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大山綱夫 『札幌農学校とキリスト教』

 札幌農学校の本科(農学科)全卒業生名簿を入学前・卒業後の所属を含めて諸キリスト教会の会員名簿と照合すると、五・六期生あたりからキリスト教色が盛り返していることが窺える。……(中略)……。
 以上を集計すると、札幌農学校一期生から、最終の二四期生までの本科卒業生総数382人のうち、生涯、あるいは生涯の一時期にしろキリスト者であった者は、84人であり、約5人に1人の割合である。このうち56人は、一・二期生のキリスト者が中心となって作った札幌独立基督教会の会員であった。約5人に1人という割合は、おそらく当時のキリスト教主義学校内の割合に遠くなかったのではないかと思われる。(p.56-58)


五・六期生あたりからキリスト者の割合が再び増えてきたと指摘しているのは、有名なキリスト者を輩出した一期生と二期生に続いた三期生と四期生は反キリスト教的なスタンスの者が多く、有名な国粋主義者も輩出していることから、札幌農学校のキリスト教的な色彩は最初だけであるという議論を否定するためであろう。その上で、全卒業生と主な教会の会員の名簿を照合して実証的にキリスト教徒の割合が1/5ほどになることを明らかにしている。このことは筆者の一つの功績であると思われる。

ただ、気になるのは、以下の点である。

この調査が農学科に限定している点である。札幌農学校がどのような特色の学校だったかということを明らかにするには全体、すなわち全学科の卒業生(あるいは入学生)の数字を提示するのがより妥当だと思われる。農学科は一・二期生のいわば直系の後輩たちであり、彼らの影響力も他の学科よりずっと強かったと想像される。この想定から推せば、他の学科の「キリスト教色」は農学科よりもかなり薄いものとなるだろうと予想しても不当ではないだろう。(つまり、サンプルが全体を代表すると想定できない。)全卒業生の中でのキリスト者の割合はそれほど高くないのであれば、札幌農学校のキリスト教的な色彩といっても、それは主に農学科の特徴であるという限定が必要になるのではないか?



学内はかつての「禁酒禁煙の誓約書」の精神が支配するキャンパスではなく、学生生活は他官学のそれと似てきた。札幌農学校は1907(明治40)年に東北帝国大学農科大学となり、1918(大正7)年には北海道帝国大学となった。さらに農学部の他に諸学部が増設され、規模が拡大すると教員構成にも変化が生じた。帝国大学としての研究・教育プログラム充足のためには、精神的伝統とはかかわりのない人事が進められた。農学校から帝国大学への拡大・充実期は、キリスト教色の減退期と重なり合ったといえる。(p.66)


建学の目的がキリスト教の普及にあったわけではなく、官学として政府が設定する政策目的のために創設された教育機関である以上、このような規模の拡大が小規模な集団では維持できていた精神的な伝統と相容れなくなるのは尤もなことであり、内村鑑三などがこうしたことを指して堕落などと評価するのは果たして正当なことなのか、と思わされる。

本書は内村や大島正健のようなキリスト者に比較的共感的なスタンスが見え、佐藤昌介や宮部金吾などに対しては、それなりに事情を見てはいるものの否定的な評価が見え隠れしている。佐藤や宮部の志向は明らかに教育研究機関としての目的に照らすと概ね納得のできる妥当な方向性での動きをしており、それを学校の存在理由とは本来無関係なキリスト教の観点から批判するのは的が外れているのではないか。もちろん、自分が在学した学校がこのようなものであってほしいという理想を各自が持つことは当然のことではあり、内村らが言いたいこともわからないでもないが。

ただ、キリスト教的な大学であり続けろ、というのであれば、政府が大学に課す目的や大学自体の存在理由を変更する必要があり、その目的に適った組織の構成や運営が行われる必要がある。その大本のところからキリスト教に沿ったものとするのであれば、神権政治による統治の下で、全ての学問は神学に奉仕するような学校や世俗の法よりも宗教法の方が優位にあると考えるような状態を理想とすることに繋がるものであるということには留意しておいて良いのではないかと思う。



最晩年の内村のもとで聖書を学んだ、のちの西洋経済史研究家の大塚久雄が、キリスト教とマルクス主義のどちらも捨てられないことから生ずる悩みを告白したところ、内村は「私もキリスト教の信仰と進化論の間で非常に苦しんだ。しかし、自分は、どちらを捨てるようなことはしなかった。いまだに未解決のところはあるけれど、そうしてよかったと思う。君もそれをやればよいではないか」と答えたという(p.213)


