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アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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森貴史 『旅行の世界史 人類はどのように旅をしてきたのか』

 そして1860年初頭には、ロンドンでは地下鉄道の敷設工事が開始された。この鉄道会社の名称は「メトロポリタン鉄道」といった。イギリスではいわゆる「地下鉄」を「チューブ」や「アンダーグラウンド」、アメリカでは「サブウェイ」と呼ぶのが一般的だが、現在、世界中で地下鉄が「メトロ」と呼ばれているのは、この社名に由来する。(p.117)


あるものを最初に普及させた会社の名前がそのものの呼び名になる事例は結構多い。



 古代ローマ時代には、完全舗装の幹線道路がヨーロッパ全土に整備されていたが、それ以後は荒れ放題で、フランスでは18世紀中葉まで道路整備というものはなされなかった。
 ……(中略)……。
 フランスでは全国的な道路網の整備がはじまるのは、ルイ15世治世下の1738年のことである。(p.127-128)


アルプス以北の世界はローマ帝国の衰退によって長い間、世界の辺境的な位置に留まることになったが、道路の整備状況もそれを象徴するものと言えそうである。国民国家的な統合を必要とする時代になって全国家的なレベルでの道路整備がはじまった。イタリアやドイツのように国家統一がなかなか進まなかった地方ではどうだったのか、気になるところ。


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長谷部恭男、杉田敦、加藤陽子 『歴史の逆流 時代の分水嶺を読み解く』

杉田 菅政権では、発足してすぐに日本学術会議の推薦会員に対する任命拒否問題がありました。……(中略)……。
 それに、もしこういう法律違反のやり方を許してしまうと、たとえば、今は一応各大学が自分たちで選んでいる大学の学長も、今後は国が決める、文部科学大臣が拒否するというかたちで締め付けを行うきっかけになってしまうかもしれません。
 やはり政府には筋をきちんと通していただく必要があると思います。(p.59)


大学の学長の選考にもすでに同じような方向での介入が始まっている。その悪しき流れを変える必要がある。



 学術会議の問題とは別に、日本の学術レベルが落ちたという問題がありますよね。国際的に競り負けているのは、やはり2004年から始まった国立大学の法人化の影響が大きいのではないでしょうか。(p.59)


これはほぼ間違いないところだろう。この政策の検証を行い、問題点を明らかにするべきだ。



むしろ中国に近づいているのは日本ですよね。特に菅政権は何の説明もしようとしないし、人事権を振り回して言うことを聞かせようとした。これは被治者の同意を調達しようとしない政治で、フランスよりも中国に近いわけです。(p.66)


日本の統治のあり様がどんどん中国に似てきているというのは、私も以前から言っているとおりであり、同意見である。



 諸外国では、学校でどうしているかというと、複数の政党に言及すれば、それで政治的な中立性をクリアされていると見なされる。一つの政党のことだけを言っていたら、それは偏向だけれども、複数の政党であればいいと。そのぐらい緩く政治的中立性というものを考えないと、高校の先生たちは有権者教育なんかできないでしょう。
 日本では党派性を持つことは悪いという考えが浸透しているので、有権者教育もできないし、政党政治もできないんですね。人間はみんな党派性があるということをお互いに認めるところから始めないと、政党政治はできないし、政権交代もないと思います。(p.73-74)


現状の日本の教育現場で求められている「政治的中立性」は、政府・与党にとって都合がよいものである。それぞれの党派に対する批判が事実上許されていないため、政府・与党が批判されることがない仕組みだからである。政府・与党であれ野党であれ、その政策などを批判することは中立ではないとされるのだから。これは変えるべきだろう。



杉田 政治学者の見通しが甘かったと言わざるを得ない。権力を集中して決定を速めることが必要だと強調されましたが、それなら政治改革を経た現在、たとえばコロナ対策がうまくいっていないのはなぜなんでしょう。経済も一向によくならないのはなぜでしょう。これまで議論してきたように、データに基づいて分析的に考えることが足りないからではないでしょうか。権力を集中して、異論を排除して、むしろ悪い方向に突き進んだら、どうしようもないではないですか。集中させたら必ずいい結果になるというのはあまりに楽観的な考え方です。それよりは、リスクヘッジという点で、権力の分散のほうがまだましです。(p.76)


90年代の政治改革は明らかに失敗しており、同意見である。ただ、これはほとんどの人にとっては失敗なのであって、権力者になることが約束されている人にとっては望んでいた結果になったと言ってよいものである。日本の社会が良い方向に向かわないため、最終的には支配者側にとっても不都合な結果が招来されることになるが、それは当時の世代が経験することではなく、これからの世代が経験することであるため無視された、といったところだろう。



 自国の安全を獲得するために、近隣国家に戦争を仕掛けるということは、もうすでに近隣相手国への認知が歪んでいるということですね。侵攻した国を支配下に置くことで、どうして自国の安全がより安泰になるのか。(p.151)


近代国家が成立する以前に、先んじて近代的な国家を形成している時期であれば、このような野蛮な考え方でも成り立ったところはあるだろうが、20世紀以後には(近隣諸国を支配下に置くことで自国の安全を獲得するという)この考え方でうまくいった事例があるのか疑問。


