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アヴェスターにはこう書いている?
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大庭幸生・永井秀夫 編 『県民100年史1 北海道の百年』

 屯田兵村は、官による計画村落の典型というべきものであった。兵村は当初札幌周辺に配置され、十年代終りから遠く室蘭・根室・厚岸各郡へむかったが、これは主として警備上の理由からであり、つぎに二十年代は空知・雨竜・石狩国上川各郡の農業適地へ配置され、三十年代はふたたび警備上の理由が加わって常呂・紋別・天塩国上川各郡に設置をみた。多分このことと関連して、おおむね初期の兵村では兵員招集や監督上の便宜から密居制をとり、中期には粗居制、さらに後期にふたたび密居制に戻っている。(p.80)


兵村の設置目的に応じて村落の配置も変わるというのは興味深い。



タコ労働者は道外から募集されたものが多い。募集人は甘い言葉で労働者を誘い、遊興を勧めて前借を重ねさせ、土木現場に送りこむことで、かなりの報酬を業者から受け取ることができた。
 大正期の後半から、新聞紙上に多く監獄部屋の酷使・虐待・殺傷などの記事があらわれるようになり、人道主義的な批判が高まった。やがて道庁官吏による社会政策的立場からの避難や、司法関係者による犯罪防止的立場からの非難も加わった。……(中略)……。しかし、土木請負業者はタコ労働者を抜きにしては北海道の拓殖は進められないといい、募集方法の改善などが試みられたが監獄部屋そのものを消滅させることはできなかった。かえって戦時中には労働強化が進み、監獄部屋はふたたび増加の傾向をたどったと考えられる。(p.182-183)


囚人労働を継ぐものとしてタコ労働者が活用されたが、その手法は、いわゆる従軍慰安婦などとも共通点があると思われる。むしろ、北海道で先に実施されていたタコ労働者の募集が先例となっていたのではないかとも思わされる。これらの「業者」は同じ業者がやっていた事例はないのだろうか?または、関連がある業者が行っているといったことはなかったのだろうか?また、本書では戦時中についての記述は推定の域を出ていないが、これを裏付けるような議論というものはないのだろうか?



 明治12年(1879)「学制」にかわって「教育令」が公布され、これを機に開拓使の本・支庁では、小学校のうち規定の六科を具備しない「変則小学校」制を施行する学校を定めたが、先進地をのぞくほとんどの学校は変則小学校であった。このような教育制度上の差別は、このあと昭和初期まで継続したが、その理由とされたのは、人民の経済力の薄弱さやそれを強化するための実用的教育の必要性などであった。(p.197)


人民の経済力の薄弱さを理由として教育機会を制限するというのは、本末転倒の議論であるように思われる。経済力がないからこそ教育機会を平等に与えて、そこから抜け出せるようにするというのが教育制度の本来のあり方ではないのか?



キリスト教はとくに明治20・30年代の伸長が著しい。各派別教会数の変遷をみると、明治・大正期に設立された各派教会数199の65%・130がこの間に設立されており、現在まで残存している教会数81の72%・58がこの時期のものである。北海道開拓全盛期の時代は、その前後にくらべて官憲による迫害も少なかったようである(福島恒夫『北海道キリスト教史』)。(p.198)


興味深い。官憲の迫害が少なかったのだとすれば、その要因はどのような点にあったのだろう?人口の増加(社会増)が大きかったために、社会の変動が大きく、管理しようにもできなかったということだろうか?それとも、憲法の制定(明治23年)に伴う政府の体制(機構の改革)なども関係しているのだろうか?


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吉田徹 『「野党」論――何のためにあるのか』

 政策ではなく、政治として見た場合、新自由主義がもたらした認識上の転換は、革命的なものでした。それは、政府が何をどうするかということを政治の場で問うのではなく、政府それ自体が問題だという視点の転換を行ったからです。(p.107)


確かに、当時、新自由主義を喧伝していた輩が、このような不信感を高めたことの罪は重い。



 この政党交付金は、1994年の政治改革(いわゆる政治改革四法)で導入されたものですが、民進党といった野党第一党でも、その収入の八割は交付金に依存しています(共産党はこれを返納しています)。一定程度の議員を集めておきさえすれば、政党自体を存続させることができますから、二つの政党に完全に絞られるということはまず考えられません。(p.112)


政党交付金は小党が存在することのインセンティブになり得る制度であり、90年代当時から目指されていた二大政党制とは親和性が低い制度という面がある。私としては、二大政党制は日本の政治にとっては良い結果をもたらさないと考えるので、二大政党制を実現すべきだとは全く思わないが、政党交付金にはそれ以外にも様々なデメリットがあると考えるため、こちらも廃止すべきであろう。