大塚と内村が交流があったとは知らなかった。



 佐藤と宮部のアイデンティティは米国留学中に完成する。佐藤はジョンズ・ホプキンス大学へ進み、“History of the Land Question in the United States”と題するアメリカの土地政策を巡る研究論文で博士号をとり、宮部は、ハーヴァード大学で、“The Flora of the Kurile Islands”と題する千島列島の植物相の研究論文で博士号をとった。二人共、札幌農学校入学時点からの関心、しかも札幌農学校や開拓使の方針に沿った関心を、当時考えられる最高の学歴を全うする形で貫くことができた。彼らのほかに新渡戸稲造(二期生、卒業後アメリカのアレガニー大学、ジョンズ・ホプキンス大学、ドイツのボン大学、ベルリン大学、ハレ大学へ留学)と渡瀬庄三郎(四期生、卒業後ジョンズ・ホプキンス大学留学)らも留学によって札幌農学校の教育や研究の延長線上で自己の帰属先を発見した。彼らは、札幌農学校というカレッジを終えて、ドイツ型の学問論の影響を受けつつあった、ジョンズ・ホプキンス(1876年創立)やハーヴァードという、総合大学あるいは大学院大学へ進んだ佐藤は、ドイツ型セミナー方式を導入し「科学的史学派」を形成しつつあったハーバート・バクスター・アダムス(Herbert Baxter Adams,歴史学)やドイツ歴史学派に思想的に位置するリチャード・セオドア・イーリー(Richard Theodore Ely,経済学)のもとで学び、宮部は、チャールズ・エリオット(Charles William Eliot)総長のもとでニューイングランドのカレッジから総合大学へと変質しつつあったハーヴァードで、当時世界屈指の植物学者エイサ・グレイの薫陶を受け、学問的には最も高度な恵まれた経験の積み上げを、札幌農学校の教育の延長上で行うことができた。一・二期生のキリスト者の中でこうした人々と対照的に激しいアイデンティティ混乱に陥ったのが内村である。彼は、ジョンズ・ホプキンスやハーヴァードとは対極にあるニューイングランド福音主義のアマスト大学(Amherst College)に入り、いわば二度目のカレッジ生活を送らざるを得なかった。彼にはカレッジ生活のやり直し、つまり札幌農学校(Sapporo Agricultural College)の教育のある意味での清算の上にしか、そのとき人生は見えていなかったといえる。彼の帰国後の言辞の中にみえる札幌農学校に対するアンビヴァレントな態度は、この辺の消息を反映しているものであろう。(p.218-219)


ドイツ型のユニヴァーシティや大学院大学とアメリカのカレッジを対比させながら、札幌農学校の卒業生のその後のアイデンティティ形成との関係を論じているのは非常に面白い。

この問題はもう少し掘り下げて見てみる価値がありそうな気がするが、ここで対比されているような人物に関して言うと、佐藤や宮部はより高度な学問的な研鑽を続けることになった(その結果、社会的にもそれに見合った役割を見出すことができ、そうした社会的役割の中で自らのアイデンティティも安定した)のに対し、内村がカレッジに入りなおすことにしかならなかったのか(その結果、佐藤や宮部、新渡戸のような社会的な地位や役割はある意味では得られず、社会からの評価や支持が少ないためアイデンティティも安定しにくい状態が続いた)と言えば、宗教(内面)に対して関心が集中してしまい、学問や社会といった外へと目を向ける(関心が向かう)度合が少なかったからではないかと思う。10代の学生の関心を超えることが少なかった内村と普通に成長していった他の学生との違いではないか。(内村も水産学など学問的な関心があったのはそうだろうが、これも多分に宗教的な世界観を前提として考えながら学問をするのであれば、究極的には同じことである。)



 公人となってからの佐藤と宮部は、青年期のような伝導熱心は見せず、ましてや内村のように強烈な主張をすることもなく、大学人として、ひとりは大学行政に、ひとりは研究活動に専心する。そして二人の大学への関わり方は、かつてのニューイングランドのカレッジを範型とした札幌農学校の性格をドイツ型のユニヴァーシティへ変化させる方向のものであった。これは、彼らの青年時代にアメリカの高等教育の世界に起こっていた趨勢を後追いするものであり、同時に日本の近代化の中で生じていた学問の世界での重心の推移と軌を一にするものだった。そうした趨勢、推移の中で、初期札幌農学校が、理科系学校でありながらも備えていた人文主義的傾向や、全人教育的要素を継承・実践したのは、彼ら二人ではなく、新渡戸であった。彼は課外においても多くの学生をひきつけ、その学生たちはセツルメント的性格を帯びる遠友夜学校(1894〔明治27〕年創立)の担い手となった。有島武郎(19期生)も新渡戸に似た役割を果たしたが、彼らの行き方は大学の拡大・発展の中では主流とは言えなくなっていた。主流を代弁して南(二期生、後に北大総長)は、「徒らに普通教育的思想、或は文学的観念を増長せしめるが如き昔の弊風は社会の気運に反す」と述べた(ただし、南の場合は、ユニヴァーシティ化の視点からというより主流を構成するもうひとつの要素である実学の観点からの発言と考えられる)。宮部ら二期生は、札幌をエジンバラの如く「北のアテネ」(Athens of North)たらしめようと論じ合ったが、19世紀末から20世紀にかけてのアテネ化は、客観的方法論と専門分化による学問の発展を目指すドイツ型のユニヴァーシティ化たらざるを得なかった。(p.228-229)


