アヴェスターにはこう書いている?
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老川慶喜 『日本鉄道史 大正・昭和戦前篇 日露戦争後から敗戦まで』

 その後、1931年には満州事変、32年には上海事変と、戦争への道を突き進み、国際観光局の外客誘致宣伝活動にもかかわらず、外国人観光客の数は低迷した。しかし、1933年に国連から脱退したのを契機に円貨が暴落すると、外国人観光客が増えはじめた。(p.154)


昭和初期の旅行ブームについて背景の一つとして知っておいてよいかもしれない。



 国民精神総動員運動の一環として奨励されてきた「神社巡り」などの行楽旅行も、全面的に制限を受けるようになった。三等寝台車や食堂車も廃止され、一般の「不急不要」の旅行は、次第に窮屈なものとなった。国民精神の振興と尽忠報国の名のもとに存続してきた修学旅行も、1943年には学生や生徒が戦時動員されてしまったため、実施できなくなった。(p.201)


戦前における神社巡りや修学旅行の意味づけは興味深い。当時の政府は本音で言っていたのかも知れないが、それを言われていた側(教師や生徒たち)が、建前として受けとっていたのか、本音で受け取っていたのか?



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水谷周 『イスラーム建築の心――マスジド』

 90年代に入って建立されたマスジドはほぼ10カ所だが、2000年以降のそれは35カ所ほどに上る。90年以前はほぼ10カ所であったので、これで約五倍増という計算になる。2000年以降の特徴としては、それまでは関東中心であったのが、中部地方に多数できて、さらには北海道(札幌写真3、小樽)、九州(別府、福岡)、四国(徳島、新居浜写真8)と全国に広がったことである。(p.35)


日本では2000年以降にモスク(マスジド)が多数建てられるようになったことがわかる。何故なのか?興味がある。



 それよりもここで指摘したいのは、モスクという名称にこだわっているという点である。これがイスラームに対する侮蔑後の起源を持つと考えられることは、序章で述べた。そうでなくても、モスクは欧米語である。したがって○○モスクと称することは、例えば法隆寺という代わりに、法隆テンプルといっているようなものだということになる。(p.37)


著者はイスラームの礼拝所を「モスク」と呼ぶべきではなく、「マスジド」(あるいは「礼拝所」)とするべきだと考えているというのは、本書を貫くスタンスである。

モスクという言葉が仮に最初は侮蔑後だった言葉であったとしても、大事なのは、今現在の人々が、この語に侮蔑的な意味合いを感じるかということの方が遥かに重要であるように思われる。かつて侮蔑後だったもののニュアンスが反転している語というものも世の中には多く存在する。また、ムスリムたちも特に問題を感じずに「モスク」という言葉を使っているところなどからも、この語がかつて侮蔑語として使われていた語に起源をもつとしても、そのことを以て使うべきではないとするのは過剰反応であるように思われる。



内装では、鍾乳石のように垂れ下がる多数の曲面がドームの内面一杯を飾る、ムカルナスという構造になっている。その人間業とも思えないような飛びぬけた美しさで有名だが、この技術は元々イランを原産地としているので、13世紀モンゴルの襲撃によって逃げてきたイラン人たちが作ったのではないかと考えられる。(p.100)


一見すると、この記述には奇妙な所がある。ムラービト朝(11~12世紀)の建築について説明するに当たり、13世紀のモンゴルによる支配によって説明しているからである。ムラービト朝期に最初に建てられたモスク(マスジド)が、その後、再建や増築されたということなのだろう。

いずれにせよ、モンゴルの支配とイラン人などの移動による建築技術や建築意匠の伝播というのは興味深い問題である。



 そして各地で見られる光沢のあるタイル装飾こそは、イラン趣味の最たるものだと言えるだろう。それは肥大化してきた正門やドームなどを飾るのに必要であったと同時に、逆にタイル装飾を見せるためにそれらが巨大化してきたとさえ思える。各地の仕事ぶりや仕上がりを比較すると、あまりに似ていることが指摘され、同じタイル職人のチームが各地を回って作業にあたったのではないかと推察されている。(p.125)


イル・ハーン国に創建されたモスク(マスジド)についての記述だが、正門やドームの巨大化とタイル装飾との相関関係についての指摘は興味深い。この相関関係について検証することは難しいだろうが、いずれにせよ、両者が相俟ってイランの様式の建築の美を形作っていることは間違いない。



