アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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大谷渡 『台湾の戦後日本 敗戦を越えて生きた人びと』

子供たちは日本語がとても上手だったが、初中に入ってからはまったく話さなくなった。「中学に入って排日でしょう。全然言わなくなった。」と、蕊は言う。日本から帰った夫は、台湾での戦後の生活になかなか慣れなかった。劉興寿は、日本語と台湾語で生涯を通した。「うちの主人は全然北京語で話さなかったの。」と彼女は言い、「とても嫌っているから言わないの。何回も手術して、85歳で逝っちゃったけど、私といる時はいつも日本語で話した。」と語る。(p.103)


蕊さんは大正11年生まれ。子の世代は、戦前は日本語(日本)の公学校、戦後は北京語(中華民国)の中学校に通った世代であり、北京語を習得していく。親世代は北京語を学校で習うこともなく、台湾語と日本語で生活していく。この場合の親子は台湾語で話している家が多かったと思われる。



宝玉は、「私は日本語しかできないから、北京語は話さない。」と言う。「家では、自分の子供たちと台湾語で話すが、孫とは話せない。」とも言う。戦後、学校教育が北京語になったから、戦後に教育を受けた子供たちの常用語は北京語になった。日本語で教育を受けた世代は、日本語と台湾語を話すことができる。この親に育てられた子供たちは、親が話す台湾語は聴き取れるが、北京語で育てられた孫たちは台湾語での会話はできないのである。
 李宝玉の言葉に耳を傾けていた李淑容は、「私は、北京語を勉強して話せるけれど、日本語がいちばん気持ちを表すことができる。」と言う。
 日本の統治下で育った人びとの半生は、その後の半生においても、日本との深いつながりの中で途切れることなく生き続けている。日本の敗戦によって、人びとの人生の歴史が区切られるかのような見方は避けた方がよいであろう。それぞれの心に残っていくもの、新たにつけ加わり変容していくものを多面的かつ慎重に見つめてこそ、人びとの人生への理解を深めることができるように思う。(p.108)


日本語世代の多くは台湾語などの母語と公用語としての日本語を習得している。戦後世代は母語と公用語としての北京語を話す。孫の世代は北京語で育てられていると、孫世代と祖父母世代の共通言語がなくなる。台湾では割とよくあるが、孫とコミュニケーションするために北京語を勉強しているという日本語世代が少なからずいる。しかし、日本語世代は昭和5年(1930年)生まれでも、既に87歳であり、台湾を旅しても街中で普通に出会うことはほとんどなくなってきた。日本語世代について記録していくことは、日本と台湾との関係に関心を持つ者にとって非常に重要である。



成績がよく家庭も裕福だった彼は、担任から州立台中農業学校への進学を勧められた。
 ……(中略)……。入学試験の合格者100人のうち、70人が日本人、30人が台湾人だった。日本人7割、台湾人3割の比率で合格させることになっていた
 ……(中略)……。
 各科目の成績は、「秀」「甲」「乙」「丙」「丁」で表記されたが、「教練」「修練」「武道」「体操」「実習」の五科目は、「甲」以上を台湾人生徒に与えてはいけないことになっていたという。だが、徳卿は鉄棒・高跳び・幅跳びに優秀な成績を修め、「軍人勅諭」を全部覚えて、二年生の時に「体操」と「実習」に「甲」の成績がついた。(p.112-113)


前段を読んだときは、差別と見るべきかアファーマティブアクション的なものと見るべきかという疑問が浮かんできたが、後段は完全な差別であり不当な評価法だと言わざるを得ない。こうした決まりがどのように決められているのかを知りたいところだが、「甲」の成績が実際についた台湾人子弟がいるというあたりからして、教師の間の不文律的なものだったのだろうか。



 終戦後、中国国民党軍が台中にもやってきた。彼らが畳の上に、土足で上がり込んで来たことがあった。徳卿は、無礼をきびしく叱責したという。二二八事件の時、友達だった台中農業学校の同級生が連れ去られて銃殺されたことは、決して忘れえない出来事であった(2009年9月1日談)。(p.119)


戦前日本の教育は価値観にかなりコミットするものであったことが、当時の少年たちにこうした心性(畳に土足で上がることを無礼とする)を持たせ、そうした考え方に誇りを感じさせているところからもよく分かる。



進駐した米軍との関係があって、台湾人少年工たちは戦後、神奈川県庁から優先的に食料をもらえたという。(p.134)


米軍占領時代には、台湾人は中華民国国籍ということになったから連合国側の人間となり、日本人より優遇された。



事務職には、戦前から勤めていた台湾人のほかは、日本人に代わって大陸から入ってきた「外省人」が就いたので、就職の余地がなかった。戦前から台湾に住んでいる「本省人」より事務能力が劣っていても、課長以上は「外省人」が占めたという。(p.135)


戦後の中華民国の統治下でも台湾の人々は、日本による植民地統治と同じように差別を受けたと言える。ただ、その後の経過を見ると、言語が同じになっていくと、日本人に対してよりは同化しやすかったとは言えるかもしれない。



私たちはね。やはりあの時は、早く戦争を終ってほしいと願っていた。台湾が日本によって統治されている。そういうことから、内心は早く自立したいという思いを持っていた。だから終戦は、台湾が日本の統治から脱する勝利を意味した。台湾人の中には、その時中国が悪い人であるということを知らなくて、祖国に帰りたいという人もいた。だけど帰ってみたら大変だった。やっぱり日本がいいと言うんですよね。(p.146)


