アヴェスターにはこう書いている?
本を読んでいて気になったことなどを徒然なるままにメモしておくブログ。書評というより「読書メモ」。
プロフィール

ツァラトゥストラ

Author:ツァラトゥストラ
「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

FC2ブログランキング

FC2ブログランキング

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

俵義文 『日本会議の全貌 知られざる巨大組織の実態』

右翼団体の要求を連携する国会議員が取り上げ、それが国の政策として実現されるという恐ろしい構図がつくられているのである。(p.99)


確かに日本会議のような無茶苦茶な主張をする団体の要求が政策として実現されるルートが存在することは極めて憂慮すべきことだが、本書に足りないのは、このような手法を使う日本会議の勢力に対してどのように対抗していくべきかという実践的な見立てがないことであり、そもそも、そうした姿勢が希薄であると感じられる。

国会議員と連携して自らの主張を通していこうとすることやロビー活動をすること自体は代議制民主主義のルールとしては何ら問題のない行為ではないか。問題のある主張を通させないようにする方法やそれに反対する勢力をどのようにして政治力として動員していくのかということを左派やリベラルには考えて欲しい。むしろ、日本会議が「成功」した方法を昔の左翼から学んだのと同じように、日本会議の方法の「良いところ」を取り込んでいくような姿勢が必要ではないかと思うのである。


スポンサーサイト
山谷正 『さっぽろ歴史なんでも探見』

 北海道に玉葱が入ってきたのは明治4年(1871)、開拓使がアメリカから輸入した種子を札幌官園(現在の北区北6条西6丁目付近)で試作したのが始まりで、その後札幌村でも小規模の玉葱栽培が行われるようになった。(p.85-86)


北海道ではなく日本全体で見た場合の玉葱の導入はどうだったのだろう?

西洋野菜の日本における普及は、食文化の歴史的展開を見る上で興味深いテーマだと思っているが、なかなかこうしたテーマを掘り下げて語ってくれる本がないのが残念である。



 昭和17年(1942)、当時の軍が農地約250㌶を買い上げ、学生や市民と強制連行の朝鮮人労働者を使って陸軍飛行場として建設させたものだ。そのため、太平洋戦争末期には米軍飛来機の攻撃目標にされ、爆撃をうけたこともあった。(p.89)


札幌の丘珠空港についての記述。軍事に関わると攻撃を受ける。広島や長崎が原爆投下の対象となったのも同じ理由が含まれていることは忘れてはならない。



 この建物は大正以降に流行したマンサード屋根を使った洋風住宅の先駆けとなったもので、大正2年(1913)に現在の北区北12条西3丁目に建てられた。(p.135-136)


現在は芸術の森に移築された有島武郎の邸宅についての既述。マンサード屋根が大正以降に流行した理由はなぜだろうか?

この時期のマンサード屋根と言えば、明治39年の旧日本郵船小樽支店が想起されるが、この建物はその近くに建つ建物に強い影響を与えたようで、いろいろな建物がマンサード屋根になっている。また、明治42年の古河記念講堂もマンサード屋根である。このように北海道の明治末期には、マンサード屋根がある程度使われ始めていた。大正期という中間層が育ってきて生活が洋風化していった時期に、個人邸宅にも使われるようになったということだろうか?



 しかし、簾舞地区の本格的な開拓は、明治21年(1888)に旧札幌農学校第四農場が開設された時に始まる。(p.139)


第四農場が南区にあったのは何かで読んだことがあるが、簾舞地区だったのか。跡地は現在、何になっているのだろう?



 昭和30年(1955)に旧琴似町と篠路村が札幌市に合併されたが、この頃から新琴似、屯田、篠路地区の市街化が進み、それまでの農業や酪農地が次第に姿を消していった。(p.150)


第二次大戦後の復興から立ち直り、高度成長へと移る頃、札幌が大きく変わっていったことが分かる。札幌の発展と反比例するかのように小樽の斜陽化が進む。これは一体の現象であろう。



 かつて帝国製麻琴似製線工場があり、麻布の生産が行われていた麻生、亜麻事業の名残が町名になっている。
 昭和53年(1978)、地下鉄南北線(北24条~麻生)が開通してからは急速な発展をとげ、麻生駅周辺は一大商店街となった。(p.163)


麻生の地名は確かにアイヌ語っぽくないが、その土地で行われていた産業が「そのまま」地名になるのが面白い。


権丈善一 『ちょっと気になる社会保障 知識補給増補版』(その2)

 また、政府規模の国際比較で押さえておいてもらいたいことは、図表54のように、基礎的なインフラが整備された後は、政府の規模を大きくしていくのは社会保障になるということです。
 これは動かしがたい事実でして、結局、小さな政府なのか、大きな政府なのかは、「貢献度」に基づいて市場が分配した所得を「必要度」に応じて分配し直している度合いが小さいか、大きいか、家計における人々への必要の充足を個々の家計の責任に強く求めるかどうかできまっているわけです。そして日本は、社会保障が小さいだけではなく、少し信じられないかもしれませんが、社会保障以外の政府支出も小さな国であるわけです。
 こう言うと、「だって公務員が多くて、ムダ遣いしているという話が多いじゃないか」という話になります。そこで、国際比較ができる形にOECDがまとめたデータを見れば、日本の「労働力人口に占める公務員の割合」は、図表55の一番右、すなわち最も少ないことが分かります。このあたりのことを詳しく分析した本として、前田健太郎東大准教授が2014年に上梓された『市民を雇わない国家――日本が公務員の少ない国へと至った道』などがあります。(p.124-125)


