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アヴェスターにはこう書いている?
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「ツァラトゥストラはこう言っている?」の姉妹編。日々読んでいる本から気になった箇所をピックアップして自由にコメントするブログ。

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マルクス・ガブリエル 『世界史の針が巻き戻るとき 「新しい実在論」は世界をどう見ているか』

境界線がぼけていることは現代のイデオロギーです。事実とフェイクの境界線、フィクションと事実の境界線などがぼけているという考えは、ポストモダンの哲学的思考の結果生まれたものです。
 そして今世紀に何が起きたかというと、右派政党が哲学左派の哲学的ジャーゴンを乗っ取ったのです。簡単に言うと、1990年代のフランスの理論や世界中で起きた他の理論が、保守的なイデオロギーという袋の中に一緒くたに入れられてしまったということです。(p.47)


安倍政権の言動と通じている。安倍政権では自身の権力維持にとって不都合な事実についてはなかったことにしようとし、あまり政治に関心がない人々から見たときに、悪いイメージを持たれないようにイメージ操作をしようとする。長期政権を維持している要因は徹頭徹尾これしかないと言ってもよい。政権がそのような言動をしていることに対して、厳しい批判が出にくい社会的雰囲気となることに、ポストモダンの考え方は力を与えている。



 人から人間性を奪うには、二つの方法があります。一つは相手を悪だと思うことで、もう一つは相手を善だと思うことです。本来なら善悪などありません。相手も自分と同じ、ただの人間なのですから。
 2015年、ドイツは移民の歓迎ムードに浸っていました。誰もが移民を手放しで歓迎していましたが、私は当時からその愚かさを指摘していました。……(中略)……。
 移民をむやみに歓迎することは、移民の人間性を奪うことにつながります。移民の人間性を保つためには、彼らが難民だとは気づかれないようにするべきなのです。(p.82-83)


相手を善だと思うことで人間性をはく奪するという点はなるほどと思わされる。日本では天皇や皇室の人々が、こうした仕方で人間性や人権を奪われているが、これも上記の移民歓迎と同じように愚かであると思われる。



我々は民主主義の本質とその価値を理解しなければなりません。緩慢な官僚的プロセスが善であることを理解しなければなりません。
 ……(中略)……。結果までの過程で、この民主的な制度が「何かうさんくさいことが行われていないか」とチェックするからスピードが遅くなるのですが、我々はその手続きを是認するべきです。我々は、事が即自分の思い通りにいかない世界に生きていることに満足しているというべきなのです。それが民主的思考です。
 非民主的思考というのは、「これが消えてほしい」という考え方です。(p.104-105)


安倍晋三が彼にとって都合の悪い意見や質問に接しているときの表情や言動を見ると、彼がいかに非民主的な思考に漬かっているかがよくわかる。

ガブリエルの言うように人々は緩慢な官僚的プロセスが善であるということを理解すべきである。安倍晋三が行っている様々なこと(森友問題、加計問題、桜を見る会、そして最近の学校一斉休校の性急な決定)を見れば、「何かうさんくさいことが行われている」ことは明白である。それを許している(というより現行制度の下では適切な批判が機能しないという面が大きい)ことが、日本という社会をどんどん非民主的な方向へと進めている(この7年間で極めて状況は悪化した)。この悪影響は、おそらく5-10年程度後になって誰の目にも明らかな悪として現れるのではないかと考えるが、その時には、安倍政権が行なった悪行と結び付けて認識されないか、それに気づいた時にはすでに手遅れとなっているのではないか、と危惧する。



 ですから、明白な事実を考慮に入れることは、民主的制度の役割であるべきです。明白さを否定してはいけません。独裁主義は明白さを否定します。スターリン時代の見せしめの裁判で明白だったのは、裁判がなかったことです。裁判のように見えていただけで、明白さを否定していました。だから、スターリン時代は民主的ではなかったことがわかる。事実ではないことを誰もが知っているのに、実際に起きているふりをしていたからです。(p.106)


森友問題の文書改竄について、近畿財務局の自殺に追い込まれた職員の手記が公表されたが、安倍政権は明白な事実を否定している。こうしたことからも安倍政権は非民主的であり独裁政治を行っていることは明白となっている。この明白な事実を多くの人が認める必要がある。



ポストモダン思想には批評のパワーはありません。ポストモダン思想が唯一批判するのは、非常に独善的な考えを持った人や、非常に強い信条を持った人、それだけです。むしろ反対にポストモダン思想が批判できないのは、統計しか信じないフレキシブルな人です。(p.148)


ポストモダン思想には批評のパワーがないというのは的確な指摘と思われる。独善的な決めつけに対しては相対化するという程度のことはできるかも知れないが、それ以上のことはできない。


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ダン・アリエリー、富永朋信 『「幸せ」をつかむ戦略』

ソーシャルメディアでは、すべての人が自分のことを過度にポジティブに描き出している。フェイスブックにケンカについて投稿するカップルがどれほどいるでしょうか。あまりないことです。ソーシャルメディア上ではすべての人が自分より幸せだと考えるバイアスがあるということです。(p.52-53)


確かにこのバイアスは間違いなく存在する。



研究室では、正しいプロセスを経たら、その人はとても良い仕事をしたんです。私としては、プロセスではなく結果に報いるようなことはしたくない。ちなみに、これは人に不正直になるインセンティブも与えるんですよ。(p.120)


結果に報いることは人を不正直にする誘因になるというのは、安倍政権における官僚や閣僚などの言動を見るとまさにその通りだと思える。

安倍政権では正しいプロセスを踏むことを蔑ろにしていることは疑い得ない事実である。森友問題、加計問題、防衛省(自衛隊)の日報問題、IR汚職、桜を見る会、そして政権に近い検事長の定年延長問題などなど、いずれもプロセス自体にも問題があるが、安倍政権はこれらの事柄に関する情報開示の内容や方法なども、適正なプロセスを経ているとは到底言えない異常な対応を続けている。そして、その際、閣僚や官僚たちが極めて不誠実な答弁や回答を繰り返していることは明白な事実である。