戦前の台湾人にも政治的に自立したいという考えを持っていた人がいた。これがどのくらいの規模と強さで存在したのかが重要な論点だと思う。当時の台湾の人々のアイデンティティとして「日本人」「台湾人」「中国人」といった要素がどのように絡まり合っていたのか。それぞれの社会層や母語や居住地などによるアイデンティティの差異はどのようなものだったのか。



 二二八事件の犠牲者について、おおっぴらに話せるようになったのは、1988年に李登輝が本省人として総統に就任して以降のことであった。(p.149)


これに続く部分に「二二八事件の被害者は、みんな隠れていたのです」という証言があるが、こうした歴史に対する最近の台湾の人々の向き合い方には羨ましいものを感じる時がある。ここ数年、台湾でもバックラッシュ的な言説が漏れ聞こえているが、全般としては歴史に対する感覚は現在の日本(歴史修正主義者たちが公の場で事実に基づく反論をほとんど受けずに発言が垂れ流しになっている)よりも健全であるように感じられる。



 台湾が日本の統治下にあった時代に、台湾の教会と日本の教会は密接な関係にあった。(p.151)


このあたりはもう少し掘り下げて知りたいところであり、本書からもらったテーマ。台湾は日本よりもキリスト教が普及しており、私の友人たちもクリスチャンが結構いることもあり、台湾のキリスト教の歴史的な背景には特に興味を持っている。


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小紫雅史 『さっと帰って仕事もできる! 残業ゼロの公務員はここが違う!』

 若手職員には大小さまざまな案件が押し寄せます。
 そのすべてに対して100点目指して取り組むと、いくら残業しても時間が足りません
 皆さんは、すでに大なり小なり仕事の取捨選択はしているはずですが、これをもう一歩踏み込んで行うことで残業がゼロに近づき、本当に注力すべき仕事や新しい施策の企画などに時間が回せるようになるのです。
 そのためには、「捨てる訓練」を若いうちにできるだけ経験すべきです。
 とはいえ、新規採用職員は、捨てても良い案件は容易に判断できないでしょうから、係長やメンター職員が指導しつつ、最初は取捨選択する作業を一緒に行ってください。1か月もすれば捨てるべき案件、重要な案件が大体わかってくるはずです。(p.24-25)


自分の感覚からするとあまりにも当たり前すぎることに感じるが、公務員の場合、間違いがなくて当たり前で間違いがあると批判・叱責されるという仕事が多いと思われるため、どうしても保身的な動機から100点を目指すという安全策が取られがちなのかも知れない。



 やると決めた業務も、どこまできちんと対応するか(仕事の重要度)を最初に決めておきます。例えば「50%」「80%」「100%」の3つに分けてみましょう。(p.29)


この50-80-100というレベル分けは参考になった。自分の感覚では当たり前にやっていることを他の人に伝えるには役立ちそうである。ちなみに、50%というのは著者は少し意図的に低めの数字で言っているように感じる。先ほども述べたように公務員の仕事は正確さがあって当たり前とされるからである。



 上司の指示を唯々諾々と受ける部下はベストの部下ではありません。指示を受けて作業する前にしっかり議論しましょう。それがあなたの無駄な残業を減らし、効果的な成果を確保し、ひいては上司を育てることとなるのです。(p.65)


同意見である。



 そこで、当市では条例において、市民からの様々な苦情や要求などを記録し、市長まで報告するとともに、不当要求行為に対しては、書面での警告や氏名や行為内容の公表、捜査機関への告発等を規定しています。(p.119)


不当要求行為に対する生駒市の対応。興味深い対応策。どのような事例がこの条例によって処理されているのか気になるところである。


金子展也 『台湾旧神社故地への旅案内――台湾を護った神々――』(その2)

 神社が造営されたのは昭和12年(1937)、丁度この年に支那事変が勃発し、第17代総督小林躋造が就任早々打ち出したのが「皇民化政策」、「国民精神総動員運動」と「一街庄一神社政策」である。清水神社はそのような時代背景を持ち、総工費6万7,000円を投じて大甲郡に造営された神社であった。(p.87)


本書を見ていると、この時期に「鎮座」となっている神社が非常に多いことに気がつく。「一街庄一神社政策」の詳細は本書でも語られていないが、この政策が関係しているのだろうということは容易に想像できる。中国との戦争に突入し、「皇民化」や「国民精神総動員」といった排外的で国粋主義的な動きと連動している。



 昭和14年(1939)に入ると台湾全土で敬神観念を高め、国民精神作興の徹底を図るために神社造営計画が慌ただしく進められた。員林郡においても神社崇敬の念を涵養せしめ、且つ、皇紀2600年記念行事として、員林神社の遷座(昭和15年末頃か)が行われた。これが現在も残る神社故地である。戦況が激しさを増し、更なる「皇民化」運動が推進されるに及んで、官民や学生児童の神社参拝が求められだした。そして、昭和17年(1942)2月28日に郷社に列格された。(p.95)


昭和14年には上で述べられていた「一街庄一神社政策」が具体化の段階に入ってきたということか?こうして設営されていった神社に対して皇民化を推進するために神社参拝が求められるようになっていく、という流れなのだろう。

引用文の最後に、「郷社に列格」とあるが、本書を読んでいると、戦争の後期にはこのように神社の格を持ち上げる動きが各地で見られる。各地域の人々から忠誠心を調達するための政策であったと思われる。