ここに書かれている基本的な事実は、私としてはほぼ「何を今さら分かりきったことを…」といった内容だが、社会保障や財政に関する問題が政治利用されており、厖大な「印象操作」が行われているため、あまりまともにこうした問題を調べたことがない人にはこうしたことをきちんと伝えなければならない状況となっている。

なお、『市民を雇わない国家』は面白そうなので読んでみようと思う。



そして厚生年金の適用拡大は、基礎年金全体の給付水準の引上げにも寄与することが、2014年(平成26年)の財政検証で明らかにされました。その理由は、厚生年金の適用拡大が進むと、数が減った第1号被保険者1人当たりの国民年金積立金が増えるからです。(p.153)


なるほど。厚労省が適用拡大に向けて動こうとしている気配があるのはこうした理由があるからだったのか。政府の動きはいろいろと胡散臭いものが多いが、この動きは推進してよい方向と見ておく。



 民主主義社会においては、そうした合理的に無知であることを選択した有権者の耳目にまで情報を運ぶコストを負担できる者、すなわちキャンペーンコストを負担することができる者が多数決という決定のあり方を支配できる権力を持つことができます。そしてキャンペーンを通じて有権者の耳目まで情報を伝達するコストの負担は財力に強く依存します。資本主義社会の下で財力を持つ集団は経済界ですから、民主主義というのは、経済界が権力を持ちやすく、そこでなされる政策形成は経済界に有利な方向にバイアスを持つことになるという民主主義の特徴を、僕は「資本主義的民主主義」と呼んできました。(p.181-182)


様々な政府による規制を緩和したり、資本移動のグローバル化を進めると、こうした経済的に豊かなアクターたちはより一層有利な条件を獲得できる。すなわち、デモクラシーの方法に基づいて権力を自己の利益のために利用できる度合いが高まる。これにより中間層以下の人々の生活は苦しくなるが、政府はこうした人びとの役には立たない。こうして「現在の政治体制」への不満が高まることで、ポピュリズムないし極右ポピュリズム政党の台頭(ヨーロッパ、アメリカ、日本など)をもたらしている。



もし、余命幾ばくと宣言されていない人が、当面の生活費を工面する方法があるのならば、可能な限り遅く受けとりはじめることをお勧めします。70歳で受給しはじめる年金は、60歳で受給できる年金額の約2倍になり、それを亡くなるまで受け取ることができるわけです。(p.188)


年金受給開始年齢をどう考えるかという問題について参考になった。年金が保険であることについて理解しておく必要がある。



 年金受給権のある人には、そのいくぶんかは生活保護の補足性の原理から外すということである。現在の生活保護制度のもとでは、年金収入があればその分は保護費が減らされる。結局、未納者と同じ生活水準となり、過去において保険料を納付したり免除手続きをとったりしてきた意味がなくなってしまう。(p.221)


なるほど。興味深いアイディア。ただ、生活保護の最低生活費は(世帯の人数にもよるが)水準が高すぎるので、その水準を少し削った上で基礎年金満額受給者の生活費は現行の最低生活費を若干上回るといったような設計が良いのではないかと思う。


権丈善一 『ちょっと気になる社会保障 知識補給増補版』(その1)

 でも残念ながら、日本にはフュックスやスティグリッツのような、社会保障を論じることができる一流の経済学者がいなかったように思えます。そのため、社会保障を論じる上で極めて重要である制度や歴史を知らないままに、経済学者が社会保障の世界に参入してきたために社会保障のまわりの議論が荒んでしまいました。それゆえに、きわめて容易に政治家たちが政争の具として社会保障を利用しやすい環境が生まれてしまったように思えます。この10年、日本の社会保障はこれ以上ないほどに政争の具とされてきました。その政争の過程では、現在の制度が国民に憎悪の対象として受け止められるように政治的に仕立て上げられていくわけですから、その時代に生きていたみなさんの意識の中には、社会保障へのいくつもの誤解、そうした誤解に基づく制度への憎しみが深く刻まれていったのではないでしょうか。(p.xii)


社会保障に限らず、税や官僚(公務員)、さらには行政全般に対して憎悪を生み出すような誤解と無理解が横行するようになっているのが日本の社会の特徴ではないかと私は考えている。著者が社会保障に対して指摘するように、より広く行政のあり方全般に対して議論が荒んでおり、政争の具にされやすい環境にあると思う。

こうした諸問題に対して正しい理解を広めるにはかなり長い道のりが必要であるように思われる。



 「扶養負担を表す指標――所得というパイを何人で生産しそこで生産されたパイを何人に分配するのかを表す指標――として最も適切なものは中高校生の教科書に図示されているような65歳以上の高齢者に対する65歳未満人口の比率ではなく、就業者1人当たりの人口であるということは「論理的、学問的にはすでに決着がついている」」と書いています。(p.2-3)


確かに。65歳以上であっても働いている人が多ければ、単に65歳という年齢で区切っても意味はない。



(前略)質問している記者は、207兆円の1割から2割、すなわち約20.7兆円から41.4兆円、1万円の束で207キロメートルから414キロメートルに関する質問をしていると思うのですけど、いつの間にか、50センチ、すなわち5,000万円の話になっているのが分かると思います。
 ……(中略)……。日本に蔓延している政府不信、官僚不信の源には、こうした「計数感覚」というのが関わっているわけでして、計数感覚というのは我々国民が、生活や社会保障を政治から守るために大切なセンスであるとも言えます。(p.33)


全く同感である。私が想起する所では、例えば何年か前に「事業仕分け」とか(霞が関)「埋蔵金」という言葉が流行ったことがあった。あのときに巷にあふれた議論は「計数感覚」が欠如した議論の典型であろう。あの時、私は例えば「埋蔵金などない」という議論をしていたが、誰もまともに取り合わなかったように思う。今から思い返して、何かものすごい「埋蔵金」が見つかったと言える人はいるだろうか?



