アヴェスターにはこう書いている?
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後藤治+オフィスビル総合研究所「歴史的建造物保存の財源確保に関する提言」プロジェクト 『都市の記憶を失う前に 建築保存待ったなし』

古社寺保存法の時代は、寺社の建物が危機に瀕しており、それのみが対象だったが、それが国宝保存法にかわると、城郭建築の保存に力点が置かれるようになった。そして、文化財保護法の施行後は、昭和30年代に入る頃には、危機に瀕した民家建築の保存が叫ばれるようになり、その後に全国の調査が進み、昭和40年代に多くの民家建築が重要文化財に指定された。また、昭和30年代中頃には、昭和42年に明治維新から100年を迎えることもあって、明治年間に建てられた洋風建築の保存が叫ばれるようになり、同じく昭和40年代にその重要文化財指定が進められた。(p.125-126)


建築保存の対象の変遷は興味深い。古社寺保存法は明治30年に施行された法律であり、国宝保存法は昭和4年に施行、文化財保護法は昭和25年施行である。昭和30年代に民家建築や明治洋風建築などの保存が叫ばれるようになったのは、高度経済成長の時期に入り、次々と建物が建て替えられていくことで、かつての建物が壊されていき、景観も大きく変わってきた時代だったということが背景にありそうである。



長い歴史をもつ先進諸国の首都のなかで、保存地区が存在しないのは東京ぐらいのものである。(p.129)


ヨーロッパを基準として見ると確かにこの点は際立っているかもしれない。ロンドン、パリ、ベルリン、ローマなどいずれも歴史的な地区や景観が残っている。

いわゆる先進国でないところも入れるならば、北京やカイロなどが私が訪れたことがある中では想起される。北京は今ではかなり古建築の破壊が進んでいそうな気はするが、故宮や円明園などのような史蹟まで完全になくしたりはしないだろう。(なお、イスタンブールは首都ではないが、経済的にはトルコでは最も発展した都市であるが歴史的地区も残っていることなども付記しておこう。)
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関根健夫 『こんなときどうする 公務員のためのクレーム対応マニュアル』

便利な社会になればなるほどクレームの種は増えるのです。
 行政に対するクレームも同じです。かつては行政に対する感覚として、よくも悪くもあきらめがありました。例えば「どうせ言っても変わらないだろう」「皆と同じなら仕方がない」などといった感覚です。しかし、日本は豊かな社会を実現し、役所もそれに応えてきました。さし当たって生きる不安はありませんが、誰もがもっとよい生活をしたいと思っています。誰もが平等であり、自分の主張する意見をもっと認めてほしいと思っています。そういった環境にあって、自分の意見を主張したいという気持ち、不満を解消し不利益を是正しようという気持ち、相手方のミスや不正を是正しようという気持ちが強くなっているのです。(p.2-3)


この議論の根拠が実証的に示されているわけではないが、それなりの説得力はある議論。特に私が注目したいのは、自分の「意見をもっと認めてほしい」と思っている人が増えている、あるいはその度合いが強まっているのではないか、という可能性についてである。ここ10年か15年、あるいは長く見ると20年程度の間に、極右とか復古主義とか呼称すべき類の主張が次第に表面化し、それに対する違和感が社会全体として麻痺させられつつあること、ネトウヨ的な暴力的な言説がネット空間を行き交い、ヘイトスピーチが行われ、こうした動きに共感を持っている人間が首相として何年も権力を恣にしている。ここ数年に何人ものポピュリストが現われ、世界的にもポピュリズム政党やポピュリストへの支持が高まってきている。こうした社会の動きは、確かに「意見を認められない」と感じる人びとの増加と深く関係しているように思われる。

その背景にはグローバル化があり、それに伴う富と影響力の偏在があり、このため、ほとんどの人にとっては政治権力に対して自身の意思を反映させることがグローバル化以前と比べてできなくなっているということがある。こうして「見捨てられた」人々の不満がたまっていることが、様々な分野に対するクレームの噴出ということに繋がりやすいというのは理解できるように思われる。



不当要求とは不当なことを要求することではなく、不当な手段を使って要求してくることを意味するのです。(p.25)


対応を判断するにあたって、このことを抑えておくことは重要。単に不当なことを要求しているだけであれば、それに対してハードクレームに対する対応までする必要はないということになるからである。



クレームでも、特にお客さまが怒っている場合、年齢がこちらより上の場合などは、会釈するように上半身を動かし、大きくうなづくと誠意を表すことができます。(p.32)


試してみたい。

この本は「公務員のための」と書かれているが、「クレーム」というものに対する考え方がしっかりしているので、必ずしも「公務員」でなくても役立つようなことが結構書いてある。ただ、「民間」向けのクレーム対策本との大きな違いは、行政のもつ公平性や公正性、いわば「正義」の問題としてクレームに対応しなければならないとしている点ではないかと思われる。



ただし、先の質問への回答も作為や強調が含まれている可能性があるので、当事者が他にもいれば、そちらの言い分も聞かなければ本当の意味での事実は把握できません。行き過ぎた作為や強調は、事実を確認する質問への回答に、矛盾した内容として出てくるものです。その場の雰囲気からでも、どの程度の信憑性か判断できるでしょう。(p.40)


複数の当事者の言い分を確認することで、より客観性の高い事実を認定できるという考え方は実務上、かなり重要だと思われる。例えば、上司として部下が最初に対応していたクレームに対応する場合も、クレームを発している当人だけでなく、クレームを受けた部下からも話を聞かなければ最適な対応はできないという格率に従って対応するのが妥当と思われる。



 いくら行政には説明責任があるといっても、それは理屈の話です。大声で威圧されたり、強迫まがいのことを言われたり、常識的な時間を超えて対応を強要されるような場面では、その状況でいつまでも説明する責任も必要もありません。説明することの義務は、正常な話し合いの場でこそ行使されるべきであり、平静が保てない場、脅迫または脅迫まがいの行為をされている場では、説明そのものを拒否することもできるはずです。(p.65)


相手方が不当要求行為をしてきた場合には、説明責任を果たす義務は解除される部分があってしかるべきという点は同意見である。今まで読んだクレーム本では、あまりこの点をはっきり書いているものはなかったような気がする。ただ、実務上は、最低限の説明は済ませたと主張できる程度のことまでは言ってから打ち切るのが理想的だろう。



向こうが一人ならこちらは二人、向こうが二人ならこちらは三人、というように、できれば一人多くの職員で対応します。これなら心強いし恐怖心も軽減されるはずです。
 また、はじめから大声を上げる、こちらを威圧するようなクレーマーなら、まずは1~2名で対応し、あまりにひどいようならその回りを職員5~6人でそれとなく囲むようにします。……(中略)……。それ以上に無茶なことができないように、人の目で監視するわけです。明らかに犯罪と思われる行為を行った場合でも、複数の人の証言が得られるようにしておきます。(p.77)