少し皮肉のように聞こえるが、この時期のマスジド建築にはセルジューク朝時代に比べてそれほど構造的に新規なものはなく、むしろ従来のものを踏襲したにすぎず、それを装飾芸術がカバーしているという風に評する人もいるくらいである。
 第五代君主アッバース一世(1588-1629年統治)の命により1612-1630年に建設されたマスジド・アルイマーム(在イスファハーン)写真38は、この時期の代表的なものである。シャー広場に臨む形で建造されたが、そのシャー広場そのものが、北京の天安門広場か、パリのコンコルド広場のように、国家の威容を示すために造られたものであった。(p.126)


サファヴィー朝の建築についての記述より。イランのイスラーム建築の最盛期とされるサファヴィー朝建築に対し、本書はあまり高く評価したがらない傾向がある。初期の素朴というか簡素なモスクを著者が好んでいることがこの点に反映している。著者にとっては信仰者として祈りやすい、祈りに集中できる、そういった建築が好ましいと評価しているためであり、イランの様式などはやや華美だと感じているように見受けられる。

とは言え、この時期の建築には構造上の新しさはないという指摘は興味深い。また、シャー広場(イマーム広場)が国家の威容を示すために造られたというのは妥当な指摘である。


内藤辰美、佐久間美穂 『戦後小樽の軌跡 地方都市の衰退と再生』(その2)

 明治中期になると高島は次第にコミュニティとしての要件を備えていく。「明治17年11月、祝津学校分校として高島学校が発足、この年にはまた高島墓地も現位置に設定、高島稲荷(元禄3年)、祝津恵比寿神社(安政3年)の建立や寺院(正法寺―明治初年色内庁、浄応寺―明治13年手宮裡)の開山(同上:108-109)があった。墓地の設立はここを郷土とする人々が多くなってきたことの表れである。そして、「この頃、高島、祝津も移住が相次ぐ。高島へは越後(新潟)を主として越中(富山)、加賀(石川)から家族を挙げて移住・定着する」人が増えてきた。(同上:108-109)。(p.342)


祝津小学校は平成25年(2013年)3月31日で閉校となっており、学区としては高島小学校がかつての祝津小学校の学区を組み込むような形であったと思うが、歴史的には祝津学校から高島学校が出てきていたというのは興味深い。

墓地設立がこの地を郷土とする人々が増えてきたことの反映というのは納得。



 高島における越後盆踊りは内地から北海道の地、高島に移植された文化である。『新高島町史』は記述する。以下、『新高島町史』に目を向けてみることにしよう。「明治初期の頃から現在の新潟県北蒲原郡北部郷地方の村々は高島に移住者を出していた。特に藤塚浜では村の三分の二が焼失するという大火があり、それを契機に大量の移住者が現れた。現在、高島に多い、須貝・本間・小林という姓はその先祖は藤塚浜からの移住者である。(p.343)


北海道への移民について、どのような人々がどのような時期に移動していたのかというのは興味を持っているテーマの一つだが、火災で集落が被害を受けたことが契機となった地方もあったということか。こうした事例はどの程度あるのか?



越後盆踊りの歌詞は恋愛や性に関する内容を含んでいたために第二次世界大戦中は禁止された歴史がある。(p.350)


このことはあまり語られていないように思う。



高島は文化活動の盛んなところでもある。文化活動の拠点が高島町会館。この建物は町民の寄付と市の補助金で建てられた。土地は旧高島小学校跡地。この土地は一度市に寄付されたあと、市はここに支所をおいていたが、支所が廃止されてからその跡地に現在の会館を建設した。(p.351)


現在の高島会館が竣工したのは平成11年(1999年)のことだが、この場所が旧高島小学校の跡地ということか。現在、敷地に隣接する場所に広い駐車場があるが、ここは高島保育所があったという情報もある。斜め向かいには旧高島町役場の庁舎もあることから、一時期は高島という町の中枢をなす場所だったと言えそうである。今の現地は、旧庁舎と会館の存在によって辛うじてそうした面影を残しているものの、それ以外にはそのように思わせるような要素はほとんどないように思われる。



小樽市は日本資本主義と小樽市がおかれている歴史的位置を冷静に分析し、向かうべき方向を確認しなければならない。一時的な誘惑に駆られて小樽市の発展に馴染まない政策を採用してはならない。私見を言えば、話題になった「カジノ」は小樽の歴史にも現状にも馴染まない。カジノの風景に最も合致するのは新自由主義である。小樽市はむしろ新自由主義と対極にあってその存在を訴えることができる都市である。これからの日本は、そして小樽市は、一時的な発展よりも中長期的な安定的発展を志向する以外途はない。(p.381)


カジノを小樽市に誘致することには反対であり、それは小樽の歴史にそぐわないという主張には共感するが、小樽が明治期から急速な発展を遂げて最盛期を迎えるまでの経過はブローデル的な意味での「資本主義」(国家と資本が結び付いて相互の権力を高めていく過程)の産物という側面が極めて濃厚であったという点を見落としてはならないように思われ、カジノ誘致に積極的であろうとする人びとの考えは、発想の上では、その時代の流れと同じ圏内にあるということに留意すべきである。