 当時の北斗郡には神社がなく、国民精神涵養上遺憾であるとの理由で、昭和10年(1935)3月、当時の藤垣郡守により、尊崇の念を養い国民精神を涵養するために、神社造営が計画された。(p.97)


こうして北斗神社は昭和13年に鎮座したという流れは、まさに先に引用した2つの文章の流れと一致するものであることがわかる。



 大東亜戦争が始まると、地方での神社造営費の調達が難しくなり、総督府の「一街庄一社」政策は一向に進まなかった。このような状況下に於いて、総督府は地方の神社造営費や運営費を軽減できる「摂末社」の造営を許可する。これに呼応するよう、斗六郡に於いては、斗六神社を中心に、各庄街に昭和16~17年にかけて末社が9ヶ所造営された。非常に珍しい例である。(p.111)


日中戦争の段階では神社が次々と建てられたが、太平洋戦争の段階になるとそれが止まったということだろう。確かに本書を見ていても昭和12~14年頃に鎮座した神社が多かったという印象が強い(詳しく数は数えていないが)。



また、日本と同様に清朝を敵に回した明朝に対する忠節であることに加え、当初から純日本式神社では抗日運動を助勢することを考慮したのではないか。(p.137)


明治30年という台湾統治が始まって日が浅い時期に鎮座した開山神社は、なぜ日本の古来の神ではなく「鄭成功」を祀る神社だったのか、という理由の一つ。台湾統治初期には、現地で様々な抵抗を受けながら統治を進めていった事情が反映している。



 当時の東港郡には神社はなかった。そこで、国民精神作興10周年である昭和8年(1933)に神社造営に向けての具体的な活動が進み、2年後の昭和10年(1935)10月18日、鎮座祭を執り行った。「皇民化」運動が叫ばれ、時局の進展に伴い、戦勝および国威宣揚武運長久を神前に祈願するようになり、一般郡民の参拝が急増した。そして、昭和17年(1942)10月31日に郷社に列格する。(p.157)


上に引用してきた流れと同じ。昭和10年前後に計画と鎮座、太平洋戦争後には神社の建設は難しくなったのに代えて格上げすることで忠誠心を調達する。神社の建築にはかなりの費用がかかるが、ランクを上げるだけなら政府支出はそれほど必要ない。総督府は、恐らく、新しい神社を建てられないので、神社のランクを上げることにしたのではないか。



 戦局が益々悪化する昭和19年(1944)初めに南方および西方における地勢上の重要な港であるとのことから、海上守護神として総督府の許可を得て讃岐の金刀比羅宮の祭神である大物主神を東港神社の境内に摂社として祀ったようである。(p.157)


第二次大戦末期になってこんなことをしている人がいたとは驚いた。


金子展也 『台湾旧神社故地への旅案内――台湾を護った神々――』(その1)

 大正9年(1920)、水返脚街を同じ意味の汐止街に改めた。水返脚の名前の由来は、満潮時には逆漲がこの地に及び、干潮時には再び海に返るのでこの名前がでたようである。(p.33)


現在の新北市汐止区の地名の由来。中国語というよりは日本語の語順であることからも日本統治時代に改名されたというのも納得。



 基隆はもともと同地一帯に住んでいた台湾原住民平埔族ケタガラン族の族名がなまってケランとなり、漢字で鶏籠があてられた。今日でも台湾語での呼称はこれで呼ばれる。(p.41)


あまり気にしたことがなかったが、基隆も原住民が関係する地名だったのか。



1980年代には台北東部の新市街(東区)の発展により活気を奪われていた西門町は、1990年代後半以降、歩行者天国となり、年配向けの繁華街から若者向けの繁華街への転換が進み、現在に至っている。(p.70)


台北の街と言えば、私などはまず西門町が思い浮かぶところだが、活気が失われていた時代もあったというのは興味深い。



明治38年、台湾における煙草の専売制度が開始される。そして、明治44年には台北煙草工場鉄道駅を設置し、それまで大稲埕での旧台北停車場東側で行われていた請負による刻み煙草の製造を拡大していく。大東亜戦争が勃発すると、紙巻タバコは台湾市場のみならず、華中、華南及び南洋諸島への輸出が拡大し、更なる生産拡大に迫られた。(p.71)


大東亜戦争という表記を何の注記もなしに使っているあたりなど、本書のスタンスには疑問を感じるところがある。

台湾で製造されたタバコは輸出品になっていたということは、砂糖の移出による外貨の流出を防いだことはよく知られているが、それ以外に外貨の獲得にも貢献したということか。(それとも日本が占領した地域の日本兵のために煙草を売ったということか。)台湾のタバコ産業の歴史も注目してみる価値があるかもしれない。



旧台湾総督府専売局台北南門工場

日本統治時代に東南アジアで最大規模を誇った樟脳やアヘンの製造工場であった。明治32年に建設され、最盛期には世界の樟脳の八割が台湾製で占められた。(p.72)


こんなにシェアが大きかったとは驚いた。


西澤泰彦 『植民地建築紀行 満州・朝鮮・台湾を歩く』

 現在、この地の残っている校舎は、1928年に竣工した医学部本館、1931年に竣工した大学本部(図21)である。前者は、ソウル大学校医科大学として使われ、後者は韓国文化芸術振興院に転用されている。いずれも鉄筋コンクリート造三階建で、外壁に茶褐色のタイルが貼られ、最上階の窓をアーチ窓とし、車寄せを突き出した外観は、両者に共通だが、医学部本館が文字通り地上三階建であるのに対して、大学本部は、一階を半地下化しているため、車寄せと玄関は二階に設けられている。そのような違いはあるにせよ、この時期に震災復興を進めていた東京帝国大学の一部の校舎、新設された九州帝国大学や北海道帝国大学の建物にも見られる形態である。(p.104-105)


