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野口雅弘 『マックス・ウェーバー 近代と格闘した思想家』

権力が一部の人に「偏重」し、開かれた言論によってそれが問い直される可能性が閉ざされているところでは、権力の中枢への近さがものをいう。こうした関係性においては、権力に対する卑屈な振る舞いがはびこることになる。(p.40)


ウェーバーの「ピエテート」概念が日本で注目されたということの関連の中でのコメントだが、これは明らかに現在の安倍政権への批判が意図された発言と思われる。少なくとも現状を捉えた発言ではある。



資本主義と権威主義の間に、一定の相性のよさがあるようにもみえる。この結合を避けようとするならば、「流れに抗する」必要がある、とウェーバーは考えていた。(p.97)


資本主義も権威主義もその時点で政治的・経済的・社会的な権力を持っている側の人間にとって有利なものであり、それをさらに強化するためのシステムないし考え方であるという点で共通している。これらに親和性があるのは当然であると思われる。



 とはいえ、もう少し若ければ、志願して最前線で戦闘に参加しかねないほどのウェーバーのナショナリスティックな感情は、敗戦とドイツ革命のなかで問い直されていく。敵が明確で、戦い方がほぼ決まているような場合、ナショナリズムは比較的わかりやすい形をとる。
 しかし、「なにが愛国か」をめぐって争いが起こり、対立する立場がそれぞれ「愛国」を語るような局面になると、ナショナリズムという概念では問題が摑めなくなる。(p.99)


ナショナリズムというより愛国主義という観点から見ると、現在の世界には右派の愛国主義と左派の愛国主義があるように思われる。

右派の愛国主義は、現行の保守(反動)政権を支持することを目的として、その政策や言動に対して批判する者を非愛国者なり非国民のような存在として決めつけ、非難したり攻撃したりする。日本のネトウヨや中国共産党政権(香港に対する国家安全法の施行などを見れば分かりやすいだろう)は、これに当たる。これが愛しているのは、現行政権だけであり、それと同一化した自己だけ、というのが私の評価である。社会にとっての益は何もない。

左派の愛国主義は、現行の政権がどのような政治的な立場であっても関係なく、その政策や言動がその社会にとって利益にならなかったり、悪い副作用が生じることなどを批判し、改善を求めようとし、それこそが「国がよくなること」と考えている。香港で民主的な政治や政策を求めるものなどを考えれば分かりやすいが、民主派や左派の市民運動などの立場は概ねこうしたものだろう。(純粋な個人主義の立場も似たようなスタンスをとることは多いように思うが、個人主義から運動は出てきにくいので、行動を伴わない単なる観念的な賛同者であれば愛国主義ではなく個人主義者である可能性が高いだろう。)

ナショナリストや愛国者を名乗る人には、その人が言う「国」の定義を述べさせることにより、それが真正なものか、そうでないかが見えてくるように思われる。(大体、前者のタイプの議論ではまともな定義は出て来ない。その意味するところが明確に自他に自覚されてしまうと、議論を維持できなくなる。)



ウェーバーは基本的に「正義とはなにか」を主題化して問おうとはしない。正義について論じても、彼が関心を寄せるのは、正義をめぐるコンフリクトに対してである。形式合理性と実質合理性の対立は論じるが、それに対する一義的な解答を出すことはない。これに対してロールズの著作では、権力(power)が主題化されることはない。(p.109)


ウェーバーの権力や支配に関する議論の特徴をつかむのに的確な対比と思われる。



 集票マシーンについて論じるとき、ウェーバーがドイツ社会民主党とともに取り上げるのが、アメリカのタマニー協会だった。……(中略)……。毎年、大量に流入する移民の生活の面倒をみると同時に、タマニー協会はこうした移民を選挙人登録し、民主党への集票に結びつけた。……(中略)……。
 優れた政策を提案し、それが支持されて、選挙に当選する、という論理が崩壊する。優秀なマシーンさえもっていれば、どんなに製作が貧弱で、候補者がダメでも、票を積み上げ、当選者を増やし、政治的影響力をもつことができてしまう。(p.120)


これは現代日本の自民党や公明党について完全に当てはまっている。



日本語文献でエントツァベルンクは、「脱魔術化」と訳されることが多い。「魔術からの解放」や「呪力剥奪」と訳されることもある。ここでは「魔法が解ける」とする。
 訳語の選択において重要な論点は、エントツァベルンクがある行為主体による「作為」なのか、それともそれとは異なる意図せざるプロセスなのか、という違いである。「脱魔術化」という訳語は、囚われているものから主体的に脱する、という意味合いが強く、「魔法が解ける」という場合は、かつてあれほど強かった心理的呪縛が、まるで嘘のように解けていく、という意味である。(p.144)


Entzauberungの訳語については、今までもいろいろなものが出されてきた。どれもそれなりに考えられているとは思うが、個人的には「脱魔術化」や「魔術からの解放」という用語には、意図してそうするというニュアンスと意図しているわけではないがそうさせられるというニュアンスの両方を読み込めるように思っていた。本書の著者は受動的な側面を強調して理解しているようだが、このEntzauberungの語はウェーバーの厳密な術語ではなく、比喩的で曖昧な表現であり、主知主義的合理化が進んで行く様については主体的な契機もあることをも考え合わせると、両方の契機を含む訳語の方が良いのではないか、と思う。

また、ある意味ではEntzauberung der Weltというタームが、詩的に格好良く言おうとしている用語なのだとすれば、その訳語として「魔法が解ける」だとあまりに普通過ぎて「特別感」が出ないような気がする。ウェーバーの論文の多くは末尾の部分がやや詩的な格好をつけた文章になっていることを考えると、それに見合った訳語の方がよいように思う。



