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小林純 『続ヴェーバー講義 政治経済篇』

ポーランド人農村住民の生活水準の低さは見聞済みであったから、それだけに、ポーランド蔑視の時代精神にのっかった「人間よりも主観的な幸福感の大きいけだもの」発言の「毒」を見過ごすべきではなかった。肥前氏の批判の正しさを認めたい。ちなみにヴェーバーはその後、第一次ロシア革命勃発(1905年)を機にハイデルベルクでロシア知識人たちと交流し、スラヴ文化の理解を深めた。そして、こうした民族的偏見で差別を受けた側に立つロシア人とユダヤ人だけを受け入れる演習・研究会を開きたいと言っていた。偏見克服の一つの証左としたい。(p.62)


ヴェーバーがポーランド人に対して差別的な発言をしていたことは間違いのない事実である。以上の指摘によると後年、多少はそれが改善しているようではある。ただ、現代の差別に対する感度を持って見たときに、十分に治ったのかと言えば、そこまでは言えないようにも思われる。ただ、多少の改善はあったという一面は押さえておこうと思う。



このプロイセンとは、本書で見てきたプロイセン・ドイツ、つまりドイツ帝国へと導いたホーエンツォレルン家の国を指す。前史がある。神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の後援のもとに1220年代に始められたドイツ騎士修道会のプロイセン進出(異教徒制圧)は「北の十字軍」と呼ばれ、二百年以上に渡ってプロイセン人を殺しつづけた。(p.73)


北の十字軍については、もう少し詳しく知っておいて良いかもしれない。



行政の活動がなぜ「支配」と思われてしまうのか。おそらく行政行為には裁量の余地があって、それが住民には一義的に理解可能ではなく、役人が勝手にコトを処理している、と見えてしまうのであろう。決定された意思内容を膨大な規則・決まりゴトに照らして施行するには、そういう局面が出てくるのかもしれない。カネの使い方にも制約が多い。不断にそうした業務に携わる役人は、行政内容については政治家よりはるかに熟知しているはず。彼らにはまず公務員試験をパスする頭脳が必要なのだ。行政の問題点を指摘する政治家は、関連する法や規則を変更することで解決策を模索することになる。だから政治家も役人に話を聞いたり、実情を詳しく調べて変更案を提起すればいい。ところが選挙では官僚批判で票稼ぎをたくらむ候補が後を絶たない。政治家の役人批判を聞くたび、筆者は、この政治家は自らの無能さを表明しているのだな、と思うことにしている。(p.133)


この見解は基本的に正しい。現在は00年代頃と比べると官僚批判というか公務員バッシングは酷くはないが、維新など一部にまだその時代の古い感覚を持っている連中は一定数いる。

ただ、現在の政府(安倍政権)が官僚批判をしないのは、内閣人事局を設けたことによって自らの傀儡を幹部に次々と登用していくことができるようになっているためであり、「官僚批判をしている無能な政治家」よりも質が悪い。公務員バッシングや政治改革という90年代から00年代に作られてきた流れがもたらした負の遺産ができてしまっている現在はフェイズが変わっている、ということも押さえておく必要があると思われる。



 2月初め、バーデン公の発議により「正義の政治のためのハイデルベルク協会」がマックス・ヴェーバー宅で設立された。西欧諸国の真実ならぬ戦争責任論の宣伝に対抗することを目的とし、2月7日の声明で、戦争責任問題を客観的に解明するための非党派的・中立的な調査委員会の設置を要求した。協会は「ヨーロッパの戦争を行った大国すべてに共同の責任」があるとし、ドイツへの処罰を隠れ蓑に(自ら断念したはずの)「帝国主義的戦争目的」の実現をはかることに抗議した。協会の活動はヴェルサイユのドイツ講和代表団の基本線に一致していたので、外務省にも好意をもたれた。その結果、協会のヴェーバーら4人が「講和交渉委員会」の審議に招かれ、またこの委員たちはパリ講和代表団の随行員に任命された。(p.194)