これはハードクレームに対する対応策についての記述だが、相手方より1人多い人数で対応すべきというのはなるほどと思わされた。個人的にはあまり複数での対応は好まないが、一般論としてはこうした形での複数対応は有効だろう。



途中からクレームに同席する場合、その当初は中立の立場を取り(装い)、次の手順で相手を落ち着かせてから説明に入るようにします。(p.80)


基本。



 クレームがあまりに長引く場合、ある程度の時間をかけて対応したら、勇気を持ってお引取り願うことは有効です。……(中略)……。
 一つの考え方として、相手が同じことを5回主張したら十分、というのが現実的ではないかと思われます。(p.86-87)


なるほど。3回程度までは普通でもしばしばあるので、それを明らかに超えた回数として5回ということだが、現実的なラインであるように思われる。



「私どもは、すべてのお客さまに同様のサービスを提供することが誠意だと考えております。一部のお客さまに例外を認めることを、誠意とは考えておりません」(p.93)


「誠意を見せろ」と言われた場合に対する回答の例として挙げられているが、こうした公正さに対する考え方が前面に出ている点が、先にも述べたが本書が公務員向けとして書かれていることによる特徴的な点だと思われる。



大声を出す人は、それを圧力として、クレームでの自分の立場を優位に置こうとしているわけです。
 ……(中略)……。
 あまりにひどいようなら、威力業務妨害罪に当たることを視野に入れて冷静に記録を取ります。(p.104-105)


こうした態度をとる人というのは、行政や企業というものが個人に対して反撃に出ることはないと甘く考えているのだろう。自分は「市民・国民」や「お客さま」であり、行政や企業には自分の方が優位にあるものとして対応しなければならないと勝手に思い込んでいるように見える。しかし、不当な方法による要求は犯罪行為に当たることさえある。企業よりも行政の方が、むしろ風評による売り上げへの影響のようなことを気にする必要がない分だけ不当な要求に対しては強く対応できると思われるということを考えると、やはりこうしたやり方でのハードクレームは賢いやり方とは思えない。



「帰ってほしい」と言わなくては、居座りは成立しません。閉庁時刻を過ぎても理由なく居座るのは、不退去に当たります。「電話を切らせてほしい」と言っても「切ってはダメだ」と言うなら、回線の占有、業務妨害です。「帰りたい」と言っているのに、帰してくれなければ監禁です。(p.106)


しつこいクレームも犯罪に該当しやすい行為である。対応する側もそのことを十分理解して対応すると心に余裕を持って対応できるように思われる。



「大変、驚かれたことと思います。申し訳ございません」(p.177)


客観的な事実確認が取れていない段階では、こうした相手方の感情の動きに対してマジックフレーズとして謝罪のフレーズを使うというのは適切なやり方と思われる。このフレーズは機会があれば使ってみたい。



 上司を呼ぶタイミングに決まりはありません。あまりに早く上司が出て、説明を始めてしまっては担当者の存在の意味がありません。かといって、そこに上司がいるにもかかわらず、何が何でも出ませんということでは、お客さまは誠意を感じないでしょう。
 上司を呼ぶタイミングはお客さまが怒りを覚える前に、できればこちらから意図的に呼ぶのがよいと思います。「この問題は重要なので、上司を同席させてください」「私の一存では決められませんので、上司を呼びます」などと理由をつけて呼ぶようにします。(p.178)


「上司を出せ」というよくある主張に対する対応。相手の主張の内容と上司が実際普段行っている業務内容などによっても、このあたりの対応の仕方は変わってくる。さらに言えば、上司の仕事上の力量がどの程度あるのか、ということによっても最適解は異なってくる。そうしたことを踏まえて事前に組織の中で議論しておくのがよいのだろう。

本書は行政従事者向けの実務的な本だが、一般の民間企業向けのクレーム対策本との考え方や対応方法の違いなどにも注目すると、行政の役割や位置づけなどを考える上でも大いに参考になる。


ジェームズ・J・ヘックマン 『幼児教育の経済学』

子供の不利益を決定する主要な要因は、たんなる経済状況や両親の有無よりも成育環境の質であることを示す証拠はたくさんある。たとえば、ベティ・ハートとトッド・リスレーは1995年に42の家族を対象にした研究で、専門職の家庭で育つ子供は平均して一時間に2153語の言葉を耳にするが、労働者の家庭では1251語、生活保護受給世帯では616語だとした。これに対応して、三歳児の語彙は専門職の家庭では1100語、労働者の家庭では750語、生活保護受給世帯では500語だった。(p.27-28)


耳にする言葉の数と語彙の数は確かに因果関係がありそうである。さらには「耳にする言葉の質」(コミュニケーションの質)も子どもの知的および情緒的な成長とって重要だろうと思われる。



幼少期に認知力や社会性や情動の各方面の能力を幅広く身につけることは、その後の学習をより効率的にし、それによって学習することがより簡単になり、継続しやすくなる。(p.34)


本書におけるヘックマンが幼少期の教育が重要だと主張する際のポイントの一つが、このような累積的な効果にある。



チャールズ・マレー 「幼少期の教育的介入に否定的な報告もある」より

やる気に満ちた人々による、小規模の実験的努力は成果を示す。だが、それを綿密な設計によって大規模に再現しようとすると、有望に思えた効果が弱くなり、そのうちにすっかり消滅してしまうことが多い。(p.62)


ヘックマンの採用している証拠が少ないサンプルによるものであるが、大規模なプロジェクトでの効果はそれほどではない。小規模な集団で行った手法も、全国的な教育行政などの施策として実施される場合には変質しうる。



以下、大竹文雄による解説より

逆に言えば、非認知能力が大きく発達する就学前の時期に、その発達を促す教育をすることが重要で、その発達がその後の教育の効率性を高め、社会的な成功につながるのである。(p.119)


p.34からの引用文等でのヘックマンの主張に対応する解説。ここでは、教育は通常、「社会的な成功」とは何かという、その社会が価値あると認めるものへと方向づけようとして行われるものである、という点は押さえておきたい。



現実には自治体によっては、高齢化が進行する中で、教育予算を削減して福祉関連に割り当てるところも出てきている。実際、Ohtake and Sano(2010)によれば、地方分権と税源移譲の進んだ1990年代後半以降、自治体の高齢化率と教育予算の減少が連動するようになってきた。(p.122-123)


日本は教育関連予算が少なすぎることが大きな問題である。このため家計からの教育支出が多額に必要となってしまい、貧困家庭とそれ以外の家庭で教育機会の格差が拡がり、それが社会的な格差を再生産する方向に働いている。いわゆる新自由主義的な政策が進められることで削られた予算の一つが、もともと少ない教育予算であったことは銘記すべきだろう。

