アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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伊藤章治 『ジャガイモの世界史 歴史を動かした「貧者のパン」』
 中世の森林開墾(破壊)の先頭に立ったのは、意外にも修道院だった。ベネディクトゥス派やシトー派は「清貧」「貞潔」「労働」などを掲げて未開墾地(ほとんどの場合が森)の開墾に力を注いだ。

また、教会のステンドグラスづくりには大量の鉄、そしてその鉄を精錬する大量の木が必要だった。ひとつの教会堂のステンドグラスのために数千エーカーの森が切り尽くされたという。(p.99)


教会堂のステンドグラスを見るとき、こうした点に思いを馳せたことはなかった。



 1919年(大正8年)、孫三郎は、日本における民間初のシンクタンクといわれる「大原社会問題研究所」(略称社研)を設立する。1918年(大正7年)7月、富山に端を発した米騒動のすさまじさを目にした孫三郎が、社会に山積する問題を解決することの重要性を痛感したためという。社研の所在地は当時の経済の中心地だった大阪。初代所長には日本を代表する経済学者のひとり高野岩三郎(1871~1949)が就き、研究員には大内兵衛、森戸辰男、宇野弘蔵、長谷川如是閑、笠信太郎など錚々たる顔ぶれが並んだ。『日本労働年鑑』『日本社会衛生年鑑』の発行やディドロ、ダランベールの『百科全書』70冊、カント叢書などの文献収集などで、「日本における社会科学の聖地」といわれた。1937年(昭和12年)、社研は東京に移転、法政大学に引き継がれていく。(p.113-114)


大原社会問題研究所が法政大学に引き継がれたという件は興味深い。1949年に新制大学になった際に合併したようだが、どのような背景や理由があったのかが気になるところである。



 大原孫三郎は1923年(大正12年)、「大陸進出計画を最終的に取り決めるため」、中国視察に出かける。北京で孫三郎を案内したのが、北京・朝陽門外のスラム街で孤児らの教育に取り組んでいた清水安三(1891~1988)だった。
 ……(中略)……。安三は校舎や教材のすべてを残して日本に引き揚げ、東京西郊の町田の地に桜美林学園を築く。桜美林の名は安三が学んだオハイオ州の大学名に由来するだけでなく、アルザスの谷間のジャガイモの村に生きた聖職者ジャン=フレデリック=オベリンにちなんだものでもある。(p.118-119)


桜美林学園の名前の由来がこのようなものだったとは知らなかった。変わった名前だとは思っていたが、オベリンの当て字とは…。


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矢野久美子 『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』

 ヤスパースは戦後ハイデルベルク大学の再建に尽くし、戦後ドイツの良心として47年にはゲーテ賞を受賞していたが、翌年にはバーゼル大学哲学教授としてスイスに移住していた。ハイデルベルク大学や市議会はヤスパースを失うことに強い抵抗を示したが、アーレントはヤスパースの選択を全面的に支持した。ヤスパースは「国民的英雄」ではなく哲学教師であることを望んだのである。(p.121-122)


ハイデルベルク大学だけでなく市議会もヤスパースの移住・移籍に抵抗を示したというのは興味深い。戦後のヤスパースの名声は確かにそれなりに高いものがあったようである。



彼女は『六つのエッセイ』に収めた「実存哲学とは何か」という論稿で、1933年にナチに入党したフライブルク大学総長となったハイデガーの行動様式を、自分のことを天才と思い込み責任感をまったくもたない「最後のロマン主義者」のそれと見なしていた。彼の哲学から導き出される自己は、自己中心的で仲間から分離した自己、完全に孤立し原子化された自己たちであり、そこから「民族」や「大地」といった概念、つまり一つの「超-自己」への組織化が生まれる、と彼女は書いた。(p.122-123)


ハイデガーの行動様式及び思想に対する適切な評価と思われる。



短期間で総長を辞職したとはいえ、ナチに関係したハイデガーは、当時まだ戦後ドイツの大学での講義を禁じられていた。(p.124)


