝口薫平、志手康二の三人がドイツのバーデンヴァイラーを訪ね、滞在型の温泉保養所のあり方について勉強してきた。(p.161)


小樽運河保存運動とも共通性がある。地域のある種の資源が破壊されることの危機感を持つ市民たちが運動を起こしていく点やイベントの創出によってより広く人々の関心を集めるという戦術を使っている点、運動の中核的な考え方などを担っていく人々が当時のヨーロッパなどを見てきた点など、構図が極めて似ているのに驚かされる。



 こう比較してみると、外部資本が提供するものと湯布院産のものとの違いが歴然とする。「外部資本は「わかりやすい言葉」を遣う」といった観光協会の米田事務局長の説明がよくわかってくる。全国のどこにでもあり、どのようなものかがすぐに想像できる「酒まんじゅう」や「かすりの小物」がある。また「由布院創作工房」といいながら提供しているものはどこの観光地でも見かける「とんぼ玉」などである。「わかりやすい言葉」は、「すでによく知られているもの」を指し示し、新たな理解・発見を拒む言葉であった。
 それに比べて湯布院が提供するものは、地域の人の説明が「発見を誘う」言葉となっている。説明を受けてはじめて理解し納得する品物であり、外部資本のみやげもののように「よく知られている」がゆえにためらいなく手が出る品物ではない。地元の人からの説明によって、誰が作り、どんな味で、どう使うのかがイメージできるようになる。そしてそれでは是非買ってみようと手を出す品物である。ゆず・きんかん・かぼすなどはこの地域の特産である。各宿で地産地消を進めるために多少高くても使用している地域産の鶏であり、また「牛喰い絶叫大会」に使われる地元産の牛の「たんしお」であることなど、「まちづくりのものがたり」に導かれてはじめて手にとり、一度その味わいを知ると、リピーターとなる。地域の人々の「ものがたり」によって味わいを増す品物である。
「わかりやすい言葉」が「よく知られたもの」を確認し消費するだけの観光経験を提供するとしたら、「地域の言葉」は「旅における発見」を提供する。すなわち地域の人々が地域の言葉で語る「ものがたり」は、観光者を旅人に変換する契機となるといえよう。(p.167-168)


本書では「すでに知られたもの」を軽く見にいくのは「観光」であり、「新たな発見」をともなうのが「旅」とされている。この対比に外部資本による「わかりやすい言葉」と地元の人々による「地元の言葉」とが対応している。地元の言葉をいかに磨いていけるか、外部資本によるわかりやすい言葉をいかに減らしていけるか、これは地方の観光都市にとっては重要な課題かもしれない。



観光経験に過度の「真正さ」を求めることは問題である。観光は「(観光者にとっての)異郷において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして、売買すること」という特徴を持つ。(p.236)


著者による観光の定義は本書で何度も繰り返されるが、本書を読み進めていくと、これが「旅」や「フィールドワーク」のようなものと区別する定義であることがはっきりしてくる。観光ガイドという観点から見ると、ここでの「観光」の定義に、少しだけ何かを付け加えてやることができればガイドという役割はかなりうまく果たせたことになるのではないかと思う。



 観光者が求めるものは対象の「真正性」ではない。観光者は、観光経験を豊かなものにし思い出深い「真正なものがたり」にする地域の人々との出会いと、彼らの「真摯」な対応を求めているのである。(p.239)


上記の「付け加えてやる」ものの一つとして、これは重要であると思われる。個人的にはこうした真摯な対応によって、観光者の認識や知識や関心のあり方を揺さぶることができればよいと考える。


橋本和也 『観光経験の人類学 みやげものとガイドの「ものがたり」をめぐって』(その2)

筆者は、観光対象についての出発前の認識が、途中では確認・強化されるだけであり、終了後は出発前の認識を追認して終わると指摘してきた。観光後に語られる内容は出発前にあらかじめ提供された事例をなぞるだけであり、観光中の視線もすでに設定された枠組みのなかでしか焦点を結ばない。語りにはスタイルがあり、語り手はそのスタイルを踏襲する。観光者が現地の人々や現地の生活・文化を見て「何かを発見すること」を期待することは困難である。「語るように」または「語られたように」ものを見ること、そしてあらかじめ与えられた情報に示されたように見ることが観光の基本的特徴であるなら、それから抜け出ることは可能だろうか。観光にそれ以上のことを求められるだろうか。観光者が「語られたように」しか、または「与えられた情報のように」しか対象を見ず、新たな発見をしないという批判が現在もなされているが、その批判は観光に観光以上の要素を求めようとすることになる[橋本 1999: 120-121]と筆者は主張してきた。(p.93)