とは言え、安倍政権のような復古主義的反動主義に発する国粋主義的な方向で教育を進めようとすることは社会全体にとって正常な判断が出来なくなる傾向を助長するという政治的にはより恐ろしい帰結をもたらしうるものであり、本書で述べられているのとは別次元の危険な方向に向かっていることも大きな問題である。


文部科学省 『幼稚園教育要領解説』

これにより、幼稚園は法令上、
○幼稚園の教育活動その他の幼稚園の運営の状況について自己評価を行い、その結果を公表すること
○保護者などの幼稚園の関係者による評価(「学校関係者評価」)を行うとともにその結果を公表するよう努めること
○自己評価の結果・学校関係者評価の結果を設置者に報告すること
が必要である。(p.60)


あまり実効性のなさそうな評価制度である。ただ、こうした制度があるということ自体、本書を読むまで知らなかった。



 物を大切にするという気持ちの根底には、それが大切だと思える経験が重要である。したがって、最初から皆の物ということだけを強調するのではなく、初めは遊具や用具を使って十分に遊び、楽しかったという経験を積み重ねることによって、その物へのこだわりや愛情を育てることが必要である。(p.106)


この要領解説も基本的には「お役所の文書」なのだが、その中にあっても、それなりに教育の専門家や教育を仕事としている人からの視点で、なるほどねと思わせるようなことがたまに書いてある。



 幼児期においては、幼稚園や地域の行事などに参加したりする中で、日本の国旗に接し、自然に親しみをもつようにし、将来の国民としての情操や意識の芽生えを培うことが大切である。幼稚園においては、国旗が掲揚されている運動会に参加したり、自分で国旗を作ったりして、日常生活の中で国旗に接するいろいろな機会をもたせることにより、自然に日本の国旗に親しみを感じるようにさせることが大切である。(p.132)


この部分だけが、他より突出して国粋主義的な臭いを醸し出しており読んでいて気持ち悪い。本当にこんなことをしている幼稚園には少なくとも自分の子どもは行かせたくないと思うのが大多数の親の感覚ではないか。この箇所は教育基本法が国粋主義的復古主義者たち(第一次安倍政権)によって改悪されてしまったことに対応する内容だろうが、このように突出させた項目として記述していることは、そうした制約の中にあっての文部科学省の良心的な配慮なのかも知れないとも思える。

善き市民・国民なるものが育つとすれば、それはこのようなイデオロギッシュな洗脳によるのではなく、他人への思いやりなどの感覚を身に付けた上で、自らの権利をよく知り、それを守ることの大切さを知り、その上で他の人にも同等の権利があることを知り、それらの権利をいかにして調整していくのかという難問を自らの問題として捉えるような権利に対する意識の形成があってこそ育つのではなかろうか。

少なくとも、こうした感覚がないようであれば、善き市民・国民とは言えないと私は考える。例えば、自分の権利を放棄し、他人の権利も蔑ろにする人間は、人間的にであれ政治的にであれ、立派な人間だと言えるのだろうか?また、自国の国旗が蔑ろにされるときには怒りを覚えるにも関わらず、具体的な人間(国籍を問わない)が蔑ろにされていることに対しては怒りを覚えないようでは人間として失格はないか?明らかに引用した文の考え方は的を外している



さらに、学校教育法施行規則第24条第2項において、幼稚園の園長は、幼児の指導要録の抄本又は写しを作成し、これを小学校の校長に送付しなければならないこととなっている。(p.231)


小学校から中学校、中学校から高校へはこれに類するものが送られるのだろうとは子どもの頃から思っていたが、幼稚園から小学校にも法令で規定されているとは知らなかった。まぁ、学校を運営する側の立場に立てば、こうした引き継ぎが行われることは必要であり、当然と言えば当然だが。



藤田文子 『北海道を開拓したアメリカ人』

 外国人の雇用にあたって、黒田はとくに「風土適当ノ国ヨリ開拓ニ長ズル者ヲ雇ヒ」いれることの重要性を強調した。その点で、日本人のイメージのなかにあるアメリカは、まさにぴったりの国だった。アメリカには北海道と似た風土をもつ地域があり、未開地開拓の経験も豊富であることを知っていた。また当時のアメリカが、南北戦争後の南部再建や国内開発に専念し、他国――とりわけロシア――との関係に巻きこまれていないことも、開拓だけでなく防衛にも大きな関心をもっていた開拓使にとっては、好都合だった。(p.23)


なるほど。前段の理由はいろいろなところで述べられているが、実際には後段の理由を前提として成り立っていたように思われる。



 ケプロンの一行が日本の発展に多くの貢献をすることは当然とみなされた。しかし、それにもまして新聞が強調したのは、日本との貿易が増大し、アメリカの産業が活発になることへの期待だった。……(中略)……。
 アメリカ人専門家を雇うにあたって、日本側の期待は、北海道の開拓に必要な知識・技術をもつ人材をえたいという具体的なものだった。これにたいして、アメリカ人の反応は多分にロマンティックで、文明の先進国として後進国を指導するという役割を甘美なものとして受けとめた。(p.26)


お雇い外国人を雇ったことについて、日本側でどのような影響があったか(何がもたらされたか)といったことはしばしば語られるが、人材を日本に送る側の社会でどのように受けとめられていたかといったことはあまり語られない。開拓使にアメリカ人お雇い外国人が雇われる際のアメリカ側の反応として、経済活性化という関心があったという点は非常に興味深い。

実際に、お雇い外国人が北海道に来た後、アメリカからいろいろなものを購入しているからである。蒸気機関車(義経号、弁慶号、しづか号など)、農具、牛などまでいろいろなものを購入している。その意味では、多少はアメリカの産業に貢献した面はあったのではないか。派遣した人数の割には日本にそれなりに多くのものを売ることができたとは言えそうである。



 正義感の強いライマンにとってとくに我慢できなかったのは、一部の個人を優遇する開拓使の政策だった。開拓使は、北海道に商人を誘致するために低利の融資を提供していた。……(中略)……。
 漁場の賃貸制度も自由競争とは相いれなかった。実質的な独占権を手にする少数の網元はまるで「大名」のようだった。たしかに彼らは、自分をたよりとする漁師やその家族のめんどうをよくみてはいるが、特権をもつ者と依存する者との関係にはかならず「抑圧」の要素がふくまれるし、個人の自発性も育たないと、ライマンは指摘した。また、網元たちが低利の融資をえていることも問題だった。(p.89-90)


ライマンは本書によるとかなりリベラルな思想を持っていたようであるという点が興味深いが、開拓使が一部の個人を優遇する政策をとっていたという点はよく理解する必要がある。