1950年のこと。こうした禁止が解かれたのはいつなのかが気になる。ドイツにおけるナチ関係者への公的な場面での扱いと評価はどのようなものだったのだろう。日本でも戦前に対する評価について(歴史を知らないにもかかわらず「正しい歴史」を知っていると自惚れる)「歴史修正主義者」たちが跋扈するようになってきている中、ドイツやイタリアなどでの戦前に対する評価のあり方を知っておくのは有益であるように思われる。



ハイデルベルクには当時学生も巻き込んだハイデガー派とヤスパース派のようなものが形成され、後者に属したシュテルンベルガ―は、ハイデガーのナチ協力について、その思想そのものに有罪判決を下して捨て去るような姿勢をとっているように見えたのである。(p.125)


ハイデガーの思想は政治的には右翼や保守・反動と相性が良いのに対し、ヤスパースの思想はそれと比べるともっとリベラルで平等主義的な志向が強い。そういった政治思想的な面でも両者に対する好みは分かれやすいのは理解できる。



 アーレントによれば、イデオロギーとテロルの支配下で現実や経験の意味は消え去り、人間が複数であるという事実が破壊される。現実の世界が余計なものとなるのである。複数の人間のあいだにあり、人びとが同じものを見ているという意味で共有している世界の解体は、他の人びとからも世界からも、そして自分自身からも「見捨てられている」(Verlassenheit, loneliness)という孤立化の事態、人間が根こそぎロンリーであるという事態をもたらした。(p.128)


今回、アーレントの思想に関して、このあたりの考え方に興味が惹かれた。恐らく90年代以降だと思うがアーレントの思想に対する再評価が起こったと思われるが、それはこうした部分に対する関心もあったのではないか。



人間を自動化し自然化することは、人間を予測可能な自動機械に変えることである。そのことを全体主義的支配者は理解していたし、現代社会でもその危険性は十分にある。(p.140)


このあたりからは、法を法とも思わずに恣意的な衆院解散を繰り返す安倍晋三の選挙戦略が想起される。政治的な問題に対して日頃から十分に関心を持ち理解している有権者はほとんどおらず、それを求めるのは「強い個人の仮定」をすることになってしまうような状況において、一方的に情報を発信することができる立場から、ほとんど法的に裁かれる心配がない(日本の裁判所は政治的な判断にはほとんど入り込んでこない)ことを利用して、都合の悪い事実・情報を隠蔽し、一方的に政権に都合の良いアジェンダを押し付ける。ほとんどの有権者は「語られていない(政権に都合の悪い)事実」を十分に考慮しないまま投票してしまう。これはまさに「人間を予測可能な自動機械に変えること」と重なるところが多いと思われる。



 大衆ヒステリーは主観的で「私的」なものであるとアーレントは言う。前章ですでに述べたように、アーレントによれば「私的」であるとは奪われているということを意味する。奪われているのは、世界の多様な見え方、すなわち世界のリアリティである。(p.156)


この箇所が本書を読んで最も啓発された箇所である。言われていることの大部分は2つ前の引用文と同じ考え方だが、大衆ヒステリーが主観的で「私的」なものだという指摘は、現代の世界におけるポピュリズムの台頭という現象を想起させ、ポピュリズム政党を支持する人々の状態を的確にとらえていると思われる。彼らはまさに「世界の多様な見え方」を奪われている。世界のリアリティが欠けている。(それでいながら彼ら自ら「現実的外交」などと言うのが滑稽だが。)彼らの言説には公共性が欠けているが、世界の多様な見え方が欠けているところに公共性などあるはずもない。そうしたことが非常に腑に落ちた。



思考に動きがなくなり、疑いをいれない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態を、アーレントはのちに「思考の欠如」と呼び、全体主義の特徴と見なしたのである。
「思考の動き」のためには、予期せざる事態や他の人びとの思考の存在が不可欠となる。そこで対話や論争を想定できるからこそ、あるいは一つの立脚点に固執しない柔軟性があって初めて、思考の自由な運動は可能になる。(p.174)


ポピュリズムなどによる「民主主義の暴走」にもこれは当てはまるように思われる。少数の投票で巨大な権力が獲得できる現在の日本の選挙制度は――比例代表と組み合わせていることや、二院制や参議院の選挙制度など、こうした危険を多少は緩和する要素も持っているにせよ――ポピュリズムがなくても政権与党がかなりの程度まで暴走できる制度になっており、こうした暴走により、一つまた一つと民主主義の抑制装置を解除されているのが現状で起こっていることであり、これらの抑制装置が解除されたことを利用する政権が現れた時、破局へと一気に進む危険がある。現在の政治に対する私の懸念はこの点にある。