旧京城帝国大学の校舎についてのコメントだが、図21の写真を見た瞬間、北大の旧理学部(現在の北大総合博物館)の建物(1929年竣工)とそっくりであるのに驚いた。



同じ時期に設立された帝国大学でありながら、京城帝国大学の場合は、キャンパス計画そのものが重視されなかったのに対し、台北帝国大学では、キャンパスの中央に骨格となるグリーンベルトを通すという手法を用い、秩序を重視したキャンパス計画がおこなわれたといえる。この手法は、後に最後の帝国大学として1939年に開学した名古屋帝国大学のキャンパス計画に踏襲される(木方十根、2010年)。(p.107)


台北帝大のキャンパスが秩序を重視した計画に則っていることは、台湾大学のキャンパスを訪れた際に感じたが、名大のキャンパスにも手法が踏襲されているとは知らなかった。名古屋大学は行ったことがないので、今度この観点から見てみたい。



そして、戦後、キャンパスが東側に拡張されたとき、このグリーンベルトはそのまま延長され、その正面には最終的に新たな図書館が新築された。
 結局、二つの帝国大学は、いずれも植民地支配の産物であり、植民地支配が終わった時点では、遺物として残ったが、それから半世紀を経て、遺産としての扱いをうけるようになった。そして、台湾大学では、植民地建築であるはずの建物が現役の校舎として、日本の国立大学には見られないほどきれいに、かつ丁寧に使われている光景が展開している。建物を大切に使うという基本的なことがいかに重要なことかを認識させられた。(p.109)


旧台北帝国大学(現・台湾大学)のキャンパスについての記述。グリーンベルトの正面にある大きな図書館は現在では台大のキャンパスの印象的な部分となっているが、あのあたりは戦後に拡張された部分だったことを初めて知った。「外地」にあった旧帝大の情報はやはり少なすぎる。



詳細な事情は不明であるが、台湾からの留学生で壁塗り技術などを研究している葉俊麟さんによれば、台湾では、伝統的に壁塗りの技術が発達し、特に、植民地時代には、洗い出し仕上げの技術が飛躍的に向上していたという。これは、相対的に良質な建築用石材が少なかったことが背景にあるが、それだけでなく、台湾は東アジア地域の中で最も早く鉄筋コンクリート造が普及し、その仕上げとして人造石洗い出し仕上げの需要が高かったことも、洗い出し仕上げの技術が向上した原因であろう。ちなみに、私は2010年9月、葉さんや写真家の増田彰久さんと一緒に台北市内の近代建築を見て廻った経験があるが、葉さんに指摘されて初めて洗い出し仕上げが施されているのに気づいた場面が何度かあった。なぜかといえば、日本国内の近代建築では常識的に石が使われていると思われるところでも、台湾の近代建築では洗い出し仕上げにしているところが多いからである。(p.164-165)


台湾では鉄筋コンクリート造が早期に普及したのはよく知られているが、壁塗り技術(洗い出し仕上げ)というのはあまり気にしたことがない観点だった。今度行く時には少し注意してみてみたい。



しかも、国策会社であった東清鉄道が積極的にアール・ヌーヴォー建築を建設していったことやそれを記録した写真集の装丁がアール・ヌーヴォー様式であったことは、東清鉄道がアール・ヌーヴォー建築、アール・ヌーヴォー様式に大きな意味を見出していたことに他ならない。それは、単に流行の様式を用いただけでなく、当時の最先端であったアール・ヌーヴォー建築を建てることが、帝政ロシアの支配力を誇示する結果につながるという判断があったと推察されよう。したがって、ハルビンに建てられたアール・ヌーヴォー建築は、帝政ロシアにとってウラジオストクや旅順に配備された艦船と同じ意味を持っていたといえよう。(p.242)


ハルビンにアール・ヌーヴォー建築が多い理由。



 そうした中国商人達の目に映ったのは、ハルビン市街地に次々と建てられていく西洋建築であった。とすれば、自分達もそのような西洋建築を建てたいというのは自然な願望である。そこで、彼らは中国人の職人達に同じような建物を建設させたのであるが、建築というのは、大雑把な外観だけでなく構造や詳細な意匠を理解しなければ同様のものを建てることは難しい。傳家甸の建物を建てた中国の職人達は、ロシア人達が建てた西洋建築の外観だけを模倣した。ところが西洋建築を根本から理解していたわけではないから、目に見えるかたちだけを職人たちが自分なりに理解していった。当然、「誤解」も生じ、その結果、西洋建築とは似て非なる建築が出現した。たとえば、アカンサスの葉に飾られるコリント式の柱頭にアカンサスの葉ならず白菜のような野菜を乗せてしまうのはその典型である。円柱の柱礎に中国建築の柱礎を使ってしまうのも同様だ。
 このような現象は、ハルビンの傳家甸だけではなく、瀋陽、北京、天津、上海、武漢、アモイ、広州、など、中国のあちこちに見られる。これらに共通していることは、外国による支配地と隣接する中国人主体の市街地に成立したことである。(p.250-251)