 ダンはウィリアム・スミス・クラークが教頭である札幌農学校にも批判的だった。クラークが「有能な優れた指導者であり組織者」であることも、「知的にも道徳的にもすぐれた」学生たちを集めたこともダンは認めたが、マサチューセッツ農科大学をモデルとする学校が北海道の開拓に役立つとは思えなかったのである。ダンは、農閑期の冬のあいだだけ机にむかう小規模な農業専門学校で十分だと思った。しかし日本人は高等教育機関には敬意をはらうが、実践的な地味な学校には関心をもたないだろうとダンは思った。案の定、予算不足をなげくダンの目の前で、巨額な資金に支えられた札幌農学校が誕生し、クラークは「日本全体、そしてとくに北海道の恩人としてたたえられた」のであった。(p.128)


エドウィン・ダンのこの見解は現在から見ると、評価がなかなか難しいところがある。当時の短期的な農業事情を考えると、確かにダンの言うような専門学校で足りたかも知れない。ただ、札幌農学校がアメリカのカレッジを模倣して高度な教育を行ったことは、中期的に見ると、その後の北海道におけるリーダー育成や道外からのリーダーとなりうる優れた人材を集めるという点では効果があったと思われる。廣井勇による北海道の港湾の設計や新渡戸稲造による遠友夜学校やスミス女学校をはじめとする教育への貢献などがすぐに想起される。もう少し長期に見ると、札幌農学校がある程度高度なレベルの学校として基礎が与えられていたが故に北海道帝国大学が発足できる可能性を高めることができたとも言える。

ただ、札幌農学校が開拓使の時代にかなり優遇された立場にあったということも事実のようであり、それはお雇い外国人の過ごしやすさにも影響を及ぼしており、農学校教師のブルックスが開拓使が雇った外国人の中でも最長の滞在年数だったことにもそれが表れている。



 たしかにクラークは、開拓使に雇われた他の外国人とくらべると、大幅な自由をあたえられたが、それでも完全に自由だったわけではない。しかし妥協が必要なとき、クラークはそれに応じる柔軟性を示した。(p.155)


柔軟性があったという点はクラークが現在にまで語り継がれるほど「成功」した要因の一つだと思われる。本書で取り上げられているかなりの数のお雇い外国人は、ある意味、現在の常識的な基準から見ると傲慢過ぎたり自己中心的過ぎて問題(開拓使や他のお雇い外国人たちとの軋轢)を起こしていたという面が否定できない。クラークにはそうした軋轢が相対的に少なく、周囲との関係がこじれていなかったことは、それだけ多くの人から慕われることができたことの背景となっていたと言える。



 ペンハローとブルックスが札幌農学校の仕事に満足した理由のひとつは、アメリカで土木技師として活躍することに執着があったホイーラーとはちがって、日本に来ることが仕事をえる機会だったということである。(p.173)


母国に帰国した後の栄達のための手段として日本での経験を位置づけていたお雇い外国人は日本での経験に対する評価が否定的な傾向があったようである。これでは日本での活動が単なる手段であることになるため、そこに充実感を感じる余地は少ないのも無理はないだろう。



開拓使時代の経営費総額は二千万円をこえ、同じ時期の内務省と工部省の歳出総額二千六百万円に迫るものであったにもかかわらず、開拓使が廃止されたとき、北海道の大半が依然として未開のままだった。(p.193)


開拓使の予算規模がいかに大きかったかが分かり興味深い。開拓使以後の時代の北海道は、公的支出を抑えて民間主導を方針として運営されていく。



しかも、この「札幌新道」は、経由地点の室蘭がまだ港として整備されていなかったことや、良質の石が手に入らないために補修が困難だったことからあまり使われず、鉄道が開通するまでは、小樽から石狩川を通って札幌にいたるルートが主に使われた。(p.197)


せっかくかなりの予算を使って道路ができたのに使われなかったとは。しかし、中長期のスパンで考えると札幌新道は結果的に無駄ではなかったとは言えるだろう。この道路と作ることに対する評価は難しい。


ダンカン・ワッツ 『偶然の科学』

 このように、常識の矛盾とは、世界に意味づけをするのに役立つにもかかわらず、世界を理解する力を弱めてしまうことだ。(p.13)


世界のメカニズムを理解することとそのメカニズムの意味を見出したり解釈することは別のことであるが、常識は前者が得意ではなく、後者を得意としているという。だから常識で世界を理解しようとすると誤りやすい。

思うに、情報に分かりやすさを求めてしまう傾向が広くみられることも(例えば、マスメディアで政治を取り上げるとき、ワイドショーで取り上げられると「盛り上がりやすい」など)、人間のこうした性質と関係があるように思われる。



 これらの心理学の実験が明証していることを一言でまとめるとこうなる――われわれの行動にきわめて現実的、具体的な影響を与えるにもかかわらず、もっぱらわれわれの意識しないところで働く関係要因は実に数多くある。(p.54)


本書の前半は方法論的個人主義が批判されるが、ここでの指摘の内容はウェーバーの理解社会学の方法(これは本書で言う「常識」に基づく方法に属する)が、いかに社会における因果関係などを把握するのに適切ではないかを示すものである。



ダ・ヴィンチは賞賛されてこそいたものの、1850年代まではティツィアーノやラファエロのような絵画の真の巨匠には及ばないと見なされており、このふたりの作品の一部は<モナ・リザ>の10倍近い価値があった。
 実のところ、<モナ・リザ>が急激に人気を博して世界に名を知られるようになったのは20世紀になってからである。……(中略)……。すべてのきっかけは、一件の盗難事件だった。(p.72)


このあたりの経緯(ここでは詳細に引用しないが)も非常に面白い。



われわれは芸術作品をその特質に基づいて評価しているように思えるが、実は反対のことをしている。つまり、まずどの絵が最高かを決めたうえで、その特質から評価基準を導き出している。こうすれば、すでに知っている結果を一見すると合理的かつ客観的な形で正当化するのに、この評価基準を引き合いに出せる。しかし、これがもたらすのは循環論法である。われわれは<モナ・リザ>が世界で最も有名であるのはXとかYとかZとかの特質を備えているからだと言い張る。だがほんとうのところは、<モナ・リザ>が有名なのはそれがほかの何よりも<モナ・リザ>的だからだと言っているにすぎない
 ……(中略)……。だが、いま述べたような循環論法、つまりXが成功したのはXがXという特質を持っていたからだとする論法は、何かが成功したり失敗したりする理由を常識に基づいて説明するときに広く見受けられる。(p.75-77)


ここでの指摘はウェーバーの理解社会学で行われている手続きに対しても全く同様に当てはまるものであり、方法論的個人主義の問題点を的確に抉り出していると思われる。



 方法論的個人主義の主張者は、この根本中の根本の説明ができると考えていたが、あいにくそれを打ち立てようとする試みは、ことごとくミクロ-マクロ問題に正面から阻まれてきた。そのため実際のところ社会科学者は、代表的個人と呼ばれるものを引き合いに出し、この架空の個人の決断に集団の行動を代弁させている。(p.84)