むしろ、「国家」側が小樽に資源を割く可能性が当時よりも遥かに期待できないため、誘致には成功しないだろうし、客観的に成功する条件が不足しているため誘致に成功した場合には経済的に期待したような成功は得られないだろうという見通しを持つことが重要であるように思われる。そして、経済的にカジノが成功する条件がどのように失われているのかということを的確にまとめて説明することが必要であろう。



官僚群の機能は国家、都道府県、市町を貫徹する。そしてそれは過度といってもよいほど顕著である。その点に留意していえば、単純に選挙のような表面的・形式的な制度の普及をっもって日本を民主国家と断定することには慎重でなければならない。この国の政治がどのように動かされているのかを突き詰めた上でなければ民主主義について論ずることができない。民主主義や民主国家を論ずる場合には、国民・政治家の憲法・法律の遵守意識、委員会等議会運営の在り方、三権分立の実態、投票行動の実態等々が検討課題として存在するであろう。そうしたことを含めて「政治運営の主体は誰か」という点の確認なしに、民主主義を論じることはできない。(p.395-396)


選挙で政治家を選んでいるという形式的に代議制民主主義をとっているというだけで、その国が民主的であるとは言えないというのはその通りである。ただ、ここでの文脈では官僚が実際に行政を運営しており、それが国民の意見を反映していないのであれば民主的とは言えないといったことを言いたいように見えるが、この議論は私に言わせれば90年代頃の議論であり、もう古い。

現状の日本はそんなことが問題なのではない。官僚機構は大規模な組織には不可欠なものであり、その意味で普遍的な現象である。官僚機構の活動が逐一、個々の人々の意見を反映すると考えるのはナイーブであり、そのようなことはあり得ないと前提しなければならない。むしろ、代議制民主主義とは委任と責任の連鎖であり、個々の国民の意見とは異なることを官僚が実行していても、官僚が国民ないし国民の代表に対して必要な説明が出来るのであれば、委任を受けるに値すると言える(委任を受けていないとまでは言えない)。90年代の政治改革を通じて実現してしまった現在の政治運営の最大の問題は中央政府レベルで言えば、官邸に権力が集中しすぎており、ほとんど誰もそれに逆らえない仕組みになってしまっていることであって、ごく少数の人間が文字通りやりたい放題のことができる仕組みになってしまっているということである。

森友・加計学園問題、自衛隊の日報問題で、政府がいかに説明をしようとしていないかを想起されたい。説明できないということは、委任を受けるに値するとは言えないということであり、それはすなわち公権力の行使は許されないということであり、それは民主主義の国家なのであれば、内閣は辞職するに値するということを意味する。




内藤辰美、佐久間美穂 『戦後小樽の軌跡 地方都市の衰退と再生』(その1)

 すしの町小樽はつくられたものだった。テレビという媒体が活用された。やって来た観光ブームがすしの町小樽を実現させた。(p.163)


小樽の名物の一つとされる寿司だが、このイメージはそれほど古いものではない。運河論争により小樽に対する全国的な関心が高まっていた1980年代半ばになってメディアを通じて創られていったという。



 小樽の直面する停滞と危機には複数の要因がある。外部的要因だけでなく、財政危機を招いた内部的要因もある。小樽の直面する危機、とりわけ財政的危機が、力量を超えた大規模投資、あるいは内発的必然性の乏しい外部資本に期待した都市づくりにあったことはまちがいない。マイカルや石狩湾新港には行政にも反省の声がある。衰退する都市に何とか歯止めをかけたいという焦りが身の丈を超えた一発逆転的な都市経営を生んできたのであろうか。一発逆転と言えば、いま、小樽ではカジノ誘致に熱心であると聞く。そこに、これまでの経験が活かされているのかどうか、外部者ながら懸念がある。(p.220-221)


最近はやや勢いが衰えた印象であるが、カジノ誘致について数年前まではかなり積極的に推進している人々が目立っていた。このカジノ誘致の動きを、過去の「大規模投資」や「外部資本に期待した都市づくり」と連続的なものとして見ている点は重要な見方であると思われる。



大東亜戦争中は何等進歩の跡はなかったが、昭和27年より同26年にわたり外地からの引上げ者を収容するため最上町と緑町五丁目に市営住宅を建築した。これによって最上町の住民が急増した、これらの住民に対する日用品の販売店が必要となり、鮮魚、青物商、その他の雑貨商が最上町に続々として開業した。昭和28年には、最上町の児童を収容するために最上小学校を新設するまでに発展したのである(小池信繁、緑町発達史、序:4-5)。(p.245)


小樽では人口が増えるにつれて市街地も広がっていったが、そうした動きの一つとして、緑町から最上町へと山側へ向かって市街地が展開していったことがわかる。



高島の町は、飯田さんのところから奥に船主の家があり成金町と呼ばれていた。松田市議の父も元は船であった。減船で経営が成り立たなくなって廃業した人が多く、その結果、成金町は衰退・消滅した。(p.318)


船主が同じ地域に密集したのは何故なのだろう?