学問の専門性が深まり分化が急速に進んでいく中、旧来のアメリカ型のカレッジでは高等教育として不足なのは明白であり(カレッジというのは、現在日本の普通高校程度の教育に若干の研究の要素が付け加わる程度というイメージではないか)、そこからの変化は不可避のものだっただろう。

新渡戸のここでの位置づけもなかなか興味深い。



日本がキリスト教圏内の対抗的勢力(カトリック)や異端ではなく、キリスト教圏外でプロテスタント・キリスト教勢力になる高い期待を寄せられた非キリスト教国であったことが、キリスト教宣教という大義のために積極的に評価されたのである。(p.347)


日清戦争の頃のアメリカのプロテスタント宣教団体らの日本への評価が、キリスト教の宣教対象として有望と見られており、かつ、カトリックや異端にはなびかないだろうという見積もりの下で積極的に評価されていたという。なるほどと思わされる。ただ、「宣教対象として有望」という宣教師たちの見込みは明らかに見誤ったものだったのは言うまでもないが。


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高橋真紀 『現地在住日本人ライターが案内する 子連れで楽しむ台湾』

台湾の小学校では1年生から中間・期末テストが実施されるのです。(p.123)


台湾は日本以上に受験競争が激しいと聞くが、小学校から定期テストを行っているとは思わなかった。どのような意味合いのテストなのかが少し気になるところ。


柏原宏紀 『明治の技術官僚 近代日本をつくった長州五傑』

 明治26年(1893)10月には文官任用令が定められた。これまでに伊藤は内閣を支える官僚制の充実にも力を入れ、同20年7月に文官試験試補及見習規則を制定し、官僚の試験採用に道筋をつけ、その供給源となる帝国大学も整備していた(清水唯一朗『政党と官僚の近代』)。それ以前の官僚は、試験ではなく推薦や情実により採用されており、採用された官僚たちの能力にも差があって、効率的でも近代的でもなかったが、実際に業務を推進する中で淘汰されて行った部分もあり、彼らが役に立たなかったわけでは決してなかった。(p.194)


明治維新が語られるとき、何となく、封建制の江戸時代から近代社会になったかのようにイメージされるが、初期には欧米の技術を導入することにはある程度の積極性はあったにせよ、それは幕府にもあったことであり、政府も国民から選ばれた政治家が運営しているわけではなく、単に幕府や大名たちから権力を武力により奪い取った集団が統治しているに過ぎなかった。政治家が選挙などで選ばれていなかったのと同様、官僚たちも試験ではなく情実採用が大日本帝国憲法制定後まで続いていたことが分かる。

つまり、政治や行政のシステムについて、ある程度近代的な制度が整ったのは明治20年代後半以降のことであり、明治時代の半分以上の期間、統治機構は近代的でも民主的でも立憲的でもなかった。そのような時代であったということは銘記されてよいと思われる。



 特に御雇外国人ヘンリー・ダイア―の構想に基づいて明治6年(1873)8月に開設された工部大学校(当初は工学寮)が、学舎完成に伴い、同11年7月に改めて開校式を迎え、翌年11月に初めて卒業生を送り出せたことは(三好信浩『日本工業教育成立史の研究』〔増補〕)、それを当初から目指してきた山尾にとって大きな成果であった。(p.202)


建築の分野では辰野金吾などが最初の卒業生だが、彼らを教育する前の段階に長州五傑のような幕末留学組の人々が関わっていた。


原暉之 編著 『日露戦争とサハリン島』(その3)

樺太が、日本帝国の構成要素として広く認識されてきたことは歓迎すべきことなのだが、朝鮮など、かつて独自の国家を造り上げていたような地域と並べて論ずることは、歴史研究の方法として問題が多いといわざるをえない。(p.367)


確かにすべてを同様に扱うとすれば問題のように思うが、歴史研究であれば、そこまで雑な議論をすることもあまりないような気がするがどうなのだろうか。



②北海道側の移出港は函館、小樽を中心とするが、前者は本州商品の中継貿易、後者は道産品の供給を特徴としていたこと(p.368)


樺太との経済活動においてもやはり函館と小樽が出てくるが、この二つの港の対照的な性格というのが、ここでも見られて面白い。



しかし、最大の都市である小樽でさえ、表の下段の対全国外国計に占める樺太のシェアを算出すると数パーセントに過ぎないことがわかる。北海道の主要都市においては、広く道外府県との商品移出入(貿易)が展開していたために、対樺太移出入はさほど大きな存在ではなかったのである。(p.382)