実際、私自身もミクロ・マクロ問題が解決できる方法としてウェーバーの理念型を用いた理解社会学の方法をかつて非常に高く評価していた。



 言い換えれば、われわれは結果の原因をひとりの特別な人間に求める誘惑に駆られるが、この誘惑はわれわれがそのような世界の仕組みを好むからであって、実際にそのような仕組みになっているわけではないことに留意しなければならない。……(中略)……。
 このようにして常識に基づく説明は、なぜ物事が起こったかを教えているように思えても、実は何が起こったかしか述べていないのである。(p.155-156)


ここで指摘されていることは、政治について話題にする場合に、政策論よりも政治家のスキャンダルや問題発言などの方が話題になりやすいこととも関連があると思われる。



したがって、進行中の歴史は語りえないのであって、その理由は当事者たちがあまりに忙しかったりあまりに混乱していたりして歴史を解き明かせないからだけでなく、起こっていることは結果が明らかになるまで意味づけができないからでもある。(p.161)


なるほど。



 要するに、うまく機能したチームがすぐれた結果を出したのではなく、見かけ上のすぐれた結果がチームはうまく機能したという錯覚をもたらしたことになる。そして注意していただきたいのだが、この評価は内部情報を持っていない外部の観察者がくだしたのではない。チームのメンバーたち自身がくだしたのである。つまり、ハロー効果は成績や実績にかかわる世間一般の通念をくつがえす。結果の評価はそれに至った過程の質で決まるのではなく、観察された結果の性質が過程の評価を決めるのである。(p.279)


能力給や成果主義、短期的な人事評価制度などといったものがうまくいかないのも、ここで述べられている点と関連が深いと思われる。見かけ上のすぐれた結果を得たチームにいれば評価され、実際にうまく機能したかどうかは問われない。評価は偶然によって生まれた結果によって決まってしまう。これでは意欲が削がれるのも当然であろう。



 この累積的優位の効果と生まれながらの才能や努力の差とを区別するのはむずかしいが、似た能力の人々をどれだけ慎重に選ぼうとも、マートンの理論が示すとおり、その成功の度合いは時間とともに大きく異なってくることが、数々の研究によって明らかにされている。たとえば、不況時に大学を卒業した人は、好況時に卒業した人より、稼ぎが平均して少ないことが知られている。(p.289-290)


偶然のもたらす結果の違いは大きい。


草原克豪 『近代日本の世界体験 新渡戸稲造の志と拓殖の精神』

 なお、台湾協会学校と並んでこれまたユニークな学校としては、1901(明治34)年に上海に設立された東亜同文書院がある。こちらは主として中国語・中国文化を学ぶための学校で、1939(昭和14)年には大学に昇格したが、日本の敗戦とともに廃止され、愛知大学に受け継がれることになった。かつての施設は現在は上海交通大学として使われている。(p.45-46)


帝国主義や植民地主義を実施しようとする社会においては、自国の影響下に置きたい地域についての関心が高まることが反映していると思われる。戦前のかなりの長期間にわたり仮想的国であったロシアなどについてももっと学んでよかったのではないかと思われる。



 この頃には、日韓併合が実施されたこともあって、卒業生の就職先では朝鮮が一番多くなった。朝鮮においては貧しい農村の窮状を救うための金融組織として1907(明治40)年に朝鮮金融組合が設立されたが、その第一期理事30名の全員が東洋協会専門学校の出身者であった。
 ……(中略)……。
 こうしてみると、卒業生の三分の二近くが外地で活躍しており、そのほとんどが朝鮮、台湾、満蒙、中国を舞台に活躍していたことになる。
 ……(中略)……。
 このように外地で活躍する人材を育てることが拓殖大学の建学当初からの目的であり、その目的を達成するための組織的な教育が行われていたところに、拓殖大学の伝統と特色を見ることができる。(p.68-70)


東洋協会専門学校は拓殖大学の前身となった学校である。もともと台湾協会学校として台湾統治のための人材育成のための学校であったが、この目的は日本の領土や海外利権の拡大によって拡張され、この学校の場合はかなり直接的に人材供給を行ってきたことが分かる。

北海道という植民地支配のための人材を育成することを目的として設立された札幌農学校(北海道帝国大学)の卒業生を見ても、外地で活躍した者がそれなりの数いたことがしばしば指摘されるが、こちらの場合は主に技術者や技官としての活躍(理系的)が多いように見受けられるのに対し、拓殖大学の前身の場合はここで例示されているものも金融であり、どちらかというと文系的な職で活躍した人が多かったのだろうか?



 学長に就任した当時の後藤は、日露協会副会頭として日露親善の推進に力を入れていた。翌1920(大正9)年には会頭に就任し、日露の親善を実現するためにはまずロシア語の習得が必要と考えて、ハルピンに日露協会学校(のちのハルピン学院)を創設したりしている。(p.79)


後藤新平の活動は多方面にわたっており感心する。



 拓殖大学の学長に就任した後藤新平は、前年に大学令が公布されたことを踏まえて、拓殖大学を大学令に基づく大学に昇格させることを決意した。……(中略)……。
 大学に昇格するためには、教育研究内容の充実をはじめとして種々の準備が必要であった。なかでも重要かつもっとも困難な課題は、50万円という文部省への供託金をどうやって調達するかであった。図書館の建設も認可条件のひとつとなっていたが、そちらのほうは卒業生の浄財を集めてようやく完成させることができた。その建築費が約4万5千円であったことを考えると、当時の50万円がいかに巨額なものであったかが理解できよう。このほかにも本館校舎や付属設備、運動場などの建設に25万円ほどの資金が必要とされたが、こうした資金のほとんどが後藤学長の名声と並々ならぬ努力によって台湾の製糖会社からの寄付金によってまかなわれたのである。(p.80-81)


後藤新平の働きかけなどもあって台湾の製糖会社から多額の寄付が得られたという点は興味深い。当時の台湾で最も有望な業会だったことも反映している。



 アメリカの排日運動は、日露戦争以前からカリフォルニア州のサンフランシスコで起こっていた。……(中略)……。
 ……(中略)……。パリ講和会議において日本代表が人種差別撤廃を提案した背景にはこうした事情があった。(p.102-104)


日本の人々が欧米から差別を受けている時だからこそ、日本政府は人種差別撤廃を訴えている。問題は、日本側が台湾や朝鮮などを統治するにあたって彼らを差別しないという誓いから出てきているわけではないようだ、ということである。