 大事なのは彼の温厚な性格と控え目な生き方であった。彼は若くして機関士会の統合を実現した才能の持ち主であったが、その温厚な性格と控え目な生き方は彼をしてトップ・リーダーを支えるコミュニティ・リーダーの補佐役に終始させてきた。山田さんのような人の生き方には一つの特徴があるというのが私の仮説である。彼らは社会通念や政治思想については保守的であり革新的ではないけれども、かれらの生き方は献身的であり保身的ではなかった。ここで保守と保身とは厳密に区別されなければならない。保守的な人の中にも革新的な人の中にも献身的な人はいるし保身的な人がいる。これまで日本の地域社会は保守的で献身的なタイプの人物、とりわけ⟨世話役的なリーダー⟩によって支えられてきた。(p.326)


保守-革新という軸と保身-献身という軸による分類は参考にできそうに思う。

例えば、現在、衆議院選挙が始まっているが、安倍晋三が憲法を濫用して解散を実施したのは、彼の「保身的」な理由によるものであったと見るのが妥当だろう。それに対して、今回の選挙に当たっての目まぐるしい政局の動きの中で、私の関心を引いている政治家の一人に枝野幸男がいる。小池百合子と前原誠司が民進党が持つ金をいかに収奪するかに腐心して民進党は党として残しつつ、個別の議員が希望の党に持参金を貢ぐなどという手法を使ったのに対し、枝野が立憲民主党を立ちあげたことは、民進党からの寄附などについても言及はしているようであり、また、中道的リベラル派議員の議席を失わないための受け皿を作らなければならないという事情に押されてではあるにせよ、それなりに勇気のいる決断をしたように思われ、これを保身的か献身的かという軸で考えると、「献身的」に分類できるものだと見ている。

政治家を見るとき、最近はやりの「保守」かどうか、どのくらい「保守的」かという尺度で見ることに慣らされているが、その人の行動が「保身的」かどうかということを、口先の言葉だけでなく行動で判断する。この見方の方が確かなことが分かると思われる。




笹山尚人 『それ、パワハラです 何がアウトで、何がセーフか』

 I社事件からわかるのは、「仕事の上で必要だった」という理由ですべてが許されるわけではないということだ。一見、正当性があるように見える「業務指導による注意」も、度が過ぎれば「言葉の暴力」に変わり、被害者を追い詰めることになる。(p.24)


言葉の暴力によるパワハラは、仕事上の指導などの言動を装って、あるいはそれとある程度一体となって実行されることが多いということは押さえておく価値があると思う。

なお、本書では法的な側面からパワハラの行為が違法とされる場合の基準として「人格権侵害」と「安全配慮義務違反」(そこから発展して出てくる「就業環境調整保持義務違反」)が挙げられている。「業務指導による注意」が人格権を侵害するとき、それは「言葉の暴力」として違法行為と認定される。さらに、そうした言葉の暴力であったり、長時間労働であったり、という状態が長期間続いているのに、それを職場として改善しない場合、「就業環境調整保持義務違反」となりうる。そんなところなのだろう。

私としてはこうした基準を明示して説明されれば、実際の現象に適用する際にそれほど困ることはないように感じるが、本書に対するレビューでは「何がアウトで、何がセーフか」の基準は明確にされていないという意見が散見されるのが気になる。そういう人は、具体的にこの言葉を使った場合はアウトとか、この行為をしたらアウトという事例を要求しているのだろうが、そのような形での提示は仕事上の文脈や加害者と被害者の関係性などによっても異なってくるから、そうして提示の仕方などそもそも無理と考えるべきだろうし、仮にそうした示し方ができる場合でも、5年10年と時間が経過するとその判断基準は徐々にずれてくるから、すぐに書かれた内容が古びてしまうことになる。そうした点からも、個別の事例で線引きをして見せるのではなく、原理原則を理解できるように提示することが重要だと思われる。


老川慶喜 『日本鉄道史 幕末・明治篇 蒸気車模型から鉄道国有化まで』

初詣は正月の伝統的な行事のように思われるが、それが定着するのは、意外にも鉄道が開通してからであった。初詣は、鉄道が生み出した正月三ヶ日の行事なのである(平山昇『鉄道が変えた寺社参詣』)。(p.157)