 アーレントは「真理と政治」という論稿のなかで、政治的な領域をかたちづくり人びとが生きるリアリティを保証すべきものであるはずの歴史的出来事や「事実の真理」が、数学や科学や哲学の真理といった「理性の真理」よりもはるかに傷つきやすいものであると論じた。「事実の真理」は、それが集団や国家に歓迎されないとき、タブー視されたり、それを口にする者が攻撃されたり、あるいは事実が意見へとすりかえられたりという状況に陥る。「事実の真理」は「理性の真理」とは異なり、人びとに関連し、出来事や環境に関わり、それについて語られるかぎりでのみ存在する。それは共通の世界の持続性を保証するリアリティでもあり、それを変更できるのは「あからさまな嘘」だけであると言う。「歴史の書き換え」や「イメージづくり」による現代の政治的な事実操作や組織的な嘘は、否定したいものを破壊するという暴力的な要素をふくんでいる、とアーレントは指摘した。(p.207-208)


本書は2014年に出た本だが、最近1年前後の情勢を念頭に置いて書かれているかのような錯覚に陥る。アメリカのトランプが大統領となり、事実の報道に対して「フェイクニュース」というレッテルを貼ることで都合の悪い真実を消し去ろうとする姿勢や、安倍政権による森友学園、加計学園に関する問題で、政権にとって都合の悪い事実が隠蔽されている。政権側は質問されてもはぐらかし、質問の機会をつくることを求められても応えず(臨時国会は実質的に開かれていない)、都合の悪い事実を口にする者(前川氏)を攻撃し(読売新聞が加担した記事)、時間を稼いでいる間に証拠を隠滅していること(財務省のパソコンの情報などを想起)は明らかだろう。

歴史修正主義者たちの言説も「あからさまな嘘」であるが、それでもそれを否定するために立証しようとすると、込み入った専門的な議論や知識が必要になったりするため、一般に広く理解されることはなく、それらが公衆の面前であからさまに論破されないまま垂れ流されているうちに、次第に嘘が真実であるかのように受けとめられていくという方向に流れている面がある。

「事実の真理」の脆弱性をよく認識した上で、それをどのように守っていくのか、学問だけでなく政治的にも非常に重要な課題である。


村上陽一郎 『近代科学と聖俗革命 <新版>』

 つまり、デカルトの論理において、疑い得ないとされたものは、「自分の」思惟、「自分の」《cogitatio》ではあっても、それが、「我々の」、言い換えれば「人類一般の」思惟、理性、《cogitatio》にまで拡大されることについては、何らデカルトの論理は証明していない、という反論が充分成立し得るように思われる。
 ……(中略)……。
 デカルトが、人間にとって、他の機械や動物から区別されるべき絶対的な手掛りとして措定した《cogitatio》という概念は、デカルトの言い分をそのまま認める限りにおいて、人間を他から区別する手掛りではなく、「我」を他から区別する手掛りにすぎなかったのである。(p.192-193)


有名なcogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)に対し、村上はデカルトが確実なものとしたのは、自分の思惟でしかないという点を指摘する。これと人間は例えば自由意志を持つものだというデカルトの想定とは結びつけることができず、人類一般についてデカルトのこの論理からは何も導き出せない点を批判している。

この本の旧版を私は15年ほど前に読み、ちょうどその時に出た新版を(すぐに買ったのに)今頃読んだわけだが、本書の初版が出た頃と現在とでは言論の基礎にあるものがかなり変わってきていると感じる。現在は当時ほどデカルトを批判する必要性はなくなってきている。このことは科学に対する一般の考え方もこの40年ほどでかなり変わったのだということに由来する。古い本を読むのは現代の立ち位置を認識する役に立つ


沼上幹 『組織戦略の考え方――企業経営の健全性のために』

自分自身でモノを考え、決断を下す原理を確立していないから、他社の経営者たちを見て、世間的に見て自分の所にふさわしそうな経営手法の「落としどころ」を探しているのである。(p.133)