 大学よりも簡単に設置できる専門学校では、1939(昭和14)年に官立の高等工業学校が室蘭、盛岡、多賀、大阪、宇部、新居浜、久留米に一挙に七校も発足した。同じ年、戦争による医者不足に対処するために、七帝大医学部と官立六医科大(新潟、千葉、金沢、岡山、熊本、長崎)に医学専門部が併設された。……(中略)……。
 文部省は1943(昭和18)年10月の「教育に関する戦時非常措置方策」に基づいて、私学に対しても、文科系の規模縮小、理科系への転換を指示した。(p.188-189)


工学や医学を推進し、文系学部の縮小するという当時の政府の方針が見える。なお、室蘭高等工業学校は戦後に室蘭工業大学の前身の一つとなったが、他の6校も同様に新制の国公立大学の工学部になっている。


蝦名賢造 『札幌農学校 クラークとその弟子達』(その2)

 またスミス女学校の第一期卒業生であった河井道子が、のちに東京世田谷・経堂に恵泉女学園を創設するにあたって、新渡戸はその学園のために積極的に協力したが、それは札幌時代からの河井と新渡戸との深い信頼と尊敬によるものだった。(p.166)


恵泉女学園はスミス女学校(現在の北星学園)の卒業生が創設したとは知らなかった。新渡戸が協力したという点はスミス女学校の設立にも関わっているので理解しやすい。



札幌農学校が明治維新以降の日本の近代化にたいして各分野にわたってはたした功績は広汎であり、また多様だった。とはいえ総じてその役割は、河上徹太郎の言葉を借りると“日本のアウトサイダー”としてであったと思われる。1867(明治9)年に創設された札幌農学校独自の精神は、まず第一に農学校教頭クラーク博士が教育の根本原理として「聖書」にもとづくキリスト教主義のもとに、その文化と教養とを植えつけようとしたことだった。そのことは、わが国においてはまったく最初の画期的な試みだった。
 つぎに、農学校教育と経営にあたる指導者たちは、近代日本の建設に必要なものは単に法律、経済、政治などの社会科学部門だけではなく、理学、自然科学などを修学して産業をおこすことが必要であると説いた。それが農学校教育の眼目となった。このような考え方は、明治初年における青少年の一般的な夢と希望が、いわゆる青雲の志をいだいて東京帝国大学に入学し、主として法制を学び官吏となり、政府部門における権力の座にあって天下国家を論じようとすることであったのにくらべて、まさに正反対の行き方であった(そのような意味においては、あるいはアウトサイダーであったのかもしれない)。(p.182)


最初の段落で述べられているキリスト教主義のもとに文化と教養を植えつけるという点は、現在の北大の理念のうち、全人教育という点に受けつがれている。

但し、キリスト教的な教育が可能だったのは当時の北海道が東京から遠く隔たっており、細部までの統制ができなかったことや黒田清隆がワンマンでかなりのことを決めることができたという開拓使の権力の配分などの様々な偶然的な要素が重なっていたために辛うじて成立することができたものであり、クラークの希望がたまたま実現できたという偶然的な要素が強かった点は押さえておきたい。

後半の理学や自然科学を重視するという点も現在の北大の「実学の重視」という理念として継続性が認められる。但し、この点は北大だけの特徴とは言えず、むしろ日本の大学の全般的な特徴とでも言えるものであって、明治維新以後に語られてきた「和魂洋才」や「富国強兵」といった標語が広く受け入れられていたような事情が反映しているものだろう。その点で本書が東大が法律を学んで官吏となる学校であり、それが主流であるかのように対比しているのは、やや行き過ぎているように思われる。ただ、札幌農学校から北海道大学に至る歴史の経過を振り返ると、少なくとも東大との比較で言えば、やはりアウトサイダーとしての貢献をしてきたという特徴づけは的を射ている面があると思う。植民地開拓のための学校としてスタートしていることが、アウトサイダー的な特性の要因となっていると思われる。



新妻タケ子は群馬県安中に生まれ、新島襄から洗礼を受けて京都の同志社女学校に学んだ才媛であった。
 しかしふたりの結婚はわずか八カ月で破れた。(p.188)


内村鑑三と同志社、新島襄との関係はやはりそれなりに深いというか太いパイプがあるように見受けられる。結婚が短期間しか続かなかったのは、内村鑑三という人物の「円満な人格」とは言えない側面(人との関係が丸く収められないところがある)が関係しているのではないかという気がする。



しかし内村らを中心に反戦論がこのように公然と戦われたことは、明治以降の歴史において最初にして最後の事件であった。(p.201)


日露戦争に対して内村が反戦論を主張したことについて。明治末期にはまだ昭和初期ほどには検閲なども厳しくなく、言論の自由度も相対的に高かったということを理解しておくことは重要。なぜならば、言論の自由を侵害するに当たり、行政や警察等における組織の運用や治安維持法のような法律の存在が果たす役割の大きさに注目することになるからである。現在国会で審議されている共謀罪(テロ等準備罪という実態とは異なるレッテルを貼られている)の議論においても、こうした歴史の教訓を踏まえて議論されなければならない。残念ながら政府はまともに議論せずに採決したいと考えているようだが。



 新渡戸はボン大学で農政学、農業経済学を専攻した。さらにベルリン大学でシュモレル教授について農業史を、マイチェン教授について統計学を学んだ。(p.216)


シュモレルはシュモラーであり歴史学派の重鎮だが、マイチェンは恐らくマイツェン(Friedrich Ernst August Meitzen)であろう。彼はウェーバーが教授資格請求論文を出した先生である。新渡戸とウェーバーが意外と近い時期に似たようなコースで勉強していたという点はやはり興味深い。



そしてこれらのうち農業経済学のセミナーを“演習”と呼ぶようになったのは、新渡戸の発案によるものであった。(p.219)


確かに、大学時代の演習というのはゼミナール形式の講義のことだったが、このネーミングが新渡戸稲造にまで遡るとは当時は思いもよらなかった。



後藤がかくも熱心に新渡戸に固執したのは、東京帝国大学教授田尻稲次郎に「台湾統治の要諦は財政の独立にある。それには産業の発展が必要である。だれかもっとも適当な指導者はいないか」と相談したところ、一言の下に新渡戸がよかろうとの返事がかえってきたからであった。新渡戸は東京帝国大学で田尻から財政学、経済学を学んでいた。(p.220)


新渡戸は確かに東京帝国大学で一時学んだが、新渡戸の人生にとってはここで学んだことはあまり有意義ではないことが多かったとされる。しかし、人間関係のつながりという点では、東京帝大で一時であれ学んだことはそれなりの意味があったと言える。興味深い。