中華バロック建築は西洋諸国の支配地に隣接する地域で成立していった。なるほど。興味深い。これらの地域で成立した中華バロックは他の地域にもさらに伝播したのだろうか。台湾のいくつかの「老街」に見られる中華バロック風の建築はどのような経緯で建てられていったのか?台湾に関心を持つ者としてはこのあたりが気になるところである。



  ところで、中華バロックの成立と似た現象は、明治維新の日本にも見られた。各地に建てられた擬洋風建築がそれである。ただ一つだけ異なる点は、建てられた時期であり、それに起因する意匠の差である。言い換えれば、手本とした西洋建築の違いであった。中華バロックの成立が20世紀になってからであるのに対して、日本の擬洋風建築は、19世紀後半から建てられていく。そのため、手本となった西洋建築にも時代の差があり、一方で装飾過多な中華バロックが成立し、一方で簡素な擬洋風建築が成立した。(p.251)


興味深い。中華バロックと擬洋風建築は兄弟のようなものとも言える。では、日本や中国以外ではどうだったのか?


岡田哲 『明治洋食事始め とんかつの誕生』

その鹿鳴館の連日にわたる舞踏会や大夜会も、外国人からは「猿真似の三流趣味」「不格好な洋風ものまね」との悪評を受け、わずかに三年余で幕を閉じてしまう。(p.89)


鹿鳴館の名は日本では悪いイメージで語られることは少ないが、こうした側面もあったという指摘は重要。



しかし、中国料理の本格的な普及は、第二次世界大戦まで待たねばならなかった。(p.90)


意外な遅さに驚く。だが、確かに、明治とか大正の時代に中国料理に関連するような話というのはあまり聞かない。これは単に語られていないだけというわけではなさそうだ。



 ところで、当時の日本人はたいてい欧米崇拝におちいっており、欧米の食事は、ふるくから「近代化」されていたと錯覚していた。実際には、日本の明治期よりわずか百数十年ほど前までは、ナイフもフォークもない手づかみの不作法ぶりであったのだ。欧米の庶民が、ナイフ・フォーク・スプーンを用いはじめるのは、17世紀末から18世紀にかけてのことであったからである。(p.95)


日本や中国では古くから箸などが使われていたことを考えると、庶民の食の作法という点では、少なくとも現在の基準から考えるならば、17世紀以前で比較すれば日本や中国の方が欧州よりも「近代的ないし文化的」だったと言ってよいだろう。



 ところが、明治維新になり、文明開化の進むなかで、先人たちは、パンを不思議な形態に作りかえていく。おやつ(間食)の機能をもたせた、和洋折衷型の「菓子パン」である。そして、独創的な「あんパン」の誕生。これもまた、「とんかつ」と同じように、日本人がつくりだした「洋食」なのである。(p.112)


現在でも日本のパン文化は独特だと感じる。欧米や中東とは全く違うものを食べていると感じる。最近はコンビニなどの普及もあってか中国や台湾など近隣諸国では日本のパンとほとんど同じようなものが普通に見られるようになったが、これらの国のコンビニで買う「日本風パン」はあまりおいしくない。日本で買うものとは違いがある。真似しているが追い付いていない感じがする(それぞれの国の人々の味覚に合うようにしているのかも知れないが)。

最近は海外に行く機会が減っているので、あまり詳しく論じることができないのが残念だが、「日本のパン」というのも調べてみるといろいろと面白いかも知れない。



 1905年(明治38)頃から、あんパンの駅売りが始まり、全国的に普及していく。日清戦争の後に、台湾から砂糖が大量に運ばれ、菓子パンが作りやすくなり拍車をかける。(p.143)


日本の人々の生活が洋風になって行く明治末から大正期に、ちょうど植民地となった台湾から砂糖が移入されてくる。このことは菓子パン以外にも影響があるに違いない。例えば、コーヒーや紅茶などの普及にも影響しているのではないか?



 たとえば、古代ギリシアでは涙から生まれたといわれていた「キャベツ」は、17世紀の後半に、南蛮船により長崎に伝えられる。当初は、葉ボタン・ボタンナと称して、もっぱら観賞用であった。キャベツが野菜として利用されるようになるのは、1871年(明治4)に、北海道に導入されてからである。当時は、キャベイジと呼ばれていたが食べ物としての関心は薄く、とんかつの添え物として華々しく登場することになる。(p.202)


西洋野菜の歴史はなかなかまとまった本が見つけられない。日本での西洋野菜の普及は北海道での栽培と関係が深いものが多いようだが、キャベツもその一つのようだ。当初は関心が薄く、とんかつの添え物としてブレイクしたというのは興味深い。



 ちなみに、「ジャガイモ」は、安土桃山期の1598年(慶長3)に、ジャワのジャガタラ(バタビア)から、オランダ人により長崎に伝えられる。ジャガタライモと呼ばれた。1874年(明治7)に、北海道開拓使がアメリカより種芋を入手し、本格的な栽培が始められ、1884年(明治17)の米の凶作のときには、米飯の代わりになる。(p.202-203)


キャベツと同様、明治期に北海道で栽培された西洋野菜の一つ。ジャガイモに関しては手頃な本があるので、機会を見て読みたいと思っている。


権丈善一 『ちょっと気になる医療と介護』(その2)

しかしながら、イノベーションを唱えたシュンペーターは、これが経済発展にとって重要であることを指摘しても、その起こし方については何も語っていないんですね。……(中略)……。
 進化論は生物学上の事実でしょうが、進化を人為的に操作することが難しいことと同じように、シュンペーターの言うイノベーションを原因とする経済の進化は、政府が先導するかしないかで起こる・起こらないが決まるようなものではありません。(p.255-256)