実際、事前審査制が1960年代に制度化されてから、国会の本会議の時間は極端に短くなったと指摘されています。つまりは国会審議の空洞化です。
 ですから、国会が揚げ足取りやパフォーマンスの場と化しているのは、野党の姿勢だけではなく、与党の政策形成と決定のあり方にもよるのです。事前審査制を厳密に運用してしまうと、政府と与党が癒着し、これを官僚機構が支える形になります。そこでの調整が済んでしまえば、政権はあとは議会に丸投げするだけで済みます。もし事前審査制を取りやめれば、国会でもっと時間をかけた丁寧な議論が行われる可能性が出てきます。
 端的に言えば、日本の国会における野党には、法案修正権が実質的に与えられていないのです。(p.127-128)


事前審査制や党議拘束というルールはやめてほしい。



 また、国会に付与された重要な権能の一つに「国政調査権」があります。衆参両院が国政に関して調査を行う権能のことで、証人に出頭・証言を求めたり、記録の提出を要求したりできるようになっています。しかし、現状では与党の賛成がなければ、野党は調査権を発動することができません。与野党合わせて三分の一以上の賛成があれば、国政調査権を発動できるといった制度改革が実現すれば、権力に対する野党のチェック機能も大いに高まることでしょう。(p.129)


同意見である。安倍政権のように権力を恣意的に使い、自らに有利な状況を様々に作り出した上で、そのことを国民に知らせないことにより、身内優遇などを批判されることを防ぎ、握った権力から引き剥がされないようにする、ということができているのも、一つには国政調査権が機能できないような制度となっていることが要因となっている。

あとは、内閣人事局に代表されるような公務員制度をやめ、それ以前の状況に戻すことが必要である。さらに、マスコミへの介入なども出来ないような制度的な縛りが必要であろう。



 実際、コーポラティズムの度合いが高ければ高い国ほど、極右ポピュリスト政党が出てきやすいという指摘もあります。(p.182)


なるほど。経済のグローバル化と冷戦後の国際政治の状況などが、それ以前に形成されてきたコーポラティズムの前提を崩しているため、民意が掬い取れなくなってきており、民意の残余が極右ポピュリストの台頭の要因となっているわけだ。



 こうしたポピュリスト政党の台頭から引き出せる教訓は、どのようなシステムや政策であっても、組み尽くし得ない民意の残余が常に出てくるということです。そして、その民意に新たな形と声を与えて、有効なシステムや政策とする媒介となるのが、野党の重要な役割だということも確認しておきたいと思います。(p.183)


この認識は本書を一貫しており、私としても参考になった点の一つだった。



 ちなみに、こうした「抵抗型野党」に対しては、代替案を用意しないから無責任だ、という意見が投げかけられることがあります。しかし、野党の第一義的な機能は代替案を用意することにはなく、何が問題かを社会に知らしめ、どのような解決があり得るのかを、与党とともに考えていくことにあります。極論すれば、権力のない野党は無責任でもよいのです。権力を持つ与党こそが、責任を負わなければならないのです。(p.220-221)


野党に対してしばしば代替案を出せと迫る安倍晋三などの言説を念頭に置いてのコメントであろう。この手の発言をするとき、発言者は間違った野党観に基づき発話している。このような発言が与党側からなされる場合、発話者自らの果たすべき役割についても理解していない可能性が高い。野党に代替案を出さなければ無責任だと非難している時、与党が出している案と野党から出されるべきと彼が考える案とで競争を行い、勝った案が採用されるべきだと暗に想定されている。そこには与党案に潜む問題点などは想定されていない(むしろ、問題点があることを見ないように、あるいは見せないようにしようとして上記発言がなされている)。野党はそうした与党側が用意した案の問題点がどこなのか、どのように修正する必要があるのか、ということを指摘する者であり、与党はその法案を法として制定した際に、問題が生じないよう(問題が出にくくするよう)にすることが与党や政権に求められる「責任」であろう。問題が指摘されているにもかかわらず、それに対する十分な説明や修正をすることなく、政府や与党が法案を通過させることこそ「無責任」な行為である。

小熊英二 『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(その2)

石川島や三菱にかぎらず、日本の鉱業や製造業は、官営企業の払い下げが基礎を作った。
 そして官営企業は、民間への払い下げ以前から、官庁の三層構造と官等を採用していた。おそらく払い下げを受けた民間企業は、こうした官庁の組織編成を、アレンジしながら受けついだものと考えられる。(p.251)


日本で官庁の様々な仕組みが民間企業に広がっていた経路として納得できる。



財閥系企業は、同学歴で官庁に勤めた場合とほぼ同じ初任給を、高等教育卒業者に提示していたようである。(p.253)


人材の獲得競争などの観点からは当然の考え方と思われる。ここから想起されることとして、00年代頃に公務員バッシングが盛んだった頃、労働運動側が公務員の給与を引き下げるとその他の労働者の給与引き下げにもつながるという論を展開していたのをどこかで見たことが思い出された。確かに、給与引き下げをすることは様々な面から考えてプラスにならないし、正義にもなわないと私は当時から考えていたが、この議論にはイマイチ実感がわかないというか、どのような経路でそうなるのかが分からないとも思っていた。この個所を読んで、確かに初任給など公開して見えやすいところでは影響が出てもおかしくないかも知れない、とは思えた。