 ウェーバーのテクストは、「前近代」を批判しようとする研究者からすると「近代的」にみえ、近代に対して批判的に対峙しようとするポストモダニストからすると「ニーチェ的」に映る。山之内の問題提起は、ウェーバーの両義性を確認する結果になった。(p.244)


ウェーバーのテクストの特性を的確に表現しているように思われ、かつ、ウェーバーの受容のあり方を考える上で参考になる捉え方。



 今日、大塚らの世代がしたような仕方で「ヨーロッパ近代」を主題化することは、ほとんどなくなった。むしろそれぞれの国や文化圏にはそれぞれの形の「複数の近代」があるという、イスラエルの社会学者・文明論者のS・N・アイゼンシュタット(1923~2010)が論じる「複数の近代」(multiple modernities)の方が受け入れられやすくなっている。
 しかし、それにともなって「近代」という概念がなにを意味するのかがますます摑みにくくなっている。そもそもその概念を使ってものを考える必要があるのかどうかも怪しくなってきている。マックス・ウェーバーのテクストとそれをめぐって日本でなされてきたウェーバーに関する研究が、近年、急速に色あせてきたことは、おそらく当然の帰結である。(p.244)


近代という概念が怪しくなってくることで、ウェーバーに関するかつての研究が色あせるというのは、その通りであるように思われる。90年代後半から00年前後くらいにウェーバーについて多少関心が高まった時期があったように思うが、結局、そこで従来の「近代」を巡る議論とは別のウェーバーの可能性を引きだすことができなかったことが、この道を決定づけたのではないか、という気がする。

なお、こうした衰退の状況があればこそ、羽入の「犯罪」のような議論が一定の支持(?)を得てしまったともいえるようにも思う。例えば、「学ばされる」側の学生から見て、ウェーバーの議論から得られるものがなく、容易に理解もできないという中で、あの議論は偽物だと言ってくれることはその学生にとっては解放となる。ウェーバーの議論から得られるものがあると感じていれば、読解に努力をしようという気にもなるだろうが、それが得にくい時代状況になってきたからこそ、あのような議論が受け入れられる余地が生じてしまったのではないか。



「なぜヨーロッパにおいてのみ」「普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる文化的諸現象が姿を現すことになったのか」というウェーバーの問題設定には、私も疑問を抱く。「オリエンタリズム」の問題についても、すでに言及した通りである。ただし、なんらかの普遍的な規準を追求することを放棄して、「ありのまま」の自分を認めようとすれば、その「ありのまま」の自分が自明視しているものを問題化することができなくなる。
 日本のウェーバー研究はウェーバーのテクストの「ロスト・イン・トランスレーション」だったかもしれない。しかしそれでも、ウェーバーが描く「ヨーロッパ近代」のスケッチを何度もくりかえし、さまざまな仕方で読み解こうとすることで、日本社会のあり方を批判的に、つまりイマ・ココに閉じこもらない仕方で問い直すことには、大きな意味があった。(p.245-246)


ここは本書の中でも最も重要な部分かと思う。現代においてかつてのウェーバー研究が持っていたような意義を持ちうる研究はどのようなものになるのだろうか?この点についてもう少し掘り下げて描いてもらえると、より良かったのではないかと思う。(大部分の人にとっては、本書でなされた指摘だけで次につなげていくことは極めて困難と思う。)

なお、本書とはやや文脈が違うかも知れないが、現在、マルクス・ガブリエルが普遍性を復権しようとしていることは、本書で指摘されている問題とも通じるところがあるかも知れない。私としては、まだこの辺りについては明確に整理ができていないところであり、今後、もう少し考えを深めていきたいところである。


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今野元 『マックス・ヴェーバー――主体的人間の悲喜劇』

 歴史学として見ると、このヴェーバーの「資本主義の精神」論には論理の飛躍がある。ここで指摘するのは以下の三点である。第一にヴェーバーは、経済活動の有様がそもそも宗教思想の違いに由来するとの前提で議論を始めているが、そんなことが言えるのかどうかは分からない。それはオッフェンバッハ―やゴートハインらの研究を基に彼が出した仮説でしかない。第二に、ヴェーバーは分析対象を、プロテスタント教会に属する商工業者の心理から禁欲的プロテスタント理論家の教説へとすり替えている。一応ヴェーバーは両者の違いに気付いており、だからこそR・バクスター(ピューリタニズム)、P・J・シュペー1920ナー(ドイツ敬虔主義)、R・バークレイ(クウェイカー派)のような生活実践に近い神学書を分析したのだが、本来は神学思想研究ではなく、商工業者の社会史研究を行うべきだった。第三に、「予定説」が生み出す救済への不安から商工業者が労働に邁進したという核心部分は、全くの想像でしかない。(p.79)


私の理解では、上記の三点の指摘については次のようになる。

第一の指摘に対しては、ヴェーバー自身も一応は押さえた上で議論をしている体裁をとっていると理解している。つまり、ヴェーバーはプロ倫全体を仮説として扱っている。もっとも、そのように扱いながらも実際には単なる仮説ではなく、実態を捉えているものと思っているであろうが。

第二の指摘についても、ヴェーバーは理解しており、だからこそ単なる神学思想の本ではなく、牧会に関する本を選んでいたものと理解している。つまり、一応は、牧会を通して信徒たちの行動が方向づけられたのではないかとの仮定の下でヴェーバーは論理を構成している。ただ、本来すべきであるのは社会史研究であったという点には完全に同意する。