小樽という都市の歴史を語るとき、戦前の繁栄(国策にうまく乗ることができていた時期)と戦後の斜陽(国策が転換したことにより戦前の「下駄」が外れた時期)の一つの要因として対樺太貿易が挙げられることがある。すなわち、戦前は樺太貿易での物流もあったが、戦後は樺太が領土でなくなったことによりその分の貿易が失われたことが、小樽の衰退の要因の一つであるという語りである。しかし、それはやや誇張であることが、こうした統計からは明らかになる。

ただ、当時の小樽で樺太との交易を中心にやっていた人がいるとすれば、その人にとっては大打撃だっただろうし、その人が凋落していく契機としては十分なものだっただろう。そうした人が一定数いたことがこうした語りをもたらしたのだろうか?



樺太各地の漁場から水産物を集荷し、それらへ日用品を供給する、というのが小樽・樺太間商品移出入の姿であった。(p.382)


2つ前に引用した部分と重なる内容だが、併せて読むと道内で生産した日用品を樺太へ売るという流れがあったと言えるだろう。



 この話に中国がほとんど、あるいはまったく絡んでいないというのは特筆すべきだろう。1860年までに、北京条約の締結によって中国は北東部における広大な占有地を失い、サハリンに何ら関わらなくなったのである。まさにこのときにアメリカが現れ、地域における重要な役割を果たすようになった。世紀転換期までに中国は「アジアの病人」となり、アメリカは門戸開放を要求するようになっていた。サハリンを含む東北アジアにおいて、1850年代より中国は衰退し、合衆国は勢力を増大させた。(p.411)


19世紀後半における中国の衰退とアメリカの勢力拡大は東北アジアに限らず全世界的な情勢として言えることではあるが、サハリンに関して中国が関与することがほとんどなかったという指摘からは、東アジアに関する問題としては珍しい部類に属するのではないか、ということに気づかされる。ついでに言うと、もし中国が関わっていたとすると、この周辺に絡む領土問題などが、もっとこじれていてもおかしくなかったと想像され、それと比べるとまだましな状況にあるとは言えるのかもしれない。


原暉之 編著 『日露戦争とサハリン島』(その2)

 ただし原と寺内の対立について、原の言葉どおりに樺太を「内地同様」とするか「台湾類似」とするかという統治方針の相違だとみるのは単純に過ぎる。春山明哲が指摘するように、この対立の要因はむしろ、新たな統治機構をめぐる勢力争いと、その統治機構に与えられる権限の問題であった。樺太庁設置をめぐる議論のそばで、現に台湾総督府が武官総督制や律令制定権(事実上の委任立法権)をはじめとする制度によって陸軍勢力、ひいては元老山形有朋を筆頭とする長州閥の権力基盤と化している状況に対し、議会・政党を中心とした政治運営を目指し政友会の権力伸張に努める原敬は、台湾総督府の権限縮小に腐心していたのである。(p.221)


樺太の統治機構を台湾に似たものとするか内地に近いものとするかという対立がかつてあったが、この対立の背景には、軍や藩閥勢力が議会とは別に物事を決定できるようにするか、できるかぎり議会や政党が関与する形で治めていくのか、という権力を行使する権限を誰に与えるのかという問題と結びついていたということか。

同時に、台湾が陸軍と長州閥の権力基盤と化しているという認識は、台湾を直接語る際にはあまり語られない枠組みだったりするが、当時の日本の政治情勢の中においてみることによって見えてくるものであるように思われ、興味深い。



筆者が別稿で詳論したように、「樺太の地方制度に関する法律」(1921年法律第47号)まで樺太では地方制度の整備がなされなかった。しかも改正樺太町村制(1929年法律第2号)までは市町村レベルの参政権すらなく、衆議院議員選挙法は1945年4月になって、台湾・朝鮮とともに施行された。また樺太全域を区域とする議会は、領有期間を通じて設けられなかったのである。(p.225)


領土にしたとはいっても、そこに住む人々がいかに尊重されることがなかったかということがよくわかる。



そもそも北海道・沖縄・小笠原諸島も憲法発布の時点では衆議院議員選挙法の適用外であり、制度上は本国に含まれない属領だった。樺太庁の設置(1907年)は、台湾総督府の設置(1895年)、北海道・台湾を管轄する拓殖務省の設置と廃止(1896~97年)、北海道の本国編入(1896~1901年)からまもなく、加えて沖縄県の本国編入(1900~12年)はまだ未確定という、本国/属領の線引きと統治方式をめぐる大きな転換の途上で行われたのである。(p.226)