20世紀初頭のプロイセン一般行政官吏では、行政試補に採用された平均年齢は29.5歳、参事官に昇進したのは平均40.2歳であった。
 つまり高級官吏になるには、およそ40歳まで、何らかの手段で生計を確保しなければならなかった。親が資産家か貴族、あるいは資産家の娘を妻にするのでなければ、それは困難だった。(p.283)


この辺りの事情は、当時のドイツの大学教授になる場合とも似ている。(当時のドイツの大学教授は官吏だったはず。)



 戦前の人々にとって、徴兵は共通の体験だった。そうした社会では、軍隊用語だった「定限年齢」は、おなじく軍隊用語だった「現役」と同じく、受け入れられやすい概念だったと考えられる。(p.309)


「定年」と「現役」が軍隊用語だったとは、全く意識していなかった。確かに、本書が指摘しているように、昭和前半の時代について言えば、徴兵という共通経験はいろいろな面で社会のあり方に影響を与えていても不思議ではない。



企業別の混合組合は日本の文化的伝統などではなく、戦争と敗戦による職員の没落を背景として生まれたものだったのである。(p.361)


戦前の特権的階層であった「職員」が没落し、職員であっても工員と同じような生活苦を感じていたことによる一体感があったことが混合組合結成の背景の一つだったとする。



 それにくらべ、「能力」によって賃金を決めるという職能資格制度は、労働者の支持を得やすかった。なぜなら「能力」とは、どうにでも解釈できる言葉だったからである。(p.483-484)


これは60年代頃の話だが、この時期に限らずあてはまりそうである。



数学が得意でどの科目もこなせる者がまず「国立理系」を選び、その残余が「国立文系」「私立理系」を選び、そのまた残余が「私立文系」となるという消去法的選択をしていたのである。(p.508)


これは、80年代半ばの調査の結果についての分析。最近は、推薦入試がかなり増えたが、これによる変化はあるのだろうか?



 それにもかかわらず、この会社が「成果主義」を導入したのは、バブル期に大量入社した中堅層の賃金抑制が目的だったからだった。こうした「成果主義」の導入は、若手・中堅層の士気を低め、彼らの離職率が上昇した。さらに抑制された賃金を補うため、残業代を目的に職場に居残る社員が増え、かえって人件費は二割近く増加してしまった。(p.542)


これは90年代の富士通の事例だが、賃金抑制のための「成果主義」や「能力主義」の導入は、基本的にうまくいかないものと思われる。



 透明性を高めずに、年功賃金や長期雇用を廃止することはできない。なぜならこれらの慣行は、経営の裁量を抑えるルールとして、労働者側が達成したものだったからである。日本の労働者たちは、職務の明確化や人事の透明化による「職務の平等」を求めなかった代わりに、長期雇用や年功賃金による「社員の平等」を求めた。そこでは昇進・採用などにおける不透明さは、長期雇用や年功賃金のルールが守られている代償として、いわば取引として容認されていたのだ。(p.573-574)


なるほど。



 だが厚生労働省は、2019年4月末時点の「高プロ」適用者が、全国で一名だったと発表した。これを報じた新聞記事によると、労組の反対があっただけでなく、企業もこの制度を適用したがらなかった。その理由は、高プロを導入した企業には過労防止策の実施状況を報告する義務があり、労働基準監督署の監督が強まるからだったという。(p.574)


経営側はこれほどに透明化を嫌う、ということがわかる。高プロはデメリットだらけであるだけでなく、誰も欲していない制度であるならば、すぐに廃止すべきだろう。



小熊英二 『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(その1)

 なお、2013年以降は好景気といわれ、大卒就職者が増加し、2015年には40万人を超えた。とはいえ文科省の「学校基本調査」によると、大卒就職者で比率が増えているのは、販売従事者と専門的・技術的職業従事者である。かつては大卒者の最大の就職先だった事務従事者は、その比率が下がっている(図1-12)。(p.54)


雇用される側の構造が変わらず、進学率だけが上がったので、かつては高卒で就業していた人たちが、いわゆる名門校や有名校、難関校ではない「大学」に進学し、結局、かつては高卒で就職していた就職先に収まっている。本書では日本の相対的な低学歴化(大学院進学率の低さ)を問題視しているようにも見えるが、私としては、むしろこのような「大学」の教育のあり方や学生の「生態」に興味がある。いわゆる名門校や有名校、難関校と言われる大学とそうでない大学で通う学生たちの「生態」に違いがあるのかどうか?また、どのような違いがあるのか?