 さらに彼は糖業のみにとどまらず農事試験場をせ設立し、農産業全般の発展をも企図している。その初代の場長は、札幌農学校の教え子である大島金太郎教授が選ばれた。それ以後札幌農学校出身者にして台湾に渡り、糖政に、あるいは農業行政に従事するものが多くなっていった。こうして当時の新領土・台湾のなかに、新渡戸一流の文化的精神が注入されたのであった。(p.222)


札幌農学校の卒業生が植民地であった台湾に多くわたっていたが、このことも新渡戸が台湾総督府で働いたことがそれなりの影響を及ぼしているということか。こうした人脈を相互の関係にまで着目して追跡すると面白いだろう。とはいえ、こうした調査は研究者でなければなかなかできそうにないので、誰か調べて本にしてほしい。



 この暗闇の時代を支配する軍国主義とファシズムの勢力に、クラークの残した「ボーイズ・ビー・アンビシャス」というスローガンは、むしろ利用されはじめていた。事実、1931年以降、日本のかいらい政権として成立した満州国建設に、北大の卒業生のなかから積極的に参加するものが数多くあらわれてきたのである。(p.263)


スローガンが利用されたから卒業生が満州国に行ったわけではないだろう。この点、上記の文は誤解しやすい書き方になっているので注意が必要だろう。北海道という植民地開拓のための学校からは、台湾、朝鮮、満州と次々と植民地(的なもの)が増えると、それぞれに適任者として卒業生が送りこまれることになったと理解すべきだろう。そのような「活躍」をさせる際にスローガンが利用されたことはあり得るが、具体的にどのように利用されたのかは本書にはきちんと書いてほしかった。




蝦名賢造 『札幌農学校 クラークとその弟子達』(その1)

 そのような状況のもとで、黒田次官は北海道の開拓を促進する大方針をたてたが、そのなかで北海道と気候風土の酷似した国々から開拓技術者を雇い入れて計画をたてさせ、その見識と技術とによって開拓を進めようという意見をのべ、明治新政府によって採用されることになった。……(中略)……。黒田次官はそれらの考え方を再検討し採用したのであるが、彼がその後も北海道開拓長官として、長期間にわたる権力の座についていたことは、これらの諸政策の実施の上においてきわめて重要な役割をはたしたのである。(p.16)


北海道開拓の初動の段階で黒田清隆が長期間権力を維持しできたことは、その後の開拓を進めるにあたって大きな意味を持ったという点はなるほどと思わされた。



またこの八月、開拓使の予算が十カ年一千万円と定められ、開拓使は十年計画として資金計画を認められている。このことは、北海道開拓政策上画期的なことであった。それはケプロンの理想を具体化させる大きな原動力となったのである。(p.17)


黒田が長期間権力の座についたことと合わせて、開拓使の予算も長期的に大きな金額が認められたことがわかる。(もっともこの予算は確か後に削られたはずだが。)



ところが札幌農学校の場合、東京大学の場合と異なってクラーク自身そのお雇い教師たちの詮衡の責任と権限を与えられ、彼が学長をしていたマサチューセッツ農科大学の出身者のなかからすぐれた人材を選ぶことに成功したことが、その後の札幌農学校の運営にたいして決定的に重要な意味を与えることになった。
 すなわち、クラークが北海道開拓史とかわした一年間の契約によりその教頭の職を辞して札幌を去るようになったとしても、クラークのうちたてた教育の理念、教育の理想はその後継者たちに受けつがれ、マサチューセッツ農科大学で実施されていた教育課程がその後ひきつづき札幌農学校において実施されてゆくという教育体制がとられることになったのである。(p.62)


興味深い見解。ただし、クラークが去ってから大学のカレッジのような一般教養教育は次第に後退していったという歴史的事実から見ると、この見解の通りに歴史が辿ったわけではない

しかし、マサチューセッツ農科大学という明確なモデルがあったことには、クラークが去った後も急に方向性を変えられてしまうようなことを防ぐような効果はあったかもしれない。特に10年以上札幌農学校の教師を務めたブルックスがいた期間などには、そのようなことを示すような事件もあったのではないかと想像する。この点はさらに詳しく調べる必要がある。



そして1884年の第四期卒業生からは就職上の拘束が解かれたので、卒業生はそれぞれ自由に各方面に職場を求めていった。このことは農学校設立当初の目的から大きく後退したともいえるが、そのような札幌農学校の後退が、実は、逆に札幌農学校の「子」たちを道内のみならず全国的に雄飛させてゆく機会を提供することになったのであった。(p.74-75)


就職上の拘束とは卒業生は卒業後の一定期間、開拓使に奉職しなければならないという規定を指す。この拘束がなくなった方が、むしろ農学校の卒業生が幅広く活躍する機会へと繋がったという見方は面白い。



 しかしときあたかも日本の教育の近代化が文部大臣森有礼を中心に進められ、全国的に中等学校勃興の機運に際会していた。……(中略)……。そうした動きのなかで、農学校出身者は英語、英文学などのすぐれた教育を受け、また博物学、ことに植物学に長じていたので、全国の農学校はもとより新設の中学校、師範学校における教師の適任者として大いに歓迎されることになった。
 このような関係から、農学校の卒業生で北海道の拓殖関係の職場に奉職できなかった者は、積極的に内地各府県の中等教育界にとびこむようになった。さらにそこで職場がえられない場合には、遠く台湾、そしてのちには朝鮮、満州方面、さらには南米諸国にまで雄飛していった。(p.105)


中等教育勃興の機運が高まったとされているのは明治10年代後半ころのこと。開拓使への就職が義務から外れたとき、ちょうど中等教育の需要が高まっていたこともあり、札幌農学校の卒業生は中等教育の世界を進路とした。台湾などの植民地にも多くの卒業生を送りこんでいる点は、北海道開拓という植民地開拓のための学校という設立時の目的が時代の変化によりバージョンアップして実現したという面があるように思われる。

卒業生は多方面で活躍していると本書は言い、それは農学に偏らない人間形成主義の教育をしていたことの結果であると本書は述べているが、その指摘には一理あるように思われる。



しかもこのような事実以上に重要なことは――それが本書の主題の重要な側面を形成することになるのだが――昭和の初期にはじまる十五年戦争の暗い谷間と疾風怒濤の時代に、日本の平和と独立をめざして闘った戦士のなかに、実にクラークの弟子たちの感化を受けた札幌農学校の「子」が多くふくまれていたということ、しかも戦後の日本の再建にあたっても、これらクラーク精神の継承者たちがその使命を担っていったということなのである。(p.107-108)


この箇所は本書の隠れたテーマというか著者が本書を書くにあたってのモチーフとして非常に重要な箇所である。本書は1980年に出版されているが、この時代はオイルショックの時期を経て低成長の時代へと変わっていくにつれて新自由主義やネオコン的な保守主義が台頭しつつあった時代である。著者はこうした時代の雰囲気に対して、クラークとその弟子たちを描くことを通して、抵抗しようとしていたようである。



 北海道帝国大学独立の基礎はこうして着実に築かれていったが、その背後には、親友であった一代の政治家原敬などによる積極的な協力があったことも見逃すことができない。(p.111)


佐藤昌介が北大に対して貢献があったことは否定できないとしても、大きな貢献をしたという論が多くある一方で、過大評価してはならないという批判もあり、どの程度が彼の貢献なのかは今一つはっきりしないと思われる。それはさておき、原敬の「積極的な協力」の内容についてももう少し詳しく知りたいところである。



 広井は鉄路課に勤務中、北海道最初の鉄道である小樽-幌内間の工事に従事している。(p.126)


廣井勇と小樽の関係では、小樽築港工事がまず思い浮かぶが、幌内鉄道の建設の頃からかかわりがあったとは面白い。ここではどのような仕事をしたのだろう?