 もっとも、北欧のように租税への依存が強くても社会保障の給付が安定しているところがあるではないかという意見もあります。彼の国とわが国の違いを言うとすれば、北欧などは、財政支出の中でも生産関連社会資本より生活関連社会資本を日本よりも重視する特徴があるわけですが、それは日本よりも労使関係における労働側の力が強いことが原因であったりもするわけです。(p.55)


この指摘の意味は最初よく分からなかったが、こういうことだろうか?生産関連社会資本より生活関連社会資本を政府が重視することと、労使関係との関係は、労働側と使用者側の直接の交渉力の問題というよりも、労働側と使用者側それぞれの政府に対する影響力の強さがどの程度あるかが、生産関連と生活関連の社会資本への財政支出がどちらの側に重点的になるかということに影響する。すなわち、日本のように使用者や資本家(投資家)が政府に行使できる影響力が強ければ、企業が生産を行うための生産関連社会資本が整備されやすい。これに対し、労働者の政府に対する影響力が強ければ、個々人の生活をより直接サポートする方向で財政支出するように働きかけるから生活関連社会資本の側により多くの支出がなされる。この点に対する説明をもう少し詳しく知りたい。



 なお、小さな政府とは奢侈品が豊富にある社会であり、政府が大きくなるにつれて奢侈品が減り生活必需品が増えていく――日本は、今でさえ「小さすぎる政府」であるため、「ある程度大きな政府」にした方が、確実に住み心地のよい社会になる。(p.89)


政府の財政規模と奢侈品・必需品の多寡という問題はあまり考えたことがなかったが、言われてみるとそうだ。例えば福祉や教育のサービスなどに財政が使われる方が、このための費用を税で徴収せずに自由に使途が決められる場合、確実にこれ以外の奢侈品に使われる分の金が発生するだろう。

日本が小さすぎる政府だというのも私も10年以上前から言い続けており、もっと財政規模を大きくした方が生活はよくなると考える点は権丈氏と同意見である。


北村崇教、本郷敏志 監修 『北海道「地理・地名・地図」の謎』

 北海道の地名の多くがアイヌ語に語源を持つことはよく知られているが、そのアイヌ語由来の地名の多くが「川」に関するものだということはあまり知られていない。これはアイヌの人々の生活の中心に「川」があったことによる。アイヌの人々にとって「川」は重要な食料のありかであり、通行のための道でもあり、地域の目印としての役割も担っていたため、その特徴を示す名前がつけられたのだ。(p.12)


言われてみれば、確かに川や水に関係する語源が多い。本書が指摘するように、「●●別」はアイヌ語の「ペツ」に由来し、「●●内」はアイヌ語の「ナイ」に由来するが、いずれも川である(ペツの方が比較的大きな川で、ナイは小さな川を指すことが多いらしい。)。



 1890(明治23)年に、現在の砂川・歌志内に奈江村が設置されているが、同じころ、砂川がオタシナイと呼ばれていたという記録も残っており、1891(明治24)年に北海道庁から刊行された「北海道鉱床調査報文」のなかの地図で現在の砂川市街は「歌臼内」と表記されている。音訳と意訳の両方が現在の砂川市を指す名称として使われていたのである。音訳と意訳を使い分けるようになったのは1891(明治24)年の鉄道開通の際に、砂川駅と歌志内駅が設置されたのがきっかけである。(p.36)


砂川と歌志内は「オタウシナイ」の意訳と音訳であるという。鉄道の駅が地名を決めるというパターンが結構見られるようだ。北海道の場合、開拓の進展と並行するようにして鉄道が普及していったため、地名をつける時期と鉄道の駅を設置する時期が重なっていたことが駅名が地名を確定させる効果を持ったのではないか。



1874(明治7)年に制定された屯田兵制度は、明治維新後の廃藩置県で失職した武士たちの救済策でもあった。そのため屯田兵への応募は当初士族出身者に限られていたのだ。士別は、この屯田兵が開いた最後の町なのである。(p.38-39)


武士が開いたから「士」をつけているという説。



 曽田氏は北海道の北見・札幌、千葉、長野、岡山の五ヶ所で栽培を試みた。そのうち札幌で育てたラベンダーが発育状態や色、香り、すべてにおいて最良だったために、1940(昭和15)年に、札幌市南区南沢に農場を作って栽培を開始したのである。つまり、ラベンダー発祥の地は、富良野ではなく札幌だったのだ。
 農場設置から二年後、曽田氏は日本初のラベンダーオイル抽出に成功している。
 戦時中は、食糧増産のため、多くの畑が転作を余儀なくされたが、戦争が終わると、ラベンダーオイルの生産が本格化し、南沢のラベンダー園には周辺から多くの見物客が訪れるようになったという。
 やがてラベンダーの苗は、富良野をはじめとする北海道全土に移植され、北海道のあちこちで花を咲かせるようになった。ところが、昭和40年代にラベンダーオイルの輸入自由化が決定すると、ラベンダーオイルの価格は急落。ラベンダー園は次々と閉園に追い込まれてしまったのである。
 札幌の南沢ラベンダー園も1972(昭和47)年に閉鎖され、富良野のラベンダー園も、わずかひとつが残されるのみだったのが、1976(昭和51)年、国鉄(当時)のカレンダーに富良野のラベンダー畑が採用されたことで一躍その存在が全国に知れ渡り、多くの観光客が訪れるようになったのだ。以後、富良野ではほかのラベンダー園も復活し、今では観光の目玉となっているのである。(p.48-49)