しかし国際的にみると、日本は大学院とくに博士課程の進学が伸びず、博士号取得者数も伸びなやんでいる(図1-14)。国際比較でいえば、「日本の低学歴化」が起きているともいえる。
 ……(中略)……。
 その最大の理由は、日本では「どの大学の入試に通過したか」は重視されても、「大学で何を学んだか」が評価されにくいことである。専門の学位が評価されるのではなく、入試に通過したという「能力」が評価されるのだ。
 海老原嗣生によれば、企業は新卒採用者の選抜にあたり、卒業大学のランクを重視している。企業がそれによって評価しているのは、「地頭のよさ」「要領のよさ」「地道に継続して学習する力」といった「ポテンシャル(潜在能力)」だという。この三つの能力があれば、どの部署に配置してもまじめに努力し、早く仕事を覚え、適応することが期待できるからだ。(p.60-62)


この指摘は確かにそのとおりと思える。企業の採用担当者や面接官ではなくても、団塊世代が現役だった頃は若者の就職難で、団塊世代が退職すると急に就職しやすくなったという社会の状況を反映して、私の身の回りでの観察でも、就職してくる新規採用者の出身大学が大きく変化した。就職難の頃は旧帝大やMARCHあたりの卒業者がほとんどだったが、その後、いつの間にかそうした出身校が全く違うものになっていた。そのことの結果として現場で感じられる実感は、まさに上記引用文で評価されている3つの能力の違いと深く関係しているように思われる。

話をしても、一つのことを伝えたときに、どこまで理解が及ぶのかという範囲が違っているように見えることが多いし、何より物事に対する取り組みの姿勢に違いが感じられることが多い。例えば、一見仕事に対してネガティブな態度をとっているかのような場合であっても、一定レベルはクリアした上で、それ以上はもういいやという感じで留めておくスタンスと、一定レベルに達していないまま十分ない意欲を見せない(場合によっては無駄に残業をして残業代で稼ごうとしているとしか思えないような事例もある)といったスタンスでは、全く意味合いが異なるが、後者に近い姿勢を示すようなものを目にすることが出てきた。これなどは、受験勉強に対するスタンスと非常に通じるものがあるように思う。多くの受験生たちは、受験勉強を好んでやっているわけではないが、一定レベルの水準(例えば、偏差値で65くらいを安定的にキープできる学力水準)に達したところで、これ以上の難問は解かなくてよいと捨てる人と、その程度にすら達しないのに十分な習得のための努力や工夫をしていない人との違いと重なって見える。



1990年代以降も、東京中心部の風景はそれほど変わっていない。朝の通勤ラッシュも、オフィス街のスーツ姿も、六本木や霞ヶ関の街並みもあまり変わらない。その一因は、正社員が減っていないからだ。
 だが地方都市や農山村、東京圏でも郊外では、風景が大きく変わっている。自営商店や農家が減り、駅前商店街がシャッター街になった。入れ替わるように、街道沿いの巨大なショッピングモール、介護施設、在宅やコンビニむけの物流倉庫などが増えた。そこで働く人々には、非正規労働者も多い。そして統計的にも、自営業者が減り、非正規労働者が増えているのである。(p.81)


激しく同意。私も90年代末頃から「東京にいると国内の変化は見えない」ということを強く感じてきた。むしろ地方に住む方が様々なものが切り崩されている様を目の当たりにして実感することになり、今起こっていることが見えるだけではなく体感さえされる、と。



 日本の学校教育で「偏差値」が発案されたのは1957年だったが、これは当初は生徒の得意教科や不得意教科の基準を明確にする指導法としてのものだった。しかし1960年代半ばには、受験対策として学校のランキングに活用されることが始まった。それが本格的な広まりをみせたのは、1970年代になってからである。1960年代後半から70年代は、高校進学率・大学進学率が上昇して「大学卒」というだけでは意味がなくなり、「どの大学を卒業したか」が以前に増して重視されるようになった時期だった。(p.125-126)


偏差値導入の目的がこのようなものだったとは知らなかった。それが学校のランキングに活用されるというここ数十年間の一般的な使い方(?)になったのは、こちらの方が明らかに相性がいいからだろう。得意教科と不得意教科の基準を明確にするという指導法の場合、どの分野が苦手かというだけでは改善に直結せず、どの分野がどのように理解できていないのか、というさらに掘り下げたところまで分析が必要だが、偏差値にはそのような機能は十分ではない。逆にランキングにとっては、同じ基準で数字が一列に並ぶのだから明らかに相性が良い。



ヨーロッパでもアメリカでも、労働者が望んだのは、雇用主の気まぐれで運命を左右されない状況を作ることであり、差別を撤廃することであり、職業集団の地位を向上させることだった。それが結果的に、企業を横断した基準を作ったのである。(p.199)


本書ではこの経緯などが詳しく説明されている。



 当時はまだ民間産業が育っておらず、安定的な収入を得られるのは官吏や教員など公務セクターに限られていた。その状況のなかで、学歴を重視する公務セクターの俸給が、社会に強いインパクトを与えていった。(p.234)


戦前の日本の状況。民間産業が育っていなかったという条件が公務セクターの働き方が社会全体に強い影響力を持ったことの背景にあったという点は、本書を読み、なるほどと思わされた点の一つだった。