ヴェルサイユ条約の講和にヴェーバーが参画していたことは当然知っていたが、その経緯がよくわかった。



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松下貢 『統計分布を知れば世界が分かる 身長・体重から格差問題まで』

 本章では、複雑系に共通する特質として、系の要素が例外なくそれぞれの歴史を背負って現在の姿をとっていることに注目する。その結果として、対数正規分布が現れることを議論してみることにしよう。(p.78)


複雑系に共通する第一の特徴は歴史性であると本書は指摘する。確かに、複雑系が複雑である所以は、まさに異なる時点では系が全く違う形をとり、そこに単純な規則性が見出せないことだと言えよう。ここから対数正規分布が導き出される論理は、私としては、複雑ネットワーク研究とオートポイエーシスを繋ぐイメージを提供してもらったと感じており、極めて大きな収穫だった。つまり、どちらも時間の経過とともに分岐するシステムが作動することで形成されてくるものを扱っているという点で共通していることがはっきりした、ということ。この共通性に着目することで、より物事の本質的な部分をつかみやすくなったように思う。



 もし統計性を生み出す原因が乗算過程であれば、生じる結果はいろいろな要因の掛け算で表されるが、対数をとった後で見ると統計性を生み出すばらつきの原因は足し算となり、加算過程とみなされる。したがって、対数をとった後に正規分布が得られることになり、対数正規分布になるというわけである。
 こうして、複雑系の共通した特徴が歴史性にあり、歴史性が乗算過程的であるとすれば、複雑系ではその統計性を特徴づける最も自然な分布関数は対数正規分布だということができよう。このようなわけで、対数正規分布こそが複雑な系全体の統計性を見わたす際の基準としてふさわしいと考えられる。(p.83-84)


乗算過程とは、本書によると「前の段階が前提となってその段階があり、それがまた次の段階に影響しているという特徴がある」というような掛け算的な過程であるという(p.81)。

例えば、ある人の所得が決まるための過程は以下のように説明されている。

出生地→家庭環境→出身幼稚園・小中学校・高校・大学・学部・大学院→就職→所属部署→成果→役職→ある人の所得

これらのそれぞれの実現確率が掛け合わされて積み重なっていくことである人の所得が決定されていく。つまり、現在の状態が出現する確率を求めるとそれぞれの段階の出現確率の積となる。掛け算で積み重なっていくものは対数正規分布になる、というわけだ。

個人的には久しぶりに「目から鱗」という感じがした部分である。



図6-4の1965年や2015年に見られるような極端な二極分化は、先進国の中では日本だけの特徴である。(p.132)


都道府県別の人口が日本では対数正規分布にならず、2つの対数正規分布が組み合わさった形になっている。これは都道府県人口の二極分化が日本で起きていることを示すという。上の個所は、この特徴が先進国では日本だけに見られるとの指摘である。

「国土の均衡ある発展」というフレーズがかつてあったが、その時代からすでに「均衡なき発展」が続いているのが日本の特徴だったわけだ。この要因がどこにあるのか詳しく知りたい。

松下はこれに続く箇所で「安易に道州制に賛成すべきでない理由の一つがここにある」(p.134)と述べるが、妥当である。データなり現実なり事実といったものをある程度きちんと見れば、こうした結論に至らざるを得ない。20年近く前に議論され実行されてしまった「平成の市町村合併」も同じ過ちを繰り返したものと言えよう。



 このように、図6-7の右裾に見られる対数正規分布からの外れは明らかに“The rich get richer.”による結果であり、平等な競争によるものではない。したがって、このような所得により重く課税するのは当然のことである。ここに累進課税の正当性の根拠があるということができる。
 アメリカの有名な経済学者J.K.ガルブレイスの著書『ゆたかな社会 決定版』(鈴木哲太郎訳、岩波現代文庫)の361ページに、学校や病院などの公共施設への支出に関連して、「金持は富みすぎているかどうかという昔ながらの解決不能の問題」という件がある。しかし、本節の視点に立つと、対数正規分布からべき乗分布に移行する点が普通の人々と金持との境目とみなすことができ、「金持は富みすぎているかどうか」は解決可能な問題である。消費税は貧しい者により重くのしかかる、逆累進的な課税である。したがって、べき乗分布を示す高額所得者への累進課税を実行するのが先であって、消費税はずっと後回しにすべきである。
(p.135-136)