ラベンダーを栽培してオイルの生産をしていたが輸入自由化でラベンダー畑が閉鎖されていく中、国鉄のカレンダーをきっかけに富良野のラベンダーが観光産業としてブレイクしたという流れは興味深い。



 しかし、同じように欧米に倣ったとはいえ、札幌と旭川や帯広では、街の様子が少し違っている。旭川や帯広には、碁盤の目のように南北・東西に伸びた道路とは別に、斜交する道が組み入れられているからだ。
 この違いは、札幌の建設を担当した開拓使判官の島義勇が、当初、中国の長安や日本の平安京のような東洋風の街をイメージしていたことによる。ところが、島は1870(明治3)年に罷免され、当時開拓使のトップだった岩村通俊がアメリカ式の都市計画を推し進めた。そのため、札幌は、東西路は「南一条」、南北路は「西一丁目」といった京都風の名称がある一方、当初は道に「札幌通」や「石狩通」といった名前をつけるアメリカ風のネーミングが採用されるなど、和洋折衷の様相を呈していたのである。
 一方、旭川や帯広は、全面的にアメリカの都市をモデルとして造られた町だ。それは、これらの町を計画したのが、アメリカのミシガン大学、ニューヨーク大学で学んだ経歴を持つ時任静一という人物だったからである。(p.86)


これも面白い。「札幌通」などの名称が「アメリカ風」というのは今まで気づかなかった。



 北海道は炭酸飲料の消費が非常に多い土地である。2008(平成20)~10(平成22)年の一世帯当たりの炭酸飲料の年間消費額は、札幌市が4165円で全国二位。全国平均の3276円を大きく上回る結果である。(p.136)


これは何故だろうか?



 明治はじめの開拓期、多くの欧米人が開拓に協力するために北海道を訪れている。その影響で札幌近郊ではキリスト教がよく広まっていたという。そのため、キリスト教由来の行事であるハロウィーンと七夕が混ざり合って「ろうそくもらい」の行事ができあがったのではないかというわけである。(p.138-139)


興味深い説。



 そもそも北海道の主要道路は、未開拓地を整備していった関係で、家々が集まり町になったところに道路をつくったのではなく、道路をつくったところに人や家が集まって町を形成してきたという歴史がある。そうした事情から、北海道には広くてまっすぐな道が多いのである。(p.166)


なるほど。



とくに上川方面の開拓を早く進めたいという目論見があった北海道庁では、上川方面の開拓をスムーズに進めるためにも上川道路(国道12号線)の建設が急務であると判断したのだ。こうして樺戸集治監の囚人500人が動員され、国道12号線の原形となった上川仮道はわずか95日間で完成している。(p.167)


思うに上川方面の開拓を早く進めるというのは、北海道という島の支配を固める(ロシアの南進に備える)にあたっての軍事的な必要性があるという判断に基づくものと思われる。なお、囚人労働が北海道の開拓でもそれなりに多くあったということはよく銘記すべきことである。


越野武+北大建築史研究室 『北の建物散歩』(その2)

 卯建は、江戸中期ごろ、いったん見られなくなり、江戸末期から再び登場し、明治から大正、昭和初期にかけて全国で見られるようになった。北海道でも、小樽や函館などで見られたが、中でも小樽市内の川又商店の袖卯建は逸品といえる。朝日、鶴、松、亀など日本的題材を浮き彫りにした華やいだその卯建には、防火上の機能を越えて、店主の普請への気負いが伝わってくる。
 この建物(明治38年建設)は、色内一帯を焼き尽くした明治37年(1904年)大火の復興建築第一号という。「大火ごときに負けるものか」という小樽商人の底力を、こんな形で表現したのかもしれない。(p.129)


うだつが一時期見られなくなったのは何故なのか?これは少し気になる。川又商店のうだつは、確かに立派なものだが、あまり細かいデザインまでしっかりと見たことはなかったので、次回訪れる際には少し注意してみてみたい。



 といっても木骨石造はれっきとした舶来の建築手法である。江戸前土蔵造り風が大勢だったとはいえ、中にはいくつかモダンな洋風の店を建てる者もいた。
 堺町筋の岩永時計店はその代表格だ。明治29年(1896年)の落成。もうひとつ、入船通りに明治32年に建てられた佐々木銃砲店も、バルコニーやドーマー窓を付けた洋風の建築だったが、今ではあまり面影がない。
 時計と鉄砲というのは妙な組み合わせだが、明治にあってはどちらも文明開化の花形商品だった。
 そこへいくと回船問屋とか呉服太物商といった商売は、店構えも伝統的な風情を固守する傾向がある。やはり店の建築スタイルも、扱う商品を表わすのである。(p.140)


なるほど。扱う商品が店の建築スタイルにも表れることがあるというのは面白い視点。岩永時計店は、鯱などもついており、むしろ和風のテイストも結構あるように思われ、今の感覚からするとあまり洋風と言う感じはしないが、二階中央のアーチ形の窓などは確かに洋風である。



色内通りと運河の間は、おおむね明治22年に埋め立てられており、その直後から荷揚げ営業用の大倉庫がいくつも建てられていった。(p.181)