余談だが、検事長の定年延長問題はIR汚職問題や河合克之・案里両議院の公職選挙法違反の疑惑とリンクしているものと推測する。これらの政権に不利な問題について、政権の不利になる度合いを減らすように働きかけることが目的ではないかと思われる。もちろん、政権側の意図や目的を明白に知ることは困難であり、しかもそれを知られたくないと思っているわけだから、立証することはできないが、裁判などの推定無罪の原則とは異なり、政府は、様々な疑問や疑念に対して政府の側こそが疑いを晴らす義務を負っている(それが有権者からの負託に対する説明責任を果たすということである)のであって、説明責任を果たさないということは有権者の権利行使を代表しているとは言えないということであり、権力の濫用をしているということになる。



ターリ・シャーロット 『事実はなぜ人の意見を変えられないのか 説得力と影響力の科学』

 実のところ、今日の私たちは押し寄せる大量の情報を身に受けることで、かえって自分の考えを変えないようになってきている。マウスをクリックするだけで、自分が信じたい情報を裏づけるデータが簡単に手に入るからだ。むしろ、私たちの信念を形作っているのは欲求だ。だとすれば、意欲や感情を利用しない限り、相手も自分も考えを変えることはないだろう。(p.14-15)


インターネットによる情報の流通が、人々の「事前の信念」を強化する機能を果たしており、その信念に反する事実を提示したとしても、それを否定しようとする論を容易に目にすることができ、欲求に答えてくれるそうした論によって「事前の信念」がより強固なものとなってしまう。世論の分断などもこれによって強化されている面があると言えそうである。



死刑を強く支持していた学生は、有効性が立証された資料をよくできた実証研究と評価する反面、もう一方を不用意で説得力のない研究だと主張した。そして、もともと死刑に反対していた学生はまったく逆の評価をした。最終的に、死刑支持者は極刑へのさらなる熱意を抱いて研究室をあとにし、死刑反対論者はそれまでより熱い思いで死刑に反対するようになった。この実験によって、物事の両面を見られるようになったどころか、意見の両極化が進んでしまったのだ。(p.22-23)


意見が分かれる問題に対して両論併記をすると、この実験のように意見の両極化を進めてしまう可能性が高い。

なお、両論併記によって物事の両面を見られるようになるためには、自分自身の価値観や様々な議論から距離を取る能力(メタ認知)がかなり鍛えられている必要があると思われる。ただ、これは少なくとも、現代の日本で平均的な人々に期待することができない要求である。哲学や社会学などのトレーニングはこれらを多少なりとも高める教育となり得ると私は信じるが、これらの教育が適切にされてきていないのが日本の教育の現状であり、大学を卒業した世代にはもはや追加で施すことが期待できないものである。

歴史修正主義(歴史改竄主義)などが広がりを見せるに至るプロセスでは、ディベート教育などとのリンクがあったとされているが、彼らが好む虚偽の情報をまともな学説と並記して議論させることで、虚偽の情報を正当な学説と同等の立場に置き、虚偽の情報の支持者を増やすことに繋がったことが想起される。適正な手続きを経て検証された知見であるかどうかということを、社会全体がより重視する必要がある。

安倍政権が様々なデタラメなことを行っても何一つ説明せず、むしろ説明をしないことに全力を挙げているような現状は、むしろ、上記のような偽ディベートに類似した言説(いわゆる「ご飯論法」などもこうしたところから出てきた小賢しいテクニックであろうと私は見ている)を人々が目にすることとなり、それを広めてしまっており、「適正な手続きを経て検証された知見」を評価することにも今の社会は逆行してしまっている。)



 こうした研究結果から、「自分本位な推論は知的でない人の特性だ」という思い込みは誤っていることがわかる。それどころか、認知能力が優れている人ほど、情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなり、ひいては自分の意見に合わせて巧みにデータを歪めてしまう。だとしたら皮肉な話だが、人間はより正確な結論を導き出すためではなく、都合の悪いデータに誤りを見つけるために知性を使っているのではないだろうか。(p.32)


ここの説明で使われている事例では、数学が得意な分析的思考の持ち主ほど、都合の悪いデータを曲げて解釈したため正確な回答ができなかったという。この点はネトウヨが多い職業の一つがIT系の仕事であるという事実と符合する。

思うに、数学や工学などのトレーニングを積んだ人で、人文社会科学を十分に学んでいない人は、メタ認知を鍛える回路が弱いため、ある種の頭のキレはあっても、目的(である自らの欲求)のために知性を使うことになるのではないか。私としては、数学や工学的な知性ではなく、メタ認知が高い人と低い人で、都合の悪いデータを捻じ曲げる度合いがどの程度違うかという実験結果を知りたいと思う。(ただ、この点に拘ってもそれほど良い解決策は期待できないとは考えるが。)



 もしもあなたがツイッターの熱心なユーザーだったらご用心。ツイッターを利用することは、日常生活において最も感情を刺激する行為の一つだからだ。これがあれば運動いらず?――ツイッターは脈拍上昇、発汗、瞳孔拡大(すべて興奮状態の指標となる)を促すことが研究で明らかになっている。単にウェブを閲覧しているときに比べて、ツイートやリツイートをする行為は、感情の高まりを示す脳活動を75%上昇させるという。ツイッターのタイムラインを読むだけでも、65%ほど上昇するそうだ(注・これはツイッター社が独自の目的のために出資した研究であり、論文審査は受けていない)。私の頭の中には、ツイッターは「インターネットの扁桃体」ではないかという考えが前々からあった。メッセージの短さ、伝わる速さや範囲の広さなど、扁桃体の役割を果たすのに必要な材料がすべて揃っているからだ。ツイッターが元来もつこうした特徴は、人間として生きるうえで大いに必要なフィルターを迂回し、感情システムに何度も働きかける(ダニエル・カーネマンが「速い思考」、「遅い思考」と名づけたことで有名になった理論である)。このツールは有益な情報を伝達するのに役立つかもしれないが、一方で人間の慎重ではない側面を助長してしまう。(p.61)


