人は社会的に優位な立場に立つと、横柄になることがわかっています。社会や組織の上位にいくほど、①慈悲や同乗の気持ちが減り、②権利意識や自己利益についての意識が強くなり、③周囲の人の不利益を顧みなくなることが、様々な研究からわかっているのです。 権力を有する側は、紛争や交渉においても「要求をのむか、さもなければ、痛い目に遭うか」というアプローチを好むと報告されています。……(中略)……。 また、米国のカリフォルニア大学バークレー校の研究者らが行った七つの研究結果から、社会的に上の立場の人の方が、そうでない人よりも非倫理的な(不誠実な)行動をしやすいことがわかっています。(p.48)
優位な立場の人間は、他者の目を気にしなくてよい権力を持っていたり、そのように自覚ないし錯覚することから、このような行動をとるのではないか。
また、このことからわかるのは、特に政治において権力分立ないし権力の抑制と均衡が極めて重要だということ。特定の機関(内閣・首相官邸など)に突出した力を持たせると、その国家機関は必ず横柄に振る舞うだろう。
モノポリーの実験で証明されたように、社会や組織の上位に行くほど、自分の努力によってその地位まで到達したと認識してしまうため、努力しない者に対して自己責任論を押し付けたり、厳しい態度をとったりするようになる傾向があります。これが、人が権力を手にすると横柄になってしまう理由です。 これは組織内の昇進にも同じように当てはまります。本当はたまたま年齢的に適齢だった、たまたま取引先に恵まれた、たまたま家事・育児・介護の負担がない等の有利な条件で仕事していた、あるいは上長のお気に入りだったなど昇進に大きく影響していたとしても、昇進した本人はそういった環境要因よりも「自分が努力したからだ」「自分は選ばれた人間なのだ」と認識する傾向にあります。 その結果、「下は言うことを聞くべき」「自分のように、周囲も努力すべき」という思考になり、その期待に応えない部下に対してイライラするようになります。部下の努力を当然のこととして求めるので、次第にパワハラにつながるような言動が増えるのです。 さらに、上司になると、慈悲や同情の気持ちが減るだけでなく、部下の感情を適切に読み取ることもできなくなる傾向にあります。(p.51-52)
自己責任を求めるというのは、日本社会に広くみられる傾向だと言われる、最近は一時期よりはこの傾向は弱まってきたかもしれないと思うが、もしかすると、それは90年代や00年代には日本社会は諸外国と比較して経済力もあり技術力もある国であるという自己イメージがあったこと、そうでありながら経済がうまく回っていないフラストレーションがあったことと関係しているかも知れない。
つまり、「自分(たち日本人の支配的な階層)は、努力したから経済力も技術力も優れているのだ」と認識し、経済が回っていないのは、自分の属する支配的な階層ではない人間に非があるはずであり、これを打開するためには、被支配階層の日本人は「自分のように努力すべき」というような発想が社会の中に漠然とあったのではないか。
特に90年代以降、様々なマイノリティーの権利が発見され、それの実現を目指す運動が世界的に起きてきたが、日本社会は明らかにそうした権利を認めてこなかったが、そのことも上記のようなメンタリティの帰結であるという面があるのではなかろうか。
これは、子どもを対象にした研究結果と、驚くほど一致する結果です。パワハラ行為者もまた、外向的で一見人当たりが良さそうでも、本当の意味で人(相手の幸せや欲求)に関心がなく、自分の欲求を満たすという自己利益を優先させる、つまり利己的で他者を利用する傾向があると言えます。 ……(中略)……。 しかし、学校のいじめと同じで、ある特定の人(部下)に対してはひどいことをしていても、本人は外向性が高く社交的なので、上層部から評価されやすい傾向にあります。(p.74-75)
私としては、子どものいじめと大人のパワハラは同じものだと思っている。逆に違いが分からないと言ってもよい。違いがあるとすれば置かれている社会のあり様が子ども社会では「学校」という社会で起きるため、特定のパターンがある、というくらいではないか。子どものいじめにもある種のパワーの上下関係があって発生する。(会社の同僚からのパワハラと同じ。)大人からはそれが見えにくいからパワハラだと認識されないだけである。