企業の上層部が主体的に決定を下せない場合、経営改革検討委員会(プロジェクト)が増加するとして、その際の理由として述べられている箇所から引用。

判断すべきポジションにいる人間が自分で判断できない場合、周囲を見て同調するという考え方に流れがちだといことだが、これは私の身の回りでもよくみられる事態である。この方法は比較的安易に使えるので、このようなやり方ばかりに頼らないような自らの判断力を磨いていく(そのためには実行し、効果を経験しなければならない)ことが重要だろう。



 第二に、いま組織運営のボトルネックになっているのは決断のできる人なのだから、このボトルネックが生きるように細心の注意を払うべきである。どこからどこまでが各自の責任範囲なのかがあいまいな日本の組織では、少しでもできる人には大量の仕事が集中してくる傾向がある。一つの課の仕事の八割くらいを一人の人間が処理し、残りの数名があとの二割を処理しているという状況など、日本中どこに行っても見受けられる。
 忙しくて死にそうだと思っている当人には申し訳ないが、エースに重要な仕事が集中するのは組織全体にとっても適切だから、経営上の深刻な問題ではない。問題は、重要でない仕事までエースに集中してしまうという点にある。本当のボトルネックであるエースの仕事処理能力を無駄遣いしてしまうことになるから、こっちの方は経営上の深刻な問題である。(p.136-137)


エースに仕事が集中するというのはよくある。仕事を割り振る側として見ると、そこにしか任せられないというのが一つの原因となっている。そのこと自体はやむを得ない面があるとしても、重要ではない仕事はエースから切り離すようにするというのは理に適っており、参考にしたい。(ちなみに、実行部隊にエースが不在の場合、割り振る側(監督職や管理職)が自ら処理しなければならなくなり、これはこれでより高次の判断能力を浪費させるため、組織にとって損失となる。)



真実か否かを確かめることもなく、単に「信じたい気持ち」があり、欲求不満が溜まっていさえすれば、噂はあっという間にスキャンダルに仕立て上げられる。過度に欲求不満になった人々がインターネットで結びつけられた現在は、本当に恐ろしい時代である。(p.161)


本書は2003年に出た本なので、ネットの常時接続が漸く一般的になってきた頃の記述であるが、妥当な見解だと言うべきだろう。

インターネットというメディアは「大手メディアは嘘や隠蔽しか報じない」とか「ネットに真実がある」というようなナイーブな意見が跋扈しやすい環境であるということは最近ではかなり知られるようになってはいるものの、こうした認識はできるだけ広く共有されるべきであろう。さらに言えば、少なくとも日本では社会科学についての教育がまともになされていないという点も問題だと考えている。真実か否かを確かめるための手段をある程度以上の教育を受けた全ての者が身に着けている方が、信じたい気持ちが先行する状況に対して批判的な言説が力を持ちやすいと考える。


堤直規 『公務員の「異動」の教科書』

 山本直人ほか著『部下育成の教科書』(ダイヤモンド社)では、年間受講者15万人の実績を持つ企業人の成長モデル「トランジション・デザイン・モデル」が紹介されています。この中で、ビジネスパーソンには10のステージ(段階)があり、そのうち一般社員には4つのステージがあるとされています。

 ①スターター(Starter/社会人)
  ビジネスの基本を身につけ、組織の一員となる段階
 ②プレイヤー(Player/ひとり立ち)
  任された仕事を一つひとつやりきりながら力を高める段階
 ③メインプレイヤー(Main Player/一人前)
  創意工夫を凝らしながら、自らの目標を達成する段階
 ④リーディングプレイヤー(Leading Player)
  組織業績と周囲のメンバーを牽引する段階

 公務員に当てはめて考えると、①が入所1年目の新人、②が3年目程度の若手、③が5~10年目ぐらいの若手、④が10年目以降の中堅というところだと思います。(p.113)


本書は「公務員」とタイトルに入っているが、主に地方公務員、特に勤続5~10年目の30歳前後の若手を対象としている。このモデルで言えば、プレイヤーからリーディングプレイヤーへとどのように成長していくかということがテーマと言えるだろう。