小樽倉庫(現在の運河プラザ、小樽市総合博物館運河館の建物)や大家倉庫などはまさにこの頃に建てられている。



 ところで昔の北海道の町村には、一級と二級の区分けがあった。二級町村というのは町村長も官選だし、議会の権限、地位もいたって低いものだった。一級町村になって、曲がりなりにも住民の選挙が行われ、一人前の自治体になるのである。
 このことは町村役場の建築にも強く反映する。一級に格上げされるのと同時に、立派な庁舎を建てるケースが多い。(p.243)


一級と二級の町村ということはしばしば北海道の歴史に関する解説に出てくるが、その具体的な制度の内容はあまり説明されることはない。その意味ではもう少し詳しく知りたい問題ではある。

一級町村になると庁舎も立派になるというのは面白い。なお、以上の指摘は旧妹背牛村役場庁舎についての解説だが、他の事例も列挙してもらえて、それの実物を幾つかでも見ることができるとより実感できるのだが。あまりその時代のものは残っていないか(しいて言えば古写真で確認できるくらいではないか)。


越野武+北大建築史研究室 『北の建物散歩』(その1)

ドームは本庁舎のもとの設計にはなかったのだが、初代道庁長官(開拓使では判官だった)岩村通俊の横ヤリで付けくわえられたらしい、と想像されている。
 これがまったく無茶な設計変更だったことは、構造を見ると一目瞭然だ。ドームといっても、その下部は径7㍍余、高さ12㍍ほどの重いれんが壁(ドラムという)が建ちあげられている。なんとこの壁を支えるべき下部構造が存在しないのである。……(中略)……。そんなことでまともな構造になるはずもなく、果たして数年後にはガタガタになって撤去されてしまった。
 ……(中略)……。
 今のドームの構造はどうなっているか?実は目立たないように鉄筋コンクリートの構造で脚部を支え、その上に軽い鉄骨のフレームを組んで、薄いれんが壁を張りつけているのだが、こんなタネ明かしは興ざめですね。(p.44-45)


北海道庁旧本庁舎について。ドームは最初は設計に入っていなかったというのは本当だろうか。ただ、最初のドームは維持できなかったというのは有名な話ではあり、この原因は支えるための構造が欠けていたからだというのはそうなのだろう。



住宅の建て主、小熊捍も太秦康光も北海道帝国大学理学部の教授であった。田上のような初期のフリー・アーキテクトの手になるモダン住宅が、こうした知識人パトロンによって支えられた事情がよく分かろう。(p.50)


小熊邸(移築して現存)は昭和2年、太秦邸(現存しない)は昭和5年の建築。同じ頃に小樽に建てられた坂牛邸(現存)や坂邸(焼失)などのオーナーを見ると、坂牛は小樽新聞社の重役だった人であり、坂は炭鉱会社の経営者だったということからなどからすると、知識人パトロンと本書では言われているが、大学教授のような知識人だけに限られない、当時の地域エリート層がフリーアーキテクトのパトロンだったという位の言い方の方が妥当であるように思える。

大正から昭和初期という日本にとっては経済がかなり順調だった(ように見えた)時代であり、中産層的なサラリーマンなども増えていき、生活も次第に洋風化が進んでいくなど、中間層も次第に台頭しつつあったが、それだけではなく富裕層への富の強い集中が世界的に見られた時代でもある。資産によって生きる超富裕層というより、高額の給与や報酬により生活する人々の個人邸宅を田上は建てたということだろうか?当時のフリーアーキテクトのパトロンは誰だったかという問題は調べてみる価値がありそうな問題である。



 北大構内に、ローマ時代の大浴場で使われた窓と同じ形のものが見られる。えっと思われるだろうが、北大付属図書館横に建つ古河記念講堂(明治42年建築)のしかも正面意匠に堂々と使われている。中央二階の上げ下げ二連窓の上にみられる、半円形の中に二本の縦がまちをみせた窓の部分で、建築学的にはテルマエ窓という。(p.60)


古河講堂の設計に当たり、建築家は直接はどのあたりからテルマエ窓を使うというアイディアを持ってきたのだろう?当時のヨーロッパでよく使われていたのだろうか?この建築はマンサード屋根などフランス風というイメージがあるが、当時のフランスでそれなりにポピュラーだったのだろうか?



 こうした楽しさは内部でも発揮され、玄関で最初に目につくアールヌーボー風の円形欄間のサッシは、よく見ると林学の「林」という字だ。教室の両開き扉の桟は「林」だし、片開きの桟が「木」なのもご愛嬌だ。
 設計は文部省建築課札幌出張所技師というお固い職名の新山平四郎。氏は明治2年(1869年)茨城県生れ。29年に文部省入りし、36年同省札幌出張所に赴任、中條精一郎技師のもとで札幌農学校の移転新築工事にたずさわった。40年に札幌出張所所長となり、東北帝大農科大学(現北大)新築工事を42年まで担当。在任中、小樽高商(現小樽商大)本館(明治45年竣工)も手がけた。(p.62)


古河講堂についての記述の続き。林学教室として建てられたので「林」や「木」をデザインに織り込むとは面白い。

設計者の経歴も興味深い。古河講堂と小樽高商の建築が同じ設計者というのもあまり考えたことがなかった。



 小樽新聞社は、北海道のジャーナリズム史に大きな位置を占めるが、社屋も小樽における木骨石造建築の発達という視点から、大変注目すべき建築だ。倉庫や商店にひろまったこの構造が、この時期、つまり鉄筋コンクリート構造が普及する直前に、中規模のオフィスビルに適用されたのである。ただ残念なことに、移築に際して内部の木骨軸組が鉄筋コンクリートに変えられている。明治42年(1909年)の建築。(p.114-115)