第三の指摘も同意見である。

概ね三点とも批判としては妥当である。ただ、ヴェーバーは前2つの批判に対する予防線はある程度張っている(が、自説を守ることには成功していない)。



 のち1920年に刊行された改訂版「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、ヴェーバーは大幅な改訂を行った。新旧両版を比較した安藤英治の分析を踏まえると、ヴェーバーが最も拡充したのはカトリシズムの分析である。旧版でヴェーバーはカトリシズムの理論や実例には踏み込まず、お決まりの先入観(「理念型」?)を繰り返していたが、カトリック系学者からは猛批判を浴びた。(p.80)


プロ倫に対する当時の反響については、なかなか日本では追うことが難しい。



「鋼鉄のように硬い殻」の説明がないと、彼が描いた近世の禁欲的プロテスタンティズムの世界と、近代の無宗教的な資本主義の世界とが架橋されないのである。ただこの架橋の試みもヴェーバーの想像の産物であって、論証されたわけではない。(p.83)


ここの意向の部分の論証が欠けている点は、プロ倫の論証の中でも最も不十分な点の一つであるように思われる。


丸山俊一、NHK「欲望の時代の哲学」制作班  『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ』

したがって、他者の自由意志は、私たちが私たち自身であるために必要なものであると同時に、私たちが持つ自分自身のイメージを損ねる可能性があるがゆえに、私たちが恐れるものでもあるのです。
 これが、社会的な複雑性に対する一つの反応であり、ポピュリズムの先導のもとに、まさにいま、起こりつつあることです。自由民主主義への攻撃は、社会性そのものを破壊しようとする試みなのです。(p.34)


他者の自由意志を恐れるということが、排外主義やレイシズムなどの要因となり、それが多くの人が陥りやすいものであるが故にポピュリストたちによっては動員しやすい環境となっている。

この原理は、私からすると、なぜ専制や独裁などがほとんどの人にとって悪なのか、ということの原因でもあると思う。つまり、支配する側に常にいる人にとって、多くの人びとの自由意志は、支配者の自己イメージを損ねる可能性があるが故に、恐れるものでもある。そうだとすれば、支配者は人々の自由意志が自分に向けられないように情報を操作したり、(まさに香港における「国家安全法」がそうであるように)「不法を法とする」ことで統治しようとする。

第二次安倍政権は、就任以来ずっと情報操作することによって自身の支持を得てきた(正確に言えば、人々が不支持にならないように仕向けてきた)。それができてきたのは、安倍(やその周辺)に実力があるからではなく、そのための環境が整えられてしまっていたということが大きな要因である。90年代から00年代前半までの政治改革による内閣への権力集中がそれであり、安倍政権がそこに内閣人事局の設置によって、それを完成させたと言ってよいと思う。官僚がすべて首相の言いなりになり、不都合な情報を出さないようになる。あとは、マスメディアを「各個撃破」戦術によって黙らせてしまえば、誰も大っぴらに批判する者はいなくなる。よほど政治に関心がある人以外は、実際に行われていることを感知できないから、不支持は広がらない。それによって政権を維持する。コロナ発生後の対応のまずさは、政権の本来の実力を示しているものであり、最近、首相が国会にもメディアにも出て来ないことは、国民の関心が高い問題であるため、今までのような誤魔化しが通用しにくいことを分かっているためである。まともに対応する実力もないし、今までのように誤魔化すこともできない。これが現在の安倍政権の立ち位置である。

今の政府の対応や姿勢を見ると、今後、コロナの感染が国内で広がることは間違いない。数か月後にはアメリカやイタリアのようになってもおかしくない(市中感染が広がり、医療機関での対応も追いつかなくなる)と私は見ているが、そうなった場合の責任は内閣にあり、その際には(今まで安倍がやって来たような)「責任を痛感する」とか「責任は私にある」と【言うだけ】で済ますことを許すべきではない。有権者としては、そうなる前に政権を変えて対応を変えるのが望ましい。



 フェイスブックの本質、それはあなたが自己イメージを表現できるプラットフォームを提供することです。……(中略)……。
 「好き」/「嫌い」のようなパターン分けこそが、フェイスブックなのです。なぜなら、ひとたびあなたが何かを好きになると、あなたは自動的にその好きな何かを投稿します。実際、嫌いなことは投稿しません。自分自身の好みは投稿しますが、ただそうしているだけなので、あなたは意識していません。あなたは自分が何をしているかに、気がついてすらいないのです。プラットフォームはデータを登録するだけだからといって、中立であるわけではないのです。(p.35-37)


フェイスブックはこのデータによって我々の行為を予測することができ、それが売られることが問題ということだな。



こうした利害関心がすべて一体となって、私たちは現実には何も知ることができないという、ポストモダンな物語を生み出しています。現実を知る能力や自分自身の合理性に疑問を投げかけるアメリカの大衆科学小説、あるいは、私たちは合理的ではないと主張する行動経済学などがいい例です。(p.154)


ポストモダンの物語が生み出されているのはそうだとしても、行動経済学が人間を合理的ではないと主張しているかというと、そこは疑問というか誤解ではないか。従来の荒唐無稽な「合理的経済人」という現実と合わない仮定が現実に合っていないということを実際のデータから裏づけつつ、どのような規則性(従来の仮定と違うもの)があるかということを見いだそうとしているのだから、その点で行動経済学も合理的な志向を十分に持っている。また、行動経済学は現実を知る能力に疑いを持っているわけでもないだろう。



 科学的なものの見方のみが真実であるとする「自然主義」に対しての実に痛烈な批判。そして、彼を育んだドイツという国の歴史に向き合うとき、避けては通れないナチズム、すなわちファシズムに対する最大級の警戒。さらに、今回あらためて随所で言及された「ドイツ観念論」への強い信頼と、その学問的系譜に自らを位置づけることで思索を深めようとする覚悟。この三つの重い礎があってこそ、彼の思考は軽やかになり、どんなボールが来てもコースによって打ち分ける打者のように饒舌な語りとなって言葉へと結晶することを、まずは確認しておきたい。(p.200-201)