こうしたモデルにどの程度の実証的な裏付けがあるのかという点にはやや疑問を感じるが――「事実としてこうである」というよりも、「周囲からはこのようなことが期待される(ものだと考えろ)」というモデルであるように思われる――、将来への見通しを立てやすくするという意味では有用なモデルと思われる。


今村敏明 『小樽蔵めぐり イラスト帖』
小樽ナトリ倉庫(旧日本郵船小樽支店残荷倉庫)

 旧日本郵船小樽支店の隣にある倉庫。設計もお隣と同じく佐立七次郎です。
 ……(中略)……。
 この倉庫は、佐立が設計した唯一の石造倉庫ではないかと推測されます。(p.74)


佐立七次郎が設計した建築で残っているものは、東京にある日本水準原点標庫と小樽にある旧日本郵船小樽支店しか残っていないとしばしば言われる。本書の記述が正しければ、三棟目が残っているということになる。



小樽運河食堂(旧浪華倉庫)

 かつて三井物産や三菱商事としのぎを削った鈴木商店(本店・神戸)が使用した倉庫です。鈴木商店は砂糖、樟脳の取引から出発し、金子直吉大番頭の統率で事業を拡大。第1次世界大戦で莫大な利益を上げ、傘下に50余社を抱えた振興財団でした。(p.80)


台湾と北海道という二つの地域に注目している身としては、鈴木商店の倉庫には注目してしまうところ。運河食堂の倉庫が鈴木商店が使用していた倉庫とは知らなかった。



住吉神社旧宮司邸蔵

ニシン漁は、まだ雪が降る3月から6ごろまでがピークです。加工が一段落する7月上旬に合わせて北前船が入港し、商取引が盛んになります。住吉神社の祭礼「小樽祭り」が始まるのはちょうどそのころ。収穫がコメでなくニシンなので、祭りが秋ではないのです。(p.127)


なるほど。興味深い。小樽の大きな祭り(水天宮、龍宮神社、住吉神社)が同じ時期に重なっているのもこのことと関係しているのだろうか?


土方透 編著、K・アッハム、J・ヴァイス、姜尚中、荒川敏彦、細見和之 『現代社会におけるポスト合理性の問題 マックス・ヴェーバーが遺したもの』
細見和之

むしろ、私たちの時代においてはあらゆるカリスマを「偽りのカリスマ」として批判的に分析する視座こそが重要ではないだろうか。(p.118)


同感である。カリスマ的な強力なリーダーシップに頼りたいという風潮がここ10年以上蔓延している中では特に重要なことである。つい先日も小池百合子が危うくこうしたカリスマになりそうになったが、自身の言動(民進党を吸収する際の「排除」発言や実際の排除行為)によってカリスマを失った。このような分かりやすい失敗がなかった場合でも、いわゆる「踏絵」の内容やこれまでの都知事としての意思決定の仕方などから独裁的な志向が強いということくらいは見抜き、それが広く知られるような報道がなされることに期待したい。



荒川敏彦

他方で奥村宏は、「企業の社会的責任」論が流行するなかで、結局は利益のためのCSRと化している状況を批判する。(p.193)


同感である。



土方透

 結局、非合理性とは、それが合理的でないといわれる限りにおいて、合理性の枠から見た非合理性である。(p.224)


非合理性ということは常に合理性の側から見られたものだという指摘は興味深い。



土方透

よくいわれるように、核が多元的であるか、複数のコンテクストを有しているか、あるいは「大きな物語」が終焉したかは、すなわちそれによって近代が終焉したという指摘は、この脈絡では意味をなさない。なぜならば、単一性に対して多元性を主張する主張そのものは唯一的であり(つまり多元主義は一つの主義であり)、コンテクストの複数性の指摘そのものは単数であり、大きな物語の終焉は、そのテーゼそのものが「大きな物語」だからである。そうした近代に対する評価は、その評価そのものが、その評価を成り立たせた指摘を免れているというやり方で可能になっている。つまり、それらがまだ自己言及的な論理のなかに措かれていない。逆にそこに措かせることで、これらをすべてこれまで述べてきた近代の内に回収することができる。(p.240)