 小樽新聞社の社屋は現在、北海道開拓の村に移築されている。ここを訪れた時、私もこの建物を見たことがあるが、木骨石造がいかにも小樽らしいと思う反面、変な違和感を感じたことを思い出す。本書の指摘を踏まえてその違和感の原因を言うとすれば、中規模オフィスビルに適用されていることに由来するものだった。三階建ての縦に大きな建物であることに違和感を覚えたのである。木骨石造でも大家倉庫や右近倉庫、小樽倉庫などそれなりに大きな建物は古くからあった。しかし、これらの建物の大きさの多くは大きな平面を持っているという大きさであった(大家や右近などは更に天井も高いが、全体として見れば横方向に大きい)。それに対して、小樽新聞社のように平面の面積はそれほどでもないのに三階建てという高さがある木骨石造というのはほとんど見かけない。このことが違和感を感じさせていたのである。

大正中期になると鉄筋コンクリートが普及してくるので僅か10~15年程度の期間限定の作例と言う意味では貴重な作品である。


渡辺悌之助 『小樽運河史』

 運河はこの場合、これらの艀船を収容する波静かな溜り場であったが、また海陸運輸の通路として既存の倉庫はもとより新らたに埋立地に建つ倉庫や上屋を極度に利用すると共に従来の繋舟岸を三倍にして、荷役の能率をいちゞるしく高めた。
 然も埋立地を造成するに当って、海底の土砂を浚渫してこれに充てたから水深を増すに一挙両得であり、また工事に当っても常に運河と航路の水面を保ちつゝ一区より順次に施行したことは、倉庫・荷役の工事中に蒙る障害を軽減するものとして運河式埋立の利点とされた。(p.98)


「従来の繋舟岸を三倍」にするとは、本来の陸地にある岸、運河の陸側、運河の海側と3つの岸ができるため三倍の艀を留めることができるということだろうか。

海底の土砂を浚渫して海側に埋立地を造成したので、水深を増すというメリットもあったという。大型の船が停泊できるかどうかという点(そのための一つの要素として水深が十分かどうかという問題)は、北海道の西側の海岸を見る限りではかなり重要な問題であったと思われる。

さらに、運河と航路の水面を保ちつつ一区から四区へと順次に施行したため、工事中でも利用可能な岸が常にある状態だったため効率をあまり下げずに工事が出来たという指摘も興味深い。本書を読んで最も参考になったことの一つは、こうした一区(現在の北運河の端の部分)から四区(現在の浅草橋より札幌側の今ではほとんど埋め立てられた部分)まで順次施行されたという経過が認識できたことである。それぞれの地区に残っている倉庫や歴史的建造物の古さなどもこうした工事時期と関連している。



設計の変更五度び18年の長きに及び、工事施工に着手して更に10年、合せて28年の長年月を要した運河の出現は、遅きに失して、世界の趨勢から置き去られたのである。(p.118)


小樽運河が竣工後まもなく時代遅れのものとなったのは確かである。しばしば言われる運河方式を推奨した廣井勇の判断は、ある意味では誤っていたのではないかと私は考えている。(すなわち、彼は物流のための手段として埠頭より運河が望ましいと考えたのだろうが、埠頭方式にした方が明らかにその後の流れに適合的である。)

ただ、戦後を含めた現在までの経過から見ると、当時は思いもよらないような形で観光資源となっており、そうした町の資産を大切にしていこうとする立場から見ると、廣井という権威が推奨したものだということを肯定的に評価しようという気になることは理解できる。



 商船が入港し繋留する対岸の陸地に、貨物を収受し出荷する倉庫の必要になることは当然であるが、小樽の場合、明治14年の金曇町大火を境に町勢が西に移動したゝめ従来、勝納有幌沖に懸っていた船舶が入船川を越えた以西の手宮湾に集中するようになり、この方面に営業倉庫の群落を見るに至った。(p.123)


なるほど。



右近倉庫-図51に就いては、大正7年運河工事進捗中に動議が出て、既に埋立の了った右近倉庫前を再び掘り返えして運河にするという案が出て揉めたことは、第三章一の(三)に述べた通りである。(p.174)


小樽運河の設計と施工の間の議論のグダグダぶりは確かにかなりひどいものがある。



 仲川以南いまのトンボハイヤーの在る辺りは、もと日本郵船発祥の地として此処に船入場があり、郵船橋が架かり、周囲に郵船の荷捌倉庫(40より41にいたる11棟)が密集した処である。(p.175)


郵船の倉庫が密集というのは、この会社の当時の小樽でのプレゼンスの大きさが反映しているように思われる。



日本郵船の船入場がいつ出きたのか不明であるが、明治27年実測小樽港図7には既に見えており、おそらくは小樽支店の設置(明治18年)と共に造られたものと思われる。
 またその閉鎖埋立に就いては、市の港湾部にのこる記録として、昭和31年7月1日から18日まで、郵船澗の面積2,100平方メートルに渉って工事ひ31万7千余円で浚渫工事を行っていることから、埋立は博物館の開館(昭和31年6月)以後である。
 因みに博物館の建物である旧日本郵船小樽支店(国指定文化財)は、明治38年11月この船入澗に面して再築されたものである。(p.176-177)