ツイッターに限らず、SNSの持つ問題点を指摘しているように思われる。



 スタンフォード大学のアレクサンダー・ジェネブスキーとブライアン・ナットソンは、オンライン上での資金募集1万3500件を分析した。その結果、ネガティブな写真よりも、ポジティブな感情を喚起する写真(特に笑った顔)が依頼文に添えられている方が資金提供を受けやすいことが判明した。(p.83-84)


クラウドファンディングの際にも、内容以外のものが影響している。



 他人に影響を与えるためには、コントロールしたいという衝動を押さえ込み、相手が主体性を必要としているのを理解することだ。人は自分の主体性が失われると思ったら抵抗するし、主体性が強まると考えたら、その経験を受け入れ報酬とみなすものだからだ。(p.105)


簡単ではないが、その通りではある。



 皮肉に感じるかもしれないが、他人の行動を変えたければ、コントロール感を与えるべきだ。主体性を奪われたら、人は怒り、失望し、抵抗するだろう。社会に影響を与えることができるという感覚が、意欲や順守率を高めるのだ。実験の参加者は実勢にコントロールを任されたわけではなかった――自分たちの税金を何に使ってほしいか尋ねられただけなのだ。それでも、彼らの行動を変えるには十分だった。選択肢を与えられたら、たとえそれが仮定の話でも、コントロール感は増大し、それによって人々の意欲は高まるのだ。(p.108)


選択肢を与えるというやり方によって影響を与える方法は興味深い。日常生活でも試してみたい。



たとえその情報をうまく利用できないとしても、人間には知識のギャップを埋めたいという欲望がある。情報不足は人を不安させるが、ギャップを満たすことで人は満足感を覚える。(p.135)


情報不足は人を不安にさせるというのは、今流行の新型コロナでも見られる。マスク不足やトイレットペーパーなどの買い占めが起こるのもこうした不安の高まりがある。



 人間は、報酬を得たり苦痛を避けたりすることに意欲的だ。しかしそれだけではなく、これから訪れる報酬や苦痛を信じることにも意欲を燃やす。なぜなら信じることは、実際の出来事と同じように人を幸せにしたり悲しくさせたりするからだ。……(中略)……。結果として人は選択的になり、心地良い信念を形成してくれる情報で心を満たし、不快な考えをもたらす情報を避けようとする。(p.140-141)


歴史修正主義や「日本スゴイ」言説が受け入れられてしまう条件の一つ。



 私たちは自分を気持ち良くさせてくれそうな情報を知りたいがゆえに、悪い知らせよりも良い知らせを探し求める。ミュージカル調の機内安全ビデオに行き着いた航空会社のように、ポジティブな観点からメッセージを伝えれば、人はより聞く耳をもち、結果として影響を受けやすくなる。逆に悪い知らせが来そうなときは、たとえ無視することで自分を傷つけるとしても、そのメッセージを避けるものである。(p.143)


なるほど。



次は編集部によるコメント。

 ところで、事実で人の考えを変えられないということは、裏を返せば、事実でないもので人をコントロールできることでもあります。禁煙の世界的な傾向として、本来であれば社会を良い方向に導くべき各分野の権力者たちが、こぞって不都合な事実を隠蔽する一方で、マスメディアやインターネットを利用して大衆の感情をうまく誘導しようと画策している印象を強く受けます。そして私たちの多くは、まんまとその戦略に乗せられてしまっているようです。小説家のバーバラ・キングソルヴァーはかつて「蛇と戦うには、その毒を知らなくてはならない」と述べました。私たちが必ずしも事実をもとに判断していないことは、人間の脳という「蛇」がもつ「毒」の一つだと言えるでしょう。本書がその毒を知る一助となることを願います。(p.262)


私が本書を手にとった動機(問題意識)と見事に同期している。こうした権力者たちの暴走を止めるには、社会運動の力が必要になると思われるが、その前段として、本書のような知識(自己認識)により「毒」が一般的に知られていくことは必要であると思われる。