多元主義は一つの主義であり、コンテクストの複数性の指摘は単数であり、「大きな物語」の終焉は大きな物語であるという指摘は興味深い。



土方透

あるいは、それを「客観」を超え出て「客観」というプロセスとして記述するのであれば、後述するように、もっとラディカルに(区別の区別として)展開することが可能であろう。(p.244)


客観性という難しい問題を考えるとき、それを「客観性」と捉えるのではなく、「客観化のプロセス」と記述するというのは、客観性という問題を考える際に非常に重要なポイントであると思われる。


老川慶喜 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇 日露戦争後から敗戦まで』

 その後、1931年には満州事変、32年には上海事変と、戦争への道を突き進み、国際観光局の外客誘致宣伝活動にもかかわらず、外国人観光客の数は低迷した。しかし、1933年に国連から脱退したのを契機に円貨が暴落すると、外国人観光客が増えはじめた。(p.154)


昭和初期の旅行ブームについて背景の一つとして知っておいてよいかもしれない。



 国民精神総動員運動の一環として奨励されてきた「神社巡り」などの行楽旅行も、全面的に制限を受けるようになった。三等寝台車や食堂車も廃止され、一般の「不急不要」の旅行は、次第に窮屈なものとなった。国民精神の振興と尽忠報国の名のもとに存続してきた修学旅行も、1943年には学生や生徒が戦時動員されてしまったため、実施できなくなった。(p.201)


戦前における神社巡りや修学旅行の意味づけは興味深い。当時の政府は本音で言っていたのかも知れないが、それを言われていた側(教師や生徒たち)が、建前として受けとっていたのか、本音で受け取っていたのか?



水谷周 『イスラーム建築の心――マスジド』

 90年代に入って建立されたマスジドはほぼ10カ所だが、2000年以降のそれは35カ所ほどに上る。90年以前はほぼ10カ所であったので、これで約五倍増という計算になる。2000年以降の特徴としては、それまでは関東中心であったのが、中部地方に多数できて、さらには北海道(札幌写真3、小樽)、九州(別府、福岡)、四国(徳島、新居浜写真8)と全国に広がったことである。(p.35)


日本では2000年以降にモスク(マスジド)が多数建てられるようになったことがわかる。何故なのか?興味がある。



 それよりもここで指摘したいのは、モスクという名称にこだわっているという点である。これがイスラームに対する侮蔑後の起源を持つと考えられることは、序章で述べた。そうでなくても、モスクは欧米語である。したがって○○モスクと称することは、例えば法隆寺という代わりに、法隆テンプルといっているようなものだということになる。(p.37)


著者はイスラームの礼拝所を「モスク」と呼ぶべきではなく、「マスジド」(あるいは「礼拝所」)とするべきだと考えているというのは、本書を貫くスタンスである。

モスクという言葉が仮に最初は侮蔑後だった言葉であったとしても、大事なのは、今現在の人々が、この語に侮蔑的な意味合いを感じるかということの方が遥かに重要であるように思われる。かつて侮蔑後だったもののニュアンスが反転している語というものも世の中には多く存在する。また、ムスリムたちも特に問題を感じずに「モスク」という言葉を使っているところなどからも、この語がかつて侮蔑語として使われていた語に起源をもつとしても、そのことを以て使うべきではないとするのは過剰反応であるように思われる。



内装では、鍾乳石のように垂れ下がる多数の曲面がドームの内面一杯を飾る、ムカルナスという構造になっている。その人間業とも思えないような飛びぬけた美しさで有名だが、この技術は元々イランを原産地としているので、13世紀モンゴルの襲撃によって逃げてきたイラン人たちが作ったのではないかと考えられる。(p.100)


一見すると、この記述には奇妙な所がある。ムラービト朝(11~12世紀)の建築について説明するに当たり、13世紀のモンゴルによる支配によって説明しているからである。ムラービト朝期に最初に建てられたモスク(マスジド)が、その後、再建や増築されたということなのだろう。

いずれにせよ、モンゴルの支配とイラン人などの移動による建築技術や建築意匠の伝播というのは興味深い問題である。



 そして各地で見られる光沢のあるタイル装飾こそは、イラン趣味の最たるものだと言えるだろう。それは肥大化してきた正門やドームなどを飾るのに必要であったと同時に、逆にタイル装飾を見せるためにそれらが巨大化してきたとさえ思える。各地の仕事ぶりや仕上がりを比較すると、あまりに似ていることが指摘され、同じタイル職人のチームが各地を回って作業にあたったのではないかと推察されている。(p.125)