日本の個人所得の格差についての叙述。課税に関する見解については同意見である。

また、対数正規分布からべき乗分布に移行する点が普通の人々と金持との境目というのは、このエントリーの2つめの引用文で言われている「対数正規分布こそが複雑な系全体の統計性を見わたす際の基準としてふさわしい」ということが意味することであろう。確かに、ここに特異点があるのだから、ここが境目になるというのはかなりの説得力を持つ。別の観点を持ち出して反論することは可能かもしれないが、それでもデータが折れ曲がることの原因を別の根拠を示して批判しない限りは、本書の主張は基本的に維持されることになるだろう。

ちなみに、本書の図6-8でアメリカの個人所得のランキングプロットを見ると10の5乗すなわち、10万ドルあたりが境目のようである。



千葉芳夫 『ヴェーバーの迷宮 迷宮のヴェーバー』

 また、ヴェーバーの学問論を対話あるいは討議の理論として解釈できるかどうかも疑問である。むしろそれは、孤立した行為者に準拠するモノローグ的なものなのではないか。(p.45)


方法論的個人主義がヴェーバーの作品にはかなり貫徹していることを考えると、少なくともヴェーバーの作品はモノローグ的なものと捉えるのが妥当であろう。学問論についても、多くは方法論的な著作であることを考えれば、彼の方法論的個人主義を主張したり前提して議論が組み立てられていることから見ても同様であろう。

このモノローグ的な理論である点は、ヴェーバーの作品の最大の問題点の一つであると考える。

ヴェーバーの作品では、モノローグ的な論理構成を利用することによって、実証的なデータを十分に使わずに議論を組み立てることができている。これに対して、例えば、現代では行動経済学などでの知見が、ヴェーバー当時とは比較にならない水準で経済的な行為の理解を拡張している。行動経済学で示されてきた様々な規則に照らしながら読むと、ヴェーバーがプロ倫で描いた経済倫理に関する議論は十分な説得力を持たないように思われる。(具体的にこの視点からヴェーバー・テーゼを批判することは、少なくともヴェーバー研究としては何某かの新しさをもたらすものになるかも知れない。少なくとも本として出版されているものの中にはそのような視点で扱っているものを私は見たことはない。)



 彼の議論には奇妙とも思える対比が見られる。『政治論集』などに収められている時事的、政治的発言においては、彼は官僚や官僚制を激烈に批判している。しかし、「支配の社会学」や「支配の諸類型」では批判的な視点はあまり表面に現れてこない。(p.131)


確かにその通り。


飯島渉 『感染症の中国史 公衆衛生と東アジア』

 中華民国政府はさまざまな面で日本をモデルとした国づくりを進めようとしました。しかし、大総統に就任した袁世凱が急速な中央集権化政策を進めたため、各地でそれに反対する動きが起こりました。(p.102)


中華民国政府の政策と日本の政策との関係には興味がある。台湾での中華民国政府の政策も日本をモデルとした政策や制度は、国民皆保険制度などそれなりにあるように思う。戦前の中国に政権があった時の中華民国でも日本をモデルとした政策や制度の設計が行われていたというが、それらは中華民国政府の中でどのような位置づけにあったのかということを知りたい。



 コレラが国家や社会に与えた影響を考えるとき、最も重要なのがコレラ対策として進められた水道事業の整備です。これはヨーロッパ諸国から進められます。ロンドンでコレラが流行したのは1832年のことです。濾過機で給水した地域に患者が少ないことがわかると、各地で大規模な都市計画とともに水道が整備されていきますが、その目的のひとつはコレラ対策でした。
 水道事業の整備には莫大な資金が必要となります。この結果、衛生行政の役割がしだいに拡大し、政府が積極的に関与する体制になっていきます。これは「国家医療」(state medicine)と呼ばれます。感染症対策、とくにコレラ対策が政府の役割を肥大化させたことは、感染症が歴史に与えたインパクトとして見逃すことのできない事実です。(p.127)