今年2018年は北海道命名150年とか言われているが、当時は本国には含まれていなかったということももっと認識されてもよいだろう。



 そして第二に、当初の樺太庁の実際の警察事務は支庁長・支庁出張所長が行政事務と警察事務とを兼任する形で行われ、とくに一部の支庁長と全出張所長は、警部が任用されて行政事務を兼務する状態であった。これは本国編入以前の北海道で、各警察署・分署に専任の警察官を配置するまで郡区長・戸長と署長・分署長とが兼職されたこと(1887~97年)を踏まえたものとも考えられるが、他方で台湾でも1920年まで、行政事務は警察官によって行われた。(p.228)


樺太での行政と警察の兼務ということから、北海道江差町にある旧檜山爾志郡役所の展示が直ちに想起された。いずれにせよ、警察権と行政権が同じ主体によって担われるというのは、統治機構としては、少なくとも平常のものとしては不適切ないし不健全なものである。そのようなものを設置しなければならないと考えられた土地というのがどのようなものなのかという問題には留意してよいだろう。



浅野は、この法律第25号がのちの台湾における法制上の内地延長のモデルを提供したと指摘している(316頁)。(p.245)


ここで言われている法律第25号とは、1907年の「樺太に施行すべき法令に関する法律」であり、本国法のうち、どの法令を樺太に適用するかを定めた法律であるという。確かにこの形式であれば属領に適用するには不都合なものがあればその部分だけ除外するという形で決めることができるという点で統治者側からは便利なやり方ではあったろう。


原暉之 編著 『日露戦争とサハリン島』(その1)

日本による植民地獲得のための戦争は、軍隊同士の戦いでは終わらない。土地の「無人化」をひとつの思想とする、植民地統治の安定確保実現のための「治安戦」という悪しき伝統は、このサハリン島でも展開されたのである。
 日清戦争後の台湾に始まる治安戦は、日露戦争後には朝鮮でも繰り返された。(p.55)


なるほど。台湾の場合、現地の植民地化に抵抗する人々を押さえつける戦闘が続いたことは、しばしば読んできたが、同様のことが他の植民地でも行われたという認識には私は至っていなかった。いろいろなところを比較しながら捉えていくことはやはり重要と思う。また、その比較の際に「治安戦」のような共通の概念があることは、共通性を発見するのを助けてくれる。ただし、相違を覆い隠してしまう機能もあるため留意が必要ではある。



 政治制度のうえで島はロシア帝国の完全な支配下にあった。しかし、当時の島の唯一の富、水産物についていえば、ロシア帝国の経済空間は未だサハリン島を組み込むことができていなかった。ヨーロッパ部ロシアと島のあいだの物流はあまりに貧弱だった。サハリン島は日本列島や中華世界の経済空間のなかにあった
 樺太千島交換条約から日露戦争までの約30年間はロシア人が島の海の富を名実ともに自らのものにしようと試みた時期だった。(p.67)


日露戦争前のサハリン島の水産資源は、日本、清、アメリカなどで消費されていた。



 国家の論理からすれば、島の海の富はロシア人の手にあった。しかし、この時期、島の水産物がロシア帝国内で流通することはほとんどなかった。島の海の富はもっぱら地域の論理で売られ、日本列島や中華世界で本当の富と化した。(p.90)


本書は様々な著者が様々な角度からサハリン島について論じているが、多くの個所で感じさせられるのは、いかにサハリン島を含む極東ロシアとモスクワやペテルブルクのあるヨーロッパロシアが遠いかということであった。約100年前の交通網や通信技術などの下では現在における距離感とは比べ物にならないほど「実質的に遠い」と感じられた。それは、物や情報が流通する速度といったものだけではなく、ヨーロッパ側からサハリン島の状況を想像することの難しさといったことにまで及ぶ。経済活動においても圏域が重なっていなかったことがわかる。翻って、現在はどの程度のつながりがあるのだろうか?少し気になってきた。



 当時のサハリンにおけるアイヌ語の占める位置づけは興味深い。『サハリン要覧1898年』には、ニヴフ、ウイルタなどは「先住民間、また地方行政当局や日本の漁業者との間において、ほとんど全民族の共通語としてアイヌ語を上手に使う」とある。19世紀半ばサハリンにおける日露外交交渉で使用される言語がアイヌ語だったことは、現在の我々には意外に思われるかも知れない。
 これは、アイヌの政治的支配力の強さを物語っているのではなく、サハリン先住民の多様性を表している。アイヌ語とニヴフ語はいずれも言語の系統では孤立語であり、ウイルタ語とエウェンキ語がツングース諸語、サハ語がチュルク諸語に属するというように、先住民の言語がそれぞれ異なる系統で、容易に理解し合えないという事情があった。(p.100)


日露外交交渉でアイヌ語で行われていたというのは確かに意外。



 ポーツマス条約では、日露両国間の国境線が武力によって変更されるという悪例が作られた。その後、シベリア出兵の際にサハリン北部が日本軍により再度占領され、1925年まで日本の支配下におかれ、1945年にはソ連軍が同島南部を攻撃した。このように日露国境線には不安定な状態が定期的に発生していた。(p.213)