イル・ハーン国に創建されたモスク(マスジド)についての記述だが、正門やドームの巨大化とタイル装飾との相関関係についての指摘は興味深い。この相関関係について検証することは難しいだろうが、いずれにせよ、両者が相俟ってイランの様式の建築の美を形作っていることは間違いない。



少し皮肉のように聞こえるが、この時期のマスジド建築にはセルジューク朝時代に比べてそれほど構造的に新規なものはなく、むしろ従来のものを踏襲したにすぎず、それを装飾芸術がカバーしているという風に評する人もいるくらいである。
 第五代君主アッバース一世(1588-1629年統治)の命により1612-1630年に建設されたマスジド・アルイマーム(在イスファハーン)写真38は、この時期の代表的なものである。シャー広場に臨む形で建造されたが、そのシャー広場そのものが、北京の天安門広場か、パリのコンコルド広場のように、国家の威容を示すために造られたものであった。(p.126)


サファヴィー朝の建築についての記述より。イランのイスラーム建築の最盛期とされるサファヴィー朝建築に対し、本書はあまり高く評価したがらない傾向がある。初期の素朴というか簡素なモスクを著者が好んでいることがこの点に反映している。著者にとっては信仰者として祈りやすい、祈りに集中できる、そういった建築が好ましいと評価しているためであり、イランの様式などはやや華美だと感じているように見受けられる。

とは言え、この時期の建築には構造上の新しさはないという指摘は興味深い。また、シャー広場(イマーム広場)が国家の威容を示すために造られたというのは妥当な指摘である。


内藤辰美、佐久間美穂 『戦後小樽の軌跡 地方都市の衰退と再生』(その2)

 明治中期になると高島は次第にコミュニティとしての要件を備えていく。「明治17年11月、祝津学校分校として高島学校が発足、この年にはまた高島墓地も現位置に設定、高島稲荷(元禄3年)、祝津恵比寿神社(安政3年)の建立や寺院(正法寺―明治初年色内庁、浄応寺―明治13年手宮裡)の開山(同上:108-109)があった。墓地の設立はここを郷土とする人々が多くなってきたことの表れである。そして、「この頃、高島、祝津も移住が相次ぐ。高島へは越後(新潟)を主として越中(富山)、加賀(石川)から家族を挙げて移住・定着する」人が増えてきた。(同上:108-109)。(p.342)


祝津小学校は平成25年(2013年)3月31日で閉校となっており、学区としては高島小学校がかつての祝津小学校の学区を組み込むような形であったと思うが、歴史的には祝津学校から高島学校が出てきていたというのは興味深い。

墓地設立がこの地を郷土とする人々が増えてきたことの反映というのは納得。



 高島における越後盆踊りは内地から北海道の地、高島に移植された文化である。『新高島町史』は記述する。以下、『新高島町史』に目を向けてみることにしよう。「明治初期の頃から現在の新潟県北蒲原郡北部郷地方の村々は高島に移住者を出していた。特に藤塚浜では村の三分の二が焼失するという大火があり、それを契機に大量の移住者が現れた。現在、高島に多い、須貝・本間・小林という姓はその先祖は藤塚浜からの移住者である。(p.343)


北海道への移民について、どのような人々がどのような時期に移動していたのかというのは興味を持っているテーマの一つだが、火災で集落が被害を受けたことが契機となった地方もあったということか。こうした事例はどの程度あるのか?