重要な指摘。サプライサイドを重視する立場の経済学者や政治家などがしばしばイノベーションを軽々しく口にするが、イノベーションという概念は、後に「イノベーション」だったと評価されるある出来事が起こった後に、その時点での事実に対する評価を伴いつつ、あの時起こったあの出来事はイノベーションだったと判断している「観察者」の視点により構成された概念に過ぎず、その出来事を起こしている「行為者」に起こっていることとは全く異なっている。この種の概念によっては、それが指し示そうとする行為が導かれることはないし、分かっているつもりになってはいるがそこで起こっていること自体は捉え損ねている。



・予防・健康増進活動で医療費はむしろ増加する
 ・各国でさまざまなモデル事業や膨大な実証研究が行われてきました。それにより、予防や健康増進活動による健康アウトカムの改善効果はそれなりに確認されていますが、医療費節減効果はほとんど確認されていません。逆に、厳密にランダム化比較試験に基づき、広く社会的次元で費用計算を行った研究では医療費を増加させるとの結果が得られています。
 ・アメリカの軍人を対象にした最近のシミュレーション研究により、長期的には(生涯医療費のレベルでは)、禁煙による健康状態の改善による医療費削減は余命延長による医療費増加により相殺されることが示されています。(p.265)


予防や健康増進活動を奨励しても「医療費削減」には繋がらない。やはりこういうことは本当に健康を増進することで一人一人が健康で文化的な生活を維持していくことができるようにするという目的に素直に沿って進めていくべきである。政府や自治体には医療費削減(適正化などと誤魔化しの入った表現がよく使われる…)に繋げようとしてやっているところがあるように思われるが、そうした考えは捨てるべきだろう。



 東大理科Ⅰ類(理Ⅰ)を筆頭に、工学部の人気が“凋落”と呼べるほど落ちているようです。理Ⅰに行くより地方の医学部に行くという時代になってきて、医学部は「一人勝ち」です(134~135頁参照)。この傾向は、経済を長期的に考えた場合、非常にまずい
 現在の日本経済で最も大きなウェイトを占めているのは第3次産業ですが、そこで生活する人たちの生活水準は、「交易条件」の高さに依存します。交易条件とは「輸出物価指数÷輸入物価指数」で求められる指標です(図表8 25頁)。第2次産業の奮闘で日本のブランド価値が高まってこそ良くなる交易条件は、残念ながら年々悪化しています。原油をはじめした輸入価格の上昇に比べて、日本の製品を高値で売れなくなっているということです。
 工学分野や理学分野での人材確保は重要な課題であるはずなのに、人々は医学部ばかり目指している。優秀な人材を医学部だけに集め続けると、早晩、経済が足元からぐらつきます。(p.290)


興味深い指摘。では、工学部や理学部の人気を回復させるためにはどうすればよいか?これが難しい。



もし、もしですよ、赤字国債をバンバンと出して、そのお金で社会保障の給付をどんどん行ったら所得格差はどうなると思いますか?(第15章における給付先行型福祉国家参照)
 たぶん、格差は縮まって、不平等指数(完全平等を0として完全不平等を1とする指標)のひとつであであるジニ係数は小さくなり、そのことはおそらく、ジニ係数の改善の改善と評価されることになるのではないでしょうか。といことは、今の再分配所得のジニ係数は、けっこう赤字国債でかさ上げされた結果の良い値を示していることになります。(p.298)


なるほど。



 政治家が官僚人事に深く入り込みすぎると何が起こるか。官僚は自分の大臣と官邸のどちらに仕えるか曖昧になる。能力もないくせに時の官邸に色目を使い、政治的にうまく立ち回って出世しようとする奴が出てくる。ゴマすりが横行し出せば、終わりだよ。大事でも日の当たらない仕事は誰もやらなくなるぜ。……官邸主導で良かれと思って作った人事局が訳の分からない政権に悪用され、雇い主である国民から見てとんでもない霞が関瓦解を招きゃしないか。一つの内閣は一時の存在だけど、日本国政府は永久に続くっていう自覚を政治家は持たなきゃダメさ。


この点はまさに森友学園問題や加計学園問題でまさに目撃中である。



権丈善一 『ちょっと気になる医療と介護』(その1)

 多くの人たちが気合を入れて取り込もうとしている、このデータヘルス計画って、「日本再興戦略」という、いわゆる「成長戦略」の一環として政策展開されている話なんですね……って、「成長戦略」って、なんだか聞こえの良さそうな言葉だけど、その実態は?ということはこの本の中で、いろいろと触れていきます。
 ……(中略)……。
 まぁ、データヘルス計画によって公的医療保険の保険者である健保組合や協会けんぽ、それに国民健康保険から、ICT産業にお金が流れることは確かです。でも、データヘルス計画をしっかりやったからといって、国民が健康になったり、QOLが高まるかどうかはなんの保証もありません。この国では、かつて、「コンクリートから人へ」というスローガンが声高に言われていましたけど、成長戦略としてのデータヘルス計画というのも、そうした流れに沿っていると考えれば理解できます――つまりは、コンクリートから人へ、もっと言えば補助金はブルーカラーからホワイトカラーへ……う~ん、この冗談、分かるかな。(p.ⅵ-ⅶ)