ガブリエルの思想の特徴を簡潔にまとめているように思われる。

上記の行動経済学に対する批判(?)もガブリエルの反自然主義の感覚から来ているように思われる。ただ、自然科学的な方法を使って物事を認識することと、それでなければ事実は認識できないとすることとは全く違うことである。それこそ自然科学的な方法によって物事を認識することも一つの「意味の場」における出来事であるとすれば、難なくガブリエルの思想の枠内に収まるのではないか。実際彼は他の学問はそのように扱っているように思われる。だとすれば、この一つメタなレベルにある「意味の場」の理論の枠内で考える限り、自然科学的な方法に基づく認識も批判されるべきものにはならないように思われる。



片倉佳史 『台北・歴史建築探訪 日本が遺した建築遺産を歩く』
国立台湾博物館土銀展示館(旧日本勧業銀行台北支店)

この建物は1989年、老朽化を理由に、一度は建て替えが決まったが、熱心な保存運動が起こり、取り壊しを免れた。(p.46)


同様の保存運動がかなりの数の建築を守ってきたことが、本書の叙述だけからでも分かる。



撫臺街洋樓

 この建物が建てられる前年、台北は未曽有の暴風雨に見舞われ、家並みの大半が崩壊するという惨事となった。これを機に大がかりな都市計画が練られ、町並みは一新されたが、この建物もその際に立てられた1棟である。(p.56)


この建物は1910年(明治43年)竣工。これより古い建物は残るのが難しい状況。ある意味、台北に残っている建築のスタイルが割と共通している感じがするのも、こうした事情が反映している面もあるのかもしれない。



台湾師範教育館(旧尾辻國吉邸宅)

 三線道路は旧台北城の城壁跡地を用いたもので、約40メートルという道幅を誇った道路である。後藤は「パリのシャンゼリゼ通りのように」と指示したと伝えられ、実用性のみならず、都市景観を意識した道路となった。(p.99)


三線道路のエピソードとしてメモしておく。



野草居食屋(旧石井稔邸)

 こういった家屋は戦後、国民党政府によって外省人官吏などに分配されたが、老朽化が進んだため、所有権が台北市などに移されたケースが少なくない。そのため、こういった「再生空間」は業者が台北市から委託される形で運営していることが多い。(p.115)


最初のコメントで述べたような保存運動という市民側の熱量と、台北市に所有が移ったこと(台北市がそれを受け入れたことを含む)とが、00年代以降のリノベーションの増加という動きにつながっていることが、本書から読み取れたように思う。

市が所有し、運営を民間に委託するというやり方は、日本でやると多くが経営的に失敗しているように思うが、台北の場合はどうなのだろうか?この辺りは非常に気になる点である。



華山1914文化創意産業園区(旧台湾総督府専売局台北第一工場)

総督府が遺した文献によれば、1910年代に入り、台湾における酒類の消費量は急増したという。これを受け、1914(大正3)年に最初の酒造工場が設けられた。(p.178)


経済力がそれだけ向上してきたということだろうが、これは日本本土と概ね同じような経済的な動きであるように思われる。本書でこれの前に紹介されている高砂ビールが1919年に創立されたのも、こうした背景の下でのことだっただろう。



二條通・緑島小夜曲

日本統治時代初期、日本人は主に台北城内側の「城内」地区を居住地としていたが、1920年代後半から都市の規模が成長し、市街地が拡大していった。(p.215)


この都市の拡大は、一つ前のコメントで指摘した経済力の向上、市民の生活文化水準の向上と繋がった現象であろう。



士林公有市場(旧公設士林庄市場)

 士林夜市は慈誠宮という廟と深い結びつきを持つ。つまり、廟を訪れる参拝客を相手に出店が並び、それが公設市場と結びついて生まれたのが士林夜市なのである。(p.279)


古い市場と宗教施設との関係は世界中で見られるものであり、士林夜市もそうだったのか、という感じ。台湾の他の夜市はどのような由来なのだろう。同様のパターンは多いのだろうか?また、これとは違うパターンは見られるのだろうか?


辛永勝、楊朝景 『再訪 老屋顔 台湾名建築めぐり』

レンガと鉄格子の両方の機能を備え、鉄のように錆びてしまうこともないので、海風の強い沿海地域でよく見られる建材です。(p.172)


装飾ブロックについての説明。本書や前著『台湾レトロ建築案内』などでは、こうした建材などに着目するのが特徴的な見方だと思う。ざっくりと見ただけではあまり気づかないような細かいポイントについて掘り下げらてもらえるので参考になる。

今、書いていて思いついたのだが、レトロ建築について誰が設計したのか、誰(どのような組織)が設計の主体だったのかということばかりに着目すると、日本統治時代では、日本人にばかり注目が集まってしまうが、こうした細部、例えば建材に着目することは、当時の台湾の人々(職人)などの活動に目を向けることにつながる

ある意味、日本人による台湾の歴史に関する叙述は、どうしても、「日本人が」活躍した、貢献したというような、日本のナショナリズム感情の観点から見て都合がよいものばかりを見ようとする傾向が強くなる。台湾の人々が見る日本時代と、日本の人々が見る日本統治時代とは、同じ時代を見ていながら、必ずしも同じものを見ているわけではない、ということには自覚的である方がよい。そして、私としては台湾人側の見方をもっと内面化し、自然とその見方もできるようになっておきたいと思う。