越後盆踊りの歌詞は恋愛や性に関する内容を含んでいたために第二次世界大戦中は禁止された歴史がある。(p.350)


このことはあまり語られていないように思う。



高島は文化活動の盛んなところでもある。文化活動の拠点が高島町会館。この建物は町民の寄付と市の補助金で建てられた。土地は旧高島小学校跡地。この土地は一度市に寄付されたあと、市はここに支所をおいていたが、支所が廃止されてからその跡地に現在の会館を建設した。(p.351)


現在の高島会館が竣工したのは平成11年(1999年)のことだが、この場所が旧高島小学校の跡地ということか。現在、敷地に隣接する場所に広い駐車場があるが、ここは高島保育所があったという情報もある。斜め向かいには旧高島町役場の庁舎もあることから、一時期は高島という町の中枢をなす場所だったと言えそうである。今の現地は、旧庁舎と会館の存在によって辛うじてそうした面影を残しているものの、それ以外にはそのように思わせるような要素はほとんどないように思われる。



小樽市は日本資本主義と小樽市がおかれている歴史的位置を冷静に分析し、向かうべき方向を確認しなければならない。一時的な誘惑に駆られて小樽市の発展に馴染まない政策を採用してはならない。私見を言えば、話題になった「カジノ」は小樽の歴史にも現状にも馴染まない。カジノの風景に最も合致するのは新自由主義である。小樽市はむしろ新自由主義と対極にあってその存在を訴えることができる都市である。これからの日本は、そして小樽市は、一時的な発展よりも中長期的な安定的発展を志向する以外途はない。(p.381)


カジノを小樽市に誘致することには反対であり、それは小樽の歴史にそぐわないという主張には共感するが、小樽が明治期から急速な発展を遂げて最盛期を迎えるまでの経過はブローデル的な意味での「資本主義」(国家と資本が結び付いて相互の権力を高めていく過程)の産物という側面が極めて濃厚であったという点を見落としてはならないように思われ、カジノ誘致に積極的であろうとする人びとの考えは、発想の上では、その時代の流れと同じ圏内にあるということに留意すべきである。

むしろ、「国家」側が小樽に資源を割く可能性が当時よりも遥かに期待できないため、誘致には成功しないだろうし、客観的に成功する条件が不足しているため誘致に成功した場合には経済的に期待したような成功は得られないだろうという見通しを持つことが重要であるように思われる。そして、経済的にカジノが成功する条件がどのように失われているのかということを的確にまとめて説明することが必要であろう。



官僚群の機能は国家、都道府県、市町を貫徹する。そしてそれは過度といってもよいほど顕著である。その点に留意していえば、単純に選挙のような表面的・形式的な制度の普及をっもって日本を民主国家と断定することには慎重でなければならない。この国の政治がどのように動かされているのかを突き詰めた上でなければ民主主義について論ずることができない。民主主義や民主国家を論ずる場合には、国民・政治家の憲法・法律の遵守意識、委員会等議会運営の在り方、三権分立の実態、投票行動の実態等々が検討課題として存在するであろう。そうしたことを含めて「政治運営の主体は誰か」という点の確認なしに、民主主義を論じることはできない。(p.395-396)


選挙で政治家を選んでいるという形式的に代議制民主主義をとっているというだけで、その国が民主的であるとは言えないというのはその通りである。ただ、ここでの文脈では官僚が実際に行政を運営しており、それが国民の意見を反映していないのであれば民主的とは言えないといったことを言いたいように見えるが、この議論は私に言わせれば90年代頃の議論であり、もう古い。

現状の日本はそんなことが問題なのではない。官僚機構は大規模な組織には不可欠なものであり、その意味で普遍的な現象である。官僚機構の活動が逐一、個々の人々の意見を反映すると考えるのはナイーブであり、そのようなことはあり得ないと前提しなければならない。むしろ、代議制民主主義とは委任と責任の連鎖であり、個々の国民の意見とは異なることを官僚が実行していても、官僚が国民ないし国民の代表に対して必要な説明が出来るのであれば、委任を受けるに値すると言える(委任を受けていないとまでは言えない)。90年代の政治改革を通じて実現してしまった現在の政治運営の最大の問題は中央政府レベルで言えば、官邸に権力が集中しすぎており、ほとんど誰もそれに逆らえない仕組みになってしまっていることであって、ごく少数の人間が文字通りやりたい放題のことができる仕組みになってしまっているということである。

森友・加計学園問題、自衛隊の日報問題で、政府がいかに説明をしようとしていないかを想起されたい。説明できないということは、委任を受けるに値するとは言えないということであり、それはすなわち公権力の行使は許されないということであり、それは民主主義の国家なのであれば、内閣は辞職するに値するということを意味する。