広井はこのようにいわれるまで刻苦して貯えた資金をもとに1883年12月10日、横浜を発って渡米した。この広井の行動が同級生の洋行の刺激となり、翌年9月には新渡戸稲造(23歳)、つづいて11月には内村鑑三(24歳)、さらに1886年には宮部金吾(27歳)の順にアメリカに渡ることになり、おたがいにそれぞれの専門分野の研究にいそしむ結果をひきおこすことになった。このことはまた、のちに日本の学界、思想界、精神界に一時代を画する前ぶれともなったのである。(p.126-127)


同級生同士での切磋琢磨ないし競争意識のようなものがあったという見方は興味深い。新渡戸や内村などを単独で扱う視点では見落とされがちな見方かも知れない。



 広井が土木工学科の主任教授となり、北海道庁土木課長を兼任したとき、彼はまだ弱冠22歳であった。貿易港として発展の途上にあった函館や、道内最盛の商港になった小樽港の築港は、彼の設計と指導によるものだった。広井はその後、日本の主要港湾となった室蘭、釧路などの築港や鉄道敷設に従事し、北海道開拓の基本施設たる鉄道、港湾建設に貢献するところ多大だった。(p.127)


廣井勇が北海道の港湾に残した功績は確かに大きなものがある。鉄道についてもいろいろと仕事をしていたというのは港湾ほどには注目されないのはどうしてだろうか?まずはどのような仕事をしていたのか知りたい。


小菅桂子 『カレーライスの誕生』

 彼は明治3年、16歳のとき、会津藩から選ばれて、国費留学生としてアメリカへわたる。北海道の開拓を司っていた政府機関の開拓使が、北海道と似た環境の、寒さの厳しい東北から十数人の少年を選抜して、アメリカで開拓者精神と開拓技術を学ばせ、開拓に役立たせようという国策に基づくものであった。(p.13)


山川健次郎についての記述。開拓使が少年をアメリカに留学させたというのは、今まで読んだ文献でも何度か目にしていたが、東北から選んでいたというのは今まで気付かなかった。しかし、山川健次郎は帰国しても北海道の開拓には関わったという話は聞かない。そのあたりの経緯ももう少し詳しく知りたい。



ヘイスティングズがイギリスにカレーを紹介したのは1772年であるため、ヘイスティングズが直接「ヴィクトリア女王に献上」したわけではないが、ヘイスティングズが持ち帰ったカレーはやがてイギリスの社会に浸透していったのである。
 その背景にあったものとはイギリスの食文化の貧しさである、と指摘する人もいる。調味料ひとつをとっても、ろくなものがなかった、それが二人に福を呼ぶことになったというのである。
 ウスターソースやケチャップの類がイギリスで生れたのもおなじ理由からで、東南アジアに植民地を築いていたイギリスは、アジアの美味をつぎつぎとイギリスに持ち帰らせ、アレンジしてイギリス人の舌に合わせた味に仕立て上げ愛用するようになった。二人が開発したカレー粉についても、インドのガラムマサラというお手本をもとに作り上げたのではないか、と推測することもできる。(p.52)


なるほど。カレーやウスターソース、ケチャップはもともとは貧しかったイギリスの食文化を背景として、東南アジアとの接触により開発されたというわけか。食文化が貧しくなくても、異なった食材が容易に入手できるようになればこうしたことは起りうると思う(例えば、イタリアにおけるトマトなどが想起される)が、こうした調味料がもたらされた(開発された)ことにより、イギリスの食文化がそれ以前よりも豊かになったことは確かだろう。



 西洋野菜の栽培には北海道が大きく関わっている。しかも開拓使によるところが大きい。(p.72)


日本のカレーにはジャガイモ、ニンジン、玉ねぎという「西洋野菜」が三種の神器として使用されることに関連する記述。カレーというものを追う中で、新たな探求課題に突き当たったと感じる。



 ライスカレーが日本人の食卓に普及し定着した背景には、漬物、それも福神漬との名コンビが大いに存在感を発揮している。
 牛丼のトッピングにショウガが付きものであるように、トンカツには味噌汁と漬物、ご飯がセットになってはじめて日本人の定食として定着した。つまり西洋料理は和洋折衷的なコンビを組めたものが、国民食として市民権を得ているのである。(p.122-123)


確かに、一般の市民の家の食卓に上がるためには、既存のものとの組み合わせは重要になってくる。それ以外の同時に食卓に乗る食べ物との相性にも繋がっていくだろうし。



 明治20、30年ごろは一般家庭で惣菜に西洋料理がならぶことはなかった。「和洋折衷」という言葉は、明治の終わりごろからよく使われるようになってくる。(p.136)


生活水準がある程度上がってくるのが明治30年代以後であることが、30年ごろまでは西洋料理が並ばないこととは関連があると思われる。



豚は明治30(1897)年を過ぎるころまで統計資料もなく、豚は統計以前の存在だったのである。

 豚の需要が伸びるのは明治も30年代後半のことで、その背景には、戦争という事情があった。
 日清、日露の戦争が起こって牛肉の缶詰が軍需食糧として盛んに戦地へ送られるようになると、牛肉の相場は暴騰して、明治37(1904)年には10貫目(約38キロ)14、5円だった牛肉が翌春には25、6円という極端な高値となる。……(中略)……。
 こうして市場に流通する牛肉が減り、値上がりしてくれば、安い豚肉に関心が向き、豚の飼育頭数は急増してくる。……(中略)……。
 以来関東では豚肉が定着して、カレーでいえばビーフカレーよりポークカレーが普及している。また、もしこうした背景がなかったら今日ポークカツレツ、つまりトンカツ、カツ丼、カツカレー人気はなかったとも考えられる。
 これに対し、関西は牛肉の産地を控え関西人をますます牛肉党にしてしまったのではないだろうか。(p.152-153)


関東では豚肉、関西では牛肉を使うことが多いことの歴史的背景。大変興味深い。