沢木耕太郎 『深夜特急4 シルクロード』

 コーラを飲み、乗客もいくらか旅立ちの興奮が鎮まってくると、バス・ボーイはテレビをつけた。白黒だが、意外に鮮明に映る。どうやら、番組はアメリカのテレビ映画のようだった。車椅子に乗った恰幅のよい男性が主役のドラマ。そうだ『鬼警部アイアンサイド』に違いない。ペルシャの平原のど真ん中でアイアンサイドと出会うということが面白く、しばらくは熱心に顔を向けていたが、ペルシャ語のためほとんどわからず、途中で見るのを諦めた。
 車内のサービスは、飴とコーラとテレビだけではなかった。乗客が喉が渇いたといえば、アイス・ボックスのなかの水筒から水を汲み、寒いといえば運転手にそれを伝えにいき、暑いといえばまたそれを伝えにいく。(p.144-145)


イスラーム革命前のイランの様子が描かれているのが非常に興味深かった。アメリカナイズされた社会であり、インドや東南アジア、中国などとは違ってサービスも行き届いた豊かな国であるという印象。



 快適なのはそれだけではなかった。宿には共同のシャワー室があり、なんとそのシャワーから温水が出たのだ。しかも、通常のヒッピー宿は金を入れなければシャワーの水が出ない仕組みになっていたが、ここはまったくの無料だった。(p.147)


インドより東とイランとで大きく様子が変わる。この違いが何に起因するのか改めて興味を惹かれる。石油、欧米との良好な関係、欧米の植民地にならなかったこと、いろいろと関係していそうに思う。



「王のモスク」の近くにはロトフラー寺院がある。「王のモスク」が男性的な鋭さ、冷たさ、強さを表現しているものとすれば、このモスクのドームは暖かいクリーム色と柔らかい曲線をもった、まさに女性そのものを象徴しているかのようだった。眺めていると、心がゆるやかに溶けていくような気がした。(p.161)


マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーは私も好きな建築物の一つだが、王のモスクとの対比でその印象をうまく描いていると思った。王のモスクは大きな建造物であり、タイルも絵付けタイルを大量に用いているのに対し、ロトフォッラーのモスクはより高級なモザイクタイルを使っていることなども、こうした繊細さを感じさせる要因の一つだろう。


津野香奈美 『パワハラ上司を科学する』

 人は社会的に優位な立場に立つと、横柄になることがわかっています。社会や組織の上位にいくほど、①慈悲や同乗の気持ちが減り、②権利意識や自己利益についての意識が強くなり、③周囲の人の不利益を顧みなくなることが、様々な研究からわかっているのです。
 権力を有する側は、紛争や交渉においても「要求をのむか、さもなければ、痛い目に遭うか」というアプローチを好むと報告されています。……(中略)……。
 また、米国のカリフォルニア大学バークレー校の研究者らが行った七つの研究結果から、社会的に上の立場の人の方が、そうでない人よりも非倫理的な(不誠実な)行動をしやすいことがわかっています。(p.48)


優位な立場の人間は、他者の目を気にしなくてよい権力を持っていたり、そのように自覚ないし錯覚することから、このような行動をとるのではないか。

また、このことからわかるのは、特に政治において権力分立ないし権力の抑制と均衡が極めて重要だということ。特定の機関(内閣・首相官邸など)に突出した力を持たせると、その国家機関は必ず横柄に振る舞うだろう。



 モノポリーの実験で証明されたように、社会や組織の上位に行くほど、自分の努力によってその地位まで到達したと認識してしまうため、努力しない者に対して自己責任論を押し付けたり、厳しい態度をとったりするようになる傾向があります。これが、人が権力を手にすると横柄になってしまう理由です。
 これは組織内の昇進にも同じように当てはまります。本当はたまたま年齢的に適齢だった、たまたま取引先に恵まれた、たまたま家事・育児・介護の負担がない等の有利な条件で仕事していた、あるいは上長のお気に入りだったなど昇進に大きく影響していたとしても、昇進した本人はそういった環境要因よりも「自分が努力したからだ」「自分は選ばれた人間なのだ」と認識する傾向にあります。
 その結果、「下は言うことを聞くべき」「自分のように、周囲も努力すべき」という思考になり、その期待に応えない部下に対してイライラするようになります。部下の努力を当然のこととして求めるので、次第にパワハラにつながるような言動が増えるのです。
 さらに、上司になると、慈悲や同情の気持ちが減るだけでなく、部下の感情を適切に読み取ることもできなくなる傾向にあります。(p.51-52)


自己責任を求めるというのは、日本社会に広くみられる傾向だと言われる、最近は一時期よりはこの傾向は弱まってきたかもしれないと思うが、もしかすると、それは90年代や00年代には日本社会は諸外国と比較して経済力もあり技術力もある国であるという自己イメージがあったこと、そうでありながら経済がうまく回っていないフラストレーションがあったことと関係しているかも知れない。

つまり、「自分(たち日本人の支配的な階層)は、努力したから経済力も技術力も優れているのだ」と認識し、経済が回っていないのは、自分の属する支配的な階層ではない人間に非があるはずであり、これを打開するためには、被支配階層の日本人は「自分のように努力すべき」というような発想が社会の中に漠然とあったのではないか。

特に90年代以降、様々なマイノリティーの権利が発見され、それの実現を目指す運動が世界的に起きてきたが、日本社会は明らかにそうした権利を認めてこなかったが、そのことも上記のようなメンタリティの帰結であるという面があるのではなかろうか。