中西聡 『海の富豪の資本主義 北前船と日本の産業化』

 これらの北前船主が、垂直統合経営に向かうか複合経営に向かうかの分岐点は、近世期の北海道への進出時期と進出形態にあったと考えられる。
 第Ⅰ部で取り上げた西川・酒谷・右近家は、いずれも18世紀から北海道産物取引が商業的蓄積の基盤であり、それぞれ両浜組商人あるいは荷所船主として、その利益基盤が支配権力により保護されていた。もっとも、その対価として支配権力へのかなりの御用金を負担する必要があったが、近世北海道の封建領主であった松前藩は、18世紀には北海道産物の生産・流通を商人に委ねて、運上金や沖の口口銭の形態で、間接的に収益の一部を取得する支配形態を採用したため、北海道産物の生産・流通の中心的担い手であった両浜組商人や荷所船主が直接御用輸送・御用商売を担う必要はなく、彼らの商業的蓄積は、支配権力による規制の範囲内での自由な商取引に基盤を置いていた。
 それゆえ、18世紀末以降江戸系商人の北海道進出とともに、両浜組商人や荷所船主の特権は失われたが、場所請負を行った両浜組商人は自ら船を所有して場所経営を拡大することで、また荷所船主は買積経営に転換することで、それぞれ経営危機を乗り切り、大坂など本州の集散地と北海道との地域間価格差を活かして商業的蓄積を進めた。
 19世紀初頭に場所請負に進出した藤野家を含め、これらの北前船主にとっては、すでに近世期から地域間価格差を活かして北海道産物を専ら取り扱うことが、商業的蓄積の中心的基盤となっており、支配権力との経済的関係は、御用金を負担するか否かのみの関係に集約され、廃藩置県により、封建的支配権力が消滅しても、その経営形態を転換する必要はなかった。しかも1880年代に米・綿・砂糖などそれまで北前船主が主に扱った産品の地域間格差が縮小するなかで(前掲表序-9)、北海道産物では、依然として北海道・畿内間でかなりの地域間価格差が残されたため、彼らは近世期と同様の垂直統合経営を近代期も継続した。幕末期に雇船頭から自立した西村家は、成長期が1880年代であり、北海道産物を専ら扱い、北海道と大阪の両方に経営拠点を設け、垂直統合経営を展開した。
 そのため、三井物産のような近代的巨大資本が北海道物産市場に参入した際に、西川・酒谷・右近家らは自らの商権を守るために団結し、北陸親議会を中心として商取引と輸送をめぐって近代的諸勢力と争った。その結果彼らは、1890年代も北海道産物取引でかなりの商業的蓄積を上げたが、競争相手の三井物産が北海道産物市場から撤退した後は、団結するインセンティブがなくなり、またさらなる汽船網・通信網の整備とともに、地域間価格差が縮小したため旧荷所船主の北前船主は、汽船経営に転換したり、海運経営から撤退した。そして、旧場所請負商人の北前船主は、北海道での漁業経営に専念するようになった。
 一方、第Ⅱ部で取り上げた北前船主は、北海道物産取引への進出がいずれも19世紀中葉以降と考えられ、その時点では、北海道産物の商権を第Ⅰ部の北前船主らが握っていたため、北海道産物よりむしろ米・木綿・綿・砂糖など出身地元市場と深く関係する多様な商品を主に扱った。それゆえ、近世期より地域経済とのつながりが強く、幕末期にある程度の土地を出身地元で取得していた。近代に入り、彼らは北海道産物も取引するようになり、前述のように米・木綿・綿・砂糖などの地域間価格差が1880年代に縮小すると、80年代後半から北海道産物取引を主に行った。とはいえ、北海道産物・米・塩・砂糖などの地域間価格差は70年代にはかなり残されたと思われ、特に70年代後半のインフレ期に相当の商業利益を上げた。その商業的蓄積が、1880年代の土地取得の原資となり、彼らは商業上の拠点を北海道に設けつつ、出身地元でも大規模な地主となった。
 その結果彼らは、北海道産物を専ら扱った1890年代でも、出身地元市場と深く関わり、例えば野村家・伊藤家は地元産の米を北海道へ運んで販売し、熊田家は北海道産魚肥を地元へ運んで販売した。このような土地経営や地元市場を介する地域経済との深いつながりが、彼らの複合的経営展開の背景にあり、家業の商業の他に、野村家は地元で土地経営・酒造経営・銀行経営を行い、伊藤家は地元で金銭貸付業や農業経営を行い、熊田家は地元で土地経営や運輸・倉庫業を行った。そして秋野・斎藤・瀧田家や東岩瀬の船主も地元で土地経営・銀行経営などを行った。(p.390-392)


本書では北前船主を3つの類型に区別して、その特徴などを明らかにしているが、そのうち、①北海道物産を中心に扱い、海運関連部門に進出し、出身地域経済との関係が弱いタイプと②近世期に支配権力から相対的に離れており、近代期に多様な業種に展開し、地域経済との関係が深いタイプについて、その経営形態が異なっている理由についてコンパクトに説明した箇所。もともと18世紀以前の経営形態というか利益の源泉がどこにあったかということが、明治中期頃の経営形態にまでつながっていることが見えて興味深い。北海道と本州との地域間価格差が比較的後まで残ったことは、それに適応することで大きく資産を増やしたりなどの影響もあったにせよ、ある程度の長い時間軸で考えれば、基本的には一時的/一過性の現象であったと見ることもできるのかもしれない。

ちなみに、本書が扱う第三の類型は、近世期には支配権力と近く、近代に入ると海運業は停滞し、土地経営に展開したタイプである。本書が記述する内容から判断すると、この類型が他の類型よりもピケティの示す最富裕層(上位1%の階層)に近いと思われる。それに対し、第一と第二の類型は上から2-10%の階層に近いように見える。



近代日本における人口分布は、東京を含む南関東(東京府・千葉県・神奈川県)と大阪を含む近畿臨海(大阪府・兵庫県・和歌山県)に特に人口集中が進んだわけではなく、第一次世界大戦前は、近代初頭の地域別人口分布がほぼそのまま維持された。第一次世界大戦以降に、東京・大阪の巨大都市化が進んだなかで、南関東・近畿臨海の全国に占める人口比率は若干増加したが、前掲表終-12で示した工業生産額の地域別偏差に比べれば人口の地域別偏差ははるかに小さかった。
 むろん、南関東や近畿臨海地方の内部で、大都市部への人口集中は進んだと考えられるが、本書で問題とした日本海沿岸地域と大都市圏との地域比較の視点では、東北地方の全国に占める人口比率は1876年から1935年までほとんど変化がなく、北陸地方は企業勃興期に一度人口比率が増大して、それから徐々に人口比率が低下した。1895年以降の北海道の人口比率の増加と北陸地方の人口比率の現象が同じペースで進み、北海道の人口増加は、北陸・東北日本海沿岸からの流入が中心であったと考えられる。また、山陰地方の全国に占める人口比率もそれほど減少せず、山陽・四国地方の方の人口比率が減少しており、その部分が恐らく大阪・神戸を含む近畿臨海地方への人口移動となったと考えられる。(p.436-437)