 官吏は「無定量勤務」が原則だったため、勤務時間が設けられていなかった。そして明治初期の官庁の勤務時間は、きわめて短かった。省庁の執務時間規則はあったものの、1869(明治2)年の規則では、午前10時登庁、午後2時退庁、昼休みが1時間で、実働時間は3時間だった。
 これは1871年には9時から3時までとなり、1886年には9時から5時となった。とはいえ、夏季の勤務は午前中までという慣習が昭和期まで続いた。(p.235)


なかなか衝撃的という感じだった。ただ、言われてみると、確かに、福祉国家的なものが表れる前はいわゆる夜警国家だったわけだから、官庁の仕事などあまり多くはなかったとしても不思議ではない。いかに現在の基準で物事を考えがちかという歴史を見る際の基本的なことを思い起こさせられる記述だった。


小樽市総合博物館 監修 『小樽市総合博物館 公式ガイドブック』

戦時中に急造された貨物用大型機関車D52形のボイラーを転用して戦後、新たな旅客用機関車に作り替えたのがC62形だ。この背景として、戦時中には軍事輸送のために貨物機が大量に必要となり、終戦後は一転して旅客機が不足するという輸送事情の急変があった。(p.83)


このガイドブックではこの記述より前のコラムで、旅客用と輸送用の違いは動輪直径にあるとの説明がされている。輸送用は直径が小さく(速度が遅い)、その代わりに車軸が4つとする(名前の頭にはDがつくもの)ことで滑りにくさを確保するのに対し、旅客用は直径が大きく、車軸が3つとなる(名前の頭はC)ことが説明されている。上記の個所は、これを踏まえて読むとより分かりやすくなる。

軍事輸送のための機関車(4軸)のD52を利用して、旅客用(3軸)のC62が造られたわけだが、その背景は、戦時中には軍事物資輸送の必要性があったのに対し、戦後にはその必要がなくなるという輸送需要の変動があったという。

鉄道自体にはあまり詳しくないが、歴史の動きを見ていくに当たっては、鉄道に注目することでいろいろと見えてくるものがあると私は考えているのだが、この観点からもこのガイドブックはなかなか参考になる記述があったように思う。


高倉新一郎、関秀志 『風土と歴史1 北海道の風土と歴史』

ことに明治19年(1886)の北海道庁設置以後は、資本家の誘致・保護に重点をおいた。目的は、資本主義への転換にあたって必要な植民地をもたない日本の資本主義化のために食料・原料を提供し、余剰人口を吸収せしめることにあった。そのためには山林原野の耕地化、農民の扶植、すなわち開墾事業が必要であったが、まず農村を確立してからその活動を広げるためのサービスを生むという形ではなく、最初から進んだ経済組織のなかにある農村として、すなわち自給自足から出発した農業を基礎としたものではなく、最初から交換経済社会を前提とした農村づくりであり、まずサービス部門である市街地がつくられて、その周囲に、多くは農家の集団としてよりは、広い耕地に取り巻かれた一戸一戸の農家連続として農村が展開するという形をとった。したがって、開拓の最初からすでに商業資本とは切り離せぬ関係にあったのである。(p.267-268)


北海道の農村の成り立ちに関する議論として興味をひかれた。


都道府県研究会 『地図で楽しむ すごい北海道』

もともとは、神様を祀るのに建物は立てず、山や滝、岩、森、さらには大木など、神聖だと感じるものを信仰対象の御神体として直接拝んでいた。しかし、仏教が入ってきて寺が多数建ち始めると、それに対抗するように神社の築造も増えていった。神も仏も信仰の対象としては変わりなく、本州と同じように明治に「神仏分離令」が出される前までは、とくに区別する必要もなかったため、どちらも含めて扱われることが多かった。(p.40)


神社建築が仏教寺院建築に対抗すように増えていったという点は興味深い。本州でも同じような現象はあったのだろうか?



当時の函館の坂は道幅が狭く曲がっていて、また開拓期の家はほとんどが木造建築であったため、ひとたび火が上がると次々と延焼を招き大火事になっていた。
 そこで防火対策として幅が広く直線的な道につくり替えられたのだ。現在、この広くまっすぐな道には街灯が並びたち、民家やオフィスの照明器具が点灯する。この光が直線的な道を彩り、函館山からの夜景を美しく演出している。(p.46)


日本三大夜景の一つとされる函館の夜景が美しい理由の一つは、ここで述べられているような直線的で大きな道があるためだという。明治期の北海道では函館に限らず小樽や札幌でも大きな火事が起こっており、防火対策として広い道路を設けた点は共通。函館の場合は、これを丁度良い距離と位置から見下ろせる函館山があったことが幸運だったと言えるのではないか。そして、さらにこれに次の引用文のような幸運が付け加わる。