初詣も「創られた伝統」という側面を持つ近代の行事だったとは!非常に興味深い。


陳柔縉 『日本統治時代の台湾 写真とエピソードで綴る1895~1945』

 戦後第一世代の企業家たちにはひとつの共通点があった。
 ……(中略)……、みな公学校しか出ていない。
 いや、当時ならこれで「相当な学歴」であり、その競争力は現代の大学卒を上回る。呉火獅までの四人は公学校卒業後、みな日本人が経営する商店で見習い奉公をした。戦後、自ら起業した彼らは、その日本語能力から日本の商社との密接な関係を維持し、日本の書籍や新聞をよく読み、日々新しい情報を吸収した。(p.37-38)


戦後第一世代として活躍した人びとの学歴について、公学校卒が高学歴となるのは、228事件によってより高いレベルの教育を受けた人々が大量に殺されたことも関わっているように思われる。



 植民支配の差別待遇により、多くの台湾人が精神的に苦痛を感じていた。当時の台湾を代表する名家・霧峰林家の林献堂は、中国の新聞をよく読み、梁啓超を崇拝していた。1907年(明治40年)、日本を旅した林献堂は奈良の旅館で梁啓超と邂逅した。……(中略)……。
 梁啓超は林献堂に言った――これから30年、中国は台湾を助ける能力を絶対に持ち得ない。台湾人はイギリスにたいするアイルランド人の抵抗運動を見習うべきだ。その初期、アイルランド人は暴動を繰り返し、イギリスは警察または軍隊でそれを鎮圧した。犠牲者ばかり多く、成果は乏しかった。のちにアイルランド人は戦略を変え、イギリス政界に働きかけることで、ついには参政権を得たのだ――甘得中はその提言に「まったくもって妙案」と唸った。
 林献堂はその温和な性格もあり、自ずと梁啓超の路線を進んだ。台湾総督府との正面対決は避け、海を越えて日本中央政界の要人と交友を結び、苦境を訴えた。ではどの大物に働きかけるのが効果的か、考えた挙句、「自由党の名において政党政治の基礎を作り」「全国各層に崇拝者がいる」板垣退助しかないという答えに達した。(p.80)


台湾では十分な成功を得られなかったとはいえ、梁啓超が言い、林献堂が行ったような方法は重要である。



 当初は、在台日本人(内地人)も台湾人(本島人)も、同化会の考えを歓迎した。もっともそれは、昨今の言い方を借りるなら、「ひとつの同化に、それぞれの解釈がある」といったところであろう。台湾人が同化に込めた夢は、「日本人と同等に扱ってほしい」であった。つまり、自分たちも参政権を持ち、高官登用への道が開け、日本人と自由に結婚できること。
 一方、日本人の頭にあった同化は「俺たちと同じになってみろ」に違いなく、台湾から陋習をなくし、台湾人を本当の日本人に脱皮させることが本旨であった。(p.81)


板垣退助が「台湾同化会設立趣意書」を持って台湾を訪れた。1914年当時の内地人と本島人の「同化」観。基本的にはその通りであっただろう。



板垣は日本で、もはや時代遅れの非主流派となっていたのだ。(p.85)


本書を読んで、板垣退助という人物に興味を持った。

彼は比較的リベラルな考え方であったがゆえに、幕府と政府が対抗していたり、政府が権力を握っても旧勢力を取り込んでいく必要があった場合には、政府側にも好都合な面があったが、政府が中央集権的な権力を得てしまうと、政府にとっては不都合な面も出てくる、大まかな潮流としてはそうした流れがあったのではないか、と想像する。



世界的なデモクラシーの風に押され、結婚は自分で決めるという考えが台湾で広がったのは、20年代に入ってからである。「自由恋愛」をスローガンとする若者たちに対し、保守派は「恋愛」と台湾語(方言)の発音が似た「乱愛(ルアンアイ)」という嫌味な言葉を作り出し、対抗した。(p.108)


大正デモクラシーは当然、日本統治下の台湾にも及んだようだ。



 異なったふたつの食文化が少しずつ譲歩しあい、一方では弁当という形式を受け入れ、一方では冷めた飯を切り捨てた。その融合の結果できたのが今日台湾で食べられている、ご飯もおかずも温かい、台湾特有の弁当なのである。(p.152)


台湾の「便當」は、日本の冷たい弁当と中国の温かい食事の両方を組み合わせているというのは興味深い。



 帰国して改めて感じたのは、台湾の歴史は台湾島の中だけに残されているのではないということだ。日本統治時代においてはなおさらである。東京は、そのなかでも台湾人の足跡がもっとも多く残された都市だろう。(p.232)