感染症対策が政府の役割を肥大化させたというのは、本書を読むまで考えたことがなかった観点だった。統治と感染症対策とは意外なほど深い関係があるということに気づくことができたことは、本書から得た収穫だった。

コロナ対策が世界的に行われているが、コロナ対策以後の時代は権威主義的な政府が増える可能性がある。人権や個人の自由を制限できるような制度が創設されたり、使われる事例となることなど様々な経路を通ってそれが実現しうるからである。すぐに急速に進むかどうかということではなく、例えば、5年や10年後に権威主義的統治を志向する支配者が表れたときに、コロナ時に創られた人権や自由を制限できるような制度を活用してしまい、それに歯止めがかけられない事態などが想定される。



 台湾総督府のマラリア対策を回顧するなかで、堀内次郎(台湾総督府医学校教授・校長)や羽鳥重郎は、「欧米人が新領土を新しく統治していくには、先ず宗教家をやってそうしてその方から段々宣撫していくのが普通ですけれども、日本人にはそういう便宜がありませんので医者を中心として」と述べ、水利事業などの土地整理やインフラの整備もマラリア対策を理由として実施されたと指摘しています。
 マラリア対策は日本の台湾統治の根幹であり、台湾総督府が台湾社会、とくに原住民社会を含む農村社会との関係を築く重要な回路だったのです。
 台湾の医療・衛生事業は、植民地統治のプラスの部分とされることがあります。たしかに、マラリアがある程度抑制されるようになったことは事実ですが、他方、台湾総督府が血液検査という回路を通じて原住民を含む台湾社会への介入を強めたことも事実なのです。(p.159-160)


安易に植民地統治を称揚するのは慎むべきだということがこうした指摘からもわかる。



 その意味では、戦後の日本は、近代日本の植民地医学をほぼ継承しました。しかし、戦後の感染症や寄生虫の研究の基礎に植民地医学があったことは、封印されます。そして、中国も日本住吸血虫対策に日本の植民地医学が関係していたことはこれを封印したのでした。(p.187)


こうした隠された歴史を明るみに出すことは重要である。


ポール・キンステッド 『チーズと文明』

 18世紀にはロードアイランドやコネティカットでもアフリカ人の奴隷がたくさんのチーズを製造していた。こうしたチーズの多くが西インド諸島の奴隷の食糧として輸送され、モラセスと交換されると、ニューイングランドでラム酒製造に使用された。そして、ラム酒はアフリカで奴隷を購入し、西インド諸島へと送り、そこでモラセスと取引する……、というサイクルが続くのだ。ロードアイランドはこうした、いわゆる三角貿易のアメリカ植民地のリーダーだった。しかしマサチューセッツとコネティカットもある程度これに加わっていた。(p.272)


チーズも三角貿易に関係していたというのは、考えたこともなかった。ラム酒が果たした役割も調べてみると面白そうである。


アンドリュー・ドルビー 『チーズの歴史 5000年の味わい豊かな物語』

 1948年頃、終戦後の「ヤミ市」全盛の国内経済は駐留米軍とその家族相手の業者を生み出し、また、米軍ルートからドロップアウトした「米軍放出物資」なるおのが大いにもてはやされた。
 米軍の携行食であり、栄養バランスの良いプロセスチーズ(クラフト・チーズ)は、食糧難の当時としては格好の商材であった。このアメリカ軍が持ち込んだプロセスチーズが、日本のチーズ文化のリード役になったのは当然のことであった。このことが、プロセスチーズを日本の直接消費チーズの主流にした理由である。
 一方、ナチュラルチーズを一般市民が口にできるようになったのは1951年になってからである。連合国側と日本との講和条約が正式調印され、外国との輸出入ができる「独立国」に生まれ変わったためである。(p.175)


以上は本文ではなく、村山重信氏による解説からの引用。ある意味、80年代頃までのチーズと言えば、プロセスチーズばかりで、味も金太郎飴的に同じようなものがほとんどだったように思うが、その基礎となった事情が少しばかり分かったように思う。