データヘルス計画については、いままでは漠然と医療費の削減による社会保険財政の支出削減のために策定されたものだと思っていたが、「成長戦略」の一環だと知り、いろいろなことに納得した。こんなことをしてもIT業者に金が流れるだけで医療費の削減や健康寿命などにはほとんど意味がないのではないかと疑問に思ってきたが、その違和感は大元の政策の出所にあったようだ。



 いまのように「世界の技術最前線に躍り出た」日本で、かつてのような経済成長は起こせるという観点から、国民が将来を選択するのと、そうではないという観点から選択するのでは、おのずと選ばれる社会経済政策に違いが生まれてきます。そうした選択に影響を与える根源的な世界観については、その切り替えが強く求められているんですけどね。この意識の切り替えは、人口が減少している国の経済成長の目標は1人当たりGDPを用いること、日本の1人当たりGDPの伸び率は欧米と比べても見劣りせず、しかも雇用面も良好――したがって、日本の経済は別に大病を患っているわけではないという、意識の切り替えです。(p.35)


全く同意見である。こうした当たり前のことが一般に理解されていないこと自体が解決すべき問題であろう。



1990年には偏差値が最も低いと45くらいで私立の医学部に行けたようです。最も高いところはずっと慶應大学ですね。ところが90年代に最も低いところの偏差値がどんどん上がっていって、偏差値の散らばりを示す変動係数は、どんどん小さくなっていきました。(p.132-133)


この現象は都心の進学校の卒業生が地方の医学部に進学するようになったためだと本書は指摘する。90年代にエリート層がバッシングを受ける中で進路選択に変更が生じるようになったとされている。

『消えゆく限界大学』では、推薦やAOや内部進学のような入試の多様化が偏差値を高める方向に作用していることが示されていたが、医学部の場合はどうなのだろうか?



介護保険の受益者は、要介護の虚弱老人であることはもちろんですが、それ以上と言っていいくらいに家族です。(p.36)


非常に納得させられたフレーズ。



 消費税はたしかに、財源調達側面だけをみれば逆進的です。でも、消費税という化け物のような財源調達力を持つ税で社会保障の財源を賄えば、ネットで見ると累進税になるんですね。(p.200)


私は消費税の増税に対してはあまり積極的な評価をしていないが、消費税によって調達した財源をベーシックインカムのような配り方をする場合にはここで述べられているような結果になることは分かる。確かに税を語る場合、財源調達面(歳入の側面)だけを見るのは不十分であるという批判は正しい。しかし、使い道がベーシックインカムのように一様に配分されるという想定は楽観的過ぎるように思われる。なぜか?もし消費税を社会保障のための目的税にしたとしても、例えば社会保障に対する歳出の総額を変えずに、消費税によって浮かせた一般財源を社会保障以外の領域に支出するという選択を政府がした場合には、逆進性が解消される保証はないからである。



ここで押さえておいてもらいたいことは、歳出の中で最も優先順位が高く、その額を節約できないのは国債費だということです。
 ……(中略)……。
 でも先に説明をしたように、借金のストックが増えて大きくなった国債費は社会保障と歳出項目において競合します。そして、社会保障費よりも国債費の方が歳出の優先順位は高い――だから、国債費を賄うために社会保障は減らされてしまい、国民負担相応の福祉を享受できなくなってしまうわけです。(p206-212)


国債費が多いか少ないかによって社会保障などの圧迫のされ方が違う。その原因は歳出の優先順位にある。なるほど。

なお、現在の日本はすでにこうした状態に陥っていると見るべきだろう。


井黒弥太郎 『人物叢書 黒田清隆』(その2)

 松本退去のあとは、子飼いの薩摩人あるいは宦官的帰化族によって固められた。ここには薩長もしくは薩長土肥のバランス=オブ=パワーの原則は成り立たない。中央各省も特定藩への偏向はあったが、開拓使のような独占的官庁は外にはない。このことは黒田をして安心して中央に活躍させる余裕を与えたが、反面において彼が憎まれる一因ともなった。ことに長州ゼロのうらみは、いわゆる開拓使官有物払下事件に複雑にからみつくのである。(p.115-116)


なるほど。開拓使の要職には旧薩摩藩士が多いが、長州の勢力がないということにはあまり焦点を当てて考えたことがなかった。官有物払下事件は中央政治とも関係が深いようだが、当時の政治に関わる人々の人的関係を理解することで事件の背景がよく見えるようになりそうである。



かつまた千島樺太交換条約の成立によって、対露緊張が緩和されると、国家財政ののびに比較して、開拓使への国費投入のパーセンテージは漸次低下した。(p.123)


なるほど。開拓使には当初莫大な予算が投下されたが、それが次第に民間の活力に期待する路線へと切り替わっていくのだが、その背景にはこうした国際環境の変化もあったわけだ。



 両度の航海で得たもののうち、馬車と馬橇は最も開拓に貢献した。アメリカ馬車は札幌本道の工事と共に失敗したが、ロシア式馬車・馬橇は道内の悪路・雪道にあつらえ向きであった。(p.127-128)


北海道開拓を語るとき、しばしばアメリカの影響が語られる。確かにアメリカの影響は極めて大きいので強調されるのは妥当ではある。ロシアの影響についてもそれなりにあるのだが、あまり強調されることがない。なぜだろうか。いくつか要因はありそうだが、冷戦という国際環境が開拓の物語に影響した可能性もあるのではないか。冷戦以前の時代でも、北海道(特に支配層)は常にロシアの脅威を意識してきた歴史があり、ロシアも狙っていた土地であることは確かなので、ロシアとの親近性を強調する語りは、ロシアに併合されることへの抵抗を減らす方向のものであるから、あまり好まれなかったということも考えられる。