 また函館山の見晴らしのよさは人為的につくられたもの。じつは明治時代に戦争を予測した政府が、防衛のため函館山の要塞化に着手。その際に敵を発見しやすく、周りを一望できるよう、山頂や尾根を削ったのだ。実際にこの要塞が使われることはなかったのだが、要塞化の副産物として夜景の眺望に必要な見晴らしのよさが生まれたのだ。(p.47)


函館山には軍事的な意味があったため、動植物が保護されたというような話は今までいくつかの本で読んだことがあったが(例えば、このブログに記録しているものとしては『北海道歴史探訪ウォーキング』)、地形まで削っていたとは知らなかった。だから、街の全体を一挙に見渡せるようになっているのか。



明治政府はそれまで開拓総督であった鍋島直正を7月8日開拓長官に任命。ところが8月25日、今度は東久世通禧を2代目の開拓長官に任命した。……(中略)……。この2カ月足らずで、2代目の開拓長官が任命されたことには、重要な意味があったと考えられる。それは当時、外務卿であった沢宣嘉を開拓長官にしようとする動きへの対抗策だったようだ。……(中略)……。
 沢宣嘉を開拓長官にしようとするグループは、ロシアに対し極めて強硬な姿勢で臨むことを要求。いっぽう、東久世を開拓長官に推してきたグループは、対ロシアでは友好的な対応を求める考えだった。明治初期の日本とロシアには、樺太を巡り紛争が発生していた背景があり、ロシアに対して強硬姿勢で臨む沢宣嘉が開拓長官になると、北方問題を機にロシアとの対立がより深刻な状態になっていくことが懸念され、ロシアとの対立を避けたいと考える開拓時間の黒田清隆にとって、宥和政策的な考えをもつ東久世が開拓長官になるほうが都合がよかったのだ。とくに黒田は樺太の開拓に消極的で、それよりもまず北海道から開拓を進める必要性を何度も語ってきている。(p.82-83)


幕末から明治期の北海道を考えるに当たって、ロシアとの関係は極めて大きなファクターである。北海道の観光スポットでは、開拓使の長官などの名前や経歴などが書かれた資料を目にすることが多いが、政治的な対立は、あまり真正面から紹介されることがない。しかし、こうしたことを理解することは非常に重要な意味があると思う。簡単なガイドブック的なものや観光スポットの解説文なども、もう少し踏み込んで記載することが必要ではないか。



 当時最大の引き揚げ港といわれた函館には10万人以上が、樺太との交易が盛んだった小樽にも1万人以上が引き揚げ、住居や仕事を見つけるのに苦労しながら戦後の苦しい生活を迎えていた。引揚者の多くは収入を求めて露天商になり、それが闇市そして市場へ発展していった。現在も市場の多い函館や小樽。それは引揚者たちの再出発の証でもあったのだ。(p.91)


市場は次第に減っており、こうした証も次第に減っている現状ではある。買い物をする場所や機会も時代とともに変化していくのはやむを得ないとしても、ただ単になくなっていくというのはもったいないと感じる。


池田貴夫 『なにこれ!? 北海道学』

言うなれば、関東や近畿といった日本列島の中心部ではなかなか落花生に変わっていかない。そして、その外側の北海道と東北、中部地方北部、九州などで、落花生が好んでまかれるようになったという現象が浮き彫りになる。(p.33)


節分の豆まきに大豆ではなく落花生をまくことについて、北海道では北海道特有の現象と見なされているのだが、その認識は誤りであることがわかる。興味深い。

なぜ関東や近畿では大豆なのか?それ以外の地域では落花生なのか?

北海道に移住してきた人は、時期によって異なるが北陸や東北の人が多かったことを考えれば、これらの地方との結びつきが強い北海道で落花生がまかれるのは、明治期からであれ、それ以後からであれ、不思議ではない、とは言えそうである。この問題は、各地域がいつから落花生をまくようになったのかを知るところから探っていくのが良いように思われる。



 私の知る範囲では、この韓国東海岸から日本列島の日本海沿岸、そして北海道に至る地域に、イカにもち米などを詰めて調理した家庭料理が分布してきた。
 ……(中略)……。
 このように、イカにものを詰める調理法は、主にスルメイカの回遊路である日本海の沿岸地域で育まれてきた。また、この分布域は、出稼ぎやイカ釣りの伝習に伴う人の移動によって広まった佐渡式イカ釣具の分布域とおおむね一致する。(p.49-50)


函館の「いかめし」も韓国東海岸を含む日本海沿岸地域に広く分布する調理法の一種ということか。韓国東海岸までの広がりというのは私にとっては意外であり、一つの地域だけでなく様々な地域の事例と比較するというのはやはり必要なことだと思わされる。



多くの神社は林で囲まれている。……(中略)……。
 では、なぜ林で囲まれているのか。防風林などとしての機能はもちろんだが、民俗学的な視点からは、それ以外の理由を見いだすことができる。
 神社は、その集落や地区を見守る神様が鎮座される神聖な空間である。一方で、人々が生業や暮らしを営む空間は俗なる場所である。「聖」と「俗」との境界が、この神社を取り囲む林なのである。(p.74)