胡口靖夫 『シルクロードのに暮らす サマルカンド随想録』

 私たち外国人教師は、大学との契約によって政治・経済・宗教に関する活動や発言を禁じられているから、それらについて論評できる立場にはない。学生たちの話や首都タシケントの日本大使館から送られてきたメール情報を記すので、それらからつとに知られているカリモフ大統領の後継者と目されている娘を巡る政治状況を推察していただきたい。(p.58)


ウズベキスタンが日本のメディアで紹介される際、「シルクロード」(歴史のロマン)とか「親日的だ」とか「ナボイ劇場は日本人が建てた」と言った話が取り上げられがちである。情報統制があり、実質的な専制的な支配が行われているという点は等閑に付されることが多い。中国やイランと大差ない、というか私見ではイランより専制的(民主化の程度が低い)なのではないかと思えるのだが、そういうイメージを持たれないような扱いになっている。

その点、本書はナボイ劇場にまつわる「神話」に対して批判的に論評したり、言論をめぐる状況についても問題があることを示唆するなど、ある程度既にウズベキスタンに興味を持っている人に対しては、マスメディアやガイドブックなどで流れてくる情報に対して批判的なスタンスを取ることを可能にする言説を展開している点が評価できるように思う。



しかし、ソ連崩壊による1991年の独立以後も依然として続いている国民の生活苦は想像に難くない。
 その解決策の一つが海外への出稼ぎや移住である。行き先で多いのは、言葉やビザの問題もありやはりロシアである。ついで韓国も多いと聞いている。日本はビザの取得が難しいので少ない。……(中略)……。
 ただ、この海外への出稼ぎや移住による送金が、ウズベク経済を見るキーワードらしいことに最近気づき始めた。確かに国民の生活苦は相当なものらしい。けれども、前に述べた盛大な結婚式の祝宴の「ナゾ」が、これで解けるかもしれないと考えている。
 ところで私には、もう一つ「ナゾ」と思えることがある。昨今、街中でステータス・シンボルと言われている「ネクシャ」などの新車が増加していると思われることである。……(中略)……。
 所得が低いにもかかわらず国内市場における好調な販売実績を合理的に説明するのは困難である。ジェトロ・タシケントのS氏のご教示によると、「統計には表れないヤミ経済が相当規模存在することなどの理由が考えらえる」という。ヤミ経済の実態の大部分が、出稼ぎや移住者からのヤミ送金ではないか、と私は考えている。「幸運」をつかみ余裕のある生活をしている富裕層と、そのような恩恵に浴さない貧困層との二極化が確実に進行していると予測される。(p.60-61)


出稼ぎや移住者からの送金が大きなウェイトを占めるヤミ経済という見方は、確証まではないが私にも確からしく思える。


石毛直道 『世界の食べもの 食の文化地理』(その2)

 箸と匙を使用して食事をする風習は、戦国時代ごろらおこなわれるようになった。古くは匙で副食ばかりではなく飯も食べていたものが、明代から飯、副食物を箸で食べ、匙はスープ類専用の道具として使用するようになった。箸をつかう習慣は、ヴェトナム、朝鮮半島、日本でも採用されたが、現在のヴェトナムは中国式に箸、匙をつかいわけ、朝鮮半島では中国の古い習慣を残して飯も匙で食べ、椀が汁物の容器として発達した日本は、箸だけで食事をする。
 箸を使用することから椀形の食器がよくもちいられるようになった。中国は陶磁器の生産技術が発達した国であるので、陶器、磁器の食器が世界のなかでいち早く普及した。
 昔は一人前ずつ食物を盛りわけ、膳状あるいはランチョンマットのような食卓に並べて、床のうえに座って食事をしたもののようである。その食事方法は朝鮮半島や日本にうけつがれた。宋代に椅子、テーブルの生活が普及することによって、飯とスープは個人専用の椀に盛るが、副食物はおおきな共用の食器にいれて、直箸でつつき合う配膳法に変化したものであろう。(p.66)