 これは、子どもを対象にした研究結果と、驚くほど一致する結果です。パワハラ行為者もまた、外向的で一見人当たりが良さそうでも、本当の意味で人(相手の幸せや欲求)に関心がなく、自分の欲求を満たすという自己利益を優先させる、つまり利己的で他者を利用する傾向があると言えます。
 ……(中略)……。
 しかし、学校のいじめと同じで、ある特定の人(部下)に対してはひどいことをしていても、本人は外向性が高く社交的なので、上層部から評価されやすい傾向にあります。(p.74-75)


私としては、子どものいじめと大人のパワハラは同じものだと思っている。逆に違いが分からないと言ってもよい。違いがあるとすれば置かれている社会のあり様が子ども社会では「学校」という社会で起きるため、特定のパターンがある、というくらいではないか。子どものいじめにもある種のパワーの上下関係があって発生する。(会社の同僚からのパワハラと同じ。)大人からはそれが見えにくいからパワハラだと認識されないだけである。

後段のいじめやパワハラの実行者が上層部から評価されやすい傾向にあるという点については、子どもよりも大人の方がうまく立ち振る舞うため多いのではないか、という気がする。子どものいじめの場合、少なくとも首謀者というか一番の中心人物は、大人(先生)から高く評価されることは少ないように思われる。(中心的ではない行為者であれば大人からの評価を受けている子も多くいるだろうが。)



特性 サイコパシー

特徴 良心が異常に欠如している、他者に冷淡で共感しない、慢性的に平然と嘘をつく、行動に対する責任が全く取れない、罪悪感が皆無、自尊心が過大で自己中心的、口が達者で表面は魅力的。(p.78)


笑ってしまうほどこれに該当する人が近くにいるので驚いた。



そのため、ダークトライアドの特性を持つ人に対して行動変容を促すのは、残念ながら容易ではないと言えるでしょう。(p.79)


ダークトライアドとは、マキャベリアニズム(マキャベリ主義)、サイコパシー(精神病質)、ナルシシズム(自己愛性傾向)の三つの特性から構成される邪悪な性格特性のこと。本書と『自己正当化という病』とは内容が重なる点が少なくないが、この指摘も『自己正当化という病』において「自分が悪いと思わない人を前にして、一言でも謝らせたいと思ったことは誰にでもあるはずだ。私自身もある。だが、それは時間とエネルギーの浪費に終わることが少なくない。(p.198)」と述べられていたことと重なると思われる。



 さらに、日本の研究では、国内情勢が悪化したり、治安が悪化したりするほど、人々は邪悪な性格特性を持つ人に魅力を感じやすいことが明らかになっています。「〇〇さんは他人を操ってでも、自分の思い通りにすることがあります」と説明を受けても、自分が治安の悪い地域に住んでいると思った人は、その人に自分の地域の代表になってもらいたいと判断する傾向にあったのです。多少の非倫理性に目をつぶっても、その人の「実行力」に期待するのです。国や組織が混とん状態になった時は、邪悪な性格特性を持つ人が活躍する機会が増える可能性があると言えます。(p.84-85)


外国で言うと、ヒトラー、プーチン、トランプなどが想起されるが、日本について言えば、安倍晋三や橋下徹がすぐさま想起される。



 また、B群の中でも、境界性パーソナリティー障害や演技性パーソナリティ障害が、泣いたりかんしゃくを起こしたりと言った情動面での不安定な様子を見せやすいのに対し、反社会性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害は、しばしば正常に見えること、あるいは魅力的で愛想の良い外見を示すことが指摘されています。
 そのため、反社会性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害に該当する人であっても、初対面ではほとんどわからないでしょう。一緒に仕事をしたり、生活をしてみたりして初めて、「あれ?」という違和感を覚えます。そして多くの人が、巻き込まれるか(利用されるか)、あるいは距離を置くか、のどちらかの道をたどることになります。(p.87)


ダークトライアドの構成要素のうち、サイコパシーは反社会性パーソナリティ障害に該当し、ナルシシズムは自己愛性パーソナリティ障害に該当する。これに該当すると思われる人を知っているので、ここの叙述は身に染みてよくわかった。利用されるか距離を置くかという点について、距離を置くのが最適なのだが、「人質」が取られている場合、距離を置けないというジレンマが生じる。



専制型上司は部下に対する要求度が高く、できなかったことに対して罰を与える傾向も強いため、容易に高ストレス状態にしてしまい、パフォーマンスを下げる危険性が高いのです。(p.115)


しばしば見かける。



 日本の大学生を対象にした研究において、顕在的自尊心が高く潜在的自尊心が低い者は、顕在的自尊心も潜在的自尊心も高い者(安定的に自尊心が高い者)と比べて、自己愛的傾向が強く、内集団ひいきを行う傾向にあることがわかっています。これは恐らく、潜在的に自尊心が高くないがゆえに、自分と異なる集団のことを認めることができないと考えられます。そしてこれが、いじめやパワハラにつながってしまうのです。(p.140-142)


これは安倍晋三にぴったりと当てはまる。彼に対する直接的な批判やヤジがあると、それに対してやたらと強く反発するのも潜在的自尊心が低いからであり、内集団ひいきは第一次政権の「お友達内閣」から始まって「森友、加計、桜」のいずれにも見られる。森友(籠池氏)についてはもともとは深い関係ではないがゆえに自分を批判し始めると切り捨てたが。また、今話題になっている放送法の解釈にも関係するが、マスメディアの選別によりマスメディアを委縮させたり、批判を封じようとした手法も力関係を利用している点で明らかにパワハラ的だし、内閣人事局による官僚人事の掌握とそれによる官僚の萎縮もパワハラ的な力の行使が背景にある。