この考え方は本書を読んで最も面白かった点であった。日本側から見ると、台湾に刻まれた歴史の中にかつての日本の影響やかつて日本の人々が残した仕事などを見出して喜ぼうとする風潮があるが、逆から見ることも可能だというわけだ。

ただ、本書を読むと、東京に残る台湾人の足跡を探すことは、明らかに日本人が台湾に残した足跡を探すよりも難しいことであるようにも思われた。統治する側とされる側の非対称性はこういうところにも表れるのだろう。


大谷渡 『台湾の戦後日本 敗戦を越えて生きた人びと』

子供たちは日本語がとても上手だったが、初中に入ってからはまったく話さなくなった。「中学に入って排日でしょう。全然言わなくなった。」と、蕊は言う。日本から帰った夫は、台湾での戦後の生活になかなか慣れなかった。劉興寿は、日本語と台湾語で生涯を通した。「うちの主人は全然北京語で話さなかったの。」と彼女は言い、「とても嫌っているから言わないの。何回も手術して、85歳で逝っちゃったけど、私といる時はいつも日本語で話した。」と語る。(p.103)


蕊さんは大正11年生まれ。子の世代は、戦前は日本語(日本)の公学校、戦後は北京語(中華民国)の中学校に通った世代であり、北京語を習得していく。親世代は北京語を学校で習うこともなく、台湾語と日本語で生活していく。この場合の親子は台湾語で話している家が多かったと思われる。



宝玉は、「私は日本語しかできないから、北京語は話さない。」と言う。「家では、自分の子供たちと台湾語で話すが、孫とは話せない。」とも言う。戦後、学校教育が北京語になったから、戦後に教育を受けた子供たちの常用語は北京語になった。日本語で教育を受けた世代は、日本語と台湾語を話すことができる。この親に育てられた子供たちは、親が話す台湾語は聴き取れるが、北京語で育てられた孫たちは台湾語での会話はできないのである。
 李宝玉の言葉に耳を傾けていた李淑容は、「私は、北京語を勉強して話せるけれど、日本語がいちばん気持ちを表すことができる。」と言う。
 日本の統治下で育った人びとの半生は、その後の半生においても、日本との深いつながりの中で途切れることなく生き続けている。日本の敗戦によって、人びとの人生の歴史が区切られるかのような見方は避けた方がよいであろう。それぞれの心に残っていくもの、新たにつけ加わり変容していくものを多面的かつ慎重に見つめてこそ、人びとの人生への理解を深めることができるように思う。(p.108)


日本語世代の多くは台湾語などの母語と公用語としての日本語を習得している。戦後世代は母語と公用語としての北京語を話す。孫の世代は北京語で育てられていると、孫世代と祖父母世代の共通言語がなくなる。台湾では割とよくあるが、孫とコミュニケーションするために北京語を勉強しているという日本語世代が少なからずいる。しかし、日本語世代は昭和5年(1930年)生まれでも、既に87歳であり、台湾を旅しても街中で普通に出会うことはほとんどなくなってきた。日本語世代について記録していくことは、日本と台湾との関係に関心を持つ者にとって非常に重要である。



成績がよく家庭も裕福だった彼は、担任から州立台中農業学校への進学を勧められた。
 ……(中略)……。入学試験の合格者100人のうち、70人が日本人、30人が台湾人だった。日本人7割、台湾人3割の比率で合格させることになっていた
 ……(中略)……。
 各科目の成績は、「秀」「甲」「乙」「丙」「丁」で表記されたが、「教練」「修練」「武道」「体操」「実習」の五科目は、「甲」以上を台湾人生徒に与えてはいけないことになっていたという。だが、徳卿は鉄棒・高跳び・幅跳びに優秀な成績を修め、「軍人勅諭」を全部覚えて、二年生の時に「体操」と「実習」に「甲」の成績がついた。(p.112-113)


前段を読んだときは、差別と見るべきかアファーマティブアクション的なものと見るべきかという疑問が浮かんできたが、後段は完全な差別であり不当な評価法だと言わざるを得ない。こうした決まりがどのように決められているのかを知りたいところだが、「甲」の成績が実際についた台湾人子弟がいるというあたりからして、教師の間の不文律的なものだったのだろうか。



 終戦後、中国国民党軍が台中にもやってきた。彼らが畳の上に、土足で上がり込んで来たことがあった。徳卿は、無礼をきびしく叱責したという。二二八事件の時、友達だった台中農業学校の同級生が連れ去られて銃殺されたことは、決して忘れえない出来事であった(2009年9月1日談)。(p.119)


戦前日本の教育は価値観にかなりコミットするものであったことが、当時の少年たちにこうした心性(畳に土足で上がることを無礼とする)を持たせ、そうした考え方に誇りを感じさせているところからもよく分かる。