条約の交渉に有利になると見て講和会議の直前に日本軍がサハリン島を占領し、そのことが結果的に条約で認められてしまった。第二次大戦の終結の際、ロシアが最後の数週間に侵攻してきたことでいわゆる北方領土などがロシアに支配されることになった。ある意味では、それ以前に日本側が同じような手口で領土を奪い取った歴史があったということを知っておくことには意味があるように思われる。


音真司 『Fランク化する大学』

大学に簡単に入ることのできる時代だからこそ、入る大学を簡単に決めてほしくない。(p.7)


最初このフレーズに接した時は意外に感じたが、大量の質の低い大学があるという前提に立つと、この言葉の意味は理解しやすい。



「Fランク化」する大学をこれ以上増やさないためには、市場の原理にかけて、増えすぎた大学の中でも、質の低い大学や、小手先の手段を使った受験生集めに走る大学を淘汰するしかない。(p.8)


本書の現状認識には多くの点で共感できるところもあるが、この考え方には賛同できない。大学を純粋な市場原理によって淘汰できるとは思えないからである。ハーシュマンの用語を使って言えば、本書のここでの主張はExitの戦略でしかなく、大学を改善する指向は全くないといってよい。しかも、市場原理が機能するためには完全情報が前提となるが、大学選びという市場は極めて不透明性が高く、完全情報とは程遠い。こうした点をはじめとして、教科書通りに市場原理が機能する前提がない。

本書はこのために大学で起きていることやその原因を知り、大学を見る目を養うことによって質の低い大学を市場から淘汰すべきと考えているようだが、こうした事実を知ることは、これから大学を選ぼうとする人にとって、いわばミクロレベルでの選択には役立つが、マクロな社会全体に対しては成立しない。ここで求められていることを実行するには極めて強い個人を想定しなければ成立しえないため、大部分の人がそれを実行できると想定することは現実的ではない。

むしろ、個人レベルでより適切な対応策は大学を良いものとするためのVoiceを上げていくことである。大学の質の低下を食い止めるということを本当に考えるのであれば、制度を考えに入れなければならないだろう。



 少々、話がそれるが、読者の方々は「学生生活の様子」といったタイトルの報告書をご存じだろうか。
 近年多くの大学で、学生の学校での様子を保護者に報告するようになっている。(p.50)


幼稚園や小学校のようだな。



「ほとんどの学生が現役で大学に入るということは良いことだ」と言いたいのではない。
むしろ、その逆である。受験生の多くが第1志望以外の大学へ進学するということだからだ。……(中略)……。 ……(中略)……。
 不本意な大学に入学すると、多くの学生は、理想と現実とのギャップに苦しめられることになる。(p.63)


このことが大学生活の満足度を下げる方向に作用する。この点は本書のおかげで気づくことができた。

不本意な大学に入学すると苦しめられるというのは、私自身の経験から見ても納得できる。


三浦英之 『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』(その2)

「私はこんな風に考えています」と山室は私に言った。「私たちはもっと正しくかつての『日本』の姿を知る必要があるのではないかということです。日本や日本人はどうしても自国の近代史を『日本列島の近代史』として捉えがちです。1895年以降、日本は台湾を領有し、朝鮮を併合し、満州などを支配した。それらが一体となって構成されていたのが近代の日本の姿だったのに、日本人は戦後、日本列島だけの『日本列島史』に執着するあまり、植民地に対する反省や総括をこれまで十分にしてこなかった。日本人の植民地認識は近代の日本認識におけるある種の忘れ物なんです。そして、そんな『日本』という特殊な国の歴史のなかで、台湾、朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だった、というのが私の認識であり、位置づけでもあります。政府が掲げる矛盾に満ちた五族協和を強引に実践する過程において、当時の日本人学生たちは初めて自分たちがやっていることのおかしさに気づくんです。そういうことを気づける空間は当時の日本にはほとんどなかったし、だから、それを満州で『実験』できていた意味は、当時としては我々が考える以上に大きいことではあった――」
「でも、失敗した」
「ええ、もちろん。彼らは必然的に失敗しました」と山室は言った。「私が満州国を研究していて強く思うのは、そこには善意でやっていた人が実に多かったということなのです。それがどうして歴史のなかで曲がっていくのだろうか、その失敗を私たちは歴史のなかから学び直さなければならない。来るべき時代に同じ轍を踏んでしまうことになりかねないからです。人々が当時どのように悩み、なぜ失敗していったのか。今は建国大学を構想した石原莞爾についてもかなり批判的な人が多いけれども、石原もやはり悩みながら、そして失敗していった人だと思います。意図と結果。それを丁寧にたどっていかないと、満州をめぐる一連の問題は決して捉えることができないのです。」
 私が必死にメモを取っている姿を見て、山室は少しだけ話のスピードを遅くしてくれた。
日本が過去の歴史を正しく把握することができなかった理由の一つに、多くの当事者たちがこれまで公の場で思うように発言できなかったという事実があります。終戦直後から1980年代にかけて、満州における加害的な事実が洪水のように報道されたことにより、もっと当事者たちの声が聞かれていたら、満州国への認識なんかも変わったのではないかなと私は今思っています。もっとバランスの取れた歴史認識ができたんじゃないかと。それがようやく今になって、いくつかの証言が得られるようになってきました。私はよく学生たちに次のような表現で教えています。『歴史がせり上がってくるには時間が必要なのだ』と。歴史を客観的にみるためには相応の時間が必要なのです。だからといって、ただ時間の経過だけを待っていると、事実は確実に歴史の闇に埋もれていってしまう。今、メディアが必死になってかつての戦争経験者にマイクを向けていますが、あれは理にかなっているんです。人は亡くなる前に何かを残そうとする。自らの生きた証をこのまま歴史の闇に葬ってしまいたくないと。彼らは今、必死に残したがっているんです」(p.306-308)