鉄窓花の衰退の一つに手入れのしにくさがあると言います。当時の面格子の材料には、加工のしやすい鉄が用いられていましたが、錆びやすいため、定期的な手入れがとても面倒でした。そして30年ほど前に登場したステンレスやアルミ製の面格子は、鉄製のような複雑なパターンはありませんが、製作にも設置にも時間がかからず、しかも錆びにくい特性から、たちまち市場を席捲。鉄窓花はメンテナンスと費用面から需要が少なくなっていき、とうとう姿を消してしまいました。(p.189)


本書と前著では、鉄窓花という窓の外につけられる鉄製の面格子のデザインへの着目が特徴的な見方となっており、新たな着目点に気づかされたのだが、ステンレスの限られたパターンのものによって置き換えられたため姿を消したというのは、納得。市場の力によって淘汰された形なのだが、メンテナンスが難しくても職人や施主などの意向を反映した個性あるデザインが消えて行くのは寂しい感じがする。


栖来ひかり 『時をかける台湾Y字路 記憶のワンダーランドへようこそ』

水路は地下にもぐりみえなくなってしまったけれど、歩いていると水路の名残りをあちらこちらにみつけることができ、過去から現在にかけて絶えず豊かに台北をうるおしつづけてきた水の存在を感じる。台北じゅうを血管のようにめぐっている水路について知るたびに、台北のまちとじぶんの身体が一体化していくような、親密な感覚をおぼえるのである。(p.45)


この感覚は、多くの町に共通に見出せそうに思う。水路がどこにあったかという観点をもって自分のフィールドとする街を見直してみたい。



 それでも、台湾のまちを歩いているときSさんに再会したような気持ちになることがある。たとえば、タイヤとサドルのない自転車が置き石がわりに家のまえに立てかけられているのをみたとき。突然歩道をさえぎるように出現するガジュマルの樹に遭遇したとき。あるいは、Y字路になった一般道(つまり公共の空間)の真ん中に、椅子とテーブルがオアシスみたいに置かれていたとき。こうした辺界は、かぎりなく優しくゆるやかだ。台湾の都市空間に親しみと好ましさを感じる日本人は少なくないと思うが、そのヒントはもしかしたら、台湾のまちの辺界に隠されているのかもしれない。(p.80-81)


なるほど。



 実際マンゴーかき氷で名高い台湾のかき氷だって、じつは台湾と日本のハイブリッドだ。もともと中華文化では、小豆や緑豆などいろんな豆を少し甘めに煮てぜんざいのように食べていた。一方、氷を細かく削って食べるのは日本では平安時代から記録があり、これが日本時代に台湾へと持ちこまれ、両者が合体して現在の「台湾風かき氷」ができあがった。さらにマンゴーなどのフルーツが載るようになったのはわりと最近のことである。
 台湾のグルメエッセイストとして知られる作家・焦桐(ジャオトン)によると、大きな鉄板で肉や野菜を炒めるモンゴル焼肉もモンゴルにはなく、福州麺も中国福州にはない。ほかにも鹹豆漿(シェントウジャン)(だしと塩気の効いた豆乳スープ)や牛肉麺(ニュウロウミェン)など、実はどれも戦後に台湾で発明されたものだが、いまや立派な台湾料理として数えらえる。(p.90)


ここで挙げられているもの一つ一つの由来について、もっと詳しく知りたくなる。特に気になるものとしては、牛肉麺は大陸でもよく見かけたが、台湾から入っていったということか?というあたりか。



 戦後になり日本時代の町名は全面的に改定される。
 命名のしかたは、台北を4つのエリアに分け、それぞれに中国大陸の地名を同じ位置関係のまま縮小して当てはめるという、上海からきた建築士・鄭定邦(ディンディンバン)の編み出した方法で、これは上海でも採用されている。台湾で生まれた子供たちが、中国大陸に帰っても迷うことのないように。共産党政権を倒して祖国に戻るという反攻大陸政策をとっていた当時の中華民国政府の、「いつかぜったいに帰る」という宿願がまちの名前にまで感じられ、興味ぶかい。(p.91)


中国大陸にある街の地名が付いているところは、この命名法でつけられた、ということか?注意して見てみよう。



Y字路発生のための三大要素である鉄道・水路・幹線のすべてを備えたこの周辺を歩けば、たくさんのY字路をみつけることができる。(p.127)


Y字路発生の三大要素は参考になった。街歩きをする時、これに留意しながら観察してみたい。



 日本人が台湾にきて感心することのひとつに、日本時代の建築をみごとに現代社会のなかで生かしていることがあるだろう。しかしながら「台湾の人は日本時代を懐かしんで、建築を守ってくれてありがたい」という日本人の声を聞くたびに、それは思い違いではないか、と口に出かかった言葉を飲み込む。台湾の複雑な歴史や人々の思いを知るほどに、彼らが守ろうとしているのは日本時代の建物ではなく、台湾という土地がこれまで歩んできた道のりであるのが理解できるからだ。原住民族が暮らしていたこの台湾に、スペイン人やオランダ人がきて、漢民族がきて、日本人がきて、多くのものを奪い、また、もたらした上で現在の台湾になっているという歴史の脈絡。戦後の国民党教育のなかで一方的に「中華民国」としての偏った歴史を教え込まれていた彼らにとって、日本時代の建築物を大切に残していくこともまた、台湾人としてのアイデンティティを獲得していくプロセスなのだ。みずからの在りかたを真摯に追い求める彼ら“文化テロリスト”のすがたには、いつも心揺さぶられつづけている。(p.134-135)


全く同意見である。私としては、台湾という地を理解する上でこの点は非常に重要だ――最重要かも――と思っている。



わたしたちが今、台湾で目にできる総督府や博物館など日本時代の内地に負けないほどの壮麗な建築物が、日本によってアヘン漬けとなった植民地下の人々の命と引き換えられた財源でつくられたかもしれぬ暗い歴史を、「近代化に貢献した」という耳あたりのよい言葉で覆い隠してはならない。(p.182)