この構造をそのまま残してしまい、また同じような権力者がいつでも発生できる体制を残したという点で安倍晋三の罪は深いし、そうした権力の暴走を止めるような権力分立の仕組みをもっと取り入れる必要がある。



 パワハラ行為をしやすいタイミングの一つ目は、「新しくパワーを得た時」です。昇進した場合、責任のある仕事を任された場合、出向した場合などが当てはまります。こういった不慣れな場面に置かれた場合、「わからない」「知らない」ことを認めることで自分の権威が失われたり自尊心が傷ついたりするのを防ぐために、相手を攻撃することで自尊心を保つという行動に出ます。(p.153)


なるほど。確かにこうしたパワハラ行為者を見たことがあるが、その動機が理解できたように思う。



 人は、一度「あいつはだめ」「あいつはできない」「あいつは生意気」等とネガティブな印象を持ってしまうと、無意識のうちにその印象に合致した言動をさらに探してしまい、「やっぱりあいつはできない奴だ」等と決めつけてしまう性質があります。そしてこれが、さらなるイライラの原因になってしまうのです。
 それを防ぐために有効なのが、別の思考オプションを予め用意しておくことです。「あの人はだめな人だ」「仕事ができない人だ」と思うことがあったら、次回からこう思うようにして下さい。「あの人はだめなのではない。①(その仕事の)やり方を知らないか、②(その仕事が)苦手なのか、③何か事情があるのだ」と。(p.209)


能力がないとされて周囲からダメ認定されている人について、①から③のように考えると、①に該当するケースは結構あるように思う。技能の習得の早さや自発性の低さなど、本人の基本的な要因によるところも大きい場合もあるが、その場合は仕事を特化させていくつかの業務のエキスパート的な形にして事務分担を見直すことで解決できることがある。 

「ダメ認定している側の人がダメな人」であり、(特にその人が上司なのであれば)必要な改善ができていない人なのだ。



 まず上司世代を見ると、……(中略)……。第一~三位を見ると、「自分のために仕事をしている」と回答した人が多いことがわかります。
 一方、部下世代を見てみるとどうでしょうか。……(中略)……、「誰かに認められたい・ほめられたい」を仕事のモチベーションとしていると回答した人が圧倒的に多かったのです。(p.224)


上司世代は40~50代中間管理職なので、概ね60年代後半から70年代頃の生まれ、部下世代は20~30代なので、80年代から90年代の生まれということになる。

高度成長の雰囲気があったかなかったか、という点がこの意識を分けているように思われる。社会の経済力全体も会社自体も急速に成長している時代は、個人に着目しても昇進や昇給の機会が多かった。自分がその流れに乗れるように単純に努力することが求められた。経済成長が止まり会社の成長も止まると、そうしたことを動機にしても何も得られないことが多くなる。そこから相互の関係性を重視することになる。

本書のこの箇所に続く分析は、なかなか示唆に富むものだった。一言で言うと、上司世代がパワハラに耐えられたのは、それに耐えた後には昇進や給与アップが約束されていたため耐えられたのであり、部下世代にはパワハラに耐えた後の明るい未来が見えない中、自分の働く動機である他者からの承認も潰されることに耐えられるはずがない、という。


片田珠美 『自己正当化という病』

 「暗点」とは視野の中の欠損部分であり、それによって見えない箇所が生じる。同様に、意識野に「暗点」ができて、ある種の体験や出来事があたかもなかったかのように認識されるのが「暗点化」である。
 ……(中略)……。
 そもそも、自分の見たいものしか見ようとしないのが人間という動物だ。だから、「暗点化」は誰にでも起きうる。これは心穏やかに暮らすための自己防衛の手段なので、当然ともいえる。
 もっとも、「暗点化」が起きやすい人と起きにくい人がいる。「暗点化」が起きやすいのは、だいたい自分には“非”がないと思い込む人である。こういう人は、強い自己愛の持ち主であることが多い。
 ……(中略)……。
 ここで見逃せないのは、本人が必ずしも嘘をついているわけではないということだ。少なくとも、本人の認識では、嘘をついたつもりは毛頭ない。自分にとって不都合な事実が知らず知らずのうちになかったことになっていただけの話である。
 周囲の目には、都合がよすぎるように映るし、ときには反感を買うかもしれない。しかも、「暗点化」によって自分の“非”がなかったことになると、どうしても相手の落ち度が目につきやすい。(p.72-75)


自分の自尊心を守りたい→不都合な事実を見えないようにする→自分には非がないと思うことができる→よくないことは他者に原因があるはずだという意識が生じる→他人の落ち度が目に入りやすい、といった心理のメカニズムが非常によくわかる箇所。



 厄介なことに、加害者とみなす相手に怒りを覚えても、直接ぶつけるのが難しい場合が少なくない。……(中略)……。
 それでも、怒りが消えてなくなるわけではない。……(中略)……。だから、その矛先を方向転換して別の対象に向ける「置き換え」というメカニズムが働く。……(中略)……。
 同様のメカニズムが働いた結果起きていると考えられるのが、政治家や芸能人などの発言、あるいはネット上に掲載された記事の炎上である。……(中略)……。
 ……(中略)……。
 こういう人は、いわば他人の怒りに便乗して怒るわけで、“便乗怒り”といえる。この“便乗怒り”は、「他の人も怒っているのだから、自分も怒ってもいい」という理屈で正当化されやすい。当然、怒っている本人は、自分が悪いとは思わない。
 ……(中略)……。
 心理的な抵抗が小さくなると、怒りの対象だったはずの発言や記事がそもそもどんな内容だったのかも、どのような文脈で発信されたのかも、それほど重要ではなくなる。なかには、そんなものはどうでもいいとさえ思う人もいるようだ。
 こういう人の多くは、「誰でもいいから叩きたい」という欲望に駆り立てられている。……(中略)……。
 そのうえ、怒ることによって優越感も味わえる。……(中略)……。
 こうした優越感は、相手が大物であるほど味わえる。当然、政治家や芸能人は絶好のターゲットになる。(p.148-151)