後段のいじめやパワハラの実行者が上層部から評価されやすい傾向にあるという点については、子どもよりも大人の方がうまく立ち振る舞うため多いのではないか、という気がする。子どものいじめの場合、少なくとも首謀者というか一番の中心人物は、大人(先生)から高く評価されることは少ないように思われる。(中心的ではない行為者であれば大人からの評価を受けている子も多くいるだろうが。)
特性 サイコパシー
特徴 良心が異常に欠如している、他者に冷淡で共感しない、慢性的に平然と嘘をつく、行動に対する責任が全く取れない、罪悪感が皆無、自尊心が過大で自己中心的、口が達者で表面は魅力的。(p.78)
笑ってしまうほどこれに該当する人が近くにいるので驚いた。
そのため、ダークトライアドの特性を持つ人に対して行動変容を促すのは、残念ながら容易ではないと言えるでしょう。(p.79)
ダークトライアドとは、マキャベリアニズム(マキャベリ主義)、サイコパシー(精神病質)、ナルシシズム(自己愛性傾向)の三つの特性から構成される邪悪な性格特性のこと。本書と『自己正当化という病』とは内容が重なる点が少なくないが、この指摘も『自己正当化という病』において「自分が悪いと思わない人を前にして、一言でも謝らせたいと思ったことは誰にでもあるはずだ。私自身もある。だが、それは時間とエネルギーの浪費に終わることが少なくない。(p.198)」と述べられていたことと重なると思われる。
さらに、日本の研究では、国内情勢が悪化したり、治安が悪化したりするほど、人々は邪悪な性格特性を持つ人に魅力を感じやすいことが明らかになっています。「〇〇さんは他人を操ってでも、自分の思い通りにすることがあります」と説明を受けても、自分が治安の悪い地域に住んでいると思った人は、その人に自分の地域の代表になってもらいたいと判断する傾向にあったのです。多少の非倫理性に目をつぶっても、その人の「実行力」に期待するのです。国や組織が混とん状態になった時は、邪悪な性格特性を持つ人が活躍する機会が増える可能性があると言えます。(p.84-85)
外国で言うと、ヒトラー、プーチン、トランプなどが想起されるが、日本について言えば、安倍晋三や橋下徹がすぐさま想起される。
また、B群の中でも、境界性パーソナリティー障害や演技性パーソナリティ障害が、泣いたりかんしゃくを起こしたりと言った情動面での不安定な様子を見せやすいのに対し、反社会性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害は、しばしば正常に見えること、あるいは魅力的で愛想の良い外見を示すことが指摘されています。 そのため、反社会性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害に該当する人であっても、初対面ではほとんどわからないでしょう。一緒に仕事をしたり、生活をしてみたりして初めて、「あれ?」という違和感を覚えます。そして多くの人が、巻き込まれるか(利用されるか)、あるいは距離を置くか、のどちらかの道をたどることになります。(p.87)
ダークトライアドの構成要素のうち、サイコパシーは反社会性パーソナリティ障害に該当し、ナルシシズムは自己愛性パーソナリティ障害に該当する。これに該当すると思われる人を知っているので、ここの叙述は身に染みてよくわかった。利用されるか距離を置くかという点について、距離を置くのが最適なのだが、「人質」が取られている場合、距離を置けないというジレンマが生じる。
専制型上司は部下に対する要求度が高く、できなかったことに対して罰を与える傾向も強いため、容易に高ストレス状態にしてしまい、パフォーマンスを下げる危険性が高いのです。(p.115)
しばしば見かける。
日本の大学生を対象にした研究において、顕在的自尊心が高く潜在的自尊心が低い者は、顕在的自尊心も潜在的自尊心も高い者(安定的に自尊心が高い者)と比べて、自己愛的傾向が強く、内集団ひいきを行う傾向にあることがわかっています。これは恐らく、潜在的に自尊心が高くないがゆえに、自分と異なる集団のことを認めることができないと考えられます。そしてこれが、いじめやパワハラにつながってしまうのです。(p.140-142)