第一次大戦前は地域間の人口比率がそれ以前とあまり変わっていなかったというのは意外な感じがする。大正期に勤労者が増加し、都市的なライフスタイルが広まったことなどは、それ以前と比べると都市化の速度が速くなったことと関係があるように思われる。この辺りのことはなかなか面白そうなので、機会があれば調べてみたい。


大庭幸生・永井秀夫 編 『県民100年史1 北海道の百年』

 屯田兵村は、官による計画村落の典型というべきものであった。兵村は当初札幌周辺に配置され、十年代終りから遠く室蘭・根室・厚岸各郡へむかったが、これは主として警備上の理由からであり、つぎに二十年代は空知・雨竜・石狩国上川各郡の農業適地へ配置され、三十年代はふたたび警備上の理由が加わって常呂・紋別・天塩国上川各郡に設置をみた。多分このことと関連して、おおむね初期の兵村では兵員招集や監督上の便宜から密居制をとり、中期には粗居制、さらに後期にふたたび密居制に戻っている。(p.80)


兵村の設置目的に応じて村落の配置も変わるというのは興味深い。



タコ労働者は道外から募集されたものが多い。募集人は甘い言葉で労働者を誘い、遊興を勧めて前借を重ねさせ、土木現場に送りこむことで、かなりの報酬を業者から受け取ることができた。
 大正期の後半から、新聞紙上に多く監獄部屋の酷使・虐待・殺傷などの記事があらわれるようになり、人道主義的な批判が高まった。やがて道庁官吏による社会政策的立場からの避難や、司法関係者による犯罪防止的立場からの非難も加わった。……(中略)……。しかし、土木請負業者はタコ労働者を抜きにしては北海道の拓殖は進められないといい、募集方法の改善などが試みられたが監獄部屋そのものを消滅させることはできなかった。かえって戦時中には労働強化が進み、監獄部屋はふたたび増加の傾向をたどったと考えられる。(p.182-183)


囚人労働を継ぐものとしてタコ労働者が活用されたが、その手法は、いわゆる従軍慰安婦などとも共通点があると思われる。むしろ、北海道で先に実施されていたタコ労働者の募集が先例となっていたのではないかとも思わされる。これらの「業者」は同じ業者がやっていた事例はないのだろうか?または、関連がある業者が行っているといったことはなかったのだろうか?また、本書では戦時中についての記述は推定の域を出ていないが、これを裏付けるような議論というものはないのだろうか?



 明治12年(1879)「学制」にかわって「教育令」が公布され、これを機に開拓使の本・支庁では、小学校のうち規定の六科を具備しない「変則小学校」制を施行する学校を定めたが、先進地をのぞくほとんどの学校は変則小学校であった。このような教育制度上の差別は、このあと昭和初期まで継続したが、その理由とされたのは、人民の経済力の薄弱さやそれを強化するための実用的教育の必要性などであった。(p.197)


人民の経済力の薄弱さを理由として教育機会を制限するというのは、本末転倒の議論であるように思われる。経済力がないからこそ教育機会を平等に与えて、そこから抜け出せるようにするというのが教育制度の本来のあり方ではないのか?



キリスト教はとくに明治20・30年代の伸長が著しい。各派別教会数の変遷をみると、明治・大正期に設立された各派教会数199の65%・130がこの間に設立されており、現在まで残存している教会数81の72%・58がこの時期のものである。北海道開拓全盛期の時代は、その前後にくらべて官憲による迫害も少なかったようである(福島恒夫『北海道キリスト教史』)。(p.198)


興味深い。官憲の迫害が少なかったのだとすれば、その要因はどのような点にあったのだろう?人口の増加(社会増)が大きかったために、社会の変動が大きく、管理しようにもできなかったということだろうか?それとも、憲法の制定(明治23年)に伴う政府の体制(機構の改革)なども関係しているのだろうか?


吉田徹 『「野党」論――何のためにあるのか』

 政策ではなく、政治として見た場合、新自由主義がもたらした認識上の転換は、革命的なものでした。それは、政府が何をどうするかということを政治の場で問うのではなく、政府それ自体が問題だという視点の転換を行ったからです。(p.107)


確かに、当時、新自由主義を喧伝していた輩が、このような不信感を高めたことの罪は重い。



 この政党交付金は、1994年の政治改革(いわゆる政治改革四法)で導入されたものですが、民進党といった野党第一党でも、その収入の八割は交付金に依存しています(共産党はこれを返納しています)。一定程度の議員を集めておきさえすれば、政党自体を存続させることができますから、二つの政党に完全に絞られるということはまず考えられません。(p.112)


政党交付金は小党が存在することのインセンティブになり得る制度であり、90年代当時から目指されていた二大政党制とは親和性が低い制度という面がある。私としては、二大政党制は日本の政治にとっては良い結果をもたらさないと考えるので、二大政党制を実現すべきだとは全く思わないが、政党交付金にはそれ以外にも様々なデメリットがあると考えるため、こちらも廃止すべきであろう。



実際、事前審査制が1960年代に制度化されてから、国会の本会議の時間は極端に短くなったと指摘されています。つまりは国会審議の空洞化です。
 ですから、国会が揚げ足取りやパフォーマンスの場と化しているのは、野党の姿勢だけではなく、与党の政策形成と決定のあり方にもよるのです。事前審査制を厳密に運用してしまうと、政府と与党が癒着し、これを官僚機構が支える形になります。そこでの調整が済んでしまえば、政権はあとは議会に丸投げするだけで済みます。もし事前審査制を取りやめれば、国会でもっと時間をかけた丁寧な議論が行われる可能性が出てきます。
 端的に言えば、日本の国会における野党には、法案修正権が実質的に与えられていないのです。(p.127-128)