食べ物だけでなく食器や作法などの歴史もなかなか面白そうである。



 ミクロネシアでは、日本の統治時代に島民が米の味を覚え、現在ではタロイモやパンノキの実の主食よりも、金さえあれば輸入米を買って食べることのほうが上等であるとされている。また、オセアニアのどこでも街ではパンが売られている。(p.125)


植民地支配の影響は食生活という身近なところにもかなり強く残るものがあるようだ。



酢を利用して酸っぱい味つけをしたすし飯を材料にした食べ物すべてが、すしであるということになったのだ。古代の保存食品は、インスタント食品に変化したのである。
 すし屋は客の顔をみてからつくりはじめ、一分もしないうちにすしを供してくれる。このような即席のスナック食は、人びとが忙しく働く都市の生活様式にあうものとして歓迎された。19世紀初頭の江戸の街には、一町内に一軒以上のすし屋があったといわれる。(p.161)


寿司は、古代のなれずし(飯は食べない)から始まり、漬ける時間が短い「生なれ」になって飯を食べるようになることでスナック食となった後、上記のような変化を遂げてきた。本書の最初の原稿が書かれたのは80年代頃であり、まだ回転寿司はなかった。回転寿司ではさらにインスタントというかスナック食というか、そうした性格が前面に出ているように思われる。



 激辛はその味が好きだということよりも、それほどまでに辛いものを食べたという話題を提供するために食べられているふしがある。つまり、食の本質にかかわる部分ではなく、食にまつわる情報として激辛がもてはやされるのであり、これも「食のファッション化」を象徴する現象としてとらえられる。(p.203)


80年代頃に流行した「エスニック料理」や「激辛ブーム」についての批評だが、現在でもこの傾向は大きく変わっていないように思われる。



 江戸=東京を起源地とする握りずしが全国制覇をしたのは、20世紀になってからのことである。とくに、外食での米の使用が認められなかった戦中・戦後の食糧難時代の統制経済のもとで、現在の握りずし全盛時代の基礎ができたのである。その頃、すし屋に米をもってゆき、加工賃を支払うと、握りずし五個と巻きずし五切れを一人前として交換するという政令が施行された。東京のすしを基準につくられたこの法律のために、全国のすし屋が握りずしをつくるようになったのである。(p.216)


現在からは想像も出来ないような経緯であり、興味深い。


石毛直道 『世界の食べもの 食の文化地理』(その1)

 搗き餅つくりは、西南中国の少数民族と、それに接するインドシナ半島山岳部、朝鮮半島、日本に分布するが、これらの地域は中国文明の辺境地帯にあたる。華北平野で本格的なコムギ栽培が導入されてのち、石臼とともに粉食文化がひろがり、餅つくりの方法が搗き餅から粢餅に変化したのではないかと考えられる。この仮説にしたがえば、中国の影響がつよかった沖縄をのぞく日本には、古い文化である搗き餅の伝統が残り、朝鮮半島は粢餅と搗き餅が共存する場所となった、ということになる。(p.34)


文化の周辺地帯で古い文化が残っていくというのは、他の様々なもので見られる現象であり、餅の作り方についても残っている地域などから見ても、妥当な仮説であると思える。



 日本の伝統的製麺技術には、ネンミョンのように押し出してつくる製麺法はなかった。いっぽう、朝鮮半島にはそうめんづくりの技術が欠如していた。練りあげた小麦粉を一本の長い紐にして、二本の竿のあいだにかけて引きのばすのが、そうめんづくりの原理である。そうめんは中国南部に発達した製麺法である。それぞれの民族の地理的位置が、中国に起源する麺づくり技術の導入のちがいとなったものだろう。(p.36)


日本に対する中国からの影響を見る時、地図で見ると一見遠く見える割には中国南部からの影響は意外と多いように思う。



 さきにのべたように、18世紀後半にトウガラシが普及することによって、現在のようなキムチができあがったのである。トウガラシの普及以前には、キムチに辛い味をつける材料としては、サンショウがもちいられていた。(p.43)