この点も重要な指摘。日本による台湾におけるアヘン政策の評価は難しい。漸禁政策を採ったことは、急激に変えるのと比べればヤミでの取引などを抑制する効果はあったように思われ、最終的にかなり減らすことが出来たという意味では間違っているとは言えなかったように思われるが、その意図の一つに政府の財源としようとしたという面があったことなどには、確かに違和感を禁じ得ない。とは言え、その財源の使い道が結果として台湾に住む人々の福利厚生に資したのであれば、必ずしも悪いとまでは言えないようにも思われる(ヴェーバーの責任倫理)が、果たしてその結果はどうだったのか。ただ、この点についてはっきりと評価するだけの根拠を私は持ち合わせていない。



大稲埕や萬華で成熟したカフェー文化は台湾青年知識人たちのサロンの土壌ともなり、社会運動家・蔣渭水らを生み、やがて台湾人のための権利・文化発展を模索する民族運動に連なっていった。(p.190)


現代では同じような機能をSNSなどが果たしつつある面があるが、SNSは民主主義的ではないツールであるということが制約となっている面もある。SNSという利用しやすい資源が、こうした制約を負っていることは、民主的な運動を進めていくに当たっては障害にさえなっている面があるのではないか。



水を大量に使う銭湯やクリーニング店は暗渠との親密な関係をもつ「暗渠サイン」である。(p.194)


言われてみれば、という感じがする。



はじめは師の画風の模写から油絵を学んだ日本人画家たちは、同じような風景の構図やタッチを用いながらも、モチーフを日本的なものに変えることで、西洋から換骨奪胎された「日本人」の油絵をめざすようになる。……(中略)……。
 こうして、西洋から輸入された筆法や構図のなかに日本的なモチーフをどのように入れ込んでいくか、そのモチーフと自己との距離が日本における近代絵画のなかの大きなテーマとなったが、それは「日本的とはなにか」を再規定するナショナルな試みでもあった。またそこには、西欧に求められているエキゾチックでオリエンタルな需要に応えたいという、健気なサービス精神もあったかもしれない。
 同じことは、戦前の台湾美術界でも起こった。(p.202-203)


当時の台湾の絵画を見た際に感じたことが、この周辺の叙述を読んで少し形になってきたように思う。ただ、そうした経験をしてから年月がかなり経ってしまったので、次の機会を待つことにしよう。



 50年もの長きにわたって台湾を統治し、「台展」といった大祭典をぶちあげながら、台湾総督府は台湾に美術館、そして美術学校はおろか研究所さえつくることはなかった。美術に対して意識を深める場所がないから、パトロンやマーケットの育ちようもない。台湾人の画家たちはせっかく東京で学んでも、内地ばかりか台湾においても教職としての勤め先はなかった。(p.206-208)


日本の台湾統治の性格がどのようなものだったかを浮き彫りにする指摘であり、参考になる。



じつは小南門、漳州人系の板橋林家と敵対する泉州人系の勢力が強い艋舺(バンカ)を避けて、直に台北城内へ入れるようにと、板橋林家みずから資金をだして建てた門である。(p.224)


そうだったのか。なぜ東西南北の門があるのに、さらにもう一つ門があったのか謎が解けた気がする。


太田雄三 『クラークの一年 札幌農学校初代教頭の日本体験』(その2)

しかし、これらの文化施設にしろ、新宿試験場や下総牧羊場にしろ、この期間にクラーク達の見た多くのものは上からの近代化の一環として政府が採算を度外視してやっているもので、必ずしも日本全体の進歩の指標として使えるものでもなかったし、また見かけほどうまくいっているわけでもなかった。(p.73)


クラークたちが東京で様々な産業施設を見学し、クラークたちは日本が「進歩」していると感じたと推察されるが、彼らが感じたであろうほどうまくいっているわけではなかったという指摘。

短期的な採算は度外視しても、導入してみていろいろと試していくことによって学習していこうという中長期的な発想を当時の政府は持っていたのだろうか?この辺りは気になるところ。



私の健康は申し分なく、私の仕事はたくさんありますが、私の能力以上ではなく、私の雇用者は気前よく、かつ私を高く評価してくれている、そして私のこれまでになしとげた所は私自身にも満足がいくし、私の知るかぎりでは、〔日本〕政府をも満足させているという状態です。私は、きっと、売り買い、雇い人の雇用解雇、建築改修から、自分の公印を使って会計から金を引き出すことに至るまで、日本人の役人の監督を全然受けずに行なう全権を付して、貴重な財産の管理を一任された最初の外国人だろうと思います。(p.125)


クラークが日本での仕事に満足していることを表明する発言は多いが、当時のお雇い外国人で、ここまでの裁量を持たされた事例というのは例外的なものであったことは押さえておきたい。クラークが来日中に西南戦争が起こっているが、その前後で政府の財政事情も大きく違っていたことや北海道という中央からは遠い辺境の地であったために実験的な試みが行いやすかったことなど、様々な条件が重なってこのような例外的な状況が形成された。黒田が大きな権力を持ち、黒田とクラークは馬が合ったというのもよく言われるが、そうした個人的な条件だけではなかったことを押さえるのは重要と思われる。



私達の石狩川を上る旅行中に私は黒田長官と話して、彼が〔聖書を教えることに〕反対するのはキリスト教自体に敵意を持っているためでは全然なく、ただ、英国国教とか、フランスカトリック教、ロシア正教やギリシャ正教といった国家〔外国〕と結びついた宗教を恐れるためだと分りました。(p.134)