事前審査制や党議拘束というルールはやめてほしい。



 また、国会に付与された重要な権能の一つに「国政調査権」があります。衆参両院が国政に関して調査を行う権能のことで、証人に出頭・証言を求めたり、記録の提出を要求したりできるようになっています。しかし、現状では与党の賛成がなければ、野党は調査権を発動することができません。与野党合わせて三分の一以上の賛成があれば、国政調査権を発動できるといった制度改革が実現すれば、権力に対する野党のチェック機能も大いに高まることでしょう。(p.129)


同意見である。安倍政権のように権力を恣意的に使い、自らに有利な状況を様々に作り出した上で、そのことを国民に知らせないことにより、身内優遇などを批判されることを防ぎ、握った権力から引き剥がされないようにする、ということができているのも、一つには国政調査権が機能できないような制度となっていることが要因となっている。

あとは、内閣人事局に代表されるような公務員制度をやめ、それ以前の状況に戻すことが必要である。さらに、マスコミへの介入なども出来ないような制度的な縛りが必要であろう。



 実際、コーポラティズムの度合いが高ければ高い国ほど、極右ポピュリスト政党が出てきやすいという指摘もあります。(p.182)


なるほど。経済のグローバル化と冷戦後の国際政治の状況などが、それ以前に形成されてきたコーポラティズムの前提を崩しているため、民意が掬い取れなくなってきており、民意の残余が極右ポピュリストの台頭の要因となっているわけだ。



 こうしたポピュリスト政党の台頭から引き出せる教訓は、どのようなシステムや政策であっても、組み尽くし得ない民意の残余が常に出てくるということです。そして、その民意に新たな形と声を与えて、有効なシステムや政策とする媒介となるのが、野党の重要な役割だということも確認しておきたいと思います。(p.183)


この認識は本書を一貫しており、私としても参考になった点の一つだった。



 ちなみに、こうした「抵抗型野党」に対しては、代替案を用意しないから無責任だ、という意見が投げかけられることがあります。しかし、野党の第一義的な機能は代替案を用意することにはなく、何が問題かを社会に知らしめ、どのような解決があり得るのかを、与党とともに考えていくことにあります。極論すれば、権力のない野党は無責任でもよいのです。権力を持つ与党こそが、責任を負わなければならないのです。(p.220-221)


野党に対してしばしば代替案を出せと迫る安倍晋三などの言説を念頭に置いてのコメントであろう。この手の発言をするとき、発言者は間違った野党観に基づき発話している。このような発言が与党側からなされる場合、発話者自らの果たすべき役割についても理解していない可能性が高い。野党に代替案を出さなければ無責任だと非難している時、与党が出している案と野党から出されるべきと彼が考える案とで競争を行い、勝った案が採用されるべきだと暗に想定されている。そこには与党案に潜む問題点などは想定されていない(むしろ、問題点があることを見ないように、あるいは見せないようにしようとして上記発言がなされている)。野党はそうした与党側が用意した案の問題点がどこなのか、どのように修正する必要があるのか、ということを指摘する者であり、与党はその法案を法として制定した際に、問題が生じないよう(問題が出にくくするよう)にすることが与党や政権に求められる「責任」であろう。問題が指摘されているにもかかわらず、それに対する十分な説明や修正をすることなく、政府や与党が法案を通過させることこそ「無責任」な行為である。

小熊英二 『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(その2)

石川島や三菱にかぎらず、日本の鉱業や製造業は、官営企業の払い下げが基礎を作った。
 そして官営企業は、民間への払い下げ以前から、官庁の三層構造と官等を採用していた。おそらく払い下げを受けた民間企業は、こうした官庁の組織編成を、アレンジしながら受けついだものと考えられる。(p.251)


日本で官庁の様々な仕組みが民間企業に広がっていた経路として納得できる。



財閥系企業は、同学歴で官庁に勤めた場合とほぼ同じ初任給を、高等教育卒業者に提示していたようである。(p.253)


人材の獲得競争などの観点からは当然の考え方と思われる。ここから想起されることとして、00年代頃に公務員バッシングが盛んだった頃、労働運動側が公務員の給与を引き下げるとその他の労働者の給与引き下げにもつながるという論を展開していたのをどこかで見たことが思い出された。確かに、給与引き下げをすることは様々な面から考えてプラスにならないし、正義にもなわないと私は当時から考えていたが、この議論にはイマイチ実感がわかないというか、どのような経路でそうなるのかが分からないとも思っていた。この個所を読んで、確かに初任給など公開して見えやすいところでは影響が出てもおかしくないかも知れない、とは思えた。



20世紀初頭のプロイセン一般行政官吏では、行政試補に採用された平均年齢は29.5歳、参事官に昇進したのは平均40.2歳であった。
 つまり高級官吏になるには、およそ40歳まで、何らかの手段で生計を確保しなければならなかった。親が資産家か貴族、あるいは資産家の娘を妻にするのでなければ、それは困難だった。(p.283)


この辺りの事情は、当時のドイツの大学教授になる場合とも似ている。(当時のドイツの大学教授は官吏だったはず。)



 戦前の人々にとって、徴兵は共通の体験だった。そうした社会では、軍隊用語だった「定限年齢」は、おなじく軍隊用語だった「現役」と同じく、受け入れられやすい概念だったと考えられる。(p.309)


「定年」と「現役」が軍隊用語だったとは、全く意識していなかった。確かに、本書が指摘しているように、昭和前半の時代について言えば、徴兵という共通経験はいろいろな面で社会のあり方に影響を与えていても不思議ではない。



企業別の混合組合は日本の文化的伝統などではなく、戦争と敗戦による職員の没落を背景として生まれたものだったのである。(p.361)


戦前の特権的階層であった「職員」が没落し、職員であっても工員と同じような生活苦を感じていたことによる一体感があったことが混合組合結成の背景の一つだったとする。



 それにくらべ、「能力」によって賃金を決めるという職能資格制度は、労働者の支持を得やすかった。なぜなら「能力」とは、どうにでも解釈できる言葉だったからである。(p.483-484)


これは60年代頃の話だが、この時期に限らずあてはまりそうである。



数学が得意でどの科目もこなせる者がまず「国立理系」を選び、その残余が「国立文系」「私立理系」を選び、そのまた残余が「私立文系」となるという消去法的選択をしていたのである。(p.508)


これは、80年代半ばの調査の結果についての分析。最近は、推薦入試がかなり増えたが、これによる変化はあるのだろうか?