山椒で味付けされていたキムチというのがどんな味なのか気になる。四川省の本場の麻婆豆腐のような痺れる感じなのかな、と想像する。



 塩辛は中国の古代の文献にもあらわれ、明代あたりまではよく食べられていたようであるが、中国人の食習慣がしだいに生ものを食べなくなるにつれて衰退し、現在では地方的に限定された食品になってしまった。(p.43)


中国で生ものを食べなくなったのは何故なのかが気になる。



 日本では中世以来マニュファクチャーによる酒造が発展したが、朝鮮半島では酒は家庭でつくるのを基本としたので、産業としての酒造は発達しなかった。そこへ、日本の支配下における酒税法の制定などのできごとがかさなり、自家醸造が密造ということになると、伝統的な酒造りの衰退を経験せざるをえなかった。薬酒にとってかわって日本酒製造の技術でつくられる酒が進出し、単式蒸留法による焼酒が、連続式蒸留法による日本の甲類焼酎の製法に変化したり、ビールがつくられるようになるなどの変化が起こったのである。(p.46)


日本による植民地支配は朝鮮半島の酒造にも大きな影響を及ぼしたことがわかる。日本では中世からマニュファクチャーで酒造していたというが、自家醸造と工場での醸造は、世界の歴史の中ではどのような分布だったのだろう。例えば、イランなどでは現在も酒は公には飲むことができないが、多くの人が自家醸造で作っているというのを現地の人から聞いたことがあるが、こうしたことを多くの人がやっているのも自家醸造の伝統がある程度残っていたからこそできた話であると推測するが、この仮説の真偽を是非調べてみたいところである。



 中国では、唐代(618~907年)から北宋代(960~1127年)にかけて西方から椅子、テーブルの生活が導入され、ひとつの食卓を複数の人びとがかこむ食べ方に変化した。そして、飯と汁は個人別によそわれるが、おかずは共通の食器に箸をのばして食べることになった。また、「時系列型」の配膳法がなされるようになり、宴会などの食事では、時差をもってつぎつぎと料理が配膳されるのである。(p.54)


イスとテーブルの生活は西方のどこ起源なのだろうか。現代の西洋世界から伝わったものとはちょっと思えないところがある。この時代の西欧はかなり文化的には遅れた地域と言うことができ、経済力も技術力もユーラシアの他の地域より劣っていたはずだからである。当時の中東や中央アジアにそうした生活文化があったのだろうか?遊牧民ではなくオアシス都市の住民の生活様式?(現在の彼らの生活様式とは相違があるように思われるが。)



 日本でも奈良・平安時代の貴族の正式の食事には匙がもちいられたが、民衆には普及しなかった。木椀が食器として発達した日本では、椀を口につけて汁を飲むことが作法となったのである。現在の中国では、飯を食べるのに匙をもちいるのは、ポロポロした炒飯や粥を食べるときにかぎられる。しかし明代になるまでは、普通の飯も匙ですくって食べる風習があった。朝鮮半島の食べ方は、この中国の古い食事の方法を伝えるものである。(p.56)


箸、匙、椀の関係はなかなか興味深い。



 食べ残すことは非礼ではない。むしろ、すべてを食べつくすのは「いやしい」とされる場合がある。家庭での伝統的な食事の場合、食べ残すのが礼儀とされていたのである。家長が食べたあと、残ったものに盛りたして男の子たちのグループの食事にまわしたり、家族が食べ残したものにたして使用人の食事にまわすといった、上位の者から下位の者への食べ物の「さげわたし」の風習があったからだ。つぎに食べる者のことを配慮しないで全部食べてしまうことは、貪欲とされたのである。(p.57)


このような作法の地域は世界に今も多いが、その理由が納得できた。


出口治明 『グローバル時代の必須教養 「都市」の世界史』(その2)