基本的にはこの指摘は妥当と思われる。ただ、本書でも後に指摘されると思うが、小さな発見は観光の中にも取り込み可能であり、その点を過小評価すべきではないと思われる。著者は観光と旅とを異なるものと定義しているようだが、観光のために出かけることを好む人の中には、この小さな発見を積み重ねることを楽しみにしているため、いろいろなところに出かけようとするという人も多いように思われる。

私の見立てでは、海外旅行については、2-3回程度するとやめてしまう人とハマってしまい度々行く人とに分かれるように見えるが、前者は「小さな発見」があまりできなかったため、最初の目新しさだけで終わってしまった人たちであり、後者は「観光の中の小さな発見」などの楽しみをある程度の数や重みをもって経験できた人なのではないか、と思っている。ただ、全体としては前者の方が数は多いと思われるため(データはないが)、観光者にあまり発見は求められないという点は妥当であると思われる。



民族誌家はあらかじめ仕入れた情報をいつでも白紙に戻す覚悟で、フィールドでの「発見」を第一に考える。自分の認識がひっくり返り、新たな世界を発見できるような経験がむしろ望まれている。しかし観光者が自らの認識をひっくり返るような経験を望んでいると考えるべきではない。むしろ「古い話を語るための新しい場所」を探していると考えた方が妥当である。(p.94)


対比としては誤っていないと思うが、民族誌家を含む研究者と言えども、必ずしも事前の情報を白紙に戻すことは好まない、というか、事前の仮説を正しいと思おうとするバイアスはかなり強いということは指摘しなければならないだろう。パラダイム変換という言葉が一時期流行ったが、同一世代の科学者の中ではこれはほとんど起こらず、世代交代の際に変わっていくということが科学史や科学論の著作で指摘されていたのが想起される。

ただ、研究者のフィールドワークでは新たな発見をしようという目的意識があるのに対し、観光者の観光にはその要素は少ない(ほとんどない)という点は言えるだろうと思う。私自身、自分が旅行中や旅行前後にしていることを人に語った時、「それは社会科学のフィールドワークじゃないか」と言われたのが想起される。(研究者である友人には、旅行中にも、「君との旅行はフィールドワークと同じだから楽しい」という趣旨のことを言われたことが想起される。実際、現地の人たちからも私の旅行中の振舞を見て、研究者か教育者だと思われたことが何度もある。)

個人的には、このような、発見をしようという目的意識を持つことは旅を楽しむ上で重要なポイントの一つだと思っている。



ある出来事を単なる事故で終わらせるか、観光の貴重な出来事とするかは、「導きのものがたり」を提供するガイドにかかっている。それがガイドの役割である。しかしガイドが万能であるわけではない。内容によってはブルーナーのインドでの事例のように、ガイドの能力を超える出来事に遭遇することもある。そのような事前の「ものがたり」と相容れない、それを圧倒するような出来事が生じたとき、全体を統辞論的に再編成して解釈の枠組みを提供するものは、経験者自身が時間の経過とともに自らの実存(生き方)と照らし合わせて再構築する新たな「ものがたり」である。それはもはや筆者が定義する観光の枠組みを超えた領域、「発見」をともなう「旅」の領域に入る経験となろう。(p.95)


ガイドには限界があり、それは観光者たちの事前の認識枠組みによって大きく左右される。このことはガイドする際にも参考になるように思う。観光者たちの枠組みがどのようなものなのか見極めて、そこから大きく外れない範囲で物事を紹介していきながら、トラブルには意味付けをしつつ、適宜、枠組みを軽く揺さぶっていく、といったことが良いガイドの一つのイメージのように思う。



ガイドは、民族的偏見を捨て、現地の人々にシンパシーをもって案内し、かつ現地に経済的貢献をするという条件には触れていない。この条件を満たしていれば、トラジャ人から先のような非難を受けることはなかったはずである。(p.108-109)


現地の人々にシンパシーをもって案内するという点は、ガイドにとって結構重要なポイントかもしれない。ただ、批判的な視点も多少は必要であるようには思う。とは言え、反感を持って非難をするのは、少なくとも観光者を相手にする場合には良くないとは言えるだろう。例えば、特に地域の負の歴史について説明する際に、ガイドの姿勢(共感・反感)は重要かもしれない。



観光者は自分なりの「確認」や「発見」を期待はするが、自ら構築した事前の「ものがたり」にそぐわない内容は受けつけない。観光では当初の目的を白紙に戻し最初からツアーを再構成することは、観光の失敗を意味する。ガイドは観光者の「ものがたり」に何かを付け加えることは可能であるが、「ものがたり」の構造を作り直すことはできないのである。(p.143)


ガイドの役割と限界として押さえておきたいポイント。