 それにもかかわらず、この会社が「成果主義」を導入したのは、バブル期に大量入社した中堅層の賃金抑制が目的だったからだった。こうした「成果主義」の導入は、若手・中堅層の士気を低め、彼らの離職率が上昇した。さらに抑制された賃金を補うため、残業代を目的に職場に居残る社員が増え、かえって人件費は二割近く増加してしまった。(p.542)


これは90年代の富士通の事例だが、賃金抑制のための「成果主義」や「能力主義」の導入は、基本的にうまくいかないものと思われる。



 透明性を高めずに、年功賃金や長期雇用を廃止することはできない。なぜならこれらの慣行は、経営の裁量を抑えるルールとして、労働者側が達成したものだったからである。日本の労働者たちは、職務の明確化や人事の透明化による「職務の平等」を求めなかった代わりに、長期雇用や年功賃金による「社員の平等」を求めた。そこでは昇進・採用などにおける不透明さは、長期雇用や年功賃金のルールが守られている代償として、いわば取引として容認されていたのだ。(p.573-574)


なるほど。



 だが厚生労働省は、2019年4月末時点の「高プロ」適用者が、全国で一名だったと発表した。これを報じた新聞記事によると、労組の反対があっただけでなく、企業もこの制度を適用したがらなかった。その理由は、高プロを導入した企業には過労防止策の実施状況を報告する義務があり、労働基準監督署の監督が強まるからだったという。(p.574)


経営側はこれほどに透明化を嫌う、ということがわかる。高プロはデメリットだらけであるだけでなく、誰も欲していない制度であるならば、すぐに廃止すべきだろう。



小熊英二 『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(その1)

 なお、2013年以降は好景気といわれ、大卒就職者が増加し、2015年には40万人を超えた。とはいえ文科省の「学校基本調査」によると、大卒就職者で比率が増えているのは、販売従事者と専門的・技術的職業従事者である。かつては大卒者の最大の就職先だった事務従事者は、その比率が下がっている(図1-12)。(p.54)


雇用される側の構造が変わらず、進学率だけが上がったので、かつては高卒で就業していた人たちが、いわゆる名門校や有名校、難関校ではない「大学」に進学し、結局、かつては高卒で就職していた就職先に収まっている。本書では日本の相対的な低学歴化(大学院進学率の低さ)を問題視しているようにも見えるが、私としては、むしろこのような「大学」の教育のあり方や学生の「生態」に興味がある。いわゆる名門校や有名校、難関校と言われる大学とそうでない大学で通う学生たちの「生態」に違いがあるのかどうか?また、どのような違いがあるのか?



しかし国際的にみると、日本は大学院とくに博士課程の進学が伸びず、博士号取得者数も伸びなやんでいる(図1-14)。国際比較でいえば、「日本の低学歴化」が起きているともいえる。
 ……(中略)……。
 その最大の理由は、日本では「どの大学の入試に通過したか」は重視されても、「大学で何を学んだか」が評価されにくいことである。専門の学位が評価されるのではなく、入試に通過したという「能力」が評価されるのだ。
 海老原嗣生によれば、企業は新卒採用者の選抜にあたり、卒業大学のランクを重視している。企業がそれによって評価しているのは、「地頭のよさ」「要領のよさ」「地道に継続して学習する力」といった「ポテンシャル(潜在能力)」だという。この三つの能力があれば、どの部署に配置してもまじめに努力し、早く仕事を覚え、適応することが期待できるからだ。(p.60-62)


この指摘は確かにそのとおりと思える。企業の採用担当者や面接官ではなくても、団塊世代が現役だった頃は若者の就職難で、団塊世代が退職すると急に就職しやすくなったという社会の状況を反映して、私の身の回りでの観察でも、就職してくる新規採用者の出身大学が大きく変化した。就職難の頃は旧帝大やMARCHあたりの卒業者がほとんどだったが、その後、いつの間にかそうした出身校が全く違うものになっていた。そのことの結果として現場で感じられる実感は、まさに上記引用文で評価されている3つの能力の違いと深く関係しているように思われる。

話をしても、一つのことを伝えたときに、どこまで理解が及ぶのかという範囲が違っているように見えることが多いし、何より物事に対する取り組みの姿勢に違いが感じられることが多い。例えば、一見仕事に対してネガティブな態度をとっているかのような場合であっても、一定レベルはクリアした上で、それ以上はもういいやという感じで留めておくスタンスと、一定レベルに達していないまま十分ない意欲を見せない(場合によっては無駄に残業をして残業代で稼ごうとしているとしか思えないような事例もある)といったスタンスでは、全く意味合いが異なるが、後者に近い姿勢を示すようなものを目にすることが出てきた。これなどは、受験勉強に対するスタンスと非常に通じるものがあるように思う。多くの受験生たちは、受験勉強を好んでやっているわけではないが、一定レベルの水準(例えば、偏差値で65くらいを安定的にキープできる学力水準)に達したところで、これ以上の難問は解かなくてよいと捨てる人と、その程度にすら達しないのに十分な習得のための努力や工夫をしていない人との違いと重なって見える。