なるほど。


中西聡 『近世・近代日本の市場構造 「松前鯡」肥料取引の研究』

 つまり鯡魚肥生産が開始された近世中期には、両浜組商人―荷所船―敦賀問屋―大津納屋のルートで鯡魚肥は輸送され、近江・畿内で鯡魚肥は主に使用された。日本海から下関を経由して直接海路大坂へ輸送する西廻り航路は、寛文12年(1672)に河村瑞賢によりすでに整備されていたが、鯡魚肥は依然として敦賀から陸送されるルートで輸送された。その背景には敦賀問屋・大津納屋衆と近江商人の強固な結合があり、そのため西廻り航路の整備によって直ちに北海道から大坂までを直接結ぶ海運網が形成されたわけではなく、日本海航路では依然として船の活動範囲が地域的に限定されていた。(p.69-70)


この辺りのことについて、簡単な説明を聞くと、西廻り航路ができるとすぐにそこを通って運ばれたかのような印象を受けてしまうことが一般的だと思う。実際にはすぐに西廻り航路が鰊魚肥の流通路になったわけではなかったというのは、やや意外だった。



日本海海運は遠隔地間「交通」の典型的な例であり、菱垣・樽廻船における江戸・大坂間の価格差に比して、北海道・大坂間の価格差ははるかに大きかった。とすれば日本海海運においては、価格差を利用して大きな利を得られる自分荷物積の方が船主にとって有利であり、実際19世紀には北海道産商品は長崎俵物など一部の御用荷物を除き、ほとんどが自分荷物積で運ばれた。(p.73)


北前船の商売のやり方も、その背景には北海道と大坂との物価の価格差が大きかったという条件があったということを理解しておくことは重要。明治になり交通や通信の技術が発達し、普及してくると、こうした環境はなくなってしまった。



このように三井物産と近世来の諸勢力が正面から競争した函館・大阪市場では、近世来の諸勢力の団結が明確にみられ、三井物産に対してグループとして対抗し、資金力や価格支配力に現れる三井物産の取引上の優位性を押さえ込んだ。逆の見方をすれば、三井物産の進出が結果的には近世来の諸勢力間の競争を制限させ、近世来の諸勢力同士の協調を促し、明治20年代の鯡魚肥市場をより競争制限=安定的な方向へ進めた。(p.323)


三井物産に対抗するために近世来の諸勢力が結束して対抗したため、三井物産は鯡魚肥の市場から撤退させた。次に引用するように、この後、国内の市場を十分に確保できなかった三井物産は外地や外国への進出を強めていった。この辺りは非常に参考になった。



 三井物産はそれに対し、樽前漁業組合と委託販売契約を結び(明治23年(1890))、北浜漁場産物も扱ったが、十分な利益を上げるに至らず、明治28年に栖原家より漁場を譲り受け、北海道漁業部を設置して鯡魚肥生産に乗り出した。しかし北海道漁業本部(北海道漁業部を明治31年に改称)も十分な利益を上げられず、明治30年代初頭に、逆に小樽出張所・函館支店を廃止し、鯡魚肥市場から徐々に撤退して肥料取扱の中心を「満洲=中国東北部」産の大豆粕へ移した。……(中略)……。
 ……(中略)……。この間米穀取引でも三井物産取扱高は、明治23~27年にかけて減少しており、こうした国内市場掌握の限界性が、明治30年代以降の三井物産の積極的な海外市場進出の背景にあったと考えられる。(p.337-339)


国内市場を把握しきれなかったがゆえに海外市場に目を向けざるを得なかったというのは、現在から見る三井のイメージとは乖離があり興味深い。


小樽市人口減少問題研究会 『人口半減社会と戦う 小樽からの挑戦』

現在でも、新規高卒者の地元就職内定率は50%前後で推移しており、就職希望者の半数は市外に転出している可能性がある(小樽市2017a)。(p.35)


この個所の少し前には年代別にみると高校や大学を卒業するタイミングでの人口減が最も多いことが指摘されている。就職先が市外になること人口減の大きな要因であると言える。

本書は小樽市と小樽商科大学の共同研究の成果ということらしいが、上記のような明白な事実がありながら、本書の内容は子育て支援策を手厚くするという方向性など、的外れな方向に(これが言い過ぎだとすれば、少なくとも、主要な要因ではない論点へと)議論が進められていくことに非常に違和感を感じる。研究会発足は当時の市長の発案のようだが、市長が自らの政策の正当性をこの研究から得ようと考え、研究会側もそれを忖度しながら(あるいは当局側からそのような方向性で進めてほしいという意向が伝えられた上で)研究の方向性が選ばれたのではないかとさえ勘繰りたくなるような不自然さである。(このズレは、市の行政、市議会、経済団体へのインタビューに関する分析(本書第5章)でも見出すことができる。)