ネットでの炎上に限らず、ネットでの過激な発言(右派の内輪だけで流通している本・雑誌などの言説も含む)一般にこれは当てはまるように思われる。こうした言説において、自分の欲する方向に話を持っていくことが最優先され、事実が置かれた文脈などは重視されないのは、何らかの不満があり、何でもいいから正当な理由をつけて攻撃することができればよいからであろう。



 「誰でもいいから叩きたい」という欲望を抱くのは、日頃から鬱憤がたまっていて、そのはけ口を探さずにはいられないからだろう。……(中略)……。
 こうした欲望が端的に表れたのが、先ほど取り上げたネット上の炎上、そしてそれに便乗する“便乗怒り”だが、最近問題になっている「カスタマーハラスメント」、いわゆる「カスハラ」の根底にも同様の欲望が潜んでいるように見える。
 ……(中略)……。
 こうした「カスハラ」が増えている背景には、デフレ経済が30年近くも続く状況で、顧客獲得のために“過剰”ともいえるサービスが当たり前になったことがあるように見える。また、SNSの普及によって誰でも悪評を容易に発信できるようになり、しかもそれがすぐに拡散することも大きいだろう。
 だが、問題の核心は、店員を怒鳴りつけたり脅したりすることによって日頃の鬱憤を晴らそうとする客が少なくないことだと私は思う。なかには、商品やサービス、果ては店員の態度のあら探しをして、いちゃもんをつける客もいると聞く。この手の客は、日頃怒りたくても怒れないので、怒りの「置き換え」によって、その矛先を言い返せない弱い立場の店員に向けると考えられる。
 矛先を向けられた店員が客の要求を受け入れ、謝罪すれば、客としては優越感を味わえる。日頃鬱屈しており、無力感にさいなまれている人ほど、「カスハラ」によって得られた優越感を忘れられないのか、繰り返すように見受けられる。(p.152-153)


日本社会に漂う不満感のようなものがカスハラなどにも表れる。その心理的メカニズムは「置き換え」によって説明可能である。カスハラの常習者がカスハラを繰り返すのは、それによって得られる優越感なども要因となっている。非常に納得できる説明。

なお、デフレが続く中、過剰サービスが当たり前になったという点を指摘しているのも興味深い。企業が価格支配力を失ったことが過剰なサービスによって顧客をつなぎとめようとした大きな要因ではないか。そして、それが社会にある程度定着したことについて、それを良いものとして評価しようとしたもの(負の側面は見えないようにしたもの)が「おもてなし」という言葉であろう。それが日本社会の特徴だと言われるようになったのは、日本がデフレで企業が価格支配力を失ったため、価格以外のサービスで差別化するしかなかったという無力さが表れているものだという点も認識しておく必要があるだろう。



 複数の幸運が作用した結果うまくいっただけなのに、能力と努力のたまものと思い込む傾向は、個人だけでなく集団にも認められることがある。その一例として、経済評論家の加谷珪一氏は「戦後日本の経済成長は、日本人の不断の努力によって実現したものであり、必然の結果である」という思い込みを挙げている(加谷珪一 『縮小ニッポンの再興戦略』)。
 ……(中略)……。
 日本の高度成長をもたらした偶然の要素として、加谷氏は朝鮮戦争と中国の革命の二つを挙げている。
 ……(中略)……。
 しかも、朝鮮戦争の終結後も大躍進政策の失敗、さらには文化大革命によって経済が疲弊した。そのため、1970年代後半に改革開放路線がスタートするまで、日本にとって圧倒的に有利な状況が続くことになった。いわば中国の失敗による「ライバル不在」という状況に日本経済は助けられたわけだ(同書)。(p.192-193)


基本的に同意見である。さらに言えば、冷戦の西側陣営の最前線にいたことが日本が60年代前後に高度経済成長を果たした構造的な要因である。



 自分が悪いと思わない人を前にして、一言でも謝らせたいと思ったことは誰にでもあるはずだ。私自身もある。だが、それは時間とエネルギーの浪費に終わることが少なくない。(p.198)


相手は暗点化などによって自分の非が存在しないことになっているのであり、防衛機制である暗点化を解除して事実を見させることは極めて難しい、といことのようだ。確かにそうかもしれない。



 孤立していると、自分が悪いと思わない人に立ち向かううえでも不利である。(p.205)


自分の非を認めない人が、表面的にうまく振る舞って見方を作るのに長けている場合、非常に厄介である。


中藤玲 『安いニッポン 「価格」が示す停滞』

 ここからは、なぜこれほど日本の価格が安くなったのかについて見ていこう。
 第一生命経済研究所の永濱利廣・首席エコノミストは「一言で言えば、日本は長いデフレによって、企業が価格転嫁するメカニズムが破壊されたからだ」と指摘する。
 製品の値上げができないと企業がもうからず、企業がもうからないと賃金が上がらず、賃金が上がらないと消費が増えず結果的に物価が上がらない――という悪循環が続いているというわけだ。そうして日本の「購買力」が弱まっていった。(p.37-38)