1990年代以降も、東京中心部の風景はそれほど変わっていない。朝の通勤ラッシュも、オフィス街のスーツ姿も、六本木や霞ヶ関の街並みもあまり変わらない。その一因は、正社員が減っていないからだ。
 だが地方都市や農山村、東京圏でも郊外では、風景が大きく変わっている。自営商店や農家が減り、駅前商店街がシャッター街になった。入れ替わるように、街道沿いの巨大なショッピングモール、介護施設、在宅やコンビニむけの物流倉庫などが増えた。そこで働く人々には、非正規労働者も多い。そして統計的にも、自営業者が減り、非正規労働者が増えているのである。(p.81)


激しく同意。私も90年代末頃から「東京にいると国内の変化は見えない」ということを強く感じてきた。むしろ地方に住む方が様々なものが切り崩されている様を目の当たりにして実感することになり、今起こっていることが見えるだけではなく体感さえされる、と。



 日本の学校教育で「偏差値」が発案されたのは1957年だったが、これは当初は生徒の得意教科や不得意教科の基準を明確にする指導法としてのものだった。しかし1960年代半ばには、受験対策として学校のランキングに活用されることが始まった。それが本格的な広まりをみせたのは、1970年代になってからである。1960年代後半から70年代は、高校進学率・大学進学率が上昇して「大学卒」というだけでは意味がなくなり、「どの大学を卒業したか」が以前に増して重視されるようになった時期だった。(p.125-126)


偏差値導入の目的がこのようなものだったとは知らなかった。それが学校のランキングに活用されるというここ数十年間の一般的な使い方(?)になったのは、こちらの方が明らかに相性がいいからだろう。得意教科と不得意教科の基準を明確にするという指導法の場合、どの分野が苦手かというだけでは改善に直結せず、どの分野がどのように理解できていないのか、というさらに掘り下げたところまで分析が必要だが、偏差値にはそのような機能は十分ではない。逆にランキングにとっては、同じ基準で数字が一列に並ぶのだから明らかに相性が良い。



ヨーロッパでもアメリカでも、労働者が望んだのは、雇用主の気まぐれで運命を左右されない状況を作ることであり、差別を撤廃することであり、職業集団の地位を向上させることだった。それが結果的に、企業を横断した基準を作ったのである。(p.199)


本書ではこの経緯などが詳しく説明されている。



 当時はまだ民間産業が育っておらず、安定的な収入を得られるのは官吏や教員など公務セクターに限られていた。その状況のなかで、学歴を重視する公務セクターの俸給が、社会に強いインパクトを与えていった。(p.234)


戦前の日本の状況。民間産業が育っていなかったという条件が公務セクターの働き方が社会全体に強い影響力を持ったことの背景にあったという点は、本書を読み、なるほどと思わされた点の一つだった。



 官吏は「無定量勤務」が原則だったため、勤務時間が設けられていなかった。そして明治初期の官庁の勤務時間は、きわめて短かった。省庁の執務時間規則はあったものの、1869(明治2)年の規則では、午前10時登庁、午後2時退庁、昼休みが1時間で、実働時間は3時間だった。
 これは1871年には9時から3時までとなり、1886年には9時から5時となった。とはいえ、夏季の勤務は午前中までという慣習が昭和期まで続いた。(p.235)


なかなか衝撃的という感じだった。ただ、言われてみると、確かに、福祉国家的なものが表れる前はいわゆる夜警国家だったわけだから、官庁の仕事などあまり多くはなかったとしても不思議ではない。いかに現在の基準で物事を考えがちかという歴史を見る際の基本的なことを思い起こさせられる記述だった。


小樽市総合博物館 監修 『小樽市総合博物館 公式ガイドブック』

戦時中に急造された貨物用大型機関車D52形のボイラーを転用して戦後、新たな旅客用機関車に作り替えたのがC62形だ。この背景として、戦時中には軍事輸送のために貨物機が大量に必要となり、終戦後は一転して旅客機が不足するという輸送事情の急変があった。(p.83)


このガイドブックではこの記述より前のコラムで、旅客用と輸送用の違いは動輪直径にあるとの説明がされている。輸送用は直径が小さく(速度が遅い)、その代わりに車軸が4つとする(名前の頭にはDがつくもの)ことで滑りにくさを確保するのに対し、旅客用は直径が大きく、車軸が3つとなる(名前の頭はC)ことが説明されている。上記の個所は、これを踏まえて読むとより分かりやすくなる。

軍事輸送のための機関車(4軸)のD52を利用して、旅客用(3軸)のC62が造られたわけだが、その背景は、戦時中には軍事物資輸送の必要性があったのに対し、戦後にはその必要がなくなるという輸送需要の変動があったという。

鉄道自体にはあまり詳しくないが、歴史の動きを見ていくに当たっては、鉄道に注目することでいろいろと見えてくるものがあると私は考えているのだが、この観点からもこのガイドブックはなかなか参考になる記述があったように思う。


高倉新一郎、関秀志 『風土と歴史1 北海道の風土と歴史』

ことに明治19年(1886)の北海道庁設置以後は、資本家の誘致・保護に重点をおいた。目的は、資本主義への転換にあたって必要な植民地をもたない日本の資本主義化のために食料・原料を提供し、余剰人口を吸収せしめることにあった。そのためには山林原野の耕地化、農民の扶植、すなわち開墾事業が必要であったが、まず農村を確立してからその活動を広げるためのサービスを生むという形ではなく、最初から進んだ経済組織のなかにある農村として、すなわち自給自足から出発した農業を基礎としたものではなく、最初から交換経済社会を前提とした農村づくりであり、まずサービス部門である市街地がつくられて、その周囲に、多くは農家の集団としてよりは、広い耕地に取り巻かれた一戸一戸の農家連続として農村が展開するという形をとった。したがって、開拓の最初からすでに商業資本とは切り離せぬ関係にあったのである。(p.267-268)


北海道の農村の成り立ちに関する議論として興味をひかれた。