現在、この船入澗は埋め立てられて運河公園として整備されているが、いつできたか不明だと言われると妙に知りたくなる。本書は今から40年近く前に書かれた本(1979年)であるため、恐らく現在は建築年代くらいは分かっているのだろう。調べてみたい。



後藤治+オフィスビル総合研究所「歴史的建造物保存の財源確保に関する提言」プロジェクト 『都市の記憶を失う前に 建築保存待ったなし』

古社寺保存法の時代は、寺社の建物が危機に瀕しており、それのみが対象だったが、それが国宝保存法にかわると、城郭建築の保存に力点が置かれるようになった。そして、文化財保護法の施行後は、昭和30年代に入る頃には、危機に瀕した民家建築の保存が叫ばれるようになり、その後に全国の調査が進み、昭和40年代に多くの民家建築が重要文化財に指定された。また、昭和30年代中頃には、昭和42年に明治維新から100年を迎えることもあって、明治年間に建てられた洋風建築の保存が叫ばれるようになり、同じく昭和40年代にその重要文化財指定が進められた。(p.125-126)


建築保存の対象の変遷は興味深い。古社寺保存法は明治30年に施行された法律であり、国宝保存法は昭和4年に施行、文化財保護法は昭和25年施行である。昭和30年代に民家建築や明治洋風建築などの保存が叫ばれるようになったのは、高度経済成長の時期に入り、次々と建物が建て替えられていくことで、かつての建物が壊されていき、景観も大きく変わってきた時代だったということが背景にありそうである。



長い歴史をもつ先進諸国の首都のなかで、保存地区が存在しないのは東京ぐらいのものである。(p.129)


ヨーロッパを基準として見ると確かにこの点は際立っているかもしれない。ロンドン、パリ、ベルリン、ローマなどいずれも歴史的な地区や景観が残っている。

いわゆる先進国でないところも入れるならば、北京やカイロなどが私が訪れたことがある中では想起される。北京は今ではかなり古建築の破壊が進んでいそうな気はするが、故宮や円明園などのような史蹟まで完全になくしたりはしないだろう。(なお、イスタンブールは首都ではないが、経済的にはトルコでは最も発展した都市であるが歴史的地区も残っていることなども付記しておこう。)
関根健夫 『こんなときどうする 公務員のためのクレーム対応マニュアル』

便利な社会になればなるほどクレームの種は増えるのです。
 行政に対するクレームも同じです。かつては行政に対する感覚として、よくも悪くもあきらめがありました。例えば「どうせ言っても変わらないだろう」「皆と同じなら仕方がない」などといった感覚です。しかし、日本は豊かな社会を実現し、役所もそれに応えてきました。さし当たって生きる不安はありませんが、誰もがもっとよい生活をしたいと思っています。誰もが平等であり、自分の主張する意見をもっと認めてほしいと思っています。そういった環境にあって、自分の意見を主張したいという気持ち、不満を解消し不利益を是正しようという気持ち、相手方のミスや不正を是正しようという気持ちが強くなっているのです。(p.2-3)


この議論の根拠が実証的に示されているわけではないが、それなりの説得力はある議論。特に私が注目したいのは、自分の「意見をもっと認めてほしい」と思っている人が増えている、あるいはその度合いが強まっているのではないか、という可能性についてである。ここ10年か15年、あるいは長く見ると20年程度の間に、極右とか復古主義とか呼称すべき類の主張が次第に表面化し、それに対する違和感が社会全体として麻痺させられつつあること、ネトウヨ的な暴力的な言説がネット空間を行き交い、ヘイトスピーチが行われ、こうした動きに共感を持っている人間が首相として何年も権力を恣にしている。ここ数年に何人ものポピュリストが現われ、世界的にもポピュリズム政党やポピュリストへの支持が高まってきている。こうした社会の動きは、確かに「意見を認められない」と感じる人びとの増加と深く関係しているように思われる。

その背景にはグローバル化があり、それに伴う富と影響力の偏在があり、このため、ほとんどの人にとっては政治権力に対して自身の意思を反映させることがグローバル化以前と比べてできなくなっているということがある。こうして「見捨てられた」人々の不満がたまっていることが、様々な分野に対するクレームの噴出ということに繋がりやすいというのは理解できるように思われる。



不当要求とは不当なことを要求することではなく、不当な手段を使って要求してくることを意味するのです。(p.25)


対応を判断するにあたって、このことを抑えておくことは重要。単に不当なことを要求しているだけであれば、それに対してハードクレームに対する対応までする必要はないということになるからである。



クレームでも、特にお客さまが怒っている場合、年齢がこちらより上の場合などは、会釈するように上半身を動かし、大きくうなづくと誠意を表すことができます。(p.32)


試してみたい。

この本は「公務員のための」と書かれているが、「クレーム」というものに対する考え方がしっかりしているので、必ずしも「公務員」でなくても役立つようなことが結構書いてある。ただ、「民間」向けのクレーム対策本との大きな違いは、行政のもつ公平性や公正性、いわば「正義」の問題としてクレームに対応しなければならないとしている点ではないかと思われる。



ただし、先の質問への回答も作為や強調が含まれている可能性があるので、当事者が他にもいれば、そちらの言い分も聞かなければ本当の意味での事実は把握できません。行き過ぎた作為や強調は、事実を確認する質問への回答に、矛盾した内容として出てくるものです。その場の雰囲気からでも、どの程度の信憑性か判断できるでしょう。(p.40)