90年代以降の政策の誤りが大きいと考えられる。少しさかのぼって80年代半ば以降、労働組合潰しの政策が多く行われた。国鉄の分割民営化などはその目玉と言えるものだろう。元々交渉力が強いとは言えない(企業別の)労働組合を徹底的に弱体化させた後、90年代にはグローバル化という名目の下で海外の安い労働力を求めて企業が海外に進出する。結果、国内での賃金は上がらなくなった。むしろ、非正規雇用を増やすことを政府の率先して行った。90年代に「フリーター」という言葉が流行したが、その推進派が当時何を言っていたのか、それは真実として受け取れる程度の内容を持つものだったか、想起されたい。法人税は減税され(90年代以降、下降トレンドである)、賃金を上げない。結果、企業には内部留保がたまっていった。

日本では企業の経営者や資本家側にとって都合の良い政策ばかりを採用し続けていることによって、政策的に賃金を上げるインセンティブが全くと言うほどないことが問題だろう。



 ところが、バブルが崩壊して数年たった1995年頃から、多くの企業が価格を動かさなくなった。……(中略)……。
 当時はバブル崩壊で不景気になり、原材料費や人件費を価格に転嫁して値上げすると消費者が逃げてしまうので、価格の据え置きは企業の戦略として理解できる。だが問題は、少しずつ景気が良くなった2000年代以降もその慣行が続いたことだ。……(中略)……。
 アベノミクスのように物価2%を上げることを目指しつつも、モノの価格を上げることに消費者は抵抗するので、それなら政府の目標を賃金に切り替え、3%の賃金上昇を目標値に掲げるような政策が必要だ。ターゲティングをモノの価格から賃金にすり替えて強調するだけで印象が変わり、「賃金が上がるんだ」と思えば値上げも受け入れられやすくなる。(p.74-75)


この箇所は渡辺努氏へのインタビューだが、目標を物価上昇ではなく賃金上昇にするという発想は良いと思われる。金融政策だけでなく、様々な政策を賃金に焦点を当てて賃上げができるようにするために組み直していくことができれば、ある程度はデフレから抜け出す力になるだろう。

財界との癒着が激しい自民党がこれを強く打ち出すのは難しいかもしれないが、野党がこの点に気づいて主張することも必要ではないかと思う。選挙的にも物価上昇より賃金上昇の方がイメージも良いのだから、政治にとっても受け入れやすいのではないか。



許斐所長によると、高級車の組み立て工場における生産性(1台あたりの組み立て時間)は日本が約17時間でアメリカは約33~38時間、ヨーロッパは約37~111時間とされていた。
 それでもドイツの生産性が高いと言われる所以は、価格にあったのだという。
 自動車など多くのモノが、日本よりも高い。
 許斐所長は「ヨーロッパで5倍の時間をかけて作った車も10倍の価格で売れば、金額の生産性は2倍になる。それこそがドイツの生産性の高さの理由だった」と分析する。
 ……(中略)……。
 「日本の生産性が低いという理由の一つは、日本の価格付けの『安さ』にある」(許斐所長)と結論付けた。(p.96-97)


「日本は生産性が低い」としばしば言われる。このことにはいつも違和感を感じてきた。その理由がわかった気がする。日本という社会全体として生産性が低いとすれば、システム的な要因であるため、個々の労働者の努力などには帰することができないはずだというのが私の直観であり、違和感の源泉だったように思うが、システム的な要因があり、その要がどこにあるのかが見えたからである。

この言葉が言われるとき、保守的な立場の人が言う場合が特にそうだが、「労働者が悪い」というニュアンスが含まれることが多い。しかし、上記の分析によれば、価格付けが低いことが問題だとするならば、どちらかと言えば問題は資本家(投資家)や経営者の側にあることになる。もう少し踏み込むと、経営者側を動かしているシステムが問題であり、その要は経営する側や政策を執行する側にある。



 今や日本全体の雇用者の4割を非正規が占め、働く人手が外国人労働者などにも多様化するなか、春闘のような画一的な賃金交渉だけでは、こういった人材のニーズに対応しきれているとは言いがたい。多数派から外れれば外れるほど、自助努力が必要な社会でいいのだろうか。
 ……(中略)……。

 企業内組合や産業別組合の賃上げシステムは、戦後は確かに機能した。
 だがこういった集団的な労使交渉メカニズムが弱体化して久しいのに、それに代わる個別の交渉手段が発達してこなかったことも問題だ。(p.126-127)


本書ではこのように集団的な労使交渉メカニズムに代わる賃金交渉手段がないという問題意識がしばしば語られる。しかし、集団的ではなく画一的でもない交渉手段で、うまくいっているようなものが海外を含めてあるのかという疑問が湧く。

むしろ、労働組合の組織化をより義務的なものに格上げし、非正規も含めて賃金交渉をすることを義務付けるなど、労働者保護の法制度をより強化する方向での改革も可能ではないか

労働組合を壊し続けてきたのは政治の側であり、経営者団体の側である。そのように壊された労働組合が力がないからと言って、その非力を放置したまま、個別で多様な交渉手段を、などと言われても、「何言ってんの?」という感じがする。企業別組合は欧米のような産業別の組合よりも交渉力は劣るだろう。そうであっても、もう少しまともに交渉できるだけの環境を整えるということも重要なのではないか?