 北海道庁は23年7月5日、首相直属から、府県なみの内相管轄に変更された。黒田時代の天皇直属からみると甚だしい格下げである。(p.254)


「格下げ」というよりは、植民地たる「外地」から「内地に近い土地」になっていったことの反映と見るべきと思われる。



 山県のあと松方内閣のとき、内相は長州人品川弥二郎で、彼は残存する北海道の薩摩閥を根絶しようと、自分が就任して二週間目に、黒田の盟友永山長官をくびきり、渡辺千秋に旨を含めて北海道庁長官として乗り込ませた。
 渡辺は赴任そうそう大量の官吏を免職し、東京から引具してきた部下を要職につけ、官吏の利権に関与することを厳に禁じた。(p.254)


北海道における薩摩閥が根絶された後は、藩閥政治は下火になっていった印象を持っているが、具体的にはどうなのだろうか?



 折しも24年末、第二国会において、田中正造が早くも北炭の横暴を攻撃しはじめるなどで神経を尖らしている折柄、夕張線の工事にあたって、無許可で一部の路線を変更していることがわかった。北炭は利子補給を受ける道庁の保護会社であり、その監督権限は北海道庁長官にあった。その変更は北海道庁技師の選定によるものであるとの弁解もあらばこそ、25年2月、渡辺は職権を以てただちに堀を罷免してしまった。……(中略)……。堀の連類の同郷人も続いて引払い、ここに道内の薩摩閥といわれるものは全く姿をけした。(p.256-257)


薩摩閥が北海道において勢力を失った後、彼らはどうなったのだろうか、というのも気になる問題である。


井黒弥太郎 『人物叢書 黒田清隆』(その1)

 これまでの明治史は、いわゆる薩長史観とされるが、実はその薩と長の間にも激しい抗争があった。明治前半は薩が優勢であったが、後半になると長の伊藤の独走体制になってしまった。黒田清隆の名だけはよく知られているけれども、その生涯特に後半生は、伊藤主流に覆いかくされて殆ど分からない。ここでは黒田は幕臣榎本らよりもいっそう敗者として埋没している。(p.1)


明治維新は江戸の幕府に対して薩長を中心とする勢力によるクーデタという側面を持つが、その勢力争いに関して短い叙述で概要を把握できるように記されているのがよい。



 長州の実力者は木戸孝允である。東北諸藩主の処分のときから、……(中略)……強硬ぶりであった。これは独り木戸ばかりではなく長州人一般の傾向である。これに対して薩摩人はすでに西郷・黒田にみたように、もっぱら寛典を主張したのである。(p.40)


興味深い対比。いわゆる「民族性」論のような書きぶりにはなっているが、性格というより当時の政治における対応方針の違いと理解すべきだろう。



 明治3年5月9日、黒田を樺太専任の開拓次官に発令した。……(中略)……。
 一時は兵部省の輝ける星であった黒田は、その好みの武官から文官へ、四等官から二等官へ進んだとはいうものの、官吏100人そこそこの辺境へ流竄されたも同然である。そしてそれは結局軍人西郷から文官大久保路線への転換でもあった。生涯の決定的な曲り角である。(p.49)


樺太開拓次官になったことが黒田にとって転機だった。



アメリカの大陸横断鉄道に乗ってみて、たちまち鉄道費削減の愚を悟った。(p.52)


興味深いエピソード。



 ケプロン批判もないわけではないが、アメリカとしては著しく向英的な日本を向米に切り換えるために、第二のペリーとして彼を送ったのである。(p.52)


興味深い見方。(事実かどうかは保留。)



 明治6年11月、内務省が設置され、大久保が内務卿となる。その殖産興業政策は、むろん開拓使がその眼目であったが、それはいわゆる官業政策であって、外資を仰がず自己資本によって産業革命を達成しようとするものであった。従ってケプロンの外資依存の構想は抑圧されざるを得ない。黒田も時にはケプロンの意に添わんとして、開拓使の例外的ケースをのぞんだこともあったが、結局、5年度から規模を縮小し、官業政策に合せざるを得なかった。そこにケプロンの財政介入拒否の理由があった。もしそのことにも容喙させることになれば、結局開拓使の主導権はあげてアメリカ人に委し、黒田不在の開拓使におちたかもしれない。黒田はこの一線をまもり、ケプロンの反感をなだめつつ、しかも顧問団の効果的運用を期するのは苦心のいるところであった。(p.57)


明治政府・開拓使はできるだけ外国の資本に頼らずに自国の資本と産業を育成しようとしたのに対し、ケプロンらはむしろアメリカ製品の市場として日本・北海道を見ていた。実際には北海道の開拓に当たってはアメリカからそれなりの物資を輸入したことは間違いないが、自国の産業を育成しようという方向性自体は守られたように思われる。



 東京官園は広さ68ヘクタール、そこで輸入作物・苗木・家畜・農具などを試験した。その指導にはアメリカ人のエドウィン=ダンがあたった。彼としては東京でやるよりも、直接北海道でやる方が能率的であると指摘したのに対してケプロンは、それには別の意味があるのだと答えたと。たぶん彼は官園を東京に置いて、開拓使とアメリカの勢威とを誇示することが、政治的に意味があるとしたのであろう。(p.59)


なるほど。開拓使の官園が東京に置かれたことにはこうした隠された意図があったのか。興味深い。