 このような伝統があるので、ウィリアム一世はイングランドを支配すると、全土の状態を把握するために、早速に土地台帳(ドゥームズデイ・ブック)をつくらせました(1085)。この土地台帳は興味ある事実を教えてくれます。この台帳には当時の有力者の実名が200名近く記録されているのですが、この中でアングロ・サクソン系の名前は10名前後、残りはすべてフランス系の名前だったのです。
 フランス人といってもフランク族につながる生粋のフランス人ではなく、ウィリアム一世がノルマンディー公国から引き連れてきた元ヴァイキング、ノルマン人の豪族たちです。彼らがイングランド貴族の大半になっていったのです。僕たちはイングランドを「アングロ・サクソンの国」と呼びますが、そう呼ばれる国は11世紀にはすでに伝説化していたのです。(p.274)


ノルマンディーから来た元ヴァイキングのノルマン人たちがイングランドの貴族の大半を占めるようになったというのは重要な指摘。ただ、「アングロ・サクソンの国」が伝説になっており、実情とは違うという類の指摘は、被支配層が誰だったのかということを考えると、そう簡単には言えないのではないかと思われる。その支配領域に実際に多く住んでいたのが誰だったのかという観点からみれば、「アングロ・サクソンの国」と呼ぶことはできるように思われるからである。

もし、上記引用文のような言い方が適当なのだとすれば、清朝は女真族の国であり漢民族の国ではないことになるし、一つ前のエントリーで指摘されていた隋や唐が鮮卑族から出たのだということから、隋や唐は鮮卑族の国ということになる。これらは確かに(前のエントリーでも唐の時代や国の特徴が支配層の志向と関係が深いと指摘されていたように)事実の一面を正しく捉えているとも言えるが、被支配層は支配者が変わっても日常の生活を送ってきたことを考えれば、支配層だけに注目して国を特徴づけるのも問題を含むと言えるだろう。



当時はコロンの新大陸到達後、スペインが新大陸の金や銀を独占し、イングランドの進出を許しませんでした。女王は対抗策として、金銀や新大陸の産物を積んでヨーロッパに帰ってくるスペイン船舶を襲撃する目的で、海賊行為を認めました。スペインの新大陸から帰ってくる船は、スペインの港を目指すのではなく、ネーデルランドのアムステルダムやロッテルダムに帰港しました。当時のネーデルランドはスペインの領土だったのです。大西洋側にはポルトガルもあり、スペイン本国に良好な港がなかったため、ネーデルランドの港に帰港していたのです。イングランドの海賊は、ネーデルランドの港に向かうスペイン船舶を襲ったわけです。
 この海賊行為は女王が公認したものでした。すなわち海軍としての行動だったのです。非道のようにも思えますが、新大陸に勝手に上陸して先住民を迫害して略奪したスペインと、そのスペインの船を襲うイングランドと、どちらを悪とするか、断言しきれない問題でもあります。海軍は同時に海賊でもあった時代で、別にイングランドに限られたことではありませんでした。(p.290-291)


新大陸と往来していたスペインの船がネーデルランドの港に帰港していたという点は、スペインからオランダへと世界システムの覇権が移っていったことの大きな要因のひとつだったのではないかと思われ、興味深い。

また、海軍と海賊の関係も、掘り下げて見ると面白そうなテーマであると気づかされた。

ただ、スペインとイングランドとどちらが悪かという問いはミスリーディングであろう。どちらも悪に決まっているからである。本書の叙述はイングランドの襲撃行為を正当化しようとする方向に流れているという点は指摘しておく必要があろう。



フランス革命のとき、王室が倒れたことで王急に召し抱えられていた宮廷料理人たちが失業し、パリ市内でレストランを開店したことが、パリを美食の都にしました。また王室や貴族の衣装をデザインしていた人たちもパリ市内にブティックを出さざるを得なくなり、ファッションの都パリが誕生する契機となります。このように共和政となったことで、パリの市民文化はいち早く豊かになりました
 そして多くの芸術家たちもパリに集まってきました。それはなぜかといえば、パリには、他の皇帝や君主がいる街にはない、市民だけの街の自由があったからです。(p.349-350)


パリの華やかさ(美食、ファッション、芸術)は、共和政となったこと(王がいなくなったこと)にその大きな要因があった。