労使の交渉結果を社会全体へとどう波及させていくか、政労使での議論が必要だ。フランスは労組の組織率は全体でも7%と低いが、労働協約は9割以上の労働者に拡張適用される。そのような合意形成も参考にすべきだろう。(p.149-150)


神津里季男氏へのインタビューだが、労働組合の交渉を社会に拡張適用するというのも検討に値する方法であるように思われる。



 だが、日本は環境意識が低いため完全養殖などの「付加価値」を認めてもらいにくい土壌があり、値上げにつながりにくい。(p.236)


日本は90年代以降、よりリベラルな価値観を広めていく世界的な動きから取り残されており、80年代以前の「昭和」の価値観を色濃く残している。そのことが様々な形で経済にも悪影響を及ぼしているというのが私の見立てであるが、この点もその一つだろう。同性婚や選択的夫婦別姓などを認めないことなども同じように社会や経済に悪影響を及ぼしている。このことに保守的な陣営は気づくべきだろう。



ジーン・シャープ 『独裁体制から民主主義へ 権力に抵抗するための教科書』

 独裁体制が存在し続ける理由は、たいてい国内での力の配分にある。民衆と社会は、独裁政権を揺るがすにはあまりにも弱く、富と権力はごく限られた人々の手中にしかない。独裁政権は、国外からの行動によって利益を受けたり、ある程度弱体化したりすることもあろうが、その存続は主に内部要因によっているのだ。(p.24)


ここは独裁体制と対峙するにあたっては外国勢力を頼りにし過ぎてはいけないのであり、国内の抵抗運動が力をつけて独裁者から力を奪っていくことが重要なのだということにつながる重要な認識だと言える。



 独裁体制に対峙する際の目的は、単に独裁者を追放することではなく、民主主義体制を打ち立てて、新たな独裁政権の樹立を不可能にすることであるのを忘れてはならない。この目的を達成するためには、選ばれた闘争手段が、社会における力の配分に変化をもたらすようなものである必要がある。(p.90)


ここでも国内の力の配分について語られているが、民主的な体制というのはより力の配分が平等に近いものであることを意味するのだから、この力の配分ということはかなり要となる要素だと言ってよいだろう。


中見真理 『100分de名著 ジーン・シャープ 独裁体制から民主主義へ』

 シャープの理論で瞠目すべきは、非暴力で独裁の牙城を切り崩すことが可能だと主張している点でしょう。「非暴力でも」可能なのではなく、「非暴力でなければ」勝算はないとシャープは言っています。(p.32)


この点はシャープの理論の画期的なところだと思う。独裁者の支配の正当性を奪うことが要諦だからこのような結論になると言える。もちろん、暴力で抵抗することは独裁者側にとって有利な場で戦うことになるため、抵抗者側に不利だという要素も大きいとは思うが。



 彼女たちは、1900年から2006年までの間に政府を打倒(もしくは抑圧者から領土を解放)した抵抗運動のうち、参加者が千人以上の事例323件を徹底的に調査しました。その結果、暴力的抵抗の勝率が26%ほどだったのに対し、非暴力で闘ったケースでは実にその二倍、約53%が成功を収めていることがわかったのです。(p.97)


こうした近年の研究成果も学んでみたい。



 たとえば、政治家が発する言葉の真意を見極めることも、民主主義の強化につながります。(p.103)


こうした問題意識を持って政治家の発言を検証していくことは、確かに重要ではある。

例えば、岸田首相の「所得倍増」は「所得全体」の倍増(2倍にすること)ではなく「所得のごく一部である資産所得」を「倍増」することであり、しかも「倍増」というのも、通常の辞書的な意味(2倍に増えること)とは異なり「1.1倍でも倍増」というようなものらしい。仮に全所得を100、そのうち資産所得を20とすると、辞書的な意味での所得倍増は100が200になることを意味するが、岸田首相の「資産所得倍増」だと増分は20×0.1=2であり、100が102になることでしかないことになる。

また、政治家ではないが日銀の黒田総裁は就任時、インフレ率2%を2年以内に達成しなかったら辞任する趣旨の発言をしていたが、結局それを達成することなく居座り続けた。

これと関連して、第二次安倍政権が成立した時、アベノミクスの3本の矢ということが盛んに言われた。そのうち、機動的な財政出動と異次元緩和は短期的なものであり、長期的には技術革新によって経済を発展させるというような話だったが、技術革新は大して起こらず(予算も中国やアメリカとは比較にならない)、異次元緩和及びそれと組み合わせて行われた財政の大規模な支出は10年以上にわたって長期に続けられている。

(ちなみに、私はこれは最初から狙っていたと思っている。安倍自身が権力の座についている間だけ、人々に経済がよくなった――悪くなっていない――かのような錯覚を起こすことがアベノミクスの目的だというのが私の見立てであり、それにより全体を整合的に解釈可能である。)



北村周平 『民主主義の経済学 社会変革のための思考法』

研究者たちが着目したのは、「政治的に異なる選好を持つ人たちは、そもそも脳の構造が違うのか?」という問いでした。この問いに答えるため、ロンドンのUCLという大学の90人の学生に対して実験が行われました。まず被験者は、「とてもリベラル」から「とても保守」の中から、自分の政治的選好を申告します。次に、MRIと呼ばれる方法を使って、彼・彼女らの脳の断面図が撮影されました。
 その結果、よりリベラルな人たちは、前帯状皮質(anterir cingulate cortex)と呼ばれる脳の領域の灰白質(gray matter)の体積が大きく、一方、より保守な人たちは、右偏桃体(right amygdala)と呼ばれる領域の灰白質の体積が大きいことがわかりました。つまり、リベラルと保守で、脳の構造が異なることがわかったのです。ちなみに、前帯状皮質は意思決定などの認知機能に関する領域とされ、偏桃体は情動・感情の処理に関する領域とされています。(p.38)