いずれも妥当。


三浦英之 『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』(その1)

 在職中、百々が若い学生たちに常に言い続けていた言葉がある。

企業で直接役に立つようなことは、給料をもらいながらやれ。大学で学費を払って勉強するのは、すぐには役に立たないかもしれないが、いつか必ず我が身を支えてくれる教養だ――》

「建国大学は徹底した『教養主義』でね」と百々は学生に語りかけるような口調で私に言った。「在学時には私も『こんな知識が社会で役に立つもんか』といぶかしく思っていたが、実際に鉄砲玉が飛び交う戦場や大陸の冷たい監獄にぶち込まれていたとき、私の精神を何度も救ってくれたのは紛れもなく、あのとき大学で身につけた教養だった。歌や詩や哲学というものは、実際の社会ではあまり役に立たないかもしれないが、人が人生で絶望しそうになったとき、人を悲しみの淵から救い出し、目の前の道を示してくれる。難点は、それを身につけるためにはとても時間がかかるということだよ。だから、私はそれを身につけることができる大学という場所を愛していたし、人生の一時期を大学で過ごせるということがいかに素晴らしく、貴重であるのかということを学生に伝えたかったんだ……」(p.101-102)


百々氏の主張に共感する。この人の経験はヤスパースを想起させる。限界状況を生き抜くにあたって哲学のようなものにも人を救う力がある。

余談だが、大学というものがこうしたかけがえのない場たり得るということを思うからこそ、大学全入時代などと呼ばれ、大学と名の付くだけの「教育機関もどき」に、金だけを払って無試験で入学する多数の「生徒」たち――「学生」未満の者という意味でここではこう呼んでおく――がいるという現状には強い違和感を覚えている。



 当局がどのようにして我々の会話を聞いていたのかについては知る由もなかったが、彼らが何に反応したのかは明確だった。
 「長春包囲戦」である。
 楊が建国大学における地下活動の実態や日本軍から受けた拷問について話していたときにはまったく何事もなかった喫茶ルームでの雰囲気が、楊が共産党軍の「長春包囲戦」について触れた瞬間に大きく波打ち、すべてを押し流してしまったように私には感じられた。
 共産党政府にとって利益になる事象については存分に取材させ、不都合な事実については徹底的に隠蔽する。それが彼らのやり方なのだということは訪中前から熟知していたが、日本ではそのような介入を一度も経験したことのない私はやはり、激しく動揺し、混乱した。(p.137-138)


中国での取材での出来事。内戦の時に共産党が国民党が支配していた長春を包囲し、兵糧攻めで多くの餓死者を出した長春包囲戦。このことに会話が及ぶと取材に妨害が入り、それ以上の取材ができなくなってしまった。共産党が当時の中国人30万人を餓死させたこと、その中でも一部の人には便宜を図っていたことなどは確かに共産党にとっては都合が悪いだろう。

こうしたことを発言することすら許さないということは、中国共産党はそれを悪いこと(少なくとも一般に悪いとされていること)だと認識していることがわかる。さらに、そのことを反省する姿勢を示していない。都合の悪い事実を隠蔽しなければならないということは、それだけ権力の基盤が脆弱だということを認識しているということでもあるのだろう。

同じことは日本の安倍政権にも言える。安倍政権が政策を説明するとき、常に嘘やごまかしが見られる。やろうとしていることが本当は悪いこと(少なくとも一般に良くないとされていること)であることを認識しているからごまかしが必要になる。都合の悪い事実を隠蔽しなければならないといことは、それだけ権力の基盤が脆弱だということを認識しているということでもある。だからこそ、マスコミを恫喝・威嚇したり、個別の曲ごとに出演したりして自分に反対しない飼いならしているのだ。



 1924年、ソ連が事実上、自国防衛の衛星国家として「モンゴル人民共和国」を誕生させると、日本もそのソ連の政策を滑稽なほど真似するように、1932年、対ソ連の防波堤として中国東北部に「満州国」を成立させた。(p.181)