ある意味、江戸時代の初期にいわゆる「鎖国」が行われた頃から、日本の政府(幕府)のキリスト教に対する警戒の源泉は変わっていないのかも知れない。いずれにせよ、キリスト教宣教の政治的な意図を正しく捉えており、西洋列強からの干渉に対する警戒は、当時の国際情勢を踏まえれば必要な構えだったということまでは言えるように思う。



これを見ても、クラークの信仰についての正しい理解は非常に信仰に熱心な男が日本に行って伝道を行ったというより、ごく普通の、名目的なクリスチャンとたいして違わなかった平信徒が思いがけずに始めた日本での伝道活動の成功から信仰熱心になって本国に戻ってきたということであるようだ。(p.242)


クラークの信仰に関するこの見方はなるほどと思わされたところ。クラークは日本において学生たちに道徳的な模範を示そうと努力した一面があると私は見ており、そのことが自身の信仰の熱量を上げることに繋がったように思われる。多くの学生が入信して彼についてきたことに対して、自分たち西洋人の優越性を見せたかったというような思いもあったのかもしれない、と想像する。



この講演を通じて日本の農業に対する高い評価を知るとき、私達が疑問に思うことの一つはクラークが日本の伝統的農業をそのように高く評価しながら、札幌農学校での初期の農業教育が、

 例えば作物でも、日本には何等の関係のない外国のものなどは教わっても、日本に最も必要な米作などのことは少しも聞かされたことがなかった。(南鷹次郎先生伝記編纂委員会編『南鷹次郎』、1958年)


と二期生の南鷹次郎がいったような、日本の実情に合わない欧米一辺倒の、南の言葉で言えば、「妙な教育」にとどまったことである。エドウィン・ダンも彼の「日本における半世紀の回想」(高倉新一郎編『エドウィン・ダン――日本における半世紀の回想――』、札幌、エドウィン・ダン顕彰会、1962年、所収)の中でクラークがマサチューセッツ農学校でのやり方を「そのまま札幌に移すつもりで来て、その通り実行した」ことを批判して、「日本とアメリカでは農業のやり方は全く異なっているので、肥料の価値とその施用ということを唯一の例外として、その他のことは、アメリカの大学でやっていることをそのまま持ってきても何等の結果も期待できない。」(同書、90-91ページ)と言っている。(p.256-257)


日本の農業を評価していても、結局はアメリカが一番と思っていたということが大きいということではないか?つまり、クラークが日本の農業を評価したとしても、「思っていたよりすごい」という評価だったということではないか。

また、実際、数カ月しか教育期間がない中で、十分な知識を持っていない日本の農業のやり方を適切にアレンジして教えるというのはかなり難易度が高かったとも想像される。実際、本州の農業と北海道とでは気候もかなり違うので、本州で見たことがそのまま北海道では役に立たないという面もある。(ダンは長期にわたって北海道にいたので、その立場からクラークに対して上記の批判をするのは理解できるところであり、妥当な批判ではあるだろうが。)


太田雄三 『クラークの一年 札幌農学校初代教頭の日本体験』(その1)

クラークにしろホイーラーにしろ西洋文明こそ唯一の真の文明と信じていたと思われるから、その摂取に非常な熱意を見せている日本人に彼らが中国人に対する以上の好感を持ったのはある意味では自然であったと言えよう。(p.26)


本書では随所にクラークが日本人に対して好感を持ち、政府高官などとも関係が良好だったことが語られている。クラークが無批判的に日本びいきとなった点について本書はやや批判的であり、ホイーラーの方が日本の長所と短所を冷静に距離を取って評価できていたと考えられているのが特徴的だったりする。それはそれとして、クラークの日本観の形成に寄与した要因のひとつとして、この引用文のような日本人の欧米に学ぼうとする姿勢があったのは確かだろう。

本書でも言及されている通り、この後数年もすると、この流れは変わっていくし、幕末の頃にも攘夷思想などがもっと強かったため、クラークが来ていた時期は、ちょうどお雇い外国人にとって当時の日本の人々は受け入れる雰囲気が高まってた時期だったということは押さえておいて良いだろう。



ありがたいことに日本では新聞の編集者たちは彼らが印刷する記事について責任を負わされています。そして、彼らのうちのかなりの数がアメリカの新聞編集者たちの大多数がいるべきところ、つまり監獄、に入れられています。私は自由を愛しますし、出版の自由(一定の規制を受けた)の大切なことも信じていますが、多くの点でアメリカでは私達は極端に走りすぎたと思います。私は〔日本で〕公人や公的機関に対する誤解と中傷に基づいた記事に満ちていない日刊新聞を読むことが出来ることをとても愉快に感じています。(p.47)


クラークが言論統制を支持する見解を表明していることについては、私も最初は驚きを感じた。ただ、本書が解説するとおり、クラーク個人の経験に基づく背景がある。つまり、本書によれば、「政府による新聞の弾圧を肯定するような口吻をもらしたのはおそらくクラーク自身がアメリカにおいて新聞による直接間接の批判にさらされ、アメリカの新聞に対してかなり強い敵意を抱くようになっていたためであろう」(p.52)という。これはこれでクラークの発言がどこから発しているかが分かり的確な解説と思われる。

ただ、新聞がマサチューセッツ農科大学(本書ではマサチューセッツ農学校)の経営がうまくいっていないことを批判するのはジャーナリズムとしては当然のことであり、ましてや民主主義のシステムを採用している国で政府に対して監視をしない新聞などほとんど社会的意義がないと言ってよい。疑義を向けられたらそれに応答する(response)のが公的な側の責任(responsibility)であろう。当時のアメリカの報道がどのようなものだったのか、わずかしか知らないが、自らが批判を受けたからと言って言論統制を是認する発言をすることは、自らの立ち位置などを適切に把握できないとしか言えず、適切ではないだろう。(クラークにはこうした反省が十分でない点がしばしば見られるように思われる。)