進駐した米軍との関係があって、台湾人少年工たちは戦後、神奈川県庁から優先的に食料をもらえたという。(p.134)


米軍占領時代には、台湾人は中華民国国籍ということになったから連合国側の人間となり、日本人より優遇された。



事務職には、戦前から勤めていた台湾人のほかは、日本人に代わって大陸から入ってきた「外省人」が就いたので、就職の余地がなかった。戦前から台湾に住んでいる「本省人」より事務能力が劣っていても、課長以上は「外省人」が占めたという。(p.135)


戦後の中華民国の統治下でも台湾の人々は、日本による植民地統治と同じように差別を受けたと言える。ただ、その後の経過を見ると、言語が同じになっていくと、日本人に対してよりは同化しやすかったとは言えるかもしれない。



私たちはね。やはりあの時は、早く戦争を終ってほしいと願っていた。台湾が日本によって統治されている。そういうことから、内心は早く自立したいという思いを持っていた。だから終戦は、台湾が日本の統治から脱する勝利を意味した。台湾人の中には、その時中国が悪い人であるということを知らなくて、祖国に帰りたいという人もいた。だけど帰ってみたら大変だった。やっぱり日本がいいと言うんですよね。(p.146)


戦前の台湾人にも政治的に自立したいという考えを持っていた人がいた。これがどのくらいの規模と強さで存在したのかが重要な論点だと思う。当時の台湾の人々のアイデンティティとして「日本人」「台湾人」「中国人」といった要素がどのように絡まり合っていたのか。それぞれの社会層や母語や居住地などによるアイデンティティの差異はどのようなものだったのか。



 二二八事件の犠牲者について、おおっぴらに話せるようになったのは、1988年に李登輝が本省人として総統に就任して以降のことであった。(p.149)


これに続く部分に「二二八事件の被害者は、みんな隠れていたのです」という証言があるが、こうした歴史に対する最近の台湾の人々の向き合い方には羨ましいものを感じる時がある。ここ数年、台湾でもバックラッシュ的な言説が漏れ聞こえているが、全般としては歴史に対する感覚は現在の日本(歴史修正主義者たちが公の場で事実に基づく反論をほとんど受けずに発言が垂れ流しになっている)よりも健全であるように感じられる。



 台湾が日本の統治下にあった時代に、台湾の教会と日本の教会は密接な関係にあった。(p.151)


このあたりはもう少し掘り下げて知りたいところであり、本書からもらったテーマ。台湾は日本よりもキリスト教が普及しており、私の友人たちもクリスチャンが結構いることもあり、台湾のキリスト教の歴史的な背景には特に興味を持っている。


小紫雅史 『さっと帰って仕事もできる! 残業ゼロの公務員はここが違う!』

 若手職員には大小さまざまな案件が押し寄せます。
 そのすべてに対して100点目指して取り組むと、いくら残業しても時間が足りません
 皆さんは、すでに大なり小なり仕事の取捨選択はしているはずですが、これをもう一歩踏み込んで行うことで残業がゼロに近づき、本当に注力すべき仕事や新しい施策の企画などに時間が回せるようになるのです。
 そのためには、「捨てる訓練」を若いうちにできるだけ経験すべきです。
 とはいえ、新規採用職員は、捨てても良い案件は容易に判断できないでしょうから、係長やメンター職員が指導しつつ、最初は取捨選択する作業を一緒に行ってください。1か月もすれば捨てるべき案件、重要な案件が大体わかってくるはずです。(p.24-25)


自分の感覚からするとあまりにも当たり前すぎることに感じるが、公務員の場合、間違いがなくて当たり前で間違いがあると批判・叱責されるという仕事が多いと思われるため、どうしても保身的な動機から100点を目指すという安全策が取られがちなのかも知れない。



 やると決めた業務も、どこまできちんと対応するか(仕事の重要度)を最初に決めておきます。例えば「50%」「80%」「100%」の3つに分けてみましょう。(p.29)


この50-80-100というレベル分けは参考になった。自分の感覚では当たり前にやっていることを他の人に伝えるには役立ちそうである。ちなみに、50%というのは著者は少し意図的に低めの数字で言っているように感じる。先ほども述べたように公務員の仕事は正確さがあって当たり前とされるからである。



 上司の指示を唯々諾々と受ける部下はベストの部下ではありません。指示を受けて作業する前にしっかり議論しましょう。それがあなたの無駄な残業を減らし、効果的な成果を確保し、ひいては上司を育てることとなるのです。(p.65)


同意見である。



 そこで、当市では条例において、市民からの様々な苦情や要求などを記録し、市長まで報告するとともに、不当要求行為に対しては、書面での警告や氏名や行為内容の公表、捜査機関への告発等を規定しています。(p.119)