これは安倍晋三にぴったりと当てはまる。彼に対する直接的な批判やヤジがあると、それに対してやたらと強く反発するのも潜在的自尊心が低いからであり、内集団ひいきは第一次政権の「お友達内閣」から始まって「森友、加計、桜」のいずれにも見られる。森友(籠池氏)についてはもともとは深い関係ではないがゆえに自分を批判し始めると切り捨てたが。また、今話題になっている放送法の解釈にも関係するが、マスメディアの選別によりマスメディアを委縮させたり、批判を封じようとした手法も力関係を利用している点で明らかにパワハラ的だし、内閣人事局による官僚人事の掌握とそれによる官僚の萎縮もパワハラ的な力の行使が背景にある。
この構造をそのまま残してしまい、また同じような権力者がいつでも発生できる体制を残したという点で安倍晋三の罪は深いし、そうした権力の暴走を止めるような権力分立の仕組みをもっと取り入れる必要がある。
パワハラ行為をしやすいタイミングの一つ目は、「新しくパワーを得た時」です。昇進した場合、責任のある仕事を任された場合、出向した場合などが当てはまります。こういった不慣れな場面に置かれた場合、「わからない」「知らない」ことを認めることで自分の権威が失われたり自尊心が傷ついたりするのを防ぐために、相手を攻撃することで自尊心を保つという行動に出ます。(p.153)
なるほど。確かにこうしたパワハラ行為者を見たことがあるが、その動機が理解できたように思う。
人は、一度「あいつはだめ」「あいつはできない」「あいつは生意気」等とネガティブな印象を持ってしまうと、無意識のうちにその印象に合致した言動をさらに探してしまい、「やっぱりあいつはできない奴だ」等と決めつけてしまう性質があります。そしてこれが、さらなるイライラの原因になってしまうのです。 それを防ぐために有効なのが、別の思考オプションを予め用意しておくことです。「あの人はだめな人だ」「仕事ができない人だ」と思うことがあったら、次回からこう思うようにして下さい。「あの人はだめなのではない。①(その仕事の)やり方を知らないか、②(その仕事が)苦手なのか、③何か事情があるのだ」と。(p.209)
能力がないとされて周囲からダメ認定されている人について、①から③のように考えると、①に該当するケースは結構あるように思う。技能の習得の早さや自発性の低さなど、本人の基本的な要因によるところも大きい場合もあるが、その場合は仕事を特化させていくつかの業務のエキスパート的な形にして事務分担を見直すことで解決できることがある。
「ダメ認定している側の人がダメな人」であり、(特にその人が上司なのであれば)必要な改善ができていない人なのだ。
まず上司世代を見ると、……(中略)……。第一~三位を見ると、「自分のために仕事をしている」と回答した人が多いことがわかります。 一方、部下世代を見てみるとどうでしょうか。……(中略)……、「誰かに認められたい・ほめられたい」を仕事のモチベーションとしていると回答した人が圧倒的に多かったのです。(p.224)
上司世代は40~50代中間管理職なので、概ね60年代後半から70年代頃の生まれ、部下世代は20~30代なので、80年代から90年代の生まれということになる。
高度成長の雰囲気があったかなかったか、という点がこの意識を分けているように思われる。社会の経済力全体も会社自体も急速に成長している時代は、個人に着目しても昇進や昇給の機会が多かった。自分がその流れに乗れるように単純に努力することが求められた。経済成長が止まり会社の成長も止まると、そうしたことを動機にしても何も得られないことが多くなる。そこから相互の関係性を重視することになる。
本書のこの箇所に続く分析は、なかなか示唆に富むものだった。一言で言うと、上司世代がパワハラに耐えられたのは、それに耐えた後には昇進や給与アップが約束されていたため耐えられたのであり、部下世代にはパワハラに耐えた後の明るい未来が見えない中、自分の働く動機である他者からの承認も潰されることに耐えられるはずがない、という。
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