上記の年齢での社会減が最大なのであれば、それ以前の子育て支援策を充実させることは、この最大の要因に対してほとんど何らの効果も持たないであろうことは明白なはずである。(その年齢以前の社会減を減らすというより小さな要因には影響する可能性があるが。)本書は、ここに焦点を合わせて掘り下げる必要があったはずである。(もちろん、行政の施策でそこで発見された事実に対応がほとんどできないものだったとしても、そうすべきであろう。第二章あたりでは多少関連する問題に触れられているが、十分に議論が深まっていない印象が強い。)



1997(平成9)年以降の推移でみると、札幌市以外との転出入はほぼ均衡している状態であり、小樽市の社会減は、約200万人の人口を抱える札幌市への転出超過が、その主な要因となっていることがわかる(図9)。その中でも、小樽市に近接する手稲区、西区への転出超過が全体の5割を占めている(小樽市2017b:10)。(p.37)


この点はもっと掘り下げるべきであろう。札幌に転出した後、その人々はどこで働いているのか(業種や収入なども含めて)、といったことを追跡すれば見えてくるものがあるはずである。本書ではこの点の掘り下げがほとんどされていない。(第二章などで若干関連する問題は扱っているが、上述のとおりあまり掘り下げられていない。)個人情報も絡むので調査が難しいのは分かるが、例えば、直接確認することが難しい部分については、どのような代理指標を用いれば計りたいものが計れるのかという工夫が欲しいところである。いずせにせよ、本書全体を通して、アンケート調査に安易に頼ったという印象は否めず、その設問によって議論に予め限界が設けられてしまっている感が強い。



先述したが、小樽の観光業は賃金の点では札幌を凌ぐが、飲食・宿泊業は他産業と比べて、賃金水準が低い。これは、日本の観光業が1960年代の日本の経済成長期に確立された日本人団体旅行向けビジネスモデルからいまだに脱していないことが原因の一つである。地方の観光都市に、観光バスを仕立てて訪れ、安く効率的に旅を楽しむことを前提とするこのモデルは、休暇期間の短い日本人にとって最適なモデルであった。
 しかし、「おもてなし」は善意から行うものであり価格に反映させるべきでないとする倫理観の中で、サービスに対する適切な評価がなされてこなかった。さらに2000年の道路運送法の改正によりバス事業が許可制となり新規参入が急増したため、日本の観光業は熾烈な価格競争に巻き込まれることとなった。この価格競争の中で、コストカットの対象は人件費へと向かい、観光業界は低賃金産業となった。(p.66-67)


ここは重要な論点の一つと思われる。ただ、ここの記述でよくわからないのは、前段からすると個々の顧客の支払いが安いのだから観光業に落ちる金の単価も低かったことが予想されるのだが、その後の競争の激化によって低賃金産業となったとされている。90年代以前は低賃金産業ではなかったのだろうか?基本的には他の産業よりはもともと低賃金だったのが、さらに競争により切り下げられてきたという意味だろうか。(この個所に限らず、本書の分析は単なる意見で説明を済ませているかのような箇所が多く、一文一文に対するエビデンスが見えない点が問題である。)



都市圏も地方部も各産業バランスの取れたまちづくりを重視しているものの、都市圏においてその傾向はより強いことが分かる。他方、ものづくりのまち、食のまちづくり、観光業中心のまちづくりについては、地方部においてその傾向が強く、これについては統計的な有意性が確認されている。とりわけ、食と観光については、都市圏と地方部では大きな差がついている。なお、商業中心のまちづくり、文教的なまちづくりについては、都市圏と地方部で統計的に有意な差はみられなかった。
 したがって、全体としては八割に近い市区において各産業のバランスの取れたまちづくりが重視されているものの、その傾向は地方部よりも都市圏でより強く、また地方部においては都市圏に比べると「ものづくり」、「食」、「観光」のまちづくりなど、ある産業を中心としつつ、その他のバランスを図るまちづくりが重視されている傾向があると考えられる。(p.217)


こうした一つの産業だけを前面に出すやり方は、人口規模が小さければ、その産業に関連する人口が生活できることで、その自治体に住むほとんどの人が生活できるというようなことがあり得るため、それなりに有効だが、ある程度人口規模が大きくなると、特定の産業とその関連産業だけでは生活を維持していくことができないため、バランス重視になっていくという議論が本書でもされている。このこと自体はその通りであろうと思われる。

ただ、この点は人口の少なさを要因とする政策決定の傾向であって、その逆ではないであろう。本書はアンケート調査で相関関係を抽出するにとどまり因果関係まで明らかにしていない点が多く、分析不足と感じる。(相関関係であると断りつつ、因果関係であるかのように書いていたり、そのように誤認させそうな記述も散見される…。)総じて、行動経済学などでは統計的な分析から因果関係を明らかにするようなものがあるのだが、本書は数十年前の研究の分析レベルにとどまっている感じがする。