不当要求行為に対する生駒市の対応。興味深い対応策。どのような事例がこの条例によって処理されているのか気になるところである。


金子展也 『台湾旧神社故地への旅案内――台湾を護った神々――』(その2)

 神社が造営されたのは昭和12年(1937)、丁度この年に支那事変が勃発し、第17代総督小林躋造が就任早々打ち出したのが「皇民化政策」、「国民精神総動員運動」と「一街庄一神社政策」である。清水神社はそのような時代背景を持ち、総工費6万7,000円を投じて大甲郡に造営された神社であった。(p.87)


本書を見ていると、この時期に「鎮座」となっている神社が非常に多いことに気がつく。「一街庄一神社政策」の詳細は本書でも語られていないが、この政策が関係しているのだろうということは容易に想像できる。中国との戦争に突入し、「皇民化」や「国民精神総動員」といった排外的で国粋主義的な動きと連動している。



 昭和14年(1939)に入ると台湾全土で敬神観念を高め、国民精神作興の徹底を図るために神社造営計画が慌ただしく進められた。員林郡においても神社崇敬の念を涵養せしめ、且つ、皇紀2600年記念行事として、員林神社の遷座(昭和15年末頃か)が行われた。これが現在も残る神社故地である。戦況が激しさを増し、更なる「皇民化」運動が推進されるに及んで、官民や学生児童の神社参拝が求められだした。そして、昭和17年(1942)2月28日に郷社に列格された。(p.95)


昭和14年には上で述べられていた「一街庄一神社政策」が具体化の段階に入ってきたということか?こうして設営されていった神社に対して皇民化を推進するために神社参拝が求められるようになっていく、という流れなのだろう。

引用文の最後に、「郷社に列格」とあるが、本書を読んでいると、戦争の後期にはこのように神社の格を持ち上げる動きが各地で見られる。各地域の人々から忠誠心を調達するための政策であったと思われる。



 当時の北斗郡には神社がなく、国民精神涵養上遺憾であるとの理由で、昭和10年(1935)3月、当時の藤垣郡守により、尊崇の念を養い国民精神を涵養するために、神社造営が計画された。(p.97)


こうして北斗神社は昭和13年に鎮座したという流れは、まさに先に引用した2つの文章の流れと一致するものであることがわかる。



 大東亜戦争が始まると、地方での神社造営費の調達が難しくなり、総督府の「一街庄一社」政策は一向に進まなかった。このような状況下に於いて、総督府は地方の神社造営費や運営費を軽減できる「摂末社」の造営を許可する。これに呼応するよう、斗六郡に於いては、斗六神社を中心に、各庄街に昭和16~17年にかけて末社が9ヶ所造営された。非常に珍しい例である。(p.111)


日中戦争の段階では神社が次々と建てられたが、太平洋戦争の段階になるとそれが止まったということだろう。確かに本書を見ていても昭和12~14年頃に鎮座した神社が多かったという印象が強い(詳しく数は数えていないが)。



また、日本と同様に清朝を敵に回した明朝に対する忠節であることに加え、当初から純日本式神社では抗日運動を助勢することを考慮したのではないか。(p.137)


明治30年という台湾統治が始まって日が浅い時期に鎮座した開山神社は、なぜ日本の古来の神ではなく「鄭成功」を祀る神社だったのか、という理由の一つ。台湾統治初期には、現地で様々な抵抗を受けながら統治を進めていった事情が反映している。



 当時の東港郡には神社はなかった。そこで、国民精神作興10周年である昭和8年(1933)に神社造営に向けての具体的な活動が進み、2年後の昭和10年(1935)10月18日、鎮座祭を執り行った。「皇民化」運動が叫ばれ、時局の進展に伴い、戦勝および国威宣揚武運長久を神前に祈願するようになり、一般郡民の参拝が急増した。そして、昭和17年(1942)10月31日に郷社に列格する。(p.157)


上に引用してきた流れと同じ。昭和10年前後に計画と鎮座、太平洋戦争後には神社の建設は難しくなったのに代えて格上げすることで忠誠心を調達する。神社の建築にはかなりの費用がかかるが、ランクを上げるだけなら政府支出はそれほど必要ない。総督府は、恐らく、新しい神社を建てられないので、神社のランクを上げることにしたのではないか。



 戦局が益々悪化する昭和19年(1944)初めに南方および西方における地勢上の重要な港であるとのことから、海上守護神として総督府の許可を得て讃岐の金刀比羅宮の祭神である大物主神を東港神社の境内に摂社として祀ったようである。(p.157)


第二次大戦末期になってこんなことをしている人がいたとは驚いた。