この次には、「この違いを生み出すのは、遺伝か環境か」といった問いも出てくるだろうが、環境の影響は軽視できないように思われる。



つまり、全体的に見て、大統領制より議会制のほうで、より政府が大きくなることがわかります。このような違いは、大統領制では委員会ごとに権限が独立しているのに対し、議会制のほうでは議員たちによる連合ができることによって生まれています。(p.295)


興味深い。



今は上の世代の投票率も低いので、例えば20代の投票率がぐんと上がり、若い政治家が選ばれるようになれば、若い人たちの声がより政策に活かされる可能性があります。(p.298)


確かに中高齢層の投票率も昔ほど高くないので、世代間の投票率の差を縮めることは可能かもしれない。そう簡単ではないだろうが。



 分析の結果、まず、すでに見たように、FOXニュースのチャンネルの順番が大きくなるほど、それを見る視聴時間が短くなることがわかりました。さらに、視聴時間が短くなったことで、共和党候補に投票する確率も下がることがわかりました。効果の大きさとしては、仮にFOXニュースの視聴時間が1週間当たり1時間減ると、共和党候補に投票する確率が約7%下がるという大きさです。(p.322-323)


日本ではFOXニュースほどあからさまに党派的な報道は難しいため、特定のチャンネルが投票先に影響する効果の大きさはアメリカほど大きくはないだろうが、テレビチャンネルの影響力はかなり大きいことがわかる。



 実際にデータを使って分析したところ、1985年の時点で7~12歳だった人たちのうち、電波の強弱の影響でエンタメTVによりさらされた人たちは、同じ時期にあまりさらされなかった人たちと比べ、大人になったとき(18歳ごろ)の認知能力が低いことがわかりました。さらに、そのような人たちは、政治への関心が低く、ボランティア団体へ参加する傾向が低いなど、社会参加への関心が低いこともわかりました。これらの効果は、エンタメTVを視聴したことの因果効果と考えられます。(p.326)


これも興味深い。今だとYouTubeなどの動画サイトの視聴が多い人たちは、エンタメTVの比ではないくらい悪影響が強そうに思う。


沢木耕太郎 『深夜特急3 インド・ネパール』

 香港には光があり、影がある、と思っていた。光の世界がまばゆく輝けば輝くほど、その傍らにできる影も色濃く落ちる、と思っていた。しかし、香港で影と見えていたものも、カルカッタで数日過ごしたあとでは眩しいくらいに光り輝いて見えた。(p.68)


インドは貧しさもあるが、民衆の文化というか民俗のようなものも、その社会を生きる人々に対して冷たいように思う。いわゆる「カースト制」などもそうしたものの一つだ。差別を常態化させる上に、職業選択も困難にし、人々の円滑な交流を妨げ、活力を奪う。(これに対して、中東はその点、非常に生きやすい文化だと感じる。)



 便所で手が使えるようになった時、またひとつ自分が自由になれたような気がした。
 ガヤの駅前では野宿ができた。ブッダガヤの村の食堂ではスプーンやホークを使わず三本の指で食べられるようになった。そしてこのバグァでは便所で紙を使わなくてもすむようになった。次第に物から解き放たれていく。それが快かった。(p.105)


中東やインドに旅をするときのことを考えると、このような感覚はよくわかる気がする。



 ボビーはミニ・スカート姿も艶やかに、はつらつと動き廻る。インドでは滅多に見られない姿だったので、私もインドの男たちと共にその太腿を凝視してしまった。しかし、考えてみれば、ミニ・スカートばかりでなく、この映画に出てくるようなものは、ここで見ている人々には無縁なものばかりだった。豪壮な家と調度、プールつきの庭、すばらしいパーティー、大金持の御曹司と美しい娘、素敵な恋、海、山、雪、花。いったいこのガヤのどこにそんなものがあるのか見当もつかない。いや、だからこそ、彼らはこのように熱い眼差しで見ていられるのだろう。多分、この中にあるのは彼らの夢そのものなのだ。(p.111-112)


なるほど。インドでは映画が非常に人気のある娯楽だというが、その理由の一部はここで述べられていることなのだろう。



 ある時、キャロラインが、なぞなぞでも出すような調子で質問してきた。英語やフランス語やたぶん中国語や日本語にもあって、ヒンドゥー語にない言葉が三つあるが、それが何かわかるか。私が首を振ると、キャロラインが教えてくれた。
ありがとう、すみません、どうぞ、の三つよ」
 この三つの言葉は、本来は存在するのだが、使われないためほとんど死語になっているという。使われない理由はやはりカーストにあるらしい。異なるカースト間では、たとえば下位のカーストに属する者に対してすみませんなどとは言えない、ということがあるらしいのだ。そう言われてみれば、確かにインドでその種の言葉を耳にしたことはなかった。(p.115)


私が上で、インドの「人々への冷たさ」のようなものについて言及したが、この三つの言葉が使われないということは間違いなく関連している。(本当に全く使われないわけではないだろうが。)