複数の当事者の言い分を確認することで、より客観性の高い事実を認定できるという考え方は実務上、かなり重要だと思われる。例えば、上司として部下が最初に対応していたクレームに対応する場合も、クレームを発している当人だけでなく、クレームを受けた部下からも話を聞かなければ最適な対応はできないという格率に従って対応するのが妥当と思われる。



 いくら行政には説明責任があるといっても、それは理屈の話です。大声で威圧されたり、強迫まがいのことを言われたり、常識的な時間を超えて対応を強要されるような場面では、その状況でいつまでも説明する責任も必要もありません。説明することの義務は、正常な話し合いの場でこそ行使されるべきであり、平静が保てない場、脅迫または脅迫まがいの行為をされている場では、説明そのものを拒否することもできるはずです。(p.65)


相手方が不当要求行為をしてきた場合には、説明責任を果たす義務は解除される部分があってしかるべきという点は同意見である。今まで読んだクレーム本では、あまりこの点をはっきり書いているものはなかったような気がする。ただ、実務上は、最低限の説明は済ませたと主張できる程度のことまでは言ってから打ち切るのが理想的だろう。



向こうが一人ならこちらは二人、向こうが二人ならこちらは三人、というように、できれば一人多くの職員で対応します。これなら心強いし恐怖心も軽減されるはずです。
 また、はじめから大声を上げる、こちらを威圧するようなクレーマーなら、まずは1~2名で対応し、あまりにひどいようならその回りを職員5~6人でそれとなく囲むようにします。……(中略)……。それ以上に無茶なことができないように、人の目で監視するわけです。明らかに犯罪と思われる行為を行った場合でも、複数の人の証言が得られるようにしておきます。(p.77)


これはハードクレームに対する対応策についての記述だが、相手方より1人多い人数で対応すべきというのはなるほどと思わされた。個人的にはあまり複数での対応は好まないが、一般論としてはこうした形での複数対応は有効だろう。



途中からクレームに同席する場合、その当初は中立の立場を取り(装い)、次の手順で相手を落ち着かせてから説明に入るようにします。(p.80)


基本。



 クレームがあまりに長引く場合、ある程度の時間をかけて対応したら、勇気を持ってお引取り願うことは有効です。……(中略)……。
 一つの考え方として、相手が同じことを5回主張したら十分、というのが現実的ではないかと思われます。(p.86-87)


なるほど。3回程度までは普通でもしばしばあるので、それを明らかに超えた回数として5回ということだが、現実的なラインであるように思われる。



「私どもは、すべてのお客さまに同様のサービスを提供することが誠意だと考えております。一部のお客さまに例外を認めることを、誠意とは考えておりません」(p.93)


「誠意を見せろ」と言われた場合に対する回答の例として挙げられているが、こうした公正さに対する考え方が前面に出ている点が、先にも述べたが本書が公務員向けとして書かれていることによる特徴的な点だと思われる。



大声を出す人は、それを圧力として、クレームでの自分の立場を優位に置こうとしているわけです。
 ……(中略)……。
 あまりにひどいようなら、威力業務妨害罪に当たることを視野に入れて冷静に記録を取ります。(p.104-105)


こうした態度をとる人というのは、行政や企業というものが個人に対して反撃に出ることはないと甘く考えているのだろう。自分は「市民・国民」や「お客さま」であり、行政や企業には自分の方が優位にあるものとして対応しなければならないと勝手に思い込んでいるように見える。しかし、不当な方法による要求は犯罪行為に当たることさえある。企業よりも行政の方が、むしろ風評による売り上げへの影響のようなことを気にする必要がない分だけ不当な要求に対しては強く対応できると思われるということを考えると、やはりこうしたやり方でのハードクレームは賢いやり方とは思えない。



「帰ってほしい」と言わなくては、居座りは成立しません。閉庁時刻を過ぎても理由なく居座るのは、不退去に当たります。「電話を切らせてほしい」と言っても「切ってはダメだ」と言うなら、回線の占有、業務妨害です。「帰りたい」と言っているのに、帰してくれなければ監禁です。(p.106)


しつこいクレームも犯罪に該当しやすい行為である。対応する側もそのことを十分理解して対応すると心に余裕を持って対応できるように思われる。



「大変、驚かれたことと思います。申し訳ございません」(p.177)


客観的な事実確認が取れていない段階では、こうした相手方の感情の動きに対してマジックフレーズとして謝罪のフレーズを使うというのは適切なやり方と思われる。このフレーズは機会があれば使ってみたい。



 上司を呼ぶタイミングに決まりはありません。あまりに早く上司が出て、説明を始めてしまっては担当者の存在の意味がありません。かといって、そこに上司がいるにもかかわらず、何が何でも出ませんということでは、お客さまは誠意を感じないでしょう。
 上司を呼ぶタイミングはお客さまが怒りを覚える前に、できればこちらから意図的に呼ぶのがよいと思います。「この問題は重要なので、上司を同席させてください」「私の一存では決められませんので、上司を呼びます」などと理由をつけて呼ぶようにします。(p.178)


「上司を出せ」というよくある主張に対する対応。相手の主張の内容と上司が実際普段行っている業務内容などによっても、このあたりの対応の仕方は変わってくる。さらに言えば、上司の仕事上の力量がどの程度あるのか、ということによっても最適解は異なってくる。そうしたことを踏まえて事前に組織の中で議論しておくのがよいのだろう。

本書は行政従事者向けの実務的な本だが、一般の民間企業向けのクレーム対策本との考え方や対応方法の違いなどにも注目すると、行政の役割や位置づけなどを考える上でも大いに参考になる。