日本ではクラーク達の来日の前年の1875年(明治8年)6月に新聞条例が改正され、また同時に讒謗律が制定されて政府による言論・出版の取締りが強化された。(p.52)



讒謗律は「ざんぼうりつ」と読むそうだが、「事実の有無に関係なく、他人の名誉を損ねる行為を暴き、広く知らせることを讒毀」として、罪に問うものだったようである。個人的には、事実があっても名誉を損ねたら罪になるというのは、全く理解に苦しむところである。支配する側が勝手に言論を統制できるという体制は、現在の香港(中国が国家安全法を押しつけている)を見ても極めて問題が大きいことは明白。立憲主義と権力分立が重要である所以だろう。


西岡壱成 『「読む力」と「地頭力」がいっきに身につく 東大読書』

 本当に読解力を身につけ、本の内容を自分のものにするためには、「読者」ではなく「記者」にならなければダメなんです。(p.62)


本書の前半部分の内容は、この部分も含めて「いかに能動的に読むか」ということが一つのポイントとなっている。

他人と議論することを前提として本を読むような場合(例えば、大学のゼミやある種のレポートなどを書くために読む場合など)に自然とやっているような読み方に対して、やり方の具体的な形式を与えているという感じか。



 僕の経験則ですが、1テーマで10冊程度読めば、その分野についてある程度のことは理解できます(p.258-259)


私の経験則とも一致する。個人的には、あるテーマについて、3冊程度読めば概要が分かってきて、それを一定レベル以上の内容にまとめていくには10冊程度読む必要があるという感じがしている。


小林純 『続ヴェーバー講義 政治経済篇』

ポーランド人農村住民の生活水準の低さは見聞済みであったから、それだけに、ポーランド蔑視の時代精神にのっかった「人間よりも主観的な幸福感の大きいけだもの」発言の「毒」を見過ごすべきではなかった。肥前氏の批判の正しさを認めたい。ちなみにヴェーバーはその後、第一次ロシア革命勃発(1905年)を機にハイデルベルクでロシア知識人たちと交流し、スラヴ文化の理解を深めた。そして、こうした民族的偏見で差別を受けた側に立つロシア人とユダヤ人だけを受け入れる演習・研究会を開きたいと言っていた。偏見克服の一つの証左としたい。(p.62)


ヴェーバーがポーランド人に対して差別的な発言をしていたことは間違いのない事実である。以上の指摘によると後年、多少はそれが改善しているようではある。ただ、現代の差別に対する感度を持って見たときに、十分に治ったのかと言えば、そこまでは言えないようにも思われる。ただ、多少の改善はあったという一面は押さえておこうと思う。



このプロイセンとは、本書で見てきたプロイセン・ドイツ、つまりドイツ帝国へと導いたホーエンツォレルン家の国を指す。前史がある。神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の後援のもとに1220年代に始められたドイツ騎士修道会のプロイセン進出(異教徒制圧)は「北の十字軍」と呼ばれ、二百年以上に渡ってプロイセン人を殺しつづけた。(p.73)


北の十字軍については、もう少し詳しく知っておいて良いかもしれない。



行政の活動がなぜ「支配」と思われてしまうのか。おそらく行政行為には裁量の余地があって、それが住民には一義的に理解可能ではなく、役人が勝手にコトを処理している、と見えてしまうのであろう。決定された意思内容を膨大な規則・決まりゴトに照らして施行するには、そういう局面が出てくるのかもしれない。カネの使い方にも制約が多い。不断にそうした業務に携わる役人は、行政内容については政治家よりはるかに熟知しているはず。彼らにはまず公務員試験をパスする頭脳が必要なのだ。行政の問題点を指摘する政治家は、関連する法や規則を変更することで解決策を模索することになる。だから政治家も役人に話を聞いたり、実情を詳しく調べて変更案を提起すればいい。ところが選挙では官僚批判で票稼ぎをたくらむ候補が後を絶たない。政治家の役人批判を聞くたび、筆者は、この政治家は自らの無能さを表明しているのだな、と思うことにしている。(p.133)


この見解は基本的に正しい。現在は00年代頃と比べると官僚批判というか公務員バッシングは酷くはないが、維新など一部にまだその時代の古い感覚を持っている連中は一定数いる。

ただ、現在の政府(安倍政権)が官僚批判をしないのは、内閣人事局を設けたことによって自らの傀儡を幹部に次々と登用していくことができるようになっているためであり、「官僚批判をしている無能な政治家」よりも質が悪い。公務員バッシングや政治改革という90年代から00年代に作られてきた流れがもたらした負の遺産ができてしまっている現在はフェイズが変わっている、ということも押さえておく必要があると思われる。



 2月初め、バーデン公の発議により「正義の政治のためのハイデルベルク協会」がマックス・ヴェーバー宅で設立された。西欧諸国の真実ならぬ戦争責任論の宣伝に対抗することを目的とし、2月7日の声明で、戦争責任問題を客観的に解明するための非党派的・中立的な調査委員会の設置を要求した。協会は「ヨーロッパの戦争を行った大国すべてに共同の責任」があるとし、ドイツへの処罰を隠れ蓑に(自ら断念したはずの)「帝国主義的戦争目的」の実現をはかることに抗議した。協会の活動はヴェルサイユのドイツ講和代表団の基本線に一致していたので、外務省にも好意をもたれた。その結果、協会のヴェーバーら4人が「講和交渉委員会」の審議に招かれ、またこの委員たちはパリ講和代表団の随行員に任命された。(p.194)


ヴェルサイユ条約の講和にヴェーバーが参画していたことは当然知っていたが、その経緯がよくわかった。