モンゴル人民共和国と満州国の類似性!興味深い。満鉄もソ連の鉄道を参考にしていたことから言っても、満州国もソ連のやり方を参考にしていたことはありそうなことだと思える。



当時はね、軍隊の知識がなければ、政治など何一つ語ることができなったのです。(p.183)


軍隊に入るため建国大学で政治学を学んだというダシニャム氏の発言より引用。確かに日中戦争当時のキナ臭い国際情勢の下では軍事と政治は現在より密接に関係していたとしても不思議はない。だから、このような認識の者がいたとしても不思議はない。



満州国は日本政府が捏造した紛れもない傀儡国家でしたが、建国大学で学んだ学生たちは真剣にそこで五族協和の実現を目指そうとしていた。私が建国大学を振り返るときに、真っ先に思い出されるのはそういうところです。みんな若くて、本当に取っ組み合いながら真剣に議論をした。我々に足りないものは何か、我々は何を学べばいいのか。私は朝鮮民族でしたから、他の同窓生とはちょっと感想が違っているかもしれませんが、日本人学生たちはいかに日本が満州をリードして五族協和を成功させるのかについて熱くなっていたような気がします。中国人学生は、満州はもともと中国のものなのに、なぜ日本が中心となって満州国を作るのか、という批判が常に先に立っていました。その点、朝鮮人学生たちは最も純真な意味で、五族協和を目指していたと言えるのかもしれません。もともと満州には朝鮮民族が沢山住んでいましたし、かつては朝鮮民族の土地でもありました。当時、日本はアジアで最も力を持った強国でしたし、ソ連や欧州などの影響を考えた場合、日本の力を無視することなどできなかった。だから、我々は心から――本当の意味での――五族協和を目指したのです。(p.220-221)


建国大学は学生たちの生活、学びという点で見ると、なかなか良い大学だったようだ。それは本書の随所から感じられる。

満州の土地で五族協和という理念は確かにリアリティを持ちうるものだったのかもしれない。日本側と中国側の見方を相対化しつつ、朝鮮側の見方として語られている見方にはそれなりの説得力がある。ただ、満州国における五族協和は、本書でも指摘されていたと思うが、結局は日本による支配を前提していた、つまり、五族が平等ではなく、その中の一つだけを特権的な立場に置くことを前提しながら、その事実を糊塗するように平等な五族協和を謳っていた点で矛盾があり、破綻せざるを得なかったと言えるだろう。



西村幸夫、埒正浩 編著 『証言・町並み保存』(その3)
「松場登美 ―石見銀山- 足元の宝を見つめて暮らしをデザインする」より

 この家で今一番楽しんでいるのが台所です。ここでは薪でご飯を炊きます。薪で炊いたご飯は本当においしい。スイッチひとつでもご飯は炊けますが、プロセスが全く違うんです。焚付けの柴を拾いに行けば、野の花が咲いていたり、虫に出会ったり、風を感じたりという経験ができます。そして薪割りにも、火を熾すにも、気の組み方などにコツがあるんです。火吹き竹一本で火の勢いが全然違うんです。そうやって勘を働かせながら、水加減、火加減、蒸らし加減をみるんです。加減というものを今の人たちはみることがなくなりましたよね。お風呂でも温度設定をすれば、常にその温度なわけですから、「お湯加減はいかがですか」という言葉もめったに聞かなくなりました。ですが、勘を働かせるということは、すごく大事なことだと私は思っています。(p.158-159)


勘を働かせることは、感覚を働かせることでもある。反省的に頭で考える二次的なシステムではなく、直接的に身体が感じて動いていくシステムが作動する。ここで指摘されていることには、このことが関わっているように思う。



 店でも町でもキャパシティというものがあって、経済優先でそれを無視してしまうといろんな問題が起きてくると思います。(p.162)


石見銀山が世界遺産に登録されたが、この発言はその前の暫定リストに上がっていた時期のものである。知床なども世界遺産に登録されることで観光客が来て自然が破壊されることを懸念する声があった。小樽も堺町通りなどの状況は運河保存運動に直接かかわったような人々などからは批判的な目で見られている。その土地とあまり関係のない土産物屋などが増えたりする、というのは、恐らく、ここで指摘されているキャパシティをオーバーしているのだろう。



「岡田文淑 ―内子―引き算型のまちづくりと村並保存」より

市民参加というのは行政側が発する言葉で、本来、市民主体が前提にあって、その後に行政参加という言葉が出てくるのが本来の地域づくりのあり方のはずです。市民参加ということになると、主役は行政になって、行政に関わっている人たちが、「じゃあ、市民との対話を」ということになるんです。そのとき、誰を対象にしていくかというと、「肩書き組」の人。(p.184-185)


なるほど。鋭い指摘。